「鐵砲の」の巻、解説

初表

   城下

 鐵砲の遠音に曇る卯月哉     野徑

   砂の小麥の痩てはらはら   里東

 西風にますほの小貝拾はせて   泥土

   なまぬる一つ餬ひかねたり  乙州

 碁いさかひ二人しらける有明に  怒誰

   秋の夜番の物もうの聲    珍碩

 

初裏

 女郎花心細氣におけはれて    筆

   目の中おもく見遣がちなる  野徑

 けふも又川原咄しをよく覺え   里東

   顔のおかしき生つき也    泥土

 馬に召神主殿をうらやみて    乙州

   一里こぞり山の下苅     怒誰

 見知られて岩屋に足も留られず  泥土

   それ世は泪雨としぐれと   里東

 雪舟に乗越の遊女の寒さうに   野徑

   壹歩につなぐ丁百の錢    乙州

 月花に庄屋をよつて高ぶらせ   珍碩

   煮しめの塩のからき早蕨   怒誰

 

二表

 くる春に付ても都わすられず   里東

   半氣違の坊主泣出す     珍碩

 のみに行居酒の荒の一□     乙州

   古きばくちののこる鎌倉   野徑

 時々は百姓までも烏帽子にて   怒誰

   配所を見廻ふ供御の蛤    泥土

 たそがれは船幽霊の泣やらん   珍碩

   連も力も皆座頭なり     里東

 から風の大岡寺繩手吹透し    野徑

   蟲のこはるに用叶へたき   乙州

 糊剛き夜着にちいさき御座敷て  泥土

   夕辺の月に菜食嗅出す    怒誰

 

二裏

 看經の嗽にまぎるゝ咳氣聲    里東

   四十は老のうつくしき際   珍碩

 髪くせに枕の跡を寐直して    乙州

   醉を細めにあけて吹るゝ   野徑

 杉村の花は若葉に雨氣づき    怒誰

   田の片隅に苗のとりさし   泥土

       参考:『芭蕉七部集』(中村俊定注、岩波文庫、1966)

初表

発句

 

   城下

 鐵砲の遠音に曇る卯月哉     野徑

 

 『芭蕉七部集』(中村俊定注、岩波文庫、1966)の中村注に、「昔鉄砲の稽古は四月から始めたという。」とある。

 ネット上にあった『近世の武士における武芸の位置づけ』(工藤栄三)には、

 

 「武芸上覧は,鉄砲,弓鉄砲,小筒,大筒,弓の飛道具が多く,鎗と切合(剣術)がこれに続く。鉄砲類は,藩の軍団の演技であり,足軽鉄砲隊を主流とし,恒常的な稽古が行われていた。例えば安永三年(1774)の町触に

 「覚

  鉄炮星稽古金鉛・筒薬其外ともに年々召放之

  分被渡候処,御財用向甚御差支に付今年より…」

とみられるのは,鉄砲の的打ち稽古の為,鉛・筒薬その他を召放つ分だけ充分に与えていたが,財政上差しつかえるので今年よりその数量を減らす,との布告である。翌安永四年(1775)の町触では

 「例年鉄炮四月朔日より明置候処,今年格別吟味之訳有之,来月十五日より星稽古可致候」

 鉄砲稽古は,春先四月一日から例年恒常的に七月十五日迄稽古していたものである。それを一ケ月半おくらせて,その分の財政を浮かそうとしたもので,藩が毎年直接この軍団の稽古に関わっていたことを示す。」

 

とある。

 足軽の鉄砲隊の演習が行われたなら、さぞかしパンパンと景気よく大きな音を立てていたことだろう。

 その音は遠くなると高周波成分がカットされ、低い曇った音になり、折からの四月の曇り空にどんよりと響いていたのだろう。

 「卯月曇(うづきくもり)」という言葉もあり、コトバンクの「百科事典マイペディアの解説」に、

 

