守武独吟俳諧百韻、解説

享禄三年(一五三〇年)正月九日夜、時ハ亥、ねぶとやむとさくり出しぬ、さらば初一念ながら法薬にと、びろうながらねながら百韻なれば、さし合も侍らんか

初表

 松やにはただかうやくの(ねの)()哉   守武

   かぜはひくとも梅にほふころ

 春寒み今朝(けさ)もすす鼻たるひして

   かすみとともの(そで)のうす(がみ)

 手習(てならひ)をめさるる人のあは雪に

   竹なびくなりいつかあがらん

 ともすれば座敷(ざしき)の末の窓の前

   月につかふや手水(てうず)ならまし

 

初裏

 下葉散る(やなぎ)のやうじ秋立て

   はがすみいつの朝ぎりのそら

 かへりてはくるかりがねをはらふ世に

   さだめ有るこそからすなりけれ

 みる度に我が思ふ人の色くろみ

   さのみに日になてらせたまひそ

 一筆(いっぴつ)(すみ)(がさ)そへておくるらん

   (あと)のなみだはただあぶら也

 口つつむつぼの石ぶみまよひきて

   奥州(ゐうしう)なればものもいはれず

 なかなかの判官(はうぐわん)どのの身の向後(きゃうこう)

   しづかが心なににたとへん

 花みつつ(なほ)胎内(たいない)にあぢはへて

   いとどへそのを(なが)き日ぐらし

 

二表

 かげろふのもゆる(きう)()をする春に

   あはれ小野(をの)にやこらへかぬらん

 業平(なりひら)はみやこのかたへましまして

   人のむすめに秋の夕ぐれ

 名をとへばきくとかやにやきこゆらん

   月よりおくの夜の(やま)(ぐち)

 かへるさは千とせへならん(あさ)(ぼらけ)

   ひとにあへるはめでたからずや

 留守(るす)としもいはればいかがをちありき

   案内(あんない)申すかどはあをやぎ

 たれぞとて百千(ももち)(どり)足踏(あしふ)みいでて

   そなたさへづりこなたさへづる

 あぢきなの心のほどや舌の先

   おもふあたりは大蛇(だいじゃ)すむかげ

 

二裏

 人はこでうき入相(いりあひ)のかねまきに

   (のり)のみちとやときほどくらん

 むすぼほる髪にやくしをさしそへて

   るりのやうなるかがみみるかげ

 すきとほる遠山鳥のしだりをに

   はきたる矢にも(ぬえ)やいぬらん

 猿楽(さるがく)はけなげなりける物なれや

   大夫(たいふ)がとしはかぎりしられず

 松はただ(しん)()(くわう)がなごりにて

   かんやうきゆうの秋風ぞふく

 月や思ふわれらごときの物知らず

   露けきころはただ御免(ごめん)なれ

 花にとて雨にもいそぐ高あしだ

   (うし)(わか)どのの春のくれがた

 

三表

 あまのはら天狗(てんぐ)いづちにかすむらん

   しらば(とび)にもものをとはばや

 音に聞くくろやきぐすりなにならで

   浪に目のまふ松がうらしま

 玉手箱(たまてばこ)明くればばちやあたるらん

   見えて(おきな)(めん)と太鼓と

 法楽(ほふらく)は一むら(さめ)をさはりにて

   連歌まぎるる山ほととぎす

 (うた)やらん(また)何やらん草の(いほ)

   世をつらゆきのうちぞながむる

 朝もよひきのふ今日(こんにち)いかがせん

   くまのまゐりのくやしさぞそふ

 山伏(やまぶし)に人はなるべき物ならで

   さのみにかひをふかずともがな

 

三裏

 思ひ入る風呂(ふろ)何故(なにゆゑ)せばからし

   石榴(ざくろ)にうらみありとしらるる

 露ばかりのこす茶のこに袖ぬれて

   月みの会の明けわたるそら

 大方(おほかた)のねやしならずよ夜はの友

   みだれ碁いそぐらつそくのかげ

 (をの)()の一ちやう二ちやう取り()でて

   子どもをつるる山がつの道

 さもこそはかしましからめ峰の寺

   みみをもつぶせあらましの末

 花ぞさく今は麝香(じゃかう)も何かせん

   さくらがもとにただねぶれとよ

 春のよのよそ目(ばかり)坐禅(ざぜん)にて

   月の輪とふやかすかなるらん

 

名残表

 小車(をぐるま)が吹きやられたる秋の風

   ふりたてぬるは鹿(しか)(うし)の角

 (だいにち)春日(かすが)の神のあらそひて

   ならのみやこや無為(ぶゐ)になるらん

 (しろがね)目貫(めぬき)太刀(たち)のゆふまぐれ

   こひしき人にまゐらせにけり

 物思ふ宿よりおくの持仏堂

   見えし姿やさらに(はな)(ざら)

 山水(やまみづ)にうつろひぬるは坊主(ばうず)にて

   いかに涼しきはげがやすらひ

 ま木の戸やよるはすがらに光るらん

   夢に源氏のみゆる手まくら

 (あつ)(もり)のうらみも薄く月()けて

   今年(ことし)十六身にやしむらん

 

名残裏

 (をと)女子(めご)をとらへてとへば秋の暮

   盗人(ぬすびと)なりとながめやるそら

 物をなど雲のはたての取りぬらん

   あらあらにくのことやささがに

 かり(そめ)も毒をのみてはいたづらに

   (こがね)のはくは(はく)やたづねよ

 とがするは花見のはれの腰刀

   御幸(みゆき)と春やあひにあひざめ

 

      参考;『連歌俳諧集』(日本古典文学全集、金子金次郎、暉峻康隆、中村俊定注解、1974、小学館)

初表

発句

 

 松やにはただかうやくの(ねの)()哉   守武

 

 

 今回取り上げてみたのは『連歌俳諧集』(日本古典文学全集、金子金次郎、暉峻康隆、中村俊定注解、1974、小学館)所収の「守武独吟俳諧百韻」で、『伊勢(いせ)正直集(しょうじきしゅう)』の(ばつ)(ぶん)に、

 

 「享禄三年正月九日夜、時ハ亥、ねぶとやむとさくり出しぬ、さらば初一念ながら法薬にと、びろうながらねながら百韻なれば、さし合も侍らんか」

 

とある。

 (きょう)(ろく)三年正月九日は西暦で言うと一五三〇年二月十六日になる。一年最初の()の日になる。子の日はコトバンクの「精選版 日本国語大辞典の解説」に、

 

 「ね【子】の日()

 (「ねのび」とも)

 ① 十二支の子にあたる日。特に、正月の最初の子の日をいうことが多い。この日、野に出て小松を引き若菜を摘み、遊宴して千代を祝う。《季・新年》

 ※亭子院御集(10C中)「ねのひに船岡におはしましたりけるに」

 ② 「ね(子)の日の松」の略。

 ※後拾遺(1086)雑四・一〇四六「君がうゑし松ばかりこそ残りけれいづれの春の子日なりけん〈源為善〉」

 [補注]「ネノヒ」は「根延()び」に通じると解され、「日葡辞書」「書言字考節用集」に「ネノビ」と三拍目が濁音の例が見られる。

 

とある。

 子の日は若菜を摘み、小松を引き抜いて遊んだ。若菜摘みは後の七草粥に変り、小松引きは門松へと変わった行ったが、両者が並行して行われる時期も長かったと思われる。

 「ねぶとやむ」の「ねぶと」は根太とも書き、おできや吹き出物のことを言う。ぶどう球菌などが皮膚に感染して起こるという。化膿するとひどい痛みに襲われる。

 さて、そんな中で(ほう)(やく)にと一念発起して作ったのが「守武独吟俳諧百韻」だった。

 「かうやく」は膏薬。松脂は膏薬の粘りを出すために用いる。

 子の日の遊びに本来は長寿を願って小松を引き抜いて遊ぶはずだったが、今日は根太の痛みに堪えかねて、だた松脂(まつやに)の入った膏薬だけで子の日を過ごすことになった。

 目出度くもあり目出度くもなしという感じだ。

 

季語は「子日」で春。

 

 

   松やにはただかうやくの子日哉

 かぜはひくとも梅にほふころ

 (松やにはただかうやくの子日哉かぜはひくとも梅にほふころ)

 

 小松引きの「引き」を「風邪」に掛けて「風はひくとも」と受ける、受けてにはだ。

 根太だけでなく風邪まで引いて、せっかくの梅の匂いも鼻が詰まって嗅ぐことができないのは残念だ。目出度くもあり目出度くもなし。

 

季語は「梅」で春、植物、木類。

 

第三

 

   かぜはひくとも梅にほふころ

 春寒み今朝(けさ)もすす鼻たるひして

 (春寒み今朝もすす鼻たるひしてかぜはひくとも梅にほふころ)

 

 「たるひ」は垂氷でつららのこと。すすった鼻水がも凍る寒さで、春の目出度さを離れて悲惨さだけが残る。まあ、自虐というのはギャグの基本だが。

 

季語は「春寒み」で春。

 

四句目

 

   春寒み今朝もすす鼻たるひして

 かすみとともの(そで)のうす(がみ)

 (春寒み今朝もすす鼻たるひしてかすみとともの袖のうす帋)

 

 「(そで)のうす(がみ)」は紙子(かみこ)の袖のこと。紙子はコトバンクの「精選版 日本国語大辞典の解説」に、

 

 「紙で作った衣服。上質の厚くすいた和紙に柿渋をぬり、何度も日にかわかし、夜露にさらしてもみやわらげ、衣服に仕立てたもの。もと律宗の僧侶が用いたという。古くは広く貴賤の間で用いられていたが、近世ごろは、安価であるところから貧乏人などが愛用した。柿渋をぬらないものを白紙子(しろかみこ)という。かみぎぬ。《季・冬》 〔文明本節用集(室町中)〕

 ※俳諧・奥の細道(169394頃)草加「紙子一衣は夜の防ぎ」

 

とある。

 今でも新聞紙などは風を通さないということで防寒着として使わたりする。災害の時やバイク乗りなどが用いる。紙子も夜着としての綿の蒲団(ふとん)が普及する以前には珍重されたのではないかと思う。

 文亀二年(一五〇二年)の「兼載独吟俳諧百韻」の四十四句目に、

 

   ふりよくする憂身の上に恋をして

 涙にぬるる紙きぬの袖       兼載(けんさい)

 

