「美しき」の巻、解説

初表

 美しき鯲うきけり春の水     舟泉

   柳のうらのかまきりの卵   松芳

 夕霞染物とりてかへるらん    冬文

   けぶたきやうに見ゆる月影  荷兮

 秋草のとてもなき程咲みだれ   松芳

   弓ひきたくる勝相撲とて   舟泉

 

初裏

 けふも亦もの拾はむとたち出る  荷兮

   たまたま砂の中の木のはし  冬文

 火鼠の皮の衣を尋きて      舟泉

   涙見せじとうち笑ひつつ   松芳

 高みより踏はずしてぞ落にける  冬文

   酒の半に膳もちてたつ    荷兮

 幾年を順礼もせず口おしき    松芳

   よまで双紙の絵を先にみる  舟泉

 なに事もうちしめりたる花の貌  荷兮

   月のおぼろや飛鳥井の君   冬文

 灯に手をおほひつつ春の風    舟泉

   数珠くりかけて脇息のうへ  松芳

 

 

二表

 隆辰も入歯に声のしはがるる   冬文

   十日のきくのおしき事也   荷兮

 山里の秋めづらしと生鰯     松芳

   長持かふてかへるややさむ  舟泉

 ざぶざぶとながれを渡る月の影  荷兮

   馬のとをれば馬のいななく  冬文

 さびしさは垂井の宿の冬の雨   舟泉

   莚ふまへて蕎麦あふつみゆ  松芳

 つくづくと錦着る身のうとましく 冬文

   暁ふかく提婆品よむ     荷兮

 けしの花とりなをす間に散にけり 松芳

   味噌するをとの隣さはがし  舟泉

 

二裏

 黄昏の門さまたげに薪分     荷兮

   次第次第にあたたかになる  冬文

 春の朝赤貝はきてありく兒    舟泉

   顔見にもどる花の旅だち   松芳

 きさらぎや瀑をかひに夜をこめて 冬文

   そら面白き山口の家     荷兮

 

       参考:『芭蕉七部集』(中村俊定注、岩波文庫、1966)

初表

発句

 

 美しき鯲うきけり春の水     舟泉

 

 「鯲」は「どぢやう」でドジョウ(泥鰌)のこと。

 ドジョウは普通は泥の中に住んでいる。それが浮いてくるというのがどういうことかが問題だ。

 一応グーグル先生に聞いてみると、農機具のクボタのサイトに「通常はえら呼吸ですが、水中の酸素が足りなくなると水面まで上がって空気を吸う、珍しい魚です。」とあった。どうやら水温が上がると酸素が不足して水面の方に来るみたいだ。ウィキペディアには、

 

 「えらで呼吸するほか、水中の酸素が不足すると、水面まで上がってきて空気を吸い肛門から排出する、腸呼吸も行うが、腸呼吸は補助的な酸素取り込み手段であり腸呼吸だけでは生存のための必要量を摂取できず死亡する。この腸呼吸の際の酸素の取り込みは腸管の下部で行われる。」

 

とある。

 「美し」は多義で、時代によって意味も変ってきている。コトバンクの「精選版 日本国語大辞典「美・愛」の解説」には、

 

 「① (古くは、妻、子、孫、老母などの肉親に対するいつくしみをこめた愛情についていったが、次第に意味が広がって、一般に慈愛の心についていう) かわいい。いとしい。愛らしい。

