「麦をわすれ」の巻

初表

   誰か華をおもはざらむだれか

   市中にありて朝のけしきを

   見む 我東四明の麓に

   有て花のこゝろハこれを心とす

   よつて佐川田㐂六のよしの山

   あさなあさなといへる哥を実

   にかんず又

   麥喰し鴈と思へどわかれ哉

   此句尾陽の野水子の作とて

   芭蕉翁の傅へしをなをざりに

   聞しにさいつ比田野へ居をうつして

   実に此句を感ず むかしあまた

   有ける人の中に虎の物語せしに

   とらに追はれたる人ありて

   獨色を變じたるよし誠の

   おほふべからざる事左のごとし

   猿を聞て實に下る三声の

   なみだといへるも實の字老

   杜のこゝろなるをや。猶鴈の

   句をしたひて

 麥をわすれ華におぼれぬ鴈ならし 素堂

   この文人の事づかりて

   とゞけられしを三人開き

   幾度も吟じて

 手をさしかざす峰のかげろふ   野水

 橇の路もしどろに春の来て    荷兮

   ものしづかなるおこし米うり 越人

 門の石月待闇のやすらひに    野水

   風の目利を初秋の雲     荷兮

 

初裏

 武士の鷹うつ山もほど近し    越人

   しをりについて瀧の鳴る音  野水

 袋より經とり出す草のうへ    荷兮

   づぶと降られて過るむら雨  越人

 立かへり松明直ぎる道の端    野水

   千句いとなむ北山のてら   荷兮

 姥ざくら一重櫻も咲残り     越人

   あてこともなき夕月夜かな  野水

 露の身は泥のやうなる物思ひ   荷兮

   秋をなをなく盗人の妻    越人

 明るやら西も東も鐘の声     野水

   さぶうなりたる利根の川舟  荷兮

 

 

二表

 冬の日のてかてかとしてかき曇  越人

   豕子に行と羽織うち着て   野水

 ぶらぶらときのふの市の塩いなだ 荷兮

   狐つきとや人の見るらむ   越人

 柏木の脚氣の比のつくづくと   野水

   ささやくことのみな聞えつる 荷兮

 月の影より合にけり辻相撲    越人

   秋になるより里の酒桶    野水

 露しぐれ歩鵜に出る暮かけて   荷兮

   うれしとしのぶ不破の萬作  越人

 かしこまる諫に涙こぼすらし   野水

   火箸のはねて手のあつき也  荷兮

 

二裏

 かくすもの見せよと人の立かかり 越人

   水せきとめて池のかへどり  野水

 花ざかり都もいまだ定らず    荷兮

   捨て春ふる奉加帳なり    越人

 墨ぞめは正月ごとにわすれつつ  野水

   大根きざみて干にいそがし  荷兮

 

       参考:『芭蕉七部集』(中村俊定注、岩波文庫、1966)

初表

発句

 

   誰か華をおもはざらむだれか

   市中にありて朝のけしきを

   見む 我東四明の麓に

   有て花のこゝろハこれを心とす

   よつて佐川田㐂六のよしの山

   あさなあさなといへる哥を実

   にかんず又

   麥喰し鴈と思へどわかれ哉

   此句尾陽の野水子の作とて

   芭蕉翁の傅へしをなをざりに

   聞しにさいつ比田野へ居をうつして

   実に此句を感ず むかしあまた

   有ける人の中に虎の物語せしに

   とらに追はれたる人ありて

   獨色を變じたるよし誠の

   おほふべからざる事左のごとし

   猿を聞て實に下る三声の

   なみだといへるも實の字老

   杜のこゝろなるをや。猶鴈の

   句をしたひて

 麥をわすれ華におぼれぬ鴈ならし 素堂

   この文人の事づかりて

   とゞけられしを三人開き

   幾度も吟じて

 手をさしかざす峰のかげろふ   野水

 

 ここに素堂の発句と野水の脇が生まれた経緯が書かれている。

 誰が花を思わないだろうか、誰が朝の景色を見るだろうか。「東四明」の四明(しめい)はコトバンクの「精選版 日本国語大辞典の解説」に、

 

