愛しても愛し足りない夕顔の消えてく露に取り残されて、時が過ぎても癒されません。
どこもかしこもよそよそしいだけで、表面を取り繕った計算高い女たちが意地を張り合うなかで、分け隔てなく親しくしてくれたやさしさが何にも代え難く愛しく思うばかりです。
何とかして、別に世間で名を馳せているわけではなくても、人目を憚る必要もない本当に可愛らしい人を見つけたいなどと性懲りもなく画策していて、多少なりとも名門として知られているあたりは抜かりなくチェックするのですが、この人はどうだと興味を引いた女には短い手紙などでそれとなく誘ってみるものの、靡かなかったり冷たくあしらったりする人などどこにもいず、何とも退屈です。
容易に靡かない意志の強そうな女がいても、たいていは極度に感情に乏しくて生真面目だったり、あまり世間のことをわかってないだけのことで、長続きはしないものです。
あっけなく折れて無難な相手に落ち着いちゃうようなこともあって、途中で話が立ち消えになることもよくありました。
そんなものですから、あの空蝉のことが、何かあるたびに悔やまれます。
荻の葉の方も、いかにもありそうな噂を聞いては、ドキッとすることもあるのでしょう。
弱々しい灯火に照らされてくつろいだ姿は、もう一度見てみたいとも思います。
大体において、去って行ったものは忘れられないものなのです。
*
左衛門の乳母という、尼となった大弐の乳母の次に慕っていた乳母の娘で、大輔の命婦というものが内裏に仕えていました。
王家の筋で臣下の姓を持たない兵部の大輔との間にできた娘でした。
けっこうかなり遊んでる女で、源氏の君も身の回りの世話をさせてたりしました。
母の左衛門の乳母は、今では筑前の守の妻で、任地に下ったため、父の兵部の大輔の所に住んで内裏に通ってます。
今は亡き常陸の親王の晩年にできた大変大事になされていた娘が、残されて心細く暮らしているのを、大輔の命婦から話のついでに聞いたので、気の毒なことだということでいろいろ訪ねました。
「それがぁ、性格もルックスも詳しいことはわからないのよぅ。
引き篭もって、人と会おうともしないし、夕暮れに男が通ってきても物越しに話すだけだっていうしぃ。
七弦琴をいつも撫でては話し相手にしているんだってぇ。」
と聞けば、
「詩と酒と琴の三つを友とするには、そのうち一つは無理だろうな。」
と言いながらも、
「聞いてみたいな。
父の親王ほどの名手に常日頃接して七弦琴の心を学んだのなら、そこいらのレベルの腕ではないだろうとおもうんだが。」
と言えば、
「そんな、わざわざ聞くほどのものでもないんじゃない。」
と言うので、
「そう言われるとよけい気になるな。
こんな時期だから、朧月夜にこっそりと聞きにいきたいな。
ここを出よう。」
と言えば、面倒だなと思うものの、宮中のあたりもいかにも長閑な春の暇つぶしに出かけていきました。
大輔の命婦の父、兵部の大輔は妹である常陸の親王の姫君とは別の所に住んでます。
常陸の親王の姫君のところには時々通ってます。
大輔の命婦は義母の所には住みたがらず、例の常陸の親王の姫君の家を親しげに訪ねて、ここにはちょくちょく来ています。
ちょっと整理しますと、常陸の親王の子には兵部の大輔と晩年にできた娘がいまして、兵部の大輔は最初は左衛門の乳母と結婚し、できた娘が大輔の命婦。
その後、兵部の大輔と左衛門の乳母は離婚し、左衛門の乳母は筑前の守と再婚し筑前へ下りました。
兵部の大輔も再婚したため、その後妻は大輔の命婦の継母に当り、大輔の命婦からすれば、その継母の家には居づらい。そのため、祖父の家に住む晩年にできた娘と親しくしていて時折通ってました、ということです。
源氏の君に言われるがままに十六夜の月の奇麗な頃にやってきました。
「何か、かなり無理があるんじゃない。
こういう夜は楽器の音もクリアに聞こえないし。」
と気が引けるものの、
「まあ、向こうに行って、さわりだけでも頼んできてくれよ。
このまま帰ったんじゃ癪だし。」
と源氏の君が言うので、いつも自分が寝泊りしている部屋に源氏を待たせて、こんなむさくるしい部屋で悪いなと思いつつ寝殿に行けば、まだ格子を開けたまま、梅の香を楽しんでくつろいでました。
チャンスだと思って、
「七弦琴の音がこういう夜にはちょーぴったりなんじゃないかと思って、ついつい来ちゃいました。
内裏勤めでなかなか心の余裕がなくて、なかなか聞くこともなくて残念だしぃ。」
と言えば、
「七弦琴の良さを知る人がいるのね。
百敷に出入りする人の聞くほどのものではないものを。」
と言って七弦琴を持ってくるものの、何か場違いで、どんなふうに聞けばいいのかとドキドキします。
軽く掻き鳴らします。
なかなか面白い音です。
それほど上手なわけではないけど、音の出し方が流派の異なる独特なものなので、聞いててつまらないものではありません。
「こんな荒れ果てたさびしい所に、王家の娘ともあろう人にはあまりにも古めかしくせせこましくて、常陸の親王がかつて大切に育て住まわせたその面影もなく、さぞかし無念な気持ちでいるのだろう。
こんな所には、物語にあるような悲しい謂れなんかがあるのだろうな。」
などと取りとめもなく思い、ついでに口説いてみようかと思ってはみるものの、いかにも唐突に思うだろうなと何となく気が引けることもあって、様子を見ることにしました。
大輔の命婦は音楽にも通じていて、源氏の君が聞き飽きてはいけないと思い、
「今日は曇りがちみたいね。
お客さんが来ることになっていて、嫌ってると思われてもいけないんでぇ。
それじゃ、ごゆっくりぃ。
格子も閉めてね。」
と、たいして弾かせずに帰ってきたので、
「何か中途半端なところで終っちゃったじゃないか。
