「枇杷五吟」解説

初表

 凩やいづこをならす枇杷の海   牧童

   西もひがしも蕪引空     乙州

 道草の旅の牝馬追かけて     小春

   足の灸のいはひかへりし   魚素

 さかやきの湯の涌かぬる夕月夜  北枝

   髭籠の柿を見せてとりをく  牧童

 

初裏

 陣小屋の秋の余波をいさめかね  乙州

   あだなる恋にやとふ物書   小春

 埒明ぬ神に歩みを運びかけ    魚素

   池のすぽんの甲のはげたり  北枝

 橋普請木の切レさがす役に付   牧童

   昼寝せぬ日のくせのむか腹  乙州

 むら薄おほふ隣の味噌くさき   小春

   無欲にまつる精霊の棚    魚素

 布袋にも能似し人の踊出     北枝

   伏見の月のむかしめきたり  牧童

 花はちる物を見つめて涙ぐみ   乙州

   人は思ひに角おとす鹿    小春

 

二表

 春の日に開帳したる刀自仏    魚素

   交々にたかる飴うち     北枝

 馬盥額に成までやり置て     牧童

   越の毛坊が情のこはさよ   乙州

 月の前痛む腹をば押さすり    小春

   扨々野辺の露のいろいろ   魚素

 簀戸の番烏帽子着ながらうそ寒く 北枝

   ゆるさぬものか妹が疱瘡   牧童

 うつくしき袂を蠅のせせるらん  乙州

   食打こぼす郭公かな     小春

 酔狂は坂本領の頭分       魚素

   松にきあはす唐崎の茶屋   北枝

 

二裏

 初しぐれ居士衣をかぶる折もあり 牧童

   吹て通りし夜の尺八     乙州

 旅まくらしらぬ亭主を頼ミにて  小春

   薬を削る床の片隅      魚素

 うぐひすは杜子美に馴るる花の陰 北枝

   山と水との日々の春     牧童

      参考;『元禄俳諧集』(新日本古典文学大系71、一九九四、岩波書店)

初表

発句

 

 凩やいづこをならす枇杷の海   牧童

 

 凩が琵琶を鳴らすにしても、弦のない琵琶湖のどこを掻き鳴らすのだろうという句だ。

 「枇杷五吟」のメンバーは『奥の細道』にも登場する加賀の北枝、それにその兄の牧童、近江蕉門の乙州、加賀の小春(しょうしゅん)は曾良の『旅日記』の七月二十四日の所に、

 

 「快晴。金沢ヲ立。小春・牧童・乙州、町ハヅレ迄送ル。」

 

とある。もう一人の魚素についてはよくわからない。同じ『卯辰集』に、

 

 行雲のうつり替れる残暑哉    魚素

 

の発句がある。

 乙州が脇を詠み、発句に琵琶湖が詠まれているところから、大津での興行と思われる。

 ところで同じ琵琶湖の凩というところで、

 

 凩の果はありけり海の音     言水

 

を思わすところがある。言水のこの句には「湖上眺望」という前書きの真蹟短冊があるらしく、本来は琵琶湖の景色を詠んだものだった。木枯らしも越えられないほどこの琵琶湖は巨大だという意図だったと思われる。

 琵琶湖はウィキペディアには「湖の形が楽器の琵琶に似ていることがわかった江戸時代中期以降、琵琶湖という名称が定着した。」とあるが、元禄四年に「枇杷の海」が既に用いられている。

 レファレンス事例詳細には、「琵琶湖」という名前が文献に初めて現れるのは16世紀初頭、室町時代の後期です。」とある。また、名前の由来について、「名前は竹生島にまつられている弁才天がもつ楽器の琵琶に湖の形が似ていることに由来します。また、琵琶が奏でる音色と湖水のさざ波の音がよく似ていたからともいわれています。」とある。

 この由来からすると、言水の「海の音」は凩の掻き鳴らす琵琶の音だったのかもしれない。

 

季語は「凩」で冬。「枇杷の海」は名所、水辺。

 

 

   凩やいづこをならす枇杷の海

 西もひがしも蕪引空       乙州

 (凩やいづこをならす枇杷の海西もひがしも蕪引空)

 

 乙州について、ウィキペディアには、

 

