土芳『三冊子』を読む

あかさうし


1、不易流行

 風雅の誠については「しろさうし」の方にも記されていたが、ここでいよいよ不易流行説の展開になる。

 不易流行説は芭蕉が『奥の細道』の旅の中で曾良こと岩波庄右衛門より朱子学の教えを受ける中から誕生したと思われる。日本の朱子学は朱熹の学問そのものではなく、朝鮮(ちょそん)の朱子学の大成者李退渓の学を学ぶ中から藤原惺窩や林羅山によって整えられたもので、林羅山の朱子学を取り入れた神道家の吉川惟足の高弟の一人が岩波庄右衛門(曾良)だった。

 朱子学は江戸幕府の公認の学問で、曾良のみならず、当時の識者ならある程度の認識を持っていたと思われる。ただ、曾良によって確かな知見を得られたことは大きな収穫だっただろう。

 松永貞徳も林羅山と交流を持っていたにもかかわらず、俳諧を朱子学によって理論化することはなかった。この融合を成しえたのは、結局芭蕉だけだった。

 松永貞徳に欠けていたものがあるとしたら、貞徳の時代がまだ江戸の大衆文化の発展途上の段階にあり、その庶民の旺盛な創作意欲によって作り出された流行をまだ知ることがなかったからだと思われる。

 貞徳の俳諧は基本的に雅語による連歌の風流を学ぶための入口としての俗語を交えた俳諧だった。それは俗語の世界を解放するものではなく、あくまで連歌の風流を俗語に移植しただけだった。

 宗因の談林俳諧が寛文の終わりから延宝の初めにかけて一世を風靡した時、芭蕉もその流れに乗ることになった。そしてその流行が延宝の終わりから天和になる頃に急速に廃れて行き、貞享の頃には芭蕉ならずとも古典回帰の傾向が生じてきた。その中で伊丹の鬼貫も同じ頃「誠」という理想に至った。ただ、不易流行説はなかった。

 今日でも多くの芸術家は流行を軽視し不変の美を求める傾向にあるが、芸術の本当に生き生きとする姿は、日々次々に新しい作品が生み出され、多くの人たちがわくわくしながら次はどんなものが来るか期待して待っている、そのなかにある。芸術は絶えず生み出されるものでありその新しさにこそ本当の感動があり、そして人々の明日への活力になる。このことに気付く人は少ない。

 芭蕉は談林の流行下にあってそのことに気付いた数少ない俳諧師だった。そして生涯俳諧に新味を求め、次の俳諧のことを考えていた。その一方で、一たび一つの体を学んでしまうとそこに留まり続けようとする門人たちと、悲しい別れを繰り返してきた。

 流行は決して否定すべきものではなく、むしろ流行の中にこそ芸術の本当の力がある。そして不易は流行とは別個に存在しているのではない。流行を生み出す原動力の中に不易がある。それを見抜いたのは芭蕉一人ではなかったかと思う。

 流行を生み出す原動力、それはあくなき創作への初期衝動といってもいい。不易は作品の中にあるのではなくその衝動そのものが不易であり、それに共感するところに作品に対する本当の感動がある。これを理論化するのに朱子学の理論はうってつけだった。理と気の二元論は不易の理と流行する気とを共存させることができた。ここには西洋の精神と肉体の二元論のような精神が肉体を支配するという、一方向的な支配従属の関係がなかった。

 

 「師の風雅に萬代不易有。一時の變化あり。この二ッに究り、其本一也。その一をいふは風雅の誠也。」(『去来抄・三冊子・旅寝論』潁原退蔵校訂、一九三九、岩波文庫p.100)

 

 土芳の記したこの言葉はほぼ芭蕉の言葉をなぞったものだと思われる。『去来抄』にも、

 

 「去来曰、蕉門に千歳不易の句、一時流行の句と云有。これを二ッに分つて教へ給へども、其基は一ッ也なり」(『去来抄・三冊子・旅寝論』潁原退蔵校訂、一九三九、岩波文庫p.61)

 

とあり、ほぼ一致するからだ。(ただ、「の句」が余計にくっついている。この微妙なずれが後に『俳諧問答』で許六との論争を生むことになる。)

 元禄二年の秋、『奥の細道』の旅が大垣で終わり、そこから伊勢へ向かった芭蕉は九月の終わりに故郷の伊勢へ向かう。この途中であの、

 

 初時雨猿も小蓑を欲しげなり    芭蕉

 

の句を詠むことになる。

 そして伊賀に戻った時、土芳の蓑虫庵を尋ね、最初の不易流行説を説いたのではなかったかと思う。この後芭蕉は十一月末に奈良を経て京都に行き、しばらく京都に滞在する。ここで不易流行説は去来に伝わったと思われる。

 朱子学的には萬代不易(千歳不易)は理に属し、一時の變化(一時流行)は気に属す。そして理の方が根源的で気はそこから生み出される。ゆえに「其本一也。その一をいふは風雅の誠也。」となる。「誠」は人間の心のうちに現れる理に他ならない。

 これは本来千歳不易の句と一時流行の句があるということではなかったと思われる。句はすべて理の衝動から生まれ気として姿を現すというのが正確なところだろう。風雅の誠から生み出された句は、言葉になった瞬間から声という物理的な空気の振動となって伝わって行く。ただ、そこに意味されているものはその声の発した心の中にあり、それを聞いた人の心の中にある。芸術の本当の感動は作者なり読者なりの心の中にあり、作品はその媒介にすぎない。媒介はその都度生み出され、一時流行しては消えて行く。それでも心の中に感動が生じる限り、その感動は不易だ。

 

 「不易をしらざれば實に知れるにあらず。不易といふは新古によらず、變化流行にもかゝわらず、誠によく立たる姿也。」(『去来抄・三冊子・旅寝論』潁原退蔵校訂、一九三九、岩波文庫p.100)

 

というのは、人はそれぞれ心に中に風雅の誠を持っているから、作品は感動を伝えることができるのであり、それを持ってないなら作品はただの物理的な音声や墨の染みにすぎない。そして、それを持っている限り、個々の作品は一時流行してはすぐに廃れていこうとも、心の中に残り続ける。心の中に残り続けているものに新古の区別はない。それが風雅の誠だからだ。

 

 「代々の哥人の哥を見るに、代々その變化あり。又新古にもわたらず、今見る所むかし見しにかはらず、あはれなる歌多し。是先不易と心得べし。」(『去来抄・三冊子・旅寝論』潁原退蔵校訂、一九三九、岩波文庫p.100)

 

 代々の歌人の歌といっても、当時は『万葉集』はそれほど重視されてなかった。まずその表記がいわゆる万葉仮名のものは読めても、古体といわれる手爾於葉の字が表記されていないものは、解読が困難だったからだと思われる。柿本人麻呂の「東野炎立所見而反見為者月西渡」もこの時代は、

 

 あづまののけぶりの立てる所みて

     かへり見すれば月かたぶきぬ

              柿本人麻呂(玉葉集)

 

と読まれていた。

 赤人家持あたりは手爾於葉の字が表記されているので、その後の歌集にも取り入れられやすかった。人麻呂に関しては「人麻呂歌集」とあっても真偽不明のものも多かった。

 ただ、『古今和歌集』の詠み人知らずの古歌の時代から、六歌仙の時代、紀貫之の時代から『千載和歌集』『新古今和歌集』の時代、そしてそれ以降の鎌倉室町の時代の勅撰集の和歌に至るまで、風体は変わってきた。それでも良い歌は多い。心に染みるものがあれば年代は関係ない。不易は風体の差に関係なく、あくまでその心にあったからだ。風体の差に良し悪しを言うようになり、万葉崇拝が生じたのは江戸時代後期になってからだ。

 不易が心にあるのに対し、流行は風体にある。

 

 「また千變万化するものは、自然の理なり。」(『去来抄・三冊子・旅寝論』潁原退蔵校訂、一九三九、岩波文庫p.100)

 

 芸術は人間の旺盛な制作意欲が抑圧されない限り、どんな時代でも新しい作品が次から次へと生み出されてゆく。ただ、残念ながら人間の記憶には限界があり、そのすべてを記憶にとどめることはできない。そのためたくさんの作品が生み出されれば生み出されるほど、忘れてゆく作品の数も増えて行く。流行とは人間のあくなき創作意欲と記憶の限界から来る自然現象である。

 

 「變化にうつらざれば風あらたまらず。是に押移らずと云は、一端の流行に口質時を得たる計にて、その誠をせめざる故也。」(『去来抄・三冊子・旅寝論』潁原退蔵校訂、一九三九、岩波文庫p.100)

 

 たとえ人の心はいつの世でも同じだとはいっても、表に現れる表現は変わらざるを得ない。なぜなら人は嘘をつくからだ。

 たとえば「愛している」という言葉を一番最初に言った人は本当だったかもしれない。でもその言葉が生じた瞬間から愛してなくても「愛している」と嘘をいうことが可能になる。だから嘘偽りの「愛している」ではないことを証明するには、また別の言葉が必要になる。

 同じ言葉は何度も発せられると、嘘が多く混じるようになる。その中で本当のことを伝えようとするなら、常に新しい言葉を探さなくてはならない。作品もそれと同じで、似たような作品がたくさんあっても、多くの人は「偽物」だと思うだろう。本物であるためには新しいものを作り続けなくてはならない。

 一つの作品が多くの人を感動させると、実際に心に誠がないのにそれとそっくりの物を作って感動を与えようとする。最初は騙される人も多いが、あまりに言い古されるとさすがに騙されなくなる。作者の心に誠があるならあ必ず違ったものを作る。そうしたものが言い古された言葉より多くの感動を与え、人々の記憶に残って行く。

 

 「せめず心をこらさゞるもの、誠の變化を知ると計云事なし。唯人にあやかりて行のみ也。」(『去来抄・三冊子・旅寝論』潁原退蔵校訂、一九三九、岩波文庫p.100)

 

とあるように、心に誠がなく人の真似ばかりしている者は新しいものを生み出すことができない。ただ他人の作ったものを後追いするだけになる。

 

 「せむるものはその地に足をすへがたく、一歩自然に進む理也。」(『去来抄・三冊子・旅寝論』潁原退蔵校訂、一九三九、岩波文庫p.100)

 

 心に誠を持ち、それを伝えようとすれば、自ずと出来合いの表現を避け、新しいものを生み出して行く。

 

 「行末いく千變万化するとも、誠の變化は皆師の俳諧也。」(『去来抄・三冊子・旅寝論』潁原退蔵校訂、一九三九、岩波文庫p.100)

 

 芭蕉の作風が貞門・談林・天和調・蕉風確立期・猿蓑調・軽みと変化していったとしても、芭蕉の心の中の誠は変わっていない。ただ表現方法が変わっていっただけでみんな芭蕉の俳諧だ。

 

 「かりにも古人の涎をなむる事なかれ。」(『去来抄・三冊子・旅寝論』潁原退蔵校訂、一九三九、岩波文庫p.100)

 

 これは『去来抄』にも、

 

 「先師常に曰、上に宗因なくんば我々が俳諧、今以て貞徳の涎(よだれ)をねぶるべし。宗因は此道の中興開山也といへり。」(『去来抄・三冊子・旅寝論』潁原退蔵校訂、一九三九、岩波文庫p.65)

 

とある。昔の人の物真似をしても、物真似はあくまで似せ物であって誠はない。

 

 「四時の押移如く物あらたまる。皆かくのごとしとも云り。」(『去来抄・三冊子・旅寝論』潁原退蔵校訂、一九三九、岩波文庫p.100)

 

 芸術は移り行く世界の中で今の自分を偽りなく表現すれば、自ずと今の風体に適う。コピーは所詮コピーにすぎない。コピーを繰り返せば劣化する。

2、帰俗

 「師末期の枕に、門人此後の風雅をとふ。師の曰、此道の我に出て百變百化す。しかれどもその境、眞草行の三ッをはなれず。その三ッが中にいまだ一二をも不盡と也。」(『去来抄・三冊子・旅寝論』潁原退蔵校訂、一九三九、岩波文庫p.100~101)

 

 芭蕉の臨終のときに立ち会った門人は支考、維然、之道、伽香、舎羅、呑舟、正秀、去来、乙州、木節、丈草、李由、其角といった面々だった。木節が医者で支考、舎羅、呑舟は介護要員だった。

 芭蕉のこの言葉は『花屋日記』にも記されているが、この書物自体が後の人の書いた偽書なので、『三冊子』のこの言葉を拝借しただけだと思われる。となると、この言葉の出所ははっきりしない。ただ、芭蕉追善の俳諧興行に多くの門人が集まったので、その時に誰かから聞いたのだろう。

 「眞草行」は書の楷書、行書、草書に喩えたもので、おそらく楷書の俳諧は古池の句や猿に小蓑の句にある程度は窮まったとしても、それをさらに軽く崩した行書草書の俳諧が未完成ということなのだろう。軽みの風は未だ完成しなかったということだ。草書の俳諧は後に惟然が試みることになる。この言葉が本当に末期の枕で発されたなら、当然惟然も聞いていた。

 

 「俳諧いまだ俵口をとかずとも云出られし事度々也。高くこゝろをさとりて俗に歸るべしとの教なり。常に風雅の誠をせめさとりて、今なす處俳諧に歸るべしと云る也。」(『去来抄・三冊子・旅寝論』潁原退蔵校訂、一九三九、岩波文庫p.101)

 

 俳諧は未だに未開封で、開拓の余地がたくさんある。芭蕉はそう思っていたようだ。それは一面では正しかった。俳諧興行は芭蕉の時代に既に衰退し始めていた。寛文・延宝の頃の寺社で行われた華やかな、一種の舞台芸術としての俳諧は既に天和の頃には廃れ、貞享以降は私邸で少人数が集まっての歌仙興行がほとんどだった。

 芭蕉の死後はさらにこうした句を連ねて行く長連歌の形式の俳諧は衰退し、発句と川柳点が残っていった。

 ただ、俳諧そのものは衰退しても、俳諧が生み出した精神はその後の様々な大衆芸術に受け継がれていった。芭蕉が切り開いた延宝・天和のシュールギャグや貞享以降のあるあるネタは今日の芸人に余すところなく受け継がれている。

 風雅の誠は日本の大衆文化に深く根を下ろし、いわゆるジャパンクールと呼ばれる世界を魅了する日本の文化の根底は芭蕉によって切り開かれたといっても過言でない。

 その基本となるのは「高くこゝろをさとりて俗に歸るべし」という帰俗の精神だと言ってもいい。この言葉はよく蕪村の離俗と対比されるが、離俗は単に俗を離れるだけで、ともするとエリート意識に陥る。これに対し帰俗は俗を離れた上で再び俗に帰るという二段階を必要とする。

 これは仏教でいう和光同塵の考え方から来たものだろう。元は老子からきた言葉だが、仏教に取り入れられ、日本では神仏習合の基礎にもなっている。

 和光同塵はコトバンクの「日本大百科全書(ニッポニカ)の解説」に、

 

 「光を和らげ塵に同ずること、すなわち、自らの智徳(ちとく)の光を隠して世俗のなかに立ち交じること。『老子』第4章、第56章に「其(そ)の光を和し、其の塵に同ず」として出る。それがのちに仏教に取り入れられ、『注維摩詰経(ちゅうゆいまきつきょう)』や天台の『摩訶止観(まかしかん)』では、仏・菩薩(ぼさつ)が衆生(しゅじょう)教化のために、その本身を変じて応化(おうけ)の姿をとることをいうようになった。さらに日本では本地垂迹(ほんじすいじゃく)説に関して用いられるようになり、仏・菩薩が日本の神祇(しんぎ)としてかりに姿を現すことをさすようになった。和光垂迹ともいう。[末木文美士]」

 

とある。

 日本の神仏習合の根幹だということは、日本人の精神そのものだといってもいい。日本ではいかなる天才もいかなる知識人もお高くとまっていることを嫌い、大衆にもわかりやすく説明することを求められる。企業でもトップ自らが現場に入り、ともに汗を流すことを良しとする。この考え方は日本の社会にしみついている。北野監督はいかに世界的に権威のある映画賞を受賞しようとも日本では「コマネチ!」だし、今もコメンテーターと称して馬鹿なことを言っている。

 天皇が実際の統治をせずに無や空としてふるまうように、どんな偉い人でも権威を振りかざしてふんぞり返ってはいけない。それは日本の文化の基本だ。

 離俗はただ俗を離れるだけだが、帰俗はそこからさらに先の境地になる。芭蕉も旅をしたり幻住庵や無名庵に籠ることもあるが、江戸や京都に滞在する時間もそれなりに長い。この時期はまさに市隠といっていいだろう。「大隠は市に隠る」という言葉もある。goo辞書の「デジタル大辞泉」に、

 

 「《王康琚「反招隠詩」から》真の隠者は、人里離れた山中などに隠れ住まず、かえって俗人にまじって町中で超然と暮らしているということ。大隠は朝市 (ちょうし) に隠る。」

 

とある。日本のオタク文化を支えているのもこの市隠の伝統なのかもしれない。

3、風雅の誠をいかにして学ぶか

 「常風雅にいるものは、思ふ心の色、物となりて、句姿足るものなれば、取物自然にして子細なし。心のいろうるはしからざれば外に詞をたくむ。是則常に誠を勤ざるの心の俗也。」(『去来抄・三冊子・旅寝論』潁原退蔵校訂、一九三九、岩波文庫p.101)

 

 誠は人の情においては孟子の四端に代表されるもので、四端は孟子の言葉であって誠の一部を言葉にしたものにすぎない。人間の自然の情は筆舌に尽くしがたいものだし理屈で割り切れるものでもない。それでも誰もが少なからず持っていて共感できる。

 心の中の光は他人から教えられるものではなく、自分自身の心の中にある物で、それがあるから他人の説く心の光に共感することができる。持ってないなら最初から理解不能だ。もし人の言葉にこの上なく感銘を受けたとしても、それはその人から与えられたのではない。自分自身の心の底にそれがあるから感銘できたのであり、感銘はあなた自身のものだ。

 いかがわしい宗教家はしばしばそれを逆手に取って、どうとでも取れるような曖昧な言葉を乱発する。信者が勝手に自分に思い当たることがあって涙を流してくれるのを期待しているだけだ。

 たいていの人は人の言葉に喚起されて、自らの心の中の風雅を呼び覚ますにすぎない。それがもともと自分自身の心の中にあったということに気付かずに、与えられたものだと思ってしまう。「常風雅にいるもの」というのはそうではなく自らの心の中から常に風雅を生み出せる人ということになる。

 誰だって最初からそれをできるわけではない。ただ人の作品に感動した時に、それが自分のものだということにどれほど気付けるかどうかの問題ではないかと思う。それが自分のものだと分かれば、今度はそれを自分の言葉で表現できる。人の言葉だと思っている間は人の言葉を鸚鵡返しにするしかない。自分自身にあると思えば、今までにない新しい言葉でそれを語ることができる。

 それゆえに、「思ふ心の色、物となりて、句姿足るものなれば、取物自然にして子細なし」ということになる。それは程度の差こそあれ、誰にでもなしうることだ。

 俳諧に限らず、心に風雅あるなら、どんなジャンルの芸術でも「思ふ心の色、物となりて、句姿足る」。ただ、そのジャンルごとに必要なスキルはあるから、それは学ばねばならない。発句は短い言葉だからそれほどの技術を必要とするものではなく、付け句はそれ以上に技術を必要するが、他の芸術のようにデッサンを学んだり楽器を練習したり必要はない。

 ただ、他の作品から受けた感動を自分自身のものにできなければ、形だけ器用に真似るだけで「外に詞をたくむ」ことになる。

 

 「誠を勤るといふは、風雅に古人の心を探り、近くは師の心よく知べし。其心をしらざれば、たどるに誠の道なし。その心を知るは、師の詠草の跡を追ひ、よく見知て即我心の筋押直し、爰に趣て自得するやうにせめる事を、誠に勤るとは云べし。」(『去来抄・三冊子・旅寝論』潁原退蔵校訂、一九三九、岩波文庫p.101)

 

 風雅の心は誰にでもあるといっても、どれが風雅でどれが俗情なのかの区別は難しい。花や月を見て奇麗だと思っても、みんなが奇麗だと言っているから奇麗といわなければ心がないと思われるので仕方なく言うのであれば、それは俗情というしかない。

 古典を学ぶにしても、これが古来傑作とされているからといって、心を動かすものがないのにこれは良いと持ち上げても、それは名利を求める心にすぎない。

 風雅の心は自分自身の心のうちより出るもので、人がこれが風雅だと言っているからでは、ただ人に合わせることで自分を良く見せようとしているだけだ。「風雅に古人の心を探り」は自分自身心を動かされるものがあって、それを探るのでなければ意味はない。ただ、案外それは難しい。やはり人は他人からよく思われたくて、ついつい自分に嘘をついてしまうものだ。

 「近くは師の心よく知べし」というのも、基本的に同時代の人に向けられた言葉で、いわば芭蕉の俳諧に感動した芭蕉のファンに向けて言っている言葉で、感動がないなら得るものもない。

 一つ言っておきたいのは、もし風雅の心を知ろうと思うなら、今あなたが最も心ときめかしているものから学んだ方がいい。音楽でも小説でも漫画でもアニメでも映画でもゲームでも漫才でもなんでもいい。今あなたの心を動かしているものから学べと言いたい。筆者もそうしている。

 『去来抄』に、

 

 「俳諧の修行者は、己が好たる風の、先達の句を一筋に尊み学て、一句一句に不審を起し難をかまふべからず。若解しがたき句あらば、いかさま故あらんと工夫して見、或は巧者に尋明すべし。我俳諧の上達するに従ひて、人の句も聞ゆる物也なり。始より一句一句を咎メがちなる作者は、吟味の内に月日重りて、終に功の成りたるを見ず。」(『去来抄・三冊子・旅寝論』潁原退蔵校訂、一九三九、岩波文庫p.66)

