「箱根越す」の巻、解説

貞享四年十二月四日聴雪宅にて

初表

 

 箱根越す人もあるらし今朝の雪   芭蕉

   舟に焼火を入るる松の葉    聴雪

 五六丁布網干せる家見えて     如行

   枴むれつつ葭の中行      野水

 明るまで戻らぬ月の酒の酔     越人

   蔀々を上る盆の夜       荷兮

 

初裏

 帷子に袷羽織も秋めきて      執筆

   食早稲くさき田舎なりけり   芭蕉

 神主も常は大かた烏帽子なく    聴雪

   塘見えすく薮の下刈      如行

 どやどやと還御の跡に鶴釣て    荷兮

   誰やら申出す念仏       越人

 しのび入る戸を明かねて蚊に喰れ  野水

   浮名はづれる月のからかさ   如行

 長き夜に泣たるまみの重たげに   越人

   人に懐れて舟をあがりぬ    野水

 花の賀にけふ狩衣を雛にする    荷兮

   そのまま梅を植るまく串    聴雪

 

 

二表

 下ごころ弥生千句の俳諧に     如行

   あさつき喰ふ人の臭さよ    荷兮

 とろとろと一寝入して目の覚る   越人

   堂もる雨の鎧通りぬ      如行

 ころつくは皆団栗の落しなり    野水

   その鬼見たし蓑虫の父     芭蕉

 布衣やぶれ次第の秋の風      如行

   松島の月松島の月       越人

 ひょっとした哥の五文字を忘れたり 聴雪

   妻戸たたきて逃て帰りぬ    芭蕉

 泣々てしゃくりのとまる果もなし  野水

   あたら姿のかしら剃られず   如行

 

二裏

 世の中の茶筅売こそ嬉しけれ    荷兮

   ねぶたき昼はまろび転びて   聴雪

 旅衣尾張の国の十蔵か       芭蕉

   富士画かねて又馬に乗     野水

 懐に盃入るる花なりし       如行

   かげ和らかに柳流るる     越人

 

       『校本芭蕉全集 第三巻』(小宮豐隆監修、一九六三、角川書店)

初表

発句

 

 箱根越す人もあるらし今朝の雪   芭蕉

 

 句の方は説明するほどのものでもないが、まあ、他人事だけど今日箱根を越す人は大変だろうなという句。

 

季語は「雪」で冬、降物。「箱根」は名所、山類。「人」は人倫。

 

 

   箱根越す人もあるらし今朝の雪

 舟に焼火を入るる松の葉      聴雪

 (箱根越す人もあるらし今朝の雪舟に焼火を入るる松の葉)

 

 発句の箱根越すに対して、舟で行くから船の上で暖まるためによく燃える松の葉を積んでゆくとする。

 寓意といえばまあ、せいぜい「雪降って寒いですね」「なら火を焚きましょう」くらいのもの。

 

季語は「焼火」で冬。「舟」は水辺。

 

第三

 

   舟に焼火を入るる松の葉

 五六丁布網干せる家見えて     如行

 (五六丁布網干せる家見えて舟に焼火を入るる松の葉)

 

 一丁は約百九メートルだから五六百メートルもあるような布網を干してある家があるということ。そんなに長い網があるのかと思ったら、「近畿の漁法と安全運航」というpdfファイルを見ると、いかなご船びき網漁業(2そう引き)の場合の漁具は最長で四百五十メートル、シラスの場合は五百から六百メートルに達する、と書いてある。

 布網というから目の細かい網で、シラス漁に用いるなら五六丁もあながち誇張でもないのかもしれない。

 ただ、桃隣の「舞都遲登理」の旅での目分量で測った寸法は実際よりだいぶ大きいこともあったから、多少は誇張されているかもしれない。

 まあとにかく、昔の名古屋の辺りだから、シラスかシラウオを取るための長い網が漁村にあったということだろう。

 シラウオは芭蕉が『野ざらし紀行』の旅で桑名で詠んだ、

 

 あけぼのやしら魚しろきこと一寸  芭蕉

 

の句がある。この辺りのシラウオ漁は厳冬に行われていた。

 

無季。「布網」は水辺。「家」は居所。

 

四句目

 

   五六丁布網干せる家見えて

 枴むれつつ葭の中行        野水

 (五六丁布網干せる家見えて枴むれつつ葭の中行)

 

