街道を行く

古代東海道

 きっかけとなったのは『古代道路の謎』(近江俊秀、二〇一三、祥伝社新書)で、古代の道というと、何となく獣道のような、人が踏み固めただけの原始的な道を想像していたが、実際はむしろ幅十二メートルの堂々たる物で、しかもアウトバーンのようにひたすら直線で進んでいったというのを知り、古代のロマンをかき立てられた。

 それからネットで「駅路」を検索し、古代の道に関するいろいろな情報を得ることとなった。

 ただ、古代史の常として、文献資料も考古学的資料も絶対的に不足していて、そこから自由な想像力を働かせるため、邪馬台国論争のように諸説入り乱れている。今回の古代東海道の旅も、そうした素人の一つの推測を楽しむためのもので、それほど確実な根拠があってこのルートを選んだわけではない。

 『奥の細道』の旅にしても、芭蕉が歩いた道が今ではどこにあったかわからない箇所が多く、それを推測で大体この辺だろうということで、その雰囲気だけを楽しむのと同じ感覚で今回も歩いいてみた。

 古代道路というと、十世紀に編纂された『延喜式』に駅路の一覧が示されているが、ここに記されたルートだと、東海道は浜田駅から座間を経て府中に向うのではなく、店屋駅(町田市町谷)から、大井、豊島を経て常陸・下総の方へ抜けている。海老名市の望地遺跡でこの道路の遺構が見つかっているが、道路の幅は六メートルとやや細い。

 今回は延喜式の道ではなく、それより古い道を選んだ。こちらの方が太い道幅と直進性という点で古代道路らしさが感じられるというだけの理由だ。それに、この道で北へ向うと群馬県太田市から室の八島の近くを通って白河の関へと抜けられる。延喜式のルートだと茨城街道の方へ行ってしまい、なぜか白河の関は通らない。古典文学に関係する道は延喜式ルートではなく、旧ルートだったと思われるからだ。

2013年6月2日

 今日は「街道を行く、東海道編」の番外編で、古代東海道編。

 十時ちょい前に分倍河原をスタートする。

 分倍河原というのは響からしておどろおどろしく、子供の頃は馬喰町と並んで、何か恐いものがあると思っていた。

 駅を降りると新田義貞の騎馬像がある。この辺の歴史はよくわからないが、分倍河原の合戦というのがあったらしく、古くからある地名のようだ。

 古代東海道はこの駅の真下を通っていたという。北へ行くと武蔵国国府(府中)の西を通り、国分寺を経て、上野国の太田まで行く。途中東へ分岐する道もあって、さきたま古墳の方にも通じている。そっちの方もいつか行ってみよう。

 今日はここから南へ向う。

 中央高速をくぐる手前に小さな大六天神社がある。この先、高速をくぐってすぐのところに、右側に行くと下河原通りに入る。関戸の方へ抜ける古い道のようだが、別にこれが古代東海道というわけではない。古代道路は幅十二メートルの直線道路で、その面影を残す所は極めて稀で、下河原通りのような緩やかに曲線を描く細い道は、古くてもせいぜい江戸時代くらいだろう。

 途中、新田川緑道に菖蒲の花が咲いていた。菖蒲は昔から尚武に通じるというので、新田義貞を面影に、


 いざしょうぶって花に罪があるじゃなく


 残念ながら、この道は南町交番の所で突き当たり、途切れている。

 交番の手前に八幡神社があった。狛犬は平成九年銘だが、ずんぐりとした風貌は昭和の量産型とは違うオリジナリティーを感じさせる。

 関戸橋のあたりは昔から「中河原渡し」という渡し舟の通る場所で、古代東海道もここで川を渡ったらしい。対岸に連光寺のゴルフ場が見える。右側にも特徴のある山が有り、こちらは「耳をすませば」の聖地だ。今日は行かないけど。

 関戸橋を渡ると川崎街道を左に曲がり、坂道を登って行く。まず目指すのは打越山遺跡。古代道路の跡が発見されている。

 向ノ岡交差点の手前の歩道橋を渡ると、明治天皇が明治十四年に兎狩りに来た際に立ち寄ったという向ノ岡御野立所碑と御駒桜碑がある。

 すぐ近くには昭和十五年に建立された小野小町の歌碑もある。父を尋ねて陸奥へ行った時にここで詠んだ歌らしい。



 武蔵野の向の岡の草なれば

     根を尋ねても哀れとぞ思う

                   小野小町

 近くに公園があって、その入口付近に馬頭観音塔と庚申塔があった。

 向ノ岡交差点の方から来るバス通りに出て少し行くと右側に春日神社がある。狛犬は昭和九年銘。境内には二本の大欅がある。その説明によると、この春日神社は一一八一年頃の建立だという。

 春日神社のあたりから左側に入り登って行くと途中にまた庚申塔がある。地形的にはなだらかな稜線といってもいいのだろう。やがて左に多摩中央病院があり、右に細長い大きなマンションが見えてくる。ここが打越山遺跡だったのだが、その跡を示すものは何もない。ネットで事前に調べてなければ、ここに何があったかもわからないところだ。

 この稜線の道は聖ヶ丘第一、第二次道公園を経て、聖ヶ丘遊歩道へと続いてゆく。ここがかつての東海道だったわけではないにせよ、当らずとも遠からずの道なのだろう。散歩するにはちょうど良い。

 ただ、この道だと若干東にずれるのかもしれない。本来は右側の谷に下りて行き馬引沢を通ってたのかもしれない。いずれにせよ遺跡があるわけでもなく、はっきりはしない。

 聖ヶ丘遊歩道は聖ヶ丘小学校の横を通り、馬引沢南公園から陸上競技場のほうへ行く。本当はここを突っ切った方が良かったのかもしれないが、すぐそばに尾根幹(南多摩尾根幹線道路)が見えたので、多摩東公園の交差点を渡り、このあたりから「よこやまのみち」に入った。

 よこやまのみちは尾根幹に沿って多摩ニュータウンの南部を東西に横断する道で、古くからあった道らしい。歴史散歩コースとして整備されている。といっても、鎌倉時代や南北朝時代に疎い俺としては何の感慨もないが。

 実際、隣に尾根幹が走っているので、時折鶯は鳴いているものの決して静かとはいえない。ちなみに尾根幹は一見広そうだが、中央分離帯が広いだけの一車線ずつの道なので、速度の遅い車にブロックされると結構いらいらする道だ。

 道は狭く、アップダウンが多く、左右も急な斜面になっているため、多分古代東海道は別の所を通っていたのではないかと思う。

 古代は人口が希薄でまだ至る所一面の原野が広がっていたため、道路は最短コースを一直線に通した方が工事も楽で効率も良かったのだろう。それがだんだん人口が増え、平野部の至る所で農地開発が進むと、農地にできるところを太い道路で潰すのはもったいないということで、次第に道路は山あいの斜面に移動し、険しい谷や尾根なども盛んに利用されるようになっていったのだと思う。


 こうして、狭くて坂の多い曲がりくねった道が日本の原風景として定着していったのだと思う。「蔦の細道」や「奥の細道」はそうした原風景を風情のある古道として日本人の心に深く刻んでいった。そして、それが一変するのは戦後の工業化とモータリゼーションで、道路は田畑を潰してふたたび平野を一直線に貫くようになった。

 「よこやまのみち」はまさにそういった道だ。途中に防人見返りの峠、並列する謎の古街道跡、古道五差路などがあるが、やはりこれは鎌倉時代以降の道だろう。

 国士舘のグランドの間を通りぬけるとその古道五差路があるが、どの道も狭い。ここから小野路の方へ降りる道はふじみ墓苑のところで切り立った谷になっていて、東光寺の千手観音像が見下ろせる。こんな所に古代道路はなかっただろう。

 その東側に行くとなだらかな斜面に畑が広がっていて、こういうところならあるいは古代道路があったかもしれない。ただ、こっちへ行くと黒川の方へ降りてってしまう。やはり古代東海道は、西側の今の鎌倉街道の太い道が通っているあたりだったのか。

 東光寺の横を降りて行くと、その今の鎌倉街道に出る。これを下っていくと小野路に出る。

 小野路の交差点を右にずっと行くと、やがて道が細くなり旧小野路宿に出る。今回はそこまで行かず、曲がってすぐ左に曲がり野津田公園へと登って行く道に入る。その野津田公園内に野津田上の原遺跡があり、ここでも幅十二メートルの道路の跡が発見されている。ここが古代東海道の最有力候補地で、そこまで登って広くて緩やかな谷間も古代東海道の跡だと思われる。

 公園といっても芝の生えてない土のサッカー場があるだけで、その先は立ち入り禁止の原っぱになっている。そのさらに先に行くと畑になっている。その先は山の反対側の斜面になり、このあたりは農村伝道神学校の敷地になり立ち入り禁止になっている。とはいえ、廃墟のような建物しか見えなかったが。

 左側の神奈中バスの車庫の方に下って行く坂道は、七国山を越えて行く旧鎌倉街道なのだろう。右側に小さな窪みがある。川が流れていないから人工的に作られた道路の跡なのだろうけど、古代東海道


の跡にしては細すぎる。

 野津田公園は奥にもバラ園とかあるようだったが、今日は長く歩いてきたのと、これからまた古淵まで結構距離があるし、とりあえず上の原遺跡を見たということで今日の目的は達成したので、ここで今日の旅を終わりにして帰ることにした。

 野津田上の原遺跡の延長線上には芝浦街道があり、途中で山崎の方へ曲がり、木曾東を通って古淵駅に出た。久しぶりになかなかいい運動になった。

6月23日

 今日は古代東海道の続き。

 とはいえ、野津田上の原遺跡から先は物証となるような遺跡がないので、ルートはあくまで推測でということになる。

 古代東海道の夷参駅が今日の座間ではないかと言われているので、とりあえずそこに向うのだが、もっともこれも夷参を「いさま」と読んで、強引に「ざま」と結び付けただけの説だから、実際の所どうだかはわからない。

 ただ物証としては、国分寺のあった海老名と座間との中間にある上今泉の国分尼寺北方遺跡で、南北の伸びる道路の跡が二本発見されていて、旧路面は幅約三メートル、新路面は幅七メートル以上でいずれも側溝を持っているという。古代東海道の跡ではないにせよ、座間が古くからの交通の要衝であったのは確かだろう。

 前回、野津田上の原遺跡の帰りに通った道に、地図上で定規を当てると、面白いことにそのまま座間の星谷寺のあたりに出る。上山崎入口から木曾交番前を結ぶ線のほぼ延長線上に16号の大野交番があり、そこから双葉二丁目まではほぼ直線の道がある。とりあえずここを行くことにした。

 この道は「大山道」の一つで「道者みち」と呼ばれるもので、府中から下溝の南側にあった磯部の渡しへと続く道で、いつ頃からあったのかはよくわからない。

 そういうわけで、九時二十五分、古淵駅をスタートする。

 まずはちょっと戻って駅からそのまま北へ向かい、鹿島神社に行く。新田義貞が建てたという言い伝えがあるが、古代まで遡れる神社ではなさそうだ。狛犬は平成四年銘で新しい。

