宗祇独吟何人百韻の世界

ー宗祇法師の遺言、遺誠独吟百韻ー


 『宗祇独吟何人百韻』は『遺誠独吟百韻』ともいう。

 この独吟百韻は明応八年(一四九九年)三月二十日頃から作り始めたとされている。それから四ヶ月かけてじっくり作ったらしい。このとき宗祇法師は七十九歳(数え)、この三年後の文亀二年(一五〇二年)九月に箱根湯本で世を去ることとなる。最晩年の作と言っていいだろう。それだけに宗祇法師の遺言のような意味もあったとされている。

 『連歌俳諧集』(日本古典文学全集、金子金次郎、暉峻康隆、中村俊定注解、1974、小学館)を参考にして読んでゆくことにするが、ここには、宗牧註(古注一)と周桂講釈(古注二)の二つの注が添えられている。

 宗牧は宗長の弟子で、宗祇の又弟子になる。生まれた年は不明で一五四四年没。周桂は宗碩の弟子で、やはり宗祇の又弟子になる。こちらは一四七〇年生まれで一五四四年没。この二人はほぼ同世代と思われる。

 その周桂の註の方には、「此百韻は、祇公七十九歳三月より同七月に令終(をえしむ)といへり。門弟達の遺誡の為なれば、首尾共ニ安々とつづけられたる也。」とある。

 独吟は本来の連歌としては特殊なものだ。本来は大勢の連衆を集め、競って付けてゆくもので、「出勝ち」ともいう。連歌師が司会進行を勤め、主筆がそれを書きとめ、連衆が争って句を付ける姿は後の寄席の大喜利にも近いし、その原型ともいえるかもしれない。もちろん優秀者には賞品も出る。

 これに対し、宗祇の時代になると少数の連歌師が順番に付けてゆく、両吟だとか三吟だとかいうスタイルができてくる。これは師匠等による模範演技に近いかもしれない。『水無瀬三吟』『湯山三吟』などがそれだ。

 独吟は本来は連歌を詠む練習などで行われていたものだろう。それがこの『宗祇独吟何人百韻』に至って、弟子達への遺訓として一つの頂点となる作品を得たのではないかと思われる。

宗祇独吟何人百韻

     明応八年三月〔1499〕

 

〔初表〕

 限りさへ似たる花なき桜哉     宗祇

   静かに暮るる春風の庭

 ほの霞む軒端の峰に月出でて

   思ひもわかぬかりふしの空

 こし方をいづくと夢の帰るらん

   行く人見えぬ野辺の杳けさ

 霜迷ふ道は幽に顕れて

   枯るるもしるき草むらの陰

 

〔初裏〕

 鳴く虫のしたふ秋など急ぐらん

   そのまま烈し野分だつ声

 目にかかる雲もなきまで月澄みて

   清見が関戸浪ぞ明け行く

 いつ来てか住田河原に又も寝む

   はなればつらし友とする人

 契りきやあらぬ野山の花の陰

   世を遁れても春は睦まじ

 身を隠す庵は霞を便にて

   消えむ煙の行衛をぞ待つ

 藻塩汲む袖さへ月を頼む夜に

   心なくてや秋を恨みむ

 かかるなよあだ言葉のつゆの暮れ

   誰をか問はむ哀れとも見じ

 

〔二表〕

 ちぎりてもえやはなべての草の原

   かへりこむをも知らぬ古郷

 いかにせし船出ぞ跡も雲の浪

   泪の海をわたる旅人

 唐土も天の下とやつらからん

   すめば長閑き日の本もなし

 桜咲く峰の柴屋に春暮れて

   薄く霞める山際の里

 月落ちて鳥の声々明くる夜に

   露名残なく起きや別れむ

 身にしめる風のみ袖の記念にて

   堪へ来し方のゆふべにぞ成る

 思ふなよ忘れんもこそ心なれ

   つらきにのみやならはさるべき

 

〔二裏〕

 道有るもかたへは残る蓬生に

   しる人を知る花のあはれさ

 折にあふ霞の袖も色々に

   帰らん空もわかぬ春の野

 鐘ぞ鳴るけふも空しく過ぎやせむ

   きけども法に遠き我が身よ

 齢のみ仏にちかくはや成りて

   むねならぬ月やみてるをも見む

 霧晴るる山に慰め物思ひ

   松をば秋の風も問はずや

 人はたが心の杉を尋ぬらん

   門ふる道のたえぬさへうし

 爪木こるかげも野寺は幽にて

   苔に幾重の霜の衣手

 

〔三表〕

 起き居つつ身を打ち侘ぶる冬の夜に

   月寒くなる有明の空

 蘆田鶴もうきふししるく音に立てて

   心ごころにさわぐ浪風

 山川も君による世をいつか見む

   危き国や民もくるしき

 植ゑしよりたのみを露に秋かけて

   かりほの小萩かつ散るも惜し

 衣擣つ夕べすぐすな雁の声

   むなしき月を恨みてやねん

 問はぬ夜の心やりつる雨晴れて

   身を知るにさへ人ぞ猶うき

 忘れねといひしをいかに聞きつらん

   風の便もかくやたゆべき

 

〔三裏〕

 花ははや散るさへ稀の暮れ毎に

   日ながきのみや古郷の春

 糸遊の有りなしを只我が世にて

   霞にかかる海士の釣舟

 詠めせん月なまたれそ浪の上

   只にや秋の夜を明石潟

 遠妻を恨みにたへず鹿鳴きて

   おもひの山に身をや尽くさん

 払ふなよいづくか塵の内ならぬ

   砌ばかりをいにしへの跡

 植ゑ置きし外は草木も野辺にして

   風は早苗を分くる沢水

 声をほに出でじもはかな飛ぶ蛍

   色に心は見えぬ物かは

 

〔名残表〕

 たが袖となせば霞にひかるらん

   春さへ悲しひとりこす山

 おのが世はかりの別れ路数たらで

   秋をかけむもいさや玉緒

 身のうさは年もふばかり長き夜に

   見えじ我にと月や行く覧

 よしさらば空も時雨よ袖の上

   たぐひだにある思ひならばや

 誰来てか嵐に堪へむ山の陰

   奥は雲ゐる岩のかけ道

 落ち初めし滝津瀬いづく吉野川

   はやくの事を泪にぞとふ

 物毎に老は心の跡もなし

   めで来し宿は浅茅生の月

 

〔名残裏〕

 野辺の露袖より置きや習ふらん

   山こそ行衛色かはる中

 つれもなき人に此の世を頼まめや

   しぬる薬ハ恋に得まほし

 蓮葉の上を契りの限りにて

   ちるや玉ゆら夕立の雨

 雲風も見はてぬ夢と覚むる夜に

   わが影なれや更くる灯

『宗祇独吟何人百韻』解説

   参考;『連歌俳諧集』(日本古典文学全集、金子金次郎、暉峻康隆、中村俊定注解、1974、小学館)

初表

宗祇独吟何人百韻、発句

 限りさへ似たる花なき桜哉     宗祇

 

 俳諧には特にこれといったタイトルがついてないのが多いので、発句の上五文字を取って「〇〇〇〇〇」の巻という風に呼ぶことが多いが、連歌では発句の賦し物をタイトルとする場合が多い。

 『詩経』の詩の六義の一つ「賦」が「賦す」という動詞で用いられる時には「捧ぐ」に近い意味になる。賦し物は「〇〇に捧ぐ」という意味になる。

 たとえば水無瀬三吟は『水無瀬三吟何人百韻』という。これは

 

 雪ながら山もと霞む夕べかな  宗祇

 

の発句の「山」をタイトルの「何」の所に当てはめると、「山人」になる。水無瀬三吟は山人に賦す百韻ということになる。

 同じように、『宗祇独吟何人百韻』の発句は、

 

 限りさへ似たる花なき桜哉   宗祇

 

で、「花人」に賦す百韻ということになる。

 発句の「似たる花なき」は跡形もなく散ってしまったという意味。『水無瀬三吟』三十九句目の、

 

