「狂句こがらし」の巻

  貞享元年(一六八四年)十一月、芭蕉が『野ざらし紀行』の旅の途中、名古屋で荷兮(かけい)()(こく)野水(やすい)重五(じゅうご)らと歌仙五巻と追加六句を興行しました。ひとところに集まって俳諧を行うことを「興行」といいます。

  この時の俳諧は山本荷兮によって『冬の日』と題され、出版され、これが芭蕉七部集の最初の集となりました。

  七部集と呼ばれているのは『冬の日』『春の日』『()()()』『猿蓑』『ひさご』『炭俵』『続猿蓑』のことを言います。

  このうち『冬の日』『ひさご』は俳諧だけの収録で、他のものは俳諧だけでなく、発句を別に部立して載せています。

  『春の日』には、あの有名な「古池や蛙飛び込む水の音」の句が収録されてます。『冬の日』はそれより前になります。

 

初表

   笠は長途の雨にほころび、紙衣はとまりとまり

   のあらしにもめたり、侘つくしたるわび人

   我さへあはれにおぼえける。むかし狂哥の才

   士、此国にたどりし事を不図おもひ出て申侍

   る

 狂句こがらしの身は竹斎に似たる哉 芭蕉

   たそやとばしるかさの山茶花  野水

 有明の主水に酒屋つくらせて    荷兮

   かしらの露をふるふあかむま  重五

 朝鮮のほそりすすきのにほひなき  杜国

   ひのちりちりに野に米を刈   正平

 

初裏

 わがいほは鷺にやどかすあたりにて 野水

   髪はやすまをしのぶ身のほど  芭蕉

 いつはりのつらしと乳をしぼりすて 重五

   きえぬそとばにすごすごとなく 荷兮

 影法のあかつきさむく火を燒て   芭蕉

   あるじはひんにたえし虚家   杜国

 田中なるこまんが柳落るころ    荷兮

   霧にふね引人はちんばか    野水

 たそがれを横にながむる月ほそし  杜国

   となりさかしき町に下り居る  重五

 二の尼に近衛の花のさかりきく   野水

   蝶はむぐらにとばかり鼻かむ  芭蕉

 

 

二表

 のり物に簾透顔おぼろなる     重五

   いまぞ恨の矢をはなつ声    荷兮

 ぬす人の記念の松の吹おれて    芭蕉

   しばし宗祇の名を付し水    杜国

 笠ぬぎて無理にもぬるる北時雨   荷兮

   冬がれわけてひとり唐苣    野水

 しらじらと砕けしは人の骨か何   杜国

   烏賊はゑびすの国のうらかた  重五

 あはれさの謎にもとけし郭公    野水

   秋水一斗もりつくす夜ぞ    芭蕉

 日東の李白が坊に月を見て     重五

   巾に木槿をはさむ琵琶打    荷兮

 

二裏

 うしの跡とぶらふ草の夕ぐれに   芭蕉

   箕に鮗の魚をいただき     杜国

 わがいのりあけがたの星孕むべく  荷兮

   けふはいもとのまゆかきにゆき 野水

 綾ひとへ居湯に志賀の花漉て    杜国

   廊下は藤のかげつたふ也    重五

 

参考

 『芭蕉七部集』中村俊定校注、一九六六、岩波文庫

 『古典講読シリーズ 芭蕉七部集』上野洋三、一九九二、岩波書店

 

 『校本芭蕉全集 第三巻』(小宮豐隆監修、一九六三、角川書店)

初表

発句

 

 狂句こがらしの身は竹齋(ちくさい)に似たる哉 芭蕉

 

  字余りではないかと思うかもしれませんが、その通り字余りで、この時代はこういうスタイルが流行っていました。

  とはいえ、当時としてはもはや新しいものでもありません。

  これはこの少し前の延宝(えんぽう)の終わりから天和(てんな)の頃(一六八〇年から一六八三の年頃)流行っていたもので、天和二年(一六八二年)刊の千春(ちはる)編の『武蔵曲(むさしぶり)』や、天和三年(一六八三年)刊の()(かく)編の『(みなし)(ぐり)』などが、字余りの多い漢詩風のフレーズなどを交えたスタイルが一世を風靡しましした。同時期には上方の伊丹流長発句(ながほっく)の流行もしていました。

  その意味ではこの発句は、これが江戸の今流行の発句だみたいな気負いがあったのではなかったかと思います。

  (ちく)(さい)は江戸時代の初期に流行した仮名草子のキャラクターで、天和に再版された『竹斎』は、絵本のように紙面いっぱいに挿絵が入り、その上の余白に文字が書き込まれているというもので、今日で言えば漫画のようなものでした。

