三、見えない天道

   ──風そよぐせいたかのっぽの木の頭上

         我には見えぬ青空がある──

                  俵万智

1、五月雨の向こう側

 雨にけぶる風景の美しさも、今では我々の美意識から消えつつある。

  同じように、春の霞む山里、花の雲の朧、目にはさやかに見えない秋風、霧の中に消えてゆく舟、雪の夕暮れといったものも、次第に我々の生活の意識の中から遠ざかりつつある。

  明治の頃、東の海の彼方に「欧米」という新たな蓬莱山を発見して以来、いつしか青空の下の乾いた空気の中で、何もかもがくっきりと明晰となる世界を求め続けてきた。

  まあ、ヨーロッパだってそんなに晴れた日ばかりではないし、北欧に行けば冬は長い夜に閉ざされる。彼らだって地中海やカルフォルニアへの憧れはある。

 基本的に西洋崇拝というのは西洋の現実を崇拝しているわけではない。あくまで夢の中で理想化された西洋にすぎない、といえば元も子もないかもしれない。アメリカに憧れるのは、人種差別のない、女性やLGBTの解放された、互いに多様性を認め合う「人権大国」アメリカではあっても、現実のアメリカではない。

  もっとも、戦前の日本人はまだ雨にけぶる景色の情緒を十分理解していたのだろう。文部省唱歌の「城ヶ島の雨」は北原白秋の作詞だが、「利休鼠の雨が降る」のフレーズに日本の情緒を感じていたことだ。

  こうした雨の風情に最も大きな影響を与えたのは和辻哲郎の『風土』と戦後に書かれた『倫理学』の下巻だったかもしれない。

  日本の敗戦は湿っぽいモンスーン気候台風型が生んだ熱しやすく冷めやすい直情的な気質のせいで、それを変えるには空調付きの鉄筋コンクリート住宅が必要だとした。もちろんそれだけでなく、日本人の生活をことごとく西洋化させることで「一つの世界」を作ろうとした。(西洋化=一つの世界という所も勿論問題だ。)

  季候が気質に影響を与えるかについても、それほど大した根拠があるわけではない。少なくとも科学的根拠はなく、あくまで形而上学的な根拠にすぎない。つまり湿っぽい風土を表現する人間関係は、それが心の表現である以上、心も湿っぽくなるというものだ。湿っぽい景色を表現すると、心まで湿っぽくなるというその程度の論理だ。

 

 「人々はまづはじめに単なる自然を見出し、あとから類推によつてその中に霊を認めるといふのではなく、はじめから主体的なるものの表現としての『生ける自然』を見出したのであつた。」(『倫理学』下、p.146

 

とあるように、我々の風土は我々の主体的表現であり、自然の認識と感情の歓喜とを区別しない。

  これは存在そのものを人間が作るっているものだという極端な主観主義に基づいている。つまりこの世界は人間が作っているのであって、人間がいなければ世界は存在しないというものだ。

 

 「虫の音しげき秋の月夜の光景は、『物の哀れ』を感ぜしめる代表的なものとして日本人に親しいものであるが、しかし天文学的或は生物学的知識がどれほど進歩しても、そこから物の哀れの原因を説明することはできない。われわれの祖先が遠い昔からこの光景において無限性の感情に襲はれ、そこに人間存在の深い底、底なき底への接触を体験して、それを詩歌に表現したからこそ、その感じ方が云はば月夜の観照の框となつたのである。」(『倫理学』下、p.148

 

 前半の文章と後半の文章の間には論理的なつながりはない。物の哀れを生物学的に説明する必要はない。ただ物の哀れを表現するのにくり返し「虫の音しげき秋の月夜の光景」のイメージを用いて、その用例が蓄積されればそれが「言葉」になるにすぎない。

  もともと言葉に意味はない。人が喋ればそこに意味ができる。それと同様にもともと自然に意味はない、人がそれを通じて何かを表現することでそこに意味ができる。そしてその語り交わす場所が和辻哲郎の言う「人間存在」だというだけだ。

  我々が言葉を喋る時には過去の用例を参照する。それと同じように自然を表現する時に過去の作品を参照する。それだけのことにすぎない。それを繰り返すことで一つの文化圏が生じる。

  虫の音の哀れは古歌からその本意本情を学び、それを反復して用いることで維持されているだけで、日本人がそれをやめてしまったら、未来の我々の子孫は欧米人と同じような感覚で虫の音を聞くようになるだろう。

  和辻哲郎はこう続ける。

 

 「この場合の文化的共同は各人が同じ哀感を心のうちに抱くといふのみでなく、哀れさの沁みとほつた月夜の光景が各人の前に展開してゐるといふことである。従って月夜の光景そのものが文化的共同の中味にほかならない。かかる意味において自然の風景全体が文化的共同の中味になる。それは芭蕉の数多い句が表現してゐるやうに、実に豊富極まりのないものである。」(『倫理学』下、p.149

 

 各人は「同じ哀感」を心に描くわけではない。哀感は各自のそれまでの人生の記憶から引き出されるにすぎない。無垢な子供は月の悲しさを知らないし、自身に深く傷ついたりひどく苦しんだり思い悩んだりする経験がないなら、作品の理解もその程度のものになる。

  失恋したばかりの時は安っぽい流行歌でも涙が出て来たりするが、失恋経験のない者がどうしてその感情を理解できるだろうか。哀感は各自の記憶の中から引き出されるにすぎない。ただ、類似した体験を多くの人がしている場合のみ、それは「文化的共同」となる。

  芭蕉の古池の句に思い浮かべる「古池」は各自の記憶の中にある古池であって、「古池」という言葉が無から古池の映像を生じさせるのではない。それと同じように、虫の音の悲しさも各自の記憶の中にある感情で、虫の音を聞けば誰もが一様に同じ感情を想起させるというわけではない。

  文化的共同は類似した体験の共有であり、似たり寄ったりの生活をしている集団だと、それだけ共有する体験も似通ったものになる。そのため似たような風土の中で似たような生活をしていれば、そこに何となく文化的共同のようなものが生まれる。それはいわば、その集団内で通用する「あるある」だ。それが「風土」だ。

  そのため、風土は基本的に我々の行動を制約したり決定したりすることはない。ただ我々はその伝統を利用してコミュニケーションに活用しているだけだ。

  風土は我々が利用しているだけで、我々が風土に支配されることはない。利用すれば便利だから、日本社会の中で生きてゆくのにいろいろと役に立つから、だから用いるだけで、外国に行ったらそういうのはすぐに忘れる。

 まず基本的に日本の湿気の多さは日本の文化を決定するものではない。ただ湿気の多い風土が身近にあるため、それを通じて表現することが多いというだけの話だ。雨にけぶる景色を美しいと感じる感覚を否定する理由は何もない。とりあえずそこはまず明言しておくことにしよう。

  むしろ大事なのは、我々の御先祖様が湿気の多い日本の風景に込めた思いが何だったのかを思い出すことだ。

 

   *

 

 ここでまず見て行こうとするのは元禄三年刊去来・凡兆撰の『猿蓑』の中の一句だ。

 

 日の道や葵傾くさ月あめ     芭蕉

 

 これは「俳句」だろうか。あえてそう問う所から始めよう。

 

 まず芭蕉の時代に「俳句」という言葉はない。江戸時代の人にこの作品が何かと聞けば「発句」だと答えるだろう。そう、これは蕉翁が発句だ。

  中世に連歌というのが流行して、五七五の上句に七七の下句を付け、五七五七七の形で意味の通るようにしていくゲームで、その七七の付け句にまたべつの五七五を付ける。そしてまたそれに七七の句を付ける。それを繰り返して百句連ねるのを百韻と呼び、三十六句の短いものを歌仙と呼ぶ。

  連歌は古今集から新古今集に至るいわゆる八代集の言葉を用いて作られる。これを「雅語」という。それに対し江戸時代に急速に広まった、雅語に含まれないいわゆる「俗語」を交えて作られるものは「俳諧」と呼ばれた。

  俳諧の最初の句も連歌と同様「発句」と呼ぶ。芭蕉のこの句は当時としては「発句」と呼ばれていた。

  一方「俳句」は正岡子規の造語とされている。あるいは俳諧の発句を略して「俳句」と呼ぶことが、正岡子規以前にもあったのかもしれない。ただ、正岡子規は俳句を、俳諧から切り離された独自の短い詩と考えていた。そのため、俳句は基本的に七七の下句を付けることはない。あくまで五七五だけで独立した作品と考えなくてはならない。