   その面影に似たるだになし

 草木さへふるきみやこの恨みにて  宗祇

 

は、前句が「似た人はいない」という意味だったのに対し、「似たるだになし」のもう一つの意味の「跡形もない」という意味に取り成して付けている。

 宗牧注(古注一)にはこうある。

 

 「此発句種々申人侍。ただ落花を見立たる句也。万木の花は、散時も枝に残などして見ゆるを、桜は散時も枝に執心もなく颯と散を感じていへる也。さへの字に感を興したる心こもれり。」

 

 「限り」には臨終だとか最後という意味もあり、ここでは散る時という意味だろう。散る時には一斉に散り、あっという間に跡形もなくなる、その散り際の潔さを詠んだといえばわかりやすいが、もちろんそれだけの意味ではないと言う「種々申人」もいる。

 周桂もその一人だろう。周桂注(古注二)はやや長い。

 

 「此百韻は、祇公七十九歳三月より同七月に令終(をえしむ)といへり。門弟達の遺誡の為なれば、首尾共ニ安々とつづけられたる也。発句の心は、盛りの時はをきぬ、ちりがたまでも見所ある花也。或は枝にしぼみ付などしてはべる花もあるを、桜は色香をつくして、諸人もてあそびおはりて、何の執心もなくちりたる所を、弥(いよいよ)ほめたる花なるべし。さへの字に初中後の心こもるといへり、世間の盛衰をおもふべくこそ。老後の独吟なれば、桜の何のことはりもなきかぎりを、身の上にうらやましとなるべし。」

 

 「或は枝にしぼみ付などして」はツツジだろうか。韓国人がムクゲとともに好む花だと言う。最後まであきらめないしぶとさは日本人のメンタリティーとはやはり異なるのだろう。

 門人への遺誡の意味があったのなら、年老いて死期も近い自分を桜の花に喩えて、そこに自分もまた思い残す所なく死にたいものだ、という気持ちを込めたとも思える。そのための弟子に対する手本にもなるべき独吟を意図したとなれば、三ヶ月かけてじっくり詠まれたのも頷ける。

 また、「世間の盛衰をおもふべく」は、跡形もない桜に応仁の乱の後の荒廃した都を惜しむ気持ちを汲み取ってのことだろう。

 深読みを避ける宗牧とあえて深読みする周桂、それぞれのキャラクターが感じられる。

式目分析

季語:「桜」「花」で春、植物、木類。

宗祇独吟何人百韻、脇

   限りさへ似たる花なき桜哉

 静かに暮るる春風の庭      宗祇

 (限りさへ似たる花なき桜哉静かに暮るる春風の庭)

 

 宗牧注:いかにも悠々と春風の吹たる折節の落花を興じていへり。

 周桂注:花のしんしんとちる体也。落花に風をつくる事習ある事といへり。此脇句花をさそふ風にあらず。此外落花に風を付たる句、古(いにし)への名句いかほどもあるべし。心を付てみ侍べしとぞ申されし。

 

 宗牧は単純に春風に花が散ったと言う。周桂も基本的に散る花に春風という古典的な付け合いに寄ったものとしている。

 ただ、ここは花がすっかり落ちてしまったところになお春風が吹き、散る花の俤を残しているところが新しく、「静かに暮るる」にも花見の客も帰り、宴もなく静かだという意味が込められていると思う。それは昔からの友が一人また一人亡くなり孤独になってゆく老いの心境とも重なる。それを見落とすなら平凡な脇で終る。

式目分析

季語:「春風」で春。その他:「庭」は居所の用。

宗祇独吟何人百韻、第三

   静かに暮るる春風の庭

 ほの霞む軒端の峰に月出でて   宗祇

 (ほの霞む軒端の峰に月出でて静かに暮るる春風の庭)

 

 宗牧注:時節の体よく聞え侍り。此句柔和の体なるべし。

 周桂注:五ヶ月もで思惟せられたる独吟なれば、いかやうの名句も出来すべきを、末弟の鏡なれば、ただやすらかに付たる第三也。心は別に注すべき事もなし。

 

 独吟だから脇に夕暮れの景色を付けた時点で、月への展開は必然だったといえよう。「暮」に「月」、「庭」に「軒端」と四つ手に付け、発句の自らの老境の心情や門弟達への遺誡の意図から離れ、素直に付けている。

 

 ほの霞む軒端の峰に月出でて静かに暮るる春風の庭

 

と和歌の形にして詠めば、その完成度がわかる。

式目分析

季語:「霞」で春、聳物。その他:「軒端」は居所の体。「峰」は山類の体。「月」は夜分、光物。

宗祇独吟何人百韻、四句目

   ほの霞む軒端の峰に月出でて

 思ひもわかぬかりふしの空    宗祇

 (ほの霞む軒端の峰に月出でて思ひもわかぬかりふしの空)

 

 宗牧注:旅宿之体、方角も分別なき時分に、月のほのかに出たるにて東西を知たる也。

 周桂注:かりねに方角をしらぬ物也。月の出たるを見て、方角を知たる心也。わかぬといひて、分別したる所きとく也。師説を受べしとぞ。

 

 どちらも「思ひもわかぬ」を方角がわからないとして、月が出て方角がわかったとする。

 ただ、それではあまりに単純で深みがない。「思ひもわかぬ」は方角に限らず、特に応仁の乱以降の定まらない世であるならなおさら、この先どうなるかわからないという不安を読み取ってもいいと思う。

 暗くてどこへ行くとも知れぬ旅の空にほの霞む月が出ることで、はっきりと道を照らし出してくれるわけではないが、不安な旅の慰めくらいにはなる、そこまでは読みたいものだ。

式目分析

季語:なし。その他:羇旅。

宗祇独吟何人百韻、五句目

   思ひもわかぬかりふしの空

 こし方をいづくと夢の帰るらん  宗祇

 (こし方をいづくと夢の帰るらん思ひもわかぬかりふしの空)

 

 宗牧注:夢は来るかたも見えず、帰るかたもしらぬと也。

 周桂注:夢はきたる方もさるかたもしらぬと也。

 

 方角のわからない旅寝だから、来し方、つまり連歌の一般的なお約束に従えばこれは都を指すわけだが、都に帰りたいと魂だけが夢に都に向おうとするが、「思ひもわかぬ仮臥し」だから、どっちへ帰れば都に行けるのかもわからない。

 旅体は基本的に都を追われた旅人を本意とする。

式目分析

季語:なし。その他:羇旅。

宗祇独吟何人百韻、六句目

   こし方をいづくと夢の帰るらん

 行く人見えぬ野辺の杳(はる)けさ 宗祇

 (こし方をいづくと夢の帰るらん行く人見えぬ野辺の杳けさ)

 

 宗牧注:此句、諸人、行人を夢に見たると心得侍り。祇の作は、夢の覚たる端的は、行人も見えず、便もなき野宿の体なり。

 周桂注:此句、肖柏・宗長に談合ありし時、両人ともに夢人と意得られたり。ただ夢のさめたる当意也。夢はさめて、行人もなき心也。夢人とは見まじき也、と申されし時、柏・長手をうちて、寄特と申されしと也。

 

 「夢人(ゆめびと)」はweblio辞書の「三省堂大辞林」によれば、「夢に現れた人。夢で会う恋人。」

 前句を、夢に現れた都へと帰ってゆく人のこととし、「帰るらん」を疑問ではなく反語に取り成す。夢に現れた人は帰って行ったのだろうか、そんなことはない、目が覚めれば誰の姿もなく、ただ野辺だけがはるか彼方まで広がっている。「野辺の杳(はる)けさ」は武蔵野のイメージだろうか。

 この句は、どこか、

 

 この道やゆく人なしに秋の暮れ  芭蕉

 

の句を髣髴させる。そして、この句が、

 

 人声やこの道帰る秋の暮     芭蕉

 

の句と対になっていたことも。夢では帰る人の声が聞こえ、覚めれば行く人もない、芭蕉は宗祇のこの独吟の句を知っていたのだろうか。

 