これじゃあ、上手いのかどうかもわからないし、残念だな。」
と不満そうです。
でも何となく興味を引かれたようです。
「どうせならもっと間近で聞けるような所でこっそり聞かせてくれよ。」
というものの、もう少し勿体つけた方がいいと思って、
「そんなぁ、失意の内にこんなひっそりとした所に隠れ住んで、いろいろ苦労をしているのを思うと、気がとがめますぅ。」
と言えば、
まあ、そうだ、簡単に互いに分け隔てなく仲良くなっちゃうような身分というのは、その程度の身分だし、気の毒に思えるくらいの高い身分の出なので、
「だったら、それとなくわかるように伝えてくれ。」
と頼むのでした。
他にも通う所があるのか、こっそりと帰ろうとします。
「御門が『真面目すぎる』と気をもんでいるなんて聞くとぉ、いっつもおかしくってねぇ。
こんなお忍びの姿を何とかして見せてやりたいものねぇ。」
と大輔の命婦が言うと、戻ってきてにわかに苦笑して、
「人ごとのように弱点をあげつらうようなことすんな。
これが浮ついた振る舞いだと言うなら、誰かさんのしてることはどう説明するんだ?」
と言うので、何だかよほど遊んでいるように思われているのか、何かにつけてこんなことを言うので、恥ずかしくてやだなと思って何も言いません。
寝殿の方で人の気配がしたような気がして、静かに近づいていきます。
あちこち竹が折れてしまっている透垣の折れてないところの陰に身を寄せて見てみると、もとよりそこに立っている男がいました。
誰だろう、通ってくるナンパ男でもいるのかと思って、月の光の当らない所に隠れてよく見ると、頭の中将でした。
この日の夕方、内裏を一緒に退出したあと、すぐに左大臣家へ行くのでもなければ二条でもなく、別々の方向に行ったのだけど、どこへいくのだろうと何か気になって、自分も通う所があるにはあるけど、跡をつけて探っていたのでした。
どこで着替えたのか、あやしげな馬に狩衣を無造作に羽織って来たので源氏の君も気付かなかったようですが、さすがにいつもと違った所に入って行ったので、何があるんだろうと思っていると、七弦琴の音に心引かれ立ち止まっていると、源氏の君が帰ろうとして出てくるのではないかとふとおもって、密かに待っていたのでした。
源氏の君は誰がいるのかわかってないふうで、自分が来ているのがばれてないのならと、抜き足差し足でその場を離れると、不意に近寄って、
「置いてきぼりにするなんてひどいと思って、つけてきたんだ。
ご一緒に内裏の山を出たけれど
いざよい月はどこに行ったか」
とぶーたれるのも癪だが、誰だかわかるとちょっと嬉しくもなります。
「そりゃ想定外だったな。」
と憎々しげに、
「月はどの里でも見えるものなのに
沈んでく山を探そうなんて」
「こんなふうにお供するというのはどうでしょうか?」
と、頭の中将は言います。
そしてすぐさま続けて、
「本当なら、こんな夜の外出だって、有能な随身がいるにこしたことはないんだし。
置き去りにしないでくれよ。
みすぼらしい格好での夜間外出は、軽はずみだとの非難の声も出てくるし。」
と忠告します。
こんなふうにばれてしまったのを悔しいと思っても、あの撫子の行方は知らないだろうと、囲碁でいう劫だての格好の材料のように、心のなかで思い起こすのでした。
それぞれに通うべきところはあるものの、せっかくこうして会ったのだからと、そのまま離れ離れになるのも惜しい所です。
源氏の車に二人とも乗り込んで、月が薄い雲に隠れては現われるのが面白い道すがら、竜笛の吹き比べをしながら、左大臣の家に行きました。
先祓いする人も付けずにこっそり屋敷の中に入り、誰もいない廊下で{直衣|のうし}に着替えて、何ごともなく、今内裏からもどったかのように、気ままに笛を吹いていれば、左大臣は例によって聞き逃さず、高麗笛を持ってきました。
高麗笛も得意とあっては、本当に透き通るような音色を奏でました。
箏も用意して、左大臣家の女房達の中にも心得のある人たちに弾かせました。
中務の君も本来なら琵琶を弾く所なのですが、頭の中将が好意を持っているのを無視して、ただこのたまに通ってくる源氏の君の誘いかける仕草に背くことも出来ず、そのことが自ずと本妻に知れることとなり、その母君も決して良いことではないと思うようになってきているので、すっかり悩んでしまい、顔向けも出来ず、寒々とした気分で物陰に寄りかかってました。
源氏の目の届かぬ所に身を引きたいと思ってはみても、さすがに心細く悩むばかりでした。
源氏や頭の中将は、さっき聞いた七弦琴の音を思い出して、すっかり寂れてしまった屋敷の様子などもちょっと変った感じで面白そうだと思いつつ、頭の中将に至っては、
「すごく奇麗で可愛い女が、年月を経てすっかり熟女になった頃に俺と出会って、やばいくらい夢中になられちゃったら、みんな大騒ぎするだろうな、妬まれてさんざん悪く言われるだろうな。」
などと妄想を始める始末です。
源氏の君がすっかり色気づいてあちこちうろうろしているのをみると、さてはもうとっくに手を付けているのではないかと、ちょっとばかり嫉妬しつつ気になるところでした。
その後、それぞれ手紙をやったりしたようです。
どちらにも返事はありません。
どうしたもんかと、やきもきしながら、
「あまりにひどいじゃないか。
ああいう家に住んでる人というのは、いかにも物の心をわきまえていて、儚く散る草木の花や移ろいゆく空の景色なんかもうまいこと取り成して、機転を利かせてその時その時の当意即妙の受け答えをするのがいいんじゃないか。
軽はずみなことはしないとはいえ、ここまで無視されてしまのは不愉快だし、嫌味だ。」
と源氏の君は思うし、もちろん頭の中将も相当いらついてます。
いつものように、屈託のない心で、
「で、返事は来たのか?