 

とある。

 たとえば、今日でもギターを学ぶ者は、自分の好きなギタリストのコピーから入るし、漫画家になろうとする者は好きな漫画家のアシスタントになってその絵を描くことから始まることも多い。芸人も好きな芸人に弟子入りしてその技を盗むものであって、わざわざ嫌いなものから学ぶ必要はない。許六は芭蕉への弟子入りが遅れたが、弟子入り前から『阿羅野』『猿蓑』を隅々まで読んで芭蕉の技を盗もうとした。

 好きになれる、夢中になれる、それは自分の心の奥底に触れる何かがあるからだ。ただその何かは別の様々な感情の中に紛れている。自分自身の思いの強さだけがそれを突き止めることができる。心の中の真実は足し算ではない。紛らわしい似せ物をすべて引き算した所に現れる。

 孟子の四端の説の一つに惻隠之心というのがある。井戸に落ちかかっている子供がいれば助ける。ここに打算はないというものだ。それなら遠い地球の裏側に飢えた子供がいる。ならどうするべきか。助けたいという心がいくら真実でも、直接手を伸ばすことはできない。間接的に援助する方法はいろいろあるが、それを考えるのは理屈であって惻隠之心ではない。ましてそこにいろいろな思想が絡んできて、いろいろな政治的な立場の対立が絡んでくると、最初の助けたいという気持ちと全く違ったところに連れて行かれてしまう。思想の違いで互いに争い、世界を分断させ、世界中が憎しみに満たされてゆく。それでどうやって飢えた子供を助けろというのだ。

 大事なのは最初の初期衝動にどこまで留まり続けることができるかで、その初期衝動をできる限りそのまま動かさずにいれるかが大事だ。風雅の誠というのはそういうことだ。

 初期衝動から来る叫びには力がある。だが途中で思想に染まってしまった叫びはまがい物だ。対立と分断の中で憎しみに染まって行く。

 それと同じで、風雅の誠を知るにはただ好きなものをとことん極めるしかない。理屈に惑わされてはならない。

 『去来抄』に「始より一句一句を咎メがちなる作者は、吟味の内に月日重りて、終に功の成りたるを見ず。」とあるのは、理屈で考えるなということだ。

 ただ、これはあくまで作者になるための修行法であって、芭蕉論をしたいなら理屈で考えるしかない。芭蕉論は芭蕉の作品に感動する必要はない。自分の一番好きなもので風雅の誠を学び、その誠でもって推し進めて芭蕉を理解できればそれでいいし、評論はそれ以上のことはできない。

 

 「師のおもふ筋に我心をひとつになさずして、私意に師の道をよろこびて、その門を行と心得がほにして私の道を行事あり。門人よく己を押直すべき所也。」(『去来抄・三冊子・旅寝論』潁原退蔵校訂、一九三九、岩波文庫p.101)

 

 これはあくまで芭蕉の作品に感動し、そこから風雅を学ぶ場合だが、「我心をひとつになさずして」は芭蕉の句の中に見出した感動の根底にある自分自身の真情を見出さずにということで、それは風雅の誠が自分のものになっていないということを意味する。それがなければ、いくら芭蕉のように句を詠もうと思っても、自ずと俗情が混じってくる。

 

 「松の事は松に習へ、竹の事は竹に習へと、師の詞のおりしも私意をはなれよといふ事也。この習へといふ所おのがまゝにとりて終に習はざる也。習へと云は、物に入てその徴の顯て情感るや、句となる所也。たとへ物あらはに云出ても、そのものより自然に出る情にあらざれば、物と我二ッになりて其情誠にいたらず。私意のなす作意也。」(『去来抄・三冊子・旅寝論』潁原退蔵校訂、一九三九、岩波文庫p.101~102)

 

 「松の事は松に習へ」は単に実際の松の木を観察するということだけではなく、松の木に多くの人が何を感じてきたかということも含まれる。「松」という言葉の意味は単に物理的な対象を指すのではなく、「松」という言葉に人がいろいろな意味を込めて語ってきたその膨大な用例の総体でもある。

 両方だというのは、たとえば松あるあるの句を案じるなら、実際に松を見て、自分が発見したというだけでなく、みんなも同じように見ていると感じられることが重要になる。「確かにそうだけど、よくそんなところ見つけたな」ではあるあるにならない。自分が発見したのではなく、みんなが発見できるものが共通の言葉になる。

 松の事は単なる自分の個人的な発見ではなく、常にみんなも思っているのではないかと考えることで私意を離れることができる。

 「習へといふ所おのがまゝにとりて」というのは、自分は発見したけど他人からすれば「だから何なんだ」みたいな発見では意味をなさないということでもある。共感を生まなければそれは私意になる。

 「習へと云は、物に入てその徴の顯て情感るや、句となる所也。」というのは、たとえば松を見たら、その松の外見的な特徴だけでなく、それを見て古人から今の世に至るまでそれがどういう情を込めて語り交わされてきたかも含めてその特徴の意味を思い起こし、そこから湧き出てくる感情が句となる。

 近代の写生説はこの情の部分を欠いているため、いくら対象を描写しても情を共有できない句が多い。ただ、近代文学の考え方からすると、文学は私意私情を述べるが故に個と全体とを対峙させるものだから、あれはあれでいいのだろう。

 物をあらわに言い出る、つまり描写しても、そこに多くの人の共感できる情がないなら物(客体)と我(主体)が別々に分かれてしまい、我は別の我と主義主張で対立し、世間に分断と憎しみと争いを生む元になる。その対立を乗り越えるのが風雅の誠なのである。

 

 「唯師の心をわりなくさぐれば、そのいろ香我心の匂ひとなり移る也。詮義せざれば探るに又私意あり。せんぎ穿鑿せむるものは、しばらくも私意になるゝ道あり。たゞおこたらずせんぎ穿さくすべし。是を専用の事として名を地ごしらへと云。風友の中の名目とす。」(『去来抄・三冊子・旅寝論』潁原退蔵校訂、一九三九、岩波文庫p.102)

 

 「わりなし」はweblio古語辞典の「学研全訳古語辞典」に、

 

 「①むやみやたらだ。道理に合わない。分別がない。無理やりだ。

  出典源氏物語 桐壺

  「わりなくまつはさせ給(たま)ふあまりに」

  [訳] (帝(みかど)が桐壺更衣(きりつぼのこうい)を)むやみやたらに(おそばに)お付き添わせになるあまりに。

  ②何とも耐え難い。たまらなくつらい。言いようがない。苦しい。

  出典枕草子 節分違へなどして

  「節分違(せちぶんたが)へなどして夜深く帰る、寒きこと、いとわりなく」

  [訳] 節分の日の方違えなどして夜更けに帰るとき、寒いことは、まったく何とも耐え難く。

  ③仕方がない。どうしようもない。

  出典奥の細道 草加

  「あるはさりがたき餞(はなむけ)などしたるは、さすがにうち捨てがたくて、路次(ろし)の煩ひとなれるこそわりなけれ」

  [訳] あるいは辞退しにくい餞別(せんべつ)などをくれたのは、そうは言っても捨ててしまうことはできなくて、道中の苦労の種となったが仕方がない。

  ④ひどい。甚だしい。この上ない。

  出典枕草子 清涼殿の丑寅のすみの

  「ひがおぼえをもし、忘れたるところもあらば、いみじかるべきことと、わりなうおぼし乱れぬべし」

  [訳] (『古今和歌集』の和歌について)記憶違いをしていたり、忘れてしまった部分があるならば、大変なことだと、きっとひどく心配なさったにちがいない。◇「わりなう」はウ音便。

  ⑤この上なくすぐれている。何ともすばらしい。

  出典平家物語 一〇・千手前

  「優にわりなき人にておはしけり」

  [訳] 優雅でこの上なくすぐれている人でいらっしゃった。◇④の甚だしさがよい意味に使われるようになって生じた。

  参考「わりなし」に近い意味の言葉に「あやなし」がある。「わりなし」が自分の心の中で筋が通らないさまを表すのに対して、「あやなし」は対象の状態について筋が通らないさまを表す。」

 

と色々な意味があり、おおむね否定的な言葉だが、こうした言葉は逆に良い意味に転じられることもある。古代の「いみじ」や現代の「やばい」がそうであるように、より意味と悪い意味とが極端に両義的に用いられる言葉はいくつかある。

 「わりなし」の両義性は「無心」という言葉の両義性に近いかもしれない。「無心」は本来「有心」に対して否定的に用いられる言葉だったが、邪心が無いという意味で今では肯定的に用いられている。本来の意味を知らなければ西行法師の「心なき身」が理解できなくなる。

 この場合の「わりなし」も、理屈をこねくり回さず直感的にということではないかと思う。英語のno reasonは「何となく」という意味だが、日本語で「理屈抜きに」というと「この上なくすぐれている。何ともすばらしい。」の意味になる。

 芭蕉の句をいちいち細かく分析したりせずに直感的にすごいと思って、自分もこんな句を詠もうと思い「そのいろ香我心の匂ひとなり移る」ことになる。

 詮義は「詮議」で解き明かして論ずることをいう。この場合は一人で考えずに人と議論することをいう。詮議せずに一人で考えれば私意に陥る。詮議しても最初は私意に傾くが(「しばらく」は古語では「一時」の意味)、それでも色々な人の意見を聞いていけば私意を離れることができる。大事なのは一人で思い詰めるなということで、いろいろな人の声を聞くなら「たゞおこたらずせんぎ穿さくすべし。」となる。

 今日のオタクもネット上で盛んに議論している。問題を起こすのはその輪から外れて孤立してしまうような人間だ。

 この詮議穿鑿を繰り返し、みんなで議論してゆくことろ「地ごしらへ」という。「風友」は単に風雅を友とするというよりは、風雅を媒介とした友でもある。

4、巧者の病

 「巧者に病あり。師の詞にも、俳諧は三尺の童にさせよ、初心の句こそたのもしけれなどゝ、たびたび云ひ出られしも、皆巧者の病を示されし也。」(『去来抄・三冊子・旅寝論』潁原退蔵校訂、一九三九、岩波文庫p.102)

 

 巧者の病というのも、心の底から出る自然の情を下手に小細工して殺してしまうようなことはありがちなことだ。『去来抄』の、

 

 手をはなつ中におちけり朧月    去来

 

の句もその一例になる。芭蕉は「此句悪しきといふにはあらず。巧者にてただ謂まぎらされたる也。」と評している。

 弟の魯町が故郷の長崎に帰ってゆくとき、おそらく朝まだ暗いうちに旅立つ予定だったのだろう。折から春で西の空には朧月が見える。そのまま名残惜しくて、手を握り合ったままいつのまに月が沈んで朝になってしまい、そこでやっと手を離した、この句はそういう意味だったようだ。

 ただ、この句を読んだ人の多くはまず「手をはなつ中におちけり」が一体何のことか、一瞬でも考えてしまうだろう。筆者は答えを知るまでわからなかった。

 一読してよくわからない。考えた末に、ああそうか、別れで手を握り合いその手を放すまでの間ということか、とわかる。それは頭でわかるということで、最初から考えオチの謎句ならいいが、ここでは離別の情が即座に伝わらなければ意味がない。考えさせてしまった時点で情がどこかへ吹っ飛んでしまう。

 

 「實に入に氣を養ふと、ころすあり。氣先をころせば、句氣にのらず。先師も俳諧は氣にのせてすべしと有。相槌あしく拍字をそこなふともいへり。氣をそこなひころす事也。又ある時は我が氣をだまして句にしたるもよしともいへり。みな氣をすかし生て養の教也。」(『去来抄・三冊子・旅寝論』潁原退蔵校訂、一九三九、岩波文庫p.102)

 

 気が重要になるのは発句よりも付け句の方ではないかと思う。特に出勝ちの時はその場の空気にあった句を言い出すことが重要になる。

 「気先(きさき)」はコトバンクの「精選版 日本国語大辞典の解説」に、

 

 「① 人の気力の発するところ。気勢。きがまえ。意気ごみ。

  ※俳諧・去来抄(1702‐04)修行「今のはいかいは日頃に工夫を経て、席に望んで気先を以て吐べし」

  ※老妓抄(1938)〈岡本かの子〉「人の気先(キサキ)を撥ね返す颯爽とした若い気分が」

  ② 相場で、人気のこと。また、人気のおもむくところ。〔取引所用語字彙(1917)〕」

 

とある。

 『去来抄』の用例は興行に臨む際の心構えで、ある意味でスポーツに似ている。日頃から一生懸命練習を積み重ねた上で、試合には無心で臨むということだと思う。発句は何年も熟考して仕上げることもできるが、付け句はその場の即興でひねり出すもので、長考を嫌う。いかに素早くその場の流れに乗って句を付けられるかが勝負になる。

 日頃から良い作品に接し、風友と議論を重ねながら誠の情を追求し、地ごしらえをしても、興行の席では考えている余裕はない。その場の勢いで一気に句を言い出せなくてはならない。だから地ごしらえで得た理論は役に立つ時もあればかえって邪魔になる時もある。

 その場の勢いを理論が邪魔して殺してしまっては興覚めになる。発句にしても「手をはなつ中に」の句は、別れの悲しさ切なさをそのまま一気に句に乗せられればよかったものを、下手にこねくり回してその情が伝わらなくしている。付け句でもその場でみんな手を打って、面白い、分かると思わせなければいけない。さんざん考えた上でやっとわかったという句では、場の流れが滞って興覚めになる。

 「気にのせてすべし」というのはその場の空気にあった句を詠めということだ。相槌をうつにもタイミングがずれると話の腰を折ることにもなる。拍子を入れるにもタイミングがずれれば音楽を損なう。漫才でも突っ込みを入れるタイミングがずれればボケが生きてこない。間は重要だ。

 「我が氣をだまして句にしたるもよし」というのは、自分が詠みたい句ではなくみんなが待ち望んでる句を詠むということだろう。

 「気をすかす」というのは今でいう「気取る」という意味ではなく、古語でいう「だます」の意味だろう。スポーツでもただストレートに攻めるだけでなく、相手の出方に応じて騙すテクニックも必要なように、付け句は臨機応変にできなくてはならない。

 

 「門人巧者にはまりて、たゞ能句せんと私意を立て、分別門に口を閉て案じ草臥る也。おのが習氣をしらず、心のおろかなる所也。」(『去来抄・三冊子・旅寝論』潁原退蔵校訂、一九三九、岩波文庫p.102)

 

 芭蕉の門人の中にもこの巧者の病にはまって、一句一句良い句を付けなければならないと思って、廻りの空気を読まずに自分一人で考え込んで疲れてしまう人もいる。こうなると楽しく和気あいあいと楽しんでた場も沈みこんでしまい、重苦しい空気に包まれてしまう。こういう性格の人は気をつけなくてはならない。(ひょっとして去来さん?)

 

 「多年俳諧好たる人より、外藝に達したる人、はやく俳諧に入るとも師の云るよし、ある俳書にもみへたり。」

 

 どの俳書かは不明だが、許六は六芸に通じているし、芭蕉の門人には能楽師も何人かいる。もっとも許六の場合は「多年俳諧好たる人」にもあてはまるが。

 『笈の小文』に、「西行の和歌における、宗祇の連歌における、雪舟の絵における、利休が茶における、其の貫道する物は一なり。」と言っている以上、風雅の誠は当然それらからも学ぶことができる。

 『芭蕉俳諧論集』(小宮豊隆、横沢三郎編、一九三九、岩波文庫)に載せている支考の『十論為弁抄』第二段の抜粋に、

 

 「ある日故翁のいへりけるは、世界にあらゆる大道も小道も太極の一気より三皇にはじまりて五帝に伝へ、其後の成人賢人も其道に其法あるより、周公孔子を道の木鐸として、詩書礼楽法をさだめ、士農工商の芸をならはす。ましてや詩歌連歌には祖とうやまひ師とあがむべき百世の古人は数多なるを、今の俳諧といふは心は史記より伝へたれど、五七の言語に古人なしといはむ。」(『芭蕉俳諧論集』小宮豊隆、横沢三郎編、一九三九、岩波文庫p.54)

 

とある。

 風雅の道は太極の一気から生じるもので、先王の道も詩書礼楽のその貫道する物はは一なのだから、詩歌連歌はもとよりあらゆる芸能からもその道を学ぶことはできる。「俳諧に古人なし」というのは貞徳・宗因・芭蕉からしか学べないものではなく、あらゆるものから学ぶことができるという意味だった。

 芭蕉を研究するなら、その心は今のジャパンクールから学ぶこともできる。西洋のものでも、近代芸術は我々の道とは別系統の理念に支配されているが、古代のギリシャ・ローマや今日のポップカルチャーは基本的に貫通する物は同じなのではないかと思う。感動を排除しないなら、感動は基本的に一つだと思う。

 

 「師のいはく、學ぶ事はつねに有。席に望て文臺と我と間に髪といれず。思ふ事速に云出て、爰に至て迷ふ念なし。文臺引おろせば卽反故也と、きびしく云さるゝ詞もあり。或時は大木倒すごとし。鍔本に切込意得、西瓜切る如し。梨くふ口つき。三十六句皆やり句などゝ、いろいろにせめられ侍るも皆巧者の私意を思ひやぶらんとの詞也。師の心をよく執行し、つねに勤て事にのぞみて案じころす事なかれ。」(『去来抄・三冊子・旅寝論』潁原退蔵校訂、一九三九、岩波文庫p.102~103)

 

 もちろん、実際の興行の場で学ぶことは大きい。付け句は即興の勝負だから、席に着いたなら文台に座って捌く人に遠慮せず、治定した句が言い渡されたら間髪を入れずに次の句をひねり出さなくてはならない。迷ってはいけない。

 みんなが悩み込んでしまって場が滞ると、ならば今回は全部反故にするぞなどと厳しいことをいう時もあったようだ。「鍔本に切込」というのは刀の刃が鍔(つば)にあたるくらいの勢いということか。「梨くふ口つき」というのは梨を丸かじりにするときのように大きな口をあけ、ということか。近代俳句に、

 

 梨食ふと目鼻片づけこの乙女    楸邨

 

の句もあるが。

 「文臺引おろせば卽反故也」や「三十六句皆やり句」の言葉は曲解されている向きもあるが、それでは駄目だと言っているので、それでも良いと思わないように。

 こうした言葉が出るのも、何か誰もがひれ伏すような凄い句を付けてやろうとか思ってむっつり考え込んでしまうのを防ぐためで、句がなかなか出てこないと檄を飛ばすこともあったのだろう。

 延宝四年の桃青杉風両吟歌仙「時節嘸」の巻六句目の、

 

   発句脇されば名残の月寒し

 たそこい鐘は八ツか七つか

 

の句も、午前二時も過ぎて興行が深夜に至るのに、名残の裏の最後の月でつまずいてなかなか句が出ないので、「誰ぞ来い」と檄を飛ばす場面が描かれている。「八ツか七つか」は最後の月をこぼして月を七句にしてもいいんだぞというもう一つの意味がある。作者は記されていないが、多分桃青(芭蕉)。

 まあ、とにかく「案じころす事なかれ」、つまり考えすぎるなということ。

 

 「案ずるばかりにて出る筋にあるべからず。常勤て心の位を得て、感るもの動くやいなや句となるべし。氣をころしては心轉ぜず、則轉る心細くなりては、貫之がいと筋の幽なるものふとく、轉じては傳教大師の三みやく三の丈夫心不成と云事有まじ。皆いきて轉ずるに顯はるゝ筋なるべし。」(『去来抄・三冊子・旅寝論』潁原退蔵校訂、一九三九、岩波文庫p.103)

 

 付け句というのは考え込んだから出てくるというものではない。だから常日頃の修行が大事でその場で思い浮かんだものがすぐに句となるように練習を積まなくてはならない。その場の空気を無視しても面白い展開はできないばかりか、むしろ前句の心に執着してしまい展開が鈍くなる。

 「貫之がいと筋」は

 

   東へまかりける時、道にてよめる

 糸による物ならなくに別れ路の

     心ぼそくもおもほゆるかな

              紀貫之(古今集)

 

の歌のことで、糸がほどけるように道がどんどん細くなってゆくことをいう。『徒然草』第十四段には、

 

 「貫之が、糸による物ならなくにといへるは、古今集の中の歌屑とかや言ひ伝へたれど、今の世の人の詠みぬべきことがらとは見えず。その世の歌には、姿・ことば、このたぐひのみ多し。この歌に限りてかく言ひたてられたるも、知り難し。」

 

とある。

 「傳教大師の三みやく三の」は、

 

 阿耨多羅(あのくたら)三藐三菩提(さんみゃくさんぼだい)の仏たち

     我が立つ杣に冥加あらせ給へ

              伝教大師

 

の歌をいう。

 発想を変えなくていつまでも同じ所で考え込んでしまうと糸はほどけて細くなる。ほどけた糸を太くより直して発想を変えれば仏たちの冥加もある。

5、新み

 「新ミは俳諧の花也。せめて流行せざれば新みなし。新みは常にせむるがゆへに、一歩自然にすゝむ地より顯るゝ也。名月に麓の霧や田のくもり、と云は姿不易なり。花かと見へて綿畠、とありしは新ミ也。」(『去来抄・三冊子・旅寝論』潁原退蔵校訂、一九三九、岩波文庫p.103)

 

 この二句は『続猿蓑』にある。

 