 「中国の天台宗の一派、四明天台の教学。山家(さんげ)派が正統とされるに至ったところから、天台宗の教学をもさす。四明の教え。四明。

  ※平家(13C前)二「大師は当山によぢのぼって四明の教法を此所にひろめ給しよりこのかた」

 

とある。この場合は日本の天台宗総本山の比叡山のことで、比叡山はウィキペディアに、

 

 「比叡山(ひえいざん)は、滋賀県大津市西部と京都府京都市北東部にまたがる山。大津市と京都市左京区の県境に位置する大比叡(848.3m)と左京区に位置する四明岳(しめいがたけ、838m)の二峰から成る双耳峰の総称である。高野山と並び古くより信仰対象の山とされ、延暦寺や日吉大社があり繁栄した。東山三十六峰に含まれる場合も有る。別称は叡山、北嶺、天台山、都富士など。」

 

とある。天台、四明、叡山、ということで、ここの「東四明」は東叡山寛永寺、上野の寛永寺のことになる。江戸時代初期から花の名所で多くの庶民の花見客でにぎわっていた。

 素堂はコトバンクの「ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典の解説」には、

 

 「延宝7 (1679) 年 38歳で致仕,上野不忍池のほとりに隠棲,貞享2 (85) 年頃葛飾に移った。」

 

とある。『甲斐国志』には葛飾阿武とあり、「是芭蕉庵桃青、伊賀人松尾甚七郎、初風羅坊、元禄中歿年五十三ノ隣壁ナリ」とある。

 阿武がどこなのかよくわからないが、当時葛飾を呼ばれる地域は広くて千葉県市川市にも葛飾八幡宮があるし、北葛飾郡は埼玉県にあり杉戸町と松伏町が含まれる。古代の地名では隅田川の東から旧太井川(今の江戸川)の先の市川まで含まれ、そこは下総の国だった。江戸時代の初期に江戸川から西の地域が武蔵国に編入され、今の県境になった。「阿武」は「あふ」で「おー」と発音できるところから、あるいは今の江東区大島だったのかもしれない。

 ここには「我東四明の麓に有て」とあるから、まだ不忍池にいた頃であろう。ここなら朝起きればすぐに東叡山の桜が見える。なかなか贅沢な場所だ。

 佐川田㐂六は佐川田喜六で『芭蕉七部集』の中村注に「名昌俊、永井播磨直勝の臣、後洛外薪村の酬恩庵に隠棲、境内に黙々庵を結ぶ。寛永二十年八月没。」とある。ウィキペディアには、

 

 「佐川田 昌俊(さがわだ まさとし)は、安土桃山時代から江戸時代前期にかけての武将。永井氏の家臣。山城国淀藩の家老。」

 

とあり、

 

 「智勇兼備の名士で、茶道を小堀遠州に学び、連歌は里村昌琢、書は松花堂昭乗、漢学は林羅山に、歌は飛鳥井雅庸・近衛信尋歌道に学んだ[1]。その他の友人・知己に石川丈山、木下長嘯子などがいる[1]。東国に在った頃ある人が昌琢に「連歌の第一人者はだれか」と問うたところ「西におのれ(昌琢)あり、東に昌俊あり」と答えたという。石川丈山、松花堂昭乗と共に一休寺方丈の庭園の作庭に携わったとの伝えもある。集外三十六歌仙の一人で、その秀歌撰にも撰ばれた

 

 吉野山花咲くころの朝な朝な心にかかる峰の白雲

 

の歌で名高い。著書に『松花堂上人行状記』などがある。」

 

とある。素堂の「よしの山あさなあさなといへる哥を実にかんず」はこの歌を指す。

 そして、

 

 麥喰し鴈と思へどわかれ哉    野水

 

の句だが、芭蕉から聞いてとあるから貞享二年に『野ざらし紀行』の旅から帰った時だろう。春の帰る雁を詠んだ句で、芭蕉が江戸に戻る時の餞別吟だったか。芭蕉がいつも「我が酒白く食(めし)黒し」とばかりに麦飯を食っていたから、それを「麥喰し鴈」としたのだろう。