試しにいろいろほのめかしたりしてみたけど、馬鹿らしくなってやめたよ。」
とこぼせば、そうか、頭の中将も言い寄ってみたのか、とニヤリとし、
「さあ、別に返事が来ても見ようとも思わないし、見てもしょうがない。」
と答えるので、よそよそしくしやがってと、むかっときました。
源氏の君は、それほど真剣に思ってたわけではなかったものの、こんなふうに冷たくあしらわれてすっかり醒めてしまい、頭の中将がこんなにまで執心しているのを見て、結局女ってやつは熱烈に言い寄ってきたほうに靡くということもあるし、それで、ほれみたことかと先に声かけてきた方に愛想つかされちゃっても悲しいなと思って、大輔の命婦に真面目に相談しました。
「何かはっきりしなく、避けられているようなよう感じで、傷つく。
単なる遊びで声かけてきてると思われてるのではないか。
とにかく、そんなとっかえひっかえなんて気持ちはないんだし、女の方がなかなかおおらかな心で包んでくれなくて、思うようにいかないだけなのに、何か俺が悪いみたいじゃないか。
包容力があって、親兄弟がいろいろ口出しして不満を言うこともなくて、気がねする必要もない人なら、それこそ大事にしたいのだが。」
と言えば、
「そんなぁ、そんなすごぉい人のところに雨宿りしたいんだったら、ちょっとねぇ、無理なんじゃない。
とにかく、暗くて引き篭もってばかりいるだけで、ちょっと珍しい人ですしぃ。」
と見たままを教えます。
「世慣れた所とか、才能をひけらかす所がないだけだろう。
無垢な子供のようにほんわかしている人なら、守ってやりたい。」
と、まだ夕顔のことが忘れられないのか、そう言いました。
*
マラリアにかかったり、人には言えないような悩みやごたごたもあって、心休まることもないような状態で春も夏も過ぎていきました。
秋の候となり、静かに物思いに耽っていると、あの砧の音が耳に取り憑いて聞くのも嫌になりながらも、あの時のことが恋しく思い出されるままに常陸の君にしばしば手紙を書いたものの、相変わらず返事はなく、どこぞに通う気も起きず自己嫌悪に陥り、負けてはいけないとばかりに大輔の命婦に当り散らすのでした。
「一体どうなってるんだ。
こんなことは生まれてこの方初めてだ。」
とどうにも心に引っかかってしょうがないと思って言うと、しょうがないなあという顔して、
「別にぃ、近づかないようにだとかぁ、似合わないだとかそんなこと言った覚えはないよぉ。
ただいつもの引き篭もりでどうしようもなく、筆を取ることすらできないんじゃないかなぁ。」
と言うので、
「それこそ常識がないじゃないか。
まだ世間を知らない子供か、家庭の事情で自分の思うようにできないというのなら、こんな目も当てられないようなことも納得できるが、何ごともきちんと分別をもって考えられるはずなんだから、何もせずに退屈しながら心細く暮らしているのなら、同じ気持ちを分かち合うべく返事をもらえれば、願ってもないことなんだがな。
別に結婚とか助平心で言っているのではなくて、あの荒れ果てた{簀子|すのこ}に出て来てくれればいいんだ。
何かもやもやしたよくわからない気持ちのままではなんなので、許しが得られないなら騙してでも会わせてくれよ。
我慢できなくなって間違いをしでかすようなことは絶対ない。」
なとど取次ぎを頼むのでした。
こんなふうに、世間で噂に上る人の様子をひと通りチェックすると、そのことにいつまでも執着する癖がついてしまっていたもんだから、夕暮れになっても眠れません。
だからといって何をするでもないときに何気なく聞いた話で、「この人なら」と興味を持ったら最後、こんなふうに下心丸出しで言い寄ってくるので、うざったくてしょうがないですね。あの姫君の性格からしてもまったく不釣り合いです。
そんなに上品な人でもないというのに、簡単に取り次いでくれと言われても困ったものだと思ってはみても、源氏の君がそこまで真剣に言うとなると無視するのもどうかと思うし、父の常陸の親王がまだ存命だった頃ですら時代から取り残され尋ねてくる人も稀で、まして今は雑草の茂る中をやってくる人もないなかで、こんな世にも稀な色男が香を焚きこんだ手紙をよこすとなれば、生半可な女房などはひきつった笑いで「返事しなさいよ」とそそのかすものですが、それでも頑なに引き篭もるばかりで一向に見向きもしません。
大輔の命婦は、
「それなら、うまいことチャンスがあったら、何か物を間に置いてお話してみて、たいしたことなかったらやめればいいしぃ、うまくいってちょっとばかり通ってみようということになっても、非難するような人はいないと思うよ。」
などとちょっと軽い遊びの感覚で言っちゃったなと思って、こんなことは父の兵部の大輔にはとても言えないことです。
*
八月の二十日を過ぎた頃、夜も遅くなるまで昇らない月を待つのもじれったく、星の光だけが澄み切っていて、松の梢を吹く風に音が心細く、常陸の親王の姫君も昔のことを話したりしては涙ぐんだりしてます。
絶好のチャンスと思って送った手紙を読んだようで、例によって人目を忍んでやってきました。
月がやっと昇ると、垣根がすっかり荒れ果てているのを気味悪そうに眺めいたものの、大輔の命婦に七弦琴を弾くように頼まれて掻き鳴らした音色がほのかに聞こえてくるのは、なかなか悪くはありません。
「もちょっと、今風な感じがあるといいのにな。」
と大輔の命婦は欲求不満気味で、じれったく思ってました。
まったく人目にない所なので、安心して入れます。
大輔の命婦を呼び出します。
今さらのように驚いたふりして、
「ああもう、ほんと痛いんだからぁ。
というわけで例の源氏の君が来ちゃいましたぁ。
いっつも手紙の返事がないって文句ばっかり言って、そんなうまくいくわけないって言っておいたのだけどぉ、自分で説明するからと言ってたんですよぉ。
どう言ったって帰らないよぉ。
