「一泊まり」の巻、解説

九月八日 小むしろの歌仙

初表

 一泊り見かはる萩の枕かな    路通

   むしの侘音を薄縁の下    蘭夕

 帋子もむ夕阝ながらに月澄て   白之

   あらしにたはむ笹のこまかさ 残夜

 植木屋はうへ木に軒を隠すらん  芭蕉

   食のすすまぬ事は覚えず   曾良

 

初裏

 肌ぬぎて人に見せたる夕間暮   蘭夕

   児そそのかす時のおかしさ  路通

 薫ものの煙リに染し破れ御簾   曾良

   ほそき声してぬき菜呼入レ  木因

 蕣にすずめのさむく成にけり   残夜

   月見ありきし旅の装束    白之

 さまざまの貝ひろふたる布袋   芭蕉

   地獄絵をかく様のあはれさ  路通

 きぬぎぬのしり目に鐘を恨らん  木因

   賤が垣ねになやむおもかげ  残夜

 豆腐ひく音さへきかぬ里の花   白之

   鳥の巣もりと住あらす庵   芭蕉

 

二表

 きさらぎや落行甲おもたくて   蘭夕

   あらしに光る宵の明星    曾良

 苫まくり舟に米つむかしましく  残夜

   此ごろ室に身を売れたる   路通

 文書てたのむ便りの鏡とぎ    芭蕉

   旅からたびへおもひ立ぬる  白之

 たふとさは熊野参りの咄して   残夜

   薬手づから人にほどこす   路通

 田を買ふて侘しうもなき桑門   芭蕉

   犬ほへかかる森の入リ口   蘭夕

 夕月夜笈をうしろにつきはりて  曾良

   そろそろ寒き秋の炭焼    残夜

 

二裏

 谷越しに新酒のめと呼る也    蘭夕

   はや辻堂のかろき棟上げ   路通

 打むれてゑやみを送る朝ぼらけ  白之

   麦もかじけて春本ノママ   芭蕉

 鷹すへて近ふめさるる花造り   蘭夕

   小蝶みだるるさかづきの陰  執筆

       『校本芭蕉全集 第四巻』(小宮豐隆監修、宮本三郎校注、一九六四、角川書店)

初表

発句

 

   俳諧之連歌

 一泊り見かはる萩の枕かな    路通

 

 萩の咲く野で野宿すると、昨日の夕暮れの萩と朝の萩の二つが楽しめる。特に朝は露がきらめいて幻想的な美しさとなる。

 元禄二年九月六日、『奥の細道』の旅を終えた芭蕉は曾良、路通とともに伊勢長島へ行き、大智院に滞在。九月八日に七吟歌仙が興行される。

 

季語は「萩」で秋、植物(草類)。旅体。

 

 

   一泊り見かはる萩の枕かな

 むしの侘音を薄縁の下      蘭夕

 (一泊り見かはる萩の枕かなむしの侘音を薄縁の下)

 

 蘭夕はネットで見た春耕俳句会のホームページによると、曾良の『旅日記』九月七日のところにある、

 

 「七左・八良左・正焉等入来。帰て七左残リ、俳有。新内も入来。 

 ○今宵、翁、八良左へ被レ行。今昼、川澄氏へ逢。請事有。寺へ帰テ金三歩被レ越。木因来ル。」

 

の八良左のことで、藤田雅純、通称八郎左衛門、長島藩留守居役で家老も兼務していたという。

 「侘音(わびね)」は侘寝に掛けている。前句の「一泊り」から「旅寝」、「萩」に「虫の音」と四つ手に付ける。

 「薄縁(うすべり)」はコトバンクの「大辞林 第三版の解説」に、

 

 「藺草(いぐさ)で織った筵(むしろ)に布の縁をつけた敷物。」

 

とある。旅寝の情景を付けている。

 

季語は「むしの侘音」で秋、虫類。旅体。

 

第三

 

   むしの侘音を薄縁の下

 帋子もむ夕阝ながらに月澄て   白之

 (帋子もむ夕阝ながらに月澄てむしの侘音を薄縁の下)

 

