「我もらじ」の巻、解説

初表

 我もらじ新酒は人の醒やすき    嵐雪

   秋うそ寒しいつも湯嫌     越人

 月の宿書を引ちらす中にねて    越人

   外面薬の草わけに行      嵐雪

 はねあひて牧にまじらぬ里の馬   嵐雪

   川越くれば城下のみち     越人

 

初裏

 疱瘡貌の透とをるほど歯のしろき  越人

   唱哥はしらず声ほそりやる   嵐雪

 なみだみるはなればなれのうき雲に 嵐雪

   後ぞひよべといふがはりなき  越人

 今朝よりも油あげする玉だすき   越人

   行燈はりてかへる浪人     嵐雪

 着物を碪にうてと一つ脱      嵐雪

   明日は髪そる宵の月影     越人

 しら露の群て泣ゐる女客      越人

   つれなの医者の後姿や     嵐雪

 ちる花の日はくるれども長咄    越人

   よぶこ鳥とは何をいふらん   越人

 

      参考;『芭蕉七部集』(中村俊定校注、一九六六、岩波文庫)

初表

発句

 

 我もらじ新酒は人の醒やすき   嵐雪

 

 この頃の新酒は、寒造りの酒の早稲で仕込んで晩秋に発酵を終える際に生じる「あらばしり」だったと思われる。

 江戸後期の曲亭馬琴編『増補 俳諧歳時記栞草』にはこうある。

 

 「新酒[本朝食鑑]新酒は、凡(およそ)、新択(しんえり)の新米一斗を用てこれを醸し、須加利(酒を濾布嚢也)に填(つつ)みて舟に入、其酒の水、半滴(なかばしたた)る、復(また)、布嚢に入て圧(おす)ときは、酒おのづから滴り出づ。酒滴り尽て後、汁を取、滓(かす)を去。これを新酒といふ。」

 

 このあらばしりの頃に新しい緑の杉玉を吊るし、新酒ができたのを知らせるようになるのはもう少し後で、一茶の時代になる。

 あらばしりがあっさりした味でアルコール度数も低いため、嵐雪のような大酒飲みには向かなかったということなのだろう。これには同じ大酒飲みの越人も同意する所だろう。

 

季語は「新酒」で秋。「我」「人」は人倫。

 

 

   我もらじ新酒は人の醒やすき

 秋うそ寒しいつも湯嫌      越人

 (我もらじ新酒は人の醒やすき秋うそ寒しいつも湯嫌)

 

 秋も深まりすっかり寒くなっているが、新酒は飲みたくないし、だからと言ってさ湯も嫌いだ。あるいは熱燗の新酒はさ湯のようなものだということか。

 なら、何を飲むかというと、アルコール度数の高い古酒であろう。

 

季語は「秋」で秋。

 

第三

 

   秋うそ寒しいつも湯嫌

 月の宿書を引ちらす中にねて   越人

 (月の宿書を引ちらす中にねて秋うそ寒しいつも湯嫌)

 

 前句の「湯嫌」を風呂嫌いとして、風呂に入る間も惜しんで本を読みふける人とする。

 

季語は「月」で秋、夜分、天象。

 

四句目

 

   月の宿書を引ちらす中にねて

 外面薬の草わけに行       嵐雪

 (月の宿書を引ちらす中にねて外面薬の草わけに行)

 

 外面(そとも)はコトバンクの「精選版 日本国語大辞典「背面・外面」の解説」に、

 

 「〘名〙 (「そ(背)つおも(面)」の変化した語)

  ① 山の、日の当たる方から見て背後に当たる方向。山の北側。また、北の方角。⇔影面(かげとも)。

  ※書紀(720)成務五年九月(北野本南北朝期訓)「山陽(やまのみなみ)を影面(かけとも)と曰(い)ひ山の陰(きた)を背面(ソトモ)と曰(い)ふ」

  ② 背中の方向。後ろの方向。また、家のうら手。転じて、事物のそとがわ。家のそと。

  ※書陵部本恵慶集(985‐987頃)「わがかどのそともにたてるならの葉のしげみにすずむ夏はきにけり」

 

