あとがき

 芭蕉の俳諧に興味を持ったのはまだ私の二十代だった頃で、あまりはっきりと覚えてはいません。

  学生の頃は哲学専攻で、当時流行のポストモダンに傾倒して、フーコーやデリダなどを読んでました。卒論はハイデッガーで書きました。

  そのミシェル・フーコーの『言葉と物』に刺激されて、江戸時代の思想史で何か同じようなものが作れないかと思って、ざっといろいろな本を読んでいるうちに、芳賀徹さんの『與謝蕪村の小さな世界』(一九八八、中公文庫)に出会いました。つまり芭蕉ではなく蕪村から入ったことになります。

  それで何で蕪村ではなく芭蕉になったかと言いますと、何となく芭蕉と蕪村の時代の間に大きな知の断層があるような気がしたからでした。

  これはフーコーの知の考古学からの発想ですが、蕪村の時代は明治以降の近代とそれほど変わりません。学問というのは「物」が対象でした。

 それ以前の学問は違っています。学問の対象は故実です。つまり儒学では先王(せんのう)の治世やそれを伝えた孔子・孟子や、それを大成した朱子の研究であり、仏教では経典の研究です。直接「物」を対象とする学問はありませんでした。

  経験的な知識の蓄積はあったと思いますが、「学」つまりエピステーメの対象ではなかったのです。本草学でも基本は文献学でした。

 文献を集め、そこから「故実」を明らかにし、それを使いやすいようにきちんと「部立」する。そして、学問はそれだけで終わらず、その部立された知識を現実の世界で臨機応変に使いこなす「機知」をもって完結する世界でした。

  何となくそれが分かってくると、興味は今の我々とは違った世界を再現してみたいという方に向かってしまいます。そこで気になったのが中世の連歌や蕉門の俳諧が、当時あれ程人々を熱狂させたにもかかわらず、古典文学研究の世界でほとんど手つかずになっていたことです。

  蕪村の時代までは近代俳句の延長で理解できます。ですが、芭蕉の時代は大きな断層の向こうにあります。なので正しく理解されず、近代的な偏見でもって芭蕉の発句だけは写生説の先駆者として持ち上げられ、俳諧の方は「愚なるもの」で片づけられてきたのです。

  連歌や俳諧は「故実」「部立」「機知」のトライアングルで容易に理解できます。古今から新古今に至るいわゆる「八代集」に典拠を持つということが「故実」に当ります。そして季語や様々な句材を分類してルールを設ける作業は「部立」に当ります。そして、連歌も俳諧も「機知」を競うものです。

  これを知ってしまった以上、私のやるべきことは決まりました。すでに多くの人が評価し、賛美している蕪村ではありません。忘れられた連歌や俳諧を発掘すること、知の考古学を応用してそれを蘇らせることでした。

  私は大学の研究者ではないし、教員免許も持っていません。ただトラック運転手の仕事の傍ら、細々とこの作業を続けて来ました。そのため、学会の常識というのはよくわかりません。わからないからこそこの本が書けたのだと思います。

  運転手の経験は世間の感覚を知るという点で大変役に立ちました。

  芭蕉の俳諧も、馬子や駕籠かきも口ずさむようなもので、当時の庶民の生活と密着したものでした。多分私が大学の研究者だったら、芭蕉の俳諧はほとんど理解できなかったと思います。