ゴルギアス「何もない」


ゴルギアス『ないについて、あるいは、自然について』解説

 ゴルギアスの『ないについて、あるいは、自然について』の原典は残念ながら失われていて、今日我々はそれを、セクストス・エンペイリコスの引用によってしか知ることができない。
 セクストス・エンペイリコスは2世紀末頃の人で、『ピュロン学説要綱』『諸学者論駁』の2作が今日にまで伝わっている。
 このうち、ゴルギアスの『ないについて、あるいは、自然について』を紹介しているのは『諸学者論駁』の方で、第七巻「論理学者に対して」に登場する。(邦訳もある。『学者たちへの論駁 2 論理学者たちへの論駁』金山弥平、金山万里子訳、2006、京都大学学術出版会)

 

第一論証:何もない
 さて「何もない」というのはどういう意味だろうか。
 日常的にこの言葉が発せられる場合は、目当てのものがない、という意味で使われることが多い。
 「この部屋には何もない」という場合は、この部屋には特に見るべきものがないという意味であり、部屋の中にはおそらくどうでもいいような何かがたくさん置いてあったりするのだろう。もちろん本当に空っぽの空き部屋の場合もある。ただ、その場合、ゴキブリが這ってたりしてもやはり「何もない」と言うだろう。
 「何もない人生」という場合は、これといって成功するわけでなく、何一つ輝かしい成果を挙げられなかった人生であり、退屈な人生ならいやというほどあったのだろう。
 「何もない」は、もう少し哲学的に、「意味がない」ということをいう場合もある。
 そもそも本当に何もないということがあるのだろうか。
 たとえこの世がすべて幻だとしても、少なくとも幻なら存在する。つまり、「何もない」という主張は、実際にはこの世界にいろいろなものが存在しているが、本当は何もない、という主張にすぎない。
 つまり、存在論の「ある」だとか「ない」だとかについての主張というのは、目の前にあるこの世界、我々が生きて出会う世界の有無を議論しているのではない。この世界の背後に想定される真の世界について述べているのである。カントの言葉を借りれば「物自体」について言っているのである。
 つまり、「何もない」というのは、我々の個々の感覚で感じられる世界があるのみであり、その背後にある真実在の世界はない、という意味になる。
 そう考えると、ゴルギアスのこの命題は、今日的に言えば現象一元論の宣言であり、それほど突飛なものではない。むしろ「物自体」を否定した近代哲学を先取りしたとも言えるかもしれない。

 ゴルギアスのこの命題は、パルメニデスの「あるはある」という命題のアンチテーゼだと考えていい。
 パルメニデスの命題は、検証できる。
 つまり、「あるはある」というのは一つの仮説であり、実際に我々が何かしら「あるもの」を感じ取った時点で、それは検証される。「現にここに○○があるじゃないか!」と言うことができる。
 たとえそれがデカルトの言うように悪魔にだまされていて幻覚を見ているだけだったとしても、あるいはマトリックス的なバーチャルリアリティーの世界にすぎなかったとしても、少なくともその幻覚は「存在する」。
 そして、その幻覚を感じ取る「我」もまた存在する。
 ただし、それを検証できるのは、生きている間に限定されるかもしれない。死後の世界については「何もない」のかもしれない。それは少なくとも生きている間には検証できない。
 それゆえ、パルメニデスの命題はこう条件づけられるべきであろう。生きていて、何らかの意識を持っている限り、「あるはある」と。
 「ある」ということを感じることができないのであれば、パルメニデスの「あるはある」という命題は検証できない。つまり「ゴルギアスの「何もない」という命題と同等なものになる。
 それゆえ、突き詰めて言えば、我々はこう言うことができる。

 〈存在は仮説である。〉

 このことは、科学をはじめとする、現象一般に関する我々のすべての知識が、基本的に仮説であると言っているのと同じことになる。なぜならば、どのような科学も「存在」を前提としているからである。
 科学は100パーセント仮説である。99パーセントだという人もいるが、ならばその残りの1パーセントの「仮説でないもの」とは何なのか、説明すべきであろう。

 ゴルギアスの「何もない」という命題は、それゆえパルメニデスの「あるはある」という命題の絶対性を脅かすのに十分であったし、デカルト的なコギトの明証性を脅かすものですらある。
 ただし、この脅威は、物自体に関するいかなる議論をも退けることで、無力化できる。

 「何もない」という命題は、基本的には悪魔の証明の一種といってもいい。
 つまり、消極的事実の証明の困難性によって絶対に否定されることのない命題といってもいい。
 つまり、「あるものがある」ことを証明するには、何でもいいから何かがあることを示せばいい。
 しかし、「何もない」ということを証明するのには、一体何を示せばいいのだろうか?
 「悪魔」や「神」の存在は、直接「さあこれが悪魔だ」「これが神だ」と目の前にその証拠を突きつけることはできない。しかし、「悪魔がいないのなら、なぜこの世に悪は存在するのか」だとか、「神が存在しないなら、なぜこの宇宙は存在できるのか」という議論で、その存在を主張することはできる。そして、それに対抗するには、悪や宇宙の存在の別の第一原因を主張しなくてはならない。
 もちろん、悪は善というものを仮定した時に相対的にそうでないものとして存在する、だとか、宇宙は偶然によって存在する、という主張は可能である。しかし、この手の思弁的な説明は実証できない。それゆえ、双方決定的な反証のできないまま、アンチノミー(二律背反)に陥る。いわば、スチールメイトの状態になる。
 存在の問題は逆に、「これが存在する」と目の前に突きつけることはできる。しかし、「それは見せ掛けであって、実は何も存在しないのだ」と言われた時、反証は不可能になる。
 ただ、今日の我々の学問としては、こうした議論は検証を超えた「物自体」についての議論であり、それゆえどちらの主張も可能であり、二律背反を免れない議論として退けることができるのである。

 ちなみに、「悪魔の証明」という言葉は、本来土地争いの論争から来たものだという。
 現在その土地を所有している者がはっきりしている場合でも、いつからどのようにしてその土地を獲得したかについて、特に農地などの場合、ただ先祖代々ここに住んでいたからというだけで、明確な所有権の取得状況を説明できない場合が多い。それに対して、適当な古文書をでっち上げて、ここは本来俺の土地だったと主張するものが表れたとき、その古文書の真偽を判定することそう簡単なことではない。  こういう問題は様々な形で成立する。
 東西ドイツが統一された時にも、革命前は俺の土地だったと主張して、東ドイツにある土地の返還を求める裁判が起きたりしたし、日本でも、北方領土が戻ってきたなら、ここは本来誰の土地だったかで争いが起こりそうだ。
 また、国境紛争というのも、えてして悪魔の証明に近いものだ。
 そもそも北方領土は、元々はアイヌの土地だったし、1万年前までさかのぼれば、そこにはイヌイットの祖先が住んでいたのかもしれない。幕末になってから日本人とロシア人がともにその土地の所有権を主張し始めて、いくつかの戦争を経て今に至っているもので、元々どちらにとっても固有の領土の主張の根拠は薄い。
 そんなことをいうなら、日本は『日本書紀』の記録を盾に、朝鮮半島南部は元々日本の土地だったと主張できるかもしれないし、韓国側は日本の王朝は朝鮮半島からやってきた渡来人の作ったものだから、日本列島は韓国の領土だといえるかもしれない。
 世界中の国境紛争はいずれも、数千年前までさかのぼってしまえば、ほとんど根拠を持たない。だから、現時点での既得権を尊重するというのが国際法の流れなのは仕方がない。
 日本人も北方領土を失ったが、韓国人も中国北部の朝鮮族の住む地域を中国に取られているわけだし、中国も色々な民族を併合してきたが、一方ではロシアによって沿海州や黒竜江の北側を取られている。そのロシアも旧ソ連崩壊後にたくさんの民族が独立して領土を狭められているし、タイもフランスの干渉によってアンコールワットのある地域をカンボジアに取られている。どこの国の人も、今の領土に満足しているわけではない。すべての国が一斉にそれを取り戻そうとしたら、まちがいなく第三次世界大戦になり、世界は核戦争で亡ぶであろう。
 この地球上に「固有の領土」なるものは存在しない。「固有の領土」は悪魔の証明だとわりきるのも、人類が平和共存するための一つの知恵だと思うのだが、いかがだろうか。

 「何もない」は現象の世界が「ない」という意味ではない。
 現象の世界があるにしても、その実体は「ない」という意味にすぎない。
 この命題はそれゆえ、現象の世界に、例えば目の前にパソコンがあるだとかマウスがあるだとかいうことに対する反論ではない。その背後に「存在そのものがある」という主張への、つまりパルメニデスの主張への反論であろう。
 パルメニデスの「あるはある」という命題は、同時にその「ある」が一であり、永遠であることをいう。これは目の前にある様々な現象の存在には当てはまらない。
 つまり、目の前にあるパソコンが唯一にして永遠であるなんてことではない。パソコンは作られたものであり、いつかは壊れる。つまり永遠であるはずはない。まして、パソコンはたくさん作られ売られていて、「一なるもの」ではない。
 パソコンがある、マウスがある、机がある、ペンがある、哲学者の好きな「ペーパーナイフ」がある、といった意味での「ある」は、ここでは問題になっていない。まして、「我有り」だとか「人間存在」だとかが問題になっているのでもない。人間もまた、生れてきて死んでゆくもので、永遠ではないし、もちろん「一なるもの」ではない。60億くらいはある。こうした様々な存在者の背後に存在一般があるということを意味する。
 ゴルギアスは、この「存在一般」あるいは「存在そのもの」が「ある」という主張に対して、「何もない」といっているにすぎない。これは、「物自体」についての議論である。
 それゆえ、その論証は、先ず第一に、「あるがない」「ないがある」ということが論理的に不可能であるとともに、「あるがある」としても、それが永遠であることを主張した時点で矛盾に陥ることを指摘するという方法をとることになる。

 そこでまず、何ものもあらぬということを彼は次のような仕方で推論する。
 すなわち、もしも何かがあるとすれば、あるのもがあるか、あるいは、あらぬものがあるか、あるいは、あるものとあらぬものの両方があるのかのいずれかである。
 しかし、これから彼が論じるであろうように、あるものがあるということもないし、また説明するであろうように、あらぬものがあるということもなく、そしてこれも彼が教えるであろうように、あるものとあらぬものの両方があるということもない。したがって、何かがあるということはないのである。
 (『学者たちへの論駁 2 論理学者たちへの論駁』セクストス・エンペイリコス著、金山弥平、金山万里子訳、2006、京都大学学術出版会、p.32。改行は筆者こやんによる。)

 こうした、いくつかの可能性をあげて、そのいずれの場合であっても、というふうにもっていく枚挙論法は、当時の弁論の常道だったと思われる。
 ゴルギアスの『ヘレネ頌』がこうした構成がとられているし、プラトンの『ソクラテスの弁明』でも、ソクラテスが最後に死刑が確定した後、死が良いものであるという主張をする際にも、死が意識のない無の状態か、あの世へ旅立つ状態のどちらかだといい、前者であれば、夢に惑わされることのない快適な眠りほど良いものはないといい、後者であれば過去の偉人たちに会えるからどちらにしても良いものだという論法を用いている。
 こうした論法は、これ以外の可能性を誰もがすぐに思いつかない限りにおいて説得力を持つにすぎない。たとえば、ソクラテスの場合なら、告発者に「お前のような不信心な者は地獄へ落ちてハーデスのもとで永遠の責め苦を受けるのだ」と言われれば、それまでなのである。死後の世界については実証できないから、どのようなものを仮定しようとも悪魔の証明であり、反証はできない。
 存在についても、この「あるものがある」「あるものがない」「ないものがある」の三つ以外の仮定は全く不可能ではないだろう。たとえば「ある」と「ない」の中間の状態の仮定。
 まず、「あるものがある」が同語反復でないなら、見せかけの上で「ある」ものが、その本質においても「ある」という意味になる。
 そのため、現象として見せかけの上で「ある」ものが、その本質においては「ない」という可能性もある。たとえば、UFOや心霊現象のように、実際には存在しないものも、信じる人にとっては存在している。
 逆に「ないものがある」も、「ない」と思われていたものが、実は存在していたという意味なら可能である。つまり、「あるはずのないものが何でここにあるんだ!」。
 ゴルギアスの議論は、このような見せかけとその本質とを区別していない。
 つまり、あるように見えて実はない、ないように見えて実はある、という可能性については議論していない。あくまでも存在を一元的に考えている。
 これは現象についての議論ではないからであり、物自体を仮定した議論なのである。つまり、絶対的に有るものがあるかないかの議論なのである。
 つまり逆に言えば、現象の世界においては、つまり現実には、「あるものがない」と言ってもいいし、「ないものがある」と言ってもいいし、こういう言い回しは日常的に常に行なわれているし、別に誰もそこに矛盾を感じる必要はない。ゴルギアスの議論は、こうした議論と次元を異にすると考えていい。

 実際、あらぬものがあるということはない。
 なぜなら、もしあらぬものがあるとするなら、それはあると同時にあらぬということになるだろう。
 というのも、それがあらぬものとして思惟されるかぎりにおいては、それはあらぬことになるであろうが、他方、あらぬものとしてあるかぎりにおいては、今度は逆に、あるということになるであろう。
 しかし、何かがあると同時にあらぬということは、完全におかしなことである。
 したがって、あらぬものがあるということはない。
 (『学者たちへの論駁 2 論理学者たちへの論駁』セクストス・エンペイリコス著、金山弥平、金山万里子訳、2006、京都大学学術出版会、p.32。改行は筆者こやんによる。)

