街道を行く

古代東海道編 東へ

 人は何で旅をするのかとふと思う。

 人生そのものが旅だという人もいる。

 生まれてきたことが旅ならば、帰る所は死。みんな等しく肉体は土に返り、精神は空気に溶けて風となる。それまでの間生きていることが旅だ。

 そして旅の人生の中でまた人は旅をする。旅行というとどこか目的地があって、そこで遊んだり名所を見たり温泉に入ったりグルメを楽しんだりする。でもこれはそんな立派な旅行ではない。ただ歩くだけだ。

 そこで見たもの、聞いたもの、他人からすれば「それが何だ」というようなたいしたことではないかもしれない。これは結局俺が生きた証し、誰もそんなことに興味なくても、俺はここにいた。まだこの頃は生きていた。そして、日本は平和だった。それだけの証しになればいいと思う。

 記憶はいつか変容し、そしていくつもの異なる記憶がまた争いをもたらす。いっそのこと記憶など持たぬ方が平和なのかもしれない。だから俺のことは忘れてもいいよ。

二〇一六年四月二十九日

 古代東海道の旅も沼津まで行き、ここから先は近世東海道とほぼ同じ道になるので、とりあえずここで一区切りとし、今回は東に向かうことにした。

 九時半に分倍河原をスタートした。分倍河原はこれが三度目で、一度目は南へ。それが最終的に沼津まで行くこととなった。二度目は北へ。これは東山道武蔵路の旅で、足利まで行った。今回は東へ。まずは市川の下総国府を目指す。

 まずは旧甲州街道に出て、武蔵国国府跡へ向かう。この道は東山道武蔵路の旅のはじめにも通った。弁慶坂も覚えている。

 五月の三、四、五は大国魂神社の祭のようで、通りには例大祭の幟が立ち、あちこちでお祭りの準備が進められている。「くらやみ祭」のポスターもあちこちにある。

 大国魂神社は、前に来た時は初詣の人が沢山いたが、今回は祭の前で参拝者は少ない。軍艦多摩戦没者慰霊碑の前に平成十四年銘の狛犬があった。前に来た時に見落としてたようだ。

  拝殿裏にも見落としていた狛犬があったので行ってみた。まずは拝殿右側の住吉神社・大鷲神社の狛犬。招魂社系で首に鈴がある。両方とも口を閉じていて、右側は角がある。隣の東照宮の狛犬は大きめで、やはり招魂社系。後で調べたら、寛保二年(一七四二)という古いものらしい。阿形の方はやたら口を大きく開けている。

 拝殿左側の巽神社にも小さな狛犬がある。阿吽が逆で右側の吽形の方の顔がヒヒみたいだ。阿形の方はまだ普通。宝物殿の木造狛犬は、何となく谷保天神の時の記憶とごっちゃになっていて、つい見たと勘違いして今回もスルーしてしまった。

 大国魂神社を出て、その隣の国府跡に行く。前に来た時と同じで、特に変わったことはない。

 このあと甲州街道の旧道に戻り、さらに東へ向かう。八幡宿交差点の先は道が両側一車線になる。

 右側に鳥居があり、国府八幡宮とあったので行ってみる。参道を行くと踏切があり、神社はその向こうだった。京王競馬場線は線路が草に埋もれ、ローカル線だった。平成七年銘の岡崎型の狛犬があった。

 旧甲州街道に戻ると、右側に大嶽電機という廃墟のような謎の建物がある。

 京王線の本線の踏切を越えると東府中駅がある。このまま行くと、旧甲州街道は少しづつ南へカーブして行くので、直進するためには少しづつ左側の道に入っていかなくてはならない。東府中駅東交差点左に行き、その先の狭い道を右に入る。突き当たったところに常久八幡神社があった。昭和五十二年銘の招魂社系の狛犬があった。

 現在の甲州街道(国道20号線)に出て、さらに東に行くと上染谷八幡神社がある。八幡神社が続く。ここにも昭和五十年銘の招魂社系の狛犬がある。

 



 八幡神社は道鏡事件の時に、道鏡を天皇にしろとの宣託が下されたいうので和気清麻呂が確かめた所「天の日継は必ず帝の氏を継がしめむ。無道の人は宜しく早く掃い除くべし」という宣託が下った、その両方の宣託に関わっている。天皇の万世一系がここに確立されたと同時に、それまでしばしばあった女帝も、その女帝の夫が皇位につくことを懸念して廃止された。八幡神社はもともと渡来系の神社だったが、皇室の正当性を保証したのと、さらに応神天皇の三韓征伐と結び付けられることで急速に広まっていったらしい。

 なお、八幡神社は白山神社や高麗神社などと同様、渡来系の神社には違いないが、それが即韓国起源を意味するのではない。「八幡神社は韓国起源ニダ」という説に騙されないように。 上染谷八幡神社を出て次の信号、白糸台交番前のあたりから国道20号線も南へ曲がって行く。ここで直進を維持するために左に入る。少し行って右に入る狭い道を行くと西武多摩川線の線路に突き当たる。ここには地下道があってくぐることができる。狭い道を左に右に少し行くと広い道に突き当たる。正面は警察大学校で進むことができないので北に迂回する。

 それでもグランドに突き当たる。子どもたちが野球やサッカーの練習をしている。グランドの先は調布飛行場で進むことができない。

 今度は南に迂回して、味の素スタジアムの駐車場の所を入って行き、飛行場の横をさらに南に行き、市民西町サッカー場の所でようやく飛行場の東側に行ける。この市民西町サッカー場は去年の夏に飛行機事故があったとき、その飛び立ってゆく事故機の映像で何度も見たところだ。

 今日は北風なので飛行機は反対側に飛んでいっているようだ。

 この大きなスポーツ公園は調布市と三鷹市にまたがっているようで、北の方へ行くと三鷹市大沢総合グラウンドとなっている。このあたりで道路に出て再び東に向かう。

 野川を渡るとその先は上り坂となっていて、これまでいたところとは一段高い台地になっているようだ。羽沢小学校前を右に曲がると上り坂で、狭い道を抜けると武蔵境通りに出る。突き当たりに宿神明社がある。明治四十年銘の小ぶりな狛犬があるが、彫りが深くてなかなかの名品だ。

 神明社の前の小さな道を下ってゆくと深大寺の門前の蕎麦屋が沢山並んでいる所に出る。ただ、深大寺やその植物園を見て回るとなると時間がかかるので、また別の日に譲って今日は通り過ぎる。蕎麦もいつか深大寺ビール(ホッピービバレッジが作っている)を飲みながらゆっくりと食べたいものだ。

 深大寺は天平五年(七三三)開創といわれる古刹で、この寺が武蔵国国府のほぼ真東にあるのは偶然ではないだろう。街道沿いで交通の便が良いことも関係していたに違いない。

 深大寺の反対側に出ると青渭神社がある。延喜式神名帳に武蔵國多磨郡青渭神社があるものの、稲城や青梅にも青渭神社があるため、どこの青渭神社を指すのか確定していない。

 青渭神社でも祭があるのか、子どもが太鼓の練習をしている。明治十三年銘の江戸狛犬もなかなかの出来だ。青渭神社の道路を隔てた向かい側は急な斜面になって谷間になっている。このあたりから湧き出た水を祭った水神様なのか。


 さて、古代東海道のルートだが、実はこのあたりのルートはまったく分かっていない。物証となる道路遺構もなく、ただ推測で国府から東へまっすぐ深大寺に来たにすぎない。

 『続日本記』によると武蔵から下総への道の途中には乗瀦(のりぬま)駅と豊嶋駅がある。乗瀦は杉並区の天沼とする説が有力なので、これからそっちへ向かうことになる。深大寺のあたりから北東に進路を変える必要がある。

  青渭神社から三鷹通りを北に行き、深大寺五差路から消防大学通りに入る。この通りも緩やかな上り坂だ。坂の上に消防大学校がある。今日は警察大学校と消防大学校を見た。

 裏道に入って杏林大学病院の前を通って仙川の手前で広い通りに合流する。ここに仙川公園がある。ここにどこかで見たことのあるような像がある。確か長崎にあった右手を上に上げて左手を横に伸ばしたあの像のミニチュアだろう。「平和の像」と書いてあった。アンネ・フランクのバラというのもあった。

 仙川を渡る。川には白鷺がいる。

 東八道路を渡り、三鷹一小前から先は人見街道になる。この街道も古代東海道の名残だという説がある。深大寺と天沼を直線で結ぶなら、確かにこのあたりの人見街道に重なる。

 人見街道は牟礼二丁目交差点で右に曲がってゆくが、ここは直進し、三鷹台に向かう。この道は標高が低いながらも峠道のようだ。今は切り通しになっているが、昔は山越えの道だったのかもしれない。右側の小高い所に神社が見える。牟礼神明社だ。ここにも昭和八年銘の狛犬がある。境内社の三峰・榛名神社の前にも小さな狛犬がある。


 天文六年(一五三七)にはここで北条冶部少輔綱種が陣を張り、そのあと一五九〇年に牟礼の開村だから、それ以前は山林かいわゆる武蔵野だったのだろう。眺めがいいから、東村山の八国山将軍塚のように道路を作る時のランドマークとして使われた可能性はある。

 坂を下りると小さな川がある。ここから先は三鷹台の商店街になる。自家製麺ほんわかというラーメン屋で天理ラーメンというのを食べた。奈良県天理市の御当地ラーメンらしい。韮や白菜が入っていて、前に渋谷で食べた神座(かむくら)のラーメンを思い切り辛口にしたようなラーメンだった。後で調べたら、天理ラーメンの方が先で、神座(かむくら)のラーメンの方がそれを甘口にしたようだ。