ちょっとやそっとの軽い気持ちで来ているんじゃない所がやっかいで、何か物を隔てて、言ってることを聞いてあげてよぉ。」
と言えば、ひどく恥ずかしがって、
「私、人とどう話していいかわからないの。」
と奥の方へ膝を擦って移動してゆく様子が何ともぎこちない感じです。
大輔の命婦は笑い出して、
「ほんと、いつまでも若いんだから心配しちゃうよぉ。
いい所のお嬢様も親が後ろについてしっかり守っててくれているうちは、天真爛漫に振舞うのも当然と言えば当然だけどね。
ここまで心細い状態になっても、世間との接触を嫌ってたんじゃぁ、どうしようもなくない?」
と諭します。
さすがにこの人の言うことにはなかなか逆らえないようで、
「聞くだけ、返事をしなくてもいいなら、格子を閉めて格子越しに。」
と言います。
「簀子じゃちょっと可哀想。
別に押し入ってきて、いきなり何かしようなどというんじゃないしぃ。」
などと、うまく説得して、塗籠の入口の障子を自分の手でしっかりと閉めて、座布団をその前に置き、源氏の席としました。
ほとんど気乗りのしない感じでしたが、こういうわざわざ通ってくる男と何か話すときの心得なんかも、夢にも思わなかったので、命婦にこう言われると、そんなもんなのかなと思ってその通りにしました。
乳母のような年寄りは曹司局で床に着いていて、夕暮れには既に寝ている状態です。
若い女房など二、三人いましたが、世間でもてはやされているそのお姿を見てみたいと思って、何かいつもと違う不自然な振る舞いになっていました。
姫君の方はというと、上等な御衣に着替えてはいるものの、自身はいつもと何一つ変わることはありません。
男はもって生まれた最高のルックスを、お忍びのために用意した粗末な装束で包み、その様子がいかにも渋く、いつもの源氏しか知らない人に見せてやりたいくらいですが、こんな殺風景な所で「何か気の毒ぅ」と大輔の命婦は思うものの、ただここはおしとやかに振る舞い、姫君が源氏に変なことを言わなければいいがと思いました。
自分がいつも責められているような恨みつらみごとを言われ、ただでさえ病んでる人がさらに塞ぎこんでしまうのではないかと心配になります。
源氏の君も、相手が王家の者だということを思えば、変に気取った今時の上品さよりも遥かに奥ゆかしいと思っていると、向こうで女房達にせきたてられて、障子の方へ膝ですり寄り、王家の者がよく用いた栴檀の薫りが懐かしく、まったりとしていて、「やっぱり」と思いました。
日頃ずっと思い続けてきたことを、なかなかうまいこと言葉にして延々と語るのですが、間近で聞けると思った返事は何一つありません。
「しかとかよ、ひでーな」と深く溜息をつきました。
「何十回君の無言に負けようと
まだ黙れとは言われていない
聞かなかったことにしてもいい。
嫌なら嫌と言ってくれないと、玉だすきの掛けっぱなしじゃ困る。」
と言います。
姫君の乳母の娘である侍従が、まだ若くてそう落ち着いてもいられず、はやる気持ちを抑えられず、見てられないとにじり寄って、
「鐘鳴らし授業終了、なんちゃって、
答えにくいのはお許しをあれ」
と、まだうら若い声で歌うものの、言葉に重みがないあたりが姫君の詠んだ歌を伝えたとは思えないし、高貴な身分とも思えないふざけた感じが有り得ないことなので、
「あきれて物も言えないな。
沈黙は雄弁に勝ると言うけれど
隠し事とはいただけないな」
あれこれと無駄とは知りつつ、冗談を交えながらも真面目に話しかけるのですが、何の反応もありません。
まったくこんなふうに態度が普通と違うのは、誰か他に好きな人がいるからなのかと思うと癪で、いきなり障子を押し開けて中に入りました。
大輔の命婦、
「ありゃーーっ、こりゃまずい、油断してた。」
と恐くなり、見なかったことにして部屋に戻ってしまいました。
姫君と一緒にいた若い侍従たちもまた、世にも稀なイケメンとの噂を聞いていたので、そのまま罪を犯すのも許してしまい、とりたてて大騒ぎすることもありません。
ただ、思いもよらない急な展開に、何とも乱暴なと思うだけです。
当の姫君はというと、ただ何が何だかわからず、恥かしくて自分が惨めだという以外に何もなく、源氏の君も、最初は何だか気の毒だが、箱入り娘で初めてだったのならしょうがないと、特に気にもしなかったものの、何かわからないがとてもいたたまれない様子でした。
*
結局何一つ源氏の君の心に留まるものもありません。
うーーーんとうなり声を上げては、まだ暗いうちに帰ってゆきました。
大輔の命婦は、目を覚まし、帰ってゆく源氏の物音を「どうなっちゃうのかなぁ」と思いながら聞き流し、何も知らなかったことにして、見送りするように咳払いをして合図することもしませんでした。
源氏の方も誰にも知られぬようにさっさと帰っていきました。
二条院に戻るとすぐに寝込んで、「何でこう思うようにならないんだ」と思うばかりで、あの並大抵の身分ではない人のことが気の毒に思えました。
塞ぎこんでいると頭の中将がやってきて、
「朝寝とは随分いい身分じゃないか。
さては何かあると見たな。」
と言うのでむくっと起き上がり、
「独り気楽に寝床でくつろいでいるところに何だ?内裏からか?」
と答えると、
「そうだ。
ちょっとした用事のついでだ。
朱雀院の紅葉狩りの件で、参加する演奏者や舞い手が今日発表されるので、この俺が内定したことを左大臣にも伝えようと思って来たんだ。
すぐに帰らなくてはならないんだ。」
と急がしそうなので、
「だったら一緒に。」
ということで、お粥やおこわを食べて、二人一緒に内裏へと向い、二台の車を連ねたけど一緒の車に乗って、頭の中将は、
「にしても、眠そうだな。」
と何か言わせようとするものの、
「隠し事が多すぎるぞ。」
とぼやくのでした。
いろいろなことが決定される日なので、内裏で一日働きました。
例のところには、一応婚姻の儀式とするには三日続けて通わないまでも手紙くらいはと思ってるうちに夕方になりました。
