「残暑暫」の巻、解説

元禄二年七月二十日少幻菴にて

初表

 

   少幻菴にて

 残暑暫手毎にれうれ瓜茄子    芭蕉

   みじかさまたで秋の日の影  一泉

 月よりも行野の末に馬次て    左任

   透間きびしき村の生垣    丿松

 鍬鍛冶の門をならべて槌の音   竹意

   小桶の清水むすぶ明くれ   語子

 

初裏

 七より生長しも姨のおん     雲口

   とり放やるにしの栗原    乙州

 読習ふ歌に道ある心地して    如柳

   ともし消れば雲に出る月   北枝

 肌寒咳きしたる渡し守      曾良

   をのが立木にほし残る稲   流志

 ふたつ屋はわりなき中と縁組て  一泉

   さざめ聞ゆる國の境目    芭蕉

 糸かりて寐間に我ぬふ恋ごろも  北枝

   あしたふむべき遠山の雲   雲口

 草の戸の花にもうつす野老にて  浪生

   はたうつ事も知らで幾はる  曾良

 

      参考;『校本芭蕉全集 第四巻』(小宮豐隆監修、宮本三郎校注、一九六四、角川書店)

初表

発句

 

   少幻菴にて

 残暑暫手毎にれうれ瓜茄子    芭蕉

 

 芭蕉の『奥の細道』の旅の途中、金沢での半歌仙の発句。曾良の『旅日記』七月二十日のところにこうある。

 

 「廿日 快晴。庵ニテ一泉饗。俳、一折有テ、夕方、野畑ニ遊。帰テ、夜食出テ散ズ。子ノ刻ニ成。」

 

 天気は良かったが残暑厳しい頃だ。一泉は金沢の人で犀川の畔に松玄庵を構えていたという。暑い中を一折、つまり初の懐紙の表裏のみを巻いた。半歌仙とはいえ、芭蕉を含め十三人、北枝、乙州等も参加したにぎやかな興行だった。夕方には野畑を散歩し、夜食を食べてから解散したが、子の刻というから真夜中だった。

 この句は『奥の細道』では、

 

   ある草庵にいざなはれ

 秋涼し手毎にむけや瓜茄子    芭蕉

 

に改められている。

 十五日に芭蕉は加賀の一笑の死を聞かされる。一笑は元禄二年刊の『阿羅野』にその名が見られるが津島の一笑もいるため、紛らわしい。加賀と明示されている句は、

 

 元日は明すましたるかすみ哉   一笑

 いそがしや野分の空の夜這星   同

 火とぼして幾日になりぬ冬椿   同

 齋に来て庵一日の清水哉     同

 

の四句ある。元禄五年刊句空編の『北の山』には、亡人の句として、

 

 珍しき日よりにとをる枯野哉   一笑

 

の句が収められている。三十五歳(数えで三十六)でまだこれからというときに亡くなった一笑を惜しみ、折からの初盆に一笑の墓に参り、七月二十二日の追善会で、

 

 塚も動け我泣声は秋の風     芭蕉

 

の句を詠む。誇張なしの号泣だったのだろう。

 そういう事情でお盆という季節柄もあって、興行もまた追善興行にならざるを得なかった。

 瓜や茄子は故人へのお供え物で、精霊棚にみんなそれぞれ皮をむいて故人に供え、故人と一緒に食べましょうということだろう。キュウリやナスで馬を作るようになったのは多分もっと時代の下った後のことだ。

 実際には送り火も過ぎて精霊棚はなかっただろう。それでも気持ちとして今日は故人とともにこの興行を行いましょうという意味だったと思う。

 「れうれ」は料理(れうり)を「料(れう)る」と動詞化した命令形で、名詞の動詞化は今日でも色々見られる。

 まだ残暑の厳しい折だが、みんな一笑さんに手毎に瓜茄子を剥いてあげましょう、というこの発句の意味だ。

 

季語は「残暑」で秋。

 

 

   残暑暫手毎にれうれ瓜茄子

 みじかさまたで秋の日の影    一泉

 (残暑暫手毎にれうれ瓜茄子みじかさまたで秋の日の影)

 

 秋の日はまだそんなに短くもなってなく、まだまだ残暑が厳しいというの表向きの意味だが、「みじかさまたで」には若くして世を去った一笑への追善が含まれている。秋の日の短くなるのを待たずに逝ってしまった故人の影が偲ばれます、というのがもう一つの意味になる。

 

季語は「秋の日の影」で秋、天象。

 

第三

 

   みじかさまたで秋の日の影

 月よりも行野の末に馬次て    左任

 (月よりも行野の末に馬次てみじかさまたで秋の日の影)

 

