「春澄にとへ」の巻、解説

延宝九年秋

初表

   鳫にきけといふ五文字をこたふ

 春澄にとへ稲負鳥といへるあり  其角

   ことし此秋京を寐覚て    才丸

 月を連に㘴烏帽子をかぶる也   揚水

   笹に徳利を折かたげしや   桃青

 おぼこさす川添草の葉をしごき  才丸

   卑シ山-路に銭とらせきる     其角

 夕こゆる関をかますにかくれ来て 桃青

   夜盗松風の音を合図に    揚水

 

初裏

 雨の闇にすけて敵を討せたる   其角

   舞臺に柴の庵しほり戸    才丸

 とひやう仁うは気より世を驚て  揚水

   犬切つて其聲のかなしく   桃青

 ねざま侘て雪の炉に根深温ル   才丸

   あらしはいづく帳の紙室   其角

 女の影帰ると見えて跡すごく   桃青

   若衆気にしてやつれ凋るる  揚水

 ストント。茶入落しては命とも  其角

   とりあへず狂哥仕る月    才丸

     秋の末つかた嵯峨野を

     とをり侍りて         揚水

   薄の院の御陵をとふ     桃青

 兎飼舎人は花に隠るめり     才丸

   子丑の番を寅に預ヶて    其角

 

 

二表

 渾沌翠に乗て気に遊ぶ      桃青

   朝咲しらむ馬鹿馬鹿の山   揚水

 雲の別れ女房に髭のある有けり  其角

   吉原君をぬすみいざなふ   才丸

 棒軍勇やつふせぎ止まつて    揚水

   つきうすの陰より杵に弦引  桃青

 富の屋を徳明王の守ります    才丸

   摩訶右衛門苦奈国に生ル   其角

 愛ヲ捨子ヲ捨○毗盧遮那阿毗羅吽  桃青

   嵐と落て風はやり吹     揚水

 夜の食乏しくね覚ける比は    其角

   蚯の音さへ耳に腹だつ    才丸

 月の秋うらみはこべの且夕て   揚水

   露にしがらむ妹が落髪    桃青

 

二裏

 物いふて鏡に㒵の残り見えよ   才丸

   絵と酒もりの興尽て泣ク   其角

 小袖かす木枕に帯さうぞきて   桃青

   納戸の神を齋し祭ル     揚水

  煤掃之礼用於鯨之脯       其角

   やとひの翁歯朶刈に入    才丸

 風いたく牛さへ氷る也けるに   揚水

   荒屋に馬の枯屎をたく    桃青

 慄しと白骨のかね付て居たる   才丸

   曽呂利新話を読に夜長し   其角

 禅小僧とうふに月の詩ヲ刻ム   桃青

   雷盆鳴て芭蕉には風     揚水

 花の今朝駅に羊を直切る也    其角

   楼にわらぢをつるす比春   才丸

 

 

三表

 所帯わび息はこぞの雪を掃    揚水

   箕を着て寒く雀とるらん   桃青

 凩のからしの枝に藁干セル    才丸

   山彦嫁をだいてうせけり   其角

 忍びふす人は地蔵にて明過し   桃青

   木槿のまなじり木瓜の唇   揚水

 細殿に鬼灯の燈籠照したる    其角

   をどり狩衣の裾にたつ波   才丸

 酒の月お伽坊主の夕ばへて    揚水

   真桑流しやる奥の泉水    桃青

 河骨の葉にほれ哥を書やつす   才丸

   ほむらにたえで虵児と化   其角

 筑地ある根車引止       桃青

   天火〻闇金堀尊       揚水

 

三裏

 蜆江の磯等岸等は白波に     其角

   青海苔うたひ蟹琴を弾    才丸

 花の苫屋芝に旅泊を賞る     揚水

   月に秋とふ東-金の僧       桃青

 淋しさを蕎麦に露干す豆俵    才丸

   夕顔重く貧居ひしげる    其角

 桃の木に蝉鳴比は外に寝ミ    桃青

   枕の清水香薷散くむ     揚水

 夢の身を何と鰹にさめかねて   其角

   我○俗は口にきたなき    才丸

 生づらを蹴折かれては念無量   揚水

   泥坊消て雨の火青し     桃青

 草の奥下妻が原にくれかかり   才丸

   狄の里の足あらひ鍋     其角

 

 

名残表

 配所人芦の小着布を干かねて   桃青

   あらめの茵辛螺を枕と    揚水

 心地やむ鯛に針さす生小船    其角

   まれに尾だきを出し山老   才丸

 麦星の豊の光を覚けり      揚水

   勅使芋原の朝臣蕪房     桃青

 秋を啼烏の鳥を迎へせし     才丸

   夏やきのふの郭公さに    其角

 津の国の生田の森の初月夜    読人不知

   道さまたげに乞食塒す    揚水

 霜下て更行里の粥配       其角

   寺〻の納豆の声。あした冴  才丸

 よすがなき樒花売の老を泣    揚水

   団炭荷ふて小野に帰りし   桃青

 

名残裏

 臑をぞ洗ふ朧の清水影迚は    其角

   茂みがくれに牛逃したる   才丸

 竹の戸を人待下女が寐忘れて   揚水

   打ぞつぶてに恨み答へよ   桃青

 涙のみすほんすほんと鳴をれば  才丸

   千とせをくさる水の埋木   其角

 葉伝ひて寸龍花に登るかと    桃青

   如泉法師が春力あり     揚水

 

       『校本芭蕉全集 第三巻』(小宮豐隆監修、一九六三、角川書店)

初表

発句

 

   鳫にきけといふ五文字をこたふ

 春澄にとへ稲負鳥といへるあり  其角

 

 春澄は延宝六年秋から冬にかけて江戸に滞在し、桃青、似春とともに「のまれけり」の巻、「青葉より」の巻、「塩にしても」の巻の三歌仙を巻いている。

 一方、延宝五年冬から翌六年春まで「あら何共なや」の巻、「さぞな都」の巻、「物の名も」の巻の「桃青三百韻」に参加した信徳は、京で百韻七巻と五十韻一巻の『俳諧七百五十韻』を刊行した。この時に、春澄も参加して、第五百韻の発句を詠んでいる。その句が、

 

 鳫にきけいなおほせ鳥といへるあり 春澄

 

だった。

 「いなおほせ鳥」はコトバンクの「日本大百科全書(ニッポニカ)の解説」に、

 

 「古歌に多く詠まれた鳥の名。稲刈りどきに飛来する秋の渡り鳥といわれるが、古来不明とされ、具体的になんの鳥をさすか明らかではなく、古今伝授(『古今和歌集』の解釈の秘伝)の「三鳥」(百千鳥(ももちどり)、呼子鳥(よぶこどり)、稲負鳥(いなおおせどり))の一つとされている。一説にセキレイともいうが、またクイナ、スズメ、タマシギ、トキ、バンなどにあてる諸説もある。命名の由来も一定せず、「おほせ」は「課(おお)せ」の意味で、稲刈りを催促する意から、また「おほせ」は「負はせ」で、稲を刈り人に背負わせる意から、また鳥の姿が稲を背負っているのに似ているところから、あるいは日本に稲の種をもたらしたという言い伝えから、などとする諸説がある。[藁科勝之]」

 

とある。

 

 わがかどにいなおほせ鳥の鳴くなへに

     けさ吹く風に雁は來にけり

              よみ人しらず(古今集)

 

の歌に詠まれていて、謎とされている。後に賀茂真淵は「にわたたき(セキレイ)」だとしている。

 春澄の句は、この古今集の歌を踏まえ、謎とされているいなおほせ鳥は、雁なら知っているのではないか、雁に聞け、とする。

 これに対し、其角はこの句を軽くいじって、そんなこと言わず春澄、おまえ答えろよ、とする。其角がというよりは、雁の気持ちに成り代わって、というところだろう。

 

季語は「稲負鳥」で秋、鳥類。

 

 

   春澄にとへ稲負鳥といへるあり

 ことし此秋京を寐覚て      才丸

 (春澄にとへ稲負鳥といへるありことし此秋京を寐覚て)

 

 発句の雁に成り代わってということで、雁がこの秋京へ飛来して寝覚めたなら、春澄にいなおほせ鳥のことを聞いてくれ、となる。

 いなおほせ鳥に秋は、

 

 山田もる秋のかりいほにおく露は

     いなおほせ鳥の涙なりけり

              壬生忠峯(古今集)

 

の歌がある。

 

季語は「秋」で秋。

 

第三

 

   ことし此秋京を寐覚て

 月を連に㘴烏帽子をかぶる也   揚水

 (月を連に㘴烏帽子をかぶる也ことし此秋京を寐覚て)

 

 連は「つれ」と読む。「㘴」は「そぞろ」と読む。

 ことし此秋京で寐覚たら、月を連れ合いをして烏帽子を被りそぞろあるきする。

 別にそんな京の人が王朝時代みたいに烏帽子を被っているわけではないけど、江戸に住む者のイメージとして、京と言えば烏帽子を被ったお公家さんが歩いているはずだ、と思う。外国人が日本に行けば忍者がいると思うようなものだ。アメリカ人だってみんなカウボーイハット被ってるんだろっ、みたいな感覚。

 

季語は「月」で秋、夜分、天象。「烏帽子」は衣裳。

 

四句目

 

   月を連に㘴烏帽子をかぶる也

 笹に徳利を折かたげしや     桃青

 (月を連に㘴烏帽子をかぶる也笹に徳利を折かたげしや)

 

 酒は宮中の女房詞で「ささ」というんだろ、ということで、烏帽子を被ったなら貴族になりきって、「笹に徳利」と洒落てみる。

 

無季。「笹」は植物、木でも草でもない。

 

五句目

 

   笹に徳利を折かたげしや

 おぼこさす川添草の葉をしごき  才丸

 (おぼこさす川添草の葉をしごき笹に徳利を折かたげしや)

 

 『校本芭蕉全集 第三巻』に「おぼこ」はボラの幼魚、「川添草」は枝垂れ柳の異名とある。

 ただ、「おぼこ」は日本語のOとUの交替が頻繁に起こっているため、「うぶこ(生子)」から派生した「おぼこ」という言葉がある。コトバンクの「精選版 日本国語大辞典の解説」に、

 

 「① (形動) まだ世間のことをよく知らないために、すれていない男子や娘。うぶな男やきむすめ。また、そのようなさま。〔運歩色葉(1548)〕

  ※浮世草子・色道大皷(1687)二「旦那の機に入、よろづおぼ子にまだおとこがからきやらあまき物やら、しらぬとばかり」

  ② 女が、まだ男との肉体関係を知らないこと。男に接したことのない女。きむすめ。

  ※浮世草子・好色床談義(1689)三「しらぬふりして床に入しに、其品をおぼこにせんとつくろふおかしさ」

  ③ 髪を切り下げて結ばないでいる児童。また、その髪形。きりかむろ。〔浪花聞書(1819頃)〕

  ④ 赤児。〔御国通辞(1790)〕

  ⑤ 子供。幼児。〔物類称呼(1775)〕

  ⑥ 「ぼら(鯔)」の幼魚。〔古今料理集(1670‐74頃)〕」

 

とある。

 才丸も当然この両義性は知っている。

 酒の肴にボラの子を食べようと思い、柳の串に必要なので柳の葉をしごく。これが表の意味。

 もう一つは「ささ」という詞から宮中のおぼこ娘を想像し、まあ、あれをしごくわけだ。

 

無季。「おぼこ」は水辺。「川添草」は植物、草類。

 

六句目

 

   おぼこさす川添草の葉をしごき

 卑シ山-路に銭とらせきる     其角

 (おぼこさす川添草の葉をしごき卑シ山路に銭とらせきる)

 