 三鷹台の駅のところにも川があった。これは井の頭公園から流れてくる神田川で、子どもの作った沢山の鯉幟が飾られていた。

 時間的には荻窪まで歩けそうだったが、ここから渋谷へ出れるので、帰り道の便を考えると今日はここで終了。

 天沼は荻窪の北で、ここから先のルートはこれもまったくの推定だが、台東区の鳥越神社まで東へ真っ直ぐに行こうと思う。

 将門ゆかりの神社をめぐった時に、鳥越神社、神田明神、筑土八幡神社、鎧神社が東西に一直線に並んでるというのが気になったからだ。この延長線上に天沼がある。ここに古代道路があった可能性大だ。

 一方で、鐘淵から立石、奥戸を経て市川の国府台公園へと続く直線的な道が古代東海道の有力な推定路になっている。和洋学園国府台キャンパス内では道路遺構も見つかっている。

 鳥越と鐘淵の隅田川を隔てた対岸、石濱神社のあたりとを結ぶ間には大化元年(六四五)に開かれた古刹、浅草寺がある。また、この直線を南南西に延ばすと、将門ゆかりの兜神社を経て、『更級日記』にも登場する竹芝寺(済海寺)へと続く。


七月十八日

 今日は久しぶりに古代東海道東への続きで、八時四十五分頃井の頭線の三鷹台駅をスタートした。

 駅を出てすぐに神田川を渡る。前に来た時には鯉幟があったっけ。

 ここから北東へ荻窪を目指すのだが、残念ながら真っ直ぐ進める道はなく、碁盤目状の住宅地の道をジグザグに行くしかない。

 道は最初緩やかな上り坂で、そう高くない台地の上に出る。あたりは静かな住宅地だ。

 宮前五丁目交差点のあたりで井の頭通りを越え、西荻南交差点のあたりで五日市街道を越える。高井戸四小のあたりには小さな栗園がある。

 やがて荻窪八幡摂社天祖神社に出る。天正十二年(一五八四)に、このあたりに小祠があったらしい。本能寺の変の二年後で、神社の説明板には「検地の際には、すでに小祠があったと伝えられており」とあるが、まだ北条氏政が汁かけ飯を食ってた頃だから太閤検地ではない。北条氏政が江戸を支配した時に独自に行った検地なのだろう。

 狛犬は岡崎型で台座には皇紀二六六〇年記念とある。えーっとー、二六〇〇年が昭和十五年で一九四〇年だからーっ、それプラス六十で、あー、わかった。ミレニアムの狛犬だ。境内社に御嶽神社がある。

 天祖神社を出てさらにジグザグに進む。南荻窪四丁目交差点を北に向かうと道は緩やかに下り、中央線のガードが見えてくる。その手前に東吾橋という小さな橋があって善福寺川を渡る。荻窪というのは多分善福寺川の河川敷に広い荻の茂った原っぱがあったからなのだろう。

 中央線のガードをくぐり少し行った所を右に曲がると、環八とその向こうの荻窪白山神社が見えてくる。

 荻窪白山神社は震災のあった二〇一一年、アニメ「輪るピングドラム」の聖地廻りで来たことがあった。特に変わった様子はないようだ。

 白山神社を出ると、そこは荻窪の商店街で、餃子の王将やらあめん花月などが並ぶ。パチンコ屋の前には十時の開店の行列が出来ている。

 青梅街道の歩道橋を渡ると住所は天沼になる。俺の推定路が正しいなら、このあたりで古代東海道はほぼ真東へ、今の中央線に沿って向きを変える。このあたりに乗瀦(のりぬま)駅があったことになる。今の荻窪の町の下にはかつての乗瀦駅が眠っているのかもしれない。

 教会通りの細い路地を行き、東京衛生病院を右に曲がる。そして病院の先をもう一度右に曲がると公園があり、郷土博物館分館がある。池があり弁天様の小さな社がある。


 その少し先に天沼八幡神社がある。これも天正年間の創建。昭和二十八年銘の狛犬がある。

 この後、川をを埋めて遊歩道にしたような道がある。明治二十年の地図を見ると、確かにこのあたりが小さな谷になっている。そこを流れていた小川のあとなのだろう。槿や芙蓉の花が咲いている。

 歩きやすい道だからついつい歩いてしまったが、多分この道だと北により過ぎている。この小さな谷の南側の台地と通っていたのではないかと思う。


 慈恩寺のあたりからやや南に進路を取る。このあたりは道が不規則で方向がわからなくなる。結局そんなに南へは行けずに法仙庵の北側に出た。ここから松山通りを少し南に行き、右に曲がり、中杉通りを横切り阿佐ヶ谷神明宮の裏に出る。この裏の入口の所に明治四十四年銘の狛犬がある。拝殿は伊勢造りのかなり立派なもので、神楽殿も新しく、能が演じられるような舞台になっている。

 日本武尊に由来する古い神社らしいが、本来阿佐谷北の杉森中学に近いほうにあったのを江戸中期にここに移したもので、古代道路の証拠としては弱いか。

 このあと河北総合病院の先を右に曲がりしばらく行くと中央線のガードが見えてくる。ガードの下に道があり、やがてガードしたに小さな店が並び、高円寺駅に出る。

 この先概ね中央線に沿って進む。環七を越え変電所のある辺りを過ぎると右側に小さな神社がある。正一位稲荷神社の額がある。その先のたかはら公園を左に行くと、広い道に出る。明治大学中野キャンパスがある。

 ここまで来ればもう中野駅前だ。中野区役所があり中野サンプラザがある。区役所の前には犬の像がたくさんある。徳川綱吉の犬屋敷があったところらしい。中野通りを渡り一つ向こうの筋は中野サンモール商店街だ。大体十二時で、今日は暑いから古代東海道の旅はここまで。

  そのあとちょっと中野を散歩してから帰る。中野ブロードウェイには東証二部に上場しているまんだらけをはじめ、たくさんの漫画アニメ関係の店が並んでいる。ただ、秋葉原に比べると年齢層が高めか。

 そして今日のラーメンは、サンモールにある九州ラーメンの艶まるのどっかんまるラーメン。


八月十五日

 今日は古代東海道東への続きで、九時十分中野駅を出発した。空はどんより曇っていて気温はそんなに高くなくて歩きやすそうだ。台風が近づいているせいだろうか。

 中野サンモールから中野三番街へ入る。早朝だが人通りは多く、開店前の店の準備で忙しそうだ。

 突き当りの保育園の所を右に曲がり、その先を左に行き、少し行くと北野神社がある。古そうな小さな江戸狛犬があるが、銘は読み取れない。右側の玉取りの玉に紐がついているのが珍しい。

 文園通りに入る。このあたりの道はどこも狭い。季節柄、槿の花をよく見る。赤い綺麗な槿があると思ったら、それはハイビスカスだった。

 やがて中央線の線路脇に出る。東中野駅が近づくと線路は下り勾配になり切通しを行くので、線路を下に見下ろすようになる。

  東中野駅は山手通りを渡ったところにあり、山手通りの落合方面は下り坂になっている。今まで歩いてきたのが神田川と妙正寺川に挟まれた小高い台地の上だというのがわかる。その台地も東中野駅の先で急坂になり、神田川へと降りてゆく。いわば山の手の終わりとも言えるところだ。


 東中野駅の交番の横は階段になっている。線路は高架になっている。そして下ったところの万亀橋で神田川を渡る。

 ここから先の道も狭い。大きな寺のあるところを左へ曲がり、学校の裏を抜けると鎧神社の裏側に出る。日本武尊の甲冑六具を収めたことを由来とする神社で、平将門の鎧もここに埋めたと言う。古代東海道が通るのにふさわしい神社だ。

 ここは震災前の二〇一〇年十月にも来ていて、天保七年の江戸狛犬、享保六年の狛犬型庚申塔(普通に江戸はじめの狛犬にしか見えない)は健在だ。



 中央線の鎧ガードという名前のガードをくぐると淀橋市場の前に出る。このあたりから緩やかな上り坂になり、戸山と言うだけあって若干高くなっている。されど山の手は続くと言った所か。神田川の反対側の台地が南の方から張り出しているようだ。

 明治通りを渡る。このあたりも南北が緩やかに下り坂になっていて稜線になっているのがわかる。マクドナルドの所を曲がるとここは谷になっている。正面に小さな山が見えるが、あれが箱根山か。

 箱根山は標高44.6メートルで、戸山公園サービスセンターでは登山証明書がもらえるらしい。ただ、この山は古代からあったのではなく、寛文の頃に作られた築山だと言う。ただ、先の稜線上にあるため、もとからこの辺りは多少盛り上がっていたのだろう。

 箱根山を過ぎると、この戸山の稜線と北側の谷との高低差が大きくなる。このまま稜線を進みたいところだが、早稲田大学と山キャンパスに阻まれる。正面に見える国立感染症研究所の建設中に百体もの人骨が出てきたため、この付近は心霊スポットとされているらしい。陸軍軍医学校の跡地だったため、七三一部隊との関連が疑われている。

 ここを左に曲がって箱根山通りを降りてゆくと、そこに穴八幡宮がある。

 穴八幡宮も二〇一二年の二月に来ている。赤い楼門と黒と金の拝殿は荘厳だ。神武天皇遥拝所の宝暦五年銘狛犬も健在だ。阿形は宝珠を頭に載せ、吽形は角がある。この神社も康平五年(一〇六二年)に奥州の乱を鎮圧した源義家に由来するという古い神社だ。

