昌陸の松とは尽ぬ御代の春 利重
昌陸は里村昌陸(さとむらしょうりく)で、コトバンクの「美術人名辞典の解説」に、
「徳川初期の連歌師。昌程の嫡子。16才の時父に代わり宗匠代を務め法橋に叙せられる。後御会始の宗匠を務めるようになり法眼に叙せられる。将軍の栄寵を受け葵の紋服や羽織舞笠を度々賜られ、貴紳と連歌を共にしたことは数しれぬほどある。宝永4年(1707)歿、69才。」
とあり、「デジタル版 日本人名大辞典+Plusの解説」には、
「1639-1707 江戸時代前期の連歌師。
寛永16年生まれ。里村昌程の子。慶安3年から幕府につかえ,承応(じょうおう)3年父にかわって宗匠代をつとめる。寛文10年家督をつぎ,延宝元年法眼。元禄(げんろく)8年職を辞した。宝永4年11月16日死去。69歳。別号に三宜斎。」
とある。貞享三年(1686年)現在では四十八歳だった。ネット上の濱千代清さんの『天六三年五月「賦何船連歌」』というpdfファイルで昌陸の連歌を読むことができる。
『芭蕉七部集』(中村俊定校注、一九六六、岩波文庫)には、
「元和年中の人。恒例正月十一月御連歌会の百韻巻頭に松の句を奉ったという。[参考]寛永五戊辰正月廿日、松にみん百万代の春の色と祝し奉りしとなん、(打聴)」
とある。時代が合わない。打聴とあるのは『俳諧七部集打聴』(岡本保孝、慶応元年~三年成立)のこと。
なお、撰者の荷兮はウィキペディアに「晩年は連歌師として昌達と号して、法叔に叙せられる」とある。
千歳の松に尽ぬ御代を祝うのは賀歌の定番でもあり、
良岑經也が四十の賀に
女にかはりてよみ侍りける
萬代をまつにぞ君をいはひつる
千年のかげに住まむと思へば
素性法師(古今集)
以来、松は千歳をことほぐもので、謡曲『高砂』にもそれは凝縮されている。
『春の日』の発句の巻頭を飾るこの句も、その形式によるもので、撰者の荷兮もこのころから連歌師への憧れがあったのかもしれない。「昌陸」がこの場合一応俳言になる。
季語は「御代の春」で春。
元日の木の間の競馬足ゆるし 重五
競馬というと五月の賀茂も競馬が有名だが、正月にも何らかの馬を用いる儀式があったのだろう。
『阿羅野』の歳旦に、
松高し引馬つるゝ年おとこ 釣雪
の句があるが、「引馬」はコトバンクの「精選版 日本国語大辞典の解説」に、
「① 貴人または大名などの外出の行列で、鞍覆(くらおおい)をかけて美しく飾り、装飾として連れて行く馬。
※吾妻鏡‐元暦二年(1185)五月一七日「能盛引馬、踏二基清之所従一」
とある。
また、同じく『阿羅野』に、
うら白もはみちる神の馬屋哉 胡及
の句もあり、馬が歳神様の乗物として正月には飾り付けられ練り歩いたのを、ここでは競馬(くらべうま)と詠んだのではないかと思う。
『芭蕉七部集』(中村俊定校注、一九六六、岩波文庫)は『俳諧七部集打聴』(岡本保孝、慶応元年~三年成立)を引用し、
「門松の間に供侍する駒を競馬になぞらへし也。常にはおとらじときそふをけふは元日なれば足ゆるしと也」
と記している。
馬が何頭も過ぎて行くけど、どれもゆっくりとした歩みで、
日の春をさすがに鶴の歩哉 其角
の句を思わせる。
季語は「元日」で春。
初春の遠里牛のなき日かな 昌圭
牛もまた歳神様の乗物になる。芭蕉の『野ざらし紀行』の時の貞享二年の歳旦に、
誰が聟ぞ歯朶に餅おふうしの年 芭蕉
の句を詠んでいる。
町中にこれだけ牛が歩いているのを見ると、さぞかし遠里では牛がみんな出払ってしまって、牛無き里になっているだろうな、とする。
季語は「初春」で春。
けさの春海はほどあり麦の原 雨桐
「ほどあり」は「ほどなし」の反対ということでいいのだろう。海はまだまだ遠いということで、延々と麦畑が続く。遠里から海のある熱田の方に出てくる道すがらの景色であろう。旧正月の頃の麦はまだ背が低く、遠くまで見渡せる。
季語は「春」で春。
門は松芍薬園の雪さむし 舟泉
芍薬は「薬」と付くように漢方薬の用いられてきたが、江戸時代には観賞用の園芸品種がたくさん作られた。
芍薬の花を俤にしながら、今は正月で雪の門松に華やかさを添える。