  この時代はこうした挿絵のある本が多く出版されてました。こうした中で{菱川師宣|ひしかわもろのぶ}のような優れた絵師が現れ、後の浮世絵の元となっていきました。

  竹齋はかつて名医の誉れ高かった養父(やぶ)薬師(くすし)の偽物で、狂歌を詠みながら、磁石山の石で作った吸い膏薬のような妖しげなアイテムを使い、時には人助けもしますが、たいていは失敗し、ほうほうの体で逃げ出すというストーリーでした。

  薮医者というのは本来養父薬師という名医がいまして、その名声が津々浦々に広まるにつれて養父薬師を名乗る偽物が横行するようになり、ついには駄目な医者の代名詞になったと言われています。

  この発句は、自分はその竹齋のような者です、という自己紹介の句になります。

 

季語は「木枯し」で冬になります。俳諧には細かい規則が沢山ありますが、とりあえずここではまず季語だけを見て行きます。

 

 

   狂句こがらしの身は竹齋に似たる哉

 たそやとばしるかさの山茶花    野水

 (狂句こがらしの身は竹齋に似たる哉たそやとばしるかさの山茶花)

 

 俳諧は上句五七五と下句七七を合わせて和歌の形にするゲームなので、参考までにその両方を繋げた形を記しておきます。

  野水(やすい)は芭蕉の発句をどう思ったかは知りませんが、この挑発をさらっと流しています。

  どうりで笠の上に山茶花が飛び散っているかと思ったら、狂句木枯らしの竹齋さんでしたか、と答えます。

  野水は名古屋で呉服商を営んでいました。

 

季語は「山茶花」で冬になります。冬と夏は一句から三句まで、春と秋は三句から五句まで続けます。

 

第三

 

   たそやとばしるかさの山茶花

 有明の(もん)()に酒屋つくらせて    荷兮

 (有明の主水に酒屋つくらせてたそやとばしるかさの山茶花)

 

 有明の主水という何となくありそうな人名を出して、前句の山茶花を笠に飛び散らせている人を、酒屋を作らせるような架空の偉い人とします。

  主水は本来は水を管理する役人の官職名ですが、当時の人名は官職名から来ているものが多く、衛門だとか介だとかいうのも、元は官職名でした。

  ただ、主水という名前から、明け方の有明の頃は草葉に清らかな露の玉を結びますから、さぞかし旨い酒が造れそうだ、というふうに展開しています。

  荷兮(かけい)は名古屋で医者を営んでいて、今回の名古屋の(れん)(じゅ)の中心人物でもあります。『冬の日』はこの荷兮の編纂という形で出版されました。

 

季語は「有明」で秋になります。俳諧では単に「ありあけ」というだけで「有明の月」を意味します。

 

四句目

 

   有明の主水に酒屋つくらせて

 かしらの露をふるふあかむま    重五

 (有明の主水に酒屋つくらせてかしらの露をふるふあかむま)

 

 馬がぶるぶるっと震えて露を掃う光景になります。「あかうま」はどこにでもいる平凡な馬、駄馬という含みがありました。酒屋など、商店には馬に乗った人も盛んに訪れます。

  四句目にふさわしい穏やかな展開でありながら、リアルの世界を描き出しています。

  重五(じゅうご)は名古屋で材木商を営んでいた。

 

季語は「露」で秋になります。

 

五句目

 

   かしらの露をふるふあかむま

 朝鮮のほそりすすきのにほひなき  杜国

 (朝鮮のほそりすすきのにほひなきかしらの露をふるふあかむま)

 

 異国趣味というのは延宝・天和の頃に盛んに見られたパターンでしたが、「ほそりすすき」は今となっては意味不明です。天和二年の朝鮮通信使行列に関係しているのでしょうか。行列なら、露を払う馬もいたことでしょう。

  ひょっとしたら、露払いの馬に乗ってる人の持ってた清道旗の先についてた飾りのことかもしれません。

  ()(こく)は名古屋で米問屋を営んでました。

 

季語は「すすき」で秋になります。

 

六句目

 

   朝鮮のほそりすすきのにほひなき

 ひのちりちりに野に米を(かる)     正平

 (朝鮮のほそりすすきのにほひなきひのちりちりに野に米を刈)

 

 前句の朝鮮に応じた架空の風景になります。

  「野に米を(かる)」というと何か変な感じがしますが、和歌では稲は小野に詠みます。

 

 里人は小野の山田に今よりや

     色こき稲の早苗とるらむ

               鷹司院(たかつかさいんの)(そち)夫木抄(ふぼくしょう)

 秋ふくる小野の山田に小男鹿(さをしか)

     涙色こき稲ぞのこれる

               正徹(しょうてつ)草根集(そうこんしゅう)