 穴八幡を出て夏目坂を登ると戸山の稜線の方に戻る。夏目の名はあるものの、残念ながらにゃんこ先生はいなかった。

 夏目坂をこのまま進むと反対側へ降りていってしまうので、左に曲がり、再び狭い路地に入る。牛込二中と早稲田小の間を通ると、漱石山房通りというこれも小さな路地に出る。何だ漱石の方の夏目か。未だに朝日新聞に連載を書いているらしい。漱石公園というのもあった。

 保健センターの前に出てその裏へ行くと小浜藩邸跡というのがあった。杉田玄白もここで生まれたと言う。公園の名前も小浜公園。さらに行くと矢来能楽堂の裏で突き当たる。左に行くと地下鉄の神楽坂駅に出る。ちょうど十二時だ。七十一年前に玉音放送のあった時間だ。

  今日の神楽坂も平和だ。オリンピックはメダルラッシュだし、中国船はあれからそんなに目立った動きもない。ただ、先のことは誰もわからない。まあ、中国はあんなちんけな島なんかより、本当に欲しいのは東シナ海そのものではないかと思うから、いきなり日本に攻めてきたりはしないと思うが。

 左側の奥に赤城神社がある。筑土八幡神社ほどではないものの正安年(一三〇〇年)創建と伝えられている古い神社だ。

 狛犬は真新しく銘はないが、形は昔からあるものを復刻したらしい。いわゆる白山狛犬というおかっぱ頭の狛犬だ。

 拝殿も新しいが、境内社の螢雪天神の形は異様だ。やはり新しい拝殿だが、階段を登ると神楽殿のように床になっていてその向こうに扉があり、そこに御神体がありそうなのだが、奥行きがほとんどない。しかも床下は道路になっていて、その道路は奥にある稲荷社に続いている。

 この境内社は本来朝日天満宮だったのを、戦後旺文社の赤尾文夫の寄進によって再興されたもので、「螢雪時代」の神社というわけだ。もっとも俺は「赤尾の豆単」の世代ではなく「しけ単」の世代だが。

 筑土八幡神社はここからさらに狭い路地を右左に行った所にある。嵯峨天皇の時代(九世紀のはじめ)に起源があるとされている。やはり二〇一〇年十月、鎧神社に行ったのと同じ日に来ている。文化七年銘の江戸狛犬、桃の実を持った猿の描かれた庚申塔は健在だ。


 表側は長い石段になっていて、ここがこれまで歩いてきた戸山の稜線のエンドだ。この横を緩やかに下るのが神楽坂で、多分その起源は古代東海道にまで遡れるのではないかと思う。

 筑土八幡町の交差点に出ると、景色は一変する。広い道路に高いオフィスビルなど、もはや山の手の景色ではない。

 この先の道路はとにかく広い。首都高の下を通り、神田川に沿って進む。左には東京ドームや後楽園遊園地が見える。道路の脇には「お茶の水分水路」の碑があり、神田上水懸樋跡の碑もある。神田川の浚渫作業は芭蕉が若い頃指揮したとも言われている。

 やがて御茶ノ水の駅に出る。今日はここまで。


九月十九日

 今日は古代東海道の続きで、九時ちょっと前にお茶の水(正確には千代田線新御茶ノ水駅)をスタート。空はどんより曇っていて、ポツリポツリと雨が落ちてきている。 

 JR御茶ノ水駅の方へ戻り御茶ノ水橋を渡って、ここから古代東海道の続きになる。 

 聖橋をくぐると左側に湯島聖堂の塀がある。このあたりが昌平坂で江戸時代の浮世絵にも描かれている。どうやら雨は大丈夫のようだ。 

 湯島聖堂は二〇一〇年にも一度来たが、今回も一応立ち寄ってみた。大きな孔子像があり、人徳門という黒塗りの立派な門がある。時間が早くて杏壇門が開いてなくて大成殿の方には入れなかったが、屋根の上の大きなしゃちほこのような鬼犾頭(きぎんとう)や虎のような鬼龍子(きりゅうし)は見ることができた。 

 湯島聖堂の裏へ出るとすぐに神田明神の鳥居がある。ここも二〇一〇年に来た。きらびやかな楼門があり、昭和八年銘の大きな招魂社系の狛犬があるし、平成二年に再建された獅子山もある。今はラブライブとコラボしているようで、ラブライブのカステラ饅頭と御朱印帳の看板があった。おみくじを結ぶ所もハート型になっている。裏に行くと境内社がたくさんある。

 神田明神を出て、坂を下るとすぐに秋葉原だ。 

 オタクの聖地だった秋葉原も、最近は新宿池袋あたりによくある、萌えとは似て非なるJKビジネスの店が進出してきていて、援交を斡旋しているという。 

 人権団体の人は「児童買春」という言葉を使っているが、これだと何だか東南アジアの裏社会にあるようなものを想像してしまう。「援交」というわかりやすい言葉を使った方がいいのではないかと思う。ジュニアアイドルのビデオも「児童ポルノ」と言われると、何かもっとすごいものを想像してしまう。 

 秋葉原の中心、ソフマップの角を行くと秋葉原の駅に出る。 

 秋葉原の名の由来は、今の秋葉原駅前広場や駅前ロータリーの辺りに明治の初めに火災よけのために建てられた鎮火社が建てられたのを、当時の江戸っ子が同じ火災除けの秋葉大権現と混同して秋葉っぱらと呼んだことによるという。秋葉原という名前は結構適当につけられてたようだ。 

 確かに手元にある復刻版の明治二十年に地図には鎮火社が見られる。この鎮火社は幕末の地図には載ってない。 

 秋葉原の駅を過ぎ、昭和通りを渡ると神田和泉町で、伊勢国津藩藤堂家の上屋敷があったという説明板がある。この説明板に江戸時代の地図が書いてあるが、確かにそこにも鎮火社はない。 

 ちなみに芭蕉が若い頃料理人として仕え、俳諧の道に入るきっかけとなった蝉吟こと藤堂良忠は、藤堂高虎の子孫の津藩藤堂家とは別系統で、高虎の叔母の方の系統になる。 

 和泉町を東に行くと和泉公園があり、その隣に金綱(きんつな)稲荷神社がある。その先を左に行ってすぐ右に行くと福井町通りになる。この辺りは静かだ。 

 浅草橋一、二丁目交差点を左に曲がると遠くに鳥越神社の玉垣が見える。鳥越神社も六五一年に日本武尊を祀ったの始まりとする古い神社だ。ここも二〇一〇年に一度来ている。昭和七年銘の狛犬は細身で吽形の方は頭に角がある。 

 古代東海道の豊島駅は、おそらく秋葉原から鳥越の間のどこかにあったのだろう。かつての豊島郡は範囲が広く、練馬・板橋からこのあたりまで広がっていた。南は荏原郡、東は隅田川の向こうの葛飾郡だった。 


 鳥越神社を出て東へ行くと蔵前一丁目の交差点で国道6号線に出る。古代東海道は浅草橋一、二丁目で曲がらず、真っ直ぐ今の6号線のあたりに出たのだろう。鳥越神社は寄り道だった。 

 6号線の広い通りを行く。厩橋ではスカイツリーが見えてくるが、第一展望台の上が雲に隠れている。その先へ行くと駒形橋西詰の交差点に出、ここから浅草寺の参道が分かれていて雷門が見える。この交差点には駒形堂があり、団体さんが見物していた。 

 ここで浅草寺に行かず、さらに6号線を行くと東武鉄道の浅草駅に出る。駅ビルは浅草松屋になっている。その手前に神谷バーがあり、売店があったのでお土産にデンキブランを買った。そして、ここで曲がって雷門の方に向かう。雷門から仲見世通りに入るととにかく人が多い。特に外人さんが。日本人のように見えても喋っている言葉は中国語が多く、たまに韓国語も聞こえてくる。一体ここはどこの国? 

 神田明神よりもはるかに大きな楼門をくぐり、浅草寺にお参りする。そういえば五重塔がないと思ったら、足場に覆われたビルのような建物があった。 

 拝殿の横には境内社が並んでいる。大黒・恵比寿の社の前には小さな狛犬が赤い涎掛けをしている。銘はないが何げに古そうだ。隣の地蔵さんも綺麗な赤い着物を着ている。

 浅草寺の裏には浅草神社があり、ここには昭和三十八年銘のブロンズの狛犬と、銘はないが古そうな江戸狛犬がいる。 

 お参りを済ませて外に出ようとすると、左側に夫婦狛犬と書いた札が立っている。札の説明書きには、 

 

 分類‥‥「先代江戸初め」 

 一六〇〇年代後半から七〇〇年代前半 

 

それに「良縁」「恋愛成就」「夫婦和合」と書いてある。 

 

 その先を見ると唐傘の下に狛犬が両方ともこちらを向いて並んで置かれている。立て札は新しく、縁結びのパワースポットとして整備したようだ。 

 このほか、弁天道の前には岡崎型の変形で、彫りが深すぎるために鬼瓦のような顔をしている狛犬がある。この狛犬の横には、 

 

 くわんをんのいらか見やりつ花の雲  芭蕉 

 

の句碑がある。貞享三年の春、古池の句を発表した頃の句だ。浅草寺の桜が満開で、それが雲のように見え、観音様の甍がほとんど隠れているという意味か。翌年には、 

 

 花の雲鐘は上野か浅草か  芭蕉 

 

の句がある。浅草も上野も花の名所で、花にお寺が隠れてしまって鐘がどこで鳴っているのかわからない。 

 徳川吉宗が享保の頃、王子の飛鳥山に桜を植え、それが江戸の花見の始まりとする説もあるが、それ以前に上野や浅草で花見が行われていたのは間違いないだろう。

 仲見世通りの一本裏の通りを通って神谷バーのあるところへ戻る。この道は人通りが少ない。駒形橋西詰の交差点に出ると雲がやや薄くなったのか、スカイツリーが上の方まで見えていた。