芭蕉の『野ざらし紀行』の時の冬の句に、
桑名本統寺にて
冬牡丹千鳥よ雪のほととぎす 芭蕉
の句がある。冬の牡丹は現実だが、正月の芍薬を夢に咲かせたと言っていいかもしれない。
季語は「門は松」で春。
鯉の音水ほの闇く梅白し 羽笠
鯉の音は水がぬるむのを感じさせる。それに梅の白さと取り合わせるのに、鯉の住む水を「ほの闇(くら)く」として引き立てる。
季語は「梅」で春。
舟々の小松に雪の残けり 且藁
平安時代は子(ね)の日の菜摘みとともに子(ね)の日に小松引きが行われた。この習慣は一方で正月を迎えるための松飾りから門松へと進化した。そして菜摘みは七草粥に変わっていった。
ただ、子の日の小松引きそのものは廃れたのではなく、誰かが取ってきて売りに来るように変わっただけで、町には牛や馬に小松を背負わせた行商人が通り、その一部は舟に乗せた運ばれたのではないかと思う。
船に積まれた小松には雪が残っているが、それはこの小松を取ってきたところの雪がついているのだろか、という句だと思う。
季語は「小松(引き)」で春。
曙の人顔牡丹霞にひらきけり 杜國
上五は「あけのかほ」でいいのか、「あけのひとがほ」だと字余りになる。
先の芍薬の句と同様、ここでも幻の牡丹を咲かせる。登る朝日に赤く照らされる顔と、その笑顔に牡丹の花を見出す。「咲く」と「笑う」は相通じるもので、「山笑う」という季語もある。喜納昌吉の「花」という歌の歌詞にも「花は花として笑いもできる」というのもこの伝統によるものか。
季語は「霞」で春。
腰てらす元日里の睡りかな 犀夕
『芭蕉七部集』(中村俊定校注、一九六六、岩波文庫)の注に、『標註七部集』(惺庵西馬述・潜窓幹雄編、元治元年)に、
「白氏文集の『暖牀斜臥日曛腰』(巻三七)を引用。」
とある。
元日の日の光が古人の腰を照らしたように、今は里全体が眠っているようだ。古典の風雅を今の卑近なものに変換することで俳諧らしい風流になる。
季語は「元日」で春。
星はらはらかすまぬ先の四方の色 呑霞
「はらはら」はweblio古語辞典の「学研全訳古語辞典」に、
「①さらさら(と)。▽物が触れ合って立てるかすかな音を表す語。
出典源氏物語 帚木
「衣(きぬ)の音なひはらはらとして」
[訳] 衣(きぬ)ずれの音がさらさらとして。
②物が砕けたり、壊れたり、破れたりする音を表す語。
出典今昔物語集 二三・一九
「八つの胡桃(くるみ)一度にはらはらと砕けにけり」
[訳] 八つのくるみは一度にばしっと砕けてしまった。
③ぱちぱち(と)。▽物が焼けてはぜる音を表す語。
出典徒然草 六九
「焚(た)かるる豆殻のはらはらと鳴る音は」
[訳] 燃やされる豆殻のぱちぱちと鳴る音は。
④長い髪などがゆらめいて垂れ下がるようす。
出典源氏物語 葵
「はらはらとかかれる枕(まくら)の程」
[訳] (髪が)ふんわりとかかった枕のようす。
⑤ぱらぱら(と)。ぽろぽろ(と)。▽雨・木の葉や涙がしきりに落ちるようす。
出典平家物語 二・教訓状
「大臣(おとど)聞きもあへずはらはらとぞ泣かれける」
[訳] 大臣殿はみなまで聞かずに涙をぽろぽろと流してお泣きになった。
⑥気をもむようす。◇近世語。」
とある。現代語でもちいられているのは⑥と、あとは桜の花びらが散る様子だが、古語だと「ぱらぱら」が一緒になっている。古語だと接触系の擬音に多く用いられている。
星の場合は「ぱらぱら」の方ではないかと思う。これは細かい粒の飛び散る感覚で、夜空に星がちりばめられている様子をいうのではないかとおもう。光の瞬きは「ひかひか」つまり今の「ぴかぴか」が用いられる。
つまりこれは澄んだ空に無数の星が散らばっている、いわば満天の星空を表す言葉で、それが春の霞になるまでのあらゆる方角にひろがっていることを表している。
この句は伝統的な春の景色を詠んだものではなく、当時の日本ではほとんど目にとめることもない満天の星空を詠んだ珍しい句で、その新味が認められて入集したのだと思う。
季語は「かすまぬ」で春。
けふとても小松負ふらん牛の夢 瑞雪