雨も降り出すし、宮廷の窮屈な事情もあって、例のところへ行って雨宿りしようかと思うこともなかったのでしょう。
そこには、本来なら朝には来るはずの手紙を待ちわびて、大輔の命婦も姫君のあまりに気の毒な様子に自己嫌悪に陥ってました。
当の姫君はというと、心の中でずっと恥ずかしいと思い続け、朝に来るはずの手紙が夕方になって来ても、特に何とも思ってませんでした。
「夕霧の晴れた景色を見ぬうちに
今夜の雨はただ鬱陶しい
雲の晴れ間に月が出るのを待っていると、気持ちばかりがせいてなりません。」
どうやら今日は来そうにない様子なので、仕えている人たちも胸の潰れる思いで、
「一応返事はしなくては。」
と急きたてるものの、ますます頭が混乱するばかりで、いっこうに歌の体をなさないので、
「もう夜が更けてしまいます。」
とあの侍従が手助けして、
「雨の中月待つ気持ち解りますか
同じ気持ちで見てないにせよ」
口々に責められながら、紫の紙に、といってもかなり昔のものですっかり灰色く変色してしまった紙に、さすがに力強い筆づかいで、行成以前の時代の{草仮名|そうがな}で、この散らし書きが主流の時代に上句下句をきちんと二行に分けて書いてました。
源氏の君は、見る気も失せてそのまま放っておきました。
一体何を考えているんだ、とあれこれ想像をめぐらしても気が気でありません。
「こういうのを『くやしい』というのだろうか。
だからといって、どうしようもない。
気長にこれからもずっと世話をしていこう。」
と心に決めました。
そんな源氏の気持ちも知らず、あちらではどうしようもないくらい悲嘆にくれるばかりでした。
左大臣が夜になって退出するときに、誘われるがままに源氏の君は左大臣の屋敷に向かいました。
朱雀院の行幸の舞楽のことでいろいろ興味惹かれることもあって、貴族の子息達が集っては話し合い、それぞれ舞の練習を毎日のようにやってた頃なので、楽器の音もいつもよりうるさくあちこちで競い合っていて、通常の音楽だけでなく、大篳篥や雅楽尺八などもでかい音で吹き鳴らし、太鼓まで高欄の上に引っ張り出しては自ら打ち鳴らし、音楽を楽しんでました。
なかなか暇もなくて、どうしてもと思う所にだけは密かに出かけていきましたが、あの姫君の方は、ほとんど眼中になく秋も暮れていきました。
期待したようなことは何もなく月日は過ぎてゆきました。
*
いよいよ行幸が目前に迫り、リハーサルの音がいよいようるさくなる頃、大輔の命婦がやってきました。
「あれからどうしている?」
などと姫君の様子を尋ねては気の毒に思いました。
命婦は様子を訴えては、
「ここまで放ったらかしにされたんじゃぁ、見ている方も辛すぎるじゃないのよぉ。」
と今にも泣き出しそうです。
直接顔をあわせることなく話をさせてそれですむと思ってたのを滅茶苦茶にして、空気の読めないやつだと思ってるだろうなということくらいは理解できたようです。
姫君自身は何も言わず、心の中で何を思っているかは考えれば考えるほど気の毒で、
「忙しい時期なのでどうしようもなかった。」
とぼやきながら、
「男心を理解してないようだったので、懲らしめてやろうと思ったんだが。」
と苦笑いする姿が子供っぽくて可愛らしいので、命部も思わず笑ってしまいそうで、人の恨みをかうのもこの歳ではしょうがない、人の気持ちがわからなくて、わがままなのも当然かと思いました。
この忙しい時期が過ぎると、時々は通うようになりました。
それでも、あの紫に縁のある人をさらってきて、その可愛がり方に熱のこもる頃には、六条通いも途絶えがちになり、ましてその荒れ果てた家には、気の毒だなとは思いながらも気が重くなるのはどうしようもないことです。
頑として引き篭もっているその姫君の正体を見たいという気持ちはありながらも時はだらだらと過ぎてゆき、ひょっとして思ったより美人なのかもしれないが、手探りでおぼろげにしかわからなかったので、何か今ひとつ納得できないことがあるのか、見たいと思っても部屋を明るくするのも気が引けます。
まだ相手も油断している宵の口に、密かに忍び込んで、格子の間から覗き見しました。
残念ながら姫君の姿はどこにもありません。
几帳はかなりボロボロになってはいるものの、長年にわたってそこにあるようで、押し開けたりして乱れた形跡もないのでどうしようもなく、ただ女房の四五人いるのが見えるだけです。
お膳にあるのは中国製の秘色青磁なのだけど、保存状態が悪く本来の風情も失われて痛々しい感じです。
女房達が退出してきて食事してます。
隅の仕切られたところにいかにも寒そうにしている女房がいて、白い衣もすっかり煤けてしまって、それに汚らしい褶を腰に巻きつけた姿がいかにも貧相です。
さすがに結った髪に櫛を無造作に挿した生え際のあたり、内教坊や内侍所のような神に仕える部署に、こういう昔ながらの格好をした女がいたかなと思うと、何か面白くもあります。
まさか、人間の傍で身の回りの世話をしたりもするとは知りませんでした。
「ううう、今年の寒さはこたえますわ。
長生きするといろいろ惨めな目にあうとはいいますが、本当ですわね。」
と言って涙ぐむ者もいます。
「亡き宮様がいらした頃は、辛いなんて思ったことはありませんでしたわ。
こんな心細い状態になっても何とかやってけるものですわね。」
と言って、飛び立ちかねつ鳥にしあらねばとは言うものの、今にも鳥になって飛立って行くくらい震えてました。
いろいろと人には聞かせられないような愚痴をこぼしあってるのを聞くにつけても痛々しいばかりなので、その場を去り、たった今着いたかのように戸を叩きました。
「あらやだ」などと言って灯を火を元通り明るくし、格子を開けて源氏の君を中に入れました。
あの侍従は斎院(賀茂神社の斎王で、皇女がなる)の所で仕事をしている若い女性で、この時は臨時祭の季節で家にはいませんでした。
そのためよけい今の宮廷文化から隔絶してしまい源氏の君にはどうにも馴染めません。