 前句の下ネタをまず「卑シ」と咎めておいて(これは漫才の「つっこみ」のようなものだ)、そんな卑しい奴だから山路で山賊に銭をみんなやってしまった。前句を美人局とするわけだが、「恋」の言葉は使ってないので表六句でもセーフになる。

 

無季。「山路」は山類。旅体。

 

七句目

 

   卑シ山-路に銭とらせきる

 夕こゆる関をかますにかくれ来て 桃青

 (夕こゆる関をかますにかくれ来て卑シ山-路に銭とらせきる)

 

 「かます」は叺(かます)で、コトバンクの「精選版 日本国語大辞典の解説」に、

 

 「〘名〙 (古く「蒲(かま)」の葉で編み作ったところから「蒲簀(かます)」の意という)

  ① わらむしろを二つに折り、左右両端を縄で綴った袋。穀物、菜、粉などを入れるのに用いる。かますだわら。かまけ。

  ※書紀(720)大化五年三月(北野本訓)「絹四匹・布二十端(はたちはし)・綿二褁(ふたカマス)賜ふ」

  ② (①の形をしているところからいう) 油紙、皮などで作った小物入れの袋。多く、タバコ入れに用いる。

  ※洒落本・伊賀越増補合羽之龍(1779)仲町梅音「くゎい中のかますよりあいせんのみゑへいを出し見れば」

 

とある。

 関所破りのために叺の中に人を隠し、夕闇に紛れて通ろうとしたが。悪いそうなやつに見つかり口止め料で有り金全部巻き上げられた。

 山路に関は、

 

 足柄の関の山路をゆく人は

     知るも知らぬもうとからぬかな

              真静法師(後撰集)

 

の歌がある。

 

無季。旅体。

 

八句目

 

   夕こゆる関をかますにかくれ来て

 夜盗松風の音を合図に      揚水

 (夕こゆる関をかますにかくれ来て夜盗松風の音を合図に)

 

 叺に隠れて関を越えようというのは夜盗だった。

 関の松風は、

 

 逢坂の関の庵の琴の音は

     深き梢の松風ぞ吹く

              藤原家隆(建保名所百首)

 

無季。「夜盗」は人倫、夜分。「松風」は植物、木類。

 

初裏

九句目

 

   夜盗松風の音を合図に

 雨の闇にすけて敵を討せたる   其角

 (雨の闇にすけて敵を討せたる夜盗松風の音を合図に)

 

 夜討というと謡曲『夜討曾我』が思い浮かぶが、本説というほどの一致点はない。闇討ちというのは他にもありそうなことではある。

 松風に雨は、

 

 雨ふると吹く松風はきこゆれど

     池の汀はまさらざりけり

              紀貫之(拾遺集)

 

無季。「雨」は降物。「闇」は夜分。「敵」は人倫。

 

十句目

 

   雨の闇にすけて敵を討せたる

 舞臺に柴の庵しほり戸      才丸

 (雨の闇にすけて敵を討せたる舞臺に柴の庵しほり戸)

 

 芝居の一場面とし、舞台に柴の庵を配する。元ネタとなるそういう芝居があったのかもしれない。

 「しほり戸」は枝折戸でコトバンクの「精選版 日本国語大辞典の解説」に、

 

 「〘名〙 木や竹の小枝などの折ったものをそのまま並べて作った、簡素な開き戸。しおり。」

 

とある。

 

無季。「庵」は居所。

 

十一句目

 

   舞臺に柴の庵しほり戸

 とひやう仁うは気より世を驚て  揚水

 (とひやう仁うは気より世を驚て舞臺に柴の庵しほり戸)

 

 「とひやう仁」は突拍子もないことをする御仁ということだろう。「うは気」も今日の浮気だけでなく外の意味もある。コトバンクの「精選版 日本国語大辞典の解説」に、

 

 「① うわついて落ち着きのない性質や状態。心がうかれて思慮に欠けている状態。うわっ調子。

  ※甲陽軍鑑(17C初)品二七「分別うは気(キ)になられ、備へ尽(ことごと)く違い候故」

  ② 陽気で、はでな性質や状態。ぱっと人目につくさま。

  ※浮世草子・好色一代女(1686)二「傾城はうは気(キ)なる男をすけるによりて」

  ③ 気まぐれに異性から異性へと心を移すこと。決まった妻や夫、婚約者などがいながら、他の異性と恋愛関係を持つこと。また、そのさま。好色。多情。

  ※評判記・剥野老(1662)序「世の中いろにつき人のこころうわきになりたるより」

  〘名〙 かるはずみで、気持が移りやすいこと。軽率で浮わついていること。

  ※翁問答(1650)「その工夫には先(まづ)自満の浮気、名利の欲心をすて」 〔新書‐傅職〕

 

とある。今でいうADHDか。

 「驚(おどろき)て」は古語だとはっと気づく、目を覚ますの意味がある。さては舞台の上で突然発心を起こしたか。

 

無季。

 

十二句目

 

   とひやう仁うは気より世を驚て

 犬切つて其聲のかなしく     桃青

 (とひやう仁うは気より世を驚て犬切つて其聲のかなしく)

 

 急に犬か飛び出してきたので思わず切ってしまったのだろう。

 

無季。「犬」は獣類。

 

十三句目

 

   犬切つて其聲のかなしく

 ねざま侘て雪の炉に根深温ル   才丸

 (ねざま侘て雪の炉に根深温ル犬切つて其聲のかなしく)

 

 「ねざま侘て」は寒くて眠れなてということか。

 日本では仏教の影響が強く、四つ足の動物を食べることは稀だったが、犬を食べたという記録は存在していて、ウィキペディアに、

 

 「江戸時代に入ると、犬食は武士階級では禁止されたが、庶民や武家の奉公人には食されていた。17世紀の『料理物語』には犬の吸い物を紹介する記述がある。18世紀の『落穂集』には、「江戸の町方に犬はほとんどいない。武家方町方ともに、江戸の町では犬は稀にしか見ることができない。犬が居たとすれば、これ以上のうまい物はないと人々に考えられ、見つけ次第撃ち殺して食べてしまう状況であったのである。」としている。」

 

とある。

 この大道寺友山重祐(1639-1730)が享保12年(1727年)に発表『落穂集』巻十の「以前町方諸売買初之事」に、

 

 「武家・町方共に下々の給物(たべもの)に犬に増(まさ)りたる物ハ無之ごとく有之候ニ付、冬向に成り候へハ見合次第打殺し賞玩(しょうがん)仕るに付ての義と有之候也」

 

とある。

 お隣の国では夏に暑気払いで食べるようだが、日本では冬のものでネギと一緒に煮込んで食べたようだ。  師走には「薬食い」と言って鹿やイノシシを食べたというが、町に住む下層の者は犬を薬食いにしたのかもしれない。

 

季語は「雪」で冬、降物。「ねざま侘て」は夜分。

 

十四句目

 

   ねざま侘て雪の炉に根深温ル

 あらしはいづく帳の紙室     其角

 (ねざま侘て雪の炉に根深温ルあらしはいづく帳の紙室)

 

 「帳の紙室」は紙帳(しちゃう)のことだろう。コトバンクの「デジタル大辞泉の解説」に、

 

 「紙をはり合わせて作った蚊帳(かや)。防寒具にも用いた。《季 夏》「ちりの身とともにふはふは―かな/一茶」

 

とある。紙は風を遮るので防寒になる。ただ、外が見えなくなるので「あらしはいづく」となる。

 雪に嵐は、

 

 けさの嵐寒くもあるかな葦引の

     山かきくもり雪ぞふるらし

              よみ人しらず(後撰集)

 

の歌がある。

 

無季。「紙室」は居所。

 

十五句目

 

   あらしはいづく帳の紙室

 女の影帰ると見えて跡すごく   桃青

 (女の影帰ると見えて跡すごくあらしはいづく帳の紙室)

 

 紙帳は紙なので白いスクリーンになって、そこに今しがた起き上がった女の影が行燈の光に巨大な姿で映し出される。髪も乱れてたりするとかなり怖い。

 

無季。恋。「女」は人倫。

 

十六句目

 

   女の影帰ると見えて跡すごく

 若衆気にしてやつれ凋るる    揚水

 (女の影帰ると見えて跡すごく若衆気にしてやつれ凋るる)

 

 「気にする」はコトバンクの「精選版 日本国語大辞典の解説」に、

 

 「心配する。懸念する。気にかける。

  ※虎明本狂言・居杭(室町末‐近世初)「くるしうなひ、そっともきにするな」

 

とある。

 女はライバルの若衆のことが気になってすっかりやつれてしまった。BLに出てくるような当て馬女。

 

無季。恋。「若衆」は人倫。

 

十七句目

 

   若衆気にしてやつれ凋るる

 ストント。茶入落しては命とも  其角

 (ストント。茶入落しては命とも若衆気にしてやつれ凋るる)

 

 「ストント」はコトバンクの「精選版 日本国語大辞典の解説」に、

 

 「① 物がはずみをつけて、落ちたり、打ち当たったり、倒れたりする音、また、そのさまを表わす語。

  ※俳諧・俳諧次韻(1681)「ストンと・茶入落しては命とも〈其角〉 とりあへず狂哥仕る月〈才丸〉」

  ※坊っちゃん(1906)〈夏目漱石〉九「振りもがく所を横に捩ったら、すとんと倒れた」

  ② とんで身軽におり立つさまを表わす語。

  ③ はずみをつけて、軽く切り落とすさまを表わす語。

  ※歌舞伎・けいせい嵐山(1739)三段目「一念が頭へ上て有所を、すとんと切らるるが」

  ④ 数値などが急激に減少するさまを表わす語。」

 

とある。

 茶入は陶器製の茶壺で、高価な茶壺を砕いてしまったのだろう。是は見つかったら切腹ものだと若衆はやつれる。

 「ストント」はあるいは辻講釈の張扇の音か。

 

無季。

 

十八句目

 

   ストント。茶入落しては命とも

 とりあへず狂哥仕る月      才丸

 (ストント。茶入落しては命ともとりあへず狂哥仕る月)

 

 怒られるのを回避するために、何か気の利いた狂歌でも詠もうということか。

 

季語は「月」で秋、夜分、天象。

 

十九句目

 

   とりあへず狂哥仕る月

     秋の末つかた嵯峨野を  揚水

     とをり侍りて

 (秋の末つかた嵯峨野をとをり侍りてとりあへず狂哥仕る月)

 

 これは歌の前書きであろう。前句とつなげて、全体を狂歌の前書きとする。

 嵯峨野の月は、

 

 わしの山ふたたび影のうつりきて

     嵯峨野の露に有明の月

              寂蓮法師(続古今集)

 

の歌がある。

 

季語は「秋の末つかた」で秋。「嵯峨野」は名所。

 

二十句目

 

     秋の末つかた嵯峨野を

     とをり侍りて

   薄の院の御陵をとふ     桃青

 (秋の末つかた嵯峨野をとをり侍りて薄の院の御陵をとふ)

 

 随筆風に続きを作る。「薄の院」は架空のものと思われるが、嵯峨野には長慶天皇嵯峨東陵、後嵯峨天皇嵯峨南陵、亀山天皇亀山陵などがある。

 嵯峨野の薄は、

 

 誰かこむ憂きは嵯峨野の花薄

     秋の盛りと人招くとも

              藤原為家(夫木抄)

 

の歌がある。

 

季語は「薄」で秋、植物、草類。

 

二十一句目

 

   薄の院の御陵をとふ

 兎飼舎人は花に隠るめり     才丸

 (兎飼舎人は花に隠るめり薄の院の御陵をとふ)

 

 舎人(とねり)はコトバンクの「精選版 日本国語大辞典の解説」に、

 