正月の歳神様を乗せる飾りではなく、この牛は小松売りの牛ということで、先の馬や牛の句と区別されて、ここに置かれているのではないかと思う。
季語は「小松(引き)」で春。
朝日二分柳の動く匂ひかな 荷兮
柳の句になることで、これは歳旦ではない。「二分(にぶ)」というのがわかりにくいが、十分の二、つまり今の二割のことで、風に動く柳の二十パーセントは朝日が動かしている、ということか。
古語の「にほひ」は嗅覚に限らない。揺れる柳の美しさの八割は風、二割は朝日によるものとする。
季語は「柳」で春。
先明て野の末ひくき霞哉 荷兮
朝日が射して野原の向こうに低くたなびく霞が現れる。山に詠むことの多い霞を地平線に詠む。
季語は「霞」で春。
芹摘とてこけて酒なき瓢哉 旦藁
芹を肴に酒を飲もうと思ったらこけて、酒がこぼれてなくなった。ショートコントのような句だ。物を拾おうとしてランドセルから教科書が落ちるような「あるある」だったのかもしれない。
季語は「芹摘」で春。
のがれたる人の許へ行とて
みかへれば白壁いやし夕がすみ 越人
世を遁れた隠者の所へ行こうとすると、自分の家の立派な白壁が卑しく思えてくる。「夕がすみ」の下五は落日の無常を暗示させる。「いやし」と言うところのややあざとい感じが越人のキャラでもある。
「のがれたる人」は芭蕉のことだとする説もある。芭蕉のことをほのめかして次の句につなぐという配列だったのかもしれない。
季語は「夕がすみ」で春。
古池や蛙飛こむ水のをと 芭蕉
あまりに有名すぎる句だ。配列的には前句の「白壁」に古池の寂びた雰囲気が対照的で、この句を引き立てている。
放置され荒れ放題になった古池に、何やら出るのではないかと不安にさせられる中、じゃぼっという水の音に一瞬ビクッとさせられる。どうやら蛙だったようだ。
天和の終わりごろに「山吹や」という上五で作られた句で、後に「古池や」の五文字に改められた。
山吹やの上五だと、古今集などの和歌に詠まれた井出の玉水の山吹と蛙になるが、それでは古典にべったりなのが気になっていたのだろう。
古池やの五文字にすることで、当時どこにでも見ることができた廃墟などの放置された古池に、在原業平の「月やあらぬ」の情を喚起することができるようになった。不易の情を古典の題材ではなく現在の身近な「あるある」で表したことに、この句の革新性があった。
井出の山吹の蛙は、当時にあっては古典の素養として誰もが知るものだったにしても、実際に井出へ行ってそれを見たという人はまず限られていたし、ほとんどの人にとってはあくまで想像上の井出の山吹の蛙にすぎなかった。古池やの五文字を置くことで、読者のそれぞれの実体験を重ね合わせることができた。
季語は「蛙」で春。
傘張の睡リ胡蝶のやどり哉 重五
傘張(かさはり)というと傘張牢人が連想されるが、当時の傘は高価でいい仕事になってたらしい。
途中で居眠りしていると傘の下に胡蝶がとまる。
季語は「胡蝶」で春。
山や花墻根墻根の酒ばやし 亀洞
山には桜が咲き、あちこちで山の桜を見ながら酒宴が行われている。
季語は「花」で春。
花にうづもれて夢より直に死んかな 越人
これは言わずと知れた、
願はくは花の下にて春死なむ
そのきさらぎの望月のころ
西行法師(山家集)
の歌によるもので、「夢より直に」と長い夢から覚めるみたいに死ねたらなと願う。
「酔生夢死」という言葉は本来否定的な意味に用いられるものだが、別に何か立派なことをしなくても人生を楽しく過ごしたいという本音が表れている。共感する人も多いと思う。
季語は「花」で春。
春野吟
足跡に櫻を曲る庵二つ 杜国
「庵二つ」は、
さびしさに堪へたる人のまたもあれな
庵ならべむ冬の山里
西行法師(新古今集)
の歌による。
足跡が桜の方に曲がっている庵が二つある、ということ。西行さんが吉野の西行庵に住んでいたことにも思いを寄せて、ここにも西行ファンが二人いるということか。二軒ある庵はいずれも桜の花が植えられている。
きっと二人とも「願はくは花の下にて」なんて思っているのだろう。
春野吟と前書きがあるのは、庵二つを傍目に見るという意味。自称に非ず。
季語は「櫻」で春。