 言問橋西を過ぎると隅田川側は公園となり、左には待乳山聖天(まつちやましょうでん)がある。小さな山で、推古天皇の御世に地中から忽然湧き出たという伝説がある。


 ここでは大根をお供えするらしい。お供え用の大根が売っていた。文政三年の大根の碑があり、拝殿にも大根が描かれている。二本の二股の大根が絡み合うデザインだ。かなり即物的に夫婦和合を表している。拝殿前の石段の下に昭和三十八年銘の岡崎型狛犬がある。

 こんな低い山でもなぜか小さなケーブルカーがある。

 駐車場の方にも岡崎型狛犬がある。ここから登る石段は通行止めになっている。二〇一〇年に来た時には先代狛犬が二頭並んで、浅草神社の夫婦狛犬みたいになってたのだが、見つからなかった。


 待乳山聖天の先を斜め左に行くと今戸神社がある。ここも二〇一〇年に来た。招き猫発祥の地でもあり沖田総司終焉の地でもあり文政五年の狛犬もある、盛りだくさんの神社だ。文政五年の狛犬は残念ながら金網の中だ。この神社にはもう一つ昭和四十九年銘の招魂社系の狛犬もある。前に来た時は夏目友人帳のニャンコ先生と黒ニャンコ先生の招き猫が奉納されていたが、今回も健在だった。

 今戸神社を出、川沿いの道に戻る。右に白髭橋を見ながら進むと、その先に石浜神社が見えてくる。ここは二〇一一年、震災直後の「奥の細道」の旅を始めた時に立ち寄っている。大正四年銘狛犬と平成元年銘狛犬がある。

 このあと、道の横はすぐに隅田川の土手になる。撫子と女郎花が植えられている。土手を登ると隅田川の向こうに首都高があり、その向こうに大きなマンションがある。何棟も横につながっていて、堤防を兼ねたマンションだ。川下にはスカイツリーが見える。また雲がかかって、第一展望台までしか見えない。

 しばし土手の上を進む。首都高の影に神社の屋根らしきものが見え、おそらく隅田川神社だろう。多分このあたりが古代東海道の隅田川を渡る地点だ。なかなか雄大な景色だ。

 

 名にし負はばいざ言問はむ都鳥

    わが思ふ人はありやなしやと

               在原業平

 

と歌に詠まれたのもこのあたりか。『伊勢物語』には「武蔵の国と下総の国との中に、いと大きなる河あり。それをすみだ河といふ。」とあるが、武蔵と下総の境は隅田川ではなく太日川だが、そこはアバウトだったか。(後で知ったのだがこれは正しかった)


 『更級日記』では「しもつさの国と武蔵との境にてあるふとゐ河」とあるが、隅田川に関しては「武蔵と相模との中にゐてあすだ河といふ、在五中将のいざ言問はむとよみける渡りなり。」となっていて、「あすだ河」が隅田川の別名だというから、隅田川の位置は正確には認識されてなかったようだ。

 今は、川を渡るには白髭橋まで戻るか、この先の水神大橋を渡らなくてはならない。

 水神大橋の手前に木造の汐入タワーという小さな展望台があった。ここからも隅田川を渡る地点の雄大な景色が楽しめる。

 水神大橋を渡り、土手の上を戻ると隅田川神社の裏を通り過ぎる。その先で通りに出られるので、そこから少し戻ることになる。

 隅田川神社は水神様の神社で、珍しい狛亀がある。境内社の小さな社にも石でできた亀が祀ってある。

 墨田川神社を出て、公園の中を行くと目の前にあの堤防を兼ねた巨大マンションが立ちはだかる。ただ、参道の所は通れるようになっていた。そこを抜けると隅田川神社の一の鳥居があり、広い道路に出る。

 ただ、この道筋だと南東の方へ進んでしまうため古代東海道の道筋と離れてしまう。古代東海道の跡とされている道は東北東へ行く必要がある。このため、広い道を北へ多少歩くことになる。この広い道の向こう側は狭い路地が多く、真っ直ぐ行ける道はほとんどない。ようやくその方角へ行く狭い路地を見つけた。ここが奥戸街道につながり下総国府のあったといわれる市川市国府台(こうのだい)へ一直線で向かう古代東海道の跡だ。これまではあくまで推定路だったが、ここから先はほぼ確定路といっていいところを行く。

 景色は一変して、下町の景色になる。そしてすぐに踏切が見えてくる。そこに東武線鐘ヶ淵駅がある。駅前には「武蔵・下総を結んだ古代東海道」という説明板がある。今日はここまで。

 帰りにとうきょうスカイツリー駅で降りてソラマチを見て帰った。ここも人がたくさんいたし、外人さんもたくさんいた。広くて迷う。


十月十日

 今日は古代東海道の続きで鐘ヶ淵から。

 田園都市線で久喜行きの急行に乗れば一本で行けるのかと思ったら、途中で東武線での人身事故の車内放送があり、押上止まりになってしまった。

 押上駅はソラマチの北側で、東武線のとうきょうスカイツリー駅は南側だから少し歩かなくてはいけない。朝九時ごろのソラマチ商店街は、所々開いてる店もあり、人通りも多かった。

 東武線は幸い動いていて、九時半には鐘ヶ淵駅に着いた。動いてなかったら、押上駅に戻って京成線で八広駅へ行って、そこから歩くところだった。

 取りあえず鐘ヶ淵駅で降りて踏み切りを渡り、左側の道へ入る。空は曇っていて肌寒い。この前と同じような下町の狭い道で、すぐに堤防に突き当たった。その向こうは荒川の河川敷が広がり、サッカーや野球の練習場になっている。

 今の荒川は大正から昭和のはじめごろに作られた人口の川で、子供の頃は荒川放水路と呼ばれていた。明治の頃まではここには何の障害物もなく真っ直ぐ四つ木の方へ行けたが、今は国道6号線の四つ木橋まで行かなくてはならない。

 四つ木橋を渡り堤防の上を行き堀切避難橋で綾瀬川を渡る。綾瀬川も本来は汐入の北の隅田川が大きく曲がるあたりで隅田川に合流していた。

 それと、前回のところで訂正するが、『伊勢物語』の「武蔵の国と下総の国との中に、いと大きなる河あり。それをすみだ河といふ。」という記述は間違ってなかった。武蔵と下総の境が今の江戸川になったのは江戸時代に入ってからで、それ以前の隅田川の向こうは下総国葛飾郡で、今の江東、墨田、江戸川から市川市、さらには今の埼玉県北葛飾郡まで含む広い範囲を示していた。市川にある八幡神社が葛飾八幡宮というのもそのためだった。間違っていたのは『更級日記』の「しもつさの国と武蔵との境にてあるふとゐ河」の方だった。

 ってことは、ひょっとして江戸時代に境界線が変更されてなければ、深川両国あたりの江戸の下町も千葉県になってたかもしれない。そうなると佃島の領有権もあぶないし、お台場あたりも微妙な所だ。

 堀切避難橋だと今度は北に寄り過ぎるので、堤防の上をまた戻る。結局国道6号線まで戻ってしまった。そこで四つ木小橋を渡り、堤防の下の道を戻り、最初の斜めの道を入る。こうして古代東海道の痕跡とされる道に出る。

 6号線を渡るとその先に真っ直ぐ行ける道がある。ここに葛飾区教育委員会の古代東海道の説明板が立っている。

 狭い道はまいろーど四つ木商店街の一部で、キャプテン翼の幟が下がっている。その上にはサッカーボールの飾りもある。四つ木は作者の高橋陽一の出身地ということで、キャプテン翼の町になっている。

 奥戸街道の広い通りに出ると、ポスターに四つ木のいくつかのキャプテン翼のキャラの銅像のことが紹介されている。

 残念ながら、キャプテン翼はJリーグが始まった頃の第2作目のアニメの最初の方を子どもと一緒に見ただけで、あまり詳しいことは知らない。

 キャプテン翼のアニメは世界五十カ国以上で放映されたたしく、ワールドカップに出場するような選手でも、このアニメでサッカーを始めたという人が結構いるらしい。リオデジャネイロ・オリンピックの閉会式のプレゼンでもこのアニメが一部用いられていた。

 世界にたくさんのファンを持つキャプテン翼だから、東京オリンピックに向けてうまくネットを通じて世界に発信できれば、ひょっとしたらクレヨンしんちゃんの春日部みたいに、世界の四つ木になるかもしれない。


 ただ、そのとき間違っても、世界からたくさん人が来るのだからもう少しハイカラな町に整備しようかなんて思わないことだ。外人さんはヨーロッパの町のフェイクなんて見てもしょうがない。あくまで昭和の下町の雰囲気を大事に守って欲しいし、その方が外人さんも喜ぶと思う。

 奥戸街道で見た銅像は中沢早苗の一つだけで、このキャラはよく覚えていない。一瞬野球のバットを振っているように見えたが、よく見ると後ろに旗が描かれていて、応援旗を振っている像だった。

 奥戸街道を行くとやがて京成線の踏み切りに出る。その先は立石になる。立石駅通り商店街にもキャプテン翼の幟が下がっている。作者の母校の南葛飾高校が立石にあるからだろう。キャプテン翼の舞台となっている静岡県南葛市の「南葛」は母校の名前から取ったという。

