「何とはなしに」の巻、解説

貞享二年三月二十七日、熱田白鳥山法持寺にて

初表

 何とはなしに何やら床し菫草   芭蕉

   編笠しきて蛙聴居る     叩端

 田螺わる賤の童のあたたかに   桐葉

   公家に宿かす竹の中みち   芭蕉

 月曇る雪の夜桐の下踏すげて   叩端

   酒飲む姨のいかに淋しき   桐葉

 

初裏

 双六のうらみを文に書尽し    芭蕉

   琴爪をしむ袖の移リ香    叩端

 髪下す侍従が娘おとろへて    桐葉

   野々宮のあらし祇王寺の鉦  芭蕉

 虚樽に色なる草をかたげ添    叩端

   芸者をとむる名月の関    桐葉

 面白の遊女の秋の夜すがらや   芭蕉

   燈風をしのぶ紅粉皿     叩端

 川瀬行髻を角に結分て      桐葉

   舎利とる滝に朝日うつろふ  芭蕉

 畏る石の御座の花久し      叩端

   羽織に酒をかへる桜屋    桐葉

 

 

二表

 歌よみて女に蚕おくりけり    芭蕉

   枕屏風の画になみだぐみ   叩端

 聞なれし笛のいろえの遠ざかり  桐葉

   三ッ股のふね深川の夜    芭蕉

 庵住やひとり杜律の味ひて    叩端

   花幽なる竹こきの蕎麦    桐葉

 いかに鳴百舌鳥は吹矢を負ながら 芭蕉

   水汲む小僧袖ひややかに   叩端

 月明て打-板山をへだつらん   桐葉

   雲は夜盗の跡埋むなり    芭蕉

 雲は夜盗の跡埋むなり      叩端

   ひとつ兎の瓜喰ふ音     桐葉

 

二裏

 笠みゆる人は葎にとぢられて   芭蕉

   男やもめの老ぞかなしき   桐葉

 風くらき大年の夜の七ッ聞    叩端

   御門をたたく生鯉の奏    芭蕉

 常盤山常盤之介が花咲て     桐葉

   霞に残る連歌師の松     叩端

 

       『校本芭蕉全集 第三巻』(小宮豐隆監修、一九六三、角川書店)

初表

発句

 

 何とはなしに何やら床し菫草   芭蕉

 

 スミレの小さい花は何となく引き寄せられる。この句は後に、

 

 山路きて何やらゆかしすみれ草  芭蕉

 

に改作されて『野ざらし紀行』に収録され、今日でも知られる有名な句になった。

 心惹かれるものに理由なんてない。それだけのことだが「山路きて」の上五によって旅体の句になり、旅での偶然の出会いということも寓意されるようになる。

 改作した句の方だが、『去来抄』に、

 

 「湖春曰、菫ハ山によまず。芭蕉翁俳諧に巧なりと云へども、歌学なきの過也。去来曰、山路に菫をよミたる證歌多し。湖春ハ地下の歌道者也。いかでかくハ難じられけん、おぼつかなし。(岩波文庫『去来抄・三冊子・旅寝論』P,30~31)

 

とある。実際に山にすみれを詠んだ歌は、

 

 箱根山うす紫のつぼすみれ

     ふたしほみしほ誰か染めけむ

              大江匡房(堀河百首)

 老いぬれば花の都にありわびて

     山にすみれを摘まむとぞおもふ

              永縁(堀河百首)

 色をのみ思ふべきかは山の辺の

     すみれ摘みける跡をこひつつ

              寂蓮法師(寂蓮無題百首)

 とふ人は主とてだに来ぬ山の

     懸け路の庭に咲くすみれかな

              藤原為家(夫木抄)

 きぎす鳴く山田の小野のつぼすみれ

     標指すばかりなりにけるかな

              藤原顕季(六条修理大夫集)

 

などがある。

 

季語は「菫草」で春、植物、草類。

 

 

   何とはなしに何やら床し菫草

 編笠しきて蛙聴居る       叩端

 (何とはなしに何やら床し菫草編笠しきて蛙聴居る)

 

 芭蕉さんの発句ということもあってか、発句を旅人として、笠を置いて休憩し、蛙の声に聞き入っている姿を付ける。この頃はまだ古池の句は発表されていないが、何かそれを予感させる。

 

季語は「蛙」で春、水辺。

 

第三

 