麓寺かくれぬものはさくらかな 李風
麓に寺があっても普段あまり気に留めないが、桜が咲くとそこだけ目立ち、ああこんなところにお寺があったのか、今まで気づかなかったな、とそう言って、花見の人も集まってくる。
季語は「さくら」で春。
榎木まで櫻の遠きながめかな 荷兮
榎は一里塚に植える木で、貞享二年三月の熱田で芭蕉を送る、
つくづくと榎の花の袖にちる 桐葉
を発句とする歌仙興行があった。
遠くの山にある桜は次の一里塚まで行っても相変わらず遠い。
季語は「櫻」で春。
餞別
藤の花ただうつぶいて別哉 越人
「藤」は「臥す」に通じる。ここではこうべを臥す。時期的に一年前の芭蕉への餞別だったか。
季語は「藤の花」で春。
山畑の茶つみぞかざす夕日かな 重五
茶畑は山の中腹や上の方にも作られる。峠道、特に小夜の中山越えの道は昔から茶畑が多く、『野ざらし紀行』の旅の時でも芭蕉は、
馬に寝て残夢月遠し茶のけぶり 芭蕉
の句を詠んでいる。
春の終わりともなると茶摘みをする姿が見られ、それを夕日に手をかざしながらチラ見する。さすがにじろじろ見るのは失礼だ。
季語は「茶つみ」で春。
蚊ひとつに寐られぬ夜半ぞ春の暮 重五
春というと眠たいものだが、一匹の蚊に寝られなくなるところに、春も終わり夏が来るのが感じられる。
季語は「春の暮」で春。
ほととぎすその山鳥の尾は長し 九白
「山鳥の尾は長し」は言わずと知れた百人一首でも有名な、
あしびきの山鳥の尾のしだり尾の
ながながし夜をひとりかも寝む
柿本人麻呂(拾遺集)
の歌を元にしている。
ただ、ここでは別にホトトギスの尾が長いということではない。尾の長いのはヤマドリでウィキペディアに「鳥綱キジ目キジ科ヤマドリ属に分類される鳥類。日本の固有種。」とある。
「山鳥の尾は長し」とすることで、それに続く「ながながし夜を」を思い起こさせて、ながながし夜をホトトギスの声を待つ、とする。
ホトトギスの初音を待つという和歌の趣向は、大体拾遺集の頃に確立されたのではないかと思う。
家に来て何を語らむあしひきの
山郭公一声もがな
久米広縄(拾遺集)
ほのかにぞ鳴き渡るなる郭公
深山を出づる今朝の初声
坂上望城(拾遺集)
深山出でて夜半にや来つる郭公
暁かけて声の聞こゆる
平兼盛(拾遺集)
都人寝て待つらめや郭公
今ぞ山辺を鳴きて出づなる
右大将道綱母(拾遺集)
行きやらで山路暮らしつ郭公
今一声の聞かまほしさに
源公忠朝臣(拾遺集)
などがある。『枕草子』第九十五段に「郭公の声尋にいかばや」の話があるように、当時の貴族の間でホトトギスの声を聞きに行くのが流行したのだろう。
季語は「ほととぎす」で夏。
郭公さゆのみ燒てぬる夜哉 李風
「さゆ」はウィキペディアに「水を沸かしただけで何も入れていない湯のこと」とある。
さ湯のみ、というところに質素な生活と粗末な草庵での隠遁者の風情が感じられる。ホトトギスも山に住んでいれば珍しくもなく、普通に眠っている。
この里にいかなる人か家居して
山郭公絶えず聞くらむ
紀貫之(拾遺集)
の「いかなる人」の側の句だ。
季語は「郭公」で夏。
かつこ鳥板屋の背戸の一里塚 越人
かつこ鳥はカッコウで閑古鳥ともいう。ホトトギスも郭公と表記するから紛らわしいが別の鳥で、托卵するのは一緒だが鳴き声は全く違う。少なくとも声に関しては混同されることはなかっただろう。
板屋は板葺き屋根の家で、背戸はその裏口。
街道筋の人里離れたところにある一里塚のあたりに粗末な板屋があり、そこで聞くカッコウの声に文字通り閑古鳥の鳴く風情を感じさせる。
かつこ鳥と板屋の取り合わせだと板屋の住人の句だが、一里塚を加えることで旅人の句となり旅体になる。寂しいところに来てしまったなという感慨がある。
季語は「かつこ鳥」で夏。
うれしきは葉がくれ梅の一つ哉 杜国
『芭蕉七部集』(中村俊定校注、一九六六、岩波文庫)の注は、
葉がくれに散りとどまれる花のみぞ
忍びし人にあふここちする
西行法師(山家集)
の歌を弾いている。
ただ、既に葉桜になった中にまだ花が残っているというのはわかるが、さすがに夏に梅の花はないだろう。梅の実ではないかと思う。