 まあ、俳句にも自由律というのがあり、その中には、

 

 後ろ姿の時雨てゆくか      山頭火

 

のような七七の俳句もある。ただ、これとて五七五の上句を付けることはない。

 

   後ろ姿の時雨てゆくか

 猿もまた見えない山に声もなく

 

とでもされた日には、七七は発句どころかただの平句ということになってしまう。

  逆に発句であれば脇を付けることは何ら失礼なことではない。

 

   日の道や葵傾くさ月あめ

 しばし乾かす蓑笠の泥

 

とすることもできるし、ここから歌仙なり百韻なり付けて行くこともできる。蕉門の撰集でも古人の句を立句とした興行が行われている。

  付け句は今日でいうようなコラボレーションではない。付け句は前句をどのように解釈しても良く、いわば前句に人格はない。そのため、前句の作者は表記しないのが普通だ。

  葵と呼ばれる植物は今日の分類だといくつかある。

  古歌に詠まれる葵はフタバアオイのこととされていて、逢う日(あふひ)と掛けて用いられることが多い。『源氏物語』にも出て来る賀茂祭に飾る葵もこのフタバアオイで、徳川の紋所となる三つ葉葵もこのフタバアオイの変化したものだった。

  ただ、フタバアオイは背が高くならないので、「傾く」という表現には合っていない。そこでこの葵はタチアオイか日向葵(ひゅうがあおい)かということになる。

  芭蕉の時代から百年後になるが、曲亭馬琴編の『増補俳諧歳時記栞草』の「葵(あふひ)」の項には「草葵、タチ葵、此二名、亦蜀葵をいふ也」とある。

  ただ、「日向葵(ひうがあふひ/ひまはり」の項には、

 

 「[大和本草]一名、西番葵。花史には文菊と云。向日葵も漢名也。葉大に、高し。六月に花さく。頂上に只一花のみ。日につきてめぐる。花よからず、最下品也。只日につきてまはるを賞するのみ。[猿蓑]日の道や葵傾く五月雨 芭蕉」

 

とあり、この句の「葵」が向日葵のことだとされている。

  「ひまわり」という呼び名が広まったのは元禄の頃だと言われているが、この句が詠まれた元禄の三年には、まだ「ひまわり」という呼び名が一般的ではなく、「ひうがあふひ」と呼ばれていたなら、葵が向日葵のことだとしてもおかしくない。

  向日性で花が一斉に東へ向くことで知られている。

  元禄二年刊の『阿羅野』には、

 

 むぎからにしかるる里の葵かな  鈍可

 

の句があるが、この葵は藁に埋もれるような草の葵で、フタバアオイのことであろう。

  同じ『阿羅野』の、

 

   端午

 おも痩て葵付たる髪薄し     荷兮

 

の葵も髪に飾る賀茂祭の葵なので、フタバアオイのことと見ていい。

  この時代は葵というとフタバアオイを指すのが一般的で、傾く葵は当時としての目新しい題材だったと思われる。

  和歌にも詠まれた伝統的なフタバアオイではない葵を詠むには、何かしら葵に新しい意味を与える必要がある。太陽を追って傾き、東を向くという向日葵には寓意が必要だった。それは、

 

 ひがしより世ハおさまるき春日哉 梅盛

 

という梅盛編明暦二年(一六五六年)刊『口真似草』に見られる句で、都の遥か東の江戸に幕府を開いて戦国の世を収めた徳川の時代の平和をことほぐ句だ。

  芭蕉の句の寓意はわかりやすい。葵は徳川家の紋所で、日の道は天道、日本にあっては天照大神の子孫たる天孫の末裔としての天皇家を指す。偉大なる皇国の道に徳川家も天皇の方を向き、東(江戸)へと傾いて行く。

  子規の写生説を信じるなら、この句は単なる景色の句とすべきか、寓意を疵とする悪句にするかどちらかかもしれない。

  だが、芭蕉の時代には、『去来抄』に「賦比(ふひ)(きょう)は俳諧のみに限らず、吟詠の自然也」とあるように、葵を比喩として用いようが、何かを言い興すための暗示や象徴として用いようが、それは自然なことであり普通のことだった。比喩や暗示を疵として退けることはなかった。

  この句は「俳句」ではない。俳諧の一般的な規則に基づく「発句」である。

  「日の道(=天道)」はもちろん皇道だけを意味するのではない。儒教の天道でもあれば、仏教の大日如来の道でもある。中世の顕密仏教が衰退し、神仏習合だけが残った江戸時代の人の精神のなかでは、これらの道の根本は一つであり、同じものとみなされる。つまり、宗教・宗派に係わらず道はただ一つ。空に御天道(おてんと)(さま)が一つしかないように、別の道があるわけではない。

  皇道がこうしたすべての根本であり神仏儒道の道にすべてにかなうものである以上、それは自然そのままの道であり、ついに神道の明確な教義や戒律の定まらないまま近代に受け継がれてゆくことになる。

  それは蕉門の「風雅の誠」とも同一であり、千歳不易の道でもある。既に不易流行説を説いていた元禄三年の芭蕉であれば、日の道はまた俳諧の不易でもあった。俳諧は新味を命とし、新しい題材を求めつつも、その新味の象徴ともいえる日向葵の花は不易の日の道に傾いてゆく。

  ただ、よくよく見ると、この句は単純な天道の賛美の句ではない。その日の道は五月雨の分厚い陰鬱な雲の彼方で、我々はそれを見ることもなく、ただ葵の傾きだけでその痕跡を知る。

  不易の道は目の前に露わになっているのではない。雲の向こうにその存在を推測するのみだ。

  このことは芭蕉が元禄二年『奥の細道』の旅で、日光で詠んだこの句を彷彿させる。

 

 あらたうと青葉若葉の日の光   芭蕉

 

 この句もまた徳川家康東照宮大権現を祀った日光の威光は鬱蒼と茂る青葉若葉越しに見ることになる。

  この最終形だと日の光を浴びて青葉若葉も光輝いているという印象を持つかもしれない。写生説の立場だとそう読むところだろう。

  ただ、この句は曾良の『俳諧書留』に、

 

 あなたふと木下(やみ)も日の光    芭蕉

 

の原案が残っている。芭蕉の当初のイメージが鬱蒼と茂る葉によって生じる木下闇の中、木漏れ日の僅かに差し込んでくるイメージだったことが窺われる。

  ここでも日の道の眩い光は木々の茂りによって遠ざけられている。

  青葉若葉を瑞々しい生命の象徴として捉えるのは近代的というか、おそらく蕪村の時代以降の発想ではないかと思う。古歌で青葉というのは物を埋めて見えなくするという意味で用いられることが多い。

 

 世の中はいかがはせまししげ山の

     青葉の杉の験だになし

              よみ人しらず(拾遺集)

 

の「世の中」は恋雑に分類されているので男女の仲の意味になる。杉の験は訪ねてくる人に目印となる杉で、

 

 我が庵は三輪の山もと恋しくは

     とぶらひきませ杉立てる門

              よみ人しらず(古今集)

 

の歌もある。恋歌だと訪ねてくる男のための目印になる。

  常緑の杉は秋・冬・春だと目立つが、夏になるの他の木々の若葉に埋もれて見つけにくくなってしまう。それが「青葉」の本意だった。

 

 おしなべて梢青葉になりぬれば

     松の緑もわかれざりけり

              白河院(金葉集)

 

の青葉も同じように用いられている。

 

 みやこにはまだ青葉にて見しかとも

     もみぢ散りしく白川の関

              源頼政(千載集)

 

の歌は「みやこをば霞とともに発ちしかど」の能因法師の歌との類似が指摘される歌ではあるが、春の霞みに目出度さに秋風の悲しさの能因法師の歌が旅の苦しさを表すのに対し、鬱蒼と茂る悩ましげな青葉が美しい紅葉に変わるという趣向は遥かに陸奥の旅をポジティブに捉えている。

 青葉に限らず草の茂りにしてもそうだが、かつてそれは「荒れ果てた」という印象を与えていた。それは『万葉集』の額田王(ぬかたのおおきみ)の、

 

  「冬ごもり春さり来れば 鳴かざりし鳥も来鳴きぬ 咲かざりし花もさけども 山を茂み入りても取らず 草深み取りても見ず‥‥略‥‥」

 

の歌にも遡れる。夏の青葉若葉は春の花を埋めて行くもので、草が茂っては近づくことも困難にする。

  もっと古い所に遡るなら、『楚辞』「懐沙」の、

 