   編笠しきて蛙聴居る

 田螺わる賤の童のあたたかに   桐葉

 (田螺わる賤の童のあたたかに編笠しきて蛙聴居る)

 

 暖かな春の日に、遊んでて田螺を踏み割る子供たちを眺めながら、笠を置いて蛙の声を聞く。

 

季語は「あたたかに」で春。「田螺」は水辺。「童」は人倫。

 

四句目

 

   田螺わる賤の童のあたたかに

 公家に宿かす竹の中みち     芭蕉

 (田螺わる賤の童のあたたかに公家に宿かす竹の中みち)

 

 江戸時代のお公家さんは石高も低く抑えられていた。一説には公家の九割は三百石以下だったともいう。

 元禄三年二月十日、鬼貫等の大阪談林系の俳諧「うたてやな」の巻の三十五句目にも、

 

   金乞ウ夜半を春にいひ延

 どれ見ても一かまへあるお公家たち 万海

 

と立派な家に住んではいても借金が返せず、期限を延ばしてくれというネタがあった。

 旅に出ても山奥の寺の宿坊などに泊まり、竹藪の奥へ行ったのだろう。

 

無季。「公家」は人倫。「竹」は植物で切類でも草類でもない。

 

五句目

 

   公家に宿かす竹の中みち

 月曇る雪の夜桐の下踏すげて   叩端

 (月曇る雪の夜桐の下踏すげて公家に宿かす竹の中みち)

 

 下踏は下駄のこと。「すげて」は緒を差し込んでということ。高さがあるので雨や雪など悪天候の時には便利。宿坊の下駄なら修験者が履くような高足駄ではないか。それに皮の足袋なら雪道でもそんなに冷たくはないだろう。

 

季語は「雪」で冬、降物。「月曇る」は夜分、天象。「夜」も夜分。

 

六句目

 

   月曇る雪の夜桐の下踏すげて

 酒飲む姨のいかに淋しき     桐葉

 (月曇る雪の夜桐の下踏すげて酒飲む姨のいかに淋しき)

 

 謡曲『山姥』の山廻りだろうか。

 

 「地  秋はさやけき影を尋ねて、

  シテ「月見る方にと山廻り。

  地  冬は冴え行く時雨の雲の、

  シテ「雪を誘ひて山廻り。」

 (野上豊一郎. 解註謡曲全集 全六巻合冊(補訂版) (Kindle の位置No.89950-89955). Yamatouta e books. Kindle 版. )

 

とある。

 

無季。「姨」は人倫。

初裏

七句目

 

   酒飲む姨のいかに淋しき

 双六のうらみを文に書尽し    芭蕉

 (双六のうらみを文に書尽し飲む姨のいかに淋しき)

 

 爺が博奕にはまってしまい、その恨みを延々と書き綴った文が息子の所に届く。字が乱れていて、相当酔っぱらってるんだろうな。

 双六は今でいうバックギャモンと同系統のゲームで、古くから賭博に用いられた。『東北院職人歌合絵巻』の博徒も、双六盤の前に座る全裸で烏帽子の男が描かれている。

 

無季。恋。

 

八句目

 

   双六のうらみを文に書尽し

 琴爪をしむ袖の移リ香      叩端

 (双六のうらみを文に書尽し琴爪をしむ袖の移リ香)

 

 「琴爪」は琴を弾く時の爪。

 博奕で金を使い果たし、女は置手紙を置いて実家へ帰ったか。残された琴爪に袖の香りが残っていてグッとくる。

 

無季。恋。

 

九句目

 

   琴爪をしむ袖の移リ香

 髪下す侍従が娘おとろへて    桐葉

 (髪下す侍従が娘おとろへて琴爪をしむ袖の移リ香)

 

 「侍従」はいろいろな意味があるが、ここではコトバンクの「デジタル版 日本人名大辞典+Plusの解説」にある、

 

 「?-? 平安時代後期の遊女。

遠江(とおとうみ)(静岡県)の国守として赴任中の平宗盛に寵愛(ちょうあい)される。のち京都に同行するが,母を思慕したため故郷の池田宿にかえされる。元暦(げんりゃく)2年(1185)壇ノ浦の戦いに敗れて鎌倉へおくられる宗盛に歌をおくってなぐさめたという。「平家物語」では遊女宿の女主人熊野(ゆや)の娘とされ,歌をおくった相手は平重衡(しげひら)とされる。謡曲「熊野」の素材となった。」