季語は「葉がくれ」で夏。
若竹のうらふみたるる雀かな 亀洞
若竹にスズメが留まると竹が垂れ下がる。
季語は「若竹」で夏。
傘をたたまで螢みる夜哉 舟泉
「傘」は「からかさ」。
蛍は小雨なら見られる。傘を畳まないのは、傘を差していると蛍が雨宿りに入ってこないかなという下心でもあるのだろう。
季語は「螢」で夏。
武蔵坊をとぶらふ
すずかけやしてゆく空の衣川 商露
「すずかけ」は『芭蕉七部集』の中村注に繍毬花(てまりばな)とある。
一方、ウィキペディアを見るとコデマリのところに「別名、スズカケ。」似ているが繍毬花はスイカズラ科の落葉低木でコデマリはバラ科シモツケ属の落葉低木。いずれにせよ花が集まって球状にになる。
「篠懸(すずかけ)」は修験者の着る法衣だが、繍毬花はその篠懸というより、その上に着るベストの極端に細い襷に近いものに丸い飾りのついた結袈裟(ゆいげさ)の、その丸い飾りに似ているところからその名前がある。コデマリも同じ理由でスズカケと呼ばれていたのだろう。どちらかはわからない。
弁慶は僧兵で、陸奥に逃れる時には山伏に扮したこともあってか、山伏姿で描かれることも多い。
その弁慶は衣川の戦いで義経を守り、堂の前で奮戦し、立ったまま亡くなったことで弁慶の立ち往生と言われている。 文治五年(一一八九年)閏四月三十日のこととされている。
この句は弁慶の命日の句であろう。スズカケの花が咲いているのを見ると弁慶の篠懸姿が偲ばれ、衣川の空を行く弁慶の姿が浮かんでくるようだ、とする。「してゆく」は篠懸をして行く、と死出の旅路を行くとを掛けている。
季語は「すずかけ」で夏。
逢坂の夜は笠みゆるほどに明て
馬かへておくれたりけり夏の月 聴雪
逢坂山はこの時代には関所はなく、東海道の京と三条大橋を出ると山科を過ぎ、最初の宿である大津へあとわずかという所の大谷のあたりになる。
京を未明に発つとこの辺りですっかり明るくなり、街道を行き来する笠の列がはっきりと見えるようになる。
夏の月というと、
夏の夜はまだ宵ながら明けぬるを
雲のいづこに月宿るらむ
清原深養父(古今集)
の歌もあるように、月もあっという間に沈んでしまうようなイメージがあるが、月齢によってはまだ月が残っていて、その夏の月に向かって「さては途中で馬を替えていて遅れたか」と言う。
季語は「夏の月」で夏。
老聃曰知足之常足
夕がほに雑水あつき藁屋哉 越人
老聃は老子のこと。『老子』第四十六章に、
「天下有道、却走馬以糞、天下無道、戎馬生於郊。罪莫大於可欲、禍莫大於不知足、咎莫惨於欲得。故知足之足、常足矣。」
(馬は天下に道のある時は退却して糞を垂れ、道のない時には攻めてきて都市に迫る。求めることほど大きな罪はなく、知らないことほど大きな禍はなく、欲得ほど惨めな咎はない。故に満足だと知ることができればそれで満足だ。常に満足でいられる。)
とある。
まあ国を大きくしようなどとせず、小国寡民で満足していれば戦争も起こらない。平和にするにはどこの国も攻めて来れないような大きな国を作ればいいだとか、世界を一つにすればいいだとか思ったら、永久に戦い続けるしかないだろう。それは結局道を知らないからだ。
道は常に陰陽交錯して、渾沌は万物の母。それを知っていれば世界を一つにしようなどとは思わない。大いなる野望ほど大きな罪はなく、道をわきまえないことほど大きな災いはなく、征服欲は惨めな結果に終わる。
小さな国が無数にある混沌とした世界に満足するなら、いつまでも平和でいられる。
夕顔は『源氏物語』の夕顔巻にあるような、卑賎な家を象徴するもので、その夕顔の咲く藁屋で、夏の暑い中で熱い雑炊を食っていれば、腹を冷やすこともなく健康でいられる。それで満足することも大事だ。
季語は「夕がほ」で夏。
箒木の微雨こぼれて鳴蚊哉 柳雨
箒木はほうき草のこと。今はコキアともいう。前句の「夕がほ」に源氏つながりで箒木(ははきぎ)の句を並べたか。「微雨」は「こさめ」。
今しがたまで箒木の細かい枝に小雨の露がきらきらと光っていたが、雨が止んでその露がこぼれ落ちる頃には蚊が鳴きだす。