 滔々たる猛夏、草木莾々たり。

 懐を痛め永く哀しみ、汨として南土に徂く。

 

のような漢詩のイメージに遡れるかもしれない。

  草の茂りについては、『奥の細道』の平泉のあの有名な、

 

 夏草や(つはもの)どもが夢の跡      芭蕉

 

の句を思い浮かべることもできよう。蓬や葎の茂れる宿も荒れ果てたという意味で用いられる。

  青葉若葉は生命の瑞々しい輝きではあるが、その輝きも過剰になると、一枚でも多く葉を茂らそうと争う厳しい生存競争の姿となる。植物は春の珍しい花鳥の姿を埋めて行き、人は{|いくさ}をする。すべては生命の過剰が生み出す憂鬱だ。

 

   *

 

 「五月雨」が雲の向こうの日の道(天道)と結びつくという点で、こうした暗示の起源を連歌師宗長の発句、

 

 五月雨の雲はこなたの柳かな   宗長

 

や、宗長独吟の中の、

 

   いつまでとふる五月雨のかきくらし

 雲間の空もはるかにぞ見る    宗長

 

に遡ることもできるかもしれない。いずれも『宗長日記』の中に見られる。

  発句の方の「かな」は治定の「かな」で、明白な断定ではないが、「そうだろうか?」と疑いながらも「やはりそうだ」と肯定するニュアンスがある。そのため主観的な想像などにも「かな」は用いられる。

 

 木のもとに汁も鱠も桜かな    芭蕉

 

の句にしても汁・鱠=桜ということではない。汁や鱠に散った桜の花が舞い込めば、たとえ粗末な汁や鱠であってもそれは桜のような華やかな膳になるということで、「汁も鱠も桜なり」といった断定はできないが、私にとってはそれも「桜のようです」というニュアンスになる。

  宗長の発句も、五月雨は雲のこちら側の柳のようです、くらいの弱い主観的な断定のニュアンスになる。五月雨の雲=柳ではなく、五月雨があたかも柳のようですという比喩になる。

 

 宗長は以前に掛川の城内で、

 

 さみだれは雲井のきしの柳かな  宗長

 

の句を詠んでいる。雲井は雲の上のような御殿で、掛川城を指す。

  掛川城は文明の頃(一四六九年~一四八七年)に今川義忠によって築かれた城で、宗長は出家前は義忠とその息子の氏親に二代に渡って仕えていた。

  折から降ってくる五月雨は、こちら岸に生えている柳の木のようで、城は雲を隔てた向こう岸にあるかのようです、ということになる。

  折からの五月雨にけぶる掛川城の雄姿に、私なんぞには勿体ないと謙虚な気持ちを表した句といえよう。

  もちろん城にはお堀がある。そのお堀端には柳の木が植えられていたのだろう。柳の木はしばしば境界線に植えられる。

  柳というと道の辺の柳、川辺の柳、門前の柳というように境界線に植えられることの多い木で、

 

 山がつの片岡かけて占むる野の

     境に立てる玉の小柳

              西行法師(新古今集)

 

の歌にも詠まれている。

  他にも、

 

 小山田のさかひの柳一かたに

     ぬしさだまらすなびく春風

              正徹(草根集)

 明けわたる遠のさかひのふる柳

     猶しだりをの鳥のこゑかな

              正徹(草根集)

 

の歌があり、文和四年(一三五五年)の『文和千九第一百韻』の三十六句目にも、

 

   明ぬるか夜の界の鐘の音

 門は柳の奥の古寺        救済(きうせい)

 

の句もある。

  柳はその字の成り立ちからしても「卯」の木で、卯の方角(東)、卯の刻(夜明け)を表す。それは夜と昼との境の木で、同時に生と死、現世と異界との境界でもある。近世以降になると柳の下は幽霊の出る所にもなる。

  五月雨は「雲のこなたの柳」だ。それは雲を異界と現世との境界に見立てた上で、五月雨がその境界に立つ柳であるかのように、雨のような糸を垂らしている。

  柳は中世の和歌では雨に詠まれるもので、春雨の柳は、

 

 梅の花紅匂ふ夕暮れに

     柳なびきて春雨ぞ降る

              京極為兼(玉葉集)

 広沢の池の堤の柳かげ

     緑も深く春雨ぞふる

              藤原為家(玉葉集)

 

などの歌がある。後者の「春雨」は比喩とも取れるもので、後の、

 

 八九間空で雨降る柳かな     芭蕉

 

の句にも相通じる。

 この句は支考の『梟日記』に、

 

 「木曾塚の舊草にありて、ある人此句をとふ。曰、見難し。この柳は白壁の土蔵の間か、檜皮ぶきのそりより片枝うたれてさし出たるが、八九軒もそらにひろごりて、春雨の降ふらぬけしきならんと申たれば、翁は障子のあなたよりこなたを見おこして、さりや大佛のあたりにて、かゝる柳を見をきたると申されしが」

 

とあり、奈良の大仏の辺りに実際こういう柳があったようだ。白壁の土蔵の間から通りへと枝を垂らして、本当に八九間雨の中を歩いているような気分になる柳で、知る人はすぐ「あの柳か」とわかったようだ。

  柳が雨のようだというこの句とは逆に、宗長の句は雨がまるで雲のこちら側の柳のようだ、という意味になる。それは一方では現世の鬱々たる現実に対して、雲の向こうに遥かな彼岸を暗示させる。

  それが独吟の中で、

 

   いつまでとふる五月雨のかきくらし

 雲間の空もはるかにぞ見る    宗長

 

の句になって行く。

  五月雨は夏の柳の葉の茂りのように鬱陶しいが、それは此岸と彼岸との境界を表すものであり、その境界の向こうには夏の眩い光がある。五月雨の向こうには太陽の道が、天道がある。

  宗長は戦国の世にあって、下克上の争いに明け暮れる現実を五月雨に喩え、雲の上の見えない天道を歎いたのであろう。

  そしてまた、芭蕉の「日の道や」の句も、宗長の句の本意を受け継いで、「向日葵」という新しい題材で言い換えたのではなかったか。

  連歌では基本的には八代集の時代の古い言葉を使わなくてはならないので、同じ言葉の組み合わせを変えることで、五月雨の柳に新しい意味を見出して行く。俳諧の場合はそれを俗語や卑俗な事柄で置き換えて表現する。

 

   *

 

 中世の人の間には、保元・平治の乱以降は乱世という認識があった。朝廷の権力が衰え、武家が台頭してくるという所で、常に(いくさ)や暗殺など血なまぐさい事件が繰り返されてきた。(いくさ)の日常化である。

  平安時代の権力闘争が、基本的に皇統の継承順位がきちんと守られ、ただ娘の入内をめぐる恋の闘争に明け暮れていたのに対し、武家社会は家督を廻って親子兄弟でも殺しあう。

  生産力が長期的にほとんど伸びることのなかった時代は、国土で養える人口も限られていた。そこに多産多死社会の宿命で、子供の死亡率が高い分を補うべく、常に過剰に子供が生まれてくる。

  上は天皇の座から、征夷大将軍、諸大名、その下の領主にしても、更に下々の農家に至るまで、家督を継げるのは一人しかいない。そこに兄弟がいれば争いが生じる。兄弟が幼ければ、伯父や従弟までもが参戦してくる。

  この広大な宇宙空間の中の地球という小さな星。この小さな船には定員がある。そこに乗り込める人の数も限られている。みんなで仲良く一つの船に乗れば、この船は沈んでしまうとなると、泣く泣く命の重さに順位をつけ、いわばトリアージを行わなくてはならない。

  人間が本来平等な権利を持つべきであるなら、このトリアージは基本的に不条理だ。ただ、近代以前の人達はこの不条理を受け入れて生きてきた。

  争いを避けるためには、どんな不条理なものであろうと掟は絶対であり、その優先順位を守ることで秩序は保たれる。誰もが同じように生きようとして、その掟を破るようになれば、親子兄弟でも血で血を洗う争いになる。

  それが天だった。芭蕉は『野ざらし紀行』の旅の途中に富士川の捨子を見て、

 

 「猿を聞く人捨子に秋の風いかに

 いかにぞや、汝ちちに{|にく}まれたるか、母にうとまれたるか。ちちは汝を悪むにあらじ、母は汝をうとむにあらじ。唯これ天にして、汝の(さが)のつたなきをなけ。」

 

と書き記す。「唯これ天にして」は多産多死で常に人口の増加圧にさらされながらも生産力は一定で、多くの人口があぶれて行く、それに対してなすすべがないことへの嘆きの叫びだった。