 この作者はよくわからない。

 「帋子(かみこ)」はコトバンクの「日本大百科全書(ニッポニカ)の解説」に、

 

 「紙衣(かみこ)は紙を糊で張り合わせ、その上に渋を引いたりするため、紙自体がこわばりやすい。これを柔らかくするには、張り合わせたあと、渋を引いてから天日で乾燥させ、そのあと手でよくもんで夜干しをする。翌日また干して、夕刻に取り込み、再度もむ。これを何回か繰り返して、こわばらないように仕上げるのである。」

 

とある。

 『奥の細道』の「草加」のところに「只身すがらにと出立侍を、帋子一衣は夜の防ぎ」とあるように、旅に用いられた夜着だが、普通に防寒服としても用いられたという。

 「夕阝(ゆふべ)」は「夕べ」のこと。

 前句を旅の情景から出発前の旅の準備で紙子を作る段階とし、時刻も朝から夕方に転じる。

 

季語は「月」で秋、夜分、天象。

 

四句目

 

   帋子もむ夕阝ながらに月澄て

 あらしにたはむ笹のこまかさ   残夜

 (帋子もむ夕阝ながらに月澄てあらしにたはむ笹のこまかさ)

 

 この作者もよくわからない。

 軽く景色を付けて流す。

 

無季。「笹」は植物(草類)。

 

五句目

 

   あらしにたはむ笹のこまかさ

 植木屋はうへ木に軒を隠すらん  芭蕉

 (植木屋はうへ木に軒を隠すらんあらしにたはむ笹のこまかさ)

 

 ようやく芭蕉さんの登場。

 笹のこまかさに、きちんと手入れされた庭の情景を見たか、笹や竹をはじめ、たくさんのよく手入れされた植木に囲まれて、肝心の植木屋の建物がどこにあるのか一瞬迷う。

 

無季。「うへ木」は植物(木類)。「軒」は居所。

 

六句目

 

   植木屋はうへ木に軒を隠すらん

 食のすすまぬ事は覚えず     曾良

 (植木屋はうへ木に軒を隠すらん食のすすまぬ事は覚えず)

 

 繁昌している植木屋なら、今日も飯が旨い。別に他人の不幸がということではなく、しっかり働いてしっかり稼いで、という意味で。

 

無季。

初裏

七句目

 

   食のすすまぬ事は覚えず

 肌ぬぎて人に見せたる夕間暮   蘭夕

 (肌ぬぎて人に見せたる夕間暮食のすすまぬ事は覚えず)

 

 「肌ぬぎ」はコトバンクの「大辞林 第三版の解説」に、

 

 「和服の袖から腕を抜き、上半身の肌をあらわすこと。片肌脱ぎと両もろ肌脱ぎがある。 [季] 夏。」

 

とある。近代では夏の季語だが、曲亭馬琴編の『増補 俳諧歳時記栞草』にはなく、元禄の頃にいたってはよくわからない。

 ただ、夏でも食欲が落ちずに元気なのを、この通りとばかりに片肌脱いで見せる情景が浮かぶから、夏の句としてもいい。

 肌脱ぎすると腕が動かしやすくなるので、肉体労働などをする時も片肌もろ肌脱いだりする。そこから比喩として人助けをするときにも「一肌脱ぐ」という。

 

無季。「人」は人倫。

 

八句目

 

   肌ぬぎて人に見せたる夕間暮

 児(ちご)そそのかす時のおかしさ 路通

 (肌ぬぎて人に見せたる夕間暮児そそのかす時のおかしさ)

 

 八句目で待ってましたとばかりに恋を出すのは、蕉風確立期では芭蕉もしばしばやっていた。しかも稚児ネタで芭蕉さんも喜びそうだ。

 「稚児」はウィキペディアによれば、

 

 「○本来の意味の稚児で乳児、幼児のこと。「ちのみご」という言葉が縮んだものと考えられる。後に、6歳くらいまでの幼児(袴着・ひもとき前)に拡大される。袴着・ひもとき~元服・裳着の間の少年少女は「童」(わらは・わらべ)と呼ばれた。

 ○大規模寺院における稚児 → 下記 大規模寺院における稚児 参照

 ○転じて、男色の対象とされる若年の男性の意。

 ○祭りにおける稚児 → 下記 祭りにおける稚児 参照」

 