 鹿島というと地震を起こすナマズを押さえつけているという要石がここにもあるという。どれがそれかはわからなかったが、大きな切株の横に立っている石があったが、これだろうか。大地の底深くつながっているという感じはしない。

 境内社には香取神社と稲荷神社がある。近くには大日堂もあった。

 境川橋西の交差点を突っ切ると、緩やかにカーブを描いて登って行く道がある。明治20年の地図だと、木曾交番の方から来る道が境川のところで西側に曲がっていて、この道につながっている。

 川の所は一段低くなっていて、今の古淵駅に行く道は真直ぐ坂を登って行くが、この曲がった道はやや低くなった谷間に沿って登って行く。おそらく古代の道があったとすればこの道ではなく、木曾交番の方から来て、境川の所で曲がらずに直線的に突っ切っていたのだろう。

 坂を登ると大野小の所に出る。今の道は大野小を避けて右にずれているが、昔の道はここから真直ぐ大野交番からの道につながっていた。

 大野交番の角には木もれびの森という、小さな保存された緑地がある。ここからしばらくは一本道だ。

 少しいくと道祖神塔がある。とはいってもそんなに古くない。昭和五十七年に岡本工務店が奉納したもので、双体道祖神の上の部分にM字開脚した女性らしきものが描かれている。M字開脚双体道祖神像とでも言うべきか。

 そこからまた少しいくと大沼神社がある。いわゆる村社で、これもそんなに古いものではなさそうだ。拝殿の周りは堀で囲まれている。

 ネットで調べたら、このあたりはその名の通り大きな沼があり、江戸中期に開墾が始まり新田集落が作られ、そこに作られた大沼弁財天が元になっているようだ。神社の裏には最近まで沼が残っていたようだ。

 狛犬はたくさんあった。鳥居の所に昭和三年銘のが一対、途中に昭和十一年銘のが一対、拝殿前に昭和五十年銘のが一対。奥にある小さな境内社の前に


銘はないが昭和五十年前後のものと思われるものが一対。計四対あった。

 江戸中期の開墾ということは、それまではほとんど手付かずの原野だったのだろう。沼のあたりだけは葦が茂ってたりしたか。そうなると、この道路がそれ以前にあったかどうかは分からない。あったとしたら、原野の中の一本道で、古代の姿を最後まで残していたのかもしれない。


 大沼という地名はここから先も延々と続く。やはり左側に小さな社があって、中を覗くと稲荷神社だとわかる。その先には大沼の交差点があり、そこから先も東大沼、西大沼という地名が続く。

 ゲートボールをやっている広場の角に、さっき見たのと同じようなM字開脚双体道祖神像があった。

 大山道道者みちは、この先双葉一丁目で右に曲がって行く。座間に行くにはここを真直ぐ行かなくてはならないのだが、道は微妙に左にそれて行く。

 直線に行こうとするなら、双葉二丁目で右に曲がり、相模台小入口を左に行き、障害者職業能力開発校や相模原病院に行く手を阻まれながら、相模台公園前へ抜け、相模台六丁目の方へ行かなくてはならない。そこから先も真直ぐ突っ切れる道はない。相武台団地北の歩道橋を越えると、また相武台団地に行方を阻まれる。その先も相武台グリーンパークに阻まれ、こう幾つもの団地に阻まれるというのは、このあたりが宅地開発される前は何もなかったことが想定できる。

 緑台小前から、ようやく座間方向への道が現れる。スポーツセンターのあたりで道が二つに分かれているが、かつては今の道よりもやや東よりの旧道があったのだろうか。この道はすぐに途切れてしまう。

 そのさらに東よりにも南へ行く裏道がある。このあたりは小田急相武台駅の駅前だ。十一時四十分、ここまで二里というところか。ここまではほとんど地形に凹凸がなく、真っ平だった。

 県道51号線に出て市役所入口を右に曲がり、小田急線の踏切を越える。

 実は道者みちの延長線上だともう少し西に寄って、大坂台公園を突っ切ることになる。このあたりは小高い山になっている。おそらく古代道路があったとしたら、西側の大坂台公園や富士山公園の山を避け、座間谷戸山公園との間をピンポイントで通り抜けたのではないかと思われる。

 線路を渡り明王の住宅地はなだらかな尾根で、ここならちょうど良かったのではないかと思う。

 そこから座間谷戸山公園の伝説の丘と小田急線の線路に挟まれた狭い谷間を通り抜け、今の星谷寺のあたりに出たのではないかと思う。「ざま」は狭間(さま)ではなかったか。

 このあたりでちょっと寄り道して、座間谷戸山公園に行ってみた。

 伝説の丘は本来星谷寺の本堂があったところとされている。眺めがいい。

 里山体験館は古い民家を利用したもので休息所になっている。前には丸太に目と髭をつけた川獺(?)のような形をしたオブジェがある。

 里山体験館の裏山はシラカシ観察林になっていて、山頂には三峰神社がある。

 反対側に降りると踏切があり、渡ると星谷寺の前に出る。行基菩薩が開いたとされる古刹だ。

 案内板には花山法王も立ち寄ったとある。あの即位の時に大極殿の高座の中で馬内侍とやっちゃったという、いろいろ破天荒なエピソードの多い天皇で、忯子という女御を寵愛するあまりに病気になっても無理やり宮中に引き止めたあたりは、「源氏物語」の桐壺帝のモデルとも思われる。

 現実の花山帝は桐壺帝とちがい、忯子の死後、突然失踪し、出家する。そしてやがて戻ってきて花山法王となる。だが、果たして東国行脚は本当にあったのか、それとも伝説なのかよくわからない。

 今の星谷寺は伝説の丘にあった観音堂の別当の住居として建てられたものだといわれている。位置的には海老名国分寺、国分尼寺の真北にあり、古代東海道はここを南北に結んでいたと思われる。今の県道407号線は右左に緩やかにカーブしているが、かつては直線道路があったのだろう。

 このあたりは河岸段丘になっていて、東側は山、西側は河川敷へと降りる急斜面になっていて、県道407号線や小田急線の通るあたりがちょうど回廊のようになっている。

 おそらく星谷寺を過ぎると南に一直線の道があり、海老名の相模国分寺の七重塔が見えたのではないかと思う。幅十二メートルというのは、視界を開く効果がある。細い道だと道路脇の樹木にさえぎられて、周りの景色が見えない。七重塔を作るのも、遠くからその姿がはっきりと見えることで、ランドマークにする意図があったのだろう。

 逆に北へ行く旅人は正面に星谷寺の姿が見えたのではなかったか。星というのはおそらく北極星のことだろう。それは天の中心であり、道教の天皇大帝


は北極星の神様だった。北極星に向って進んでいくとやがて狭い谷間になり、そこを越えると相模原の広大な原野に出る。野津田・小野路までは原野の中の一本道が続く。野津田・小野路の山を越え、打越山を越えると目の前に多摩川の広大な河川敷が広がり、その向こうには一面のススキが原のいわゆる武蔵野が広がり、その彼方に武蔵国分寺の七重塔が見えたのではなかったか。

 途中右側に濃いピンクの鳥居と社が見えたので行ってみると内藤稲荷神社と書いてあった。裏側は急斜面となっていて横を通っていた道路も左に折れて急な下り坂となっていた。ここがやはり狭い回廊であることがわかる。

 やがて国道246の陸橋が見えてきて、くぐってすぐ踏切があり、その先の左側に弥生神社があった。長い参道の向こうに長い石段があり、その脇に紫陽花がたくさん咲いていた。狛犬は昭和五十七年銘で新しかった。左側はこのように山になっている。

 国分尼寺跡はそこからすぐだった。跡というだけあって、何もないところにポツリと小さな社と石祠が並んでいるだけだった。社は庚申塔を祀るものだった。寛文六年の古い庚申塔が雨ざらしにならないように社で覆われている。ただ、国分尼寺とはあまり関係なさそうだ。

 国分尼寺を出て相鉄線の踏切を越えると、すぐにだだっ広い広場が見えてくる。広場の真ん中に四角い構造物が見える。ここが国分寺跡だ。やはり跡であってがらんとしている。子供がサッカーをして遊んでいる。時間も午後二時で今日の旅はここまで。ビナウォークで何か食って帰ろう。

 ビナウォークに来たら、なぜかこんな所に七重塔が建っていた。ビルの中に埋もれていたが、これは三分の一モデルで、本当の大きさはこんなもんではない。

 渡り廊下の所ではビナウォークのゆるキャラ、ビナセブンがいた。真っ赤な海老のキャラで金の冠をかぶっている。

 さて、食事だが、ら~めん処というラーメン屋が並んでいるところが目に入った。富山ブラックラーメンというのがまだ食ったことないので、麺屋いろはの黒味玉ラーメンを食べた。スープは真っ黒だが、濃くはない。どっちかというとあっさり味だ。醤油ラーメンにしては独特な味で、あとでわかったのだが特製の魚醤をつかっているということだった。特に魚臭さは感じない。ただ、やはりしょっぱい。スープを完食できなかった。

 おみやげに海老名の地酒、「いづみ橋」の純米原酒赤ラベルを買って帰った。


7月15日

 今日は九時に海老名駅をスタート。ビナウォークの七重塔やブラックラーメンの看板を見ながら、まず東へと向う。国分坂を登る途中のところで右に曲がり、国分小の横の道に入り、あとはひたすら南を目指す。

 このあたりで河岸段丘の回廊は終わり、東側の山が迫ってくる。

 少し行くと左側(東側)の山に大きな鳥居が見える。勝瀬八坂神社で、石段を登って行くと海老名市街が見下ろせる。狛犬はなかった。神社の前の民家の前に丸い自然石に「道祖神」の文字を刻んだ道祖神塔があった。

 このあたりからなだらかな丘が続き、道は狭く、なかなか真直ぐに進めない。さっき来た国分小の道は右に曲がって平地に降りて行ってしまう。地名は北大谷で、山の向こうは多分浜田。古代東海道の浜田駅はこのあたりにあったと思われる。

 少し行くと神明社があった。ここにも狛犬はなかった。濱天坂と書いてある碑があった。どの坂を指すのかわからなかったが、あとでネットで調べたらあの横にある六段の石段がそれで、昭和四十三年に井出了さんが名づけたとのこと。碑の写真は取ったが石段の写真は取ってなかった。

 このあと南へ直進できる道がなく行き止まりになり、戻って左に曲がって緩やかに山を登って行くとなだらかな稜線のようなところに出た。とはいえ、このあたりは完全に住宅地になっている。

 稜線の反対側もびっしりと住宅地になっているが、地形的にはなだらかな谷になっていて、ここが


今日の「浜田町」なのだが、ここには古墳もいくつかあり古代から中世にかけてちょっとした都市があったようだ。

 ちょっと浜田の方に寄り道して降りてみると、畑のある開けたところがあった。そこにまた四角い文字型道祖神塔があった。下のほうへ降りてちょっと引き返したところに歴史公園があった。ここは上浜田中世建築遺跡群のあったところで、中世の立派な建物があったようだ。