 「いつ比田野へ居をうつして実に此句を感ず」は素堂が不忍池から深川阿武に居を移し、あらためてこの句の面白さがわかったというのだろう。近所に麦畑があって、実際に雁が飛んで行くのを見たりしたこともあるが、それだけでなく、芭蕉が貞享四年の冬に『笈の小文』の旅に出たからというのが最も大きかったのではないかと思う。

 「とらに追はれたる人ありて」は『芭蕉七部集』の中村注に「『小学』致知類にある話」とある。詳細はわからない。「猿を聞て實に下る三声」は杜甫の「秋興其二」で、

 

 虁府孤城落日斜 毎依北斗望京華

 聽猿實下三聲涙 奉使虚隨八月槎

 畫省香爐違伏枕 山樓粉蝶隱悲笳

 請看石上藤蘿月 已映洲前蘆荻花

 

の詩をいう。六朝時代の無名詩、

 

 巴東山峡巫峡長  猿鳴三声涙沾裳

 (巴東の山峡の巫峡は長く、

 猿のたびたび鳴く声に涙は裳裾を濡らす。)

 

が元になっている。辺鄙な山奥で聞く、かつては長江流域に広く生息していたテナガザルのロングコールは物悲しく、はるばるこんな所にまで来てしまったという悲しみの涙を誘うものだった。

 深川が当時いくら田舎だったとはいえ大袈裟な感じはするが、田舎に来て、あらためて芭蕉が去って行った寂しさを痛感し、野水の句に共鳴したのだろう。

 そこで一句、

 

 麥をわすれ華におぼれぬ鴈ならし 素堂

 

となる。雁は芭蕉さんのことで、深川でともに麦飯を食ってた仲なのに、それを忘れて吉野の花を見に旅立って行ってしまった。帰る雁の句なので春の句になる。

 これに野水は、

 

   この文人の事づかりて

   とゞけられしを三人開き

   幾度も吟じて

 手をさしかざす峰のかげろふ   野水

 

と和す。ここに野水、荷兮、越人による三吟歌仙が始まる。

 

季語は「華」で春、植物、木類。「鴈」は鳥類。

 

 

   麥をわすれ華におぼれぬ鴈ならし

 手をさしかざす峰のかげろふ   野水

 (麥をわすれ華におぼれぬ鴈ならし手をさしかざす峰のかげろふ)

 

 遠く飛んで行ってしまった雁を手をかざして見送ると、峯が陽炎にゆらゆらと揺れて、この景色全体があるかなしかに思えてしまう。現実のこととは思えない。夢であってくれればというところだろう。

 

季語は「かげろふ」で春。「峰」は山類。

 

第三

 

   手をさしかざす峰のかげろふ

 橇の路もしどろに春の来て    荷兮

 (橇の路もしどろに春の来て手をさしかざす峰のかげろふ)

 

 橇は「かんじき」。雪の上を歩くためのものだが、泥の上を歩くのにも役立つ。ここでは雪も溶けてぬかるみになって峯は陽炎に揺れる、となる。

 

季語は「春」で春。

 

四句目

 

   橇の路もしどろに春の来て

 ものしづかなるおこし米うり   越人

 (橇の路もしどろに春の来てものしづかなるおこし米うり)

 

 「おこし米」はコトバンクの「日本大百科全書(ニッポニカ)の解説」に、

 