といくつかの意味があり、ここでは「男色の対象とされる若年の男性」を指すと思われる。当時の元服の前後の年齢を考えるなら、年齢的には子供ではなく立派な若者だったと思われる。

 今日の祭などで見られる稚児行列の稚児は大体は小学生以下の男女だが、それと混同してはいけない。寺院などでの男色の対象とされた稚児は幼児ではない。カトリック教会の性的虐待事件と同列に扱うべきものではない。

 百歩譲って昔の寺院で年長の僧が年少の稚児に性交を強要することがあったとしても、今日の稚児行列とは何の関係もない。(まあ、こんなことを言うのは呉智英一人で、日本の人権団体もこんなのを真に受けるほど馬鹿ではないと思うが、ただ日本の事情をよく知らない外国人が真に受けたりすると困る。)

 この路通の句でも、大人の僧が片肌脱いだかもろ肌脱いだかは知らないが、わざとらしく肉体を見せ付けて稚児を誘惑するのだが、当の稚児の方はその気がないのか、ギャグにしかならない。実際はこんなものだろう。

 

無季。恋。「児」は人倫。

 

九句目

 

   児そそのかす時のおかしさ

 薫ものの煙リに染し破れ御簾   曾良

 (薫ものの煙リに染し破れ御簾児そそのかす時のおかしさ)

 

 これはホモネタではない。児(ちご)を本来の幼児の意味に取り成し、王朝時代の宮廷の恋の情景に転じている。

 薫物の煙の染み付いた御簾に破れ目があるので、小さい児をけしかけて誰が来ているのか覗いて来い、というもの。『源氏物語』の空蝉の弟君の俤か。

 

無季。恋。「煙り」は聳物。

 

十句目

 

   薫ものの煙リに染し破れ御簾

 ほそき声してぬき菜呼入レ    木因

 (薫ものの煙リに染し破れ御簾ほそき声してぬき菜呼入レ)

 

 ここで大垣の木因さんの登場。

 九月十五日の芭蕉の木因宛書簡に、

 

 「此度さまざま御馳走、誠以痛入辱奉存候。爰元へ御参詣被成候にやと心待に存候處、いかゞ被成候哉、御沙汰も無御座、御残多。拙者も寛々遷宮奉拝、大悦に存候。

 此状御届被成可被下候。方々かけまはり申候はゞ、又々美濃筋へ出可申候間、其節万々可得二御意一候。

 此地、江戸才丸・京信徳・拙者門人共十人計参詣、おびただしき連衆出合ながら、さはがしき折節に而、会もしまり不申、神楽拝に一日寄合、さのみ笑ひて散り散りに成申候。以上

 九月十五日             はせを」

 

とある。この元禄二年は伊勢遷宮の年で、芭蕉、曾良、路通は大垣の木因に引率されて新しくなった伊勢神宮を参拝するさい、途中立ち寄った伊勢長島でこの興行が行われたと思われる。『奥の細道』のエンディング、

 

 「旅の物うさも、いまだやまざるに、長月六日になれば、伊勢の遷宮お(を)がまんと、又舟にのりて、

 

  蛤のふたみにわかれ行秋ぞ」

 

は大垣から船で伊勢長島に行くときのもの、八日にこの興行が行われ、十三日に伊勢神宮を参拝し、

 

   内宮は事納まりて、外宮の遷宮拝み侍りて

 尊さに皆おしあひぬ御遷宮    芭蕉

 

と詠んでいる。昔も今と変わらず大混雑だったようだ。

 句の方は、前句の「破れ御簾」を荒れ果てた田舎の住まいとし、病気療養中なのかか細い声で、ぬき菜(間引き菜)を売る行商のおばちゃんを呼び入れる。

 

季語は「ぬき菜」で秋。

 

十一句目

 

   ほそき声してぬき菜呼入レ

 蕣にすずめのさむく成にけり   残夜

 (蕣にすずめのさむく成にけりほそき声してぬき菜呼入レ)

 