 「枴(あふこ)」は物を荷うための天秤棒のこと。大きな網の干してある辺りでは、獲れたシラウオを運ぶための天秤棒を担いだ人たちが大勢葭(ヨシ)の中を行く。

 

無季。「葭」は植物、草類。

 

五句目

 

   枴むれつつ葭の中行

 明るまで戻らぬ月の酒の酔     越人

 (明るまで戻らぬ月の酒の酔枴むれつつ葭の中行)

 

 月見で飲んだ酒の酔いは夜が明けるころまで醒めない。大きな宴会なのか、それまで天秤担いで酒の肴を運ばなくてはならない。

 

季語は「月」で秋、夜分、天象。

 

六句目

 

   明るまで戻らぬ月の酒の酔

 蔀々を上る盆の夜         荷兮

 (明るまで戻らぬ月の酒の酔蔀々を上る盆の夜)

 

 「蔀(しとみ)」はコトバンクの「精選版 日本国語大辞典の解説」に、

 

 「① 光や風雨をさえぎるもの。

  ※書紀(720)皇極四年六月(岩崎本平安中期訓)「是の日に、雨下(ふ)りて、潦水(いさらみつ)庭に溢(いはめ)り。席障子(むしろシトミ)を以て鞍作か屍(かはね)に覆(おほ)ふ」

  ② 柱の間に入れる建具の一つ。板の両面あるいは一面に格子を組んで作る。上下二枚のうち上を長押(なげし)から釣り、上にはねあげて開くようにした半蔀(はじとみ)が多いが、一枚になっているものもある。寝殿造りに多く、神社、仏閣にも用いる。しとみど。

  ※蜻蛉(974頃)上「明かうなれば、をのこどもよびて、しとみあげさせてみつ」

  ③ 船の舷側に設ける、波・しぶきよけで、多数の蔀立(しとみたつ)を立ててそのあいだに板を差し入れるもの。五大力船、小早、渡海船など本格的な垣立のない中小和船に用いる。〔和漢船用集(1766)〕

  ④ 築城で、外から城内が見え透くところをおおっておく戸の類。

  ※甲陽軍鑑(17C初)品三九「信玄公御家中城取の極意五つは、一、辻の馬出し、二にしとみのくるわ、しとみの土居」

  ⑤ 町屋の前面にはめこむ横戸。二枚あるいは三枚からなり、左右の柱の溝にはめ、昼ははずし、夜ははめる。「ひとみ」ともいう。しとみど。」

 

とある。時代的には⑤であろう。外したり嵌めたりするものだが、上古からの習慣で上げる、降ろすと言っていたのだろう。

 蔀々と複数だから、それぞれの家の蔀戸がみんな開いていて、お盆の夜は皆先祖の霊を迎えて酒を飲みかわす。

 

季語は「盆の夜」で秋、夜分。

初裏

七句目

 

   蔀々を上る盆の夜

 帷子に袷羽織も秋めきて      執筆

 (帷子に袷羽織も秋めきて蔀々を上る盆の夜)

 

 盆の頃は夜ともなると冷えてきて、夏の単衣の帷子の上に袷羽織を羽織ってたりする。

 

季語は「秋めきて」で秋。「帷子」「袷羽織」は衣裳。

 

八句目

 

   帷子に袷羽織も秋めきて

 食早稲くさき田舎なりけり     芭蕉

 (帷子に袷羽織も秋めきて食早稲くさき田舎なりけり)

 

 ウィキペディアによると、

 

 「日本において香り米が記載されている最古の文献は、日本最古の農書とされる『清良記』で、「薫早稲」「香餅」と記載されている。『清良記』と同じく17世紀に刊行された『会津農書』にも「香早稲」「鼠早稲」との記述がみられる。19世紀初頭に刊行された鹿児島の農書『成形図説』によると、日本では古代から神饌米、祭礼用、饗応用に用いられてきた。19世紀末に北海道庁が編纂した『北海道農事試験報告』によると、香り米は古くから不良地帯向けのイネとして知られており、北海道開拓の黎明期にも活用された。」

 

とあり、痩せ地で作る早稲には独特の香りがあったようだ。

 なお、『奥の細道』の旅で芭蕉は、

 

 早稲の香や分け入る右は有磯海   芭蕉

 

の句を詠んでいる。

 

季語は「早稲」で秋。

 

九句目

 