 「元禄2年(1689年)家業により加賀金沢に滞在中『奥の細道』旅中の松尾芭蕉と邂逅した。同年12月芭蕉を大津の自邸に招待し、以降上方滞在中の芭蕉を度々招き、また義仲寺の無名庵や幻住庵に滞在中の芭蕉の暮らしを姉智月尼と共に世話をした。」

 

とある。

 元禄三年の日付欠落で十二月頃とおもわれる加賀の句空に宛てた書簡で、

 

 「次郎助其元仕舞候而上り可レ申旨、智月も次第に老衰、尤大孝候。則さも可有事被存候。早々登り候と御心可被付候。」

 

と次郎助(乙州)に大津への帰還を促しているところから、この頃北枝・牧童らとともに大津に来たのかもしれない。となると、この興行は元禄三年十二月ということになる。

 発句の「いづこ」を受けて「西もひがしも」とし、琵琶の弦はないが蕪が収穫期を迎えているとする。「凩」に「空」が付く。

 

季語は「蕪引」で冬、植物(草類)。

 

第三

 

   西もひがしも蕪引空

 道草の旅の牝馬追かけて     小春

 (道草の旅の牝馬追かけて西もひがしも蕪引空)

 

 「牝馬」は「ざうやく」と読む。コトバンクの「精選版 日本国語大辞典の解説」では騲駅という字が当てられ、「『騲』は牝馬、『駅』は宿駅の馬の意」とある。

 これとは別に同じコトバンクの「精選版 日本国語大辞典の解説」に、雑役馬(ぞうやくうま)があり、こちらは。

 

 「乗用には使わないで、いろいろな雑用に使う牝馬(めすうま)。駄馬。雑役。」

 

とある。

 句の意味からすると、旅に用いる馬だから宿駅の牝馬だろう。ただ、「追かけて」とあるからやはり乗用ではなく、旅の荷物だけを乗せた馬なのか。

 「西もひがしも」は「西も東もわからない」ということか。道草してたら迷ってしまい、どっちを見ても蕪畑でどっちに行けばいいのやら。

 

無季。旅体。「牝馬」は獣類。

 

四句目

 

   道草の旅の牝馬追かけて

 足の灸のいはひかへりし     魚素

 (道草の旅の牝馬追かけて足の灸のいはひかへりし)

 

 灸は「やいと」と読む。

 「いはひかへりし」はわかりにくい。『元禄俳諧集』(新日本古典文学大系71、一九九四、岩波書店)の大内初夫注では「足の灸治の祝いに出掛けていた人が帰って来たの意か。」とある。

 「いはふ」は自動詞だと今日の祝うと同じような意味だが、他動詞の「斎(いは)ふ」だと身を清める、忌み慎む、大切に守る、という意味になる。「かへる」には今でも「静まり返る」と言うように、強調の意味がある。

 おそらく前句の旅の場面から「足三里の灸」を付けたのではないかと思う。足三里は膝下にあるツボだが、この言葉は『奥の細道』の冒頭にも、

 

 「春立る霞の空に白川の関こえんと、そゞろ神の物につきて心をくるはせ、道祖神のまねきにあひて取もの手につかず、もゝ引の破れをつゞり笠の緒付かえて、三里に灸すゆるより、松嶋の月先心にかゝりて‥‥」

 

とある。

 旅でついついはしゃいで牝馬を追いかけたりしたから足を痛めて、足に灸をして身を慎みことになった、ということではないかと思う。

 

無季。

 

五句目

 

   足の灸のいはひかへりし

 さかやきの湯の涌かぬる夕月夜  北枝

 (さかやきの湯の涌かぬる夕月夜足の灸のいはひかへりし)

 

 「さかやき」は「月代」の字を当てる。『去来抄』「修行教」には風国の句(実際は蘭国の句)として、

 

 名月に皆月代を剃にけり

 

の句を廓内(くるわのうち)の句としている。つまり誰でも思いつきそうな、ということか。

 元禄の頃は額を剃り上げるあの月代(さかやき)が広く定着した時代で、月代という字を当てるから、月に月代がてかてか光ってなんてオヤジギャグのような句は誰でも思いつくようなものだ、ということだったのだろう。

 これに対し去来は、

 

 名月に皆剃立て駒迎へ

 

と直したという。月代の語を句の裏に隠し、「駒迎へ」という旧暦八月に東国から朝廷へと献上される馬を役人が逢坂の関に迎えに行く儀式を、別に付けている。名月に駒迎えなら廓外になるというわけだ。