の句があり、紙子は布に較べて安価であるため「無力(ぶりょく)」つまり貧乏と結び付けられることもあった。

 春の薄霞とともに袖も薄紙と洒落てみている。

 

季語は「かすみ」で春。

 

五句目

 

   かすみとともの袖のうす帋

 手習(てならひ)をめさるる人のあは雪に

 (手習をめさるる人のあは雪にかすみとともの袖のうす帋)

 

 手習(てならひ)は「手(書)」を習うことで、「めさるる」というのだから高貴な人なのだろう。

 「『連歌俳諧集』(日本古典文学全集、金子金次郎、暉峻康隆、中村俊定注解、1974、小学館)の注は蛍雪(けいせつ)の功のこととするが、多分それでいいのだろう。紙子も夜着であるなら、紙子で寒さをしのぎながら雪の灯りで書の練習をするのはありそうなことだ。

 実質的には夜分だが夜分の言葉は入っていない。このあと二句去りで「月」が出るのはちょっと気になる。

 「あは雪」と「霞み」の縁について、『連歌俳諧集』(日本古典文学全集、金子金次郎、暉峻康隆、中村俊定注解、1974、小学館)は、

 

 さほ姫の衣はる風なほさえて

     霞の袖にあは雪ぞふる

            ()陽門院(ようもんいんの)越前(えちぜん)(続後撰)

 

の歌を引用している。

 

季語は「あは雪」で春、降物。「人」は人倫。

 

六句目

 

   手習をめさるる人のあは雪に

 竹なびくなりいつかあがらん

 (手習をめさるる人のあは雪に竹なびくなりいつかあがらん)

 

 淡雪に竹靡く(竹が押し倒される)は比喩で、いまは下手だがいつか上達するとする。

 

無季。「竹」は植物で木類でも草類でもない。

 

七句目

 

   竹なびくなりいつかあがらん

 ともすれば座敷(ざしき)の末の窓の前

 (ともすれば座敷の末の窓の前竹なびくなりいつかあがらん)

 

 立派な書院造りの座敷であろう。入口のあたりには明かり取りの障子を張った窓がある。

 この場合の前句の「竹なびく」は本物の竹とも取れるが、延々と挨拶が終らない主人と客とのやり取りの比喩とも取れる。いつになったら座敷に上がるやら。

 

無季。「座敷」は居所。

 

八句目

 

   ともすれば座敷の末の窓の前

 月につかふや手水(てうず)ならまし

 (ともすれば座敷の末の窓の前月につかふや手水ならまし)

 

 便所のことを遠まわしに「手水」という。今でも「お手洗い」という言葉があるがそれと同じとみていいだろう。

 特に女性などは「手水に」などとも言わずに、「月を見に行く」というのがその合図だったりする。「お花摘みに行ってきます」のようなもの。

 

季語は「月」で秋、夜分、光物。

初裏

九句目

 

   月につかふや手水ならまし

 下葉散る(やなぎ)のやうじ秋立て

 (下葉散る柳のやうじ秋立て月につかふや手水ならまし)

 

 今では楊枝というと小さくて尖っている爪楊枝のことだが、かつては歯ブラシとして使われる(ふさ)楊枝(ようじ)が用いられていた。

 「やうじ」が平仮名なのは、「下葉散る柳の様な」と「楊枝」を掛けているからで、「立て」も「下葉散る柳の立つ」と立秋とを掛けている。

 歯磨きは水のある所で行う。

 

季語は「秋立て」で秋。「散る柳」も秋、植物、木類。「竹」と二句去っている。

 

十句目

 

   下葉散る柳のやうじ秋立て

 はがすみいつの朝ぎりのそら

 (下葉散る柳のやうじ秋立てはがすみいつの朝ぎりのそら)

 

 「はがすみ」は『連歌俳諧集』の注に「歯くそ」とある。歯垢(しこう)のこと。

 春の「かすみ」が秋立ちて「霧」になった。

 

季語は「朝ぎり」で秋、聳物。

 

十一句目

 

   はがすみいつの朝ぎりのそら

 かへりてはくるかりがねをはらふ世に

 (かへりてはくるかりがねをはらふ世にはがすみいつの朝ぎりのそら)

 

 「かりがね」は雁がねと借金に掛けている。「はがすみ」はこの場合「剝がす身」だと『連歌俳諧集』の注にある。

 「くる」も「繰り越す」に掛けているのか、繰り越してきた借金も払い終えてしまえば、身ぐるみ剝がされるのもいつのことだったか、最悪の事態を回避できたということになる。

 

季語は「かりがね」で秋、鳥類。

 

十二句目

 

   かへりてはくるかりがねをはらふ世に

 さだめ有るこそからすなりけれ

 (かへりてはくるかりがねをはらふ世にさだめ有るこそからすなりけれ)

 

 帰ってはまた来る雁がねに定住する烏と違えて付ける。

 烏はは(からす)(がね)に掛けている。(からす)(がね)はコトバンクの「デジタル大辞泉の解説」に、

 

 「《翌朝、烏が鳴くまでに返さなければならない金の意》日歩で借りて、借りた翌日にすぐ返すという条件の高利の金。」

 

とある。

 普通の借金は繰り越すことができるが、烏金は期限が決まっていて繰りこせない。

 「さだめ有る」というと、江戸時代の、

 

 大晦日定めなき世の定めかな    西鶴

 

も思い浮かぶ。一般論として定め無きは世の常だが、掛乞(かけごい)には定め(期限)がある。

 

無季。「烏」は鳥類。

 

十三句目

 

   さだめ有るこそからすなりけれ

 みる度に我が思ふ人の色くろみ

 (みる度に我が思ふ人の色くろみさだめ有るこそからすなりけれ)

 

 外で働く男達は日に曝されることで色素沈着が起こり、歳とともに色が黒くなってゆく。老化は生きとし生けるものの定めではあるが、それにしてもカラスみたいだ。

 

無季。恋。「我」「人」は人倫。

 

十四句目

 

   みる度に我が思ふ人の色くろみ

 さのみに日になてらせたまひそ

 (みる度に我が思ふ人の色くろみさのみに日になてらせたまひそ)

 

 色が黒くなるのは日に曝されたからで、日に照らされないようにしなさいと口語っぽくして女性に語りかける体に変えている。咎めてにはの一種と見ていいだろう。

 

無季。恋。「日」は光物。

 

十五句目

 

   さのみに日になてらせたまひそ

 一筆(いっぴつ)(すみ)(がさ)そへておくるらん

 (一筆や墨笠そへておくるらんさのみに日になてらせたまひそ)

 

 前句をそのまま手紙の内容とした。

 「墨笠」はweblio辞書の「三省堂 大辞林 第三版」に、

 

 「地紙を黒く染めた日傘。」

 

とある。

 日に当たらないように日傘を贈る。

 日焼けネタが三句続くあたり、やや展開が緩いが、これがこの頃の風なのだろう。こういう三句の渡りを嫌い、速い展開を良しとしたのが松永(まつなが)(てい)(とく)で、談林蕉門(だんりんしょうもん)へと受け継がれていく。

 

無季。恋。

 

十六句目

 

   一筆や墨笠そへておくるらん

 (あと)のなみだはただあぶら也

 (一筆や墨笠そへておくるらん後のなみだはただあぶら也)

 

 「後」は「のち」ではなく「あと」と読むようだ。「涙の跡」のことか。この墨笠に塗ってある油は私の涙です、ということか。

 

無季。恋。

 

十七句目

 

   後のなみだはただあぶら也

 口つつむつぼの石ぶみまよひきて

 (口つつむつぼの石ぶみまよひきて後のなみだはただあぶら也)

 

 壺の(いしぶみ)はウィキペディアには、

 

 「12世紀末に編纂された『袖中抄』の19巻に「みちのくの奥につものいしぶみあり、日本のはてといへり。但、田村将軍征夷の時、弓のはずにて、石の面に日本の中央のよしをかきつけたれば、石文といふといへり。信家の侍従の申しは、石面ながさ四五丈計なるに文をゑり付けたり。其所をつぼと云也」とある。

 「つぼのいしぶみ」のことは多くの歌人その他が和歌に詠った。」

 

とある。

 「つぼ」という地名のところにあったから壺の碑で、壺に書いたわけではない。

 江戸時代になると仙台の方で多賀城碑が発見され、芭蕉もここを訪れ、「()(りょ)の労をわすれて泪も落るばかり(なり)」と記している。ただ、これは『袖中抄(しゅうちゅうしょう)』の記述とは一致しないし、天平宝字(てんぴょうほうじ)六(七六二)年という碑に記された建立の年号も坂上田村麻呂(さかのうえのたむらまろ)がまだ四歳の時で、壺の碑より古い。

 壺は「つぼむ」と掛けて、口を包んで(口を抑えてのことか)つぼむ壺の碑となる。そんな言うに言われぬことを記した文に迷い涙を流すが、物が壺なだけに壺に入った油のようなものだとなる。

 

無季。

 

十八句目

 

   口つつむつぼの石ぶみまよひきて

 奥州(ゐうしう)なればものもいはれず

 (口つつむつぼの石ぶみまよひきて奥州なればものもいはれず)

 

 『連歌俳諧集』の注には奥州には口を包む習俗があることと訛りがひどいことをあげているが、後者に関しては近代の標準語制定以降の話で、近世までは奥州に限らず日本中どこへ行っても独自の方言を喋っていた。そのため連歌は八代集の歌語、いわゆる雅語を用いていた。

 俳諧の言葉も雅語を基礎としながら謡曲や浄瑠璃や漢文書き下し文などの言葉を取り込み、さらに江戸上方などの俗語を交えた作られた共通語だった。

 口を包むというのはおそらく寒さのためであろう。

 

無季。

 

十九句目

 

   奥州なればものもいはれず

 なかなかの判官(はうぐわん)どのの身の向後(きゃうこう)

 (なかなかの判官どのの身の向後奥州なればものもいはれず)

 

 壺の碑に奥州に判官(ほうがん)(義経)と、ここでも展開は緩い。

 源の判官義経殿がその後どうなったかというと、奥州のことなのでなかなかわからない。

 義経が北海道に渡ったという説は、ウィキペディアによるなら、

 

 「寛文7年(1667年)江戸幕府の巡見使一行が蝦夷地を視察しアイヌのオキクルミの祭祀を目撃し、中根宇衛門(幕府小姓組番)は帰府後何度もアイヌ社会ではオキクルミが「判官殿」と呼ばれ、その屋敷が残っていたと証言した。更に奥の地(シベリア、樺太)へ向かったとの伝承もあったと報告する。これが義経北行説の初出である。」