 浜田は古代東海道だけでなく、北東に望地遺跡の道路遺構があり、この延長線上の店屋(町田市町谷)から丸子を経て下総や常陸の方へ行く道があり、南東に今の水道道路の元となった道を通って、鎌倉から横須賀を経て東京湾を渡って上総・安房へ行くルートがあり、西へは社家宇治山遺跡の道路遺構を経て、相模川を渡り、伊勢原・秦野の矢倉澤往還へつながる道があり、江戸時代になって東海道が海側に移動するまでは交通の要衝で栄えていたのだろう。

 歴史公園からふたたび稜線の方へと登り、生協や老人ホームのある稜線の道を行き、南へと向った。途中小さな神社があった。名前はわからない。

 やがて正面に高速道路の防音壁が見えてくる。東名高速の海老名サービスエリアで、まあこれが現代の浜田駅といった所か。

 サービスエリアに阻まれてなかなか南側へいけなかったが、ようやく高さ3.5メートルのガードを見つけ、東名高速をくぐった。

 そのまま真直ぐ行くとまた文字型道祖神塔があった。今回はよく道祖神に導かれる。前回もM字開脚のがあったが、今回は普通の道祖神塔だ。

 その先に豊受大神があった。七二五年勧請とあり、古くからこの地にある。これも古代東海道が近くにあったためか。鳥居は笠木と貫との間がやや開いた神明鳥居で、注連縄が貫のところに真横に張られていて、何か古風な感じがする。拝殿も神明造で境内には内宮社天照皇大神があり、豊受大神が外宮となっているので、完全に伊勢神宮だ。狛犬は鳥居の前に昭和八年銘のものがある。

 そこから南へ、しばらく緩やかなカーブの続く道


を行く。古代の道ではないにせよ、古い道なのかもしれない。途中、玉椿地蔵があった。つぼみのまま落ちてしまうこの椿にはいろいろ悲しい物語があるようだ。

 このあと右側は斜面を下って南北に帯状に田んぼが広がっていて、左側は平らな台地となる。そのうち道は下り坂になり、不動明王等のあるところで突き当たりになる。右側へ行って田んぼを越える。

 このあたりから寒川神社のある南西の方角へ進路を変える。右側の坂を登って行くと、石造宝篋印塔と石灯籠の記念碑がある。南西へ進む道から富士ゼロックスの工場が見えるが、これもすぐ行き止まりになる。富士ゼロックスの工場を建てる時に先土器時代から江戸時代に至るまでのさまざまなものが発見されていて、本郷遺跡と呼ばれている。やはりかつての古代東海道と関係がありそうだ。

 富士ゼロックス工場には入れないので、その横を迂回する。右側の小さな道に入るところに大山道の道標があった。戸塚の柏尾の方から厚木市戸田へと抜ける道があったようだ。富士ゼロックスのもみの木門の脇に本郷遺跡の説明書きがあった。工場の先の突き当りを少し右に行き、すぐに左に曲がると、高さ1.8メートルの新幹線のガードがある。新幹線というと高いところを走っているイメージがあるが、このあたりは随分低いところを走っている。かつては周りに家がなく、このあたりは騒音の問題もなかったのだろう。このガードをくぐるとすぐに倉見神社がある。

 神社の前には提灯が並び「祝濱降祭」の横断幕があった。ただ、中はいたって静かで、一部にブルーシートが敷かれていた。この意味は後になって分かった。

 正面の鳥居の右側に境内社の浅間大社があり、そこに大正五年銘の狛犬があった。お腹や腕などにも細かく毛並みが表現されている。倉見神社の境内にも平成六年銘の狛犬があった。口を半開きにして空を見ている表情がひょうきんだ。吽形のほうも口を少し開けている。

 このあと一度右に少し行ってすぐに左に入るが、ここから先は才戸までほぼ直線の道が南西に伸びている。さっきのガードの道のほぼ直線状になる。才戸から先は若干左にずれてゆったりと曲がった道になって途切れている。地図で線を引けば、この直線の延長線がちょうど寒川神社の西側に来る。

 ともあれ、道がなくなっているので、ふたたび右に曲がり、県道を左に行く。寒川橋の手前に普通の双体道祖神塔があった。かなり古そうだ。

 寒川橋を渡り馬場の交差点を過ぎると、寒川神社の玉垣が見えてきた。遠くで太鼓の音がする。参道の方に子供神輿が見えた。

 ただ、境内に入るとやはり静かで、子供の作った神輿がいくつか展示されていた。拝殿の横には渾天儀を模ったモニュメントが飾られていた。

 狛犬は招魂社系で、平成六年銘の巨大なものだった。今まで見た中で一番大きかったかもしれない。

 さて、参道を通り、太鼓橋を渡って外に出ようとすると、向こう側から神輿が2基やってくる。先頭は巫女さんたちが「とどけ鈴の音 ガンバレ!東北」の横断幕を掲げている。次に榊が通り、やがて1基の方が神社の中には入ってきた。もう1基は倉見神社と書かれていて、神社の横の道、今まで俺が来た道の方へ行った。

 濱降祭がどういう祭りなのか全然知らなかったし、今日がその日だということも知らずにここに来たが、家に帰ってテレビを見て、それからネットで調べてやっと納得した。つまり、寒川神社だけでなく周辺の神社のみこしが早朝に一斉に湘南の海に入り、ちょうどそれが寒川神社に戻ってきた所だったというわけだ。それで、寒川神社の神輿だけでなく、さっき行った倉見神社の神輿も帰ってきたわけだ。多分倉見神社の神輿はあのブルーシートの


所でひと盛り上がりするのだろう。

 時間は十二時半過ぎ。涼しい季節なら、これから平塚の国府跡まで歩きたいところだが、暑いので今日はこれで終わり。

 神社のすぐ前に酒屋があったので「寒川の薫風」という酒をお土産に買った。参道を行き、線路を越えたところに竜家というラーメン屋があったので、そこで昼食にした。神社から寒川駅までかなり遠かった。

 「寒川の薫風」は家に帰ってよく見ると地酒ではなく、奈良の北岡本店が作っているもので、調べたら寒川神社のお神酒を納めている酒造会社のようだった。


7月21日

 今日は前回より遅く、八時半に家を出発。今日も暑くなりそうだが、予報ではこの前ほどではない。でも朝から晴れていて、やはり暑くなりそうだ。

 とにかく少しでも前に進みたい。旅のことだけではなく、自分自身も、そして日本も。今と同じ時間は過去に一度たりともなかった。それを「この道はいつか来た道」に思うのは、人は関連のないものでも何らかの類似を見つけて、法則を見つけたがる生物だからだ。

 宮崎駿監督の「熱風」七月号のPDFファイルを読んでふと思ったのだが、日本がもし一九三五年(紀元二六〇〇年)に軍部の圧政に耐えかねて革命を起こし、自力で平和憲法を作っていたら、その後の日本はどうなっていたか、と。俺に小説の才能があったら書いてみたいテーマだ。

 人間は常にベストの選択をするほど賢くもないが、ワーストの選択をするほど馬鹿でもない。それは信じて良いと思う。

 九時五十分に寒川駅に着いた。今日はここからスタート。踏み切りのそばにある寒川神社の一の鳥居までまず戻った。そして、そこを過ぎてスリーエフの所を曲がった。狭い道に入る。別にこれが古代東海道というわけではないが、前回歩いた富士ゼロックスから寒川神社の西側を結ぶ直線の延長線に、大体この道が重なる。とはいえ、この道も程なく行き止まりになる。今日は若干涼しいせいなのか、うし猫ばかり三匹見た。  左ヘ行くと線路があった。こんな所に電車が通っている様子もないし、これは公園の展示物のようだった。

 一之宮公園はかつて相模線の西寒川支線の廃線跡を利用して作られた公園で、そのため線路が敷設されてたり、車輪がおいてあったりするようだ。

 廃線跡の一之宮緑道をゆくと八角形の池のある八角広場があり、そこに「旧国鉄西寒川駅 相模海軍工廠跡」の石碑があった。

 一之宮公園を抜けると圏央道をくぐり、工場の横に出る。少し行くと右側に土手へ登る道があり、相模川の土手に出る。対岸には相模国四之宮前鳥(さきとり)神社の屋根が見え、その向こうには高麗山が見える。平塚の向こう側には大磯丘陵が広がり、


北は丹沢に続いている。その南端にあるのが高麗山だ。古代東海道もこの大磯丘陵を避けて海岸沿いを通っていたといわれているので、これからあの高麗山の麓を目指すことになる。

 昔は渡し舟があったのだろうか。今は南にある湘南銀河大橋を渡ることになる。湘南大橋でいいものを「銀河」とは大きく出たものだ。まあ、平塚は七夕祭りで有名だから、その縁か。

 橋から前鳥神社の方を見ると、相模川の土手とは別にもう一つの土手が神社の裏の方へと通じている。相模川も度々流れを変えたのだろう。橋を渡り終えると土手伝いに歩いてゆく。前鳥神社の裏側に出た。横から神社に入る。ここにも赤い大きな両部鳥居と狛犬があった。口の中や目の周りなどの赤い色が鮮やかだ。昭和五十七年の銘がある。

 拝殿の前には「幸せの松」があった。四本の葉を付けた松葉が見つかるから、この名があるという。試しに落ちている葉っぱを見たら、普通は松葉というのはが二枚なのに、三枚あった。次のも三枚、次のも三枚、どうやらこの木は三枚が標準のようだ。そして、四枚の葉のも本当にあった。

 境内社の祖霊社の前にも狛犬があった。なかなかしっかりとした彫りのもので、大正七年のもの。

 正面の鳥居の前には横にあったのと同じような昭和五十七年の狛犬があった。

 正面から出て銀河大橋の大きな通りを渡ると狭い道に入る。北向観音堂の前を通り、高林寺を左に見て大野の交差点に出る。高林寺の境内からも古代の墨書土器が大量に出土し、国司館ではなかったかといわれている。大野交差点の南の高林寺入口付近からも、ここに国府があったことを裏づけるさまざまなものが出土している。

 大野交差点を過ぎるとしばらく直線の道になるが、この延長線上に 山王A遺跡、B遺跡、溝之内遺跡、東中原E遺跡などがある。全長一キロにわたる幅九・七メートルの古代道路の跡が想定されている。

 ただ、この古代道路の遺跡は奇妙なことに途中で北西方向に曲がっている。一般的に古代東海道は平塚国府の西で南西に向きを変えて高麗山の方へ向うとされていたが、これだと金目川を遡って秦野の方へ行くことになる。東名高速が金目川を渡る付近に下大槻峯遺跡があり、そこに東西方向に伸びる幅九メートルの道路跡が発見されているから、それにつながるものと思われる。

 古代東海道は本来秦野ルートだったのか、それとも道は複数あったのか。それとも時代によって道筋が変わったのか。謎は深まるばかりだ。秦野ルートが正解だとすると、今後歩く予定を変えなくてはならない。