 ここでは一つのルールが提示されている。
 つまり、「何かがあると同時にあらぬということはない」。
 しかし、実際には「あるけどない」ということはいくらもある。先にも言ったように、見せかけの上ではあるが、実体としては存在しない。「ある」と信じられているけど、実は存在しない。「ある」と言う人もいるが「ない」と言う人もいて、どちらも証明できない(例えば神や悪魔のように)。あるいは、青緑は青といえば青だし緑だといえば緑で、青であるともないともいえる、という場合。
 つまり、ゴルギアスの言う「何かがあると同時にあらぬということはない」は、純粋に思弁的な命題であり、「ある」「ない」の言葉の定義の問題にすぎない。
 それは例えば1+1が2であるのと同じで、1に1を加えた数を2であると定義しているにすぎない。
 「ないものがある」という主張も、このルールで否定されている。

 それにまた、もしあらぬものがあるとすれば、あるものはあらぬことになるであろう。
 というのも、それらは互いに反対であって、もしあらぬものにあるということが属するのであれば、あるものにはあらぬということが属するであろう。
 しかし、あるものがあらぬということはない。それゆえ、有らぬものがあるということもないであろう。
 (『学者たちへの論駁 2 論理学者たちへの論駁』セクストス・エンペイリコス著、金山弥平、金山万里子訳、2006、京都大学学術出版会、p.32~33。改行は筆者こやんによる。)

 実際に、日常的に「あるものがない」「ないものがある」に類する言い方がしょっちゅう行なわれているのには、理由がある。
 つまり、現象においては、「ある」「ない」の判断が絶対的なものではないからだ。
 これに対し、「何かがあると同時にあらぬということはない」という議論は、物自体についての、いわば理想状態において可能にすぎない。現象の世界は常に「あるけどない」世界なのだ。つまり、どちらの仮定も成立つ世界であり、ただ、各自が目の前の事実に照らし合わせて信じているだけの世界なのである。
 つまり「ある」か「ない」かはいずれも仮説に属する。ゆえに両立する。
 しかし、論理的にはあると同時にないということはない。そこにパラドックスが生れ、カントが言うように人間の理性は必ずアンチノミー(二律背反)に陥ってしまうのである。
 さて、次に「あるのもがある」だが、これはパルメニデスの命題でもある。これをどう論駁するか、ここが一番大きなところだろう。

 しかしまた、あるものがあるということもない。なぜなら、もしあるものがあるとすれば、それは永遠的なものであるか、あるいは、生成的なものかであるか、あるいは、永遠であると同時に生成的なものであるかのいずれかである。
 しかし、われわれがこれから示すように、それは永遠的なものでもなければ、生成的なものでもないし、またその両立でもない。
 したがって、あるものがあるということはない。
 (『学者たちへの論駁 2 論理学者たちへの論駁』セクストス・エンペイリコス著、金山弥平、金山万里子訳、2006、京都大学学術出版会、p.33。改行は筆者こやんによる。)

 ここでもゴルギアスは同じような枚挙論法を用いる。パルメニデスの弟子たち、いわゆるエレア派の間では、こうした論理展開は普通に行なわれていたのだろう。
 プラトンの『ソピステース』でも、テアイテトスと「エレアの異邦人」との対話で、何度もこうした二分法の階層(ヒエラルヒー)的な論理展開をしている。
 たとえば、技術について、

「異、 ところが技術に関しては大体二つの種類がある。
テアイ、どういう風にですか。
異、 農業や総て可死的な肉体に関する骨折、それから又吾々が器具と呼んでいる構成物や形体物に関するもの、それから模倣術、是等総ては至極正当にひとつの名前で云い表されるだろう。」(『ソピステース』プラトーン、鹿野治助訳、1932、岩波書店p.47、原文は旧字旧仮名)

 これらを「製作術」と呼び、もう一つを「獲得術」と呼び、技術を二つに分ける。
 そして、獲得術を征服術と狩猟術に分け、さらに狩猟術を動物狩猟術と漁猟術とに分け、それを柵漁猟術と傷害漁猟術とに分け、傷害漁猟術を松火漁猟術と釣漁猟術とに分け、ソフィストの技術を釣漁猟術に分類する。
 こうした分類法は、プラトンによってパロディー化されているが、エレア派がしばしば用い、それをゴルギアスは弁論術の応用したのだろう。
 ここでは、存在は生成し消滅するか、生成も消滅もしないものか、つまり、「生成的」か「永遠」かが問題になる。
 しかし、この二分法、よく考えてみれば、生成消滅が「ある」か「ない」かで分類している。そのため、「何かがあると同時にあらぬということはない」、あるいは「あるとないとの中間は存在しない」というルールが適用されれば、この二つ以外の可能性は存在しないことになる。
 さて、この二分法によれば、「あるものがある」とは「永遠にあるものがある」か、「生成的なものがある」か、「永遠にあると同時に生成的なものがある」かのどれかだということになる。

 というのも、もしあるものが永遠的であるとするなら(というのも、ここから始めなければならないからであるが)、それはいかなる始まりももたない。
 なぜなら、すべて生成するものは何らかの始まりをもっているが、他方、永遠的なものは非生成的であって、始まりをもっていないからである。
 しかし、始まりをもっていないとすれば、それは無限である。
 (『学者たちへの論駁 2 論理学者たちへの論駁』セクストス・エンペイリコス著、金山弥平、金山万里子訳、2006、京都大学学術出版会、p.33。改行は筆者こやんによる。)

 まず、永遠の定義ということになる。永遠とは非生成的なもののことをいう。つまり、永遠は生成のあるなしから、生成のないものとして定義される。
 そして、生成のないものは始まりがない。生成するというのは、それまでなかったものが、ある時点であるようになることをいうとすれば、それはある時点で始まるということを意味する。
 ある時点で始まるということのないもの、それが永遠だと定義される。
 しかし、単純に考えて、ある時点で誕生しながら、それ以後滅びることのないものは永遠ではないのか?という疑問が生じる。
 たとえば、「永遠の愛」というのは、終わりがないというだけで、どこかで出会いがあり、ある時点から愛し合うようになったものが、これから永遠に続くという意味ではないのか。
 あるいは、「巨人軍は永遠に不滅です。」というとき、巨人軍は1934年に大日本東京野球倶楽部という名前で結成され、1936年に東京巨人軍と改称されたという、その誕生の時点を特定することができる。
 永遠という言葉は、日常的にはすでにあるもの、それが最初からあったのか、ある時点で生じたかを問わず、終らないでほしいという願いを込めて用いられる。

 世の中は常にもがもな渚漕ぐ
     あまの小船の綱手かなしも
                    鎌倉右大臣実朝

の歌は、この世の中が常ならぬもの、無常だからこそ、常であれと願うものであり、現象の世界が生々流転するものであるということは日本でも古代ギリシャでも共通の認識だった。
 永遠は、古代ギリシャ人にとっても一つの理想としてしか存在しない。いわば、物自体の議論の中でしか意味を成さない。
 たとえば、魂の永遠、霊魂不滅の議論にしても、それは現実の世界で人が死ぬことはないという議論ではない。
 実際には、どんなに長生きしても人はいつかは死ぬ。この事実は揺らがない。
 ただ、死んだ後も魂は不滅であり、肉体は亡んでも魂だけは生き続けるということを意味するにすぎない。
 ただ、古代ギリシャ人の議論が非常に特殊なのは、「永遠」の日常的な意味、つまり滅びないでくれという願いから切り離され、生成消滅という変化を持たないという意味に理解されていたことであろう。これは、きわめて思弁的な解釈になる。
 つまり、永遠とは「ある」が「ない」になったり、「ない」が「ある」になったりしない状態として定義される。
 たとえば、プラトンの言う霊魂不滅は、死後の魂が存在するというだけでなく、同時に生前の魂も存在してなければならなかったのである。そこから、プラトンの想起説が生じる。つまり、人間が生得的(アプリオリ)に持っている認識は、生前から受け継がれることによって知っているということになる。

 永遠とは「ある」が「ない」になったり、「ない」が「ある」になったりしない状態として定義される。

 それゆえ、「永遠的なものは非生成的であって、始まりをもっていない」。
 そして、始まりのないものは「無限」だということになる。
 これもギリシャ人の独特な議論といっていいのかもしれない。というのも、日常的な感覚では、無限というのも終わりのないという意味で用いられ、始まりはあってもいい。
 たとえば、円周率のような無限小数は3.14という始まりがあって、その後延々と終りなく続く数をいう。
 ゴルギアスのいう「無限」は、永遠の定義と同様、ある時点を境に「ある」が「ない」に変わったりしないことをいうにすぎない。
 つまり、時間をさかのぼってゆけば、現象として存在するものは、どこかでそれが「まだなかった」ものへと変わる。それが「始まり」である。
 そして、時間を下ってゆけば、どこかで「もはやない」ものへと変わる。それが「終わり」となる。
 どこまでいっても「まだなかった」ものにはならず、どこまでいっても「もはやない」ものにならないもの、それが無限だと定義される。
 そして、それは空間にも拡大される。

 日常的な感覚において永遠や無限を議論する際、「始まり」を無視できるのには理由がある。
 つまり、それがすでに始まっていることは、感覚的にすでにゆるぎないものとして理解されているからだ。
 始まっているのは確かだ。ただ、問題なのはそれに終わりがあるかどうかだ。そこで永遠や無限が問題になるにすぎない。
 始まりが問題になるというのは、ひょっとしたら今目の前に確実に存在しているものも実は幻で、本当は存在してなかった、生じてなかった、という仮定が入る時に限られる。

 そして、もしも無限であるとすれば、それはどこにもないのである。
 というのも、もしもしれがどこかにあるとすれば、それがその内にあるところのものは、それとは異なるものであり、そうすると、あるものは何かのうちに包含されているのであるから、もはや無限ではなくなるであろう。
 というのも、包含するものは包含されるものよりも大きいのであるが、しかし、無限なるものより大きいものは何一つなく、それゆえ、無限なるものがどこかにあるということはないからである。
 (『学者たちへの論駁 2 論理学者たちへの論駁』セクストス・エンペイリコス著、金山弥平、金山万里子訳、2006、京都大学学術出版会、p.33~34。改行は筆者こやんによる。)

 無限のものは時間軸においてだけでなく、空間軸においても、ここから先は「もはやない」というものをもたない。つまり、空間的に限られていない。境界を持たない。
 それゆえに、それは「どこかにある」のではない。「どこか」というとき、それを包むより大きな空間を仮定しているからだ。
 パソコンが居間にあるという時、パソコンは有限な大きさを持つものであり、パソコンの外にパソコンではない空間が存在する。このパソコンを包んでいる外の空間を「居間」と呼ぶことができる。
 居間はまた、家の中にあるということができる。そして、家はどこそこの町の中にあり、その町は日本にある、とも言える。日本は地球上に存在し、地球は宇宙空間の中に存在する。
 ならば、宇宙はどこにあるのか?
 宇宙を包むより大きな空間が存在するという仮定は不可能ではない。その外にひょっとしたら神の住む領域が存在するのかもしれないし、宇宙はひょっとしたら、その神の造った一つのゲーム機の中に存在しているのかもしれない。
 そのゲーム機は神様の住む家の居間に置かれているのかもしれない。ならば、その家はどこにある?はっきりいってきりがない。
 これに対し、無限というのはもはやそれを包む外の空間が存在しないことを言う。それゆえ、無限はどこ「に」あるとはいえない。つまり、「どこにもない」。

 それにまた、それが自分自身の中に含まれるということもない。
 というのもその場合には、それがその内に含まれるところのものと、その内に含まれる当のものとが同じになり、あるものは二つのもの、すなわち場所と物体になるであろう(なぜなら、その内にあるところのものは場所であり、その内にある当のものは物体だからである)。
 しかし、それはおかしなことである。
 それゆえ、あるものは自分自身のうちにあるものでもない。
 (『学者たちへの論駁 2 論理学者たちへの論駁』セクストス・エンペイリコス著、金山弥平、金山万里子訳、2006、京都大学学術出版会、p.34。改行は筆者こやんによる。)

 ここでもう一つ、「無限」はその無限自身のうちに存在しているという仮定が考えられる。
 つまり、無限の宇宙空間はその無限の宇宙空間自身の中に存在する。それゆえ、「どこにもない」わけではない、と。
 しかし、それだと含むものと含まれるものが同じになる。つまり、この部屋はこの部屋の中にあるということになる。
 近代だと、宇宙を主観的な純粋空間と、そこに含まれる質料(マテリアル)とを分けて考える二元論が一時期流行する。これだと、物質としての部屋(壁、家具、充満する空気などを合わせたもの)はある一定の空間座標の中に存在するということになる。それはまさに、「あるものは二つのもの、すなわち場所と物体になる」ということなのだが、ゴルギアスはそれを「おかしなこと」と一蹴する。
 というのも、場所自体は永遠だとしても、そこに内包される物質は永遠ではなく、場所によって区切られ、限界付けられているからだ。つまり、永遠であって永遠でないことになる。「ある」と「ない」は同時に両立しないというルールに従えば、これは不条理ということになる。
 それゆえ、永遠にあるものは永遠にあるもの自身のうちにあるのではない。永遠にあるものによって限界付けられたあるものは永遠ではない。