  それは公界の住人についても同じだった。家督を継げず、土地を持てない人々は、まずはお寺がその受け皿になる。中世の顕密仏教はそうした余剰人口の受け皿の側面を持っていた。おそらく中世ヨーロッパの教会も似たような役割を持っていたと思われる。

  彼らはまず余剰人口を養わなくてはならない。そのためには寄付を集めなくてはならない。宗教は余剰人口を養うための寄付を集める福祉団体を兼ねていた。

  ただ、その公界も無限の人口を養うことなんてできるはずもない。どこへ行っても繰り返されるのは排除のための争いだ。

  夏は生命が過剰なるが故に相争い、荒れ果てて行く季節だ。天はただ五月雨の雲の向こうでそれを見ている。人はただ天を恐れ、そしてただ争いを可能な限り抑えるべく、身を慎み、来世での救済を思う。それがすべての時代だった。

2、顕と密との空間

 元来、東アジアの民間信仰の中に超越的な絶対者という思想はなかったし、それがロゴスや幾何学的秩序の明証性と結びつくことはなかった。また、それが「天の父」として父権と結びつくこともなかった。

  日本は多神教で神々のパワーバランスによって成り立ち、大地は伊弉諾・伊弉冉のセックスによって生まれた。

  その意味では日本は西洋のロゴス中心主義(logo-sentrismes)ともペニス中心主義(phalo-sentrismes)とも縁がない。

  自然はむしろ、不断に生まれては消えてゆく個物の連続で、ただそこには反復されるパターンが見い出されるだけだった。そこには生命の循環だけがあった。

  この不断に生み出されては死んでゆく人知を超えた計り知れない作用こそが、「鬼神」と呼ばれるものだった。

  神は絶対的な善ではないし、鬼も絶対的な悪ではない。それは人間の善悪の尺度を超えていた。

  鬼というのは本来西洋の悪魔のようなものではなかった。鬼というのは(こも)り神を意味する(おん)()()となったもので、一方では人間に禍をもたらす荒ぶる神ではあるが、もう一方で鬼も持つ強力な霊力を人々は崇拝し、善に転じるものと考えてきた。それはあくまで、目に見える神に対して見えない神をいうにすぎなかった。

  『易経』「繋辞上伝」の「陰陽不測、これを神と謂う」という言葉は、このことを端的に表している。予期できぬもの、合理的に説明できぬもの、陰陽の人知を超えたはかり知れぬ力を一般的に神として言い表している、

  『詩経』「大雅」の「蕩之什」にも「神の(いた)るや、(はか)る可からず、(いわん)(いと)ふ可けんや」とあり、『礼記』「楽記」に「明には即ち礼楽あり。幽には即ち鬼神あり」とあり、これらも同様で、神とは様々な自然現象の背後で働く諸力のことにほかならなかった。

  朱子によれば、「鬼神はただ気なり。屈伸往来するものは気なり。天地の間、気に非ざるなし。雨風露雷、日月昼夜はこれを鬼神の迹なり。」だという。「陰陽只是れ一気」(類語、巻六十五、陳淳禄)だから、陰陽不測は気の不測であり、測られざる気が鬼神ということになる。

  朱子学の格物窮理はまさにこうした神妙な気の作用に付着する「理」の解明であり、その意味では鬼神の通るみちすじ(理)の学に他ならなかった。

  「鬼神はただ気なり」という言葉は無神論ではなく、むしろ汎鬼神論として捉えるべきであろう。子安宣邦も『鬼神論』の中で、「朱子にあっては鬼神が自然化されるとともに、自然も鬼神化されるのである」と指摘している。

  なお、程伊川の言葉に「鬼神は、天地の巧用にして、造化の迹なり」とあるように、鬼神は造化の現れであり、鬼神=陰陽は乾坤の変を引き起こすものであるから、芭蕉の言う「造化に従い造化に帰る」も「乾坤の変は風雅の種也」も、風雅が鬼神としての「道祖神」に基づくものであることと同じに考えていい。

  本居宣長の『古事記伝』でいう所の「尋常(よのつね)ならずすぐれた徳のありて、可畏(かしこ)き者を迦微(かみ)とは云なり」という言葉も、基本的に言っていることは同じだ。ただ、測り難いものを「陰陽」と呼ぶかどうかの違いにすぎない。「陰陽」を(から)(ごころ)として退けた上で、測り難い者、世の常ならざるものを本居宣長は「かみ」と呼ぶ。

  藤村久和によれば、アイヌの「カムイ」も、人間をあらわす「アイヌ」や人間(アイヌ)の支配下にある木や金属、石、繊維、道具類に対して、人間の支配できないものを表すもので、自然現象、死んだ人、動植物、火、家、船などが含まれるという。

  カムイは上代日本語の迦微(かむい)と語源を一にすると思われ、おそらく、古代の日本でも神はそのような概念で、さらには古代中国の鬼神の概念も似たような民間信仰を基に成立したのであろう。

  伊藤幹治は『神観念の展開』の中で、日本の国家以前の信仰を、東南アジアのピー(phi)と呼ばれる動植物や鉱物にひそむ聖霊や、人間と稲に限ってひそむ特殊なピーであるところのクワン(khwan)のようなものだったと考え、やがて村落社会が部族社会、国家という具合に進化するにつれ、こうした小さな神々はより大きな神々によって統合され、階層的に共存することになったという。

  ピーは神、カムイに、クワンは(たま)、ラマトゥ(アイヌ語)に近いものと思われる。人魂(ひとだま)(いな)(だま)と言うからだ。(あるいはクワン(khwan)は(グウォン)と同源か。)

 民間信仰の基礎にあるのは、こうした形のない神、動植物などの仮の姿であらわれる神であり、人格神はむしろ後から生じた外来性の強いものと思われる。

  人格神は、あるいは英雄崇拝のような形で古くから存在していたかもしれない。しかし、社会が階層化され国家が生じてくると、人間が人間を支配するという現実を反映して、自然の神々とともに人間を支配する人格神の観念が生じて来る。自然神が元来、人間が自然生態系に全面的に依存した生活をしていた頃に、自然が我々を養っているとともに、自然の変化を恐れる所から生じたように、国家が生じると人々は支配者に依存した生活を行うようになるとともに、支配者の予期せぬ暴力を恐れるようになる。

  人々は自然の神々にだけでなく、その乱暴な為政者を、自ら支配できぬ者、測り難いものの領域に付け加えなくてはならなかったのだろう。

  こうした庶民の感情を利用した形で、古代の祭祀国家は誕生する。祭祀国家はこれまで民衆がそれぞれ独自に持っていた神話や祭祀や信仰の体系を独占しようと試みる。

  しかし、こうした試みには大きな困難が従う。というのも、神話や信仰が本来民衆の間にあったばかりでなく、こうしたものは民衆が不断に語り継ぎ、絶えず再生産することによって成り立つもので、しかも神話を持たぬ民族がないように、こうしたものの生成は多分に身体的な性質を持っている。

  国家がいかに一つの神話を強制したとしても、それが民衆の間に語り継がれてゆくうちに、結局民衆の都合のいいように変形されたり、様々な異聞などのバリエーションが生じることになる。

  まして、今日のような義務教育のシステムもなければ高度な官僚組織による警察機構もなかった時代だ。どうやって一つの神話を民衆に吹き込んで、それを厳密に守らせることが出来ただろうか。

  そういう意味ではいわゆる「記紀神話」は支配者の都合のいいような神話の強制ではなかったし、そのようなことは不可能だったと言って良い。むしろ統一国家としての諸神話の、かなり妥協的な統合にすぎなかったと言って良い。

  そういうわけで、国家はむしろ、自ら神話を語るのではなく、むしろ神話に優越するような特権的な思考様式、つまり「学問」を発明せざるを得なくなる。

 

   *

 

 人類が、否、生命が誕生して以来といった方が良いか、最大難問は有限な生息域に無限の子孫の繁栄はないということだった。大地や自然生態系のもたらす食料は限られている。だが、常にそれを超える数の子供達が生まれてくる。そこで生存競争が生じる。

  人間と言えども例外ではない。人間は技術革新によって、同じ面積の土地でも狩猟採集をやめて農耕を行うことで生産力を高め、土地あたりの養える定員を増やすことが出来る。ただそれも限界がある。

  農業開始時のような生産性を高めるような画期的な技術革新は滅多に起こるものではなかった。人類の長い歴史は、限られた土地の限られた生産物を奪い合う戦争の歴史だった。それはいわば人がまだ猿だった時代から今日に至るまで延々と続いていると言って良い。