 

の方であろう。

 句の方は侍従の娘だから、平家物語には登場しない架空のキャラになる。寄る年波に衰えて遊女をやめ仏道に入るが、そのことの腕前を惜しむ者も多い。

 

無季。釈教。「侍従が娘」は人倫。

 

十句目

 

   髪下す侍従が娘おとろへて

 野々宮のあらし祇王寺の鉦    芭蕉

 (髪下す侍従が娘おとろへて野々宮のあらし祇王寺の鉦)

 

 京都嵯峨野にある野宮(ののみや)神社は、かつては伊勢神宮に奉仕する斎王が伊勢に向う前に潔斎をした場所で、『源氏物語』賢木巻では源氏の君が六条御息所を尋ねてこの野宮にやってくる。

 祇王寺は清盛の邸を追われた白拍子、祇王と祇女(19歳)とその母の刀自が尼となった所で、その後も尼寺だった。『炭俵』の「早苗舟」の巻五十九句目に、

 

   又御局の古着いただく

 妓王寺のうへに上れば二尊院   孤屋

 

の句がある。

 嵯峨のにはこのほかにも謡曲『小督』の清盛を恐れて嵯峨に身を隠した物語もある。そこでは、

 

 浅茅生や袖に朽ちにし秋の霜

     忘れぬ夢を吹く嵐かな

           左衛門督通光(新古今集)

 

の歌も引かれている。

 前句の娘の出家に嵯峨野を廻る様々な物語を想起させようというものだろう。

 野々宮が嵐なのは嵐が神風にも通じるということもあるのだろう。祇王寺の鉦と対句になる。

 

無季。神祇。釈教。

 

十一句目

 

   野々宮のあらし祇王寺の鉦

 虚樽に色なる草をかたげ添    叩端

 (虚樽に色なる草をかたげ添野々宮のあらし祇王寺の鉦)

 

 「色なる草」は色草でコトバンクの「精選版 日本国語大辞典の解説」に、

 

 「〘名〙 (「いろぐさ」とも) さまざまの種類。いろいろな色のもの。一説に、種々の草花。特に、秋の色とりどりの草。《季・秋》

  ※源氏(1001‐14頃)野分「中宮の御前に、秋の花を植ゑさせ給へること、つねの年よりも、見どころ多く、いろくさをつくして」

 

とある。

 

 みどりなるひとつ草とぞ春は見し

     秋は色々の花にぞありける

            よみ人しらず(古今集)

 

の歌もある。色々な花を言う。

 秋の嵯峨野の色とりどりの花の咲く野辺で遊び、酒樽をからにする。

 

季語は「色なる草」で秋、植物、草類。

 

十二句目

 

   虚樽に色なる草をかたげ添

 芸者をとむる名月の関      桐葉

 (虚樽に色なる草をかたげ添芸者をとむる名月の関)

 

 芸者は今日の意味だけでなく、weblio古語辞典の「学研全訳古語辞典」に、

 

 「①一芸に秀でた人。芸達者。

  ②芸能を職業とする人。芸人。

  ③遊里などで歌舞や会話で酒席に興を添える男性。幇間(ほうかん)。太鼓持ち。

  ④酒席で舞踊や音曲などで興を添える女性。芸妓(げいぎ)。芸子。」

 

とある。古い時代の関所であれば①か②であろう。名月に酒一樽飲み干し、月明りで秋の花野を楽しむ。

 

 秋深み花には菊の関なれば

     下葉に月ももりあかしけり

              崇徳院(詞花集)

 

の歌もある。

 

季語は「名月」で秋、夜分、天象。「芸者」は人倫。

 

十三句目

 

   芸者をとむる名月の関

 面白の遊女の秋の夜すがらや   芭蕉

 (面白の遊女の秋の夜すがらや芸者をとむる名月の関)

 

 前句の芸者を遊女とする。

 「遊楽の夜すがらこれ、采女の戯れと思すなよ。」(野上豊一郎. 解註謡曲全集 全六巻合冊(補訂版) (Kindle の位置No.22886-22889). Yamatouta e books. Kindle 版. )という謡曲『采女』の遊楽も連想させる。

 

季語は「秋の夜すがら」で秋、夜分。恋。「遊女」は人倫。

 

十四句目

 