とある。前句を医者として、夜は本を読み、昼は薬草取りに行く。

 

無季。

 

五句目

 

   外面薬の草わけに行

 はねあひて牧にまじらぬ里の馬  嵐雪

 (はねあひて牧にまじらぬ里の馬外面薬の草わけに行)

 

 馬が跳ねて放牧場へ行くのを拒むので、放牧を断念して草を取りに行く。

 

無季。「里」は居所。「馬」は獣類。

 

六句目

 

   はねあひて牧にまじらぬ里の馬

 川越くれば城下のみち      越人

 (はねあひて牧にまじらぬ里の馬川越くれば城下のみち)

 

 「城下」はここでは「しろした」と読む。城下町ではなく山城の麓の方という意味で、里で持て余している暴れ馬を乗りこなした武将がいたのだろう。

 

無季。

初裏

七句目

 

   川越くれば城下のみち

 疱瘡貌の透とをるほど歯のしろき 越人

 (疱瘡貌の透とをるほど歯のしろき川越くれば城下のみち)

 

 疱瘡貌は「いもがほ」と読む。

 疱瘡のあばただらけの顔なので嫁に行けず、鉄漿をぬらないので歯は真っ白だ。

 常盤御前の娘に天女姫がいて、美女だったが不幸にして疱瘡で死んだという天女姫伝説が広島の疱瘡神社にあるが、いつ頃どのように成立したのかは定かでない。この伝説が当時知られていたとしたら、そのイメージだったのかもしれない。

 

無季。

 

八句目

 

   疱瘡貌の透とをるほど歯のしろき

 唱哥はしらず声ほそりやる    嵐雪

 (疱瘡貌の透とをるほど歯のしろき唱哥はしらず声ほそりやる)

 

 唱哥はコトバンクの「ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典「唱歌」の解説」に、

 

 「日本音楽の用語。「声歌」「証歌」とも書く。「そうが」ともいう。 (1) 舞楽中で歌のうたわれる部分。『輪台』『青海波』で行われた。 (2) 楽器の旋律や奏法を口で唱えること,およびその歌。一種のソルミゼーション (各音に名称を与えること) 。笛や篳篥 (ひちりき) の唱歌を記すことによってかな譜が成立。笙や弦楽器の文字奏法譜も声に出して唱えられ,能管,尺八類などにも応用。近世の箏や三味線で,その旋律を擬音的に唱える場合も一種の唱歌であるが,三味線の場合特に口三味線という。 (3) 器楽曲の旋律に詞章をあてはめて歌うこと,およびその歌詞。特に『順次往生講式』で雅楽曲にあてはめたものを「極楽声歌」という。 (4) 歌詞のことを,「歌しょうが」ともいい,特に箏,三味線の音楽でいう。」

 

とある。楽器の演奏に関連した歌で、謡いや小唄ではなく古い時代の旋律を歌ったようだ。やはり古い時代の天女姫のイメージなのかもしれない。

 

無季。

 

九句目

 

   唱哥はしらず声ほそりやる

 なみだみるはなればなれのうき雲に 嵐雪

 (なみだみるはなればなれのうき雲に唱哥はしらず声ほそりやる)

 

 うき雲はこの場合は、

 

 春の夜の夢の浮橋とだえして

     峰にわかるる横雲の空

               藤原定家(新古今集)

 

の「わかるる横雲」のことであろう。巫山之女の故事の、一夜の情交のあと「朝には雲となり、暮れには雨となります」と言って別れたのを、巫山の峰に雲が離れていってしまう情景に作り替えたものだった。前句を巫山之女との別れに場面とする。

 

無季。恋。「うき雲」は聳物。

 

十句目

 

   なみだみるはなればなれのうき雲に

 後ぞひよべといふがはりなき   越人

 (なみだみるはなればなれのうき雲に後ぞひよべといふがはりなき)

 

 「後(のち)ぞひ」はコトバンクの「精選版 日本国語大辞典「後添」の解説」に、

 