   名月

               はせを

 名月に麓の霧や田のくもり

 名月の花かと見えて棉畠

  ことしは伊賀の山中にして、名月の夜この二句をなし出し

  て、いづれか是、いづれか非ならんと侍しに、此間わかつべ

  からず。月をまつ高根の雲ははれにけりこゝろあるべき初時

  雨かなと、圓位ほうしのたどり申されし麓は、霧横り水な

  がれて、平田渺々と曇りたるは、老杜が唯雲水のみなり、

  といへるにもかなへるなるべし。その次の棉ばたけは、言葉

  麁にして心はなやかなり。いはヾ今のこのむ所の一筋に便あ

  らん。月のかつらのみやはなるひかりを花とちらす斗に、と

  おもひやりたれば、花に清香あり月に陰ありて、是も詩哥の

  間をもれず。しからば前は寂寞をむねとし、後は風興をもつ

  ぱらにす、吾こゝろ何ぞ是非をはかる事をなさむ。たヾ後の

  人なをあるべし。                   支考評

 

と支考の評もついている。

 この評で引用されている歌は、

 

 月をまつ高根の雲ははれにけり

     こゝろあるべき初時雨かな

              西行法師(新古今集)

 

の歌で「圓位」は西行の法名になる。

 

 名月に麓の霧や田のくもり     芭蕉

 

の句はこの西行の歌の心にも通うもので、西行の歌は時雨の雲の晴れて高根の月を見る感動を表したものだが、芭蕉の句はそれを峰に上れば田の雲の上に出て名月を見る感動を詠む。いずれも雲の晴れ、峯よりもはるかに遠い月の澄み切った姿に心洗われる。

 これに対し、

 

 名月の花かと見えて棉畠      芭蕉

 

の句は「花かと見えて」がやや砕けた言い回しで、綿畠に名月に照らし出された桜の花のような華やかさを見出す。

 名月は秋で花は春。本来同居することのないものの同居は、誰もが見てみたいものだ。春の月は秋と違い朧に霞み、なかなか短い桜の開花に合わせてくれない。名月のもとに現れる綿畠は、その代用にもならんかというわけだ。

 芭蕉はしばしば弟子に二つの句を示し、どちらがいいか尋ねることがあったようだ。これもその一つなのだろう。おそらくどちらか一句を入集させよと言われたのに撰べなくて、このような形で記したのではないかと思う。

 土芳は「田のくもり」を不易とし、綿畠を新味とする。ただ、これは不易の句と流行の句とを分けて考えているかというとそうではない。

 

 「師の曰、乾坤の變は風雅のたね也といへり。静なるものは不變の姿也。動るものは變也。時としてとめざればとゞまらず。止るといふは見とめ聞とむる也。飛花落葉の散亂るも、その中にして見とめ聞とめざれば、おさまることなし。その活たる物だに消て跡なし。」(『去来抄・三冊子・旅寝論』潁原退蔵校訂、一九三九、岩波文庫p.103~104)

 

 乾坤は天地とほぼ同じ。四季の移り変わりや生き物の生き死になど、すべて移ろいゆくものは風雅の種になる。この移ろいは広義の「流行」でもある。ここで「新ミは俳諧の花也。につながる。

 「たね」は古今集仮名序の「やまとうたは、ひとのこころをたねとして、よろづのことのはとぞなれりける。」の「たね」でもある。ちなみに近代の業界言葉ではこの「たね」をひっくりかえして「ネタ」と言っている。

 世界が常に移ろいゆくから生があり死があり出会いがあり別れがある。その都度喜怒哀楽を繰り返し、それが風雅のたねになるし、俳諧のネタにもなる。移ろいゆっく世界の中で繰り返される心の動き、それが「たね」になる。

 これに対して「静なるものは不變の姿也」というのは喜怒哀楽の変化にかかわらず心の底に静かに存在し続ける「誠」のこころになる。不變は不易と同じと言っていい。

 動いて止むことのない世界・宇宙は「時としてとめざれば」心に留まることはないし、気に留まることすらない。すべては流れ去って行くだけで意識されることもない。だが我々はいつもそれを止めている。われわれの意識というのは移ろいゆく世界をほんの一瞬だけ留めている。それは何秒とかいう単位では測れない。おそらく特殊な量子的な場が脳内で生じることで、わずかに可逆的な時間が生じているのだろう。それが時に逆らって時を止めている。「止るといふは見とめ聞とむる也」というのは物理学的に言えばそういう想定になる。少なくとも止まるから我々はそれを意識し、表現し、言葉にすることが可能になる。

 花が散り葉が落ちるのも、我々が時間を一瞬止めてそれを観測しなければ存在することもない。意識されることもなく生成消滅を繰り返す。

 

 「又、句作りに師の詞有。物の見へたるひかり、いまだ心にきえざる中にいひとむべし。又、趣向を句のふりに振出すといふことあり。是その境に入て物のさめざるうちに取て姿を究る教也。句作になると、するとあり。内をつねに勤て物に應ずれば、その心のいろ句となる。内をつね勤ざるものは、ならざる故に私意にかけてする也。」(『去来抄・三冊子・旅寝論』潁原退蔵校訂、一九三九、岩波文庫p.104)

 

 句作りでいうと、こうした変化してやまない世界で見えた光景を消える前に言葉にするのが一番良い。それは写生説でいうような外見の描写ではなく、対象とそれに動かされた心との未分の状態のものが言葉になれば、流行する対象に誠の心が乗っかり流行にして不易の句になるということだ。

 花が咲くのを見て喜びの心が乗っかり、花が散るのを見て悲しみの心が乗っかる、この初期衝動がそのまま発露された句が一番力を持つ。

 ただ、実際の所ただ「花が散るのが悲しい」と言ったところで、どの程度本当に悲しいのか伝わらない。人はいろいろな状況で同じ言葉を口にする。それだと悲しくもないのに言った嘘の言葉と区別がつかなくなる。そこで従来の言葉と常に差別化していかなくてはならない。そこで言葉に今までにない姿を与えなくてはならない。それが趣向を凝らすということだ。

 その時感じた心を心の中で持続させ、それが消えないうちに今までにない新しい言葉の姿を見つけ出す。ここで初めて一つの作品になる。

 句を作る時には「句になる」という時と「句にする」という時がある。「句になる」というのは言葉が自然に天から降りてくるように言葉になる。これはどのジャンルにおいても後世に残るような名作の生まれる瞬間なのではないかと思う。これに対し「句にする」というのは、うんうん唸りながらやっとのことで句に仕上げる場合だ。

 芭蕉でいえば「猿に小蓑を」の句は天から降りてきたが、「古池や」の句は上五が決まらず悩んだ末に今の形になった。ただ、悩んで言葉を探して句を作るにしても、その間に最初の衝動を忘れたのでは別の句になってしまう。

 心に思うことを長く心に留められるのも才能なのかもしれない。考えているうちに元の心を忘れてしまったのでは、誠の心は失われ私意に流れてしまう。

 「閑さや」の句も、立石寺で詠んだ句は、

 

   立石寺

 山寺や石にしみつく蝉の声     芭蕉

 

の句で曾良の『俳諧書留』に記されている。これが、

 

 淋しさの岩にしみ込む蝉の声    芭蕉

 さびしさや岩にしみ込む蝉のこゑ  同

 

の句を経て最終的に、

 

 閑さや岩にしみ入蝉の声      芭蕉

 

の句になった時は、あの時感じた心の動きを三年にわたって記憶し続けて、そして三年たってようやく天から降りてきたといってもいいのだろう。

 多くの作者は日々の生活の忙しさの中に紛れて、過去の感動もいつしか忘れてしまい、なかなかこうした真似はできない。でもいつかこれを書きたい、これを書くために生まれてきたんだというものを心に持ち続ける人は、やがて傑作を生む可能性が高い。それがない者は人の物真似で偽物を作り続けるしかない。

6、本歌のある句

 「師のいはく、体格は先優美にして一曲有は上品也。又たくみを取、珍しき物によるはその次也。中品にして多は地句也。師の句をあげて、そのより所をいさゝか顯す。」(『去来抄・三冊子・旅寝論』潁原退蔵校訂、一九三九、岩波文庫p.104)

 

 上品中品は『文選』の分類だが、その下のものは下品といわずに地句という言葉を用いている。まあ、地面は下にあるし、底辺の意味もある。中国の漢詩の文化は階級が限られていたが、俳諧は大衆文学で広大な裾野を持っている。そこには膨大な数の凡庸な句、詠まれたそばから人の心に留まることもなく忘れ去られて行く作品群がこの時代から存在していた。

 ここで師である芭蕉の句を取り上げて例示することになる。

 

 「何の木の花とはしらず匂ひかな

 此句は本哥也。西行、何事のおはしますとはしらねどもかたじけなさの涙こぼるゝ、とあるを俤にして云出せる句なるべし。」(『去来抄・三冊子・旅寝論』潁原退蔵校訂、一九三九、岩波文庫p.104)

 

   伊勢山田

 何の木の花とはしらず匂哉     芭蕉

 

の句は『笈の小文』の旅の伊勢での句で、

 

 何ごとのおはしますをば知らねども

     かたじけなさの涙こぼれて

              西行法師

 

の歌を本歌にしている。ここでは本歌と俤を区別していない。この辺の境界はあいまいで、付け句の場合の「俤付け」は従来の本歌付けや本説付けと区別して匂い付けの一種として位置付けるなら、明確な出典のない、何となくそれっぽいという程度の付け方ということになる。『猿蓑』の「市中は」の巻三十句目の、

 

   草庵に暫く居ては打やぶり

 いのち嬉しき撰集のさた      去来

 

の句は、何となく西行のことだろうというのはわかるが、特に故事に基づいているわけではない。

 「何の木の」の句は本歌がはっきりしている。もとにあるのは伊勢神宮に参拝した時の身の引き締まるような有難さであろう。

 ここで重要なのは「何だかわからないけど」、つまり西行は僧でであるため神社の有難さに対して理解は示していないが、それでも何か、というところだ。芭蕉もまた旅をするときは僧形で『野ざらし紀行』の旅の時も、

 

 「僧に似て塵有(ちりあり)。俗ににて髪なし。我僧にあらずといへども、浮屠(ふと)の属にたぐへて、神前に入事(いること)をゆるさず。」

 

と記している。単に伊勢神宮の目出度さを詠むのではなく、僧の立場でというところで形を得ようとしたときに、最終的に西行の歌の「何ごとのおはしますをば」に「何の木の花」という姿を与えてこの句になったと思われる。

 これは「物の見へたるひかり、いまだ心にきえざる中にいひとむ」句ではなく、「趣向を句のふりに振出す」例だとも言えよう。西行の歌により具体的な姿を与えたといってもいい。

 句の最初の衝動は伊勢での感慨が西行の歌の本意とつながって不易を直感したことにあり、姿は俳諧にふさわしくより具象的な木の匂いとして表している。

 

 「有明の三十日にちかしもちの音

 此句は兼好、有とだに人にしられて身のほどやみそかにちかき明ぼのの月、とある本哥を餘情にしての作なるべし。」(『去来抄・三冊子・旅寝論』潁原退蔵校訂、一九三九、岩波文庫p.104~105)

 

この句は元禄六年の暮の句で、

 

 有明もみそかにちかし餅の音    芭蕉

 

は元禄八年刊支考編の『笈日記』の巻軸に掲げ、

 

   兼好法師が哥に

 ありとだにひとにしられて身のほどや

   みそかにちかき有明の月

 

と後に付け加えている。

 ネット上の川平敏文さんの『兼好伝と芭蕉』によると、連歌師黒川由純の『徒然草拾遺抄』(貞享三年成・元禄七年増補)に、

 

 「右病中の詠也

   ありとたに人にしられぬ身の程や

     みそかに近きあかつきの月

  右生前の詠にして、去る月廿八日詠ずるの由申上也。」

 

とあるという。

 この歌が兼好法師のものかどうか確証はないようだ。

 芭蕉の句とこの歌は、元禄七年の路通の『芭蕉翁行状記』にも言及がある。芭蕉の死と兼好法師の死とが結び付けられる内容になっている。

 芭蕉が果たして元禄六年の暮に死の近いことを意識していたかどうかはわからない。ただ年の暮れを寂しく過ごしていて、晦日に近い明け方によその家の餅の音を聞くだけになったと思い、兼好法師の歌を思い浮かべたのかもしれない。いずれにせよ兼好法師への共鳴の中に不易を感じるとともに、「餅の音」で兼好法師の歌にない流行の姿を与えている。

 

 「高水に星も旅寢や岩のうへ

 此句は小町が、石の上に旅寢をすればいとさむし苔の衣を我にかさなん、と云心の取ての句なるべし。」(『去来抄・三冊子・旅寝論』潁原退蔵校訂、一九三九、岩波文庫p.105)

 

 元禄六年七月七日、雨の七夕の夜に杉風が芭蕉庵を訪ねてきた時の句とされている。元禄九年刊の史邦編『芭蕉庵小文庫』に収録されている。

 

    弔初秋七日雨星

   元禄六文月七日の夜風雲天に

   みち白波銀河の岸をひたして

   烏鵲も橋杭を流し一葉梶を

   ふきをるけしき二星も屋形を

   うしふべし。今宵なほ只にす

   ごさむも残り多しと一燈かかげ

   添る折ふし遍照小町が哥を

   吟ずる人あり。是によって此二

   首を探りて雨星の心をなぐさ

   めむとす

    小町が哥

 高水に星も旅寢や岩のうへ     はせを

    遍照が哥

 たなばたに貸さねばうとし絹合羽  杉風

 

とある。

 和歌の方は後撰集の贈答歌で、

 

 岩の上に旅寝をすればいと寒し

     苔の衣を我に貸さなん

             小野小町(後撰集)

 世をそむく苔の衣はただ一重

     貸さねば疎しいざ二人寝ん

             僧正遍照(後撰集)

 

になる。

 句の方は「高水」は大雨のこと。大雨で星も岩の上で旅寝をしているのだろう、と小町の「岩の上に旅寝をすれば」に掛けて織姫の旅寝を想起させれば、杉風が遍照の「貸さねば疎し」の言葉を取りつつ、苔の衣を織姫彦星にふさわしく「絹合羽」とする。

 合羽はウィキペディアに、

 

 「合羽は当初は羅紗を材料とし、見た目が豪華なため、織田信長や豊臣秀吉などの武士階級に珍重された。江戸時代に入ると、富裕な商人や医者が贅を競ったため、幕府がこれを禁止し、桐油を塗布した和紙製の物へと替わっていった。」

 

とある。絹の合羽が本当にあったのかどうかはわからない。

 

 「ほとゝぎすなくや五尺のあやめ草

 此句は、ほととぎすなくや五月のあやめ草、といふ哥の詞を取ての句なるべし。」(『去来抄・三冊子・旅寝論』潁原退蔵校訂、一九三九、岩波文庫p.105)

 

 これは元禄五年の句。元禄五年刊の支考編『葛の松原』に収録されている。

 

 ほとゝぎすなくや五尺の菖草    芭蕉

 

の句で、

 

 郭公なくや五月のあやめぐさ

     あやめも知らぬ戀もするかな

             よみ人しらず(古今集)

 

の上句の五月を五尺と一字変えただけの句だ。わずかな違いだが尺の一字であやめに姿を与えている。

 

  「花のうへこぐとよみ給ひける古きさくらもいまだ蚶滿寺の

   しりへに殘りて、影浪を浸せる夕ばへいと凉しけれバ

  夕ばれやさくらに凉む浪の華

 此句は古哥を前書にして、其心を見せる作なるべし。(『去来抄・三冊子・旅寝論』潁原退蔵校訂、一九三九、岩波文庫p.105)

 

 句の方は不玉編『継尾集』に収録されたもので、象潟へ行った時の句だが『奥の細道』には入っていない。『継尾集』では前書きは「影浪を浸せる夕ばへ」ではなく「陰浪を浸せる夕晴」になっている。

 

 ゆふばれや桜に凉む浪の花     芭蕉

 

 「花のへこぐ」の歌は、

 

 きさかたの桜は波にうづもれて

     はなの上こぐあまのつり舟

             西行法師

 

で、散った花の水に浮かぶ中を行く舟を詠んだもので、その心を引き継ぎながらも、季節は夏で桜の季節ではなかったので、水の白く波立つさまを桜の花に喩えた「浪の花」という言葉を用い、夕涼みの句にしている。

 水に浮かぶ花びらを今では「花筏」というが、芭蕉の時代でもこの言葉はまだ用いられていなかった。永正十五年(一五一八年)『閑吟集』や寛永十 (一六三三年) の『犬子集』にも見られる言葉ではあるが、あまり普及はせず、近代俳句でもこの言葉はわりと最近なのではないかと思う。

 本歌のある句というのは、本歌から本意本情(不易)を取っていて、それが俳諧に於いてどのような姿(流行)を与えられるかがわかりやすい。

7、白露横江

 「ほとゝぎす聲横たふや水の上

 此句はさせる事もなけれども、白露横といふ奇文を味合たると也。一たびは聲や横たふ、とも、一聲の江に横たふや、とも句作有。人にも判させて後、江の字抜て水の上、とくつろげて、句の匂ひよろしき方定る。水光接天白露横江の横、句眼なるべしと也。」(『去来抄・三冊子・旅寝論』潁原退蔵校訂、一九三九、岩波文庫p.105~106)

 

 「水光接天白露横江」の出典は蘇軾の『赤壁賦』で、『前赤壁賦』『後赤壁賦』とある中の前の方にこの詩句がある。その一部を引いておく。

 

 「壬戌之秋、七月既望、蘇子與客泛舟、遊於赤壁之下。清風徐来、水波不興。挙酒蜀客、誦明月之詩、歌窈窕之章。少焉月出於東山之上、徘徊於斗牛之間。白露横江、水光接天。縦一葦之所如、凌萬頃之茫然。」

 (壬戌の年の秋、七月の十六夜、蘇子は客と船を浮かべ、赤壁のもとに遊ぶ。涼しい風が静かに吹くだけで波もない。酒を取り出して客に振る舞い、明月の詩を軽く節をつけて読み上げ、詩経關雎の詩を歌う。やがて東の山の上に月が出て射手座山羊座の辺りをさまよう。白い靄が長江の上に横たわり、水面の光は天へと続く。小船は一本の芦のように漂い、どこまでも広がる荒涼たる景色の中を行く。)

 

 靄がかかった広大な長江の水の上に、暗くなって上った月が白く照らす。薄月とそれを写す水が淡く光り、なかなか見られない光景を映し出している。

 芭蕉の句は月ではなく、水の上に聞こえてくるホトトギスの声の珍しさを詠んだもので、

 

 ほととぎす声横たふや水の上

 一声の江に横たふや時鳥

 

の二句を作ってどちらが良いか沾徳に判を求めている。このことは元禄六年四月二十九日付の荊口宛書簡に記されている。

 

 「ほとゝぎすの句も工案すまじき覚悟に候處、愁情なぐさめばやと、杉風・曾良、水邊のほととぎすとて更にすすむるにまかせて、与風存寄候句、

  ほとゝぎす聲や横ふ水の上

と申候に、又同じ心にて、

  一聲の江にふやほとゝぎす

 水光接天、白露横江の字、横、句眼なるべしや。二つの作いづれにやと推敲難定處、水沼氏沾徳というふ者吊来れるに、かれ物定のはかせとなれと、兩句評を乞ふ。

 沾曰、横江の句、文に對して考之時は句量尤いみじかるべければ、江の字抜きて水の上とくつろげたる句の、にほひよろしき方におもひ付べきの条、申出候。兎角する内、山口素堂・原安適など詩哥のすきもの共入来りて、水の上の究よろしきに定まりて事やみぬ。させる事なき句ながら、白露横江と云奇文を味合て御覧可被下候。是又御懐しさのあまり、書付申事に候。」(『芭蕉書簡集』萩原恭男校注、一九七六、岩波文庫p.233~234)

 

 この沾徳の判には許六が異議を唱えていて、『俳諧問答』に記している。筆者の判については「しろさうし」の「11、切れ字」の所で触れているのでそちらの方を参照。

8、早行の残夢

  「廿日あまりの月かすかに山の根ぎハいとくらく、駒の蹄も

   たどたどしくて、落ぬべきあまたゝび也けるに數里いまだ雞

   鳴ならず。杜牧が早行の殘夢、小夜の中山におどろく

  馬に寢て殘夢月遠し茶の煙

 此句、古人の詞を前書になして風情を照す也。初は、馬上眠からんとして殘夢殘月茶の煙、と有を、一たび、馬に寢て、そ初五文字をしかへ、後又句に拍子有てよからずとて、月遠し茶の煙、と直されし也。」(『去来抄・三冊子・旅寝論』潁原退蔵校訂、一九三九、岩波文庫p.106)

 

 句の前書きは『野ざらし紀行』の文とは若干異なっている。元禄八年刊支考編の『笈日記』の前書を写したと思われる。『野ざらし紀行』の方は、

 

 「二十日余のつきかすかに見えて、山の根際いとくらきに、馬上に鞭をたれて、数里いまだ鶏鳴ならず。杜牧が早行の残夢、小夜の中山に至りて忽(たちまち)驚く。

  馬に寝て残夢月遠し茶のけぶり」

 

とある。杜牧の『早行』という詩は、

 

   早行     杜牧

 垂鞭信馬行  数里未鶏鳴

 林下帯残夢  葉飛時忽驚

 霜凝孤鶴迥  月暁遠山横

 僮僕休辞険  時平路復平

 

 鞭を下にたらし、ただ馬が行こうとするがままにまかせ、

 数里ほどやって来たのだが、未だ鶏鳴の刻には程遠い。

 林の下に明け方の夢の続きをぼんやりと漂わせていたのだが、

 落ち葉の飛び散る音にはっと驚き目がさめた。

 降りた霜がかちんかちんに固まり、ひとりぼっちの鶴がはるか彼方に見え、

 暁の月は遠い山の端に横たわる。

 召使の男はけわしい顔をして休もうと言う。

 それもいいだろう。時は平和そのもので、道もまた同じように平和そのものだ。

 

