「炭売の」の巻、解説

貞享元年十一月

初表

   なに波津にあし火焼家はすすけたれど

 炭売のをのがつまこそ黒からめ  重五

   ひとの粧ひを鏡磨寒     荷兮

 花棘馬骨の霜に咲かへり     杜国

   鶴見るまどの月かすかなり  野水

 かぜ吹ぬ秋の日瓶に酒なき日   芭蕉

   荻織るかさを市に振する   羽笠

 

初裏

 賀茂川や胡磨千代祭り徽󠄀近み   荷兮

   いはくらの聟なつかしのころ 重五

 おもふこと布搗哥にわらはれて  野水

   うきははたちを越る三平   杜国

 捨られてくねるか鴛の離れ鳥   羽笠

   火をかぬ火燵なき人を見む  芭蕉

 門守の翁に紙子かりて寝る    重五

   血刀かくす月の暗きに    荷兮

 霧下りて本郷の鐘七つきく    杜国

   ふゆまつ納豆たたくなるべし 野水

 はなに泣桜の黴とすてにける   芭蕉

   僧ものいはず款冬を呑    羽笠

 

 

二表

 白燕濁らぬ水に羽を洗ひ     荷兮

   宣旨かしこく釵を鋳る    重五

 八十年を三つ見る童母もちて   野水

   なかだちそむる七夕のつま  杜国

 西南に桂のはなのつぼむとき   羽笠

   蘭のあぶらに卜木うつ音   芭蕉

 賤の家に賢なる女見てかへる   重五

   釣瓶に粟をあらふ日のくれ  荷兮

 はやり来て撫子かざる正月に   杜国

   つづみ手向る弁慶の宮    野水

 寅の日に旦を鍛冶の急起て    芭蕉

   雲かうばしき南京の地    羽笠

 

二裏

 いがきして誰ともしらぬ人の像  荷兮

   泥にこころのきよき芹の根  重五

 粥すするあかつき花にかしこまり 野水

   狩衣の下に鎧ふ春風     芭蕉

 北のかたなくなく簾おしやりて  羽笠

   ねられぬ夢を責るむら雨   杜国

 

       『校本芭蕉全集 第三巻』(小宮豐隆監修、一九六三、角川書店)

初表

発句

 

   なに波津にあし火焼家はすすけたれど

 炭売のをのがつまこそ黒からめ  重五

 

 詞書は「あし火焼家」は「あしびたくや」と読む。

 

 難波人芦火たく屋はすすたれど

     おのが妻こそとこめづらなれ

              柿本人麻呂(拾遺集)

 

が、前書きを含めて本歌になっている。

 『校本芭蕉全集 第三巻』にある謡曲『蘆刈』の、

 

 ツレ「かくは思へど若しは又、人の心は白露の、おき別れにしきぬぎぬの、つまや重ねし難波人。

 シテ「蘆火焚く屋は煤たれて、おのが妻衣それならで、又は誰にか馴衣。

 (野上豊一郎. 解註謡曲全集 全六巻合冊(補訂版) (Kindle の位置No.44319-44318). Yamatouta e books. Kindle 版. 

 

もまた、この歌が元になっている。

 離れ離れになった夫婦の妻の方は都で乳母となり、そこそこの生活のできるようになったので夫を迎えにと難波津にもどると、夫はそこで蘆を売って生活していた。その再会の場面になる。夫の方はこんな蘆火を焚く家では衣も煤けてしまうと恥じる場面だ。

 発句の方はそれをふまえて、炭売などやっていると妻までが煤けて黒くなってしまう、という意味になる。

 ちなみに重五はコトバンクの「デジタル版 日本人名大辞典+Plusの解説」に、

 

 「1654-1717 江戸時代前期-中期の俳人。

承応(じょうおう)3年生まれ。尾張(おわり)名古屋の材木商。松尾芭蕉の門人。貞享(じょうきょう)元年(1684)山本荷兮(かけい)が名古屋に芭蕉をむかえて「冬の日」の歌仙を興行した際,連衆のひとりとなる。「春の日」「阿羅野(あらの)」などにも作品がある。享保(きょうほう)2年6月13日死去。64歳。尾張出身。通称は善右衛門,弥兵衛。」

