宗長「東路の津登」を読む

  「白河紀行」の次ということで、宗長の「東路の津登」を読んでみようと思ったが、手元にある重松裕巳編『宗長作品集』(一九八三、古典文庫)には五つの事なるテキストが掲載されている。

 宗長の研究者ではないので細かいことはよくわからないが、五つもあると、どれを読んでいいのか流石に迷う。太田本、彰考館本、伊地知本、西高辻本、祐徳本の五つで、長さも違う。

 まあ、とにかく難しいことを考えずに、一番短い「太田本」を基本として読んで行こうかと思う。

 一つには書き出しで、「白河のせきのあらまし」から始まるのが太田本、彰考館本、伊地知本の三つで、あとの二つは「我久しくするがの国に」で始まる。これは紀行文の著述意図の全く違う二つの原本があったのではないかと思う。

 つまり、普通の日記として意図されて書かれた「我久しく」と、白河への旅に焦点を絞った「白河の」の文章があったのではないかと思う。多分日記の方が元にあって、その後に白河に絞った文章が後になって作られたのだろう。

 今回は「梵灯庵道の記」、「白河紀行」に続くものとして読む分には、白河に焦点を絞りたいという、こちらの勝手な意図で読むので、一番短い太田本にする。詳しい諸本の系譜は専門の研究者に任せる、ということにしておきたい。

 

1,旅立ち

 

 「白川の関のあらまし、霞と共に思ひつつなん幾春をか過けむ。此秋をだにとて、永正六年文月十六日とさだめて思ひ立ぬ。その日は草庵りんか成人、一折と有しかばいなびがたくて、

 

 風に見よ今かへりこむくず葉かな

 

わかれ路に生ふる葛の葉のといふ古歌を思ひ出侍るばかり也。此ほどは丸子といふ山家に有し也。」(「東路の津登」太田本)

 

 「りんか成人」は彰考館本に「隣家なる人」とある。この方が読みやすい。

 この隣家が誰なのかというと、西高辻本には「田辺和泉守」とあり、祐徳本には「斎藤加賀守安本」とある。よくわからない。

 「わかれ路に」の古歌は、

 

 ふるさとを別れ路に生ふる葛の葉の

     秋はふけどもかえる世もなし

              後鳥羽院(後鳥羽院遠島百首)

 

で、『増鏡』にも記されている。

 宗長の駿河国丸子の柴屋軒で、隣家の人から連歌一折(二十二句)巻いた時の発句として、

 

 風に見よ今かへりこむくず葉かな 宗長

 

の句が詠まれる。

 これから白河の方へ旅に出ようと思うが、別れ路に生うる葛の葉の秋風に吹かれる季節ではあるが、後鳥羽院のように島流しになるわけではなく、すぐに帰ってくるから、と出発する。

 

 「十九日に駿河のかうより出立て、興津の館に立より侍り。亭主左衛門の宿所この比新造して、態などいふおりふしなれば興行に、

 

 月の秋の宿とやみがく玉椿

 

 あたらしき家を賀し侍也。」(「東路の津登」太田本)

 

 「かう」は国府(こう)で、駿府のこと。今の静岡駅のある辺り。「興津の館」は興津館(おきつやかた)で今の興津駅の北西の宗徳院という寺に興津館跡がある。コトバンクの「世界大百科事典内の興津氏の言及」に、

 

 「東は興津川・薩埵(さつた)峠,西は清見寺山が駿河湾に迫る東海道の難所,清見寺山下には清見関が設けられ,坂東への備えとした。鎌倉時代以降は入江氏支流の興津氏が宿の長者として支配,室町時代以降今川氏の被官となった興津氏はこの地に居館を構え,戦国期には薩埵山に警護関を置いた。」

 

とある。

 「亭主左衛門の宿所」は彰考館本には「亭主左衛門尉宿所」とある。左衛門尉は官職名で、代々左衛門尉を名乗っていたか。

 「態」は彰考館本には「わざども」、伊地知本には「態も」とある。

 コトバンクの「精選版 日本国語大辞典「態と」の解説」に、

 

 「① こうしようという、ある意図や意識をもって事を行なうさまを表わす語。現在では、そうしなくてもいいのにしいてするさまにいう場合が多い。わざわざ。意識的に。わざっと。

  ※後撰(951‐953頃)恋二・六一三・詞書「わざとにはあらで、時々物いひふれ侍ける女の」

  ※平家(13C前)四「其日を最後とやおもはれけん、わざと甲(かぶと)は着給はず」

  ② 状態がきわだつさま、格別に目立つさまを表わす語。とりわけ。特に。

  ※蜻蛉(974頃)中「心地いとあしうおぼえて、わざといと苦しければ」

  ※更級日記(1059頃)「わざとめでたき草子ども、硯の箱の蓋に入れておこせたり」

  ③ 正式であるさまを表わす語。本格的に。

  ※落窪(10C後)二「わざとの妻(め)にもあらざなり」

  ④ 事新しく行なうさまを表わす語。あらためて。

  ※枕(10C終)八「わざと消息し、よびいづべきことにはあらぬや」

  ※宇治拾遺(1221頃)九「この度は、おほやけの御使なり。すみやかにのぼり給て、またわざと下り給て、習ひ給へ」

  ⑤ ほんの形ばかりであるさまを表わす語。ほんのちょっと。少しばかり。わざっと。

  ※俳諧・野集(1650)五「樽は唯わざとばかりの祝言に よひあかつきにくるしみぞ有」

  ※浮世草子・世間御旗本容気(1754)四「生鯛一折、酒一樽、態(ワザ)と祝ひて軽少ながら進上」

 

とあるが、ここでは「態」は「わざと」と読み、④の意味か。

 ここでも連歌興業が行われ、発句を詠む。

 

 月の秋の宿とやみがく玉椿    宗長

 

 文月十九日でまだ初秋だが、秋にここに泊まるということで「月の秋の宿」とする。句は「月の秋の宿と玉椿をみがくや」の倒置で、玉椿は椿を美化して言う場合もあれば、白玉椿、柾、ねずみもち、香椿の別名でもある。葉の艶が良いということで玉と呼ばれ、「みがく」とする。なお、連歌では椿は無季。

 

 「おなじ国沼津といふ所にて、長福庵とて是も新造のために一折興行。

 

 松に見ん年にまさごの秋の庵

 

 伊豆の三嶋にて、ある人宿所の法楽に所望せしに、

 

 時わかぬ秋や幾秋軒の松」(「東路の津登」太田本)

 

 沼津までは駿河国で、隣の三島は伊豆国になる。伊豆国府はかつて三島大社の所にあったという。伊豆国国分寺も三島広小路駅の近くにある。

 その沼津長福庵の新造のための一折興行の発句。

 