 

といった歌があります。

  正平については詳しいことはよくわかっていませんが。座が一巡した後に付けている所から執筆(書記のようなもの)だったのではないかと思います。

  連歌でも俳諧でも興行の時には句を記述する係の人がいます。連歌では「主筆」、俳諧では「執筆」と呼ばれることが多いです。

 

季語は「米を刈る」で秋になります。

初裏

七句目

 

   ひのちりちりに野に米を刈

 わがいほは鷺にやどかすあたりにて 野水

 (わがいほは鷺にやどかすあたりにてひのちりちりに野に米を刈)

 

 隠棲している人の風情で、鷺に宿を貸すようなところですから、川べりになります。川原乞食などという言葉もあるように、川原は公界(くがい)で、特に誰の所有ということもなく、自由に棲むことができただけに、ホームレスの溜まり場にもなりました。

  そんな川原に庵を構え、米を作っているという、乞食僧か何かでしょう。

  当時は人口も少なく、まだ川の近くまで家が立ち並ぶことはなく、広い河川敷はそのままになってました。江戸時代も後期になると、こうした所にも新田開発が進んでゆくことになります。

 

季語はありません。無季の句は何句あっても構いません。

 

 

八句目

 

   わがいほは鷺にやどかすあたりにて

 髪はやすまをしのぶ身のほど    芭蕉

 (わがいほは鷺にやどかすあたりにて髪はやすまをしのぶ身のほど)

 

 河原の住人ということで、こういうわけありの一時的な隠遁僧がいるというのは、当時のあるあるだっと思われます。

  何か不始末でもしでかして、一時的に坊主になって反省した振りをして、ほとぼりが醒めたらすぐに還俗する気でいるわけですね。「しのぶ」というのが、俳諧では恋の言葉ですから、女のことで不始末を犯した男かもしれません。当時不倫は重罪でした。

 

無季。恋の句は五句まで続けることができます。

 

 

九句目

 

   髪はやすまをしのぶ身のほど

 いつはりのつらしと乳をしぼりすて 重五

 (いつはりのつらしと乳をしぼりすて髪はやすまをしのぶ身のほど)

 

 前句の一時的な出家者は、ここでは駆け込み寺に駆け込んだ尼になります。子を失ってもなお出て来る母乳を絞り捨てるのが悲しいですね。

 

無季。恋。

 

 

十句目

 

   いつはりのつらしと乳をしぼりすて

 きえぬそとばにすごすごとなく   荷兮

 (いつはりのつらしと乳をしぼりすてきえぬそとばにすごすごとなく)

 

 死んだ赤子の卒塔婆の前で泣き伏す女とします。

 

無季。

 

 

十一句目

 

   きえぬそとばにすごすごとなく

 影法(かげぼう)のあかつきさむく火を焼て   芭蕉

 (影法のあかつきさむく火を焼てきえぬそとばにすごすごとなく)

 

 消えぬ卒塔婆を前にして涙ながらに供養する人物の影が、寒さをしのぐための焚火の炎に映し出されています。

  心情をそのまま述べるのではなく、情景として想像させるあたりがエモいですね。

  前句や打越(前句の前の句)のリアルでいて人情味あふれる句に、芭蕉も何か談林の流行の中で忘れていたものを思い出したのでしょう。

  この付け句は、寛文の頃の貞徳翁十三回忌追善俳諧三十一句目の、

 

   秋によしのの山のとんせい

 在明の影法師のみ友として     宗房

 

の句に似ています。最近使ってなかったこの貞門時代のこのパターンが、今の時代には生かせると思ったのかもしれません。 なお、芭蕉は伊賀にいた頃は宗房(むねふさ)という名乗りをそのまま俳号としてました。貞門の時代は貞門を開いた松永(まつなが)(てい)(とく)をはじめとして、松江重頼、菅谷高政、田中常矩など、名乗りをそのまま使う人がたくさんいました。

 

無季。

 

 十二句目

 

   影法のあかつきさむく火を焼て

 あるじはひんにたえし虚家(からいゑ)    杜国

 (影法のあかつきさむく火を焼てあるじはひんにたえし虚家)

 

 虚家(からいゑ)は人の住んでいない家で、空家や廃墟のことです。

  この場合は家財道具もすべて失って空き家同然になった家という意味ではないかと思います。何もないところで火だけを焚いて暖を取っているのが侘しいですね。

 

 無季。

 

 十三句目

 

   あるじはひんにたえし虚家

 田中なるこまんが柳(おつ)るころ    荷兮

 (田中なるこまんが柳落るころあるじはひんにたえし虚家)

 