 「干菓子(ひがし)の一種。仏教伝来以後に輸入された唐菓子(とうがし)のうち、『延喜式(えんぎしき)』に記載されている果餅の一つ「粔籹(こめ)」が、今日のおこしの祖型である。『和名抄(わみょうしょう)』では「おこし米」と訓(よ)み、「粔籹は蜜(みつ)をもって米に和し、煎(い)りて作る」と製法にも触れているが、これは、糯米(もちごめ)を蒸し、乾燥させてから、炒(い)っておこし種をつくり、水飴(みずあめ)と砂糖で固めるという今日の製法とさして変わっていない。古い原型を残している菓子の一つである。現在ではおこし種にゴマ、ダイズ、クルミ、ラッカセイ、のりなどを加えたものもある。『古今著聞集(ここんちょもんじゅう)』には、「法性寺(ほっしょうじ)殿(関白藤原忠通(ただみち))、元三(がんざん)(正月1日)に、皇嘉門院(こうかもんいん)(藤原聖子。忠通の長女で崇徳(すとく)后)へまひらせ給(たまい)たりけるに、御くだ物(菓子)をまひらせられたりけるに、をこしごめをとらせ給て、まいるよしして、御口のほどにあてて、にぎりくだかせ給たりければ、御うへのきぬ(正装の上着)のうへに、ばらばらとちりかかりけるを、うちはらはせ給たりける、いみじくなん侍(はべり)ける」とある。関白忠通の存命した12世紀前半ごろは、おこしが貴族の菓子であったわけだが、それほど上品(じょうほん)の菓子でも、当時はすぐにぼろぼろとこぼれてしまうような粗末な作り方しかできなかったことがわかる。

 そのおこしも江戸時代初期には庶民の菓子となっているが、『料理物語』に、「よくいにん(ハトムギの種子)をよく乾かし、引割米のごとくにし」とあるように、素材もハトムギやアワなどの安価なものが使われた。1760年(宝暦10)の『川柳評万句合(せんりゅうひょうまんくあわせ)』に、「雑兵はおこしのような飯を食い」の一句がある。このおこしは、ばらつきやすい、いわゆる田舎(いなか)おこしの類である。これに対して、大坂の「津の清(つのせい)」が粟(あわ)おこしを改良した岩おこしは、火加減に妙を得た堅固な歯ざわりで評判をとった。今日では大阪の岩おこしをはじめ、東京・浅草の雷おこし、福岡の博多(はかた)おこしなど、名物おこしの数は多い。そして、ほとんどのおこしが適度の堅さを保つ菓子となった。ただ宮城県刈田(かった)郡蔵王町(ざおうまち)の白鳥神社で毎年1月の祭礼に出す捻(ねじ)りおこしは、長さ1メートルの巨大なものだが意外に柔らかく、田舎おこしのおもかげをわずかながらとどめている珍菓である。[沢 史生]」

 

とある。米でなくても「おこし米」だったようだ。

 ぬかり道で足もとに気を取られて、おこし売りも言葉少なになる。

 

無季。「おこし米うり」は人倫。

 

五句目

 

   ものしづかなるおこし米うり

 門の石月待闇のやすらひに    野水

 (門の石月待闇のやすらひにものしづかなるおこし米うり)

 

 街の入口の木戸の所まで来たが、日が暮れてまだ月も登らなくて真っ暗だったので、月が昇るのを待ってからおこし米を売りに行こうと門の前で待機する。

 

季語は「月待闇」で秋、夜分、天象。

 

六句目

 

   門の石月待闇のやすらひに

 風の目利を初秋の雲       荷兮

 (門の石月待闇のやすらひに風の目利を初秋の雲)

 

 前句の「月待闇」を雲が晴れるのを待つとして、月が出るのかどうか「風の目利き」を呼べという。初秋だからお盆の頃になる。

 

季語は「初秋」で秋。「雲」は聳物。

初裏

七句目

 

   風の目利を初秋の雲

 武士の鷹うつ山もほど近し    越人

 (武士の鷹うつ山もほど近し風の目利を初秋の雲)

 

 武士は「もののふ」と読む。鷹狩は冬のものだが、秋にも小鷹狩といって小鳥を狩る。weblio古語辞典の「三省堂 大辞林」に、

 

 「小鷹を使って秋に行う狩り。ウズラ・スズメ・ヒバリなどの小鳥を捕らえる。初鳥(はつと)狩り。 ⇔ 大鷹狩り」

 

とある。山に雲が出てきたので風の目利きに尋ねる。李由・許六撰の『韻塞(ゐんふたぎ)』の「雌を」の巻六句目にも、

 