 「① 天皇、皇族などに近侍し、雑事にたずさわった者。令制下では内舎人・大舎人・東宮舎人・中宮舎人があり、内舎人は貴族の子弟から、大舎人以下は下級官人の子弟または庶人から選任した。舎人男。

  ※古事記(712)序「時に舎人有りき。姓は稗田、名は阿礼」

  ② 授刀舎人寮および衛府の兵士。

  ※三代格‐七・延暦一四年(795)五月九日「衛府舎人係二望軍毅一、今廃二兵士一其望已絶」

  ③ 「ちょうない(帳内)」または「資人(しじん)」のこと。

  ※続日本紀‐和銅三年(710)七月丙辰「左大臣舎人正八位下牟佐村主相摸」

  ④ 貴人に随従する牛車の牛飼、馬の口取りなどの称。舎人男。

  ※宇津保(970‐999頃)俊蔭「とねり、ざうしきをばうちしばらせなどし給ふ」

  ⑤ 旧宮内省の式部職に置かれた判任の名誉官。他の宮内判任官と兼任し、典式に関する雑務に従事するもの。〔宮内省官制(明治四〇年)(1907)〕」

 

とある。

 ④のように牛や馬を飼うのを仕事とする舎人がいたことから、「薄」の宮には兎を飼う舎人がいたとする。

 薄の院は兎の引く車に乗るくらいだから小人で、その舎人も小人だから花に隠れる。西洋の妖精みたいだ。

 

季語は「花」で春、植物、木類。「兎」は獣類。「舎人」は人倫。

 

二十二句目

 

   兎飼舎人は花に隠るめり

 子丑の番を寅に預ヶて      其角

 (兎飼舎人は花に隠るめり子丑の番を寅に預ヶて)

 

 前句の「兎」から干支の子丑寅を付ける。

 これを無季とすると春一句で終わってしまう。

 かなり強引だが前句の「子丑寅」を歳旦として「翠」を木の芽で春とすれば春三句続けたと言えなくもない。

 

季語は「子」「丑」「寅」で春、獣類。

二表

二十三句目

 

   子丑の番を寅に預ヶて

 渾沌翠に乗て気に遊ぶ      桃青

 (渾沌翠に乗て気に遊ぶ子丑の番を寅に預ヶて)

 

 「渾沌」は「ぬぺつぽう」と読む。ウィキペディアには「ぬっぺふほふ」という名で、

 

 「ぬっぺふほふまたはぬっぺっぽうは、『画図百鬼夜行』や『百怪図巻』などの江戸時代の妖怪絵巻にある妖怪。顔と体の皺の区別のつかない、一頭身の肉の塊のような姿で描かれている。」

 

とある。のっぺらぼうとは違い、眼鼻や口はある。アニメの『ゲゲゲの鬼太郎』第6シリーズ第82話(脚本:金月龍之介)にも「ぬっぺっぽう」の名前で登場している。

 「翠(みどり)」はweblio古語辞典の「学研全訳古語辞典」に、

 

 「①色の名。現在の緑色から藍(あい)色までを含む広い範囲の色をいった。

  ②(草木の)新芽。また、若葉。

参考本来は色をさす語ではなく、新鮮でつややかな感じを表した語であるといわれる。

 

とある。②の意味で風に乗り空を飛んで遊んでいる。

 

季語は「翠」で春。

 

二十四句目

 

   渾沌翠に乗て気に遊ぶ

 朝咲しらむ馬鹿馬鹿の山     揚水

 (渾沌翠に乗て気に遊ぶ朝咲しらむ馬鹿馬鹿の山)

 

 「朝咲」は「あさゑみ」と読む。「山」を受けて山笑うことをいう。

 馬鹿馬鹿は本来は「莫々」であろう。草木が盛んに茂る様子を表すが、それにあえて「馬鹿馬鹿」という字を当てる。

 

季語は「朝咲」で春。「山」は山類。

 

二十五句目

 

   朝咲しらむ馬鹿馬鹿の山

 雲の別れ女房に髭のある有けり  其角

 (雲の別れ女房に髭のある有けり朝咲しらむ馬鹿馬鹿の山)

 

 朝になって夜が白んでくると女だと思っていた女房が男の娘だったとわかる。床を交わしたのに気付かなかったというのも間抜けだ。

 雲の別れは、

 

 春の夜の夢の浮橋とだえして

     峰にわかるる横雲の空

              藤原定家(新古今集)

 

の情を喚起する。

 

無季。恋。「雲」は聳物、「女房」は人倫。

 

二十六句目

 

   雲の別れ女房に髭のある有けり

 吉原君をぬすみいざなふ     才丸

 (雲の別れ女房に髭のある有けり吉原君をぬすみいざなふ)

 

 吉原の遊女を男装させて連れ出す。

 「ぬすみ」という言葉は『伊勢物語』第六段芥川に、

 

 「女のえうまじかりけるを、年を経てよばひわたりけるを、からうじて盗み出でて」

 

とある。

 

無季。恋。「吉原君」は人倫。

 

二十七句目

 

   吉原君をぬすみいざなふ

 棒軍勇やつふせぎ止まつて    揚水

 (棒軍勇やつふせぎ止まつて吉原君をぬすみいざなふ)

 

 棒軍(ぼういくさ)は捕り物のことであろう。帯刀を許されない岡っ引きはもっぱら六尺棒で犯罪者を取り押さえる。「勇(うい)やつ」がそいつらを引き付けて時間を稼いでる間に女を逃がす。

 「ういやつ」というと今日では「愛いやつ」という字が充てられているが、元は「勇(ゆう)いやつ」だったのかもしれない。

 

無季。「勇やつ」は人倫。

 

二十八句目

 

   棒軍勇やつふせぎ止まつて

 つきうすの陰より杵に弦引    桃青

 (棒軍勇やつふせぎ止まつてつきうすの陰より杵に弦引)

 

 搗き臼のに隠れながら杵に弦を張って即席の弓にして棒か何かを飛ばしたか。

 

無季。

 

二十九句目

 

   つきうすの陰より杵に弦引

 富の屋を徳明王の守ります    才丸

 (富の屋を徳明王の守りますつきうすの陰より杵に弦引)

 

 「徳明王」は『校本芭蕉全集 第三巻』の注に「大威徳明王」とある。ウィキペディアに、

 

 「大威徳明王(だいいとくみょうおう)、梵名ヤマーンタカ(यमान्तक [yamāntaka])は、仏教の信仰対象であり、密教特有の尊格である明王の一尊。五大明王のなかで 西方の守護者とされる。」

 

 「日本では、大威徳明王は六面六臂六脚で、神の使いである水牛にまたがっている姿で表現されるのが一般的である。特に日本では脚が多数ある仏尊は他にほとんど無く、大威徳明王の際立った特徴となっている。

 6つの顔は六道(地獄界、餓鬼界、畜生界、修羅界、人間界、天上界)をくまなく見渡す役目を表現したもので、6つの腕は矛や長剣等の武器を把持して法を守護し、6本の足は六波羅蜜(布施、自戒、忍辱、精進、禅定、智慧)を怠らず歩み続ける決意を表していると言われる。」

 

とある。

 

 富の屋は富籤屋のことか。富籤はコトバンクの「ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典の解説」に、

 

 「富突 (とみつき) ,突富,富ともいい,現代の宝くじに似た一種のばくち興行。興行主は富札を発行し,同数の番号札を箱に入れ,それを錐 (きり) で突き刺して当り札を決め賞金を出した。起源は不明であるが,江戸時代初期から関西で行われ,江戸でも元禄年間 (1688~1704) に流行した。享保年間 (16~36) ,幕府財政の悪化につれ寺社修理料が打切られると,幕府は修理助成のため特定の寺社に突富興行を公許した。江戸では谷中の感応寺,目黒の龍泉寺,湯島天神の興行が有名であるが,幕府の許可を受けないもぐりの隠富も多く,弊害が多いとして幕府はたびたび禁止したが効果がなく,明治2 (1869) 年頃まで続いた。」

 

とある。元禄期に流行したという根拠が、「日本大百科全書(ニッポニカ)の解説」にある、

 

 「江戸では1692年(元禄5)に出された「富突講」に対する禁令からも、元禄(げんろく)(1688~1704)ころには盛んであったと考えられる。」

 

ということなら、それ以前からも流行していた可能性はある。元禄五年の禁制はウィキペディアに、

 

 「募金を目的とする富籤は江戸時代初期の寛永頃、既に京都で行われていたらしく、1692年(元禄5年)5月の町触にはその禁止がある(『正宝事録』八には、「元禄五壬申年(改行)覚(改行)一 比日町中にてとみつき講と名付 或ハ百人講と申 大勢人集をいたし 博奕がましき儀仕由相聞 不届に候 向後左様之儀一切仕間敷候 若相背博奕の似寄たる儀仕者於レ有レ之ハ 本人ハ不レ及レ申 名主家主迄曲事ニ可二申付一者也(改行)申五月(改行)右は五月十日御触 町中連判」とある)。

 ところが元禄期以降、幕府財政は窮乏したため、寺社にかぎり修復費用調達のための富くじの発売を許可することとし、綱吉は江戸・谷中の感應寺の銭富を初めて公認した(御免富)。」

 

とある。

 前句の「つきうす」を錐で突く箱のこととし、寺社で行われたのならその後ろに大威徳明王が控えていたのだろう。

 

無季。釈教。

 

三十句目

 

   富の屋を徳明王の守ります

 摩訶右衛門苦奈国に生ル     其角

 (富の屋を徳明王の守ります摩訶右衛門苦奈国に生ル)

 

 摩訶(まか)はコトバンクの「デジタル大辞泉の解説」に、

 

 「《〈梵〉mahāの音写。大・多・勝の意》仏語。優れていること。大きいこと。偉大なこと。他の語や人名の上に付いて美称として用いることも多い。「摩訶毘盧遮那(びるしゃな)」

 

とある。摩訶薩は「偉大な衆生」だから、摩訶右衛門は偉大な右衛門で、前句の富の屋を屋号として豪商のこととした。徳明王の守て苦奈国という苦のない国に生まれる。波羅奈国のもじりであろう。

 

無季。釈教。

 

三十一句目

 

   摩訶右衛門苦奈国に生ル 

 愛ヲ捨子ヲ捨○毗盧遮那阿毗羅吽 桃青

 (愛ヲ捨子ヲ捨○毗盧遮那阿毗羅吽摩訶右衛門苦奈国に生ル)

 

 毘盧遮那(びるしゃな)は太陽の意味で毘盧舎那仏はウィキペディアに、

 

 「大乗仏教における仏の1つ。華厳経において中心的な存在として扱われる尊格である[2]。密教においては大日如来と同一視される。

 尊名は華厳経では「舎」の字を用いて毘盧舎那仏、大日経では「遮」の字を用いて毘盧遮那仏と表記される。」

 

とある。毘盧遮那仏は奈良の大仏としても有名になっている。

 阿毘羅吽(あびらうん)は阿毘羅吽欠(あびらうんけん)で、コトバンクの「ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典の解説」に、

 

 「仏教用語。サンスクリット語a vi ra hūṃ khaṃの音写。以上の5音綴は,それぞれ万有の構成要素である地,水,火,風,空を表わし,大日如来の内面の悟りを表明するとされる。一般には,すべてのことを達成するための一種の呪文として用いられる。」

 

とある。

 愛を捨て子を捨ては家族を捨てて出家することを言う。苦奈国に生れた摩訶右衛門は、出家し大日如来に悟りを得る事を祈る。

 

無季。釈教。

 

三十二句目

 

   愛ヲ捨子ヲ捨○毗盧遮那阿毗羅吽

 嵐と落て風はやり吹       揚水

 (愛ヲ捨子ヲ捨○毗盧遮那阿毗羅吽嵐と落て風はやり吹)