 「こまん」は「関のこまん」とも呼ばれていた丹波与作との恋物語のヒロインです。

  丹波与作と関のこまんの恋物語は寛文の頃から俗謡に歌われ、浄瑠璃や歌舞伎にも脚色されてゆくことになりました。

  残念ながらどういう物語だったのかは今はわかりませんが、悲しい話だったのでしょう。

  その関のこまんも世を去り、形見の柳が田んぼの中に残っていて、その近くでは貧しい人が細々と暮らしています。

 

 季語は「柳落る」で秋になります。

 

 庭深き柳の枯葉散りみちて

     垣ほ荒れたる秋風の宿

               伏見院(風雅集)

 

などの和歌に詠まれていることで秋の季語になります。

 

 十四句目

 

   田中なるこまんが柳落るころ

 霧にふね(ひく)人はちんばか      野水

 (田中なるこまんが柳落るころ霧にふね引人はちんばか)

 

 柳というのは川べりに自生することも多いので、柳に船は付き物と言ってもいいでしょう。「付き物」という言葉は連歌や俳諧で句を付ける時に、よく用いられるパターンをそう呼んだところから来た言葉です。

  単に霧に船を引く人を出すだけでなく、その人を「ちんば」とすることで句を盛り上げてます。

  人の身体の障害を笑うというのではなく、足が悪いながら一生懸命船を引く姿には、何か壮絶なその人間の生き様が感じられます。

  この場合の「か」という末尾は疑問を呈しているのではなく、「かな」と同じに考えてください。

  「かな」も疑問の意味で語尾を上げて「かな?」というふうにも使いますが、俳諧ではいったん疑問を呈しながらもやはりそうだ間違いないという、治定(じじょう)の意味で用いられるのがほとんどです。

  何か普通と違う船の引き方をしているから、何だろうと疑問に思ってよくよく見たら、そういう障害の人だったのか、というようなニュアンスです。

 

 季語は「霧」で秋になります。

 

 十五句目

 

   霧にふね引人はちんばか

 たそがれを横にながむる月ほそし  杜国

 (たそがれを横にながむる月ほそし霧にふね引人はちんばか)

 

 「横にながむる」は見上げるような高さではなく、横を向くだけで見える、という意味になります。

  船をゆっくりと引きながら次第に日が暮れていくと、地平線近くに細い月が見えできます。

 

 季語は「月」で秋になります。

 

 十六句目

 

   たそがれを横にながむる月ほそし

 となりさかしき町に下り居る    重五

 (たそがれを横にながむる月ほそしとなりさかしき町に下り居る)

 

 前句の「横にながむる」を横になって眺める、と取り成します。

  「さかし」は分別のあるという意味もありますが、この時代はうるさいという意味でも用いられました。「じゃかあしい」という言葉も昔の「さかし」がなまったものではないかと思います。

  町中に移住してきたら隣にうるさい奴がいて辟易して、何か世知辛いなと横になってぼんやりと細い月を眺めます。

 

 無季。

 

 十七句目

 

   となりさかしき町に下り居る

 二の尼の近衛(このえ)の花のさかりきく   野水

 (二の尼の近衛の花のさかりきくとなりさかしき町に下り居る)

 

 前句の「下り居る」を牛車から降りるの意味に取り成します。

  ここで時代設定が平安時代になります。

  天皇が崩御した時には、その妻達は尼となり、「二の尼」というのは二番目の尼、つまり本妻ではなく、かつての側室ということになります。

  その二の尼が近衛の桜が今盛りだと聞き、京の都の下町に牛車から降り立つ場面となります。

  謡曲『西行桜』という能に、

 

 シテ「然るに花の名高きは」

 地  まづ初花を急ぐなる、近衛殿の糸桜。

 (野上豊一郎. 解註謡曲全集 全六巻合冊(補訂版) (Kindle の位置No.35951-35954). Yamatouta e books. Kindle .

 

というセリフがあるように、そういう有名な糸桜(枝垂桜)があったようです。

 

 季語は「花」で春になります。連歌や俳諧では単に「花」だけだと桜の花の意味になります。

 

 十八句目

 

   二の尼の近衛の花のさかりきく

 蝶はむぐらにとばかり鼻かむ    芭蕉

 (二の尼の近衛の花のさかりきく蝶はむぐらにとばかり鼻かむ)

 

 むぐらは八重(やえ)(むぐら)とか言われまして、昔は(よもぎ)とともに雑草の代名詞みたいに用いられてました。

  かつての宮廷で蝶のように華やかに舞っていた身も、今や近衛の糸桜どころか、こんな雑草にとまる蝶になってしまったと涙ぐみます。

  「鼻かむ」というのは泣くことを間接的に言う言いまわしで、『源氏物語』でも須磨巻に「はなを忍びやかにかみわたす」というのが涙する意味で用いられています。

  風雅なようですが、何か鼻水でぐしゅぐしゅになった顔が浮かんできそうで、俳味があります。

 