   面白の遊女の秋の夜すがらや

 燈風をしのぶ紅粉皿       叩端

 (面白の遊女の秋の夜すがらや燈風をしのぶ紅粉皿)

 

 風が吹けば燈火も消えるし紅粉も散る。「しのぶ」は客待ちの暇を耐え忍ぶということか。

 

無季。恋。「燈」は夜分。

 

十五句目

 

   燈風をしのぶ紅粉皿

 川瀬行髻を角に結分て      桐葉

 (川瀬行髻を角に結分て燈風をしのぶ紅粉皿)

 

 角繰(つのぐり)のことであろう。コトバンクの「精選版 日本国語大辞典の解説」に、

 

 「〘名〙 女の髪の結い方の一つ。髪をぐるぐると巻き上げ、笄(こうがい)をさしたもの。つのぐるむすび。つのぐる。つのぐりがみ。

  ※浮世草子・好色一代女(1686)五「髪はつゐ角(ツノ)ぐり㒵に白粉絶て」

 

とある。

 前句の風を川風として川遊びとする。

 

無季。「川瀬」は水辺。

 

十六句目

 

   川瀬行髻を角に結分て

 舎利とる滝に朝日うつろふ    芭蕉

 (川瀬行髻を角に結分て舎利とる滝に朝日うつろふ)

 

 謡曲『舎利』であろう。

 

 「都・泉涌寺に保管された仏舎利を足疾鬼が奪い取って逃げると、韋駄天が追っ駈けて取り戻す。それを泉涌寺 参拝の旅僧の幻想として描き出す。](野上豊一郎. 解註謡曲全集 全六巻合冊(補訂版) (Kindle の位置No.77506-77509). Yamatouta e books. Kindle 版. )

 

という能で、泉涌寺の湧き水を滝に変えて本説で付ける。

 舎利は無事に取り戻されて朝日が射す。

 

無季。釈教。「滝」は山類、水辺。「朝日」は天象。

 

十七句目

 

   舎利とる滝に朝日うつろふ

 畏る石の御座の花久し      叩端

(畏る石の御座の花久し舎利とる滝に朝日うつろふ)

 

 花山法皇の熊野御幸だろうか。ただ、青岸渡寺の三重塔は天正九年(一五八一年)に一度焼失している。金閣寺も舎利殿で裏には龍門滝という小さな滝があり、後小松天皇の御幸で知られている。

 場所は特にどこということではないのかもしれない。御幸の際の石で拵えた臨時の御座(おまし)に桜の花が咲いてい。

 

季語は「花」で春、植物、木類。

 

十八句目

 

   畏る石の御座の花久し

 羽織に酒をかへる桜屋      桐葉

 (畏る石の御座の花久し羽織に酒をかへる桜屋)

 

 「羽織に酒をかへる」は、

 

 ばせを野分その句に草履かへよかし 李下

 

と同様、今なら「羽織を酒にかえる」になる。

 前句の御座を「ござ」のこととして、庶民が羽織を質に入れて酒を買うとする。桜屋は質屋の名前か。

 

季語は「桜」で春。「羽織」は衣裳。

二表

十九句目

 

   羽織に酒をかへる桜屋

 歌よみて女に蚕おくりけり    芭蕉

 (歌よみて女に蚕おくりけり羽織に酒をかへる桜屋)

 

 蚕は女性との結びつきが強く、その起源の伝承においても女性から始まっている。それだけに「女に蚕おくりけり」はよくわからない。羽織を売って酒を買うような男だから、女に養蚕をさせてヒモになろうということか。

 

季語は「蚕」で春、虫類。恋。「女」は人倫。

 

二十句目

 

   歌よみて女に蚕おくりけり

 枕屏風の画になみだぐみ     叩端

 (歌よみて女に蚕おくりけり枕屏風の画になみだぐみ)

 

 「屏風」はコトバンクの「精選版 日本国語大辞典の解説」に、

 

 「〘名〙 枕もとに立てる小さな背の低い屏風。《季・冬》

  ※古今著聞集(1254)八「歌を書きて、御枕屏風におしつけてありたりける」

 

とある。

 『伊勢物語』第十四段の、

 

 「むかし、をとこ、陸奥の国に、すゞろに行きいたりにけり。そこなる女、京の人はめづらかにや覚えけむ、せちに思へる心なむありける。さてかの女、

  なかなかに恋に死なずは桑子にぞなるべかりける玉の緒ばかり

歌さへぞひなびたりける。」

 