  ※書紀(720)斉明四年一〇月・歌謡「于都倶之枳(ウツクシキ) 吾(あ)が若き子を 置きてか行かむ」

  ※万葉(8C後)五・八〇〇「父母を 見れば尊し 妻子(めこ)見れば めぐし宇都久志(ウツクシ)」

  ※源氏(1001‐14頃)若菜下「いづれも分かずうつくしく愛(かな)しと思ひきこえ給へり」

  ② (幼少の者、小さい物などに対して、やや観賞的にいうことが多い) 様子が、いかにもかわいらしい。愛らしく美しい。可憐である。

  ※播磨風土記(715頃)賀毛「宇都久志伎(ウツクシキ)小目(をめ)の小竹葉(ささば)に 霰降り 霜降るとも」

  ※枕(10C終)一五一「うつくしきもの、瓜(うり)にかきたる児(ちご)の顔。雀の子のねず鳴きするにをどり来る」

  ③ (美一般を表わし、自然物などにもいう。室町期の「いつくし」に近い) 美麗である。きれいだ。みごとである。立派だ。

  ※大鏡(12C前)六「西京のそこそこなるいへに、いろこくさきたる木のやうたいうつくしきが侍りしを」

  ※御伽草子・木幡狐(室町末)「うつくしく化けなしてこそ出でにけり」

  ※浮世草子・好色一代女(1686)四「女は妖淫(ウツクシ)き肌を白地(あからさま)になし」

  ④ (不足や欠点、残余や汚れ、心残りなどのないのにいう) ちゃんとしている。きちんとしている。

  (イ) ちゃんとしていて申し分ない。きちんと整っていて結構だ。

  ※源氏(1001‐14頃)乙女「かくて大学の君、その日のふみ、うつくしう作り給て進士になり給ひぬ」

  ※今鏡(1170)二「楽なんどをもうつくしくしらせ給ひ」

  (ロ) 残余や汚れがなく、きれいさっぱりとしている。

  ※日葡辞書(1603‐04)「ネコガ vtçucuxǔ(ウツクシュウ) クウタ」

  ※人情本・英対暖語(1838)三「お前は岑さんにうつくしくわかれて」

  ⑤ 人の行為や態度、また、文章、音色などが好ましい感じである。

  ※歌舞伎・助六廓夜桜(1779)「『こはう物を言はんすりゃ、何処までも腰押し、又美しう頼まんしたらば』『揚巻に逢はしてくれるか』」

  ※枯菊の影(1907)〈寺田寅彦〉「夭死と云ふ事が、何だか一種の美しい事の様な心持がしたし」

  [語誌](1)上代で優位の立場から目下に抱く肉親的ないし肉体的な愛情であった原義は一貫して残り、平安時代でも身近に愛撫できるような人や物を対象とし、中世でも当初は女性や美女にたとえられる花といった匂いやかな美に限定されており、目上への敬愛やきらびやかで異国的な美をいう「うるはし」とは対照的であった。

(2)やがて中世の末頃には、人間以外の自然美や人工美、きらびやかな美にも用いるようになり、明治には抽象的な美、そして美一般を表わすようになった。」

 

とある。ここでは②の意味で良いのだと思うが、泥の中にいたのが上がってくるという意味で、多少④の意味も入っているように思われる。

 春の水にドジョウも濁世を逃れて水面に遊ぶ、という含みを持たせていたのかもしれない。

 

季語は「春の水」で春、水辺。

 

 

   美しき鯲うきけり春の水

 柳のうらのかまきりの卵     松芳

 (美しき鯲うきけり春の水柳のうらのかまきりの卵)

 

 「卵」は「かひ」と読む。

 春の水辺に柳を添え、カマキリの卵で俳諧とする。特に寓意はなさそうだ。

 

季語は「柳」で春、植物、木類。「かまきり」は虫類。

 

第三

 

   柳のうらのかまきりの卵

 夕霞染物とりてかへるらん    冬文

 (夕霞染物とりてかへるらん柳のうらのかまきりの卵)

 

 発句が「けり」と強く言い切っているので、「らん」と疑って展開する。

 霞はしばしば「霞の裾」と衣に喩えられる。夕霞はその意味で染物とも言える。

 「染物とりて」は干した染物を回収するということか。柳は桜とともに「錦」になり、山は夕霞が染めて、春の景色の美しい染物も、日が暮れて闇に包まれてゆく様を、染物の喩えて「らん」で結んだか。

 

季語は「夕霞」で春、聳物。

 

四句目

 

   夕霞染物とりてかへるらん

 けぶたきやうに見ゆる月影    荷兮

 (夕霞染物とりてかへるらんけぶたきやうに見ゆる月影)

 

 夕霞に月も包まれ、けぶったように見える。

 

季語は「月影」で秋、夜分、天象。

 

五句目

 

   けぶたきやうに見ゆる月影

 秋草のとてもなき程咲みだれ   松芳

 (秋草のとてもなき程咲みだれけぶたきやうに見ゆる月影)

 

 「とても」も時代によって意味や使い方が変わってきた言葉で、コトバンクの「精選版 日本国語大辞典「迚」の解説」に、

 

 「〘副〙 (「とてもかくても」の略)