 此秋は何で年よる雲に鳥     芭蕉

 

の句も、

 

   わが心誰にかたらん秋の空

 荻に夕風雲に雁がね       心敬

 

の秋の空に語るしかない孤独に対し、萩には夕風、雲には雁がねと友がいるのに、と付けたのに似ている。芭蕉もある程度連歌の知識があったか、それとも風流を極めると同じような発想になってくるのか。

式目分析

季語:なし。その他:羇旅。「人」は人倫。

宗祇独吟何人百韻、七句目

   行く人見えぬ野辺の杳けさ

 霜迷ふ道は幽に顕れて      宗祇

 (霜迷ふ道は幽に顕れて行く人見えぬ野辺の杳けさ)

 

 宗牧注:儀なし。

 周桂注:霜はをきまよひて、道はさすがみえながら、ふみ分て行人もなしと付たる也。

 

 霜がびっしりと降りるとあたり一面真っ白になって、どこに道があるのか一瞬わからなくなる。ただ、それも一瞬のことで、よく見れば道は幽かに現れている。

 行く人がいたならそこに足跡が残り、もっとはっきり道が見えただろうに、というところだろう。

 宗牧は「儀なし」というが、『水無瀬三吟』八句目の

 

   鳴く虫の心ともなく草枯れて

 垣根をとへばあらはなる道    肖柏

 

や『湯山三吟』の十二句目、

 

   故郷も残らずきゆる雪を見て

 世にこそ道はあらまほしけれ   宗祇

 

にも通じるものがある。やはり応仁の乱に象徴されるようなこの国の道の衰退を暗に風刺しているようにも思える。

式目分析

季語:「霜」で冬、その他:降物。

宗祇独吟何人百韻、八句目

   霜迷ふ道は幽に顕れて

 枯るるもしるき草むらの陰    宗祇

(霜迷ふ道は幽に顕れて枯るるもしるき草むらの陰)

 

 宗牧注:かすかにあらはれて枯る中に、何の草といふ事を知たると也。

 周桂注:あらはれてといふにつきて、霜にかれたる草も、なにの草ぞとしられたる心也。

 

 道が現れればその脇の草むらもそれとわかるようになる。

式目分析

季語:「枯るる」で冬。その他:「草むら」は植物、草類。

初裏

宗祇独吟何人百韻、九句目

   枯るるもしるき草むらの陰

 鳴く虫のしたふ秋など急ぐらん  宗祇

 (鳴く虫のしたふ秋など急ぐらん枯るるもしるき草むらの陰)

 

 宗牧注:秋に云掛たる心也。草むらの陰は、むしの鳴所也。枯る草、暮秋をいそぐやう也。

 周桂注:前句のかげ大事也。虫のなき所也。虫の秋をしたふ心、おもしろき句様成べし。

 

 「草むらの陰」に「鳴く虫」、「枯るる」に「など急ぐ」と付く。草が枯れる頃、虫も死んでゆく。秋の終わるのを待ってほしい気持ちを付ける。

 「秋など」ではなく、「秋、など急ぐ」で、秋は何で急ぐのだろうかという意味。

 『水無瀬三吟』七句目の、

 

   霜置く野原秋は暮れけり

 鳴く虫の心ともなく草枯れて   宗祇

 

の句を思わせる。

式目分析

季語:「秋」で秋。その他:「鳴く虫」も秋、虫類。

宗祇独吟何人百韻、十句目

   鳴く虫のしたふ秋など急ぐらん

 そのまま烈(はげ)し野分だつ声 宗祇

 (鳴く虫のしたふ秋など急ぐらんそのまま烈し野分だつ声)

 

 宗牧注:野分が秋をいそぐ体也。

 周桂注:野分を虫の悲しみあへず野分ニなる心也。秋のいそぐを野分になるにて付たる也。誠に秋をいそぐといはんに似あいたる歟。声といふ字、自然に虫におりあひて面白し。

 

 「風雲急」という言葉もある。野分の嵐は突然やって来る。前句の「秋が急いていってしまう」という意味から「秋の野分は何で急なんだ」という意味の読みかえる。

式目分析

季語:「野分」で秋。

宗祇独吟何人百韻、十一句目

   そのまま烈し野分だつ声

 目にかかる雲もなきまで月澄みて 宗祇

 (目にかかる雲もなきまで月澄みてそのまま烈し野分だつ声)

 

 宗牧注:一段雲の晴たる体也。野分の連歌をば、付るも一句にもつよく仕立たるをよしといへり。

 周桂注:野分の時分の体なるべし。

 

 台風一過で空はすっかり晴れ渡るが、風はまだ音を立てて吹いている。秋も三句目なのでここいらで月の欲しい所だった。

式目分析

季語:「月」で秋、夜分、光物。その他:「雲」は聳物。

宗祇独吟何人百韻、十二句目

   目にかかる雲もなきまで月澄みて

 清見が関戸浪ぞ明け行く     宗祇

 (目にかかる雲もなきまで月澄みて清見が関戸浪ぞ明け行く)

 

 宗牧注:彼関の眺望、まことに眼前の句也。清見に雲を読り。

 周桂注:彼所の眺望也。山もなく平々としたる所也。深(ふけ)てあくるといへる次第也。

 

 「清見に雲を読り」は「雲」と「清見が関」に本歌があることをいう。『連歌俳諧集』(日本古典文学全集)の金子金次郎注には、

 

 清見潟むら雲はるる夕風に

     関もる波をいづる月影

             藤原良経

 

を引いている。

 「お得区案内図」というサイトの「清見潟」の所には、

 

 あなしふくきよみがせきのかたければ

     波とともにて立ちかへるかな

             源俊頼

 さらぬだにかはらぬそでを清見潟

     しばしなかけそなみのせきもり

             源俊頼

 よもすがら富士の高嶺に雲きえて

     清見が関にすめる月かな

             藤原顕輔

 清見潟関にとまらで行く舟は

     あらしのさそふ木の葉なりけり

             藤原実房

 きよみがた浪地さやけき月を見て

     やがて心やせきをもるべき

             藤原俊成

 いづるよりてる月かげの清見潟

     空さへこほるなみのうへかな

             藤原定家

 清見潟せきもるなみにこととはむ

     我よりすぐるおもひありやと

             藤原定家

 

などの歌も記されている。

 清見潟の月が美しく、清見関は嵐で渡れなくなるところから波が関守になるという趣向が古くから繰り返されている。

 雲もなく月が澄めば、清見が関の波の関守も関を開けてくれる。

 清見が関は今の静岡市清水区の興津にあり、東海道五十三次の興津宿にある。南東が海に面しているので、海から月の昇るのが見える。

 今の薩埵峠の道は近世以降のもので、それ以前は波の打ち寄せる海岸を通る難所だったと言われている。それゆえ、波が高いと通れなくなり、そこから清見が関は波が関守だと言われたのだろう。

 なお、周桂は「山もなく平々としたる所也」というが、清見潟の北東には薩埵山があり、近世には薩埵峠の道が開かれる。背後の北西も低い山々が迫っていて「平々としたる所」ではない。

 コトバンクの「デジタル版 日本人名大辞典+Plusの解説」によると、周桂は「宗碩(そうせき)の門人。師とともに九州,中国,近畿地方をしばしば旅し,指導にあたる」とあるので、東の方の地理には詳しくなかったと思われる。

式目分析

季語:なし。その他:「清見が関戸」は名所、水辺の体。「浪」は水辺の用。

宗祇独吟何人百韻、十三句目

   清見が関戸浪ぞ明け行く

 いつ来てか住田河原に又も寝む 宗祇

 (いつ来てか住田河原に又も寝む清見が関戸浪ぞ明け行く)

 

 宗牧注:すみだ河原、駿河・武蔵両国の名所也。彼関の面白きを感じて、いつ来てか又ねんと也。

 周桂注:程ちかき名所也。又もねんにて清見が関のおもしろきをいへり。

 