 「卯の花曇とも。陰暦4月,陽暦ならほぼ5月のころの変わりやすい天候。これがもう一まわり悪天となると卯の花くたしが降る。」

 

とある。

 野徑は近江膳所の人。城下とあるのは膳所城の城下と思われる。

 

季語は「卯月」で夏。

 

 

   鐵砲の遠音に曇る卯月哉

 砂の小麥の痩てはらはら     里東

 (鐵砲の遠音に曇る卯月哉砂の小麥の痩てはらはら)

 

 鉄砲の演習は砂浜で行われることが多かったのだろう。近くには麦畑があるが、そこも砂地で麦は痩せている。

 

季語は「小麦」で夏、植物(草類)。

 

第三

 

   砂の小麥の痩てはらはら

 西風にますほの小貝拾はせて   泥土

 (西風にますほの小貝拾はせて砂の小麥の痩てはらはら)

 

 「ますほの小貝」というと西行法師が敦賀の種(いろ)の浜で詠んだという、

 

 汐そむるますほの小貝拾ふとて

   色の浜とはいふにやあるらむ

              西行法師

 

の歌が知られている。芭蕉も『奥の細道』の旅で訪れている。

 ますほの小貝の生物種としての名前はよくわからない。

 ここでは「ますほ(増す穂)」に掛けて小麦を導き出す、連歌で言う「掛けてには」が用いられている。

 小貝にはらはらと落ちた麦の穂が混ざるというのは、

 

 浪の間や小貝にまじる萩の塵   芭蕉

 

の句を意識して、萩を麦に変えたか。

 

無季。「小貝」は水辺。

 

四句目

 

   西風にますほの小貝拾はせて

 なまぬる一つ餬ひかねたり    乙州

 (西風にますほの小貝拾はせてなまぬる一つ餬ひかねたり)

 

 「なまぬる」は中村注には「微温湯」とある。「餬」は「かゆ(=粥)」という字だが、ここでは「もらひ」と読む。お粥を口に含ませるように、なまぬるを口に含むために貰おうとしたら貰えなかったということか。

 ただ、何でぬるま湯を口に含もうとしたかよくわからない。「なまぬる」はここでは生ぬるいお粥のことではなかったか。小貝を拾って歩いているうちに、宿のお粥がなくなってしまったということか。

 

無季。

 

五句目

 

   なまぬる一つ餬ひかねたり

 碁いさかひ二人しらける有明に  怒誰

 (碁いさかひ二人しらける有明になまぬる一つ餬ひかねたり)

 

 昔は賭け碁をする人が多かったから、いろいろズルをする人もいて喧嘩になることも多かったのだろう。

 賭け碁でなくても『源氏物語』で空蝉と軒端荻が碁を打つ場面があって、軒端荻が整地でごまかそうとして空蝉に阻止される場面がある。

 碁をめぐってさんざん罵りあった後、夜も白む有明の頃には気分の方もすっかり白けてしまい、くーっと腹の虫が鳴く。そういやお粥食い損なっちゃったな、というところか。

 

季語は「有明」で秋、夜分、天象。「二人」は人倫。

 

六句目

 

   碁いさかひ二人しらける有明に

 秋の夜番の物もうの聲      珍碩

 (碁いさかひ二人しらける有明に秋の夜番の物もうの聲)

 

 「物もう」はコトバンクの「デジタル大辞泉の解説」に、

 

 「[感]《「物申す」の略》他家を訪問して案内を請うときにいう語。たのもう。ごめんください。

 「―。案内まう」〈虎清狂・泣尼〉」

 

とある。

 街の警護のための番小屋で夜番をしていた二人だが、閑なので囲碁を打っていたのだろう。いさかいになって罵り合っているところに「ものもう」と誰かがやってきて、急に我に帰る。

 

季語は「秋」で秋。

初裏

七句目

 

   秋の夜番の物もうの聲

 女郎花心細氣におけはれて    筆

 (女郎花心細氣におけはれて秋の夜番の物もうの聲)

 