 松に見ん年にまさごの秋の庵   宗長

 

 「松に見ん年」は「松に年を見ん」で、常緑の松は長寿の象徴でもあり、今真砂の上に立つ松のように、この新しい庵も歳を取るまで安楽の地であるように、という願いを込めた句であろう。

 三島の発句は法楽のために仏前に捧げる句で、これを発句として法楽連歌が興行されたのかどうかはわからない。

 

 時わかぬ秋や幾秋軒の松     宗長

 

 句は複雑な倒置で、「幾秋の時や分かぬ軒の松」が「時やわかぬ幾秋の軒の松」となり、「時わかぬ秋や幾秋」となったものだろう。軒の松は幾秋を経てかもわからない程、長い年月を経ている。

 

 

2,相模の国

 

 「箱根山をしのぎて、相模国をだ原の館に一日滞留して、藤沢の道場に又一日やすらふことありて、発句、

 

 朝霧のいづここゆるぎ磯の浪

 

 この磯ちかき眺望なるべし。」(「東路の津登」太田本)

 

 当時の東海道は、既に足柄ルートよりも箱根ルートが主流になっていた。宗祇も箱根で死んだ。

 標高差を考えるなら、足柄越えの方がはるかに楽だが、箱根越えの方が最短ルートだということで、こちらが選ばれたのだろう。

 伊地知本、西高辻本、祐徳本には「浮島が原を経て」という記述があるが、浮島が原は沼津の手前なので位置的におかしい。

 沼津と田子の浦の間の「原」という宿があった辺りはかつては巨大な干潟があり、それが中世以降の寒冷化で海水の水位が下がって草原になったのであろう。古代東海道は海と干潟を隔てる砂州の上を通っていた。浜名湖の弁天島辺りの風景を想像すればいいかもしれない。

 上代はおそらく田子の浦から興津までは海路を利用していたのだろう。だから赤人の歌も「田子の浦ゆ打出てみれば」となっている。

 箱根を越えれば小田原で、ウィキペディアによれば平安末期には小早川遠平の居館があり、応永二十三年(一四一六年)に駿河国に根拠を置いていた大森氏がこれを奪ったという。

 そして、ウィキペディアにはこうある。

 

 「明応4年(1495年)、伊豆国を支配していた伊勢平氏流伊勢盛時(北条早雲)が大森藤頼から奪い、旧構を大幅に拡張した。ただし、年代については明応4年(1495年)、以後に大森氏が依然として城主であったことを示すとされる古文書も存在しており、実際に盛時が小田原城に奪ったのはもう少し後(遅くても文亀元年(1501年))と考えられている。ただし、盛時は亡くなるまで韮山城を根拠としており、小田原城を拠点としたのは息子の伊勢氏綱(後の北条氏綱)が最初であったとされ、その時期は氏綱が家督を継いだ永正15年(1518年)もしくは盛時が死去した翌永正16年(1519年)の後とみられている。以来北条氏政、北条氏直父子の時代まで戦国大名北条氏の5代にわたる居城として、南関東における政治的中心地となった。」

 

 宗長のこの「東路の津登」の旅は永正六年(一五〇九年)なので、小田原館はまだ北条氏が入ってなかったか、微妙な時期だ。

 とにかくこの小田原館で一泊し、藤沢へ向かった。「藤沢の道場」はコトバンクの「世界大百科事典内の藤沢道場の言及」に、

 

 「…25年(正中2),遊行上人位を安国に譲り,藤沢の地に寺を建ててここに住む。これが清浄光寺のおこりであり,当初は清浄光院あるいは藤沢道場と称した。これ以後,遊行上人は引退すると清浄光寺に住むことが慣例となり,これを藤沢上人と呼んだ。…」

 

とある。清浄光寺は遊行寺とも呼ばれていて、箱根駅伝でもお馴染みだ。今でも国道一号線が通っているように、中世以降の東海道はそこを通っていた。

 さて、その遊行寺での一句。

 

 朝霧のいづここゆるぎ磯の浪   宗長

 

 途中通った大磯のこゆるぎの磯を思い出しての句になる。

 

 玉だれのこがめやいづらこよろぎの

     磯の浪わけ沖にいでにけり

              藤原敏行(古今集)

 

の歌にも詠まれている。『源氏物語』帚木巻にも、

 

 「あるじもさかなもとむと、こゆるぎのいそぎありくほど、君はのどやかにながめ給ひて」(主人紀伊の守も肴を求めて、こゆるぎの大いそぎで歩き回り、源氏の君はすっかりくつろいで辺りを眺め)

 

という一節がある。

 小田原を出る時に朝霧がかかって、歌に名高いこゆるき磯はいずこ、となる。

 

 

3,青梅勝沼

 

 「八月二日、むさしの国かつぬまといふ所にいたりぬ。上田弾正左衛門氏宗といふ人有。此所の領主也。兼て白川の道々のこと申かはし侍しかば、ここに十四五日ありて連歌ややに及べり。

 

 霧は今朝分入八重の外山かな

 

 此山家は、うしろは甲斐国、北はちちぶと云山につづきて、まことの深山とは是をやいふべからん。」(「東路の津登」太田本)

 

 「武蔵国勝沼は今の青梅で、東青梅駅の北の方に勝沼城址がある。上田弾正左衛門氏宗は三田弾正左衛門氏宗の間違いで、ウィキペディアにも、三田氏宗の項に、

 

 「三田 氏宗(みた うじむね、生没年不詳)は武蔵国の国人。勝沼城主。子に三田政定がいる。

 三田氏は武蔵国杣保(現在の青梅市周辺)に根を張った国人で平将門の後裔と称していた。

 室町時代には関東管領山内上杉氏と主従関係にあったようで、氏宗は上杉顕定の元で活動している。 長享の乱の際には長尾能景が扇谷上杉氏方から奪い取った椚田城(初沢城)の城主になっている。

 連歌師宗長の「東路の津登」(あづまじのつと)には宗長が永正6年(1509年)8月に勝沼城の氏宗の元を訪れ数日間滞在した事が見える。氏宗は子の政定と共に宗長を手厚くもてなし、宗長滞在中に度々連歌の会を催している事から和歌の嗜みもあったと思われる。」

 

とある。

 なお、西高辻本には「早川左京大夫行信」となっている。

 遊行寺からここまでのルートはよくわからない。鎌倉街道の上道を使ったか。

 さて、ここでも連歌興行があった。発句は、

 

 霧は今朝分入八重の外山かな   宗長

 

で、八重の外山は奥多摩の山々になる。

 ここから多摩川を遡り、大菩薩峠を越えれば甲州の塩山へ抜けられる。途中の軍畑(いくさばた)の辺りから鎌倉街道山の道で北へ向かえば、秩父の方へ抜けられる。

 