の絵と和歌が男から贈られた枕屏風に書かれていたのだろう。結局男は去っていった。

 

無季。恋。

 

二十一句目

 

   枕屏風の画になみだぐみ

 聞なれし笛のいろえの遠ざかり  桐葉

 (聞なれし笛のいろえの遠ざかり枕屏風の画になみだぐみ)

 

 「いろえ」はコトバンクの「精選版 日本国語大辞典の解説」に、

 

 「〘名〙 (「イロエ」と書く) 能楽で、普通、クセの前に、シテが放心とか、たずね求める雰囲気とかを表わすために静かに舞台を一回りする短い舞。「楊貴妃」「船弁慶」など、優雅な女性の役に多い。また、その時の囃子(はやし)。大鼓(おおつづみ)、小鼓(こつづみ)、まれに太鼓がはやし、笛があしらう演奏法(手附(てつけ))の名称。」

 

とある。笛のイロエはこれだが、「色絵」と掛けて下句の「枕屏風の画」にも掛かる。狂乱物などの悲しい場面が多いので、それを聞いて涙ぐむことも多かったのだろう。

 

無季。

 

二十二句目

 

   聞なれし笛のいろえの遠ざかり

 三ッ股のふね深川の夜      芭蕉

 (聞なれし笛のいろえの遠ざかり三ッ股のふね深川の夜)

 

 「三ッ股」は隅田川、小名木川、箱崎川の分かれる場所で「三つまたわかれの淵」と呼ばれていた。深川芭蕉庵もこの近くにあった。

 夜になると舟遊びをする人たちの乗った船の笛の音が聞こえてきたのだろう。芭蕉にとっては聞きなれた笛だったか。

 

無季。「深川」は名所、水辺。「夜」は夜分。

 

二十三句目

 

   三ッ股のふね深川の夜

 庵住やひとり杜律の味ひて    叩端

 (庵住やひとり杜律の味ひて三ッ股のふね深川の夜)

 

 深川に庵住まいといえば芭蕉さん。ひとり杜甫の律詩を味わう。楽屋落ち。

 

無季。「庵」は居所。

 

二十四句目

 

   庵住やひとり杜律の味ひて

 花幽なる竹こきの蕎麦      桐葉

 (庵住やひとり杜律の味ひて花幽なる竹こきの蕎麦)

 

 「花幽なる」は蘭のようにひっそりと咲く花で正花にはならない。『論語』学而の「人不知而不慍、不亦君子乎。」の心で、隠遁の君子の風情になる。

 「竹こき」は「扱き竹」「扱き箸」ともいい、竹を割って籾を落とす道具で、それで蕎麦の実を落として傍を作る。

 

季語は「蕎麦」で秋。「花幽」は植物、草類。

 

二十五句目

 

   花幽なる竹こきの蕎麦

 いかに鳴百舌鳥は吹矢を負ながら 芭蕉

 (いかに鳴百舌鳥は吹矢を負ながら花幽なる竹こきの蕎麦)

 

 鵙は食用にされ、「鵙落とし」という目を潰した囮の鵙を使う猟もあった。吹矢の鵙猟もあったのだろう。蕎麦を食べて精進していても、隣では吹矢を負った鵙が鳴いている。

 

季語は「百舌鳥」で秋、鳥類。

 

二十六句目

 

   いかに鳴百舌鳥は吹矢を負ながら

 水汲む小僧袖ひややかに     叩端

 (いかに鳴百舌鳥は吹矢を負ながら水汲む小僧袖ひややかに)

 

 犯人は水汲む小僧だったか。「袖ひややかに」は水で冷ややかなのと、やったことのひややかと両方になる。

 

季語は「ひややか」で秋。「小僧」は人倫。

 

二十七句目

 

   水汲む小僧袖ひややかに

 月明て打-板山をへだつらん   桐葉

 (月明て打-板山をへだつらん水汲む小僧袖ひややかに)

 

 「打板(ちょうばん)」は「ダバン」とも読む。禅寺などで時刻を知らせるために打ち鳴らす板。

 月夜も明けて打板の音が遠く隔たれた山に響く。小僧が朝の水汲みにやってくる。

 

季語は「月」で秋、夜分、天象。釈教。「山」は山類。

 

二十八句目

 

   月明て打-板山をへだつらん

 雲は夜盗の跡埋むなり      芭蕉

 (月明て打-板山をへだつらん雲は夜盗の跡埋むなり)