 したがって、もしもあるものが永遠的であるとすれば、それは無限であり、もしも無限であるとすれば、それはどこにもあらず、もしもどこにもあらぬとすれば、それがあるということはない。
 それゆえ、もしもあるものが永遠的であるとするならば、それはそもそもまた、あるものでさえないのである。
 (『学者たちへの論駁 2 論理学者たちへの論駁』セクストス・エンペイリコス著、金山弥平、金山万里子訳、2006、京都大学学術出版会、p.34。改行は筆者こやんによる。)

 ここで、「ある」ということに一つの属性が加えられている。つまり、あるものは、「にある」もの、つまりどこかになければならない。
 「ある」が永遠であるとすれば、時間的にも空間的にも「どこにある」と限定することができない。
 ゆえに、「ある」はどこにもない。
 しかし、この属性の付加には疑問が残るだろう。つまり、ハイデッガー的に言えば、「にある」のは存在者であり、存在そのものではない、と。
 ハイデッガーの1962年の講演"Zeit unt Sein"(『時間と存在』)の中の言葉。

 「この教室がある。この教室は明るい(明るくある)。われわれは明るい教室を別に深く考えることもなく存在しているもの(存在者)とみなす。しかし、この教室のどこに『ある』があるのだろうか?」
Dieser Hörsaal ist. Der Hörsaal ist beleuchtet. Denn beleuchteten Hörsaal werden wir ohne weiteres und ohne Bedenken als etwas Seiendes anerkennen. Aber wo im ganzen Hörsaal finden wir das »ist«?
("Zur Sache des Denkens" Martin Heidegger, Max Niemeyer Verlag Tübingen, 1976, p.3)

 「ある」がどこに「ある」か、あるいはそれが永遠で「ある」とか生成的で「ある」とか、こうした議論はすべて「ある」ということを前提にして行なわれている。
 そして、どこにある、永遠である、生成的である、と断定した時、それは「ある」そのものではなく、一つの存在者なのである。
 存在はただ、「ある」は「ある」という同語反復の中でしか成立しない。それに永遠という属性を加えるにしても、それは経験的な意味での果てがない(例えば宇宙に果てがあるかどうかという意味での)ということではない。ただ経験の可能性の無限なのである。

 しかしまた、あるものが生成的であるということもありえない。というのも、もしそれが生成したとするなら、それは、あるものから生成したか、あるいは、あらぬものから生成したかのいずれかである。
 しかし、あるものから生成したのでもない。
 というのも、もしそれがあるものであるなら、それは生成したのではなく、すでにあるからである
 また、あらぬものから生成したのでもない。
 というのも、あらぬものはまた何かを生み出すこともできないからである。
 その理由は、何かを生み出しうるものは必ずや存立に与っていなければならないからである
 したがって、あるものが生成的であるということもない。
 (『学者たちへの論駁 2 論理学者たちへの論駁』セクストス・エンペイリコス著、金山弥平、金山万里子訳、2006、京都大学学術出版会、p.34~35。改行は筆者こやんによる。)

 生成するということは、かつて「まだなかったもの」が「ある」ようになることをいう。
 したがって、「あった」ものが「ある」なら、それはあり続けているだけで、生成してはいない。かつてなかったことがなく、これからもなくなることがないなら、それは永遠である。
 永遠については、すくなくとも「‥‥にある」という仕方で存在することはできない。
 一方で、「無から有は生ぜず」ということわざもある。物理学では質量保存則というのがあるが、最新の量子力学でこれがどうなっているのかはよくわからない。
 しかし、存在の議論であれば、これは質量保存則とは無関係で、ただ、「ある」がかつてなかったりやがてなくなったりしないということであり、むしろパルメニデスの「あるはある」を受け継ぐものといえよう。

 また同じ論法により、それがその両方、すなわち、永遠的であると同時に生成的であるということもない。
 なぜなら、それらは互いに否認し合うものであり、もしあるものが永遠的であるなら、それは生成したのではなく、またもしも生成したのであれば、永遠的ではないからである。
 それゆえ、もしあるものが永遠的でもないし、また生成的でもないし、またその両方でもないとすれば、あるものがあるということはないであろう。
 (『学者たちへの論駁 2 論理学者たちへの論駁』セクストス・エンペイリコス著、金山弥平、金山万里子訳、2006、京都大学学術出版会、p.34~35。改行は筆者こやんによる。)

 「何かがあると同時にあらぬということはない」。
 そして、永遠とは「ある」が「ない」になったり、「ない」が「ある」になったりしない状態を言う。
 生成は「ある」が「ある」になることではない。
 「ない」が「ある」になることはできない。

 これらの規則により帰結できるのは、実はパルメニデスの言うように、「あるはある」「ないはない」だけなのである。
 「あるはある」へのゴルギアスの反論は、存在と存在者を混同することによってしか成立たない。それゆえ、完全に否定はできない。
 しかし、これを否定するのであれば、残るものは一つということになる。すなわち、「ないはない」、つまり「何もない」。

 それにまた、もしそれがあるとすれば、それは一なるものであるか、あるいは、多なるものであるかのいずれかである。
 しかし、これから論じられるように、それは一なるものでもなければ、また多なるものでもない。
 したがって、あるものがあるということはない。
 (『学者たちへの論駁 2 論理学者たちへの論駁』セクストス・エンペイリコス著、金山弥平、金山万里子訳、2006、京都大学学術出版会、p.35。改行は筆者こやんによる。)

 ゴルギアスの論法は、永遠か生成的かの場合と同様、「ある」に何らかの属性を付けることで二分割し、そのどちらも成立たないことを論証するというもので、今回は一か多かという属性を付加する。
 これは、パルメニデスが「ある」を一にして永遠なものと考えていたことによる。
 永遠か生成的か、無限か有限か、一か多か、こうした議論は、それが存在者の議論として、カント的な意味で言う「悟性」の範疇で議論する限り、両方とも成立してしまい、アンチノミー(二律背反)に陥る。
 存在者と存在を切り離した時、こうした議論は両立不可能ということになり、いずれも成立しないことになる。
 それと同じように、「あるはある」「なにもない」この二つの議論は、両方可能であるため、両方とも不可能となる。
 ゴルギアスの議論は、「なにもない」ということを主張することそのものより、パルメニデスの「あるはある」がなおかつ絶対的なものでないことを、それと平行するアンチノミーを示すことで証明しようとしたのではないかと思われる。
 「ある」という主張は、経験的にこれほど確実なものではないにもかかわらず、物自体の議論、つまりあるのは見せ掛けであって、本当は何もないという議論はあくまで「可能」なのである。
 そして、この可能性がある限り、「ある」は絶対ではない。
 「ある」は絶対的な真理を保証しない。つまり、「ある」は仮説である。
 ゆえに形而上学的真理は絶対ではない。ただ、相反する二つの主張を戦わせる弁論術のみがあるにすぎない。これがゴルギアスの到達した地点だった。
 それに我々はこう付け加えることができるだろう。
 知識はただ仮説と検証の繰り返しの中でしか維持しえない、と。
 そして、裁判は弁論術によって決まるだけではなく、検証術、つまり科学的捜査が不可欠である、と。
 おそらく、ここに至りついたとき、すべては語られたことになる。

 というのも、もしそれが一なるものであるとするなら、それはひとつの量であるか、あるいは連続体であるか、あるいは大きさであるか、あるいは物体であるかのいずれかである。
 しかし、これらのいずれであるにせよ、それは一なるものではないのであって、量であれば分割されるであろうし、連続体であれば切り分けられるであろう。
 また同様にして、大きさとして思惟されるのであれば、それは不可分ではないであろうし、物体であるなら三次元的であるだろう。
 というのも、それは長さと幅と深さを持つことになるのだから。しかし、あるものがこれらのいずれでもないというのは、おかしなことである。
 したがって、あるものが一なるものであるということはない。
 (『学者たちへの論駁 2 論理学者たちへの論駁』セクストス・エンペイリコス著、金山弥平、金山万里子訳、2006、京都大学学術出版会、p.35。改行は筆者こやんによる。)

 ゴルギアスというと、一般的に詭弁屋のイメージが植えつけられてしまっているが、実際のところ、こうした議論はきわめてカント的である。
 しかし、この分割の問題は経験的な悟性の範疇の問題であり、超越的な一者を仮定したとき、それは逃れ出てしまう。つまり、「分割できない一がある」という仮定をすればすむことである。
 「あるもの」つまり存在者は、一定の量を持ち、分割可能だとしても、「ある」そのものはそのようなものとして存在しない。
 一なるものは存在しないという主張と同時に、その逆の主張をしてみせるやり方は、まさにカント的な「弁証論」だ。

 しかしまた、それは多なるものでもない。というのも、もしもそれが一なるものでないとすれば、それは多なるものでもないからである。
 なぜなら、多なるものは、一つ一つのものの結合であり、それゆえ、一なるものが否認されるなら、多なるものもまたそれといっしょに否認されるからである。
 (『学者たちへの論駁 2 論理学者たちへの論駁』セクストス・エンペイリコス著、金山弥平、金山万里子訳、2006、京都大学学術出版会、p.35~36。改行は筆者こやんによる。)

 これはゼノンの言う無限分割の問題でもある。
 たとえば、矢は的に届くまでにその2分の1の地点を通らなくてはならない。そして、2分の1の地点まで来た時、さらに残りの2分の1の地点を通らなくてはならない。
 それを繰り返してゆくと、矢は無限にあと2分の1を残してしまい、いつまでたっても的に届かないことになる。
 つまり、矢が放たれて的に届くまでの距離というのは、有限でありながら、分割してゆくと無限に分割できてしまい、そこに無限の量が生じてしまうということになる。
 それゆえ、どこかに最小の量の単位がなくてはならない。つまり、多は分割できない一の結合に解消されなくてはならない。
 それゆえ、この最小単位となる一がなければ、多も存在しえないということになる。

 とにかく、以上のことから、あるものがあるということもなければ、またあらぬものがあるということもないということは明らかである。
 (『学者たちへの論駁 2 論理学者たちへの論駁』セクストス・エンペイリコス著、金山弥平、金山万里子訳、2006、京都大学学術出版会、p.36。改行は筆者こやんによる。)

 パルメニデスが、人間の有限な知識(ドクサ)に対して真理そのもの(アレーテイア)を発見し、それを「あるはある」と言い。その「ある」を唯一にして永遠なものであるとした。
 しかし、一か多か、無限か有限かという議論自体もパラドックスに陥る。それをゼノンが発見した。
 そして、ゴルギアスはそれを弁証論に発展させた。それによって「あるはある」というアレーテイアの真理そのものもまた、「なにもない」というアンチテーゼが示せることを明らかにした。
 ゴルギアスの『ないについて、あるいは、自然について』は詭弁ではない。カントよりかなり先立つ時代に、理性の限界と超越的な議論の不可能を指摘していたのである。
 しかし、ゴルギアスはただ真理の公準を混沌に帰しただけで、その中から実証科学を救い出すことはできなかった。
 ゴルギアスの『ないについて、あるいは、自然について』は、その意味では不完全な『純粋理性批判』にとどまった。

 ソクラテスは一般的には、ゴルギアスやあるいはプロタゴラスが真理の基準を廃したのに対し、それを取り戻そうとした人のように思われている。
 しかし、それはプラトンのフィルターを通したソクラテスであり、果たしてソクラテスはプラトンのようなイデアを信じたりすることがあったのかどうかは疑問だ。
 プラトンの『パイドン』にある、

 「僕は若い頃、ケベス、自然についての研究と人々が呼ぶあの知識に驚くほど熱中したのだ。」(『パイドン』プラトン著、岩田靖夫訳、1998、岩波文庫、p.121)

という言葉に従うなら、ソクラテスもある時期までは自然科学に傾倒していた。あるいはアリストパネスが『雲』という喜劇を上演したBC423年、46歳の時点では、まだ自然科学に傾倒していたのかもしれない。
 しかし、それを捨てた時点で、ソクラテスは経験的な知識の体系に、いわばドクサに興味を失っていた。
 そして、ソクラテスの関心は道徳へと向かった。
 パルメニデスがドクサの必要を認めていたにもかかわらず、ソクラテスはむしろゴルギアスと同様、ドクサを真理に近づける努力を軽視し、直観的な実践道徳へと向かった。
 これはソクラテスはゴルギアスを越えたというより、ゴルギアスの作り出した基盤のうえで、「実践理性批判」を行なおうとしたと見たほうがいいのではなかったか。
 ソクラテスの道徳は、命題や格律によるものではない。むしろそれらが必ず矛盾することを独特な対話法によって暴きだし、その限界を暴露させるものなのである。

 しかしまた、その両方──あるものとあらぬものの両方──があるのでもないということは、容易に推論できる。
 というのも、もしもあらぬものがあり、かつ、あるものがあるとするならば、あるという点に依拠するかぎり、あらぬものは、あるものと同一のものであることになるだろう。
 そしてそれゆえ、それらのいずれもがあらぬのである。
 なぜなら、あらぬものがあらぬということは同意されているところである。
 しかるに、示されたところでは、あるものはこれと同一のものである。
 それゆえ、あるものそれ自体もまたあらぬことになるであろう。
 (『学者たちへの論駁 2 論理学者たちへの論駁』セクストス・エンペイリコス著、金山弥平、金山万里子訳、2006、京都大学学術出版会、p.36。改行は筆者こやんによる。)