 「おなじ所に山寺あり。前はむさし野なり。

 

 露を吹野風か花に朝ぐもり

 

 むさし野の此ごろのさま成べし。」(「東路の津登」太田本)

 

 山寺は西高辻本、祐徳本には杉本坊とある。

 大悲山塩船観音寺と思われる。勝沼城址の北東にある。

 

 露を吹野風か花に朝ぐもり    宗長

 

 花はこの場合草の花で、秋の花野になる。萩、薄、女郎花、藤袴などの咲き乱れる野原に露が降りて、それを秋風が吹き飛ばして行く。

 

 

4,鉢形城

 

 「同十五日、氏宗息政定と彼是を初たちならびて、むさし野の萩薄の中を行過て、日ぐらし二日に分はてて、長尾孫太郎の館鉢形といふ所に着ぬ。政定に馬上ながら口ずさびに、

 

 むさし野の露のかぎりは分も見つ

     秋のかぜをばしら川のせき」(「東路の津登」太田本)

 

 三田氏宗の息子の三田政定がここに登場する。

 鉢形城は寄居の荒川沿いにある。「むさし野の萩薄の中を行過て」とあるから、山の中を通る鎌倉街道山の道ではなく、鎌倉街道上道の方を使ったのであろう。入間の辺りで合流したか。

 鉢形城はウィキペディアに、

 

 「1473年(文明5年)6月、山内上杉氏の家宰であり、同家の実権をふるった長尾景信が古河公方足利成氏を攻める途中、戦闘は優位に進めたものの景信自身は五十子において陣没した。長尾家の家督を継いだのは景信の嫡男長尾景春ではなく弟長尾忠景であり、山内上杉家の当主上杉顕定も景春を登用せず忠景を家宰とした。長尾景春はこれに怒り、1476年(文明8年)、武蔵国鉢形の地に城を築城し、成氏側に立って顕定に復讐を繰り返すこととなる。これが鉢形城の始まりである。」

 

とある。

 ただ、そのあと、

 

 「1478年(文明10年) 扇谷上杉氏の家宰太田道灌が鉢形城を攻め、ようやく上杉顕定が入城した。」

 

とあり、

 

 「以後、上杉顕定の存命中、鉢形城はその手にあり、顕定の後を継いだ養子の上杉顕実(実父は古河公方足利成氏)も鉢形城を拠点とした。」

 

とあり、上杉顕定は永正七年(一五一〇年)の没だから、永正六年(一五〇九年)の時点では上杉顕定の城で長尾孫六左衛門忠景が顕定に仕えていた。長尾孫太郎もその一族のものであろう。伊地知本、西高辻本、祐徳本には長尾孫太郎顕方とある。

 

 「此比は、越後の鉾楯により、むさしのさぶらひ進発のことあり。いづこもいづこもさはがしかりしかば、爰に一夜ありて、翌日に日たけて、杉山といふ人案内にて、長井左衛門宿所へとて送らる。夜に入てをちつきぬ。

 門をさし橋を引て夜更ぬとて入ざりけり。あたりにだにといへどもやどさず。力及ばずして跡へ立かへり、よしあしの中の道一筋を、たどりたどりをくれる人のしりたるといふ宿を尋て、夜中過に人も馬もつかれはてて、はふはふつきぬ。

 此あるじ成人情あるにてぞ、心をのべて其夜はあかし侍し。このあした利根川の舟わたりをして、上野国新田庄に礼部尚純隠遁ありて今は静喜といふ。彼閑居より罷よるべきよしあれば四・五日ありて連歌二度あり。

 

 霧分し袖に見ゆべき野山かな」(「東路の津登」太田本)

 

 「越後の鉾楯」は永正の乱のことで、ウィキペディアに、

 

 「永正の乱(えいしょうのらん)とは、戦国時代初期の永正年間に関東・北陸地方で発生した一連の戦乱のこと。」

 

とある。このうちの越後の内乱については、ウィキペディアに、

 

 「永正3年(1506年)9月、越後守護代長尾能景が越中で戦死し、長尾氏の家督を継いで越後守護代となった長尾為景が、永正4年(1507年)8月、上杉定実を擁立して越後守護上杉房能を急襲。関東管領上杉顕定(房能実兄)を頼り関東への逃亡を図った房能を天水越で丸山信澄らと共に自害に追い込んだ。

 これを討たんとした顕定は永正6年(1509年)、報復の大軍を起こすと為景は劣勢となって佐渡に逃亡した。しかし翌永正7年(1510年)には寺泊から再び越後へ上陸。為景方が反攻に転じると坂戸城主長尾房長は上杉軍を坂戸城には入れず六万騎城に収容させた。為景軍が六万騎城に迫ると上杉軍は退却したが、援軍の高梨政盛(為景の外祖父)の助力もあり、長森原の戦いで顕定を戦死させた。この戦いで、顕定に従軍していた長尾定明や高山憲重らも討たれており、山内上杉家の軍事力は大きく減退した。

 その後為景は宇佐美房忠・色部昌長・本庄時長・竹俣清綱ら敵対勢力を破り、越中神保氏討伐へと繋がる。」

 

とある。

 宗祇の尋ねた永正六年(一五〇九年)はまさに「これを討たんとした顕定」が「報復の大軍を起こす」ところだった。「むさしのさぶらひ進発のことあり」はこのことと思われる。

 軍の準備で城中が騒然となっている中、とりあえずその日は一泊して、翌日杉山という者に案内されて長井左衛門宿所へ行く。

 その後の描写はその時のことだろう。鉢形城は門を閉じ橋を外して入れないようにして、仕方なく引き返し、芦の中の一本道を辿って、案内してくれた三田政定の知り合いの家を訪ねて、夜中過ぎに人と馬を出してもらって、とりあえずその夜を明かすことができた。この家の者が杉山だったのだろう。

 翌日、利根川を渡り新田の庄の礼部尚純の所へ行く。隠遁して静喜を名乗っていて、ここで連歌会が行われた。上野国新田は今の太田市・伊勢崎市・みどり市の辺りだという。太田市新田文化会館などに名前が残っている。新田文化会館の北西に東山道公園があり、古代東山道がここを通っていた。

 この時の興行の発句、

 

 露分し袖に見ゆべき野山かな   宗長

 

 寄居城のごたごたで、草原の露に濡れつつやっとたどり着いた長閑な野山だった。

 

 

5,上州

 

 「かれより度々の便につきて、白川の関のあらましも出来て思ひ立ぬる心を述侍る成べし。又静喜の発句に、

 

 朝霧をしらでまたぬる小萩哉

 

 萩の発句にはいかばかりの風情みみなれ侍らず。源氏物語にや、かかる朝霧をしらではぬる物にもかなとあり。萩にとりなされぬるその工案あさからず。」(「東路の津登」太田本)