   食早稲くさき田舎なりけり

 神主も常は大かた烏帽子なく    聴雪

 (神主も常は大かた烏帽子なく食早稲くさき田舎なりけり)

 

 早稲が祭祀用に用いられていたなら、早稲から神主への移りは自然だ。神主も儀式のときは烏帽子を被るが、普段は被っていないことの方が多い。

 

無季。神祇。「神主」は人倫。「烏帽子」は衣裳。

 

十句目

 

   神主も常は大かた烏帽子なく

 塘見えすく薮の下刈        如行

 (神主も常は大かた烏帽子なく塘見えすく薮の下刈)

 

 「下刈」は笹や低木常緑樹を除去して本来育てるべき木の成長を促すもので、木下の藪がなくなると大きな木の間から遠くが見えるようになる。

 烏帽子を被る場合は髻(もとどり)を結い、そこに烏帽子をひっかけるのだが、この場合は下刈りをしたみたいに地肌が透けている(禿げている)というネタか。

 

無季。

 

十一句目

 

   塘見えすく薮の下刈

 どやどやと還御の跡に鶴釣て    荷兮

 (どやどやと還御の跡に鶴釣て塘見えすく薮の下刈)

 

 「還御(かんぎょ)」はコトバンクの「精選版 日本国語大辞典の解説」に、

 

 「〘名〙 天皇、法皇、三后(さんこう)が、出かけた先から帰ること。還幸(かんこう)。転じて、将軍、公卿(くぎょう)が出先から帰ることにいう場合もある。

  ※三代実録‐貞観三年(861)二月一八日「皇太后〈略〉夜分之後、還二御本宮一」

  ※平家(13C前)三「法皇やがて還御、御車を門前に立てられたり」

 

とある。

 「鶴釣て」は意味がよくわからない。鶴御成(つるおなり)のことか。ウィキペディアには、

 

 「鶴御成(つるおなり)は、江戸時代、将軍によっておこなわれた、ツルをとらえる鷹狩である。将軍による鷹狩りの中で最もおごそかなものとされた。」

 

とあり、

 

 「それぞれの飼場は鳥見が1人いて、これを管し、下飼人である網差およびその見習が日々そこにつめて、餌(毎日3回、籾5合ずつを撒く)を与え、種々の方法を講じて代に初めて下りたツルを馴らし、人をおそれなくなるのを見て、あらかじめこれを鷹匠頭に報告する。鷹匠頭はそれを検分してのち、さらに若年寄に上申し、若年寄は老中と協議のうえ、日時をさだめ、将軍に言上する。当日、将軍は藤色の陣羽織、従者はばんどり羽織、股引、草鞋で、将軍はまず寄垣(代附の外側に結んだ青竹の垣)の内にもうけた仮屋につく。将軍は鷹匠頭からタカを受け取り、鳥見が大きな日の丸の扇を高くあげてツルが逍遥しているほうにすすみ、ツルが驚いて飛び立とうとするのを見て、タカを放つ。

 もし1羽ではおぼつかないと思われる時は、鷹匠がさらに第2、第3のタカを放ち助けるが、タカ1羽でツルをとらえることはまれであるという。とらえられたツルは鷹匠が刀を執って将軍の前で左腹の脇をひらいて臓腑をだしてタカに与え、あとに塩をつめて縫い、昼夜兼行で京都へたてまつった。街道筋ではこれを「御鶴様のお通り」といった。このツルの肉は新年三が日の朝供御の吸物になった。」

 

とある。

 還御の行列の後尾に鶴を釣り下げた人が通ったのか。前句の塘をその通り道となる街道としての付けであろう。

 等躬撰の『伊達衣』には、

 

   人日

 贄殿に鶴と添をく根芹哉       須竿

 

の句がある。

 

無季。

 

十二句目

 

   どやどやと還御の跡に鶴釣て

 誰やら申出す念仏          越人

 (どやどやと還御の跡に鶴釣て誰やら申出す念仏)

 

 将軍様の鶴が通るときに、必ずこれは殺生だと言って念仏を唱える人がいる。

 

無季。釈教。「誰」は人倫。

 

十三句目

 

   誰やら申出す念仏

 しのび入る戸を明かねて蚊に喰れ   野水

 (しのび入る戸を明かねて蚊に喰れ誰やら申出す念仏)

 

 女の許に通ったつもりが、部屋から何やら念仏を唱える声が聞こえてくる。何かあったのか、悪いときに来てしまったと戸を開けるのをためらっているうちに蚊に食われる。

 