 

という。

 また、寛文十年(一六七〇)には、

 

 「林羅山・鵞峰親子が幕命で編纂した「本朝通鑑」で「俗伝」扱いではあるが、「衣川で義経は死なず脱出して蝦夷へ渡り子孫を残している」と明記し、その後徳川将軍家宣に仕えた儒学者の新井白石が『読史余論』で論じ、更に『蝦夷志』でも論じた。徳川光圀の『大日本史』でも注釈の扱いながら泰衡が送った義経の首は偽物で、義経は逃れて蝦夷で神の存在として崇められていると生存説として記録された。」

 

とある。

 義経が北海道に逃れたという説は江戸時代にはあったようだが、守武の時代にはどうだったか。都市伝説的なものはあったかもしれない。

 なお、義経=ジンギスカン説はシーボルトの『日本』が最初だとされている。

 

無季。「身」は人倫。

 

二十句目

 

   なかなかの判官どのの身の向後

 しづかが心なににたとへん

 (なかなかの判官どのの身の向後しづかが心なににたとへん)

 

 義経の波乱万丈の生涯を思えば、(しずか)御前(ごぜん)もさぞかし心休まることがなかっただろう。そんな静御前の心を何に喩えればいいのか。

 天文九年(一五四〇年)の『守武千句』には、

 

   月見てやときはの里へかかるらん

 よしとも殿ににたる秋風

 

の句がある。これを受けて芭蕉が『野ざらし紀行』で詠んだ。

 

 (よし)(とも)の心に似たり秋の風      芭蕉

 

という句もある。

 静御前の心も喩えるならやはり秋風だろうか。

 

無季。

 

二十一句目

 

   しづかが心なににたとへん

 花みつつ(なほ)胎内(たいない)にあぢはへて

 (花みつつ猶胎内にあぢはへてしづかが心なににたとへん)

 

 この頃には各懐紙の最後の長句が花の定座という意識があったようだ。三の懐紙が二句最後から二番目の長句になっているだけで、あとは最後の長句になっている。

 静御前の花の舞だとすると打越(うちこし)の義経からなかなか離れられない。このあたりもやはり展開が緩い。

 鎌倉での静御前の花の舞は桜ではなく卯の花だったが、このとき静御前は義経の子を孕んでいて、(より)(とも)に男子だったら殺すといわれ、その通り男子が生まれ殺されたと『吾妻(あづま)(かがみ)』は記す。

 

季語は「花」で春、植物、木類。

 

二十二句目

 

   花みつつ猶胎内にあぢはへて

 いとどへそのを(なが)き日ぐらし

 (花みつつ猶胎内にあぢはへていとどへそのを永き日ぐらし)

 

 前句の「胎内にあぢはへて」を『伊勢物語』四十四段の「この歌は、あるがなかに面白ければ、心とどめてよまず、腹に味はひて。」の腹で味わう(腹の中に留めておく)の意味にする。

 花を見ながらそれを腹に留め、「胎内」との縁で(へそ)()のように長い一日を暮らす、と続ける。

 

季語は「永き日」で春。

二表

二十三句目

 

   いとどへそのを永き日ぐらし

 かげろふのもゆる(きう)()をする春に

 (かげろふのもゆる灸治をする春にいとどへそのを永き日ぐらし)

 

 陽炎(かげろふ)はもゆるもので、

 

 いまさらに雪ふらめやもかげろふの

     もゆる春日となりにしものを

            よみ人知らず(新古今集)

 かげろふのそれかあらぬか春雨の

     降る日となれば袖ぞ濡れぬる

            よみ人知らず(古今集)

 

などの歌がある。

 この場合はお灸の燃えるで、かげろふは枕詞のように用いられている。

 お灸をしながら永き日を体を休めて過ごす。

 

季語は「かげろふ」「春」で春。

 

二十四句目

 

   かげろふのもゆる灸治をする春に

 あはれ小野(をの)にやこらへかぬらん

 (かげろふのもゆる灸治をする春にあはれ小野にやこらへかぬらん)

 

 「かげろふ」は小野に掛かる枕詞としても用いられる。

 

 かげろふの小野の草葉の枯れしより

     有るかなきかと問ふ人もなし

               土御門院(つちみかどいん)(続千載集)

 

の歌の「かげろふ」も小野の草の枯れるさまを導き出すもので、春の陽炎を詠んではいない。

 「かげろふ」に「小野」、「灸治」に「こらへかぬ」と四手に付く。

 野焼きをお灸に喩え、陽炎が燃える燃えるこの小野の地は訪う人も無き寂しい土地で、こらえきれないとなる。

 

無季。

 

二十五句目

 

   あはれ小野にやこらへかぬらん

 業平(なりひら)はみやこのかたへましまして

 (業平はみやこのかたへましましてあはれ小野にやこらへかぬらん)

 

 在原業平は小野の田舎に耐えられずに都に帰ってしまったという句だが、小野と業平は『伊勢物語』八十三段の縁がある。本説ではなく、単なる付け合いと見るべきだろう。ここでの小野は「比叡山(ひえいさん)のふもとなれば雪いとたかし」とある。

 

無季。

 

二十六句目

 

   業平はみやこのかたへましまして

 人のむすめに秋の夕ぐれ

 (業平はみやこのかたへましまして人のむすめに秋の夕ぐれ)

 

 『伊勢物語』十二段に「むかし、をとこありけり。人のむすめをぬすみて、武蔵野へ率て行くほどに」とある。業平だけ都に帰り武蔵野に置いてけぼりではさすがに悲しい。

 

季語は「秋」で秋。「人のむすめ」は人倫。

 

二十七句目

 

   人のむすめに秋の夕ぐれ

 名をとへばきくとかやにやきこゆらん

 (名をとへばきくとかやにやきこゆらん人のむすめに秋の夕ぐれ)

 

 名前を聞けば「きく」とか何とか言ったように聞こえた、というわけだが、本来なら菊の花ではなくてはいけないものを人名の菊にしている。

 お菊さんというと、

 

   御頭(おかしら)へ菊もらはるるめいわくさ

 娘を(かた)う人にあはせぬ       芭蕉

 

という『炭俵(すみだわら)』「梅が香に」の巻八句目が思い浮かぶ。この場合は前句の植物の菊を娘の名前に取り成している。

 

季語は「菊」で秋、植物、草類。

 

二十八句目

 

   名をとへばきくとかやにやきこゆらん

 月よりおくの夜の(やま)(ぐち)

 (名をとへばきくとかやにやきこゆらん月よりおくの夜の仙口)

 

 夜に咲く白菊は月に似ているところから、

 

 いづれをか花とはわかむ長月の

     有明の月にまがふ白菊

               紀貫之(貫之集)

 

の歌もある。

 菊の酒は不老不死の仙薬にも喩えられ、白菊は手当たり次第に折っては菊の酒にした。そんな白菊の花は仙界への入口のようなものだ。

 

季語は「月」で秋、夜分、光物。「夜」も夜分。

 

二十九句目

 

   月よりおくの夜の仙口

 かへるさは千とせへならん(あさ)(ぼらけ)

 (かへるさは千とせへならん朝朗月よりおくの夜の仙口)

 

 これは浦島太郎ネタか。帰る頃には千年の時が経っているだろうか、と仙界は時間の経過が違うようだ。竜宮城も仙界の一種といえよう。

 豊田有恒のSFに浦島太郎UFO説があったが、たしかに相対性理論を髣髴(ほうふつ)させる。仙界は月の向こう側(宇宙)にあったのだろう。

 

無季。

 

三十句目

 

   かへるさは千とせへならん朝朗

 ひとにあへるはめでたからずや

 (かへるさは千とせへならん朝朗ひとにあへるはめでたからずや)

 

 前句の「千とせへならん」を比喩として、明け方帰って行く男を見送るときは千年の別れのような苦しみを感じる。

 別れの辛さを思えば逢わない方がいいのかというと、もちろんそんなことはない。「めでたからずや」は反語になる。

 

無季。恋。「ひと」は人倫。

 

三十一句目

 

   ひとにあへるはめでたからずや

 留守(るす)としもいはればいかがをちありき

 (留守としもいはればいかがをちありきひとにあへるはめでたからずや)

 

 「をちありき」は遠くを歩くこと。

 遠くまで出かけていっても留守だったら残念だ。それを思えば逢えるというのは目出度いことだ。

 

無季。

 

三十二句目

 

   留守としもいはればいかがをちありき

 案内(あんない)申すかどはあをやぎ

 (留守としもいはればいかがをちありき案内申すかどはあをやぎ)

 

 『連歌俳諧集』の注に()(りゅう)先生(せんせい)(陶淵明)のこととある。家の前に五本の柳があったという。

 はるばる遠くから五柳先生を訪ねてきたのなら、留守だといけないので案内します。

 

季語は「あおやぎ」で春、植物、木類。

 

三十三句目

 

   案内申すかどはあをやぎ

 たれぞとて百千(ももち)(どり)足踏(あしふ)みいでて

 (たれぞとて百千鳥足踏みいでて案内申すかどはあをやぎ)

 

 陶淵明は仕官の話をことわるために、使者がきたときわざと酒を飲んでべろんべろんの状態で出てきたという。ここも同じネタが続いている。

 (もも)千鳥(ちどり)(あし)は千鳥足の強化形か。

 (もも)千鳥(ちどり)は千鳥ではないと言うと何か「白馬馬に非ざる」みたいに聞こえるが、百千鳥は百の千鳥ではなく、百千の鳥という意味。古今伝授の三鳥の一つで、

 

 ももちどりさへづる春は物ごとに

     あらたまれども我ぞふりゆく

            よみ人しらず(古今集)

 

の歌に詠まれていて、謎の鳥とされている。鶯説と不特定多数説がある。

 百千鳥はコトバンクの百千鳥のところには「大辞林 第三版の解説」に、

 

 「多くの小鳥。いろいろの鳥。また、春の山野に小鳥が群がりさえずるさまやその鳴き声をいう。古今伝授の三鳥の一。 [季] 春。 -さへづる春は/古今 春上」

  ②チドリの別名。 「友をなみ川瀬にのみぞ立ちゐける-とは誰かいひ  けむ/和泉式部集」

  ③ウグイスの別名。 -こづたふ竹のよの程も/拾遺愚草」

 

とある。この場合は①なので春の季語となる。千鳥は冬。

 

季語は「百千鳥」で春、鳥類。「たれ」は人倫。

 