 やがて道は第一三共製薬の工場に突き当たり途切れてしまう。一本北の道路に出ると、西友平塚店が見える。ここが東中原E遺跡のあった所だ。

 店の横には「古代東海道 駅路跡」と書いてある案内板が立っている。そして、その下の地面に三本の茶色い線が引かれ、その間の部分が緑色に塗られている。ここにその駅路跡があった、三本の遺構があったという意味だろう。店の裏にもベンチの置いてあるスペースがあり、そこにも「古代東海道 駅路跡」の解説板があった。ここの地面にも同様、遺構の跡が描かれている。

 こうなると、これから秦野へ向かうべきなのか。ただ、そっちの方へ行ってしまうとセーブポイントにできるような駅が小田急線秦野駅まで全然ない。今日はもう無理だ。

 とりあえず西友のフードコートのラーメン八州屋で塩ラーメンを食べて一服する。そして、予定通り大磯へ向うことにした。

 第一三共の工場の裏の山崎パンの工場のあたりから、高麗山の方へ向う道がある。その道はすぐに途切れるが、大原小の横でまたつながる。平塚競技場が見え、太鼓の音や歓声が聞こえてくる。サッカーの試合をやっているのかと思ったが、今日はやってないので隣の平塚球場で高校野球の予選をやっていたのか。

 平塚市総合公園の反対側に小さなお稲荷さんがあった。小さな狛犬があったが左側の吽形だけだった。前足が欠けている。

 六本交差点を直進し、平塚江南高校の脇を行き、新豊田道で国道一号線に出る。高麗山はもう目の前だ。道を渡り春日神社に行く。

 春日神社の狛犬は天保十四年銘で状態が良い。両方とも子獅子がいて玉取りがなく、しかも阿形のほうの子獅子がおっぱいを吸っているのは、近世東海道の旅の方で見慣れたものだった。

 春日神社の先の古花水橋交差点でその東海道の旧道(近世東海道)と合流する。ここから先は近世東海道だ。

 高麗山の麓には高来(たかく)神社があった。狛犬の銘は読めなかったが、大正三年のものらしい。右側が玉取りの吽形、左側が子取りの阿形とやや変則的だ。

 この先の旧東海道は結構直線的な道だった。多分古代東海道がこっちのルートだったらほとんど似たり寄ったりの所を通っていたのだろう。古代も終わりごろになると国府が大磯に移転したとも言うから、やはり古代東海道はこっちにあったのだろうか。

 大磯の駅の近くは山が迫ってきていて、通れる道は限られている。ここは古代近世並行区間といってもいいのかもしれない。

 そういうわけで午後二時三十五分、今日の旅は大磯駅で終了。駅前で湘南ビールを買って帰った。 


2015年7月20日

 久しぶりにどこかへ行ってみようと思い、古代東海道の旅を再開した。前回が一昨年の7月21日だから、2年ぶりだ。

 その間、東海道の箱根越えや東山道武蔵路の旅もあったし、去年は父と母を相次いで亡くし、しばらくの中断もあった。


 8時くらいに平塚駅を出て古代東海道の大磯ルートと秦野ルートの分岐点と思われる東中原E遺跡(西友平塚店)に向かった。

 途中、平塚八幡宮に行った。参道は静かで、鳥が休んでいた。茅の輪があったので遅ればせながらくぐった。隣に旧横浜ゴム平塚製造所記念館という古い洋館があって、庭にはバラの花が咲いていた。元々は火薬製造所で、同じ平塚の別の場所に立っていたらしい。

 平塚は確か連合軍の上陸予定地点ということで空襲にあったと聞いたが、肝心な火薬製造所を逃してしまったのか。戦後は横浜ゴムが払い下げを受けて、2004年にここに移築されたという。公園には平和の慰霊塔も建てられている。

 「一つの世界」という幻想に引きずられ、欧米列強が世界の覇権を競って植民地拡大を続け、日本も遅ればせながらこの地球規模での天下統一の戦いに名乗りを上げたあんな時代はもう二度と来ることがないにしても、結局戦争も軍隊もなくなることはなく、今も国会周辺でごたごたしている。誰も本気で戦争を望んでいるわけではないのだろうけど、平和への方法論の違いからか互いに疑心暗鬼になり、売り言葉に買い言葉みたいな極端な声が出てきてしまうのはなんとも見苦しい。


 そんなことを思いながら8時38分、ようやく西友平塚店に着いた。店はもちろん開いていない。古代東海道の位置を記したアスファルトは前に来たときと変わっていない。今日はここからスタート。

  北西に進路をとるのだが、例によってまっすぐ進める道はない。住宅地をジグザグに進みながら渋田川に出る。西にはかすかに夏の富士山が見えた。 小さな橋を渡るとしばらく富士山に向かって田んぼの中の道を行く。南豊田の交差点に出、豊田本郷からまた西に進む。少し行くと豊中天満宮がある。狛犬はなく、入り口に大正9年銘の文字型道祖神塔があった。

 少し行くと東海道新幹線のガードがあり、その先に鈴川を渡る東橋がある。ここからやや北へ行ったところに木本雅康さんが古代道路の跡ではないかと指摘した岡崎と寺田縄(てらだな)の境界線の道路がある。

 橋を渡ったあたりがその寺田縄で、日枝神社があった。平成11年銘の新しい岡崎型の狛犬がある。

 ここから北へ行くとやや広い道に出て公園がある。そこから鈴川の方へ戻ると牛や豚のブロンズ像がある。豚の石像もあった。平塚食肉センターの慰霊碑のようだ。

 ここから北西にその道がある。道は右左にゆるやかにカーブしていて直線ではないが、もちろん昔のままの道が今も残っているはずはない。

 途中で道は西に進路を変える。そして小田原厚木道路(おだあつ道路)平塚インターの手前で行き止まりになる。このインターを越えるには少し北にある陸橋を渡らなくてはならない。

 この頃には富士山は霞んで見えなくなっていたが、おそらくしばらく道は富士山を正面に進んでいったのだろう。ただ、残念ながら今はまっすぐ進める道はなく、大分南の方にずれてしまい、金目川に出てしまった。河川改修の石碑が建っていて、解説には度重なる洪水被害のことが書かれていた。おそらく、古代東海道が大磯ルートに移ったのもそういう事情があったのだろう。

 このあと東海大の湘南キャンパスの方へ登ってゆく道に入る。この頃からかなり暑さが身にしみてくる。東海大の前にはフリーデンの工場がある。♪やまと豚~、やまと豚~、今日も明日もやまと豚~。

 東海大の門を過ぎると東光寺がある。どこかで聞いた名前の寺だが、昔の街道沿いに東光寺は付き物だったのか。このあたりの登りはかなり急だ。

 やがて広畑小学校入り口の交差点に出る。このあたりが昔の稜線だったのだろう。向こう側が急な下りになっている。ここで狭い一方通行の下り坂に入る。ここを下ると下大槻峯遺跡があった辺りに出る。東名高速の工事で発見された幅9メートルの道路遺構があったところだ。

 途中、健速神社がある。狛犬は昭和61年銘の無彩色の岡崎型。

 下大槻峯遺跡のあった辺りは公園のようになっていたが、どこに遺構があったかはよくわからない。

 高速をくぐり金目側のほうへ下りて行くと、正面に山の上が芝生になっている場所が見える。上智大学の秦野グラウンドだ。西へ一直線にということになると、そのグラウンドを突っ切ることになる。行ってみるとグラウンドの下をくぐるトンネルがあり、ここを抜けた頃、ちょうど12時のチャイムがなる。

 ここから先は秦野の市街地だ。30度を超える暑さで、今日は秦野駅で終わりだ。

 西大竹から広い通りに出て、秦野総合高校入り口を曲がると秦野駅に出る。ここで終わりでよかったが、何かお土産をというので、ここから秦野のAEONまで行った。秦野ではなく厚木のビールだが、サンクトガーレンの湘南ゴールドとパイナップルエールとスイートバニラスタウトを買って帰った。


9月22日

 今日は古代東海道秦野ルートの続きで、朝6時半に家を出て7時50分秦野駅に着く。8時6分、秦野総合高校入り口交差点からスタート。

 広い道路を西に進む。天気も良く、そんなに暑くもない。まずまずのお散歩日和だ。道の左側はなだらかな斜面で畑が広がっていて、彼岸花が咲いている。古代東海道はこの辺りだったのだろうか。あくまで推測だが。道の右側には大山や丹沢の山が見える。

 上町の交差点を左に入る。坂を上り、途中未知が左へ大きくカーブする所を直進し、細い道へと入る。広い道に出たところで左に上って行くと、前回通ってきた上智大グラウンドの緑の芝生が見える。かなり目立つのでいい目印になる。その向こうは平塚か。

 突き当たりの道を右に行き、山の中にはいると、稜線の道になり反対側に箱根の双子山が見える。

 やがて赤い鳥居と福寿弁財天の赤い幟が並んでるのが見える。トイレという矢印もある。

 降りてゆく途中に現場にあるような仮説トイレがあった。ありがたい。その先に行くと福寿弁財天の赤い社があり、社の前には木彫りの弁財天の寝そべった像がある。社のすぐ下は震生湖で、木の鬱蒼と茂る薄暗い中で釣りをしている人がいた。震生湖は関東大震災の時の土砂崩れでできたもので、寺田寅彦の命名と言われている。古代には当然この湖はなかった。

 ここからしばらく稜線上の舗装道路が続く。このあたりの道端には露草が咲いている。

 やがて道が左にカーブする所で、細い道に入る。長閑な田舎道で菊や鶏頭を栽培している畑がある。道はやがて上り坂になり、ふりかえるとあの上智大の芝生の向こうに平塚の町と相模湾が見渡せ、江ノ島やその向こうの三浦半島までが見える。この浅間台のあたりを古代東海道が通っていたとしたら、都から下ってきた旅人はこのパノラマに感動したにちがいない。

 その先に牛小屋があり、道の反対側には向山配水場がある。このあたりから道は未舗装になる。道にはクヌギの団栗が落ちている。やがて簡易舗装の道

に変わり、道は下り坂になる。家に立ち並ぶ狭い路地に出る。栃窪地区だ。

 頭高山近道という道しるべの方へ行く。春に八重桜を見に行った頭高山に近づいてきたようだ。

 途中、栃窪神社への分岐点のあたりから、夥しい数の犬の声がワンワンキャンキャン聞こえてくる。栃窪神社の道に入ると下の方に「愛犬ハウスセキノ」という建物がある。ブリーダー直売所としてはかなり大手で有名らしいが、あれは愛されている犬の声とは思えない。これから売れて新しい飼い主の所に行けば愛されるのだろうか。

 

 騒ぐ犬悲しく一体何の秋の風

 

 犬の声のやまない栃窪神社に参拝する。この神社は元は御岳神社だったようだ。このあたりは小田原道の要所で、江戸幕府の出来る前からこの神社はあったようだ。小田原道は矢倉沢往還の道筋の一つで、大体今日通ってきた道と重なるから、古代東海道がそのまま利用されてたのかもしれない。昭和61年銘の岡崎型狛犬があった。浅間大神と堅牢地神の石塔があった。

