水無瀬三吟の世界

     ─中世連歌を読む─


水無瀬三吟とは?

 水無瀬三吟みなせさんぎんは長享2(1488)年つまり応仁の乱の後の荒廃した京の都で作られた連歌れんがの作品で、承久の変で源氏に破れ、隠岐の島に流された後鳥羽院ごとばいんの250回忌の法要として営まれた。流刑地で恨みを抱いて死んだ後鳥羽院の怒り狂う霊は、その後の乱世の原因とされ、応仁の乱(1467年)による国土の荒廃も、後鳥羽院のたたりとされていた。その後鳥羽院は、藤原定家ふじわらのていか藤原良経ふじわらのよしつね大僧正滋円だいそうじょうじえんなどとともに『新古今和歌集』を編纂し、和歌の造詣が深く、水無瀬に水無瀬宮という別荘を建て、歌会などをやっていた。その後鳥羽院の魂を鎮めるには、水無瀬の地で歌を詠んで、喜ばせるのが一番ということで、宗祇法師ら三人は連歌会をもよおした。この時の作品が『水無瀬三吟』と呼ばれ、連歌作品の最高峰とされてきた。いわば、応仁の乱以降の戦乱の世を鎮めるための平和祈願のコンサートともいえよう。それだけに、この連歌は浮かれた部分が少なく、どちらかというと重々しい、厳粛な雰囲気が漂う。

水無瀬三吟のメンバー

 水無瀬三吟のメンバー(連歌では「連衆れんじゅ」と呼ぶ)は宗祇法師そうぎほうし肖柏法師しょうはくほうし宗長法師そうちょうほうしの三人。

*宗祇 age68
 1421年近江の生まれ。ある程度の階級の武士の生まれと思われるが、定かではない。宮廷のものからすれば、身分も卑しく、乞食坊主などとも言われていた。だが、一部に猿楽師の生まれという説があるが、それは後世になって作られたもので、噂にすぎない。
 若い頃は相国寺しょうこくじで修行をしていた。相国寺はと京都五山の一つで、当時のお寺としては名門だった。同じ頃相国寺では、あの雪舟も修行してた。当時の寺はお経だけ詠んでいたのではなく、今でいう大学の機能と、それに貿易商の役割も果たしていたという。文化の最先端にあった。
 相国寺で宗祇は既にその才能を発揮していたようだ。30にして、当時最高の連歌師専順に弟子入りし、その後は連歌の大御所とも言える宗砌法師にも学んでいおる。だが、都も雲行きが怪しくなって、応仁の乱の一年前の文正元(1466)年に関東のほうに下り、以後旅の連歌師として活躍し、『白河紀行』や『筑紫道記つくしみちのき』などを書いた。

  世にふるもさらに時雨の宿り哉       宗祇

という句は、旅人宗祇の発句として、最も有名となった発句で、この世で旅に老いぼれてゆくとしても、時雨の雨宿りのように、ほっとする一時もある。何が起こるかわからないこの世であるが、苦しいなかにも楽しいこともある。そんな人生の感慨を述べた句だ。宗祇の作風は、こういう人生の苦しみとその中での救いの部分とが入り交じった、奥の深い世界を描くことを得意としている。ブルーススピリットにも近い作風だ。
 やがて、宗祇は肖柏とともに中世連歌の集大成とも言うべき『新撰菟玖波集しんせんつくばしゅう』を編纂することになる。『新撰菟玖波集』は和歌の勅撰集に準じるもので、その選者として、名実ともに連歌の最高峰に君臨することになる。

*肖柏 age46
 肖柏は宮廷の貴族の出で、牡丹庵ぼたんあん肖柏ともいい、牡丹の花を好む派手好きの性格で、遊び人的な部分もあったようだ。作風も華やかで力強く、水無瀬三吟の中でも、宗祇の渋い句とは対照的で、花を添えている。『新撰菟玖波集』の編纂も、宗祇法師だけでは身分の問題で難しかったが、肖柏がいるということで可能になったようだ。

*宗長 age41
 宗長は駿河の鍛治屋の生まれといわれている。29歳の時に一休宗純(あの一休さんのモデル)に出会い、出家し、その後宗祇法師と出会い、連歌師となった。一休、宗祇というそうそうたる人間にその才能を見い出され大出世を遂げただけあって、天才的なひらめきで大胆な言葉の取りなしを行ない、理知的な作風を特徴としている。宗祇の『新撰菟玖波集』の撰集を助け、宗祇最後の旅に同行して『宗祇終焉記そうぎしゅうえんき』を書いている。

 この三人、ルックス的には、私のイメージでは、宗祇=赤瀬川原平・肖柏=浅野忠信・宗長=ウド鈴木なのだが‥‥。

連歌とは?

 連歌とは和歌の上五七五に下七七を付けたり、下七七の上五七五を付けたりして一首の和歌を完成させるゲームで、たとえば

 月日の下に独りこそすめ

という下七七があると、それに付くような上五七五を作る。問題はこの下七七をどう解釈するかで、単に月や太陽の下で一人暮らしている、という意味に取ると普通だが、それではつまらないのでたとえば月日を手紙の日付の意味に取り成して、その下に書く自分の署名が月日の下に一人住んでいるという比喩にしてみる。

   月日の下に独りこそすめ
 かきおくる文のをくには名をとめて

連歌では普通こう表記する。「月日の」という句が先にあってあとから「かきおくる」の句を付けたというのがわかるようにだ。だが、意味としては

 かきおくる文のをくには名をとめて
    月日の下に独りこそすめ

となる。これはみちのくの白河の関で宗祇法師が誰も付けられない句があると聞いて駆けつけようとしたが、この句をある女性がつけてしまったため、これ以上の句は付けられないと引き返したという、「宗祇もどし」の伝説のある付け句である。このように、連歌というの思いがけない大胆な取り成しによって句を付けてゆく、機知を競うものだった。

 連歌は元は旋頭歌せどうかの五七七、五七七を、最初誰かが五七七の片歌を詠み、それに応えるように五七七の片歌を付けて、歌で会話するところから来たもので、中世では『古事記』の倭健やまとたけるの東征のとき、筑波山の麓で

 新治にひばり 筑波を過ぎて 幾夜いくよつる

という片歌を詠み、それに御火焼をひたき老人おきな

 かがなべて 夜には九夜ここのよ 日には十日とをか

と応えたことが起源とされ、連歌のことを「筑波の道」と呼んでいた。中世に作られた連歌の選集『菟玖波集つくばしゅう』『新撰菟玖波集しんせんつくばしゅう』の名もそれにちなんでいる。
 連歌の本当の起源は、おそらく祭のときに歌で男女が口説きあう歌垣うたがきの習慣に由来するものだろう。歌垣は今日でも江南系の少数民族に広く見られる習慣で、日本では筑波山の歌垣かがいが有名だった。
 その後宮廷で五七五七七の和歌のスタイル(最近は五七五七五と間違える人が多いが)が確立されると、和歌を上五七五と下七七に分けて二人で一つの和歌を完成させることを連歌と呼ぶようになった。やがて、単に上五七五に下七七を付けるだけでなく、その下七七にさらに別の上五七五を付け、それにさらにまた別の下七七を付け、それを延々と繰り返してゆくようになり、鎌倉時代には既にこのようにして百句を連ねてゆく「百韻ひゃくいん」の形式が確立されていた。この頃から、連歌には様々な複雑なルールが作られ、大勢の連衆を集めて連歌会れんがえを行い、一句ごとに誰が一番良い句を付けるかを競うようになり、それを判定するプロの連歌師れんがしや、出来上がった百韻を見て、その中から良い句を選んでその句の上に点を打ち(加点し)点の数を競わせる「点者てんじゃ」も現れた。出来上がった連歌作品は祭の時などに寺社に奉納され、それは張り出されるか何かして、祭に集まる大勢の大衆の鑑賞するところともった。
 「二条河原落書にじょうかわららくしょ」には「京鎌倉ヲコキマゼテ、一座ソロハヌエセ連歌、在々所々ノ歌連歌、点者ニナラヌ人ゾナキ」とあるように一般庶民もまたにわか批評家となって、あの句はいい、あの句は良くないと口々に意見を言ったりしていたのだろう。
 連歌の流行は既に平安末期の『新古今集』の撰者たちの間にも広がり、鎌倉時代には百韻を中心とした長連歌が武家や寺社の僧侶、宮廷にまで広く広まったが、その中心は地下じげの連歌師と呼ばれる、それほど身分の高くない連歌師によって担われた。連歌というと今日では貴族の遊びのようなイメージがあるが、本来は庶民のものであり、連歌が貴族や大名クラスの遊びとなったのは、戦国末期から江戸時代にかけて連歌が衰退し、次第に俗語による俳諧はいかいが庶民の間に台頭してきた頃からで、それまでは広く国民的に親しまれていた。
 江戸時代にはもはや庶民の連歌は俳諧に取って代わられ、連歌は形骸化し、貴族大名などの一部の愛好者の間に受け継がれるだけだった。さらに明治になると伝統的な文化がことごとく封建的遺物として弾圧され、近代文学の担い手たちは、文学をあくまで個人の表現とみなす立場から連歌を「愚なるもの」一言で片付け、文学史から排除してきた。戦後なってようやく連歌を再評価する動きが生じては来たが、まだまだ全般的に関心は低く、また連歌を真似て作られた「連句」や「連詩れんし」も本来の連歌のようなゲーム性を欠いたままの退屈なもので、詩で機知を競ったり詩による会話を楽しんだりするものとは程遠い。その意味では、いまだに連歌は近代文学から排除されたままだといえるだろう。今日の連歌の評価を見ても、結局は正岡子規流の写生の精神に合致する句だけを選んで評価したりする手のものが多い。連歌を正当に再評価するには、もっと根本的に発想を変えなくてはならない。

連歌のルール

 連歌の公式ルールは基本的に応安五(1372)年に作られた「応安新式おうあんしんしき」と「新式追加しんしきついか」それに享徳元(1452)年の「新式今案」の三つで、あとは慣習化したいくつかのルールがあるが、それほど重要ではない。連歌のルールは「式目しきもく」と呼ばれ、その大半はきらいの規則である。
 連歌は同じ上句に別の下句をつけたり、同じ下句に別の上句を付けたりを繰り返してゆくため、似たような趣向の句が並ぶ、発展性のない堂々巡りの展開を嫌う。たとえば

   霧のぼる夕日がくれの水晴れて
 川そひ舟をさやす釣人    宗砌そうぜい

と付けたあと

   川そひ舟をさやす釣人
 梅にほふ里は霞の薄衣

みたいに付けてしまうと、

 霧のぼる夕日がくれの水晴れて
    川そひ舟をさやす釣人
 梅にほふ里は霞の薄衣
    川そひ舟をさやす釣人

という二首の和歌が並ぶことになる。しかし、この二首は秋の夕べと春の曙という違いはあるものの、どちらもただ景色を詠んだだけのもので、あまり変わり映えがしない。連歌ではもっと思い切った展開が要求される。そのために、霧を詠んだ句の後に別の句が入り、次の句で霧と似たような霞を詠むようなことを嫌う。また、「晴れて」で終わった句の次に別の句が来て、その次にまた「たなびきて」で終わるようなものも嫌う。応安新式では霧と霞は「可隔三句物さんくへだつべきもの」と決められている。つまり、間に三句挟んだ後でしか使ってはいけないものとされている。「梅にほふ」の句はこの点でルール違反になる。
 実際、この連歌では次に

   川そひ舟をさやす釣人
 笠にぬふ岩本菅のかりの世に    専順せんじゅん

という句が付けられている。これだと、

 霧のぼる夕日がくれの水晴れて
    川そひ舟をさやす釣
 笠にぬふ岩本菅のかりの世に
    川そひ舟をさやす釣人

というように、前の一首が秋の夕べの景色の和歌なのに対し、後の一首は景色の句というよりも仮の世を疎ましく思って川べりで静かに釣り糸をたれて暮らす、屈原か陶淵明のような隠士の句になる。連歌の場合、こうした展開の仕方の面白さを競うものであり、そのために、似たような句が付かないように、様々な細かな取り決めがある。式目は基本的には百韻によって生じる九十九種の和歌すべてが別の趣向になるようにする取り決めであり、いわばネタの重複を避けるためのものと考えるのがいいだろう。→『応安新式』

 式目というと、よく連歌の解説で月花つきはな定座じょうざということが書かれているが、これは本来連歌の式目にはなく、宗祇の時代には月の句や花の句が特に決まった何区目といったような場所で詠まれるということはない。月花の定座は江戸時代に広まった習慣であって、式目ではない。
 また、中世の連歌は基本的に百韻一座で、百韻十巻からなる千句も盛んに作られた。五十韻、よし(四十四句)、歌仙かせん(三十六句)などは、ほとんど見られない。之もまた江戸時代に盛んになったもので、特に歌仙は芭蕉の蕉風しょうふう確立期ごろから俳諧連歌のスタンダードとなったもので、初期の俳諧にはほとんど見られない。
 標準的な百韻は四枚の懐紙から成り立つ。初の懐紙、二の懐紙、三の開始、名残の懐紙の四枚で、それぞれに表と裏がある。初の懐紙の表には八句を記し、これを表八句という。以降、初の裏から名残の表までは十四句ずつ記し、名残の裏が再び八句になる。歌仙の場合は懐紙は二枚で、初の懐紙の表は六句、初の裏、名残の表は十二句、名残の裏には六句を記す。
 また、発句には賦し物というのがあり、中世の連歌のタイトルは通常この発句の賦し物でもって「賦山何百韻」とかいうふうに呼ばれる。賦し物というのは句の中の一字と別の文字を組み合わせて、「やまびと」「かざはな」などの言葉を作るもので、『水無瀬三吟』の場合、発句の