暑い時には蚊は来ないが、涼しくなれば蚊に刺される。うまくいかないものだ。
季語は「蚊」で夏。
ははき木はながむる中に昏にけり 塵交
帚木は一方ではほうき草のことだが、一方で木曽の園原伏屋にある伝説の木で、遠くから見れば箒を立てたように見えるが、近寄ると見えなくなるという。
園原や伏屋に生ふる帚木の
ありとは見えて逢はぬ君かな
坂上是則(新古今集)
の歌にも詠まれている。粗末な家の周りに自生する箒草も、眺めるだけで別にそれを役立てようともせずに日は暮れて行く。
季語は「ははき木」で夏。
萱草は随分暑き花の色 荷兮
萱草(くわんぞう)は忘れ草ともいう。オレンジ色の百合に似た花が咲く。それがぎらぎらとした夏の太陽のように見えるのだろうか。
季語は「萱草」で夏。
蓮池のふかさわするる浮葉かな 荷兮
夏の蓮池は蓮の浮葉がびっしりで水面もあまり見えない。下が深い池なのを忘れさせる。
蓮はお釈迦様の花なので、天上の世界に咲く花を思うと、この世の闇も忘れさせてくれるという寓意も含むか。せめてはこの浮葉の上に暮らしたいものだ。
季語は「浮葉」で夏。
暁の夏陰茶屋の遅きかな 昌圭
「夏陰」はコトバンクの「精選版 日本国語大辞典の解説」に、
「① 夏、日ざしの陰になっていること。夏の、物陰の涼しい所。夏の陰。《季・夏》
※万葉(8C後)七・一二七八「夏影(なつかげ)のつま屋の下に衣(きぬ)裁つ吾妹(わぎも)裏まけて吾がため裁たばやや大に裁て」
② (夏影) 夏の時の姿。
※林泉集(1916)〈中村憲吉〉ゆふべ「若やげる我が夏影(ナツガゲ)も年ごとに衰へ行けば今日もかなしも」
とある。
山影になっている涼しい茶屋は昼間ははいいが、夏だというのに夜が明けるのが遅い。
季語は「夏陰」で夏。
夏川の音に宿かる木曽路哉 重五
木曽路は山に囲まれて、日が昇るが遅く沈むのも早い。早めに宿に着くと、夏川の涼しげな音が聞こえる。
季語は「夏川」で夏。
譬喩品ノ三界無安猶如火宅といへる心を
六月の汗ぬぐひ居る臺かな 越人
前書きの「三界無安」はコトバンクの「精選版 日本国語大辞典の解説」に、
「〘名〙 (「法華経‐譬喩品」の「三界無安、猶如火宅」による語) 仏語。この世は苦しみが多く、あたかも火に包まれた家にいるように、しばしも心が安まらない意。三界火宅。三界に家なし。
※宝物集(1179頃)「三界無安喩火宅の如し、輪王之位も七宝不久非相も阿鼻をまぬがれず」
とある。
臺(うてな)はコトバンクの「精選版 日本国語大辞典の解説」に、
「① 四方を眺めわたすために土を積み重ねて作った壇。〔十巻本和名抄(934頃)〕
② 高い盛り土の上の建築物。高殿(たかどの)。
※竹取(9C末‐10C初)「葎はふ下にも年はへぬる身の何かは玉のうてなをも見む」
③ (「蓮のうてな」の意から) 仏説で極楽往生した者の座るという蓮の花の形をした台。蓮台。
※源氏(1001‐14頃)鈴虫「はちす葉をおなじうてなと契おきて露のわかるるけふぞかなしき」
④ 血筋。血統。同族。
※歌舞伎・御摂勧進帳(1773)五立口「義経いやしくも清和の台(ウテナ)を出で、多田の満仲の正統」
⑤ (萼) 植物の萼(がく)。「はすのうてな」から出た「はなのうてな」の意が広がったものという。
※浄瑠璃・嫗山姥(1712頃)灯籠「はひまつはるるあさがほの花のうてなのりんりんごとに」
とある。ここでは②の意味だろう。江戸時代だと城のことだろうか。
立派な高殿でも夏は暑い。まるで火の中にいるようだ。それを思うと三界に家なんかない。冷房のなかった時代の話だ。
季語は「六月」で夏。
背戸の畑なすび黄ばみてきりぎりす 旦藁
背戸は裏口。
茄子が黄ばむというのは色が褪せて茶色くなることだろうか。日の当たりすぎか虫のよるものであろう。こうなってしまうとキリギリス(コオロギ)の餌になるしかない。
季語は「きりぎりす」で秋。
貧家の玉祭
玉まつり柱にむかふ夕かな 越人
柱というのは水棚のことだろう。今でも地方によっては精霊棚ではなく柱にお供えを乗せる台を付けたような簡素な水棚で先祖を祀る所もある。
季語は「玉まつり」で秋。