 季語は「蝶」で春になります。

 

 

二表

十九句目

 

   蝶はむぐらにとばかり鼻かむ

 のり物に(すだれ)(すく)顔おぼろなる     重五

 (のり物に簾透顔おぼろなる蝶はむぐらにとばかり鼻かむ)

 

 舞台を現代に戻して、駕籠の簾の向こうに鼻をかむ人が朧に見える、という情景にします。

  愛しき人の姿を見て、蝶のような浮気なあの人は野卑なむぐらの所に行ってしまったと涙します。

 

 

季語は「おぼろ」で春になります。「おぼろ」は本来春の霞が掛かって朧にみえるところから春の季語なのですが、俳諧では無関係に「おぼろ」という言葉だけで春として扱います。

 

 二十句目

 

   のり物に簾透顔おぼろなる

 いまぞ(うらみ)の矢をはなつ声      荷兮

 (のり物に簾透顔おぼろなるいまぞ恨の矢をはなつ声)

 

 一転して仇討の句となります。

  顔もおぼろなのに大丈夫でしょうか。人違いでないか心配ですね。

 

 無季。

 

 二十一句目

 

   いまぞ恨の矢をはなつ声

 ぬす人の記念(かたみ)の松の(ふき)おれて    芭蕉

 (ぬす人の記念の松の吹おれていまぞ恨の矢をはなつ声)

 

 熊坂(くまさか)長範(ちょうはん)は謡曲『熊坂』でもって多くの人に知られるようになり、江戸時代の歌舞伎、浄瑠璃などの題材にもなってました。

  十二世紀の大盗賊ということで、義経伝説に結び付けられ、謡曲のほうも、綾戸古墳の松の木の下で、熊坂の十三人の手下をばったばったと切り捨てた牛若丸に、ついに熊坂が薙刀で切りかかり、一騎打ちとなりますが、そこで牛若丸は今日の五条での弁慶のときのように、ひらりひらりとあの八艘飛びを見せ、ついには熊坂もこの松の木の下で息絶えました。

  この形見の松は謡曲『熊坂』に、

 

 「あれに見えたる一木の松の、茂りて小高き茅原こそ、唯今申しし者の古墳なれ。往復ならねば申すなり。」(野上豊一郎. 解註謡曲全集 全六巻合冊(補訂版) (Kindle の位置No.85623-85626). Yamatouta e books. Kindle .

 

とあります。

  その熊坂の形見の松も、やがて年月を経て、老木となり、今では吹き折れています。しかし、その木の下にたたずむと、今でも熊坂の霊が現れて、恨みの矢の声が聞こえてくるようです。このように物語の一場面を思い起こさせるような付け方を本説付けと言います。

  謡曲では熊坂の武器は薙刀で、弓ではありませんが、出典で付ける時は、そのものではなく多少変えるのが普通なので、熊坂が弓で牛若丸を狙ったとしても間違いというわけではではありません。

  少し変えるというのは、たとえば浄瑠璃の『仮名手本忠臣蔵』でも、大石内蔵助が大星由良助になってたりします。芝居もそうだし、俳諧もあくまで虚構ですから、そのまんまではなく少し変えた方が良いのです。

  

無季。

 

二十二句目

 

   ぬす人の記念の松の吹おれて

 しばし宗祇(そうぎ)の名を付し水      杜国

 (ぬす人の記念の松の吹おれてしばし宗祇の名を付し水)

 

 岐阜県の郡上(ぐじょう)八幡(はちまん)は、かつって連歌師の宗祇が古今伝授を受けた東常(とうのつね)(より)の支配下にあり、ここでも古今伝授を受けるために宗祇が滞在したという伝承があります。

  その宗祇の庵は長良川に流れ込む吉田川のほとりにあったと言われ、そこにある泉が、やがて「宗祇水」と呼ばれるようになったといいます。(参考、『宗祇』奥田勲、一九九八、吉川弘文館)

  ともに美濃国の名所で、熊坂の形見の松に宗祇水と二つのものを並べるようなこういう付け方を、相対付け、あるいは向え付けと言います。

 

 無季。

 

 二十三句目

 

   しばし宗祇の名を付し水

 笠ぬぎて無理にもぬるる北時雨(しぐれ)   荷兮

 (笠ぬぎて無理にもぬるる北時雨しばし宗祇の名を付し水)

 

 宗祇というと、

 

 世にふるもさらに時雨の宿り哉   宗祇

 