 

 「嵐と落て」は嵐の中に落ちてということか。「風はやり吹」は嵐の風が吹くとともに風邪がはやるとを掛けている。いまでこそ「ただの風邪」というが、医療レベルの低かった時代のインフルエンザはかなり危険なものだった。近代に入ってもスペイン風邪は日本だけでも三年間で三十八万人の死者を出した。今年はコロナのせいでザコインフルは絶滅寸前の状態だが、それまでは年間一万人の死者を出していた。

 もちろんほとんど流行を放置した状態でのインフルの一万人と、多くの行動制限をし、経済に多大な犠牲を払ってまで対策してやっとのことで一万人に抑えているコロナの危険性を同列には語れない。

 スペイン風邪にまだウィルスの存在を知らぬ(正確には予言されていたが証明されてなかった)当時の医学が無力だったように、江戸時代の人にとっても「傷寒」は困難な病気だった。延宝六年の「さぞな都」の巻三十八句目にも、

 

   傷寒を人々いかにととがめしに

 悪鬼となつて姿はそのまま    信徳

 

の句がある。

 そういうわけで嵐の風ばかりでなく風邪まではやれば仏の加護にすがるしかない。「毗盧遮那阿毗羅吽」を唱える。

 

無季。

 

三十三句目

 

   嵐と落て風はやり吹

 夜の食乏しくね覚ける比は    其角

 (夜の食乏しくね覚ける比は嵐と落て風はやり吹)

 

 夜中に腹が減って目を醒ませば、外は嵐で風が吹いている。ここは軽く流す。

 寝覚めの嵐は、

 

 神無月寝覚めに聞けば山里の

     嵐の声は木の葉なりけり

              能因法師(後拾遺集)

 

の歌がある。

 

無季。「夜」は夜分。

 

三十四句目

 

   夜の食乏しくね覚ける比は

 蚯の音さへ耳に腹だつ      才丸

 (夜の食乏しくね覚ける比は蚯の音さへ耳に腹だつ)

 

 秋の夜にジーーーーーーと持続的に聞こえてくる声を、筆者の子どもの頃でもミミズの声だと言われていた。実際はオケラらしい。

 まあ、腹が減って眠れないところにこの声にいらつくのはわかる。

 

季語は「蚯の音」で秋、虫類。

 

三十五句目

 

   蚯の音さへ耳に腹だつ

 月の秋うらみはこべの且夕て   揚水

 (月の秋うらみはこべの且夕て蚯の音さへ耳に腹だつ)

 

 「且夕」は「たそがれ」と読む。旦夕の間違いのようだ。

 「うらみはこべの」のは「恨み」はわかるがあとがよくわからない。『校本芭蕉全集 第三巻』の注はそのまま「運べ」としている。

 秋の月に恨んでいるうちに黄昏になって、ということだろう。「はこべの」はそれの何らかの取り囃しと思われる。

 来ぬ人を恨むうちに明け方になり夕方になり、それを繰り返す。

 なお、今日では「たそがれて」は「物思いにふけって」という意味があるが、九十年代くらいから広まったもので、この用法は新しい。

 月の秋は、

 

 月の秋あまた経ぬれどおもほえず

     今宵ばかりの空のけしきは

              藤原俊成(長秋詠藻)

 

の歌がある。

 

季語は「月の秋」で秋、夜分、天象。恋。

 

三十六句目

 

   月の秋うらみはこべの且夕て

 露にしがらむ妹が落髪      桃青

 (月の秋うらみはこべの且夕て露にしがらむ妹が落髪)

 

 しがらむ、しがらみは、

 

 山川に風のかけたるしがらみは

     流れもあへぬ紅葉なりけり

              春道列樹(古今集)

 

の歌にも見られるが、ここでは涙の露にしがらむ抜け毛とする。櫛で梳いたときに抜けた毛が櫛に絡みついている姿だろう。

 

 朝な朝な梳れば積るおちがみの

     乱れて物を思ふ頃かな

              紀貫之(拾遺集)

 

の歌もある。

 

季語は「露」で秋、降物。恋。「妹」は人倫。

二裏

三十七句目

 

   露にしがらむ妹が落髪

 物いふて鏡に㒵の残り見えよ   才丸

 (物いふて鏡に㒵の残り見えよ露にしがらむ妹が落髪)

 

 抜け毛は苦労のせいではなく歳のせいということで、嘘だというなら鏡で残りの顔を見よ、となる。

 

無季。恋。

 

三十八句目

 

   物いふて鏡に㒵の残り見えよ

 絵と酒もりの興尽て泣ク     其角

 (物いふて鏡に㒵の残り見えよ絵と酒もりの興尽て泣ク)

 

 前句の「㒵の残り」を去って行った女の顔の残像でも残ってないか、残ってるなら映ってくれという男の情とする。絵を描くにも酒盛りするにも何の興もなく泣く。

 

無季。恋。

 

三十九句目

 

   絵と酒もりの興尽て泣ク

 小袖かす木枕に帯さうぞきて   桃青

 (小袖かす木枕に帯さうぞきて絵と酒もりの興尽て泣ク)

 

 「さうぞきて」は装束を動詞化した「さうぞく」で、weblio古語辞典の「学研全訳古語辞典」に、

 

 「①身に着ける。装う。着飾る。

  出典枕草子 正月に寺にこもりたるは

  「裳(も)・唐衣(からぎぬ)など、ことごとしくさうぞきたるもあり」

  [訳] 裳や唐衣などをおおげさに着飾っている女房もいる。

  ②支度する。装備する。整える。

  出典源氏物語 胡蝶

  「唐(から)めいたる舟、作らせ給(たま)ひける、急ぎさうぞかせ給ひて」

  [訳] 唐風の船をお作らせなさったのを、急いで整えさせなさって。」

 

とある。

 木枕は木の台の上に円筒状の枕を乗せたもので、時代劇にもよく出てくる。

 小袖に帯を着るのは帰り支度であろう。何か興覚めになることでもあったのか。

 

無季。恋。「小袖」「帯」は衣裳。

 

四十句目

 

   小袖かす木枕に帯さうぞきて

 納戸の神を齋し祭ル       揚水

 (小袖かす木枕に帯さうぞきて納戸の神を齋し祭ル)

 

 「納戸の神(しん)」は納戸神(なんどかみ)でコトバンクの「デジタル大辞泉の解説」に、

 

 「納戸にまつられる神。恵比須(えびす)や大黒(だいこく)などが多くまつられたが、隠れキリシタンは聖画像をまつった。」

 

とあり、「世界大百科事典 第2版の解説」に、

 

 「納戸にまつられる神。納戸はヘヤ,オク,ネマなどと呼ばれ,夫婦の寝室,産室,衣類や米びつなどの収納所として使われ,家屋の中で最も閉鎖的で暗く,他人の侵犯できない私的な空間である。また納戸は女の空間でもあり,食生活をつかさどるシャモジとともに,衣料の管理保管の場所である納戸の鍵も主婦権のシンボルとされていた。納戸神をまつる風習は,兵庫県宍粟郡,鳥取県東伯郡,岡山県真庭・久米・苫田・勝田郡,島根県の隠岐島一帯,長崎県五島などに濃く分布し,家の神の古い形を示すものとされている。」

 

とある。

 「齋し」は「ものいみし」と読む。

 小袖に帯をきちんと来た女は一家の主婦で、納戸神を丁重に祀る。

 

無季。神祇。

 

四十一句目

 

   納戸の神を齋し祭ル

  煤掃之礼用於鯨之脯      其角

 (煤掃之礼用於鯨之脯納戸の神を齋し祭ル)

 

 これは漢文で「煤掃(すすはき)の礼に鯨の脯(ほしし)を用ゆ」と読む。

 「脯(ほじし)」は「ほしじし」で干し肉のことをいう。

 鯨は冬の季語ではあるが、一度に大量の肉が取れるので、多くは何らかの形で保存食になったのだろう。塩漬けにして保存することもあった。芭蕉の元禄五年の句に、

 

 水無月や鯛はあれども塩鯨    芭蕉(葛の松原)

 

とある。

 『炭俵』の「早苗舟」の巻七十二句目に、

 

   ほやほやとどんどほこらす雲ちぎれ

 水菜に鯨まじる惣汁       野坡

 

の句もある。通常は年末に食べるものだったのを正月の惣汁に「鯨まじる」を取り囃しとして用いている。

 

季語は「煤掃」で冬。

 

四十二句目

 

    煤掃之礼用於鯨之脯

 やとひの翁歯朶刈に入      才丸

 (煤掃之礼用於鯨之脯やとひの翁歯朶刈に入)

 

 煤掃きの礼に鯨の干し肉をやり、雇われ者の老人に正月飾りの歯朶を刈に行ってもらう。

 

季語は「歯朶刈」で冬。「翁」は人倫。

 

四十三句目

 

   やとひの翁歯朶刈に入

 風いたく牛さへ氷る也けるに   揚水

 (風いたく牛さへ氷る也けるにやとひの翁歯朶刈に入)

 

 歯朶は牛の背に積んで町で売られたのだろう。

 

季語は「氷る」で冬。「牛」は獣類。

 

四十四句目

 

   風いたく牛さへ氷る也けるに

 荒屋に馬の枯屎をたく      桃青

 (風いたく牛さへ氷る也けるに荒屋に馬の枯屎をたく)

 

 牛や馬の糞は燃料として用いられる。牛も氷るような寒い日に馬の糞で暖まる。違え付け。

 

無季。「馬」は獣類。

 

四十五句目

 

   荒屋に馬の枯屎をたく

 慄しと白骨のかね付て居たる   才丸

 (慄しと白骨のかね付て居たる荒屋に馬の枯屎をたく)

 

 「慄し」は「おそろし」。「かね付(つけ)」は鉄漿(おはぐろ)のこと。江戸時代には既婚女性のものとなったが、ウィキペディアによると、

 

 「戦国時代までは戦で討ち取った首におしろいやお歯黒などの死化粧を施す習慣があり、首化粧、首装束と呼ばれた。これは戦死者を称える行為であったが、身分の高い武士は化粧を施し身なりを整えて出陣したことから、鉄漿首(お歯黒のある首)は上級武士を討ち取ったことを示す証ともなったため、功を高める(禄を多く受ける)目的で白い歯の首にもお歯黒を施すこともあった。」

 

とある。

 馬は軍を連想させるものであり、古戦場で白骨化した武将のしゃれこうべに鉄漿が塗ってあることもあったのだろう。

 

無季。

 

四十六句目

 

   慄しと白骨のかね付て居たる

 曽呂利新話を読に夜長し     其角

 (曽呂利新話を読に夜長し慄しと白骨のかね付て居たる)

 

 ウィキペディアに、

 

 「『曽呂利物語』(そろりものがたり)は江戸時代に編まれた仮名草子。寛文3年(1663年)刊行、全5巻。妖怪などの登場するはなしを集めた奇談集である。」

 

 「編者は不明。おとぎばなしの名手として当時知られていた安土桃山時代の人物・曽呂利新左衛門(そろり しんざえもん)の名を題名に借用しており、『曽呂利狂歌咄』などを意識したものと見られる。古くから『曽呂利物語』の名で広く知られるがこれは内題で、外題簽には『曽呂利快談話』とある(巻第一の「はしがき」には『曽呂里はなし』(そろりはなし)ともあって一定はしていない)。ひろく普及した後刷り本には『曽呂利諸国話』という題が付けられている。」

 

とある。

 前句の鉄漿をした白骨の話をその架空の続編『曽呂利新話』のものとする。

 

季語は「夜長し」で秋、夜分。

 

四十七句目

 