 立石にはこの先に喜多向観音地蔵の小さな社がある。

 そこからすぐに中川の橋の手前に出る。奥戸街道はここで右に曲がって橋を渡り、六軒島で蔵前橋通りに合流する。ただ、ここではあくまで真っ直ぐ行かなくてはいけない。となると目の前は中川だ。本来古代東海道は、ここを真っ直ぐ行って奥戸橋の向こうのスポーツセンターを通って三和橋のほうへ行くのだろう。いつからか、ここは中川によって断ち切られてしまっている。

 関東の川は治水事業によって何度も流れが変えられて今に至っている。おそらく古代にはここに川はなかったか、あっても小さな川だったのだろう。今の中川は春日部の方を通る大落古利根川や越谷を通る元荒川が合流して、結構水量がある。一部は新中川(子供の頃は中川放水路と呼ばれていた)に流れているものの、それでも結構大きな川だ。

 かつて利根川は大落古利根川の方を流れ、荒川も今の元荒川の方へ流れていたとすれば、利根川+荒川でその水量も大変なものだっただろう。それが今の中川に流れず八潮のあたりで西に流れて綾瀬川に合流し、最終的に隅田川に合流してたとすれば、隅田川は今の利根川の下流に匹敵するくらいのかなり大きな川だったことになる。あるいは一部は今の水元公園の方を通って太日川(今の江戸川)の方に流れていたのかもしれない。諸説あるようだ。


 しばらくは中川に沿って進む。川の横に小さなとげぬき地蔵の社がある。そして奥戸橋を渡ってスポーツセンターの所に出る。体育の日なのでなにやら大きなイベントをやっているようだ。そこから三和橋を渡る。そこから先の道は広く、電柱や電線がないのでかなりすっきりした感じだ。ここまで来るともはや下町ではなく、最近になって開けた住宅地なのだろう。

 京成小岩駅の近くに上小岩遺跡説明板があり、ここに古墳時代前期の集落があったという。このあたりの道は上小岩遺跡通りになっている。京成の線路を越えるとやがてお寺の所で終わりになり、お寺の裏に堤防が見える。右に曲がって少し行って左に行くと、その江戸川の土手に出る。昔の太日川だ。この河川敷も野球の練習場が何面もあり、川の向こうは高台になっていて和洋女子大の高い建物が聳え立っている。あのあたりに下総国府があったのだろう。

 江戸川に阻まれここから真っ直ぐには下総国府にいけないので、川下の市川橋まで江戸川の土手を歩くことになる。京成の線路をくぐったところに「小岩市川の渡し跡、小岩市川関所跡」の説明板がある。江戸時代はこのあたりで川を渡ってたようだ。このあたりでちょうど十二時になった。

 市川橋を渡り川上の方へ戻るとすぐに真新しい市川関所跡の碑がある。そこの説明板によると、

 「奈良、平安時代の関所跡周辺には、井上駅屋(いかみのうまや)が置かれ、都と下総国を往来する公の使(つかい)が太日川の渡し船と馬の乗りかえをおこなった。」

とある。古代東海道の位置からすると、ここよりはやや川上になる。室町時代に連歌師の宗長が『東路の津登』で市川に渡りがあったことも記されている。

 京成線の国府台(こうのだい)駅がすぐそこにあり、京成線の線路をくぐると水門があり、小さな川がある。真間川で、『万葉集』の真間の手児奈ゆかりの場所のようだ。この川がかつての水運の拠点で、国府に物資を運んだりしたのだろう。

 『万葉集』巻九、一八〇七の高橋虫麻呂の長歌には、

 

  「勝鹿の真間の手児名が、麻衣(あさぎぬ)に青衿(あをくび)着け、直(ひた)さ麻(を)を裳には織り着て、髪だにも掻きは梳(けづ)らず、履をだに穿かず行けども、錦綾の中に包める、斎(いはひ)子も妹にしかめや」

 

と、この描写だと貧しいというよりも身なりへの無頓着と生への執着の薄さが感じられる。それが錦綾を着た両家の娘にも劣らず、多くの男たちが通ってきて、結局誰も選べずに「波の音の騒く湊の、奥つ城(き)に妹が臥(こ)やせる」と入水を匂わせる描写で終わる。

 どこか『竹取物語』に似ていると思ったのは俺だけでないだろう。竹から生まれたわけではないが、貧しい家に育ち、その美しさが評判になってたくさんの男たちに求婚され、かぐや姫が月に行くというのも月の都が冥府であることを思えば、自ら命を絶ったとも取れる。『竹取物語』の原型と言ってもいいかもしれない。

 まあ、一生懸命着飾って自己アピールする女よりも飾らない女を求めるのは、男の側に自分の色に染めたいという願望があるからなのか、キャラ的にはエヴァンゲリオンの綾波レイに近いのかもしれない。きっと古代の男たちはひそかに真間の手児奈育成計画を思い描いていたのだろう。特に赤人さんとか、赤人さんとか。

 作者の高橋虫麻呂さん自身は『万葉集』巻九、一七三八の上総の周淮(すゑ)の珠名娘子(たまなをとめ)を詠む歌一首という、巨乳でビッチな女を詠んだ歌があるので、どっちが好みなのかはよくわからない。

 その真間川の水門の近くに猫が二匹いた。地域猫という札が立っていて、コンクリートブロックで土台を作った立派な小屋と猫用トイレが置いてある。

 その先に水神宮という鳥居のある小さな祠があった。そこにもさび猫がいた。

 川を遡ってゆくと、やがてかつて国府のあった台地が川の方へ迫ってきて、川には波除の三角形のブロックが置かれている。

 古代東海道の江戸川に突き当たった所の対岸はこういう状態で、今ではとても川を渡って上陸できるような状態ではない。台地の上に登るにもかなり急な斜面になっている。

 確かに今のこの状態を見ると、ここを渡ったとは思えない。ただ、古代もこのような状態だったかどうかはわからない。長い年月の末、岸が削られてしまったのかもしれない。


 『更級日記』には、

 

 「そのつとめてそこをたちて、しもつさの国と武蔵との境にてあるふとゐ河といふがかみの瀬、まつさとのわたりの津に泊りて、夜一夜舟にてかつがつ物などを渡す。」

 

とあり、太日川の上(かみ)の瀬にある松里の渡りに泊ったことが記されている。

 これまで歩いてきた古代東海道と違う道が松戸の方にあって、そこを渡った可能性もあるが、松里が果たして今の松戸かどうかもわからないし、そんなたくさんのルートがあったとも思えない。

 おそらく、上総から下総国府への道は今の千葉街道に近いところを通ってきたのだろう。ただ、河を渡る時にはそのまま市川関所跡あたりを渡らずにやや上の方から渡ったのだろう。

 和洋女子大敷地内で発見された和洋学園国府台キャンパス内遺跡では、南北に走る道路遺構と思われるものが発見されている。その東側が国府だったと思われる。そこでは井上(いかみ)駅を示すものも出土し、井上駅が国府に付属するものだったことがわかっている。

 この道は市川の方から国府のある台地へと登ってくる道で、この北側、つまり川上側に井上駅があったのではないかと思う。今で言うと里美公園に近いほうだろうか。あたりは松の木が生い茂り、松里とも呼ばれていたのではないかと思う。そして、ここから、当時はまだ川によって削られてなくてなだらかだった斜面を下って川に出て、川を渡ったのではないかと思う。「ゐかみ」もふとゐ川の上という意味か。

 古代の太日川と隅田川は関東平野の三分の二くらいの水源の水を集めていて、どちらもかなりの大河だったはずで、その下流域には上流から運ばれてきた土砂によってたくさんの中州が作られていたのではないかと思う。

 今の江戸川区、江東区、墨田区のあたりは、こうした広大な河川敷で冠水しやすく、古代東海道はそれを避けて川上の方を迂回したと思われる。

 この地域には向島、京島、松島、大島など島のつく地名があるし、小岩、砂、なども川原だったことを思わせる。行徳は太日川の運んできた土砂による砂州で、その内側の瑞江、春江、一之江などは入り江になっていたのではないかと思われる。

 浅瀬より山が迫っていてある程度の深さのある川上の方が、船で渡るには適していたのかもしれない。『更級日記』では、

 

 「つとめて舟に車かき据ゑて渡して、あなたの岸に車ひき立てて、おくりに来つる人々、これよりみな帰りぬ。のぼるは止まりなどしていきわかるるほど、ゆくも止まるもみな泣きなどす。おさな心地にもあはれに見ゆ。」

 

と涙の別れの様子が記されている。車を積んで渡れるだけの大きな渡し舟なら、ある程度深い所の方が良かったのだろう。お貴族様は牛車で旅をしたので、峠道以外は歩くこともなかったのかもしれない。幅六メートルから十二メートルの駅路も、牛車がすれちがうことを考えれば、それくらいの幅は欲しかったのだろう。

 だいたいさっき来た道の対岸かなというところで引き返し川下へ戻る。台地が川に迫るその入口の辺りに階段があり、台地の上に登れるようになっている。ここに黒猫がいた。今日はよく猫に会う。

 登ると和洋女子大の裏で、聴覚特別支援学校や国府台高校がある。国府台高校のところを曲がって突き当たったところに国府台公園の大きな野球場と陸上競技場がある。体育の日でここはにぎやかだ。

 野球場の手前に下総総社(六所神社)跡の説明板があった。下総は国府を中心に駅と総社と国分寺と国分尼寺が一箇所にコンパクトにまとめられている。

 陸上競技場の先は崖のような急斜面になっている。北側には廃墟のような団地が立っている。その二棟目か三棟目かそのあたりからだとなだらかなのか、戸建て住宅が並んでいる。国分寺への道はこのあたりにあったのだろう。