 前句の「ほそき声」を雀の声とする。蕣(あさがお)が咲いてスズメも寒そうに細い声で鳴く季節となり、とここまでを気候とし、ぬき菜売りを呼び入れるとする。

 

季語は「蕣(あさがお)」で秋、植物(草類)。「すずめ」は鳥類。

 

十二句目

 

   蕣にすずめのさむく成にけり

 月見ありきし旅の装束      白之

 (蕣にすずめのさむく成にけり月見ありきし旅の装束)

 

 「蕣にすずめ」を装束の柄としたか。女性の装束であろう。

 

季語は「月見」で秋、夜分、天象。旅体。「装束」は衣裳。

 

十三句目

 

   月見ありきし旅の装束

 さまざまの貝ひろふたる布袋   芭蕉

 (さまざまの貝ひろふたる布袋月見ありきし旅の装束)

 

 『奥の細道』の旅での敦賀の記憶だろう。

 

 潮染むるますほの小貝拾ふとて

   色の浜とは言ふにはあるらん

               西行法師

 

の歌で知られていて、芭蕉もここで、

 

 寂しさや須磨にかちたる浜の秋  芭蕉

 波の間や小貝にまじる萩の塵   同

 

の句を詠んでいる。

 

無季。「貝」は水辺。

 

十四句目

 

   さまざまの貝ひろふたる布袋

 地獄絵をかく様のあはれさ    路通

 (さまざまの貝ひろふたる布袋地獄絵をかく様のあはれさ)

 

 貝は胡粉の原料となる。

 白絵具を作るために袋一杯に貝をたくさん集めてきて、その姿が「布袋」という文字からお目出度くふくよかな布袋さんを連想させるが、その姿で地獄絵を描いているとミスマッチでなんとも哀れだ。

 

無季。

 

十五句目

 

   地獄絵をかく様のあはれさ

 きぬぎぬのしり目に鐘を恨らん  木因

 (きぬぎぬのしり目に鐘を恨らん地獄絵をかく様のあはれさ)

 

 前句の「地獄絵をかく」を比喩ということにして、別れ際の男女の修羅場とする。鐘が鳴ったのをこれ幸いに男は逃げ去ったか。

 

無季。恋。

 

十六句目

 

   きぬぎぬのしり目に鐘を恨らん

 賤が垣ねになやむおもかげ    残夜

 (きぬぎぬのしり目に鐘を恨らん賤が垣ねになやむおもかげ)

 

 身分の低い田舎の女のところに通った時のきぬぎぬか。身分違いの恋に悩む女のことを思う。

 

無季。恋。「賤」は人倫。

 

十七句目

 

   賤が垣ねになやむおもかげ

 豆腐ひく音さへきかぬ里の花   白之

 (豆腐ひく音さへきかぬ里の花賤が垣ねになやむおもかげ)

 

 「豆腐ひく音」は豆腐の原料となる大豆を石臼で挽く時の音。

 日本豆腐協会のサイトによると、

 

 「三代将軍・家光のときに出された「慶安御触書」には豆腐はぜいたく品として、農民に製造することをハッキリと禁じています。 その家光の朝食には、豆腐の淡汁、さわさわ豆腐、いり豆腐、昼の膳にも擬似豆腐(豆腐をいったんくずして加工したもの)などが出されていたのが、資料からもうかがえます。

 この豆腐がようやく庶民の食卓に普段の日でものぼるようになったのは、江戸時代の中ごろから。それも江戸や京都、大阪などの大都市に限られていたのが実情でした。」

 

だという。

 芭蕉の時代でも豆腐は都市部のもので、田舎に行くと豆腐を挽く音は聞こえなかったのだろう。

 田舎に来て、せっかく桜が咲いたのに豆腐田楽が食えなくて悩んでいたのか。

 

季語は「花」で春、植物(木類)。「里」は居所。

 

十八句目

 

   豆腐ひく音さへきかぬ里の花

 鳥の巣もりと住あらす庵     芭蕉

 (豆腐ひく音さへきかぬ里の花鳥の巣もりと住あらす庵)

 

 巣もり(巣守/毈)はコトバンクの「デジタル大辞泉の解説」に、

 