 雪ながら山もと霞む夕かな    宗祇

の「山」の字を取って、「何人」とすることにより、「山人(やまびと)」に賦すということになる。『水無瀬三吟』にはそこから「賦何人連歌」というタイトルが付く。賦というのは貢物や税のことで、「賦す」と動詞で用いるときには「捧げる」という意味を持つ。その意味では、これは「山人に捧げる連歌」ということになるだろう。鎌倉時代くらいまでは、後の『応安新式』などに通じる去り嫌いを中心とする式目の他に、全部の句に賦し物を取る別の系統のルールがあったらしい。発句に賦し物を取るのはその名残だという。
 式目には季語を使わなくてはいけないという規定もないし、字余りについての規定もない。発句で季語を用いるのは発句が当座の季候の挨拶であるところから生じた習慣であり、また、今日のようにある言葉が入っていれば自動的にその季節の句とみなすようなことはせず、あくまで実質的な季節感を重視する。季重なりも、異なる季節の季重なりも、連歌の発句には普通に見られる。このことは蕉門しょうもんの発句にも言えるが、季重なりは率的には少ない。異なる季節の季語が重なっている場合は、内容で判断する。今日の近代俳句が形式季語なら、連歌や蕉門の俳諧は実質季語とでも言うべきだろう。
 連歌の式目には字余りの規定もないが、中世の連歌では字余りは極めて稀だ。和歌では「あいうえお」という母音だけの文字が入る場合は「月やあらぬ」や「年の内に」「今年とや言はん」のように字余りにする場合が多いが、中世連歌では字数はかなり厳密に守られている。字余りは江戸時代の俳諧では多く見られ、特に談林だんりん俳諧以降、規定がないから無制限という判断から、字余りは普通に見られるし、伊丹流長発句いたみりゅうながほっくのように十文字以上も余らせるような極端なものもあった。
 中世の連歌は式目に直接書かれていなくても、おおむね宮廷和歌に準じていたため、使う言葉がいわゆる雅語に限定されていたのも、当時の和歌に準じたものだ。中世連歌で用いる雅語は中世の宮廷の言葉を基礎としたもので、決して当時としては古語ではなかった。むしろ『古今集』の紀貫之の歌にあるような「袖ひぢて」のような言い回しは当時としてはもはや死語であり、用いるべきではないとされていた。まして、近世以降の和歌のような万葉語を好んで使うようなことはなかった。当時の文化の中心はまだ宮廷にあり、宮廷言葉はいわば当時の標準語だった。近世に入り文化の中心が江戸・上方などの大都市に移ることで、そうした都市の言葉が新しい標準語となったのは自然の成り行きだった。
 また下句の最後の七文字のリズムで、三四、二五のリズムをよしとし五二も可とするが四三を嫌うのも、和歌から受け継がれたものと思われる。和歌の末尾が四三で終わる例は、『万葉集』では普通に見られるし、『古今集』でも古い時代のものには時折見られるが(「旅行く我を」「みせましものを」のように)、その後嫌われるようになる。理由はわからない。この規則は天和期の破調の俳諧では破られる傾向にあったが、おおむね俳諧でも守られている。
 とにかく、連歌の式目で重要なのは、あくまで去り嫌いであり、今日の俳句の規則(昭和期にホトトギス派によって確立された)とはずいぶん違うものだと思ったほうがいい。
 細かい式目の規定をいちいち覚えるのが面倒な人は、とりあえず基本的に同じ題材の重複を避けるために、何句か隔てなければならない言葉や何回かしか使えない言葉がある、ということを覚えておけばいいだろう。基本的には同じネタは二度使えない、と考えればいい。連歌は雅語で詠むために題材が限られ、趣向も重複しやすい。そのためかなり複雑な去り嫌いの規則を必要としたが、俳諧は俗語を開放し、テーマも多岐に渡るため、似たような句の重複は起こりにくく、そのため、去り嫌いに関してはかなり緩和された。しかし、近代に入ると、文学は個人の表現という理由から連歌・俳諧を文学から排除しようとする力が強力に働き、それに対してごく少数の連歌を擁護しようとする者も、形式美を連歌文学の根拠にすえる傾向があったため、内容よりもただ形式を守ることにこだわり、規則も増える一方で、きわめて窮屈なものになっているのは残念だ。

連歌鑑賞のポイント

 連歌は基本的には上575と下77の二つの句を合わせて57577の一首の和歌を完成させる遊びであり(俳諧の場合は狂歌を、近代連句の場合は短歌を完成させると考えていい。)、前句と付け句とを二句合わせて一首の和歌として鑑賞するのが基本となる。たとえば、

    罪のむくひもさもあらばあれ
 月残るかりばの雪の朝ぼらけ    救済きゅうせい

の句の場合は、

 月残るかりばの雪の朝ぼらけ
    罪のむくひもさもあらばあれ

という和歌だと思って鑑賞すれば良い。俳諧の場合も同様、

    夜着よぎたたみおく長持ながもちの上
 ともしびの影めづらしき甲待きのえまチ   芭蕉

の句の場合は

 ともしびの影めづらしき甲待きのえま
    夜着よぎたたみおく長持ながもちの上

という狂歌だと思って鑑賞すれば良い。この場合、通常、前句の作者が誰であるかは問題ではない。これは連歌がいわゆるコラボレート(競作)とは違うところで、連歌の場合(俳諧、連句も同様)前句に関しては作者がどのような意図で詠んだのかは問題にならない。付け句は前句を自由に解釈し、むしろ作者の意図とは別の意味に取り成して付けるのが基本だからである。付け句は、前句が持つ潜在的な可能性をいかに引き出すかが大事であり、前句の意味はあくまでつけ句によって引き出されたものであり、作者のものではない。
 この潜在的な可能性を引き出すというのは、中世的なエピステーメの一つの特徴でもある。つまり、焼き物は土の持つ潜在的な可能性を引き出すことであり、華道は生きた花に鋏を入れることで一度殺し、それをあらためて人工的に配列することでふたたび命を吹き込む行為である。連歌もまた、前句を一度殺し、新たな句を付けることによってふたたび命を吹き込むことなのである。そのため、勅撰集に準ずると言われる『菟玖波集つくばしゅう』や『新撰菟玖波集しんせんつくばしゅう』はもとより、俳諧の選集などでも、前句の作者名を出さずに、付け句のみの作者名を表記するのが普通である。
 しかし、もちろん連歌の面白さは、単にこうした和歌としての完成度だけではない。和歌としての鑑賞はサッカーでいえば名ゴール集のようなもので、単にゴールシーンだけを見るのではなく、どのような流れの中でそのゴールが生れたかも興味深いものである。その場合の一番の決め手は、前句をどのように取り成したかだ。前句がその前句(打越)に付いた時の意味といかに違えて付けたか、つまり展開の見事さが大きなポイントになる。さらには、式目上の制約を理解すれば、いかに制約の多い状況下でうまくそれをかいくぐって付けたかも大きなポイントとなる。
 なお、今日の連句では、付け句を単なる連想ゲームのように見る向きもある。つまり、上句・下句を合わせて和歌を完成させるという根本的な意味を見失い、上句下句続けて詠んでも意味が通らなかったりするものがしばしばある。こうした句は「付かない」句であり、連句としては問題外である。しかし、こうした傾向は今日に始まったものではなく、蕉門の俳書『去来抄』にも、
 「支考曰しこういはく附句つけくつくるものなり。今の俳諧不付つかざる句多し。先師曰、句に一句もつかざるはなし。」
とある。付かず離れずという言葉もよく誤解されるが、これは付けてはいけないということではない。あくまで付きすぎる句、つまりベタな句を戒めているだけで、あくまで上句下句を合わせて意味の通じるのもでなくてはならない。
 島津忠夫は『新潮日本古典文学集成 連歌集』(1979、新潮出版)で、

   おちばは水の上にこそあれ
 夏川の入江のす鳥立ちかねて    救済きゅうせい

   浅茅あさぢといふは花さかぬ草
 ふるさとは憂き事ばかり秋に似て  救済きゅうせい

の句を「一種の和歌としては不自然で、上句・下句いずれも独立した意味と形をそなえている」例としている。

 夏川の入江のす鳥立ちかねておちばは水の上にこそあれ
 ふるさとは憂き事ばかり秋に似て浅茅といふは花さかぬ草

とした時、確かに意味はわかりにくいかもしれない。しかし、よく読めば、前者は「落葉」を「落ち羽」に取り成した句で、夏川の入江から巣立つ鳥が誤って水に落ちて、羽が水の上にある、とちゃんと意味が通っている。後者も「浅茅」と「ふるさと」は、

 ふるさとは浅茅河原とあれはてて
    よすがら虫の音をのみぞなく
                   道命(後拾遺集 巻四)

 ふるさとは浅茅がすゑになりはてて
    月にのこれる人のおもかけ
                   藤原良経(新古今集、巻十七)

という歌の縁があり、ふるさとが荒れ果てて薄が原に成り果てたのを見て、秋には萩桔梗などの花がたくさんあるにもかかわらず、そうした華やかな部分は似ずに、花のない物憂さだけが秋のようだという意味になる。つまり、上句・下句が独立しているように見えても、読解の不十分さを疑った方がいい。
 鑑賞のポイントとしては、一には、和歌として読んだ時の意味の深さ、二に打越に対する展開の見事さ、三に式目の制約をいかにうまくかいくぐっているか、この三点を注意して見ることをお勧めする。

連歌の速度

 実際に自分で百韻でも歌仙でも作ろうと試みた人ならわかると思うが、結構時間のかかるものだ。日頃句を付けるなんて訓練をしていないのだから無理もない。仮に一句を付けるのに十分かかるとすると、百韻一巻巻くのにかかる時間は、単純計算で十六時間四十分。これでは一日の連歌会としてはあまりにも長すぎる。その半分の一句平均五分としても八時間二十分。これなら何とか朝の八時に始め、昼食休みを一時間とって、夕方には終わる。しかし、交通機関の未発達な時代に、そんなに早くから連衆が集まることができただろうか。そう考えてゆくと、連歌の運座はかなりハイペースで行われたことがわかる。長考する余裕はなく、あくまで即興で早い者勝ちで付けていったのだろう。そして、連衆もまた、どんな前句が来ても即興で句が付けられるように、日頃から独吟などをやって練習していたのだろう。
 まして、千句興行ともなると、どれほどの速さで行われたか。単純に言って、一句三十秒としても、八時間二十分かかることになる。ほとんど考える時間はない。ある意味では今日のラッパーに近いのかもしれない。即興でリズムに乗せて言葉が途切れないように韻を踏んでゆくのも熟練が要る。中世の連歌師もほとんど間をおかずに即興で次々と句を付けてゆく能力を身に付けていたのだろう。
 圧巻なのは井原西鶴が談林の俳諧師だった頃に行った貞享元年六月の二万三千五百句独吟興行で、これを二十四時間以内にやり遂げたというのであれば、ほぼ一時間に千句、六分で百韻一巻、一句当たり3.6秒になる。つまり丸一日まったく休まずに句を詠み続けたことになる。ラッパーが二十四時間一度も言葉が途切れずに韻を踏んでラップし続けることを想像すればいいかもしれない。この西鶴が仕掛けた大矢数俳諧の数少ないライバルに、大淀三千風がいたが、それでも名前どおりの三千句がやっとだったことを考えると、やはり西鶴は天才だったのだろう。
 芭蕉の時代に入って百韻が急速に廃れ、歌仙がスタンダードになったのは、こうした句を早く付ける人がいなくなったということではなく、また別の事情があったと思われる。それは連歌会が主に寺社に句を奉納する行事として一日がかりで行われていたのに対し、俳諧興行はあくまで娯楽で、仕事が終わった後に集まって夕方から始めることが多くなったせいだろう。一日がかりの百韻興行が、一句五分のペースで八時間以上かかったとしても、同じペースで歌仙なら、三時間で終わる。この程度で疲労も少なくて、ちょうどよかったのだろう。
 もし今日、ネットで連歌を行うなら、即興性を考えればチャットを利用するのが良いだろう。ただ、同じ時間に連衆を集めることが困難ならば、掲示板を利用するか、メールで句を募り、ある程度集まったところでホームページにアップするという方法が考えられるが、一日一句としても歌仙一巻に一月以上かかることになる。しかも、これだと即興性はほとんど失せ、あらかじめ候補となる句を書き溜めておく「手帳」もやった者勝ちになる。一句にこれでもかと趣向を凝らし、一句の独立性は高くなるが、その分確実に展開は重くなり、付かない句が多くなる。付けにくくなるから、長考する。長考するから付けにくくなる。悪循環に陥る。こうして、心より形式を優先させ、句にこれでもかと凝ったレトリックを施し、句と句の関係はまったく付いてないかせいぜい疎句付けになり、本来の連歌とはずいぶん違った別の遊びになってしまう危険も大きい。

連歌と現代

 もし中世の人がタイムスリップして、今の時代にやってきて、テレビの「笑点」を見たなら、おそらく現代日本語がチンプンカンプンで内容がわからないだけに、連歌会だと思うかもしれない。連歌というと今日では大名・貴族の格式ばった遊戯のイメージがあるかもしれないが、「二条河原落書にじょうかわららくしょ」には「京鎌倉ヲコキマゼテ、一座ソロハヌエセ連歌、在々所々ノ歌連歌、点者ニナラヌ人ゾナキ」とあるように、主に地下じげ連歌師を中心に庶民の間に大流行し、その熱狂ぶりは狂言にも描かれている。連歌は本来大衆文学であり、そのエネルギーが宮廷歌人をも席巻したといった方が良いだろう。
 連歌会の興行のスタイルは、今日の放送業界で言ういわゆる「ネタもの」の元祖といってもいい。何かテーマを決めてネタを募集し、それをスタッフが選んで、面白かったものには賞を与えるというスタイルは、今でも様々な形で隆盛を極めている。これも、元をたどれば、連歌師が司会進行役を勤め、連衆に付け句を競わせ、最後に一番多くの句が採用された人や、一番良い句を付けたものに賞品を出したりした、そのスタイルを引き継ぐものだ。
 江戸時代に入ると木版による出版文化が確立され、飛脚による郵便事業も確立されたために、連衆によらずに広く句を公募し、それを本の形で発表するという方法が取られるようになった。これがいわゆる点取俳諧てんとりはいかいで、たいていの場合投句する際に「点料」つまり今日で言う選考料だとか参加費だとかを支払い、本に載れば、その本も買ってくれるから、多くの投句者を集めることができれば、結構いい商売になった。今日でも地方自治体が主催で千円の投句料でコンテストをしたりしているが、あれも句さえ集まれば結構いい収入になるのだろう。点取俳諧も、最初は百韻一巻だとか歌仙だとかを募集したりもしたが、収入をアップさせるにはもっと誰でも手軽に応募できる簡単な形式の方がいい。そこで発句だけを募集したり、下七七の前句をお題として出し、それへの五七五の付け句を募集するという形を取るようになった。その中で最も成功したのが柄井川柳撰の川柳点だった。
 広く作品を公募し、それを選者が選んで本にするという方式は、「ホトトギス」などの近代俳句にも受け継がれ、今日では俳句だけでなく、短歌、現代詩、五行歌、日本一短い手紙、サラリーマン川柳などを含め、同人誌からメジャーなものまで無数の出版物が刊行されている。それを放送番組に応用したのが、先ほどの「ネタもの」といってもいいだろう。これらは誰もが参加できるという相互方向的な面が大衆に好まれ、たとえ賞品はちんけなものでも、自分の作ったものが活字になったり電波に乗ったりすることで自己顕示欲が満たされ、優越感に浸れ、人にも自慢できる。それゆえ、こうした連歌に由来するネタもの文化は、今後ますます盛んになり、日本だけでなく世界をも席巻してゆくであろう。本家の連歌は日本ではすっかり忘れ去られてしまっているが、相互方向的なネタもの文化の根がある限り、再びよみがえる可能性は十分にある。ひょっとしたら日本ではなく、どこか聞いたこともないような思いがけない国で連歌が流行する可能性もないとは言えない。実際、日本での関心以上に、世界での日本の連歌への関心は高い。むしろ、日本には連歌研究者も連歌人口も少なく、世界のニーズに応えていないといったほうがいいかもしれない。
 連歌には様々な効用がある。その一つは室町時代末期にやってきた宣教師が驚いたほどの、日本の識字率の高さだ。庶民の読み書きは、日本では当たり前のように思えるが、室町時代でも江戸時代でも日本の識字率は世界で群を抜くものであり、それが速やかな西洋の科学技術の受容と早い近代化につながったのは言うまでもない。それは連歌が言葉で遊ぶことの楽しさを庶民に教え、遊びながら字を覚えられるようにしたからだ。
 もちろん連歌が教えたのは文字だけではない。むしろ、平和と命の尊さを教える風雅の精神を広く庶民に植え付けたことも評価されねばならない。それは日本の治安の良さにも関係がある。今日、若干治安が悪くなったとはいえ、未だに日本ではミニスカートの女子高生が夜中に外出できるような国だ。これは今に始まったことではない。中世でも、日本では女の一人旅ができた。
 また、連歌は俳諧を経ることによって、様々な大衆文化を生み出した、たとえば、漫画も近世の俳画が基礎になっている。また、連歌の広めた、識字率と王朝の風雅の精神や美学が基礎となって、歌舞伎、浮世絵などの様々な大衆文化が生まれ、近代の漫画も含め、日本の大衆芸術は日本の大衆文化はすべて連歌から始まったといっても過言ではないだろう。しかもこれらの文化は今や世界で高く評価されている。むしろその本当の価値を知らないのは日本人だけなのかもしれない。今や世界は国家中心から市場中心の時代に移り、国家教育による国民の美意識の管理を目的とした近代文学や近代芸術は、もはやその使命を市場に譲ろうとしている。そして、その市場文化の先進国こそ、まさしくこの日本なのである。