 分岐点まで戻り、犬の声を後にして車が通れないほど細い簡易舗装の道を行く。すぐに赤い鳥居と幡竜王様の石祠がある。月読の尊と関係があるらしく、秦野の守り神なのだが、怒ると地震を起こす恐い神様らしい。

 この簡易舗装の小道はやがて右に曲がって渋沢駅のほうへ降りてゆく。そこに直進する未舗装の道があり、少し行くと峠配水場があり、その先で視界が開ける。このあたりが県道の峠トンネルの真上なのだろう。

 このあたりから篠窪を抜けて酒匂川のほうへ降りて行くのだと思うが、ルートに関しては何の手懸りもない。当てずっぽうで進むしかない。急な下りを避けるならこの谷間の東側を下るか西側を下るかになる。今回は東側ルートを試すため、峠配水場の手前まで戻って、そこから未舗装の道を下って行くことにした。

 道は概ねなだらかで、途中から簡易舗装に変わり、切通しの道になった。いかにも旧道っぽい。やがて峠地区の集落が見えてくる。ここで一度県道に出る。

 県道は上り坂になり、後ろには大山が見え、その右側には峠配水場の鉄塔が見える。これは通ってきた道の目印になる。

 県道はやがて右に大きくカーブする。この地点で工事中の直進道がある。建設中の橋があるようだ。

 道は下り坂になり、再び道は大きく左にカーブし篠窪地区の集落に出る。

 県道はこの先も右に左にカーブしながら、やがて三島神社の前に出る。道路の方に大きく傾いてせり出した大きな椎の木がある。銅の立派な鳥居をくぐると石段があり、境内も広い。狛犬はないが、大き


な神楽殿がある。

 この先に県道から右に入る道があり、富士見塚の道しるべがある。彼岸花の咲く道を登ってゆくと、富士見塚の石碑がある。説明板によるとここは矢倉沢往還の一里塚で、源頼朝がここの榎の下に馬を止めて富士山を眺めたという。この柄の上のほうに公園があり、眺望を堪能できるようになっている。


 あいにく富士山は雲に隠れて山頂がわずかに切れ目から見える程度だったが、足柄峠、急峻な金時山、箱根の山々、相模湾から真鶴半島まで見渡せた。

 

 足柄は遥か彼岸の花に見る

 

 今日歩いたコースは古代道路抜きにしてもなかなか最高の散歩コースなのでお勧め。彼岸花、露草、くず、鶏頭、槿、芙蓉、その他いろいろな花が咲いていたし、日本の景色はまだまだ捨てたものではない。同盟国のみんな~、一緒に守ろうね~。

 ここから素直に大井松田インターの方に下って行き川音川の方に出ればよかったのだが、榊の方へ下りてしまったため、か

なり東よりにコースがずれてしまった。長閑ないい道で申し分ないのだが、ここから酒匂川方向に降りて行く道がない。矢頭橋から東名を渡り、戻って山田総合グラウンドの方へ行くと、そこでちょうど12時のチャイムがなった。

 この先も第一生命の建物が立ちはだかって先には進めない。悪戦苦闘しているうちにようやく国道255号線に出た。ここからだとJRの相模金子駅が最寄り駅だが、次回のことを考えると小田急の開成駅まで進んでおきたい。次回は足柄峠越えになるからだ。

 他に渡れる所がないので足柄大橋を渡った。金太郎の像があった。橋を渡ると程なく開成駅で、今日はここで終わり。

 帰りに新松田に寄って、地酒の松みどり、足柄地ビールのシトラスとうめびあを買い、玄やで坦々麺を食べた。どろっとしたミートソースのようなスープが独特だった。

10月12日

 今日は古代東海道の続きで、いよいよ足柄越え。

 6時半に家を出て7時48分に開成駅スタート。快晴。開成だけに。昨日初冠雪の富士山がまぶしい。

 吉田島の交差点に出る。古代東海道がどのあたりを通っていたかわからないので、取り合えず県道78号線の広い道を行く。

 このあたりは「島」とつく地名がいくつかある。おそらくかつては酒匂川がいくつもの川筋に分かれていて、いたるところに中州があったのだろう。ここも水害の影響を受けやすかったに違いない。少し行くと牛島の交差点がある。

 富士山のすぐ左のぽっこりした山が気になる。結構目立つのでいいランドマークになる。南足柄市に入ると金太郎の像がある。このあたりを通ったことがあるから、これから足柄峠を挟んだ両側のいたるところで金太郎の像や看板を見ることになるのだろう。

 左側に小さな神社があった。境内は公園になっている。何神社かわからないが、今日の旅の無事を願ってお参りする。

 少し行くと正面にトンネルが見えてくる。わき道に入ると旧道のような道があり、トンネルのある低い山の上を越えてゆくことができる。見守り地蔵という木彫りのお地蔵さんがあった。

 山の上に出ると、前回来た富士見塚のほうが見渡


せ、越えると南足柄市の中心部に出る。ここが関本で坂本駅に比定されている。「さかもと」「せきもと」う~ん。「坂本」という名前の駅は東山道にも二箇所あり、山を越える入り口にはありがちな地名だったのだろう。

 伊豆箱根鉄道の大雄山駅の前に出る。そこの大きな看板には「金太郎のふる里足柄山」とあり、さっきのぽっこり山は矢倉岳と書いてあった。矢倉沢往還道の目印だったわけだ。

 『更級日記』の菅原孝標女が遊び女たちの歌を聴いたのもこのあたりだったのか。

 

 「ふもとに宿りたるに、月もなく暗き夜の、闇に惑ふやうなるに、遊女(あそびめ)三人(みたり)、いづくよりともなくいで来たり。五十ばかりなるひとり、二十ばかりなる、十四、五なるとあり。五十ばかりなるひとり、二十ばかりなる、十四、五なるとあり。庵(いほ)の前にからかさをささせて据ゑたり。をのこども、火をともして見れば、昔、こはたと言ひけむが孫といふ。髪いと長く、額(ひたひ)いとよくかかりて、色白くきたなげなくて、さてもありぬべき下仕(しもづか)へなどにてもありぬべしなど、人々あはれがるに、声すべて似るものなく、空に澄みのぼりてめでたく歌を歌ふ。」

 

とある。

 『更級日記』に登場する竹芝寺が今の三田の済海寺のあたりだったとすれば、菅原孝標女は延喜式東海道を通ったと思われる。つまり、今の丸子橋のあたりで多摩川を渡り、国道246の方を経由して浜田駅から平塚へ抜けたと思われる。

 ただ気になるのは、

 

 「足柄山(あしがらやま)といふは、四、五日かねて、恐ろしげに暗がり渡れり。やうやう入り立つふもとのほどだに、空のけしき、はかばかしくも見えず。えもいはず茂り渡りて、いと恐ろしげなり。」

 

という記述だ。足柄山を越えるだけで、さすがに4、5日もかかったりはしない。これはおそらく、竹芝寺から足柄山の麓までのことを指して言っていると思われる。

 当時はまだ人口も希薄で、街道沿いはまだ鬱蒼とした原生林に覆われていたことは想像に難くない。いくら幅12メートルの道路でも、前後の視界は開けても、左右の視界はほとんど利かなかったのだろう。延喜式の東海道だったら幅はその半分くらいだったかもしれない。

 不思議なのは、竹芝寺のところでは海の記述があるのに、ここには海の記述がないことだ。『大和物語』144段に「小総の駅といふ所は、海辺になむありける」とあり、海のそばは通ったものと思われる。

  ただ、『更級日記』は大井川を渡った後いきなり京都についているから、道中のことはかなり省略されている。

 市役所の前を通る道はいかにも旧道っぽく、ゆったりとしたカーブを繰り返すが、だんだん道が細くなり、ついには未舗装になる。このまま行けるのかどうか自信がないので、右に曲がり、78号線に出る。石塔群のあるところから右に入り、上の山通りという細い道に入った。なだらかな稜線を行く長閑な道だ。ただ、すぐに右に折れて苅畑通りを下ってゆくことになる。どうやら右側の山に入るのが早すぎたようだ。

 長閑なのだが、ただ一つ朝から気になっていることがあって、時折地鳴りか遠い雷のような音が聞こえてくるこ


とだ。あれは一体何なのだろうか。

 苅畑通りが78号線に出るあたりで、再び登ってゆく道がある。この道を行くと足柄神社に出る。江戸時代にまでさかのぼれる神社のようだ。慶応2年に立てられたという立派な本殿がある。狛犬はない。

 足柄神社の横を通り抜けると、長柄かな稜線の眺めのいい道が続く。正面には矢倉岳が見え、振り返れば相模湾が見える。このあたりから、足柄古道と書いた道しるべを要所要所で見ることになる。

 道しるべにしたがってゆくと、やがて前に柵が。まさか行き止まりと思ったら、「イノシシ被害対策のため、通行時はその都度ゲートの開閉をお願いします」と書いてあった。自分で開けて通れということのようだった。もちろん通ったあとはちゃんと閉めておく。

 この後道は下り坂になり、矢倉沢の集落に出る。78号線を渡ると「矢倉沢往還と旧旅籠・関所跡」という案内板があり、ここを降りていったあたりに江戸時代の関所跡があった。

 ここまでは本当に長閑な道が続いたが、『更級日記』だと、「さばかり恐ろしげなる山中(やまなか)に」だとか「まだ暁より足柄を越ゆ。まいて山の中の恐ろしげなること言はむかたなし。」だとか、とにかく恐ろしさを感じる所だったようだ。

 足柄古道というのは、多分江戸時代の矢倉沢往還道で、平安時代の道がどこを通っていたかはわからない。ただ、割と直進性が強いので、古代の道を上書きしている可能性はある。それでも、昔はこのあたりに住む人もなく、本当に原生林に覆われていたのだろう。おそらく今のような里山の景色になったのは江戸時代後期か明治に入ってからだろう。

 人の手の入ってない森林は、倒木がそのままになっていたり、木の大きさも間隔も不揃いで、荒れ果てた印象を受けるのは確かだ。今は畑だから眺めがいいが、その頃は見える世界も限られていたし、「雲は足の下に踏まる」とあるから、曇っていて余計に視界が悪かったのかもしれない。

 矢倉沢の集落を出て、78号線に戻る。家康陣馬の跡という看板があった。

 やがて足柄古道入り口というバス停があり、左に舗装道路が分かれている。その横には遊歩道もあるのだが、これが歩く人がいないせいか草に埋もれて歩きにくい。所々木が倒れて道を塞いでたりするから、車道を歩いた方がいい。車は滅多に来ない。どこかの歩こう会の爺さん婆さんたちとすれ違う。

 ここも稜線のなだらかな道だが、周りに家や畑がないせいか、見通しも悪い。昔の道はもっと視界が悪かったのだろう。

 右側に登ってゆく階段があったので、何があるのかと行ってみたら墓地だった。墓地の向こうには矢倉岳が見える。さっきまで正面に見えていた矢倉岳が、後方になっていた。

 墓地から降りるとT字路になっていた。右曲がって降りてゆくと人家があり、金太郎の生家跡というのがあった。金太郎って実在していたんだ。その先には金太郎遊び石があった。赤とんぼがたくさん飛んでいた。