そのうえ心配されてた雪があたり一面を埋め尽くして激しく降ってきました。
空の様子もただならず、風が吹き荒れて大殿油が消えてしまっても、灯しなおそうとする人もいません。
あの怪異に襲われた時のことを思い出して、荒れ果てた感じもあの時とそれほど違わず、ちょうどこんな時間だったか、多少なりとも人がいるのが救いではあるものの、寒々としたちょっとしたことでもやたら目が冴えてしまいそうな夜の状態です。
面白くも悲しくも、手を変え品を変え風流を楽しめそうな屋敷なのに、完全に世間から隔絶されながら頑なに昔ながらの生活を守っていて、何一つきらめくものがないのが残念でありません。
やっとのことで夜が明けてきたようなので、格子を自分の手で上げて前庭の植え込みの雪を見ました。
誰かが歩いた形跡もなくどこまでも荒れ果てたままで、どうしようもなく寂しげで、このまま帰ってしまうのもなんなので、
「この美しい空を見てみなよ。
そうやっていつまでも心を閉ざしていたところで、どうしようもないだろう。」
と不満そうに言いました。
まだほの暗いけれど、雪の光にますます若く輝いて見える源氏の君の姿を老人達がうっとりしながら見てます。
「早く出てきなさいな。
しょうがないわね。
女は可愛らしくしてるのが一番ですよ。」
などと諭されれば、さすがに年寄り達の言うことに逆らおうなどという気も起きず、とりあえず身だしなみを整えて、膝で歩いて出てきました。
見ないように外の方を眺めてはいるものの、ついちらっちらっと見てしまいます。
「ひょっとして親密になってみれば本当はいい女だったり、なんてことが少しでもあれば嬉しいな。」
などと思うのも随分と勝手なものです。
まず、座高が高く胴長な姿が目に入り、悪い予感は的中です。
「やっぱり駄目か。」
さらに駄目押すように、
「これは異様だな。」
と思えるのが鼻でした。
一瞬目が釘づけになります。
「普賢菩薩が乗ってるあれじゃないか。」
と思いました。
驚くほど高く長く伸びていて、先の方が少し垂れて赤く色づいているのが、とても尋常ではありません。
顔色は雪も顔負けするくらい白く、額はぷくっとはれて、それでいて下膨れな顔はぎょっとするくらい長く伸びてます。
骨が見えるくらいげっそりと痩せ細り、肩の辺りなどは衣の上からでも痛々しいくらいです。
「何でこんなものを全部あからさまに見なくてはいけないんだよ。」
と思うものの、怖いもの見たさでついつい見てしまいます。
髪質やその長さは、よく知っている美しく可愛らしい女たちとそれほど変らず、袿の裾まで豊かに垂れ下がり、さらに三十センチくらい引きずってました。
着ているもののことをあれこれ言うのも何だか意地悪なような感じはするけど、昔の物語でも人の衣装のことは真っ先に言うものです。
薄紅の今様色の無残に色あせてしまったような単の上に本来の紫色の面影もない黒ずんだ袿を重ね、その上に最高級のロシアンセーブルの毛皮に香を焚き込めたものを着ていました。
古きよき時代の由緒あるお着物ではあっても、まだ若い女性が着るには似つかわしくなく、その仰々しさに源氏の君はすっかり圧倒されてしまいました。
とはいえ、実際この毛皮がなかったら寒くてしょうがないんだろうなと思わせる顔色を見ると、見てる方が辛くなります。
しばらく物も言えず、自分まで姫君の無口がうつってしまったような気になったものの、何とか気まずい沈黙を回避しようとあれやこれは口にしてみたところ、ひどく恥ずかしがって袖で口元を隠す仕草も田舎者みたいで古臭くてわざとらしく、儀式官が大様に肩肘を張って歩いている様子を思い出し、かろうじて笑顔を作る様子も中途半端でよくわかりません。
あまりにも見るに耐えない哀れな姿に、すぐにでも立ち去りたい所です。
「頼りにできるような相手がいなくて君に目をつけたんで、他人行儀でなく夫婦らしく仲良くできればそれで良かったんだけどね。
ちっとも心を開いてくれないので辛いんだ。」
などと相手のせいにして、
「朝日差し軒のつららは溶けたけど
この身のつらさ固まったまま」
と言ってはみるものの、ただ「うふふ」と笑い出すだけで、歌を返してくる様子もないのがいたたまれず、その場を立ち去りました。
車を止めていた中門はすっかり歪んで今にも倒れそうで、夜だったからこそ目に付くはずのものもまったくわからなかったようなことはたくさんあって、本当にひどく荒れ果てて哀れで寂しく、松の雪だけがその常緑の暖かさを引き立たせていて、山奥の里にいるような気分で物悲しく、あの夜誰かが言ってた「寂しく荒れ果てた葎の茂るような門に」というのは、きっとこういう場所なのでしょうね。
そこに本当に心ときめかすような可愛らしい人を住まわせて、守ってやりたいと思ったのでしょう。
藤壺との不倫に思い悩み、それを紛らわそうとして、思い描いていたとおりの住処が見つかったのに、あの姫君の様子ではそれにふさわしいとも言えずどうしようもないと思うくらいだから、他の人だったらまして我慢して世話を続けるなんてことはしないだろう。
自分がこんなふうに通うのは、娘の世話を誰かに託したかった常陸の親王の霊の導きだったのではと思うのでした。
橘の木が雪に埋もれているのを、随身を呼んで掃わせました。
それをうらやましそうにしている松の木は自分で起き上がってさっとこぼれる雪も、有名な末の松山が越えようとする白波を打ち払っているかのように見え、そんなに深く付き合わなくても、波風立たぬくらいに一緒にいれればいいなと思いました。
車を出そうにも門がまだ閉まっているので、鍵を預かっている人を探し出したところ、よぼよぼの爺さんが出てきました。
その娘とも孫ともつかぬ年齢の女が付き添うのですが、衣は雪がくっついてそのため黒々と見え、いかにも寒そうにしながらよくわからない物に火を入れて、袖で包むようにして持ち歩いてました。