   曽呂利新話を読に夜長し

 禅小僧とうふに月の詩ヲ刻ム   桃青

 (禅小僧とうふに月の詩ヲ刻ム曽呂利新話を読に夜長し)

 

 秋の夜ということで月への展開は自然で、禅寺の小僧が曽呂利新話を読むにも長い夜なので、月の詩を作って豆腐に刻んで書き付ける。

 月に夜長は、

 

 くもりなき空の鏡と見るまでに

     秋の夜長く照らす月影

              紫式部(続後撰集)

 

の歌がある。

 

季語は「月」で秋、夜分、天象。「小僧」は人倫。

 

四十八句目

 

   禅小僧とうふに月の詩ヲ刻ム

 雷盆鳴て芭蕉には風       揚水

 (禅小僧とうふに月の詩ヲ刻ム雷盆鳴て芭蕉には風)

 

 雷盆は「すりばち」と読む。山芋でも摺っているのか。字面を見ると雷鳴に似ているので、芭蕉を吹く風となる。

 芭蕉に風は、

 

 いかがするやがて枯れゆく芭蕉葉に

     こころして吹く秋風もなし

              藤原為家(夫木抄)

 

季語は「芭蕉」で秋、植物、木類。

 

四十九句目

 

   雷盆鳴て芭蕉には風

 花の今朝駅に羊を直切る也    其角

 (花の今朝駅に羊を直切る也雷盆鳴て芭蕉には風)

 

 駅は古代の駅路の駅か。あるいは中国か。古代なら羊がいたのではないかということで、牛や馬を市場で値切るような感覚で話を作る。

 

季語は「花」で春、植物、木類。「羊」は獣類。

 

五十句目

 

   花の今朝駅に羊を直切る也

 楼にわらぢをつるす比春     才丸

 (花の今朝駅に羊を直切る也楼にわらぢをつるす比春)

 

 前句の中国の影響の強かった律令の時代ということで、中国を真似た楼閣はあるがそこにいかにも日本というような草鞋が吊るしてある。

 

季語は「春」で春。

三表

五十一句目

 

   楼にわらぢをつるす比春

 所帯わび息はこぞの雪を掃    揚水

 (所帯わび息はこぞの雪を掃楼にわらぢをつるす比春)

 

 「息」は「むすこ」と読む。

 没落した中国の役人の雰囲気か。ただし「所帯」は和製漢語。「鷺の足」の巻八十二句目に、

 

    雨の擔子風のかますの冷かに

 秋に對して所-帯-堂の記     才丸

 

の句がある。

 

季語は「こぞの雪」で春、降物。「息」は人倫。

 

五十二句目

 

   所帯わび息はこぞの雪を掃

 箕を着て寒く雀とるらん     桃青

 (所帯わび息はこぞの雪を掃箕を着て寒く雀とるらん)

 

 箕は農具で着るものではないので「蓑」のことだろうか。焼鳥にする雀を獲りに行く。

 

季語は「寒く」で冬。「雀」は鳥類。

 

五十三句目

 

   箕を着て寒く雀とるらん

 凩のからしの枝に藁干セル    才丸

 (凩のからしの枝に藁干セル箕を着て寒く雀とるらん)

 

 「からしの枝」は「枯らした枝」という意味だろう。枯枝を折って柱にして藁を干す。

 

季語は「凩」で冬。

 

五十四句目

 

   凩のからしの枝に藁干セル

 山彦嫁をだいてうせけり     其角

 (凩のからしの枝に藁干セル山彦嫁をだいてうせけり)

 

 山彦は妖怪の名前でウィキペディアに、

 

 「山彦(やまびこ)は、日本の山の神・妖怪である。

 

また、山や谷の斜面に向かって音を発したとき、それが反響して遅れて返って来る現象を、山彦が応えた声、あるいは山彦が引き起こした現象と考え「山彦」と呼ぶ。また、樹木の霊「木霊(木魂)」が応えた声と考え「木霊(こだま)」とも呼ぶ。」

 

 「西日本に伝わる妖怪の山童や、『和漢三才図会』にある妖怪の玃(やまこ)と同一視されることもあり、木の霊が山彦を起こすと考えられたことから、木の中に住んでいるという妖怪の彭侯とも同一視された。『百怪図巻』『画図百鬼夜行』などの妖怪画集にあるイヌのような姿の山彦は、玃または彭侯をモデルにしたものと考えられている。」

 

とあり、基本的には猿系で玃猿(かくえん)はウィキペディアに、

 

 「『本草綱目』では「玃」「猳玃」「玃父」の名で記載されている。玃は老いたサルであり、色は青黒い。人間のように歩き、よく人や物をさらう。オスばかりでメスがいないため、人間の女性を捕らえて子供を産ませるとある。」

 

とある。おそらく東南アジアのオランウータンが噂で広まってゆくうちに脚色されたのではないかと思う。その意味では猩猩にも通じるものがある。

 其角もおそらく『本草綱目』のネタで「嫁をだいてうせけり」としたのだろう。

 

無季。恋。「嫁」は人倫。

 

五十五句目

 

   山彦嫁をだいてうせけり

 忍びふす人は地蔵にて明過し   桃青

 (忍びふす人は地蔵にて明過し山彦嫁をだいてうせけり)

 

 これはまあお約束というか、『伊勢物語』第六段「芥川」の鬼一口ネタ。「あばらなる蔵」を地蔵堂にして鬼の代わりに山彦がさらっていったとする。

 「芥川」と「筒井筒」はかなり頻繁にネタにされている。

 

無季。「人」は人倫。

 

五十六句目

 

   忍びふす人は地蔵にて明過し

 木槿のまなじり木瓜の唇     揚水

 (忍びふす人は地蔵にて明過し木槿のまなじり木瓜の唇)

 

 『校本芭蕉全集 第三巻』の注に「芙蓉の眦・丹花の唇」という成語のもじりとある。

 『太平記』巻二十一の「塩冶判官讒死事」に「ほのかに見へたる眉の匂、芙蓉の眸、丹花の脣る。」の言葉が見られる。槿と木瓜だやや田舎臭くなる。

 

季語は「木槿」の秋と「木瓜」の春とで相殺されてしまうので、いちおう無季ということにしておく。ともに植物、木類。

 

五十七句目

 

   木槿のまなじり木瓜の唇

 細殿に鬼灯の燈籠照したる    其角

 (細殿に鬼灯の燈籠照したる木槿のまなじり木瓜の唇)

 

 「細殿(ほそどの)」はコトバンクの「精選版 日本国語大辞典の解説」に、

 

 「① 殿舎から殿舎へ渡る廊。渡り廊下。渡廊(わたりろう)。渡殿(わたどの)。〔十巻本和名抄(934頃)〕

  ② 殿舎の廂(ひさし)の間(ま)の細長いもの。仕切って女房の局(つぼね)として用いることが多かった。

  ※石山寺本金剛般若経集験記平安初期点(850頃)「南の廂(ホソトノ)に金床玉几を持つ」

 

とある。木槿のまなじり木瓜の唇の田舎女房の細殿には燈籠の代わりに鬼灯が下がっている。

 

季語は「鬼灯」で秋、植物、草類。「燈籠」は夜分。

 

五十八句目

 

   細殿に鬼灯の燈籠照したる

 をどり狩衣の裾にたつ波     才丸

 (細殿に鬼灯の燈籠照したるをどり狩衣の裾にたつ波)

 

 鬼灯はお盆の時に死者を導く提燈になるというので精霊棚に飾られたりした。

 ここでは盆踊りに鬼灯の燈籠とし、盆踊りする狩衣の男を登場させることで、前句の寝殿造りの細殿に合わせる。

 

季語は「をどり」で秋。「狩衣」は衣裳。

 

五十九句目

 

   をどり狩衣の裾にたつ波

 酒の月お伽坊主の夕ばへて    揚水

 (酒の月お伽坊主の夕ばへてをどり狩衣の裾にたつ波)

 

 御伽坊主はコトバンクの「精選版 日本国語大辞典の解説」に、

 

 「① 通夜の時、死者の枕元で経を読む坊主。通夜僧。

  ② 室町以後、大名や貴人の夜の話相手をするなど、側近としてお相手をした僧体の人。御伽衆。御咄の法師(ほっし)。

 ※咄本・鹿の巻筆(1686)序「月待日待のねぶりをさます、おとぎぼうずの膝をいため」

 

とある。この場合は②の方であろう。御伽衆については同じく「精選版 日本国語大辞典の解説」に、

 

 「〘名〙 戦国・江戸時代、将軍家、諸大名家に設けられた職制の一つ。特殊な経験、知識の所有者で咄(はなし)のうまい者が召し抱えられ、主人に近侍して雑談の相手をした。元来、大人相手の大人であって、子供相手の子供は少なかったが、徳川家光の頃から若殿相手の前髪の御伽衆も頻出した。御咄衆。御談伴(おだんぱん)。安西衆。伽衆。

  ※大内氏実録(室町末)大内殿有名衆「御伽衆 淡路彦四郎殿〈略〉今井主水正殿 廿三人」

 

とある。

 御伽坊主がここでは酒の席で狩衣を着て盆踊りを踊って見せる。

 

季語は「月」で秋、夜分、天象。「お伽坊主」は人倫。

 

六十句目

 

   酒の月お伽坊主の夕ばへて

 真桑流しやる奥の泉水      桃青

 (酒の月お伽坊主の夕ばへて真桑流しやる奥の泉水)

 

 流しそうめんは近代のもので、江戸時代の琉球にもあったという説もあるが、さすがに延宝にまで遡るのは難しいだろう。ただ、水が流れているところでその流れを利用して食べ物を運ぶという発想は、曲水の宴を知っていれば出てきそうな発想でもある。

 真桑瓜をまだ残暑の厳しいときに水に冷やして食っていたなら、それを流してみるというのも、ありそうなことなので、そういうのが当時あったのかもしれない。あるいは桃青さんの発案なのかもしれない。

 夕暮れの酒の席で、残暑の納涼を兼ねて真桑瓜を流す、そんな粋なお伽坊主がいましたとさ。

 

季語は「真桑」で秋。「泉水」は水辺。

 

六十一句目

 

   真桑流しやる奥の泉水

 河骨の葉にほれ哥を書やつす   才丸

 (河骨の葉にほれ哥を書やつす真桑流しやる奥の泉水)

 

 河骨(かうほね)はウィキペディアに、

 

 「コウホネ(河骨、学名 Nuphar japonicum)は、スイレン科の植物である。水生の多年生草本。浅い池や沼に自生し、夏に黄色い花を咲かせる。別名センコツ(川骨)ともよばれる。」

 

とある。睡蓮の一種なので葉は大きくそこに恋歌を書いて真桑瓜と一緒に流す。

 

季語は「河骨」で秋、植物、草類、水辺。恋。

 

六十二句目

 

   河骨の葉にほれ哥を書やつす

 ほむらにたえで虵児と化     其角

 (河骨の葉にほれ哥を書やつすほむらにたえで虵児と化)

 

 「虵児と化」は「へびちごとなり」と読む。蛇は道成寺の清姫のように恋に身を焼くが、ここでは焼き殺すようなことはせずに稚児になって河骨の葉に歌を書き残す。

 安珍・清姫伝説にはウィキペディアによると後日談があり、

 

 「安珍と共に鐘を焼かれた道成寺であるが、四百年ほど経った正平14年(1359年)の春、鐘を再興することにした。二度目の鐘が完成した後、女人禁制の鐘供養をしたところ、一人の白拍子(実は清姫の怨霊)が現れて鐘供養を妨害した。白拍子は一瞬にして蛇へ姿を変えて鐘を引きずり降ろし、その中へと消えたのである。」

 

とある。この白拍子の所を稚児に変えたのかもしれない。

 

無季。恋。「児」は人倫。

 

六十三句目

 