 

とある。材木商はウィキペディアによると、

 

 「15世紀末の1494年(明応3年)に編纂された『三十二番職人歌合』の冒頭には、「いやしき身なる者」として、「竹売」とともに「材木売」として紹介され、袴を穿き、板材を束ねる姿が描かれている。」

 

とあり、かつては賤民に含まれていたが、江戸時代には、

 

 「中世の時期、「問丸」(といまる)と呼ばれる商人が現れ、海岸や河川の港で、貨物の保管・輸送・販売を行った。16世紀には「仲買」が現れ、やがて「問丸」が江戸時代(17世紀 - 19世紀)に入り、卸売商人である「問屋」へと発展し、流通のシステムが変革されていく。江戸における「材木問屋」は、その当初は「仲買」と「小売」を兼ねていたが、のちに分化していく。「材木屋」と呼ばれた小売商店は、製材を行う職人である「大鋸引」(木挽)、ならびに筏師(川並鳶)を配下に抱えていた。江戸・八丁堀で材木商を営み、寛永寺本堂造営への材木提供で財をなした人物が、紀伊國屋文左衛門である。」

 

と材木の流通を仕切る重要な役割を担うようになった。特に紀伊國屋文左衛門のイメージがあるため、材木商というと大金持ちを連想しがちになるが、重五の所がどうだったかはわからない。

 ここでは自らの商売を卑下して、材木商なんてのは炭売と似たようなものですよ、という意味が込められていたと思われる。

 

季語は「炭売」で冬、人倫。「おのがつま」も人倫。

 

 

   炭売のをのがつまこそ黒からめ

 ひとの粧ひを鏡磨寒       荷兮

 (炭売のをのがつまこそ黒からめひとの粧ひを鏡磨寒)

 

 「鏡磨寒」は「かがみとぎさむ」と読む。「寒(さむ)」は放り込みの季語で、形容詞の活用語尾の省略は古代から現代にいたるまで普通に行われている。今なら「さむっ」と表記する所だろう。

 「炭売」に「鏡磨」を付ける相対付けの脇は珍しい。

 土芳の『三冊子』には、脇に関して「對付、違付、うち添、比留の類、むかしより云置所也」とあり、この「むかしより」は紹巴の『連歌教訓』に、

 

 「一、脇に於て五つの様あり、一には相対付、二には打添付、三には違付、四には心付、五には比留り也、(此等口伝、好士に尋らるべし)、大方打添て脇の句はなすべき也」(『連歌論集 下』伊地知鉄男編、一九五六、岩波文庫p.203)

 

とある脇五体を言う。この中に相対付けも入っている。

 炭売が人様のために妻を黒くしているように、鏡磨もまたひとの粧ひのため寒い中を鏡を磨いでいてくれる。卑下することではありません、と応じる。

 鏡磨はコトバンクの「世界大百科事典 第2版の解説」に、

 

 「鏡を磨ぐことを仕事とした旅職のこと。鏡は材質にガラスが用いられる以前は,長い間銅または青銅であったから,たえずその曇りを磨ぐ必要があった。その技術を江戸時代の《人倫訓蒙図彙》(1690)に〈鏡磨にはすゝかねのしやりといふに,水銀を合て砥(と)の粉をましへ梅酢にてとくなり〉と記すが,それ以前,室町時代はザクロ,平安・鎌倉時代はカタバミが使われていたらしい。江戸時代はとくに越中(富山県)氷見(ひみ)の者が中心で,毎年夏から翌年春にかけ西は摂津から東は関東一帯へ出稼ぎし,全国の大半はこの仲間が占めた。」

 

とある。

 

季語は「寒」で冬。「ひと」「鏡磨」は人倫。

 

第三

 

   ひとの粧ひを鏡磨寒

 花棘馬骨の霜に咲かへり     杜国

 (花棘馬骨の霜に咲かへりひとの粧ひを鏡磨寒)

 