 急な坂を下り狭い道を行くと、左に国分尼寺の跡がある。ここは発掘されて建物の位置がわかっているようだ。

 さらに東へ行くと庚申塔がある。その先は道が右にカーブして、大きなお寺が見える。今の国分寺だ。突き当りを左に行くとすぐ国分寺跡がある。国分寺の方の全体像はよくわかっていないようだ。今の国分寺も含む広い敷地で、相模や武蔵のような七重の塔が聳えていたのだろう。

 国分寺の横には小さな天満宮があるが、狛犬はない。そういえば今日はまだ狛犬を見ていない。

 現在の国分寺の表のほうへ来ると、入口は閉まっていて朱色の新しそうな楼門が見えた。

 国分寺の南西も崖のような急斜面になっている。下に降りると外環道の建設現場になっている。国分寺跡の方なら、東に道があってもおかしくない。これまで見た国分寺や国分尼寺は駅路上にあるが、ここは盲腸線なのか、それともここから常磐方面に行く道が出ていたのか、よくわからない。

 取りあえず今日の旅はこれで終わりにし、市川の方に戻る。

 途中に、今の六所神社があった。狛犬は昭和四十九年銘の岡崎型。もう一つ小さな境内社の前に、結構堂々とした江戸狛犬があった。だいぶ風化していて先代さんの再利用か。

 このあと京成線の市川真間駅の近くの登竜門で坦々麺を食べて帰った。


二〇一七年五月五日

 今日は久しぶりに古代東海道の続き。去年の十月十日以来だ。 

 九時五十五分に市川真間駅を出発。前にラーメンを食べた登竜門(開店前でシャッターが閉まっていた)のある踏切から北へ向かって真間川に出て、左に行くと浮島弁天があった。 

 その先の橋の次の橋を渡って北へ行くと、小さな赤い橋があった。真間の継橋(つぎはし)と書いてあった。説明板によると、 

 

 「国府台に下総国府の置かれたころ、上総の国府とをつなぐ官道は、市川砂洲上を通っていた。砂洲から国府台の台地に登る間の、入江の口には幾つかの洲ができていて、その洲から洲に掛け渡された橋が、万葉集に詠われた『真間の継橋』なのである。」 

 

とのことで、古代の市川真間はこのあたりに入江があり、その外側に砂洲がいくつも形成され、上総から来る古代駅路はその砂州の上を通り、国府台のあたりから北上して入江にかかる真間の継橋を渡って国府の脇を通り、太日川を遡って松里で川を渡った。 

 ただ、今のこの短い橋は元禄九年にこの地と定められたもので、古代の橋がここにあったとは限らないし、真間の入江を渡る橋がこんなに短いはずもないだろう。和洋女子大敷地内の道路遺構がその道だったとしたら、もう少し江戸川よりにあったと思われる。 

 この橋を渡ると、右側にお堂がある。手児奈霊神堂で、「神」とはつくけど仏教式のお堂だ。柏手ではなく合唱をする。その横に真間稲荷神社がある。紀元二六〇〇年銘の狛犬がある。境内に小さな四角い池があり、その脇に藤棚がある。珍しい八重咲きの藤だ。既に旧暦の四月で夏になるので、 

 

 ここはまだ春のままにて八重の藤 

 

 池には亀もいた。 


 ここから左へ行き、松戸街道へ出る。松戸街道は切通しを通って国府台へと登ってゆく。多分本来古代道路はここら辺を通り、切通しの手前に左へ登ってゆく道があるが、その辺を通って和洋女子大敷地内を南北に突っ切っていたのだろう。その入口のところの松戸街道の反対側に国府神社がある。これは本来この市にあったものではなく、近代になって移転したものらしい。 

 日本武尊が東征の時、砂州を渡る所を捜していたところコウノトリが導いたから鴻之台と呼ばれるようになったという伝説があり、寛治元年(一〇八七)コウノトリの嘴を御神体として創建されたという。 

 ただ「こうのだい」の地名の起源の説明としては後付けだろう。「こうのだい」が「国府の台」のなまったものなのは明白で、kokupuがkokpu,kokfuになり、「kouになったものと思われる。simopusa(下総)がsimousaになったのと同じだ。 

 この神社には昭和三年銘の狛犬がある。尻を突き上げたポーズからして、移転前は獅子山だったのだろう。 

 国府神社を出て、道路の反対側へ渡り、左側の細い道を登ってゆく。小さな里美公園分園を通り、和洋女子大と特別支援学校の間の道を通る。ここは前にも通った道だ。この道は真っ直ぐ進めず、右へ直角に曲がり、松戸街道へ出る。 

 そこからしばらく松戸街道を歩き、歩道橋のある所から右側へ入る。墓地の間を通り、右側にじゅん菜池へ行く道が分かれる。昔は沼だったようだが、おそらく古代東海道はこのじゅん菜池の北端で北東へ向きを変えて、柏の方へ向かったのではないかと思われる。じゅん菜池の北にある式場病院の隣の科学療法研究所付属病院で側溝のない幅四メートルの道路跡が発見されているが、駅路にしては狭すぎる。その北側の市川市と松戸市との境界線の道路を古代道路の跡とする説もあるが、柏の方へ直進するなら、もう少し南寄りではないかと思う。 

 とはいえ、ここに北東へ真っ直ぐ進む道はない。住宅地の中を右へ行ったり左へ行ったりするが、いつの間にか北へそれてその市川市と松戸市との境界の道に出てしまったり、南へそれすぎて北国分駅の方へ行ってしまったり、悪戦苦闘することになる。 

 境界線の道には愛宕神社があった。入口に二本の大きなイチョウの木があり、細い参道を入ってゆくと拝殿に出る。銘のない頭の大きな狛犬がある。顔も平面的で全体に彫りが浅い。江戸はじめを真似たものだろうか。

 北国分駅の方へずれたおかげで、胡録神社の前を通った。ここにも二対の狛犬があり、一つは江戸狛犬で明治三十九年銘か、九か八かよくわからない。もう一つは昭和六十三年銘の岡崎型。胡録神社の裏は広い平らな台地が広がっている。このあたりに道があったのではないか。  

 古代の道はなだらかな稜線上に作られることが多いし、広い台地の真ん中を突っ切ることも多い。そのため畑か雑木林になるしかなかったが、最近になってまとまった土地があるため、そこに病院や学校や工場などの大きな施設が建ち、その工事の時に道路遺構が発見されたりする。 

 これに対し近世の道は谷に沿ってうねうねと曲線を描く。そのため、稜線を直進しようとしてもいつの間にか谷底に落とされてしまうのだろう。 

 戸田建設のある一人道路に出ると、ここからは北東に比較的まっすぐ楽に進めるようになる。新京成線のみのり台駅を越えて、八柱駅の北側から斜め左に入る。八坂神社があったが狛犬はなかった。 

 武蔵野線の線路を越え、しばらく新京成線に沿って進む。突き当たりを右に行きすぐに左の道に入り、道なりに行く。酒井根郵便局の方へ行くとかなり北寄りになるので、その先で右に入り、酒井根テニスクラブの前を通り、道なりに行くとやがて280号線に出る。セブンイレブンの所を曲がって、東武野田線の増尾駅の方へ向かう。ここまではで単調な道だった。


 野田線の小さなガードをくぐり、学校の横を通ると学校の裏は里山になっている。このあたりから今までの行けども行けども新興住宅地の風景だったのが少しづつ変わってくる。 

 やがて51号線の広い道に出る。南無大師遍照金剛という幟の立った小さな社があった。 

 かつてはこの近くまで手賀沼が広がっていて、水運の拠点になっていたのかもしれない。このあたりが茜津駅の候補地の一つになっている。 

 ここから北へ向かうともう一つの茜津駅の候補地、あかね町がある。もっともいつからこのあたりが「あかね」といわれるようになったのかはわからないし、偶然の一致かもしれない。 

 柏レイソルの本拠地、日立柏サッカー場は高台にあり、その向かい側にあかね緑地という公園がある。確かに水害を避けるならこのような高台に駅があってもおかしくない。


 緑ヶ丘交番前の交差点から斜め右に入り柏駅の方へ向かう。途中、道路に面した普通の家のように見えながら、玄関の前に鳥居の立っている妙な建物があったが、鳥居の額には金刀比羅神社と書いてあり、境内のない、建物だけの神社のようだ。 

 駅の近くに柏神社があった。大正八年銘の江戸狛犬と平成四年銘の岡崎型があった。隣の路地ではビジュアル系と思われる人たちが列を作っていた。柏PALOOZAというライブハウスでhide tributeをやっていたようだ。 

 そういうわけで今日は柏駅で終了。


七月十七日

 さて、久しぶりの祝日で、今日は古代東海道、東への続き。朝五時半に家を出て、七時二十分頃に柏駅をスタートした。 

 千代田線が地上に出た頃から大粒の雨が電車の窓を打ちつけ、どうなることかと思ったが、柏駅に着く頃にはだいぶ小降りになっていた。 まずは前回行った柏神社の近くの交差点を左に曲がり、水戸街道の旧道を行く。諏訪神社に着くころには大方雨は止んだ。 

 諏訪神社の狛犬は昭和34年銘のやや古い岡崎型だった。拝殿には猫が二匹いると思ったら、後から二匹やってきて四匹になった。みんな白の多い額と尻尾だけの虎や三毛で、兄弟だろうか。 

 神社を出て国道16号線を越え、常磐線の陸橋を渡ると旧道は大堀川の方へ降りてゆく。その手前で左へ行き、国道6号線の歩道橋を越え、やや大堀川の上の方を渡る。おそらく北柏付近の低地は、かつて手賀沼だったと推測したからだ。 