というもので、「月かすかに見えて、山の根いとくらきに」は「月暁遠山横」、「馬上に鞭をたれて、数里いまだ鶏鳴ならず」は「垂鞭信馬行、数里未鶏鳴」、「早行の残夢」は「林下帯残夢」、「忽驚く」は「葉飛時忽驚」という具合に、この文章の多くが杜牧の詩からの引用されている。

 『野ざらし紀行』では「馬上に鞭をたれて」と「垂鞭信馬行」でほぼそのまんまなのに対し、『笈日記』の方は「駒の蹄もたどたどしくて、落ぬべきあまたゝび也けるに」とやや膨らましている。

 発句の方は、最初、

 

 馬上眠からんとして殘夢殘月茶の煙

 

だったのが、五七五も形に近づけ「殘夢殘月」の軽い調子を嫌うことで天和調からの脱却が図られている。

9、物語の句

 「ちる花や鳥もおどろく琴の塵

 この若葉の巻によりて、詞を用いられし句なるべし。」(『去来抄・三冊子・旅寝論』潁原退蔵校訂、一九三九、岩波文庫p.106)

 

 「ちる花や」の句は制作年次は不明の元禄十年刊其角編の『末若葉』所収で、

 

   粛山子のもとめ畵は探雪なり

   琴ト笙ト太鼓ト讃のぞまれしに

 散花や鳥もおどろく琴の塵     翁

   みてひとつあそばして

      山の鳥をも驚かし給へ

  左

 青海や太鼓ゆるまる春の声     素堂

  右

 けしからぬ桐の一葉や笙の声    其角

 

の三句が組になっている。

 詞書にある通り、この三句は画讃で、中央に芭蕉の句と琴の絵、右に其角の句と笙の絵、左に素堂の句と太鼓の絵があったようだ。

 「若葉の巻」は若紫の巻の間違いとされている。若紫巻の源氏の君が北山の僧都の所を離れる朝に、左大臣家から迎えのものが来て盃を上げ、花の下で頭中将が竜笛を吹き鳴らし、左中弁の君が扇をパーカッションにして『葛城』という催馬楽を歌い出すと、篳篥お付きのものの篳篥や笙も加わり、北山の僧都も七弦琴を持ってきて、

 

 「これ、ただ御手ひとつあそばして、おなじくは、山のとりもおどろかし侍らん」

 (ならば、ぜひ一曲弾いていただいて、どうせなら山の鳥も驚かしてやりましょう。)

 

と言って源氏の君の弾くようにせがむ場目を本説にしている。

 

 散花や鳥もおどろく琴の塵     芭蕉

 

 本説を取る時にはオリジナルと少し変える。ここでは咲き誇る花を散る花に変えている。そして鳥も驚かすような琴の演奏が始まるのだが、そこは俳諧なので、僧都が持ってきたのは長いこと使われずに埃を被っていた琴で、鳥を驚かせたのはその埃の方だった、という落ちにする。

 ここで芭蕉はもう一つの故事を思い起こさせようとしたのだろう。それは陶淵明が弦のない琴を傍らに置いて撫でていたという故事で、『荘子』斉物論の、昭文のような後世にまで名を残すような琴の名人の演奏でも、ひとたび音を出してしまえば、演奏されなかった無数の音がそこなわれるというところから来たものだろう。

 塵を払って琴を弾いてしまえば、無限の音は損なわれ、鳥はその音の価値すら知らずに驚いて飛び去る。それと同じように、この琴の絵は音が出ないからいいのだ、とそういう意味もあったのではないかと思う。

 それでもここは源氏の君の北山の僧都との別れの時のように、琴を弾いてくれと左から、

 

 青海や太鼓ゆるまる春の声     素堂

 

と海に向かって、太鼓の音が春だからといって緩むことなく響き渡り、右から、

 

 けしからぬ桐の一葉や笙の声    其角

 

と笙を吹くと、桜の花に混じって秋のように桐一葉落ちてくるなんて怪しからんとなる。ただ、この「けしからぬ」も「いみじ」と同様、良い意味に転じて用いる用法もある。

 

 「粽結ふ片手にはさむ額かミ

 此句、物がたりの躰と也。去來集撰の時、先師の方より云送られしは、物がたりの姿も一集にはあるべきものとて送ると也。」(『去来抄・三冊子・旅寝論』潁原退蔵校訂、一九三九、岩波文庫p.106)

 

 このことは『去来抄』「修行教」にも記されている。

 

 「浪化曰、今いまの俳諧に物語等などを用ゆる事はいかが。去来曰、同くば一巻に一二句あらまほし。猿の待人入し小御門の鎰も、門守の翁也。此撰集の時物語等などの句く少しとて、粽結ふ句を作して入給へり。」(『去来抄・三冊子・旅寝論』潁原退蔵校訂、一九三九、岩波文庫p.76)

 

 「去來集撰の時」は『猿蓑』のことで、

 

 粽結ふかた手にはさむ額髪     芭蕉

 

が芭蕉の句だということはわかる。問題はこの句がどの場面から取った句なのか、今となってははっきりしないし、『三冊子』も『去来抄』もヒントとなるような言葉がない。

 以前筆者が「『去来抄』を読む」を書いたときは、『源氏物語』蛍巻の物語に熱中する玉鬘の乱れ髪を、場面が端午の節句の後だけに、粽結う姿に作り直したのではないかと思ったが、今でも他に納得する答えは得られていない。

 多分芭蕉さんは母親のような年上でちょっとやつれたような生活感のある熟女が好みで、それは「芋洗う女」の句にもよく表れていると思う。この句には個人的に思い入れがあって、物語の句だと言って強引にねじ込んだ可能性もある。

 

  「此境はひわたるほどゝいへるもこゝの事にや

  かたつむり角ふりわけよ須磨明石

 此句は須の巻の詞を前書にしての句なり。」(『去来抄・三冊子・旅寝論』潁原退蔵校訂、一九三九、岩波文庫p.106~107)

 

 これも『猿蓑』の句。須磨明石の句だが、『笈の小文』には出てこない。須磨と明石を隔てる鉄拐山などの今日では須磨アルプスと呼ばれる山塊を蝸牛の殻に見立て、左右に角を振り分ければ須磨と明石になるという句だ。鵯越(ひよどりごえ)で知られている一之谷もここにある。

 この前書は『源氏物語』須磨巻の、

 

 「あかしの浦は、ただはひわたるほどなれば、よしきよの朝臣、かの入道のむすめを思ひ出でて、ふみなどやりけれど、返事(かへりごと)もせず。」

 (明石の浦は海伝いに行けばすぐなので、良清の朝臣はあの入道の娘を思い出して手紙を書いたりしましたが返事がありません。)

 

から取っている。海伝いに行けばすぐでも、陸路は険しい山に阻まれている。

10、観音の甍

 「觀音のいらか見やりつはなの雲

 此句の事、或集にキ角云。鐘は上野か淺草か、と問へし前のとしの吟也。尤病起の眺望成べし。一聯二句の格也。句を呼て句とするとあり。さもあるべし。」(『去来抄・三冊子・旅寝論』潁原退蔵校訂、一九三九、岩波文庫p.107)

 

 貞享三年春の句で元禄十年刊其角編の『末若葉』所収。

 

 觀音のいらかみやりつはなの雲   翁

   かねは上野か浅艸かと聞えし

   前の年の春吟也尤病起の眺望成

   へし一聯二句の格也句ヲ呼テ句とす

 

とある。

 

 花の雲鐘は上野か浅草か      芭蕉

 

の句はこの翌年の春の句で、この句と「観音の」の句は連作のようなものだという。

 当時は高い建物がないので、深川の芭蕉庵から隅田川の方を見やると、そのはるか向こうに上野山の寛永寺の甍が、それを取り巻く花の雲の上に見えたのだろう。

 一年後に再び寛永寺の花の雲が見えた時、その甍の姿を隠し、鐘は上野か浅草か、と詠む。

 

 観音のいらか見やりつはなの雲

 花の雲鐘は上野か浅草か

 

とまるで同じ時に続けて読んだかのような感がある。

11、字余りの句

 「朝㒵や晝は錠おろす門の垣

  碪うちて我に聞せよや坊が妻

  枯枝に烏のとまりけり秋の暮

 此句ども字餘り也。字餘りの句作の味はひは、その境にいらざればいひがたしと也。かの、人は初瀨の山おろしよと有、文字餘の事など云出て、なくてなりがたき所を工夫して味ふべしと也。」(『去来抄・三冊子・旅寝論』潁原退蔵校訂、一九三九、岩波文庫p.107)

 

 字余りの句は読み上げた時に二拍で刻むところに三連のリズムが生じ、そこだけが強調されて形になる。字余りが効果的なのは、句の盛り上げたい所とこの強調の三連リズムが一致するときで、無駄に字を余らせているのではない。

 朝顔や昼は錠おろす門の垣     芭蕉

 

の句は元禄六年の「閉関之説」の句で、病気の悪化のため門を閉ざし暫く籠るという時の挨拶の句でもある。

 朝顔はかつ天和二年に、

 

 朝顔に我は飯食う男哉       芭蕉

 

の句を詠んでいる。これは其角への自己紹介の句だった。その朝顔に飯食う我は昼は錠を下ろします、挨拶する。この句の一番重要な「おろす」の所が強調されるように字余りになっている。

 

 碪打て我にきかせよや坊が妻    芭蕉

 

の句は『野ざらし紀行』の旅で吉野の宿坊に泊まった時の句で、

 

 みよしのの山の秋風さよふけて

     ふるさと寒くころも打つなり

             藤原雅経(新古今集)

 

を本歌にしている。

 この句も「砧打つ」がテーマなので、そのテーマを冒頭にもってきて「きぬた・うちて」と三連を刻むことで強調されている。

 

 枯枝に烏のとまりけり秋の暮    芭蕉

 

 これは元禄二年刊荷兮編の『阿羅野』に収録された時の形で、中七が二文字余らせて九文字になっている。これによってリズム的には「からすの」はそのままで「とまりけり」の所が三拍五連になる。強調されるのは「とまりけり」の所になる。

 この句はもともと天和の破調の句で、延宝九年刊高政編の『ほのぼの立』には、

 

 枯枝に烏のとまりたりや秋の暮   桃青

 

の形で発表されたが、一文字多いだけでリズムは「とまりたりや」が三拍六連で二拍づつ終わるため、かえって破調の効果は弱くなり、下五の「秋の暮」へと滑らかに流れていく。天和期にはこの滑らかな調子の良さの方が好まれたのだろう。土芳が例に挙げている和歌、

 

 うかりける人を初瀬の山おろしよ

     はげしかれとは祈らぬものを

             源俊頼(千載集)

 

の場合も「やまおろしよ」の所で三連のフロウが生じ、ここが強調されることになる。

12、ざれたる句

 「初雪にうさぎの皮の髭つくれ

 此句、山中に子どもと遊びて、と前書あり。初雪の興也。ざれたる句は作者によるべし。先は實體也。猶あるべし。」(『去来抄・三冊子・旅寝論』潁原退蔵校訂、一九三九、岩波文庫p.107)

 

 この句は元禄二年冬の句で、土芳の『芭蕉翁全伝』ではこの形だが、最初に発表されたときに元禄三年刊其角編の『いつを昔』では、

 

 雪の日に兎の皮の髭作れ      芭蕉

    山中子供と

      あそびてと有

 

の形になっている。

 戯れたる体は真似できるものではなく、まずは実の体を学ぶようにとある。

 この句についてはかつて「『三冊子』を読む」に、

 

 「たとえば子供が遊んでいて、雪で兎の形をつくる。しかし、そうおとなしく遊んでばかりもいられず、別の子供が雪の塊をぶっつけてくると、今しがた作った雪兎をつかんで投げつける。顔に雪がついて真っ白になる、それが「兎の皮の髭」ではなかったか。芭蕉もしばしその子供の雪遊びに加わって、顔に雪の髭ができる。雪の髭のついた顔はあたかも白髭の老人のようで、翁の風情がある。そう、時ならぬ翁の登場こそ芭蕉の心を動かしたのではなかったか。」

 

と書いたが、今のところそれ以上の答えはない。

13、節季候の句

 「節季候のくれバ風雅も師走哉

 此句、風雅も師走哉、と俗とひとつに侍る。是先師の心也。人の句に、藏やけて、と云句有。とぶ蝶の羽音やかまし、といふ句あり。高くいひて甚心俗也。味べし。」(『去来抄・三冊子・旅寝論』潁原退蔵校訂、一九三九、岩波文庫p.108)

 

 句は元禄四年刊路通編の『俳諧勧進牒』で、

 

    果ての朔日の朝から

 節季候の来れば風雅も師走哉    芭蕉

 

 元禄三年十二月一日の句と思われる。

 節季候(せきぞろ)はコトバンクの「精選版 日本国語大辞典の解説」に、

 

 「〘名〙 江戸時代、歳末の門付けの一種。一二月の初めから二七、八日ごろまで、羊歯(しだ)の葉を挿した笠をかぶり、赤い布で顔をおおって目だけを出し、割り竹をたたきながら二、三人で組になって町家にはいり、「ああ節季候節季候、めでたいめでたい」と唱えて囃(はや)して歩き、米銭をもらってまわったもの。せっきぞろ。《季・冬》 〔俳諧・誹諧初学抄(1641)〕」

 

とある。

 卑俗な題材でも心を風雅にするのが芭蕉の心だ。風雅の心を持って見れば、どんな題材でも風雅になる。

 「藏やけて」の句は、

 

 蔵焼けてさはるものなき月見哉   正秀

 

の句で、ウィキペディアには、

 

 「元禄元年(1688年)、自分の蔵が類焼した際正秀が「蔵焼けて さはるものなき 月見哉」と詠み平然としていたことを松尾芭蕉が聞き、「是こそ風雅の魂なれ」「その者ゆかし」と言い、便りを行き来することになり、師弟の契りが結ばれた。」

 

とある。

 蔵が焼けるというのは誰から見ても不幸なことだが、「いや、月がよく見えるようになるのもいい」と言ってみせる。

 『芭蕉と近江の人々』(梅原與惣次著、一九八八、サンブライト出版)によると、正秀一周忌の際に作られた撰集『水の友』所載の門人松琵の『雅行記』に、

 

 「元禄の初、不幸の難出來て類焼せし秋『蔵焼けてさはるものなき月見哉』とうたはれしを、蕉翁深川の庵にて聞及び給ひ、手を打ちて、是こそ風雅の魂なれ、その作者床し、とて文通のえにしと成りし」(『芭蕉と近江の人々』梅原與惣次著、一九八八、サンブライト出版p.75)

 

とあるという。元禄元年の秋は『更科紀行』の旅から江戸に戻り、『奥の細道』に旅立つ前なので、芭蕉が江戸にいたことは間違いない。

 「とぶ蝶の羽音やかまし」の句は誰の句かよくわからない。言葉はそれがどういう文脈で発せられたかで全く意味が違ってくるので、蝶をやかましいと感じるに足る理由が何かあったのかもしれない。

14、名所の句

 「早稲の香やわけ入右はありそ海

  一おねは時雨るゝ雲か雪の不二

 この句、師のいはく、若大玉に入て句をいふ時は、その心得あり。都方名ある人かゞの國に行て、くんせ川とかいふ川にて、こりふむと云句あり。たとへ佳句とても其信をしらざれば也。有そもその心這ひを見るべし。又不二の句も、山の姿是程の氣にもなくては、異山とひとつに成べし。」(『去来抄・三冊子・旅寝論』潁原退蔵校訂、一九三九、岩波文庫p.108)

 

 「大玉」は『去来抄・三冊子・旅寝論』の潁原退蔵の注に「大國」が正しいという。越中、越後、加賀などのいわゆる「国」を指すと思われる。地方の歌枕などを詠む場合であろう。

 

 早稲の香や分け入る右は有磯海   芭蕉

 

は『奥の細道』の旅で、富山県を通った時の句で、曾良の『旅日記』によれば、滑川から高岡へ行き、有磯海と呼ばれている氷見は行こうとたが猛暑のため「氷見へ欲レ行、不往。高岡へ出ル。」となっている。芭蕉さんも体調を崩し、「翁、気色不勝。 暑極テ甚。不快同然。」とある。翌日は金沢に向かった。

 つまりこの句は実際に有磯海に行った句ではなく、早稲の香の中の街道を歩いていて、ここを右に分け入れば有磯海があるんだろうな、という句だった。

 行かないのに行ったと嘘をついているわけではない。「分け入る右は有磯海」とは言ったが分け入ったとは言ってない。この微妙なところも心得よということだろう。

 早稲は『笈の小文』の旅の時の「箱根越す」の巻の八句目に、

 

   帷子に袷羽織も秋めきて

 食早稲くさき田舎なりけり     芭蕉

 

とあり、当時の早稲は今日でいう香り米で独特な匂いがあって、臭いと感じる人も多かったのだろう。臭い早稲の香と歌枕の有磯海の取り合わせというのがこの句の本来の笑い所だったのだろう。

 そのあとの、「都方名ある人かゞの國に行て、くんせ川とかいふ川にて、こりふむと云句あり」だが、これはよくわからない。ネット上の殿田良作さんの『「塚も動け」の眞蹟及び「早稲の香」の句について』という論文に、「くんせ川」は美濃の「杭瀬川」で土芳の思い違いで、

 

 「毛吹草の加賀の名物のところにも載せている、浅野川鰍をさすものである。この川のごりは骨がやわらかで古から人に知られている。」

 

とある。「都方名ある人」も三十余年探しているが見つからないという。

 鰍(かじか)はウィキペディアに「地方によっては、他のハゼ科の魚とともにゴリ、ドンコと呼ばれることもある。」とある。魚のことだとしたら確かに「ふむ」というのは変だ。

 とにかくここは行ってなくても嘘にならないように詠むということで、たとえ句として良く出来ていても知ったかぶりは駄目ということだろう。

 もう一つの句は貞享四年の句で、元禄十一年刊風国編の『泊船集』に収録されている。

 

 一尾根ハしぐるる雲かふじのゆき  芭蕉

 

 富士山にはもとより尾根と呼べるようなものはないので、この尾根は周辺の山、おそらく箱根越えの句であろう。

 貞享四年というと『笈の小文』の旅で、その三年前の『野ざらし紀行』の時には、

 

 霧しぐれ富士をみぬ日ぞ面白    芭蕉

 

の句を詠んでいる。

 「一尾根ハしぐるる雲か」は特にどこの山ということでもない。それに「ふじのゆき」を付け加えて富士山の句にしている。ある意味どこにいても詠める句だ。早稲の香の句とこの句を並べたのはそういうことだろう。

 

 「梅若菜まり子の宿のとろゝ汁

 この句、師のいはっく、たくみにて云る句にあらず。ふと云てよろしと跡にてしりたる句也。かくのごとくの句は、又せんとは云がたしと也。東武におもむく人に對しての吟也。梅若なと興じて、まり子の宿には、といひはなして當たる一躰なり。」(『去来抄・三冊子・旅寝論』潁原退蔵校訂、一九三九、岩波文庫p.108~109)

 

 この句も東海道の丸子宿で詠んだものではない。

 今栄蔵の『芭蕉年譜大成』(1994、角川文庫)によると、この句は元禄四年(一六九一)一月上旬大津で、乙州(おとくに)が江戸へ行くのでそのはなむけに珍碩、素男、智月、凡兆、去来、正秀らが集って行われた興行の発句だったという。ただ、「餞乙州東武行」という前書きがないなら丸子宿で詠んだ句と誤解されかねない。

 一月の興行で上五を「梅若菜」と置いたあと、これからの道中で丸子宿名物のとろろ汁のことが浮かんだのだろう。芭蕉さん自身も食べたいなとか思いながら、これから乙州も食べることになるのかな、食べた方がいいよと思いつつ、自然にこの言葉になったのだろう。

 

 「二日にもぬかりはせじな花の春

 この句は、元日のひるまでいねてもちくはづしたりと前書あり。此句の時、師の曰、等類氣遣ひなき趣向を得たり。此手爾葉は。二日には、といふを、にも、とは仕たる也。には、といひてはあまり平日に當りて聞なくいやしと也。其角、たびうりにあふうつの山。といふもあはんといふ所を、あふとは云る也。喜撰が、人はいふ也、の類なるべし。」(『去来抄・三冊子・旅寝論』潁原退蔵校訂、一九三九、岩波文庫p.109)

 

 この句は『笈の小文』では、

 

 「宵のとし、空の名残おしまむと、酒のみ夜ふかして、元日寐わすれたれば、

   二日にもぬかりはせじな花の春」

 

になっている。ただ、この『笈の小文』が公刊されたのは宝永四年(一七〇五年)なので、この頃はまだ読む機会はなかったと思われる。元禄十年刊風国編の『泊船集』には、

 

   元日ハひるまで寐て

   もちくひはつしぬ

 二日にもぬかりハせしな

           花の春

 

とある。

 「等類氣遣ひなき」というのは、こんななさけないことは誰も詠まないだろうと思ったか。

 

 二日にはぬかりはせじな花の春

 

だと、元日は昼まで寝ててもいいが二日には、となる。「二日にも」でもこの「も」を力も(強調の「も」)だとすれば意味は変わらない。ただ並列の「も」とも取れるので「正月も二日も」という意味にも取れる。

 芭蕉の意図としては、正月に餅を食いそこなったから二日は必ず食うぞ、ということだったのだろう。ただ、「も」とすれば、そういう個人的なことだけでなく、一般的に正月とはいってもあまりぐうたらするなよという戒めの句になる。そこの差であろう。

 「等類氣遣ひなき」というのは、二日には餅を食うぞという思いがそれで、それが露骨に出ると卑しいと思って「にも」で治定したのであろう。

 其角の句は、

 

   極月十日西吟大坂へのぼるに

 いそがしや足袋売に逢ううつの山  其角

 