 江戸時代は牛や馬が死ぬと穢多の人たちがやってきて、プロの技で手際良く解体し、皮革をはじめ様々なものに利用された。そして最終的に残ったものが死馬捨場に持って行かれる。この句はその死馬捨場の情景だろう。

 捨てられた馬を肥しにして、霜が降りる頃にイバラが季節外れの花を咲かせる。

 前句の鏡磨が寒い中を鏡をきれいに蘇らせるように、穢多の仕事もまた花を咲かせる。

 イバラはウバラとも言い、和歌で垣根に詠む「卯の花」はウバラの花のことだった。近世ではウツギの花のことを言うが、ひょっとしたら、

 

 神まつる卯月にさける卯の花は

     しろくもきねかしらけたるかな

              凡河内躬恒(拾遺集)

 

の「卯月(うつき)」の誤読によるものか。

 

季語は「霜」で冬、降物。「花棘」は植物、草類、非正花。

 

四句目

 

   花棘馬骨の霜に咲かへり

 鶴見るまどの月かすかなり    野水

 (花棘馬骨の霜に咲かへり鶴見るまどの月かすかなり)

 

 馬骨に鶴は「掃き溜めに鶴」ということか。朝の光に月がかすかに残る中、霜に帰り花のイバラが咲き、鶴の姿が見える。

 

季語は「月」で秋、天象。「鶴」は鳥類。

 

五句目

 

   鶴見るまどの月かすかなり

 かぜ吹ぬ秋の日瓶に酒なき日   芭蕉

 (かぜ吹ぬ秋の日瓶に酒なき日鶴見るまどの月かすかなり)

 

 前句を昼の月とする。秋の晴れた空、風もなく穏やかで、窓の外には鶴も来ているというのに酒がない。

 

季語は「秋の日」で秋。

 

六句目

 

   かぜ吹ぬ秋の日瓶に酒なき日

 荻織るかさを市に振する     羽笠

 (かぜ吹ぬ秋の日瓶に酒なき日荻織るかさを市に振する)

 

 秋の日に荻で笠を織って、天秤担いで市に振り売りに行く。「つつみかねて」の巻の「呉の国の笠」や、

 

 市人にいで是売らん笠の雪    芭蕉

 

の句を踏まえたものか。

 六句目はこれまでの三歌仙では正平の立ち位置だが、今回は羽笠が参加する。執筆ではなく六吟の一員として加わっている。

 

季語は「荻」で秋、笠の素材なので非植物扱いか。

初裏

七句目

 

   荻織るかさを市に振する

 賀茂川や胡磨千代祭り徽󠄀近み   荷兮

 (賀茂川や胡磨千代祭り徽󠄀近み荻織るかさを市に振する)

 

 「胡磨千代祭」はコトバンクの「精選版 日本国語大辞典の解説」に、

 

 「〘名〙 賀茂川上流にある稲荷の祭。九月初の午(うま)の日に胡麻を供えるのを恒例とするところからいう。

  ※俳諧・冬の日(1685)「賀茂川や胡磨千代祭り徽(やや)近み〈荷兮〉 いはくらの聟なつかしのころ〈重五〉」

 

とある。胡磨千代祭りも近いというので賀茂川辺りの市に笠を売りに行く。

 

季語は「胡磨千代祭り」で秋。「賀茂川」は名所、水辺。

 

八句目

 

   賀茂川や胡磨千代祭り徽󠄀近み

 いはくらの聟なつかしのころ   重五

 (賀茂川や胡磨千代祭り徽󠄀近みいはくらの聟なつかしのころ)

 

 岩倉は京都の北東で比叡山に近い。実相院門跡がある。皇室とのつながりが深く、ウィキペディアによると本堂は東山天皇の中宮、承秋門院の女院御所を移築したもので女院御所だったとある。ただ、東山天皇の即位は貞享四年でこの時はまだ先の事だった。

 「いはくらの聟」はひょっとしたら皇室関係の当時は噂になっていた人なのかもしれないがよくわからない。とにかく「胡磨千代祭」を懐かしく思っていたのだろう。

 

無季。「聟」は人倫。

 

九句目

 