  第二次大戦後のここ七十七年間、先進諸国が戦火を経験せずに生きられたのは奇跡だった。その軌跡は生産性の飛躍的な向上と少子化の二つが重なることにより、生産物が常に余る程あるにもかかわらず人口がほとんど増えないため、争う理由がなくなっただけのことだった。

  例えていえば人は広大な宇宙に浮かぶ地球という小さな船で生活しているが、この船には「定員」があるということだ。

  この定員は技術革新によって生産性が高まれば、その分だけ座席を増やすことができる。それでも有限であることには変わりない。人口が増え続ける限り、人は生存競争から解放されることはない。

  古代の人はどうやってこの争いを回避したかというと、少なくとも同じ文化圏であれば共通のルールを作り、生存権の優先順位を厳密な掟として守ってゆくことができた。これは一種のトリアージだ。

  例えば長子相続という制度は長子に生存の優先権を与え、二男以下その優先順位を下げてゆくということだ。言ってみれば、親と同じような畑を所有する生活はできません、ということだ。他に食ってゆく手段がなければ、あとはのたれ死ぬだけだ。

  あるいは近隣の集落と定期的に儀式的な闘争を行い、負ければ死ぬ、そうやって順位を決める方法もある。

  いずれにせよ本来平等であるべき生存権に順位を付けるというのは、順位を下げられた当人からすれば不条理なもので、だからといって生まれてきた子供みんなに田畑を配分していたのでは、一人当たりの田畑は小さくなり、最終的にみんな餓死することになる。そのためどんな不条理な掟でも守らせなくてはならない。

  そこに合理的な思想を打ち立てることはできない。不条理だが絶対的な掟が必要になる。その答えが「神」だった。

  みんな一緒にいつまでも争わずに平和に暮らしていければそれが一番なのに、なぜかそれができない。なぜなのか、なんでいつも争うことを運命づけられているのか。何でそんな運命が存在するのか、それは人知では測り難い、人知を超える力があるからだ。そこから神話が発生し、やがてそれは宗教へと発展する。

  どんな宗教も基本は一つだ。それは人知を超えた不条理な運命を受け入れよ、ということだ。そのために、神を畏れ、身を慎めということだ。これがすべての宗教の根底になる。

  今なら我々はそれを知ることができる。それは「生存競争」なのだということを。未だに多くの宗教や社会主義思想はそれを認めようとしないが。だがはっきり言おう、すべての戦争の根源は単純に、生存可能な人数を越えて人口が増えようとするからだと。

 

   *

 

 山折哲雄は『カミ─その変容と展開』の中で、日本の多神教をギリシャやインドの「目に見える神々」の多神教と区別して、「目に見えない神々」の多神教と呼んでいる。つまり、日本の神々は人格神であっても人間としての肉体性を欠いていて、「受肉の過程がそこではきわめて未成熟の段階にあった」というのである。

  日本に限らず、中国でも仏教の影響を受ける以前では、神像を人間の形に描くことは少なかった。夏王朝を開いた禹は人面魚で表されているし、伏羲や女媧は竜の形で表されている。王権を神の姿で示そうとしたとき、自然神と人間の中間のような動物を発明した所が中国の神の大きな特徴だったようだ。

  そして、それが完全な人間の形を得る前に、早々と神話を断念し、「易」や陰陽五行の学による支配へと移行していったことが、東アジアの神々の受肉を不完全にしたのだろう。さらに、一度放棄したはずの神々の受肉が仏教伝来によって再開され、そこに外来の「目に見える神々」と固有の「目に見えない神々」とが共存する形になった。

  中国では仏教の影響から道教の神々が作られていったが、日本もまた道教の影響を受けながらも、道家は老荘思想に留まり、目に見える神々は浸透しなかった。こうした神々はなくても、日本では何よりも生身の人間の王朝に「天皇大帝」という道教の神に由来する名が与えられていた。

  平安時代には仏教に倣って若干の神像も作られたが、その後大きく発展することはなかく、神道の神々の見える化は不十分なままに終わった。

  山折哲雄によれば、平安末になると二つの多神教(神道と仏教)は相互に互いの領域に入り込み、仏像の秘仏化と神像の制作という現象が生じてきたという。こうして、古代の現世と異界とが相互に行き交う世界観から顕と密との二つの領域を厳密に区別して、両者の根源的一致を説く顕と密との空間が生まれることとなった。

  本来、目に見える神々の体系であった仏教と、見えない神々の体系であった神道とが、ともに可視の世界と不可視な世界、顕の世界と密の世界を持つことによって急速に融合してゆくことになり、そこに一つの共通した知の場所が形成された。

  もっともそれは仏教を中心に起こってきたもので、仏教の中の顕教と密教との究極的一致を軸として、神道や儒教や陰陽五行思想を取り込む形で完成されていった。黒田俊雄は『日本中世の社会と密教』の中で、中世の知の根底を顕密仏教に求めている。

 

 「中世の宗教を〝宗派史観〟という先入見なしに、事実と資料に即して見るとき、中世的な仏教を代表するものとして改めて見直されなければならないのは、むしろ『旧仏教』であることが明らかになってくる。それも個々の宗派でなく、それら諸宗が『兼学・兼修・融合』の形で─中世でひろく用いられた用語でいえば『顕・密』の仏教として─存在していたことに気付くのである。さらにそれは、仏教経典にみられる狭義の仏教だけでなく、いわゆる『神道』(神祇信仰)や陰陽道その他の民俗信仰もまた『顕密』仏教と無関係あるいは異質なものとして存在していたのではなく、その一部に組み込まれていたものであることが明らかになってくる。むしろ、今日ひろく見られる日本の〝民俗的〟な信仰・風習の基本は、この顕密仏教の成熟とともにできあがり、仏教の『日本化』は、顕密仏教によって定着したといってよい。」

 

 いわば、本地垂迹説に基づいた神仏混交の様々な習慣、現世的願望を神に託し死後のことを仏教に求めるような信仰の様式は、顕密仏教から来たと言って良いのであろう。

  ここでは、見えない領域、本来鬼神の場所であった異界や霊界を仏教に明け渡し、神道をこうした隠り神の場所としてではなく、あきつ神、即ち朝廷の持つ世俗的な権威の場所として位置づけられ、神道の本質は仏教の側から説明されていた。

 

 「『神道』は世俗的な表象をもつだけでなく、当然世俗的な機能(役割)も備えていた。世俗的な権威の神秘化以外にいかなる意味もない大嘗会・神今食その他の宮廷の祭儀は、仏の法が遍満するこの世界の中の世俗的秘儀であって、〝神道〟が仏教と雑居していたり、そのなかで孤塁を守っていたりしていたわけではなかった。」

 

 しかし、仏が本地で神が垂迹だとしても、両者は本来固有の顕と密を持つ。両部神道ではこうした固有の三つの部分を密教の教義で解釈することによって、その実際の異なる顕現の仕方を方便によるものとする。

  鎌倉時代に成立した『中臣祓訓解』に、

 

 「内外詞異なると雖も、化度の方便に同じく、神は則ち諸仏の魂、仏は則ち諸神の性なり。」

 

とある通りである。

  それよりかなり遅れて、吉田兼倶(一四三五~一五一一)の『唯一神道名法要集』は、本地垂迹そのものを一つの顕として、その背後に陰陽五行思想による「陰陽不測の元々」を真の本地として立てようと試みる。

 

 「顕密の二義とは、一には顕露の顕、仏を以て本地と為し、神を以て垂迹と為す。顕露の顕とは浅略の義也。隠幽の密とは深秘の義也。今、仏を以て本地と為すは、是浅略の一義也。」

 

 中世の知が顕密仏教の支配下にあったとはいえ、顕密仏教と国家との関係が揺らいで来れば、そこに神儒それぞれが自らの固有の顕と密を語ることが可能になる。唯一神道はそうした可能性の一つの表れだったし、江戸時代前半の儒学もこうした場所に成立することになった。

  「鬼神論」が十八世紀半ばまでの儒学で重要な意味を持ち、林羅山の「理当心地神道」や山崎闇斎の「垂加神道」のように、しばしば積極的に自ら神道の言説を構成するに至らせたのは、仏教に対抗するような形で、自ら「密」の領域を支配する必要があったからだ。