の発句が昔はよく知られていました。そこで「宗祇の名を付し水」を宗祇水ではなく、時雨にも宗祇の名があるという意味に取り成します。

  宗祇ゆかりの時雨であれば、無理にでも濡れて宗祇法師の「世にふるも」の気持ちになって見たいものだ、というそういう意味になります。

 

 季語は「時雨」で冬になります。

 

 二十四句目

 

   笠ぬぎて無理にもぬるる北時雨

 冬がれわけてひとり唐苣(たうちさ)      野水

 (笠ぬぎて無理にもぬるる北時雨冬がれわけてひとり唐苣)

 

 唐苣はフダンソウとも言い、葉を食用とするビーツの仲間で、江戸時代の初め頃に中国から入ってきて、よく栽培されていたようです。最近はスイスチャードという名で呼ばれ、時折目にするようになりました。

  フダンソウの名前は比較的季節に関係なく収穫できるからで「不断草」という字を当てます。冬でも収穫できないことはないので、新鮮な野菜の少なくなる季節には、時雨に濡れてでも収穫したいものだ、ということになります。

 

 季語は「冬枯れ」で冬になります。

 

 二十五句目

 

   冬がれわけてひとり唐苣

 しらじらと砕けしは人の骨か何   杜国

 (しらじらと砕けしは人の骨か何冬がれわけてひとり唐苣)

 

 江戸時代前期には、まだ火葬や土葬などの習慣が徹底してなくて、死体を川原などに投げ捨てたりすることもあって、いわゆる「野ざらし」と呼ばれる髑髏が草むらにごろごろしていても、それほど珍しいことではなかったようです。それらはやがて風化し、自然に砕け散ってゆき、土に帰ってゆきます。

  冬枯れの中で一人唐苣を摘んでいると、白く砕けた人骨のようなもが見つかったりすることもあったのでしょう。今だったら事件ですが。

 

 無季。

 

 二十六句目

 

   しらじらと砕けしは人の骨か何

 烏賊(いか)はゑびすの国のうらかた    重五

 (しらじらと砕けしは人の骨か何烏賊はゑびすの国のうらかた)

 

 「人の骨か何」を、砂浜に散らばる白いものと取り成します。イカにも白い(こう)があります。前句の白々とした「人の骨か何」は人の骨ではなくイカの甲だった、という付けになります。

  ただそれだけでは面白くないので、そのイカはどこか見知らぬ(えびす)の国の占いに用いられたものだろう、と付け加えています。(「うらかた」は占いの(かた)であって、裏方ではありません。)

  占いには鳥の骨や亀の甲羅が使われたりしますから、異国ではイカの甲で占っていてもおかしくない、というところでしょうか。

  「ゑびす」は七福神の恵比寿様で、七福神は東の海上にある三神山の一つ、蓬莱山から、宝船に乗ってやって来ると言われています。ですから、「ゑびすの国」とは蓬莱の国のことになります。

  蓬莱山ではすべての生き物が白いと言われてまして、そこにイカがいてもおかしくありません。

  ゑびすは一方で「えみし」と同様、「夷」という字を当て異民族の意味でも用いられてました。中国では東夷・南蛮・西戎・北狄と呼ばれ、「夷」は我々日本人の祖先である倭人を初めとして、越人、韓人などもひっくるめてそう呼ばれていました。恵比寿様が漁師の姿なのも、中国人の側からみた東夷に漁撈民族のイメージがあったからだと思います。

  東夷はかつての長江文明の末裔ということもありまして、他の蛮族に比べて一目置く所もありました。孔子も東方礼儀の国と言い、海の向こうの島国への憧れは、いつしか蓬莱山伝説を生んだのだと思います。

  秦の徐福も不老不死の仙薬を求めて日本に来たといいますし、{鑑真和尚|がんじんわじょう}の日本布教への情熱も、おそらく日本に何かエキゾチックな魅せられるものがあったからだと思います。マルコ・ポーロの黄金の島ジパングも、蓬莱山伝説がごっちゃになったものだったのでしょう。

 

 無季。

 

 二十七句目

 

   烏賊はゑびすの国のうらかた

 あはれさの謎にもとけし郭公(ほととぎす)    野水

 (あはれさの謎にもとけし郭公烏賊はゑびすの国のうらかた)

 

 「し」は「じ」で否定の言葉になります。

  ホトトギスの鳴き声は悲しく、血を吐きながら鳴くと言われます。

  それは昔の中国の故事で、蜀という国に杜宇という人がいて、農業を広めてやがて望帝という帝王となりました。死んだ後もその魂がホトトギスになって、農耕を始める季節になると、それを人々に告げるために鳴いてました。