 手賀沼は干拓によって今はだいぶ狭くなっているが、かつてはかなり広大なもので、古代にあっては東は印旛沼や霞ヶ浦などとも繋がり、広大な香取海(かとりのうみ)になっていたらしい。我孫子から布佐にかけての上総台地は香取海と藺沼に挟まれて突き出す半島のようになり、香取海と藺沼の繋がる布佐のあたりだけが狭くなっていて、古代東海道の常陸への道はそこを通ったとされている。


  大堀川を渡ると前に低い山が見える。中世にはここに松ヶ崎城があったという。その松ヶ崎城跡の下を通り、東側の小高くなっている方へと行く。このあたりはお寺が多い。ここから例によって狭い道を右に行ったり左に行ったりしながら東へ進む。 

 一度は水戸街道の旧道に出るが、右に大きく曲がったあと、狭い道を左に入る。しばらく行くと我孫子ビレジという団地に出る。 

 国道356号線の湖北台団地入口交差点付近の台地が細くなっている所を通ってそのまま直線的に布佐を目指すなら、このあたりからやや東南東に進路を変える必要があるが、今日は寄り道する所があるので、団地の北側の用水路に沿ってゆく。 

 北側は急斜面になってちょっとした山塊になっている。ここを登ると稜線上に道があり、鷲神社の入口がある。ここで北に狭い道を下っていくと鷲神社に出る。ここには鷲が大きな羽を上に向って広げた形の平成六年銘の狛鷲がある。酉年にちなんだ狛鳥で、春には船橋市高根町熊野神社の狛烏を見たが、この狛鷲も古代東海道の旅で我孫子を通るので行こうと思っていた。 

 ここにはもう一つ、明治二十七年銘の江戸狛犬もある。神社の入口付近には青面金剛と書かれた石塔が並んでいる。下の方に三猿が彫られているが、「庚申塔」ではなく「青面金剛」という文字を刻むのはこのあたりの特徴だろうか。 


 鷲神社の隣には中央学院大学がある。これも山の上に聳え立っている。 

 山を下り、住宅地の中を通って国道6号線に出る。地図を見るとこのあたりに我孫子城跡があるらしいが、よくわからなかった。 

 この先の6号線は上り坂になり切通しになっている。その左右両側の山の上に電力中央研究所がある。こっちに行くとまた北のほうへそれてしまうので、途中で歩道橋を渡って反対側へ行き、次の信号で右へ行く。県道8号線の上を通り、天王台駅の方へ向かう。 天王台の駅前にはなぜかファミマが三つもある。

 天王台駅を越えて線路に沿った道を東へ行く。だんだん道が細くなり、やがて国道356号線に出る。 

 湖北台団地入口交差点に来ると、北側は下り坂になって田んぼが見える。この低地はかつては藺沼だったのだろう。このあたりは我孫子の下総台地が一番細くなっている場所だ。南もすぐに手賀沼になっていたのだろう。 

 しばらくは坦々とした道が続く。日も高くなりかなり暑い。これまでも奥の細道の時に野木の炎天下の向日葵畑を通ったこともあるし、東海道の茅ヶ崎平塚を歩いた時も暑かった。今回もそれに匹敵する。 

 やがて左側に一里塚がある。こんな所に一里塚と思ったけど、この道は天和三年(一六八三)以前の古い水戸街道で、布佐で利根川を渡り、龍ヶ崎の方を通って牛久抜けていた。直線的ではないが、ある程度は古代東海道の道を踏襲していた可能性がある。水戸街道が我孫子から取手へ向うルートに変わってからは、成田街道や布川街道と呼ばれるようになった。 

 途中コンビニによって飲み物を買ったりしながら、356号線をさらに行く。

 やがて右側にお寺が見えてくる。平将門にゆかりのある観音寺だ。将門の守本尊で行基菩薩の作と伝えられている聖観世音菩薩を祀ったお寺だ。 

 お寺自体は寛文二年(一六六二)の創建で、まだ水戸街道だった時代だが、古代からあるわけではない。聖観世音菩薩は将門神社の境内の仏堂で祀られてたという。その将門神社にはこれから行く。 

 ここにはお地蔵さんも祀られている。首をかしげた珍しいお地蔵さんだが、「観音寺」のホームページによると「将門の時代、朝廷が将門鎮圧のため成田山に祈祷を依頼し、その後将門が戦死したことから、敵意を表し、そっぽを向いている」とのこと。ただ、そんなに古いものではないだろう。 

 このあたりは日秀(ひびり)と呼ばれていて、語源は諸説ある。「ひいで」が訛ったものという説が一般的なようだが、なんか無理がある気がする。古代だとピピリと発音されてたのだろう。相模国の大山の麓の比々多神社の名前を思い出す。tとlは交替しやすいから、何か関係があるのかもしれない。 

 観音寺の先を右に曲がって成田線の踏切を越えると、将門の井戸と将門神社の案内標識がある。 

 将門の井戸は坂を下ってった所にあり、窪みの底に網が張ってあった。ここだと昔は手賀沼(古代では香取海の一部)の畔だっただろう。将門というと茨城県坂東市のイメージがあるが、幼少期をここで過ごしたという伝承もあるらしい。 

 将門神社は拝殿も本殿もなくやや大きめの石祠が立っている。逆臣ということで冷遇されてきたのだろう。石のポストのような賽銭箱がある。 


 ふたたび356号線に戻る。このあたりはソーラーパネルをいくつか並べただけの小さな発電所が点在する。蕉翁が「日の道や葵傾く五月雨」と詠んだのを思い出し、 

 

 日の道は今ソーラーの炎天下 

 

 道の左側に葺不合(ふきあえず)神社があった。鳥居をくぐると槿の花が咲いている。濃いピンクの八重咲きの槿が綺麗だ。石段を降りると、大きな芭蕉の木が目に入る。二の鳥居横の大きな拝殿改修碑の下では茶トラの猫がまどろんでいた。この碑によると鵜草葺不合命(ウガヤフキアエズノミコト)を祀るようになったのは明治に入ってからで、本来は弁天社だったという。祭神は市杵島比売命(イチキシマヒメ)で弁才天と習合して信仰されてきたようだ。文治二年(一一八六)の創祀とされている。鎌倉幕府誕生の直前だ。

 ここから石段を登ってゆくと狛犬がある。平成十五年銘の岡崎型だが苔が生えて古びて見える。その後ろにも狛犬があったが、台座の銘は古いが狛犬自体は平成十五年銘狛犬の縮小版のようだった。 


 ふたたび356号線に戻りしばらく行くと、小さな一里塚跡の碑があり、その先更に行くとやがて道は緩やかに右に曲がり切通しを下ってゆく。ここが長く突き出た我孫子の台地の先端になる。正面に利根川を渡る栄橋が見えてきて、左には利根川の堤防が見える。堤防に登ると利根川の向こうに低い小さな山が見える。古代東海道はここで今は利根川となっている香取海を越え、常陸国に入ったのだろう。 

 もっとも今は八幡台や布川台という地名になっているこの山はかつては島で、その先の龍ヶ崎南高のある大平の台地もかつては島で、島伝いに龍ヶ崎へ渡ったのだろう。水戸街道の古道はそこから佐貫へと抜けていたらしい。古代東海道がどこを通っていたかは諸説あり、これから検討する必要がある。江戸崎カントリークラブの方に南北に伸びる古代道路の跡と思われるものがあるらしいが、それだとかなり東に寄ることになる。牛久沼が今よりかなり巨大だったとすれば、この迂回路も十分ありうる。 

 土手から356号線に戻ると、愛宕八坂神社がある。首に注連縄を巻いたしりを突き上げた狛犬がある。昭和五十六年の銘がある。 

 ここまで来たら布佐市街で、布佐駅まで歩いて今日の旅は終了する。布佐は震災の年に芭蕉の足跡を尋ねて鹿島詣でに行った時にも、木下街道からなま街道を歩いた時に通っている。あの時はまだひびの入った石塀がそのままだったり、屋根にブルーシートがかけてあったりした。今は震災を思わせるものもなく静かだった。十三時二十分。電車は四十分まで来ない。 

  次回はいよいよ常陸国。いつになるか。


二〇一九年八月十三日

 今日は久しぶりに古代東海道、東への続き。二年ぶりだ。

 

 朝六時前に家を出て八時過ぎに布佐駅をスタートした。空はどんより曇っている。今日はショートコースで目指すはケープ・オブ・ドラゴン、龍ヶ崎。

 まずは栄橋を渡り、茨城県利根町に入る。川で大きな魚が水面を叩くのが見えた。

 昔はこの辺りは川というよりも巨大な内海(流海)で、そこに点々と島が浮かぶような景色だったのだろう。古代東海道も船を使いながら島伝いに龍ヶ崎へと渡り、常陸国に入ったのだろう。

 橋を渡ると徳満字という寺があり、そこに布川城跡と書いてあった。応安二年(一三六九)、連歌の式目「応安新式」のできる三年前の築城だという。中世だともう西は守谷・取手、北は龍ヶ崎につながっていたのだろう。