 「1 孵化(ふか)しないで巣の中に残っている卵。すもりご。

 「―になりはじむるかりのこ、御覧ぜよとて奉れば」〈宇津保・藤原の君〉

 2 あとに取り残されること。また、その人。るすばん。

 「ただ一人島の―となり果てて」〈盛衰記・一〇〉

 3 夫の不在の間、妻が留守を守っていること。

 「二年といふもの―にして」〈浄・天の網島〉

 

とある。

 鳥の巣に取り残された卵のように、片田舎の庵に一人取り残されているが、そこには花が咲いている。

 

 もろともにあはれと思へ山ざくら

   花よりほかに知る人もなし      

               僧正行尊

 

の心か。

 

季語は「鳥の巣」で春。「庵」は居所。

二表

十九句目

 

   鳥の巣もりと住あらす庵

 きさらぎや落行甲おもたくて   蘭夕

 (きさらぎや落行甲おもたくて鳥の巣もりと住あらす庵)

 

 二月は一ノ谷の戦いや屋島の戦いのあった月で、ここで落ち行く武者は平家の落人だろうか。重たい兜も今は脱ぎ捨て、山奥でひっそりと暮らす。

 

季語は「きさらぎ」で春。

 

二十句目

 

   きさらぎや落行甲おもたくて

 あらしに光る宵の明星      曾良

 (きさらぎや落行甲おもたくてあらしに光る宵の明星)

 

 京都には大将軍を祭った大将軍八神社がある。かつては大将軍堂と呼ばれていた。

 この大将軍について、ウィキペディアにはこうある。

 

 「大将軍(たいしょうぐん、だいしょうぐん)は陰陽道において方位の吉凶を司る八将神(はっしょうじん)の一。魔王天王とも呼ばれる大鬼神。仏教での本地は他化自在天。

 古代中国では明けの明星を啓明、宵の明星を長庚または太白(たいはく)と呼び、軍事を司る星神とされたが、それが日本の陰陽道に取り入れられ、太白神や金神(こんじん)・大将軍となった。いずれも金星に関連する星神で、金気(ごんき)は刃物に通じ、荒ぶる神として、特に暦や方位の面で恐れられた。」

 

 神道家の曾良のことだから、落武者から軍神を連想し、金星を付けたのかもしれない。

 「あらし」は合戦を象徴し、沈みゆく宵の明星に落ち武者を喩えたとも取れる。

 

無季。「宵の明星」は天象。

 

二十一句目

 

   あらしに光る宵の明星

 苫まくり舟に米つむかしましく  残夜

 (苫まくり舟に米つむかしましくあらしに光る宵の明星)

 

 夕暮れで嵐が来るというので、急いで米を船に積み込む。出荷するためではなく、洪水で米が水をかぶらないようにということか。

 

無季。「舟」は水辺。

 

二十二句目

 

   苫まくり舟に米つむかしましく

 此ごろ室に身を売れたる     路通

 (苫まくり舟に米つむかしましく此ごろ室に身を売れたる)

 

 「室」は室津のことで、古代からある港町。ウィキペディアによると、

 

 「江戸時代になると、参勤交代の西国大名の殆どが海路で室津港に上陸して陸路を進んだため、港の周辺は日本最大級の宿場となった。」

 

とのこと。

 もちろん人だけでなく、米を積んだ廻船も盛んに出入りしていた。

 室津は謡曲『室君』の舞台でもあり、室津の遊女は有名だった。

 ただ、ここでは中世の自由に移動する遊女ではなく、江戸時代の身売りされた遊女で、宿場町の華やかさの裏での過酷な現実を思い知らされる。

 こういう下層階級のリアルな世界を描くというのが路通の持ち味なのかもしれない。芭蕉もそういうところを評価していたのだろう。

 『夫木和歌抄』に、

 

 浅ましや室津のうきとききしかど

    沈みぬる身の泊りなりけり

               源俊頼

 

の歌もあり、古典の不易の情にもかなう。

 

無季。恋。「室」は名所、水辺。「身」は人倫。

 

二十三句目

 

   此ごろ室に身を売れたる

 文書てたのむ便りの鏡とぎ    芭蕉

 (文書てたのむ便りの鏡とぎ此ごろ室に身を売れたる)