  江戸幕府という世俗の権力の儒学を顕密兼ね備えた完全な知とするには、陰陽不測の鬼神を儒家の本地として立てる必要があった。

  それゆえ、鬼神を「密」にふさわしく完全な沈黙の中に置こうとする言説(伊藤仁斎)はあっても、正面切って鬼神の存在を否定することはなかった。

  自然の背後に潜む隠されたもの、密なるものは、本来自ら顕れ出るものではない。顕れたとしても偶発的にすぎない。

  そのため、古代にあっては、そこに様々な想像によって神話の編纂・統一が試みられたが、中世にあって想像によるこうした密の部分の構造化を排除してゆくことになる。

  学は十分信頼するに足る「故実」によらなくてはならない。

  そしてそれを知として体系化する際にも、決して恣意的に行って良いものではなく、あくまで「公事」の原則に則らなくてはならない。

  黒田俊雄が、

 

 「貴族的な知識体系は『公事』主義の体系である。このなかには、いろいろな知識が含まれているが、全体は宮廷を中心とする国家的儀礼と官衙・国衙の執政や事務を意味する『公事』の原則でおおわれている。」

 

と言うように、故実の学は公事に基づく「部立」によって語られるのが普通だった。

  ちょうど和歌の春夏秋冬、羇旅、離別、恋などの部立のように宮廷行事に結び付けられるか、中国の類書の様式に倣って、天地・人倫・形体・疾病・術芸から果蓏・草木に至るまで「目録」としてまとめられていた。

  こうした部立の仕方は江戸前期の儒学の書にも見られる。

  この時代の学問は、故実と部立をもって完結するのではない。故実によって得られる知識はごくわずかで、それを部立して便覧にする事は、かえって公事のマニュアル対応を招くことになる。現実の変化してやまない情勢に対応するには、これがあくまで便宜的なものであり、現実の場面では機知によって補完されなくてはならない。

  中世の学が「故実」の学となることによって、学は必然的に経典や古典の解釈に終始することになるが、それはマイナスな面ばかりではない。そこには文献学的な合理主義も生じて来るし、解釈のさまざまなバリエーションの中で、十分独創性を発揮する余地もある。

  ちょうど芭蕉が古典の本意本情の解釈のもとに十分独創が可能だったように、あるいは江戸時代前期の儒者たちが同じ四書五経から様々な独創的な学を成し得たように、決して因習に縛られて身動きが取れない、といったようなものではなかった。

  故実の学の成立の第一歩は、「密」の部分に自ら神話を作ろうとせず、「顕」われた徴についてのみ解釈を行う所から始まる。

  従って、言葉は隠された真実を直接示すものではない。言葉の真実は、それが或る状況で現世的な要求に従って語られたという所にあり、言葉は真理の仮の姿にすぎない。真理はあくまで行間から汲み取るべきものであり、真理そのものは言い表すことができない。それは以心伝心を以て子弟間で受け継がれるものにすぎない。

  中世にあって、やたらに秘伝口伝の類が多いのは、真理が決して言葉による独立した体系の中にあるのではなく、言葉になる以前のもの、言葉として成立する過程に求められていたからだ。それゆえ、中世の知識人にとって、知識の本来の在り方は論理を杓子定規に振り回す所にはなく、むしろその場に応じた機知が働くかどうかにある。

  和歌や連歌にしても、ただ部立に基づいて機械的に文字を組み合わせて行くのではなく、そこに機知がなければならない。江戸前期の儒学でも対話形式のものが多く書かれているのは、実際の問題にどう適用するかを示さなくてはならないからだ。

  たとえば伊藤仁斎の主著といわれる『論語古義』『孟子古義』『語孟字義』『中庸発揮』は四書の語句を項目別に解説した部立ての学で、童子の質問に答えていく形式でつづられた『童子問』は機知の部分に当たる。

  鎌倉・室町時代の学問は、まさに黒田俊雄の言うように「顕密主義」の学だったし、江戸の朱子学・古学・古文辞学にせよ、主流・反主流の別はあっても官学を志向するものだった。

  これに対し、十八世紀の中頃のエピステーメの転換期を迎えると、雨後の筍のように諸学が起り、ついに寛政異学の禁が出るに及んだ。

  こうした新しい学問の基本には「物」に基づく学の再編ということがあった。故実ではなく「物」に徴を取れ、ということで、国学もまた「ものまなび」を志向した。たとえば賀茂真淵は地球が丸いことの論拠に露の玉が丸くなることを挙げている。故実ではなく「物」を根拠として学問を再編しようとした。

  こうした動きは蘭学の事始めともなり、近代科学に繋がって行くし、俳諧においても描写が重視されるようになり、子規の近代俳句の先駆となる。

 

   *

 

 十八世紀中ごろより前の故実・部立・機知という知のあり方から、確かに西洋近代のような科学の体系が発展することは期待できない。

  しかし、知を言語以前のものとすることによって、真理は固有の言語(日本語、中国語、サンスクリット語等)を越えて不変化される可能性を得ることにもなる。(こうした普遍性を十八世紀後半の本居宣長は否定した。)

  こうした普遍化は科学が一種の人工言語として普遍性を獲得するような仕方ではなく、すべての日常的な言表の背後にある身体的なものに立ち返るという意味での普遍化だった。いわば、様々な事物が表象される際の、その過程の普遍性だ。

  そこから、仏教であれ儒教であれ老荘思想であれ神道であれ、その根底が等しいことが認識され、相互に融合するような学のあり方が可能になる。

  それを最も端的に表すのが伝統絵画の『三酸図』という画題で、『精選版 日本国語大辞典』によれば、「道教の黄庭堅、儒教の蘇東坡が金山寺の仏印禅師をたずねたとき、桃花酸(とうかさん)という酢をなめ、三人とも眉をひそめたという故事を描いた図」で、「老子、孔子、釈迦として描くこともある。」三教の根底が身体的レベルで同一であることを表している。

  そこには十八世紀後半から今日に至るまで様々な形で現れる「日本固有のもの」への執着は見られない。こうした身体的普遍性の認識により、中世の知は一つの頂点を極めることになった。

  中世が生んだ能や茶道やその他さまざまな芸術、工芸は、今でも世界中の人々を魅了する力がある。連歌にしても近代日本での低評価とはうらはらに、海外から注目を集めている。ただ、残念ながらそれをきちんと説明できる日本人がいない。

  結局それは近代の我々には決して容易に到達することのできない世界なのである。

  故実の学の対象が国語や民族を超えた普遍的なものである以上、日本固有のものを一つの固有な構造として表象することはない。

  たとえば『古事記』や『日本書紀』を読むにしても、そこに固有の神話体系を見ることはない。それはあくまで徴にすぎず、断片的に密なるものが顕現する場所にすぎず、神道論はあくまでそれを拾い上げ、記紀のテキストの文脈を越え、我が国固有のものという枠に入ることもないまま、仏教や儒教や陰陽五行思想から読み取られうる徴と同じ次元に配列される。

  たとえば『大和葛城宝山記』は天照大神が{大日孁貴尊|おほひるめのみこと}とも言うことについてこう説明している。

 

 「日は則ち大毘盧遮那如来、智慧月光の応変也。梵音の毘盧遮那、是れ日の別名なり。即ち暗きを除き、遍く照らすの義也。日とは天の号なり。故に常住の日光と世間の日光と、法性の体に於いて相似たる義有り。故に、大日孁貴を天照大神と名づくる也。」

 

 ヒルメとビルシャナとの音の類似は語源的な関係を説明するわけではない。この二つの語の音声はあくまで隠された世界の謎を解く一つの徴にすぎない。こうした徴の裏付けでもって、実質的に大日如来と天照大神とを結びつけようと試みる。それによって、仏教と神道の根源的な一致を試みることになる。

  そのため、その少し後の方に今度は、

 

 「日は則ち自性法身の応化の如来にして、常住の日光也。道徳の妙、陰陽の位なり。之に因りて日は則ち陽の精上りて日と為る。」

 

と陰陽に結びつけられていても何ら不思議はない。神仏に通じるものは、当然陰陽五行にも通じなくてはならないし、それらの徴をもとに真理を普遍的なものとして構成しなくてはならなかった。

  彼らがキリスト教やギリシャ神話を知ったなら、日はさらに天上の神やヘリオス・アポロンに結び付けて、その普遍性を証明することになったことだろう。この時代の人の興味はあくまで普遍性にあり、固有性にはなかった。

  ある意味、あらゆる宗教の根底は一つだという考え方は、今の日本人にも深く根差している。宗教ではないが、ここにマルクスを含めることもある。水木しげるの『悪魔くん』にもこうした考え方が見られる。

 

   *

 