 道路沿いには小さな天満宮があり、徳満寺の裏には八幡大菩薩を祭る神社があった。徳満寺の垂迹になるのだろう。

 「柳田國男、第二のふるさと」という看板もあり、少年期をこのあたりで過ごしていたらしい。

 やがて道路は下り坂になり、右側にやはり小さな日枝神社があった。その下には田んぼが広がり、かつてはここも流海だったか。

 少し行くと左側にお堂があり、芙蓉の花が咲いていた。

 この頃から小雨が降りだした。傘を差しながら田んぼの中を行く。


 横須賀の交差点の向こうは上り坂で、かつては陸地だった所に出る。ジェイソンの先を右に曲がるともえぎ野台という住宅地に入る。雨が強くなったので、公園で一休みする。

 住宅地の方に入ってしまったから通らなかったが、元の広い道のほうには弟橘媛の櫛塚があったようだ。古代人の通った痕跡といえよう。

 雨も小ぶりになり、空もやや明るくなる中、また田んぼの中の道を行く。やがて須藤堀町の小さな集落があり、ここにも小さな神社があった。ここもかつては小さな島だったのだろう。芭蕉の頃の象潟のように小さな島がたくさんあったのかもしれない。

 田んぼでは白鷺や青鷺が飛び、道の脇には芙蓉や女郎花や葛花が咲き、既に秋なのを感じさせてくれる。もっとも、くずばなは古代では秋の七草だが、江戸時代では夏の季語になっていた。

 もう一度田んぼを渡ると、龍ヶ崎の町の一角に出る。別雷(べつらい)神社があった。拝殿の格子のところに茄子が供えてあった。裏には騎馬姿の石塔を祭る社があったが、馬頭観音だろうか。

 その先には高低差のある水路が二つ並行して流れているところがあった。

 右側にレンガの門柱が見えた。行ってみると「明治の遺産 龍ヶ崎の赤レンガ門塀」という説明書きがあった。邸宅の跡のようだ。

 その先に八坂神社がある。狛犬は銘がないが江戸はじめのような特徴を持っている。

 その先に龍ヶ崎城跡というのが地図にあったが、学校になっていて、特に入れる所はなかった。

 この頃には完全に晴れて日も照って暑くなっていた。

 まだ十二時になっていなかったが、ここから土浦までの道は長すぎるので、予定通り今日はここで切り上げて帰ることにした。

 途中、伏見稲荷神社というこれも小さくて赤い木の鳥居の傾いて崩れかけた神社があった。

 駅の近くの薬師寺そばでカレーうどんを食べた。結構並んでいたが店の中で待つことが出来た。


 帰りは龍ヶ崎駅からディーゼルカーに乗ったが、車内がコロッケ押しだった。さっき町を歩いた時には気づかなかったが、コロッケの町として町おこしをしているようだ。つり革にもコロッケをかたどったものがついている。


二〇二〇年一月三日

 東海道もだいぶ遠くなってしまい、今年は去年の八月十三日の続きで「古代東海道、東へ」の続きをすることにした。

 龍ヶ崎を出ると土浦まで鉄道の駅はない。かなりのロングコースになるので翌日に残る疲労を考えると今日しかないと思った。

 コースは榛谷(はんたに)駅のあったとされる龍ヶ崎市半田を通り、牛久市と稲敷市の境界付近に残る直線道の痕跡を通って、阿見から土浦に抜けることになる。

 半田は今は田んぼになっている低地ではなく、台地の上にあったと考えられるので、今は向陽台になっているつくばの里工業団地の中を通ることにした。

 朝の八時に龍ヶ崎駅に着いた。雲一つない快晴だ。今回は龍の絵の書いてあるコロッケの車両ではなく、普通の車両だった。前回の続きということで、まずは龍ヶ崎城跡の方へ向かう。

 龍ヶ崎城跡に近い大統寺前交差点からが前回の続きをスタート。北東へ向う。今は龍ヶ崎一高になっている龍ヶ崎城跡を右に見て、大正掘川を渡る。ここも高低差のある二段の水路になっている。

 左側に流通経済大学の龍ヶ崎キャンパスが見えてくる。ここで広い道は左にそれ、直進は狭い道になり、田んぼの中に出る。ここはかつては流海で船で渡るところだったか。

 対岸は田んぼの中に突き出た半島のようになっている。少し行くと道の左側に二つの祠が並んでいる。蜜柑などのお供え物がきちんと並べられている。ここを右に曲がって登ってゆくと龍ヶ崎幼稚園のきれいな建物がある。

 ここからたつのこ通りに出る前にローソンに寄って、用を足し、昼飯を仕入れてゆく。今日行く所は食べ物屋もコンビニもなさそうだからだ。

 たつのこ通りは住宅地の中の広いとおりで、しばらく行くと右に巨大な富士塚のようなものが見えてくる。家の近くには山田富士や川和富士のような、かつての富士塚が公園の築山になっているところがあるが、ここは富士塚とは関係なくただの人工の山のようだ。

 たつのこ山は地上23メートルで、ここに登ると360度の展望が楽しめる。富士山はもとより筑波山や牛久大仏が見える。牛久大仏はここからだと正面を向いた姿になる。全高120メートルで平坦な場所に立っている割にはそれほどどこからでも見えるという物ではない。

 たつのこ山を降り、さらにたつのこ通りを行く。辺りは大きな郊外型店舗が並ぶ。やがて一度低い土地を通り再び登るとつくばの里工業団地の交差点に出る。

 ここを右に曲がると左側はゴルフ場の広い道を淡々と進むことになる。途中、ソーラー発電所があったりする。ここを抜けると運動公園があり、その先が


工業団地になる。おそらく榛谷駅もこの辺りにあったのだろう。まっ平で延々と長い太い路は、古代もこんなだったか。

 左側に大和ハウスの工場があり、右側には流通経済大学のサッカー練習場を見て通るとその先で道が細くなる。

 右側に羽黒山釈迦堂があり、その先左にはソーラー発電所があり、この辺りからすぐ下に田んぼが見えてくる。

 神明社は荒れ果てていて神明鳥居は貫の部分がなくなっている。拝殿には餅が供えてあった。

 辺りには小さな集落があり、それを過ぎると道は下り坂になり田んぼへと降りてゆく。小さな薬師堂があった。この少し先で田んぼの向こうに牛久大仏と筑波山が見える。

 その先には大きな養泉禅寺があり、このあたりの狭い路地を抜けると視界が開け田んぼになり、小野川を渡る。

 この時川上の方の遠い所がちらちらと揺れて見えた。陽炎だろうか。まだ冬だが。

 橋を渡ると国道408号線に出、少し右に行き狭い道を山の方に入る。

 竹薮の中の細い道を登ってゆくと視界が開け小さな社が見える。石神様という碑が立っている。この開けた場所に木下良氏の見つけた古代道路の痕跡と思われる直線ラインが通っている。

 ここでも振り返ると遠くがちらちらと揺れているように見えた。さっきは太陽の反対側だったが、今度は太陽の方角だ。温かい風のない日、広い開けた土地、それが陽炎の発生条件だろうか。


 今の道は直線ではなく、多少右左にずれながらも概ね直線的に通っている。長閑な田舎の道はやがて突き当たる。ここでチャイムの音が聞こえた。ちょうど十二時だ。

 少し左に行きすぐに右に曲がる。左にはこもれび森のイバライドの屋根が見える。そのイバライドの柵が終るとまた開けた所に出る。

 ここには競走馬の調教・育成を行う牧場がたくさんある。実際に馬が走っている所も見えた。牧場で飼われているのか猫も二匹見た。長毛のと黒っぽいのと。

 牛魂碑の所で昼飯にした。大きな牛魂碑があるところを見ると、昔は牛が多かったのか。

 もう少し先に行くとたくさんの牛がひしめいている大きな牛舎があった。その先で道は左に曲がり下り坂になる。

 右へ曲がり、その先も右に曲がり南総通運の手前で左に曲がるとまたもとの直線道に戻る。左側に土地が開けて牛久大仏が見える。ここからだと横向きになる。その先で銀色のきれいな猫を見た。

 圏央道をくぐるとその先で右に行き、県道25号土浦稲敷線に出る。

 本当は突き当たって県道が左に行くところを真っ直ぐ進んで西山牧場阿見分場の左側の方に残る直線道を行かなくてはならなかったのだが、間違えてそのまま左に行ってしまった。

 この頃かなり足の疲労が出ていて、ちょうどいいところにファミマがあったので一休みした。


 このあと飯倉の方を通って塙で本来の道に戻った。

 飯倉の道に入ったばかりのところでも牛久大仏が見えた。日は西に傾きシルエットになっている。飯倉の集落に出ると小さな神社があった。何神社かよくわからなかった。

 飯倉公会堂の横には火の見矢倉の頭だけになったものが置いてあった。

 集落を出て少しいくと、右側へ行く道は通行止めになっていた。「陥没の危険があるため」となっていた。まだ去年の台風の爪あとが残っているのか。

 ここを左に行くと星の里公園があり、その横を通って行くと左には工場団地が見える。

 小さな川を渡ると塙不動尊の石段がある。その先に塙の集落がある。

 道は緩やかに左に曲がり、そこから追原南交差点の方に向かった、交差点に出る前に筑波山が見えた。追原南交差点から先は香澄の里工業団地の中の広い道になる。正面に筑波山が見える。

 工業団地の終る頃、左に曲がり阿見町霞クリーンセンターの横を通り国道125号線阿見バイパスを横切る。

 ふたたび長閑な農村の風景に戻った。竹来の集落でまた猫を見た。その先に竹来中があり、そこを過ぎると阿見の市街地に入る。

 もうこのあたりで足が限界に来ていた。土浦まではまだ距離があるし、日もかなり傾いてきたので、どこかからバスに乗ろうと思った。


 セブンイレブンの裏の道にバス停があったが、バスは当分来そうになかった。

 阿見坂上の手前まで来ると霞ヶ浦が見えた。この頃には既に薄暗くなっていた。今日の旅はとりあえず阿見坂上で終了し、坂の下の国道125号線に出た。

 結局、自動車学校の前でバスに乗り土浦駅に出た。あと少しだったが次回は阿見坂上から続きをやろう。