 普通の感覚からすると、あるものとあらぬものがあるというのは、当たり前のように思える。
 トラやライオンはいるが、ドラゴンやペガサスはいない。というように、動物にも「あるもの」と「あらぬもの」がある。ツチノコやイエティのように、あるかないかわからないものもいる。これは、あくまで存在者についての議論だ。
 存在そのものを対象とした議論であれば、「あるものとあらぬものがある」というのは、「あるもの」が同時に「あらぬもの」でもあるということになる。
 そして、あらぬものがあらぬ以上、あらぬと同時にあるものもあらぬと言うことになる。

 それにまた、もしもあるものがあらぬものと同一のものであるとすれば、両方があるということはありえないことである。
 なぜなら、もしも両方があるなら、それらは同一のものではなく、また、もしも同一のものであるなら、両方があることはないからである。
 (『学者たちへの論駁 2 論理学者たちへの論駁』セクストス・エンペイリコス著、金山弥平、金山万里子訳、2006、京都大学学術出版会、p.36。改行は筆者こやんによる。)

 「ある」と「あらぬ」が同一であれば、「ある」と「あらぬ」とに分けて考える必要はないから、そこにはどっちか一つのものしか存在しない。
 「ある」があるなら、そこに同一である「あらぬ」もすでに含まれていて、分ける必要がない。「あらぬ」がある場合も同様、「あらぬ」=「ある」なら、「ある」は必要ない。
 つまり、どっちか一方があれば事足りる。
 「ある」と「あらぬ」の両方が存在するなら、それは「ある」と「あらぬ」が違うからだということになる。
 「ある」と「あらぬ」の両方が存在することはない。正確には存在させる必要がないというべきか。
 そして、いずれにせよ基本的に「何かがあると同時にあらぬということはない」。
 結果的には「あるはある」というパルメニデスの説と、「なにもない」というゴルギアスの説は、ともに相容れないものながら、両方可能になってしまう。
 というのも、「ある」が存在者でないならば、「どこに」ということは言えないし、永遠であるか生成的であるか、だとか無限であるか有限であるかだとか、一であるか多であるかといった二分法を受入れない。
 東洋的な言い方をするなら、それは永遠即生成的であり、無限即有限であり、一即多ということになる。突き詰めていえば、それは有即無ということになる。この「即」は同一という意味ではなく、分割以前ということ、未分ということを意味する。

 以上の諸議論から、何ものもあらぬということが結果する。なぜならば、もしあるものがあるのでもなく、あらぬものがあるのではなく、両方があるのでもなく、そしてこれら以外に何ものも思惟されないとすれば、何ものもあらぬからである。
 (『学者たちへの論駁 2 論理学者たちへの論駁』セクストス・エンペイリコス著、金山弥平、金山万里子訳、2006、京都大学学術出版会、p.36。改行は筆者こやんによる。)

 このような「何もない」は、存在そのものの一つの呼び名であり、「ある」と「ない」の未分化な状態、有即無の状態と考えるべきであろう。
 それゆえ、「それ」は存在者ではないし、存在しないもの(非存在者)でもない。

第二論証:あったとしても知ることができない
 「何もない」ということを議論する以上、すでに「何もない」ということを知っている。
 それと同様に、何かが「ある」と仮定する時点で、すでに「ある」ということを知っている。
 「ある」ということを全く知らないなら、「ある」という仮定をすることもないだろう。
 生れる前にそうだったように。そして、多分死んだ後がそうであるように。
 しかし、それは「ある」とは何かという問題に関して、その答が出せないとしても、すでに何らかの形で「ある」ということを理解している、いわゆるハイデッガーの言う「存在了解」をいうにすぎない。
 つまり、「知ることができない」というのは、どのレベルで知ることができないのかの問題であり、漠然と何らかの形で理解しているものの、その意味を明確に説明できないということを意味する。
 それは「考える」「見聞きする」つまり、思考や知覚では説明できないということを意味する。
 「ある」は思考される。しかし思考で「ある」は説明できない。同様に、「ある」は知覚される。しかし知覚で「ある」は説明できない。
 パルメニデスは「存在とは思考である」と言い、近代になってからバークレーは「存在とは知覚である」と言った。しかし、存在は思考や知覚では説明できない。

 また次には、たとえ何かがあるとしても、そのものは人間にとって知りえないもの、また思考不可能なものであるということを示さなければならない。
 というのも──ゴルギアスは言う──、もしも考えられるものはあるものではないとすれば、あるものは考えられない。
 (『学者たちへの論駁 2 論理学者たちへの論駁』セクストス・エンペイリコス著、金山弥平、金山万里子訳、2006、京都大学学術出版会、p.36~37。改行は筆者こやんによる。)

 この論法は「ヘンペルのカラス」といってもよい。
 つまり、「カラスは黒いもの」であるならば、「黒くないものはカラスではない」。それと同様、考えるものが「ないもの」であるなら、「あるもの」は考えられない。
 これは論理的にはA=Bならば、非B=非Aである、あるいは、A⊂Bならば、非B⊂非Aであることを意味する。論理学的には健全な論法である。
 ただ、実際にこれが詭弁に聞こえるのは、最初の前提「カラスは黒いもの」が疑わしいからだ。つまり、生物種としてのカラスは決して色によって定義されているわけではなく、実際すべてのカラスが黒いわけではないからだ。
 同様に、ゴルギアスの議論も、考えるものが「ないもの」であるなら、という最初の前提の証明が、「第一証明:何もない」で見たように存在と存在者を混同するもので、不完全だからだ。
 考えるものが存在者でも非存在者でもなく、あくまで有無未分のものだったとしたら、「あるもの」は考えられる。

 そしてこれは理にかなったことである。
 なぜなら、もしも考えられるものに、白くあるという属性が属しているとすれば、また白いものには、考えられるという属性が属していることになるであろうが、ちょうどそのように、もしも考えられるものに、あるものではないという属性が属していれば、必然的に、あるものには、考えられないという属性が属することになるであろう。
 それゆえ、「もしも考えられるものはあるものではないとすれば、あるものは考えられない」は正当であり、論理的随伴関係を保持している。
 (『学者たちへの論駁 2 論理学者たちへの論駁』セクストス・エンペイリコス著、金山弥平、金山万里子訳、2006、京都大学学術出版会、p.37。改行は筆者こやんによる。)

 邦訳書の註によると、ジョナサン・バーンズは1979年の論文で、この部分はゴルギアスの引用ではなく、セクストス・エンペイリコスのコメントとみなしているという。
 ゴルギアスの言う「考えられるものはあるものではない」は明らかにパルメニデスの、

 「何故なら思惟することと有ることとは同一であるから。」(『初期ギリシア哲学者断片集』訳編山本光雄、1958、岩波書店、p.39)

というテーゼを踏まえたものと思われる。
 そして、セクストスの言う「属性が属している」というのは、この場合何かが、それより大きい集合の部分であるということを言うのではない。つまりA⊂Bではなく、A=Bということを意味すると思われる。
 A=Bであるなら、B=Aという交換法則が成立つ。
 それゆえ「もしも考えられるものに、白くあるという属性が属している」のであれば、考えられるもの=白くあるということになり、このこに対して「白いものには、考えられるという属性が属している」つまり、白くある=考えられるという交換法則も成立する。
 これに対し、ゴルギアスの言う「考えられるものはあるものではない」はA≠Bと思われる。これはAが必ずしもBではないということで、A=非B、A⊂非Bの二つの可能性がある。A=非Bでなくても、「ヘンペルのカラス」は成立する。

 しかるに、考えられるものは(というのも、先取りしなければならないからであるが)、これからわれわれが論じるように、あるものではない。
 したがって、あるものが考えられるということはない。
 (『学者たちへの論駁 2 論理学者たちへの論駁』セクストス・エンペイリコス著、金山弥平、金山万里子訳、2006、京都大学学術出版会、p.37。改行は筆者こやんによる。)

 さて、ゴルギアスが「ヘンペルのカラス」の論理で提起した、「もしも考えられるものはあるものではないとすれば、あるものは考えられない」だが、この論理を用いるには、まず「考えられるものはあるものではない」という命題を確定させなければならない。
 ところで、このセクストスの引用文の中の括弧でくくられた「というのも、先取りしなければならないからであるが」は、わかりにくい言い回しだが、ジョナサン・バーンズに従い、これもセクストス自身のコメントだとすれば、おそらくこういう意味だろう。
 「考えられるものに、白くあるという属性が属しているとすれば、また白いものには、考えられるという属性が属している」──この交換法則が成立つには、「考えられるもの」=「白いもの」である必要があり、つまり両者は同じことを言い表してなくてはならない。つまりこれは同語反復だということになる。
 だから、「考えられるものはあるものではない」もまた同語反復であり、最初から前提されているということが言いたかったのではないか。

 ところで実際、考えられるものはあるものではないということは明らかである。
 というのも、もしも考えられるものがあるものであるとすれば、すべて考えられるものは、そしてそれも、人がそれらをどのような仕方で考えようと、あるのである。
 しかしこれは馬鹿げたことである。
 なぜなら、もし誰かが、飛んでいる人間であるとか海原を駆けていく戦車を考えたとしても、それでただちに人間が飛んだり、戦車が海原を駆けていくわけではないからである。
 それゆえ、考えられるものがあるものであるわけではない。
 (『学者たちへの論駁 2 論理学者たちへの論駁』セクストス・エンペイリコス著、金山弥平、金山万里子訳、2006、京都大学学術出版会、p.37~38。改行は筆者こやんによる。)

 これは、観念論に対する素朴な議論としては古典的なものといえよう。
 飛んでる人間のことを思い浮かべたら、即座に目の前に飛んでいる人間が現われるわけではない。
 脳内のイメージとしては浮かぶかもしれないが、それが実際に存在するわけでないことは、容易に理解できる。
 しかし、飛んでいる人間は、少なくとも脳内のイメージとしては存在する。
 余談だが、今日では人間はいろいろな手段で空を飛ぶことができるし、水陸両用戦車も第二次世界大戦前に登場している。思考には想像力のなかでしか存在しなかったものを実現させる力がある。

 それにまた、もしも考えられるものがあるものであるとすれば、あらぬものは考えられないであろう。
 なぜなら、反対のものには反対の属性が属するけれども、あらぬものは、あるものと反対だからである。
 そしてそれゆえ確かに、もしもあるものには考えられるという属性が属するとすれば、あらぬものには考えられないという属性が属するであろう。
 しかしこれはおかしなことである。
 というのも、スキュラやキマイラや、またほかにも多数のあらぬものが考えられているからである。
 したがって、あるものが考えられるということはない。
 (『学者たちへの論駁 2 論理学者たちへの論駁』セクストス・エンペイリコス著、金山弥平、金山万里子訳、2006、京都大学学術出版会、p.38。改行は筆者こやんによる。)

 ここでまた「ヘンペルのカラス」が登場する。
 「あるもの⊂考えられるもの」が成立つのであれば「考えられないもの⊂あらぬもの」は成立つが、「あらぬもの⊂考えられないもの」は成立たない。
 ここでも、「という属性が属する」は交換法則の成立つ「=」を意味すると思われる。これなら「もしも考えられるものがあるものであるとすれば、あらぬものは考えられないであろう」は論理的に問題ない。
 つまり、これは先にも述べたパルメニデスの、「何故なら思惟することと有ることとは同一であるから。」(『初期ギリシア哲学者断片集』訳編山本光雄、1958、岩波書店、p.39)を指すものと思われる。
 そして、ゴルギアスは「あらぬもの」の例として、スキュラやキマイラのような伝説上のモンスターを例に挙げている。
 あらぬものが考えられぬという例なら、「飛んでいる人間であるとか海原を駆けていく戦車」でも十分だったようにも思われる。少なくともそれは当時はなかった。
 あらぬものでも考えることはできる。しかし、それは無から有を生み出しているわけではない。伝説のモンスターは、いくつかの実在する動物の寄せ集めとして表現されることが多いし、竜は偶然発見された恐竜化石がイメージの元になっている可能性が高い。
 それと同様、実在の人間と実在の鳥のイメージとを合成すれば、飛ぶ人間は簡単にイメージできる。海を走る戦車も同様、実在の陸上戦車と、実在の海から合成できる。
 これに対し、絶対的な「無」は想像を絶する。だからそれは時に、身の毛もよだつほど恐ろしい。
 しかしまた、「無」という概念も思考可能なのは確かであろう。
 パルメニデスが「あるはある、無はない」という場合でも、「無」は思考されている。つまり、これは「あるはある、無はない、と考えられる」ということになる。
 無は考えられるけど存在しない。そうなると、思考=有は成立しない。
 考えられるものが必ずしもあるものとは限らない。
 つまり、あるものもないものも考えることができる。
 これを哲学的に表現するなら「実在する存在者も実在しない存在者も思考可能である」ということになるだろうか。あるいは「実在する存在者の存在も実在しない存在者の存在も思考可能である」ということか。
 ゴルギアスの論証から言えるのはこのことだけである。
 これが意味するのは、存在するもの(存在者)も存在しないものも仮定できるということなのである。