 

 室津に売られていった遊女には愛しい人がいた。手紙を書く自由すらない世界で密かに誰かに手紙を託すとすれば、それは諸国を旅する「鏡とぎ」であろう。

 「かがみとぎ」はコトバンクの「世界大百科事典 第2版の解説」に、

 

 「鏡を磨ぐことを仕事とした旅職のこと。鏡は材質にガラスが用いられる以前は,長い間銅または青銅であったから,たえずその曇りを磨ぐ必要があった。その技術を江戸時代の《人倫訓蒙図彙》(1690)に〈鏡磨にはすゝかねのしやりといふに,水銀を合て砥(と)の粉をましへ梅酢にてとくなり〉と記すが,それ以前,室町時代はザクロ,平安・鎌倉時代はカタバミが使われていたらしい。江戸時代はとくに越中(富山県)氷見(ひみ)の者が中心で,毎年夏から翌年春にかけ西は摂津から東は関東一帯へ出稼ぎし,全国の大半はこの仲間が占めた。」

 

とある。

 

無季。恋。「鏡とぎ」は人倫。

 

二十四句目

 

   文書てたのむ便りの鏡とぎ

 旅からたびへおもひ立ぬる    白之

 (文書てたのむ便りの鏡とぎ旅からたびへおもひ立ぬる)

 

 恋から旅体へ転じる。恋離れの句。

 ただ、「旅から旅」は鏡とぎの属性なので、展開としては具体性もなく鈍い。

 

無季。旅体。

 

二十五句目

 

   旅からたびへおもひ立ぬる

 たふとさは熊野参りの咄して   残夜

 (たふとさは熊野参りの咄して旅からたびへおもひ立ぬる)

 

 旅といえば熊野参り。熊野古道は今でも大人気だ。

 熊野詣の功徳を人に語りながら、自分もまた旅から旅へ、また新たな旅に出る。

 そういえば、芭蕉さんは熊野詣はしていない。

 

無季。神祇。「熊野」は名所。

 

二十六句目

 

   たふとさは熊野参りの咄して

 薬手づから人にほどこす     路通

 (たふとさは熊野参りの咄して薬手づから人にほどこす)

 

 前句の「たふとさ」を熊野の尊さではなく、薬を自分で処方して人々の病気を治してゆく人の尊さとする。熊野で修行して、薬の知識を身につけた人だろう。

 

無季。「人」は人倫。

 

二十七句目

 

   薬手づから人にほどこす

 田を買ふて侘しうもなき桑門(よすてびと) 芭蕉

 (田を買ふて侘しうもなき桑門薬手づから人にほどこす)

 

 薬を只でみんなに配れるような人は、昔も今もお金のある人だ。

 えらい慈善家になるにはうんとお金が必要だと、昔読んだスヌーピーのネタにもあった。確かライナスはそう言われて「人のお金で慈善家になるんだ」と答えたっけ。当時はまだクラウドファンディングはなかったが。

 世捨て人とはいっても、お寺は寺領を所有し、経済的基礎があって初めて慈善事業もできる。

 世の中とはそういうもんだよ路通君、というところかもしれない。乞食坊主では人を救う前に、先ず自分を救わなくてはならない。

 路通の生き方はロマンチックで惹かれるところはあるものの、芭蕉はやはりリアリストだ。

 

無季。「桑門」は人倫。

 

二十八句目

 

   田を買ふて侘しうもなき桑門

 犬ほへかかる森の入リ口     蘭夕

 (田を買ふて侘しうもなき桑門犬ほへかかる森の入リ口)

 

 立派なお寺には優秀な番犬もいるもんだ。

 

無季。「犬」は獣類。

 

二十九句目

 

   犬ほへかかる森の入リ口

 夕月夜笈をうしろにつきはりて  曾良

 (夕月夜笈をうしろにつきはりて犬ほへかかる森の入リ口)

 

 「笈」はコトバンクの「ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典の解説」に、

 