 

 静喜に白河の関へ行く計画があることを言う。

 また、

 

 朝霧をしらでまたぬる小萩哉   静喜

 

の発句があって、その意味が分からず尋ねると、源氏物語だという。この部分、他の本には「若紫の巻」とある。

 少納言の乳母の所へ行って若紫の姫君に会った後、帰りに六条御息所の家の前を通り、

 

 あさぼらけきりたつそらのまよひにも

     行きすぎがたきいもがかどかな

 

と御供の者に大きな声で読み上げさせると、下っ端の女房が出てきて、

 

 たちとまりきりのまがきのすぎうくは

     くさのとざしにさはりしもせじ

 

という返事が返ってきた、この場面であろう。

 これから自分をさらってゆく君がこんなことをやっているとは、よもや小萩(若紫)は知るよしもない、ということか。

 

 「又二日ばかり終日閑談、忘れがたきことのみ成べし。

 岩松の道場にして所望に、

 

 花にくまもとあらの萩の月の庭」(「東路の津登」太田本)

 

 岩松は今の群馬県太田市岩松町であろう。道場は藤沢にもあり、そこでは遊行寺のことだった。

 コトバンクの「精選版 日本国語大辞典「道場」の解説」に、

 

 「④ 浄土真宗や時宗で、念仏の集まりを行なう場。簡略なものから、寺院までをいった。

  ※改邪鈔(1337頃)「道場と号して簷(のき)をならべ墻をへだてたるところにて、各別各別に会場をしむる事」

 

とあるから、道場と呼ばれるものはあちこちにあったのだろう。岩松町には岩松山青蓮寺という時宗の寺がある。

 「もとあら」はコトバンクの「精選版 日本国語大辞典「本荒」の解説」に、

 

 「〘名〙 木がまばらにはえていること。一説に、根元の方に花も葉もなく荒れていること。また一説に、去年の古枝に花が咲くこと。

  ※曾丹集(11C初か)「我やどのもとあらの桜咲かねども心をつけて見ればたのもし」

 

とある。

 

 花にくまもとあらの萩の月の庭  宗長

 

 萩の花に隈(くま)があるということで何だろうと思わせて、萩の根元の方が花や葉がないので、月が照らしてもそこが暗く見える、ということにする。

 

 「祖光とてもとより知音の隠者あり。一宿す。一折の望ありしかど、白川よりの帰路とて発句ばかり、

 

 風の見よ葉にしたがへる萩の露

 

 小庵のさまなるべし。」(「東路の津登」太田本)

 

 同じ岩松に祖光という隠遁者の庵があり、そこに一泊する。連歌一折を所望されたが、白川の帰りにということで発句だけ残す。

 

 風の見よ葉にしたがへる萩の露  宗長

 

の句だが、他の本では「風も見よ」となっていて、こっちの方が正しいのだろう。

 萩の葉に降りた露が風に吹かれて移動してゆく様を「葉にしたがへる」と表現する。

 そのあとに「小庵のさまなるべし」というのは比喩の意味も含めて、露を小庵に喩え、こういう不穏なご時世ですから、風のままに小庵に籠って隠棲するのが賢明でしょう、という意味を込めている。

 

 

6,足利

 

 「静喜より若殿原そへられて、下野国あしがらへをくらるる。

 学校に立寄侍れば、孔子・子路肖像をかけられたり。爰かしこのひと間ふた間の所々をしめて、諸国の学校かうべをかたぶけて、日ぐらし硯にむかへるさまかしこくかつ哀にも見え侍り。鑁阿寺一見して、千住院といふ房にて茶などのつゐでに、今夜は爰にとしゐてありしに、此院主もと草津にて見し人也。かたがたいなびがたくて三日ばかり有て連歌あり。

 

 ふけ嵐散やはつくす柳かな

 

 てにはいかがおぼえ侍り。」(「東路の津登」太田本)

 

 若殿原はコトバンクの「精選版 日本国語大辞典「若殿原」の解説」に、

 

 「〘名〙 若い侍たち。若い人たち。

  ※平家(13C前)七「わか殿原にあらそひてさきをかけんもおとなげなし」

 

とある。

 新田の静喜から若侍を護衛兼案内役に付けてもらい、足利へ向かう。「あしがら」は「あしかが」の間違いであろう。今でも間違えやすい。

 足利といえば足利学校で、ここに立寄る。ウィキペディアには、

 

 「室町時代の前期には衰退していたが、1432年(永享4年)、上杉憲実が足利の領主になって自ら再興に尽力し、鎌倉円覚寺の僧快元を能化に招いたり、蔵書を寄贈したりして学校を盛り上げた。」

 

とある。その内容は、

 

 「上杉憲実は1447年(文安4年)に足利荘及び足利学校に対して3か条の規定を定めた。この中で足利学校で教えるべき学問は三註・四書・六経・列子・荘子・史記・文選のみと限定し、仏教の経典の事は叢林や寺院で学ぶべきであると述べており、教員は禅僧などの僧侶であったものの、教育内容から仏教色を排したところに特徴がある。従って、教育の中心は儒学であったが、快元が『易経』のみならず実際の易学にも精通していたことから、易学を学ぶために足利学校を訪れる者が多く、また兵学、医学なども教えた。」

 

と言うように儒教が中心だった。

 鑁阿寺(ばんなじ)はウィキペディアに、

 

 「鑁阿寺(ばんなじ)は、栃木県足利市家富町にある真言宗大日派の本山である。「足利氏宅跡(鑁阿寺)」(あしかがしたくあと(ばんなじ))として国の史跡に指定されている。日本100名城の一つ。」

 

とある。元は足利氏の館で、館内に大日如来を奉納した持仏堂を建てたのが始まりだという。足利学校の裏側に隣接している。

 ここに三日ほど滞在し、連歌会も行われた。

 

 ふけ嵐散やはつくす柳かな    宗長

 

 折から台風が近づいていたのか。「散やはつくす」は「散りつくすやは」の倒置。「やは」は切れ字の「や」と意味的には同じに考えていいが、「は」という助詞で後ろに繋がるので切れ字にはならない。散り尽くしてしまうかもしれない、散り尽くすもまた良い、柳かなと繋がる。

 「てにはいかがおぼえ侍り」とあるように、苦心したてにはの使い方だったのだろう。

 散る柳は、

 

 下葉散る柳のこすゑうちなびき

     秋風たかし初雁のこゑ

              宗尊親王(玉葉集)

 

などの歌に詠まれている。

 

 「日をへだてずして東光院威徳院興行に、

 

 風はわかし松に吹音萩の声

 杉の葉に月も木高き軒端哉」(「東路の津登」太田本)