 北枝のこの句も、さかやきを剃るための湯のなかなか涌かないという、月から直接連想できないことを加えることで、月にてかる月代の月並さを免れている。

 前句の足の灸で身動き取れないことから、月代を剃る湯もうまく沸かせない、と付ける。昔は湯を沸かすにも薪を運んでくべたり、それなりに動かなくてはならなかった。今みたいな給湯器はない。

 

季語は「夕月夜」で秋、夜分、天象。

 

六句目

 

   さかやきの湯の涌かぬる夕月夜

 髭籠の柿を見せてとりをく    牧童

 (さかやきの湯の涌かぬる夕月夜髭籠の柿を見せてとりをく)

 

 「髭籠(ひげこ)」はコトバンクの「精選版 日本国語大辞典の解説」に、

 

 「〘名〙 細く割った竹や針金で編んで、編み残した端をひげのように延ばしてあるかご。端午の幟(のぼり)の頭につけたり、贈り物などを入れるのに用いた。どじょうかご。ひげかご。」

 

とある。

 月夜の訪問客が髭籠に柿を入れて持ってきたのだろう。月代の湯がなかなか涌かず、なかなか出てこない主人にその柿を一応見せるだけ見せて置いて帰る。

 

季語は「柿」で秋。

初裏

七句目

 

   髭籠の柿を見せてとりをく

 陣小屋の秋の余波をいさめかね  乙州

 (陣小屋の秋の余波をいさめかね髭籠の柿を見せてとりをく)

 

 「陣小屋」はコトバンクの「精選版 日本国語大辞典の解説」に、

 

 「〘名〙 軍兵の駐屯する小屋。小屋がけの陣屋。」

 

とある。

 「いさむ」には励ますという意味もある。陣小屋の兵士達が暮秋を惜しみ悲しむのを励ますこともできずに、髭籠の柿を見せるだけで置いていくとなるわけだが、「秋の余波(なごり)」は比喩で、負け戦で犠牲者が出たことを言っているとも思える。

 

季語は「秋の余波」は秋。

 

八句目

 

   陣小屋の秋の余波をいさめかね

 あだなる恋にやとふ物書     小春

 (陣小屋の秋の余波をいさめかねあだなる恋にやとふ物書)

 

 秋を失恋の秋とし、それでも思い切れずに代筆する人を雇って恋文を書かせる。前句の「秋の余波をいさめかね」を暮秋の悲しみを禁じえずという意味に取り成す。

 

無季。恋。

 

九句目

 

   あだなる恋にやとふ物書

 埒明ぬ神に歩みを運びかけ    魚素

 (埒明ぬ神に歩みを運びかけあだなる恋にやとふ物書)

 

 「埒」は馬場の柵のこと。加茂の競馬の時になかなか柵が開かない(競技が始まらない)というところから「埒があかぬ」という言葉ができたという説もある。

 「歩(あゆみ)を運ぶ」はコトバンクの「精選版 日本国語大辞典の解説」に、

 

 「① 出かける。わざわざ行く。また、歩行する。

 ※今昔(1120頃か)四「年老い身羸(つか)れて、歩を運ぶと云へども、

 

其の道堪難(たへがた)し」

 ※滑稽本・風来六部集(1780)里のをだ巻評「木場の岡釣には太公望も歩(アユミ)をはこび、三十三間堂の大矢数には養由基も汗を流す」

  ② 神仏などに参詣する。参拝におもむく。

 ※平家(13C前)一〇「我朝の貴賤上下歩(アユミ)をはこび、〈略〉利生にあづからずといふ事なし」

 

とあり、この場合はそのまま②の意味でいいのだろう。

 「埒明ぬ」は終止形で一回切れて、埒が明かないので神に祈りに行こうとしたが、その前に恋文を代筆してもらう。

 

無季。恋。神祇。

 

十句目

 

   埒明ぬ神に歩みを運びかけ

 池のすぽんの甲のはげたり    北枝

 (埒明ぬ神に歩みを運びかけ池のすぽんの甲のはげたり)

 

 「すぽん」は鼈(すっぽん)のこと。亀だけど甲羅は柔らかい。英語ではsoft-shelled turtleというらしい。「甲(こう)のはげたり」は脱皮のことか。

 神社の池に亀がいることはよくあるが、昔はスッポンもいたのか。

 