 中村注によると、「おけはれて」は「おそはれて」の間違いで「魘はれて」という字を当てる、悪夢に魘(うな)されるという意味だという。

 「女郎花」は比喩で女郎(遊女)のことであろう。心配になった男が番小屋に駆け込んでくる。

 

季語は「女郎花」で秋、植物(草類)。

 

八句目

 

   女郎花心細氣におけはれて

 目の中おもく見遣がちなる    野徑

 (女郎花心細氣におけはれて目の中おもく見遣がちなる)

 

 目も虚ろでどんよりとしていて、遠い目をしているということか。女郎さんの状態を付ける。

 

無季。

 

九句目

 

   目の中おもく見遣がちなる

 けふも又川原咄しをよく覺え   里東

 (けふも又川原咄しをよく覺え目の中おもく見遣がちなる)

 

 「川原咄し」は中村注に「芝居話」とある。四条河原で芝居が行われていたことからそう言うようだ。歌舞伎役者も身分的には河原乞食で非人だった。

 ウィキペディアによると、

 

 「近世初期には長吏頭・弾左衛門の支配下にあった。しかし歌舞伎関係者は自分たちの人気を背景に弾左衛門支配からの脱却をめざした。宝永5年(1708年)に弾左衛門との間で争われた訴訟をきっかけに、ついに「独立」をはたす。江戸歌舞伎を代表する市川團十郎家は、このことを記念する『勝扇子(かちおうぎ)』という書物を家宝として伝承していた。」

 「しかし、歌舞伎役者は行政的には依然差別的に扱われた。彼らは天保の改革時には、差別的な理由で浅草猿若町に集住を命ぜられ、市中を歩く際には笠をかぶらなくてはならないなどといった規制も受けた。歌舞伎が法的に被差別の立場から解放されるのは、結局明治維新後のことだった。」

 

とある。

 歌舞伎役者に夢中になっている女性は、うっとりとしたような遠い目をしている。

 

無季。

 

十句目

 

   けふも又川原咄しをよく覺え

 顔のおかしき生つき也      泥土

 (けふも又川原咄しをよく覺え顔のおかしき生つき也)

 

 「おかしき」は古代では良い意味で用いられるが、江戸時代では面白い、ちょっと変わったというニュアンスになる。

 今で言う芸人の顔のような、ちょっと灰汁の強い感じなのではないかと思う。

 芝居の話をしながら物真似を交えたりしていたのだろう。でも何かちょっと変で笑いを誘う。

 

無季。

 

十一句目

 

   顔のおかしき生つき也

 馬に召神主殿をうらやみて    乙州

 (馬に召神主殿をうらやみて顔のおかしき生つき也)

 

 神田祭の行列を先導する騎馬神職のことだろうか。やはり顔が良いのが選ばれるのだろう。

 

無季。神祇。「馬」は獣類。「神主殿」は人倫。

 

十二句目

 

   馬に召神主殿をうらやみて

 一里こぞり山の下苅       怒誰

 (馬に召神主殿をうらやみて一里こぞり山の下苅)

 

 「こぞり」は「諸人こぞりて」というクリスマスソングもあるように、集まるという意味。

 「山の下苅」は夏になると林の下草が茂りすぎるので、刈ってすっきりさせることをいう。山の面積は広いので村人総出で行う。

 祭の行列は神田祭、山王祭など夏に行われることが多く、その頃農民は山の下刈りに追われている。

 ただ、特に「下刈」は季語にはなっていない。

 

無季。「里」は居所。「山」は山類。

 

十三句目

 

   一里こぞり山の下苅

 見知られて岩屋に足も留られず  泥土

 (見知られて岩屋に足も留られず一里こぞり山の下苅)

 

 山の岩屋でひそかに修行していたら、下刈りに来た村人がたくさん押し寄せて場所が知られてしまい、多分ちょうどいいから詰め所に使おうということになって、立ち寄ることもできなくなった。

 

無季。「岩屋」は山類。

 