   いはくらの聟なつかしのころ

 おもふこと布搗哥にわらはれて  野水

 (おもふこと布搗哥にわらはれていはくらの聟なつかしのころ)

 

 岩倉は岩倉でも阿波国美馬郡の岩倉で、藍染の盛んな地だ。布搗は藍染の布を染める際の行程であろう。

 阿波の藍染は蜂須賀至鎮(はちすかよししげ)が播磨の藍染を持ち込んだもので、初期の頃は搗き染めも行われていたのだろう。

 昔の民謡は小唄のように即興で歌詞を付けて唄われることが多い。これは古代の和歌や旋頭歌から受け継いだものではないかと思う。歌垣の時の歌のように恋の歌も多かったと思われる。

 岩倉で遠くにいる婿を懐かしんでいると、それを歌のネタにされて笑われる。

 

無季。恋。

 

十句目

 

   おもふこと布搗哥にわらはれて

 うきははたちを越る三平     杜国

 (おもふこと布搗哥にわらはれてうきははたちを越る三平)

 

 「三平」は「まるがお」と読むようだ。辞書オンラインことわざ辞典に「一瓜実に二丸顔三平顔に四長顔、五まで下がった馬面顔」という言葉があって女性の顔のランキングになっている。まあ、江戸時代の美人といえば瓜実顔というのはわかる。ただ、この諺だと二は丸顔で、「三平」は三番目の平顔のことになる。平面的な顔ということなのだろう。長顔と馬面顔の違いはよくわからない。こういう諺には大体いくつもの別バージョンもあったと思うから、ここでの「三平」は丸くて平たい顔という意味だろう。

 「守武独吟俳諧百韻」には、

 

   今年十六身にやしむらん

 乙女子をとらへてとへば秋の暮  守武

 

の句があり、戦国時代では十六歳で秋の暮と言われたが、江戸時代だと多少結婚年齢は遅くなったのか、二十歳で憂きということになる。

 

無季。恋。

 

十一句目

 

   うきははたちを越る三平

 捨られてくねるか鴛の離れ鳥   羽笠

 (捨られてくねるか鴛の離れ鳥うきははたちを越る三平)

 

 「くねる」はweblio古語辞典の「学研全訳古語辞典」に、

 

 「すねる。ひがむ。

  出典蜻蛉日記 中

  「『なほ、年の初めに、腹立ちな初(そ)めそ』など言へば、少しはくねりて書きつ」

  [訳] 「やはり、年の初めに、腹を立て始めるな」などと(侍女が)言うので、少しはすねて(返事を)書いた。」

 

とある。十六歳の悩みは顔ではなく、ここでは捨てられたことになる。

 「鴛の離れ鳥」はここでは比喩。

 

季語は「鴛」で冬、鳥類。恋。

 

十二句目

 

   捨られてくねるか鴛の離れ鳥

 火をかぬ火燵なき人を見む    芭蕉

 (捨られてくねるか鴛の離れ鳥火をかぬ火燵なき人を見む)

 

 火を置かない火燵に、いつも火を用意してくれたあの人はいないのかと思いつつ、それでいて自分で火を入れようとしない。すねているのか、一羽になってしまったオシドリ。

 恋の言葉はないが恋の情は残る。

 

季語は「火燵」で冬。恋。「人」は人倫。

 

十三句目

 

   火をかぬ火燵なき人を見む

 門守の翁に紙子かりて寝る    重五

 (火をかぬ火燵なき人を見む門守の翁に紙子かりて寝る)

 

 火燵の火がないので、門番の老人に紙子を借りる。紙は風を遮るので暖かい。

 

季語は「紙子」で冬。「翁」は人倫。

 

十四句目

 

   門守の翁に紙子かりて寝る

 血刀かくす月の暗きに      荷兮

 (門守の翁に紙子かりて寝る血刀かくす月の暗きに)

 

 殺人犯が逃げてきて、どこかの門番の老人にかくまってもらう。

 

季語は「月」で秋、夜分、天象。

 

十五句目

 