  [一] 条件的に、どうしてもこうしてもある結果になる意を表わす。

  ① いかようにしても。とうてい。何にしても。どっちみち。どうせ。結局。しょせん。

  (イ) (打消を伴って) あれこれしても実現しない気持を表わす。

  ※平家(13C前)三「日本国に、平家の庄園ならぬ所やある。とてものがれざらむ物ゆへに」

  ※田舎教師(1909)〈田山花袋〉一一「とても東京に居ても勉強などは出来ない」

  (ロ) 結局は否定的・消極的な結果になる気持を表わす。諦めや投げやりの感じを伴いやすい。

  ※延慶本平家(1309‐10)五本「下へ落しても死むず。とても死(しな)ば敵の陣の前にてこそ死め」

  ※俳諧師(1908)〈高浜虚子〉四五「もうああ狂って来ては迚(トテ)も駄目だらうね」

  (ハ) 決意を伴っていう。どうあろうと。

  ※太平記(14C後)五「や殿矢田殿、我はとても手負たれば此にて打死せんずるぞ」

  (ニ) 否定的・消極的ではなく肯定的な内容を導く。

  ※歌謡・閑吟集(1518)「とてもおりゃらば、よひよりもおりゃらで、鳥がなく、そはばいく程あぢきなや」

  ※西洋道中膝栗毛(1870‐76)〈仮名垣魯文〉六「とてもねがふなアアら大きなことをねエエがヱ」

  ② 事柄が成立する前にさかのぼって考える気持を表わす。どうせもともと。

  ※三道(1423)「又、女物狂の風体、是は、とても物狂なれば、何とも風体を巧みて、音曲細やかに、立振舞に相応して、人体幽玄ならば」

  ③ あとの句に重みをかけていう。どうせ…だから(なら)いっそ。「の」を伴うことがある。

  ※風姿花伝(1400‐02頃)二「さりながら、とても物狂に(ことよ)せて、時によりて、何とも花やかに、出立つべし」

  [二] 状態・程度を強調する語。たいへん。たいそう。はなはだ。

  ※澄江堂雑記‐「とても」(1924)〈芥川龍之介〉「『とても安い』とか『とても寒い』と云ふ『とても』の東京の言葉になり出したのは数年以前のことである。勿論『とても』と云ふ言葉は東京にも全然なかった訳ではない。が従来の用法は『とてもかなはない』とか『とても纏まらない』とか云ふやうに必ず否定を伴ってゐる」

  [語誌](1)(二)については、挙例のように芥川龍之介が随筆の中で触れており、大正期の中ごろから多用されるようになったらしい。

  (2)元来「とても」は「とてもかくても」を略したもので、(一)の意味では否定表現を伴うことも肯定表現を伴うこともあった。しかし、明治以後は否定表現を伴う用法が多くなった。

  (3)(二)の用法が発生したことについて、新村出は「琅玕記‐とても補考」で、発生理由はいくつか考えられるが、「とても面白くて堪へられない」の「堪へられない」が略されてできた形ではないかと推測している。これは「僕の知ってゐる家はとても汚くっていけません」(永井荷風「腕くらべ‐一五」)のように「とても」は打消の「ん」と呼応しているのだが、「とても汚い」とも受け取られやすいところから次第に(二)の用法が出てきたとするものである。

  (4)(一)①(ロ)に挙げた「俳諧師」の例のように肯定形ではあるが否定的な意味を持つ「駄目」「むづかしい」などを修飾する用法は明治期にも見られ、これが多用されていくうちに、一般に肯定形と結びつくことの不自然さが薄れて(二)の用法が出てきたとも考えられる。」

 

とある。

 今でも「とてもかなわない」という言い回しは残っていて、これが古い用法になる。近代になって「とても良い」のように強調の言葉として用いられるようになったとき、芥川龍之介などは不快感を持っていたようだ。これだとドラえもんの歌の「とっても大好きドラえもん」もアウトなのか。口語では「超」だとか「まじ」だとかに置き換わって、最近はあまり用いられない。

 この句では古い用法と新しい用法の中間のような「この上ない」「れいのない」という意味で「とてもなき」が用いられている。この用法が広まったところから、いつしか「なき」が省略され、近代の強調の用法になったのかもしれない。

 秋草の中には背の高い草もあれば、クズのような蔓性のものもあり、澄んだ月もそれらに紛れてけぶたそうだとする。

 

季語は「秋草の‥‥咲みだれ」で秋、植物、草類。

 

六句目

 

   秋草のとてもなき程咲みだれ

 弓ひきたくる勝相撲とて     舟泉

 (けぶたきやうに見ゆる月影弓ひきたくる勝相撲とて)

 

 今でも大相撲の取り組みの後に弓取り式を行うが、その起源はコトバンクの「百科事典マイペディア「弓取式」の解説」に、

 

 「相撲興行において,1日の最後の取組の勝力士に賞として与えられる弓を代人の幕下力士が受け取り,土俵上で縦横に振り回し四股(しこ)を踏む儀式。平安時代の相撲節会(せちえ)で,勝者の近衛側から舞人が登場し,弓を取って立合舞を演じたのが起源とされ,勝力士に弓を与えることは織田信長に始まる。江戸の勧進相撲では千秋楽の結びの3番の勝力士に,大関相当者に弓,関脇相当者に弦,小結相当者に矢1対を与えるようになった。のち次第に儀式化し,1952年1月場所からは毎日弓取式が行われることになった(三役の勝力士に対する弓,弦,矢の授与は千秋楽だけ)。」

 

とある。古くからあったようだ。花野の相撲は、芭蕉の『奥の細道』の旅の山中三吟第三に、

 

   花野みだるる山のまがりめ

 月よしと角力に袴踏ぬぎて    芭蕉

 

の句がある。

 

季語は「相撲」で秋。

初裏

七句目

 

   弓ひきたくる勝相撲とて

 けふも亦もの拾はむとたち出る  荷兮

 (けふも亦もの拾はむとたち出る弓ひきたくる勝相撲とて)

 