 「〘名〙 妻と死別または離別した男が、そのあとで連れ添った妻。二度目の妻。後妻。うわなり。のちぞえ。のちづれ。のちよび。

  ※俳諧・曠野(1689)員外「なみだみるはなればなれのうき雲に〈嵐雪〉 後ぞひよべといふがはりなき〈越人〉」

 

とある。前句の泪の別れの後、すぐに後妻を呼べと言うのは一体何様なのか。「はりなき」は「わりなき」で、まあ無茶苦茶だ。

 

無季。恋。

 

十一句目

 

   後ぞひよべといふがはりなき

 今朝よりも油あげする玉だすき  越人

 (今朝よりも油あげする玉だすき後ぞひよべといふがはりなき)

 

 「玉だすき」はコトバンクの「精選版 日本国語大辞典「玉襷」の解説」に、

 

 「① 「たすき(襷)」の美称。

  ※万葉(8C後)三・三六六「海神(わたつみ)の 手に巻かしたる 珠手次(たまだすき) かけて偲(しの)ひつ 大和島根を」

  ② 仕事の邪魔にならないように、袖(そで)をたくし上げて後ろで結ぶこと。また、たくしあげる紐。

  ※平家(13C前)三「狩衣に玉だすきあげ、小柴垣壌(こぼ)ち大床(おほゆか)の束柱割りなどして、水汲み入れ」

  ③ たすきが交差し絡み合うように、事が掛け違いわずらわしいさまのたとえ。

  ※古今(905‐914)雑体・一〇三七「ことならば思はずとやは言ひはてぬなぞ世中のたまたすきなる」

 

とある。女房に逃げられて今朝からは自分で油揚げを作る。

 当時は夫が駄目だと妻の実家が呼び戻すことが多く、離婚率も高かった。

 

無季。

 

十二句目

 

   今朝よりも油あげする玉だすき

 行燈はりてかへる浪人      嵐雪

 (今朝よりも油あげする玉だすき行燈はりてかへる浪人)

 

 牢人というと「傘張」のイメージがあるが、行燈張牢人もいたようだ。

 

無季。「浪人」は人倫。

 

十三句目

 

   行燈はりてかへる浪人

 着物を碪にうてと一つ脱     嵐雪

 (着物を碪にうてと一つ脱行燈はりてかへる浪人)

 

 「着物」はここでは「きるもの」。

 牢人は腐っても武士で、女房に居丈高に砧打てと命じるが、着物が一着しかない。

 

季語は「碪」で秋。「着物」は衣裳。

 

十四句目

 

   着物を碪にうてと一つ脱

 明日は髪そる宵の月影      越人

 (着物を碪にうてと一つ脱明日は髪そる宵の月影)

 

 最後の着物に碪を打って、質屋に持っていくのだろう。目出度く天下不滅の無一文となり、出家を遂げる。

 

季語は「月影」で秋、夜分、天象。釈教。

 

十五句目

 

   明日は髪そる宵の月影

 しら露の群て泣ゐる女客     越人

 (しら露の群て泣ゐる女客明日は髪そる宵の月影)

 

 露はしばしば涙の比喩となる。月夜に涙をぼろぼろこぼして泣く女客も、明日は出家する。最後の憂き世の月となる。

 

季語は「しら露」で秋、降物。「女客」は人倫。

 

十六句目

 

   しら露の群て泣ゐる女客

 つれなの医者の後姿や      嵐雪

 (しら露の群て泣ゐる女客つれなの医者の後姿や)

 

 女客の連れは御臨終です。

 

無季。「医者」は人倫。

 

十七句目

 

   つれなの医者の後姿や

 ちる花の日はくるれども長咄   越人

 (ちる花の日はくるれども長咄つれなの医者の後姿や)

 

 花は散り日も暮れ、花見は終りだというのに医者は誰かと長々と話し込んでいる。連れない人だ。

 

季語は「ちる花」で春、植物、木類。

 

十八句目

 

   ちる花の日はくるれども長咄

 よぶこ鳥とは何をいふらん    越人

 (ちる花の日はくるれども長咄よぶこ鳥とは何をいふらん)

 

 呼子鳥は土芳の『三冊子』に、

 