   血刀かくす月の暗きに

 霧下りて本郷の鐘七つきく    杜国

 (霧下りて本郷の鐘七つきく血刀かくす月の暗きに)

 

 本郷という地名はあちこちのあるが名古屋の本郷は街道から外れるし時の鐘からも遠い。ここは江戸の本郷であろう。日本橋から中山道を行くと、神田を過ぎれば本郷で、この辺りなら上野寛永寺の鐘が聞こえる。七つは夜明け前の暁になる。

 日本橋あたりで刃傷沙汰を起こし、夜明け前に中山道で江戸から逃げ出そうということか。

 

季語は「霧」で秋、聳物。

 

十六句目

 

   霧下りて本郷の鐘七つきく

 ふゆまつ納豆たたくなるべし   野水

 (霧下りて本郷の鐘七つきくふゆまつ納豆たたくなるべし)

 

 納豆は昔は秋の終わりから冬のもので、嵐雪の『玄峰集』に、

 

   元禄乙亥十月十二日一周忌

 夢人の裾を掴めば納豆かな    嵐雪

 

の句もある。芭蕉の一周忌の句だが、この季節になると江戸には納豆売りがやってきた。元禄三年の、

 

 納豆切る音しばし待て鉢叩き   芭蕉

 

の句もある。「納豆切る」は引き割り納豆だが、叩いてつぶした納豆もあったようだ。ウィキペディアに、

 

 「江戸時代の風俗事典『人倫訓蒙図彙』に書かれた納豆売りは、叩納豆と呼ばれる叩いて平たくした納豆を青菜とともに売っており、手早く納豆汁が作れるように工夫されていた。」

 

とある。

 夜明け前に納豆売りが叩納豆を作り、夜明けの頃に売りに来ていた。だから嵐雪も、今は亡き芭蕉さんが枕元に現れた夢を見て、行ってしまわないように裾をつかんだら、納豆売りの裾を掴んでいたという落ちになる。

 

季語は「ふゆまつ」で秋。

 

十七句目

 

   ふゆまつ納豆たたくなるべし

 はなに泣桜の黴とすてにける   芭蕉

 (はなに泣桜の黴とすてにけるふゆまつ納豆たたくなるべし)

 

 花の散るのを悲しみ、この世は所詮桜の黴にすぎないと世捨て人になったが、冬になるとお寺でその黴(正確には菌)で作った納豆を叩いている。

 

季語は「はな」で春、植物、木類。「桜」も植物、木類。

 

十八句目

 

   はなに泣桜の黴とすてにける

 僧ものいはず款冬を呑      羽笠

 (はなに泣桜の黴とすてにける僧ものいはず款冬を呑)

 

 款冬はここでは「くわんとう」と読む。「やまぶき」とも読むが、ここでは款冬花(かんとう)という漢方薬になるフキタンポポのことをいう。ただ、江戸時代の日本では蕗の薹で代用されていたか。いずれにせよ薬効はある。

 世を捨てた僧は喉が悪くて款冬花を煎じて飲む。

 

季語は「款冬」で春、植物、草類。「僧」は人倫。

二表

十九句目

 

   僧ものいはず款冬を呑

 白燕濁らぬ水に羽を洗ひ     荷兮

 (白燕濁らぬ水に羽を洗ひ僧ものいはず款冬を呑)

 

 僧といえば黒い衣で鴉とも呼ばれるが、その僧が薬を飲んでいる外では白いツバメが水浴びをしている。ツバメのアルビノは稀に現れ、ネットでも見ることができる。

 

季語は「燕」で春、鳥類。

 

二十句目

 

   白燕濁らぬ水に羽を洗ひ

 宣旨かしこく釵を鋳る      重五

 (白燕濁らぬ水に羽を洗ひ宣旨かしこく釵を鋳る)

 

 「宣旨(せんじ)」はウィキペディアに、

 