   ほむらにたえで虵児と化

 筑地ある根車引止     桃青

 (筑地ある根の底に車引止めほむらにたえで虵児と化)

 

 「の」と「に」と「め」を小さい字で記してあり、『校本芭蕉全集 第三巻』の注にこの六十三句目と次の六十四句目の「表記法は宣明書の例にならい古体の表記をまねた」とある。これは宣命体と呼ばれ、ウィキペディアに、

 

 「宣命・祝詞[1]などの文体を宣命体といい、その表記法である宣命書とは、体言・用言の語幹を大きな字で書き、助詞・助動詞・用言の活用語尾などは、一字一音の万葉仮名で小さく右に寄せて書く方法である。「を」には「乎」、「の」には「乃」、「は」には「波」などを一定して使っている。ただし、宣命体には2種類ある。助詞なども含めてすべて大字で書かれる宣命大書体(せんみょう だいしょたい)と、上述のように助詞などを小字で書き分ける宣命小書体(せんみょう しょうしょたい)である。」

 

とある。古代新羅(シルラ)の吏読(イドゥ)に似ている。

 筑地(ついぢ)はweblio古語辞典の「学研全訳古語辞典」に、

 

 「①泥土を積み上げて築いた塀。古くは泥土だけを固めて造ったが、後には柱を立て、板をしんにして、泥土で塗り固め、屋根を瓦(かわら)でふいた。「ついがき」とも。

  ②「公卿(くぎやう)」「堂上(たうしやう)」の異名。▽上流貴族の邸宅には①をめぐらしていることから。◆「つきひぢ(築泥)」の変化した語。」

 

とある。

 泥で築いた塀の地の底、根の国に車を引き留め、身を焼く蛇の稚児になる、と何か神話のように作っている。

 

無季。

 

六十四句目

 

   筑地ある根の底に車引止め

 天火〻闇金堀尊        揚水

 (筑地ある根の底に車引止め天火〻闇の金堀の尊)

 

 「あめほほやみのかねほりのみこと」と読む。「あめの」とつくから天津神であろう。根の国の底の火の闇で金を掘る神様か。

 

無季。

三裏

六十五句目

 

   天火〻闇金堀

 蜆江の磯等岸等は白波に     其角

 (蜆江の磯等岸等は白波に天火〻闇の金堀の尊)

 

 磯等(いそら)は『校本芭蕉全集 第三巻』の注に「阿度女の磯良」(太平記巻三十九)から来ているという。これは元寇の時の場面で「神功皇后攻新羅給事」に、

 

 「昔し仲哀天皇、聖文神武の徳を以て、高麗の三韓を攻させ給ひけるが、戦利無して帰らせ給ひたりしを、神功皇后、是智謀武備の足ぬ所也とて、唐朝へ師の束脩の為に、沙金三万両を被遣、履道翁が一巻の秘書を伝らる。是は黄石公が第五日の鶏鳴に、渭水の土橋の上にて張良に授し書なり。さて事已に定て後、軍評定の為に、皇后諸の天神地祇を請じ給ふに、日本一万の大小の神祇冥道、皆勅請に随て常陸の鹿島に来給ふ。雖然、海底に迹を垂給阿度部の磯良一人不応召。是如何様故あらんとて、諸の神達燎火を焼き、榊の枝に白和幣・青和幣取取懸て、風俗・催馬楽、梅枝・桜人・石河・葦垣・此殿・夏引・貫河・飛鳥井・真金吹・差櫛・浅水の橋、呂律を調べ、本末を返て数反哥はせ給たりしかば、磯良感に堪兼て、神遊の庭にぞ参たる。其貌を御覧ずるに、細螺・石花貝・藻に棲虫、手足五体に取付て、更に人の形にては無りけり。神達怪み御覧じて、「何故懸る貌には成けるぞ。」と御尋有ければ、磯良答て曰く、「我滄海の鱗に交て、是を利せん為に、久く海底に住侍りぬる間、此貌に成て候也。浩る形にて無止事御神前に参らんずる辱しさに、今までは参り兼て候つるを、曳々融々たる律雅の御声に、恥をも忘れ身をも不顧して参りたり。」とぞ答申ける。軈て是を御使にて、竜宮城に宝とする干珠・満珠を被借召。竜神即応神勅二の玉を奉る。神功皇后一巻の書を智謀とし、両顆の明珠を武備として新羅へ向はんとし給ふに、胎内に宿り給ふ八幡大菩薩已に五月に成せ給ひしかば、母后の御腹大に成て、御鎧を召るゝに御膚あきたり。此為に高良明神の計として、鎧の脇立をばし出しける也。諏防・住吉大明神を則副将軍・裨将軍として、自余の大小の神祇、楼船三千余艘を漕双べ、高麗国へ寄給ふ。是を聞て高麗の夷共、兵船一万余艘に取乗て海上に出向ふ。戦半にして雌雄未決時、皇后先干珠を海中に抛給しかば、潮俄に退て海中陸地に成にけり。三韓兵共、天我に利を与へたりと悦て、皆舟より下、徒立に成てぞ戦ひける。此時に又皇后満珠を取て抛給しかば、潮十方より漲り来て、数万人の夷共一人も不残浪に溺て亡にけり。是を見て三韓の夷の王自罪を謝て降参し給ひしかば、神功皇后御弓の末弭にて、「高麗の王は我が日本の犬也。」と、石壁に書付て帰らせ給ふ。是より高麗我朝に順て、多年其貢を献る。古は呉服部と云綾織、王仁と云才人、我朝に来りけるも、此貢に備り、大紋の高麗縁も其篋とぞ承る。其徳天に叶ひ其化遠に及し上古の代にだにも、異国を被順事は、天神地祇の力を以てこそ、容易征伐せられしに、今無悪不造の賊徒等、元朝高麗を奪犯、牒使を立させ、其課を送らしむる事、前代未聞の不思議なり。」

 

とある。

 「須磨ぞ秋」の巻七十九句目の、

 

   つくしはるかに春ぞ飛行

 捧げたる二ッの玉子かいわりて  桃青

 

の句の所で「この話は『古事記』や『日本書紀』に見つからず、出典がよくわからない。」と書いたが、『太平記』なら当時の人々の知る範囲であっただろう。

 阿度女の磯良はウィキペディアによると、

 

 「石清水八幡宮の縁起である『八幡愚童訓』には「安曇磯良と申す志賀海大明神」とあり、当時は志賀海神社(福岡市)の祭神であったということになる(現在は綿津見三神を祀る)。同社は古代の創建以来、阿曇氏が祭祀を司っている。」とあり、『八幡愚童訓』もウィキペディアに「鎌倉時代中期・後期に成立し」「元寇(文永の役、弘安の役)についての記録としても有名で、特に対馬・壱岐入寇について記された史料は他にないとされる。」とある。また「成立年代については、甲種は延慶元年から文保2年以前(1308年 - 1318年)と考えられ、乙種は正安年間(1299年 - 1302年)頃の成立という。」

 前句のよくわからない神様に「阿度女の磯良」をもじって「蜆江の磯等」とし、「等」の文字から「岸等」という架空の神を作り、「白波に」とする。蜆江は中国の蘇州にあり、周荘八景の一つに「蜆江漁唱」がある。

 

季語は「蜆」で春、水辺。「磯」「岸」「白波」も水辺。

 

六十六句目

 

   蜆江の磯等岸等は白波に

 青海苔うたひ蟹琴を弾      才丸

 (蜆江の磯等岸等は白波に青海苔うたひ蟹琴を弾)

 

 蜆江の磯等岸等の宴は青海苔が謡い蟹が琴を弾く。まあ、蟹が両手の鋏を降ろす姿は箏を弾いているように見えなくもない。

 

季語は「青海苔」で春、水辺。「蟹」も水辺。

 

六十七句目

 

   青海苔うたひ蟹琴を弾

 花の苫屋芝に旅泊を賞る     揚水

 (青海苔うたひ蟹琴を弾青海苔うたひ蟹琴を弾)

 

 海辺で苫屋を付け旅体にする。在原行平などが俤になる。「賞る」は「なぐさむる」と読む。

 

季語は「花」で春、植物、木類。旅体。

 

六十八句目

 

   花の苫屋芝に旅泊を賞る

 月に秋とふ東-金の僧       桃青

 (花の苫屋芝に旅泊を賞る月に秋とふ東-金の僧)

 

 東金は千葉九十九里浜の東金(とうがね)で、貞享二年の「涼しさの」の巻四十句目の、

 

   武士のものすさまじき艤ひ

 七里法華の七里秋風       コ齋

 

の句の時にも触れたが、上総七里法華という政策によって東金あたりには日蓮宗の信者が多かった。

 ここでは東金を「問う金」と掛けて、江戸の芝での旅泊はいくらかを問う。

 

季語は「月に秋」で秋、夜分、天象。「僧」は人倫。

 

六十九句目

 

   月に秋とふ東-金の僧

 淋しさを蕎麦に露干す豆俵    才丸

 (淋しさを蕎麦に露干す豆俵月に秋とふ東-金の僧)

 

 「マメタワラ(豆俵)」はホンダワラの仲間で海藻。東金の辺りは砂地で蕎麦の栽培がおこなわれていたのだろう。蕎麦畑に海で獲ったマメタワラが干してあるうら寂びた風景が広がり、日蓮宗の僧がたくさんいる。それが東金のイメージだったのだろう。

 

季語は「露」で秋、降物。

 

七十句目

 

   淋しさを蕎麦に露干す豆俵

 夕顔重く貧居ひしげる      其角

 (淋しさを蕎麦に露干す豆俵夕顔重く貧居ひしげる)

 

 貧居というと夕顔になるのは『源氏物語』の影響も大きいだろう。ここでは「重く」とあるから夕顔の実をいう。瓢箪の重さでひしゃげる程のあばら家ということになる。

 

季語は「夕顔重く」で秋、植物、草類。「貧居」は居所。

 

七十一句目

 

   夕顔重く貧居ひしげる

 桃の木に蝉鳴比は外に寝ミ    桃青

 (桃の木に蝉鳴比は外に寝ミ夕顔重く貧居ひしげる)

 

 「寝ミ」は「やすみ」と読む。

 この句は『三冊子』「あかさうし」に

 

 「一句、付ともに古代にして、其匂ひ萬葉などの俤なり。」

 

とある。

 万葉の時代は大陸の影響が強く、桃や梅などが好まれた。

 

 春の苑紅にほふ桃の花

     下照る道に出で立つ少女

              大伴家持(万葉集)

 

のような歌は『詩経』の「桃之夭夭 灼灼其華」のイメージで、中国の田舎の娘を俤にしている。

 桃青の句の「桃の木」はむしろ桃花源のような神仙郷のイメージに近く、家は粗末でも暑ければ外で寝ればいいという、物事に頓着しない世俗を超越したイメージが感じられる。

 

季語は「蝉」で夏、虫類。「桃の木」は植物、木類。

 

七十二句目

 

   桃の木に蝉鳴比は外に寝ミ

 枕の清水香薷散くむ       揚水

 (桃の木に蝉鳴比は外に寝ミ枕の清水香薷散くむ)

 

 「香薷散(かうじゆさん)」はコトバンクの「精選版 日本国語大辞典の解説」に、

 

 「〘名〙 陰干しにしたナギナタコウジュの粉末で作る薬。暑気払いの薬。江戸時代には、霍乱(かくらん)の薬として、旅行者の多くがこれを携行した。《季・夏》

  ※言継卿記‐天文一三年(1544)六月一七日「右衛門佐今朝香薷散所望之間聊持向、同麝香丸〈一貝〉遣之」

 

とある。

 前句の「外に寝ミ」を旅体とし、道の辺の清水に香薷散を飲む。

 清水というと、

 