 秋で前句に天象もあるから、ここは月を出すしかない。

 秋の日の影も短さを待たずに沈んでゆき、それと入れ替わるかのように月が登れば、自らの旅路も行野の末で馬を乗り換えることになる。

 

季語は「月」で秋、夜分、天象。「馬」は獣類。

 

四句目

 

   月よりも行野の末に馬次て

 透間きびしき村の生垣      丿松

 (月よりも行野の末に馬次て透間きびしき村の生垣)

 

 「丿」は「べつ」と読む。右から左へ戻るという意味で、「丿乀(へつぽつ)」だと船が左右に揺れる様だという。丿松は『校本芭蕉全集 第四巻』(小宮豐隆監修、宮本三郎校注、一九六四、角川書店)の宮本注に、一笑の兄とある。

 馬を乗り次いで旅をしていると、やけに生垣の立派で厳めしい村に着く。これでは月が見えないのでは。

 

無季。「村」は居所。

 

五句目

 

   透間きびしき村の生垣

 鍬鍛冶の門をならべて槌の音   竹意

 (鍬鍛冶の門をならべて槌の音透間きびしき村の生垣)

 

 やけに生垣が立派だと思ったら、鍬鍛冶が何軒も軒を並べている。燕三条のように代官が政策的に鍛冶職人を集め、領民の副業として推奨していたのだろう。燕三条は釘鍛冶を集めたが、ここでは鍬鍛冶にしている。

 

無季。「鍬鍛冶」は人倫。

 

六句目

 

   鍬鍛冶の門をならべて槌の音

 小桶の清水むすぶ明くれ     語子

 (鍬鍛冶の門をならべて槌の音小桶の清水むすぶ明くれ)

 

 鍛冶屋がたくさんあれば、それだけ大量の水を消費する。

 

季語は「清水」で夏、水辺。

初裏

七句目

 

   小桶の清水むすぶ明くれ

 七より生長しも姨のおん     雲口

 (七より生長しも姨のおん小桶の清水むすぶ明くれ)

 

 「ななつよりひととなりしもおばのおん」と読む「姨(おば)」は姨捨山のように単に老女の意味する場合もある。この場合も七つよりで生まれた時からではないから、何らかの事情で途中から老女に育てられたということだろう。水を汲んだり苦労して育ててくれたんだ、と人情句。

 

無季。「姨」は人倫。

 

八句目

 

   七より生長しも姨のおん

 とり放やるにしの栗原      乙州

 (七より生長しも姨のおんとり放やるにしの栗原)

 

 「とり(鳥)放つ」は放生会の時だけでなく、葬式の時にも行われることがある。コトバンクの放鳥の意味として「精選版 日本国語大辞典の解説」には、

 

 「〘名〙 死者の供養のために、鳥を買って放すこと。また、その鳥。はなちどり。

  ※浮世草子・好色二代男(1684)八「三拾文はなし鳥(ドリ)三羽」

 

とある。

 自分を一人前に育ててくれた姨の葬儀に、放鳥を行う。

 栗は西の木と書くので、西の栗原というと何となく葬儀場っぽい。

 

無季。「とり」は鳥類。

 

九句目

 

   とり放やるにしの栗原

 読習ふ歌に道ある心地して    如柳

 (読習ふ歌に道ある心地してとり放やるにしの栗原)

 

 読み習った歌というのはもしかして、

 

 心なき身にもあはれはしられけり

     鴫立つ沢の秋の夕暮

               西行法師

 

かな。飛び立ってゆく鴫が歌の道なら、放生会で飛び立ってゆく鳥にもその心は通じるのではないか。

 

無季。

 

十句目

 

   読習ふ歌に道ある心地して

 ともし消れば雲に出る月     北枝

 (読習ふ歌に道ある心地してともし消れば雲に出る月)

 

 歌の心というと月花の心。灯りを消すと雲の間から月が出て明るく照らしてくれるなら、心ある月といえよう。

 

季語は「月」で秋、夜分、天象。「雲」は聳物。

 

十一句目

 

   ともし消れば雲に出る月

 肌寒咳きしたる渡し守      曾良

 (肌寒咳きしたる渡し守ともし消れば雲に出る月)

 

 「はださむみしわぶきしたる」と読む。月が出たから船が出せると、それとなく咳をして誰かに知らせているのだろう。

 

季語は「肌寒」で秋。「渡し守」は水辺、人倫。

 

十二句目

 

   肌寒咳きしたる渡し守

 をのが立木にほし残る稲     流志

 (肌寒咳きしたる渡し守をのが立木にほし残る稲)

 

 「をの」は小野だろう。前句を普通に肌寒くて咳をしたとして、渡し場の景を付ける。

 