 「行脚僧や修験者などが仏像,仏具,経巻,衣類などを入れて背負う道具。箱笈と板笈の2種がある。箱笈は内部が上下2段に仕切られ,上段に五仏を安置し,下段に念珠,香合,法具を納めている。扉には鍍金した金具を打ったり,木彫で花や鳥を表わし,彩漆 (いろうるし) で彩色した鎌倉彫の装飾を施したものもある。」

 

とある。

 芭蕉や曾良が旅に用いた「笈」は蓋のついた竹籠に背負い紐のついた簡単なもので、諏訪市・正願寺所蔵に曾良が「おくのほそ道」の旅で用いた笈というのがあり、画像も「おくのほそ道文学館」というサイトにある。

 同じ笈でも豪華なものから質素なものまでいろいろあったようだ。

 「つきはりて」は今なら「突っぱって」で、夕月に照らされて大きな笈が後ろに大きく突き出ているさまが、シルエットになっているという感じか。

 曾良自身の旅姿の自画像と言えるかもしれない。森の入口では野犬に吠えられたこともあったのだろう。生類憐みの令で当時は野犬が増えたともいう。

 

季語は「夕月夜」で秋、夜分、天象。旅体。

 

三十句目

 

   夕月夜笈をうしろにつきはりて

 そろそろ寒き秋の炭焼      残夜

 (夕月夜笈をうしろにつきはりてそろそろ寒き秋の炭焼)

 

 『校本芭蕉全集 第四巻』の宮本三郎注に、「山伏に炭焼を対せしめた付。」とある。いわゆる「向え付け」で、中世連歌では「相対付け」と言った。漢詩の対句を作るように、二つのものを並列する付け方をいう。

 

季語は「秋」で秋。

二裏

三十一句目

 

   そろそろ寒き秋の炭焼

 谷越しに新酒のめと呼る也    蘭夕

 (谷越しに新酒のめと呼る也そろそろ寒き秋の炭焼)

 

 今の清酒に近い日本酒は室町時代には広まっていたが、それと平行してどぶろくも広く飲まれていた。

 芭蕉の天和三年の、

 

 花にうき世我が酒白く飯黒し   芭蕉

 

は玄米とどぶろくの質素な生活を詠んだものだろう。

 芭蕉の時代は清酒の方も四季醸造から寒造りへの移行期で、それまでは一年中酒が造られていたが、気温によって発酵の仕方が変化するため、品質が一定しなかった。

 ウィキペディアによれば、

 

 「日本では、古来より江戸時代初期に至るまで、真夏の盛りを除いて一年を通じて以下のように酒を醸していた。

 新酒(しんしゅ)

 旧暦八月(今の新暦では九月ごろに相当)に前年に収穫した古米で造る。

 間酒(あいしゅ)

 初秋に造る酒。今でいえば九月下旬で、残暑厳しい折ではあるが、そのために乳酸菌の発酵が容易だったなどのメリットもあった。たいへんな臭気をはなったという。

 寒前酒(かんまえさけ)

 晩秋に造る酒

 寒酒(かんしゅ)

 冬場に造る酒。のちに寒造りとして残っていく。

 春酒(はるざけ)

 春先に造る酒。冬に比べて気候が暖かくなっているので、浸漬(しんせき)の時間も日を追って短くすることが留意された。また蒸米は冷ましきってから弱く仕掛けるなど、発酵が進みすぎないようにいろいろな工夫がなされた。」

 

とある。

 ただ、芭蕉の時代にはこの新酒ではなく、寒造りの酒の早稲で仕込んで晩秋に発酵を終える際に生じる「あらばしり」だったと思われる。

 江戸後期の曲亭馬琴編『増補 俳諧歳時記栞草』にはこうある。

 

 「新酒[本朝食鑑]新酒は、凡(およそ)、新択(しんえり)の新米一斗を用てこれを醸し、須加利(酒を濾布嚢也)に填(つつ)みて舟に入、其酒の水、半滴(なかばしたた)る、復(また)、布嚢に入て圧(おす)ときは、酒おのづから滴り出づ。酒滴り尽て後、汁を取、滓(かす)を去。これを新酒といふ。」

 

 このあらばしりの頃に新しい緑の杉玉を吊るし、新酒ができたのを知らせるようになるのはもう少し後で、一茶の時代になる。

 『阿羅野』の、

 