十四句目

 

   見知られて岩屋に足も留られず

 それ世は泪雨としぐれと     里東

 (見知られて岩屋に足も留られずそれ世は泪雨としぐれと)

 

 多分、借金をしたか犯罪を犯したかで逃亡し、世捨て人になり、岩屋に潜んでいたのだろう。見つかってしまい、留まることもできず、さすらいの旅は続く。

 悲しみの雨に、宗祇が宿りの時雨、どこへ行っても仮住まいで安住の地はない。

 

季語は「しぐれ」で冬、降物。「雨」も降物。

 

十五句目

 

   それ世は泪雨としぐれと

 雪舟に乗越の遊女の寒さうに   野徑

 (雪舟に乗越の遊女の寒さうにそれ世は泪雨としぐれと)

 

 「雪舟」は「そり(橇)」と読む。「越の遊女」は芭蕉の『奥の細道』の市振の遊女を髣髴させる。「山中三吟」にも、

 

   霰降るひだりの山は菅の寺

 遊女四五人田舎わたらひ     曾良

 

の句がある。

 田舎渡りの遊女の悲哀はある種鉄板(定番)だったのかもしれない。

 

季語は「雪舟」で冬。「遊女」は人倫。

 

十六句目

 

   雪舟に乗越の遊女の寒さうに

 壹歩につなぐ丁百の錢      乙州

 (雪舟に乗越の遊女の寒さうに壹歩につなぐ丁百の錢)

 

 コトバンクで「丁百の錢」を引くと「丁銭」とあり、「丁銭」を引くと「丁百」とある。「丁百」は「デジタル大辞泉の解説」に、

 

 「江戸時代、銭96文を100文に通用させた慣行に対して、100文をそのまま100文として勘定すること。丁銭。調銭。→九六銭(くろくぜに)」

 

とある。「九六銭」は「精選版 日本国語大辞典の解説」に、

 

 「〘名〙 江戸時代に、銭九六文を「さし」に通してまとめ、一〇〇文として通用させたもの。また、その計算法。中国の商習慣をうけいれたもので、九六という数字は、比較的多くの数で割り切れるので、取引上便利なために江戸時代には広く行なわれた。省百(せいひゃく)。くろく。

  ※増補田園類説(1842)下「寛永新銭の頃より、九六銭に成たると見えたり」

 

とある。

 「壹歩(一歩)」は一分金(一歩判)と「一歩進む」に掛けたもので、遊女の一歩は、丁百をこつこつと貯めて行き、やがては一分金になるとする。一分金四枚で一両(小判一枚)になる。一歩は約千文なので、丁百の錢十本となる。

 田舎わたらいの遊女は一歩稼ぐのも大変だったのだろう。

 

無季。

 

十七句目

 

   壹歩につなぐ丁百の錢

 月花に庄屋をよつて高ぶらせ   珍碩

 (月花に庄屋をよつて高ぶらせ壹歩につなぐ丁百の錢)

 

 丁百は田舎の方で用いられることが多かったのか、田舎の庄屋を月花にかこつけて酔わせてご機嫌をとれば、一歩相当の銭でもぽんと気前よく出してくれる。

 中村注には「よつて」を「寄ってたかって」の意味としている。「寄って」と「酔って」をかけているので、あえて平仮名で「よつて」としているのであろう。

 

季語は「花」で春、植物(木類)。「月」は夜分、天象。「庄屋」は人倫。

 

十八句目

 

   月花に庄屋をよつて高ぶらせ

 煮しめの塩のからき早蕨     怒誰

 (月花に庄屋をよつて高ぶらせ煮しめの塩のからき早蕨)

 

 田舎の庄屋の月花の宴にふさわしい肴といえば、塩辛い早蕨の煮しめだったのだろう。

 

季語は「早蕨」で春、植物(草類)。

二表

十九句目

 

   煮しめの塩のからき早蕨

 くる春に付ても都わすられず   里東

 (くる春に付ても都わすられず煮しめの塩のからき早蕨)