三十四句目

 

   たれぞとて百千鳥足踏みいでて

 そなたさへづりこなたさへづる

 (たれぞとて百千鳥足踏みいでてそなたさへづりこなたさへづる)

 

 人がやってきたので文字通りにたくさんの鳥が歩きながら、あちこちで(さえず)っているとする。

 

季語は「さえづる」で春。

 

三十五句目

 

   そなたさへづりこなたさへづる

 あぢきなの心のほどや舌の先

 (あぢきなの心のほどや舌の先そなたさへづりこなたさへづる)

 

 前句の囀りをおしゃべりや噂話(うわさばなし)の比喩として、舌先三寸(したさきさんずん)の思うようにならない世間の情とする。

 今日でもネット上でクソリプやら誹謗中傷やら、(さえず)ってる(やから)はたくさんいる。まさに「あぢきなの心」や。

 

無季。

 

三十六句目

 

   あぢきなの心のほどや舌の先

 おもふあたりは大蛇(だいじゃ)すむかげ

 (あぢきなの心のほどや舌の先おもふあたりは大蛇すむかげ)

 

 前句を大蛇がいると聞いて尻込みする男に対しての言葉とした。

 やはりそこは助けに来て欲しいものだ。大蛇を倒せば伝説の剣が手に入ったりするのだろう。アマノムラクモのような。

 「大蛇」は「おろち」とも読めるが、『連歌俳諧集』の注に従い「だいじゃ」とする。

 

 

無季。恋。

二裏

三十七句目

 

   おもふあたりは大蛇すむかげ

 人はこでうき入相(いりあひ)のかねまきに

 (人はこでうき入相のかねまきにおもふあたりは大蛇すむかげ)

 

 「かねまき」は謡曲『鐘巻(かねまき)』で謡曲『(どう)成寺(じょうじ)』の原型とされ、今は廃曲となっている。

 ただ、ここでは謡曲『鐘巻』のストーリーでなく、そこで語られる「安珍(あんちん)(きよ)(ひめ)の物語」を本説としたものであろう。

 この物語は僧の安珍に惚れた清姫がついには蛇となって安珍を追う。安珍は道成寺の鐘を降ろしてもらいその中に逃げ込むのだが蛇となった清姫は鐘に巻きついて焼き殺し、清姫も蛇のまま入水する。

 最後は道成寺の住持の唱える法華経の功徳により成仏して終る。

 人のいない道成寺で待ち人は来ず、物憂げな入相の鐘を聞いていると、ここで『鐘巻』の安珍を焼き殺した大蛇の話が思い出される。

 

無季。恋。「人」は人倫。

 

三十八句目

 

   人はこでうき入相のかねまきに

 (のり)のみちとやときほどくらん

 (人はこでうき入相のかねまきに法のみちとやときほどくらん)

 

 その入相の鐘は鐘巻の伝承を思い起こし、仏法を説いているかのようだ。

 「安珍清姫の物語」を本説から離れていず、やはり緩い展開が続く。

 

無季。釈教。

 

三十九句目

 

   法のみちとやときほどくらん

 むすぼほる髪にやくしをさしそへて

 (むすぼほる髪にやくしをさしそへて法のみちとやときほどくらん)

 

 前句の「ほどくらん」に対し「むすぼほる」が掛けてにはになる。結んで固められた髪を(くし)を挿し添えて解くように、仏法を説き解いてゆくとなるが、上句には薬師(やくし)如来(にょらい)が隠れている。

 

無季。

 

四十句目

 

   むすぼほる髪にやくしをさしそへて

 るりのやうなるかがみみるかげ

 (むすぼほる髪にやくしをさしそへてるりのやうなるかがみみるかげ)

 

 櫛で髪をとかす女性のイメージとなり、その女性は瑠璃(るり)のような鏡を覗き込む。

 瑠璃は元はラピスラズリのことだが、ここではガラスの異名と思われる。ガラスの鏡が日本に入ってきたのは一五四九年のザビエル来日の時とされているから、この独吟の十九年後になる。

 それ以前に何らかのルートでガラスの鏡が知られていたのかもしれない。中国の方から伝わっていた可能性はある。

 

無季。

 

四十一句目

 

   るりのやうなるかがみみるかげ

 すきとほる遠山鳥のしだりをに

 (すきとほる遠山鳥のしだりをにるりのやうなるかがみみるかげ)

 

 「るり」に「すきとほる」と付くからには、やはり何らかの形でガラスの鏡が知られていたのだろう。

 「遠山鳥(とおやまどり)」はコトバンクの「精選版 日本国語大辞典の解説」に、

 

 「〘名〙 (ヤマドリの雌雄は山を隔てて寝るというところから) 「やまどり(山鳥)②」の異名。

 ※源氏(100114頃)総角「歎きかちにて、例の、とを山どりにて明けぬ」

 ※新古今(1205)春下・九九「桜咲く遠山鳥のしだりをのながながし日もあかぬ色かな〈後鳥羽院〉」

 

とある。

 ヤマドリはキジ科でオスは金属光沢のある赤褐色の長い尾を持っている。

 後鳥羽院の歌は「桜咲くながながし日もあかぬ色かな」に「遠山鳥のしだりをの」という序詞を挟んだものだが、この句は「尾ろの鏡」で付けている。

 「尾ろの鏡」はコトバンクの「精選版 日本国語大辞典の解説」に、

 

 「(光沢のある雄の山鳥の尾に、谷をへだてた雌の影がうつるというところから) 尾が光って影が映るのを鏡にみなしていったもの。異性への慕情のたとえに用いられる。山鳥の尾ろの鏡。

 ※土御門院集(1231頃)「山鳥のをろの鏡にあらねどもうきかげみてはねぞなかれける」

 [補注]「万葉‐三四六八」の「山鳥の尾ろの初麻(はつを)に鏡懸け唱ふべみこそ汝()に寄そりけめ」の歌から生まれた歌語で、解釈は付会されたもの。」

 

とある。

 

無季。「遠山鳥」は鳥類。

 

四十二句目

 

   すきとほる遠山鳥のしだりをに

 はきたる矢にも(ぬえ)やいぬらん

 (すきとほる遠山鳥のしだりをにはきたる矢にも鵺やいぬらん)

 

 山鳥のしだり尾を使った矢は、伝説の(ぬえ)すらも射抜くだろうか、となる。

 源頼政(みなもとのよりまさ)の鵺退治の話に、山鳥の尾で作った尖り矢が用いられている。ウィキペディアには、

 

 「毎晩のように黒煙と共に不気味な鳴き声が響き渡り、二条天皇がこれに恐怖していた。遂に天皇は病の身となってしまい、薬や祈祷をもってしても効果はなかった。側近たちはかつて源義家が弓を鳴らして怪事をやませた前例に倣って、弓の達人である源頼政に怪物退治を命じた。頼政はある夜、家来の猪早太(井早太との表記もある)を連れ、先祖の源頼光より受け継いだ弓を手にして怪物退治に出向いた。すると清涼殿を不気味な黒煙が覆い始めたので、頼政が山鳥の尾で作った尖り矢を射ると、悲鳴と共に鵺が二条城の北方あたりに落下し、すかさず猪早太が取り押さえてとどめを差した。その時宮廷の上空には、カッコウの鳴き声が二声三声聞こえ、静けさが戻ってきたという。これにより天皇の体調もたちまちにして回復し、頼政は天皇から褒美に獅子王という刀を貰賜した。」

 

とある。

 

 

無季。

 

四十三句目

 

   はきたる矢にも鵺やいぬらん

 猿楽(さるがく)はけなげなりける物なれや

 (猿楽はけなげなりける物なれやはきたる矢にも鵺やいぬらん)

 

 猿楽は能のこと。ウィキペディアによれば、

 

 「能は江戸時代までは猿楽と呼ばれ、狂言とともに能楽と総称されるようになったのは明治以降のことである。」

 

とあり、また、

 

 「明治14年(1881年)、明治維新で衰微した猿楽の再興を目指して能楽社が設立された際に能楽と改称された。「能楽社設立之手続」には、『前田斉泰ノ意見ニテ猿楽ノ名称字面穏当ナラサルヲ以テ能楽ト改称シ……云々』とある。」

 

とある。俳諧が正岡子規によって俳句となったようなもので、今日使われている言葉は明治時代に生じたものが多い。

 「けなげ」は古語では健気という字の通り、「勇ましい。たのもしい。勇壮だ。」あるいは「殊勝である。しっかりとしている。」という意味で用いられていた。(weblio「学研全訳古語辞典」より)

 前句の鵺を射る場面を能の一場面とする。謡曲『鵺』は今日にも残っている。

 

無季。

 

四十四句目

 

   猿楽はけなげなりける物なれや

 大夫(たいふ)がとしはかぎりしられず

 (猿楽はけなげなりける物なれや大夫がとしはかぎりしられず)

 

 「大夫(たいふ)」はウィキペディアには、

 

 「猿楽座(座)や流派の長(観世太夫など)を指し、古くは『シテ』の尊称として使用された時代もあったが、現在は使用されていない。」

 

とある。猿楽の大夫はいくつになるのかわからないほどの爺さんだが、年取ってもますます芸に磨きが掛かり、その技は留まることを知らない。

 

無季。「大夫」は人倫。

 

四十五句目

 

   大夫がとしはかぎりしられず

 松はただ(しん)()(くわう)がなごりにて

 (松はただ秦の始皇がなごりにて大夫がとしはかぎりしられず)

 

 前句の「大夫」を「()大夫(たいふ)」のこととする。

 「五大夫」はコトバンクの「デジタル大辞泉の解説」に、

 

 「《秦の始皇帝が泰山で雨宿りをした松の木に五大夫の位を授けたという「史記」にある故事から》松の別名。」

 

とある。今の泰山にある五大夫松は、清代に植え替えられたものの内の二本だという。守武の時代にはまだ初代の松が残っていたのかもしれない。

 

無季。「松」は植物、木類。

 

四十六句目

 

   松はただ秦の始皇がなごりにて

 かんやうきゆうの秋風ぞふく

 (松はただ秦の始皇がなごりにてかんやうきゆうの秋風ぞふく)

 

 (かん)陽宮(ようきゅう)はコトバンクの「デジタル大辞泉の解説」に、

 

 「戦国時代に秦の孝公が咸陽に建てた壮大な宮殿。のち、始皇帝が住んだ。」

 