 また、見られるものは見られるということのゆえに「見られるもの」と呼ばれ、そして聞かれるものは聞かれるということのゆえに「聞かれる」と呼ばれるのであって、われわれは見られるものが聞かれないからといって、これを排斥するわけでもないし、また、聞かれるものが見られないからといって、これを斥けるわけでもない(というのも、それぞれのものは、他の感覚によってではなく、それに固有の感覚によって判断されるべきなのであるから)。
 ちょうどそれと同様にして、考えられるものもまた、たとえ視覚によって見られることがなく、聴覚によって聞かれることもないとしても、それに固有の基準によって捉えられるのであるから、それらはあることになるであろう。
 そうすると、もしも誰かが、戦車が海原を駆けていくと考えるならば、たとえ彼はそれを見ていなくても、海原を駆けていく戦車があると信じなければならない。
 しかし、それはおかしなことである。
 したがって、あるものが考えられ、また把握されるということはない。
 (『学者たちへの論駁 2 論理学者たちへの論駁』セクストス・エンペイリコス著、金山弥平、金山万里子訳、2006、京都大学学術出版会、p.38~39。改行は筆者こやんによる。)

 ここでも、存在は「実在」という意味で用いられている。
 実際のところ、見ても聞いてもいないものを実在すると信じているということは、そんなに珍しくない。
 たとえば、アメリカの大統領の名前を知っていたとしても、実物を見た人はどれほどいるだろうか。しかも、見たとしても、その人物がちゃんと大統領の職務をしていることを確認した人はどれほどいるだろうか。
 地球は丸いということは知っていても、実際丸い地球をこの目で見たという人は、世界に何人いるだろうか。
 水陸両用戦車の情報を知ったり、YouTubeでその姿を見ることはできるが、実のところ私もその実物を見たことはない。
 我々が実際に見たり聞いたりして確認できるものというのは、そんなに多くはない。
 我々が知っているほとんどの知識というのは、実はみんな人から聞いた話で、それぞれ自分の過去の経験に照らし合わせながら、これはありそうだだとか、この人が言うのだから信用できるとか適当に判断しているにすぎない。
 だから、ある人にとってはUFOや心霊現象も実在するのだろうし、月の石はすべてニセモノだということになるのだろうし、教祖様の不思議な力で癌が治ることになったり、皮膚呼吸ができなくなると人は死ぬなんてことになったりもする。
 誰かがそう言ってたからという理由で、自分で確かめることもなく信じてしまうのは、誰しも少なからずあることだ。むしろ、それが我々の知識のほとんどだといってもいいのかもしれない。それは、古代ギリシャ人でも同じだった。

「ポロス:むろんあなたは、ペルディッカスの子の、ほら、あのアルケラオスが、マケドニアを支配しているのを、見ておられるでしょう。
ソクラテス:さあね、見てはいないにしても、とにかく、話には聞いているよ。
ポロス:それなら、あなたにはどう思われますか、あの人は幸福でしょうか、それとも不幸でしょうか。
ソクラテス:それはわからないよ、ポロス。だって、あの人とはまだつき合ったことがないのだから。」
(『ゴルギアス』プラトン、加来彰俊訳、1967、岩波文庫p.90)

 ソクラテスの「無知の知」というのは、我々がいかに不確定な情報で物事を判断しているか、反省を迫る。
 しかし、それを言ったら、はたして本当にソクラテスはこんなことを言ったのだろうか。我々はただプラトンの記述を信じているにすぎない。
 実際我々はソクラテスに会ったこともなければ、プラトンにすら会ったことはないし、もちろんプラトンが信用できる人物かどうか、つき合ってもいないのに何でわかるのかと言われればそれまでだ。
 考えられるものはほとんど無限にあるが、実際に「ある」と確認できるものの少なさを考えれば、我々の考えるもののほとんどは、実は「あらぬもの」なのかもしれない。
 そして、本当に目の前にあるものについては、案外考えているようで考えてないのかもしれない。

第三論証:知ったとしても伝えることができない
 さて、目の前に何かがあったり、今自分が生きているということは確実に言えたとしても、それが本当に「ある」のかということになった時、絶対はありえない。つまり、「何もない」という可能性が排除できないということはわかった。
 そして、我々の考えることが、本当に「あるもの」についてのものかどうかを問われると、実際はあるかないかわからないことについて、膨大な量の思索を重ねているのが常で、はっきりしないことは確かだった。
 ならば、知っていることについても、本当は何一つ伝わっていないのではないかと考えるのは、何ら変なことではない。実際に我々の日常生活が、様々な誤解の上塗りの上に成立っていることを見れば、そう考えるのも不思議ではない。

 また、たとえそれが把握されるとしても、それは他の人に対して言表不可能である。
 というのも、もしもあるものは見られるもの、聞かれるもの、また一般的に感覚されるもの──すなわち外部に存在するもの──であるとすれば、そして、それらのうちの見られるものは視覚によって把握可能なもの、他方、聞かれるものは聴覚によって把握可能なものであり、その逆ではないとすれば、一体どのようにしてそれらは、他の人に対して表されうるのであろうか。
 (『学者たちへの論駁 2 論理学者たちへの論駁』セクストス・エンペイリコス著、金山弥平、金山万里子訳、2006、京都大学学術出版会、p.39。改行は筆者こやんによる。)

 さて、ゴルギアスに従えば、我々は何かがあるように常に振舞っているが、本当は何もない。
 あったとしても、それは知覚されているものや思考されているものとは別のものだという。
 とういのも、知覚や思考は「ないもの」についても可能だからだ。
 知覚されたり思考されたりすることは、その「もの」があることを証明するものではないとすれば、何も存在していないし、何かが存在していたとしても、それ自体を把握しているわけではないということになる。
 そして、たとえ知覚されたり思考されたりするものが真に「あるもの」だとしても、それは個々の人間の知覚・思考に対して与えられるにすぎず、それを他人に伝えるのは困難だということになる。
 それは今日で言えば、各自が知覚している「クオリア」の伝達困難という問題にもかかわるかもしれない。たとえば、私か今見て、感じていることそのものを、あなたは知ることができない。
 色に関して言えば、人間は赤・緑・青の三つ色を感知する錐体細胞を持っているが、なかにはこの内二つしか持たなかったり、一つしか持たなかったり、逆に四つの錐体細胞(二種類の赤を別々に感知するという)を持つ人もいる。
 こうした色覚異常の度合いもまた人によって様々であり、典型的なものについては、フィルターを使って、その人がどういうふうに色を見ているのか再現することはできても、それがそのまま色覚異常の人の見た世界というわけではない。
 音に関して、どんな人でもすべての周波数の音が均等に聞こえるのではなく、生れや育ちや職業柄、よく聞く重要な音への感受性は発達するが、そうでない音に対しては鈍感になるように、視覚に関しても、正常と思われる人でも、普段よく目にする色とそうでない色で感受性が異なることもまた十分ありうるとすると、結局のところ、色も音もその人特有の見え方聞こえ方をしていることは十分に考えられる。(たとえば、凡人にとって全く違いのわからない二つのワインも、ソムリエの舌と鼻にかかれば全くの別物として認識されるように。)
 たとえば、民族やお国柄による色彩感覚の違いというのは、実際によく見える色と見えにくい色が存在している可能性がある。日本の大都会の極彩色の看板やネオンは、落ち着いた色彩で統一されているヨーロッパの町から来た人間には、ひょっとしたらずいぶん違ったものに見えているのかもしれない。
 どんな名曲でも人それぞれ好みがあり、どんな名画でも人それぞれ好みが分かれるのも、音楽や絵画が人によって違うふうに見えたり聞こえたりしているところに原因がある、ということは十分考えられる。

 というのも、われわれがそれによって表すことのものは言論であるが、しかし言論は存在するもの、すなわちあるものではない。
 したがって、われわれは隣人に対して、あるものではなく言論を表しているのであり、そしてその言論は存在するものとは異なるのである。
 かくして、見られるものは聞かれるものにはなりえず、またその逆もありえないのであるが、ちょうどそれと同様に、あるものは外部に存在するのであるから、われわれの言論にはなりえないであろう。
 しかし、言論でないとすれば、それは他の人に対して示されえないであろう。
 (『学者たちへの論駁 2 論理学者たちへの論駁』セクストス・エンペイリコス著、金山弥平、金山万里子訳、2006、京都大学学術出版会、p.39。改行は筆者こやんによる。)

 この辺はそんなに難しい議論でもないし、奇妙な議論でもない。
 今、私が林檎を見て「赤」とキーボードで打ち込んだとしても、これを閲覧する人は私の目の前にある林檎を見ることはできない。
 つまり伝えているのは、「赤いもの」ではなく「赤」という記号に他ならない。
 「記号」もまた「存在するもの」だといえるが、それはゴルギアスが後で述べるように、「赤いもの」とは別の存在物にすぎない。
 記号が存在するにしても、今私の目の前のディスプレーに表示されている「赤」の文字と、どこか私の知らないところで表示されている「赤」の文字と、物理的には別の存在である。
 それならば、「赤」はあなたと私との間で同一の意味を持っているのだろうか。
 あなたは私の前にある赤い物体を見ることはない。
 ならば、あなたの思い浮かべたのは、あなたの記憶している別の赤い物体であるはずである。
 これは別にネットだからこういう差異が生じるわけではない。
 文章の場合も、原稿用紙に書いた文字と本になった文字とはまったく別の物理的存在だ。
 手紙であれば、私の書いた文字を直に見ることができるかもしれないし、直接話すのであれば、私の口から出た音声をあなたは聞くことになるから、「赤」という記号は物理的にも同一と見なされるかもしれない。
 しかし、「赤いもの」の現物が両者の前に提示されていない限り、あなたのイメージした「赤」はあなたの脳内のイメージにすぎず、私の見たものと同じであるはずはない。
 つまり、あるものが存在し、それが知覚できたにせよ、言葉はその知覚そのものを伝えることはできない。

 また──彼は言う──、言論は、外部からわれわれに現出してくる諸々の物事、すなわち感覚されるものに基づいて成立している。
 というのも、風味との遭遇により、この性質に関して言表される言論がわれわれのうちに生じ、また色の感取により、色に関する言論が生じるのである。
 しかし、もしそうだとすれば、言論が外部のものを呈示しうるのではなく、むしろ外部のものが言論を表しうるものになるのである。
 (『学者たちへの論駁 2 論理学者たちへの論駁』セクストス・エンペイリコス著、金山弥平、金山万里子訳、2006、京都大学学術出版会、p.39~40。改行は筆者こやんによる。)

 これは言語によって表される概念に関する素朴な考察といっていいだろう。
 ここでは、言語によって伝達される内容は、無から生じるのではなく、感覚に依存するという。
 ある種の風味(これはクオリアといってもいいのかもしれない)と出会うことによってその風味の概念が生じ、色の感取により色の概念が生れるということになる。
 しかし、実際には概念形成にはある程度遺伝的なものも関与していると思われる。すべてが経験によって決まるのであれば、人によっても言語によっても概念の類似が生ぜず、人それぞればらばらになってしまっては、言語による伝達そのものが困難になってしまうであろう。
 たとえば、「赤」という概念は、すべての言語に共通して存在しているように、ある程度は遺伝的と考えるべきであろう。

 しかしまた、次のように言うこともできない──「見られるものや聞かれるものが存在するのと同様の仕方で、言論もまた存在するのであり、それゆえ、存在するもの、すなわちあるものとしての言論に基づいて、存在するもの、すなわちあるものがあらわされうるのである」。
 というのも──彼は言う──、たとえ言論が存在するとしても、しかしそれはそれ以外の存在するものとは異なっており、そして、なかでも見られる物体はとくに大きく言論と異なっている。
 なぜなら、見られるものがそれを通して捉えられる器官と、言論がそれを通して捉える器官とは、それぞれ別のものだからである。
 したがって、言論は存在するものの多くを開示するものではない。
 それはちょうどまたそれらのあいだでも、互いに他のものの自然的あり方を明示しないのと同様である。
 (『学者たちへの論駁 2 論理学者たちへの論駁』セクストス・エンペイリコス著、金山弥平、金山万里子訳、2006、京都大学学術出版会、p.40。改行は筆者こやんによる。)

 霊肉二元論者の中には、言語を物理的存在とは別の霊的存在と考える人たちもいる。
 聖書の「言葉は神なりき」を原理主義的に読めばそういうことにもなるし、日本では「言霊」という考え方もある。
 こうした考え方だと、物があって言語がそれを写し取るのではなく、最初に言語があって、その言語によって思考がなされることで、物が存在すると考える。極端な観念論だ。
 しかし、思考は必ずしも言語的ではないし、知覚もまた言語的ではない。もしそうなら、言いたくても上手く言い表せないもどかしさを経験することはないだろう。
 今日では、言語は何らかの生得的基礎の基づいて習得されると考えられている。
 この生得的基礎が、いわゆるチョムスキーの深層文法のような言語特有のものなのか、それとも言語が進化する前から受け継がれてきた、一般的な概念思考のシステムによるものなのか、その両方によるものなのかは定かではない。
 いずれにせよ、全く生得的基礎なしに、経験的学習のみによって言語が生じることはないし(もしそうなら人間以外の動物でも容易に言語を学ぶことができるだろう)、言語が完全に生得的に決定されているということもない(もしそうなら日本人の両親に生れた子供はどこの国で育っても日本語を喋ることになるだろう)。
 だから、言語によって存在するもの(概念)と目の前にある物理的存在とは存在の仕方が異なっている、というゴルギアスの指摘は正しい。
 それゆえ、ゴルギアスの言うように、言語がすべての存在を開示することはできず、常に言い表しがたいもの、例えば各自の知覚するクオリアそのもののようなものが存在する。
 それゆえ、存在したとしても、それを完全に伝えることはできない。