 「宣旨(せんじ)は、公家社会の上級女性使用人である女房の筆頭。俗称は、せじ。天皇の後宮十二司でいう典侍(女官長)に相当する最高職。わかりやすく言えば、第一秘書のような立場である。主に中宮・東宮・斎院に設置され、このほか斎宮・院(上皇)・摂政・関白などにも置かれることがあった。貴人の口頭命令である宣旨を取り次いだのが由来だが、渉外役だけではなく、主人に直属する女房集団を統括し、主人が女性である場合はその代理人的存在であるなど、高い職責を有した。800年前後、藤原薬子が安殿親王(のちの平城天皇)の東宮宣旨に補任されたのが史料上の初見。」

 

とある。

 前句の白燕を吉祥として簪作らせる。平安時代は垂髪で、日常的に髪を結うのに用いることはなかった。『源氏物語』紅葉賀巻で源氏の君が青海波を舞うときに、

 

 「かざしの紅葉いたうちりすぎて、かほのにほひにけおされたるここちすれば、おまへなるきくををりて、左大将さしかへ給ふ。」

 (髪に刺した紅葉が散ってしまって、夕陽に赤く照った顔に圧倒されたような感じがするので、左大将が前にあった菊を折って紅葉の枝と差し替えました。)

 

とあるが、この場合も簪として作られたものではなく本物の紅葉の枝を髪に飾ってたようだ。きらびやかな簪が用いられるようになったのは江戸時代に入ってからだった。

 吉祥があって何か大きな儀式があるということで賢い宣旨はすぐに簪の鋳造を命じる。

 

無季。「宣旨」は人倫。

 

二十一句目

 

   宣旨かしこく釵を鋳る

 八十年を三つ見る童母もちて   野水

 (八十年を三つ見る童母もちて宣旨かしこく釵を鋳る)

 

 「八十年(やそとせ)を三つ見る」は『校本芭蕉全集 第三巻』の注に「二百四十歳」とある。八百比丘尼であろう。この場合の童(わらは)は童女のことで、八百年生きる八百比丘尼の二百四十歳はまだ少女。異世界ネタでよくあるロリばばあだ。その母はもう少し年が上ということになる。宣旨から簪を賜る。

 

無季。「童」「母」は人倫。

 

二十二句目

 

   八十年を三つ見る童母もちて

 なかだちそむる七夕のつま    杜国

 (八十年を三つ見る童母もちてなかだちそむる七夕のつま)

 

 二百四十歳の童女は織姫で、母が一年に一度仲立ちして牽牛に逢わせてくれる。

 星の寿命を考えると、一年に一度ってって四十年前の「ぴあ」のはみだしネタにあったが。

 

季語は「七夕」で秋。「つま」は人倫。

 

二十三句目

 

   なかだちそむる七夕のつま

 西南に桂のはなのつぼむとき   羽笠

 (西南に桂のはなのつぼむときなかだちそむる七夕のつま)

 

 桂の花はここでは月の桂で月のこと。旧暦七月七日の夜は、月も七日の月で半月に近く、西南の方角にある。それを桂の花のつぼみと洒落てみる。

 

季語は「桂のはな」で秋、植物、木類、非正花。

 

二十四句目

 

   西南に桂のはなのつぼむとき

 蘭のあぶらに卜木うつ音     芭蕉

 (西南に桂のはなのつぼむとき蘭のあぶらに卜木うつ音)

 

 蘭はこの場合フジバカマのことか。香りがいいので匂い袋に用いられた。ハーブオイルも作られていたか。卜木(しめぎ)は油を絞るための道具。

 

季語は「蘭」で秋、植物、草類。

 

二十五句目

 

   蘭のあぶらに卜木うつ音

 賤の家に賢なる女見てかへる   重五

 (賤の家に賢なる女見てかへる蘭のあぶらに卜木うつ音)

 

 蘭は山の中にひっそりと咲く君子の心で、芭蕉も『野ざらし紀行』の旅のこの少し前の伊勢で、

 

 蘭の香やてふの翅にたき物す   芭蕉

 

の句を詠んでいる。

 貧しくても賢い女がいて、蘭のようにひっそりと暮らしながらも油の製造して家計を支えている、となる。

 

無季。「家」は居所。「女」は人倫。

 

二十六句目

 