無季。「池のすぽん」は水辺。

 

十一句目

 

   池のすぽんの甲のはげたり

 橋普請木の切レさがす役に付   牧童

 (橋普請木の切レさがす役に付池のすぽんの甲のはげたり)

 

 橋普請はコトバンクの「世界大百科事典内の橋普請の言及」に、

 

 「とくに堤川除(かわよけ)・用水・道橋等の普請において,周辺村落が費用を出して行った工事を自普請というのに対し,領主側が費用を負担して行った工事をいう。幕領における河川・用水等の管理は元来代官の任務で,1687年(貞享4)の勘定組頭・代官への布達に,灌漑用水普請は高100石に人足50人まで百姓自普請で行うこと,この人数を超えるときには人足扶持を支給すること,堤川除普請は人数の多少にかかわらず扶持米を支給すること,また金銀入用はいずれの普請についても支給すること,竹木・カヤ・わら縄等は支配所内にあればこれを与え,ない所は代金を支給すること等と規定され,橋普請は街道筋の場合,長短に限らず幕府が出費し,在郷の場合は原則として所役とすることとされた。こののち増大した御普請費用は幕府の財政状態の悪化により問題化し,1713年(正徳3)には町人等の請負工事を禁じて,なるべく百姓自普請で行うことを令した。」

 

とある。

 「竹木・カヤ・わら縄等は支配所内にあればこれを与え」とあるところから、代官様が木切れを探すこともあったのか。前句の「甲のはげたり」が何となく代官様の禿げ頭を連想させる。

 

無季。

 

十二句目

 

   橋普請木の切レさがす役に付

 昼寝せぬ日のくせのむか腹    乙州

 (橋普請木の切レさがす役に付昼寝せぬ日のくせのむか腹)

 

 普請の時の代官様は今で言えば現場監督のようなものなのか。結構雑務が多くて昼休みも満足が取れない。それでいらいらして職人に当り散らしたりする。困ったものだ。

 

無季。

 

十三句目

 

   昼寝せぬ日のくせのむか腹

 むら薄おほふ隣の味噌くさき   小春

 (むら薄おほふ隣の味噌くさき昼寝せぬ日のくせのむか腹)

 

 昔は各家庭で味噌を作っていて、「手前味噌」なんて言葉もあるということはよく言われるが、発酵食品なだけに加減を間違えると雑菌が混じって悪臭を放つ。

 この場合の薄に覆われた隣人は物事に頓着しない世捨て人で、いわゆる草庵だったのかもしれない。だとすると金山寺味噌の可能性もある。

 

季語は「むら薄」で秋、植物(草類)。

 

十四句目

 

   むら薄おほふ隣の味噌くさき

 無欲にまつる精霊の棚      魚素

 (むら薄おほふ隣の味噌くさき無欲にまつる精霊の棚)

 

 精霊棚はお盆の祭壇。昔は屋外に置かれていた。お供えは殺生を嫌い野菜や果物を供える。味噌漬けを供えることもあったのか。

 

季語は「精霊の棚」で秋。

 

十五句目

 

   無欲にまつる精霊の棚

 布袋にも能似し人の踊出     北枝

 (布袋にも能似し人の踊出無欲にまつる精霊の棚)

 

 「能」は「よく」と読む。

 盆踊りの場面だが、布袋さんに似ているのならデブにちがいない。踊る安禄山みたいなものか。

 

季語は「踊」で秋。「人」は人倫。

 

十六句目

 

   布袋にも能似し人の踊出

 伏見の月のむかしめきたり    牧童

 (布袋にも能似し人の踊出伏見の月のむかしめきたり)

 

 伏見人形の布袋さんの縁で付けたか。伏見人形はコトバンクの「日本大百科全書(ニッポニカ)の解説」に、

 

 「江戸時代初期の元和(げんな)年間(1615~24)には、すでに人形製作販売の伏見商人仲間(同業組合)が存在していた。一般には関ヶ原の戦いで敗亡した宇喜多秀家(うきたひでいえ)の陪臣(ばいしん)、鵤(いかるが)幸右衛門が、深草の里に隠棲(いんせい)、土人形をつくり生業としたのが始まりと伝えられている。また、東福寺門前の焼き物師、人形屋幸右衛門に、伏見稲荷大社に近い臨済宗東尊寺開山堂の布袋(ほてい)座像を模してつくらせたのがおこりとする説もある。」