 以上の論証から言えるのは、
 経験的にはあるものはあるが、その背後に絶対的な存在を仮定する際には、それがあるともないと言えてしまい、「何もない」という主張は成立する。
 絶対的にあるものがあるとしても、それはわれわれが経験的に知覚したり思考したりするそのものではない。その背後に仮定されるにすぎない。それゆえ、「あったとしても知ることができない」。
 絶対的にあるものが知覚され、思考されえたとしても、言語はそれを直接伝えるのではなく、あくまで概念に変換して伝えているにすぎない。それゆえ、「知ったとしても伝えることができない」。

 こうした帰結は、今日の科学的思考と何ら矛盾するものではない。セクストスの記述が完全かどうかという問題を考えるなら、原典はこれにも勝る見事な棋譜だったことも想像できる。
 科学は決して絶対的な存在を突き止める学問ではなく、あくまで仮説と検証の繰り返しのうちに維持される真理の近似値にすぎないからだ。
 ゴルギアスを詭弁屋や呼ばわりして、哲学史の外側へ追いやったのが、内省的独断によって絶対的真理に行き着くことができると考えて人たちであることは、容易に想像がつく。
 しかし、今となって、なおかつゴルギアスを哲学史から遠ざける積極的理由は見当たらない。
 ゴルギアスはパルメニデス派(エレア派)の後継者の一人として、パルメニデスの「あるはある、ないはない」の命題をさらに徹底し、「なにもない」という可能性へと行き着いた。この点は評価してもいいだろう。
 ただ、ゴルギアスはドクサの重要性を十分認識せず、科学の確立にはほとんど貢献できなかった。しかし、この欠点について言えば、ソクラテスも同罪である。
 ソクラテスも生き方においては、ゴルギアスの影響を受けた可能性は十分にある。必要以上の金を取らず、必要最低限のものだけで質素な生活をする生き方は、本来ゴルギアスのものだった。

ゴルギアスの『ヘレネ頌』

   ゴルギアスの一つのイメージ

 シチリアとうのとあるまち片隅かたすみに、そのおとこんでいた。
 このまちはギリシャじんまちだったが、ふねってやってたエジプトじんのやペルシャじん姿すがたもある。それにイベリア半島はんとうのローマじんのたちもいた。
 いろいろな言語げんごい、様々さまざま商品しょうひん技術ぎじゅつがもたらされるこのまちで、40にしてその聡明そうめいさによって長老ちょうろうもくされてたのが、このおとこだった。
 「きみはいったいなにりたいのだね。」
 そうおもむろにう。そのきはらったしぐさには、そのおとこ慈愛じあいちたやさしさがかんじられた。
 しかし、くちひらくや、その言葉ことばなぞめいていた。
 「そう、本当ほんとうなにもないんだよ。
 広大こうだい大地だいち人間にんげん知恵ちえでははかれぬものにちているし、きみまれるまえんだあとにも永遠えいえん時間じかんながれている。そんななかで、我々われわれることなんてのはひとしい。
 そう、本当ほんとうなにもないのさ。あったとしてもることができないし、ったとしてもつたえることができない。すべてはちいさな砂粒すなつぶ砂夢すなゆめ
 だから、我々われわれ弁論べんろんなんてのはただのあそびだ。なにとでもえる。でも真実しんじつはどこにもない。」

 この文章はギリシャ神話に登場するヘレネという女性を弁護する、一種の架空裁判である。
 重要なのは、神話である以上、この裁判には物的証拠が何もないということだ。
 しかし、今のような科学的捜査のなかった時代の裁判は、少なからず物的証拠のほとんどない中で行われていたと思われる。弁論術の重要性は、物的証拠がなく、ともすると水掛け論にしかならない裁判の中で、いかに勝訴を勝ち取るかというところで生まれたと考えれば、今日とは比べ物にならないほどのものだっただろう。

 

 「整いし様コスモスとは、ポリスにとっては武勇、肉体にとっては美、魂にとっては知恵、行為にとっては徳、言論にとっては真理であり、それらの反対は、整わぬ様である。男でも女でも、言論でも事柄でもポリスでも行為でも、称賛に値するものは称賛によって誉め讃え、値しないものは非難すべきである。称賛すべきを非難し、非難すべきを称賛することは、等しく過誤であり、無知であるのだから。」(『ソフィストとは誰か?』納富信留、2006、人文書院、p.140)

 

 神話の時代にはまだ法律はなかった。後に作られた法律を過去に遡及させることもできないし、それに、どこのポリスの法律で裁くべきかという問題も出てきてしまう。だから、有罪か無罪かは法律では裁けない。そこでまず、何を根拠に裁くかが示されなくてはならない。
 有罪か無罪かを判定する根拠は、ここでは「コスモス」だとして示される。コスモスに反するものは非難すべきもの(有罪)であり、コスモスにかなうものは称賛すべきもの(無罪)となる。
 そして、そのコスモスが具体的にどのようなものかを、体系的に列挙する。
 しかし、コスモスそのものの定義には言及していないし、列挙の仕方も任意であり、プラトンならそこを突っ込むところだろう。それこそ、プラトンの『メノン』のように、「コスモスとは何か?」と問われて、「整いし様コスモスとは、ポリスにとっては武勇、肉体にとっては美、魂にとっては知恵、行為にとっては徳、言論にとっては真理であり、それらの反対は、整わぬ様である。」と答えると、

 「ずいぶんぼくも運がいいようだね、ゴルギアス、コスモスは一つしかないというつもりでさがしていたのに、コスモスがまるで蜜蜂のように、わんさと群をなして君のところにあるのを発見したのだから。」

ということになりそうだ。
 ところで、このコスモスという言葉には「見かけを取り繕う」という、今日の「コスメ」の語源になるもう一つの意味があったという。

 

 「語るべきを正しく語る男なら、ヘレネを非難する人々を論駁するだろう。その女については、詩人たちの言うことを聴いた人々の信念と、不幸の記憶をなす彼女の名の響きとは、声も心も一致する。私はこの言論にことわりを与えることで、悪名が聴かれる女からその責めを取り除き、非難している人々が偽りをなすことを演示し、真理を提示して無知を止めようと思う。」(『ソフィストとは誰か?』納富信留、2006、人文書院、p.140)

 

 ヘレネの物語については、ウィキペディアの「ヘレネ」の項でも読んでもらうこととして、問題はメネラオスの妻だったヘレネが、パリスにさらわれ、それを取り返すためにトロイア戦争が起きたことについて、ヘレネ自身の気持ちがどうだったのかがはっきりしないことだろう。ヘレネは単に運命にもてあそばれた不幸な女だったのか、それとも男たちを惑わす悪い女だったのか。
 ヘレネの無罪を主張するということは、前者の解釈を取ることになる。

 

 「さて、この言論の主題となるその女が、生まれも素性も、第一等の男や女の中でも第一等を閉めることは、わずかな人にさえ不明ではない。明らかに、彼女は母がレダ、事実そうであった父は神、そう語られる父は死すべきもの、すなわち、テュンダレオスとゼウスであって、一方は実際そうあることによってそう思われ、他方はそう主張することで論駁されたのだ。一方は男の中で最強のもの、他方は万物の王であった。」(『ソフィストとは誰か?』納富信留、2006、人文書院、p.140)

 

 生まれのよさというのも、ここでは「整いし様コスモス」の一つとして扱われている。テュンダレオスはスパルタの王。一方ゼウスは人間の女との間にたくさんの子どもを作ったといわれている。

 

 「こういった両親から生まれた彼女は、神にも等しい美を持った。それを得て、気づかれずに持つことはなかった。彼女は、もっとも多くの人々に、もっとも多くの愛の欲望を作りだし、一つの肉体で多くの肉体を集めた。それは大いなる事で大いなる自負をもつ男たちの肉体で、そのある者は富の大きさ、ある者はいにしえよりの良き生まれの良き評判を、ある者は個人の腕力の良き様を、またある者は獲得した知恵の力を持っていた。そしてすべての者は、勝利を愛し名誉を愛する負け知らずの愛によって、やってきたのだ。」(『ソフィストとは誰か?』納富信留、2006、人文書院、p.140~141)

 

 最初に「整いし様コスモスとは、ポリスにとっては武勇、肉体にとっては美、魂にとっては知恵」とあるように、ヘレネは神にも等しい肉体の美を持つこと自体、コスモスであり、称賛に値することとなる。その肉体に引かれて、武勇の者や知恵のある者も集まってくる。
 このような称賛すべきものが、なぜ非難を受けるのか、その理由はヘレネが夫ある身でありながらパリスと一緒にトロイアへ行ったことにある。弁護すべき点はそこだ。

 

 「さて、誰がどんな理由でどのようにヘレネを獲得して愛を満たしたか、私は語るまい。人が知っていることを知っている人に語ることは、確信を与えても、悦びはもたらさないからだ。言論によって、かの時を越えて、今、これから生じる言論の始まりへと私は進み、ヘレネのトロイア出奔から生じたありそうなエイコス原因(責め)を提示しよう。それは、[A]偶然の意図か神々の思慮の必然の投票によって、彼女は為したことを為したのか、あるいは[B]力ずくで連れ去られてか、あるいは[C]言論によって説得されてか、〈あるいは[D]愛によって捕えられてか〉のいずれかである。」(『ソフィストとは誰か?』納富信留、2006、人文書院、p.141)

 

 ヘレネがスパルタ王テュンダレオスの妻となったいきさつは、それゆえ、ここでは問題にならない。事件に直接関係ないことへの言及は、弁護の常道として退けなければならない。誰かがその部分に突っ込んだとしても「裁判長。それは事件と関係ありません」と言って発言を止める必要がある。
 その上で、論点をヘレネのトロイア出奔にしぼり、その考えうる原因を列挙する。
 こうして可能な原因をすべて列挙し、その一つ一つに反証をしてゆくやり方も、弁論の常道といえよう。プラトンのソクラテスの弁明でも、ソクラテスが最後に死刑が確定した後、死が良いものであるという主張をする際にも、死が意識のない無の状態か、あの世へ旅立つ状態のどちらかだといい、前者であれば、夢に惑わされることのない快適な眠りほど良いものはないといい、後者であれば過去の偉人たちに会えるからどちらにしても良いものだという論法を用いている。
 こうした論法は、これ以外の可能性を誰もがすぐに思いつかない限りにおいて説得力を持つにすぎない。短期決戦の口頭弁論ならうまくいくが、じっくり相手に考える暇を与えるような書面での裁判なら苦しい。
 たとえば、ソクラテスの場合なら、告発者に「お前のような不信心な者は地獄へ落ちてハーデスのもとで永遠の責め苦を受けるのだ」と言われれば、それまでなのである。それと同様、ゴルギアスの場合も、ヘレネは夫や祖国を嫌い、パリスとともに逃げ出したのだ、という可能性をもちだされると、それがなぜありえないことなのかについて別の弁論をしなくてはならなくなる。

 

 「さて、[A]もし第一の原因によるのなら、責めている者こそ責められるに値する。神の予定を人間の予見によって妨げることは不可能だから。強いものが弱いものに妨げられるのではなく、弱いものが強いものに支配され導かれること、つまり、強いものが導き弱いものが従うのが自然となっている。力でも知恵でも他の点でも、神は人間より強い。さて、もし偶運や神に責め(原因)を帰すべきならば、ヘレネを悪名から解放すべきである。」(『ソフィストとは誰か?』納富信留、2006、人文書院、p.141)

 

 偶然の意図や神の思慮は、いわゆる不可抗力による抗弁と言えよう。今でも予期不能の圧倒的な自然の力による災害とみなされれば、免責される。また、外からの力だけでなく、精神が何らかの自然の力によって正常に働いてなかった場合、いわゆる心神喪失も同様、免責される。
 同様に、ヘレネのトロイア出奔が、神によって操られていたか、何らかの神々の策略によるものだとしたら、免責されなくてはならない。神話の上では、これはアフロディテの策略によるものだった。つまり、アフロディテはヘレネの美しさに嫉妬したのだ。
 そのためヘレネはパリスに従うように魔法をかけられていた可能性がある。神話的にはそうだが、現実にはヘレネが心神喪失か心神耗弱状態で、何か狂信的な妄想に陥ってパリスに従ったということになるだろう。

 

 「また、[B]もし彼女が力ずくで連れ去られた不法に強いられて不正に暴行されたのなら、明らかに連れ去って暴行した男が不正を犯したのであり、連れ去られた暴行された女は不運だったのだ。さて、言論でも法律でも行為でも、野蛮な試みを試みる野蛮な男は、言論では責めを法律では名誉剥奪を、行為では罰を受けるに値する。強制され祖国を奪われ愛するものから引き離された女が、悪く言われるよりむしろ哀れまれるのが、どうしてもっともでないことがあろうか?男は恐るべきことを為し、女は受難したのだから。したがって、女に同情を寄せ、男を嫌悪するのが正しい。」(『ソフィストとは誰か?』納富信留、2006、人文書院、p.141~142)