   賤の家に賢なる女見てかへる

 釣瓶に粟をあらふ日のくれ    荷兮

 (賤の家に賢なる女見てかへる釣瓶に粟をあらふ日のくれ)

 

 賤の家なので粟を食べている。ウィキペディアに、

 

 「日常食卓のアワ飯は、アワを5、6回とぎ洗いして一晩浸水したあとに、1.6倍量の水と少量の塩で炊飯する。」

 

とある。

 

無季。

 

二十七句目

 

   釣瓶に粟をあらふ日のくれ

 はやり来て撫子かざる正月に   杜国

 (はやり来て撫子かざる正月に釣瓶に粟をあらふ日のくれ)

 

 前句の粟を食べるところから、飢饉など悪いことが続いているとして、疫病の流行から六月一日に正月をやり直す「重ね正月」とする。

 この句は近代に柳田國男が『木綿以前の事』の中で、

 

 「大体に突飛な空想はその場の人にはおかしくても、時がたつとすぐに不明になってしまう。」

 

とし、その例としてこの句を挙げ、

 

 「撫子を正月に飾るというのも驚くが、これは流行正月と称して何か悪い年に、一般にもう一度年を取り直し、それから後を翌年にする習俗がしばしばくり返され、その日が多くは六月朔日であったことを知れば、六月だから瞿麦でも飾るだろうという空想の、やや自然であったこともうなずかれる。」

 

としている。

 ところで、ネットで「防災情報新聞」の「日本の災害・防災年表(「周年災害」リンク集)を見ていたら、

 

 「謎の感染症、麻疹(はしか)か?長崎で7000人死亡。西国から東海、江戸へ侵入?

 1684年6月~(貞享元年4月~)」

 

というのがあった。まさに『冬の日』の興行が行われた年の夏ごろに麻疹の流行があったなら、案外撫子を飾る正月は本当だったのかもしれない。

 これを裏付けるものとして、翌年の夏小石川で興行された「涼しさの」の巻の五十九句目にも、

 

   入院見舞の長に酌とる

 一陽を襲正月はやり来て     清風

 

の句がある。

 

季語は「撫子」で夏、植物、草類。

 

二十八句目

 

   はやり来て撫子かざる正月に

 つづみ手向る弁慶の宮      野水

 (はやり来て撫子かざる正月につづみ手向る弁慶の宮)

 

 正月なので弁慶ゆかりの神社で鼓を打って祝う。疫病退散というと鐘馗だが、弁慶さんでもやってくれそうだ。

 弁慶ゆかりの神社というと、和歌山県田辺市の闘鶏権現(今の鬪雞神社)が知られている。

 

無季。神祇。

 

二十九句目

 

   つづみ手向る弁慶の宮

 寅の日に旦を鍛冶の急起て    芭蕉

 (寅の日に旦を鍛冶の急起てつづみ手向る弁慶の宮)

 

 寅の日は毘沙門天の縁日。コトバンクの「世界大百科事典内の毘沙門天の言及」に、

 

 「《弁慶物語》などでも,弁慶は太刀,飾りの黄金細工,鎧(よろい)などを五条吉内左衛門,七条堀河の四郎左衛門,三条の小鍛冶に作らせていて,炭焼・鍛冶の集団の中で伝承されたとする金売吉次伝説との交流を思わせる。 鍛冶の集団は毘沙門天(びしやもんてん)を信仰していたから,《義経記》の中で鞍馬(くらま)寺が大きな比重を占めるのも,鍛冶の集団の中で伝承され成長した物語が《義経記》の中に流れ込んだためとも考えられる。また,山伏と鍛冶との交流も考えられるが,問題はそれらの個々の伝承者を離れて,弁慶が典型的な民間の英雄として,その像がどのような種類の想像力によって生成されたかを解明することであろう。」

 

とある。

 鍛冶は毘沙門天を信仰していたので、寅の日の朝は早く起きて弁慶の宮に鼓を手向ける。

 

無季。「鍛冶」は人倫。

 

三十句目

 

   寅の日に旦を鍛冶の急起て

 雲かうばしき南京の地      羽笠

 (寅の日に旦を鍛冶の急起て雲かうばしき南京の地)