水無瀬三吟

水無瀬三吟何人百韻

    長享二年正月二十二日


〔初表〕

 雪ながら山もと霞む夕べかな    宗祇

   行く水遠く梅匂う里      肖柏

 川風にひとむら柳春みえて     宗長

   船さす音もしるき明け方    宗祇

 月やなほ霧渡る夜に残るらん    肖柏

   霜置く野原秋は暮れけり    宗長

 鳴く虫の心ともなく草枯れて    宗祇

   垣根をとへばあらはなる道   肖柏


〔初裏〕

 山深き里や嵐におくるらん     宗長

   慣れぬ住まひぞ寂しさも憂き  宗祇

 いまさらに一人ある身を思うなよ  肖柏

   移ろはむとはかねて知らずや  宗長

 置きわぶる露こそ花にあはれなれ  宗祇

   まだ残る日のうち霞むかげ   肖柏

 暮れぬとや鳴きつつ鳥の帰るらん  宗長

   深山を行けばわく空もなし   宗祇

 晴るる間も袖は時雨の旅衣     肖柏

   わが草枕月ややつさむ     宗長

 いたずらに明かす夜多く秋ふけて  宗祇

   夢に恨むる荻の上風      肖柏

 見しはみな故郷人の跡もなし    宗長

   老いの行方よ何にかからむ   宗祇


〔二表〕

 色もなき言の葉にだにあはれ知れ  肖柏

   それも伴なる夕暮れの空    宗祇

 雲にけふ花散りはつる嶺こえて   宗長

   きけばいまはの春のかりがね  肖柏

 おぼろげの月かは人もまてしばし  宗祇

   かりねの露のあきのあけぼの  宗長

 すゑのなる里ははるかに霧たちて  肖柏

   ふきくる風はころもうつこゑ  宗祇

 さゆる日も身は袖うすき暮ごとに  宗長

   たのむもはかなつま木とる山  肖柏

 さりともの此世のみちは尽きはてて 宗祇

   心ぼそしやいづちゆかまし   宗長

 命のみ待つことにするきぬぎぬに  肖柏

   猶なになれや人の恋しき    宗祇


〔二裏〕

 君を置きてあかずもたれを思ふらむ 宗長

   その面影に似たるだになし   肖柏

 草木さへふるきみやこの恨みにて  宗祇

   身のうきやども名残こそあれ  宗長

 たらちねの遠からぬ跡になぐさめよ 肖柏

   月日のすゑやゆめにめぐらん  宗祇

 この岸をもろこし舟のかぎりにて  宗長

   又むまれこぬ法をきかばや   肖柏

 逢ふまでと思ひの露のきえかへり  宗祇

   身をあきかぜも人だのめなり  宗長

 松虫のなく音かひなきよもぎふに  肖柏

   しめゆふ山は月のみぞすむ   宗祇

 鐘に我ただあらましの寝覚めして  宗長

   いただきけりなよなよなの霜  肖柏


〔三表〕

 冬枯れのあしたづわびて立てる江に 宗祇

   夕しほかぜのとほつふな人   肖柏

 ゆくへなき霞やいづくはてならむ  宗長

   くるかた見えぬ山ざとの春   宗祇

 しげみよりたえだえ残る花おちて  肖柏

   木のしたわくるみちの露けさ  宗長

 秋はなどもらぬいはやも時雨るらん 宗祇

   苔のたもとに月はなれけり   肖柏

 心あるかぎりぞしるき世捨人    宗長

   をさまる浪に舟いづるみゆ   宗祇

 朝なぎの空にあとなき夜の雲    肖柏

   雪にさやけきよものとほ山   宗長

 嶺のいほ木の葉ののちも住みあかで 宗祇

   さびしさならふ松風のこゑ   肖柏


〔三裏〕

 たれかこの暁おきをかさねまし   宗長

   月はしるやの旅ぞかなしき   宗祇

 露ふかみ霜さへしほる秋の袖    肖柏

   うす花薄ちらまくもをし    宗長

 鶉なくかた山くれて寒き日に    宗祇

   野となる里もわびつつぞすむ  肖柏

 帰りこばまちしおもひを人やみん  宗長

   うときもたれが心なるべき   宗祇

 昔よりただあやにくの恋の道    肖柏

   わすられがたき世さへ恨めし  宗長

 山がつになど春秋のしらるらん   宗祇

   うゑぬ草葉のしげき柴の戸   肖柏

 かたはらに垣ほのあら田返しすて  宗長

   ゆく人かすむ雨のくれかた   宗祇


〔名表〕

 やどりせむ野を鴬やいとふらむ   宗長

   小夜もしづかに桜さくかげ   肖柏

 灯をそむくる花に明けそめて    宗祇

   たが手枕にゆめはみえけん   宗長

 契りはやおもひたえつつ年もへぬ  肖柏

   いまはのよはひ山もたづねじ  宗祇

 かくす身を人はなきにもなしつらん 宗長

   さても憂き世にかかる玉のを  肖柏

 松の葉をただ朝ゆふのけぶりにて  宗祇

   浦わの里はいかにすむらん   宗長

 秋風のあら磯まくら臥しわびぬ   肖柏

   雁なく山の月ふくる空     宗祇

 小萩原うつろふ露もあすやみむ   宗長

   あだのおほ野を心なる人    肖柏


〔名裏〕

 忘るなよ限りやかはる夢うつつ   宗祇

   おもへばいつを古にせむ    宗長

 仏たちかくれては又いづる世に   肖柏

   枯れし林も春風ぞふく     宗祇

 山はけさいく霜夜にかかすむらん  宗長

   けぶりのどかに見ゆるかり庵  肖柏

 いやしきも身ををさむるは有つべし 宗祇

   人をおしなべ道ぞただしき   宗長

水無瀬三吟解説

   初表

水無瀬三吟、発句

 ゆきながらやまもとかすゆふべかな    宗祇そうぎ

   古註(『連歌集』日本古典文学大系39、1960、岩波書店より)

    見わたせば山本霞む水無瀬川夕べは秋とたれかいひけむ
   此の本歌の心也。ただ山本霞む夕べさへ面白きに雪ながらの景気珍重とぞ。


 山にはまだ雪が残っているものの、霞みもたなびいていて、とてもあわれな夕暮れですね。250年前に非業の死をとげた後鳥羽院の

 見渡せば山もと霞む水無瀬川
    夕べは秋となに思いけん

という歌が思い起こされます。


 この連歌は後鳥羽院の250回忌のために詠まれたもので、非業の死をとげた後鳥羽院の魂を鎮めるとともに、応仁の乱で荒廃した国土に対する平和祈願と、歌道の再興への願いを込めたものだった。雪の残る中での春の訪れに、目出度さだけでない複雑な心境が込められている。
 秋の夕べの哀れは古来和歌のテーマとされていて、

 さびしさに宿をたちいでて眺むれば
    いづくも同じ秋の夕暮れ
              良暹りょうぜん法師

をはじめ、『新古今集』の三夕の歌、

 寂しさはその色としもなかりけり
    槇立つ山の秋の夕暮れ
              寂蓮法師
 心なき身にもあはれは知られけり
    鴫立つ沢の秋の夕暮れ
              西行法師
 見渡せば花も紅葉もなかりけり
    浦の苫屋の秋の夕暮れ
              藤原定家

などはよく知られている。
 しかし、夕暮れが悲しげなのは何も秋に限ったものではない。春の長閑なさなかにあっても、夕暮れはそれがいつかはかなく消え行くことを思わせる。まして雪ともなれば、

 秋もまだ浅きは雪の夕べかな    心敬

の句にもあるように、雪が降りしきる中にあたりが静かに暗くなってゆく様は、まさに色もなき世界で、これに比べれば夕焼けが空を染める秋の夕べの悲しさなんてのはまだ浅い、ということにもなる。
 宗祇の頭の中には多分この心敬の句もあったのだろう。モノトーンのまま薄墨を塗り重ねてゆくように暮れてゆく戦乱の時代を過去のものとして、そこに春の光が差し込み、後鳥羽院が秋にも勝ると詠んだあの水無瀬の夕暮れがよみがえることを祈ったのだろう。


式目分析

季題:「雪」「霞む」;雪は本来冬のものだが、霞と組み合わせることで「春雪」になる。「雪」は降物ふりもので、降物は可隔三句物さんくへだつべきもの(雨、露、霜、霰などとは三句隔てなくてはならない)。また、「雪」自体も一座四句物いちざよんくもので、百韻の百句中、冬の雪を三句、春雪を一句出すことができる。その他:「山もと」は山類の体、「霞む」は聳物そびきもので、聳物と聳物は可隔三句物(霧、雲、煙などとは三句隔てなくてはならない)。発句に出したから、三句目、四句目には出せないが、五句目には出すことができる。ただし、二句目のように連続させるなら出せる。基本的に輪廻を嫌うからであり、一句、二句と重ねて、三句目にまた出すと、一句目と三句目で輪廻になる。それゆえ、特に何句まで連ねていいという句数の定めのないものは、三句連続させることはできない。「夕べ」は一座二句物。

水無瀬三吟、脇

   ゆきながらやまもとかすゆふべかな

 水遠みづとほ梅匂うめにほさと        肖柏せうはく        


   古註

    嶺には雪ながら、ふもとには雪げの水悠々とながるる体也。里は山本の里なるべし。


 (ゆきながらやまもとかすゆふべかな水遠みづとほ梅匂うめにほさと
 ええ、山にまだ雪の残る中、本当にあわれな夕暮れです。山から流れる川の水も遠くに見え、かって後鳥羽院によって歌道の栄えた水無瀬の地も、今はひっそりと、梅の香だけが当時の面影を留めてます。


 「雪」に雪解けの水の流れ行くさま、「山もと」に里を付けている。行く水はまた、250年の長い歴史を思わせ、「ゆき」と「ゆく」は韻もかよう。梅は、『伊勢物語』で在原業平が、かって親しかった女の家に来て、その家の荒れ果てているのを見て、

   月やあらぬ春や昔の春ならぬ
      わが身一つはもとの身にして

と詠んだ、その梅の花も思い起こさせる。雪解けの水の流れに、悠久の時の流れが感じられ、冷えさびた雪の夕べに梅の里の花を添えている。


式目分析

季題:「梅」;春。「梅」は一座五句物で、百韻百句中に只梅を一句、梅の紅葉を一句、紅梅を一句、冬の梅を一句、青梅を一句出すことができ、この場合は春の通常の梅で、「只梅」になる。また、「梅」は木類で可隔五句物。その他:「行く水」は水辺の体。「里」は居所の体で可隔五句物。

水無瀬三吟、第三

   水遠みづとを梅匂うめにほさと
 川風かはかぜにひとむらやなぎはるえて    宗長そうちゃう


   古註
   梅は川辺・入り江などに縁ある花也。一句は,柳は風なき時はみどり見えぬもの也。

   されば風に春見えてとなり。


 (川風かはかぜにひとむらやなぎはるえて水遠みづとを梅匂うめにほさと
 川から風が吹いて来ると、一本の柳の木も浅緑の新芽がちらちら揺らいで見え、春の兆しを見せてくれます。遠くに川が流れ、梅の匂うこの里では。


 「柳は風なき時は緑見えぬものなり。されば風に春見えてとなり」と古注にある。新芽の頃の柳は、風が吹かないと緑がよくわからない。

式目分析

季題:「柳」;春。一座三句物で、季節に関係ない只の柳を一句、春の木の芽吹く青柳を一句、秋の散る柳か冬の枯れ柳を一句出すことができる。ここでは春の青柳になる。脇句の梅に続いて木類が二句続く。可隔五句物というのは、間隔があいた場合のことで、二句続けることはできる。ただし、三句続けると、一句隔てたところに木類が来てしまうため、三句続けることはできない。その他:「川」は水辺の体。水辺の体も二句続けることができる。体はこれでこの次にはつけられないが、同じ水辺でも用か体用の外なら、さらに付けることが出来る。ただし、水辺全体では三句までとなっている。

水無瀬三吟、四句目

   川風かはかぜにひとむらやなぎはるえて
 ふねさすおともしるきがた      宗祇そうぎ


   古註
   舟さす音のかすかなる明けがたに、一むら柳、そと見えたると也。

   惣而、見えてと云ふは、一句にも付くるにも大事也。

   明け方にて、春見えてと云ふ所、おもしろきとぞ。


 (川風かはかぜにひとむらやなぎはるえてふねさすおともしるきがた
 夜も明けて、川風にひとむらの柳にも春が見えて、舟の棹さす音もはっきりと聞こえてくる。


 古注に「舟さす音のかすかなる明けがたに,一むら柳,そと見えたると也。惣而、見えてと云ふは、一句にも付くるにも大事也。明け方にて、春見えてと云ふ所、おもしろきとぞ。」と有るように、明け方でほんのりと白む景色に柳の木が姿をはっきりと現わし、同時に舟の棹さす音もはっきりと聞こえてくる。前句では風にそよいで柳が「春」を見せたのに対し、ここでは明け方で「春」が見えたとする。解釈はこれまで大体一致していて、難しい句ではないが、様々な想像をさそう奥深い句だ。  福井久蔵(「連歌文学の研究」1948、喜久屋書店)はこの句をを旅寝の句としている。川辺の船着き場に泊ったときの情景でもいいし、野宿でもいいだろう。まだ夜も明けぬうちに出てゆく舟は、その日の長旅を思わせる。
 柳というと近世には「柳の下に幽霊」といういわれ方をするが、柳には本来境界の木という意味があったのだろう。