 

とある。

 また伏見というと、『看聞日記』永享三年(一四三一)七月に即成院で異形風流の念仏踊りが行われたという記録がある。(『洛北における盆の風流灯籠踊り』福原敏男、国立歴史民俗博物館研究報告第112集2004年2月)

 伏見にかつての秀吉の時代の栄光はないが、昔ながらの盆踊りが月の下で行われている。

 

季語は「月」で秋、夜分、天象。「伏見」は名所。

 

十七句目

 

   伏見の月のむかしめきたり

 花はちる物を見つめて涙ぐみ   乙州

 (花はちる物を見つめて涙ぐみ伏見の月のむかしめきたり)

 

 「物」は幽霊か、それとも昔の伏見の幻か。花は散り、伏見の月に昔を思い出すと悲しい。

 当時伏見は寂れていて、秀吉の頃の面影はなかった。西鶴の『日本永代蔵』巻三「世は抜取り観音の眼」には、

 

 「その時の繁盛に変り、屋形の跡は芋畠となり、見るに寂しき桃林に、花咲く春は人も住むかと思はれける。常は昼も蝙蝠(かうふり)飛んで、螢も出づべき風情なり。京街道は昔残りて、見世(みせ)の付きたる家もあり。片脇は崩れ次第に、人倫絶えて、一町に三所(みところ)ばかり、かすかなる朝夕の煙、蚊屋なしの夏の夜、蒲団持たずの冬を漸(やうや)うに送りぬ。」

 

とある。

 

季語は「花」で春、植物(木類)。

 

十八句目

 

   花はちる物を見つめて涙ぐみ

 人は思ひに角おとす鹿      小春

 (花はちる物を見つめて涙ぐみ人は思ひに角おとす鹿)

 

 鹿は春先に角が抜け落ちる。

 花が散れば人は物思いに涙ぐみ、鹿は涙ではなく角を落とす。

 

季語は「角おとす鹿」で春。「人」は人倫。「鹿」は獣類。

二表

十九句目

 

   人は思ひに角おとす鹿

 春の日に開帳したる刀自仏    魚素

 (春の日に開帳したる刀自仏人は思ひに角おとす鹿)

 

 刀自(とじ)は戸主(とぬし)のことで、年長の女性や主婦を意味する。京都嵯峨野の祇王寺の仏壇には祇王、祇女、母刀自、仏御前の木像がある。

 女性の仏像は珍しく吉祥天、弁財天、鬼子母神などの天女系くらいしかない。

 いずれにせよ有難い刀自仏のご開帳とあれば、人々は感銘し、鹿も角を落とす。

 

季語は「春の日」で春。釈教。

 

二十句目

 

   春の日に開帳したる刀自仏

 交々にたかる飴うち       北枝

 (春の日に開帳したる刀自仏交々にたかる飴うち)

 

 秘仏のご開帳とあればたくさんの人が訪れ、縁日となり露店が並ぶ。飴を目の前で鉈などで打って小さくして売る実演販売では人だかりが絶えない。

 

無季。

 

二十一句目

 

   交々にたかる飴うち

 馬盥額に成までやり置て     牧童

 (馬盥額に成までやり置て交々にたかる飴うち)

 

 「交々」は「かはるがはる」。

 「馬盥(うまたらひ)」はコトバンクの「精選版 日本国語大辞典の解説」に、

 

 「〘名〙 馬を洗うのに用いる、大きなたらい。ばたらい。」

 

とある。直径二尺以上の浅い盥で、これに似ているというところから馬盥(ばたらい)という茶碗や生花に使う水盤もある。

 平たいものなので底に絵や字を書けば額にできなくもない。放置され、使えなくなった馬盥は、実際に額に転用されることがあったのか。ここでは目出度く飴屋の看板になったのだろう。

 

無季。

 

二十二句目

 

   馬盥額に成までやり置て

 越の毛坊が情のこはさよ     乙州

 (馬盥額に成までやり置て越の毛坊が情のこはさよ)

 

 「毛坊」は毛坊主で、髪を伸ばした百姓でありながら僧の役割を果たす俗僧のこと。家の門に掲げた山額が盥でできてたりしたか。「こはし」には強情という意味がある。

 

無季。「毛坊」は人倫。

 

二十三句目

 