 

 田舎の蕨の煮しめに都が恋しくなる。

 

季語は「くる春」で春。

 

二十句目

 

   くる春に付ても都わすられず

 半氣違の坊主泣出す       珍碩

 (くる春に付ても都わすられず半氣違の坊主泣出す)

 

 「氣違」はここでは鬱病のことか。世を疎んで出家し、山に籠ったものの、

 

   山深き里や嵐におくるらん

 慣れぬ住まひぞ寂しさも憂き   宗祇(水無瀬三吟十句目)

 

だったのだろう。

 

無季。「坊主」は人倫。

 

二十一句目

 

   半氣違の坊主泣出す

 のみに行居酒の荒の一騒     乙州

 (のみに行居酒の荒の一騒半氣違の坊主泣出す)

 

 この場合の「半氣違」は半狂乱ということか。坊さんが酒を飲むのは本来はいけないのだけど、実際はそう珍しくはなかったのだろう。ただ酒暴れた末に泣き出すのは困る。

 

無季。

 

二十二句目

 

   のみに行居酒の荒の一騒

 古きばくちののこる鎌倉     野徑

 (のみに行居酒の荒の一騒古きばくちののこる鎌倉)

 

 「古きばくち」というのは双六のことだろうか。今のすごろくではなくバックギャモンのことをいう。博打に喧嘩は付き物。

 

無季。「鎌倉」は名所。

 

二十三句目

 

   古きばくちののこる鎌倉

 時々は百姓までも烏帽子にて   怒誰

 (時々は百姓までも烏帽子にて古きばくちののこる鎌倉)

 

 室町時代までは男は皆烏帽子を被っていた。東京国立博物館蔵の「東北院職人歌合絵巻」の博徒は烏帽子だけ被った全裸の姿で描かれると前に「兼載独吟俳諧百韻」の時に書いたが、当時は裸よりも烏帽子のないことの方が恥ずかしかったとも言われる。

 戦国時代になると烏帽子は次第に廃れ、あの茶筅のようなちょん髷を露わにするようになる。

 

無季。「百姓」は人倫。「烏帽子」は衣裳。

 

二十四句目

 

   時々は百姓までも烏帽子にて

 配所を見廻ふ供御の蛤      泥土

 (時々は百姓までも烏帽子にて配所を見廻ふ供御の蛤)

 

 「配所」はコトバンクの「デジタル大辞泉の解説」に、

 

 「罪を得た人が流された土地。配流(はいる)の地。謫所(たくしょ)。」

 

とある。

 「供御(くご)」はコトバンクの「ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典の解説」に、

 

 「広く貴人,将軍の食膳をさすが,特に,天皇の御膳を意味する。日常は朝夕2回。古くは屯田 (みた) ,屯倉 (みやけ) などの皇室直轄領から調進させたが,令制では,畿内の官田から供御稲を得,宮内省所属の大炊 (おおい) 寮に収納し,内膳司に分配して調理のうえ御膳に供した。平安時代中期以降は官田が荘園化し,大炊寮の収入に頼り,戦国時代には,丹波国山国荘などの皇室領の年貢に頼った。供御を進献する農民や漁民は,商業上の特権などを与えられたので,御厨子所 (みずしどころ) 供御人の身分を望む者が多かった。近世では,朝,昼,夕の3食が普通となり,主食は櫃司 (ひづかさ) ,副食は御清所 (おきよどころ) が担当した。」

 

とある。

 隠岐に配流された後鳥羽院などのイメージだろうか。蛤を供御に差し出す地元のお百姓さんも、院に失礼のないように烏帽子を被る。

 

無季。「蛤」は水辺。

 

二十五句目

 

   配所を見廻ふ供御の蛤

 たそがれは船幽霊の泣やらん   珍碩

 (たそがれは船幽霊の泣やらん配所を見廻ふ供御の蛤)

 