の句で、『蕉門名家句選(上)』(堀切実編注、一九八九、岩波文庫p.130)には、貞享四年十二月十日、西吟が大阪に帰るのに挨拶した句とある。

 これも江戸で詠んだ句で東海道の丸子宿と岡部宿の間にある宇津の山で詠んだものではない。今から旅立てば宇津の山を越える頃には正月用の足袋を売る足袋売りに逢うことだろうな、という句だった。

 これも未来のことだから「あはん」なのだが、日本語は特に「なせばなる」のように仮定を断定で受ける言い回しをするため、ここも「うつのやま(に行かば)足袋売に逢ふ」の倒置省略だと思えば不自然ではない。

 仮定を断定で受けることについては『去来抄』「同門評」の「取れずバ名もなかるらん紅葉鮒 玄梅」の句の所で去来と許六の論争になっているので、「『去来抄』を読む」の方にも書いている。

 喜撰法師の歌は言わずと知れた、

 

   題しらず

 わが庵は都のたつみしかぞすむ

     世をうぢ山と人はいふなり

             喜撰法師(古今集)

 

の「人はいふなり」のところで、「人は世をうぢ山といふなり」の倒置なので、自然な言い回しだと思う。「世をうぢ山と人はいはむ」でも良いが字足らずになる。「いはむなり」は推量と断定が同居するので無理。

 

 「せりやきや緣輪の田井の薄氷

 この句、師のいはく、たゞおもひやりたる句也。芹やきに名所なつかしく思ひやりたるなるべし。」(『去来抄・三冊子・旅寝論』潁原退蔵校訂、一九三九、岩波文庫p.109)

 

 句の方は元禄八年刊支考編の『笈日記』に、

 

 芹燒や緣輪の田井の初氷

   此句は、初芹といふ叓をいひのべたるに侍らん

   と、たづねければ、たゞ思ひやりたるほつ句な

   りと、あざむかれにける。かゝるあやまりも、

   殊におほかるべし。

 

とある。初芹だと新春の菜摘の句になり、「初氷」は「わが衣手に雪は降りつつ」の心とも取れなくはない。

 それに対し芭蕉は「たゞ思ひやりたるほつ句」だという。

 「おもひやる」はweblio古語辞典の「学研全訳古語辞典」に、

 

 「①気を晴らす。心を慰める。

  出典万葉集 四〇〇八

  「わが背子を見つつしをればおもひやることもありしを」

  [訳] あなたにお会いしているので気を晴らすこともあったが。

  ②はるかに思う。

  出典伊勢物語 九

  「その河のほとりに群れゐておもひやれば」

 [訳] その川のほとりに群がり集まってすわって都のことをはるかに思うと。

  ③想像する。推察する。

  出典枕草子 雪のいと高うはあらで

  「今日の雪をいかにとおもひやり聞こえながら」

  [訳] 今日の雪を(あなたは)どうご覧になっているかと推察申し上げながら。

  ④気にかける。気を配る。

  出典源氏物語 桐壺

  「いはけなき人もいかにとおもひやりつつ」

  [訳] 幼い宮もどうなさっているかといつも気にかけて。」

 

とある。「ただ」というから想像の句であろう。

 「芹焼」はコトバンクの「精選版 日本国語大辞典の解説」に、

 

 「〘名〙 焼き石の上で芹を蒸し焼きにした料理。転じて芹を油でいため、鳥肉などといっしょに煮た料理もいう。《季・冬》

  ※北野天満宮目代日記‐目代昭世引付・天正一二年(1584)正月一四日「むすびこんにゃく、せりやき三色を折敷にくみ候て出候」

 

とある。

 「縁輪(すそわ)」はコトバンクの「デジタル大辞泉の解説」に、

 

 「山の麓のあたり。すそわ。

  「高円(たかまと)の宮の―の野づかさに今咲けるらむをみなへしはも」〈万・四三一六〉

  「すそみ」に同じ。

  「かりそめと思ひし程に筑波嶺(つくばね)の―の田居も住み馴れにけり」〈新拾遺・雑中〉

  [補説]万葉集の「裾廻(すそみ)」を「すそわ」と誤読してできた語。」

 

とある。芭蕉の時代はこの新拾遺集の、

 

 かりそめと思ひし程に筑波嶺の

     縁輪の田居も住み馴れにけり

 

の歌として知られていて、芭蕉の句も筑波山の麓を想像して詠んだと思われる。

 

 「御子良子の一本ゆかし梅の華

 此句は、一とせいせに詣て、老師梅の事をたづねしに、子良の館のあたりに、漸一本ふるき梅あり。その外に會てなしと社人の告けるを、則句としてとられし也。師のいはく、むかしより、此所に連俳の達人多く句にとゞむに、終に、此梅のことをしらず、と悦ばしく聞出ける也。風雅の心がけより此事とゞまるを思ひしれば、やすからぬ所也。」(『去来抄・三冊子・旅寝論』潁原退蔵校訂、一九三九、岩波文庫p.109~110)

 

 これは『笈の小文』には、

 

 「神垣のうちに梅一木(ひとき)もなし。いかに故有事にやと神司(かんづかさ)などに尋ね侍れば、只何とはなしおのづから梅一もともなくて、子良(こら)の館(たち)の後に、一もと侍るよしをかたりつたふ。

 御子良子(おこらご)の一もとゆかし梅の花

 神垣やおもひもかけず涅槃像」

 

とあるが、これをまだ読んでなかったとすれば、『猿蓑』の、

 

   子良館の後に梅有といへば

 御子良子の一もと床し梅の花    芭蕉

 

の方であろう。

 伊勢神宮には梅の木がなかったが、御子良子の館に一本の梅の木があった。御子良子(おこらご)はコトバンクの「精選版 日本国語大辞典の解説」に、

 

 「〘名〙 伊勢神宮や鹿島神宮で神饌に奉仕する神聖視された少女。大神宮の神饌を調える子良の館(たち)に奉仕するので名づけた。おくらご。おはらご。こら。

  ※俳諧・猿蓑(1691)四「子良館の後に梅有といへば 御子良子の一もと床し梅の花〈芭蕉〉」

 

とある。

 伊勢というと荒木田守武のいたところで俳諧の盛んな土地だったが、この梅の木のことは知らなかっただろう、ということで、御子良子の梅を新たな名所にしようと思ったのだろう。

 

 「とぎ直す鏡も清し雪の花

  梅こひて卯の花拜むなみだ哉

 此雪の句は熱田造營の時の吟也。とぎ直すと云て、其心やすく云顯し、其位をよくする。梅は圓覺寺大巓和尚遷化の時の句也。その人を梅に比して、爰に卯の花拜むとの心也。物によりて思ふ心を明す。そのものに位を取。」(『去来抄・三冊子・旅寝論』潁原退蔵校訂、一九三九、岩波文庫p.110)

 

 「とぎ直す」の句は『笈の小文』にもあるが、この頃は元禄八年刊支考編の『笈日記』の、

 

   そのとしあつ田の御造營ありしを、

 とぎ直す鏡も清し雪の花

 

であろう。

 貞享四年冬に新しくなった熱田神宮に、三年前の『野ざらし紀行』の旅で訪れた時と同様、桐葉とともに訪れた。神鏡も新たにきれいに磨かれ、あたかも今ここに真っ白に降り積っている雪の花のようだという句で、「雪の花」は花のような雪で、松永貞徳の『俳諧御傘』には「ふり物也。植物にあらず。」とある。

 「心やすく」は無理に趣向を凝らさずに見た通りの雪の景色に新しく磨かれた鏡を詠んだだけで、特に卑俗な言葉も使わず、和歌のような格調の高い句に仕上げている。

 「梅こひて」の句は『野ざらし紀行』にもあるが、その前に元禄九年刊風国編の『初蝉』にあるという。鎌倉円覚寺の大巓和尚は其角の師で、芭蕉自身面識があったかどうかはわからない。訃報を聞いてからすぐに其角に手紙を書き、この句もそこに添えられていた。梅は大巓和尚、卯の花は仏様で、物に喩えて思う心を述べた句で、卑俗なものに喩えることなく、敬意を払って「梅」という古来格の高い花を選んでいる。

15、稲妻

 「稻妻を手に取るやみの紙燭かな

 この句、師のいはく、門人この道にあやしき所を得たるものにいひて遺す句也となり。そのあやしきをいはんと、取物かくのごとし。万心遣ひして思ふ所を明すべし。」(『去来抄・三冊子・旅寝論』潁原退蔵校訂、一九三九、岩波文庫p.110)

 

 この句は貞享四年刊其角編の『続虚栗』所収の句で、

 

   寄李下

 いなづまを手にとる闇の紙燭哉

 

とある。

 『続虚栗』は芭蕉が天和的な奇抜な趣味から抜け出て古典回帰へ向かう時期で、「あやしき所」というのはその天和的なものということではなかったかと思う。

 古語の「あやし」にはいろいろな意味があって、weblio古語辞典の「学研全訳古語辞典」には、

 

 「①不思議だ。神秘的だ。

  出典源氏物語 桐壺

  「げに御かたち・有り様、あやしきまでぞ覚え給(たま)へる」

  [訳] なるほど、お顔だち・お姿が、不思議なほど(亡き更衣に)似ていらっしゃる。

  ②おかしい。変だ。

  出典枕草子 清涼殿の丑寅のすみの

  「女御、例ならずあやしとおぼしけるに」

  [訳] 女御は、いつもとは違い、(ようすが)おかしいとお思いになったところ。

  ③みなれない。もの珍しい。

  出典徒然草 一二一

  「珍しき鳥、あやしき獣(けもの)、国に養はず」

  [訳] 珍しい鳥、みなれない獣は、国内では飼わない。

  ④異常だ。程度が甚だしい。

  出典徒然草 序

  「心にうつりゆくよしなしごとを、そこはかとなく書きつくれば、あやしうこそ、ものぐるほしけれ」

  [訳] 心に浮かんでは消えてゆくたわいもないことを、とりとめもなく書きつけていると、(思わず熱中して)異常なほど、狂おしい気持ちになるものだ。◇「あやしう」はウ音便。

  ⑤きわめてけしからぬ。不都合だ。

  出典源氏物語 桐壺

  「打ち橋・渡殿(わたどの)のここかしこの道にあやしき業(わざ)をしつつ」

  [訳] 打ち橋や渡殿のあちこちの通り道にきわめてけしからぬことをしては。

  ⑥不安だ。気がかりだ。

  出典奥の細道 那須

  「うひうひしき旅人の、道ふみたがへん、あやしう侍(はべ)れば」

  [訳] (その地に)まだ物慣れていない旅人が、道を間違えるようなのも、不安でありますから。◇「あやしう」はウ音便。

 

とある。これらの意味からも、どことなく尋常ではない異常な、奇をてらった珍しいというイメージは浮かぶと思う。

 たとえば天和三年刊其角編の『虚栗』の、

 

 子規芋まだ青き月夜かな      李下

 

の句は仲秋の名月が芋名月とも呼ばれ、ちょうどそのころ採れる里芋を供えたりするのに対し、ホトトギスの鳴く頃の夏の月の頃は芋もまだ青い。ホトトギスに青い芋で何かと思わせて、月夜で「ああ、芋名月のことか」と納得させる句だ。こういう落ちの付け方は其角の得意とする所でもある。ただ、物珍しさというレベルではとうてい其角に及ばない。

 

 點滴(たまみづ)ヲ硯に奇也ほととぎす 其角

 

 上から滴り落ちてくる露が硯にこぼれ一体なんだと謎を掛けて、ホトトギスで結ぶ。ヒント、墨をするのは歌を詠もうとしていた。雫は上にあった枝が揺れたからこぼれてきた。李下の句はここまで手の込んだ句を作るまではには至らない。

 

 清く聞ン耳に香焼て郭公      芭蕉

 

 これは其角のような謎かけではなく、ホトトギスに本当に古人の心を味わおうと思ったら、耳を清めるために香を焚かなければいけないな、と奇抜な発想の中に志の高さがある。

 芭蕉が言おうとしたのは奇なるものというのは理屈で導き出せるものではなく、ある種の天啓が必要ということではなかったかと思う。

 電光石火という言葉のもとも意味は、雷が光る一瞬のように、火打石が火花を放つ一瞬のように、悟りというのは一瞬にしてやってくるというものだ。

 ただ、その一瞬を心に留めなければ、忘却あるのみだ。

 その一瞬のひらめきで紙燭を灯して初めて闇を照らすことができる。句を詠もうという一瞬涌いて出た初期衝動を、いかに心の中に持続させるか、大事なのはそれだということではなかったかと思う。

16、句の勢い

 「旅人とわが名呼れん初しぐれ

 此句は、師武江に旅出の日の吟也。心のいさましきを句のふりにふり出して、よばれん初しぐれ、とは云しと也。いさましき心を顯す所、謠のはしを前書にして、書のごとく章さして門人に送られし也。一風情あるもの也。この珍らしき作意に出る師の心の出所を味べし。」(『去来抄・三冊子・旅寝論』潁原退蔵校訂、一九三九、岩波文庫p.110~111)

 

 これも貞享四年刊其角編の『続虚栗』の句で、

 

   十月十一日餞別會

 旅人と我名よばれん初霽      芭蕉

 

以下、歌仙が記されている。厳密には旅立ちの日ではないが、集まった門人に旅の決意を示す発句だった。

 「謠のはしを前書にして」に関しては岩波文庫『去来抄・三冊子・旅寝論』の潁原注に、謡曲『梅枝』の、

 

 「はや此方へと夕露の、葎の宿はうれたくとも、袖をかたしきてお泊りあれや旅人。」(野上豊一郎. 解註謡曲全集 全六巻合冊(補訂版) (Kindle の位置No.42839-42841). Yamatouta e books. Kindle 版. )

 

だと言う。初時雨の露に「お泊りあれや旅人」というふうに我名を呼ばれてみたいものだ、とすれば、なるほどと思う。

 

 「何に此師走の市に行烏

 此句、師のいはく、五文字のいきごみに有となり。」(『去来抄・三冊子・旅寝論』潁原退蔵校訂、一九三九、岩波文庫p.111)

 

 この句は元禄二年冬、大津膳所滞在中の句で、元禄三年刊其角編の『花摘』に、

 

 何に此師走の市にゆくからす    翁

 

とある。

 僧形の自分を自嘲気味に、何でわざわざ師走の市に行くんだ、と戒めたもので、その一方で師走の市には用がなくてもついつい行ってしまう、人を魅了する何かがある。それは活気というか、大勢の人が自分と同じように生きているんだなという連帯なのかもしれない。

 「何に此(この)」の五文字は力強く、かといってそんなに厳しく咎めているわけでもないところに、強い初期衝動が感じられる。

 

 「ほとゝぎす正月は梅の花さかり

 この句ハ、ほとゝぎすの初夏に、正月に梅咲ることをいひはなして、卯月になるが、ほとゝぎすの聲はと、願ふ心をあましたる一体也。」(『去来抄・三冊子・旅寝論』潁原退蔵校訂、一九三九、岩波文庫p.111)

 

 この句は天和三年刊其角編の『虚栗』所収の句で、

 

 ほとゝぎす正月は梅の花咲リ    芭蕉

 

とある。

 まだ若い頃で言い古されたホトトギスという題材に、何か目新しいことをと思って、あえて正月のことを引き合いに出したのだろう。

 同じ年の正月と思われるものに、

 

   歳旦

 元日やおもへばさびし秋の暮    芭蕉

 

の句もある。この句は長いこと未発表だったので、土芳は知らなかったと思う。

 こちらの歳旦吟が秋の暮は寂しかったが元旦でお目出度いと逆説的なのに対し、正月は梅の花盛り、さてホトトギスは‥‥、というものだ。

17、心遣いと骨折り

 「鹽鯛の齒ぐきも寒し魚の棚

 此句、師のいはく、心遣はすと句になるもの、自賛にたらずと也。鎌倉を生きて出けん初鰹、といふこそ、心のほね折、人のしらぬ所也。又いはく、猿のは白し峯の月、といふは、其角也。鹽鯛の齒ぐきは我老吟也。下を魚の棚とたゞ言たるも自句也といへり。」(『去来抄・三冊子・旅寝論』潁原退蔵校訂、一九三九、岩波文庫p.111)

 

 「心遣はす」という言葉は「いなづまを」の句の時にもあり、「万心遣ひして思ふ所を明すべし」とあった。古今集の仮名序に「やまとうたは人の心をたねとして」とある以上、心遣はすことは俳諧でも基本で、あたりまえのことだから、「自賛にたらず」ということだろう。

 

 鎌倉を生きて出けん初鰹      芭蕉

 

の句は元禄五年刊支考述不玉撰の『葛の松原』にある。

 この句は心遣いだけでなく、心の骨折るところに気付くべきだという。

 まず最初の心遣いは、単に初鰹が新鮮なうちに鎌倉から出荷されるということではあるまい。そこには生きて鎌倉を出ても、やがて死に、さばかれ、食べられるという命への共鳴、細みに重点が置かれていたと思う。

 大事なのは、その作意が新鮮な初鰹が食べられるという喜びの情の中にいかに埋もれないようにするか、そこが骨折だったのではないかと思う。

 「鎌倉を生きて出けん」の上五七だけ聞くと人が逃げ出したかのように思う。『平家物語』や『義経記』などにそんな物語がなかったかな、と思わせておいて下五で「初鰹」で落ちにするわけだが、この句はそこで「あっ、なるほど」で終わらない。命からがら逃げおうせた武者のイメージと初鰹のイメージとが重なり合うことで、初鰹への同情を誘う。これが骨折りだ。

 

 声枯れて猿の歯白し峯の月     其角

 塩鯛の歯ぐきも寒し魚の店     芭蕉

 

 この二句は心遣いにおいては同じと言ってもいいだろう。ただ、選ぶ題材が違う。其角は手の届かない峰の上の月を取ろうとして鳴き続け、声も枯れた猿の歯が白いと作る。これに対し芭蕉は卑近な魚屋に並ぶ塩鯛の開け放たれた口をを見て、歯だけでなく歯ぐきも寒いと作る。骨の折り方は明らかに違う。

 違いはといえば、其角の句を理解するには古典の素養が必要とされる。だから教養あるものはこちらの句を好むかもしれない。芭蕉の句は文字通り和光同塵の句で、市場に集まる普通の人に呼び掛けた句になっている。其角の句は離俗で芭蕉の句は帰俗といってもいい。

 

 「春立や新年ふるき米五升

 此句、師の曰、似合しや、とはじめ五文字あり。口惜事也といへり。其後は、春立や、と直りて短冊にも殘り侍る也。」(『去来抄・三冊子・旅寝論』潁原退蔵校訂、一九三九、岩波文庫p.111)

 

 この句は二転三転したかなり骨折った句だったのだろう。「似合しや」の初五の句は、かなり後になって享保二年(一七一七年)刊越人編の『鵲尾冠』に歳旦三つ物の形で掲載されている。

 

     歳旦

   此發句は芭蕉、江府船町の囂に倦、

   深川泊船堂に入ラれし、つぐる年の作な

   り。草堂のうち、茶碗十ヲ、菜刀一枚、

   米入るゝ瓢一ッ、五升の外不入、名を

   四山と申候。

    其一

 似合しや新年古き米五升      芭蕉翁

   雪間をわけて袖に粥摘     其角

 紋所をの梅鉢やにほふらん     杜国

   其角句は類柑子に出たる付合也。

   杜國句は土岐一癖子家にて、椋梨一雪、

   杜國が奇作を聞ンと、雑句五句出_け

   る其一ッの付合也。其前句は

    ちりけもとにて鶯の啼    一雪

    紋所其梅鉢や匂ふらむ    杜國

 

 この三つ物は他に発表された句を寄せ集めてそれっぽく作ったもので、元からあったものではない。

 岩波文庫の『芭蕉俳句集』(中村俊定校注、一九七〇)にはこの他に、

 

 年立や新年ふるし米五升(泊船集)

 我富り新年古き米五升(真蹟短冊)

 

の二つのバージョンがある。上五が決まらないパターンこの頃の発句では多かった。

 新年というと餅だが、古い米五升で年を越すというのはいかにも貧しいという感じがする。それを質素な生活ということでポジティブに詠むというのがテーマだったのだろう。「似合し」は分相応ということで、自分で言う分には謙遜だが他人が言えば「お前にゃお似合いだ」になってしまう。「我富り」は何だか開き直ったような感じだ。

 そこで結局あまり価値観に触れないような「年立や」とし、最終的に「春立や」と正月でなく立春の句にして、正月の目出度さに貧しさを重ねないように配慮したようだ。

18、改作された句

 「ばせを野分盥に雨を聞夜かな

  いざゝらば雪見にころぶところまで

  木がらしの身ハ竹齋に似たるかな

  山路來て何やら床しすミれ草

  家ハミな杖に白髪のはか參り

  灌佛や皺手合る珠數の音

 此野分、はじめは、野分して、と二字餘り也。雪見、はじめは、いざゆかん、と五文字有。木枯、初ハ、狂句木がらしの、と餘して云へり。すみれ草は、初は何となく何やら床し、と有。家はミな、一家ミな、と有。灌佛も初は、ねはん會や、と聞へし、後なしかへられ侍るか。此類猶あるべし。皆師の心のうごき也。」(『去来抄・三冊子・旅寝論』潁原退蔵校訂、一九三九、岩波文庫p.111~112)

 

 改作はともすると初期衝動を殺しかねない。添削なんかもそうで、テレビのバラエティー番組なんかに出ている撰者みたいな人も、たいてい添削前の句の方がましな方が多い。改作も自分の句を添削するようなものだ。

 野分しての句は天和二年刊千春編の『武蔵曲』には、

 

   茅舎ノ感

 芭蕉野分して盥に雨を聞夜哉    芭蕉

 

とある。

 

 ばせを野分盥に雨を聞夜かな    芭蕉

 

