「馬かりて」の巻、解説

元禄二年秋、八月四日

初表

 馬かりて燕追行別れかな       北枝

    花野みだるる山のまがりめ   曾良

 月よしと角力に袴踏ぬぎて      芭蕉

    鞘ばしりしをやがてとめけり  北枝

 青淵に獺の飛こむ水の音       曾良

    柴かりこかす峰のささ道    芭蕉

 

初裏

 霰降るひだりの山は菅の寺      北枝

    遊女四五人田舎わたらひ    曾良

 落書に恋しき君が名もありて     芭蕉

    髪はそらねど魚くはぬなり   北枝

 蓮のいととるもなかなか罪ふかき   曾良

    先祖の貧をつたへたる門    芭蕉

 有明に祭りの上代かたくなし     北枝

    露まづはらふ猟の弓竹     曾良

 秋風はものいはぬ子もなみだにて   芭蕉

    しろきたもとのつゞく葬礼   北枝

 花の香に奈良はふるきの町作り    曾良

    春をのこせる玄仍の箱     芭蕉

 

 

二表

 長閑さやしらら難波の貝づくし    北枝

    銀の小鍋にいだす芹焼     曾良

 手まくらにしとねのほこり打払ひ   芭蕉

    うつくしかれと覗く覆面    北枝

 つき小袖薫うりの古風也       芭蕉

    非蔵人なるひとのきく畠    芭蕉

 鴫ふたつ台にのせてもさびしさよ   北枝

    あはれに作る三日月の脇    北枝

 初発心草のまくらに旅寝して     芭蕉

    小畑もちかし伊勢の神風    芭蕉

 疱瘡は桑名日永もはやり過      北枝

    雨はれくもる枇杷つはる也   北枝

 

二裏

 細ながき仙女の姿たをやかに     芭蕉

    あかねをしぼる水のしら波   芭蕉

 仲綱が宇治の網代とうち詠め     北枝

    寺に使をたてる口上      北枝

 鐘ついてあそばん花の散かゝる    芭蕉

    酔狂人と弥生くれ行      芭蕉

     参考;『歌仙の世界』尾形仂、1989、講談社学術文庫

初表

発句

 うまかりて燕追行つばめおひゆくわかれれかな   北枝ほくし

 

 「馬かりて」は「馬駆りて」で、秋にツバメが南の島へ帰ってゆくのを馬を駆り立ててでも追いかけていくような別れ、という意味。『奥の細道』の旅の途中、北陸の山中温泉に滞在中、曾良そらが病気になり、伊勢長島のかかりつけの医者のところへと急遽帰ることとなった時の句だ。この歌仙で、曾良の句が途中までしかないのも、体調が悪く、途中で退席したと思われる。この翌日、曾良は、

 あとあらんたふすとも花野かな   曾良そら

の句を詠み、これに芭蕉は、

 さびしげに書付かきつけ消さん笠の露   芭蕉ばしょう

と答えたと『芭蕉翁略伝』にある。たとえ途中で倒れても、芭蕉さんが後から同じ道を来てくれると思うととても頼もしい、まるで花野を旅するかのようです、という曾良の句に、笠に書いた「乾坤無住同行二人けんこんむじゅうどうぎゃうににん」という書付を涙の露で消すのは寂しい限りです、と芭蕉が答えている。この二句は、『奥の細道』では推敲され、

 ゆきゆきてたふすとも萩の原   曾良そら
 今日よりや書付かきつけ消さん笠の露   芭蕉ばしょう

と改められている。
 「馬かりて」の句はその前夜、北枝から曾良への餞別句だった。
 この「馬かりて」の句を発句とする歌仙には、北枝が記したとされるメモが残っていて、後に『山中三吟評語』として、公刊されている。芭蕉の興行の場での捌きの様子を知る上でも貴重な資料であり、解説もこれに即して行っていきたい。

 

「燕」の去ってゆくで秋。離別の句。「馬」は獣類。

    うまかりて燕追行つばめおひゆくわかれれかな
 花野はなのみだるるやまのまがりめ   曾良そら

 (うまかりて燕追行つばめおひゆくわかれれかな花野はなのみだるるやまのまがりめ)

 

評語

 花野に高き岩のまがりめ   曾良
「みだるゝ山」と直し給ふ。

 

 『山中三吟評語』には、曾良の原案と芭蕉の推敲が記されている。曾良の最初の作意からすると、燕を追いかけてついに追いつけなかったのを、山の険しさのせいだとした、「高き岩のまがりめ」が邪魔して見失ってしまったという付けだった。学者らしい、理に走った付けだ。芭蕉の方は、あくまで句の姿を重視して、「花野みだるる」とする。「みだるる」は咲き乱れるという意味でもあり、馬に踏み荒らされて乱れるという意味にもなる。「山の曲がり目」とあれば、山道の険しさに見失ったのだろうということは説明しなくても想像できる。

 

「花野」は秋。草類。「山」は山類。

第三

    花野はなのみだるるやまのまがりめ
 つきよしと角力すまふ袴踏はかまふみぬぎて   芭蕉ばせを

 (つきよしと角力すまふ袴踏はかまふみぬぎて花野はなのみだるるやまのまがりめ)

 

評語

月はるゝ角力すまふ袴踏はかまふみぬぎて   翁
「月よしと」案じかへ給ふ。

 

 ここでは芭蕉も一発で決めたわけではないことが記されている。あるいは「月はるる」という初案に、曾良や北枝から、句が途中で途切れたようでリズムが悪く、すらすらと読み下せないという指摘でもあったのかもしれない。『去来抄きょらいしょう』などを見ても、蕉門の人たちは自由に意見を言い合う気風があったし、芭蕉もまたしばしば弟子に助言を求めた。決して師匠だからといってふんぞり返っていたわけでないし、弟子達も師匠だからといって遠慮して言葉をつぐむということもなかった。屈託なく議論を交わせるというのが蕉門の一番の強みだったのかもしれない。
 萩、すすき女郎花おみなえしなど、花の咲き乱れる野原で月見をしていると、酔って相撲を取ろうかということにもなる。今ではともかくとして、当時としてはいかにもありそうな情景だったのだろう。
 発句が秋の時は、五句目の月の定座をくり上げて、最初に秋の句が続く中で月を出すのが普通。脇に出なかった以上、三句目に出すのは必然と言える。

 

「月」は秋。夜分やぶん天象てんしょう中世連歌ちゅうせいれんがでいう「光物ひかりもの」に相当そうとうする。「相撲」も昔は秋のものだった。今では一年中やっているので、今日相撲を秋の季語とする必然性はない。「袴」は衣装いしょう

四句目

    つきよしと角力すまふ袴踏はかまふみぬぎて
 さやばしりしをやがてとめけり   北枝ほくし

 (つきよしと角力すまふ袴踏はかまふみぬぎてさやばしりしをやがてとめけり)

 

評語

  さやばしりしを友のとめけり   北枝
「とも」の字おもしとて、「やがて」と直る

 

 相撲を取ったのはいいが、血気盛んな若者のことだから、やれどっちが先に手を付いただの、同体だっただの、いや、あれはかばい手だだの、いろいろもめるもので、武士ともあればプライドもある。ひとたびなめられたら、相手は笠に掛かって威圧的になるかもしれない。弱みは見せられない。そういう心理から、ついつい刀に手を掛け威嚇する。
 「鞘走り」は文字通りの意味だと、鞘から刀が自然に滑り落ちることだが、文字通りに取ったのでは正直すぎる。 土芳どほうの『三冊子さんぞうし』に俳諧に使うべきでない言葉として、「人を殺す、切る、しばる」といった言葉を挙げているように、俳諧では暴力シーンが自主規制されていた。ここはやはり、かっとなって刀を抜こうとしたところを友が慌てて止めた、というところだろう。
 芭蕉が「『とも』の字おもし」というのは、後の「軽み」とは関係なく、むしろ場面が限定されすぎることによって次の句が展開しにくくなることを指して、「重し」と言ったのだろう。連歌の場合でも俳諧の場合でも、ある程度曖昧さを残した言い回しをしたり、あえて二つの意味に取れるような言葉の使い方をするのを良しとする。「友」という言葉が入ると、少なくともそこに二人以上の人がいて、鞘から滑り落ちた(あるいは抜き放とうとした)刀をその持ち主でない人が止めたという場面に限定される。これを「やがて」に改めると、登場人物は一人でもいいし、刀を自分で治めたとしてもいいことになり、次の句の可能性が大きく広がる。また、友は人倫に分類される言葉で、去り嫌いの規則の対象になる言葉は、一度出すと同じ分類に属する言葉(たとえば人倫の場合は、我、人、君、身、父、母、誰、などをはじめ、身分や職種など、人間の種類を表す言葉)が何句か先まで使えなくなる。そのため、去り嫌いに引っかかる言葉は不必要に使わないのを良しとする。おそらく、去り嫌いの規則自体が、本来景物の多用を戒めるためのものだったのだろう。