 山賤やまがつの片岡かけてむる野の
    さかいに立てる玉の小柳
                     西行法師

   明けぬるか夜のさかいの鐘の音
 門は柳の奥の古寺ふるでら      救済きゅうせい

などのように,柳は大体村の境界や川辺、街道、門前などに植えられている。いわば異界の入り口を示す木であり、そこから「柳の下の幽霊」という言葉も生まれたのだろう。柳は字の形からいって「卯」の木であり、卯の方向は東、卯の刻は夜明けを表わす。東は春の方角であり、柳の新芽の花にもまさる美しさもさることながら、こうした古代からの方角の意味論的空間が、柳を春の代表的な季題としたのではなかったか。
 夜明けにうっすらと春を告げる柳の木が見えてくる。そこは夜と昼との堺であり、あの世とこの世の堺でもある。その境界線を舟が渡ってゆく。特に何かを意味するというのではないのだが、そうした漠然としたイメージの重なりが、この句の厳かで神秘的な雰囲気を醸し出している。四句目はあまり重々しくならないように、さっと流すように着けると言われているが、何気ない付合のようで決していいかげんには付けていない。紹巴じょうは(戦国時代の連歌師で、明智光秀の師匠だったことでも有名)は水無瀬三吟の最初の八句を連歌史上最高のものとしているが、その理由はおそらく、それまで連衆の顔見せ的な挨拶で簡単に付けていた表八句を、ここまで徹底的にこだわって付けたというところにあるのだろう。

式目分析

季題:なし。その他:「舟」は『応安新式』では水辺の用だが、後にできた『新式今案』では水辺体用之外となり、体でも用でもなく使えるようになっている。水辺は句数の定めがあり、三句まで続けることができる。また、脇に体、第三に用が来ているので、水辺の体を付けると輪廻になるため、ここでは用(もしくは体用之外)しか付けられない。「舟」と「舟」は七句可隔物。また、水辺と水辺も可隔五句物なので、次に水辺を出すときには五句隔てなくてはならない。

水無瀬三吟、五句目

   ふねさすおともしるきがた
 つきやなほ霧渡きりわたのこるらん   肖柏せうはく


   古註
    夜は明けぬれど、霧にてくらきにより夜のやうに月の残りたると也。

   一句は秋の夜の月の景気なり。


 (つきやなほ霧渡きりわたのこるらんふねさすおともしるきがた
 昨日見た名月は,まだこの霧のどこかに残っているのだろうか。船の竿さす音もはっきりと聞こえてくる、この明け方に。

 「や」・・・「らん(らむ)」の係結かかりむすびで強調されたこの句は、反語にとるべきだろう。「月は今でもこの霧の中に残っている」というのではない。霧がかかっては一寸先もままならぬのだから、月など見えるはずもない。まして明け方だから、月も沈む頃である。古注に「夜は明けぬれど、霧にてくらきにより夜のやうに月の残りたると也。一句は秋の夜の月の景気なり。」とあるが,「夜のやうに月の残りたる」とは、月が実際に見えているということではなく、本当は朝なのに霧のせいで夜のように暗いから、月もどこかに残っているかのように錯覚する、という意味で、「一句は秋の夜の月の景気なり。」というのは、前夜に見た名月の余韻が残っていると考えた方がよい。
 夜は明けているのだけど、霧がかかっているためまだ暗い。この薄暗い何も見えない霧の中に昨日めでた名月はまだどこかに残っているのだろうか。いやっ、そんなことはない。もう朝なのだから昨日の夢は忘れよう。霧で何も見えない中に、舟の棹差す音だけがはっきり聞こえてくる。
 前の句では、柳の春の加えて「舟さす音も」と並べていたが、ここでは「も」は芭蕉の時代で言う、いわゆる「力も」で、単なる強調の意味で用いられている。
 伊地知鐡男いじちてつおは「連歌集」(日本古典文学大系39、1960、岩波書店)の中で、「舟さす音も」の「も」は、秋の月光は夜霧を通して明るい、同様に舟さす音も聞こえるの意、と言っているが、果たしてそうだろうか。福井久蔵も「連歌文学の研究」(1948、喜久屋書店)の中で「霧の中に月が朦朧として懸かってゐた」と言っているが、霧がかかると普通は月は見えない。霞か薄雲と勘違いしたのだろうか。島津忠夫の「連歌師宗祇」(1991、岩波書店)でも「夜霧を通しての秋の月は聴覚だけの世界に視覚を添える」と言っているが、大事なのは、あえて見えない月を添えたということだろう。
 小西甚一の「宗祇」(1971、築摩書房)には「深い霧のため,音しか聞こえない趣にとりなしている。霧が深くてよく見えないが、月はまだ空に残っているであろう」とあり、霧で月が見えないというのはいいが、朝だから月はもうないと取った方がいいと思う。霧の河原には、おぼろげながら異界の入り口、三途の川のイメージがついて回る。中世にはまだ埋葬の習慣が徹底せず、死者はしばしば河原に打ち捨てられ、野ざらしがごろごろしていて、遺体を処理する河原者が住み着いていた。そんな不気味なイメージを漂わせつつ、月は西へ渡って行ったのだ。

式目分析

季題:「月」「霧」;秋。「月」は七句可隔物。「日」や「星」などの光物とも可隔三句物となっている。「霧」も聳物で可隔三句物、発句の「霞」から三句隔てている。なお、連歌に季重なりの制はない。(本来俳諧でも季重なりは嫌わなかった。)その他:「月」「夜」は夜分になり可隔五句物。

水無瀬三吟、六句目

   つきやなほ霧渡きりわたのこるらん
 霜置しもお野原のはらあきれけり      宗長そうちゃう


   古註
   常に月は残るものなれど、ここにては、残月を暮秋に取り付け給ふ也。

   月は霧わたる夜に残りて、霜おく野は秋暮れたると也。霧と霜と対したる也。


 (つきやなほ霧渡きりわたのこるらん霜置しもお野原のはらあきれけり)
 月は今でも霧のかかった夜空のどこかに残っているのだろう。すでに霜のおりた野原に秋は暮れてしまった。


 古注に「常に月は残るものなれど、ここにては、残月を暮秋に取り付け給ふ也。月は霧わたる夜に残りて、霜おく野は秋暮れたると也。霧と霜と対したる也。」とある。前句では明け方でもう月は残っていやしない、というふうに「や・・・らん」を「反語」にとった。ここでは霧で見えないけれど月はまだ残っているのだろう、と「疑問」の意味に取り成す。前句を作者の詠んだ意味にとらず、あえて違う意味に取り成して付けてゆき、「こんな意味にもなるんだ」という発見をするところに連歌の面白さがあり、連歌師の腕の見せ所がある。野には霜が降って秋ももう終わりだが、月はまだ晩秋の定めのない雲や霧の中に残っている、という対比の句だ。「残る」とは沈まずに残ることではなく、名月は秋のものだが、秋は終わっても月は残っている、という意味になる。
 小西甚一(「宗祇」1971、築摩書房)は「前句の月が残っている理由を、暮れゆく秋を惜しむためだろう─と付けた。空には霧、野には霜と、聳物そびきもの降物ふりものに対したような趣になっている。すこし理がまさって、句そのものはおもしろくないが、このような句が混ることも均衡のため必要なのである。」と言うが、そうではない。「句そのものはおもしろくない」なら、そんな句は必要ないだろう。均衡のためにつまらない句が求められるなんてことは意味がない。たとえり句と言えどもおろそかにしないのが宗祇流の連歌であることは、四句目で見た通りである。「前句の月が残っている理由を、暮れゆく秋を惜しむためだろう」という解釈がつまらないだけではないか。
 月は暮れゆく秋を惜しんで残っているのではない。月はしばしば和歌では煩悩の月として用いられる。「嘆けとて月やは物をおもはする」の月である。ここでは特に何とは限定しないものの、若い頃抱いた出世の野望だったり、かなわぬ恋に終わった女のことだったり、そうしたかっての夢は今なお煩悩の霧に包まれて心の奥底にわだかまっている。もうすっかり髪も白く霜を抱いているというのに、そうした人生の暮秋を嘆じた時、この句の情ははっきりしてくる。秋は行こうとしているのに、月だけがまだ霧の中に残っている。それが暮秋残月の情であって、秋を惜しもうとして月が残っているのではない。
 連歌は近代の「写生」を基調とした短歌・俳句と違い、裏に込められた情を読み取ることが肝心だ。それができないと、佳句も駄句に見えてしまうことになる。中世にあっては、「歌は心をのぶるなかだち」であって、物質を描写するためのものではなかった。

式目分析

季題:「霜」「暮秋」;秋。「霧」は降物で、降物と降物は可隔三句物。「霧」と「霜」のような降物とは可嫌打越物だが、連続させる分にはかまわない。

水無瀬三吟、七句目

   霜置しもお野原のはらあきれけり
 むしこころともなく草枯くさかれて    宗祇そうぎ


   古註
   草の枯れ、霜おくを、虫のきらふことなれば、さて心ともなくと也。


 (むしこころともなく草枯くさかれて霜置しもお野原のはらあきれけり)
 鳴く虫にとっては無常にも草は枯れて、霜の降りた野原に秋も暮れとなり、終わろうとしている。


 これは説明の必要がないくらい素直な平付けだ。「霜置く」に「草枯れて」、「野原」に「鳴く虫」と四手に付いている。
 鳴く虫にとって草が枯れてゆくことは死を意味する。それと同じように人も年取れば頭に霜を抱き、死は誰しも逃れられない。そんな天の過酷さを感じさせるところが宗祇らしい。

式目分析

季題:「鳴く虫」;秋。「草の枯れる」は本来は冬だが、「枯野露」や「草枯花のこる」が秋とされているように、鳴く虫に草枯れるも秋になる。「虫」は一座一句物。虫類と虫類(たとえば松虫と蝉のような)は可隔五句物。その他:「草」は草類で可隔五句物、草類と木類は可隔三句物になる。ここでも第三の「柳」から三句隔てている。

水無瀬三吟、八句目

   むしこころともなく草枯くさかれて
 垣根かきねをとへばあらはなるみち    肖柏せうはく


   古註
   かきほあれてさむく見えたる時分、虫も哀れに見えたると也。ともと云ふてにはの付けやうとぞ。


 (むしこころともなく草枯くさかれて垣根かきねをとへばあらはなるみち
 鳴く虫にとっては無常にも草は枯れて、垣根を尋ねてもそこもまた何もなく殺風景に道になってしまった。


 垣根というのは隠士の住まいのように小さな家で、戸もあるかなきかの粗末なもので、まさに柴の戸だ。大きな立派な家ならまわりに塀をめぐらしたり堀を掘ったりして、中に入るには門をくぐらなくてはならない。こうした隠士の隠れ家も、夏は蓬や葎が茂り、どこに道があるのかわからないほどだったが、秋も暮れともなれば一面枯野となって、道があったのだとわかる。
 前の句では「心ともなく」の「も」は強調の「も」で、「心無くも」の意味だった。その「も」を並置の「も」に取り成すことによって、鳴く虫にも心無いが、垣根にも心無く草が枯れてしまった、と付ける。
 草は虫にとっては非情だが、それでもプラスに転じるのが肖柏らしい。草が枯れればそれまで草に埋もれてた荒れ果てた庵にも道が開けてくる。死は逃れられず恐ろしいが、それを見つめるところから「道」も見えて来るという含みを感じさせる。表八句の終りにこうして「道」が開かれてくる展開は、なかなか画期的で、まさにこれから展開される恋、述懐、羇旅、釈教などの人間模様の展開の序曲にふさわしい。道を詠んだ句といえば、同じメンバーで詠んだ『湯山三吟』(1491)の12句目には

      故郷も残らずきゆる雪を見て
   世にこそ道はあらまほしけれ     宗祇

があり、また、『明応八年宗祇独吟山人百韻』(1499)の7句目にも

      行く人見えぬ野辺のはるけさ
   霜迷う道は幽に顕れて        宗祇

がある。
 ここまでの表八句は「川」「舟」「霧」「草枯れて」といった死を暗示するイメージを連ね、厳粛な雰囲気を醸し出している。これも後鳥羽院への鎮魂というこの連歌の性格によるものだろう。

式目分析

季題:なし。その他:「垣根」は居所の体で居所と居所は可隔五句物。

   初裏

水無瀬三吟、九句目

    垣根かきねをとへばあらはなるみち
 山深やまふかさとあらしにおくるらん    宗長そうちゃう


   古註
   深山の栖などは常に嵐吹きて、かきねなどあらはなると也。


 (山深やまふかさとあらしにおくるらん垣根かきねをとへばあらはなるみち
 山奥の里だからといって、嵐も都より遅れてやってくるなんてことがあるだろうか。そんなことはない。垣根を尋ねてみると、草木はすでに嵐に吹き散り、道があらわになっている。


 この句は5句目と同様「や・・・らん(らむ)」の係り結びで強調されている。とはいえ、この句は「おくるらん」を「送るらん」ととるか「遅るらん」ととるかで解釈が分かれている。島津忠夫(「連歌師宗祇」1991、岩波書店)は「山深い里では、日々を嵐の吹き荒れる中に送っているのであろう。」と「送る」の意味にとっている。これに対して、福井久蔵(「連歌文学の研究」1948、喜久屋書店)や小西甚一(「宗祇」1971、築摩書房)は「遅る」の意味にとっている。「『おくる』を『送る』とよみ、明け暮れするという意に解釈する説もあるが、単に『送る』だけでその様な意になる例はない。」という小西の言葉が正しいなら、島津説は成立しない。
 私自身は実際に用例を調べたわけではないが、やはり内容的にも「遅る」とした方がいいように思える。というのも、「や・・・らん」はここでも5句目と同じ「反語」として「山奥の里だからといって、嵐も都より遅れてやってくるなんてことがあるだろうか。」という意味にとった方が、下の句へのつながりがスムーズになるからだ。古注に「深山の栖などは常に嵐吹きて、かきねなどあらはなると也。」とあるように、山奥は嵐が却って凄まじく、都より遅れてくるなどということはない。嵐が吹くから、夏の生い茂った木も落葉し、道をふさいでた雑草も枯れ果てて、道があらわになる。おそらく、わけあって山奥に隠棲せざるをえなくなった人のもとを尋ねたのであろう。しかし、人の憂き世を逃れても、嵐を逃れることは出来ない。夏草に埋もれた蓬生よもぎうの里も哀れだが、あらわとなった道もまた哀れだ。
 福井久蔵は「や・・・らん」を推量的な疑問の意味に解し、山深くない垣根は既に嵐が来て道はあらわだが、山奥は嵐が来るのが遅いのでまだ草木が繁っていると読むが、これでは何が言いたいかはっきりしない。山深くない垣根を問う理由も不明だし、第一山だとなぜ嵐が遅れるのか、さっぱりわからない。
 島津忠夫も「や・・・らん」を疑問の意味にとるが、福井と違うのは、それだと「嵐が遅れる」という意味になってしまい、これが事実に反することに気付いている点だ。しかし、そこで「遅る」を「送る」に読み替えてしまっいて、「垣根のあらわな道を嵐に送るのだろう」とした。
 小西甚一も同様「や・・・らん」を疑問の意味にとってしまっているため、「おくる」を「送る」の意味に取ることは不可能だというところで行き詰まってしまったようだ。そこで苦し紛れに「山里はいつも強風が吹き,木の葉が道を散り埋めるものだが、この里はまだ強風があまり来ないのか、道がよく見える。」としている。
 「山深い里だと嵐は都より遅れてやってくるだろうか。」と言われたとき、そのとおりだと言う人はまずいないだろう。都会だろうが田舎だろうが山奥だろうが、嵐は一ぺんに吹く。芭蕉の句に