老人の力では門を開けられないので、寄ってきて一緒に開けようとするのですが、どうも要領を得ません。
源氏のお供の者も加わり開けました。
「老人の頭の雪は本人に
劣らず見てる方も涙か
♪幼い子供は着るものもなく、
年寄りは体を温めるものもなく、
寒さと悲しみどちらも同じ、
鼻の中に入るのが辛い。」
と白楽天の『秦中吟』の一節を俄かに口ずさみ、鼻を赤くして寒さに凍えているところを想像していると、ふと思い出すことがあって、思わずニヤッとします。
「頭の中将にあれを見せたら一体何に例えるかな。
あいつもいつも通ってるなら、すぐに見ちゃうだろうな。」
と何かやるせない気分です。
ごく普通の十人並みの女なら、このまま別れて終りにするようなところでも、あの姿をはっきり見てしまった以上、かえって気の毒で放ってもおけず、結構真面目に何度も通いました。
ロシアンセーブルではなく、絹や綾や綿などの年取った人たちの普通着るようなものなどを持ってったり、あのよぼよぼの爺さんのためにまで気を使って、上下そろえて持って行ったりしました。
こうした気遣いを受けることを恥だと思うこともなかったので、安心して例の人の後見として世話をしていこうと決意し、ことあるごとに気軽にこまごまとしたことをしてあげました。
「あの空蝉を抱いた夜に近くで見た容貌ははっきり言って不細工だったけど、機知に富んだ女性だったためにその影に隠れて、そんな残念な女ではなかったな。
駄目な女というのは、結局身分とは無関係なんだ。
家庭に波風立てることを好まず、そのことに嫉妬したりもしたが、結局敗北に終った。」
と何かにつけて思い出すのでした。
*
そうこうしているうちに年も暮れてゆきました。
内裏の宿泊所にいるときに、大輔の命婦がやってきました。
これといった恋愛感情のない間柄なので気兼ねも要らず、むしろ冗談などを言い合いながら髪を結ったもらったりして傍で仕えさせていたので、仕事のないときでも言いたいことのあるときにはこうしてやってくるのです。
「ちょっと変なことがあって、報告しないのもどうかと悩んじゃってぇ。」
とにっこり笑って話し出そうとするので、
「何なんだよ、俺には遠慮せずに言ってくれよ。」
と言えば、
「どうしよっかなー。
自分の悩みだったら遠慮なく真っ先に言うんだけどぉ、
これはちょっと言いにくいことでぇ‥‥。」
と妙にじらすあたり、「また、いつもそうやって男を誘ってるんだろっ」などと憎まれ口の一つも言いたくなります。
「宮家からの手紙何だけどぉ‥‥。」
と言って手紙を取り出します。
「だったら何で隠しておくんだよ。」
と言って受け取るのですが、胸はどきどき気はそぞろです。
厚ぼったい陸奥紙は上等だけど色気には乏しく、それに香ばかり深く焚き込めてます。
やけにきっちりとした字で書き上げてます。
歌の方も、
「唐衣君の心が辛いので
袂はこんな濡れ続くだけ」
思わず首をかしげてると、時代のかかった重そうな衣装ケースの包みを持ってきました。
「これを見たら、きっと痛いと思うんじゃないかなぁ。
だけど、元旦の晴れ着にといってわざわざ贈ってきてくれたものを、なまじっか返すわけにもいかないしぃ。
勝手にしまい込んじゃっても、あの人も気持ちに反することになるからぁ、見せてからにしようかなって。」
と言うので、
「勝手に仕舞い込まれちゃったりしたら、きびしいな。
着物を巻いたり干したりする人がいない身には、その気持ちは嬉しいし。」
とは言いながらも、それ以上は言いません。
「それにしてもひでえ歌だな。
これは本当に自分で作ったんだろうな。
あの侍従がいたら、しっかり添削しているだろうに。
他に和歌を指導できる人もいなさそうだし。」
と開いた口が塞がらない様子です。
苦労してやっとのことでこしらえた歌だということを思うと、
「まったく、畏れ多いというのはこういうのを言うのだろうな。」
と言って微笑むのを見て、命婦は顔を赤らめました。
淡い紅だから着ることの許された 「ゆるし色」なのに、時を経てすっかり変色して許されない濃色になってしまった直衣は、表も裏も同じ色で同じ織り方で、いかにも愚直な感じが至る所ににじみ出てます。
すっかり呆れ果てたのか、先の手紙を広げては、隅っこに何やら思いついたことを書き付けているのを横から覗いてみると、
「心引く色でもないし紅の花
末摘花の袖をどうしよう」
それに続けて
「こんなに濃い色のハナだったとは。」
などと書いたものの、これはすぐに消しました。
鼻の欠点の意味を込めているんだろうなと、そう言われてみれば時々月影に見るあの姿に思わず納得し、ひどいなと思いつつも笑ってしまいます。
「紅ばなの単の衣薄くても
腐らすような噂もなけりゃ
男と女って難しいなぁ。」
と、いかにも手馴れたように歌を呟くのを聞いて、あの姫君も別に上手くはなくてもこれくらい通り一遍に出来たらいいのにな、とつくづく残念に思うのでした。
ただでさえ身も千切れんばかりに悩んでいるだろうに、その上悪い噂が立ったりしたなら。
人が何人かやってきたので、
「早く隠せ。
こんな着物を見られたら大変だ。」
とあわてて声を押し殺して言いました。
「見せるわけないでしょ。
私まで趣味を疑われちゃう。」
と恥ずかしさに耐えかねたかのように出て行きました。
次の日、参内した源氏の君が清涼殿の女房の詰所の{台盤所|だいばんどころ}に立ち寄って、
「それっ、昨日の返事だ。
妙に気を持たせるようなことするんじゃないぞ。」
と言って手紙を投げていきました。
女房たちは、
「一体何なの?」
と興味津々です。
「♪ただ梅の花の色のように、三笠の山の乙女を捨てて」
と適当に口ずさんで出て行くと、命婦にだけは、やけに受けてました。
意味のわからなかった他の女房たちは、
「何一人笑ってるの。」
と詰め寄りました。
「何でもない。
『たたらめの花のごと掻練好むや滅紫好むや』って唄があるでしょ。