 我もらじ新酒は人の醒やすき   嵐雪

 

の発句は、あらばしりがあっさりした味でアルコール度数も低いため、嵐雪のような大酒飲みには向かなかったということなのだろう。

 秋も終わりに近づき寒くなってくると、谷の向こうを歩く炭焼きに向って「新酒飲んでかんかえ」と酒屋の声が聞こえる。

 

季語は「新酒」で秋。「谷」は山類。

 

三十二句目

 

   谷越しに新酒のめと呼る也

 はや辻堂のかろき棟上げ     路通

 (谷越しに新酒のめと呼る也はや辻堂のかろき棟上げ)

 

 辻堂というと今では湘南のイメージだが、元は東海道と鎌倉街道の交差する辻にお堂があったという。

 本来辻堂は旅人のために立てられた休息所で、江戸時代初期に福山藩の初代藩主水野勝成が作らせた四本の柱と屋根からなる簡単な東屋風の建物で、四つ堂とも憩亭とも言われている。

 柱を立てたらすぐに棟上であっという間に出来上がる。

 新しい辻堂ができたから、早くこっち来て新酒でも飲んでゆけと、村人が谷の向こうにいる旅人に声をかけたのだろう。

 路通は芭蕉と出会う前には筑紫を旅していると言うので、途中で福山の辻堂のお世話にもなったのだろう。

 

無季。

 

三十三句目

 

   はや辻堂のかろき棟上げ

 打むれてゑやみを送る朝ぼらけ  白之

 (打むれてゑやみを送る朝ぼらけはや辻堂のかろき棟上げ)

 

 この場合は旅人の休息所ではない。福山のローカルなネタだったので、よくわからなかったか。

 「ゑやみ」は疫病神のことで、京都が発祥でのちに地方でも行われるようになった、疫病神を追い払うための道饗祭(みちあえのまつり)のための臨時のお堂のこととしたか。

 

無季。

 

三十四句目

 

   打むれてゑやみを送る朝ぼらけ

 麦もかじけて春本ノママ     芭蕉

 (打むれてゑやみを送る朝ぼらけ麦もかじけて春本ノママ)

 

 「春本ノママ」は「春」の下の文字が読めなかったということで、春がどうなったのかは想像するしかない。まあ、大変なことになったのは確かだ。

 「かじける」はコトバンクの「大辞林 第三版の解説」に、

 

 「①  寒さで凍えて、手足が自由に動かなくなる。かじかむ。 「手ガ-・ケタ/ヘボン 三版」

 ②  生気を失う。しおれる。やつれる。 「衣裳弊やれ垢つき、形色かお-・け/日本書紀 崇峻訓」

 

とある。麦が旱魃で萎れてしまい、春だというのに‥‥。これは飢饉だ。疫病神を追い払う儀式が行われる。

 花の定座の前で飢饉とは、芭蕉も難しい注文をしたものだ。

 

季語は「春」で春。「麦」は植物(草類)。

 

三十五句目

 

   麦もかじけて春本ノママ

 鷹すへて近ふめさるる花造り   蘭夕

 (鷹すへて近ふめさるる花造り麦もかじけて春本ノママ)

 

 「鷹すへて」というのは鷹を手の上に座らせること。「めさるる」と言う敬語が使われているところから、殿様が鷹狩りに来られたということか。

 おそらく鷹狩りにかこつけて領内の飢饉の状況を視察に来たのだろう。 ただ、村人の方は見苦しいものを見せたくないと見栄を張って、造花を作っていかにも春が来ているように見せかける。

 

季語は「花造り」で春。「鷹」は鳥類。

 

挙句

 

   鷹すへて近ふめさるる花造り

 小蝶みだるるさかづきの陰    執筆

 (鷹すへて近ふめさるる花造り小蝶みだるるさかづきの陰)

 

 執筆は主筆に同じ。

 打越の飢饉を離れ、「花造り」を花見の席をこしらえるという意味にして、最後は殿様の来席のもとに胡蝶の乱れ飛ぶ中、目出度く盃を交わして終わることになる。

 

季語は「小蝶」で春、虫類。