 やまざとはまんざい遅し梅の花

の句があるが、万歳と嵐とはわけが違う。

式目分析

季題:なし。その他:「山」は山類の体で山類と山類は可隔五句物。「里」は居所の体で、「垣根」「里」と居所の体が二句続く。

水無瀬三吟、十句目

   山深やまふかさとあらしにおくるらん
 れぬまひぞさびしさもき 宗祇そうぎ


   古註
   山ふかき里に生まれ付きて有るほどに、うきもなきと也。


 (山深やまふかさとあらしにおくるらんれぬまひぞさびしさもき)
 山深い里だからといって、嵐が都よりも遅れて吹くなんてことがあるだろうか。嵐吹く山里での慣れない生活だからこそ、寂しい、人恋しいと思いつつも、かってのわずらわしい人間関係を思い出しては憂鬱になる。


 さて、この句の解釈もまた、前句の「送る」や「や・・・らん」の解釈が尾を引くことになる。下の句となる「慣れぬ住まひぞ寂しさも憂き」自体はそれほど難解な句ではない。古注に「山ふかき里に生まれ付きて有るほどに、うきもなきと也。」とあるように、山深い里に慣れていない者、つまり都から流れてきた者だからこそ、山奥の寂しさも憂鬱の種になるという意味だ。上句を付けると、山深い里だからといって嵐が遅れてくることもなく、毎日のように嵐が吹きすさぶ。そんな嵐に慣れてないからこそ・・・と言うことになる。上句の解釈が違うと、解釈もずれてくる。
 上句を山深い里は嵐も来ないと読んでしまった福井久蔵(「連歌文学の研究」1948、喜久屋書店)は「浮世の荒い風も容易にやって来ない奥地でも、住みつくまでは心淋しい感じのするのは詮方もない」としている。小西甚一(「宗祇」1971、築摩書房)も同様、「話主は、山里の寂しさをつらいと感ずるなど、馴れないからにすぎない─とする立場なのである」いずれにせよ、嵐の来ないこんな良い里で寂しいなどとは、と人を諭す意味としている。しかし、「ぞ・・・うき」と強調されたこの句を説教臭くとってしまうのは歌としてどうだろうか。やはりここは都落ちした人の心情を率直に吐露した句とした方が深みがあることは言うまでもない。
 街の喧騒から突如として人里離れた山奥に来ると、まず生じるのが感覚遮断だ。あるはずのものがない寂しさの中で、これまでうっとうしく思われてきた街での暮らしが否応無く思い出されてくる。しかし、それはすぐに美しい思い出になるわけではない。むしろ、あの時ああすればよかったという後悔や、都を離れざるを得なかった様々な恨めしい事情がまざまざとよみがえってくる。ちょうど失恋した直後のような、あるいは教団を脱会したときのような愛憎並行の状態に陥る。ソフトランディングするにはかなりの時間を要する。「なれぬすまひ」とはそういう状態なのだ。「山深き里や嵐におくるらん」と言うのは、そういう憂き世の苦しみが山に入ってもなお襲ってくることに重ね合わせて言っているのである。
 芭蕉の発句に

 憂き我を淋しがらせよ閑古鳥

とあるが、これは都での様々の憂鬱を寂しさに変えていってくれと言うものだ。世捨人は寂しさの中でじっと世俗の苦しみが美しい思い出に変ってゆくのを待っているのである。

式目分析

季題:なし。その他:「住まい」は『応安新式』の可嫌打越物の条に「居所に嫌之」とあるから、居所にはならない。ただ、打越に「垣根」があるので、式目上どうなのかは不明。

水無瀬三吟、十一句目

   れぬまひぞさびしさも
 いまさらに一人ひとりあるおもうなよ 肖柏せうはく


   古註
   惣別そうべつ、ひとり住むと也。


 (いまさらに一人ひとりあるおもうなよれぬまひぞさびしさもき)
 今さら一人でひっそり暮らす身の上を悩んでもしょうがない。されど、慣れない暮らしに、寂しいと思いつつ、世間の煩わしさを思いだし、憂鬱になる。


 「思うなよ」と言うのは、いわゆる「とがめてには」というやつで、自分で自分を咎める言い方である。自分自身に「今さら独りぼっちを嘆いてもしょうがないじゃないか。」と慰めているのである。前の句では、山奥での暮らしを、「なれぬすまい」としたが、ここでは独りぼっちの生活に慣れていないとした。古注に「惣別、ひとり住むと也。」とある通りである。
 伊地知鐡男は(「連歌集」日本古典文学大系39、1960、岩波書店)「人は本来天涯孤独なものよ、それを今更改めて一人身の淋しさを思い嘆くな。その淋しさに馴れた人の述懐しゅっかいとしたもの。」としているが、これは述懐の本意ほいを理解していない。述懐は本来人生の様々な苦しみや嘆きや後悔の偽らざる告白であって、「すでに淋しさに馴れてしまった」では述懐にならない。慣れない独り暮らしの苦しみを自分で慰めるところが述懐であって、他人への忠告は述懐ではない。
 島津忠夫(「連歌師宗祇」1991、岩波書店)と小西甚一(「宗祇」1971、築摩書房)は自戒の意味にとっているが、「人はもともと孤独なもの」という抽象論にこだわっている。もっと単純に、今更独りぼっちを嘆くなよ、ととった方が、より現実的な心情になる。
 宗祇法師自身による「宗祇初心抄」に「述懐連歌本意をそむく事」という項目があり、そこでは、

   身はすてつうき世に誰か残るらん
   人はまだ捨てぬこの世を我出て
   老いたる人のさぞうかるらむ

という例があげられている。これに対し、正しい述懐の例として、

   とどむべき人もなき世を捨てかねて
   のがれぬる人もある世にわれ住て
   よそに見るにも老いぞかなしき

があげられている。こうやって並べて見れば明白であろう。「世間の人は苦しんでいるが、俺はもう悟りを開いちゃったぞゥ」というのは述懐ではない、宗祇の言葉を借りるなら、それはまさしく「驕慢きょうまんの心」である。「世の中には悟りを開く人もあるというのに俺はまだ悟りきれずに苦しんでいる」というのが正しい述懐なのである。「人は本来孤独なのだから、慣れない住まいをうれうなんてばかばかしい」というのは「驕慢の心」であって述懐ではない。

式目分析

季題:なし。「憂き」と「身」で述懐。述懐は三句まで続けることができる。述懐と述懐との間は可隔五句物。その他:「身」は人倫。

水無瀬三吟、十二句目

   いまさらに一人ひとりあるおもうなよ
 うつろはむとはかねてらずや   宗長そうちゃう


   古註

   うつろはんとは、前より覚悟にてあるほどに、今更にひとり有ることおもはぬと。

   ずや・めやのてには、是にて可心得。


いまさらに一人ひとりあるおもうなようつろはむとはかねてらずや)
 今さら一人孤立した身の上を嘆いてもしょうがない。人の心はうつろいやすいものだと以前からわかっていたのだから。


 「人情とは、薄れやすいものと前々から知っているはずではないか。それを今更に独りの身の淋しさを嘆くな、とつづけた。述懐の句。」という伊地知鐡男(「連歌集」日本古典文学大系39、1960、岩波書店)の説の方がいい。「うつろはん」を島津忠夫(「連歌師宗祇」1991、岩波書店)、福井久蔵(「連歌文学の研究」1948、喜久屋書店)、小西甚一(「宗祇」1971、築摩書房)は栄枯盛衰、有為変転の意味にとるが、それは考え過ぎだ。そのように考えると、句が説教臭くなり、述懐の本意からはずれる。
 「ずや」「めや」は反語の「や」で、自問することで「知らなかったのか、そんなはずはない、知っていたはずだ」という意味になる。

式目分析

季題:なし。「うつろはむ」;述懐。

水無瀬三吟、十三句目

   うつろはむとはかねてらずや
 きわぶるつゆこそはなにあはれなり   宗祇そうぎ


   古註
   露は、花のうつろはんとはかねてしらずして、置き給ひて、今花のうつろふに置きわぶると也。

   まへ句のしらずやを、しらぬにして付け給ふ也。


 (きわぶるつゆこそはなにあはれなりうつろはむとはかねてらずや)
 花の上に結ぼうとして結べずにすぐに消えてしまう露は本当にあわれだ。物事は常にはかなくうつろいでいくということを、かねてから知らないでいたのだろうか。


 前の句では「うつろう」は単に人の心は変りやすいという意味だったが、ここであらためて「うつろう」を有為変転の意味に取り成す。「知らずや」もここは反語ではなく疑問の「や」に取り成し、「知らなかったのだろう」という意味になる。これによって述懐から無常の句に変わる。「花に」は倒置で、本来は「花に置きわぶる露こそあはれなれ」と続くべきところをひっくり返している。
 鴨長明の『方丈記』にはこうある。
 「知らず、生れ・死ぬる人、何方より来りて、何方へか去る。また知らず、仮の宿り、誰が為にか、心を悩まし、何によりてか、目を悦ばしむる。その主と栖と無常を争ふさま、言はば、朝顔の露に異らず。或は、露落ちて、花残れり。残るといへども、朝日に枯れぬ。或は、花しぼみて、露なほ消えず。消えずといへども、夕を待つことなし。」  花の命もはかないが、そこに結んではすぐに落ちてゆく露はもっとはかない。

式目分析

季題:「花」;春。『応安新式』では一座三句物だが、『新式今案』では一座三句物としながらも「近年或為四本之物」とあり、四句詠んでいいことになっている。また、花は一枚の懐紙に一句で、このあたりから後に花の定座という発想が出てきたのだろう。「露」は本来秋だが、花に結ぶ露なのでここでは内容上無季となる。内容から無常の句になる。その他:「露」は降物で降物と降物は可隔三句物。

水無瀬三吟、十四句目

   きわぶるつゆこそはなにあはれなり
 まだのこのうちかすむかげ  肖柏せうはく


   古註
   残る日に露おきては、きえぎえとしたるなり。


 (きわぶるつゆこそはなにあはれなりまだのこのうちかすむかげ)
 花に結ぼうとして結ぶことのできない露は本当にあわれだ。夕方の暮れようとして暮れていない残光は、春の霞みにうち霞んでいる。


 露が結ぶことのできないのは、暮れそうで暮れない春の遅日のせいとした.たいして深い意味のない句で、いわゆる遣り句という、句と句のつなぎのための軽く作った句と思われる。

式目分析

季題:「霞む」;春。聳物。聳物と聳物は可隔三句物。その他:「日」は光物で光物と光物は可隔三句物。

水無瀬三吟、十五句目

   まだのこのうちかすむかげ
 れぬとやきつつとりかへるらん  宗長そうちゃう


   古註
   かすみたるにより暮れたるとおもひて、鳥のかへるかとなり。


 (れぬとやきつつとりかへるらんまだのこのうちかすむかげ)
 もう春も終わってしまったと思って、鳥も鳴きながら北へ帰っていってしまうのだろうか。まだ春らしいうち霞んだ日の光は残っているというのに。


 古注に「かすみたるにより暮れたるとおもひて、鳥のかへるかとなり。」とある.古注は比較的同時代の説であり、尊重せねばならぬが、この注はどうだろうか。「かすみたるにより暮れたるとおもひて」では夕暮れの景色ということになるが、夕暮れにねぐらに帰る鳥では春の季題にならない。帰る鳥とは北へ帰ってゆく渡り鳥の情を表して始めて春の季題となる。この矛盾に近代の解釈も混乱している。小西甚一〔「宗祇」1971、築摩書房〕は「前句を、霞のため日差しが薄暗い意に取りなし、その薄暗さを鳥がもう日暮れだと思って鳴く-という趣で付けた。この「鳥」は渡り鳥で、北方へ帰ってゆくのである。」として、暮れぬとや鳴きつつ、とりは北へ帰る、というふうに鳴くと帰るを分離させて考えることで、暮れたから帰るのではないとする。これに対し、島津忠夫〔「連歌師宗祇」1991、岩波書店〕は「もう日が暮れたと思ったのだろうか、鳥は鳴きかわしながらねぐらに帰ってゆくようだ。」とし、「春北方へ帰ってゆく鳥ととるのは句意が不自然になる。」とする。これだとほぼ古註のとおりになる。
 しかし、「暮れぬ」は必ずしも日暮れの意味だけではないはずである。暮春という言葉があるように、「暮れぬ」は「春も暮れてしまった」と読むこともできるはずである。古註以来、何でこのことに気付かなかったのだろうか。「かすみたるにより」暮れたと思ったのではない。春ももう終わりだと思って鳥も北へ帰ってゆく、という意味にとれば、季題の問題は生じない。ならば、下の句はどう説明するのか。これはよく読まねばわからないかもしれないが、「まだ残る日のうち霞むかげ」は普通だと「まだ残る日の、うち霞むかげ」と切るが、この句は「まだ残る、日のうち霞むかげ」と切ることも可能だ。つまり、「まだ春のように日差しはうち霞んでいるというのに」と続くのである。いかにも宗長らしい大胆な「取りなし」である。これによって今までとかく拙いと見られてきた宗長の句も、見事な暮春を惜しむ句となる。
 「や・・・らん」の係り結びは、この場合「疑問」であって「反語」にはならない。春が暮れたと思って鳥が帰るのは常識に反しない。だから反語にはならない。

式目分析

季題:「鳥の帰る」;春。その他:「鳥」は『新式今案』では一座四句物で、ただ鳥が一句、春の鳥が一句、小鳥、村鳥などが一句、鳥獣が一句、その他、狩場鳥、浮寝鳥、夜鳥は別とある。ここは春鳥。鳥類と鳥類(たとえば雁と時鳥のような)は可隔五句物。

水無瀬三吟、十六句目

   れぬとやきつつとりかへるらん
 深山みやまけばわくそらもなし  宗祇そうぎ


   古註
   深山は、ひるもくらき物也。鳥も暮れたるとおもひて帰るかとなり。


 (れぬとやきつつとりかへるらん深山みやまけばわくそらもなし)
 もう日が暮れてしまったかと思って、鳴きながら鳥はねぐらに帰って行くのだろうか。深い山の中を行けば、さっぱり方角がわからない。


 深い山の中は昼なお暗く、右も左もわからなければ、時間もよくわからなくなる。謝霊運の詩にも、
 西を眷て初月と謂い、東を顧みて落日かと疑う。
とある。
 無季題の句を付けたため、前句の「鳥の帰る」も春の北へ帰る渡り鳥である必要はなくなる。「暮れぬとや」も、ここでは日が暮れる意味に取り成され、日が暮れたと思って鳥も鳴きながら巣に帰ってゆくのだろうか、という意味になる。それに対し、深い山の中では昼なお暗く、空の様子もよくわからないので、鳥ももう日が暮れたと思ったのだろう、と付く。前句がもし古註のとおりに、日がかすんでいるので鳥ももう日が暮れたと思ったのだろうでは、内容がかぶってしまう。これは連歌では嫌うことなので、前句はあくまで春の帰る雁の情で、それを宗祇がねぐらへ帰る鳥に取り成したと見たほうがいい。

式目分析

季題:なし。「深山を行」で羇旅。羇旅と羇旅は可隔五句物で、三句まで続けることができる。その他:「山」は山類の体。山類と山類は可隔五句物。九句目の「山深き」からは六句隔てている。「空」は『新式今案』では一座四句物。