 

無季。

五句目

    さやばしりしをやがてとめけり
 青淵せいえんうそとびこむみづおと   曾良そら

 (青淵せいえんうそとびこむみづおとさやばしりしをやがてとめけり)

 

評語

青淵せいえんうそとびこむ水の音   曾良
「二三びき」と直したまひ、しばらくありて、もとの「青淵」しかるべしとありし。

 

 曾良の句は物音がしたので、すわ、曲者くせもの!とばかりに刀に手をかけたが、なんだ川獺か、というありがちな句だが、一句が芭蕉の古池の句のパロディーになっている。この句も、前句が「友のとめけり」だったら思いつくこともなかった。自分で刀を元の鞘に収めたという解釈が可能になったからこそ、この句を付けることも出来た。
 曾良のこの句の場合も、「青淵」と舞台が深山を流れる清流に限定されているところが、芭蕉には重く感じたのかもしれない。(「青淵」は水辺すいへんで、去り嫌いに関係する。)「二三匹」だったら舞台は限定されないから、一面田んぼの中を洋々と流れる大河の情景とすることもできる。しかし、二三匹チャポンチャポンと川獺が跳ねて遊んでいる場面だと、刀に手をかけるだけの緊迫感が生まれず、何かほのぼのとしてしまうし、古池の句のパロディーの意味もなくなる。(芭蕉としてはこのことが面白くなかったのかもしれないが。)結局他に代案もなくもとの形で治定された。

 

無季。「青淵」は水辺の体。「獺」は獣類。発句に「馬」が出ているが、この時代は一般的に三句去りで良しとされていた。
 『応安新式』などで五句去りとされてきたものの多くが江戸時代には三句去りで良しとされるようになった背景には、おそらく月の定座が一般化した影響もあったのだろう。たとえば夜分の発句の場合、夜分と夜分が五句去りだと、百韻の場合は七句目の定座で月を出すことができるが、歌仙だと初の懐紙の表に月を出せなくなってしまう。脇に月を出すというやり方がないわけでもないが、発句の夜分が必ずしも月を出すにふさわしい題材とは限らない。そういう所から、夜分を三句去りでもいいとし、他の五句去りのものもそれに準じるようになった可能性がある。

六句目

    青淵せいえんうそとびこむみづおと
 しばかりこかすみねのささみち   芭蕉ばせを

 (青淵せいえんうそとびこむみづおとしばかりこかすみねのささみち

 

評語

  柴かりこかす峰のさゝ道   翁
「たどる」とも、「かよふ」とも案じ給ひしが、「こかす」にきはまる。

 

 「青淵」が治定ちじょうされ、舞台が深山に限定されてしまったため、次の芭蕉の句は深山のありがちな風景を付けて軽く流すことになる。「柴かりこかす」は「柴・刈りこかす(倒す)」と読む説と「柴刈り・こかす(転ばす)」と読む説とあるが、後者だと川獺の音にびっくりして柴を刈る人が転んだということになり、打越うちこしのびっくりして刀に手をかけたという句に似通ってしまう。打越と類似した趣向の句を詠むことを、連歌では輪廻りんねと呼び忌み嫌うことからも、それが芭蕉の真意とは思えない。あくまでも山深いため、柴を刈り倒しながら進まねばならないという意味に取った方がいいだろう。ただ通う、辿るとするよりも、柴を刈り倒しながら進むというところに、いかにも絵が浮かんでくるような「姿」がある。

 

無季。「柴」は草類。「峰」は山類の体。

初裏

七句目

    しばかりこかすみねのささみち
 あられるひだりのやますげてら   北枝ほくし

 (あられるひだりのやますげてらしばかりこかすみねのささみち

 

評語

松ふかきひだりの山はすげの寺   北枝
しばかりこかす」のうつり上五文字、「あられ降る」と有べしとおほせられき。

 

 「柴かりこかす」に「松ふかき」と付けて、松林の下生えを刈り払って、寺の屋根の菅にしたというわけだが、深山の情景が三句に渡ってしまう。「左の山」は寺のことを「何々山」と山号で呼ぶから、必ずしも山奥の情景ではないから、「松ふかき」をはずせば、舞台はほとんど限定されなくなる。寺の隣ならどこでもいいということになる。無季が続いたので、「霰」という冬の季語をつけ、冷たく霰が笠をバラバラと打ちつける中を柴を刈り倒しながら山寺へと入ってゆく情景へとした。
 「うつり」というのはいわゆる「付け合い」だとか「付き物」というほどの緊密さはないが、自然に連想されるものというくらいの意味で、古典に出展を持つ伝統的な付け合いとは違う新しい付け方として、蕉門が提起していた付け方だった。

 

「霰」は冬。降物ふりもの。「山」は山類の体。山類の体はこれで二句続くが、二句まではり付けといって許されているが、三句に渡ると一句隔てた打越に同じものが来るため、輪廻になる。山類は体と用に分かれているため、体が二句続いた後用を付けることは出来る。「寺」は釈教しゃっきょうだが、芭蕉のさばきでは「釈教」はあくまで実質的に仏法を説いたり、仏法に帰依する心情を説くものに限られ、「寺」など仏教に関連する言葉があれば自動的に釈教に分類するという形式的な考え方は採っていない。このことは『去来抄』の「盆の月」をめぐる問答にも現れている。

八句目

    あられるひだりのやますげてら
 遊女いうぢょ四五人しごにん田舎ゐなかわたらひ   曾良そら

 (あられるひだりのやますげてら遊女いうぢょ四五人しごにん田舎ゐなかわたらひ)

 

評語

  役者四五人田舎ゐなかわたらひ   良
「遊女」と直し。

 

 柳田國男の『木綿もめん以前の事』というエッセイ集に「遊行ゆぎょう婦女のこと」という一文があり、その冒頭でこの句が取り上げられている。そこには「菅の寺」は近江に実在した寺だが、詳しいことはわからないとしている。(一説には琵琶湖の北東にある大箕山菅山寺おおみさんかんざんじだともいう。菅原道真すがわらのみちざね公ゆかりの寺で、植物の菅とは関係ない。)そのあと、こう続く。

 「この寺は谷あいのやや高みに、杉の森などがあって屋の端が見え、それから下りてくる小路こみち三辻みつつじになったあたりを、在所の者とは見えぬ女性が四五人で通っている。もしくは茶を売る道傍みちばた小家こやに、腰を掛けて休んでいたのでもよい。そういう旅の女をも、あの頃は一目見て遊女と呼び得たのか。正はまた今日我々が昔の遊女として考えている女性が、おうの時代にはなお「田舎わたらい」という生活をしていたのか。いずれにしてもこれが現実の経験であったかぎり、珍しい我々の問題になるのである。」

 「田舎わたらい」は主に稲の収穫後の百姓の懐の暖かい時期に田舎をまわる芸能集団の興行活動をいい、「遊女」といっても江戸時代中後期以降の売春婦のイメージではなく、歌や踊り、芝居、物語などを主とする芸能集団だったのだろう。ただ、もっと稼ぎたいと思えば、交渉しだいで夜のサービスもしたのかもしれない。売春にも大きくいって二種類あり、強要されて行われる客を選べない売春と、自ら客を選べて料金なども自由に交渉できるる売春とでは、女性の性的選択権の上からしても雲泥の差がある。後者の場合はむしろ今日の援助交際に近い。
 芭蕉は曾良の原案の「役者」を「遊女」と直したが、これは男か女かの違いで、やっていることはそれほど変わらないからこそ振り変わるのだろう。ただ、やはり旅から旅の生活は厳しく、晩秋から冬にかけての寒い時期が稼ぎ時であるため、「あられふる」中の遊女は哀れな題材には違いない。柳田國男は『ひさご』の、