 「たち出(たちいづ)」はやって来るの意味でも去って行く意味でも用いられる。

 「もの拾う」がよくわからない。土俵上には金が落ちてるとはいうが、弓だけでなく御ひねりとかもあったのか。

 

無季。

 

八句目

 

   けふも亦もの拾はむとたち出る

 たまたま砂の中の木のはし    冬文

 (けふも亦もの拾はむとたち出るたまたま砂の中の木のはし)

 

 「木のはし」はweblio古語辞典の「学研全訳古語辞典」に、

 

 「木の切り端。取るに足らないつまらないものをたとえていう。

  出典徒然草 一

  「人にはきのはしのやうに思はるるよ」

  [訳] 人には木の切り端(つまらないもの)のように思われることよ。」

 

とある。

 例文の『徒然草』第一段は

 

 「法師ばかりうらやましからぬものはあらじ。人には木の端のやうに思はるゝよと清少納言が書けるも、げにさることぞかし。」

 

とあり、その清少納言の『枕草子』第七段には、

 

 「思はむ子を法師になしたらむこそ心ぐるしけれ。ただ、木の端などのやうに思ひたるこそ、いといとほしけれ。」

 

とある。

 昔は嫡男が家を継ぐと、それ以外の兄弟は出家させられることが多かったのだろう。無用な家督争いを避けるためで、曽我兄弟の箱王もそうなるはずだった。お寺というのは、そういう不要になった子息の捨て場所のようなものだったのだろう。

 前句の物を拾いに行く者を、そういう海辺に捨て去られて乞食暮らししているものとして、自らを木の端のようなものだからと自嘲する句としたか。

 

無季。

 

九句目

 

   たまたま砂の中の木のはし

 火鼠の皮の衣を尋きて      舟泉

 (火鼠の皮の衣を尋きてたまたま砂の中の木のはし)

 

 「火鼠の皮の衣」は『竹取物語』では右大臣阿倍御主人に課せられた「ゆかしき物」で、右大臣阿倍御主人は実在した人らしい。ウィキペディアに、

 

 「阿倍御主人(あべのみうし)は、飛鳥時代の人物。氏は布勢・普勢(ふせ)ともされ、阿倍普勢(あべのふせ)の複姓で記される場合もある。姓は臣のち朝臣。左大臣・阿倍内麻呂の子。官位は従二位・右大臣。

 壬申の乱における大海人皇子(天武天皇)方の功臣。天武朝から政治に携わると、持統・文武朝で高官に昇り、晩年には右大臣として太政官の筆頭に至った。平安時代初期に成立した『竹取物語』に登場する「右大臣あべのみうし」のモデルである。」

 

とある。

 その右大臣阿倍御主人は王慶という中国人に火鼠の皮の衣を探させたが、そこいらの砂の中の役に立たないものを送ってきたのだろう。いとあへなし。

 『竹取物語』の描写を見ると、火鼠ではないにせよ、それなりに高価な毛皮を染めたものだったのではないかとは思うが。

 

無季。恋。

 

十句目

 

   火鼠の皮の衣を尋きて

 涙見せじとうち笑ひつつ     松芳

 (火鼠の皮の衣を尋きて涙見せじとうち笑ひつつ)

 

 前句の「火鼠の皮の衣」を恋の炎の着かない人、つまり冷たい人という意味に取り成したか。泣いても心動かさないような人なら、ただ笑って別れるしかない。

 

無季。恋。

 

十一句目

 

   涙見せじとうち笑ひつつ

 高みより踏はずしてぞ落にける  冬文

 (高みより踏はずしてぞ落にける涙見せじとうち笑ひつつ)

 

 空から落ちたというと久米の仙人だが。

 墜落した時の痛みで涙が出そうだが、それをぐっとこらえて求婚したのだろう。

 

無季。

 

十二句目

 

   高みより踏はずしてぞ落にける

 酒の半に膳もちてたつ      荷兮

 (高みより踏はずしてぞ落にける酒の半に膳もちてたつ)

 

 宴会の途中でお膳を持って運ぼうとしたら、思ったよりも酔いが回っていたのだろう。

 

無季。

 

十三句目

 

   酒の半に膳もちてたつ

 幾年を順礼もせず口おしき    松芳

 (幾年を順礼もせず口おしき酒の半に膳もちてたつ)

 

 飲んだくれ爺さんであろう。隠居の身でも酒ばっかり飲んでて外に出ようとしないから、家族もあきれている。

 

無季。旅体。

 

十四句目

 

   幾年を順礼もせず口おしき

 よまで双紙の絵を先にみる    舟泉

 (幾年を順礼もせず口おしきよまで双紙の絵を先にみる)

 

 前句を無精者として、こういう人は読みやすい仮名草子本すら読まずに挿絵だけ見る。天和版の『竹齋』は四回めくると一回は見開きの大きな挿絵が入っている。

 

無季。

 

十五句目

 