 

 前句の「へだつ」を山の上の寺の眼下に雲が広がって下界と隔てられているとし、夜盗はこの雲の下に逃げて姿が見えないとする。

 

無季。「雲」は聳物。「夜盗」は夜分、人倫。

 

二十九句目

 

   雲は夜盗の跡埋むなり

 むら雨のそそぎ捨たる馬の沓   叩端

 (むら雨のそそぎ捨たる馬の沓雲は夜盗の跡埋むなり)

 

 「馬の沓」はコトバンクの「精選版 日本国語大辞典の解説」に、

 

 「馬の足にはかせるわらぐつ。うまのわらじ。うまぐつ。

  ※小笠原入道宗賢記(1609頃)「馬のくつをばうつといふなり。又かけ候とも申候なり」

 

とある。

 石畳や砂利の道で蹄を傷めないためのもので、雨でぬかった道ではかえって滑るで捨てて行く。馬の通った跡も雨で土が流れて消えて行く。

 

無季。「むら雨」は降物。「馬」は獣類。

 

三十句目

 

   むら雨のそそぎ捨たる馬の沓

 ひとつ兎の瓜喰ふ音       桐葉

 (むら雨のそそぎ捨たる馬の沓ひとつ兎の瓜喰ふ音)

 

 雨で人も通らぬ畑で兎が瓜を食っている。

 

季語は「瓜」で夏。「兎」は獣類。

二裏

三十一句目

 

   ひとつ兎の瓜喰ふ音

 笠みゆる人は葎にとぢられて   芭蕉

 (笠みゆる人は葎にとぢられてひとつ兎の瓜喰ふ音)

 

 笠を被った人からは葎で隠れる所なので、兎が瓜を食べているのが見えない。

 

季語は「葎」で夏、植物、草類。「人」は人倫。

 

三十二句目

 

   笠みゆる人は葎にとぢられて

 男やもめの老ぞかなしき     桐葉

 (笠みゆる人は葎にとぢられて男やもめの老ぞかなしき)

 

 妻を失った悲しみに庭の手入れもされてなくて葎に閉ざされている。

 今まで通りだと叩端の番だが順番が変わり桐葉になる。

 

無季。「男やもめ」は人倫。

 

三十三句目

 

   男やもめの老ぞかなしき

 風くらき大年の夜の七ッ聞    叩端

 (風くらき大年の夜の七ッ聞男やもめの老ぞかなしき)

 

 夜の七ッは午前三時から四時くらいのまだ真っ暗な時間になる。

 一年で一番忙しいと言われる大年も、一人暮らしの老人の家は忘れ去られたように静かで、寝ていればいいものだが、年取るとこんな時間に目覚めてしまう。

 

季語は「大年」で冬。「夜」は夜分。

 

三十四句目

 

   風くらき大年の夜の七ッ聞

 御門をたたく生鯉の奏      芭蕉

 (風くらき大年の夜の七ッ聞御門をたたく生鯉の奏)

 

 今でも地方によっては正月に鯉を食べるという。滝を登り、やがては龍になるという鯉は出世の象徴でお目出度い。大晦日の朝未明に鯉を売りに来て門を叩く人もいたのだろう。これも大晦日の恒例の儀式とばかりに「生鯉の奏」と勝手に名付ける。

 

無季。

 

三十五句目

 

   御門をたたく生鯉の奏

 常盤山常盤之介が花咲て     桐葉

 (常盤山常盤之介が花咲て御門をたたく生鯉の奏)

 

 常盤山の常盤之介はいかにも目出度そうな名前でそれに花咲くとくれば余計に目出度い。、前句の「生鯉の奏」に応じて、お目出度尽くしにする。

 常盤山は、

 

 秋くれど色もかはらぬ常磐山

     よそのもみぢを風ぞかしける

              坂上是則(古今集)

 

の歌もあるが、場所は不明。

 

季語は「花」で春、植物、木類。「山」は山類。

 

挙句

 

   常盤山常盤之介が花咲て

 霞に残る連歌師の松       叩端

 (常盤山常盤之介が花咲て霞に残る連歌師の松)

 

 連歌師の松も誰のことかはわからないし架空のものだろう。三句続けてのお目出度尽くしで終わる。

 

季語は「霞」で春、聳物。「連歌師」は人倫。「松」は植物、木類。