霜の降りた寒い朝に、表も裏も紅の色の掻練襲を着たがる人のハナの色をちょっと思い出してね。
あの鼻歌がちょっとおかしかったから。」
と言えば、
「ありそうなことね。
この中には、そんな赤い花はいないけど。」
「左近の命婦や肥後の采女は今いないからね。」
など意味もわからぬまま、話がそれていきます。
源氏の君からの返事が姫君の所に届くと、女房達が見に集ってきます。
会わなくて距離の生じた仲なのに
重ねて袖にするというのか
白い紙にさっと書き付けただけのものでも、なかなか味があります。
大晦日の夕方に、例の衣装ケースに「御料」と書かれて、どこからか御衣一式送られてきて、命婦が持参しました。
葡萄色の織物の御衣、山吹色のものなどいろいろ入ってました。
この前源氏の所に贈ったのは色合いが悪かったからなとわかってはいるものの、
「これはもしや、紅の色は若いもんには重すぎたからかのう。」
と年寄り達はそういうことに決めたようです。
「お歌の方も、こちらから送ったほうが言葉に無駄がなく、言いたいことがはっきりわかりますわね。」
「返歌は、ただ面白ければいいというだけだわ。」
などと口々に言います。
姫君も、並々ならぬ意気込みで詠み上げた作品だったので、物に書き付けて取っておいてました。
*
正月の数日間がすぎて、今年は男踏歌があるというので、例によってあちこちで大きな音で音楽を演奏して物騒がしいなか、寂しい所のことを哀れに思って、七日の節会が終ったあと、夜に入ってから御門の御前を退出し、桐壺の宿直所に俄かに泊まることにして、夜更けになるのを待って出かけました。
以前よりは賑やかになった感じで、世間並みになった気がします。
姫君も、少し円くなったような感じで接してくれてます。
何とかして、まったく別人のように化ける日が来ないかな、などといつも思ってるようです。
朝日の射す頃、もう少しここにいたいなと思いつつ帰ることにしました。
東の妻戸を押し開ければ、向い側にある廊がこれ以上ないくらいに荒れ果てていたので、朝の陽射しが遮るものなく射し込んで、雪が少し降ったのか、その反射光にくっきりと部屋の中が映し出されます。
直衣に着替えるのを見ながら、やや身を乗り出して横向きに寝そべるその髪がこぼれ出る感じがなかなか見事です。
「生まれ変わった姿を見る時も来たか」と思って、格子を引き上げました。
しかし、あの時見なくてもいいものを見てしまった、本当に笑っちゃうような失敗を思い出して、格子を完全に引き上げるのはやめて、脇息を手元に引いて寄りかかり、もみ上げのあたりの寝癖を直しました。
どうしようもないくらい時代遅れの鏡台から、唐櫛匣や掻上の箱を女房達が取り出して持ってきました。
女ばかりの所に男性用の道具がおぼろげながらあるあたり、一応色気もあるのだなと面白く思いました。
女の着ているものが今日は普通だと思ったのも、あの箱に入っていた贈り物をそのまま着ていたからでした。
それにまったく気付かず、面白い模様なのでまちがえのない上着だけは変だなと思いました。
「今年こそ、声を少し聞かせてくれないか。
待ち望まれる鶯の声はさておき、ここらでイメチェンしてくれれば嬉しいな。」
と言えば、
「さえずる春は。」
と震える声でやっとのことで口に出しました。
「なるほど、『百千鳥さえずる春は物ごとにあらたまれども我ぞ経りゆく』という『古今集』の詠み人知らずの歌か。
俺も一つ歳を取ったってわけだ。」
と笑い出し、
「♪忘れては夢かとぞ思う思いきや
雪踏み分けて君を見んとは」
という在原業平の歌を口ずさみながら出て行くのを、姫君は見送っては力が抜けたように枕に寄りかかって寝ました。
口を手で蔽っても、なおかつ横からあの末摘花(紅花)が色鮮やかに覗いてました。
やはり見るに耐えないなと思いました。
二条院に戻ると、紫の君その未熟な姿がどうしようもなく可愛らしく、赤らんだ顔は本当はこんなふうに抱きしめてやりたいようなものなんだと思うに、無地の桜色の細長をふんわりと着こなして、無邪気に歩き回る姿がとにかく可愛くてしょうがないですね。
昔かたぎの祖母の尼君のもとにいた頃はまだお歯黒をしてなかったものの、それも今ではしていて、眉毛もくっきりとして気品ある美しさも具わりました。
「我ながら、何でこう苦しい男女の仲を渡り歩いてるのか。
こんなにも心狂わせるようなものを見れるのだからそれで十分なのに。」
と思いつつ、いつものように一緒に雛遊びをしました。
絵を描いて色を塗ります。
どれもこれも面白そうに気ままに描き散らします。
源氏の君も一緒になって描きます。
髪の長い女を描いて鼻に紅をつけてみると、単なる画像だとはいえ、見るのも嫌なものになってしまいます。
鏡台に映る自分の顔のいつもながらの美男振りを見ては、自分で自分の鼻に赤い絵の具を塗ってみると、こんな美男子なのに朱に交わればどうしても醜い顔になってしまうのでした。
姫君はこれを見て大笑いです。
「俺がこんな変な顔になったらどうする?」
と言うと、
「だめーっ、そんなの。」
と、このまま取れなくなっちゃうんじゃないかと気が気でないようです。
拭っても取れないふりをして、
「どうしよう、もう白くならない。
つい何も考えずに勢いでやっちゃったよ。
禁中には何て報告すればいいんだ!」
と真顔で言えば、困ったような顔をして寄ってきて顔を拭くので、
「『宇治大納言物語』の平中みたいに墨を塗ったりするなよ。
赤い方がまだいい。」
と冗談言ったりする様子は、何とも愉快な兄妹のように見えます。
うららかな陽射しを浴びて、いつしか木々の梢は霞み渡りおぼろげに見える中、梅もほんのりと姿を見せて微笑むかのような花を咲かせ、特別際立って見えます。
正面の階隠の下の紅梅は、いち早く咲く早咲きの梅で既に色づいてます。
「赤らんだハナは不当に嫌われる
梅の立ち枝は好まれるけど
何だかなあ。」
と他人事ながら呻き声を漏らします。
さて、このあとみんなどうなったでしょうか。