 道の辺に清水流るる柳陰

     しばしとてこそ立ちどまりつれ

              西行法師(新古今集)

 

の歌があるが、延宝の旅人は香薷散を飲む。

 

季語は「清水」で夏。旅体。

 

七十三句目

 

   枕の清水香薷散くむ

 夢の身を何と鰹にさめかねて   其角

 (夢の身を何と鰹にさめかねて枕の清水香薷散くむ)

 

 「夢の身」は現生のことで、「さめかねて」というのは世俗を断つことができず、という意味になる。その理由は初鰹が食いたいからだ。仏道に入ったら初鰹が食えなくなる。

 そう思いながら寺に身を落ち着けることなく旅をする。

 

無季。「身」は人倫。

 

七十四句目

 

   夢の身を何と鰹にさめかねて

 我○俗は口にきたなき   才丸

 (夢の身を何と鰹にさめかねて我レ聞ク○俗は口にきたなき)

 

 「口にきたなき」はこの場合食い意地が張ってるという方の意味。

 

無季。「我」は人倫。

 

七十五句目

 

   ○俗は口にきたなき

 生づらを蹴折かれては念無量   揚水

 (生づらを蹴折かれては念無量我レ聞ク○俗は口にきたなき)

 

 前句の「口にきたなき」を口汚いという方の意味にして「いけづらをけくじかれて」と、多分当時の感覚で汚い言葉を言い、念無量とする。顔を蹴っ飛ばされて無念ということ。

 

無季。

 

七十六句目

 

   生づらを蹴折かれては念無量

 泥坊消て雨の火青し       桃青

 (生づらを蹴折かれては念無量泥坊消て雨の火青し)

 

 「雨の火青し」は鬼火のことであろう。科学的には燐光というもので、ウィキペディアに、

 

 「燐光(りんこう、phosphorescence)とは、かつては腐敗した生物などから生じた黄リン(白リン)が空気中で酸化する際の青白い光(発火点は約60度)を指した。現在では物質が光を発する現象、またはその発する光の全般を指す。」

 

とある。

 泥棒も「生づらを蹴折かれて」て無念なことになり、人魂となった。

 

無季。「泥坊」は人倫。「雨」は降物。

 

七十七句目

 

   泥坊消て雨の火青し

 草の奥下妻が原にくれかかり   才丸

 (草の奥下妻が原にくれかかり泥坊消て雨の火青し)

 

 今の茨城県の下妻には「平将門公鎌輪之宿址碑」がある。将門の本拠地だった。

 前句の「泥坊」を天下を盗もうとした大泥棒とし、今は鬼火となり神田明神に祀られている。

 

無季。「草」は植物、草類。

 

七十八句目

 

   草の奥下妻が原にくれかかり

 狄の里の足あらひ鍋       其角

 (草の奥下妻が原にくれかかり狄の里の足あらひ鍋)

 

 「狄」は東夷南蛮西戎北狄の狄で「ゑびす」と読む。「あらひ」は坂東名物の鯉の洗いか。「足を洗う」と鯉を洗って鍋に入れ「鯉こく」にすることとを掛ける。

 

無季。「狄」は人倫。「里」は居所。

名残表

七十九句目

 

   狄の里の足あらひ鍋

 配所人芦の小着布を干かねて   桃青

 (配所人芦の小着布を干かねて狄の里の足あらひ鍋)

 

 配所人は流刑人。「小着布(こぎの)」は『校本芭蕉全集 第三巻』の注に「山中の人の着る麻製の仕事着」とある。「小衣(こぎん)」と同じだろうか。小衣はコトバンクの「世界大百科事典 第2版の解説」に、

 

 「麻または木綿製で,じゅばんのような筒袖,衽(おくみ)なしの丈の短い作業着のこと。襟は共布または別布の紺,黒木綿をつける。古くから用いられていた。青森県では,麻地に刺子をほどこした刺しこぎん(こぎん刺しともいう)が〈津軽こぎん〉として知られている。秋田県では〈こぎん〉〈こんぎ〉といい,古くは紺麻地の野良着のことをいった。新潟県では〈かたこぎぬ〉,岐阜県では〈こぎの〉という。奈良県には〈ふじこぎの〉と呼ばれる藤布(ふじぬの)でつくった山行きの上半衣があり,大正年間まで用いられていた。」

 

とある。

 延宝九年刊の言水編『東日記』にも、

 

 炭焼や雪に馴しを夏小着布    言水

 

の句がある。

 夷狄の地に流され粗末な小着布は涙で乾く間もなく、物資もないところなので鍋で足を洗う。

 

無季。「人」は人倫。「小着布」は衣裳。

 

八十句目

 

   配所人芦の小着布を干かねて

 あらめの茵辛螺を枕と      揚水

 (配所人芦の小着布を干かねてあらめの茵辛螺を枕と)

 

 「あらめ」は「荒和布」でコンブ科の褐藻。「茵」は「しとね」でウィキペディアに、

 

 「茵(しとね)とは座ったり寝たりするときの敷物の古風な呼称。」

 

とある。「辛螺」は「にし」で田螺の仲間でコトバンクの「世界大百科事典 第2版の解説」に、

 

 「外套(がいとう)腔から出す粘液が辛い味をもっている巻貝類の意であるが,辛くない巻貝にもあてられている。テングニシ,アカニシなどがあるが,ナガニシ,イボニシはとくに辛い。【波部 忠重】」

 

とある。貞享四年の「星崎の」の巻十九句目にも、

 

   山も霞むとまではつづけし

 辛螺がらの油ながるる薄氷    如風

 

の句がある。

 前句の流刑人は荒和布を敷いて辛螺を枕とする。

 

無季。「あらめ」「辛螺」は水辺。

 

八十一句目

 

   あらめの茵辛螺を枕と

 心地やむ鯛に針さす生小船    其角

 (心地やむ鯛に針さす生小船あらめの茵辛螺を枕と)

 

 海の深いところに棲む鯛は釣り上げると水圧がなくなり浮袋が膨張し、そのままにしておくと死ぬことがあるので、浮袋に針を刺して空気を抜く。そうすると生きたままでいられる。今日では「マダイのエア抜き」と呼ぶ。生小船(いけをぶね)は鯛を生かしたまま運ぶ生簀船のことであろう。

 「心地やむ」は船酔いだろうか。船の上で荒和布を敷いて辛螺を枕とする。「心地やむ」は釣り上げられて浮袋が膨張して苦しそうな鯛との両方に掛かるので、次の句の展開が楽になる。鯛は生簀に入れるので前句のように寝かせることはない。

 

無季。「鯛」「生小船」は水辺。

 

八十二句目

 

   心地やむ鯛に針さす生小船

 まれに尾だきを出し山老     才丸

 (心地やむ鯛に針さす生小船まれに尾だきを出し山老)

 

 「尾だき」は『校本芭蕉全集 第三巻』の注に、

 

 「総州大滝(夷隅郡大多喜町)のこと。小滝鯛の産地(和漢三才図会)。但し現在の勝浦であろう(上総誌)。」

 

とある。確かに今の夷隅郡大多喜町は内陸にあるから、ここから近い海というと勝浦だろう。もう少し房総の先に行った鴨川市には鯛の浦と呼ばれる鯛の群生地があるから、そっちかもしれない。

 「山老(さんらう)」はコトバンクの「精選版 日本国語大辞典の解説」に、

 

 「〘名〙 山里に住む老人。山中に住む老人の姿をした者。

  ※康頼宝物集(1179頃)上「况やあやしの山老争か申述べき」

 

とある。まあ、山の中で何で鯛を出せるのかは不思議だ。

 

無季。「山老」は人倫。

 

八十三句目

 

   まれに尾だきを出し山老

 麦星の豊の光を覚けり      揚水

 (麦星の豊の光を覚けりまれに尾だきを出し山老)

 

 うしかい座α星のアークトゥルス(Arcturus) には「麦星(むぎぼし)」という和名があるようだが、この時代にその呼び方があったかどうかは不明。二十八宿では亢宿の大角になる。ここでは「麦星(ばくせい)」とルビがふってある。

 「麦星(むぎぼし)」だとしたら麦の収穫期に日没時に真上に輝く星なので、麦の豊作と結びつけられてもおかしくはない。まして山老なら山奥で細々と麦を作って暮らしてそうだ。豊作なら奮発して海から鯛を取り寄せたのかもしれない。

 

無季。「麦星」は夜分、天象。

 

八十四句目

 

   麦星の豊の光を覚けり

 勅使芋原の朝臣蕪房       桃青

 (麦星の豊の光を覚けり勅使芋原の朝臣蕪房)

 

 今日勅使河原(てしがわら)という名字の人がいるが、埼玉県児玉郡上里町の勅使河原という地名から来たという。勅使河原直重はウィキペディアに、

 

 「勅使河原 直重(てしがわら なおしげ、生年不明 - 建武3年(1336年))は、日本の鎌倉時代から南北朝時代にかけての武士。左衛門尉。『太平記』では勅使河原丹三郎で知られる。子に貞直、光重か。

 勅使河原氏は武蔵七党の一つ丹党の流れを汲む。

 南北朝の動乱が勃発すると、直重は南朝方として新田義貞に従う。後醍醐天皇や義貞と対立し一時は九州へ没落していた足利尊氏が、勢力を巻き返し軍勢を率い京へ進軍してくると、義貞は迎撃するが大渡で敗れた。『太平記』によると、大渡で敗れた直重は三条河原で奮戦するも、後醍醐が比叡山へ脱出したことを知ると悲嘆し、羅城門近くで子と共に自刃した。」

 

とある。五十六句目と六十五句目に『太平記』ネタがあるから、ここから取った可能性は十分ある。

 麦星の貧しそうなイメージから勅使芋原の朝臣蕪房という架空の人物を作る。「蕪房」は桃青の宗房をもじったか。

 

無季。

 

八十五句目

 

   勅使芋原の朝臣蕪房

 秋を啼烏の鳥を迎へせし     才丸

 (秋を啼烏の鳥を迎へせし勅使芋原の朝臣蕪房)

 

 芋と蕪から畑にやってくる烏を迎えたとする。

 秋の烏は、

 

 月に鳴くやもめ烏の音にたてて

     秋の砧ぞ霜に打つなる

               藤原為家(夫木抄)

 

の歌がある。

 

季語は「秋」で秋。「烏の鳥」は鳥類。

 

八十六句目

 

   秋を啼烏の鳥を迎へせし

 夏やきのふの郭公さに      其角

 (秋を啼烏の鳥を迎へせし夏やきのふの郭公さに)

 

 夏だった昨日のホトトギスが秋を啼くカラスを出迎えた。違え付け。

 

季語は「夏やきのふ」で秋。「郭公」は鳥類。

 

八十七句目

 

   夏やきのふの郭公さに

 津の国の生田の森の初月夜    読人不知

 (津の国の生田の森の初月夜夏やきのふの郭公さに)

 

 『校本芭蕉全集 第三巻』の注に、

 

 きのふだに訪はむと思ひし津の国の

     生田の森に秋は来にけり

              藤原家隆(新古今集)

 

とある。これを本歌にした付けだが、あまりにべったり付いているので、作者を「読人不知」として古歌であるかのようにした。順番からすると桃青。

 「初月夜」はweblio季語・季題辞典に「陰暦八月初めごろの月」とある。

 

季語は「初月夜」で秋、夜分、天象。「津の国の生田の森」は名所。

 

八十八句目

 

   津の国の生田の森の初月夜

 道さまたげに乞食塒す      揚水

 (津の国の生田の森の初月夜道さまたげに乞食塒す)

 

 『校本芭蕉全集 第三巻』の注は謡曲『求塚』の、

 