    それ夜はなみだ雨と時雨しぐれ
 雪舟そりに乗るこしの遊女の寒さうに   野径やけい

の句も引用している。霰ならまだいいが、雪が積もる頃になれば夜毎橇よごとそりに乗せられてお座敷回りをしていたのだろう。

 

無季。 「田舎わたらい」は羇旅きりょ。「遊女」は恋。人倫。

九句目

    遊女いうぢょ四五人しごにん田舎ゐなかわたらひ
 落書らくがきこひしききみもありて   芭蕉ばせを

 (落書らくがきこひしききみもありて遊女いうぢょ四五人しごにん田舎ゐなかわたらひ)

 

評語

こしはりに恋しき君が名もありて   翁
   「落書に」と直し給ふ。

 

 曾良の句を「役者」から「遊女」に直したのは、一つには初の懐紙の裏に入ったところで、この辺で恋を仕掛けたいという思惑があったのだろう。恋はやはり和歌でも連歌でも俳諧でも一巻の花であり、一番盛り上がる題材でもある。百韻では「待ちかねの恋」とかいってあまり早めに恋を出すのを嫌うところがあるが、歌仙かせんのような短い形式ではそうもいっていられない。ぐずぐずしていたらチャンスを逸することになる。
 初案の「こしはり」はふすまの下のほうに張る紙のことだが、これだと舞台が屋内に限定される。「こしはり」も布団の敷かれた部屋に「こし」という言葉の響きが艶な感じだが、展開の重さを嫌ったのだろう。
 落書きはいつの時代にもあるもので、しばしば伝言板の役割を果たすこともある。単に誰某参上といったよくある手のものであれ、知ってる人が見れば、アイツもここに来ていたのかという一つの情報になる。落書きが多いのは、おそらく宿屋で、おそらく襖の下の方の「こしはり」などに書かれたりしたのだろう。あるいは神社とか市の立つところとか、人の集まるところだろう。同じ旅の商売の人がいろいろ情報を書き残していったりして、その中に愛しき人の消息を見つけたのかもしれない。嘘か本当かわからない怪しげな落書きではあっても、それを見てやきもきすることもあった。元禄の2チャンネルとでも言うべきか。

 

無季。「恋しき」は恋。「君」は人倫。人倫が二句続いたので、次の句では出せない。

十句目

    落書らくがきこひしききみもありて
 かみはそらねどうをくはぬなり   北枝ほくし

 (落書らくがきこひしききみもありてかみはそらねどうをくはぬなり)

 

評語

  髪はそらねどうをくはぬなり   枝
前句に心ありて感心なりと称したまふ。

 

 これはわかりにくいが、「名もありて」をかつて恋した人の死を知ってという意味に取り成して付けている。あるいは、別れた人が今は出家しているという意味でもいいかもしれない。自分も出家したいけど、今の世間での自分の立場ではそれも許されないから、せめては魚を断ち、殺生せっしょうを控えようという意味になる。恋から釈教への鮮やかな転換となり、それを芭蕉は「前句に心ありて感心なり」と言ったのだろう。

 

無季。「魚くはぬ」で釈教となる。七句目の「寺」から二句しか隔たっていないが、芭蕉の捌きでは「寺」とあるだけでは釈教にはならない。この句と次の句が実質的な釈教となる。「釈教」と「釈教」は連歌では五句去りだが、貞門ていもんの俳書である野々口立圃ののぐちりゅうほの『はなひ草』では三句去りでもいいことになっている。尾形つとむの『歌仙の世界』では二句去りでもいいとするルールもあったようだが、このあたりはかなり捌く人の裁量によるところが大きかったのだろう。芭蕉に関しては釈教句は一定の言葉が入っていれば自動的に釈教になるといったような形式ではなく、あくまで実質で判定していたように思える。

十一句目

    かみはそらねどうをくはぬなり
 はすのいととるもなかなかつみふかき   曾良そら

 (はすのいととるもなかなかつみふかきかみはそらねどうをくはぬなり)

 

評語

はすのいととるもなかなか罪ふかき   良
さもあるべし、曾良はかくのところを得たりと称したまふ。

 

 蓮の糸を取るというのは、当麻寺たいまでら中将姫ちゅうじょうひめ伝説を本説ほんぜいとした付けで、当時当麻寺は性愚上人せいぐしょうにんによって曼荼羅まんだらの修理が行われ、庭に花壇を整備し、上方の花の名所へと変貌しようとしていた。
 中将姫伝説は鎌倉時代の「當麻曼陀羅縁起絵巻たいままんだらえんぎえまき」「古今著聞集ここんちょもんじゅう」あたりから見られ、室町時代には謡曲『當麻たいま』と『雲雀山ひばりやま』によって広く大衆の間に浸透していった。中将姫は聖武しょうむ天皇のころの藤原豊成の娘で、十三歳のときに中将の内侍となり、そこから中将姫と呼ばれるようになった。継母に育てられたこともあって、そこでもいろいろドラマがあり、結局は発心し、当麻寺に籠った。ある日長谷観音の化身から「百駄ひゃくだの茎から繊維をとって曼荼羅を織ると、生身の仏を拝むことができる」とお告げがあり、その通りに曼荼羅を織り上げると本当に阿弥陀如来と二十五の菩薩が現れ、生きながら西方浄土へと渡ったという。
 仏様にゆかりのある蓮の茎を、曼荼羅を織るためとはいえ、大量に刈り払ってしまうのは罪深いこと。せめては髪は剃らなくても魚食はやめることにしよう。上句と下句をつなげて読むと、そういう意味になる。もっとも中将姫は当麻寺に籠って尼さんになったのだから、普通は髪を剃ったことになっているけど、その辺のところはこだわらないことにしておこう。
 曾良は神道家ではあるが、その曾良が並の仏者以上に仏教の罪の概念をよく理解していることに、芭蕉も驚いたのではなかったか。「さもあるべし」と芭蕉もあらためて目を開かれた思いだったのだろう。
 よく菜食主義者のことを、植物だって生きているのだから殺生には変わりないという人がいるが、もちろんその通りで、魚を絶ったからといって人間の持って生まれた原罪を逃れられるわけではない。だからといって罪の概念が無意味だということにはならない。どんな人間でも生まれた以上、何も罪を犯さずに生きるというのは不可能なことだが、その量を少しでも減らそうという努力は無視すべきではない。人間である以上必ず間違いはあるのだから交通事故をゼロにすることは不可能かもしれないが、だからといって事故を減らすための努力が無意味ではないのと同じだ。むしろ危険なのは、自分には何の罪もないと思い込むことだ。これは「自分は生まれてこの方嘘を付いたことがない」と言うようなものだ。

 

無季。「罪」は釈教。『応安新式おうあんしんしき』によれば、釈教は三句まで続けることができる。「蓮」は草類。六句目の「柴」から四句隔てている。蓮の花を詠んでいないので、夏とは言い難い。

十二句目

    はすのいととるもなかなかつみふかき
 先祖せんぞひんをつたへたるもん   芭蕉ばせを

 (はすのいととるもなかなかつみふかき先祖せんぞひんをつたへたるもん

 

評語

  四五代貧をつたへたる門   翁
「先祖の」と直し玉ふ。

 

 本歌や本説で付ける場合、三句にまたがってはいけない。つまり、この句ではとりあえず中将姫伝説からは離れなくてはならない。これはなかなか難しく、芭蕉の腕の見せ所だろう。
 まず、蓮の糸を取ることを、中将姫伝説から切り離さなくてはならない。だから、何か別の理由で蓮から糸を取っていることを説明する必要がある。あるいは蓮の糸を何か比喩としたり、別のものに取り成すやり方もあるが、ここではちょっと無理のようだ。結局芭蕉が思いついたのは、先祖から何かこうした風習を受け継いでいる家がどこかにある、という方向だった。もちろん、それは本当になくてもいい。各務支考かがみしこうの『俳諧十論はいかいじゅうろん』に、「俳諧といっは別の事なし、上手に迂詐うそをつく事なり」という芭蕉の言葉があるように、俳諧は基本的に「虚」の世界だから、ただありそうであればそれでいい。
 そこでできたのが、「四五代貧をつたへたる門」という句だった。芭蕉の時代から四五代前というと、戦国時代だろう。その頃何かの理由(たとえば仕えてた主君がいくさで負けとか)で清貧に耐える必要があり、絹や木綿はもとより、麻布も禁じ、蓮の茎から糸を取って布を作っていた家があり、それを今にまで伝えているという意味だ。この場合、前句の「罪深き」は単に、お釈迦様の蓮を刈るとは罰当たりな、程度の軽い意味になる。
 しかし、「四五代」は具体的ではあるものの、これといって絵に浮かぶような「姿」はない。「先祖に」とした漠然とした言い方のほうが、次の付け句の可能性が広がる。そう判断したのだろう。また、「先祖の」とすると、前句を前句を「蓮のいととるもなななか」で一度切って、「罪深き先祖の」と読むことも可能になる。これだと、蓮の糸を取るのが罪深いのではなく、蓮の糸を取るのは先祖が何らかの罪で貧に耐えねばならなかったからだ、という取り成しになる。