   越の毛坊が情のこはさよ

 月の前痛む腹をば押さすり    小春

 (月の前痛む腹をば押さすり越の毛坊が情のこはさよ)

 

 毛坊主は俗僧ゆえ妻帯しているのが普通で、臨月の痛む腹を押しさすって産婆さんが来るのを待つ。「月の前」は月が照る中という両方の意味がある。

 

季語は「月」で秋、夜分、天象。

 

二十四句目

 

   月の前痛む腹をば押さすり

 扨々野辺の露のいろいろ     魚素

 (月の前痛む腹をば押さすり扨々野辺の露のいろいろ)

 

 これはひょっとしてシモネタか。下痢して野糞して本来の野辺の露と別の露が、ということか。大友克洋に「つゆのあとさき」という漫画があったが。

 

季語は「露」で秋、降物。

 

二十五句目

 

   扨々野辺の露のいろいろ

 簀戸の番烏帽子着ながらうそ寒く 北枝

 (簀戸の番烏帽子着ながらうそ寒く扨々野辺の露のいろいろ)

 

 これは謡曲『烏帽子折』の本説か。

 鞍馬寺を飛び出した牛若丸は商売で東国に向う金売り吉次の従者となる。このとき追っ手を欺くため烏帽子を新調することになる。

 そして美濃の国赤坂の宿で熊坂長範盗賊団から吉次を守る。

 謡曲『熊坂』ではこのときの戦いの場面が描かれる。そして最後は、

 

 「苔の露霜と。消えし昔の物語。」

 

と結ばれる。

 簀戸はこの場合宿の夏用の扉、簀戸門であろう。

 簀戸(すど)はコトバンクの「デジタル大辞泉の解説」に、

 

 「1 竹を粗く編んで作った枝折戸(しおりど)。

  2 ヨシの茎で編んだすだれを障子の枠にはめこんだ戸。葭戸(よしど)。《季 夏》

  3 土蔵の網戸。

  4 「簀戸門(すどもん)」の略。」

 

とある。

 

季語は「うそ寒く」で秋。「烏帽子」は衣裳。

 

二十六句目

 

   簀戸の番烏帽子着ながらうそ寒く

 ゆるさぬものか妹が疱瘡     牧童

 (簀戸の番烏帽子着ながらうそ寒くゆるさぬものか妹が疱瘡)

 

 簀戸の烏帽子を被った番人は、疱瘡神から妹(妻)を守ろうとしている。

 疱瘡の原因のわからなかった古代の人は疱瘡神によるものと考え、武威でもって守れるものと考えた。

 江戸時代後期の浮世絵でも疱瘡神と戦った源為朝の絵が盛んに描かれた。

 

無季。恋。「妹」は人倫。

 

二十七句目

 

   ゆるさぬものか妹が疱瘡

 うつくしき袂を蠅のせせるらん  乙州

 (うつくしき袂を蠅のせせるらんゆるさぬものか妹が疱瘡)

 

 前句の「ゆるさぬものか」を疱瘡神ではなく蠅に対しての言葉とする。「せせる」は今日の「せせら笑う」に名残を留めるような「からかう」という意味でも使うが、虫が刺したりたかったりする場合にも用いる。

 「うつくし」には愛しいという意味もある。その妹(いも)の疱瘡(いもがさ)を笑うとは許せん。

 

季語は「蠅」で夏、虫類。「袂」は衣裳、打越に「烏帽子」がある。

 

二十八句目

 

   うつくしき袂を蠅のせせるらん

 食打こぼす郭公かな       小春

 (うつくしき袂を蠅のせせるらん食打こぼす郭公かな)

 

 袖に蠅が来るのをこぼした飯のせいだとする。

 

季語は「郭公」で夏、鳥類。

 

二十九句目

 

   食打こぼす郭公かな

 酔狂は坂本領の頭分       魚素

 (酔狂は坂本領の頭分食打こぼす郭公かな)

 

 坂本は近江坂本か。比叡山の東側で今も比叡山に登るケーブルカーの発着点になっている。比叡山の門前町で里坊が建ち並び、栄えていた。戦国時代には明智光秀の坂本城もあった。

 江戸時代には幕府領となり、遠国奉行の指揮下で大津代官が治めていた。

 最初の大津代官大久保長安はウィキペディアによると、「無類の女好きで、側女を70人から80人も抱えていたと言われている。」との逸話があるという。女と見ると片っ端から食ってったようだ。