 見ることのできない隠された真理を直接語ることのできない沈黙の場として保ち、言説はただ故実をもとに公事に基づいて部立され、さらにそのマニュアルに囚われずに臨機応変に対処できるような機知によって完成する中世の(エピステーメ)に、和歌・連歌・俳諧もまた従うことになる。

  歌学は近代文学とは違い、個人的なものとして社会道徳と対立することもなければ、感性的なものとして理論的なものの対極に位置することもない。

  あくまで見えない真理を古典の本意本情を踏まえつつ、機知に富んだ表現でもってそれを表し、公事を基礎として部立されるべきものだった。

  中世の和歌は題詠によって作られることが多く、いわば古典や漢詩に基づいた題に、いかにその場に合った歌を詠むかが重要になる。こうした当座の機知の重視は連歌という形式を得ることによって一つの頂点に達する。

  連歌には複雑な規則があり、それを詳しく説明しようとすれば一冊の本になってしまうだろう。

  たとえば、一句一句はそれぞれ春夏秋冬、恋、述懐、神祇、釈教、羇旅、哀傷などに分類され、何句まで続けていいか、間を開ける場合は何句隔てなくてはならないかが定められている。

  さらには一語一語にも季語だけでなく、山類、水辺、居所、衣裳、植物(草類・木類)、獣類、鳥類、虫類、光物、降物、聳物などの属性が定められている。そして、それぞれに関して、一座(百韻なら百句)の中で何回使用できるかが定められ、同じ属性同士だと何句隔てなくてはいけないかが定められている。

  こうしたルールは機知を競うためのゲームとして必要とされるもので、今日のゲームでも飽きずにプレイするためには適度な難易度が設定されるのと同じ理屈でもある。

  スポーツのルールにしても、あまりに簡単に点が入るようだとつまらないし、どうやっても点が入らないくらい難しければゲームにならない。

  連歌のルールは機知を競うための難度度設定として、長年に渡って多くの人がプレイを繰り返す中で自然と定まっていったもので、誰かが独断的に定めたものではない。

  また、ルールはあくまでゲームを面白くするためのもので、判定は必ずしも厳密ではない。ある程度審判の判断によって小さな違反は流したりするようなサッカーのルールに近いかもしれない。

  こうしたルールのあるゲームを通じて、連歌の参加者(連衆)は古歌や故実に通暁し、その背後にある本意本情を学んでゆくことになる。

  俳諧の場合はかなり規則は緩くなるが、機知を重視する伝統を受け継いでいる。

  部立の重視ということも、勅撰集や連歌の準勅撰集とされる『菟玖波集』『新撰菟玖波集』はもとより、蕉門の撰集にもはっきりと見てとれる。

  たとえば芭蕉七部集の一つ『阿羅野』は、

 

 巻之一、花、郭公、月、雪

 巻之二、歳旦、初春、仲春、暮春

 巻之三、初夏、仲夏、暮夏

 巻之四、初秋、中秋、暮秋

 巻之五、初冬、仲冬、歳暮

 巻之六、雑

 巻之七、名所、旅、述懐、恋、無常

 巻之八、釈教、神祇、祝

 

というように、花鳥雪月を感動に飾ったり、多少の独自性は出しているものの、概ね勅撰集に準じた部立がなされている。

  撰集『猿蓑』も芭蕉の「初しぐれ猿も小蓑をほしげ也」の句を巻頭に持ってきた関係から、冬、夏、秋、春の順に並ぶが、作者や制作年代を分けることなく、こうした季節の部立に従っている。

  もっとも談林系には部立のないものもあり、一概には言えないが、和歌連歌と同等の風流を志す蕉門では、概ね古典に準じた部立がなされている。

  『詩経』「大序」に、

 

 「詩者志之所之也。在心為志、發言為詩。情動於中、而形於言。」

 (詩は志すところのものである。心にあるのを志しといい、言葉にして発すれば詩になる。感情が心の中を動き、言葉となって形を表わす。)

 

とあるように、詩は心に思う志を表現するもので、いわば志す理想があって、そこから突き動かされる感情が詩になる。理想がなければ単なる私情にすぎない。

  故実から学ばなくてはならないのは古人の理想であり、それをふまえることによって私情を離れ、詩歌の持つ公的役割を果たすことができる。

  鎌倉・室町時代にあって、こうした本情は顕密仏教の真理と結びつく必要があった。

  西行が明恵上人に語ったと言われている唯一の歌論も、仏教の顕と密との関係に結び付けられている。

 

 「西行法師つねに来りて物語して云はく、わが歌を詠むは、遙かに{尋常|よのつね}に異なり、華・郭公・月・雪すべて万物の興にむかひても、およそあらゆる相みなこれ虚妄なること眼に遮り耳に満てり。また詠み出すところの言句はみな真言にあらずや。華を詠むとも実に華と思ふことなく、月を詠ずれども実に月とも思はず、ただかくのごとくして、縁に随ひ興に随ひ詠みおくところなり。紅虹なたなびけば虚空をいろどれるに似たり。白日かがやけば虚空明らかなるに似たり。然れども虚空はもと明らかなるものにもあらず、また、いろどれるにもあらず。我またこの虚空のごとくなる心の上において、種々の風情をいろどるといへどもさらに蹤跡なし。この歌すなはちこれ如来の新の形体なり。されば一首詠み出でては一体の仏像を造る思ひをなし、一句を思ひ続けては秘密の真言を唱ふるに同じ。われこの歌によりて法を得ることあり。もしここに至らずして、みだりにこの道を学ばば邪路に入るべしと云々。」

 

 花も鳥も月も雪も、目に映る物は仮象にすぎない。いわば色相だ。それらを「虚妄(こもう)」と見た時、その現象の背後にある実相があらわれ、真言となる。真言はまさに密の教えだ。

  花を見ても月を見ても、それ自体を真の花、真の月とは思わず、縁や興、即ちそこから読み取りうる故実、本意本情に随って詠む必要がある。

  それは夕暮れに空が真っ赤になり、昼間は明るく輝いていても、それが空そのものの色でないように、空の色は色相にすぎず、実相はその背後に隠されている。花や鳥は空についた色にすぎず、一時風情を色どっても常のものではない。(さらに蹤跡なし。)

  歌はこのように詠んだ時のみ一体の仏像を刻み、秘密の真言を唱えるように、現象の背後に隠された密教の真理を語ることができる。

  これが本当に西行自身の論なのか、明恵上人の解釈が多分に含まれたものなのか、疑問は残るものの、花鳥をそれのもつ縁や興の密と一致させる顕密主義の形を借りた歌論は、十分西行の歌の本質を突いている。

 

 なげけとて月やはものを思はする

     かこち顔なるわが涙かな

              西行法師(千載集)

 

の歌は「恋」に部立されている。この歌は、

 

 月見れば千々にものこそ悲しけれ

     我が身ひとつの秋にはあらねど

              大江千里(古今集)

 

の歌を踏まえて、「月を見ると悲しくなる」が我が身に特に身に染みる悲しさを感じるという所に、月そのものが悲しいのではなく人間の心が月を悲しくするという「本意」を読み取る。

  それを「かこち顔」と、月にかこつけてると表現する所に一つの新味があり、そこに手の届かぬ人への身分違いの恋を仄めかす。

  月の描写など、そこには必要ない。月は手の届かない高さにあり、そこに届かないとわかってはいても手に入れたいと願う人間の煩悩が表現される。月は一方では真如の月で仏道をも表す。

  手に入れたいと思っても手に入らない煩悩を諭すかのように月は真如の月へと姿を変える。この句は最初は恋の悲しみの句でありながら、月がなぜ人の心を悲しくさせるのか、と突き詰めていったとき、手に届かないからだということを見出す。それは煩悩であり、月はそれを悟らせる真如の月だ、という所に至って、この歌は一体の仏像となる。

  心敬の、

 

 「此世の無常遷変の(ことわり)身にとをり、なにの上にも忘ざらん人の作ならでは、誠には感情あるべからざる。」

 

や、また宗祇の、

 

 「連歌を翫人、不祈而仏神の内證にかなひ、行せずして仏道に至る也。」

 

もまた、連歌と顕密主義との一致を示すものと言えよう。

  連歌では輪廻の嫌いがある。これは五七五に七七の句を付けたときに、一首の和歌として表現された情を、次の五七五の句を付ける時に立ち切らなくてはならない、というルールだ。