 

 東光院威徳院は鑁阿寺内にあった。かつては今よりはるかに広い面積があったのだろう。十二の院があったという。

 

 風はわかし松に吹音萩の声    宗長

 杉の葉に月も木高き軒端哉    同

 

 「風はわかし」はこの場合は若者のように荒々しいということか。

 足利でも強い風が吹いていた。その風はまだ止まずに、この日も松や萩を音を立てて吹き付けていた。

 もう一つの句は、境内の背の高い杉の木の遥か上の方の月が、この連歌会の行われている部屋の軒端から見える、というその場の景を詠んだものであろう。

 

 「佐野といふ所へうつり行。此所は万葉集にさの田の稲と読り。ふな橋此あたりや。爰に五日ばかりあり。小児の連歌するあり。宿の主じ山上筑前守興行。

 

 今朝よりや葉さへうつらふ萩の花

 

 ただ下葉うつらふとや侍らむ。佐野小太郎の亭にして、

 

 朝露はさりげなき夜の野分かな」(「東路の津登」太田本)

 

 「さの田の稲」は、

 

 上つ毛の佐野田の苗のむら苗に

     事は定めつ今はいかにせも(万葉集巻十四、三四一八)

 

の歌のことか。

 佐野の船橋は、

 

 上つ毛の佐野の舟橋取り離し

     親はさくれど我は離るがへ(万葉集巻十四、三四二〇)

 

の歌に詠まれていて、謡曲『船橋』のもなっている。今は高崎市の上佐野町にあったとされている。

 「小児の連歌するあり」は彰考館本には「小児乙丸連歌器量なるあり」とある。子供でも連歌の上手な人がいたようだ。「音丸」としている本もある。

 山上筑前守の所に五日滞在し、連歌興行の発句に、

 

 今朝よりや葉さへうつらふ萩の花 宗長

 

の句を詠んでいる。「うつらふ」は葉が色づくことであろう。萩の葉も黄色くなる。花も哀れだが、下葉が色づくのも哀れと、「ただ下葉うつらふ」とそこに目を付けた句だとしている。

 佐野小太郎の亭で、

 

 朝露はさりげなき夜の野分かな  宗長

 

の句を詠む。足利で吹いていた風はやはり野分の風だったようだ。

 「さりげなし」は今日の意味と同じだが、ここでは「去りげなし」と掛けて、なかなか去って行かない野分という意味でも用いている。

 

 「その夜野分してあした成べし。同越前守見参有てはいばいしかりしこと共なり。

 兼載此所より坂東路五十里ばかり隔りて、古河といふ所に所労の事あり。江春庵とて関東の名医その方にて養性あり。文などして申つかはし侍り。中風にて手ふるひ身もあからずとぞ。

 是より壬生といふ所へ横手刑部少輔成世相伴なはれて連歌あり。小児執筆する也。

 

 木末のみ村だつ霧のあしたかな

 

 此あしたの眺望ばかり也。」(「東路の津登」太田本)

 

 「はいばいし」は他本では「はへばへし」になっているが、意味はよくわからない。「延(はへ)る」から来た言葉か。コトバンクの「精選版 日本国語大辞典「延」の解説」に、

 

 「〘他ア下一(ハ下一)〙 は・ふ 〘他ハ下二〙 (「はう」に対応する他動詞形)

  ① 糸・紐(ひも)・綱や、布・袖などを長く引きのばす。のばしひろげる。長くはわせる。

  ※万葉(8C後)五・八九四「墨縄を 播倍(ハヘ)たる如く」

  ② 転じて、心情、ことばなどを相手に届くようにする。心をよせる。ことばをかける。

  ※古事記(712)中・歌謡「蓴(ぬなは)繰り 波閇(ハヘ)けく知らに 我が心しぞ いや愚(をこ)にして 今ぞ悔しき」

  ③ 数を順次ふやす。

  ※浄瑠璃・吉野忠信(1697頃)三「数へて見ればこはいかに十といひつつ四つはへて」

  [補注]室町時代頃からヤ行にも活用した。→はゆ(延)」

 

とある。②だとすると互いにしみじみと語り合った、という意味であろう。

 兼載が古河で療養していると聞いて、文を人に托す。『猪苗代兼載伝』(上野白浜子著、二〇〇七、歴史春秋出版)によれば、前年の永正五年(一五〇八年)に芦野の庵を引き払って古河に移り、永正六年には病中夏日百句や『閑草』を著作したという。翌年永正七年六月六日にこの世を去る。

 足利から佐野を経て壬生に至る道は、概ね古代東山道に沿っている。今の壬生市街地の南西、東武線野州大塚駅の近くに室の八島として知られている大神神社がある。その南に下野国庁跡がある。古代東山道はこの辺りを通っていたのだろう。東には天平の丘公園がある。

 佐野から横手刑部少輔成世と乙丸(音丸)が同行し連歌会が興行される。乙丸が主筆を務める。発句は、

 

 木末のみ村だつ霧のあしたかな  宗長

 

 朝霧が地面を覆う中、木のてっぺんの方だけが霧の上に覗いて見える。それがあちこちに見える、この辺の平野の情景であろう。畠の中に杉林や雑木林が点在していたのだろう。その中には大神神社の森もあったか。

 

 

7,室の八島

 

 「むろの八嶋ちかきほどなれば、亭主中務少輔綱房、これかれ伴ひて見にまかりたり。まことにうち見るよりさびしく哀に、折しも秋なり。いはんかたなくて、

 

 朝霧やむろの八しまの夕煙

 

 夕のけぶり今朝のあさ霧にやと覚へ侍るばかり也。猶哀にたえずして、

 

 あづまぢのむろの八しまの秋の色

     それともわかぬ夕けぶりかな

 

 人々にもあまたありしとなり。」(「東路の津登」太田本)

 

 壬生に来たなら、当然室の八島を尋ねないわけにはいかないだろう。そこで一句、

 

 朝霧やむろの八しまの夕煙    宗長

 

 室の八島といえば、

 

 風吹けば室の八島のゆふけぶり

     心の空に立ちにけるかな

              藤原顕方(千載集)

 暮るる夜は衛士のたく火をそれと見よ

     室の八島も都ならねば

              藤原定家(新勅撰集)

 

など、夕暮れの煙が詠まれている。

 おそらくもっと古い時代には、この辺りは低湿地帯で、大きな池やそこに浮かぶ島が独特な景観を織り成していて、そこでは温泉が湧き出ていたのか、それとも温度差のある水が流れ込んでいたのか、とにかく八つの島がいつも煙で包まれていたのだろう。

 時代が下ると伝承だけが残り、実際には煙はなく、「心の空に」だとか「衛士のたく火をそれと見よ」になったのだろう。

 宗長もその幻の煙を思い、朝霧を煙に見立てての吟になる。

 