とある。その咸陽宮も時が経てば荒れ果てて、松の木のみ名残にしてただ秋の風となる。

 こうした趣向は近代の、土井晩翠作詞・滝廉太郎作曲の「荒城の月」の三番にも受け継がれている。

 

 今荒城の夜半の月

 変わらぬ光誰がためぞ

 垣に残るはただ葛

 松に歌うはただ嵐

 

季語は「秋風」で秋。

 

四十七句目

 

   かんやうきゆうの秋風ぞふく

 月や思ふわれらごときの物知らず

 (月や思ふわれらごときの物知らずかんやうきゆうの秋風ぞふく)

 

 守武のこうした展開を見ると、江戸後期の人が「三句の渡り」という言葉も頷ける。

 

 松はただ秦の始皇がなごりにて

   かんやうきゆうの秋風ぞふく

 月や思ふわれらごときの物知らず

 

と三句一セットにして意味が通る。

 こうした緩い展開は貞徳の嫌う所で、蕉門に至るまでスピード感のある急展開が求められていたが、江戸後期から現代連句に至るまでは、またこうした緩い展開に戻るところもあったようだ。

 咸陽宮も荒れにし跡はただ秋の風。月は昔の咸陽宮を知っているが、我々は何を知るのだろうか。

 

季語は「月」で秋、夜分、天象。「われら」は人倫。

 

四十八句目

 

   月や思ふわれらごときの物知らず

 露けきころはただ御免(ごめん)なれ

 (月や思ふわれらごときの物知らず露けきころはただ御免なれ)

 

 月を見ようと思ってはみても、我等ごとき風流の心のないものからすれば、露のじめじめした季節は勘弁願いたい。

 緩い展開ばかりでなく、時折こういう思い切った展開もする。

 毎句毎句笑いを取りにゆくのではなく、時折こうして落として笑わせるというのが守武の俳諧だったのだろう。

 

季語は「露」で秋、降物。

 

四十九句目

 

   露けきころはただ御免なれ

 花にとて雨にもいそぐ高あしだ

 (花にとて雨にもいそぐ高あしだ露けきころはただ御免なれ)

 

 高足駄(たかあしだ)は歯の長い高下駄のこと。一本歯の高下駄は修験者などが用いた。

 芭蕉が黒羽で詠んだ句にも、

 

 夏山や首途(かどで)を拝む高足駄      芭蕉

 

の句がある。『奥の細道』では、

 

 夏山に足駄を拝む首途哉      芭蕉

 

と改められている。

 単に「足駄」という場合も高下駄の意味だが、こちらは実用的なもので、コトバンクの「世界大百科事典 第2版の解説」には、

 

 「足駄(高下駄)は鼻緒が前寄りにつけられ,引きずるように履くのではねが上がらず,道路の整備された近世以降は歩行用の履物となったが,中世では衣服が汚れないよう戸外での排便や水汲み,洗濯などに用いられた。」

 

とある。守武の時代は中世なので、花見に高足駄で行くのは今で言えば長靴を履いてゆくようなものだろう。まあ、雨の中だから高足駄で失礼、というところか。

 

季語は「花」で春、植物、木類。「雨」は降物。

 

五十句目

 

   花にとて雨にもいそぐ高あしだ

 (うし)(わか)どのの春のくれがた

 (花にとて雨にもいそぐ高あしだ牛若どのの春のくれがた)

 

 「高足駄」を実用的な足駄ではなく修験の履く方のものとして、鞍馬山で修行していた牛若丸を登場させる。

 春の暮れ方、雨の山道をものともせずに颯爽と走る牛若丸の姿が浮かぶ。これが後の八艘(はっそう)()びの元になったか。

 

季語は「春」で春。

三表

五十一句目

 

   牛若どのの春のくれがた

 あまのはら天狗(てんぐ)いづちにかすむらん

 (あまのはら天狗いづちにかすむらん牛若どのの春のくれがた)

 

 牛若丸が天狗に兵法を教わったという伝説がいつ頃生じたのかは定かでないが、謡曲『鞍馬(くらま)天狗(てんぐ)』になって室町後期には広く世に知られていた。

 花盛りの鞍馬山での大天狗と牛若丸との交流は、今で言えばBLに近いものがある。そして最後には、

 

 「お(いとま)申して立ち帰れば牛若(たもと)にすがり給へばげに名残(なごり)あり、西海(さいかい)四海(しかい)合戦(かせん)といふとも影()を離れず弓矢の力を添へ(まも)るべし、頼めや頼めと(いう)(かげ)暗き、頼めや頼めと(いう)(かげ)鞍馬(くらま) の梢に(かけ)つて、失せにけり。」(野上豊一郎. 解註謡曲全集 全六巻合冊(補訂版) (p.4017). Yamatouta e books. Kindle . 

 

と天狗は夕暮れの春の空へと消えて行く。

 

季語は「かすむ」で春、聳物。

 

五十二句目

 

   あまのはら天狗いづちにかすむらん

 しらば(とび)にもものをとはばや

 (あまのはら天狗いづちにかすむらんしらば鳶にもものをとはばや)

 

 天狗はどこに飛んでってしまったか、トンビにでも聞いてみようか。これは遣り句であろう。

 

無季。「鳶」は鳥類。

 

五十三句目

 

   しらば鳶にもものをとはばや

 音に聞くくろやきぐすりなにならで

 (音に聞くくろやきぐすりなにならでしらば鳶にもものをとはばや)

 

 黒焼きは漢方薬とされているが、本来はどうも違ったようだ。コトバンクの「世界大百科事典 第2版の解説」には、

 

 「民間薬の一種。爬虫類,昆虫類など,おもに動物を蒸焼きにして炭化させたもので,薬研(やげん)などで粉末にして用いる。中国の本草学に起源をもつとする説もあるが,《神農本草》などにはカワウソの肝やウナギの頭の焼灰を使うことは見えているものの,黒焼きは見当たらない。おそらく南方熊楠(みなかたくまぐす)の未発表稿〈守宮もて女の貞を試む〉のいうごとく,〈日本に限った俗信〉の所産かと思われる。《日葡辞書》にCuroyaqi,Vno curoyaqiが見られることから室町末期には一般化していたと思われ,後者の〈鵜の黒焼〉はのどにささった魚の骨などをとるのに用いると説明されている。」

 

とある。「室町末期には一般化」とあるから、守武の時代あたりから急速に広まったのではないかと思われる。まだ(うわさ)には聞くことがあっても実物を見た人は少なかったのかもしれない。

 同じコトバンクの「百科事典マイペディアの解説」には、

 

 「動植物を土器の壺で原形をとどめたまま蒸焼にして黒く焼いたもの。中国大陸から伝来した民間薬で元禄・享保ごろには江戸・大坂で黒焼屋が繁盛した。マムシは強壮,アオダイショウは性病,イモリは夫婦和合の妙薬といわれたが,薬効はあいまいなものが多い。《竹斎》に古畳や古紙子の黒焼で瘧(おこり)をなおしたという笑話がある。」

 

とある。

 『連歌俳諧集』の注には、室町末期の『(きん)(そう)秘伝(ひでん)』の注に鳶の丸焼き、鳶の羽の黒焼きがあるという。

 

無季。

 

五十四句目

 

   音に聞くくろやきぐすりなにならで

 波に目のまふ松がうらしま

 (音に聞くくろやきぐすりなにならで波に目のまふ松がうらしま)

 

 「松が浦島」は松島の別名。

 

 音に聞く松が浦島今日ぞみる

     むべも心ある海人は住みけり

              素性(そせい)法師(ほうし)(後撰集)

 

による「歌てには」の一種といえよう。

 「目のまふ」は目の舞うで、目がくらくらしてあたりが揺れて見えるということか。

 

無季。「波」は水辺。「松が浦島」は名所、水辺。

 

五十五句目

 

   浪に目のまふ松がうらしま

 玉手箱(たまてばこ)明くればばちやあたるらん

 (玉手箱明くればばちやあたるらん波に目のまふ松がうらしま)

 

 これは浦島を浦島太郎のこととしたというのがすぐわかる。ただ浦島ネタは二十九句目と(かぶ)る。ただ、二十九句目のほうは時の経過だけではっきりと浦島とは言っていないから別の物語でもおかしくはない。

 玉手箱を開けて年を取ってしまったのは何の(ばち)なのだろうか。一体亀を助けた浦島はどんな悪いことをしたというのだろうか。

 

無季。

 

五十六句目

 

   玉手箱明くればばちやあたるらん

 見えて(おきな)(めん)と太鼓と

 (玉手箱明くればばちやあたるらん見えて翁の面と太鼓と)

 

 謡曲『(おきな)』は「能にして能にあらず」といわれ、これといった物語はなく、最初に箱を持った面箱(めんばこ)が登場し、次にシテが現れ、箱から翁の面を取り出すところから始まる、それとともに(つづみ)が舞台に登場し、翁舞いになる。

 守武に時代には太鼓(たいこ)が入ることもあったのか、前句の「ばち」は太鼓のばちに取り成されている。

 

無季。

 

五十七句目

 

   見えて翁の面と太鼓と

 法楽(ほふらく)は一むら(さめ)をさはりにて

 (法楽は一むら雨をさはりにて見えて翁の面と太鼓と)

 

 法楽(ほふらく)は神仏を楽しませる楽や舞いで、能(当時は猿楽)の『翁』も法楽として舞われることが多かったのだろう。

 「さはる」は妨げられることで、weblio辞書の「学研全訳古語辞典」に、今昔物語集 二五・一二の「雨にもさはらず、夕方行きたりけるに」が用例として挙げられている。

 法楽はにわか雨に妨げられたけど雨が止めば翁の面と太鼓が登場する。

 

無季。「むら雨」は降物。

 

五十八句目

 

   法楽は一むら雨をさはりにて

 連歌まぎるる山ほととぎす

 (法楽は一むら雨をさはりにて連歌まぎるる山ほととぎす)

 

 連歌(れんが)も法楽として盛んに行われた。

 村雨とほととぎすは、

 

 声はして雲路にむせぶ(ほとと)(ぎす)

     涙やそそぐ宵の村雨

           式子(しきし)内親王(ないしんのう)(新古今集)

 

が本歌か。

 法楽連歌は神社に奉納するということで、屋外で公開で行われたりしたのだろう。村雨に中断するとホトトギスの声が聞こえてくる。

 

季語は「ほととぎす」で夏、鳥類。

 

五十九句目

 

   連歌まぎるる山ほととぎす

 (うた)やらん(また)何やらん草の(いほ)