   暮切て灯とぼすまでの薄月よ

 鷹場の上を雁わたる也      許六

 

の句がある。

 また、「連歌新式永禄十二年注」の鳩吹のところに、

 

 「秋わたる鷹をとらむとて、柴をさしかざして、前に鳩をつなぎて、網をはりて鷹を待に、空を鷹のとおれば、鳩是をみて、地にふして、たかにみえじとする也。」

 

とある。鷹うつ山は秋でも仕事はある。

 

季語は「鷹うつ」で秋、鳥類。「武士」は人倫。「山」は山類。

 

八句目

 

   武士の鷹うつ山もほど近し

 しをりについて瀧の鳴る音    野水

 (武士の鷹うつ山もほど近ししをりについて瀧の鳴る音)

 

 普通に鷹狩に転じる。枝折をたどって山の奥に分け入って行けば、やがて滝の音が聞こえてくる。

 

無季。「瀧」は山類、水辺。

 

九句目

 

   しをりについて瀧の鳴る音

 袋より經とり出す草のうへ    荷兮

 (袋より經とり出す草のうへしをりについて瀧の鳴る音)

 

 滝行を行うのであろう。まずは経を上げる。

 

無季。釈教。「草」は植物、草類。

 

十句目

 

   袋より經とり出す草のうへ

 づぶと降られて過るむら雨    越人

 (袋より經とり出す草のうへづぶと降られて過るむら雨)

 

 村雨でずぶ濡れになった旅僧が、大事な経典は無事だったかと草の上に広げる。

 

無季。「むら雨」は降物。

 

十一句目

 

   づぶと降られて過るむら雨

 立かへり松明直ぎる道の端    野水

 (立かへり松明直ぎる道の端づぶと降られて過るむら雨)

 

 「直ぎる」は「ねぎる」。雨が降ったから松明が濡れて値下げするのではないかと思って、引き返して松明売りの所に行く。

 

無季。「松明」は夜分。

 

十二句目

 

   立かへり松明直ぎる道の端

 千句いとなむ北山のてら     荷兮

 (立かへり松明直ぎる道の端千句いとなむ北山のてら)

 

 北山での千句興行はあまり聞かないが、やるとしたら朝未明から松明を灯して山に入っていくことになるだろう。昔の連歌師ならともかく、今の俳諧師だと、その松明も値切らなくてはならないほど金がない。

 

無季。釈教。「北山」は名所、山類。

 

十三句目

 

   千句いとなむ北山のてら

 姥ざくら一重櫻も咲残り     越人

 (姥ざくら一重櫻も咲残り千句いとなむ北山のてら)

 

 姥ざくらは花の咲いたあとに葉の出る桜で、葉(歯)がないというので姥桜という。染井吉野や河津桜はこれに含まれるが、山桜や大島桜はちがう。一重桜は八重桜ではない桜。下界は八重桜の季節でも北山の奥へ行けばまだ姥桜や一重桜が残っている。

 

季語は「咲残り」で夏。「姥ざくら一重櫻」は植物、木類。

 

十四句目

 

   姥ざくら一重櫻も咲残り

 あてこともなき夕月夜かな    野水

 (姥ざくら一重櫻も咲残りあてこともなき夕月夜かな)

 

 「あてこともなき」は縁がないということで、行き遅れた姥桜一重桜が夕月夜に通う男を待つでもなく暮らしている。

 

季語は「夕月夜」で秋、夜分、天象。恋。

 

十五句目

 

   あてこともなき夕月夜かな

 露の身は泥のやうなる物思ひ   荷兮

 (露の身は泥のやうなる物思ひあてこともなき夕月夜かな)

 

 通う男を待つあてもなく夕月夜を過ごす身は、尼になったわけでもないのに尼のようだ。

 

季語は「露」で秋、降物。恋。「身」は人倫。

 

十六句目

 

   露の身は泥のやうなる物思ひ

 秋をなをなく盗人の妻      越人

 (露の身は泥のやうなる物思ひ秋をなをなく盗人の妻)