 

無季。「先祖」は人倫。人倫と人倫は『応安新式』では特に去り嫌いの規定はなく、これを文字通りに解釈すれば、打越だけ嫌えばいいということになる。野々口立圃ののぐちりゅうほの『はなひ草』では二句去りとなっている。九句目の「君」から二句隔てているので、問題はない。

十三句目

    先祖せんぞひんをつたへたるもん
 有明ありあけまつりの上代じゃうだいかたくなし   北枝ほくし

 (有明ありあけまつりの上代じゃうだいかたくなし先祖せんぞひんをつたへたるもん

 

評語

宵月に祭りの上代かたくなし   枝
「有明」となほる

 

 「上代」は祭りを執り行う人で、「かたくなし」というからには頑固な人だったのだろう。北枝の原案だと、夕方で、祭りも佳境に入り、みんなが浮かれ騒ぐ頃に、頑固に先祖ながらの贅沢を嫌う上代の姿が描かれている。これに対し、「有明」つまり明け方ということになると、何か厳粛な儀式の中で昔ながらの伝統を守っているという雰囲気になる。前者だと、せっかくの祭りに何か野暮ったい印象を与えるが、有明であれば頑固一徹も故有り、ということになる。微妙なところだが、基本的に祭りは遊びであり、引き締めるべきところは引き締め、羽目外すべきところでは羽目外す。それが祭りの本意本情といえよう。
 前句の「先祖の貧をつたへたる門」にふさわしい人物を描くという点では、「位付け」といっていいだろう。もっとも、この『山中三吟評語』では、「うつり」という言葉は出てくるが、位、匂ひ、響き、等の言葉はない。後の蕉門の特徴ともなるこうした付け方は、まだ十分自覚されてなかったと思われる。

 

「有明」は秋。夜分、天象てんしょう。「祭り」は神祇じんぎ。神祇と釈教との間には、特に去り嫌いの規定はない。「上代」は人倫。人倫が二句続く。

十四句目

    有明ありあけまつりの上代じゃうだいかたくなし
 つゆまづはらふかり弓竹ゆみたけ   曾良そら

 (有明ありあけまつりの上代じゃうだいかたくなしつゆまづはらふかり弓竹ゆみたけ

 

 『山中三吟評語』には、この句については特に何もなく、すんなりと治定ちじょうしたのだろう。秋の明け方となれば露が降りるもので、そんな中で頑固な上代の下で祭りが厳かに始まれば、文字通りの「露払い」となる。有明の祭りにすんなりと祭りの景色を付けた句で、やり句といえばやり句であろう。
 相撲でも土俵入りのときに露払いがいるように、祭りの行列でも、狩りに使う竹の弓を持った人が先頭を切ったりしたのだろう。「弓竹」は専門的には弓を作る際に弓の芯を挟み込む竹のことだが、単に弓状の竹のことも弓竹という。たとえば団扇の形を整えるための弓上に張られた竹も「弓竹」と呼ばれている。この句の場合、「弓」では字足らずになるので、調子を整えるために「弓竹」と言っただけで、それほど深い意味はなかったと思われる。「秋の暮れ」を「暮れの秋」と言うような、単純な「竹弓」の倒置と見てもいいのではないかと思う。  「弓竹」といい、四句目の「鞘ばしり」といい、学者の説というのはえてして杓子定規になりやすい。それでちゃんと意味が通ればいいのだが、実際は意味不明になってしまう。それを素直に認めるならいいのだが、えてしてそれを玄妙不可解の付けとして、これぞ蕉門の匂い付けの極致とばかりに神秘めかして喧伝するから、知らない人は連句とはこんなものだと思って、意味不明な句を乱発するようになる。忘れてはならないのは、連句とはあくまで上句と下句を合わせて一首の和歌を完成させる遊びであり、上句と下句をつなげて意味が通らないなら、それは付かない句か読み方が間違っているかのどちらかである。『去来抄』に「先師曰せんしいはく、句に一句もつかざるはなし」とあるのを信じるなら、芭蕉が捌いた一巻に付かない句はない。上句と下句をつなげて意味が通らなければ、それは読み方が違っているからだ。とまあ、尾形仂へはこれくらい言っておけばいいだろう。

 

「露」は秋。降物ふりもの

十五句目

    つゆまづはらふかり弓竹ゆみたけ
 秋風あきかぜはものいはぬもなみだにて   芭蕉ばせを

 (秋風あきかぜはものいはぬもなみだにてつゆまづはらふかり弓竹ゆみたけ

 

評語

秋風はものいはぬ子もなみだにて   翁
我、此句このくは秀一なりと申ければ、各にも劣らぬ句有と挨拶し玉ふ。

 

 北枝がこの句は秀逸だと言うと、芭蕉は、曾良と北枝にもいい句があったとフォローを入れている。このあたりにも、芭蕉のエンターテイナーとしての気配りが感じられる。俳諧興行も招いてくれる人あってのもので、常に座にいる人を立てながら進めるのが普通だったのだろう。いくら腕が有っても威張りくさってみんなが不愉快な思いをしたのでは、座に呼ばれなくなる。俳諧師はあくまで客商売だ。
 秋風というと、芭蕉はこの『奥の細道』の旅で、少し前に、

 あかあかと日は難面つれなくもあきの風
 塚も動け我泣声わがなくこゑは秋の風

といった発句を詠んでいる。秋というと万物が死に向かう季節で、秋風は目に見えなくても確実に迫り来る死の暗示でもある。朝に登った太陽も夕べには沈むように、ひたすら北を目指した『奥の細道』の旅にも帰り道があるように、春に生じた様々な命も秋には枯れてゆく。「ものいはぬ子」というのは言葉の不自由な子か、それともまだ言葉もうまく喋れない子だろうか。そんな小さな子でも秋風の悲しさをなぜか知っている。「なみだにて」は「露まづはらう」に続き、涙の露を払う、という意味になる。そして、その原因を最後に「猟の弓竹」として結ぶ。これによって、秋風に物言わぬ子が涙の露を払う理由が、弓矢で仕留められた動物が可哀想だからだとわかる。複雑な取り成しに、子供にもわかる殺生の罪を、釈教の言葉を使わずに表現している。
 遣り句というのは決して悪い句ではない。むしろサッカーでも自分でシュートは無理だと思って一旦ボールを後ろに下げたときが、後ろから走りこんできた選手にとっては絶好のミドルシュートをねらうチャンスになる。各務支考は『俳諧十論』の中で、有心付うしんづけ会釈あしらい遁句にげくを三法の付け方と呼んでいるが、この遁句は遣り句と同じと言っていい。サッカーに例えれば、有心付はシュートで、会釈は左右に変幻自在にふるパス廻し、遁句は一旦後ろに戻すパスといったところか。どれが良くてどれが悪いということではない。むしろ、連衆同士、息の合ったボール回しをすることが大事で、何でもかんでもシュートすればいいというものでもなければ、かといって後ろに下げてばかりでもつまらない。また、句の付け方に疎句付けだとか親句付けだとかいう区別もあるが、どっちが良い悪いなんて議論はくだらない。俳諧連歌とはそれぞれの心の壁を越えて絶妙のパスが通ったときに、最大の喜びがある。

 

「秋風」は秋。「子」は人倫で、人倫が打越で出てしまっている。まあ、句が良ければ形式的なことは超越できる、ということだろう。各務支考の『俳諧十論』には、「詞のさし合ひも、物のさりきらひも、其場そのばにしたがひ、其人そのひとによりて、とがむるもあり、とがめぬもあり。」とある。何が何でも杓子定規に規則を適用するのは野暮であり、臨機応変な裁量でもって一巻を面白く演出するのが捌く人の役目といえよう。

十六句目

    秋風あきかぜはものいはぬもなみだにて
 しろきたもとのつゞく葬礼さうれい   北枝ほくし

 (秋風あきかぜはものいはぬもなみだにてしろきたもとのつゞく葬礼さうれい

 