   よまで双紙の絵を先にみる

 なに事もうちしめりたる花の貌  荷兮

 (なに事もうちしめりたる花の貌よまで双紙の絵を先にみる)

 

 「うちしめる」はコトバンクの「精選版 日本国語大辞典「打湿」の解説」に、

 

 「① 物が水気を帯びる。水気を含んでしっとりする。

  ※源氏(1001‐14頃)宿木「露にうちしめり給へる薫り」

  ② (物事の勢いがしずまる意から) 静かになる。落ち着いた雰囲気である。

  ※源氏(1001‐14頃)蛍「うちしめりたる宮の御けはひも、いと艷なり」

  ③ (気持が沈む意から) 物思いにしずむ。しんみりする。気がめいる。

  ※源氏(1001‐14頃)藤裏葉「宰相も、あはれなる夕のけしきに、いとどうちしめりて」

 

とある。③の意味で恋に転じる。前句を草子にも集中できず、心ここにあらずとする。

 花の貌は比喩で、今日でも「花のかんばせ」という言葉が残っているが、「花の顔」は比喩ではなく、花の咲いている様子を表すこともある。

 

季語は「花」で春、植物、木類。

 

十六句目

 

   なに事もうちしめりたる花の貌

 月のおぼろや飛鳥井の君     冬文

 (なに事もうちしめりたる花の貌月のおぼろや飛鳥井の君)

 

 飛鳥井の君は『狭衣物語』の登場人物。狭衣の浮気相手で捨てられて自殺する。

 花に飛鳥井は、

 

 あすか井の春の心は知らねども

     宿りしぬべき花の蔭かな

              藤原為実(風雅集)

 

の縁もある。

 

季語は「月のおぼろ」で春、夜分、天象。恋。「君」は人倫。

 

十七句目

 

   月のおぼろや飛鳥井の君

 灯に手をおほひつつ春の風    舟泉

 (灯に手をおほひつつ春の風月のおぼろや飛鳥井の君)

 

 『狭衣物語』を三句に渡らすことはできないので、ここは歌枕の「飛鳥井」で見かけた君か、飛鳥井家の君ということにした逃げ句になる。

 飛鳥井はコトバンクの「精選版 日本国語大辞典「飛鳥井」の解説」に、

 

 「[一] 奈良県明日香村、飛鳥坐(あすかにいます)神社の前にある井戸。

  [二] 京都市中京区二条、柳馬場(やなぎのばんば)通あたりにあった万里小路(までのこうじ)の井戸。

  [三] 催馬楽の、律の歌の曲名。「楽家録‐巻之六・催馬楽歌字」に「あすかゐに、やどりはすべしあけ」の歌い出しで所収。

 

とある。

 歌枕は京都の飛鳥井で、飛鳥井家の屋敷もここにあった。今は白峯神宮になっているが、幕末の創建で、この頃にはまだなかった。

 月の朧は薄暗いから灯火を灯すが、それが春風に吹き消されないように手で覆う。

 

季語は「春の風」で春。「灯」は夜分。

 

十八句目

 

   灯に手をおほひつつ春の風

 数珠くりかけて脇息のうへ    松芳

 (灯に手をおほひつつ春の風数珠くりかけて脇息のうへ)

 

 吹き込んできた春風に灯火が消えかかったので、慌てて持っていた数珠を脇息の上に置いて、灯火を手で覆う。

 

無季。釈教。

二表

十九句目

 

   数珠くりかけて脇息のうへ

 隆辰も入歯に声のしはがるる   冬文

 (隆辰も入歯に声のしはがるる数珠くりかけて脇息のうへ)

 

 隆辰は隆達節のことか。コトバンクの「日本大百科全書(ニッポニカ)「隆達節」の解説」に、

 

 「近世初期の流行歌謡。隆達小歌あるいは単に隆達ともいう。創始者の高三(たかさぶ)隆達(1527―1611)は泉州堺(さかい)の薬種商の末子に生まれ、日蓮(にちれん)宗顕本寺の僧となったが、兄隆徳の没後還俗(げんぞく)した。生来器用な彼は、連歌(れんが)、音曲、書画などに才能を表し、自ら小歌を作詞してこれを歌い、名声を得た。この隆達節がもっとも流行したのは文禄(ぶんろく)・慶長(けいちょう)期(1592~1615)で、その後、元禄(げんろく)・宝永(ほうえい)期(1688~1711)ごろまでは流行し続けた。

 曲節は現存しないが、おそらく先行する数種の音曲を折衷し、そこに彼独自の節回しを加えたものと思われる。伴奏には主として扇拍子や一節切(ひとよぎり)、小鼓などが用いられた。自筆、他筆を含めて500首以上の歌詞が現存するが、すべてが隆達の作というわけではない。内容の70%以上は恋歌で、詞型は7575の半今様(はんいまよう)型がもっとも多く、近世小歌調の七七七五調はきわめて少ない。その意味で、隆達節は中世歌謡から近世歌謡への過渡的小歌として、歴史上重要視されている。[千葉潤之介]」