 

 夫はいつしか泥棒家業に身をやつし、夜には家を出て行ってしまうし、いつ捕まって帰ってこなくなるとも知れない。気分は既に尼になったかのようだ。

 

季語は「秋」で秋。「盗人の妻」は人倫。

 

十七句目

 

   秋をなをなく盗人の妻

 明るやら西も東も鐘の声     野水

 (明るやら西も東も鐘の声秋をなをなく盗人の妻)

 

 明け方にあちこちから早鐘の音が聞こえる。大捕物になったようで、どうやら夫も捕まる日が来たようだ。

 

無季。

 

十八句目

 

   明るやら西も東も鐘の声

 さぶうなりたる利根の川舟    荷兮

 (明るやら西も東も鐘の声さぶうなりたる利根の川舟)

 

 広大で遮るもののない利根川を行けば、明け方には西や東から遠い鐘の音が聞こえてくる。芭蕉も『鹿島詣』の旅では、夜のうちに布佐から船に乗って鹿島へ向かっている。鹿島香取へ詣でる人は利根川を船で下る人が多かったのだろう。

 

季語は「さぶうなり」で冬。「利根」は名所、水辺。「川舟」は水辺。

二表

十九句目

 

   さぶうなりたる利根の川舟

 冬の日のてかてかとしてかき曇  越人

 (冬の日のてかてかとしてかき曇さぶうなりたる利根の川舟)

 

 前句の寒くなったのを曇ったからとした。

 

季語は「冬の日」で冬、天象。

 

二十句目

 

   冬の日のてかてかとしてかき曇

 豕子に行と羽織うち着て     野水

 (冬の日のてかてかとしてかき曇豕子に行と羽織うち着て)

 

 「豕子(ゐのこ)」は玄猪のこと。コトバンクの「精選版 日本国語大辞典の解説」に、

 

 「① 陰暦一〇月の亥の日。この日の亥の刻に新穀でついた餠(もち)を食べて、その年の収穫を祝ったものといわれる。厳重(げんちょう)。→亥子(いのこ)。《季・冬》

  ※俳諧・五元集(1747)亨「三日月のおぐらき程に玄猪哉」

  ② 陰暦一〇月の亥の日に食べた餠。亥子餠(いのこもち)。玄猪の餠。厳重(げんちょう)の餠。厳重。〔易林本節用集(1597)〕

  ③ 置花生けの一つ。イノシシの頭に似た形のもので、主として池坊の生花に用いる。」

 

とある。宮廷を中心に行われていたため、格式の高い行事で、羽織を着て行く。

 

季語は「豕子」で冬。「羽織」は衣裳。

 

二十一句目

 

   豕子に行と羽織うち着て

 ぶらぶらときのふの市の塩いなだ 荷兮

 (ぶらぶらときのふの市の塩いなだ豕子に行と羽織うち着て)

 

 イナダはブリの子で江戸時代後期の歌川広重の浮世絵『広重魚づくし いなだ・ふぐ・梅』で、河豚と梅を取り合わせているように冬のものだった。冷蔵庫のなかった時代は魚を保存するために干物にするか塩漬けにすることが多かった。それも今と比べるとかなり塩を多くして保存性を高めていた。

 玄猪の頃は塩イナダの季節になる。大きな魚ではないので市場では吊るされて売られていたのだろう。

 

無季。

 

二十二句目

 

   ぶらぶらときのふの市の塩いなだ

 狐つきとや人の見るらむ     越人

 (ぶらぶらときのふの市の塩いなだ狐つきとや人の見るらむ)

 

 昨日まで賑わっていた市が今日行ってみると跡形もなかったりすると、狐につままれたような気分になる。

 

無季。「人」は人倫。

 

二十三句目

 

   狐つきとや人の見るらむ

 柏木の脚氣の比のつくづくと   野水

 (柏木の脚氣の比のつくづくと狐つきとや人の見るらむ)

 