  七七の句に五七五の句を付けて新たな一首和歌となった時、その前の五七五七七と全く違った情を述べなくてはいけない。恋であっても男心だったの女心に取り成したり、生き別れの句を死別の句にしたり、とにかく前句の情を引きずってはいけないというルールがある。

  同じような句が続いてしまったときに「輪廻」とそれを呼ぶところに、連歌の句は一句一句が解脱だという仏教思想が込められている。情に囚われず、絶えず情を断ち切らなくてはならない。それもまた仏教の教えにかなう。

  芭蕉はもはや、こうした顕密主義そのものの中にはいない。顕密仏教は織田信長による破壊と虐殺のあと再興されぬまま、徳川の時代に朱子学を国教とする新たな体制が築かれたからだ。

  そのため芭蕉の不易流行論は朱子学の言葉によって基礎づけられることになる。

  「不易流行」も「乾坤の変」も「風雅の誠」も皆朱子学から来た言葉だ。

  特に「誠」の一字は、同時代の伊丹派の上島鬼貫の俳論でも強調されていて、朱子学の誠による風雅の再編は時代の要求するものだった。

  こうしたことは、今日から見ると体制への迎合のように見えるかもしれなが、決してそうではない。

  我々もまた、ある文芸を「文学」だと主張するには、今の時代の学問の言葉を用い、今日の学問の様々な習慣に従わなくてはならない。それと同じなのである。マルクスだって革命を理論付けるには、ヘーゲル弁証法や古典経済学の言葉を用いざるを得なかった。

 

   *

 

 顕密仏教であれ朱子学であれ、天道そのものについては注意深く沈黙の中に保たれ、学はその周辺を廻り、ただ故実を学び、部立するところで終わる。後は機知によってそれに生命を与えなくてはならない。

  学の表象はあくまで公事に基づいた人道を中心としたもので、天道そのものは密の中に保たれている。

  なぜならば有限な大地に無限の生命の繁栄はない。すべての命が本来平等であるべきであっても、共倒れにならないために生存権に優先順位をつけなくてはならないという、不条理そのものだからだ。

  それを語らない所に秩序は保たれる。

  しかし、ひとたびそこに疑問を持ってしまったらどうなるのか。

  在原業平は身分違いの恋によって追放され、西行もまた同じような物語でもって語られる。恋に身分なんかない。みんな平等だ。そう叫ぼうとすると、それは左遷や流刑や出家という形で公界に放逐される。

  理想を追い求めれば追い求める程、公事を基礎とした部立の場所から遠ざかり、言葉を失ってゆくことになる。

  西行の出家は伝説となり、『西行物語』のような生き方は芭蕉にも大きな影響を与えたことであろう。

  公界は聖であると同時に卑賤視される場所だ。

  自ら望んでそこに飛び込み、聖=賤、人知を越えた物=非人間的なものの中に交わって行く。

  芭蕉においては少なくとも「精神的には」と但し書きがいるだろう。本当に乞食になったのではない。乞食のような自分を演出していただけだ。

  『笈の小文』の冒頭で、芭蕉は次のような自画像を描く。

 

 「百骸九竅(ひゃくがいきゅうきゅう)の中に物有り。かりに名付て(ふう)羅坊(らぼう)といふ。誠にうすもののかぜに破れやすからん事をいふにやあらむ。

 かれ狂句を好むこと久し。(つい)に生涯のはかりごとととなす。ある時は(うん)放擲(ほうてき)せん事をおもひ、ある時はすすんで人にかたむ事をほこり、是非胸中にたたかふて、是が為に身安からず。しばらく身を立てむ事をねがへども、これが為にさへられ、暫ク学んで愚を(さとら)ン事をおもへども、是が為に破られ、つゐに無能無芸にして只此の一筋に(つなが)る。

 西行の和歌における、宗祇の連歌における、雪舟の絵における、利休が茶における、其の貫道する物は(いつ)なり。しかも風雅におけるもの、造化(ぞうか)にしたがひて四時(しいじ)を友とす。見る処花にあらずといふ事なし、おもふ所月にあらずといふ事なし。(かたち)花にあらざる時は夷狄にひとし。心花にあらざる時は鳥獣に類ス。夷狄を出で、鳥獣を離れて、造化にしたがひ造化にかへれとなり。」

 

 沈黙は確かに無限の真理を語る可能性を持っている。中世の詩人は、その沈黙の真実を、見えない世界を描き出すことによって暗示しようと試みていた。

  霞む山里、五月雨の向こうの太陽、目にはさやかに見えぬ秋風、霧に見えなくなる船、秋にもまさる冬の雪の夕暮れ、こうした暗示は八代集の和歌から十分拾うことができた。

  そして、それを新たな観点から解釈し、変形させ、位置ずらしを行うことによって、古い言葉に新しい生命を与えることができた。

  そうした努力によって、はじめて雨にけぶる曖昧模糊とした陰鬱な景色が輝くことになった。

  しかし、そうした光も結局、言論の喪失、身分の喪失と引き換えに得た物であり、天道の真実の前にはどこまでも分厚い五月雨の雲が立ちはだかっていた。

  大いなる夢はこの雲にはばまれ、ただ失ったものへの嘆きにしかならない。宗長や芭蕉にとって、五月雨は中世の知のジレンマの現れであった。

 天とは何だったのか。

  それは一方では芭蕉が『野ざらし紀行』の富士川の捨子を見て叫んだ、「唯これ天にして、汝の性(さが)のつたなきをなけ。」という不条理だった。

  沢山の命が毎日生まれてくるが、この大地には定員があり、命は選別されてゆく。

  この命がすべて平等の権利を主張したなら、小さな救命ボートに我先に争って乗り込もうとする群衆と何ら変わりなくなる。

  そのため天の名において暗黙の掟が支配している。

  天は常に両面を持っていた。生殺与奪権を持ち、命を選別することによって平和が保たれる。その一方で切り捨てられた人間からすればその不条理にただ泣くしかない。

  この難問に今日の我々は答えを持っているのだろうか。

  西洋の近代人権思想は、人口問題が解決されてないにもかかわらず、万人平等の理想に突っ走ってしまった。その結果、平等の人権の外側に置かれるべき野蛮人を作り出し、虐殺と奴隷化によって植民地を世界に広げていった。

  自分たちの平等のために、平等から排除される人たちがいた。それが本来の意味での「レイシズム」だった。

  西洋社会もやがてこのことを反省し、人権を全人類に拡大させた。しかし根本の問題は解決されたのだろうか。

  地球というこの広大な宇宙に浮かぶ小さな船は、定員が限られている。先進諸国は近代化による生産性の飛躍的向上と少子化によってこの問題から今は免れている。

  ただ、未だに多くの新興国やフロンティアが取り残されたままになっている。彼らは未だに不条理な掟を守るための独裁を必要としている。

  先進諸国が達成した平和な世界を世界全体に広める前に、一つの巨大な新興国が反乱を起こした。

  侵略戦争は許されないことだが、我々に世界全体を豊かにするだけの力がなく、多くの国を取り残したままにしている。このことは反省しなくてはならない。

 

 

参考文献

 『倫理学 下巻』和辻哲郎、岩波書店

 『風土』和辻哲郎、一九三五、岩波書店

 『芭蕉七部集』中村俊定校注、一九六六、岩波文庫

 『芭蕉おくのほそ道』萩原恭男校注、一九七九、岩波文庫

 『芭蕉紀行文集』中村俊定校注、一九七一、岩波文庫

 『去来抄・三冊子・旅寝論』潁原退蔵校訂、一九三九、岩波文庫

 『異形の王権』網野善彦、一九八六、平凡社

 『無縁・公界・楽』網野善彦、一九七八、平凡社

 『朱子の自然学』山田慶児、一九七八、岩波書店

 『易経、下』高田真治、後藤基巳訳、一九六九、岩波文庫

 『鬼神論』子安宣邦、一九九二、福武書店

 『アイヌ、神々と生きる人々』藤村久和、一九八五、福武書店

 『講座神道 第一巻神々の誕生と展開』下出積與・圭室文雄編、一九九一、桜楓社

 『岩波講座 東洋思想第十五巻 日本思想一』一九八九、岩波書店

 『日本中世の社会と宗教』黒田俊雄、一九九〇、岩波書店

 『中世神道論 日本思想体系19』大隅和雄校注、一九七七、岩波書店

 『詩経 漢詩大系一』高田眞治、一九六六、集英社

 『西行』白洲正子、一九八八、新潮社

 『連歌論集、上』伊地知鉄男編、一九五三、岩波文庫

 

 『連歌論集、下』伊地知鉄男編、一九五六、岩波文庫