 これも、『山中三吟評語』にはコメントはない。「ものいはぬ子」を死んだ子に取り成した付けで、「ものいはぬ子も」の「も」はこの場合強調の「も」(力も)になる。「ものいはぬ子ぞ」という意味。葬式で、白い服を着た人の行列が続く。
 次の句がいわゆる花の定座なので、通常は花呼び出しといって花の付けやすい句を作ることが多いが、これも良し悪しで、かえって月並になりやすい。これを曾良がどう処理するか。

 

無季。 「葬礼」は無常。「たもと」は衣裳。

十七句目

    しろきたもとのつゞく葬礼さうれい
 はな奈良ならはふるきの町作まちづくり   曾良そら

 (はな奈良ならはふるきの町作まちづくりしろきたもとのつゞく葬礼さうれい

 

評語

花の香に奈良の都の町作り   良
「はふるき」と直し給ふ。

 

 曾良のアイデアは「しろき」から桜の花の色を連想させることだったのだろう。今はピンク色のソメイヨシノが全盛だが、この品種は江戸末期にできたもので、もちろん芭蕉の時代にはない。昔は桜というと白く咲く山桜のことだった。「花」と「白」の縁でかろうじて付いている疎句といえよう。
 奈良というと、

 あをによし奈良の都は咲く花の
    にほふがごとく今盛りなり

の歌も思い浮かぶ。花の季節となれば、奈良の都は咲く花に白く染まる。特に、都の町の作りといえば、格子状に張り巡らされた真っ直ぐな大通りで、今となってはすっかりひなびてしまっても、道沿いに一直線に咲く桜は往年の名残を留めている。それが、昔の賑わいを思うと悲しく、あたかも葬列のようでもある。
 芭蕉はこれを「奈良は古きの」と改めている。「奈良の都の」だと、平城京が出来た頃の真新しい町の連想が働くが、「ふるきの」とすることで、今の(元禄期の)奈良の景色とし、古式ゆかしく葬儀が営まれている風情としている。

 

「花」は春。植物。「奈良」は名所。

十八句目

    はな奈良ならはふるきの町作まちづく
 はるをのこせる玄仍げんじょうはこ   芭蕉ばせを

 (はな奈良ならはふるきの町作まちづくはるをのこせる玄仍げんじょうはこ

 

 この句にも、『山中三吟評語』にはコメントはない。玄仍は戦国時代に活躍した連歌師、里村紹巴じょうはの息子で、その後の花の下の連歌師の元となった。紹巴は明智光秀が本能寺の変を起こす直前の連歌会れんがえに同席していたことでも知られている。

 ときは今あめしたしる五月哉さつきかな         光秀
    水上みなかみまさる庭の夏山         行祐
 花落つる池の流れをせきとめて       紹巴

 第三に早くも花が出ているように、この時代にはまだ花の定座というものはなかった。しかし、この紹巴が『至宝抄しほうしょう』で「一座に花四、貴人巧者ならでは平人は斟酌しんしゃくある事なり」と言ったあたりから、後に花の句を遠慮して譲り合い、ちょうど酒の席でのおつまみの最後の一個がみんな遠慮していつまでも残ってしまうように、誰も花を自分から進んで詠みたがらなくなったため、各懐紙の最後の長句が花の定座となったと言う。定座がなかった時代は、むしろ花の句は早い者勝ちとばかりに、各懐紙の早い時期に出ることが多かった。
 玄仍は世襲で連歌師になっただけで、紹巴ほどの才能もなく、むしろ後の連歌の形骸化の元となり、同じ頃、戦国武将の松永弾正の親類である松永貞徳によって俳諧の時代の始まりとなったわけだが、その意味では「玄仍」の名は俳諧師からすれば骨董品のようなものだっただろう。昔の奈良の都の繁栄の面影もない今の(元禄期の)奈良のイメージに、かつての宗祇の時代の連歌の繁栄の跡形もない玄仍を持ち出すのは、芭蕉一流の皮肉のように思える。「花の香に奈良はふるきの町作り」、そして花の下の連歌師は「春をのこせる玄仍の箱」、過去の遺物だ。
 「玄仍の箱」は古今伝授を受けた印の「古今集」を詰めた箱だと言われている。しかし、そんな古い権威にすがっているだけでは、どこまでも時代から取り残されてゆくだけだ。それに対し、芭蕉は「俳諧ハ日々新也あらたなり」と新味の重要性を説き、この『奥の細道』の旅を終えた頃から不易流行説を説いたという。

 

「春」は春。

二表

十九句目

    はるをのこせる玄仍げんじょうはこ
 長閑のどかさやしらら難波なにはかひづくし   北枝ほくし

 (長閑のどかさやしらら難波なにはかひづくしはるをのこせる玄仍げんじょうはこ

 

評語

長閑のどかさやしらゝ難波なにはの貝多し   枝
「貝づくし」と直る。

 

 「しらら」は紀伊田辺の白良浜しららはまのことで、長閑さの知られる白良浜と掛詞になっている。「玄仍の箱」のいかにも古めかしい感じ(匂い)に答えるように、あえて、このように古風に作ったのだろう。そこまで言うのなら、「貝多し」では散文的で古風を損なう。「貝づくし」の方がやはりいいだろう。
 句の中に「や」という切れ字が入っているが、これなどは切れ字が入っていても切れてない句のよい例だろう。付け句では普通は切れ字は避けるのだが、切れてない切れ字は切字ではない。「長閑さで知られる白良浜、難波江の貝づくし」ではただ「貝づくし」を提示しただけで、それが何なのか、どんな情がこめられているのかが伝わらず、中途で途切れた感じがする。意味的に一句完結しないため、この一句を切り離しても発句にはならない。

 

「長閑」は春。「しらら難波」は名所。打越うちこしにも「奈良」という名所があり、式目上はまずいのだが、このあたりも句が良ければあまりこだわらないのが芭蕉のさばきだ。「貝」は水辺の用。

二十句目

    長閑のどかさやしらら難波なにはかひづくし
 ぎん小鍋こなべにいだす芹焼せりやき   曾良そら

 (長閑のどかさやしらら難波なにはかひづくしぎん小鍋こなべにいだす芹焼せりやき

 

 この句に関しては『山中三吟評語』にコメントはない。前句の「貝づくし」を料理の貝づくしに取り成した句。銀の小鍋で芹と一緒に貝を蒸し煮すれば、芹の香りが貝の生臭さを消して、香ばしくなる。和製のハーブ蒸しというところか。銀の小鍋というのもまた粋だ。
 曾良の句はここで最後になり、この後は芭蕉と北枝の両吟になる。健康状態のすぐれない曾良が、途中で退席したものと思われる。

 

「芹」は春。春はこれで四句目だが、連続して五句までは許される。「花」から二句しか隔たっていないが、この場合の芹は食材であり、野に生えている芹ではないので、植物うえものにはならない。

二十一句目

    ぎん小鍋こなべにいだす芹焼せりやき
 まくらにしとねのほこり打払うちはらひ   芭蕉ばせを

 (まくらにしとねのほこり打払うちはらぎん小鍋こなべにいだす芹焼せりやき

 

評語

   手枕におもふ事なき身なりけり   翁
   手まくらに軒の玉水詠たまみづながわび   同
   てまくら移りよし。なんぢも案ずべしとありけるゆへ
   手枕もよだれつたふてめざめぬる   枝
   てまくらに竹ふきわたる夕間暮ゆふまぐれ   同
手まくらにしとねのほこり打払うちはらひ   翁
ときはまりはべる。

 

 芹と一緒に煮ているのはここでは貝ではなく、おそらく棒ダラなどの乾物を芹と一緒に煮て戻しているのだろう。長時間煮込む場合、火を使う以上その場を離れるわけにはいかないが、火が順調なら特にやることもなく手持ち無沙汰で、囲炉裏端いろりばたに寝そべり手枕というところだろう。「付け合い」のような古典に出典を持つ緊密なつながりはないけど、そこから普通に連想できる言葉を付けることを、蕉門では「移り」という。『去来抄』では