 住田河原は清見寺の側を流れる波多打川の河原と思われる。興津川や庵原川とちがい、山の間の細い谷を流れる清流で、風情があったのだろう。これから清見が関を越えて吾妻へ行くが、また帰ってこれたらここで一泊したいものだと付く。

 すみだ川といえば武蔵と下総との境界にも有名な隅田川があり、次の句では武蔵の隅田川の方に取り成すことを念頭においていたと思われる。

式目分析

季語:なし。その他:羇旅。「住田河原」は名所、水辺の体。

宗祇独吟何人百韻、十四句目

   いつ来てか住田河原に又も寝む

 はなればつらし友とする人   宗祇

 (いつ来てか住田河原に又も寝むはなればつらし友とする人)

 

 宗牧注:是はむさしのすみだ河原にして付たる也。伊勢物語の心なり。

 周桂注:武蔵の角田川也。伊勢物語にあり。

 

 前句の駿河の住田川(波多打川)を東京の隅田川に取り成す。

 都鳥の歌でも有名な『伊勢物語』第九段の冒頭には、

 

 「昔、男ありけり。その男、身をえうなきものに思ひなして、京にはあらじ、東の方に住むべき国求めにとて行きけり。もとより友とする人、ひとりふたりしていきけり。」

 

とあり、やがて、

 

 「なほ行き行きて、武蔵の国と下つ総の国との中に、いと大きなる河あり。それをすみだ河といふ」

 

というところに辿り着き、

 

 名にし負はばいざこととはむ都鳥

     わが思ふ人はありやなしやと

 

という歌を詠むことになる。

 かつては隅田川の東、今で言う江東区、墨田区、江戸川区などは下総国だったが、江戸時代初期に江戸市街の拡大によって武蔵・下総の国境が今の位置に変更された。

式目分析

季語:なし。その他:恋。「友」「人」は人倫。

宗祇独吟何人百韻、十五句目

   はなればつらし友とする人

 契りきやあらぬ野山の花の陰  宗祇

 (いつ来てか住田河原に又も寝む契りきやあらぬ野山の花の陰)

 

 宗牧注:いづくの人ともしらぬ人に、花の下にて参会してむつまじきを、如此はちぎりきやとなり。さて離ればつらし、いかがせんと云心也。

 周桂注:あらぬは、しらぬ野山也。おもひかけぬ野山にてあひたる心也。契きやは、かくはちぎらざりしと也。一句の心は、方々の花に執心して、契きやといひかけたるなり。

 

 「や」は「は」に替る「や」で、「契りきはあらぬ野山の花の陰や」の倒置。

 花の下では老若男女いろいろな人が集まり、酒を酌み交わしたりする。鎌倉や南北朝期の連歌は、こうしたところに集まってくる人の中から、その場の興で始まったりした。これを花の下連歌という。コトバンクの「大辞林 第三版の解説」には、

 

 「鎌倉時代から南北朝時代にかけて行われた連歌の一体。花鎮はなしずめという宗教的な意味をもち、寺社のしだれ桜のもとで、貴賤を問わない市井の数寄者や遁世者により行われた。出し句により、大勢でにぎやかに付けてゆく興行形態をとった。」

 

とある。

 鎌倉末期の『連證集』にも、

 

 「命と申こと葉に、さやの中山と付て侍しハいかに。是は、中比の哥仙西行の哥に、年たけてまたこゆへしとおもひきやいのち成けりさやの中山、と侍を、今ハ新古今の作者の哥ハ、連哥の本哥にはとるへきよし、花の下に申侍間、この哥を本哥にて、

   命のうちにいつかとハまし  申句に、

   都にはさやの中山とをければ  と付侍し也。」

 

とある。これは稚児の問いに僧が答えるという問答形式になっている。

 

 稚児:「命」という言葉に、「さやの中山」と付けてるのはどーゆーことぅ?

 僧:これはね、平安時代の終わりから鎌倉時代のはじめにかけて活躍した和歌の仙人、西行法師の歌に、

 年たけて又こゆべきと思いきや

     命なりけり小夜のなかやま

というのがあって、今(鎌倉時代末期)では、「新古今和歌集」の作者の歌も、連歌の本歌として使っていいことになっていることを、身分関係なくに花の下に集る人たちが教えてくれたので、

 命のうちにいつかとはまし

という句に

 都にはさやの中山とをければ

と付けてみたんだよ。

 

といったところか。

 野山の花にも自然発生的に集まってくる人たちがいて、そこは若い男女の出会いの場所でもあった。日本を始めとして江南系の民族に広く存在していた「歌垣」の伝統によるものであろう。

 そんなところで出会い、不本意ながら契ってしまった人でも、別れるとなるとつらい。前句が「友」なので、一応友情の約束なのだが、隠れた恋句と見ても良いのではないかと思う。日本はGBLTには寛容だった。

 周桂注の「一句の心は、方々の花に執心して、契きやといひかけたるなり。」の「花」も比喩と見ても良いと思う。

式目分析

季語:「花」で春、植物、木類。その他:「野山」は山類の体

宗祇独吟何人百韻、十六句目

   契りきやあらぬ野山の花の陰

 世を遁れても春は睦まじ    宗祇

 (契りきやあらぬ野山の花の陰世を遁れても春は睦まじ)

 

 宗牧注:捨世の人は、花なども執心あるまじき也。されども、春は何となく花に対して落花飛葉の観念の便にもむつまじくて、世を捨る心には、如斯ちぎりやと思かへしていへる也。

 周桂注:遁世者の上ニハ春とも花ともしるまじきを、さすが又花に執心あれば、かくはちぎらざりしをと也。

 

 この句を恋にしてしまうと、二十一句目にまた恋が出てくるので、四句去りになってしまう。恋と恋は「応安新式」では五句去りになっている。相手は女ではなく花ということにしなくてはいけない。なお、「応安新式」では恋は「已上五句」としかなく、五句までであれば一句で捨ててもよいことになっている。

式目分析

季語:「春」で春。

宗祇独吟何人百韻、十七句目

   世を遁れても春は睦まじ

 身を隠す庵は霞を便にて    宗祇

 (身を隠す庵は霞を便にて世を遁れても春は睦まじ)

 

 宗牧注:隠士のさま也。

 周桂注:霞をたよりにしたる、哀なる体成べし。

 

 「世を遁れ」に「身を隠す」、「春」に「霞」と付く。山々の霞のみをたよりに春の訪れを知る。

式目分析

季語:「霞」で春、聳物。その他:「身」は人倫。「庵」は居所の体。

宗祇独吟何人百韻、十八句目

   身を隠す庵は霞を便にて

 消えむ煙の行衛をぞ待つ    宗祇

 (身を隠す庵は霞を便にて消えむ煙の行衛をぞ待つ)

 

 宗牧注:霞を便にて、きえん煙の名を待とつけられたる也。

 周桂注:かすみの庵などに世をいとはん人、きえん時をまつならでは、別の事あるべからず。

 

 「霞」に「煙」と聳物(そびきもの)を被せてくる。これによって、隠遁者はあの山の霞のように、自分が死んだ時も火葬にされ煙となり、あのようにたなびいてはやがて消えて行くことにしよう。世捨て人なら、何かを残すこともなく、ただ跡形もなく綺麗さっぱり消えて行くのみ。

式目分析

季語:なし。その他:「煙」は聳物。

宗祇独吟何人百韻、十九句目

   消えむ煙の行衛をぞ待つ

 藻塩汲む袖さへ月を頼む夜に  宗祇

 (藻塩汲む袖さへ月を頼む夜に消えむ煙の行衛をぞ待つ)

 

 宗牧注:もいほやく海士は、烟を立る事を業作(なりはひ)也。それさへ月をばたのむほどに、消ん煙の行衛を待と也。更行ば煙もあらじ塩竃のうらみなはてそ秋の夜の月 とよめる面影也。

 周桂注:もしほくむ物にとりては、けぶりが所作なるべし。されど月を愛して煙のきえんをまつと也。

 