 

とある。

 元禄・宝永の頃まで流行したとはいうが、ピークが文禄・慶長だから、『阿羅野』の頃には爺さんのものというイメージがあったのだろう。

 

無季。

 

ニ十句目

 

   隆辰も入歯に声のしはがるる

 十日のきくのおしき事也     荷兮

 (隆辰も入歯に声のしはがるる十日のきくのおしき事也)

 

 九月九日の重陽には菊がもてはやされるが、十日になると見向きもされない。前句の流達節の老人を十日の菊の喩える。

 

季語は「きく」で秋、植物、草類。

 

二十一句目

 

   十日のきくのおしき事也

 山里の秋めづらしと生鰯     松芳

 (山里の秋めづらしと生鰯十日のきくのおしき事也)

 

 昔は鮮魚の輸送が難しかったので、山里で生鰯は珍しい。秋から冬にかけては鰯の旬だけに、重陽に間に合わなかったのは勿体ない。

 

季語は「秋」で秋。「山里」は山類、居所。

 

二十二句目

 

   山里の秋めづらしと生鰯

 長持かふてかへるややさむ    舟泉

 (山里の秋めづらしと生鰯長持かふてかへるややさむ)

 

 長持は衣類や寝具などを入れる大きな木箱で、山里の生鰯は長持に詰めた古着くらいの価値がある、ということか。まあそんな金もないから、イワシはあきらめて衣類を買って帰る。

 

季語は「ややさむ」で秋。

 

二十三句目

 

   長持かふてかへるややさむ

 ざぶざぶとながれを渡る月の影  荷兮

 (ざぶざぶとながれを渡る月の影長持かふてかへるややさむ)

 

 長持ちを買って帰る時の光景とする。大きいから二人がかりで竿に掛けて運び、濡らさないようにして川を渡る。

 

季語は「月の影」で秋、夜分、天象。「ながれを渡る」は水辺。

 

二十四句目

 

   ざぶざぶとながれを渡る月の影

 馬のとをれば馬のいななく    冬文

 (ざぶざぶとながれを渡る月の影馬のとをれば馬のいななく)

 

 夜討に向かう馬だろうか。馬がいなないたら不意打ちにはならないが。

 

無季。「馬」は獣類。

 

二十五句目

 

   馬のとをれば馬のいななく

 さびしさは垂井の宿の冬の雨   舟泉

 (さびしさは垂井の宿の冬の雨馬のとをれば馬のいななく)

 

 垂井宿は中山道の宿場で、近江から美濃へ関が原を越えると、関ヶ原の次になる。ここが大垣、岐阜、名古屋方面へ向かう美濃路との分岐点になっている。名古屋の連衆にはなじみのある場所だろう。

 日本海側から吹き込んだ雪雲が琵琶湖方面にまで流れて来るので、関ヶ原の辺りは雪が多いが、垂井宿で雨に変わることも多かったのだろう。下京のようなポジションか。『猿蓑』の

 

 下京や雪つむ上の夜の雨     凡兆

 

のヒントになったかもしれない。

 さびしさは、これまで中山道をともにしてきた道連れの友とも別れる、という意味もあるのだろう。

 

季語は「冬の雨」で冬、降物。旅体。

 

二十六句目

 

   さびしさは垂井の宿の冬の雨

 莚ふまへて蕎麦あふつみゆ    松芳

 (さびしさは垂井の宿の冬の雨莚ふまへて蕎麦あふつみゆ)

 

 「あふつ」はコトバンクの「精選版 日本国語大辞典「煽」の解説」に、

 

 「[1] 〘他タ四〙

  ① あおいで風を起こす。

  ※名語記(1275)八「あほつ如何 あなひろち(た)るの反」

  ② 火などをあおいで、その勢いを盛んにする。

  ※浮世草子・新御伽婢子(1683)二「ふすべよと言こそ遅けれ青松葉をたきて穴の中へあをち入るる」

  ③ 転じて、燃える気持などをあおり立てて、一層盛んにさせる。扇動する。

  ※虎明本狂言・鼻取相撲(室町末‐近世初)「きゃつはぢゃうごうがあおつ」

  ④ 両足で馬を蹴る。〔日葡辞書(1603‐04)〕

  [2] 〘自タ四〙

  ① 風が吹き起こる。吹き舞う。また、風によって、物などが舞い上がる。

  ※浄瑠璃・本朝三国志(1719)四「あをつ火燵の灰煙、目口もくらみ気もくらみ」

  ② 風で、薄い物がばたばたと揺れ動く。また、風を起こすかのように、物がばたばたする。

  ※雑俳・銀土器(1716‐36)「風にゆらゆらあふつ暖簾」

  ③ 手足などをばたばた動かしてもだえる。また、じたばたする。〔日葡辞書(1603‐04)〕

  ④ あるものに熱中して、心がいらいらする。

  ※評判記・色道大鏡(1678)一四「郭中にかよふ内より、彼を我物にせんとあをちて貨財を費し」

  ⑤ 鳥が翼で飛翔(ひしょう)する、羽ばたく(日葡辞書(1603‐04))」

 