水無瀬三吟、十七句目

   深山みやまけばわくそらもなし
 るるそで時雨しぐれ旅衣たびごろも     肖柏せうはく


   古註
   空の時雨晴れぬれど、深山を行くかなしさに、袖に時雨はれぬと也。


 (るるそで時雨しぐれ旅衣たびごろも深山みやまけばわくそらもなし)
 空に晴れ間が見えてはいても、旅衣の袖は涙の時雨に濡れている。深い山をゆけば、どこへ行っていいのかもわからない。


 旅といっても中世の旅は、今日のような観光旅行ではない。むしろ、左遷、流刑、頓世といった苦汁に満ちた旅こそ文学のテーマとなるべき旅だった。旅は基本的に苦しく悲しいもので、その中で、時雨の雨宿りにふと人情の温かさを覚え、時雨が上がってゆく晴れ間には黄金色に輝く紅葉や、悲しいくらいに鮮やかな冬の月が現れる。

 世にふるもさらに時雨の宿りかな   宗祇

の句は、肖柏も知っていただろう。
 ここでは、山の奥深くを、どこへ行くとも知れぬ旅の身であれば、そんな時雨の晴れ間すらも涙は絶えることなく、袖はいつも時雨に逢ったみたいに濡れている、と付ける。

式目分析

季題:「時雨」;冬。『新式今案』では一座二句物で、秋の時雨と冬の時雨を一句づつ詠むことができる。ここでは冬の時雨。「時雨」は降物で、降物と降物は可隔三句物で、「置きわぶる露こそ花にあはれなれ」の句の「露」から三句隔てている。「旅衣」;羇旅。「旅」は一座二句物で、只の旅が一句、旅衣などが一句とあり、ここでは旅衣。その他:「袖」と「袖」は可隔五句物。また、『新式今案』では「衣」の文字は七句可隔物。「袖」「衣」は衣裳で、衣裳と衣裳も可隔五句物。

水無瀬三吟、十八句目

   るるそで時雨しぐれ旅衣たびごろも
 わが草枕くさまくらつきややつさむ    宗長そうちゃう


   古註
   降物にては月やつるるもの也。わが草枕のふしぎの旅ねにて、心もなく月をやつすと也。


 (るるそで時雨しぐれ旅衣たびごろもわが草枕くさまくらつきややつさむ)
 空に晴れ間は見えていても、旅衣の袖は涙の時雨に濡れている。私の旅は月をも霞ませ、曇らせている。

 

 時雨の晴れ間に見る月は、本来氷つくくらい澄みきっているのだが、それを見ても悲しくなり、涙がでてくる。せっかくの月も旅の悲しさに眺める余裕もなく、月は隠れてしまっているかのようだ。涙が月をやつす、というのはそういう比喩だろう。
 月を出してきたあたりに、都での果たせなかった夢、それは出世か恋かは知らないが、夢破れてなお夢を捨てきれない心が月をかすませている、というふうに内面的な苦しみへと転換する。

 嘆けとて月やはものを思はする
    かこちがほなるわが涙かな
               西行法師

の歌があるが、月が悲しいのではない。煩悩を捨てきれぬ心が月を悲しくしている。

式目分析

季題:「月」;秋。「月」は七句可隔物。夜分。また、「月」と「日」のような光物は可隔三句物で、「まだ残る日のうち霞むかげ」の句から三句隔てている。「草枕」;羇旅。これで三句目でこれ以上は続けられない。

水無瀬三吟、十九句目

   わが草枕くさまくらつきややつさむ
 いたずらにかす夜多よおほあきふけて  宗祇そうぎ


   古註
   歌などよみてこそ月は見るべけれ。いたづらに明かすをやつすと付け給ふ也。


 (いたずらにかす夜多よおほあきふけてわが草枕くさまくらつきややつさむ)
 何もせず、ただ無駄に眠れぬ夜を明かすことを繰り返しながら、秋もふけていって、私の旅は月に少しも浮かれたり喜んだりできずにいる。


 「いたずらに明かす夜」で、前句の旅の情を恋に転換する。都での身分違いの恋にでも破れたのだろうか。一人傷心の旅を続けるのだが、悲しみにとても秋の名月を味わう余裕もなく、ただただ眠れない夜を悶々と過ごす。この句を恋と関係ないとする説もあるが、恋としないと、同じようなたびの苦しさの情を詠んだ句の連続となり、発展性がなくなる。恋はやはり連歌の花、恋と取れるものは恋にとっておいた方がいい。歌の道、敷島の道は、古来より色好みの道とされている。

式目分析

季題:「秋」;秋。「あかす夜」;恋。その他:「あかす夜」;夜分。夜分が二句続く。

水無瀬三吟、二十句目

   いたずらにかす夜多よおほあきふけて
 ゆめうらむるをぎ上風うはかぜ     肖柏せうはく


   古註
   荻のこゑにおどろきて、夢をも見ず、いたづらにあかすと也。


 (いたずらにかす夜多よおほあきふけてゆめうらむるをぎ上風うはかぜ
 何もせず、ただ無駄に眠れぬ夜を明かすことを繰り返し、ふと夢を見たかと思えばすぐに荻を吹く風の音に、あの人のくる気配かと驚いては目を覚まし、恨めしくなる。


 寝ているときも人間の感覚というのは遮断されているわけでなく、時として外の物音が夢に影響を与えたりもする。洗浄で弾丸をかいくぐっている夢を見たかと思って目覚めたら、雨戸を雨がばらばらと打ちつけていただとか、

 切られたる夢はまことかのみの跡   其角

のように、切られた夢を見てがばっと目を覚ますと、切られたあたりに蚤の刺した跡があったりもする。荻が風にざわざわしているのが、愛しいあの人がたずねてくる夢になったのだろう。しかし、はっと気付けばただ荻がざわざわしているだけ、そんな夜をいくつ繰り返さなくてはならないのか。「うらむる」は「恨む」と「葉が裏返る」を掛けている。肖柏らしい幽玄の句だ。

式目分析

季題:「荻」;秋。一座三句物で、只一、夏冬に一、やけはらの荻が一句となっている。ここでは只荻。草類。打越の「草枕」は草類ではない。「恨む」;恋。「恨む」は『応安新式』では一座二句物で、「恨む」「恨み」と、名詞として一句、動詞として一句になっているが、『新式今案』では近年は言い替えなくてもいいとなっている。

水無瀬三吟、二十一句目

   ゆめうらむるをぎ上風うはかぜ
 しはみな故郷人ふるさとびとあともなし    宗長そうちゃう


   古註
   古郷人ばかりを夢に見たるにより、夢うらむると也。一句は、ただ見し古里の跡なるべし。


 (しはみな故郷人ふるさとびとあともなしゆめうらむるをぎ上風うはかぜ
 見たと思った故郷の父や母、兄弟、旧友たちも、実はどこにもいなかった。夢から覚めてみると、ただ荻の生い茂る荒れ果てた故郷の姿があり、風に悲しげな音がするだけだった。


 前句の夢を荒れ果てた故郷で見た悲しい夢に取り成す。折から応仁の乱で京の町は荒れ果て、戦乱を避けて都を離れていた人が戻ってみると、その変わり果てた姿に誰しも愕然としただろう。その中には家族や同朋と生き別れになった人も数知れず、まさに「夢に恨むる荻の上風」だったに違いない。時代状況を逃さずに反応した、さすが宗長という句だ。

式目分析

季題:なし。述懐。その他:「故郷」;一座二句物で、只が一句、名所を引き合いに出して一句、とある。ここでは名所を出しているわけではないので、只故郷になる。「故郷人」;人倫。

水無瀬三吟、二十二句目

   しはみな故郷人ふるさとびとあともなし
 いの行方ゆくへなににかからむ  宗祇そうぎ


   古註
   旧友などはみななくなりて、何にかゝらんと也。


 (しはみな故郷人ふるさとびとあともなしいの行方ゆくへなににかからむ)
 見たところどこにも故郷の人の影も形もない。一体これから老いてゆくというのに、何を頼りに生きてゆけばいいのだろうか。


 肖柏、宗長とそれぞれの持ち味がよく出た区のあとで、宗祇はむしろ場面展開に専念しているように思える。いわば、肖柏、宗長のツートップに絶妙のパスを出す司令塔だ。この句も、二人の句を引き立てるように、穏やかにやり句気味に展開している。戦乱で身寄りを失った人々に向けて、「これから先どうすればいいのか」と問いかけ、次の肖柏に何かメッセージを期待しているのだろうか。

式目分析

季題:なし。「老い」;述懐。一座二句物で、只が一句、鳥木などが一句とあり、ここでは老い木などのようなものではなく、人間の老いなので、只老いになる。

   二表

水無瀬三吟、二十三句目

  いの行方ゆくへなににかからむ
 いろもなきことにだにあはれれ  肖柏せうはく


   古註
   歌など下手にても、老の友、これよりほかになきと也。


 (いろもなきことにだにあはれいの行方ゆくへなににかからむ)
 下手な歌であっても哀れな心を知ってほしい。老いの行方は何を頼ればいいのだろうか。


 肖柏は「とがめてには」が好きなのか、十一句目に続いてこれで二度目だ。古註の「老の友、これよりほかになき」は、次に付く宗祇の句に引きずられた解釈で、ここでは単に、老いの行方のわからない哀れな心を知ってくれと取った方がいいように思える。「色もなき言の葉」は和歌に限らず連歌も含めていっているのだろう。歌は本来人の心をのぶる仲立ちで、心を種とした、心を歌い、心を伝えるためのものだった。別に難しい理論だとか思想だとかなくても、気持ちが伝わり、人を感動させることができればそれでいいのである。
 また、歌は力を入れずして天地を動かす、平和・非暴力の道であり、戦乱で人の心の荒んでいるときこそ、歌は人の心を慰め、平和への祈りにつながる。宗祇のふったテーマに、肖柏はこういう時代だからこそ歌が必要だと答える。

式目分析

季題:なし。述懐。述懐は三句まで続けることができる。これで三句目。

水無瀬三吟、二十四句目

   いろもなきことにだにあはれ
 それもともなる夕暮ゆふぐれのそら   宗祇そうぎ


   古註
   ことのはのみち、よくもあらでも、それも友と也。一句は、タベも友と也。


 (いろもなきことにだにあはれれそれもともなる夕暮ゆふぐれのそら
 下手な歌であってもものの哀れを知ってほしい。夕暮れの空の下ではそれも私の友だ。


 「あはれ知れ」というと、西行法師の有名な、

 こころなき身にもあはれは知られけり
    鴫立つ沢の秋の夕暮れ

の歌が思い浮かぶ。もともと空に色はない。昼は青く、夜は黒く、朝夕は赤く染まるように、色は変わっても、空は変わらずにそこにある。それはまさに「虚空」とでもいうべきものだろう。花や紅葉のような彩るものがなくても、あわれな心というのは言い表すことができる。赤く染まった空の下では、色のない歌でも色を感じる。
 中世の人は目に映るものは見せかけの虚の世界と考え、真実はその背後に隠されていると考えていた。たとえば焼き物は、土という見せかけの物体を焼くことによって、土の本来の隠された性質を引き出すことであり、生け花は生きた見せかけの花を、剪定することで一度殺し、水盤に生けなおすことで、その花の本性を引き出す行為だったのである。こうした世界観は和歌や連歌にも常に反映されていた。花鳥風月を詠むことは、その見せかけの姿を描写するのではなく、あくまでその背後に隠された、ものの哀れの心を読み取ることだったのである。そのため、「色もなき言の葉のあはれ」は、むしろ中世文学の理想だったとも言えるだろう。こうした世界観は西行の時代から芭蕉の俳諧まで、一つの一貫したエポックを形作っている。蕪村の時代になると「物」が重要となり、むしろ近代俳句に近くなる。

式目分析

季題:なし。その他:「夕暮れ」;一座一句物。ここで出したから、もう使えない。「空」;『新式今案』では一座四句物。十六句目にも使われているから、これが二句目。

水無瀬三吟、二十五句目

   それもともなる夕暮ゆふぐれのそら
 くもにけふ花散はなちりはつるみねこえて   宗長そうちゃう


   古註
   花の跡の雲も友なるとぞ。


 (くもにけふ花散はなちりはつるみねこえてそれもともなる夕暮ゆふぐれのそら
 雲が山頂へと消えてゆくように、私もこの雲を友として、花のすっかり散ってしまった峰を越え、夕暮れの空へと消えてゆこう。


 古註だと、単に花の散った峰を雲が越えてゆくという意味になるが、これを吉野の花の雲と取ることもできるだろう。山桜の花が雲のようにやがて山の下の方から咲き出しては次第に上へと上ってゆき、やがて下の方から散りはじめ、ついには全山散ってしまった今、私もこの花の雲とともに峰を越えて、夕暮れの空の向こうへと消えてゆこう。
 ここで順番が変わり、宗祇の句に宗長が付けている。


式目分析


季題:「花」;春。『応安新式』では一座三句物だが、『新式今案』では一座三句物としながらも「近年或為四本之物」とあり、四句詠んでいいことになっている。花は一枚の懐紙に一句のみで、一の懐紙には十三句目に花が登場し、この懐紙ではここに一句となる。また、花は植物になる。その他:「雲」;聳物。聳物と聳物は可隔三句物。「嶺」;山類の体。

水無瀬三吟、二十六句目

   くもにけふ花散はなちりはつるみねこえて
 きけばいまはのはるのかりがね 肖柏せうはく


   古註
   今は、花ちりてはてたる暮也。嶺越えて、かりなるべし。


 (くもにけふ花散はなちりはつるみねこえてきけばいまはのはるのかりがね)
 雲の中を花の散り果てた峰を越えてゆくものがあり、何かと聞けば、北へ帰ってゆく春の雁が、「さよなら」と言っている。


 峰を越えてゆくものを人ではなく、雁に取り成す。
 「いまは」は「今はこれで・・・」という意味で、今でいえば「じゃあ、また・・・」というような意味。本来は口語的に軽く用いられた別れの言葉なのだが、使われているうちに、別れの重さが染み付いてしまい、いつしか「いまわのきわ」みたいな使われ方だけが残ってしまい、日常的には「さらば」に取って代わられていった。別れの言葉というのは、できるだけ軽くしたいという欲求が働くのだろう。「さらば」は「さよなら」になり、それが「じゃあ、また」になったり、より軽い言葉を求めて変わってゆき、古い言葉は永遠の別れを表すような重い言葉になって残る。これは日本だけでなく、英語でも、フェアウエルからグッバイを経てシーユーへと変わっていったし、フランス語もアディユーからオールボワールに変わったように、結構普遍的に見られる現象なのだろう。『ロミオとジュリエット』の現代版映画で、デカプリオが別れ際に軽く「フェアウエル」と言っていたのは印象的だ。本来「いまは」もそんな感覚の言葉だったのだろう。水無瀬三吟の時代にはそれよりはかなり重くなって、「さよなら」と「死による永遠の別れ」の両面を以って用いられている。ここでは単に「さよなら」の意味。


式目分析


季題:「春」;春。その他:「雁」;一座二句物で春に一句、秋に一句詠める。ここでは春。鳥類。

水無瀬三吟、二十七句目

   きけばいまはのはるのかりがね
 おぼろげのつきかはひともまてしばし  宗祇そうぎ


   古註
   おぼろげならぬ月の面白きに、鴈も別れ、人もわかれては、きょく有間敷に、待てしばしとぞ。


 (おぼろげのつきかはひともまてしばしきけばいまはのはるのかりがね)
 朧月だからといって朧な縁というわけじゃあるまいし、あなたもしばらく待っていて欲しい。聞けば、北へ帰ってゆく春の雁はつれなくも「さよなら」と言っているのに、あなたまで行ってしまっては。