 あづまぢのむろの八しまの秋の色

     それともわかぬ夕けぶりかな

              宗長法師

 

 この和歌の方も「それともわかぬ」と幻の夕煙を思うことになる。

 歌枕での詠は古歌に敬意を表し、「煙なんかないじゃないか」みたいな詠み方はしない。ただ、「心の中に煙が見えますよ」とするのが礼儀というものであろう。

 後に芭蕉も、

 

 糸遊に結びつきたる煙哉     芭蕉

 

と陽炎をいにしえの煙に見立てて詠んでいる。

 

 

8,日光へ

 

 「むろの八嶋見てそれより日光山をのをのうちつれて、鹿沼といふ所へ綱房父筑後守綱重の館へたちより一宿す。亭主念比のいたはり、いろいろのことのはをよび侍らん。

 そのあした、亭主日光へあひともなはんとて出たちのいそぎなどのあひだに、

 

 わかえつつ黒髪山ぞ秋の霜

 

 所望はなかりしかど、あまりの心ざしどもの切なる謝しがたきばかり。」(「東路の津登」太田本)

 

 壬生から鹿沼を通って日光に行くコースは、後の芭蕉の『奥の細道』のコースとも重なる。

 壬生の亭主、中務少輔綱房の父、筑後守綱重の館が鹿沼にあり、そこで一泊する。そしてその案内で日光へと向かう。その時の句は特に連歌会だとかのために所望されたのではない。こういう発句だけを独立に詠むことも時折あった。

 

 わかえつつ黒髪山ぞ秋の霜    宗長

 

 「わかえつつ」は若返りながらという意味で、『古今集』巻十九、一〇〇三の壬生忠岑「古歌にくはへてたてまつれる長歌」に用例がある。

 この私も若返って黒髪山になるとしようか、既に髪には秋の霜が下りているが、となる。宗長は文安五年(一四四八年)の生まれで、六十一になる。四十で初老という江戸時代の庶民の寿命からすると、この頃の連歌師は長寿だった。

 

 「此所くろかみのふもとなれば也。座禅院は此息とかや。うまご・ひこ、類ひろくさかへたる人なれば、それを賀し侍るばかり也。

 鹿沼より日光山迄は五十里の道、此比の雨に人馬の行かひとをるべくもあらざりしや、かぬまより道をつくらせ、てらの坂本迄は遥々のことなり。

 さかもとの人家数もわかず作りつづけて、京かまくらの市町のごとし。山々よりつづらおりなる岩を伝へてよぢのぼれば、寺のさま哀に、松・杉、雲・霧にまじはり、槇・桧原の峯幾重ともなし。

 左右の谷より大成川ながれ出たり。落あふ所の岩の崎より橋あり。ながさ四十丈也。中をそらして柱も立ず見へたり。山すげの橋と昔はいひわたりたるとなむ。此山に小菅生ると万葉集にあり。ゆへ有名と見えたり。

」(「東路の津登」太田本)

 

 筑後守綱重は壬生綱重でウィキペディアの「壬生綱房」の項には、

 

 「文明11年(1479年)、下野宇都宮氏の家老・壬生綱重の嫡男として誕生。主君・宇都宮成綱から偏諱を受けている。

 父・綱重が鹿沼城を任せられると、綱房は壬生城主となった。永正6年(1509年)に宗長が鹿沼に訪れた際に家臣の横手繁世と共に催し、句を披露した。この後、横手一伯の娘を側室として迎えたという。」

 

とある。また、

 

 「綱房は日光山を掌握しようと、二男・座禅院昌膳を送り込み日光山の実質的な最高位である御留守職に就任させ、自身は享禄期の頃に日光山御神領惣政所となり、日光山の統治者となった。」

 

とあるが、「座禅院は此息とかや」とあることから、先代の綱重の息子も座禅院別当代だったのか。

 座禅院は後の輪王寺のことで、室町時代に日光山を管理し、十五代に渡る権別当がいた。そのうち六人の墓が日光に現存しているという。輪王寺の名前は明暦元年(一六五五年)以降だという。

 鹿沼より日光山迄は五十里の道とあるが、江戸時代以降の里(約四キロ)だとするといくらなんでも遠すぎる。ウィキペディアには、

 

 「律令制崩壊後は時代や地域によって様々な里が使われるようになったが、おおむね5町(≒545m)から6町(≒655m)の間であった。なお本節では、明治に定められた「1町 = 1200⁄11m ≒ 109m」の比をさかのぼって使う。

 ただ、「里」は長い距離であるので、直接計測するのは困難である。そこで、半時(約1時間)歩いた距離を1里と呼ぶようになった。人が歩く速度は地形や道路の状態によって変わるので、様々な長さの里(36町里、40町里、48町里など)が存在することになるが、目的地までの里数だけで所要時間がわかるという利点がある。しかし、やはりこれでは混乱を招くということで、豊臣秀吉が36町里(≒3927m)に基づく一里塚を導入し、1604年に徳川家康が子の秀忠に命じて全国に敷設させた(ただし実際には、独自の間隔で敷設されていた各地の里が完全に置き換えられることはなかった)。

 ‥‥略‥‥

 このように、もっぱら6町の里と36町の里が併存し、「小道(こみち)」「大道(おおみち)」や「大里」「小里」などと区別した。また、小道は東国で使われたため「坂東道」「東道」「田舎道」など、大道は「西国道」「上道」などとも呼ばれた。東国で小道が使われていた名残は、七里ヶ浜(神奈川県)や九十九里浜(千葉県)のような地名に残っている。陸奥国では江戸時代後期まで小道が使われていたが、すでに古風と思われていた。」

 

とある。

 ここでいう五十里が小道だとすれば655m×50で32キロ750メートル、これが妥当な距離だろう。

 「京かまくらの市町のごとし」という坂本は、今の東武日光駅のある辺りであろう。

 「山々よりつづらおりなる岩を伝へてよぢのぼれば、寺のさま哀に、松・杉、雲・霧にまじはり、槇・桧原の峯幾重ともなし。」は座禅院(輪王寺)への道であろう。松杉は文明八年(一四七六年)日光山第四十四世別当になった昌源が植えたと言われている。

 「左右の谷より大成川ながれ出たり。落あふ所の岩の崎より橋あり。ながさ四十丈也。中をそらして柱も立ず見へたり。山すげの橋と昔はいひわたりたるとなむ。此山に小菅生ると万葉集にあり。ゆへ有名と見えたり。」

 とあるのは大谷川と稲荷川の合流する辺りだろう。長さ四十丈(約百二十メートル)の橋というのが本当なら、今の神橋の四倍はある。旧甲州街道の猿橋に見られるような刎橋(はねばし)だったと思われる。