 きんたろの昔あるなら赤とんぼ


 更に下ると、地蔵堂のバス停に出る。ここには駐車場がありトイレもある。

 ここまではまだ比較的平坦な道で、急な上り坂はなかった。

 地蔵堂のY字路を左に曲がり、しばらく行くと78号線に合流する。

 やがて左に足柄古道の道しるべがあり、そこから山道に入る。今度はガチ山道で、蛇行する車道を横切って真っ直ぐ登ってゆく急な上り坂は、箱根の道を思い出す。違うのは石畳がないことくらいか。

 途中から石畳の区間もあった。ただ、石畳の道から右に入る普通の山道があり、そこにあの道しるべが立っている。どっちを指しているのかわかりにく


い道しるべだが、こんな所にわざわざ立てるのだから、石畳じゃない方を行けということなのだろう。実際正解だったようだ。

 源頼光の腰掛石という説明板があった。地がかすれて読み取れなかったが、頼光さんもここで休んだということか。

 古道といってもこれは江戸時代の矢倉沢往還道だろう。ここに広い道があったとは思えない。それとも、駅路とはいえども山越えの道は普通の山道になったのだろうか。

 箱根越えともう一つ違う点は、この上り坂が意外にすぐに終わるということだ。また車道に出たなと思ったら、すぐに足柄の関跡があり、足柄峠一里塚があった。足柄山聖天堂があり、その先には陸橋が見えた。前に夜中に通ったことのある足柄峠だ。12時20分。思ったより早く着いた。

 陸橋の脇の所から右に登ってゆくと、足柄峠城跡公園に出る。綺麗な芝生が広がっていて、向こうには富士山が見える。ここからの駿河側の眺めはいい。箱根の金時山も良く見える。ただ、相模側の眺めはない。

 足柄城は平安末期頃から何らかの形であったらしいが、本格的な築城は小田原後北条氏によるものらしい。この城ができたことで、多分このあたりの地形も古代とはずいぶん違ったものになったのだろう。

 新羅三郎義光の笛吹塚があった。新羅はシルラではなくシンラと読む。近江の国三井寺の新羅明神から来ているらしい。新羅明神は新羅に降り立ったスサノオの神話から来たもので、神道が新羅起源ということではない。

 あと、あまり目立たないけど山の神社という小さな石祠があった。

 さて、これから駿河側に降りるわけだが、いつも古代道路のことで参考にしている「 道・鎌倉街道上道(埼玉編)」というサイトを見ると、足柄峠の西坂にはたくさんのルートがあることがわかる。どれ


が古代の道なのか、それとも全部違うのか、結局よくわからなかった。

 時間があったら全部歩いてみたいけど、今回は一つを選ばなくてはならない。取り合えず最短コースということで地蔵堂川源流ルートを探した。

 入り口が見つからず、一度通り過ぎ、戻ってきたら駐車場の端っこの所に降りれそうな道を見つけた。

 石畳の道だがかなり荒れ果てている。傾斜はなだらかで、さっきの上り坂のような急な道ではない。ただ、駅路にしては狭い。

 石畳はコンクリートで固められていて、そんなに古いものではない。昭和末から平成の初めくらいかもしれない。ただ、ほとんど歩く人がいなかったせいか、いたるところコンクリートは割れ、崩れ、草が生い茂り、倒木が邪魔する。

 山の中の道は人が歩かなくなるとあっという間に荒れ果てて、やがて跡形もなくなるのだろう。まずは大雨が降って土砂崩れがおきて、道がえぐれたり、土砂に埋もれたりする。次にえぐれた所に水が流れ、やがて谷になる。コンクリートで固めても、土砂で押されれば崩れて谷へと落ちてゆく。そんなことが短期間に起きることを、この道は教えてくれる。

 なだらかな尾根道も、おそらくは最初からなだらかだったわけではないのだろう。駅路を作るときには、ごつごつした尾根も、出っ張った所を削り、へこんだ所を埋めて平らにし、広い道を作ったに違いない。ただ、時がたつとへこんだ所を埋めた所は地盤が弱くて崩れやすく、ひとたび崩れればそこを迂回するようにカーブする新しい道が作られる。こうして広い直線の古代道路は、緩やかにカーブする中世、近世の道へと上書きされていったのだろう。

 午前中通った足柄古道は狩川と内川とに挟まれた長い直線的な尾根の道だった。ここに古代道路があった可能性は十分にある。

 これに対し、仮にこの地蔵堂川源流ルートが古い道だったとしても、古代道路ではなく、中世以降の馬が通うための道だったのではないかと思う。

 足柄峠の西坂にたくさんのルートがあるのは、多分足柄城があったことに関係があるのではないかと思う。城があればそこに常に物資を運び込まなくてはならない。そのためには一般の旅人が通るルートとは別に納品専用のルートがあってもいい。

 地蔵堂川源流ルートはやがて78号線に出て終わる。出口の所に手書きの文字で「足柄峠近道」と書いてあった。

 しばらくは78号線を下る。やがて右に石畳の道があり「赤坂古道」と書いてある。これがおそらく江戸時代の矢倉沢往還だったのだろう。

 更に先へ行くと右側に林道がある。ここを行くと、道が大きくカーブして地蔵堂川へ降りて行く。

  この道には何やら名所が多い。銚子が淵、対面の滝、戦ヶ入。中世以降の馬が通う道だった可能性は


十分にあるが、古代道路はここではなかったと思う。どうやら商売柄、ついつい納品ルートを選んでしまったか。

 ところで朝から気になっていたあの音だが、足柄峠を越えたあたりから、はっきりそれが爆発音だということがわかるようになった。時折銃声らしき小刻みな音も聞こえる。この音は前に御殿場を車で通ったときに聞いたことがある。富士山麓の演習場の音だ。それが山一つ越えた開成でも聞こえるとは。

 平和の日本でもこんな銃声の絶えないところがあるとは。だが、もちろん誰も怯える人がいないというのが平和の証だ。

 

 爆音にゆらぎもしない秋の空

 

 やがて神社が見えてくる。嶽之下宮奥宮だ。

 なぜか鳥居の上の笠木がない。両方の柱と貫だけの鳥居で、新しいから別にいわれがあるわけではなく、モダン鳥居なのだろう。中にはいると赤い新しい「縁結びの橋」があり、何かパワースポットブームに乗ろうとしている感じがする。拝殿がなく、御神体が大きな岩なのは、昔からの本物か。

  神社を出ると、すぐに家が立ち並ぶ所に出、足柄駅に出る。無人駅で、近くにコンビにはあるが、お土産を買えそうな店はない。結局来た電車に乗って前回同様松田に出た。


2016年1月11日

 今日は古代東海道の続きで八時半ごろ足柄駅をスタートした。

 前回は地蔵堂川の脇を下ってきたので、近世の足柄越えルートの方がどうなっているのか気になっていたので、先に進む前にまずちょっとこのルートを振り返ってみようと思った。

 細い緩やかにカーブするいかにも旧道らしい上り坂を登ってゆくと、嶽之下神社があった。前回行ったのは嶽之下奥宮で、今回は前宮というところなのか。かつては浅間神社だったらしく、そのほかの神社を合祀して郷社にしたものなのか。

  石の両部鳥居の脇には赤い顔料の残る庚申塔があった。境内からは富士山が見えたが、ほとんど雲に隠れていて山頂部分がわずかに見えた。松田駅にいたときは晴れてたのだが。

 狛犬は平成十九年銘の新しいもので、境内の奥にはかつての神木の名残とも言うべき木の根っこが祭られていた。

 このところ暖かかったが今日はやや寒い。梅は咲いているが草には霜が降りている。

 

 暖冬の梅はまだしも嶽之下

 

 この先の上り坂は浅間坂で、掘割状になっている。江戸時代の銘のある石塔などもあり、いかにも近世の旧道っぽい。広い道(今の足柄街道)に出ると竹之下一里塚がある。


 あくまで今日は寄り道で、このまま足柄峠まで行ったらそれだけで午前中が終わってしまうので、ここから今の足柄街道の方を通って降りた。

 浅間坂が江戸時代の道だとしたら、古代にはひょっとしたらこの尾根を真っ直ぐに降りて対岸の小山高校のほうへ直線的に抜けるルートがあるのかもしれない。これは俺の思い付きではなく「ヨコハマ古道紀行」というサイトで見たものだが。

 今の足柄街道は竹之下一里塚から先は大きく南に迂回するルートを通っている。これはこの尾根の突端が急な坂になっているためだ。尾根道はなだらかで歩きやすいし、道路を作るのに適しているが、たいていの場合尾根の突端部分がネックになる。浅間坂も最後のところで北に大きく曲がっている。これを直進した場合、宝鏡寺のあたりに降りてくることになるが、ここの斜面はかなり急だ。小さな谷もある。

 ここをもし通るとすれば、麓に向かって盛り土をしてなだらかに降りるようにしなくてはならない。それだけでなく、上の方は掘割にして掘り下げる必要があるだろう。そういう地形は残念ながら残っていない。

 下に降りて橋を渡ると、小山高校への車道は右へ左へ蛇行して登ってゆく。ここもかなり急な斜面だ。途中に谷間がある。ひょっとしたら道路の跡かもしれないと思ったが、上に登って小山高校の横から見下ろすと、やはりかなりの急斜面だ。古代東海道はここではあるまい。

 小山高校は横山遺跡があったところで、古墳時代から平安時代にかけての集落の跡が発見されている。


 小山高校を過ぎると、今の足柄街道に出る。左へ行くと陣馬と書かれた石の柱がある。その先、道の左側に日立ハイテクサイエンス小山事業所がある。ここに上横山遺跡の説明板が立っている。八世紀前半ごろの遺跡で、数多くの建物と幅五メートルの道路遺構が発見されている。幅五メートルだと駅路にしては細すぎる。集落の中の枝道だろうか。

 このあたりは広々とした台地で、隣にはアイリスオーヤマ富士小山工場や株式会社エヌビーエスの本社・工場がある。この先に左へ入る道がある。ここを曲がるとほぼ一直線に御殿場市の方へ行ける。

 小山から沼津へ抜ける古代東海道の道筋は、道路遺構などの物的証拠がなく、手がかりはというと、『更級日記』の、

 

 「からうじて越えいでて、関山にとどまりぬ。これよりは駿河なり。横走(よこはしり)の関のかたはらに、岩壺といふ所あり。えもいはず大きなる石の、四方(よはう)なる、中に穴のあきたる、中よりいづる水の、清く冷たきこと限りなし。」

 

という記述があり、この岩壺が駒門風穴だと言われているから、そのあたりに関山駅があり、横走りの関があったことくらいだ。

 その駒門風穴の方へ最短距離で直進するとなると、この道がちょうどいい。ちなみに、定規でこの線を逆に引っ張るとエヌビーエスの本社・工場の裏を通って有闘坂の上の稜線に出る。