季語は「ほし残る稲」で秋。「立木」は植物、木類。

 

十三句目

 

   をのが立木にほし残る稲

 ふたつ屋はわりなき中と縁組て  一泉

 (ふたつ屋はわりなき中と縁組てをのが立木にほし残る稲)

 

 「わりなし」の良い意味と悪い意味があり、宮本注は良い方に解しているが、干し残した稲が残っている辺りは、そんなに仲が良さそうに思えない。たまたま家が隣だったために無理やりくっつけられてしまったのではないか。

 

無季。恋。

 

十四句目

 

   ふたつ屋はわりなき中と縁組て

 さざめ聞ゆる國の境目      芭蕉

 (ふたつ屋はわりなき中と縁組てさざめ聞ゆる國の境目)

 

 ここで良い意味に転じたのではないかと思う。国境までその噂が聞こえるほどの仲の良い二人に取り成す。

 

無季。恋。

 

十五句目

 

   さざめ聞ゆる國の境目

 糸かりて寐間に我ぬふ恋ごろも  北枝

 (糸かりて寐間に我ぬふ恋ごろもさざめ聞ゆる國の境目)

 

 「恋衣」は「凉しさや」の巻の七句目にも出てきた。

 

   影に任する宵の油火

 不機嫌の心に重き恋衣      扇風

 

 この時も引用したが、コトバンクの「精選版 日本国語大辞典の解説」に、

 

 「① (常に心から離れない恋を、常に身を離れない衣に見立てた語) 恋。

  ※万葉(8C後)一二・三〇八八「恋衣(こひごろも)着奈良の山に鳴く鳥の間なく時なし吾が恋ふらくは」

  ② 恋する人の衣服。

  ※風雅(1346‐49頃)恋二・一〇六五「妹待つと山のしづくに立ちぬれてそぼちにけらし我がこひ衣〈土御門院〉」

 

とある。

 「不機嫌の」の句の時とは違い、「糸かりて」「ぬふ」と明確に衣服を縫う場面なので②の意味になる。

 国の境目で、他国へ駆け落ちするところか。もっともこの時代で「駆け落ち」というと別に恋とは限らず失踪することを意味していたが。

 

無季。恋。「我」は人倫。

 

十六句目

 

   糸かりて寐間に我ぬふ恋ごろも

 あしたふむべき遠山の雲     雲口

 (糸かりて寐間に我ぬふ恋ごろもあしたふむべき遠山の雲)

 

 旅立つ恋人のために衣服を縫う場面とする。『伊勢物語』二十三段「筒井筒」の、

 

 風吹けば沖つ白波たつた山

     夜半にや君がひとり越ゆらむ

 

の心か。

 

無季。「遠山」は山類。「雲」は聳物。

 

十七句目

 

   あしたふむべき遠山の雲

 草の戸の花にもうつす野老にて  浪生

 (草の戸の花にもうつす野老にてあしたふむべき遠山の雲)

 

 野老(ところ)はコトバンクの「デジタル大辞泉の解説」に、

 

 「ヤマノイモ科の蔓性(つるせい)の多年草。原野に自生。葉は心臓形で先がとがり、互生する。雌雄異株。夏、淡緑色の小花を穂状につける。根茎にひげ根が多く、これを老人のひげにたとえて野老(やろう)とよび、正月の飾りに用い長寿を祝う。根茎をあく抜きして食用にすることもある。おにどころ。《季 新年》「―うり声大原の里びたり/其角」

 

とある。『笈の小文』の伊勢菩提山神宮寺の荒れ果てた姿を見ての句に、

 

    菩提山

  此山のかなしさ告げよ野老掘(ところほり) 芭蕉

 

の句がある。

 野老には山で採れる田舎の素朴さと長寿のお目出度さの両面がある。

 この句の場合は正月飾りの野老に花の春を感じさせるとともに、草庵に住む老人のまた旅に出る姿とが重ね合わされている。

 芭蕉が後に『猿蓑』の「市中は」の巻で詠む、

 

   ゆがみて蓋のあはぬ半櫃

 草庵に暫く居ては打やぶり    芭蕉

 

に影響を与えていたかもしれない。

 

季語は「花」で春植物、木類。「野老」も春、植物、草類。「草の戸」は居所。

 

挙句

 

   草の戸の花にもうつす野老にて

 はたうつ事も知らで幾はる    曾良

 (草の戸の花にもうつす野老にてはたうつ事も知らで幾はる)

 

 人徳のせいか近所の人がいろいろ援助してくれて、働かなくても生活できる修行僧なのだろう。それはまあ目出度いことだ。

 

季語は「はたうつ」「幾はる」で春。