 『源氏物語』若菜下巻に「みだりかくびやうといふもの、所せくおこりわづらひ侍りて」とあり、この「かくびやう」が脚気とされている。柏木は脚気だった。ただ、それは源氏の君ににらまれて体調を崩す前のことで、体調を崩してからは葛城山から招いた「かしこき行ひ人」や陰陽師などがきて女の霊とも物の怪とも言われたが、原因が特定できなかった。

 柏木は結局いわゆる「いい人」だったんだろうね。大体猫好きに悪い人はいない。だから恋の争いに利己的になることができず、結局自分すら守れなかった。

 

無季。

 

二十四句目

 

   柏木の脚氣の比のつくづくと

 ささやくことのみな聞えつる   荷兮

 (柏木の脚氣の比のつくづくとささやくことのみな聞えつる)

 

 特に柏木の登場する別の場面ということではなく、一般論として「隠し事はできない」ということで打越との本説から離れる。

 

無季。

 

二十五句目

 

   ささやくことのみな聞えつる

 月の影より合にけり辻相撲    越人

 (月の影より合にけり辻相撲ささやくことのみな聞えつる)

 

 「より合(あひ)」は人が集まること。相撲の「寄る」にも掛ける。みんなそれぞれ力士の批評をしたりするが、距離が近いからみんな本人に聞こえている。

 

季語は「月」で秋、夜分、天象。「相撲」も秋。

 

二十六句目

 

   月の影より合にけり辻相撲

 秋になるより里の酒桶      野水

 (月の影より合にけり辻相撲秋になるより里の酒桶)

 

 辻相撲では見る方もやる方も酒が入ったりする。酒の入った桶も秋の辻相撲だけに「空き」になる。

 

季語は「秋」で秋。「里」は居所。

 

二十七句目

 

   秋になるより里の酒桶

 露しぐれ歩鵜に出る暮かけて   荷兮

 (露しぐれ歩鵜に出る暮かけて秋になるより里の酒桶)

 

 「歩鵜」は「かちう」。ネット上の『「清流長良川流域の生き物・生活・産業」連続講座第1回今を生きる逞しき伝統美“鵜飼:川漁”講演録』に、

 

 「現在、私としては、鵜飼というのは、先ほどもこういうふうにしてパネルが出ておりますが、船の上で、それに乗って鵜飼をやるのがほとんどなんですけれども、鵜匠さんが川の中を歩きながらやる鵜飼、徒歩鵜飼(かちうかい)という鵜飼もございます。それが、山梨県は石和温泉笛吹川。現在やられておりませんが、和歌山県は有田川、有田鵜飼。この2か所だけが現在日本に残っておりますが、有田さんについては、ここ4、5年、経済的に難しいということでやっておられませんが、技術というのは残っているようです。私たちとしては残してほしいということが現状でございます。」

 

とある。かつては長良川でも行われたいたのだろう。

 前句の里で新酒ができる頃には、川では露時雨の中で歩鵜が行われている、とする。

 なお、貞享五年七月二十日名古屋で興行された「粟稗に」の巻の第三に、

 

   薮の中より見ゆる青柿

 秋の雨歩行鵜に出る暮かけて   荷兮

 

の句がある。

 この一巻が元禄二年春だとすれば、半年前に芭蕉に褒められたか何かでこの句を放り込んだか。

 

季語は「露しぐれ」で秋、降物。

 

二十八句目

 

   露しぐれ歩鵜に出る暮かけて

 うれしとしのぶ不破の萬作    越人

 (露しぐれ歩鵜に出る暮かけてうれしとしのぶ不破の萬作)

 

 「不破の萬作(ばんさく)」はウィキペディアに、

 

 「不破 万作(ふわ ばんさく、「伴作」とも記す、天正6年(1578年)- 文禄4年(1595年))は、安土桃山時代の豊臣秀次の小姓。尾張国(愛知県西部)の生まれ。文禄4年(1595年)7月、秀次の切腹前に殉死したと伝えられている。享年17。」

 

とある。美少年として知られていて、後に天下三美少年の一人とされ、不破伴左衛門の名前で歌舞伎に登場することになる。

 露時雨の中で出かけて行く歩鵜の鵜匠は、実は不破の萬作の世を忍ぶ仮の姿だった。

 