 「おぼろげの月」は『源氏物語』「花宴」の紫宸殿での桜花の宴で、宴会の終わったあと、余もふけて皆も寝静まり、こういうときこそチャンスとばかりに光源氏が女を物色していると、「朧月夜に似るものぞなき」という歌を口ずさんでいる一人の若い美女に出会う。そこで光源氏が口説こうとして詠んだ歌が、

 深き夜のあはれを知るも入る月の
    おぼろけならぬ契りとぞ思ふ

だった。深い夜の哀れを知る人なら、春の朧月が沈んで行こうともあなたとの契りはおぼろげではなく、きっと前世からの縁であろうと思う。その歌を心を踏まえて、朧月だからといって帰ってしまわないでくれ、と付ける。


式目分析


季題:「朧月」;春。夜分、光物。「月」と「月」は七句可隔物で、「わが草枕月ややつさむ」からは八句を隔てている。その他:「人」;人倫。

水無瀬三吟、二十八句目

   おぼろげのつきかはひともまてしばし
 かりねのつゆのあきのあけぼの 宗長そうちゃう


   古註

   これは旅の友に、此の月の面白き別れぞとなリ。


 (おぼろげのつきかはひともまてしばしかりねのつゆのあきのあけぼの)
 月が朧なわけでもないだろう。もうちょっと待ってくれ。夜露にまみれてともに野宿した秋の曙なのだから。


 「おぼろげの月か」を反語に取り成し、月がおぼろげであるはずない、秋の曙なのだから、と付ける。月はまだ残っているのだから、君ももう少し残っていてくれ、と旅の友と別れを惜しむ。前句が『源氏物語』を引き合いに出したが、それを次の句では引きずることはできない。宗長ならではの機知にあふれる付け合いだ。


式目分析


季題:「露」;秋。降物。「仮寝」;羇旅、夜分。

水無瀬三吟、二十九句目

   かりねのつゆのあきのあけぼの
 すゑのなるさとははるかにきりたちて  肖柏せうはく


   古註
   夜は明けて、末野なる里見出したる也。よひにはしらで、此の草の中にわびしくねたるよと也。


 (すゑのなるさとははるかにきりたちてかりねのつゆのあきのあけぼの)
 野原のはずれにある里ははるか霧の立ちこめる向こうで、露にまみれて野宿した秋の曙だった。


 多分、前の日に人家のないあたりで霧に巻かれてしまったのだろう。霧の中をしばらく道をたどっては見たが、宿を借りるような里も見つからない。仕方ないから夜露の冷たい中で野宿することにしたが、朝になって、霧が晴れると、里がすぐ目の前だった。あと少し歩いていれば野宿しなくてもすんだのにと、いかにもありそうな話だ。宗長の前句の機知に敬意を表して、軽く遣り句で流したのだろう。


式目分析


季題:「霧」;秋。聳物。聳物と聳物は可隔三句物で、「雲にけふ花散りはつる嶺こえて」から三句隔てている。「霧」と降物は可嫌打越物だが、ここでは連続しているからいい。その他:「里」;居所(体)。

水無瀬三吟、三十句目

   すゑのなるさとははるかにきりたちて
 ふきくるかぜはころもうつこゑ  宗祇そうぎ


   古註
    秋風にさそはれきえてうつ衣およばぬさとのほどぞきこゆる 定家卿
   かやうの本歌の心也。付くる心は、ふきくる風にて、衣うつこゑはきこゆる也。

   里は、はるかなると也。


 (すゑのなるさとははるかにきりたちてふきくるかぜはころもうつこゑ)
 野原のはずれにある里ははるかに霧が立ちこめているのだろう。衣を打つ音だけが風に乗って聞こえてくる。


 古註では、

 秋風にさそはれきえてうつ衣
    およばぬさとのほどぞきこゆる
                藤原定家

が本歌だという。「衣打つ」はきぬたとも呼ばれ、秋になると冬物の分厚い着物を引っ張り出しては、叩いて柔らかくしてから着たという。漢詩でも、

   子夜呉歌しやごか   李白
 長安一片月
 萬戸擣衣声
 秋風吹不盡
 総是玉関情
 何日平胡虜
 良人罷遠征

 長安を包む月の光
 どの家も衣を打つ音がする
 秋風は果てなく吹いて
 何もかもが玉門関を思わせる
 いつになれば胡人の国を平定し
 あの人は遠征から帰るのか

の詩はよく知られている。衣打つ音は秋風に夫の帰りを待ちわびる女の情で、その悲しげな音が、霧で見えない遥か彼方から秋風に乗って聞こえてくれば、まさにはらわたを断つ思いであろう。


式目分析


季題:「衣打つ」;秋。「衣」は衣裳。

水無瀬三吟、三十一句目

   ふきくるかぜはころもうつこゑ
 さゆるそでうすきくれごとに  宗長そうちゃう


   古註
   さむけれども、かさねぬ袖うすきと也。

   付くる心も、人は衣をうてども、我は衣をも打ちかさねぬと也。


 (さゆるそでうすきくれごとにふきくるかぜはころもうつこゑ)
 寒い日でも私の身は薄着のまま日々暮れてゆくというのに、吹いてくる風は衣を打つ音を運んでくる。


 衣を打つ音も切なく寂しげだが、打つような冬着すらない私はなおさら寒い。衣打つ哀れは、何のかんのいってある程度上流のもので、着るものもままならぬ乞食坊主からすれば、衣を打つ音もうらやましく聞こえると、庶民派の宗長らしい発想だ。
 「冴える」はもとは「寒い」という意味で、それがかっこいい、冴えてるという意味に転用されるのは、どこか今日の英語のクールに似ている。


式目分析


季題:「さゆる日」;秋。秋は五句まで続けることができる。これが四句目。その他:「身」;人倫。「袖」;衣裳、衣裳が二句続く。

水無瀬三吟、三十二句目

   さゆるそでうすきくれごとに
 たのむもはかなつまとるやま 肖柏せうはく


   古註
   爪木をひろひきて、たきて、さむさをふせぐは、はかなきたのみと也。


 (さゆるそでうすきくれごとにたのむもはかなつまとるやま
 寒い日でも私の身は薄着のまま日々暮れてゆくというのに、頼みといえば心細い、小さな薪を拾うだけの山暮らしだ。


 乞食坊主から、ここでは山奥の小さな庵で暮らす隠士か僧の姿に変わる。とはいえ、二、三句ほど穏やかな付け句が続き、小休止という感じだ。


式目分析


季題:なし。述懐。その他:「山」;山類(体)。

水無瀬三吟、三十三句目

   たのむもはかなつまとるやま
 さりともの此世このよのみちはきはてて 宗祇そうぎ


   古註
    住みわぴぬ今はかぎりの山ざとにつま木こるべきやどもとめてん
   此の歌の余情也。つくると云ふに爪木えん有り。

   一句は、一度世をも可然たのしまんとおもふに、終に無力しはてたると也。


 (さりともの此世このよのみちはきはててたのむもはかなつまとるやま
 そうはいっても、もはや生きる道は尽き果ててしまい、頼みといえば心細い、小さな薪を拾うだけの山暮らしだ。


 このあたりから、前半の大きな山場へ盛り上げようと、宗祇も仕掛けてきたようだ。「此世のみち」は仏道などの来世の道に対して現世の道で、生きるための道をいう。「尽きる」と「爪木つまぎ」の縁というのは、命を炎にたとえ、命の炎の薪も尽きるという意味でつながっている。爪木とるという言葉にかろうじて命をつなぐという裏の意味を込めている。


式目分析


季題:なし。述懐。その他:「世」は一座五句物で、只の世が一回、浮世、世の中などを一句、恋の世、つまり男と女の間という意味での世が一回、前世が一回、後世が一回で、この場合は只世。

水無瀬三吟、三十四句目

   さりともの此世このよのみちはきはてて
 こころぼそしやいづちゆかまし  宗長そうちゃう


   古註
   無力しはてて身代をもやぶり、いづち行かましとなり。


 (さりともの此世このよのみちはきはててこころぼそしやいづちゆかまし)
 そうはいっても、もはや生きる道は尽き果ててしまい、何て心細いんだ、どこへ行けばいいのか。


 山でかろうじて命をつないでいる侘び人の心境から、財産を失い、途方に暮れている市井の人、いわば失業者の意味に取り成した。世俗を超越したような宗祇・肖柏の句に比べ、宗長の発想はどこか庶民的で、後の俳諧の発想に近い。
 句は一見抽象的でどうにでも取れるような句だが、むしろこういう句こそ発展性のある句で、後の人の展開を考えるなら、一句の意味をあえて曖昧さを残すように作るのが連歌としては良い句なのである。


式目分析


季題:なし。

水無瀬三吟、三十五句目

   こころぼそしやいづちゆかまし
 いのちのみつことにするきぬぎぬに  肖柏せうはく


   古註
   一夜をかぎる契なれば、人を待つ事は有間敷ほどに、しするを待より外のことなきと也。

   さてししてはいづち行かましと也。


 (いのちのみつことにするきぬぎぬにこころぼそしやいづちゆかまし)
 もはや死を待つだけの別れの朝に、何て心細いんだ、どこへ行けばいいのか。


 前句の曖昧さを逃さずに恋に転じるのは、やはり肖柏らしい。もう二度と会うことのない別れで、もちろん生活もずっとその通ってくる男に依存していたのだろう。どういう感情のもつれか、破局に至ってしまった女に、これから一体どこでどうやって生きてゆけばいいのか。


式目分析


季題:なし。恋。その他:「命」;一座二句物で、只の命が一句。虫の命などに一句とあり、この場合は只命。

水無瀬三吟、三十六句目

   いのちのみつことにするきぬぎぬに
 なほなになれやひとこひしき   宗祇そうぎ


   古註
   とてもしなんいのちの、何とて人の恋しきと也。


 (いのちのみつことにするきぬぎぬになほなになれやひとこひしき)
 もはや死を待つだけの別れの朝にどうして人が恋しいなんてことがございましょうか。


 これは宗祇らしいというか、仏道に入る女性に取り成した。もうすでにきっぱりと別れを決意した女は、未練たらたらによりを戻そうとする男に、私はこれから来世での成仏を待ち、修行をする身です。人を恋しいなんて思うはずもありません、などと言って追い払うのだろう。古註の「とてもしなんいのち」は「どうなろうとても死なむ命」で、どうせいつかは死ぬ命、ということだ。
 この句の「猶なになれや」を反語ではなく疑問の「や」ととって、もはや死を待つだけだというのに、なぜか人が恋しくなってしまう、何でだろう、と取る説も多いが、単純に言葉の解釈からいえば可能だが、内容としてはどこか意志の弱々しさを暴露しているだけで、句としての深みはない。


式目分析


季題:なし。「恋しき」;恋。「恋しき」は一座二句物で、「恋しく」と「恋しき」が一句づつ。その他:「人」;人倫。

   二裏

水無瀬三吟、三十七句目

   なほなになれやひとこひしき
 きみきてあかずもたれをおもふらむ 宗長そうちゃう


   古註
   一人はや、ちぎる人をもちながら、何とて余の人の恋しきと也。


 (きみきてあかずもたれをおもふらむなほなになれやひとこひしき)
 君を差し置いて満足せずに一体誰を思うことがあるだろうか。どうして他の人が恋しいなんてことがあろうか。


 これも「猶なになれや」を疑問に取り成して、君がいながら何で別の人が恋しくなってしまうのだろうか、と取る説も多い。ただ、それだとただの浮気男の独白で終わってしまう。恋歌というのは、やはり相手に気持ちを伝えるように読むことを本意とする。それは今日のJ-popのラブソングでも基本的に同じだ。
 「あかず」は飽きないという意味ではなく、ここでは「満足できず」という意味。現代語にはない古語特有の用法だ。


式目分析


季題:なし。「思ふ」;恋。その他:「誰」;人倫。人倫が二句続く。

水無瀬三吟、三十八句目

   きみきてあかずもたれをおもふらむ
 その面影おもかげたるだになし  肖柏せうはく


   古註
   君よりほかに、ましたる人はあるまじきとなり。


 (きみきてあかずもたれをおもふらむその面影おもかげたるだになし)
 君を差し置いて満足せずに一体誰を思うことがあるだろうか。君の面影に似た人などいやしない。


 面影というのは実在の人間の風貌のことではない。夢や幻に見たか、あるいは死者の亡霊だ。そこを不用意に読んでしまうと、輪廻気味の発展性のない句という評価になってしまう。これは死んだ妻か夫に向かって、他に好きになるなんて考えられません。今でも目に浮かぶあなたの面影に似た人なんていません、と語りかける句であり、目の前にいる相手に向けられたものではない。
 三人がそれぞれ恋句を付け終わった後で、再び肖柏のところに戻ってきたということで、肖柏もそろそろ恋を終わりにして次の展開を考えていたのだろう。抽象的でどうとでも取れそうな句というのは、次の人のことを考えるなら、決して悪句ではない。


式目分析


季題:なし。恋。

水無瀬三吟、三十九句目

   その面影おもかげたるだになし
 草木くさきさへふるきみやこのうらみにて  宗祇そうぎ


   古註
   庭などもふりて、見しおもかげもなきと也。これは、もにかよふだに也。

   さへにかよふだににはあらず。


 (草木くさきさへふるきみやこのうらみにてその面影おもかげたるだになし)
 草木でさえその茂るにまかせた荒れた姿は古い都の遺恨となる。旧都の面影は跡形もない。


 「似たるだになし」は「似たものがない」というそのままの意味と、「跡形もない」という両方の意味があり、肖柏がこの言葉を出したあたりから、これを「跡形もない」の意味に取り成すのは、いわばお約束だった。
 古き都というと『万葉集』の近江荒都歌のように、今はすでに都でなくなった荒地に、いにしえの栄光を忍ぶことを本意とするのだが、ここでは暗に応仁の乱で荒れた京都を指すのかもしれない。これによって二十一句目の「見しはみな故郷人の後もなし 宗長」の句のときと同様、リアルなテーマが展開されることが予想される。


式目分析


季題:なし。述懐。述懐と述懐は可隔五句物で、「さりともの此世のみちは尽きはてて」から五句隔てている。その他:「草」;草類。「木」;木類。「都」は一座三句物で、只の都が一句、名所の都が一句、旅で振り返る都が一句で、ここでは只都。「恨み」;一座二句物で、「うらむ」と「うらみ」とが一句づつ使える。「夢に恨むる荻の上風」で「恨む」が使われており、これで二句目。

水無瀬三吟、四十句目

   草木くさきさへふるきみやこのうらみにて
 のうきやども名残なごりこそあれ 宗長そうちゃう


   古註
   草木に名残有りて、おもひ捨てられぬ住まひなれば、草木もうらみと也。


 (草木くさきさへふるきみやこのうらみにてのうきやども名残なごりこそあれ)
 草木でさえその茂るにまかせた荒れた姿に、古い都の遺恨に満ちて悲しくつらくなる家だが、そんな家にも思い出があればこそこうしていられる。