季語は「蚊」で夏、虫類。恋。

 

十四句目

 

   しのび入る戸を明かねて蚊に喰れ

 浮名はづれる月のからかさ      如行

 (しのび入る戸を明かねて蚊に喰れ浮名はづれる月のからかさ)

 

 「月のからかさ」は月暈(げつうん)のことであろう。コトバンクの「デジタル大辞泉の解説」に、

 

 「月の周囲に現れる輪状の光暈。月の光が細かい氷の結晶からできている雲に反射・屈折して起こる。つきのかさ。」

 

とある。

 「浮名・はづれる月のからかさ」と切った方が良いのだろう。中に入りかねて外にいると、いつしか雲が切れて月の光が雲に虹のような輪っかを映し出す。忍んだつもりが姿を見られてしまい、浮名を流すことになる。「浮名にはづれる月のからかさ」の「に」が省略された形か。

 

季語は「月」で秋、夜分、天象。恋。

 

十五句目

 

   浮名はづれる月のからかさ

 長き夜に泣たるまみの重たげに    越人

 (長き夜に泣たるまみの重たげに浮名はづれる月のからかさ)

 

 「まみ」はweblio古語辞典の「学研全訳古語辞典」に、

 

 「①目つき。まなざし。

  出典源氏物語 桐壺

  「まみなども、いとたゆげにて」

  [訳] まなざしなども、とてもだるそうで。

  ②目もと。

  出典源氏物語 明石

  「所々うち赤み給(たま)へる御まみのわたりなど」

  [訳] (泣いて)ところどころ赤くなっていらっしゃる目もとのあたりなど。」

 

とある。この場合は目蓋のことか。

 長い夜を泣き明かして腫れた目蓋を重たげに開けると月の笠が見える。

 

季語は「長き夜」で秋、夜分。恋。

 

十六句目

 

   長き夜に泣たるまみの重たげに

 人に懐れて舟をあがりぬ       野水

 (長き夜に泣たるまみの重たげに人に懐れて舟をあがりぬ)

 

 売り飛ばされ、舟に乗せられて運ばれてきた遊女としたか。

 

無季。「人」は人倫。「舟」は水辺。

 

十七句目

 

   人に懐れて舟をあがりぬ

 花の賀にけふ狩衣を雛にする     荷兮

 (花の賀にけふ狩衣を雛にする人に懐れて舟をあがりぬ)

 

 『校本芭蕉全集 第三巻』の注には「雛」は「皺」の誤写とする。

 「花の賀」は『伊勢物語』第二十九段であろう。

 

 「昔、東宮の女御の御方の花の賀に召しあづけられたりけるに、

 

 花に飽かぬ嘆きはいつもせしかども

     今日の今宵に似る時はなし」

 

たったこれだけだが、「東宮の女御」は二条后高子で、かなわぬ恋をする在原業平が招かれて詠んだ歌だとされてきた。

 表向きの意味は、花を見て飽くことのない、永遠に散ることなくいつまでも見ていられたらという嘆きは、今日のこの立派な祝賀の席に招かれて、他のどんな花見の席に招かれた時以上にそう感じた、というものだ。

 ただ、裏を読むなら、花に開けてもらえなかった叶うことのなかったこの恋の嘆きはいつものことだが、今日ほどその望みが跡形もなく砕け散った時はない、とも取れる。

 このあと在原業平は東国に下り、あの有名な都鳥の歌を詠んで隅田川を船で渡る。あの「花の賀」を思い出すと涙があふれ、狩衣を皺にしながら人に抱きかかえられるようにして船に乗る。

 

季語は「花の賀」で春、植物、木類。「狩衣」は衣裳。

 

十八句目

 

   花の賀にけふ狩衣を雛にする

 そのまま梅を植るまく串       聴雪

 (花の賀にけふ狩衣を雛にするそのまま梅を植るまく串)

 

 「まく串」は幕串でコトバンクの「精選版 日本国語大辞典の解説」に、

 

 「〘名〙 幕を張るために立てる細い柱。幕柱。幕杭。串。〔庭訓往来(1394‐1428頃)〕」

 

とある。

 『校本芭蕉全集 第三巻』の注に「幕串に梅の立木をそのまま使う」とあるとおり。梅を植える作業で狩衣に皺にしてしまった。

 なお、『校本芭蕉全集 第三巻』の注には『如行子』『桃の白実』ともに、ここから先出勝ちになると記されているという。

 