 今の神橋は刎橋と桁橋を組み合わせた構造を取っているという。古代中世の日光の橋は「山菅の橋」とも「山菅の蛇橋」とも呼ばれた。コトバンクの「日本大百科全書(ニッポニカ)「神橋」の解説」には、

 

 「日光開山の祖、勝道上人(しょうどうしょうにん)が大谷川の急流を渡れないでいたとき、対岸に現れた深沙(じんじゃ)大王の手にした2匹のヘビが橋をつくり、山菅(やますげ)がその上に生えて渡河するを得たという。のち、ここに架けた橋は山菅橋あるいは山菅の蛇橋(じゃばし)などとよばれ、現在は神橋とよばれる。寛永(かんえい)年間(1624~1644)の修復の際、現在の形に改造された。」

 

とある。

 「此山に小菅生ると万葉集にあり」という万葉集の歌はよくわからない。小菅は和歌では「岩小菅」あるいは「岩元小菅」「玉小菅」として三室の山、奥山、山里、山城、長谷の山、足柄、箱根などに詠まれている。

 

 「その日の入逢のほどに鏡泉房につきぬ。やがて明る日は座禅院にして連歌あり。

 

 世は秋もときはかきはの深山かな

 

 当山常住不退地僧侶繁栄陰々堅固なることを述侍るばかり成べし。」(「東路の津登」太田本)

 

 鏡泉房は他本に「宿坊鏡泉房」とあり宿坊の名前だったようだ。翌日は座禅院で連歌会が興行される。発句は、

 

 世は秋もときはかきはの深山かな 宗長

 

 「ときはかきは」はコトバンクの「精選版 日本国語大辞典「常磐堅磐」の解説」に、

 

 「〘名〙 (形動) 永久に変わらないこと。また、そのさま。

  ※書紀(720)神代下(鴨脚本訓)「生めらん児、寿(みいのち)は永くして、如磐石(トキハカキハのあまひ)に常存(またか)らまし」

  [補注]「日葡辞書」では、建物が密集しているさまの意としている。」

 

とある。

 普通に読めば世は秋だが、ここにいる人たちはいつも若々しいという御世辞か、「若々しくあれ」という祝言だが、「日葡辞書」の意味でこんな山奥なのに都のように家が建て込んで、という裏の意味を込めたのかもしれない。

 「繁栄陰々堅固なること」というから、常盤のように繁栄するとともに、これだけの大きな街になっているという意味を込めたとしてもおかしくはない。

 

 「夜に入てはてぬ。執筆は児の十七・八にやおぼゆるにぞ。一座終日の興もあさからず侍し。宮増源三などいふさるがくのまじはりあひて、夜更るまで盃もあまた度に成て、うたひ舞して心ゆきおもしろきさま、誰か千代もとおもはざりけん。

 翌日には本道同権現拝して、滝尾といふ別所あり。滝本に不動堂有。回廊あり。ひだりみなぎり落たる川あり。松風二十余丈に大石をしけり。なべて寺中の石をたたみてなめらかなり。是より谷を見おろせば、院々僧屋をよそ五百房にもあまりぬらんかし。

 中善寺とて四十里上に湖ありとかや。此寺より宇都宮へ六十里なれば、よこくらといふ人の所はんぶん道にして、綱重又同道して連歌有。

 

 遠く見し立枝や宿の薄紅葉

 

 もずの鳴櫨のたち枝のうす紅葉

     誰我やどのものと見るらむ

 

 ふと思ひ出侍るばかりなるべし。」(「東路の津登」太田本)

 

 連歌興行は夜に終わった。主筆(執筆)は十七八の若者が務めた。前にも乙丸が務めてた時があったから、若い者が担当することが多かったのかもしれない。

 宮増源三は宮増を名乗る能楽師集団の一人と思われる。ウィキペディアには、

 

 「宮増(みやます)は、能「調伏曽我」「小袖曽我」「鞍馬天狗」「烏帽子折」「大江山」などの作者として、各種作者付に名前が見られる人物。計36番もの能の作者とされながら、その正体はほとんど明らかでなく、「謎の作者」と言われている。

 その作風は先行する観阿弥、また後の観世小次郎信光などに通じるもので、面白味を重視した演劇性の強い作品が多い。

 永享頃から室町後期にかけ、宮増姓を名乗る「宮増グループ」と呼ぶべき大和猿楽系の能役者群が活動しており、近年の研究では能作者「宮増」はその棟梁を務めた人物、あるいはグループに属した能作者たちの総称であるとも考えられている。」

 

とある。江戸時代でも能楽は「さるがく」と呼ばれることがあった。「誰か千代もとおもはざりけん」は宗長の発句の「ときはかきは」の祝言を受けている。

 翌日、まず「本道同権現拝して」とあるのは座禅院の本堂の権現で、そのあと「滝尾といふ別所」へ向かう。座禅院(輪王寺)の北に今も滝尾神社があり、白糸の滝がある。傾斜した岩の上を流れ落ちる滝で、真下に落ちる滝ではない。「みなぎり落たる川」というのは正確な描写と言える。かつては不動堂や回廊のある立派な寺院だったのだろう。

 見晴らしのいい場所があったのだろう。見おろすと坂本に立ち並ぶ宿坊が見え、その数五百と言われるほどだった。

 「中善寺とて四十里上に湖ありとかや」は実際に行ったわけではなく、ここで聞いた話だろう。この頃の一里は655mなので約二十六キロになる。直線距離ではなく、うねうねと曲がりくねった山道を行く道のりであろう。

 宇都宮へ六十里というのも約四十キロになる。その半ばに横倉という人の住む所があったのだろう。そこまで綱重に送ってってもらい、そこで連歌興行たあった。発句は、

 

 遠く見し立枝や宿の薄紅葉    宗長

 

 山から離れた開けた土地だったのだろう。見えるがままに詠んだという感じがする。

 薄紅葉は庭の櫨(はぜ)の木だったのだろう。

 

 もずの鳴櫨のたち枝のうす紅葉

     誰我やどのものと見るらむ

              宗長法師

 

という和歌も残して行く。

 

 

9,幻の白河

 

 「ここより宇都宮へ行おりふしも雨風いでてぬれぬれ日暮に着ぬ。明るあしたの晴間にぞ当宮めぐり侍る。まことかうがうしき神だち也。廿一年づつにつくりあらためらるとかやいづくもいづくもあたらしく見えたり。」(「東路の津登」太田本)

 

 宇都宮二荒山神社(うつのみやふたあらやまじんじゃ)であろう。下野国一之宮で日光の二荒山神社(ふたらさんじんじゃ)とは別のものとされている。遷宮が行われていたから「うつのみや」と呼ばれたという説もある。前回の遷宮は明応九年(一四九八年)に宇都宮成綱によって行われている。宇都宮成綱は壬生氏の主君でもある。