の句はこの『三冊子』と宝永六年成立土芳篇の『蕉翁句集』にある。

 この改作は初期衝動の勢いを殺してしまった悪い例だと思う。「野分して」の字余りに切迫感を感じさせるところを、無理に破調を嫌い、五七五に近い六七五に収めたという感じがする。

 雪見の句は元禄二年刊荷兮編の『阿羅野』に、

 

 いざゆかむ雪見にころぶ所まで   芭蕉

 

とある。

 

 いざさらば雪見にころぶ所迄    翁

 

の方は元禄三年刊其角編の『花摘』にある。

 この場合は改作によって句の意味が変わっている。「いざゆかむ」だと、散歩にでも出て転んだらかえって来ようくらいの意味にも取れてしまうが、「いざさらば」だと帰ってくる予定はなく、転ぶまで旅を続けるという決意を込めた旅体の句になる。旧作を振り返り、別の意味を発見して作り直した可能性がある。

 木枯の句は貞享元年刊荷兮編の『冬の日』に、

 

   笠は長途の雨にほころび、紙衣はとまりとまり

   のあらしにもめたり、侘つくしたるわび人

   我さへあはれにおぼえける。むかし狂哥の才

   士、此国にたどりし事を不図おもひ出て申侍

   る

 狂句こがらしの身は竹斎に似たる哉 芭蕉

 

とある。

 

   名古屋に侘居して狂句

 凩の身は竹齋に似たる哉      芭蕉

 

は木因の年次不明の『桜下文集』にあると、岩波文庫の『芭蕉俳句集』(中村俊定校注、一九七〇)にある。

 これは前書きの末尾が「狂句」になっているし、句の冒頭の「狂句」を前書きと勘違いした可能性もある。これも狂歌を詠む竹齋に対し、狂句を詠む木枯だというところに意味があるので、「凩の」では五七五の定型に収まるという以外に取柄はない。

 すみれ草の句は、安永四年(一七七五年)刊暁台編の『熱田三歌仙』に、

 

 何とはなしに何やら床し菫艸    芭蕉

 

を発句とした歌仙が収められていて、巻末に「右蕉翁真蹟有暮雨巷」とある。「何となく何やら床し」のバージョンは『三冊子』のみで、土芳が芭蕉から直接聞いた形か。

 元禄十一年刊風国編の『泊船集』には、

 

   大津に出る道山路をこえて

 やま路来てなにやらゆかしすみれ草 芭蕉

 

とある。

 「何とはなしに何やら」は当座の即興で出た言葉で、芭蕉としては何かもう少し姿が欲しかったのではないかと思う。それが「山路来て」で景として整うだけでなく旅体の情も加わる。

 家はミなの句は、元禄八年刊路通編の『芭蕉翁行状記』に、

 

 一家皆白髪に杖や墓参       芭蕉

 

とある。元禄十一年刊沾圃編の『続猿蓑』には、

 

   甲戌の夏大津に侍しをこの

   かみのもとより消息せられけれ

   ば旧里に帰りて盆會をいとなむとて

 家はみな杖にしら髪の墓参     芭蕉

 

 一家皆も家は皆も意味的にはそれほど変わらない。言葉の響きやリズムの問題だったっと思う。また、「や」という切れ字をはずしたのは、「皆」と「の」で十分切れていると判断してのものであろう。

 灌佛の句は、元禄十一年刊沾圃編の『続猿蓑』には、

 

 ねはん會や皺手合る珠數の音    芭蕉

 

とある。

 

 灌佛や皺手合る珠數の音      芭蕉

 

の形は『三冊子』以前に発表されて物はなく、土芳が直接聞いた句形と思われる。

 涅槃会は釈迦入滅の日で旧暦二月十五日日の春になる。灌仏会は釈迦誕生の日で旧暦四月八日の夏になる。ただ、『続猿蓑』では季節ではなく「釈教」に部立てされて収録されている。先の「墓参」の句も同様釈教になっている。

 涅槃会と灌仏会では正反対なので、この改作の意図はよくわからない。実際は涅槃会で詠んだ句だったが、数珠のジャラジャラとした音の響きは灌仏会の方がふさわしいとしたか。

 

 「猪の床にも入るやきりぎりす

 この句自筆に有。初は、床に來て鼾に入るやきりぎりす、といふ句あり。なしかへられ侍るか。」(『去来抄・三冊子・旅寝論』潁原退蔵校訂、一九三九、岩波文庫p.112)

 

 これは当時は未発表句だったようだ。この機会を借りて発表したのかもしれない。元の句は芭蕉の元禄七年九月二十五日付正秀宛書簡に、

 

 又酒堂が予が枕もとにていびきをかき候を

  床に來て鼾に入るやきりぎりす

 

とある。芭蕉は人の鼾が気になる人だったのか、貞享五年には「万菊丸いびきの図」を書いたりしている。芭蕉はあまり酒を飲まない人だったから、酔っ払いの大鼾が苦手だったのだろう。

 句の方は「きりぎりすの床に来て鼾に入るや」の倒置で、耳元でコオロギが鳴いているみたいだとちょっと強がっている。耳元で鼾かきやがって、いやコオロギが鳴いてると思えば風流だ、というところか。

 これに対して「猪の」の句は全く別の句だといってもいい。前の鼾の句に似ていたから発表を控えたか。

 

 「草臥て宿かる比や藤のはな

 此句、始は、ほとゝぎすやどかる比や、と有。後直る也。」(『去来抄・三冊子・旅寝論』潁原退蔵校訂、一九三九、岩波文庫p.112)

 

 草臥ての句は『猿蓑』に、

 

   大和行脚のとき

 草臥て宿かる比や藤の花      芭蕉

 

とある。

 

 時鳥宿かる頃の藤の花       芭蕉

 

の方は貞亨五年四月二十五日付猿雖宛書簡にある。初案と思われる。

 藤(ふし)は臥(ふす)に通じる。「くたびれて」も草の臥すと書く。藤は今の生物学では木本だが、つる性の植物は連歌俳諧では草類として扱われてきた。

 藤は春の季語だが、初案は時鳥という夏の季語と組み合わせて用いられて夏の句になっている。これはこの句が四月十日に丹波市(たんばいち)で詠んだ句だったからだ。今は天理市になっている旧丹波市町の辺りと思われる。『笈の小文』の旅で吉野から高野山、和歌の浦へ行った後、奈良に戻った時の句だった。

 『猿蓑』に載せる時に、本来季語調整のための強引に放り込んだ時鳥をはずして、春の句として自然な形に作ったのであろう。後の『笈の小文』では、この句は杜国と合流して吉野へ向かう所に挿入されている。

 

 「風色やしどろに植し庭の秋

 此句、ある方の庭を見ての句也。風吹、とも一たび有。風色や、とも云り。度々吟じていはく、色といふ字も過たるやうなれども、色といふ方に先すべしと也。」(『去来抄・三冊子・旅寝論』潁原退蔵校訂、一九三九、岩波文庫p.113)

 

 これは未発表句だったか。

 宝暦六年(一七五六年)刊麦郷観寛治編の『芭蕉句選拾遺』に「此句、藤堂氏玄虎子に逢れし時、庭半バに作りたるを云り。表六句有」とある。(『芭蕉俳句集』(中村俊定校注、一九七〇、岩波文庫参照)この表六句は不明。

 「風色(かざいろ)」は「風の色」でコトバンクの「精選版 日本国語大辞典の解説」に、

 

 「草木などを吹き動かす風のさま。風の動き。また、その趣。かぜいろ。

  ※光経集(1230頃か)「夏の池のみぎはもすごき松かげのあさるも青き風の色かな」

 

とある。

 風吹くだと普通なので、あえて「風の色」という言葉を使いたかったのだろう。

 

 「こんにやくにけふはうりかつ若な哉

 この句、はじめは蛤になどゝ五文字有。再吟して後、こんにやくになる侍ると也。」(『去来抄・三冊子・旅寝論』潁原退蔵校訂、一九三九、岩波文庫p.113)

 

 蛤に今日は売り勝つ若菜かな    芭蕉

 

の句は真蹟があるという。元禄十一年刊風国編の『泊船集』には、

 

   若菜

 蒟蒻にけふハ賣かつ若菜かな    芭蕉

 

とある。さすがに蛤に勝つのは無理と思ったか。

 蒟蒻の方は『炭俵』の「むめがかに」の巻十四句目に、

 

   終宵尼の持病を押へける

 こんにゃくばかりのこる名月    芭蕉

 

の句もあるように、おいしいけど他のご馳走にはいつも負けてたようだ。蛤に勝てるとまでは言わず、蒟蒻くらいには勝てるとしたのだろう。若菜と蒟蒻はどちらも精進ということもある。蛤はその意味では次元が違う。

19、骨折り

 「鞍つぼに小坊主のるや大根引

 此句、師のいはく、のるや大根引、と小坊主のよく目に立つ處、句作ありとなり。」(『去来抄・三冊子・旅寝論』潁原退蔵校訂、一九三九、岩波文庫p.113)

 

 この句は『炭俵』の句で、

 

   大根引というふ事を

 鞍壺に小坊主乗るや大根引     芭蕉

 

とある。小坊主はコトバンクの「精選版 日本国語大辞典の解説」に、

 

 「① 年少の僧。また、小づくりの僧。

  ※浄瑠璃・賀古教信七墓廻(1714頃)三「行衛もしらず名もしらぬうつくしい小坊主が」

  ② 江戸時代、武家、町家で雑用に使う坊主頭の子ども。

  ※浮世草子・万の文反古(1696)一「下女弐人小性弐人小坊主(コボウヅ)壱人」

  ③ (七、八歳まで髪を長く伸ばさず、奴(やっこ)頭あるいは芥子(けし)坊主頭にしていたところから) 少年を親しみ、または、侮っていう語。

  ※浮世草子・日本永代蔵(1688)三「十二三のむすめ、六つ七つの小坊主(コボウズ)と」

 

とある。この場合の小坊主は③の意味であろう。その子供の姿を引き立たすため、大根の収穫をしている脇で鞍壺に乗っている姿を描いている。「鞍壺」はコトバンクの「精選版 日本国語大辞典の解説」に、

 

 「① 鞍橋(くらぼね)の人の腰をおろすところ。すなわち、前輪(まえわ)と後輪(しずわ)の間、居木(いぎ)の上。鞍笠(くらかさ)。

  ※平家(13C前)四「鞍つぼによくのりさだまって」

  ※俳諧・炭俵(1694)下「鞍壺に小坊主乗るや大根引〈芭蕉〉」

  ② 馬術で、馬に乗って、鞍の前かまたはうしろかに少しもたれかかること。」

 

とある。

 『去来抄』「同門評」にも、

 

 「今珍らしく雅ナル図アラバ、此を画となしてもよからん。句となしてもよからん。されバ大根引の傍に草はむ馬の首うちさげたらん。鞍坪に小坊主のちょつこりと乗たる図あらバ、古からんや、拙なからんや。察しらるべし。」(『去来抄・三冊子・旅寝論』潁原退蔵校訂、一九三九、岩波文庫p.37 )

 

とある。絵になる構図とでもいうべきか。

 

 「六月や峯に雲をくあらし山

 この句、落柿舎の句也。雲置嵐山といふ句作、骨折たる處といへり。」(『去来抄・三冊子・旅寝論』潁原退蔵校訂、一九三九、岩波文庫p.113)

 

 この句は元禄七年刊其角編の『句兄弟』下の豪句の所にある。

 

 六月や峯に雲置あらし山      芭蕉

 

 元禄七年六月二十四日付杉風宛書簡にも同じ句が見られる。この年は五月十一日に江戸を発ち、伊賀上野、膳所を経て閏五月二十二日に京都落柿舎に入り、六月十五日まで滞在している。

 水無月の梅雨明けの空の雲の峰を詠んだ句だが、それを嵐山の峯(標高382メートル)の上に更に雲を置いて、峯の上に雲の峰が重なってる情景としている。

 

 「川風やうす柹着たる夕凉み

 此句、すゞみのいひ様、少心得て仕たりと也。」(『去来抄・三冊子・旅寝論』潁原退蔵校訂、一九三九、岩波文庫p.113)

 

 この句は元禄五年刊車庸編の『己が光』にある。

 

   四條の河原すゞみとて、名月の夜

   のこころより有明過る比まで、川中

   に床をならべて、夜すがらさけの

   み、ものくひあそぶ。をんなは帶

   のむすびめいかめしく、おとこは

   羽織ながう着なして、法師・老人ど

   もに交、桶やかぢやのでしこまで、

   いとまえがほにうたひのゝしる。

   さすがに都のかえいきなるべし。

 川かぜや薄がききたる夕すゞみ    翁

 

 この年も六月初めから京都に滞在した。京都の祇園社(現八坂神社)に近い四条川原は今日の市街地の真ん中でそんなに広くない賀茂川の河原に臨時のテーブルを並べて、酒を飲み料理を並べて、大勢の人で賑わっていた。

 「川中に床をならべて」というのは床店(とこみせ)のことで、コトバンクの「精選版 日本国語大辞典の解説」に、

 

 「〘名〙 商品を売るだけで、人の住まない店。また、移動のできる小さい店。出店(でみせ)。屋台店。

  ※雑俳・柳多留‐二(1767)「とこ見せの将棊は一人(ひとり)腰をかけ」

 

とある。

 「薄柿」は元禄五年秋の「名月や」の巻十二句目の、

 

   船上り狭ばおりて夕すずみ

 軽ふ着こなすあらひかたびら    千川

 

の「あらひかたびら」と同じで、西鶴の『好色一代男』に出てくる「あらひがきの袷帷子」のことと思われる。「あらひがき」は色の名前で、洗われて色が薄くなったような柿色のことだという。

 元来卑賤な色である柿色は、賤なるがゆえに聖でもあるという二重性から、ちょっとアウトローっぽい粋な感じがしたのだろう。場所も川原だし。

 夕涼みにはいろいろな人が来ているが、その中でも一番都らしい粋なものということで、「薄がききたる夕すゞみ」とする所に工夫があったのだろう。

 

 「雲雀鳴中の拍子や雉子の聲

 此句、ひばりの鳴つゞけたる中に、雉子折々鳴入るけしきいひて、長閑なる味をとらんといろいろして是を究。」(『去来抄・三冊子・旅寝論』潁原退蔵校訂、一九三九、岩波文庫p.113~114)

 

 この句は『猿蓑』の句。これはほとんど説明することはない。雲雀のするなかに時折雉の声がして、拍子を入れているみたいだという句。春の長閑さを表現するのに、鳥の声の持つ音楽を音楽らしくいう言葉を見つけ出すのに、いろいろ試してみたのかもしれない。

 

 「からさけも空也の痩も寒の内

 この句、師のいはく、心の味を云とらんと、數日はらわたをしぼると也。ほね折たる句と見え侍る也。」(『去来抄・三冊子・旅寝論』潁原退蔵校訂、一九三九、岩波文庫p.114)

 

 これも『猿蓑』の句。

 乾鮭(からざけ)はコトバンクの「デジタル大辞泉の解説」に、

 

 「サケの腹を裂いてはらわたを取り除き、塩を振らずに陰干しにした食品。《季 冬》「―も敲(たた)けば鳴るぞなむあみだ/一茶」

 

とあり、「精選版 日本国語大辞典の解説」には「塩引鮭を一晩冷たい流水に浸し、陰干しにしたもの。北国の特産。寒塩引。」

 

とある。叩けば鳴るようなものだから、棒鱈のようにかなりカチンカチンになるまで干した、一種のフリーズドライ食品だったのだろう。腸を取り除いたところに肋骨の跡があって、それが空也上人像を彷彿させた。

 コトバンクの鉢叩きのところの「デジタル大辞泉の解説」に、

 

 「1 空也(くうや)念仏のこと。

  2 空也念仏を行いながら勧進すること。また、その人々。江戸時代には門付け芸にもなった。特に、京都の空也堂の行者が陰暦11月13日の空也忌から大晦日までの48日間、鉦(かね)やひょうたんをたたきながら行うものが有名。《季 冬》「長嘯(ちゃうせう)(=歌人)の墓もめぐるか―/芭蕉」

 

とあり、空也忌が過ぎ、鉢叩きが回ってくるようになると、寒い中で大変な思いをしてとその苦労を表すものとして乾鮭の姿に行きつくまで、いろいろ案じたのだろう。

 

 「蛇くふときけバおそろし雉子の聲

 此の句、師のいはく、うつくしき貌かく雉子の蹴爪かな、といふは、其角が句也。虵くふといふは老吟也と也。」(『去来抄・三冊子・旅寝論』潁原退蔵校訂、一九三九、岩波文庫p.114)

 

 これは元禄三年刊其角編の『花摘』所収の句。

 

   うつくしきかほかく雉の

       け爪かなと申たれば

 虵くふときけばおそろし雉の聲   翁

 

とある。其角の句の美しい顔に似つかわしくない立派な爪という句にヒントを得て、声聞けば春も長閑な雉も実は蛇を食う、と作り直す。

 キジはウィキペディアには「地上を歩き、主に草の種子、芽、葉などの植物性のものを食べるが、昆虫やクモなども食べる」とあり、通常の食事として蛇を食べるというよりは、卵や雛を守るために蛇を襲うという。

20、軽み

 「木のもとハ汁も膾もさくら哉

 この句の時、師のいはく、花見の句のかゝりを少し得て、かるみをしたりと也。」(『去来抄・三冊子・旅寝論』潁原退蔵校訂、一九三九、岩波文庫p.114)

 

 これは元禄三年刊珍碩編の『ひさご』に収録された歌仙の発句。『ひさご』の歌仙は元禄三年三月下旬、膳所での芭蕉、珍碩、曲水による三吟になっている。

 この少し前の元禄三年三月二日伊賀風麦亭で興行された時の別のメンバーによる巻が寛政十三年刊秋屋編の『花はさくら』などにあり、こちらの方には土芳も参加している。この時土芳は芭蕉から直に「花見の句のかゝりを少し得て、かるみをしたり」というのを聞いたのだろう。この時の興行は、

 

 木の本に汁も膾も桜哉       はせを

   明日来る人はくやしがる春   風麦

 蝶蜂を愛する程の情にて      良品

   水のにほひをわづらひに梟る  土芳

 

に始まる。

 「かかり」は岩波古語辞典によれば、「歌などの語句の掛かりかた。また、詞のすわり。風体。」とある。語句の繋がり方、前後との関係での詞の収まりのよさ、といった所か。

 花見の句で汁・鱠をと、料理なのかではむしろ脇役ともいえるものに心寄せることで、実景(虚)としては汁や鱠に散った花が降りかかり、何もかもが桜に見えることを詠み、その裏(実)に主役脇役関係なく、老いも若きも偉い人も庶民も等しく花の下では酒を酌み交わして盛り上がれる世界、身分を越えた公界の理想を隠している。

 「花見の句のかかりを少し得て」というのは、桜と汁・鱠という取り合わせの面白さにふと気づいてというような意味で、出典のある言葉をはずして「軽み」の句にした、というのが、師の言いたかったことであろう。

21、たが聟ぞ

 「たが聟ぞしだに餅負ふ牛の年

 此句は、丑の日のとしの歳旦也。此古躰に人のしらぬ悦ありと也。」(『去来抄・三冊子・旅寝論』潁原退蔵校訂、一九三九、岩波文庫p.114)

 

 これは貞享二年、『野ざらし紀行』にも登場する句で、元禄十三年刊乙孝編の『一幅半』にの収録されている。

 貞享二年(一六八五年)は乙丑(きのとうし)で一月四日が同じく乙丑になる。大分前に『野ざらし紀行─異界への旅─』を書いたときには、

 

 「『歯朶に餅おふ』は、新年に聟が舅の家へ鏡餅にシダを添えて送る風習によるものらしいが、詳しいことはよくわからない。シダは今日でいう裏白のことか。裏白は今でも鏡餅の下に敷くが、かつては正月のわらべ歌に、

 

 お正月さん、どこまでござった。羊歯(しだ)を蓑に着て、つるの葉を笠に着て、門杭(かどくい)を杖について、お寺の下の柿の木に止まった。

 

というふうに歌われていたように、正月さんの蓑にも見立てられた。餅を背負って歩く牛の姿は、まさに正月さんの旅姿といえよう。

 歳旦の句にその年の干支(えと)を折り込むのは、この頃より半世紀くらい前の貞門(松永貞徳門)の俳諧では、しばしば行なわれていた。

 

 霞みさへまだらにたつやとらの年  貞徳

 雪や先(さき)とけてみずのえねの今年 徳元

 

 土芳の『三冊子』に「此句は、丑のとしの歳旦や。此古体に人のしらぬ悦(よろこび)ありと也。」とあるのは、そのことを指すのであろう。」

 

と書いた。今のところこれ以上に言えることはない。

22、七夕や

 「七夕や秋を定むるはじめの夜

 此句、夜のはじめ、はじめの秋、此二に心をとゞめて折々吟じしらべて、數日の後に、夜のはじめとは究り侍る也。」(『去来抄・三冊子・旅寝論』潁原退蔵校訂、一九三九、岩波文庫p.114~115)

 

 元禄八年刊支考編の『笈日記』に、

 

   七夕 草庵

 

 たなばたや龝をさだむる夜のはじめ  翁

 高水に星も旅ねや岩のうへ

   後の句の心はなにがしの女の岩の

   上にひとりしぬればとよみけむ

   旅ねなるべし。今宵この事語り

   出たるつゐでのゆかしきにしる

   し侍る

 

とある。高水にの句の方は先に紹介されていて、元禄九年刊の史邦編『芭蕉庵小文庫』の小町と遍照の歌を元にしていた。

 「はじめの夜」の方の句は元禄八年刊浪化編の『有磯海』に、

 

 七夕や秋をさだむるはじめの夜   芭蕉

 