 藻塩は藻の一種であるホンダワラを海水に浸し、それを焼くことによって作られた塩をいう。藻塩焼く煙は古来和歌に数多く詠まれている。宗牧注が引用しているのは、

 

 ふけゆかば煙もあらじしほがまの

     うらみなはてそ秋のよの月

             前大僧正慈円(新古今集)

 

の歌で、夜も更けてゆけば煙も止まるので恨まないでくれ秋の夜の月、というような意味。

 宗祇の句はこれを踏まえたもので、藻塩を焼く海士のような卑賤な身とはいえ、やはり月が出ると嬉しいので煙が消えて行くのを待っている、という意味になる。

式目分析

季語:「月」で秋、夜分、光物。その他:「夜」も夜分。「藻塩」は水辺の用。「袖」は衣裳。

宗祇独吟何人百韻、二十句目

   藻塩汲む袖さへ月を頼む夜に

 心なくてや秋を恨みむ     宗祇

 (藻塩汲む袖さへ月を頼む夜に心なくてや秋を恨みむ)

 

 宗牧注:藻塩くむ心なき海士だに月をば憑(たのむ)に、心なくて秋をうきものにうらみんやはと、我心を諌ていへる也。

 周桂注:無心なる海人さへ月をたのむに、心あらん人、秋の悲しみをうらみん事にあらず。

 

 月夜の風流は藻塩汲む海人でもわかるのに、何でこの私は心無くも秋を恨んでいるのだろうか、と違えて自戒の句として展開する。

 「無心」は今日では雑念の無いという良い意味で使われることが多いが、本来は「有心」に対して心無いという意味で用いられていた。

式目分析

季語:「秋」で秋。

宗祇独吟何人百韻、二十一句目

   心なくてや秋を恨みむ

 かかるなよあだ言葉のつゆの暮れ 宗祇

 (かかるなよあだ言葉のつゆの暮れ心なくてや秋を恨みむ)

 

 宗牧注:かやうにはありそと也。あだことのはに心もなく秋を恨る事を、思ひかへしていへる也。

 周桂注:人のあだなるにかかるなよ也。

 

 「かかるなよ」は咎めてには。かくあるなよ(そのようになるなよ)。「あだ言葉(ことのは)のつゆの暮れにかかるなよ」の倒置。その「かく」の内容が前句の「心なくてや秋を恨みむ(心無くて秋を恨みむや)」となる。

 偽りの約束の言葉に泪の露に暮れて、心無く秋を恨むなんてことにはなるなよ、という意味。あだ言葉(偽りの約束の言葉)は男の軽はずみな口説き文句で、それが果たされず泪する女の恋の句に転じる。

式目分析

季語:「露」で秋、降物。その他:恋。

宗祇独吟何人百韻、二十二句目

   かかるなよあだ言葉のつゆの暮れ

 誰をか問はむ哀れとも見じ   宗祇

 (かかるなよあだ言葉のつゆの暮れ誰をか問はむ哀れとも見じ)

 

 宗牧注:あだなる人の詞なれば、問むといひても誰をか問む。しかれば、こなたには、あはれとも見じといへる也。

 周桂注:とはんといふもあだ人なれば、誰をかとはん、我をばとふまじきにと也。我を哀とは見まじき也。其あだことのはにかかるなよと付たる也。

 

 前句の「あだ言の葉」を「問はむ(逢いに行くよ)」という言葉とし、ただ調子のいいだけのあいつの言うことだから、誰が来るもんですか、悲しくなんてない、と強がってみる。

 余談だが「調子いい」は業界言葉でひっくり返して「子いい調(C調)」と言う。C調言葉にはご用心あれ。

式目分析

季語:なし。その他:恋。「誰」は人倫。

二表

宗祇独吟何人百韻、二十三句目

   誰をか問はむ哀れとも見じ

 ちぎりてもえやはなべての草の原 宗祇

 (ちぎりてもえやはなべての草の原誰をか問はむ哀れとも見じ)

 

 宗牧注:うき身世にやがて消なば尋ても草の原をばとはじとや思ふ。花宴にあり。朧月夜の内侍督の歌の心也。心はちぎりても、なべて草の原のやうにもあはれをかけて君はとはじと也。又ちぎりてもなべての草の原にぞ問む、こなたを取分ては問給ハじと也。

 周桂注:草の原は、しるしのおほき物なれば、我をばとはじと也。花の宴巻に、うき身世にやがて消なば尋ても草の原をばとはじとや思ふ、とあり。此心なれば、此句も恋也。

 

 両方の注が指摘しているのは『源氏物語』の「花宴」巻の源氏の君が尚侍君(かんのきみ)と出会う場面で、弘徽殿南側の三の口の扉が開いているのを見つけた源氏はそこにいた尚侍君と強引に関係を結んでしまう。

 そのときの源氏の「まろは、みな人にゆるされたれば、めしよせたりとも、なんでうことかあらん。(麿は万人に許されたものなれば、誰をお召しになろうともなんちゅうこともない。)」と言う言葉は、当時絶頂にあった源氏の君の驕りとも取れる言葉で、このあとの展開の伏線になる。

 終った後で「なほ、なのりし給へ。いかでか、きこゆべき。かうでやみなんとは、さりともおぼされじ(せめて名を聞かせてくれ。どうやって連絡を取ればいいんだ。まさかこれっきりなんて言わないでしょうね。)」と言うと、尚侍君は歌で答える。

 

 うき身世にやがて消えなば尋ねても

     草の原をばとはじとや思ふ

 (不幸にもこのまま死んでしまっても

     草葉の陰を尋ねてくれますか)

 

 源氏の言葉を、名乗らないならもうこれっきりというふうに取り、名乗らなければここのまま私が死んでも知らん顔ですか、ときり返す。

 これに対し、源氏は、

 

 いづれぞと露のやどりをわかむまに

     こざさがはらにかぜもこそふけ

 (どこなのか露の棲家を探す間に

     小笹が原に風が吹いたら)

 

と返す。どこの草の原かもわからないのに尋ねてゆけない。

 本当に気があるなら、名乗らなくても何としてでも突き止めようとするもの。それこそ草葉の陰まで追いかけても逢おうとするものなのに、これっきりだなんてそれではあまりに薄情で、結局遊びの相手なのね、ということになる。

 この名場面を踏まえて、前句の「誰をか問はむ哀れとも見じ(誰が尋ねてくるでしょうか、哀れとも思わないのに)」に、「関係を持ってしまったのに、どうして草葉の陰の果てまでも」尋ねてくれないのでしょうか、哀れとも思ってないんでしょう、と付ける。

式目分析

季語:なし。その他:恋。「草」は植物、草類。

宗祇独吟何人百韻、二十四句目

   ちぎりてもえやはなべての草の原

 かへりこむをも知らぬ古郷   宗祇

 (ちぎりてもえやはなべての草の原かへりこむをも知らぬ古郷)

 

 宗牧注:旅の帰さを大かたに契たる人なれば、かへり来んをも知ぬとなり。

 周桂注:旅のかへる也。なべては大かたに契たる心也。治定かへらんといふさへうたがはしきに、なをざりにかへらんといふは、たのまれぬ心也。

 

 前句の「草の原」を文字通りの草ぼうぼうの荒れ放題のかつての畑のこととする。

 必ず帰ってくると約束したはずなのに、どうせ帰ってきやしないだろうと思ったか、ふるさとの家や田畑は荒れ放題。人の世は薄情なものだ。恋から羇旅に転じる。

式目分析

季語:なし。その他:羇旅。「古郷」は居所の体。

宗祇独吟何人百韻、二十五句目

   かへりこむをも知らぬ古郷

 いかにせし船出ぞ跡も雲の浪  宗祇

 (いかにせし船出ぞ跡も雲の浪かへりこむをも知らぬ古郷)

 

 宗牧注:雲の浪とは、遠浪の事也。前後ともに漫々なる海上に行船の体なり。

 周桂注:かぎりなき遠き旅也。前は悲しき心、当句はただ遠き心也。跡もにて、行末の遠き心みゆ。跡も雲の浪といへる、誠にかへらんをもしらぬ体なるべし。

 