 「船幽霊」はコトバンクの「精選版 日本国語大辞典の解説」に、

 

 「〘名〙 磯や海上に出るという水死した人の亡霊。柄杓を貸せと要求するが、その底をぬいて貸さないと柄杓で水を掛けられて沈められるという。船亡霊。

  ※仮名草子・百物語評判(1686)四「海上の風荒く浪はげしき折からは、必ず波のうへに火の見え、又は人形などの現はれはべるをば、舟幽霊(フナイウレイ)と申しならはせり」

 

とある。引用されている『仮名草子・百物語評判』は貞享三年刊なので、この時代に近い。

 恐ろしい怪異ではあるが、非業の死を遂げた霊で、人の心を持っていて、ちゃんとお供え物すれば成仏してくれる。前句の蛤をそのお供えとしたのだろう。

 

無季。「船幽霊」は水辺。

 

二十六句目

 

   たそがれは船幽霊の泣やらん

 連も力も皆座頭なり       里東

 (たそがれは船幽霊の泣やらん連も力も皆座頭なり)

 

 船幽霊が泣いているのかと思ったら、琵琶法師の語りでみんなすすり泣いているだけだった。

 

無季。「座頭」は人倫。

 

二十七句目

 

   連も力も皆座頭なり

 から風の大岡寺繩手吹透し    野徑

 (から風の大岡寺繩手吹透し連も力も皆座頭なり)

 

 「太岡寺畷(だいこうじなわて)」は東海道の亀山宿と関宿の間にある鈴鹿川に沿った十八丁(約3.5キロ)にわたる土手の道で、風の通りも良い。

 風の強い時は顔を上げられず、みんな目が見えないかのようだ。

 

無季。

 

二十八句目

 

   から風の大岡寺繩手吹透し

 蟲のこはるに用叶へたき     乙州

 (から風の大岡寺繩手吹透し蟲のこはるに用叶へたき)

 

 「こはる」は「強(こは)る」という字を当てる。「こわばる」と同じ。コトバンクの「大辞林 第三版の解説」には、

 

 「①かたくなる。こわばる。 「舌が-・つて呼吸いきが発奮はずむ/歌行灯 鏡花」 「 - ・りたる言葉は、振りに応ぜず/風姿花伝」

  ②腹が痛む。」

 

とある。

 腹の虫のせいで腹がこわばって痛むので用を足したい。ただ見通しの良い縄手道では野グソというわけにもいかない。十八丁の道を我慢しなくては。

 

無季。

 

二十九句目

 

   蟲のこはるに用叶へたき

 糊剛き夜着にちいさき御座敷て  泥土

 (糊剛き夜着にちいさき御座敷て蟲のこはるに用叶へたき)

 

 夜着が今の布団と違い着て歩けるようになっているのは、そのまま厠に行けるからだ。

 「ちいさき御座敷て」は背の低い人で、それが糊でカピカピになった夜着を着ていれば、まるで虫がこわばっているみたいだ。

 つきの定座だが、さすがに前句のシモネタで月は出せなかったか。

 

季語は「夜着」で冬、衣裳。

 

三十句目

 

   糊剛き夜着にちいさき御座敷て

 夕辺の月に菜食嗅出す      怒誰

 (糊剛き夜着にちいさき御座敷て夕辺の月に菜食嗅出す)

 

 「菜食(なめし)」は青菜を焚き込んだご飯。

 芭蕉が伊賀にいた頃の「野は雪に」の巻の六十八句目に、

 

   焼物にいれて出せる香のもの

 何の風情もなめし斗ぞ      宗房

 

の句がある。日常的な粗末な食事で、特に風情はない。

 芭蕉が大阪で病床に臥して、丈草が、

 

 うづくまる薬の下の寒さ哉    丈草

 

の句を詠んだ時、医者の木節は、

 

 鬮(くじ)とりて菜飯たかする夜伽哉 木節

 