 しばらく平坦な長閑な道が続く。左右は緩やかに下り坂になっているので、ここがなだらかな稜線だということがわかる。左には箱根金時山などの足柄の山々が見える。御殿場プレミアム・アウトレットの観覧車も見える。

 右側に水神宮の石塔があり、その奥に十王堂というのがあった。冥土で死者の生前の罪を裁く十柱の王様がいるらしく、その五番目は有名な閻魔様だった。

 やがて道は左にカーブしゆるやかな坂道を降りてゆき、その先に踏切がある。その途中には道祖神塔、庚申塔、馬頭観音塔などがある。

 推定した道路からやや東にずれてしまったため、線路に沿って西へ、隣の踏切まで行く。ここから南西へ行くと鮎沢川の横に出る。このあたりに東田中浅間神社があった。平成十四年銘の狛犬がある。ここにも双体道祖神塔がある。今日は道祖神によく出会う。


 ここから南西に行く道はなく、西に大きくずれて南へ向かう。細い道で、ここにも双体道祖神塔が並び、ワンカップ大関が供えてある。

 そしていきなり郊外型店舗の並ぶ広い道に出る。国道138号線だ。

 東田中二丁目交差点を曲がり、住宅地の中に入る。その先に藍澤神社があった。藤原宗行を祭った神社らしいが、初めて聞く名前だ。説明板によれば、承久の乱で後鳥羽上皇とともに戦ったが敗れ、京より鎌倉に護送される途中この地で亡くなったという。一二二一年頃、このあたりに街道が通ってたということだろう。


 この後市街地を南西の方へと進むのだが、方向感がうまくつかめず、広い道に出たと思ったらいつの間にか御殿場インターの前に出ていた。そうこうしているうちに東名高速の脇に出る。南西ではなく南東に進んでいたようだ。東名高速に沿って進み、マックスバリュの所で曲がってゆくと、今度は大きく西の方にそれてしまう。

 結局御殿場線の線路を越え、県道394号線に出る。ここに永原大神宮がある。天照大神を祭る伊勢社系の神社のようだ。

 県道394号線も地図で見るとかなり直線的に見える。岩波駅のあたりで246号線に合流し、すぐに深良上原でまた分かれるが、ここから先の道はもともと246号線の旧道だったという。ここも古代東海道の候補地の一つと言えよう。

 今回は御殿場市を斜めに横切って、駒門風穴を通るルートを選んでいる。このあたりに道路遺構は発見されていないからまったくの推測にすぎない。

 再び東名高速に近づいた所で右斜めに入る道がある。この道は、アイリスオーヤマや株式会社エヌビーエスの先から御殿場市に至る深沢を南西に進む道とうまくつながる。

 右側に天王神社が見えるその先で国道246に合流する。すぐに左に行く旧道があり、橋を渡ると大六天宮神社の前に出る。ここに柴怒田(しばんだ)というバス停がある。柴怒田という地名はここより遥か北の国道138号線の方にもあるが、本来大六天宮神社はこの柴怒田にあったものの、一七〇七年の宝永の噴火の時火山灰に埋もれ、村民十三戸がこの地に移住してきて再建したものだという。それでバス停も柴怒田だったのだろう。国道138号線は鎌倉往還とも呼ばれ、駿河から甲斐へゆく駅路もこのあたりではなかったかと言われている。

 国道138号線の方の柴怒田が甲斐へ行く道と足柄へ行く道との分岐点だったという説もある。これだと、竹之下からほぼ真西へ向かい、柴怒田でほぼ真南に直角に曲がっていたことになる。

 この大六天宮神社には平成二十年銘の狛犬があり、木に描かれた恵比寿さんの像がある。

 駒門風穴はここからほぼ真南にある。大六天宮神社から南に行くと東名高速の矢場居橋に出る。思えば仕事で静岡方面に行く時、何度やばい橋を渡ったことか。

 ここから先は246の広い通りを行くことになる。

 セブンイレブンの隣にスマル食堂があった。静岡県内ではよく目にするチェーン店だがまだ入ったことないので、今日はラーメンでなくここで昼食にした。

 スマル食堂の横には小さな鳥居があり、社がある。その前には「駒止め石」という岩があり、源頼朝が富士の巻狩りのときに馬を止めた石だという。

 サークルKのある久保前の交差点で246は右に緩くカーブしてゆくが、そこを直進する道を行くと駒門風穴の前へ行く。おそらくこのあたりに関山駅があったのだろう。畑と大きな農家の混在する中を行くと、左に少し入った所に駒門風穴がある。

 駒門風穴の入口には鳥居があり、そこで入場券を買う。中へ入ると大きなくぼみがあって、そこに洞窟の入口がある。入口の右上の方に社が三つ並んでいる。

 洞窟の中の電気は最小限にしているのか、かなり薄暗い。足元も舗装せずに溶岩のままになっているので、ごつごつしている。季節柄、洞窟の中はひんやりとはしていない。かといって暖かくもなく、外の温度に近い。蝙蝠はいなかった。結構奥行きがあった。『更級日記』には「中よりいづる水の、清く冷たきこと限りなし」とあったが、水は洞窟の中にはなく、外に涌き水の飲めるところがあった。 駒門風穴に着いたのが十三時五十五分。足柄駅をスタートしたのは八時半だが、竹之下一里塚の方へ寄り道したから、足柄を出たのは実質的には九時半だとすると、ここまで4時間半。前回大雄山を出たのが九時くらいで足柄に着いたのが十四時だとすると、古代東海道の坂本駅から関山駅までの所要時間は九時間半ということになる。結構この一駅は長い。『更級日記』だと、「まだ暁より足柄を越ゆ」とあるから、朝の五時くらいに出発したか。そうすると「からうじて越えいでて、関山にとどまりぬ」とあるが、実際には十分明るいうちに関山に着いて、ゆっくり岩壺(駒門風穴)を見物できたのだろう。


 駒門風穴をあとにして、更に南へ行くと自衛隊の駒門駐屯地の前に出る。中には入れないので、西側246側を行く。外からでもシートを被った夥しい数の戦車が見える。日本にもこんなに戦車があるのか。そういえば駒門風穴にいた時から富士山の方で、例の爆音が聞こえていた。

 

 寒空に富士の巻狩りまだ止まず

 

 駐屯地の横を抜けると246の下をくぐって反対側に出る。このあたりから246は長い下り坂になる。左側の久保川との間にはかなりの高低差がある。この辺が溶岩台地の端っこになるのだろうか。そうなると、古代東海道はもう少し上の方で久保川を越えたのだろう。もっとも、長い年月の間に久保川の流れも変わってしまったのかもしれないが。

 ここから先は取りあえず246を歩き、今日の終着点の岩波駅に向かう。岩波の交差点を左に曲がると久保川と合流した黄瀬川を渡るが、このあたりだとあまり高低差はない。すぐに岩波駅に到着し、今日の旅を終える。十五時五分。

 さて、何かお土産を買わなければと、さっきから気になってたのは御殿場高原時之栖(ときのすみか)の御殿場高原ビールの看板で、県道394号線を北に戻ることになるが、とにかく行ってみた。結構遠かったし、入り口がわからず神山復生病院の方まで行って、通り抜けられなくて戻ったりしたから、何のかんのいって一時間近くかかってしまった。

 既に薄暗くなる中、イルミネーションの明かりがともっていた。イベント広場では犬の玉乗りショーをやっていた。無事に御殿場ビールを買って、帰りは旧道を通って帰った。矢倉沢往還の駿河側の旧道はこのあたりを通っていたようだ。日は既に沈みかかっている。

 

 冬残照、銅の輝き道祖神

 

 


3月21日

 今日は古代東海道の続きで、御殿場線岩波駅からスタートした。

 途中、松田駅では、この前行った西平畑公園やあぐりパーク嵯峨山苑が見えた。西平畑公園の河津桜は完全に緑色になっていて「かぎりさへ似たる花なき」だった。あぐりパークの方はこの前行った時には咲いてなかった右端の別の種類の早咲きの桜が咲いていて、そこだけピンク色だ。

 八時二十分頃岩波駅に着いた。結構降りる人がいる。近くに工場が多いせいか。空は曇っていて、昨日とうってかわって肌寒い。

 古代東海道とは言ってもあくまで推定で、前回も結局ある程度確実なのは駒門風穴のあたりを通っていたということぐらいだった。今回も岩波駅からスタートするものの、どこを通ればいいかかなり迷っていた。

 ただ、『事典 日本古代の道と駅』(木下良、二〇〇九、吉川弘文館)によると、唯一清水町玉井寺墓地移転の際に発見された熊之免遺跡で、幅九メートルの道路遺構が南西から北東へと通っていて、その北東の端では北西に向けて幅が十一メートルに広がっているのがわかっている。木下良氏はこのあたりに長倉駅があった可能性を示唆している。

 古代道路の直進性を信じるなら、駒門風穴から清水町玉井寺の北東部を結ぶ線に古代道路があったのではないかと推定できる。これだと駒門風穴から真南よりはわずかに西に寄ることになるが、国道246の神山西のあたりで久保川にぎりぎり沿って、そこから東名の裾野インターの東をかすめ、千福、裾野市役所、桜堤、下土狩を経て千貫樋のやや西側に綺麗な直線を引くことができる。そこから玉井寺まではほとんど江戸時代の東海道をなぞることになる。

 木下良氏は伊豆国国府が今の三島大社の位置になったと考えているから、千貫樋から逆に北東に延びた線で伊豆国国分寺跡(現在も国分寺がある)の前を通り、そこから真東へ方向を変えて三島大社の前に出たと考えられる。

 とにかく、今回はこの道を通ってみることにした。

 そういうわけで、まず裾野インターの方へ行った。このインターは降りたあとそのまま直進するとまた高速道路に戻れるのと、東京からのキロ数が百キロにちょっと満たないということで、割引を利用するために降りてまた乗ったりしていた。

 その裾野インターの手前のセブンイレブンの所の狭い道を南側へ曲がると、すぐに急な下り坂になる。ここから今日の旅が始まる。

 市営グランドの横を通るあたりから、雨が降り出した。道は緩やかな下りで、右に左に緩やかにカーブしていて、家は途切れない。

 御宿平山西の手前で24号線に出、千福で246号線をくぐり、黄瀬川を渡るとようやくコンビニがある。ここで折り畳み傘を買った。

 中央公園入口バス停の近くに双体道祖神塔と単体道祖神塔が並んでた。このあたりから単体道祖神地帯の入るのか。

 そのすぐ先の信号の所に五竜の滝が右だとあったので行ってみた。橋のところから黄瀬川の川上に三つの滝が見えた。橋を渡った所に小さな社があり、馬の像やレリーフが置いてある所を見ると馬頭観音か。