    赤人あかひとの名はつかれたり初霞はつがすみ
 鳥もさえず合点がてんなるべし     去来きょらい

の例が挙げられているが、ここでは「付」に「合点」という俳諧用語のつながりが「移り」の例とされている。もっとも、この場合まったく出典がないわけではない。『論語』述而篇に「疎食そしくらヒ水ヲ飲ミ、肱ヲ曲ゲテ之ヲ枕トス」とある。このあたりが軽みの風体と違うところだろう。
 芭蕉の初案と思われる

 手枕におもふ事なき身なりけり

はそのものずばりで、鍋を煮込む間の手持ち無沙汰な様子がそのまま描かれている。これでは普通すぎて面白くない。

 手まくらに軒の玉水詠たまみづながわび

は軒端の雨の景色を描いてみたもので、近代連句だとこのようなものが好まれそうだが、蕉門の句としては姿はあるが面白味が少ない。北枝と二人きりになったと言うこともあって、個人指導の意味もあり、北枝に「手枕」の移りでどう作るか試したようだ。その句が、

 手枕もよだれつたふてめざめぬる   北枝
 てまくらに竹ふきわたる夕間暮ゆふまぐれ     同

だった。前者は居眠りして涎たらして目覚めるというもので、面白いといえば面白いが、あまり風流ではない。後者は手枕しながら火吹き竹で火加減を調節している様で、これはなかなか風情があるが、本来の退屈な感じを付けた移りとはやや離れる。
 結局芭蕉は座布団しとねのほこりを打ち払う仕草に退屈な感じを表現して治定ちじょうした。

 

無季。

二十二句目

    まくらにしとねのほこり打払うちはら
 うつくしかれとのぞ覆面ふくめん   北枝ほくし

 (まくらにしとねのほこり打払うちはらひうつくしかれとのぞ覆面ふくめん

 

 この句にも『山中三吟評語』のコメントはない。尾形仂は『歌仙の世界』のなかで、「当時の女性は、人に顔を見られないように、外出の際は覆面をして歩きました」と言い、この句の覆面を女性の覆面としているが、当時は遊郭などに通う男は、身分を隠すために覆面などを着用する場合があったから、覆面をした男が遊郭で、隣の部屋にいるか廊下を通る遊女の姿を、「美しかれ」と垣間見る、そういう句としたほうがいいだろう。

 

無季。恋。「覆面」は衣裳。

二十三句目

    うつくしかれとのぞ覆面ふくめん
 つぎ小袖薫こそでたきものうりの古風也こふうなり   芭蕉ばせを

 (つぎ小袖薫こそでたきものうりの古風也こふうなりうつくしかれとのぞ覆面ふくめん

 

評語

つぎ小袖薫こそでたきものうりの古風なり   翁
この句に次四五句つきて、しとねに小袖気味よからずながら直しがたしとて、其儘そのままにおきたまふ。

 

 薫物たきもの売りは香具こうぐ若衆わかしゅうともよばれ、寺などに香料を売りに来る男のことだった。たいていは振袖を着て編み笠で顔を隠していたという。寺というと、修行のために女を遠ざけているため、やはり衆道しゅどうの盛んなところで、売っているのは香料だけではなかったようだ。「つぎ小袖」はわかりにくい言葉だが、小袖に袖を継ぎ足して振袖っぽく見せているということだろうか。
 芭蕉の時代は、実用的な小袖から、華美な小袖へ、そして実用を無視してもっと派手な振袖へと、流行がうつろいでゆく時代だった。「古風」というのはそれほど古いわけではなく、一時代前のという程度の意味だろう。小袖から振袖へと香具こうぐ若衆わかしゅうのファッションが移り変わってゆく過程で、あるいはつぎ小袖の時代があったのかもしれない。
 前句の「美しかれ」を女ではなく若衆に取り成したところに、この句の面白さがあるが、やはりここで芭蕉ホモ説を思い出さずにはいられないだろう。ちょっと古風なつぎ小袖の薫物たきもの売りに、ついついお坊さんも覆面の内を覗きこむ。
 『山中三吟評語』では、この後四五句付けた二十七句目か八句目くらいになって小袖の打越にしとねがあるのが気になったようだ。褥は衣裳ではないにせよ、布製品で、褥、覆面、小袖と三句続いたのが気になったのだろう。

 

無季。「薫物たきもの売り」は恋。人倫。「小袖」は衣裳。

二十四句目

    つぎ小袖薫こそでたきものうりの古風也こふうなり
 非蔵人ひくらうどなるひとのきくはた   芭蕉ばせを

 (つぎ小袖薫こそでたきものうりの古風也こふうなり非蔵人ひくらうどなるひとのきくはた

 

評語

  非蔵人ひくらうどなるひとのきくはた   同
我、この句は三句のわたりゆヘ、むかへて附玉つけたまふにやとまうしければ、うなづき玉ふ。

 

 非蔵人ひくろうどというと、禁中に出入りできる貴族の中では一番下の部類で、蔵人見習いみたいな微妙な立場だが、昔から結構風流人が多い。『古今著聞集』巻十九には順徳院のときのこととして、

 「内裏にて花合ありけり、人々めんめんに風流をほどこして花たてまつりけるに、非蔵人孝時、大なる桜の枝を両参人してかかせて、南庭の池のかたに ほりたて たりけり。」

とある。こういう華道の達人なら、さぞかし立派な菊の畠を持っているのだろう。
 「むかへて附玉つけたまふ」というのは、中世連歌でいう「相対付け」のことで、三句同じ趣向が続くこと(三句の渡り)を避けるために、大きく展開を図りたいときに用いられる。

    鳥の声する春のふる畑
 うち返す小田には人のむらがりて   忍誓にんぜい

のように、畑に田といった相反する言葉を元に付ける方法で、新たに作られた田には人がいっぱいいるが、古い畑は今は鳥ばかりというふうにつながる。この場合は、「薫物売り」に「非蔵人」を付ることで、対立させるというよりは、あくまで奇妙な組み合わせということで展開している。
 この場合は薫物売りの古風は、それが同じ古風な菊畠を持つ非蔵人の好むところでもあると付いていて、菊というのも何か意味ありげだ。恋が二句続いたので、恋が三句続くのを避け、季節の句に転じるために、あえてこうした古い物付け的な手法を使ったのだろう。
 「相対付け」とよく似たものに「違え付け」というのがある。

    向ひの里に人や待つらむ
 我はまづ山にて聞つほととぎす

のように、向かいの里ではホトトギスを待っているが、山ではすでに鳴いていると、あくまで意味の上で相反するように付ける心付け的発想なのが違う。

 

「菊」は秋。草類。「非蔵人」「ひと」は人倫。

二十五句目

    非蔵人ひくらうどなるひとのきくはた
 しぎふたつだいにのせてもさびしさよ   北枝ほくし

 (しぎふたつだいにのせてもさびしさよ非蔵人ひくらうどなるひとのきくはた

 

評語

しぎふたつ台にのせてもさびしさよ   枝
はこびよろしと称し給ふ。

 

 「菊畠」から九月九日の菊の節句、重陽ちょうよう節をイメージした移りの句といえよう。その展開の良さを、芭蕉も「はこびよろし」と褒めたようだ。「台に載せた鴫は重陽のご馳走にと献上するためのものだろう。根が風流な非蔵人からすれば、二羽の無残な鳥の死骸に心痛めながらも、これも仕事のうちというところなのだろう。鴫といえば、有名な三夕さんせきの歌の一つ、

 心なき身にもあはれは知られけり
    鴫立つ沢の秋の夕暮
                 西行法師

の歌が思い浮かぶ。台に載せられた鴫にも哀れは知られけり、というところか。

 

「鴫」は秋。まだ料理にはなっていないが、生きていないので「生類」ともいえず、鳥類になるかどうかは微妙なところだ。

二十六句目

    しぎふたつだいにのせてもさびしさよ
 あはれにつく三日月みかづきわき   北枝ほくし

 (しぎふたつだいにのせてもさびしさよあはれにつく三日月みかづきわき

 

評語

  あはれに作る三日月の脇   同
かくなる句もあるべしとぞ。

 

 これは「台」を「題」に取り成したのだろう。「鴫二つ」という題で発句を詠んだが、それがいかにも淋しげで、それに付けた脇も名月ではなく、やせ細った三日月を哀れに付けてみたという、やや楽屋落ちの感のある句だ。あまりに意表をついたというか、飛び道具という感じの付けで、これには芭蕉も苦笑気味に、「かくなる句もあるべしとぞ」と言ったのだろう。

 