 

無季。「頭分」は人倫。

 

三十句目

 

   酔狂は坂本領の頭分

 松にきあはす唐崎の茶屋     北枝

 (酔狂は坂本領の頭分松にきあはす唐崎の茶屋)

 

 「にきあはす」は「に・来あわす」か。

 坂本は唐崎の松でも有名だ。

 坂本領のお偉いさんが唐崎の松を見に来たか、庶民の来るような茶屋にひょっこり現れたりする。

 

無季。「松」は植物(木類)。「唐崎」は名所、水辺。

二裏

三十一句目

 

   松にきあはす唐崎の茶屋

 初しぐれ居士衣をかぶる折もあり 牧童

 (初しぐれ居士衣をかぶる折もあり松にきあはす唐崎の茶屋)

 

 「居士衣(こじえ)」はコトバンクの「デジタル大辞泉の解説」には、

 

 「隠者や僧侶などが着る衣服。居士ごろも。」とある。日本では僧衣の意味で用いられることが多いが、中国では道家の衣裳も含まれる。

 居士の語源はウィキペディアには「『(家に)居(を)る士』であり、仕官をしない読書人の意である。」とある。正岡子規も子規居士を名乗っていた。

 急なにわか雨には僧衣を頭にかぶって、近くにある茶屋に駆け込むこともある。

 

 世にふるも更に時雨のやどりかな 宗祇

 

の句もある。

 

季語は「初しぐれ」で冬、降物。「居士衣」は衣裳。

 

三十二句目

 

   初しぐれ居士衣をかぶる折もあり

 吹て通りし夜の尺八       乙州

 (初しぐれ居士衣をかぶる折もあり吹て通りし夜の尺八)

 

 居士衣をかぶって雨宿りをしていると、深編笠(あみがさ)を被った虚無僧が悠然と歩いてゆく。

 

無季。「夜」は夜分。

 

三十三句目

 

   吹て通りし夜の尺八

 旅まくらしらぬ亭主を頼ミにて  小春

 (旅まくらしらぬ亭主を頼ミにて吹て通りし夜の尺八)

 

 亭主はこの場合は宿屋の主であろう。「頼ミ」というのは只で泊めてもらうということか。

 

無季。旅体。「亭主」は人倫。

 

三十四句目

 

   旅まくらしらぬ亭主を頼ミにて

 薬を削る床の片隅        魚素

 (旅まくらしらぬ亭主を頼ミにて薬を削る床の片隅)

 

 この場合の「頼ミ」は、旅の途中で病気になったので、宿の主人に医者を呼んでくれるように頼んだということか。

 

無季。

 

三十五句目

 

   薬を削る床の片隅

 うぐひすは杜子美に馴るる花の陰 北枝

 (うぐひすは杜子美に馴るる花の陰薬を削る床の片隅)

 

 杜子美は杜甫のこと。

 杜甫に花と鶯というと、「重過何氏五首 其一」の「花妥鶯捎蝶 溪喧獺趁魚(高麗鶯が蝶を捕らえて花が落ち、川獺は魚を追って渓をざわめかす)」や、

 

   江畔獨步尋花七絕句 其六

 黃四娘家花滿蹊 千朵萬朵壓枝低

 留連戲蝶時時舞 自在嬌鶯恰恰啼

 黄四娘の家への小路は花で満たされ、

 千か万か夥しい数の花に低く枝は垂れ、

 そこにとまっていた喋々は時々舞い上がり、

 美しい高麗鶯はここぞとばかり飛び回っては啼き。

 

といった詩句がある。

 その杜甫の「江村」という詩のなかに「多病所須唯薬物 微躯此外更何求(多病でただ薬を必須とし、拙い体は他に何を求める。)」という詩句がある。

 

季語は「花」で春、植物(木類)。「うぐひす」も春で鳥類。

 

挙句

 

   うぐひすは杜子美に馴るる花の陰

 山と水との日々の春       牧童

 (うぐひすは杜子美に馴るる花の陰山と水との日々の春)

 

 「日々」は「にちにち」と読む。「日日是好日」という言葉もあるように、花の下で杜甫が鶯と戯れれ、山水に囲まれながら、毎日が良い春の日だとこの一巻も目出度く結ぶ。

 

季語は「春」で春。「山」は山類。