 「旅人の道妨げに摘むものは、生田の小野の若菜なりよしなや、何を問ひ給ふ。」(野上豊一郎. 解註謡曲全集 全六巻合冊(補訂版) (Kindle の位置No.55060-55063). Yamatouta e books. Kindle 版. )

 

を引いている。この部分は、

 

 旅人の道妨げに摘むものは

     生田の小野の若菜なりけり

              源師頼(堀河百首)

 

がもとになっているという。(野上豊一郎. 解註謡曲全集 全六巻合冊(補訂版) (Kindle の位置No.55302-55303). Yamatouta e books. Kindle 版. )

 ここでは若菜摘みなどという風流なものではなく、ホームレスが寝ているとする。

 

無季。

 

八十九句目

 

   道さまたげに乞食塒す

 霜下て更行里の粥配       其角

 (霜下て更行里の粥配道さまたげに乞食塒す)

 

 施行(せぎょう)であろう。コトバンクの「世界大百科事典 第2版の解説」に、

 

 「仏教の布施(ふせ)の行の一つ。施主が帰依(きえ)する僧に施物をささげること,あるいは富者や強者が貧者や弱者を救わんとする慈悲の行為として,貴族や武家や豪商農や寺院などが貧しい漂泊の僧侶や生活困窮者に対していろいろの施物を施すことをいい,ともに施主はその功徳(くどく)によって仏果を得んとしたものである。上記いずれの施行も,仏教伝来以来,しだいに社会に定着した。 古代国家仏教の時代,仏教の民間への布教は,官寺に止住した官僧ではなく,私度僧(しどそう)や山林修行者や沙弥(しやみ)と呼ばれた民間仏教者によって行われたが,彼らの生存と活躍を支えたのも帰依者からの施行の供物だった。」

 

とある。幕府や領主による施行米もあった。コトバンクの「世界大百科事典内の施行米の言及」に、

 

 「…多くは飢饉,火災,水害などの災害時,罹災窮民のいっそうの困窮化を防ぐため,幕府,領主などによって与えられる救助米を指し,人々はこれを敬して御救米と称した。これに対して,民間で行われる救済の救助米は合力米,施行米と称される場合が多い。なお,窮民層の固定化現象が現れる江戸中期以降,災害時に限らず日常時の救済も企てられ,社会的底辺層に御救米が与えられた。…」

 

とある。

 乞食が増えると道の妨げにもなるので、こうした救済策も必要だった。

 

季語は「霜」で冬、降物。

 

九十句目

 

   霜下て更行里の粥配

 寺〻の納豆の声。あした冴   才丸

 (霜下て更行里の粥配寺〻の納豆の声。あした冴ュ)

 

 秋の終わりから冬の初めに寺では配り納豆のための納豆を仕込む。「くばり納豆」はコトバンクの「精選版 日本国語大辞典の解説」に、

 

 「〘名〙 年末または年始に、寺から檀家へ配る自製の納豆。

  ※俳諧・炭俵(1694)上「切蜣(うじ)の喰倒したる植たばこ〈野坡〉 くばり納豆を仕込広庭〈孤屋〉」

 

とある。例文は『炭俵』の「早苗舟」の巻三十句目。

 施行をする寺では納豆の仕込みも始まる。

 霜に冴ゆは、

 

 霜おかぬ袖だにさゆる冬の夜に

     かものうはげを思ひこそやれ

              藤原公任(拾遺集)

 

の歌がある。

 

季語は「納豆」で冬。「冴ュ」も冬。釈教。

 

九十一句目

 

   寺〻の納豆の声。あした冴

 よすがなき樒花売の老を泣   揚水

 (よすがなき樒花売の老を泣ㇰ寺〻の納豆の声。あした冴ュ)

 

 「よすが」は「寄す処」で縁だとかより所という意味。樒(しきみ)は仏花で葬儀に用いられる。

 樒を売る老人は身寄りがなく、自分が死んだときに樒を捧げてくれる人はいないと思うと悲しくなる。いつも出入りしているお寺では納豆の仕込みが行われている。

 樒の花は春に咲くので、「樒花売」は正花と言えるかどうかはわからないが、春になる。

 

季語は「樒花売」で春、人倫。

 

九十二句目

 

    よすがなき樒花売の老を泣

 団炭荷ふて小野に帰りし     桃青

 (よすがなき樒花売の老を泣ㇰ団炭荷ふて小野に帰りし)

 

 「団炭」は炭団(たどん)でコトバンクの「ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典の解説」に、

 

 「木炭の粉末を主原料とする固形燃料の一つ。木炭粉にのこ屑炭,コークス,無煙炭などの粉末を混合し,布海苔,角叉,デンプンなどを粘結剤として球形に固めて乾燥させてつくる。一定温度を一定時間保つことができるのが特徴で,火鉢,こたつの燃料として愛用され,またとろ火で長時間煮炊きするのに重用された。」

 

とある。貞享元年『冬の日』の「霜月や」の巻二十四句目に、

 

   ことにてる年の小角豆の花もろし

 萱屋まばらに炭団つく臼     羽笠

 

の句がある。炭団は家で作る場合もあれば買ってくる場合もある。

 小野は小野炭(おのずみ)があり、コトバンクの「精選版 日本国語大辞典の解説」に、

 

 「〘名〙 丹波国多紀郡(兵庫県篠山市)小野細川から産した炭。また、山城国愛宕郡(京都市左京区)小野、山城国葛野郡(京都市北区)小野郷から産した炭をいうときもある。《季・冬》

  ※庭訓往来(1394‐1428頃)「高野剃刀・大原薪小野炭小柴黛」

 

とある。ただし、炭団は無季。

 前句の樒花売の老人は炭団を買って小野に帰る。

 

無季。本来ならここは「春」にならなくてはならない。二十二句目の「子丑の番を寅に預ヶて」もそうだったが、なにか説明できる理由があるのか。

名残裏

九十三句目

   団炭荷ふて小野に帰りし

 臑をぞ洗ふ朧の清水影迚は    其角

 (臑をぞ洗ふ朧の清水影迚は団炭荷ふて小野に帰りし)

 

 前句の団炭を荷う男が朧の清水で臑(すね)を洗う。

 「朧の清水」は京都大原の方にある歌枕で、建礼門院平徳子が朧月夜に姿を写したという伝承がある。

 

 ひとりすむ朧の清水友とては

     月をぞ宿す大原の里

              寂然法師(山家集)

 

など朧の清水は朧月を詠む。その意味ではこの句も春の句にできるが、前句はどう説明するのか。

 

季語は「朧」で春。「清水」は水辺。

 

九十四句目

 

   臑をぞ洗ふ朧の清水影迚は

 茂みがくれに牛逃したる     才丸

 (臑をぞ洗ふ朧の清水影迚は茂みがくれに牛逃したる)

 

 前句の朧の清水で臑を洗う影は逃げてきた牛だった。

 

季語は「茂み」で夏、植物、草類。「牛」は獣類。

 

九十五句目

 

   茂みがくれに牛逃したる

 竹の戸を人待下女が寐忘れて   揚水

 (竹の戸を人待下女が寐忘れて茂みがくれに牛逃したる)

 

 牛小屋の竹の戸を人が来るからと開けたまま寝て忘れてしまって、牛が逃げたとする。

 下女は中世では奴隷だった下人が江戸時代に入って年季奉公に変わったもので、下男・下女と呼ばれた。

 

無季。「下女」は人倫。

 

九十六句目

 

   竹の戸を人待下女が寐忘れて

 打ぞつぶてに恨み答へよ     桃青

 (竹の戸を人待下女が寐忘れて打ぞつぶてに恨み答へよ)

 

 竹の戸が下女が寝て忘れたために閉じたままになっていて、やってきた男が石礫を投げつける。竹の戸にとも取れるし、下女にとも取れる。この時代なら下女に石礫ということもあったかもしれない。そういう告発の意味もあるのだろう。

 

無季。恋。

 

九十七句目

 

   打ぞつぶてに恨み答へよ

 涙のみすほんすほんと鳴をれば  才丸

 (涙のみすほんすほんと鳴をれば打ぞつぶてに恨み答へよ)

 

 「すほんすほん」は『校本芭蕉全集 第三巻』の注に「泥亀の鳴き声」とある。確かにスッポンは「すほんすほん」と鳴くからスッポンになったという説はある。水にスポンと飛び込むからだとも言うが、それなら蛙が飛んでもスポンだろう。

 ここは人の泣き声ではないかと思う。今でいう「くすんくすん」ではないかと思う。大声を上げずに泪のみで泣く様であろう。石を投げつけるぞと脅されて怯えて泣いている。

 

無季。恋。

 

九十八句目

 

   涙のみすほんすほんと鳴をれば

 千とせをくさる水の埋木     其角

 (涙のみすほんすほんと鳴をれば千とせをくさる水の埋木)

 

 ここで「すほん」がスッポンに取り成される。

 「埋木(うもれぎ)」はウィキペディアに、

 

 「埋れ木(うもれぎ、英語: bog-wood)は、樹木の幹が、地殻変動や火山活動、水中の堆積作用などによって地中に埋もれ、長い年月をかけて圧力や熱を受けたために変成し、半ば炭化したもので、亜炭もしくは褐炭の一種である。「埋木」「埋もれ木」とも表記し、岩木とも言う。」

 

とある。

 「岩木」は貞享三年の『春の日』の「蛙のみ」の巻第三に、

 

   額にあたるはる雨のもり

 蕨煮る岩木の臭き宿かりて    越人

 

の句がある。亜炭は硫黄などの不純物を含んでいて匂いがある。仙台の名取川の埋もれ木のような歌にも詠まれる上質なものもあったが、大抵は悪臭を放った。

 スッポンが「すほんすほん」と鳴く川で千年かけて腐った埋もれ木が取れる。

 

無季。

 

九十九句目

 

   千とせをくさる水の埋木

 葉伝ひて寸龍花に登るかと    桃青

 (葉伝ひて寸龍花に登るかと千とせをくさる水の埋木)

 

 寸龍は一寸の小さな龍ということか。

 

 名取川春の日数はあらはれて

     花にぞしつむ瀬々の埋れ木

              藤原定家(続後撰)

 

の歌にもあるように、千年の埋もれ木に水面に散る花は何とも目出度く、それに寸龍を添えて吉祥っぽくする。

 

季語は「花」で春、植物、木類。

 

挙句

 

   葉伝ひて寸龍花に登るかと

 如泉法師が春力あり       揚水

 (葉伝ひて寸龍花に登るかと如泉法師が春力あり)

 

 如泉法師は『校本芭蕉全集 第三巻』の注に斉藤如泉とある。コトバンクの「世界大百科事典内の斎藤如泉の言及」に、

 

 「…江戸前期の俳人。姓は斎藤,通称は甚吉。京都の人で,四条道場内に真珠庵を結んで住んだ。梅盛に師事して貞門俳諧を学んだが,1679年(延宝7)高政の《俳諧中庸姿(つねのすがた)》に一座してからは談林俳諧に転じ,信徳,桃青(芭蕉)ら革新的な人びとと新風を競った。元禄期には雑俳の点者としても活躍,とくに漢和俳諧に才能を発揮した。編著に《俳諧柱立(はしらだて)》《松ばやし》等がある。【乾 裕幸】…」

 

とある。

 「信徳、桃青(芭蕉)ら革新的な人びとと新風を競った」とあるように、如泉は信徳編の『七百五十韻』にも参加して八番目の五十韻の発句を詠んでいる。

 

 八人や俳諧うたふ里神楽     如泉

 

 信徳、春澄を含めた八人をこれから龍になろうとする寸龍に喩え、如泉法師の力だと称える。

 なお、如泉法師は正保元年(一六四四年)の生まれで桃青とタメ。

 

季語は「春」で春。