無季。

 

二十九句目

 

   うれしとしのぶ不破の萬作

 かしこまる諫に涙こぼすらし   野水

 (かしこまる諫に涙こぼすらしうれしとしのぶ不破の萬作)

 

 諫は「いさめ」。忠告のこと。遊び歩いてたのを秀次に諫められたということか。

 

無季。

 

三十句目

 

   かしこまる諫に涙こぼすらし

 火箸のはねて手のあつき也    荷兮

 (かしこまる諫に涙こぼすらし火箸のはねて手のあつき也)

 

 有難い忠告に泪をこぼしたのかと思ったら、火箸が熱かったからだった。

 

無季。

二裏

三十一句目

 

   火箸のはねて手のあつき也

 かくすもの見せよと人の立かかり 越人

 (かくすもの見せよと人の立かかり火箸のはねて手のあつき也)

 

 手紙か何かだろう。慌てて隠そうとしたら火箸がはねた。やましいことがないなら火傷はしない。

 

無季。「人」は人倫。

 

三十二句目

 

   かくすもの見せよと人の立かかり

 水せきとめて池のかへどり    野水

 (かくすもの見せよと人の立かかり水せきとめて池のかへどり)

 

 「かへどり」は『芭蕉七部集』の中村注に「水底をさらって土砂岩石を除くこと」とある。

 池に沈めて隠したものを見せろと言われて、入ってくる水をせき止めて池の水位を下げて、湖底をさらう。隠したのは盗んだお宝か、あるいは死体か。

 

無季。「池」は水辺。

 

三十三句目

 

   水せきとめて池のかへどり

 花ざかり都もいまだ定らず    荷兮

 (花ざかり都もいまだ定らず水せきとめて池のかへどり)

 

 平忠度の歌と『平家物語』が伝える、

 

 さざなみや志賀の都はあれにしを

     昔ながらの山桜かな

              よみ人しらず

 

の歌のことか。

 志賀の都の伝説はあっても、どこにあったのかは誰も知らない。琵琶湖の湖底をさらえば出てくるのではないか。

 大津京の位置が特定されたのは昭和五十三年のことだった。

 

季語は「花」で春、植物、木類。

 

三十四句目

 

   花ざかり都もいまだ定らず

 捨て春ふる奉加帳なり      越人

 (花ざかり都もいまだ定らず捨て春ふる奉加帳なり)

 

 奉加帳はウィキペディアに、

 

 「奉加帳(ほうがちょう)とは、寺院・神社の造営・修繕、経典の刊行などの事業(勧進)に対して、金品などの寄進(奉加)を行った人物の名称・品目・量数を書き連ねて記した帳面のこと。寄進帳(きしんちょう)とも呼ぶ。

 ‥‥略‥‥

 近世に入ると、一般の行事に際して行われる寄付に際して、寄付者とその内容の記載のために作成された帳面のことも奉加帳と呼ぶようになった。」

 

とある。

 新しい都を作るというので寄付を募って奉加帳に記載したが、春になっても都はできず、奉加帳だけが見捨てられたように残った。都造る詐欺か。

 

季語は「春」で春。

 

三十五句目

 

   捨て春ふる奉加帳なり

 墨ぞめは正月ごとにわすれつつ  野水

 (墨ぞめは正月ごとにわすれつつ捨て春ふる奉加帳なり)

 

 前句の「捨(すて)て」を世を捨てたという意味にして、寄付を募る勧進聖になったが、正月が来るたびに寄付集めの仕事を忘れ、奉加帳だけが残る。

 

季語は「正月」で春。釈教。

 

挙句

 

   墨ぞめは正月ごとにわすれつつ

 大根きざみて干にいそがし    荷兮

 (墨ぞめは正月ごとにわすれつつ大根きざみて干にいそがし)

 

 正月が来ても歳を取るのを忘れたかのように、今年も元気に大根を刻んで、切干大根を干すのに精を出す。

 

無季。