 (哥やらん又何やらん草の庵連歌まぎるる山ほととぎす)

 

 歌なのか何なのかわからないのは一体何かと思わせて、連歌に紛れるホトトギスの声だと落ちにする。

 草庵で少人数の連歌会(れんがえ)をやっていたのだろう。連歌も歌だから付いたばかりの句を朗々と歌い上げていると、ホトトギスの声が次ぎの句を付けるかのように聞こえてくる。

 

無季。「庵」は居所。

 

六十句目

 

   哥やらん又何やらん草の庵

 世をつらゆきのうちぞながむる

 (哥やらん又何やらん草の庵世をつらゆきのうちぞながむる)

 

 和歌といえば紀貫之(きのつらゆき)

 「うちぞながむる」は「うちながむるぞ」の倒置。物思いにふけるという意味。

 

無季。

 

六十一句目

 

   世をつらゆきのうちぞながむる

 朝もよひきのふ今日(こんにち)いかがせん

 (朝もよひきのふ今日いかがせん世をつらゆきのうちぞながむる)

 

 「朝もよひ」は「朝催ひ」で、weblio辞典の「学研全訳古語辞典」に、

 

 「朝食の準備。また、そのころ。」

 

とある。何を悩んでいたかと思えば朝ごはんの献立のことか。

 

無季。

 

六十二句目

 

   朝もよひきのふ今日いかがせん

 くまのまゐりのくやしさぞそふ

 (朝もよひきのふ今日いかがせんくまのまゐりのくやしさぞそふ)

 

 「あさもよし(麻裳よし)」は紀の国に掛かる枕詞。かつては熊野川の東側の熊野市や尾鷲市(おわせし)のあたりも紀伊国だった。明治九年に三重県になった。

 熊野路は、

 

 苦しくも降り来る雨か三輪の崎

     佐野の渡りに家もあらなくに

              長忌(ながのいみ)()(おき)麿(まろ)(万葉集)

 

の歌もあるように苦しい道のりだった。家もないくらいだから朝ごはんも満足に食べられず、後悔する。

 

無季。釈教。

 

六十三句目

 

   くまのまゐりのくやしさぞそふ

 山伏(やまぶし)に人はなるべき物ならで

 (山伏に人はなるべき物ならでくまのまゐりのくやしさぞそふ)

 

 熊野の山伏の修行は厳しく、普通の人の耐えられるものではない。半端な気持ちで山伏になろうとすると後悔する。

 

無季。「人」は人倫。

 

六十四句目

 

   山伏に人はなるべき物ならで

 さのみにかひをふかずともがな

 (さのみにかひをふかずともがな山伏に人はなるべき物ならで)

 

 「貝を吹く」は法螺貝(ほらがい)を吹くことだが、今でも「法螺を吹く」という言葉は話を盛るという意味で用いられる。

 前句の「人はなるべき」をいかにも山伏が超人的な力を持つかのように吹聴しているという意味にして、そんな話を盛らなくてもいいのに、と展開する。

 

無季。

三裏

六十五句目

 

   さのみにかひをふかずともがな

 思ひ入る風呂(ふろ)何故(なにゆゑ)せばからし

 (思ひ入る風呂の何故せばからしさのみにかひをふかずともがな)

 

 これはシモネタ。「貝」をあの意味に取り成す。

 当時は蒸し風呂だったが、この場合狭いというから()()(かま)風呂(ふろ)だろうか。コトバンクの「百科事典マイペディアの解説」に、

 

 「釜風呂とも書く。京都八瀬の名物で,蒸風呂の一種。荒壁で高さ約2mの土饅頭(どまんじゅう)型のものを築き,人が入れる穴蔵を作る。この中で松葉やアオキなどの生枝をたき,灰をかき出したのち湿らせた塩俵等を敷いて,これから出る蒸気が煙を追い出したころ,その上に横たわって蒸気を浴する。」

 

とある。

 当時は衣服の通気性が悪く、皮膚病になる人が多かったとも言う。

 

無季。恋。

 

六十六句目

 

   思ひ入る風呂の何故せばからし

 石榴(ざくろ)にうらみありとしらるる

 (思ひ入る風呂の何故せばからし石榴にうらみありとしらるる)

 

 『連歌俳諧集』の注に「ここは風呂の石榴口のことをいった」とある。

 石榴(ざくろ)(ぐち)weblio辞書の「三省堂 大辞林 第三版」に、

 

 「〔昔、鏡磨きはザクロの実からとった酢を用いたところから、「屈(かが)み入る」を「鏡要る」にかけた洒落〕

江戸時代の銭湯で、洗い場から浴槽への入り口。湯の冷めるのを防ぐため入り口を低く作ってあり、かがんで入るようになっていた。 「道理で-が込だ/滑稽本・浮世風呂 3

 

とある。守武の時代にも既にあったか。

 石榴の実が割れる様も、あれを想像させる。

 

季語は「石榴」で秋。恋。

 

六十七句目

 

   石榴にうらみありとしらるる

 露ばかりのこす茶のこに袖ぬれて

 (露ばかりのこす茶のこに袖ぬれて石榴にうらみありとしらるる)

 

 「茶のこ」はweblio辞書の「三省堂 大辞林 第三版」に、

 

 「①茶菓子。茶うけ。点心(てんしん)。 「薩摩いりといふ-を拵(こしらえ)るばかり/滑稽本・浮世風呂 前」

  ②仏事の際の供物や配り物。 「本の母御の十三年忌、-ひとつ配ることか/浄瑠璃・薩摩歌」

  ③彼岸会(ひがんえ)の供物(くもつ)。

  ④農家などで、朝食前に仕事をする時にとる簡単な食べ物。

  ⑤〔① は腹にたまらないことから〕 物事の容易なこと。お茶の子。お茶の子さいさい。

  「常住、きつてのはつての是程の喧嘩は、おちやこの〱-ぞや/浄瑠璃・反魂香」

 

とある。

 茶うけが先に来た人に食われてしまってほんのちょっとしか残ってなかった。特に石榴が全部食われていたことは恨まれる。

 

季語は「露」で秋、降物。

 

六十八句目

 

   露ばかりのこす茶のこに袖ぬれて

 月みの会の明けわたるそら

 (露ばかりのこす茶のこに袖ぬれて月みの会の明けわたるそら)

 

 月見の会が夜を徹して行われ、みんな料理をたいらげ、茶のこが少し残っただけだった。

 

季語は「月み」で秋、夜分、光物。

 

六十九句目

 

   月みの会の明けわたるそら

 大方(おほかた)のねやしならずよ夜はの友

 (大方のねやしならずよ夜はの友月みの会の明けわたるそら)

 

 「ねやし」を『連歌俳諧集』の注は「練し」だとする。weblio辞書の「三省堂 大辞林 第三版」に、

 

 「①練ってねばるようにする。こねる。 「暮るるまでおし-・したる御そくいひ/咄本・醒睡笑」

  ②金属を精錬する。 〔名義抄〕」

 

とある。(ねや)(寝室)と掛けているのかもしれない。

 

無季。「夜は」は夜分。「友」は人倫。

 

七十句目

 

   大方のねやしならずよ夜はの友

 みだれ碁いそぐらつそくのかげ

 (大方のねやしならずよ夜はの友みだれ碁いそぐらつそくのかげ)

 

 「らつそく」は蝋燭(ろうそく)のこと。

 みだれ碁はここでは囲碁の勝敗の読めない乱戦のことか。

 

 目にも今見る心地して乱れ碁の

     うちも忘れぬ面影は憂し

 

という古狂歌もある。

 (みだれ)()はコトバンクの「精選版 日本国語大辞典の解説」に、

 

 「 碁石を指先につけて拾い取り、その多少によって勝負を争う遊戯。中世の賭博(とばく)によく用いられたもの。らんご。

※新撰菟玖波集(1495)雑「石の上にも世をぞいとへる みたれ碁に我いき死のあるをみて〈心敬〉」

 

とあるが、この心敬の句も、「いき死」は囲碁の用語で、碁石を指先につけて拾う遊びの意味ではなかったと思う。

 

無季。「らつそく」は夜分。

 

七十一句目

 

   みだれ碁いそぐらつそくのかげ

 (をの)()の一ちやう二ちやう取り()でて

 (斧の柄の一ちやう二ちやう取り出でてみだれ碁いそぐらつそくのかげ)

 

 「(おの)()()つ」はコトバンクの「大辞林 第三版の解説」に、

 

 「〔「述異記」にみえる爛柯らんかの故事から〕

わずかな時間だと思っているうちに、長い年月を過ごすこと。時のたつのが早いことのたとえ。 爛柯」

 

とある。この故事については、同じコトバンクの「精選版 日本国語大辞典の解説」に、

 

 「(晉の王質が山中で仙童の囲碁を見ていたが、一局終わらないうちに、手にした斧の柄が腐ってしまい、村に帰ると、もとの人はすでに亡くなっていた、という「述異記」に見える爛柯(らんか)の故事から) 僅かな時間と思っているうちに、長い年月を過ごすことのたとえ。何かに気をとられていて、あっという間に時間が過ぎてしまうことのたとえ。

 ※東大寺諷誦文平安初期点(830頃)「豈に法の庭に斧柄(ヲノノエ)(くち)()らめや」

 ※古今(905914)雑下・九九一「ふるさとはみしごともあらずおののえのくちし所ぞこひしかりける〈紀友則〉」

 

とある。

 仙境では時間の流れが異なるのか、浦島太郎もそうだし、二十九句目にも、

 

   月よりおくの夜の(やま)(ぐち)

 かへるさは千とせへならん(あさ)(ぼらけ)   守武

 

の句があった。

 この句の場合、斧を取り出して、早くしないと斧の柄が腐っちゃうぞ、とせかしている場面だろうか。昼だったら日が暮れちゃうぞというところだが。

 

無季。

 

七十二句目

 

   斧の柄の一ちやう二ちやう取り出でて

 子どもをつるる山がつの道

 (斧の柄の一ちやう二ちやう取り出でて子どもをつるる山がつの道)

 

 山がつの親子は子供も斧を持っている。ほのぼのとする光景だ。

 

無季。「子ども」「山がつ」は人倫。

 

七十三句目

 

   子どもをつるる山がつの道

 さもこそはかしましからめ峰の寺

 (さもこそはかしましからめ峰の寺子どもをつるる山がつの道)

 

 今は少子化の時代だが、昔は子連れというとぞろぞろと何人も率いてたのだろう。さぞかし峰の寺も賑やかになったことだろう。

 