  ところがやがて蜀の国が滅んでしまい、それを悲しんだホトトギスは「不如帰去(帰りたい)」と言って血を吐くまで鳴きました。ホトトギスの口の中が赤いのはそのためだと言われてました。

  こうした悲しい物語も、永遠の命を持つ神仙郷の住民には、死後にホトトギスとなって血を吐きながら鳴くというのが一体何のことだか、どう占っても何のことだかわからない、そういう意味になります。

 

 季語は「郭公」で夏になります。

 

 二十八句目

 

   あはれさの謎にもとけし郭公

 秋水(しうすゐ)一斗もりつくす夜ぞ      芭蕉

 (あはれさの謎にもとけし郭公秋水一斗もりつくす夜ぞ)

 

 「秋水」は本来は秋に黄河の水かさが増すことで、『荘子』の秋水編はそこから来ています。

  それとは別に秋の清らかな水を意味することもありますが、この場合はあくまで比喩で、秋の新酒のことを意味します。

  酒は一升も飲めば立派な酒豪ですが、その十倍の一斗(十八リットル)となると、なかなか豪勢な話です。

  酒豪が何人もそろって、今日は派手に飲み明かそうぜ、というわけでホトトギスにまつわる悲しい伝説など知ったことではない、そういう意味になります。

 

 季語は「秋水」で秋になります。

 

 二十九句目

 

   秋水一斗もりつくす夜ぞ

 日東(じっとう)の李白が坊に月を見て     重五

 (日東の李白が坊に月を見て秋水一斗もりつくす夜ぞ)

 

 酒といえば李白の酒好きは有名だが、ここでは李白ではなく、あえて「日東の李白」としています。基本的には架空の人物と見てかまいません。

  李白のような漢詩が得意な大酒飲みでしたら、李白の『月下独酌』の詩のように、月を見ながら月と壁に映る自分の影と三人?で酒を一斗飲み干したとしてもおかしくありません。

  「日東の李白」ではありませんが、「日東の李杜」と呼ばれた人は、これより十二年前の寛文十二年(一六七二年)に没した石川(いしかわ)丈山(じょうざん)という人がいました三河の出身ということで、名古屋の連衆もよく知っていたと思います。

  丈山は寛永十四年(一六三七年)に朝鮮使節が来日した際、権侙(クォンチョク)という韓国人と筆談の際に、「日東の李杜」と褒められたといいます。当時の日本人は、漢文に関しては相当劣等感があったのでしょう。韓国人も別に漢文に関しては母国語ではないのですが、それでも漢文に関しては韓国の方が上だという意識がありまして、本人はどうか知りませんが、周囲がすっかり有頂天になってしまったのではなかったかと思います。寛文十一年(一六七一年)に刊行された『覆醤集(ふしょうしゅう)』の序文にもそのことが記されています。

  実際の丈山の詩を一つ紹介しておきましょう。

 

   驟雨

 冥色分高漢 雷聲過遠山

 晩涼殘雨外 月潔斷雲間

 

 暗い色が銀河を分かち

 遠山をよぎるかみなり

 夕暮は涼しく残雨の外

 破れた雲に月は清らに

 

 

季語は「月」で秋になります

 

 三十句目

 

   日東の李白が坊に月を見て

 (きん)(むく)槿()をはさむ琵琶(うち)      荷兮

 (日東の李白が坊に月を見て巾に木槿をはさむ琵琶打)

 

 『太平広記』巻第二百五、楽三に、玄宗皇帝が愛した羯鼓の名手(しん)が、頭に絹の帽子を載せ、その上に槿の花を置き、『舞山香』という曲を一曲演奏し、滑り落ちることがなかった、それだけ体を微動だにさせずに演奏したという話が収録されています。

  李白も玄宗皇帝の時代の人ということで、この物語を本説として、日東の李白の月見の宴に琵琶の名手が頭巾の上に槿をはさみ、それを落とさずに演奏した、と付けます。

 

 

 

季語は「木槿」で秋になります。

二裏

三十一句目

 

   巾に木槿をはさむ琵琶打

 うしの跡とぶらふ草の夕ぐれに   芭蕉

 

 牛や馬は死ぬとすぐに専門の処理業者がやってきて解体し、使える部分は持ち帰り、使えない部分もそれ専用の処理場に集められました。いわゆる()()と呼ばれる人たちの仕事でした。

  飼い主はこの時何もすることはありません。馬の場合は江戸後期だと馬頭観音塔を建てて弔いましたが、この時代はどうだったかよくわかりません。

  まして牛の場合はどうだったのか、後世には残らなくても、何らかの形で祭壇を設けて弔っていたのではないかと思います。

  前句の琵琶法師がその現場を訪れて、そっと槿の花を添えます。

  槿というと白楽天の「放言五首」の五番目の詩に、

 