季語は「梅」で春、植物、木類。

二表

十九句目

 

   そのまま梅を植るまく串

 下ごころ弥生千句の俳諧に      如行

 (下ごころ弥生千句の俳諧にそのまま梅を植るまく串)

 

 千句興行は連歌の古い時代に盛んに行われた。俳諧の場合は談林の時代に俳書を刊行する際に十百韻(とっぴゃくいん)の体裁をとることが多かったが、千句興行の形はとらなかった。西鶴の矢数俳諧のような何千句何万句の極端な興行はあったが。

 ここでは梅の木を植えるというところから、松意撰『談林十百韵』の第一百韻の発句、

 

 されは爰に談林の木あり梅の花    梅翁(宗因)

 

の句を連想したのだろう。

 そこからそんな都合よく梅の木があるわけないから、「下ごころ(計略)」であらかじめ植えておいたのではないかと想像し、『談林十百韵』をほのめかしながらもタイトルを連歌っぽく「弥生千句の俳諧」に置き換えたのではないかと思う。

 

季語は「弥生」で春。

 

二十句目

 

   下ごころ弥生千句の俳諧に

 あさつき喰ふ人の臭さよ       荷兮

 (下ごころ弥生千句の俳諧にあさつき喰ふ人の臭さよ)

 

 アサツキ(浅葱)は今日では爽やかな香りを好む人も多いが、昔は臭いと言われていたようだ。まあ、「香り米」も臭いと言われていたから、この時代の人の匂いの感覚はそうだったのだろう。ただ、今日のパクチーのように、好きな人は病みつきなるようなものだったのかもしれない。この句の場合もパクチーに置き換えてみればわかりやすいかもしれない。

 

無季。「人」は人倫。

 

二十一句目

 

   あさつき喰ふ人の臭さよ

 とろとろと一寝入して目の覚る    越人

 (とろとろと一寝入して目の覚るあさつき喰ふ人の臭さよ)

 

 今でもアサツキを検索すると、「酒の肴に」というのが出てくるように、当時も酒の肴に一部の人に好まれたのだろう。宴席で酔いが回って一寝入りして目が覚めると、隣の奴がアサツキを食ってたりする。

 

無季。

 

二十二句目

 

   とろとろと一寝入して目の覚る

 堂もる雨の鎧通りぬ         如行

 (とろとろと一寝入して目の覚る堂もる雨の鎧通りぬ)

 

 雨漏りするお堂の中に隠れてそのまま居眠りしたのだろう。追手の鎧武者たちは通り過ぎて行った。

 

無季。「雨」は降物。「鎧」は衣裳。

 

二十三句目

 

   堂もる雨の鎧通りぬ

 ころつくは皆団栗の落しなり     野水

 (ころつくは皆団栗の落しなり堂もる雨の鎧通りぬ)

 

 鎧武者が通るのを見たのは夢で、屋根にコロコロと落ちる団栗の音だった。落ち武者ならぬ落ち団栗だった。

 

 切られたる夢は誠か蚤の跡      其角

 

のような夢落ち。

 落ちたのが柿の実だったら去来の落柿舎になるが、それは元禄二年の話。

 

季語は「団栗」で秋。

 

二十四句目

 

   ころつくは皆団栗の落しなり

 その鬼見たし蓑虫の父        芭蕉

 (ころつくは皆団栗の落しなりその鬼見たし蓑虫の父)

 

 許六編『風俗文選』の素堂「蓑虫ノ説」に、

 

 「みのむしみのむし。声のおぼつかなきをあはれぶ。ちちよちちよとなくは。孝に専なるものか。いかに伝へて鬼の子なるらん。清女が筆のさかなしや。よし鬼なりとも瞽叟を父として舜あり。汝はむしの舜ならんか。」

 

と記している。

 

 蓑虫は鳴かないが「ちちよちちよ」と鳴くというのは、ウィキペディアによればカネタタキの声を蓑虫の声と誤ったのではないかと言う。まあ、ミミズが鳴くというのも、実はおケラの声だったというから。

 「清女」は清少納言のことで『枕草子』に

 

 「みのむし、いとあはれなり。鬼の生みたりければ、親に似てこれもおそろしき心あらんとて、親のあやしききぬひき着せて、今秋風吹かむをりぞ来んとする」

 