とある。問題は「蕎麦あふつ」がそばを作る際のどの過程を言うかだ。

 蕎麦粉を麵にして食べる「蕎麦切り」は江戸時代になって広まったものだという。許六編『風俗文選』の雲鈴「蕎麦切ノ頌」に、

 

 「蕎麦切といつは。もと信濃ノ国。本山宿より出て。あまねく国々にもてはやされける。されば宇治の茶あつて。同じく茶臼石に名高く。伊吹蕎麦。天下にかくれなければ。からみ大根。又此山を極上とさだむ。」

 

とある。本山宿は塩尻宿から木曽方面に二つ行ったところにある。

 「伊吹蕎麦」は今の米原で、垂井宿にも近いので、垂井でも伊吹蕎麦が食べられたのだろう。辛味大根を下ろしたものを掛けて食べるおろし蕎麦が、この辺りの食べ方だったようだ。

 当時の蕎麦は今の蒸篭蕎麦に似た蒸し蕎麦だった。それに大根おろしを掛けて食べることもあれば、延宝六年の「実や月」四句目に、

 

   新蕎麦や三嶋がくれに田鶴鳴て

 芦の葉こゆるたれ味噌の浪   卜尺

 

とあるように、たれ味噌で食べることもあったようだ。

 延宝七年の「見渡せば」九十句目の、

 

   鉢一ッ万民これを賞翫す

 けんどむ蕎麦や山の端の雲    桃青

 

の句にある江戸のけんどん蕎麦も、浅い箱に並べて売っていたというから蒸し蕎麦であろう。

 醤油が普及してくると醤油だれに付けてたべるようになり、それを面倒だからとお行儀悪くぶっかけて食べた所から、ぶっかけ蕎麦が生まれ、やがて今の掛けそばの形になって行ったという。

 蕎麦を扇つというのは、蒸し上がった蕎麦を団扇で扇いで冷ましていたか。。

 なお、「蕎麦切ノ頌」を書いた雲鈴という旅僧は、支考の『梟日記』の旅にも同行している。旅のガイドとして優秀だったのだろう。『風俗文選』「作者列伝」にも「風雅師東花坊」とあり、支考門だった。

 

無季。

 

二十七句目

 

   莚ふまへて蕎麦あふつみゆ

 つくづくと錦着る身のうとましく 冬文

 (つくづくと錦着る身のうとましく莚ふまへて蕎麦あふつみゆ)

 

 蕎麦切りは精進料理としてお寺で出すことも多かったが、江戸のけんどん蕎麦や街道で売っている蕎麦は庶民のもので、「錦着る身」が食うものではなかったのだろう。

 

無季。「錦」は衣裳。「身」は人倫。

 

二十八句目

 

   つくづくと錦着る身のうとましく

 暁ふかく提婆品よむ       荷兮

 (つくづくと錦着る身のうとましく暁ふかく提婆品よむ)

 

 提婆品(だいばぼん)は提婆達多品(だいばだったぼん)で、コトバンクの「精選版 日本国語大辞典「提婆達多品」の解説」に、

 

 「法華経二十八品中の第十二品。「妙法蓮華経」巻五の最初の品名。提婆達多や龍女の成仏を説くことにより、法華経の中でも功徳の勝れた一章として重視されている。提婆品。」

 

とある。提婆達多や龍女の成仏は悪人成仏、女人成仏の根拠ともされてきた。

 前句の「錦着る身」を遊女として、出家への思いを深めて行く。

 

無季。釈教。

 

二十九句目

 

   暁ふかく提婆品よむ

 けしの花とりなをす間に散にけり 松芳

 (けしの花とりなをす間に散にけり暁ふかく提婆品よむ)

 

 芥子の花は散りやすく、『猿蓑』には、

 

 ちる時の心やすさよけしの花   越人

 

の句もある。安らかな死と極楽往生を暗示させる。前句はお経をあげることになる。

 

季語は「けしの花」で夏、植物、草類。

 

三十句目

 

   けしの花とりなをす間に散にけり

 味噌するをとの隣さはがし    舟泉

 (けしの花とりなをす間に散にけり味噌するをとの隣さはがし)

 

 前句を普通に庭の芥子の花として、隣で味噌を磨る音がして騒がしいと、前句のしんみりとした雰囲気を、あえて卑俗に落とすことで気分を入れ替える。今でいうシリアス破壊ということか。

 「味噌する」はコトバンクの「精選版 日本国語大辞典「味噌を擂る」の解説」に、

 