 

 抗し難き内なる自然の力は心神喪失にかぎらず、正常な状態でも自己保存の本能に逆らえないことは、法律の認めるところである。つまり自分の生命が脅かされたときの正当防衛や、脅迫による行為は免責される。

 

 「[C]もし言論が説得して魂を欺いたのなら、これに対して弁明をなし、責め(原因)を次のように解消するのも難しくはない。言論は大いなる権力者であり、もっとも微細でもっとも目にとまらない肉体で、もっとも神的な行為を完成する。それは恐れを止め、苦しみを取り去り、悦びを作りだし、憐れみを増すことが出来るからだ。これがその通りだと、私は示そう。聴衆には思いで示すべきである。」(『ソフィストとは誰か?』納富信留、2006、人文書院、p.142)

 

 言論によって騙されてというのは、程度にもよるだろうけど、多少の情状酌量があるくらいで、無罪とは言い難い。これを抗し難き力、つまり不可抗力とみなすのは無理があるように思える。  しかし、いかにも納得がいくような例を並べた後に、それを若干拡大解釈してそれよりも弱い例を挙げると、多くの人に、今までの延長線上のものだという錯覚を与える。それは一つの弁論のテクニックと言えよう。  クセノフォンの『ソクラテスの思い出』に記されている、若きアルキビアデスが老いたペリクレスをやり込めたやり口も、それに類する。

 「ですが、衆民でなく、寡頭政治の国で見るように、少数の人々が集まってこれこれの行為をすべしと明文に書いたのは、これはなんですか。」
 「国家の主権者が熟考して、そしてこれこれの行為をすべしと明文にしたものは、すべて法律と呼ばれる。」
 「では民王(チュランノス)が国家の主権者であって、市民のなすべきことを決めて明文にしたのは、これも法律ですか。」
 「民王の明文として宣布するものも、これも法律と呼ばれる。」
 「圧制と無法とは、これはなんですか、ぺリスレース。強者が弱者に対して自分の好きなことを、説明を用いないで強制的に強いることではないんですか。」
 「まあそうだね」とペリクレースが云った。
 「そうすると、民王が国民を説得しないで行為を強制する明文を宣布したら、これはみな無法ですか。」
 「そうだね、私は民王が説得を用いないで明文にして出したものは法律であるとの答を取り消そう。」
 「少数のものが多数のものを説得を用いないで強制する法文を出したら、我々はこれを圧制と云っていいのですか、いけないのですか。」
 「人が他人に説得を用いないで行為を強制するのは明文にしてあろうとなかろうと、いずれも圧制であって法律ではないと私は思う。」
 「そうすると、全民衆が資産家たちに対して権力を持ち、説得しないで法文を作ったら、これも圧制であって法律ではないのですね。」(『ソークラテースの思い出』クセノフォーン、佐々木理訳、1953、岩波文庫、p.40~41)

こうして、一人あるいは少数の独裁者の圧制を拡大解釈して、いつのまにか全民衆の総意に基づくものまで圧制だと言いくるめてしまうのである。

 

 「私は、詩とはすべて韻律を伴う言論であると考え、そう呼ぶ。詩を聴く人々には、恐れによる震えと、涙が溢れる憐れみと、嘆きに満ちた憧れが侵入してくる。他の者たちの行為や肉体の幸運や不成功について、言論によって魂は何か固有の受難を被ったのだ。
 では、一つの言論から別の言論に移ろう。言論によって神憑かった魅惑の歌は、快楽の誘惑者となり、苦しみを紛らわすものとなる。魂の思いと交わると、呪文の力は魅惑し説得してまじないによって魂を動かすのだから。魂を過たせ思いを欺く、呪いと魔術、これら二つの技術が発見された。(『ソフィストとは誰か?』納富信留、2006、人文書院、p.142)

 

 言論が抗し難い力の一つの例として、ゴルギアスはまず感情に訴えかける言葉を例に挙げる。  ところで、ここでいう詩というのは叙事詩のことで、今日我々が思い浮かべる一般的な「詩」のイメージではない。大体、今日の現代詩にそんなに心を動かされる人はいないし、現代詩のほうにも叙情性を否定するという、わざわざ感動のない詩を作ろうという運動もあるくらいだ。これはカントが感動を美の要素から排除したことによるものだろう。
 この頃一般に言われる「詩」は、今日で言えば様々な物語の類と解釈したほうがいい。たとえば、小説や漫画や映画やテレビドラマやゲームの影響ということを考えたほうがわかりやすい。
 こんなことをいうと漫画やテレビやゲームは問題だが小説や映画はいいじゃないかと言う人もいるかもしれないが、小説や映画だってピンからキリまである。ポルノもあれば暴力が売りのものもある。その逆で、漫画やゲームでも名作はたくさんある。
 媒体は違っても、人が物語の影響を受けやすいのは昔も今も変わりない。漫画やゲームにも暴力シーンはあるが、こうしたもののなかった時代でも、子どもたちは戦争ごっこやちゃんばらごっこをやり、今と変わらず暴力的だったし、当然いじめもあった。
 ポルノがなかった時代でも、猥談を好むのは人の常で、純真な民族学者が時折それを真に受けて、この民族ではセックスが自由奔放に行われているなどと誤報を出したりする。暴力的な物語、扇情的な物語はどんな民族にも存在するものだ。
 物語は、書物がまだ高価で万人の手に入らぬ時代では、叙事詩という形で口承で語り継がれることが多かった。なぜ叙事詩かというと、韻律やメロディー(節)があった方が覚えやすいからだ。日本ではなぜか「物語文学」に分類されているが、平家物語や太平記はもとより浪曲に至るまで、叙事詩の長い歴史があった。その中には、

    いかやうな恋もしつべきうす霙
 琵琶をかかえて出る駕物       芭蕉

という句もあるように、琵琶法師は軍記物だけでなく恋物語もしたようだ。
 結局人間というのはいつの時代も変わらないのだろう。60年代に漫画がはやると、漫画は青少年に悪影響を与えるといい、90年代にテレビゲームがはやれば、同じようなことをいう人たちが出てくる。しかし、19世紀のヨーロッパで印刷技術が発達し、大量の小説類が流通するようになると、当時の識者は小説の悪影響を説いて回ったりした。プラトンが詩(叙事詩)を否定したのも、それと同じに考えたほうがいいのかもしれない。
 しかし、いくら物語が人の心を動かし、行動に影響を与えるとはいえ、物語と現実の区別は誰しもつくものだし、冷静な判断は可能であり、物語が抗し難い力として人の行動を拘束するわけではない。したがって、いくら物語が深い感動を与えたとしても、不可抗力の主張には無理がある。

 

 「どれほど多くの人々がどれほど多くの人々をどれほど多くの事柄について、偽りの言論をでっち上げることでこれまで説得し、現に説得しているのか。もしすべての人々がすべてのことについて、過ぎ去ったことの記憶と現に起こっていることの〈考え〉とこれから起こることの予見を持つのなら、言論は同じような仕方で同じようではなかっただろう。だが今、過ぎ去ったことを記憶し、現にあることを探求し、これから起こることを予言することは、順調にはいかない。その結果、もっと多くの事柄についてもっとも多くの人々が、魂の忠告者として思いを提供するのだ。しかし、思いはよろめき不確かなので、それを用いる人々に、よろめき不確かな幸運を投げかける。」(『ソフィストとは誰か?』納富信留、2006、人文書院、p.142~143)

 

 実際、人を悲惨な道に駆り立てるものは、他愛のない庶民の物語などではなく、学問の名を借りた思想や情報操作であることのほうが多い。特に歴史の捏造は罪が大きい。それは、人というのは過去の情報をもとに現状を捉え、未来を予測して行動するからだ。その重要な判断材料である過去についての情報が意図的に捻じ曲げられ、嘘を信じ込まされていれば、必ず未来への行動の選択を誤ることになる。
 たとえば、日本が過去に起こした事件を、様々に言葉巧みにそれをなかったようにすれば、よその国の人が理由もなく一方的に日本を逆恨みしているように錯覚させることができるし、そのようなけしからぬ国を征伐せよという世論を作り出すことも不可能ではない。
 もちろんその逆もありうる。日本政府がかつて起こした事件の残虐さをことさら誇張して語り、政府に不信感を抱かせ、政府の転覆を企てる運動に参加させることも不可能ではない。
 しかし、誰もがそのような情報に対して盲目なわけではない。人は与えられた情報をすべて不可避的に信じ込むわけではなく、自分で判断することは可能である。それゆえ、思想や情報操作による過ちも、必ずしも不可抗力とは言い難い。

 

 「ちょうど暴力的な者が暴力によって連れ去るように、同じように讃歌が意思に反するヘレネに赴くことを妨げるどんな原因があろうか?知っている者が強制力は持たなくとも、それと同じ力を持つのなら、理性は説得を許すことになるからだ。それは、説得する言論が説得される魂を強制し、語られたことに従わせて、為されたことに合意させるからだ。説得する男は強制することで不正をなし、説得される女は言論に強制されたので、空しくも悪く言われたのだった。」(『ソフィストとは誰か?』納富信留、2006、人文書院、p.143)

 

 言論が不可抗力に近い力を持つことは、もちろん不可能ではない。いわゆる洗脳だとか、マインドコントロールと言われるものがそれだ。これは言論を信じ込ませるために、何らかの脅迫を用いる。そのため、純粋に言論が力を発揮するのではなく、言論を信じ込ませる際の暴力の問題だ。いわば暴力と言論との複合技だ。
 ヘレネがもちろんパリスによって偽情報を信じ込まされたり、それを情感に訴えたり、あるいは脅しを用いて洗脳まがいのことをして連れ出された可能性はある。だとすれば、同情の余地はある。
 特に、ここでヘレネを裁くのは法律ではない。あくまでコスモス(整いしもの)だ。ヘレネの「肉体にとっての美」は既に述べられている。残る、「魂にとっては知恵、行為にとっては徳、言論にとっては真理」について、ヘレネがただ抗し難い力によって間違った情報を真理だと信じ込み、知恵と徳とをもって行動した結果だとすれば、コスモスには反しない。

 

 「説得が言論に歩み寄り、魂を望む仕方で形づくることについては、第一に天文学者の言論を学ぶべきである。彼らは一つの学説(思い)に対置して一つを取り除き別のものを作り出して、信じがたく不明瞭なことを思いの目に現出させるのだ。第二に、言論をつうじての強制的な「法廷」闘争があり、そこでは真理で語られるのではなく技術で書かれることで、一つの言論が多くの大衆を悦ばせ説得する。第三に、哲学的言論の闘争があり、そこでは変化しやすい知性の速さも思いの信念を作ることが示される。」(『ソフィストとは誰か?』納富信留、2006、人文書院、p.143)

 

 ゴルギアスの出身地であるシチリア島は、南イタリアのピタゴラスやパルメニデスの影響を受け、数学や論理学が盛んだった。こうした風土はおそらくそれ以前から、エジプトの高度な数学や天文学の影響を受けていたからだと思われる。
 その中には実証的なものもあっただろうが、中には新奇な説を唱えて人々を惑わす連中もいたのだろう。クセノフォンによるとソクラテスも天文学には懐疑的だった。天文学は本来実証的な科学として、天体の運行で季節の変化を予測し、治水をはじめ、農業の生産性向上に不可欠なものだった。しかし、天体現象の正確な観測や計算は素人の手に及ぶものではなく、一部の専門家に独占されてしまえば、普通の人は専門家の言いなりにならざるを得なくなる。こうした権力をかさに、怪しげなことを言う者もいたのだろう。
 第二の法廷弁論も、ゴルギアスは若い頃からいやというほど経験してきたことだろう。物的証拠のほとんどない古代の裁判では、言葉巧みに言いくるめたほうが勝ちとなる場合が多い。
 証拠品などはいくらでもでっち上げることができるし、証人なんてのもちょっと金を握らせればいくらでも作れる。そんな中で、正しいことを言っているだけでは勝てない裁判を何度もかいくぐり、その中で人を説得する様々な論法、泣かせたり笑わせたり情感に訴える巧みな話術、人々の記憶に焼き付ける印象的なフレーズ、心に残る独特な節回し、巧みなライミングスキルを身につけ、それがゴルギアスを弁論術の大家にのし上げたのだろう。
 だが、アテナイではパピルスの紙の普及により、弁論を口頭で即興で行うのでなく、あらかじめソフィストに原稿を書かせて読み上げることが多くなった。ゴルギアスの高弟の一人であるイソクラテスもそうした原稿代筆屋で、自ら法廷に立つことはなかった。即興での口頭弁論を得意としたゴルギアスにしてみれば、嘆かわしい現象だったのかもしれない。
 哲学的言論にしても、あるものをないと言いくるめたり、ないものをあると言ったり、いくらでも可能である。この時代にギリシャ人は、すでにカントの言うような理性に限界があること、理性が必ず矛盾に陥るということを、知っていたのだろう。そこからソフィストたちの相対主義が生まれた。しかし一方で、カントが、理性の矛盾が、あくまで経験的に実証できる範囲を超えた場合のみに限られているのを知っていたように、相対主義の中から実証科学を救い出さなくてはならなかった。そこから、プラトンやアリストテレスがソフィストたちと決別し、いわゆる哲学(フィロソフィー)を確立することとなった。