 前句をいつ故郷へ帰れるとも知れない、という意味に取り成し、遥かなる船旅を付ける。振り返っても水平線の雲に至るまで浪ばかり。当然行き先も波ばかり。唐土への旅だろうか。

式目分析

季語:なし。その他:羇旅。「船出」「浪」は水辺の用。「雲」は聳物。

宗祇独吟何人百韻、二十六句目

   いかにせし船出ぞ跡も雲の浪

 泪の海をわたる旅人      宗祇

 (いかにせし船出ぞ跡も雲の浪泪の海をわたる旅人)

 

 宗牧注:遥なる海上を渡る舟人は、只泪の海を渡物也。惣而(そうじて)舟の句に海上を渡と付るは同物也。是は泪の海を渡ると付侍れば替る也。堪能の粉骨也。

 周桂注:舟に海をわたるなどは付べからず。是は涙の海なれば各別也。

 

 船は海を渡るものなので、「船」に「海を渡る」と付けるのは当たり前すぎて同語反復に近い。ただ、「泪の海」だと比喩なので、海を渡る船が泪の海をも渡るという意味になり、同語反復を逃れる。

 「泪の海」は今のJ-popでも時折用いられる息の長い言葉だ。サザンオールスターズに『涙の海で抱かれたい ~SEA OF LOVE~』というナンバーがある。

式目分析

季語:なし。その他:羇旅。「海」は水辺の体。「旅人」は人倫。

宗祇独吟何人百韻、二十七句目

   泪の海をわたる旅人

 唐土も天の下とやつらからん  宗祇

 (唐土も天の下とやつらからん泪の海をわたる旅人)

 

 宗牧注:天の下とよむなり。

 周桂注:もろこしもおなじうき世なればと、をしはかりいへる也。とをき心にはあらず。

 

 泪の海をわたる旅人を異国の人として、中国も同じお天道様の下にある国だから、どこの国でも辛く悲しいことは果てないものだ、となる。

式目分析

季語:なし。

宗祇独吟何人百韻、二十八句目

   唐土も天の下とやつらからん

 すめば長閑き日の本もなし   宗祇

 (唐土も天の下とやつらからんすめば長閑き日の本もなし)

 

 宗牧注:日の字にあたりて、長閑なるべけれども、此国の乱たるにて、のどかならぬゆへに、唐の事をも推量したる也。

 周桂注:日本は比興なる所なれど、すめばすまるる心也。日のもとといへば長閑なるべきことはりなれど、心やすき事もなしと也。

 

 中国も辛いのだろうか、日本は長閑ではない。対句的な相対付け。

 一四九九年は戦国時代のさなか。この年の七月には細川政元が延暦寺の焼き討ちを行う。

式目分析

季語:「長閑き」で春。

宗祇独吟何人百韻、二十九句目

   すめば長閑き日の本もなし

 桜咲く峰の柴屋に春暮れて   宗祇

 (桜咲く峰の柴屋に春暮れてすめば長閑き日の本もなし)

 

 宗牧注:桜散と候ハんを、咲と仕立られたる妙也。春暮てにて、落花ニ成たるべし。心は桜も散果折節、すめバ長閑き日本もなしと也。

 周桂注:日は峰より出る物なれバ、日のもとととりなせり。ちるとあるべきを、さくといへる寄特也。桜のさき、面白かりし春暮たり。

 

 前句の「日の本もなし」を日が沈んだこととし、春の暮とする。

 

 世の中に絶えて桜のなかりせば

     春の心はのどけからまし

               在原業平

 

の心で、桜が咲いたので長閑ではなくなったとする。

式目分析

季語:「桜」で春、植物、木類。その他:「峰」は山類の体。「柴屋」は居所の体。

宗祇独吟何人百韻、三十句目

   桜咲く峰の柴屋に春暮れて

 薄く霞める山際の里      宗祇

 (桜咲く峰の柴屋に春暮れて薄く霞める山際の里)

 

 宗牧注:山際に二あり。一ハ麓の事、一ハ峰の事也。是はふもとの事なるべし。暮春の霞の名残也。

 周桂注:山ぎはに二あり。山のすそをも、又山と空との間をもいふ也。一句は常の山本也。付所は空の心也。源氏に、山ぎハあかりて。

 

 山際に二つあると言うが、この場合は里のある場所だから山と平地との境目であろう。軽く景色をつけて流した感じだ。ちょっと一休みという所だろう。

式目分析

季語:「霞」で春、聳物。その他:「山際」は山類の体。「里」は居所の体。

宗祇独吟何人百韻、三十一句目

   薄く霞める山際の里

 月落ちて鳥の声々明くる夜に  宗祇

 (月落ちて鳥の声々明くる夜に薄く霞める山際の里)

 

 宗牧注:儀なし。

 周桂注:かすめる明がたの体なり。

 

 『枕草子』の「春は曙(あけぼの)。やうやう白くなりゆく山際(やまぎわ)、すこしあかりて、紫だちたる雲の細くたなびきたる」を思わせる。落月に鳥の声を加えることで少し変えている。

式目分析

季語:「月」で秋、夜分、光物。その他:「鳥」は鳥類。

宗祇独吟何人百韻、三十二句目

   月落ちて鳥の声々明くる夜に

 露名残なく起きや別れむ    宗祇

 (月落ちて鳥の声々明くる夜に露名残なく起きや別れむ)

 

 宗牧注:惣じて、暁の鳥などに別を付は同心也。是は前句の鳥、並の鳥にてなき程に不苦。

 周桂注:(なし)

 

 月が出たところで季節は秋になる。月に露は、

 

 風吹けば玉散る萩のした露に

     はかなくやどる野辺の月かな

              藤原忠通(新古今集)    

 

など数々の和歌に詠まれている。

 その月も沈み、露もまた儚く消えて行く。

 「起きや別れむ」はここでは露のことだが、当然ながら男と女が明けがたに起きては別れる、いわゆる後朝(きぬぎぬ)への展開を促している。恋呼び出しだが、独吟なので一人恋呼び出しとでもいうべきか。

式目分析

季語:「露」で秋、降物。その他:恋。

宗祇独吟何人百韻、三十三句目

   露名残なく起きや別れむ

 身にしめる風のみ袖の記念にて 宗祇

 (身にしめる風のみ袖の記念にて露名残なく起きや別れむ)

 

 宗牧注:身にしめる風のみ袖の形見にて、露のなごりもなくおきわかれんと也。

 周桂注:露の名残もなけれど、風計(ばかり)名残なるべし。

 

 風は露を散らしてゆくもので、悲しい後朝の別れにつゆの名残もなく、袖にはただ風が吹いているだけ。

 「つゆ」には露の意味と、副詞として用いられる「少しも」という意味との二つがある。

 季語は「身にしめる(身にしむ)」。秋は最低三句続けなくてはならない。

式目分析

季語:「身にしめる」で秋。その他:恋。「袖」は衣裳。

宗祇独吟何人百韻、三十四句目

   身にしめる風のみ袖の記念にて

 堪へ来し方のゆふべにぞ成る  宗祇

 (身にしめる風のみ袖の記念にて堪へ来し方のゆふべにぞ成る)

 

 宗牧注:恋路の悲しさに堪忍しつる跡の夕に、今の別路の悲しさハなりぬと也。

 周桂注:あとの悲しかりし夕のやうにおぼゆる也。

 

 袖には愛し合ったあの頃の痕跡の何もなく、ただ風に吹かれているだけなのに、堪えて待っていたあの頃の夕べが思い出されてしまう。

 

 しひて猶したふに似たる涙かな

     我も忘れんとおもふ夕べを

            覚助法親王(続後拾遺)

 

の心か。

式目分析

季語:なし。その他:恋。

宗祇独吟何人百韻、三十五句目

   堪へ来し方のゆふべにぞ成る

 思ふなよ忘れんもこそ心なれ  宗祇

 (思ふなよ忘れんもこそ心なれ堪へ来し方のゆふべにぞ成る)

 