「三日月」は秋。夜分。天象てんしょう

二十七句目

    あはれにつく三日月みかづきわき
 初発心はつほっしんくさのまくらに旅寝たびねして   芭蕉ばせを

 (初発心はつほっしんくさのまくらに旅寝たびねしてあはれにつく三日月みかづきわき

 

評語

初発心草のまくらに旅寝して   翁
かゝる句は巻ごとにあるものなりと笑ひ玉ふ。

 

 「三日月の脇」のインパクトに押されたのか。他の意味に取りなそうにも「脇」をどう処理するかが難しく、結局芭蕉としてはいかにもベタな題材で遣り句をするしかなかったようだ。仏教への信心から一念発起して修行僧となり、旅に出て、たまたまどこぞの俳諧興行に招かれたりして、三日月の脇を世の無常を感じたかのようにいかにも哀れに作った、というふうに付く。芭蕉も「かゝる句は巻ごとにあるものなり」と自嘲気味。

 

無季。「初発心」は釈教。「草枕」「旅寝」は羇旅。

二十八句目

    初発心はつほっしんくさのまくらに旅寝たびねして
 小畑おばたもちかし伊勢いせ神風かみかぜ   芭蕉ばせを

 (初発心はつほっしんくさのまくらに旅寝たびねして小畑おばたもちかし伊勢いせ神風かみかぜ

 

 これも、『山中三吟評語』にコメントはない。『西行物語』によれば、西行法師は二十五の時に世の無常を感じて出家した後、その年は西山に庵を構えていたが、次の年には吉野熊野を旅し、そのあと一度都に戻り、伊勢へと向かう。その途中、有名な

 

   世をのがれて伊勢のかたへまかりけるに、
   鈴鹿山すずかやまにて

 鈴鹿山憂き世をよそに振り捨てて
    いかになゆくわが身なるらむ

の歌を詠み、伊勢では、

 深くりて神路かむぢの奥をたづぬれば
    またうへもなき嶺の松風

の歌を詠む。
 今でこそ明治の神仏分離令で、仏教と神道ははっきりと別のものとされているが、かつては神道も仏教もその根本にあるものは同じであり、仏教が日本という地で特殊な形で現れたものが神道だという本地垂迹ほんちすいじゃくの考え方が一般的だった。特に、西行の時代は神宮寺が併設され、伊勢神宮は仏教の聖地でもあった。後には伊勢に唯一神道が起り、神道の独自色を強めていったが、この唯一神道も本地垂迹の考え方を転倒したもので、神道が根本にあり、そのインドでの特殊な現れ方が仏教だとするもので、仏教を排除するものではなかった。
 そのため、芭蕉も愛読したといわれている『撰集抄』には、まず冒頭から僧賀上人の伊勢で発心する話が描かれている。僧賀上人は天台山根本中堂で千夜籠って祈りを捧げたが、悟りを得ることができず、あるとき伊勢神宮に詣でたとき、夢に「道心おこさむとおもはば、此身を身とな思ひそ」とお告げがあり、そこで着物を皆乞食にやり、裸で帰ってきたという。さすがの芭蕉もここまではできないと思ったのか、

 裸にはまだ衣更着きさらぎの嵐哉   芭蕉

の句を詠んでいる。そのほかにも、伊勢山中で往生した尼の話や、伊勢という女房の呼んだ「おきつなみ あれのみまさる 宮のうち 年へてすみし 伊勢のあま人も 舟ながしたる ここちして‥‥略‥‥」の歌に感動して発心した国行の三位の話なども収められている。
 本説というほどはっきりとどの物語という特定はないが、こうした発心の物語を面影とした句だろう。伊勢そのものではベタだから、あえて伊勢の近くの小畑(今の小俣)の辺りでも既に伊勢の神風の香りがするという句にしたか。

 

無季。「神風」は神祇。「伊勢」は名所だが、その近くの「小畑」はこれといった名所ではなく、この句はあくまで「伊勢国小畑」の句なので名所の句とは言いがたい。

二十九句目

    小畑おばたもちかし伊勢いせ神風かみかぜ
 疱瘡ほうさう桑名日永くはなひながもはやりすぎ   北枝ほくし

 (疱瘡ほうさう桑名日永くはなひながもはやりすぎ小畑おばたもちかし伊勢いせ神風かみかぜ

 

評語

疱瘡ほうさう桑名日永くはなひながもはやりすぎ   枝
対などはかくありたしと称したまふ。

 

 「疱瘡」は天然痘のことで、かつては恐ろしい疫病で、これが流行るとばたばたと人が死んでいったし、滋養強壮を図り、体力を回復させる以外にこれといって治療法もなく、そのため神仏だけが頼りだった。桑名・日永はともに三重県の地名で、このあたりを恐怖のどん底に落とした天然痘の流行もようやく去ろうとしているのを、伊勢の方から吹いてきた神風のおかげだとする。なかなかうまい展開だ。芭蕉も「対などはかくありたし」と褒めている。
 「対」というのは中世連歌のちがえ付けのことで、相対付けのような相反する言葉を頼りにつけるのではなく、意味の上で相反する方向に展開する付け方をいう。ここでも神風に疱瘡の流行が対比されているが、一見してわかる正反対な言葉で付けるのではなく、意味的に違えて付けている。

 

無季。「桑名」は名所。

三十句目

    疱瘡ほうさう桑名日永くはなひながもはやりすぎ
 あめはれくもる枇杷びはつはるなり   北枝

 (疱瘡ほうさう桑名日永くはなひながもはやりすぎあめはれくもる枇杷びはつはるなり

 

評語

  ひと雨ごとに枇杷びはつはるなり   同
   「雨はれくもる」と直る。

 

 枇杷の葉にはアミグダリンが含まれていて、今でも心臓病や糖尿病などの成人病に効果があるといわれている。昔から枇杷の葉は漢方薬として用いられていて、滋養強壮に効果があるとされていた。疱瘡(天然痘)が流行るとなれば、藁にもすがるような気持ちで、枇杷の葉を煎じて飲んだりしたのだろう。「つはる」というのは植物が次々と芽を吹くことで、冬の間に大流行した天然痘も、春になり枇杷が新芽を吹く頃になると、人々もそれの恩恵にあずかって天然痘の流行も収まっていったのだろう。
 初案は「一雨ごとに」とあり、まさに春の雨は一雨ごとに暖かくなるというが、問題はここから四句隔てて花の定座があり、今春の句を出しては困る場面で、春を暗示させるような言葉は控えなくてはならない。「雨はれくもる」はそうした意味で工夫された表現で、かえってめまぐるしく天気が変わり、時が経過していった感じがよく表されて、「姿」のある表現となった。「枇杷」は夏の季題でもあり、みんなが枇杷の葉のお世話になったことをあくまで匂わせる程度にして、梅雨時に枇杷の実の熟す(この場合も「つはる」という)夏の句へと転じることになる。

 

「枇杷」は夏。木類。「雨」は降物。

二裏

三十一句目

    あめはれくもる枇杷びはつはるなり
 ほそながき仙女せんにょ姿すがたたをやかに   芭蕉ばせを

 (ほそながき仙女せんにょ姿すがたたをやかにあめはれくもる枇杷びはつはるなり

 

評語

細ながき仙女の姿たをやかに   翁
我感心しければ、翁も微笑し給ふ。

 

 仙女は女仙人だが、仙人というのは道教の神々でもあり、仙女といえば西王母せいおうぼや王母娘娘ニャンニャンなどが有名だし、七夕の織姫も仙女だ。しかし、日本では羽衣を着た天女とのイメージが強く、インド起源の吉祥天女や弁財天女なども一緒くたになったイメージがある。そうしたステレオタイプ的なイメージだと、仙女というのは羽衣を着て雲に乗って琵琶を弾いているイメージだ。ここでも「くもる」「枇杷→琵琶」からの連想で、仙女の登場となったのだろう。
 「細長き」は、文字通りだと痩せてて背の高い、すらっとした体型を表すようだが、「細長」という王朝時代の姫君の着ていた衣服も連想させる。「たおやか」は糸がたなびくような、なよなよしたという意味。もっとも、痩せたスリムな女性が好まれるのは、ある意味では飽食の時代の発想で、60年代のツイギー以降のことだろう。昔は仙女というとふくよかな中年女性に描かれることが多かった。痩せた仙女はやつれた姿で、鶴の女房のようなものかもしれない。それでは面白くない、若い女性のイメージの方がいいと思うかもしれないが、案外このやつれた熟女というのが芭蕉のストライクゾーンだったりする。
 普通に読み下すと仙女のたおやかな姿の背後にめまぐるしく天候の変わった後に枇杷が実をならせる景色が付いている。仙女に桃なら普通だが、枇杷というところが新しい。ただ、何の言われもなく枇杷を登場させても特にこれといった意味はない。枇杷に枇杷の面影があり、そこに雲があることによって仙女と枇杷の間に縁が生まれ、きっちりと付くことになる。こうした付け方は後の言葉で言えば、「くもる」「枇杷」という言葉の「匂い」ということになるのだろう。北枝もこの付け方に感心し、芭蕉もにっこり笑ったという。こうした経験を繰り返しながら、「匂い付け」の手法は完成されていったのであろう。
 これを「恋」の句だとする人も多いが、表六句と名残六句では恋や述懐などの重いテーマを嫌うもので、それに仙女は観音などと同様信仰の対象であり、いわゆる世俗的な恋の対象ではない。むしろお目出度いものということで、「賀」の句と見たほうがいい。それならば、名残の裏にふさわしい句となる。