とある。瞽叟(こそう)は伝説の舜帝の父で、コトバンクの「世界大百科事典内の瞽叟の言及」に「舜の父は瞽叟(こそう)で暗黒神。」とある。

 団栗が落ちる中で一人ぶら下がっている蓑虫は父親が鬼だと言われている。どんな鬼なのか見てみたいというのだが、食われないように気をつけてね。

 なお、芭蕉は翌三月伊賀を訪れた時に、土芳の蓑虫庵の庵開きにと、

 

 みの虫の音を聞きにこよ草の庵    芭蕉

 

の句を贈っている。

 また、そのあと葛城山で、

 

 猶みたし花に明行神の顔       芭蕉

 

の句を詠んでいる。

 

季語は「蓑虫」で秋、虫類。

 

二十五句目

 

   その鬼見たし蓑虫の父

 布衣やぶれ次第の秋の風       如行

 (布衣やぶれ次第の秋の風その鬼見たし蓑虫の父)

 

 蓑虫を服もボロボロの乞食の姿に重ね合わせる。親の顔を見てみたい。

 

季語は「秋の風」で秋。「布衣」は衣裳。

 

二十六句目

 

   布衣やぶれ次第の秋の風

 松島の月松島の月          越人

 (布衣やぶれ次第の秋の風松島の月松島の月)

 

 これはまさに風羅坊(芭蕉)。『笈の小文』の冒頭に、

 

 「百骸九竅(ひゃくがいきゅうきゅう)の中に物有り。かりに名付て風羅坊(ふうらぼう)といふ。誠にうすもののかぜに破れやすからん事をいふにやあらむ。」

 

とあるが、この文章はまだ書かれてなかったはずだ。

 しかもこの『笈の小文』の後、芭蕉は「松嶋の月先(まづ)心にかかりて」と言って『奥の細道』の旅に出る。まるで今後の芭蕉を予言するようだ。まあこの頃から雑談でいつか松島の月を見に行きたいと語ってたのかもしれない。

 句の方も後に江戸時代後期の狂歌師・田原坊の、

 

 松嶋やさてまつしまや松嶋や

 

の句を先取りしているかのようだ。

 越人という人は物凄いアイデアマンだったけど、あと一歩というところでそれを生かしきれなかった人なのかもしれない。「ためつけて」の巻の二十一句目、

 

   釣瓶なければ水にとぎれて

 夕顔の軒にとり付久しさよ     越人

 

の句もあと一歩で、

 

 朝顔につるべとられてもらひ水   千代女

 

になっていた。

 

季語は「月」で秋、夜分、天象。「松島」は名所、水辺。

 

二十七句目

 

   松島の月松島の月

 ひょっとした哥の五文字を忘れたり 聴雪

 (ひょっとした哥の五文字を忘れたり松島の月松島の月)

 

 前句の「松島の月」の二回反復しているのを、何か思い出そうとしている場面として、和歌の最初の五文字が出てこないのか、と付ける。

 

無季。

 

二十八句目

 

   ひょっとした哥の五文字を忘れたり

 妻戸たたきて逃て帰りぬ      芭蕉

 (ひょっとした哥の五文字を忘れたり妻戸たたきて逃て帰りぬ)

 

 「妻戸」はコトバンクに「日本大百科全書(ニッポニカ)の解説」に、

 

 「寝殿造の住宅で、出入口に設けた両開きの板製の扉。寝殿造では、周囲の建具は蔀(しとみ)であったため、出入りには不便であり、そのため建物の端の隅に板扉を設けて出入口とした。妻は端を意味し、端にある扉であるために妻戸とよばれた。寺院建築や神社建築では板扉を板唐戸(いたからと)という。妻戸は板唐戸の形式の扉であったため、この形式の扉は建物の端に設けられなくても、すべて妻戸の名でよばれるようになった。[工藤圭章]」

 

とある。

 王朝時代の歌合の時に、歌の下手な人が事前に誰かに作ってもらってそれを覚えて行って披露するつもりだったのが、本番の時にその歌を忘れてしまったのだろう。妻戸を叩いて逃げ帰って行く。

 和泉式部の娘の小式部内侍が歌合の時に定頼の中納言に、「母からの文(ふみ)は来たか」と代作を疑われたのに答えて、

 

 大江山いく野の道の遠ければ

     まだふみも見ず天橋立

            小式部内侍

 

と詠んだという話はよく知られている。

 

無季。

 