雁ききてまた一寐入する夜かな 雨桐
ホトトギスの初音は夜通し起きて待ってたりするが、初雁の声は特に待っているわけでもない。
まどろむと思もはてぬ夢地より
うつつにつづく初雁の聲
藤原定家(拾遺愚草)
の心か。
一度は「うつつにつづく」となりながら、また寝てしまうところに俳諧がある。
季語は「雁」で秋。
雲折々人をやすむる月見哉 芭蕉
雲がかかると辺りも暗くなり、月見の宴も一休みということになる。
『芭蕉七部集』の中村注に、
なかなかに時々雲のかかるこそ
月をもてなすかぎりなりけり
西行法師(山家集)
とある。
この歌を踏まえつつも、「人をやすむる」に俳諧らしい笑いがある。
月見の宴は人をもてなすだけでなく、人が楽しんでいるところを月に見せることで、月をも楽しませるという意味がある。これは大体の祭りに共通するもので、人が楽しむことで神様を楽しませ、神様をもてなすことになる。
季語は「月見」で秋。
山寺に米つくほどの月夜かな 越人
普段寂しげな山寺も名月の夜は人が集まり、途中で米が足りなくなって、急遽貯蔵してあった玄米を搗いて精米して炊く。
季語は「月夜」で秋。
瓦ふく家も面白や秋の月 野水
秋の月は草庵ばかりでなく、瓦葺の立派なお屋敷でも面白い。
季語は「秋の月」で秋。
八嶋をかける屏風の繪をみて
具足着て顔のみ多し月見舟 野水
八嶋は屋島であろう。屋島の戦いは那須与一の扇を射た話でも有名だ。
屋島の戦いは二月十九日だったが、謡曲『八島』では三月十八日で月が描かれている。「顔のみ多し」というのは、実際には軍の船で月見ではないから、酒も料理も並べてなくて人だけが乗っている。それを洒落て、月見舟なのに人の顔ばかりだな、とボケる。
季語は「月見舟」で秋。
待恋
こぬ殿を唐黍高し見おろさん 荷兮
唐黍はコトバンクの「精選版 日本国語大辞典の解説」に、
「① 植物「とうもろこし(玉蜀黍)」の異名。《季・秋》 〔羅葡日辞書(1595)〕
※寒山落木〈正岡子規〉明治二七年(1894)秋「唐黍に背中うたるる湯あみ哉」
② 植物「もろこし(蜀黍)」の異名。
※俳諧・類船集(1676)土「蜀黍(タウキビ)の穂は土用に出ねはよからぬと農人のいひならはせり」
とある。どっちなんだ、というところだ。
そこで気になるのが貞享四年熱田での「磨なをす」の巻六句目の
あきくれて月なき岡のひとつ家
杖にもらひしたうきびのから 桐葉
の句で、なにげなくトウモロコシのことだろうと思って読んでしまったが、これも両方の可能性があったわけだ。黍殻を利用するのなら近代にコウリャンとも呼ばれる蜀黍と考えた方がいい。
コウリャンは高さが三メートルにもなる。それを見おろすというと二階からか。平屋だったら屋根に上らなくてはなるまい。
季語は「唐黍」で秋。
閑居増恋
秋ひとり琴柱はづれて寐ぬ夜かな 荷兮
箏は琴柱を立てて弦を持ち上げ、琴柱の立てる位置をずらすことで音程を調節する。強く引いたりして弦が外れると琴柱は倒れてしまう。同じ琴でも七弦琴の方は琴柱がなく、ギターのように指で押さえて音階を出す。
箏は王朝時代から女性の弾くもので、この句の場合も王朝時代のイメージで箏を奏でながら通りかかった殿方の気を引いて、それが縁で通ってくる男がいたのだろう。たいて男は笛を持ち歩いていて、箏に合わせて笛を吹いて即興のセッションをやることで仲良くなろうとする。『ひさご』の「亀の甲」の巻十三句目の、
心のそこに恋ぞありける
御簾の香に吹そこなひし笛の役 探志
の句も、わざとお付の者に下手な笛を吹かせて、笛の上手い男を呼び込もうという作戦だろう。
なかなか来ない男にいらいらしながら引いていると弦も琴柱から外れてしまい、眠れない夜を悶々として過ごす。
季語は「秋」で秋。
朝貌はすゑ一りんに成にけり 舟泉
秋も深まると朝顔も最後の一輪になる。
季語は「朝貌」で秋。
馬はぬれ牛ハ夕日の村しぐれ 杜国
時雨は夕暮れの短い時間ざっと着てすぐ上がる雨なので、馬はずぶ濡れだが牛は夕日を浴びているといった差ができる。
季語は「しぐれ」で冬。
芭蕉翁を宿し侍りて
霜寒き旅寐に蚊屋を着せ申 如行