 

 「言論の力が魂の秩序に対して持つ比率は、薬の調合が身体の本性に対して持つ関係と同じである。ちょうど、異なった薬が異なった体液を身体から放出し、ある薬は病気を別の薬は生を止めるように、そのように、ある言論は苦しみを別の言論は悦びを、また別の言論は恐れを与え、ある言論は聴衆を勇気に向かわせ別の言論は何らかの悪しき説得によって魂に呪いをかけ誤魔化すのである。」(『ソフィストとは誰か?』納富信留、2006、人文書院、p.143~144)

 

 言論(書かれたものを含む)の力を、処方の仕方によって毒にも薬にもなるパルマケイアー(薬/毒、英語のファーマシーの語源)にたとえる言説はプラトンの『パイドロス』にも見られる。言論の力はそれゆえ、処方の仕方が大事であり、そのためには言論はコントロールされなくてはならない。つまり、何が善なのか、何が徳なのか、何がコスモスなのかを問わなくてはならない。
 ゴルギアスは確かにその問いの入り口までは来ていた。そこから先に進むのは、イソクラテスとプラトンに課せられた課題だった。

 

 「さて、彼女がもし言論に説得されたのなら、不正を為したのではなく運が悪かったのだということは、すでに語られた。他方で、第四の原因は第四の言論で述べていこう。
 [D]もしこれらすべてを為したのが愛であれば、起こったと語られている過ちの原因(責め)を彼女は難なく逃れたであろう。私たちが目にするものは私たちが望む本性を持っている訳ではなく、それぞれがたまたま持っている本性を持つに過ぎないのだが、魂は視覚をとおしてそのあり方においても形づくられるからだ。」(『ソフィストとは誰か?』納富信留、2006、人文書院、p.144)

 

 しかし、神の力や暴力や言論によって言いくるめられた可能性というのは、全古代ギリシャの何万人という叙事詩ファンにとってはどうでもいい議論だっただろう。彼らの関心はやはりヘレネとパリスとの間に何があったかだ。つまり、ヘレネはパリスに恋をし、不倫に走ったのではないかという疑惑だ。  そういうわけで、ここで不可抗力の抗弁は、必然的に愛にも及ぶ。それには、恋愛感情が自分ではコントロールできない大きな力によって支配されていることを証明しなくてはならない。自分で制御できるものであれば、恋愛感情は不可抗力にはならない。これまでの三つの過程についての抗弁はいわば、この議論のための前提にすぎないと言ってもいいだろう。
 恋愛感情が不可抗力であることの証明に、ゴルギアスは感情一般の不可抗力を証明することから始める。これは三段論法の大前提に当たる。つまり、

 およそ感情は不可抗力である。
 恋愛感情は感情である。
 ゆえに、恋愛感情は不可抗力である。

というふうにもってゆくのである。
 そこで、まず感情はどのように生じるかから始める。
 

 「まず、敵対的な肉体が敵対的なものに向けて、青銅と鉄によって、つまり、撃退と防御により敵対的な整いを武装する場合に、もしそれを視覚が見たら惑わされ魂を惑わすだろう。その結果、人々はしばしばこれから起こる危険に驚いて逃げ出すのだ。法の真理は、視覚に由来する恐れによって力強く宿されているが、その視覚がやってくると、法によって制定された美と、正義によって生じた善とを、悦んで受け入れさせるからだ。」(『ソフィストとは誰か?』納富信留、2006、人文書院、p.144)

 

 まず、恐れがどのように生じるかだが、これは単なる恐怖というだけでなく、畏怖や威厳にも結びつくもので、ポリスの秩序の維持に欠かせないものとしている。
 たとえば、青銅や鉄の鎧や槍は、単に実用に耐えればいいというものではない。それは同時に、戦わずして相手に恐怖を与えるべく、その力強さ、物々しさを強調するデザインを必要とする。つまり、その武器防具の美においても、敵を圧倒する力がなくてはならない。
 生物学的には、これはアモツ・ザハヴィの「ハンディキャップ理論」で説明できるかもしれない。つまり、みすぼらしい防具はそれがいかに実用的にすぐれていても、相手が貧乏で、兵糧もろくになく、楽に勝てるのではないかと思わせてしまう。磨かれてない防具もまた、相手の余裕のなさを思わせる。鎧兜に立派な飾りをつけ、いつでもぴかぴかに磨き上げるだけの余裕があるということで、相手に自分の強さをアピールしているのだ。
 戦争は装備や人数や物量だけで決まるものでなく、心理的に優位に立つことが、つまり必ず勝って生きて帰れるという確信を持たせることが重要であり、負けて死ぬ恐怖が部隊に広がると、大軍であっても兵は総崩れになって逃走を始めてしまう。それが昔の白兵戦の常だ。だからこそ、昔の武具は総じて華美に作られている。つまり、相手の視覚に訴えて、魂を惑わす必要があったのである。

 

 「そして、人々は恐ろしいものを見てしまうと、現時点で現にある心を追い出して、そのように、恐れは思いを消し去り追い払う。そして多くの人々は無益な苦しみや恐ろしい病気や癒しがたい狂気に陥って、そのように、目にされた事物の影を、視覚が心に中に書き込むのだ。まだ、多くの恐ろしい物事が語り残されているが、語り残されたものは語られたものに似ている。」(『ソフィストとは誰か?』納富信留、2006、人文書院、p.144)

 

 実際に強いかどうかは別にしても、華麗に装飾され、磨き上げられた武器防具は、ポリスの法に逆らおうとする肉体的欲求を萎縮させ、法に従わせる効果がある。
 人の心は、見かけから何らかの感情を引き起こし、それによって今まであった考えを追い払い、考えを変える。
 これは軍隊の恐怖に限らず、病気や狂気にも同じものを感じる。特に伝染病の感染のメカニズムなどの科学的な知識のない場合は、ちょっとした病気の兆候にも敏感に反応する。ハンセン氏病やエイズ患者がいわれのない差別を受けたりするのもこれによるもので、原爆病も医学に無知な人々から伝染病と勘違いされ、被爆者は長い間差別や偏見と戦わなくてはならなかった。
 狂気についても、医学に無知な大衆は、精神病院の通院歴があると聞いただけで、今にも包丁を振り回して襲い掛かってくるかのような妄想に取り付かれ、何で隔離しないのかと怒り狂う。
 こうした差別感情は、恐怖の感情に取り付かれ、冷静な判断を失うことによって生じるため、ひとたび生じてしまうと説得が困難になる。
 ゴルギアスも裁判の場で、何度もこうした理性を失って、いわれのない罪を告発する人々の姿を見てきたのだろう。ソクラテスの場合も、単なる議論好きの偏屈な爺さんを死刑にすることは難しいが、神の声が聞こえると称し、ポリスの法や神々を無視して自分が独裁者になろうとしていると言いくるめれば、大衆を扇動するのは容易だった。実際はどちらでもなく、その中間だったのだろう。

 

 「しかしながら、画家は多くの色と物体で一つの物体と形を最終的に完成する時に、視覚を悦ばせる。また、彫像の制作や神像の完成は、両目に快い病いをもたらし、そのように、あるものは本性から視覚を苦しめ、別のものはそれを欲求させる。多くの事物が多くの人々に、多くの事物や肉体への愛と欲求を作りこむのだ。」(『ソフィストとは誰か?』納富信留、2006、人文書院、p.145)

 

 病気や狂気の見かけに惑わされて、病人の排除や殺害に突っ走る大衆は恐いが、そうではない快い病もある。芸術のもたらす快楽がそれで、まさに「快い病い」だ。
 絵は単なる絵の具の染みにすぎないし、彫刻は単なる石の塊にすぎないのだが、人はその視覚にだまされて、そこに美と至福を見出す。
 このように、人間は見かけから様々な感情を引き起こす。今日でも二次元キャラに欲情するたくさんの男たちの姿を見ることができるように、見かけは性的欲望をも生み出す。

 

 「そして、もしアレクサンドロスの肉体によってヘレネの目が悦びを感じ、愛の熱情と闘争を魂に与えたとしても、なんの驚くべきことがあろうか?もし愛が神であり、神々の神的な力を持つとしたら、か弱いものが彼{愛}を退け、それから身を守る力をどうして持ち得ようか?他方、もし愛が人間的な病いであり魂の無理解に過ぎないとしたら、それは過ちとして非難されるべきではなく、不運と見なされるべきである。彼女が{トロイアに}赴いたのは、魂が罠にかかって赴いたのであって、知性の意図によるものではない。愛の強制力によってであり、技術の手管によってではないのだ。」(『ソフィストとは誰か?』納富信留、2006、人文書院、p.145)

 

 「アレクサンドロス」というのはパリスの生まれたときの名前、ウィキペディアによれば、アレクサンドロスは後n災厄の種になるという占い師の助言によってイデ山に捨てられ、そこで羊飼いに拾われ、パリスという名で育てられたという。
 そのパリスの見かけ(ルックス)によってヘレネが恋に落ちたと考えるのは、多くの人の想像するところだっただろう。しかし、それは世間の通念では単なる「よろめき」であり、有罪と見なされる。
 これを無罪にするには、見かけに人がだまされ、強烈な感情を引き起こすことが自然なことであり、それは一種の不可抗力であるということと、しかもこの力が軍隊の武器防具の与える畏怖の感情のように、ポリスの法の維持に欠かせないことだということを示す必要があった。つまり、見かけによって引き起こされる感情は「コスモス」なのである。
 最初に戻ってみよう。

整いし様コスモスとは、ポリスにとっては武勇、肉体にとっては美、魂にとっては知恵、行為にとっては徳、言論にとっては真理であり、それらの反対は、整わぬ様である。男でも女でも、言論でも事柄でもポリスでも行為でも、称賛に値するものは称賛によって誉め讃え、値しないものは非難すべきである。称賛すべきを非難し、非難すべきを称賛することは、等しく過誤であり、無知であるのだから。」(『ソフィストとは誰か?』納富信留、2006、人文書院、p.140)

 つまり、軍隊が華美な武器防具を身につけることは「ポリスにとっては武勇」であり、称賛に値する。そこであらためて、「コスモス」が宇宙を意味するとともに、「見かけを取り繕う」というもう一つの意味があったことを思い起こす必要があろう。つまり、パリスの肉体の整った見かけ(コスモス)に感情を突き動かされ、不可避的に恋に落ちたことはコスモスにかなうものであり、称賛しなくてはならない。
 かくして、ヘレネが巷で言われているように、パリスの美しさに目がくらんで不倫に走ったという説もまた、コスモスに反しないものとなる。このあたりの伏線の使い方、無実を勝ち取るための弁論の構成、それがゴルギアスの弁論の真髄でありコスモス(両方の意味で)といってもいいだろう。

 

 「[結論]」
 さて、ヘレネへの非難をどうして正当と考えるべきなのか?もし[D]愛によって捉えられてか、[C]言論によって説得されてか、[B]力ずくで連れ去られてか、[A]神的必然によって強制されて、彼女が為したことを為したのなら、どの場合でも責め(原因)を免れているのだ。
 私は言論によってこの女の悪名を取り除き、言論の始めに立てた法を守った。つまり、私は非難の不正と思いの無知を解消するように努めた。私はこの言論を、ヘレネにとっては頌歌として、私にとっては遊びパイディアとして書こうと思ったのだ。」(『ソフィストとは誰か?』納富信留、2006、人文書院、p.145)

 

 さて、こうして、四つのケースを仮定して、いずれも不可抗力であることを述べ、いずれの場合も最初に立てた法、つまりコスモスにかなうものは褒め称えよという法にのっとって無罪を主張した。
 さて、誤解してはいけない。これで裁判が終わったわけではない。別にゴルギアスがこういったからといって、ヘレネの無罪が確定したわけではない。知っての通り、裁判というのは両方の立場の弁論が行われ、最後に裁判官の判決が下るまでは終わったわけではない。
 この場合、原告はヘレネの不倫を非難する巷の人々、それに対してゴルギアスは弁護を展開した。終わったのはここまでである。この後、読者が陪審員となって、表決をしなくてはならない。つまり、判決は結局読者一人一人が下すものなのである。ゴルギアスが裁判官なのではない。
 最終的な結論は、それゆえこのテキストでは示されない。それゆえ、この弁論は単にヘレネを褒め称える頌歌にすぎない。元々登場人物は神話のキャラにすぎず、そのモデルが実在したにしても、とっくにこの世を去っている。当然物証も何もないし、判決が下ったにしても刑罰を科すことはできない。つまり遊びパイディアなのである。
 しかしこれだけの結論で締めくくってもつまらないだろう。
 ゴルギアスが言いたかったのは、現実に行われている裁判も、結局さしたる物証もなく、真実ははっきりしない。ただ、ソフィストたちが互いに自分たちのコスモス(整ったもの、見せかけの整い)を主張しあう。それだけだ。本当は何もない、あったとしても知ることができない、知ることができても伝えることができない、ということではなかったか。つまり、現実の裁判も、神が見たなら単なる遊びにすぎないのである。