とある。同じ元禄八年刊だが数日違いでこの違いが出てしまったようだ。

 これは意味的には一緒なので、あとはリズムの問題だろう。「はじめの・よ」の四一のリズムよりも「よの・はじめ」という二三のリズムの方が安定感がある。ただ「夜のはじめ」は倒置になるので、「はじめの夜」の方が意味はわかりやすい。

23、丈六の

 「丈六のかげろふ高し石の上

  かげろふに俤つくれ石のうへ

 此句、當國大佛の句也。人にも吟じ聞せて、自も再吟有て、丈六の方に定る也。」(『去来抄・三冊子・旅寝論』潁原退蔵校訂、一九三九、岩波文庫p.115)

 

 この句は『笈の小文』には、

 「伊賀の国阿波の庄といふ所に、俊乗上人(しゅんじょうしゃうにん)の旧跡有り。護峰山新大仏寺とかや云ふ、名ばかりは千歳の形見となりて、伽藍は破れて礎(いしずゑ)を残し、坊舎は絶えて田畑と名の替り、丈六(じゃうろく)の尊像は苔の緑に埋れて、御ぐしのみ現前とおがまれさせ給ふに、聖人の御影はいまだ全(まったく)おはしまし侍るぞ、其の代の名残疑ふ所なく、泪こぼるるばかりなり。石の蓮台、獅子の座などは、蓬・葎(むぐら)の上に堆(うづたか)く、双林(さうりん)の枯れたる跡もまのあたりにこそ覚えられけれ。

 

 丈六にかげらふ高し石の上

 さまざまの事おもひ出す桜哉」

 

とある。「丈六の」の句形は、元禄八年刊支考編の『笈日記』で、

 

   そのとし阿波といふ所の大佛に詣して

 丈六のかげろふ高し石の上     芭蕉

 

とある。「俤つくれ」の方はこの『三冊子』と土芳編の『芭蕉翁全伝』に見られるのみで、土芳が芭蕉本人から聞いた独自の情報であろう。

 「かげろふに」の句は前書きがないと何の石なのかすらわからない。「丈六」の言葉があって初めて丈六仏(一丈六尺の仏像)のことだとわかる。丈六を補って、陽炎がその俤だということは読者が気付くはずだと確信しての省略になる。

24、明ぼのや

 「明ぼのや白魚白きこと一寸

 この句、はじめ、雪薄し、と五文字あるよし、無念の事也といへり。」(『去来抄・三冊子・旅寝論』潁原退蔵校訂、一九三九、岩波文庫p.115)

 

 これは「草臥て宿かる比や」の句と同様、季語の問題での改作と思われる。

 桑名の辺りの白魚漁は『東海道名所図会』(寛政九年刊)にも厳冬の風物をして紹介されていて、この句も冬に詠んだ句だった。ただ、白魚は春の季語であるため、仕方なく「雪薄し」の上五を放り込んで冬の句にしたと思われる。

 この句も元禄八年刊支考編の『笈日記』に、

 

   おなじ比にや

     濱の地蔵に詣して

 雪薄し白魚しろき事一寸

   此五文字いと口おしとて後には

   明ぼのともきこえ侍し

 

とある。多分芭蕉から直接託されて句は「雪薄し」の方で、あとから人づてに「明ぼの」に変えたと聞かされたのだろう。確証が持てずにこのような形での掲載になったか。

 白魚漁の殺生の罪を気にかけての句で、中世連歌の、

 

   罪の報いもさもあらばあれ

 月残る狩り場の雪の朝ぼらけ     救済(きゅうせい)

 

の句にも通じるものがある。

 芭蕉の方法というのは、こうした不易の情を古典の題材を用いずに、今までになかった現在の事象で詠むことで、白魚にそれを見出した句といえよう。

 

 おもしろうてやがて悲しき鵜舟哉  芭蕉

 

の句も同様のテーマの句といえる。

 『去来抄』「先師評」で、

 

 猪のねに行かたや明の月      去來

 

の句に対して、

 

 「そのおもしろき処ハ、古人もよく知れバ、帰るとて野べより山へ入鹿の跡吹おくる荻の上風とハよめり。和歌優美の上にさへ、かく迄かけり作したるを、俳諧自由の上にただ尋常の気色を作せんハ、手柄なかるべし。」

 

と評したと思われる。古典の言葉を繰り返すのではなく、新しい言葉を見つけ出せというのが、不易にして流行する俳諧だった。

25、としどしや

 「としどしや猿にきせたる猿の面

 此歳旦、師のいはく、人同じ處に止て、同じ處にとしどし落入る事を悔て、いひ捨たるとなり。」(『去来抄・三冊子・旅寝論』潁原退蔵校訂、一九三九、岩波文庫p.115)

 

 同じところに留まるなというのは、芭蕉もまた古典の素養に縛られて、常に新しい句を詠めるわけではなく、それを新年の自戒として、猿が猿の面を被ってもやはり猿だと詠んでいる。古典の猿真似ではない、本当に新しい句を芭蕉は最後まで求めていた。古典回帰から軽みへの転換もそこにあった。

 元禄六年元旦の句で、元禄九年刊史邦編の『芭蕉庵小文庫』、元禄十一年刊種文編の『俳諧猿舞師』の春の部の巻頭を飾っている。

26、牛部屋に

 「牛部屋に蚊の聲くらき殘暑哉

 此句、蚊の聲よはし秋の風、と聞へし也。後直りて自筆に殘暑かな、とあり。」(『去来抄・三冊子・旅寝論』潁原退蔵校訂、一九三九、岩波文庫p.115)

 

 この句は元禄九年刊史邦編の『芭蕉庵小文庫』、元禄十一年刊風国編の『泊船集』には、

 

 牛部屋に蚊の聲よはしあきの風

 

とある。宝永六年刊輪雪編の『星會集』には、路通、史邦、丈草、去来、野童、正秀といった連衆による歌仙一巻が収められているが、その発句もこの形になっている。元禄四年七月、京都での興行。「残暑かな」の句形は土芳が直接聞いて、芭蕉の自筆も見たものと思われる。

 「蚊の聲よはし」の方の句は秋風で蚊の声も弱くなるという、古くからある秋深まって虫の音の弱くなるを前倒しにしたような趣向になる。これだと「牛部屋」が生きてないというか、牛部屋でなくても良かった感じがする。 興行の発句としてみれば、たまたまそこに牛部屋があったということかもしれない。京は古くからの平坦な直線路が多く、荷運びに牛が多く用いられていた。それに、興行の発句として亭主の家を褒めるのであれば、蚊の声も弱くなって涼しい秋の風が吹いてますの方が挨拶としてふさわしい。

 ただ、当座の興から離れて、本に載せて不特定多数の読者の読む句となると、何とか牛部屋の新味を生かしたいということになったのだろう。そこで牛部屋らしく「蚊の聲くらき」にし、暗い牛部屋に蚊が集まるのは暑いからということで、季語も残暑哉になったのではないかと思う。ただ、結果的に未発表になった。

27、梅が香に、なまぐさし

 「梅が香にのつと日の出る山路哉

  なまぐさし小なぎが上の鮠の腸

 此二句、ある俳書に、梅は餘寒、鮠のわたは殘暑也。是を一体の趣意といはんと、門人のいへば、師、尤とこたへられ侍ると也。」(『去来抄・三冊子・旅寝論』潁原退蔵校訂、一九三九、岩波文庫p.115~116)

 

 ある俳書は岩波文庫『去来抄・三冊子・旅寝論』の潁原注にもある通り、元禄八年刊支考編の『笈日記』を指す。そこには、

 

 梅が香にのつと日の出る山路かな

 なまぐさし小なぎが上の鮠の腸   翁

   梅か香の朝日は餘寒なるべし小なぎの

   鮠のわたは殘暑なるべし是を一躰の趣

   意と註し候半と申たれバ阿叟もいとよし

   とは申されし也。その後大津の木節亭

   にあそぶとて

 

とある。

 「梅が香に」の句は『炭俵』に収録されている芭蕉・野坡両吟歌仙の発句で、旅体だが江戸での吟になる。ひそかに暖めていた句だったのかもしれない。明け方のまだ凍えるような寒さの中で、梅の香と朝日にこの寒さもそう長くないと感じさせる句だ。

 余寒(よかん、よさむ)はコトバンクの「精選版 日本国語大辞典の解説」に、

 

 「〘名〙 立春後の寒さ。寒があけてもまだ続く寒さ。残寒。《季・春》

  ※懐風藻(751)初春在竹渓山寺於長王宅宴追致辞〈釈道慈〉「驚レ春柳雖レ変、余寒在二単躬一」

  ※高野本平家(13C前)灌頂「きさらぎやよひの程は風はげしく、余寒(ヨカン)もいまだつきせず」 〔陸游‐三月廿一日作詩〕

 〘名〙 寒さが残っていること。大寒が過ぎたり、立春が過ぎたりしたのに、まだ残っている寒さ。また、その時節。よかん。

  ※春雨文庫(1876‐82)〈松村春輔〉一「老婆に話すうち老婆は茶を入れ餠など焼て出すは二月末の余寒(ヨサム)のころなり」

 

とある。

 「なまぐさし」の句は元禄七年の夏から秋ということになる。今栄蔵の『芭蕉年譜大成』(1994、角川書店)によると、芭蕉はこの年五月十一日に江戸を発ち、伊賀へ帰省した後、閏五月十七日に大津乙州宅で支考と会っている。そして閏五月二十二日に落柿舎に移っている。この時に支考も同行し、「柳小折」の巻に同座している。

 そのあと五月下旬に「牛流す」の巻にも同座し、六月十五日に京都から膳所へ移る。この時も支考は同行している。ここでも「夏の夜や」の巻、「秋ちかき」の巻、「ひらひらと」の巻に同座している。

 七月上旬に大津の木節亭で「ひやひやと」の句を詠んだのが、先の『笈日記』の引用部分の「その後大津の木節亭にあそぶとて」になるので、「なまぐさし」の句はこの少し前の七月のはじめに詠んだものと思われる。

 この、

 

 なまぐさし小なぎが上の鮠の腸   芭蕉

 

の句だが、「小なぎ」は小水葱で「デジタル大辞泉の解説」に

 

 「ミズアオイ科の一年草。水田や池に生え、ミズアオイに似るが全体に小さい。夏から秋、青紫色の花を開く。花を染料に用いた。みずなぎ。ささなぎ。《季 春 花=秋》「なまぐさし―が上の鮠(はえ)の腸(わた)/芭蕉」

 

とあり、ウィキペディアに、

 

 「日本人との付き合いは古く、同属のミズアオイと共に万葉集に本種を読んだ歌が収録されている。また、江戸時代頃までは食用にされていた。ベトナムでは今でも食用にする。」

 

とある。

 「鮠(はや)」はウィキペディアに、

 

 「ハヤ(鮠, 鯈, 芳養)は、日本産のコイ科淡水魚のうち、中型で細長い体型をもつものの総称である。ハエ、ハヨとも呼ばれる。」

 

とある。

 琵琶湖で獲れたハヤは夏だと腐りやすいので、内臓を素早くとり出す必要があったのだろう。それが小なぎの上に放置され、悪臭を放っている。

 この時代に「小なぎ」や「はや」が季語だったかどうかはわからない。だから「殘暑なるべし」と見抜いた支考に芭蕉も感心したのではなかったかと思う。

28、ひやひやと

 「ひやひやと壁をふまへて晝寐哉

 是も殘暑と、かの門人いへば師宜と也。」(『去来抄・三冊子・旅寝論』潁原退蔵校訂、一九三九、岩波文庫p.116)

 

 この句は先の『笈日記』の続きになる。

     その後大津の木節亭

   にあそぶとて

 ひやひやと壁をふまえて晝寐哉

   此句はいかにきゝ侍らんと申されしを是も

   たゞ殘暑とこそ承り候へかならず蚊屋

   の釣手など手にからまきながら思ふ

   べき事をおもひ居ける人ならんと申侍れバ

   此謎は支考にとかれ侍るとてわらひて

   のみはてぬるかし。

 

 その後の大津木節亭での句ならば、七月上旬ということになる。

 昼寝も当時は季語ではなかった。「ひやひやと」が秋になる。

 残暑の厳しいときは日の当たらない壁のひんやりとした感触で涼むという句で、どこか涼しいところに移動するでもなく、一人部屋に籠って蚊帳の吊り手に手を絡ませたりしながら物思いにふける様は、当時としては「あるある」だったのだろう。

29、秋風の

 「秌風の吹とも青し栗のいが

 此句、いがの青をおかしとて、句にしたる也。吹とも青し、と云所にて、句とはなして置たりと也。」(『去来抄・三冊子・旅寝論』潁原退蔵校訂、一九三九、岩波文庫p.116)

 

 元禄九年刊史邦編の『芭蕉庵小文庫』には、

 

 はつ嵐ふけとも青し栗のいが    はせを

とある。

 栗のいがは最初は青く、だんだん茶色になって行く。秋風の頃はまだ栗のいがは青い。それを「ふけども青し」というところで句になる。秋風に栗のいがの取り合わせに対し、「吹けども」が取り囃しになる。

30、改作

 「馬ぼくぼく我を繪に見る夏野哉

 此句、はじめは、夏馬ぼくぼく我を繪に見る心かな、と有。後直る也。」(『去来抄・三冊子・旅寝論』潁原退蔵校訂、一九三九、岩波文庫p.116)

 

 これは天和三年の夏、甲斐国谷村の高山麋塒を尋ねた時の興行の発句で、その時は、

 

 夏馬の遅行我を絵に見る心かな   芭蕉

   変手ぬるる瀧凋むむ瀧     麋塒

 

だった、天和の漢詩文調の句だった。

 夏馬遅行は特に漢詩に出典があるわけではなく、それっぽく作られた言葉のようだ。ネット上の中村真理さんの「俳諧における驢馬─旅する詩人の肖像」(関西大学学術リポジトリ)によると、杜甫、杜牧、蘇軾などの中国文人の騎驢図のイメージがあったからだとしている。日本では驢馬はなじみなく、馬でもって驢馬の趣向を代用する傾向があり、支考の、

 

 馬の耳すぼめて寒し梨子の花    支考

 

の句の「梨子の花」で騎驢図を連想させるもので、許六がそれを絵に描いたことが元禄八年刊支考編の『笈日記』にあるという。

 

   卯月十八日許六亭に寄宿す物語の序

   にみづから繪かきたる色紙數多取出し

   給へるに人々の筆にてその人のほつ句かゝ

   せをきたるが巻頭は先師はせを庵の

   四季の句にてぞおはしける。くりかへしたる

   中に梨の花の白妙に咲てその陰に唐め

   きぬる人の馿馬の頭引たて背むきに

   乘たる繪の侍り。是は支考が東路にて

   〽馬の耳すぼめて寒し梨の花 と申侍し

   ほつ句かゝせむと思へるなるべし。されば此句の

   からめきて詩に似たりと見給へる眼は繪を

   得て俳諧をさとり俳諧をえて繪にうつ

   し給へるならん。みづからなしをきたる事

   の此さかへにいたらざるは繪につたなきゆへ

   ならんといとゞうらやましかりし。

 

 支考自身は特に騎驢図を意識してなかったようだ。『去来抄』「同門評」でも騎驢図のことは話題になっていないし、絵師としても一流の許六ならではの発想だったと思われる。

 夏馬遅行は騎驢図だけでなく、騎牛老子図の影響もあったかもしれない。驢馬や牛に乗るのは日本では現実的ではなかったが、街道で馬に乗るのは普通のことだったから、その普通をもって騎驢図や騎牛図の心を表現しようとしたのではなかったかと思う。

 「馬ぼくぼく」への改作は、漢語を排したというよりは、騎驢図の連想をはずして旅体の句として、夏の旅の苦しさの句へと作り変えたのではないかと思う。

 

 「金屏に松のふるびや冬リ

 此句、はじめは、山を繪書て冬籠リ也。後直し也。」(『去来抄・三冊子・旅寝論』潁原退蔵校訂、一九三九、岩波文庫p.116)

 

 この句は『炭俵』に、

 

 金屏の松の古さよ冬籠り      芭蕉

 

とある。「ふるびや」の形は元禄八年刊支考編の『笈日記』によるものか。

 『芭蕉俳句集』(中村俊定校注、一九七〇、岩波文庫参照)の注には、「赤草子草稿」に「山を繪書は、いがの平仲が宅にての吟なり。炭俵は後の事なれば、画に句を直して松とは成るか」と記されているという。

 金屏に山を絵書てだと、屏風は今書いたばかりの芭蕉さんの筆の金屏風ということになる。あるいは誰かが今しがた書いたか、ということになる。「松のふるびや」だと、絵も古くて、何やら由緒のあるような印象を与える。

 

 「秋風や桐に動てつたの霜

 此句、梧うごく秋の終りや蔦の霜、とはじめハ聞へ侍る。後直りて此秋風也。」(『去来抄・三冊子・旅寝論』潁原退蔵校訂、一九三九、岩波文庫p.116)

 

 元禄九年刊史邦編の『芭蕉庵小文庫』には、

 

 桐うごく龝の終りやつたの霜     はせを

 

とある。元禄十一年刊風国編の『泊船集』にも、

 

   暮秋のけしきを

 桐動く秋の終りや蔦の霜

 

とある。

 「秋風や」の方の句形は『芭蕉俳句集』(中村俊定校注、一九七〇、岩波文庫参照)の注には、「赤草子草稿」に「此自筆物の句也云々」とあるという。

 「蔦の霜」は晩秋の景色で、「秋風」は主に初秋の「目にはさやかにみえねども」の心で用いられるので、この改作はよくわからない。元禄四年秋の句とされている。

 

 「團扇とつてあふがんひとの後ロむき

 此句、集ども、うちわもて、と五文字して下の五文字、後むき、せなかつきと有。後改るか。この句、盤齋の後むきの像の賛也。」(『去来抄・三冊子・旅寝論』潁原退蔵校訂、一九三九、岩波文庫p.116~117)

 

 元禄八年刊支考編の『笈日記』には、

 

   盤齋背むきの像

 團もてあふがん人の背つき      はせを

 

とある。今栄蔵の『芭蕉年譜大成』(1994、角川書店)によると、貞享二年四月上旬、「星崎の医師起倒子宅で加藤盤斎自画の賛」だという。

 「團扇(うちわ)とつて」の句形は土芳の独自情報か。天和の頃の名残のようなリズムが感じられる。

 

 「窓形に晝ねのござや簟

 此句、淵明をうらやむと、前書あり。はじめは晝寐の臺や、と中の七あり。」(『去来抄・三冊子・旅寝論』潁原退蔵校訂、一九三九、岩波文庫p.117)

 

 「簟」は「たかむしろ」と読む。

 この句は元禄十一年刊沾圃編の『続猿蓑』に、

 

   晋の淵明をうらやむ

 窓形に昼寐の臺や簟         芭蕉

 

とある。「ござ」の方の句形は土芳の独自情報によるものか。

 「窓形(まどなり)」はよくわからない。窓の形(なり)ということだが、窓の位置に合わせて涼しいところに簟を敷くということか。

 竹莚・竹席・簟はコトバンクの「精選版 日本国語大辞典の解説」に、

 

 「〘名〙 籐(とう)や細く割った竹などで編んだ、夏用の敷物とするむしろ。たけむしろ。《季・夏》

  ※和漢朗詠(1018頃)上「炎景剰さへ残って衣尚重し、晩涼濳かに到って簟(たかむしろ)先づ知る〈紀長谷雄〉」

  ※浮世草子・浮世栄花一代男(1693)二「竹莚(タカムシロ)うへに御ゆかたはめして」

 

とある。「ござ」は藺草で編んだ敷物で今でいう御座の意味と、「御座」の文字通りの貴人の座席という意味と両方ある。前者だと簟と被るので、貴人の座席の方になる。

 臺(だい)は台で高い建物の意味だが、この場合は部屋の中の一段高くしたところのことか。

 芭蕉の意図としては、窓の位置からして涼しいところに簟を敷いて昼寝をすると、あたかも陶淵明のような貴人の居場所のようだ、としたかったのだろう。ただ、「ござ」だと敷物の御座が思い浮かんでしまうし、「台」だと一段高いところに簟を敷いたように取られかねない。どちらがいいとも言えない。

 

 「一とせに一度つまるゝ若菜哉

 此句、その春、文通に聞え侍る。その後直にたづね侍れば、師の曰、其比はよく思ひ侍るが、あまりよからず、うち捨しと也。」(『去来抄・三冊子・旅寝論』潁原退蔵校訂、一九三九、岩波文庫p.117)

 

 元禄七年春の句。元禄十一年刊風国編の『泊船集』には、

 

 一とせに一度つまるゝ菜づなかな   芭蕉

 

になっている。

 若菜摘みは古くは正月初子(はつね)のもので、のちに人日(じんじつ)(正月七日)のものとなった。ただそうした儀式とは無関係に、農家では日常的に芹などを摘んで食べていたから、一年に一度は都市に住む人間にとっては面白くても、というところではなかったかと思う。

 ただナズナだけに限定すれば、普段はほとんど食べなかったのかもしれない。

 最近ではスーパーにも芹が並ぶようになったが、ナズナとなるとやはり七種セットで売られているだけだ。(余談だが、七草セットが売られるようになったのもわりと最近で、子供の頃は大根だけの七草粥を食べていた。)

31、此秋は

  「旅懷

  此秋は何ンでとしよる雲に鳥

 此句、難波にての句也。此日朝より心にこめて、下の五文字に寸々の腸をさかれし也。」(『去来抄・三冊子・旅寝論』潁原退蔵校訂、一九三九、岩波文庫p.117)

 

 この句は元禄七年九月二十六日の句で、元禄八年刊支考編の『笈日記』に、

 