 「呼子鳥の事、師のいはく、季吟老人に對面の時、御傘に春の夕ぐれ梢高くきて鳴鳥と思ひて句をすべしと有。貞德の心いかにとたづねられしに、老人のいはく、貞徳も古今傳授の人とは見へず、全句をせざる事也といへるよし、師のはなしあり。」(『去来抄・三冊子・旅寝論』潁原退蔵校訂、一九三九、岩波文庫p.148)」

 

とある。つまり誰もわからなかったということだ。

 前句の長話は呼子鳥についてあーだこーだと薀蓄を傾けていたか。

 呼子鳥、稲負鳥、百千鳥は古今伝授の三鳥と呼ばれ、古今伝授を受けた人しか知らないと言われていた。呼子鳥は今日ではツツドリ説が有力。稲負鳥(いなおうせどり)は鶺鴒説が有力、百千鳥は鶯説と不特定多数説がある。

 

季語は「よぶこ鳥」で春、鳥類。

 

 この句は半歌仙としては挙句になるが、あまり挙句らしくない。『芭蕉七部集』の中村注に、

 

 「この両吟は歌仙であったらしいが、芭蕉の意にかなわないところがあったので一折(半歌仙)だけ掲げ、後半を削除したという。(越人著『猪の早太』。享保十四年稿)」

 

とある。

 『猪の早太』は『不猫蛇』に続いて支考をディスった書で、『阿羅野』の風を生涯引きずってしまった越人からすれば、芭蕉の若い頃の風を軽視するのが耐えられなかったのだろう。

 支考の風は「軽み」以降の風を芭蕉に倣い、晩年の芭蕉にも不易流行からの脱却という点では大きな影響を与えたと思われるが、芭蕉がそれを明確に体系化しなかった所に死が訪れてしまい、支考の『俳諧十論』やその他の俳論書が晩年の芭蕉の意志に即したものだったかどうか、多くの門人も疑問視していた。

 猪(ゐ)の早太(はやた)の鵺退治のように、ここに支考という魔王討伐に名乗りを上げたというわけだ。

 『続猿蓑』の編纂に支考が係わっていたという所で、越人は、

 

 猿蓑にもれたる霜の松露哉    沾圃

 

を発句とする一巻に対し、

 

 「猿蓑にもれしいひやう松露ならでもいか程かしかた有べきに、冬季にしたる不都合さ、一向初心の発句なるに、沾圃にもせよ貴房にもせよ、翁の添削あるならば此まま集には入がたしと直さるべき事鏡影たり。万一其座の時宜にしたがひいひ捨の句はありとても、入集の沙汰におよぶべからず。されば翁の叮嚀なる門人の名まで後代に残ることを惜み、先にあら野撰集の時、嵐雪越人両吟の歌仙後の一折翁の心に応ぜざるところありと削捨て、ただ一折をあらはし給へり。是にても得度せられ、貴房の偽作を恥給へ。」

 

と述べている。

 『続猿蓑』の編纂に芭蕉の最後の旅で伊賀に行ったときに、支考も係わったのは確かだろう。ただ、まだ若い支考にどの程度の影響力があったのかどうかはわからない。

 「猿蓑に」の巻はこの時の伊賀で巻かれたもので、『続猿蓑』がこの時伊賀に残されたまま遺稿となり、後に支考のあずかり知らぬところで刊行されたならば、単に未完の草稿が出版されただけでなかったかと思う。

 支考は『梟日記』の椎田の所で、

 

 「夜更て朱拙・怒風など名のりて戸をたゝき來る。此人々は黒崎のかたにありて、きゝおひ來れるにぞありける。朱拙のぬし續さるみのを懐にしきたる。さりや此集は先師命終の名殘なりしが、さる事の侍て武洛の間をたゞよひありきて、今こゝに見る事のめづらしうも、かなしうもおもはれて、泪のさと浮たるが、人にかたるべき事にあらずかし。」

 

と記している。

 とはいえ、芭蕉が実質的に編纂に係わったとされる『阿羅野』『ひさご』『猿蓑』などは、かなり芭蕉による手直しがなされていたことは想像できる。