の句を詠んでいる。

 前句の糊の利きすぎた夜着に小さな御座の人物を病人としたか、月の夕べも遊ぶでもなく菜飯を嗅ぐ。

 

季語、「なめし」はここでは冬か。「月」は夜分、天象。

二裏

三十一句目

 

   夕辺の月に菜食嗅出す

 看經の嗽にまぎるる咳氣聲    里東

 (看經の嗽にまぎるる咳氣聲夕辺の月に菜食嗅出す)

 

 「看經(かんきん)」はコトバンクの「デジタル大辞泉の解説」に、

 

 「[名](スル)《「きん(経)」は唐音》

  1 禅宗などで、声を出さないで経文を読むこと。⇔諷経(ふぎん)。

  2 声を出して経文を読むこと。読経。」

 

というように黙読と音読の両方の意味がある。「ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典の解説」には、

 

 「かんきょう」とも読み,禅宗では「かんきん」と読む。経典を黙読すること。のちには,諷経 (ふぎん) ,読経 (どきょう) と同義となった。また経典を研究するために読む意味でも用いられる。」

 

とある。咳と風邪声が混ざって聞こえてくるのだから、この場合は読経であろう。

 月の夕べに菜飯を食うのを風邪のせいとし、風邪引きの様子を付ける。

 「風邪」だとはっきり言わずに匂わすのが匂い付け。

 近代だと二十七句目の「から風」、二十九句目の「夜着」、三十一句目の「嗽」が冬の季語になるが、当時は「夜着」だけが冬で、三十句目の「菜飯」も冬として扱われていたのではないかと思う。

 

無季。釈教。

 

三十二句目

 

   看經の嗽にまぎるる咳氣聲

 四十は老のうつくしき際     珍碩

 (看經の嗽にまぎるる咳氣聲四十は老のうつくしき際)

 

 昔は四十歳で初老と呼ばれ、隠居する時期だった。

 戦後になって栄養状態がよくなり、平均寿命が一気に伸びたせいで、今は四十、五十は働き盛りとなったが、戦後間もない頃の漫画「サザエさん」では磯野波平が五十四歳の設定になっている。

 

無季。

 

三十三句目

 

   四十は老のうつくしき際

 髪くせに枕の跡を寐直して    乙州

 (髪くせに枕の跡を寐直して四十は老のうつくしき際)

 

 髪に寝癖をつけないように頭の位置を調整してまた寝なおす。隠居したばかりの初老の人がよくやることなのだろう。若い頃はすぐに髪を整えて出勤しなくてはいけないし、もっと歳だと寝癖にも頓着しなくなる。

 

無季。夜分。

 

三十四句目

 

   髪くせに枕の跡を寐直して

 醉を細めにあけて吹るる     野徑

 (髪くせに枕の跡を寐直して醉を細めにあけて吹るる)

 

 二日酔いの体とする。

 

無季。

 

三十五句目

 

   醉を細めにあけて吹るる

 杉村の花は若葉に雨氣づき    怒誰

 (杉村の花は若葉に雨氣づき醉を細めにあけて吹るる)

 

 中村注にある通り、「杉村」は杉の木の群ら立つこと。

 桜の頃は杉も花が咲き、今では花粉症の季節になるが、ここでは杉に囲まれた桜の花という意味だろう。

 背の高い杉の若葉からは露が滴り落ちて、あたかも雨が降っているみたいだ。杉の茂りはさながら雨雲といったところか。

 春の花の句なのか若葉の中に残る花の夏の句なのかは微妙な所だが、ここは春にしておいて良いか。

 

季語は「花」で春、植物(木類)。「杉村」も植物(木類)。

 

挙句

 

   杉村の花は若葉に雨氣づき

 田の片隅に苗のとりさし     泥土

 (杉村の花は若葉に雨氣づき田の片隅に苗のとりさし)

 

 桜が咲いたら苗代の季節で、まだ田植えには早いが、試しにやや育った苗を植えてみたのだろう。

 

季語は「苗」で春、植物(草類)。