無季。釈教。「峰」は山類。

 

七十四句目

 

   さもこそはかしましからめ峰の寺

 みみをもつぶせあらましの末

 (さもこそはかしましからめ峰の寺みみをもつぶせあらましの末)

 

 峰の寺と言っても小さな寺とは限らない。比叡山や高野山のような大寺院もある。修行僧の数も多く、それを束ねる僧侶の人間関係も複雑で、浮世を遁れるはずなのに思いのほか世俗と変わらなかったりする。

 「あらまし」はこうありたいと思う心で、今でいえば「夢」だ。夢がかなって仏道修行に入ったのだが、こんなはずではなかったと思うこともある。とにかく雑音は聞こえないふりをしてやりすごそう。

 

無季。

 

七十五句目

 

   みみをもつぶせあらましの末

 花ぞさく今は麝香(じゃかう)も何かせん

 (花ぞさく今は麝香も何かせんみみをもつぶせあらましの末)

 

 室町時代といえば香道(こうどう)が盛んになった時代でもあった。珍しい麝香(ムスク)の香りも珍重されたが、花の下では花の香をかぎたいものだ。

 前句の「みみをもつぶせ(雑音は聞くな)」に対して余計な香を嗅ぐなと対句的に付ける相対付けになる。

 

季語は「花」で春、植物、木類。

 

七十六句目

 

   花ぞさく今は麝香も何かせん

 さくらがもとにただねぶれとよ

 (花ぞさく今は麝香も何かせんさくらがもとにただねぶれとよ)

 

 桜の下で眠るというのは、

 

 朝夕に花待つころは思ひ寝の

     夢のうちにぞ咲きはじめける

              ()徳院(とくいん)(千載集)

 

の心か。

 中世では花に桜を付けるのは珍しくなかった。湯山三吟(ゆのやまさんぎん)の三十八句目にも、

 

    咲く花もおもはざらめや春の夢

 さくらといへば山風ぞふく    宗長

 

の句がある。水無瀬三吟の八十一句目は桜に花を付けている。

 

   小夜もしづかに桜さくかげ

 灯をそむくる花に明けそめて   宗祇

 

季語は「桜」で春、植物、木類。

 

七十七句目

 

   さくらがもとにただねぶれとよ

 春のよのよそ目(ばかり)坐禅(ざぜん)にて

 (春のよのよそ目計は坐禅にてさくらがもとにただねぶれとよ)

 

 桜の咲く春の夜、坐禅をして感心だと思っていたら、よくよく見ると居眠りしていた。

 

季語は「春のよ」で春、夜分。

 

七十八句目

 

   春のよのよそ目計は坐禅にて

 月の輪とふやかすかなるらん

 (春のよのよそ目計は坐禅にて月の輪とふやかすかなるらん)

 

 月の輪は満月のことだが、月輪(がちりん)と読むと、悟りを求める曇りなき心を意味する。

 春だから月は朧で幽かに見えるが、それと同じで春は眠くなる季節で坐禅をしていてもついつい居眠りしてしまい、悟りを求める心も霞んでしまう、となる。

 

季語は「月の輪」で秋、夜分、光物。

名残表

七十九句目

 

   月の輪とふやかすかなるらん

 小車(をぐるま)が吹きやられたる秋の風

 (小車が吹きやられたる秋の風月の輪とふやかすかなるらん)

 

 「小車(をぐるま)」はコトバンクの「デジタル大辞泉の解説」に、

 

 「1 小さな車。また、車、特に牛車(ぎっしゃ)をいう。

「思ひまはせばのわづかなりける憂き世かな」〈閑吟集〉

  2 キク科の多年草。湿地に生え、高さ3060センチ。地下茎で繁殖。葉は互生し、堅い。夏から秋、黄色い頭状花を開く。のぐるま。かまつぼぐさ。《季 秋》「や何菊と名の付くべきを/越人」

 

とある。牛車(ぎっしゃ)はウィキペディアには、

 

 「武家が政権を取った鎌倉・室町時代には、牛車に乗る権利を持つ従五位以上の官位を持つ武家衆も多く現れたが、実際に牛車を使ったのは将軍家のみである。応仁の乱以後には貴族のあいだでも牛車は廃れて消滅してしまうが、1588年(天正16年)に豊臣秀吉が聚楽第行幸に際して牛車を新調した。」

 

とあり、守武の時代には既に廃れていたようだ。ここでは植物の方であろう。

 「さくら」とは二句去りだが、木類と草類で違えている。『応安新式』

 

では「木に草 虫与鳥 鳥与獣(如此動物)」は可隔三句物だが、ここは牛車のこととも取れてダブルミーニングだから良しとするのだろう。

 八句目の月は実質的には夜分の「手習を目さるる人のあは雪に」と二句去りで出しているし、九句目の「下葉散る柳のやうじ秋立ちて」は六句目の「竹」から二句しか去ってない。これも柳ではなく楊枝のことだからということで遁れられる。

 三十六句目の「大蛇」も「たれぞとて百千鳥足踏みいでて」から二句しか隔ててないが、これも「大蛇」は伝説上のものだし、「百千鳥足」も「千鳥足」のことだからセーフ。

 

季語は「秋の風」で秋。「小車」は植物、草類。

 

八十句目

 

   小車が吹きやられたる秋の風

 ふりたてぬるは鹿(しか)(うし)の角

 (小車が吹きやられたる秋の風ふりたてぬるは鹿牛の角)

 

 小車といっても牛車ではなく野の花だから、鹿も一緒に角を振りたてる。

 

 草も木も色のちくさにおりかくす

     野山のにしき鹿ぞたちける

                藤原定家(拾遺(しゅうい)()(そう)

 

の歌もある。

 

季語は「鹿」で秋、獣類。「牛」も獣類。

 

八十一句目

 

   ふりたてぬるは鹿牛の角

 大日(だいにち)春日(かすが)の神のあらそひて

 (大日に春日の神のあらそひてふりたてぬるは鹿牛の角)

 

 コトバンクの「世界大百科事典内の大日如来の言及」に、

 

 「西日本では牛の守護神として大日如来の信仰が盛んであり,その縁日に牛をつれて参拝し,境内の草や樹枝を厩(うまや)にさしたり護符を牛小屋にはるなどの風習も広がった。また,農民は大日講,万人講などを結んで金銭を集め,それによって講員の耕牛を順次購入していく方式なども考えて実行していた。」

 

とある。

 大日如来の牛と春日大社の鹿が角を突き合わす。前句で「鹿牛」という言葉を考えた時点で、この展開を想定していたか。独吟だとそういうこともある。

 

無季。

 

八十二句目

 

   大日に春日の神のあらそひて

 ならのみやこや無為(ぶゐ)になるらん

 (大日に春日の神のあらそひてならのみやこや無為になるらん)

 

 奈良の大仏は盧舎那仏(るしゃなぶつ)だが、密教では大日如来(だいにちにょらい)と同一視されている。

 神と仏が争っていては奈良の都も無為ではすまない。無為(ぶゐ)はこの場合無異(ぶい)(何事もない)の意味。

 当時奈良は戦国大名の筒井(つつい)(じゅん)(こう)筒井順慶(つついじゅんけい)の祖父)が治めていたが、この独吟の二年前の享禄元年(一五二八年)、柳本(やなぎもと)賢治(かたはる)の軍の侵攻に合い薬師寺などが被害を受けた。

 

無季。

 

八十三句目

 

   ならのみやこや無為になるらん

 (しろがね)目貫(めぬき)太刀(たち)のゆふまぐれ

 (銀の目貫の太刀のゆふまぐれならのみやこや無為になるらん)

 

 『連歌俳諧集』の注に、

 

 「(しろがね)の目貫の太刀をさげ佩きて奈良の都をねるがは誰が子ぞねるは誰が子ぞ」

 

という神楽歌の採物(とりもの)を引用している。武門の棟梁たる物部(もののべ)()の総氏神で(しち)支刀(しとう)を伝える石上(いそのかみ)神宮の祭の歌であろう。

 奈良は刀鍛冶が多く住んでいた。ここで作られた刀は奈良(なら)(がたな)と呼ばれる。コトバンクの「精選版 日本国語大辞典の解説」には、

 

 「〘名〙 中世、大和国(奈良県)奈良に住む刀工の鍛えた刀。近世には主として肥前で鍛造された鈍刀が奈良に移入され、そこで外装されて売り出された。大量生産による粗製の品が多くなったところから、鈍刀のことをもいう。奈良物。〔庭訓往来(13941428頃)〕」

 

とある。粗悪になったのは江戸時代のことで、守武の時代には質も良かったのだろう。

 前句の神仏の争いから祭で銀の目貫の太刀を()いて練り歩く平和な姿へと転じる。

 

無季。

 

八十四句目

 

   銀の目貫の太刀のゆふまぐれ

 こひしき人にまゐらせにけり

 (銀の目貫の太刀のゆふまぐれこひしき人にまゐらせにけり)

 

 奈良の石上神宮は古くから恋が詠まれている。人麻呂歌集の

 

 石上(いそのかみ)布留(ふる)(かむ)(すぎ)(かむ)さびて

     恋をも我れはさらにするかも

              (『万葉集』巻十一・一九七二)

 

をはじめとして、

 

 石上布留の中道(なかみち)なかなかに

     見ずは恋しと思はましやは

              紀貫之(きのつらゆき)(古今集)

 

などの歌がある。

 

無季。恋。「人」は人倫。

 

八十五句目

 

   こひしき人にまゐらせにけり

 物思ふ宿よりおくの持仏堂

 (物思ふ宿よりおくの持仏堂こひしき人にまゐらせにけり)

 

 前句の「まゐらせにけり」をお参りさせるの意味に取り成す。

 ()仏堂(ぶつどう)はコトバンクの「百科事典マイペディアの解説」に、

 

 「朝夕その人が信仰し礼拝する仏像(念持仏,持仏)を安置しておく建物,または部屋。江戸中期以後,一般化した在家の仏間や仏檀はこの変形である。」

 

とある。宿の奥の持仏堂に恋しき人を招き入れる。

 

無季。恋。

 

八十六句目

 

   物思ふ宿よりおくの持仏堂

 見えし姿やさらに(はな)(ざら)

 (物思ふ宿よりおくの持仏堂見えし姿やさらに花皿)

 

 花皿はコトバンクの「デジタル大辞泉の解説」に、()()に同じとあり、()()は、

 