 ところでこの宇都宮成綱だが、ウィキペディアによると、

 

 「文亀3年(1503年)、積極的に勢力を拡大する成綱は下野国塩原の地を巡って会津の長沼氏との間に頻繁に争いを起こすようになる。また、同時期に蘆名氏の蘆名盛高も宇都宮領である下野国箒根を狙い北関東に侵攻しようとする動きを見せていた。」

 

とあり、宗長のやってきた時には、

 

 「永正6年(1509年)、蘆名盛高が長沼政義を先頭に関谷片角原に出陣してくる。それに対して成綱は紀清両党、一門である塩谷氏やその家臣である大館氏、山本氏、塩原綱宗などを率いて、和田山片足坂の三郎淵で対陣した。平貞能の末裔である田野城主の関谷氏が突然宇都宮勢から蘆名勢に寝返り、宇都宮勢の動きを蘆名勢に密告しようとしたが、成綱はこれに気づき、攻撃する。その結果、蘆名勢は総崩れとなり、成綱ら宇都宮勢の大勝となる(片角原の戦い)。これによって、塩原領は永正7年(1510年)、宇都宮成綱の物となり、弟の塩谷孝綱に与えた。」

 

とあるが、その合戦の真っ最中だった。

 

 「此宮より白川の関の間わづかに二日路の程といふ。され共、那須と鉾楯すること出来て合戦度々に及べりとなむ。一向に人の行かひもなければ、那須の原いとどたかがやのみ成となむ。ひたちのさかひをめぐれば、日数十五日ばかりに行かへりなんといふ。

 日比雨もいとどかしらさし出べくもあらず降そひて、きぬ川・中河などといふ大河洪水のよしきこえしかば、爰にいつとなく滞留も益なし、さらばたち帰るべきにさだむ。あまりに無下にも遺恨にもおぼえて、

 

 かつこえて行方にもと聞し名の

     なこそやこなた白川の関」(「東路の津登」太田本)

 

 冒頭に「白川の関のあらまし、霞と共に思ひつつなん」とあったのも結局実現できなかった。

 宇都宮から白河へは古代には東山道が通っていた。今のさくら市と那須烏山市の境界の直線道で、将軍桜がある。今の国道293号線へ通じ、那須那珂川町小川の方へ出て、真っすぐ北へ黒羽を経て伊王野へ行く道だった。

 宗祇の『白河紀行』はこの道ではなく、日光から玉入・矢板・大田原を経て黒羽へ出る、後の芭蕉が『奥の細道』で通るのと同じようなルートを通っている。この頃は宇都宮から矢板へ出る道があったのかもしれない。

 ただ、宗祇が通った時も既に人の背より高い笹が茂り、視界の利かない道だった。このルートが使えたなら大田原で一泊して、翌日には白河まで行けただろう。

 ここで「たかがや」というのも、背の高い萱や篠の茂る視界の利かない道だったのだろう。

 「ひたちのさかひをめぐれば」というのは、一度常陸太田まで行き、そこから今の国道349号線のルートを行き、矢祭町の先は国道118号線に沿って行く道であろう。これも古代東海道の延長線上にある古いルートだった。相当な遠回りになるので、往復十五日も誇張ではあるまい。

 

 「折しもこがの江春庵所労の人につきて同日にこの所へのことにて、長阿脈などこころみらる。余命おほからぬ身なれば、名医に面拝且快然の思ひなきにあらずや。」(「東路の津登」太田本)

 

 長阿というのは宗長の僧としての名前だろうか。当時の連歌師には「阿」の付く人が多いが、時宗と関連していた。宗長も藤沢の遊行寺に立寄っている。

 江春庵というと古河で兼載も診てもらっていて、「江春庵とて関東の名医その方にて養性あり」と前にも書いてあった。たまたま宇都宮に来ていて宗長も診てもらった。

 兼載が前年に芦野の庵を引き払ったのも、合戦の影響があったのかもしれない。

 

 

10,戻り道

 

 「十三日に壬生の館に帰来る道の雨風、蓑も笠もたまらず、大雨一夜車軸のごとし。十四日午刻ばかりに晴たり。

 十五日は名月とて発句催あり。今宵の発句古来趣向ことつきぬらむ、いかがとおぼゆれどしゐてのことなれば、

 

 月今宵ちりばかりだに雲もなし

 

 今夜の青天の心成べし。」(「東路の津登」太田本)

 

 十三日には大雨が降った。また別の台風が来たのだろうか。「車軸の如く」というのはそれだけ太いということで、今となってはあまりピンとこない言い回しだが、これは地面に飛び跳ねる王冠状の雫を車輪に喩え、車軸が降って来たみたいだというところから来たらしい。

 十四日の午後には晴れて十五日の名月は塵一つない澄み切った空になった。順調に白河へ行っていれば白河の関で見る月だった。

 

 月今宵ちりばかりだに雲もなし  宗長

 

 句の意味もそのまんまと言っていいだろう。それに心に塵がないというのを掛けている。

 

 「十六日に、大平といふ所に般若寺とて山寺あり。佐野への道にて一宿す。翌日に連歌あり。

 

 鹿の音や染ば紅葉の峯の松

 

 松・杉の山深き興ばかり成べし。」(「東路の津登」太田本)

 

 大平の般若寺は今の大平山神社で、壬生と佐野の間にある。神仏分離前は慈覚大師が開いた連祥院般若寺だった。

 ここでの連歌会の発句、

 

 鹿の音や染ば紅葉の峯の松    宗長

 

 山なので当時は鹿の声も普通に聞こえてきたのだろう。鹿の悲しげな声に常緑の峰の松も紅葉するのではないか、という句だ。

 

 「十八日にさのへとて、つなしげもここよりかたみに別おしみて出ぬ。又などいひ袖をひかえて、

 

 六十年あまりおなじの二の行末は

     君がためにぞ身をもいのらむ

 

 綱重と長阿同年とあるに、おもひよそへて心をのべ侍るばかり成べし。」(「東路の津登」太田本)

 

 宗長は文安五年(一四四八年)の生まれ、壬生綱重も文安五年(一四四八年)の生まれで共に数えで六十二歳、タメになる。

 この次いつ会えるかもわからないが、とりあえず「又」と言って別れて行く。

 

 六十年あまりおなじの二の行末は

     君がためにぞ身をもいのらむ

              宗長法師

 

 壬生綱重は永正十三年(一五一六年)、宗長はかなり長生きして天文元年(一五三二年)、この世を去っている。

 別れを以て終わらせるところは、『奥の細道』の蛤の二見の別れにも受け継がれているのかもしれない。