 「① まだ漉(こ)してない、粒のある味噌を、擂鉢(すりばち)に入れて擂粉木(すりこぎ)でする。また、その際の擂粉木のような動きをする。

  ※浮世草子・好色訓蒙図彙(1686)上「下女(げす)が味噌するにも、団子はたくにも」

  ② 坊主になる。寺の小僧の仕事の一つとして①をするところからいう。

  ※雑俳・一夜泊(1743)「江戸の水呑もか高野の味噌すろか」

  ③ 追従を言う。おせじを言う。へつらう。胡麻(ごま)をする。」

 

とある。

 

無季。

二裏

三十一句目

 

   味噌するをとの隣さはがし

 黄昏の門さまたげに薪分     荷兮

 (黄昏の門さまたげに薪分味噌するをとの隣さはがし)

 

 前句の「味噌する」を寺の小僧の仕事として、お寺の門に転じる。門の前で薪を分けていて出入りの邪魔になるうえ、隣では小僧が味噌を擦っていて騒がしい。

 

無季。

 

三十二句目

 

   黄昏の門さまたげに薪分

 次第次第にあたたかになる    冬文

 (黄昏の門さまたげに薪分次第次第にあたたかになる)

 

 冬の間は寒くてよく火を焚くので沢山の薪が必要で、門の前で薪を配って邪魔だったが、暖かくなると薪の量も減り、静かになる。

 挙句と花の定座が近いので、軽く季候を付けて流して春に転じる。

 

季語は「あたたかになる」で春。

 

三十三句目

 

   次第次第にあたたかになる

 春の朝赤貝はきてありく兒    舟泉

 (春の朝赤貝はきてありく兒次第次第にあたたかになる)

 

 「赤貝はきて」は『芭蕉七部集』(中村俊定注、岩波文庫、1966)の中村注に、「赤貝の殻に縄を通して下駄のようにしてはいてあそぶこと。」とある。赤貝馬と呼ばれるもので、浮世絵にも描かれている。

 コトバンクの「精選版 日本国語大辞典「赤貝馬」の解説」に、

 

 「〘名〙 玩具の一つ。二個の赤貝の殻に穴をあけて長い紐を通し、足をその貝殻に乗せ、紐を両手に持ちながら馬の手綱をとるような身振りをして乗り歩くもの。また、その遊び。馬貝。

  ※常磐津・蜘蛛糸梓弦(仙台浄瑠璃)(1765)「真紅手綱のこぶさ小綱をこがらまいた。サア赤貝馬のしゃんしゃんしゃん」

 

とある。今は空き缶で似たようなものを作ることがある。

 赤貝はウィキペディアに「大きくても殻長12cm、殻高9.6cm程度で」とあり、ハマグリよりは大きい。

 春の暖かさに遊ぶ子供をあしらう。

 

季語は「春の朝」で春。「兒」は人倫。

 

三十四句目

 

   春の朝赤貝はきてありく兒

 顔見にもどる花の旅だち     松芳

 (春の朝赤貝はきてありく兒顔見にもどる花の旅だち)

 

 花を求めての旅の途中でも、子供に逢いに我が家に立ち寄る。

 

季語は「花」で春、植物、木類。旅体。

 

三十五句目

  

   顔見にもどる花の旅だち

 きさらぎや瀑をかひに夜をこめて 冬文

 (きさらぎや瀑をかひに夜をこめて顔見にもどる花の旅だち)

 

 「瀑(さらし)」は晒し布のこと。

 「夜をこめて」というと、

 

 夜をこめて鳥のそら音ははかるとも

     世に逢坂の関はゆるさじ

              清少納言(後拾遺集)

 

の歌がよく知られている。夜の明けないうちに、と言う意味。

 「夜をこめて」の恋の情があるように、ここも晒しを買うのを口実に女に逢いに行くということだろう。『伊勢物語』の筒井筒を俤とする。

 

季語は「きさらぎ」で春。恋。「夜をこめて」は夜分。

 

挙句

 

   きさらぎや瀑をかひに夜をこめて

 そら面白き山口の家       荷兮

 (きさらぎや瀑をかひに夜をこめてそら面白き山口の家)

 

 山口は新古今集の山口大王(やまぐちのおおきみ)か。

 

   中納言家持に遣しける

 蘆べより滿ちくる汐のいやましに

     思ふか君が忘れかねつる

              山口女王(新古今集)

   中納言家持に遣しける

 鹽竈の前に浮きたる浮島の

     浮きて思ひのある世なりけり

              山口女王(新古今集)

 

の歌がある。山口の家は塩釜にあったようだ。

 前句の恋の情を受けて、はるばる塩釜まで山口の家を訪ねて行く面白さを以てして、一巻は目出度く終わる。

 ちょうどこの頃は芭蕉さんも『奥の細道』に旅立つ頃だろう。同行するのが曾良だというのを知ってたかどうかは知らないが。

 

無季。恋。「家」は居所。