 前句を「草木さへふるきみやこの」で切り、「恨みにて身のうきやども」と五七調に読むと、意味がわかりやすい。こういう切るところを変えて付けるというのも宗長の得意技かもしれない。「都の」と「浮宿も」が無意識のうちにだろうけどラップのように韻を踏んでいて心地がいい。


式目分析


季題:なし。述懐。その他:「身」;人倫。「宿」;居所(体)。

水無瀬三吟、四十一句目

   のうきやども名残なごりこそあれ
 たらちねのとほからぬあとになぐさめよ 肖柏せうはく


   古註
   父の跡三年の内なれば、とほからぬ跡になぐさめと也。


 (たらちねのとほからぬあとになぐさめよのうきやども名残なごりこそあれ)
 父の三回忌までは亡き父の思い出を慰めにして過ごすといい。悲しくつらい家でも思い出があるのだから。


 「たらちね」というと母というイメージがあるが、父にも用いる。「垂乳根」という字を当てるせいだろうか。ただ、古註に父とあるが、句自体には父か母かを示す手がかりはないので、父に限定する必要はないかもしれない。
 喪に服す習慣は、近代では省略され、葬式が終わったらすぐ仕事に戻るか、大事な仕事があると葬式にも出ないような人がしばしばいるし、涙一つ見せないのを立派なことと賛美する傾向にあるが、今の日本はその点でやや異常のような気もする。いろいろな意味で家族の絆というのは廃れてしまったのだろう。幼児虐待も昔は継子いじめがほとんどだが、今では実の子を虐待して殺してしまう。江戸時代の絵師、伊藤若冲が、母の死で何年も部屋に引きこもって暮らしたのを、周りの人は何ら異常なこととは思わず、むしろ親孝行だと褒め称えたという。三年くらいは一人で亡き父の思い出に浸り、引きこもって暮らすことは、当時としては社会的にむしろ奨励されるべきことだった。


式目分析


季題:なし。無常。述懐は三句まで続けることができ、懐旧、無常もこれに含まれる。そのため、述懐はこれで三句となる。

水無瀬三吟、四十二句目

   たらちねのとほからぬあとになぐさめよ
 月日つきひのすゑやゆめにめぐらん 宗祇そうぎ


   古註
   三十三年忌なども夢のやうにめぐらんと也。


 (たらちねのとほからぬあとになぐさめよ月日つきひのすゑやゆめにめぐらん)
 父の三回忌までは亡き父の思い出を慰めにして過ごすといい。三十三回忌も夢のようにあっという間に過ぎてゆくのだからせめて三年くらいは。


 古註は「三年の内なれば」「三十三回忌なども」と句自体の曖昧さに対して、かなり限定した説明をしているが、当時としてはこれが自然な受け止め方だったのだろう。この句は単に月日はあっという間に過ぎ去るだろう、という意味にも取れるし、当然そこに次の句の展開を予想してのことだろう。


式目分析


季題:なし。

水無瀬三吟、四十三句目

   月日つきひのすゑやゆめにめぐらん
 このきしをもろこしぶねのかぎりにて  宗長そうちゃう


   古註
   帰朝せんも夢のやうに、やがてあらんと也。


 (このきしをもろこしぶねのかぎりにて月日つきひのすゑやゆめにめぐらん)
 この岸が中国船の行き着く果てで、ここまでの長い月日も夢のようだ。


 「月日の末」が三十三回忌に限定されないのを、もちろん宗長が逃すはずはない。しかも、長い中国の旅を経て帰朝するという、なかなかスケールの大きい発想で付けている。中国というと遣唐使船が連想されるし、遣唐使船に乗り込んで中国へ渡り密教を日本に持ち帰った空海の姿なども浮かぶ。
 室町時代ももちろん中国との貿易が盛んに行われ、勘合貿易船に乗って中国に留学する僧も多かった。宗祇が相国寺で仏道の修行をしていた頃、同期に雪舟がいたというが、雪舟も四十を過ぎてから中国に絵の修行に行き、帰ってきてから今日知られる絵の大家となった。中国の進んだ文化は当時の人々の憧れでもあり、留学は出世にもつながる。そんなアメリカンドリームならぬチャイニーズドリームを描きながら、帰って来た時は長い旅路も夢のようにあっという間だったのかもしれない。


式目分析


季題:なし。羇旅。その他:「岸」は水辺(体)。「舟」は『応安新式』では周辺の用だが、『新式今案』では体用の外となり、舟と舟とは七句可隔物になる。

水無瀬三吟、四十四句目

   このきしをもろこしぶねのかぎりにて
 またむまれこぬのりをきかばや  肖柏せうはく


   古註

   唐に、薬山と云ふ弟子に、舟子・夾山かっさんとて両人有りし也。

   されば夾山・舟子にさとりの事尋ね給ふに、つりばり三寸をはなれて物を云ひ給へと、

   舟子云ひなどして、夾山にさとらせ給ふ事有り。

   其のごとく、此の日本にて、いづくの岸をはなるゝ舟にてあれ、

   もろこしの夾山のやうに法をえ度き也。

   一句は、又此の世へ生まれこぬ身にてあれば、唐のくわていと云ふ所に、舟子居たまひしとぞ。


 (このきしをもろこしぶねのかぎりにてまたむまれこぬのりをきかばや)
 この岸が中国船の行き着く果てで、一度きりの人生、仏法を聞きに行こう。


 そのまま普通に読めば、中国船で仏法を学びに行こうという意味になる。近代では、この解釈がリアルで人気があるようだが、中国への旅はその前の句で、月日もあっという間だとあるので、それを仏法を学びに行くと限定しただけでは、取り成しの面白さがない。
 古註には舟子と夾山の故事によるものとする。舟子は呉江に渡し船を浮かべて法を伝えるべき道人を待っていた。あるとき夾山がやってきて、そのとき、心が釣り針の先に引っかかっていたのでは、深い淵の中に捕らえられてしまう。釣り針を三寸離れて答えよ、と言う。答えようとすると、舟子は夾山を水の中に落とし、とたんに夾山は大悟したという。また、道を伝えた舟子はその後、自らも海に沈んだという。
 深い心の無明の闇を見据えようとしても、どこか自分を安全なところに置いていると、その闇の本質は見えてこない。たとえば、人を憎んだり恨んだりする心は、どこか他人事で自分には関係ないと思っていると、ありきたりな道徳観念でそれをあざ笑い、いざ自分がその場に置かれると理性を失う。本当に自分を闇の中に沈め、そこから救われたいと思ったとき、本当の光が見えてくる。舟子が夾山を海に突き落としたのは、船の上で海を眺めていても本当の海の怖さはわからず、いきなり舟から放り出されて初めてその恐怖は現実のものとなる、ということを伝えたかったのだろう。「釣り針」とは今でいえば命綱のことだろう。殺人事件が起こるたびに「加害者の心の闇」なんてことが話題になるが、出来合いの思想や学説にすがって、自分を安全な立場においているうちは、結局何もわからない。戦地の様子だって、厳重な警備の中しか歩かない人には本当のことはわかるまい。殺されたり人質にされたりするリスクを顧みないからこそわかることがある。「釣り針を三寸離れて答えよ」とはけだし名言である。
 これを踏まえるなら、この句の「もろこし舟のかぎり」はむしろ補陀落渡海の二度と岸に帰ることなく海に沈み、即身成仏を遂げるための舟に取り成し、悟りを得たいということになるのだろうか。「又むまれこぬ」は輪廻転生の中で人として生まれることは稀で、もう二度と人として生まれてくることがないかもしれない、つまり人生は一度きりと言う意味にも取れるが、この人生でお釈迦様のように輪廻を絶ち、解脱を果たし、二度と転生することのない完全な死に至ることにしよう、という意味にも取れる。


式目分析


季題:なし。釈教。

水無瀬三吟、四十五句目

   またむまれこぬのりをきかばや
 ふまでとおもひのつゆのきえかへり  宗祇そうぎ


   古註
   きえ帰りは、きえては又生れするを云ふ也。

   法あふまでとおもふ心のきえ帰るほどに、一向に二度と此の世へ生まれこぬ法きき度しと也。


 (ふまでとおもひのつゆのきえかへりまたむまれこぬのりをきかばや)
 あなたに逢うまではとつのる思いの露は結んでは消え結んでは消えを繰り返す。この繰り返しの輪廻を立ち切るためには仏法を聞きたい。


 補陀落渡海だの即身成仏だの、仏道の一つの究極を垣間見たあと、宗祇はこれを恋に転じる。いつか会えると期待しては失望を繰り返している日々を、生まれては死に、また生まれ変わりまた死にを繰り返す輪廻転生に例え、完全に思いを断ち切るには仏道を聞くしかないと結ぶ。
 頼りない男に失望し、仏道に入る女性は多かったのだろう。ただ、その多くは縁切り寺のように、一時的に仏道修行を名目に追ってくる男を逃れることができたら、後は再び髪を生やし、新たな人生を歩み、新たな恋をすることも珍しくはあるまい。芭蕉にも「髪はやすまをしのぶ身のほど」という句がある。
 仏道は思いを断ち切るにはいい機会になっただろう。「又むまれこぬ法」とは「もう恋なんかしない」という法なのか。


式目分析


季題:なし。恋。その他:「露」;降物。

水無瀬三吟、四十六句目

   ふまでとおもひのつゆのきえかへり
 をあきかぜもひとだのめなり 宗長そうちゃう


   古註
   身を秋風といへば恋也。人だのめは人たらし也。

   わが身を見かぎりたると云ふも、真実にてはなきほどに、人だのめのごとくと也。

   付くる心は、身を我とみかぎりて、おもふ人にもあはんともおもはぬと思ひながらも、

   さすがたのむ心なり。


 (ふまでとおもひのつゆのきえかへりをあきかぜもひとだのめなり)
 あなたに逢うまではとつのる思いの露は結んでは消え結んでは消えを繰り返し、自分自身にあきれ返った秋風も、結局はあの人に逢いたいという心には勝てない。


 釈教歌が煩悩からの解脱を求める心なのに対し、恋歌はあくまで煩悩を率直に告白するのを本意とする。未練がましいという人もいるかもしれないが、未練もまた人間の偽らざる心情には違いない。


式目分析


季題:「秋風」;秋。秋風は一座二句物で、「秋風」と「秋の風」が一句づつ使える。その他:「身」;人倫。

水無瀬三吟、四十七句目

   をあきかぜもひとだのめなり
 松虫まつむしのなくかひなきよもぎふに  肖柏せうはく


   古註
   松虫に待つの字の心有也り。

   松虫も人を待つかひのなきやうに、身をあきたると云ふも人だのめと也。


 (松虫まつむしのなくかひなきよもぎふにをあきかぜもひとだのめなり)
 待ちわびていても、松虫の鳴く声も待つ甲斐がないかのように聞こえる蓬の生い茂る粗末な家だが、自分自身にあきれ返った秋風も、結局はあの人に逢いたいという心には勝てない。


「身を秋風」が「身を飽く」と「秋風」の掛詞だったことを受けて、肖柏はこれに「待つ」と「松虫」の古典的な掛詞で応じる。「蓬生」は『源氏物語』の末摘花を髣髴させる。


式目分析


季題:「松虫」;秋。虫類。一座一句物。その他:「蓬生」;草類。草類と草類は可隔五句物でだが、「草木さへふるきみやこの恨みにて」からは七句隔てている。

水無瀬三吟、四十八句目

   松虫まつむしのなくかひなきよもぎふに
 しめゆふやまつきのみぞすむ  宗祇そうぎ


   古註
   しめおきて今はとの歌の心也。月計りすみて、我はしめゆふ山にはすまぬ也。

   さてしめゆふ山に、我を待つ虫もかひなきと也。


 (松虫まつむしのなくかひなきよもぎふにしめゆふやまつきのみぞすむ)
 待ちわびていても、松虫の鳴く声も待つ甲斐がないかのように聞こえる蓬の生い茂る蓬の生い茂る原っぱは、それはかつて我が墓所と思っていた山なのだが、今はまだ月だけが澄んでいる。


 さらに掛詞の応酬で、月の「澄む」と「棲む」を掛けていて、さらに『新古今集』の、

 しめおきて今やと思ふ秋山の
    蓬がもとにまつむしのなく
               藤原俊成

を本歌としている。俊成卿の八十を過ぎて詠んだ歌で、秋山の蓬がもとを墓所と占めおきて、そこには松虫が待っているという古歌に順じた遣り句と見ていいだろう。


式目分析


季題:「月」;秋。夜分。光物。「月」と「月」とは七句可隔物で、「月日のすゑやゆめにめぐらん」からは五句しか隔たっていないが、一方は時間の月で天体の月ではないので問題にならない。ただ、同字は可隔五句物となり、ここでは五句隔てている。その他:「山」;山類(体)。

水無瀬三吟、四十九句目

   しめゆふやまつきのみぞすむ
 かねわれただあらましの寝覚ねざめして  宗長そうちゃう


   古註
   しめゆふ山のかねなるべし。


 (かねわれただあらましの寝覚ねざめしてしめゆふやまつきのみぞすむ)
 明け方の鐘の音にも私はただいつか出家しよう思って目を覚ますだけで、山籠りしようと思っていた山も月が棲むだけだ。


 しめゆふ山は、縄を張り巡らし、自分の物として区切った山のことだが、前句が自分の墓所としてのしめゆふ山だったのに対し、宗長は出家して籠ろうと思っていたしめゆふ山に取り成す。「あらまし」は本来「あらまほし」つまり「そうありたい」という意味で、計画だけ立てて、「あらまし、あらまし」といって、結局何もしないでいるという、自分を戒める句となる。
 述懐とはいわば懺悔であり、過去をふり返ってああすれば良かった、こうすれば良かったという告白を本意とする。間違っても、自分の過去の自慢話をしてはいけない。


式目分析


季題:なし。述懐。その他:「鐘」;一座四句物で、只の鐘が一句、入相の鐘が一句、釈教に一句、異名で一句で、この場合は朝だから入相ではなく只の鐘となる。「寝覚め」;夜分。

水無瀬三吟、五十句目

   かねわれただあらましの寝覚ねざめして
 いただきけりなよなよなのしも 肖柏せうはく


   古註
   ねざめねざめに山きょせんと思ふうちに、わがかしらに霜をおきたると也。


 (かねわれただあらましの寝覚ねざめしていただきけりなよなよなのしも
 明け方の鐘の音にも私はただいつか出家しよう思って目を覚ますだけで、夜毎夜毎に頭は霜を抱き、真っ白になる。


 白髪はしばしば霜に例えられる。李白の『秋浦の歌』がその元か。

 白髪三千丈 縁愁似個長
 不知明鏡裏 何処得秋霜

 白髪は限りなく長く伸びている。
 尽きぬ悩みにこのように長くなってしまった。
 鏡の中の自分がもはや誰かもわからない。
 一体どこでこんな秋の霜をもらってしまったのか。

 二の懐紙も終わりということで、このあたりは一休みというところだろう。


式目分析


季題:「霜」;冬。降物。降物と降物は可隔三句物で、「逢ふまでと思ひの露のきえかへり」からは四句隔てている。述懐。その他:「よなよな」;夜分。夜分が三句続く。