 「法要のとき、散華(さんげ)に用いる花を盛る器。竹を編んで作ったもののほか、透かし彫りを施した金属製のものなどがある。はなざら。はなかご。」

 

とある。

 花皿は松永貞徳の『俳諧(はいかい)御傘(ごさん)』では、「春也、正花也。植物也、尺教也」とあるが、ここでは九十九句目に花の句があるので正花にはなっていないし、春にもなっていない。前の五句、後の五句に植物がないから植物として扱われていた可能性はある。また、前句に持仏堂、後の句に坊主があるから釈教にはなっている。

 

無季。釈教。

 

八十七句目

 

   見えし姿やさらに花皿

 山水(やまみづ)にうつろひぬるは坊主(ばうず)にて

 (山水にうつろひぬるは坊主にて見えし姿やさらに花皿)

 

 これは河童(かっぱ)だろう。本当は坊主だけど水に映る姿はさながら頭に皿のある河童のようだ。

 

無季。「山水」は山類、水辺。「坊主」は人倫。

 

八十八句目

 

   山水にうつろひぬるは坊主にて

 いかに涼しきはげがやすらひ

 (山水にうつろひぬるは坊主にていかに涼しきはげがやすらひ)

 

 山水の景色があれば隠遁の僧侶のようにも見えるが、実はただの禿(はげ)

 

季語は「涼しき」で夏。

 

八十九句目

 

   いかに涼しきはげがやすらひ

 ま木の戸やよるはすがらに光るらん

 (ま木の戸やよるはすがらに光るらんいかに涼しきはげがやすらひ)

 

 真木(まき)は杉や(ひのき)などの針葉樹を指す。ここでは戸の材料なので植物にはならない。

 「よるはすがらに」は「夜もすがら」のこと。

 木戸に寄りかかると涼しいが、そのため夜もすがら真木の戸が光っていると、「光るは親父の禿頭」みたいな何とも素朴なネタだ。

 

無季。「よる」は夜分。

 

九十句目

 

   ま木の戸やよるはすがらに光るらん

 夢に源氏のみゆる手まくら

 (ま木の戸やよるはすがらに光るらん夢に源氏のみゆる手まくら)

 

 光の縁から源氏だが、光源氏の「光」の由来は「桐壺」巻には二つある。一つは、

 

 「世にたぐひなしとみたてまつり給ひ、名だかうおはする宮の御(み)かたちにも、なほにほはしさはたとへんかたなくうつくしげなるを、世のひとひかる君と聞ゆ。」

 (世に類を見ないと言われている名高い東宮様の立派な姿と比べても、なお何とも例えようもない雰囲気を持つ源氏の君の美しさに、宮中の人たちは「光る君」と呼びました。)

 

で、もう一つは「桐壺」巻の最後の、

 

 「ひかるきみといふ名は、こまうどのめできこえてつけたてまつりけるとぞ、いひつたへたるとなん。」

 (一説には、「光君(ひかるきみ)」という名は、かつての渤海の使節が最初に賞賛の意味でつけたとも言われてます。)

 

という説明だ。

 光源氏の夢だから夜通し光って見える。

 

無季。「手まくら」は夜分。

 

九十一句目

 

   夢に源氏のみゆる手まくら

 (あつ)(もり)のうらみも薄く月()けて

 (篤盛のうらみも薄く月更けて夢に源氏のみゆる手まくら)

 

 前句の源氏を平家の宿敵の源氏とする。篤盛は(あつ)(もり)のこと。

 謡曲『(あつ)(もり)』であろう。

 

「地( クリ) それ春の花の樹頭(じゅとお)(のぼ)は、上求(じょおぐ)菩提(ぼだい)すすめ、水底(すゐてい)は、下化(げけ)衆生(しゅじょお)の、(かたち)す。

シテ「( サシ) 然るに一門(いちもん)(かど)並べ、(るゐ)(よお)(えだ)(つら)よそひ、

地  誠に槿(きん)(くわ)一日(いちじつ)(えい) 同じ。善きを勧むる教へには、()かたきの、()ぞと思はざりはしこそはかなけれ。野上豊一郎. 解註謡曲全集 全六巻合冊(補訂版) (p.1020). Yamatouta e books. Kindle 版)

 

季語は「月」で秋、夜分、光物。

 

九十二句目

 

   篤盛のうらみも薄く月更けて

 今年(ことし)十六身にやしむらん

 (篤盛のうらみも薄く月更けて今年十六身にやしむらん)

 

 (あつ)(もり)が一ノ谷の戦いで戦死した時は享年十七歳。十六になった若者にとっては、こんな早く死んだのかと身に染みる思いだ。 

 

季語は「身にしむ」で秋。「身」は人倫。

名残裏

九十三句目

 

   今年十六身にやしむらん

 (をと)女子(めご)をとらへてとへば秋の暮

 (乙女子をとらへてとへば秋の暮今年十六身にやしむらん)

 

 十六歳は今だったらロリだが室町時代にはやや行き遅れの年齢。当時は十三歳くらいが結婚適齢期だった。十六でもはや秋の暮。

 

季語は「秋の暮」で秋。「乙女子」は人倫。

 

九十四句目

 

   乙女子をとらへてとへば秋の暮

 盗人(ぬすびと)なりとながめやるそら

 (乙女子をとらへてとへば秋の暮盗人なりとながめやるそら)

 

 宗鑑(そうかん)編の『新撰(しんせん)(いぬ)筑波集(つくばしゅう)』に、

 

   きりたくもありきりたくもなし

 盗人(ぬすびと)を捕らえて見れば我が子なり

 

の句があり、似ている。『新撰犬筑波集』はウィキペディアには「大永四年(一五二四年)以降の成立」とあるから、読んだ可能性はある。

 ただここでは我が子とは限らない。ただ、意外な犯人というネタか。

 『連歌俳諧集』の注は『伊勢物語』六段や十二段の略奪婚のことする。この場合は恋になる。

 

無季。「盗人」は人倫、三句続く。

 

九十五句目

 

   盗人なりとながめやるそら

 物をなど雲のはたての取りぬらん

 (物をなど雲のはたての取りぬらん盗人なりとながめやるそら)

 

 「雲の()たて」はコトバンクの「デジタル大辞泉の解説」に、

 

 「《「くものはだて」とも》

 1 雲の果て。空の果て。

「都をば天つ空とも聞かざりき何眺むらむを」〈新古今・羇旅〉

 2 《「はたて」を「旗手」の意に解して》雲のたなびくさまを旗がなびくのに見立てていう語。

 「吹く風にはとどむともいかが頼まむ人の心は」〈拾遺・恋四〉

 [補説]書名別項。雲の涯(はたて)

 

とある。

 この場合の「物」は心とか魂とかの意味で、空の果てを眺めていると心が盗まれてゆくようだという意味。

 

 夕暮れは雲のはたてに物ぞ思ふ

      天つ空なる人を恋ふとて

            よみ人知らず(古今集)

 都をば天つ空とも聞かざりき

     何ながむらむ雲のはたてを

             ()秋門院(しゅうもんいんの)丹後(たんご)(新古今集)

 

のように、雲の果たては恋にも()(りょ)にも詠む。

 

無季。「雲」は聳物。

 

九十六句目

 

   物をなど雲のはたての取りぬらん

 あらあらにくのことやささがに

 (物をなど雲のはたての取りぬらんあらあらにくのことやささがに)

 

 物を取ったのは雲ではなくささがに(蜘蛛(くも))だった。とんだ「くも」違い。

 「あらあらにく」は「あらあら憎き」の略。平安時代から形容詞の終止語尾は口語では省略される。今日でも「やばっ」「きもっ」「ちかっ」など口語ではしばしば語尾の「い」を省略する。

 

無季。「ささがに」は虫類。

 

九十七句目

 

   あらあらにくのことやささがに

 かり(そめ)も毒をのみてはいたづらに

 (かり初も毒をのみてはいたづらにあらあらにくのことやささがに)

 

 日本の毒蜘蛛の多くは外来種だが、在来種でもカバキコマチグモのような毒蜘蛛がいる。今日では刺されても死ぬことはないが、昔はどうだったかはわからない。

 

無季。

 

九十八句目

 

   かり初も毒をのみてはいたづらに

 (こがね)のはくは(はく)やたづねよ

 (かり初も毒をのみてはいたづらに金のはくは薄やたづねよ)

 

 「(こがね)のはく」は金箔。薄やは薄屋(はくや)でコトバンクの「精選版 日本国語大辞典の解説」に、

 

 「〘名〙 金・銀などの箔を製造し、または販売する人。また、その店。箔打ち。〔日葡辞書(160304)〕

 ※俳諧・誹諧独吟集(1666)上「かり初も毒をのみてはいたづらに 金のはくは薄屋たづねよ」

 

とある。この守武独吟は重徳(じゅうとく)編『俳諧独吟集』(寛文六年刊)にも収められている。

 金箔は今日でも食品に用いられるが、昔は銅の混じった純度の低い金が多く、これを飲むと中毒を起す。

 

無季。

 

九十九句目

 

   金のはくは薄やたづねよ

 とがするは花見のはれの腰刀

 (とがするは花見のはれの腰刀金のはくは薄やたづねよ)

 

 江戸時代の俳諧に描かれる庶民の花見ではなく、宮廷や大名クラスの花見であろう。腰の刀はきれいに研ぎなおし、(さや)には金箔を貼って箔を付けたいものだ。

 江戸時代になると花見は庶民のもので、武士はそういう所に行くものではないとされていたが、そうはいっても庶民の花見に混ざるものはいた。ただ、刀を挿していると浮いてしまう。

 

 何事ぞ花みる人の長刀(なががたな)     去来

 

ということになる。

 

季語は「花見」で春、植物、木類。

 

挙句

 

   とがするは花見のはれの腰刀

 御幸(みゆき)と春やあひにあひざめ

 (とがするは花見のはれの腰刀御幸と春やあひにあひざめ)

 

 刀を研がせるのは御幸(みゆき)御門(みかど)を警護するためだった。御幸に春と目出度さが重なって、「逢いに逢い」ということだが、それを最後に刀の鞘に用いられる「(あい)(ざめ)」と掛けて落ちにする。

 藍鮫は漢字ペディアに、

 

 「①ツノザメ科の海魚の総称。関東以南の深海にすむ。全長約一(メートル)。体は淡褐色。肉は練り製品の原料。

  ②濃い青色をおびたさめ皮。刀の鞘(さや)を巻くのに用いる。」

 

とある。

 

季語は「春」で春。旅体。