これは芭蕉の『野ざらし紀行』の旅の時の句で、蚊帳は夏の蚊を防ぐだけでなく、細かい網目は風を通さないから防寒具としても役に立つ。芭蕉はこれに脇して、
霜の宿の旅寝に蚊帳をきせ申
古人かやうの夜のこがらし 芭蕉
と詠んでいる。如行のこうした生活の知恵に、古人もこうして夜を暖かく過ごしたのだろうかと感慨を述べる。
元禄八年刊支考編の『笈日記』には、
貞享元年の冬如行が
舊苐に旅寐せし時
霜寒き旅寐に蚊屋を着せ申 如行
古人かやうの夜の木がらし 翁
此時世をいかにおもひ捨給へる
ならん〽薄を霜の髭四十一と
申され侍しも此所にてあなるよし
すでに初老にてはありけるかし
とある。当時は数え四十で初老と呼ばれた。芭蕉は当時四十一。
季語は「霜」で冬。
雪のはら蕣の子の薄かな 昌碧
雪の積もった野原から雪に押しつぶされながらもかろうじて雪を押し上げているススキの姿を見て、雪の腹からススキが生まれ出ようとしている姿に見立てたか。「はら」は原と腹の二重の意味で用いられている。
ならばこのススキは誰の子かというところで朝顔の子だとする。なぜ朝顔なのかはよくわからない。
元禄三年冬の京都上御霊神社神主示右亭での年忘れ九吟歌仙興行「半日は」の巻三十一句目に、
世は成次第いも焼て喰フ
萩を子に薄を妻に家たてて 芭蕉
の句がある。この場合は妻子もなく、薄を妻の代わりに、萩を子の代わりにという意味。
季語は「雪」で冬。
馬をさへながむる雪のあした哉 芭蕉
貞享元年の『野ざらし紀行』の旅の時の熱田の句。『野ざらし紀行』には「旅人をみる」という前書きがある。
寒い雪の朝、しばし旅を忘れ、火燵で外をゆく馬の姿でも見ようか、といったところか。雪の中を行く旅人を見ながら、昨日までの自分の姿を思い起こし、その大変さに共感する。
馬をさへながむる雪の朝哉
木の葉に墨を吹きおこす鉢 閑水
の脇もある。
季語は「雪」で冬。
行燈の煤けぞ寒き雪のくれ 越人
冬になると日が短く、雪ともなるとさらに暗くなるため、行燈を灯す時間も長くなれば、行燈の煤も溜まることになる。煤の汚れが雪の夕暮れには余計に寒々しく感じられる。
季語は「雪のくれ」で冬。
芭蕉翁をおくりてかへる時
この比の氷ふみわる名残かな 杜国
芭蕉の『野ざらし紀行』の旅の時、十一月に名古屋で『冬の日』の五歌仙追加六句を巻き、杜国もその時に参加していた。そのあと芭蕉は故郷伊賀で正月を迎えることになる。その時の句であろう。
前書きからするといわゆる餞別吟ではなく、送って行った後の句のようだ。
雪が降ったりやんだりの寒い日が続き、芭蕉さんも氷を踏み割りながら鳴海、熱田、名古屋の辺りを行き来していた。そんな日々が名残惜しいです、という句だ。
寓意としては、停滞していた名古屋の俳諧の氷を打ち砕いてくれた、という意味もあったのかと思う。
袖ひちてむすびし水のこほれるを
春立つけふの風やとくらむ
紀貫之(古今集)
の立春の吟ではないが、名古屋の俳諧に春をもたらしたということで、この撰集の『春の日』のタイトルにもつながってゆく。
その後杜国は不運にも先物取引に理解のない役人によって三河隠棲の身になったが、やがて芭蕉の『笈の小文』の旅で復活することになる。
季語は「氷」で冬。
隠士にかりなる室をもうけて
あたらしき茶袋ひとつ冬篭 荷兮
茶袋はコトバンクの「精選版 日本国語大辞典の解説」に、
「① 葉茶を入れておく紙袋。
※御伽草子・一寸法師(室町末)「みつもののうちまき取り、茶袋(チャブクロ)に入れ」
② 葉茶を入れて煎ずるための布袋。ちゃんぶくろ。
※俳諧・西鶴大句数(1677)九「瀑した布の切も離さぬ 茶袋はぬふた所がおもしろい」
とある。
この時代は隠元禅師の唐茶という今の煎茶の前身にあたる飲み方が普及した時代で、②の布袋は茶を煮出すのに用いた。茶粥を炊く時にも用いる。
冬の間は熱いお茶を飲みながら家に籠る。
①の方の茶袋は延宝七年の「須磨ぞ秋」の巻二十四句目に、
血の道気うらみ幾日の春の雨
胸のけぶりにさがす茶袋 桃青
の句がある。小袋に小分けするためのもので、薬袋としても用いたのだろう。
季語は「冬篭」で冬。