 泰山不要欺毫末 顔子無心羡老彭

 松樹千年終是朽 槿花一日自爲榮

 何須戀世常憂死 亦莫嫌身漫厭生

 生去死來都是幻 幻人哀樂繁何情

 

 泰山府君の禄命簿には寸毫の偽りもなく、

 夭折した顔回は八百年生きたという彭祖を羨まない。

 松の樹は千年にして終に朽ちて、

 木槿の花は一日を自らの栄誉とする。

 何でこの世が恋しくていつも死を憂いたるするんだろう。

 だからといって自分を嫌ったりして厭世的にはなるな。

 生まれて死ぬのは所詮幻、

 その幻がむやみに人を喜ばせたり悲しませたりする。

 

とあります。

  たとえ一日の命でも、それを天命として誇らしく生きる、それが槿の花の心でした。

 

無季。

 

三十二句目

 

   うしの跡とぶらふ草の夕ぐれに

 ()(このしろ)の魚をいただき       杜国

 (うしの跡とぶらふ草の夕ぐれに箕に鮗の魚をいただき)

 

 (このしろ)というと、『奥の細道』の室の八島の所に、「このしろといふ魚を禁ず。縁起の旨むね世に伝ふ事も侍はべりし。」とあります。

  コノシロは焼くと死体を焼くような匂いがするというので嫌われましたが、子供が生まれた時に、あまりに可愛くて神様にさらわれないように、コノシロを焼いて地中に埋めて、子の身代わりにするという風習があったと言います。そのために「子の代(しろ)」というのだと言います。

  この場合は、牛の弔いにコノシロを供えるということだと思います。牛を我が子のように思っていたのでしょう。

  ()は穀類を篩う道具ですが、物を載せて運ぶのにもちょうどいい大きさをしています。

 

無季。

 

三十三句目

 

   箕に鮗の魚をいただき

 わがいのりあけがたの星(はら)むべく  荷兮

 (わがいのりあけがたの星孕むべく箕に鮗の魚をいただき)

 

 先ほどは日東の李白でしたが、唐の李白には、生母が太白(金星)を夢見て李白を懐妊し、それで字が太白になったという伝説があります。

  それの本説で「白」という名前の子を得ました。これが本当の「子の白」。

 

無季。恋。

 

三十四句目

 

   わがいのりあけがたの星孕むべく

 けふはいもとのまゆかきにゆき   野水

 (わがいのりあけがたの星孕むべくけふはいもとのまゆかきにゆき)

 

 「まゆかき」はコトバンクの「精選版 日本国語大辞典「眉描・黛」の解説」に、

 

 〘名〙 まゆずみで眉をかくこと。また、まゆずみで眉をかくのに用いる筆。まよがき。

  ※白氏文集天永四年点(1113)三「青き黛(マユカキ)(〈別訓〉まゆすみ)眉を画いて眉細く長し」

 

とある。当時の既婚女性は眉毛を抜いて、眉を描いていました。

  結婚した妹の眉を描きに行き、妹の懐妊を祈ります。

 

無季。恋。

 

三十五句目

 

   けふはいもとのまゆかきにゆき

 綾ひとへ(をり)()に志賀の花(こし)て    杜国

 (綾ひとへ居湯に志賀の花漉てけふはいもとのまゆかきにゆき)

 

 昔の日本はサウナが主流でした。それが江戸時代のちょうどこの芭蕉の時代に、お寺を中心に少しずつ湯船にお湯を張った今のような風呂が広まっていきました。こうした風呂を当時は「水風呂」あるいは「(すえ)風呂(ぶろ)」と呼んでました。

  これに対し、直接湯船のお湯を沸かすのではなく、沸かしたお湯を風呂桶に移した風呂の場合は「(おり)()」と呼んでました。

  風呂に使う水に浮いた桜の花びらを、綾布で濾し取り、一風呂浴びさせてから妹の眉を描くという意味になります。

  志賀はさざなみの志賀で、琵琶湖に落ちた花のことになります。

 

 明日よりは志賀の花園稀にだに

     誰かはとはむ春の古里

               藤原良経(新古今集)

 

の心でしょうか。

 

季語は「花」で春になります。

 

挙句

 

   綾ひとへ居湯に志賀の花漉て

 廊下は藤のかげつたふ也      重五

 (綾ひとへ居湯に志賀の花漉て廊下は藤のかげつたふ也)

 

 お寺か立派な屋敷の風呂として、廊下の障子には藤の影が映ります。春爛漫をもって一巻は目出度く終わることになります。

 一巻の最後の句のことを挙句(あげく)といいます。「挙句の果て」という言葉もそこから来ています。

 

 

季語は「藤」で春になります。