 

 

無季。「仙女」は神仙であり、人間ではないので人倫とはいえない。また、道教の神様なので、神祇とも釈教ともいえない。強いて言えば賀であろう。

三十二句目

    ほそながき仙女せんにょ姿すがたたをやかに
 あかねをしぼるみづのしらなみ   芭蕉ばせを

 (ほそながき仙女せんにょ姿すがたたをやかにあかねをしぼるみづのしらなみ

 

 『山中三吟評語』には、コメントはない。あかねをしぼるというのは、茜の絞り染めのことだろう。茜の根は橙色をしていて、それを煮詰めると夕焼け空のような黄色身のかかった赤い煎汁せんじゅうが得られる。これを椿などのアルミを含む灰汁あくでもって発色させ固着させるのだが、その際布を折り畳んで縛っておくと、幾何学模様の濃淡が得られる。これが絞り染めと呼ばれている。茜色をきれいに染め上げるには、何度も染料に浸してはきれいな水で洗い流す作業を繰り返さなくてはならない。そのため、こうした作業は清流などで行われたのだろう。
 西王母にしても織姫にしても、仙女は機織の神様なので、仙女が織りあがった織物を茜に染めていてもおかしくはない。仙女が機を織るではベタだから、染物の情景にしたのだろう。
 こうした仙女の句から、想像力豊かに自分なりの仙女の物語を描くのも俳諧の楽しみの一つではある。ただ、研究者は、自分がいかに豊かな感性を持っているかをアピールしようとして、ともすると妄想合戦になってしまうこともあるので、気をつけよう。

 

無季。「水」「白波」は水辺。

三十三句目

    あかねをしぼるみづのしらなみ
 仲綱なかつな宇治うぢ網代あじろとうちながめ   北枝ほくし

 (仲綱なかつな宇治うぢ網代あじろとうちながめあかねをしぼるみづのしらなみ

 

評語

仲綱なかつなが宇治の網代あじろとうちながめ   枝
この句も、一巻のかざりなりと笑ひたまふ。

 

 これは北枝の技ありの一句だ。「あかね」を平家の緋色の鎧着に取り成し、宇治川の合戦で平家六百余騎が流された古事による本説付けで、仲綱はその時の源氏の武将の名だ。源平合戦というと平家の赤旗、源氏の白旗は有名で、今日の紅白戦だとかいうのもここからきている。平家の軍勢が流されているのを、網代にかかった魚であるかのように中綱が打ち眺め、平家の軍は茜の鎧着や旗を絞っている。見事に付いている。芭蕉も「一巻のかざりなり」と笑って喜んだようだ。

 

無季。「宇治」は名所。「網代」は水辺。

三十四句目

    仲綱なかつな宇治うぢ網代あじろとうちなが
 てら使つかひをたてる口上こうじゃう   北枝ほくし

 (仲綱なかつな宇治うぢ網代あじろとうちながてら使つかひをたてる口上こうじゃう

 

 『山中三吟評語』にコメントはない。本説は三句にまたがることはできないので、ここでは『平家物語』を離れなくてはならない。ここはあくまで「仲綱なかつなで名高い宇治の網代あじろ」と打ち眺めて、それを寺に使いを送る際の口上(挨拶)としたと付く。やり句で、特に意味はなさそうだ。

 

無季。「寺」は一応釈教だが、内容的に釈教の意味はない。

三十五句目

    てら使つかひをたてる口上こうじゃう
 かねついてあそばんはなちりかゝる   芭蕉ばせを

 (かねついてあそばんはなちりかゝるてら使つかひをたてる口上こうじゃう

 

評語

かねついてあそばん花のちりかゝる   翁
「ちらばちれ」と案じ侍れど風流なしとぞ。

 

 「鐘を衝いて遊びましょう、花は散りかかっています」という口上(挨拶)を、寺に送ったと付く。鐘は明け方の鐘だろうか。電気のなかった時代の昔の花見は昼に行われるのが普通で、夜になると真っ暗で桜は見えなかった。花は見えなくてもその香りだけで夜を明かすのも風流ではあるが、当時は昼間っから酒を飲む余裕があった。朝の鐘を衝いたら、今日は仕事は休み、一日酒を酌み交わしながら遊びましょう、急がないと花は散ってしまいます、とお寺の坊さんに手紙を書いたのであろう。
 『山中三吟評語』によると、「鐘ついてあそばん花の散らば散れ」という案もあったようだが、意図はよくわからない。花の散らないうちに、遊ぶべきときに遊ぶというところに風流があるのであり、「散らば散れ」というのは短い命に潔く散ってみせようという言葉で、相手がお坊さんだからこういう挨拶もあるかと思ったのだろうか。
 何でもないようでも、これぞ風雅の心だという句だ。人も動物であり、生きるための生存競争は免れない。しかし、あまり生きることに一生懸命だと、結局は生存競争を過酷な修羅場に変えてしまう。遊ぶということはそんな生存競争の軍縮だ。競争はどちらか一方だけやめると、やめたほうが敗者になってしまうから、一斉のせいで同時にやめなくてはならない。それができるのは遊びの力だ。風雅の心とは遊びの心であり、ともに遊ぶことによって過酷な生存競争を和らげ、平和をもたらすことができる。
 幕末に吉田松陰は上野で花見をする人を見て、こんな時節に何を愚かなことをと蔑んで見ていたという。その松陰が韓国中国はもとよりオーストラリアまで掠め取れと説いた侵略主義者であったことは偶然ではあるまい。国を守るということは、花見をする人が平和に花見が続けられるようにすることであって、花見をする人のケツを叩いて戦争へと駆り立てることではない。人生で本当に何が大切かがわかってないものほど、額にしわを寄せて、がむしゃらにただ勝てばいいと思い込むものだ。せっかくここに生まれてきて人生という名の花が咲いているのだから、花の下で俳諧という言葉のキャッチボールでも楽しもうではないか。敵味方なく、勝ち負けを競うでもない。ただ言葉というボールのパス回しだけで十分楽しいではないか。

 

「花」は春。植物うえもの。「鐘」は釈教だが、釈教の意味はない。

挙句

    かねついてあそばんはなちりかゝる
 酔狂人すゐきゃうにん弥生やよひくれゆく   芭蕉ばせを

 (かねついてあそばんはなちりかゝる酔狂人すゐきゃうにん弥生やよひくれゆく

 

評語

  酔狂人すゐきゃうにん弥生やよひくれゆく   同
その人の風情ふぜいをのべたるなり、されど挙句あげくは心得あるべしとしめし玉ふ。

 

 さて、挙句あげくだが、その前の花の句が風雅の精神をよく表しているだけに、上げ句は軽くさっと流した方がいいだろう。付け方としては、前句を「あそばん」で切って、「花の散るかかる酔狂人と」とつながり、「散る花」に「弥生暮れゆく」と付く。「酔狂人」は北枝と曾良のことだろう。「其人の風情をのべたるなり」というのはそういう意味だろう。こうしてここで三人そろい、楽しい俳諧興行のひとときを過ごし、ともに人生という短い春の行くのを惜しむことができて幸せです、と挨拶して、この一巻は終わる。この挨拶の心こそ、挙句の心得といっていいだろう。形だけ目出度く締めくくるのではなく、あくまで連衆に対して心をこめた挨拶をするところが気持ちいい。

 

「弥生」は春。「酔狂人」は人倫。