 24号線に戻ると、まもなく裾野市の中心部に入る。といっても市街地はそんなに大きくない。

 雨は強くもならず、かといって止みそうで止まず、傘をたたんだりまたさしたりという状態だった。市役所の所を曲がり裾野駅の前を通り過ぎると左側に神社があった。佐野原神社という名前だった。藤原朝臣二条為冬卿を祭った神社だという。定家卿の血脈を継ぐ二条家の歌人だったらしい。境内には二〇〇九年に建立された真新しい歌碑があり、そのほかにもいくつか為冬の歌の書かれた看板があった。

 歌碑には、

 

 よそめにはさそまかふらんやまさくら

     木の下にたに雲かとそ見る

                二条為冬

 

の歌と、『菟玖波集』の、

 

 山かせや夕涼しくなりぬらん


 

の句が書かれていた。濁点がないのでわかりにくく、

 

 よそ目にはさぞ紛うらん山桜

    木の下にだに雲かとぞ見る

 

とした方がわかりやすいか。山桜は今日のソメイヨシノとちがって白く、遠くから見ると山にかかる雲のように見えるという古典的なテーマを、木の下から見上げても雲のように見えるのだから、遠くからだとさぞかし雲のように見えるのだろうなと、近くでも花の雲だというところに新味を求めている。

 中世の和歌や連歌は近代歌人から不当に低く評価され、研究も進んでないし、一般に知る機会もあまりない。それは近代短歌が俗語の文学なのに対し、連歌や和歌が雅語という当時の共通語であり規範言語でもある特殊な言葉で作られているせいでもあるのだろう。

 

 思ひ出づる雲まの月の面かげは

     またいつまでもわすれがたみぞ

                二条為冬

 

 この歌も紫式部の「雲隠れにし夜半の月」の系譜を引く、いわばほんのわずかな間しか逢う事を許されなかった人の比喩として理解されていたのだろう。

 

 分ゆけば野辺の小篠の上よりも

     袖にたまらで降る霰かな

                二条為冬

 

 源実朝の「もののふの矢並つくろふ籠手の上に霰たばしる那須の篠原」の霰の「たばしる(飛び散る)」という言葉を、「たまらで」と留まることなくどこまでもこぼれ落ちてゆくという言葉に置き換えることで、戦の空しさをより際立たせている。


 いつの世ももののふの道はただ死に向かうだけのもので、勝利も敗北も悲しみや恨みだけを残してゆく。後醍醐天皇方に着いて戦死した二条為冬の名も今ではほとんどの人は知らない。それも袖に溜まらないで零れ落ちていった霰の一粒なのだろうか。

 なお、この神社には芭蕉の句碑もあった。

 

 眼にかかる時や殊更さつき富士   芭蕉

 

 何だ芭蕉さん、「富士を見ぬ日ぞ面白き」と言っておきながら、やっぱり富士が見えたら嬉しいんじゃないか。今日は富士山は見えない。

 この神社にいるときは不思議と雨がやんでいた。出るとまたポツリポツリと来る。

 なお、この神社には紀元二六〇一年銘の狛犬もあった。

 御殿場線の線路を越え、左に大きな工場を見ながら県道21号線の広い道を行くと、やがて右側に熊埜神社がある、狛犬は昭和四十五年銘の無彩色の岡崎型。このまま21号線を行くと目標よりもやや東にそれて三島大社の方へ行ってしまうので、このもう一つ先の信号で右に曲がる。この道も結構広い。裾野の新市街のようだ。駐車場の完備した郊外型店舗が並ぶ。西松屋の前の小さなスペースには土筆がたくさん生えていた。

 雨の方はどうやら佐野原神社を出た後少し降っただけで終わったようだ。雲の切れ間から薄日も差してきた。

 伊豆縦貫道をくぐると長泉町に入る。右側には煙突から煙をもくもくと吐き出す工場があり、左にはこぶしの花が咲く。広い真っ直ぐな道がさらに続く。このあたりが桜堤という地名になっている。

 少し行くと右側に日吉神社がある。狛犬は無彩色の岡崎型。境内の右側に石灯籠が並び、その両端に先代と思われる江戸狛犬がある。どちらも銘はなかった。境内の中央に大きな楠がある。

 さらに先へ行くと右側に金山神社という小さな神社がある。


 この広い道もマックスバリューの先で終わる。突き当りを少し右に行くと、左に入るやや小さな道がある。緩やかにカーブして旧道っぽい。

 ここにも日吉神社がある。鳥居には山王宮という額がある。狛犬は昭和五十七年銘の彩色された岡崎型で、首には注連縄を巻いている。この神社には文久三年(一八六三)に奉納された三十五句の発句を記した俳額があるという。実物は見なかったが、説明板にいくつかの句が抜粋されていた。

 

 花咲くやかへすがへすの誘引ふみ  近禅

 きき馴れぬ鳥の鳴きけり冬の月   乙雪

 雨の降る中にひと木の柳かな    広楽

 鶏の踏みなくしけり春の雪     呉山

 藻の花に魚のかかる浅瀬かな    磯女

 

 他にもまだあったが、いずれも確かな技術を感じさせる。

 ここを出ると右側に大きな東レの工場が見える。

 その先には願掛八幡宮がある。狛犬は昭和六十三年銘の彩色された岡崎型。ここも首に注連縄を巻いている。境内に屋根付きの土俵がある。ここでちょうど正午。

 八幡宮を出て左に行き、その先を右に曲がり、小さな小川の脇の細い道に入る。これを真っ直ぐに行き、新幹線の線路をくぐり、東海道線の踏切を越える。このあたりは三島駅に近く、完全に三島の市街地なのだが、住所はまだ長泉町下土狩になっている。

 昔で言えばここはまだ駿河国で、三島市か清水町に入ると伊豆国になる。古代東海道の長倉駅は今となってはその地名は残っていないが、途中で駿河国から伊豆国に移り、さらにまた伊豆国から駿河国に移転している。おそらく駿河国の長倉駅はこのあたりにあったのだろう。

 長倉駅は『続日本後紀』の承和七年(八四〇)十二月の条には伊豆国に移されたとある。その二十四年後の『三代実録』の貞観六年(八六四)十二月十日の条には、柏原駅を廃止し、蒲原駅を富士川の東に移転したとあり、そこには長倉駅は駿河国となっている。


 柏原駅は近世東海道の旅のときに通っていて、江戸時代にも間宿があった所だ。沼津、原、柏原は海岸沿いをかなり直線的に結んでいる。この柏原駅の廃止をもって、古代東海道は海沿いの道ではなく、今の県道22号線に近い山側のルートに移ったと言われている。この二つのルートの間にはかつて大きな干潟があった。

 山側ルートであれば、伊豆国府のあった三島大社と伊豆国国分寺を結ぶ東西の道をそのまま西に延長し、今の上石田ICのあたりを真っ直ぐ行ったのだろう。だとすると長倉駅は長泉町下土狩あたりにあったと思われる。海側のルートだと近世の東海道の辺りまで南に行くから、長倉駅は今の清水町新宿のあたりと思われる。

 海側ルートは江戸時代の東海道にもほぼ引き継がれているし、熊之免遺跡で道路遺構が発見されているが、山側のルートは遺跡もなく未だに何の手懸りはない。そういうわけで、とりあえず今回は海側ルートの方を想定して進むことにする。十一世紀の『更級日記』の旅も、田子の浦を船で越えたとあるから、海側のルートを利用したと思われる。ある時期は確かに山側ルートが駅路で海側ルートが伝路だったのだろう。だが、実際は海側ルートを使うことの方が多かったのではなかったか。

 下土狩から道路を一つ越えると清水町の新宿になる。昔ならここで伊豆国に入ることになる。もうすぐ近世東海道に出るという所で寄り道だが、伊豆国国分寺跡に行ってみた。

 途中に地方(ちかた)神社があった。秀吉の小田原征伐の頃に勧進されたとの説明書きがある。汁かけ飯を食っている高嶋政伸が浮かんでくる。

 国分寺は立派な近代的な寺で、正面には檀家の車なのか、何台も止まっている。入口の所に説明板があって、本堂の裏に塔の八個の礎石が残っているという。ここにも武蔵国や相模国のような巨大な七重の塔があったようだ。位置的にも熊之免遺跡あたりの道を通った時に正面に見えたのではなかったか。

 元も道に戻り、近世東海道の道に出る。ここは二年前の正月に東海道の旅で通った所だ。左に宝池寺一里塚、右に玉井寺一里塚、両方の一里塚が残っているこの場所はよく覚えている。この玉井寺に古代東海道の遺構があるというのは知らなかった。

 そして八幡の交差点、これもよく覚えている。この先に対面石のある八幡神社があったが、今回はその手前で左に曲がった。近世東海道の道をそのまま行ってもよかったのだが、それだと八幡の交差点を過ぎた所で一回西南西へ方向転換することになる。あえて、ここを直進したらどうなるか、ちょっとした思い付きだが、黄瀬川と狩野川の合流点あたりまで行って、そこで川を渡って狩野川の南側を通り、永代橋のあたりで再び川を渡るルートというのを考えてみた。これだと静岡銀行の角のところで近世東海道に合流し、そのまま一直線に原の方へ行く道に入れる。


 裏道をしばらく行くと、旧沼津海軍工作学校案内図という看板がある。ここからバス通りを渡り川のほうへ向かう。川沿いの道は進めず、病院の裏を通って香貫大橋に出る。

 川の位置というのは長い年月の間に洪水によって自然に変わってしまうこともあれば、治水事業によって人工的に変えられている場合もある。このあたりの川が古代どう流れていたのかはわからない。古代東海道の下総へ行く道も、途中、葛飾区奥戸のあたりで中川によって遮断されている。

 狩野川の南側の道を行くと、途中に土地区画整理事業完工記念碑というのがあった。それによると、このあたりは幾度も狩野川の氾濫に見舞われ市街地化が遅れていたと書いてある。平塚の金目川のときもこういう碑があった。水害に弱い所から、少なくとも近世の道は狩野川の北岸を通っていたのだろう。古代の道も北側だったのかなと思っていたところ、その先に関東玉造郷という大きな碑の立った玉造神社があった。これによると延喜式にも記された由緒ある神社だという。ネット情報によると、この地下から玉石三十個が発見されているという。玉を加工する職人集団が住んでいたのだろう。となると、古代は狩野川南岸の方が開けていたのかもしれない。南岸ルートの可能性も捨てがたい。

 なお、この神社には昭和五十年銘の岡崎型無彩色の狛犬がある。

 玉造神社を過ぎると、右側の小川に沿って進み、文化センターの方を抜ける。その先に永代橋がある。これを渡って近世東海道に合流した所で今日の旅は終わりだ。

 さて、今年は正月の東海道ではアオイブリューイングで締めくくり、前回の古代東海道の旅は御殿場高原ビールで締めくくった。沼津に来たからには、沼津港に行ってベアード・タップルーム・沼津フィッシュマーケットに行くしかないだろう。

 沼津港には観光向けの海産物の店や海鮮料理の店が並んでいる。沼津の町は静かだがここだけは結構人が沢山いる。ベアード・タップルームはそんな沼津港の見える場所にあった。お土産にセゾンさゆりとがんこおやじのバーレィワインを買った。