二十九句目

 

   妻戸たたきて逃て帰りぬ

 泣々てしゃくりのとまる果もなし  野水

 (泣々てしゃくりのとまる果もなし妻戸たたきて逃て帰りぬ)

 

 何かひどい目にあったんだろうけど、もう少し具体的な内容に踏み込んでほしかった。遣り句か。

 

無季。

 

三十句目

 

   泣々てしゃくりのとまる果もなし

 あたら姿のかしら剃られず     如行

 (泣々てしゃくりのとまる果もなしあたら姿のかしら剃られず)

 

 「あたら」は惜しい、勿体ないということ。出家の理由を聞き出すとその悲しい話に涙が止まらなくなり、剃刀を持つ手も止まってしまった。

 このあたりも姿(具体性)に乏しく、時間が遅くなって進行を早めている感じがする。

 

無季。釈教。

二裏

三十一句目

 

   あたら姿のかしら剃られず

 世の中の茶筅売こそ嬉しけれ    荷兮

 (世の中の茶筅売こそ嬉しけれあたら姿のかしら剃られず)

 

 京の師走の風物でもあった鉢叩きは同時に茶筅売りだったという。剃髪はせず俗形だった。

 

無季。「茶筅売」は人倫。

 

三十二句目

 

   世の中の茶筅売こそ嬉しけれ

 ねぶたき昼はまろび転びて     聴雪

 (世の中の茶筅売こそ嬉しけれねぶたき昼はまろび転びて)

 

 「茶筅売り」はコトバンクの「精選版 日本国語大辞典の解説」に、

 

 「〘名〙 茶筅を売る人。特に、歳末に自製の茶筅を京都の市中に売り歩いた空也堂の僧。のち、江戸市内でも、その扮装(ふんそう)や口上を真似て、白衣に鷹の羽や千鳥の模様を染めぬいた十徳を着て、茶筅をさした苞(つと)の竹棒をかつぎ、鉢や瓢箪をたたきながら売り歩いた。」

 

とある。

 実際はどうだったかは知らないが、年末だけ働いてあとは寝て暮らすというイメージがあったのだろう。

 

無季。

 

三十三句目

 

   ねぶたき昼はまろび転びて

 旅衣尾張の国の十蔵か       芭蕉

 (旅衣尾張の国の十蔵かねぶたき昼はまろび転びて)

 

 「十蔵」は『校本芭蕉全集 第三巻』の注に「越人の通称」とある。コトバンクの「美術人名辞典の解説」にも、

 「江戸中期の俳人。北越後生。通称は十蔵(重蔵)、別号に負山子・槿花翁。名古屋に出て岡田野水の世話で紺屋を営み、坪井杜国・山本荷兮と交わる。松尾芭蕉の『更科紀行』の旅に同行し、宝井其角・服部嵐雪・杉山杉風・山口素堂と親交した。『不猫蛇』を著し、各務支考・沢露川と論争した。蕉門十哲の一人。享保21年(1736)歿、80才位。」

 

とある。

 前句のぐうたら者はまるで越人だなということで、これは楽屋落ちの句。越人はいじりやすい人柄だったのだろう。

 

無季。旅体。「旅衣」は衣裳。

 

三十四句目

 

   旅衣尾張の国の十蔵か

 富士画かねて又馬に乗       野水

 (旅衣尾張の国の十蔵か富士画かねて又馬に乗)

 

 尾張には狩野派の絵師何人もいたが、十蔵という通称を持つ者がいたかどうかはよくわからない。富士山も雲に隠れたりするから見える場所を探して馬で移動する。

 

無季。「富士」は名所、山類。「馬」は獣類。

 

三十五句目

 

   富士画かねて又馬に乗

 懐に盃入るる花なりし       如行

 (懐に盃入るる花なりし富士画かねて又馬に乗)

 

 馬での旅でも花見にいい場所があればそこで飲めるように懐に盃を入れている。

 

季語は「花」で春、植物、木類。

 

挙句

 

   懐に盃入るる花なりし

 かげ和らかに柳流るる       越人

 (懐に盃入るる花なりしかげ和らかに柳流るる)

 

 桜に柳と言えば、

 

 見渡せば柳桜をこきまぜて

     都ぞ春の錦なりける

            素性法師(古今集)

 

の歌がある。柳と桜の錦を以て一巻は目出度く終わる。

 

季語は「柳」で春、植物、木類。