 宗牧注:過来し跡の事を案じたるハ、誠にへんもなき事なれば、忘れんもこそ心なれと也。

 周桂注:過にし事を案じて益なき心也。忘たるがまし也。是則連歌の行様なるべし。

 

 「思ふなよ」は咎めてには。前句の「ゆふべにぞ成る」を堪えて来た日々も夕べ(終わり)に成る、と取り成し、早く忘れることも大事だと説く。

 周桂注の「是則連歌の行様なるべし」は、連歌とはまさに前句の情を忘れ、常に一句一句新しい心情を付けてゆくものだという、連歌のそもそも論といえよう。

式目分析

季語:なし。その他:恋。

宗祇独吟何人百韻、三十六句目

   思ふなよ忘れんもこそ心なれ

 つらきにのみやならはさるべき 宗祇

 (思ふなよ忘れんもこそ心なれつらきにのみやならはさるべき)

 

 宗牧注:ならはさるべきのさの字、すみてよむべし。つらき事をわすれんこそ心なれと付るなり。

 周桂注:うきにのみならはされてゐたるは、かひなき心也。

 

 「ならはさる」は「慣らはされる」という意味で「慣らはざる」という否定の意味ではない。「つらきにのみやならはさるべき」は「辛きにのみ慣らはさるべきや」で、「や」は反語になる。辛いのが当たり前になってしまってはいけない、考えるな、忘れることも大事だ、となる。

 これは去年の十月八日の日記でふれた「こそ付け」になる。前句に「こそ」がある場合は、否定されるべき内容を付ける。

式目分析

季語:なし。その他:恋。

二裏

宗祇独吟何人百韻、三十七句目

   つらきにのみやならはさるべき

 道有るもかたへは残る蓬生に  宗祇

 (道有るもかたへは残る蓬生につらきにのみやならはさるべき)

 

 宗牧注:此道は政道の事也。賢君の中にも、又侫人(わいじん)とて悪き人ある也。其悪き人にやならはさるべきと也。蓬生を侫人にたとへいへる也。世中の麻は跡なく成にけり心のままの蓬のみして、とやらん古歌に侍。

 周桂注:あれたる蓬生の宿にも、道ある人は残りとどまりて、世にもしられぬ事おほし、茅屋のつらきにならはされて、うづもれはてん事を無念と也。

 

 宗牧が引用している古歌は、

 

 世の中に麻は跡なくなりにけり

     心のままに蓬のみして

            北条義時(新勅撰集)

 

 これは『荀子』勧学編の「蓬も麻中に生ずれば、扶(たす)けずして直し。」から来ているという。(参考:「『慕帰絵』の制作意図―和歌と絵の役割について」石井悠加) これは地を這う蓬も背の高い麻の間に生えれば直立するように、政治がしっかりしていれば庶民もしっかりするという例えだという。

 この寓意を取るならば、道はあってもその一方で蓬が好き放題に生い茂り、その辛さにみんな慣れてしまっているという意味になる。

 ただ、ここには「麻」は出てこないし、道があるのだから、やや無理があるように思える。

 ここは周桂注の、道ある人も蓬生に埋もれて隠棲を余儀なくされ、辛さを耐え忍んでいると見たほうが良いと思う。

式目分析

季語:なし。

宗祇独吟何人百韻、三十八句目

   道有るもかたへは残る蓬生に

 しる人を知る花のあはれさ   宗祇

 (道有るもかたへは残る蓬生にしる人を知る花のあはれさ)

 

 宗牧注:花を知人はよき人也。其知人をば花も知て、蓬生に咲といへり。道あるハ花を尋る道と付られたり。

 周桂注:花をしる人を花もしる心也。互ニ心あるなるべし。色をも香をも知人をしる。此本歌引にもをよばざる歟。

 

 周桂の言う本歌は、

 

 君ならで誰にか見せむ梅の花

     色をも香をも知る人ぞ知る

             紀友則(古今集)

 

であろう。道をわきまえてはいても蓬生に不遇をかこう隠士のもとには、そこだけ桜の花が咲き、花の心を知る人のことは花も知っていて咲くのだろう、と付ける。

 二表の三十句目に桜は出ているが花は出ていないので、二の懐紙の二本目の花をここでだし、春に転じる。

式目分析

季語:「花」で春、植物、木類。その他:「人」は人倫。

宗祇独吟何人百韻、三十九句目

   しる人を知る花のあはれさ

 折にあふ霞の袖も色々に    宗祇

 (折にあふ霞の袖も色々にしる人を知る花のあはれさ)

 

 宗牧注:花をたづぬる風流の人たるべし。

 周桂注:花見る人の袖の結構なるに、花も霞もおりにあひたる、誠に花も人をしるやうに見えたり。

 

 「霞の袖」は、

 

 くれなゐに霞の袖もなりにけり

     春の別のくれがたの空

               慈円

 

などの用例がある。

 春の霞は佐保姫の衣に喩えられ、霞の袖とも言われる。その袖も朝日や夕日に色を変え、月が出れば朧月の色に染まる。

 色々に変化する霞の袖は、花を知り花に知られる風流人にはあわれさもひとしおであろう。

式目分析

季語:「霞」で春、聳物。

宗祇独吟何人百韻、四十句目

   折にあふ霞の袖も色々に

 帰らん空もわかぬ春の野   宗祇

 (折にあふ霞の袖も色々に帰らん空もわかぬ春の野)

 

 宗牧注:霞に交り帰路を忘じたる也。花下忘帰因美景と云句にかよへり。

 周桂注:野遊の体みえたるまま也。

 

 「花下忘帰因美景」は白楽天の、

   

   酬哥舒大見贈 白居易

 去歳歓遊何処去 曲江西岸杏園東

 花下忘帰因美景 樽前勧酒是春風

 各従微官風塵裏 共度流年離別中

 今日相逢愁又喜 八人分散両人同

 

  哥舒大より贈られた詩に答える

 去年の交歓会はどこでだったか、そう、曲江の西で杏園の東だ。

 景色の美しさに花の下から帰るのを忘れ、樽を前で酒を勧めているのは春風か何か。

 みんなそれぞれ官僚になって風塵にまみれ、離れ離れのままに一年が経過した。

 今日ふたたび逢って喜び悲しむ。散り散りになった八人の内の二人だけの再会だ。

 

の詩による。『和漢朗詠集』には、

 

 はなのもとにかへることをわするるはびけいによるなり、

 たるのまへにゑひをすすむるはこれはるのかぜ、

 花下忘帰因美景。樽前勧酔是春風。

                白居易

 

とある。

 ただ、打越の花の情を引きずるべきではないので、この引用は余計のように思える。先の「世の中に麻は跡なく」の引用の様に、宗牧はやや碩学をひけらかす所がある。

 霞の色もそれぞれに変化し、帰り道を眺めれば、どこまでが野でどこまでが霞かわからない、というだけの句で、遣り句と見ていいだろう。

式目分析

季語:「春の野」で春。

宗祇独吟何人百韻、四十一句目

   帰らん空もわかぬ春の野

 鐘ぞ鳴るけふも空しく過ぎやせむ 宗祇

 (鐘ぞ鳴るけふも空しく過ぎやせむ帰らん空もわかぬ春の野)

 

 宗牧注:前の春の野を、鳥辺野ニ思ひなしたる句也。

 周桂注:とりべ野心もありといへり。

 

 今の言葉で「今日も空しく一日が終る」と言うと、ただ何となく一日が過ぎたという意味になるが、この時代で「空しく」は死を連想させるようだ。「鳥辺野」は墓地。鳥葬が行われていたという。

 前句の「帰らん空」を亡き人の帰らない空と取り成し、「春の野」を鳥辺野のこととし、今日も悲しみにくれながら一日が過ぎてゆく。

式目分析

季語:なし。その他:哀傷。

宗祇独吟何人百韻、四十二句目

   鐘ぞ鳴るけふも空しく過ぎやせむ

 きけども法に遠き我が身よ  宗祇

 (鐘ぞ鳴るけふも空しく過ぎやせむきけども法に遠き我が身よ)