 

 清の首都は北京で、明の首都だった南京はウィキペディアに「清代に入ると江寧と呼ばれるようになった。」とある。この当時「南京」はなかった。ここは「南都」つまり奈良のことであろう。

 奈良は刀鍛冶が多く住んでいた。ここで作られた刀は奈良刀(ならがたな)と呼ばれる。コトバンクの「精選版 日本国語大辞典の解説」には、

 

 「〘名〙 中世、大和国(奈良県)奈良に住む刀工の鍛えた刀。近世には主として肥前で鍛造された鈍刀が奈良に移入され、そこで外装されて売り出された。大量生産による粗製の品が多くなったところから、鈍刀のことをもいう。奈良物。〔庭訓往来(1394‐1428頃)〕」

 

とある。「守武独吟俳諧百韻」の八十三句目に、

 

   ならのみやこや無為になるらん

 銀の目貫の太刀のゆふまぐれ   守武

 

の句がある。

 

無季。

二裏

三十一句目

 

   雲かうばしき南京の地

 いがきして誰ともしらぬ人の像  荷兮

 (いがきして誰ともしらぬ人の像雲かうばしき南京の地)

 

 「いがき」は斎垣でコトバンクの「デジタル大辞泉の解説」に、

 

 「《「いかき」とも》神社など、神聖な場所に巡らした垣。瑞垣(みずがき)。玉垣(たまがき)。

  「ちはやぶる神の―も越えぬべし今は我が名の惜しけくもなし」〈万・二六六三〉」

 

とある。

 今でも街を歩いているとよくわからない銅像とか立ってたりするが、昔もそういうのがあったのか。その時は有名でも時がたつと忘れ去られてゆく人というのはいる。斎垣で囲ってうやうやしく祀られているけど、誰なんだという像、古都奈良にはよくあったのだろう。

 

無季。「人」は人倫。

 

三十二句目

 

   いがきして誰ともしらぬ人の像

 泥にこころのきよき芹の根    重五

 (泥にこころのきよき芹の根いがきして誰ともしらぬ人の像)

 

 うやうやしく祀られている人よりも、泥の中の根芹の方が清い。

 植物(うえもの)なので花呼び出しになる。

 

季語は「芹」で春、植物、草類。

 

三十三句目

 

   泥にこころのきよき芹の根

 粥すするあかつき花にかしこまり 野水

 (粥すするあかつき花にかしこまり泥にこころのきよき芹の根)

 

 夜明け前に粥に根芹を入れてすすってる人は、貧しくても心が清く、花を見ても浮かれるのではなく心を引き締める。

 

季語は「花」で春、植物、木類。

 

三十四句目

 

   粥すするあかつき花にかしこまり

 狩衣の下に鎧ふ春風       芭蕉

 (粥すするあかつき花にかしこまり狩衣の下に鎧ふ春風)

 

 狩衣の上に鎧を着るならわかる。下にというのは戦場での休息か。花見の席なので鎧は似合わず、上に狩衣を着て隠す。スーツの上にアロハを着るような感覚か。

 

季語は「春風」で春。「狩衣」は衣裳。

 

三十五句目

 

   狩衣の下に鎧ふ春風

 北のかたなくなく簾おしやりて  羽笠

 (北のかたなくなく簾おしやりて狩衣の下に鎧ふ春風)

 

 鎧の上に狩衣を着たのは奥方に別れの挨拶をするためか。ここで無事に帰ったらなんちゃらとフラグ立てたりするんだろうな。

 

無季。恋。「北のかた」は人倫。

 

挙句

 

   北のかたなくなく簾おしやりて

 ねられぬ夢を責るむら雨     杜国

 (北のかたなくなく簾おしやりてねられぬ夢を責るむら雨)

 

 夫を待つ奥方は悪夢にうなされては目を覚まし、簾を押しやっては外の村雨を恨めしそうに眺める。

 打越の悲劇の要素はここでは忘れ、純粋な恋の情として村雨に春の匂いを付けて一巻は終わる。

 

無季。恋。「ねられぬ夢」は夜分。「むら雨」は降物。