 

 宗牧注:きけどもハ、付所鐘の事也。一句仏法を聴聞して、法にならぬ我心を諌て云る也。

 周桂注:仏法は聞てもえがたき心也。鐘は法のかね也。

 

 「きけども」は前句の「鐘ぞ鳴る」を受け、「鐘の鳴るのを聞けども法に遠き我が身よ、今日も空しく過ぎやせむ」となる。

式目分析

季語:なし。その他:述懐。「我が身」は人倫。

宗祇独吟何人百韻、四十三句目

   きけども法に遠き我が身よ

 齢のみ仏にちかくはや成りて 宗祇

 (齢のみ仏にちかくはや成りてきけども法に遠き我が身よ)

 

 宗牧注:此一座、祇公七十九歳といへり。心は、よはひばかり仏にちかく成て、心は仏法に遠きを思ていへる也。

 周桂注:仏入滅八十歳にや。作者も七十九歳なれバ相応せり。

 

 これは宗祇自身の述懐で、自分は七十九歳になり釈迦入滅の八十歳にもうすぐだと言うのに、何でこうも違うのか、と謙虚に言う。

 宗祇の連歌論書『宗祇初心抄』には、

 

 一、述懐連歌本意にそむく事、

   身はすてつうき世に誰か残るらん

   人はまだ捨ぬ此よを我出て

   老たる人のさぞうかるらむ

 か様の句にてあるべく候、(述懐の本意と申は、

   とどむべき人もなき世を捨かねて

   のがれぬる人もある世にわれ住て

   よそに見るにも老ぞかなしき

 かやうにあるべく候)歟、我身はやすく捨て、憂世に誰か残るらんと云たる心、驕慢の心にて候、更に述懐にあらず、(たとへば我が身老ずとも)老たる人を見て、憐む心あるべきを、さはなくて色々驕慢の事、本意をそむく述懐なり、

 

とある。述懐は単なる回想ではなく、懺悔の意味が込められてなければならない。そうでなく俺はもう悟ったぞみたいな句は「驕慢の心」として嫌われる。

式目分析

季語:なし。その他:述懐。

宗祇独吟何人百韻、四十四句目

   齢のみ仏にちかくはや成りて

 むねならぬ月やみてるをも見む 宗祇

 (齢のみ仏にちかくはや成りてむねならぬ月やみてるをも見む)

 

 宗牧注:胸頭の外の月計、みてるをも見むと也。

 周桂注:我心の月のあらはれがたきを、空の月のみてるをみていへる也。

 

 月の心は仏の心だが、その月を見ずして、ただ天文現象としての物理的な月を見ているにすぎない我が身を嘆く。

式目分析

季語:「月」で秋、夜分、光物。

宗祇独吟何人百韻、四十五句目

   むねならぬ月やみてるをも見む

 霧晴るる山に慰め物思ひ    宗祇

 (霧晴るる山に慰め物思ひむねならぬ月やみてるをも見む)

 

 宗牧注:霧晴山ハ、自然の道理也。わが思ひも、一度ハ晴む事を思てなぐさめと也。

 周桂注:むねの霧の晴がたきに、山のけしきをみてはらせと也。

 

 山の霧は晴れても胸の霧は晴れず、恋にわずらい物思いにふける。月は出ているけど心ここにあらず。

 悟れない気持ちから恋の悩みに転じる。

式目分析

季語:「霧」で秋、聳物。その他:恋。「山」は山類の体。

宗祇独吟何人百韻、四十六句目

   霧晴るる山に慰め物思ひ

 松をば秋の風も問はずや    宗祇

 (霧晴るる山に慰め物思ひ松をば秋の風も問はずや)

 

 宗牧注:まつの字に仕立たる也。彼宮内卿が、きくやいかにうはの空なる風だにも、と心得る也。

 周桂注:秋かぜの霧に松のあらはれたるをみて、松の風のとふごとく待人もとへかしと也。

 

 松を「待つ」に掛けて恋の句にするのはよくあること。秋風に霧が晴れて、山の松も見えてくる。それを待っている松を風が訪問したというふうにして、自分にも待ち人が現れないかと問う。

 宗牧が引用している歌は、

 

   寄風恋

 きくやいかにうはの空なる風だにも

     松に音する習ひ有りとは

              宮内卿(新古今集)

 

 宮内卿は後鳥羽院に仕えた女房だという。

 「きく」は相手の男性に対して語りかけるとともに、松風の音を聞くという両方の意味を持ち、この両義性がその後も「うはの空」も男のうわの空と風の吹く空、待つに松、「音する」に訪れると音がする、と見事に継承されてゆく。

 松風に問うという言葉も両義性は、宗祇の句の方にも引き継がれている。

 宮内卿の歌の方は江戸時代後期になると男尊女卑の考え方から「きくやいかに」みたいなきつい言い方は女としていかがなものかなんて議論になるが、無粋な話だ。

式目分析

季語:「秋の風」で秋。その他:恋。「松」は植物、木類。

宗祇独吟何人百韻、四十七句目

   松をば秋の風も問はずや

 人はたが心の杉を尋ぬらん   宗祇

 (人はたが心の杉を尋ぬらん松をば秋の風も問はずや)

 

 宗牧注:心の杉とは心の数奇なり。対句などの心也。

 周桂注:心の杉とは、心にすきたる心也。好色心也。

 

 連歌のてにはに「こそ」付けというのがあったが、「ぞ」でも「をば」でも同様に、前句に対し否定的な内容を付け、「何々ではなく何々をば」と付けることが出来る。

 この場合は「松」に「杉」を対比させながら、あの人は誰の心の杉(数奇)を尋ねているのだろうか、松(待っ)ているのに秋の風も問うてくれない、となる。前句の「や」はこの場合反語に取り成される。

式目分析

季語:なし。その他:恋。「人」は人倫。「杉」は植物、木類。

宗祇独吟何人百韻、四十八句目

   人はたが心の杉を尋ぬらん

 門ふる道のたえぬさへうし   宗祇

 (人はたが心の杉を尋ぬらん門ふる道のたえぬさへうし)

 

 宗牧注:たがと云字にあたりて、心のすきをとらはぬ門は古て、道のたえず残たるも憂と也。

 周桂注:杉の門也。門ふりたれば、道もなくばよからんずるを、さすが道の残りたるをうらめしと也。

 

 ここでもお約束で前句の「らん」は反語になる。「門」と付くことによって「杉」は「杉の門」になる。

 

 我が庵は三輪の山もと恋しくは

    とぶらひきませ杉たてる門

              詠み人しらず(古今集)

 

の用例がある。

 あの人はどうしてこの杉の戸を尋ねてくるなんてことがあるのだろうか、ありやしない。それなのに古びた門にまだ道が残っているのが恨めしい。道が残っていると、通ってきた頃のことが思い出され、却って未練になる。いっそのこと道も埋もれてしまえばいい、という心か。

式目分析

季語:なし。

宗祇独吟何人百韻、四十九句目

   門ふる道のたえぬさへうし

 爪木こるかげも野寺は幽にて  宗祇

 (爪木こるかげも野寺は幽にて門ふる道のたえぬさへうし)

 

 宗牧注:儀なし。

 周桂注:野寺の体也。

 

 「爪木」は薪にする小枝のこと。前句の「たえぬ」を否定ではなく完了の「ぬ」に取り成し、野寺は爪木を取に来る人さえほとんどなく、道も絶えぬと付く。

式目分析

季語:なし。

宗祇独吟何人百韻、五十句目

   爪木こるかげも野寺は幽にて

 苔に幾重の霜の衣手      宗祇

 (爪木こるかげも野寺は幽にて苔に幾重の霜の衣手)

 

 宗牧注:野寺ノ住侶の体也。

 周桂注:寺に住む人の体也。

 

 野寺の住人である僧の苔の袂は何度ともなく霜が降りている。

式目分析

季語:「霜」で冬、降物。その他:「苔」は植物、草類。「衣手」は衣類。