   旅懷

 此秋は何で年よる雲に鳥

   此句はその朝より心に籠てねんじ申されしに

   下の五文字寸々の腸をさかれける也。是は

   やむ叓なき世に何をして身のいたづらに老ぬらん

   と切におもひわびられけるがされば此秋は

   いかなる事の心にかなはざるにかあらん。伊賀を出て

   後は明暮になやみ申されしが京大津の間を

   へて伊勢の方におもむくべきかそれも人々

   のふさがりてとゞめなばわりなき心も出さぬべし。と

   かくしてちからつきなばひたぶるの長谷越すべき

   よししのびたる時はふくめられしにたゞ羽を

   のみかいつくろひて立日もなくなり給へる

   くやしさをいいとゞいはむ方なし

 

とある。

 支考は旅を続けたくて旅のできない師の状態を、羽を搔い繕うだけの鳥にたとえ、その悔しさを雲に託したというふうに解釈している。

 筆者は前に別の所で、

 

   わが心誰にかたらん秋の空

 荻に夕風雲に雁がね         心敬

 

 此秋は何で年よる雲に鳥       芭蕉

 

の類似から、雲は鳥と語るが我には寄るべき友がいない、というふうに解釈した。

32、名月や

 「名月や座にうつくしき貌もなし

 此句、湖水の名月也。名月や兒達双ぶ堂の緣、としていまだならず。名月や海にむかへば七小町、にもあらで、座にうつくしき、といふに定る。」(『去来抄・三冊子・旅寝論』潁原退蔵校訂、一九三九、岩波文庫p.117)

 

 この三句はいずれも元禄三年八月十五日木曽塚の草庵で月見の会があった時の句だった。元禄九年刊風国編の『初蝉』には、

 

 名月や兒たち並ぶ堂の縁       芭蕉

   とありけれど此句意にみたずとて

 名月や海にむかへば七小町      同

   と吟じて是もなほ改めんとて

 名月や座にうつくしき顔もなし    同

   といふに其夜の句はさだまりぬ

 

とある。

 稚児や小町を出しておいて、あえてこれでは月並みとばかりに「うつくしき顔もなし」でこれが俳諧だとやってみせたわけだ。

 名月を愛でたいものと取り合わせるのはすでにさんざんいろいろな人がやってきたことで、あえてそれを繰り返すこともあるまい。ならばというわけだ。

 逆説的な言い方だが、この句は名月には美しい顔が欲しいと言っているようなものだ。ただ、それを限定しないことで、各自好みの「美しい顔」を思い描けばいいということになる。

 この句はこの後すぐに尚白との両吟の発句として用いられ、そのときは、

 

   古寺翫月

 月見する座にうつくしき顔もなし   芭蕉

 

の形になる。まあ、尚白と二人っきりでは無理もないが。

33、蘭の香や

 「蘭の香や蝶の翅に薫す

 此句ハ、ある茶店の片はらに道やすらひしてたゝずみありしを、老翁を見知り侍るにや、内に請じ、家女料紙持出て句を願ふ。其女のいはく、我は此家の遊女なりしを、今はあるじの妻となし侍る也。先のあるじも、鶴といふ遊女を妻とし、其比、難波の宗因、此處にわたり給ふを見かけて、句をねがひ請たると也。例おかしき事までいひ出て、しきりにのぞみ侍れば、いなみがたくて、かの難波の老人の句に、葛の葉のおつるの恨夜の霜、とかいふ句を前書にしてこの句遣し侍るとの物がたり也。其名をてうといへば、かくいひ侍ると也。老人の例にまかせて書捨たり。さのことも侍らざればなしがたき事也と云り。」(『去来抄・三冊子・旅寝論』潁原退蔵校訂、一九三九、岩波文庫p.118)

 

 この句は元禄八年刊支考編の『笈日記』に、

 

   美人圖

 蘭の香や蝶のつばさにたきものす   はせを

 

とだけある。これでは何のことかわからないので、『三冊子』は長い注釈を施している。

 これについては『野ざらし紀行─異界への旅─』を書いたときに、

 

 「いくら有名人とはいえ、会う人ごとに句をねだられたのではたまったものではない。しかし、先代の妻が談林の祖、西山宗因に発句をもらったという縁であれば、芭蕉の心も動いたのであろう。いわば、日頃尊敬してやまぬ宗因との句合わせだ。」

 「芭蕉にとって、宗因はかけがえのない師だった。とはいえ、宗因は『西翁十百韻』恋俳諧「花で候」の巻のような、恋の句だけで百韻を作るほどの、恋句の達人であり(ただし江戸時代的な恋句で、中世的なラブソングではない)、この勝負は無謀ともいえる。

 

 葛の葉のおつるの恨夜の霜      宗因

 蘭の香やてふの翅にたき物す     芭蕉

 

 宗因の句は、「結婚こそ女の幸せ」と信じるものにとっては理解し難かったのか、なぜここで「恨み」を言わなければならなかったかわからないとする解説書が多い。しかし、発想を逆にしてほしい。つまり、遊女という仕事に誇りを持つ女性の立場に立つといい。江戸時代の遊女は、戦前の赤線の遊女や今日のソープ嬢ではなく、しっかりとした芸を身に着けていたし、客を選ぶこともできた。せっかく才気あふれる女性でありながら、よる年なみに勝てず、結局一人の男のもとに「落ちて」、枯れ果ててしまった、そんな遊女の生涯への共感がこの句の本意だったのである。

 これに対して、芭蕉の句は蘭の香によって「てふ」という女の翼が高貴な香になった、というものだ。蘭といえば山中にひっそりと暮らす君子の心で、遊女をやめて、ひっそりと操を守って暮らすことによって、花から花への浮気な蝶の羽も香ばしい香を漂(ただよ)わすというものだ。芭蕉の句は残念ながら遊女の境遇への共感というよりも、貞操を賛美する儒教道徳そのものだ。やはり芭蕉はただの堅物としか言いようがない。私ならこの句合わせを、このように判定(はんてい)する。

 ─蘭の香は尊くたぐひまれなれども、霜枯れの葛はまた哀れひとしほにて、幽玄の心を表はす。よりて右勝ち。」

 

とした。基本的にこれは芭蕉の弱点であるとともに、後にその徳の高さが評価された理由でもあった。

 宗因はよく人情に通じて、それゆえに談林の大ブームを演出することができた。芭蕉はそれに乗っかりながら、談林ブームの去ったあとに残せるものを作り上げた。ただ、かつての俳諧興行の熱気を再現することはなかった。俳諧の大衆を熱狂させた部分は、既に歌舞伎や文楽に移行していたし、後の川柳点や浮世絵などの多方面なメディアに広がって行った。

 発句だけは多くの人の興味を引いたが、俳諧興行が大衆娯楽に返り咲くことなく、明治の近代俳句によって文学からも排除され、今日に至っている。

34、句の制作過程

 「秋もはやぱらつく雨に月の形リ

 此句、はじめは、昨日からちよつちよつと秋も時雨哉、と句作り有。いかにおもひ給ひ侍るにや、いろいろ句作りして心見らるゝ反故の筆すさみ有。終に月の形、と自筆の物にも殘しをかれ侍る也。」(『去来抄・三冊子・旅寝論』潁原退蔵校訂、一九三九、岩波文庫p.118)

 

 この句も元禄八年刊支考編の『笈日記』に、

 

   其柳亭

 秋もはやはらつく雨に月の形     翁

   此句の先〽昨日からちよつちよつと秋も時雨かなと

   いふ句なりけるにいかにおもはれけむ月の形にハ

   なしかえ申されし。廿一日二日の夜は雨もそぼ

   降りて静なれば、

 秋の夜を打崩したる咄かな

 

とある。

 元禄七年九月十九日、大阪の其柳(きりゅう)亭での八吟歌仙興行の発句で、事前に発句を用意するのではなく、その場の興で詠んだのであろう。

 

 昨日からちょつちょつと秋も時雨哉

 

の句は本当にそのまま詠んだという感じで、九月も中旬だからまだ暦の上で冬ではないが、昨日くらいからちょちょっと時雨がぱらついていたのだろう。

 ひょっとしたらこの句を詠んで、さあ始めようとしたところで、ちょうど月の光が射してきたのかもしれない。十九日だから月の出も遅い。

 せっかく月が出たのだから、この月を詠まない手はないとばかりの改作ではなかったかと思う。

 後からの改作なら表六句のどこかに月の句があって、それを訂正しなくてはならない。十二句目と二十二句目に見せ消ちに訂正した跡はあるが、表六句にはない。

 

 「貌に似ぬ發句も出よはつ櫻

 此句は、下のさくら、いろいろ置かへ侍りて、風與さくらに當り、是初の字の位よろしくと究る也。」(『去来抄・三冊子・旅寝論』潁原退蔵校訂、一九三九、岩波文庫p.118~119)

 

 これは元禄十一年刊沾圃編の『続猿蓑』の句。元禄九年刊風国編の『初蝉』にもある。

 桜の興で「貌に似ぬ發句も出よ」まではすっと出てきたのだろう。下五がなかなか決まらなかったようだ。

 ただ桜としても字足らずで、「出よ」で切れているから「哉」などの切れ字は使えない。あと二字何にするかで、結局「初桜」になった。

 

 「朝露によごれて凉し瓜の泥

 此句は、瓜の土、とはじめあり。凉しき、といふに活たる所を見て、泥とはなしかへられ侍るか。」(『去来抄・三冊子・旅寝論』潁原退蔵校訂、一九三九、岩波文庫p.119)

 

 これも元禄八年刊支考編の『笈日記』に、

 

   去年の夏なるべし

     去來別墅にありて

 朝露によごれて凉し瓜の泥      翁

   人々つどひゐて瓜の名所なむ

   あまたいひ出たる中に

 瓜の皮むいたところや蓮臺野     仝

 

とある。元禄七年夏の落柿舎滞在中の句だった。

 「瓜の土」なら普通な感じがする。採りたての瓜に土がついているのはよくあることで、「朝露に」濡れているなら「泥」は必然であろう。ただ、瓜をご馳走になって、「泥」は失礼ではないかという気持ちが働いたので一度は「土」としたが、主人への挨拶の心が「凉し」で十分表現されているとして、「泥」に治定したと思われる。

 今日ではわざと新鮮さを表すのに「泥付き」と銘打って売っている野菜も多いが、この頃は泥がついているのは当たり前で、むしろ否定的な感じがしたのだろう。そこが俳味になる。

 瓜の名所の句をみんなが話している中で芭蕉が持ち出した「蓮臺野」は、コトバンクの「百科事典マイペディアの解説」に、

 

 「京都市の船岡(ふなおか)山から紙屋(かみや)川に至る一帯の野。《平家物語》巻1に〈香隆寺のうしとらに蓮台野〉とある。洛北七野の一つで,古来,東の鳥辺野(とりべの)(鳥辺山とも),西の化野(あだしの)とともに葬地として知られた。《野守鏡》は,定覚が当地で恵心僧都の始めた〈二十五三昧会〉にならい三昧を行ったところ,蓮花化生したところから蓮台野と名付けたという伝承を記す。香隆(こうりゅう)寺の寺基を継ぐと伝える上品蓮台(じょうぽんれんだい)寺があり,国宝の紙本著色絵因果経(天平時代)を所蔵。」

 

とある。瓜はお盆の時のお供えによく用いられるところから、あえて死者を連想させる地を出したか。

 この句もあえて否定的な言葉を出すことで俳味を狙った点で、「瓜の泥」と一緒なのかもしれない。

35、此道や

 「人聲や此道かへる秋のくれ

  此道や行人なしに秌の暮

 此二句、いづれかと人にもいひ侍り。後、行人なしといふ方に、究り、所思といふ題をつけて出たり。」(『去来抄・三冊子・旅寝論』潁原退蔵校訂、一九三九、岩波文庫p.119)

 

 この二句も元禄八年刊支考編の『笈日記』に、

   廿六日は淸水の茶店に遊吟して

   泥足が集の俳諧あり

           連衆十二人

 人聲や此道かへる秋のくれ

 此道や行人なしに龝の暮

   此二句の間いづれをかと申されしに

   この道や行ひとなしにと獨歩したる

   所誰かその後にしたがひ候半とて是

   に所思といふ題をつけて半歌仙

   侍り爰にしるさず

 

とある。

 この興行の発句は当座の興ではなく、元禄七年九月二十三日付意専土芳宛書簡に、

 

   秋暮

 この道を行人なしに秋の暮

 

と記されていた。

 その二日後の元禄七年九月二十五日付曲翠宛書簡には、

 

 「爰元愚句、珍しき事も得不仕候。少々ある中に

   秋の夜を打崩したる咄かな

   此道を行人なしに秋の暮

 人声や此道かへる共、句作申候。」

 

と、ここで初めて「人声や此道かへる」という別案があったことが確認できる。

 支考が芭蕉から二句示されて選ぶように言われたのが何日なのかはわからない。二十三日より前かもしれないし、あとから「人声や」の句を思いついて、支考に尋ねたのかもしれない。いずれにせよ興行前に用意されていた句だったのは間違いない。

 芭蕉は時折弟子に向かって二つの句を示しどっちが良いか聞くことがある。弟子を試している場合もあれば、本当にどっちが良いか迷っている時もあったのではないかと思う。この場合は後者ではなかったか。

 半歌仙興行は九月二十六日、大阪の清水の茶店で行われた。実際に句を詠んでいるのは十人で、それとは別に主筆とあと一人いたのかもしれない。

 この二句はおそらく芭蕉の頭の中にある同じイメージを詠んだのではなかったかと思われる。

 それはどこの道かはわからない。ひょっとしたら夢の中で見た光景だったのかもしれない。道がある。芭蕉は歩いてゆく。周りには何人かの人がいた。だが、一人、また一人、芭蕉に背中を向けてどこかへと帰ってゆく。気がつけば一人っきりになっている。

 帰る人は芭蕉に挨拶するのでもなく、何やら互いに話をしながらいつの間にいなくなってゆく。この帰る人を描いたのが、

 

 人声や此道かへる秋のくれ      芭蕉

 

の句で、取り残された自分を描いたのが、

 

 此道や行人なしに秋の暮       芭蕉

 

の句になる。

 人は突然この世に現れ、いつかは帰って行かなくてはならない旅人だ。帰るところは、人生という旅の帰るところはただ一つ、死だ。

 芭蕉はこの年の六月八日に寿貞が深川芭蕉庵で亡くなったという知らせを聞く。芭蕉と従弟との関係は定かではないが、一説には妻だったという。その前年の元禄六年三月には甥の桃印を亡くしている。

 この二人の死は芭蕉がいかにたくさんの弟子たちに囲まれていようとも、やはり肉親以外に代わることのできない心の支えを失い、孤独感を強めていったのではないかと思われる。それは悲しさを通り越して、心にぽっかり穴の開いたような生きることの空しさ変ってゆく。

 芭蕉が聞いた「声」は寿貞、桃印のみならず、芭蕉が関わりそして死別した何人もの人たちの「声」だったのかもしれない。それは冥界から聞こえてくる声だ。

 

 人声や此道かへる秋のくれ      芭蕉

 

 この句が決して出来の悪い句ではない。むしろほんとに寒気がするような人生の空しさや虚脱感に溢れている。

 それに対し、

 

 此道や行人なしに秋の暮       芭蕉

 

の句は前向きだ。帰る声の誘惑を振り切って猶も最後まで前へ進もうという、最後の力を振り絞った感じが伝わってくる。

 支考がどう思って「この道や」の句の方を選んだのかはよくわからないが、芭蕉は支考の意見に、まだもう少し頑張ろうと心を奮い起こしたのではなかったではないかと思う。

36、清瀧や

 「淸瀧や浪にちり込青松葉

 此はじめは、大井川浪にちりなし夏の月、と有。その女が方にての、白菊のちり、にまぎらはしとて、なしかへられ侍る也。」(『去来抄・三冊子・旅寝論』潁原退蔵校訂、一九三九、岩波文庫p.119)

 この句も元禄八年刊支考編の『笈日記』に、

 

 九日

 服用の後支考にむきて此叓は去来にも

 かたりをきけるが此度嵯峨にてし侍る大井川

 のほつ句おほえ侍る歟と申されしをあと

 荅へて

  大井川浪に塵なし夏の月

 と吟じ申ければその句園女が白菊の塵

 にまぎらはし是もなき跡の妄執とおもへば

 なしかへ侍るとて

  淸瀧や波にちり込靑松葉      翁

 

とある。有名な「旅に病んで」の句を詠んだ翌日のことだった。

 元禄七年九月二十七日の園女亭での興行で詠んだ発句は、

 

 白菊の眼に立て見る塵もなし     芭蕉

 

の句だった。園女を白菊に喩えた句だが、ならば目を立てて見れば塵があるのかというところで、まあ軽くいじった感じがしないでもない。この時の歌仙が芭蕉の最後の俳諧興行になった。最後の付け句は三十一句目の、

 

   杖一本を道の腋ざし

 野がらすのそれにも袖のぬらされて  芭蕉

 

だった。

 前句の杖を脇差にする人の姿を、既に死の淵に近い老人の姿と取り成し、カラスの鳴き声にも袖を濡らすとした。この老人は芭蕉自身といってもいいかもしれない。

 病状がさらに悪化する中で、死を考えなかったはずがない。そんな中で、この年の夏に詠んだ句と今回の発句との類似が気になってしまったのだろう。「大井川」の句は支考の記憶違いか、元禄七年六月二十四日付の杉風宛書簡に、

 

 清滝や波に塵なき夏の月       芭蕉

 

の句があるから、それが元もとの形だったと思われる。

 清滝は京都嵯峨野の北の小倉山や愛宕念仏寺よりも北にある清滝川を指すと思われる。これに対し「大井川」は今の桂川のことで、清滝川は大井川(桂川)に流れ込んで合流する。ついつい一緒くたになってしまったか。

 「去来にもかたりをきける」とある通り、『去来抄』「先師評」にもこのことが記されている。

 

 「清瀧や浪にちりなき夏の月

 先師難波の病床に予を召て曰、頃日園女が方にて、しら菊の目にたてて見る塵もなしと作す。過し比ノ句に似たれバ、清瀧の句を案じかえたり。初の草稿野明がかたに有べし。取てやぶるべしと也。然れどもはや集々にもれ出侍れば、すつるに及ばず。名人の句に心を用ひ給ふ事しらるべし。」(『去来抄・三冊子・旅寝論』潁原退蔵校訂、一九三九、岩波文庫p.13)

 

 この句は芭蕉の閏五月二十二日から六月十五日までの嵯峨滞在中に野明亭を訪れた時の句で、去来は同座していたのだろう。この時の句は「清滝や」だったと思われる。となると、元禄七年六月二十四日付の杉風宛書簡の後に「大井川」に作り直した可能性もある。

 

 清滝や波に塵なき夏の月       芭蕉

 白菊の眼に立て見る塵もなし     同

 

 この二句は「塵なき」と「塵もなし」の類似にすぎないが、等類と思われることよりも、園女さんを褒めるのに過去に詠んだ句の言葉を使いまわしたと思われる方が嫌だったのかもしれない。これは園女さんに対して失礼だったか、と多分そのことの方が気にかかってたから、あえて過去の作品を作り変えた可能性はある。

 

 淸瀧や波にちり込靑松葉       芭蕉

 

 波にゆらめく月の美しさは古典的な題材で新味に乏しい。だが、青松葉は新味はあるがいまひとつ花がない。ただ、去来に野明の所にある草稿を破ってくれとまで言うのだから、この句をなかったことにしたい、後世に残さないでほしいと思ってたのではなかったかと思う。去来も支考も暴露してしまったが。

37、桐の木に

 「桐の木に鶉なくなる堀の内

 この句、いかゞ聞侍るやとたづねられしに、何とやら一さまある事に思ふよし、答へ侍れば、いさゝか思ふ處ありて歩みはじめたると也。」(『去来抄・三冊子・旅寝論』潁原退蔵校訂、一九三九、岩波文庫p.119)

 

 これは『猿蓑』の句。

 元禄三年九月六日付の曲水宛書簡に「うづら鳴なる坪の内、と云ふ五文字、木ざはしや、と可有を珍夕にとられ候。」とある。

 この「木ざはしや」の句は元禄三年刊之道編の『江鮭子(あめこ)』の、

 

   第三まで

 椑柿や鞠のかゝりの見ゆる家     珍碩

   秋めく風に疊干門        之道

 有明に湯入中間の荷を付て      翁

 

の句だという。

 椑柿は中国語だと渋柿のことだが、「きざはし」は木醂・木淡という字を当て、コトバンクの「精選版 日本国語大辞典の解説」に、

 

 「〘名〙 木についたままで熟し、渋味がとれて甘くなった柿。甘柿。木練(こね)り。こざわし。きざがき。きざらし。きざわしがき。《季・秋》 〔庭訓往来(1394‐1428頃)〕

  ※小学読本(1874)〈榊原・那珂・稲垣〉三「柿は枝に置て、熟せしむるを木醂(キザハシ)といひ」

 

とある。

 「鞠のかかり」はコトバンクの「精選版 日本国語大辞典の解説」に、

 

 「蹴鞠をする場所である鞠の庭の四方に植えた樹木。下枝を、蹴上げる鞠の高さの標準とする。懸り木。四本懸りと称して四隅に桜・柳・松・楓などを植えた。かかり。まりかかり。

  ※宇津保(970‐999頃)国譲中「『をかしきまりのかかりかな』と、興あるまでまりあそばす」

 

とある。蹴鞠というと王朝貴族のイメージがあるが、ウィキペディアには、

 

 「江戸時代前半に、中世に盛んだった技芸のいくつかが町人の間で復活したが、蹴鞠もその中に含まれる。公家文化に触れることの多い上方で盛んであり、井原西鶴は『西鶴織留』で町民の蹴鞠熱を揶揄している。」

 

とある。

 ここでも蹴鞠に興ずる町人の家に木についたまま熟した柿がなっているという句なのだろう。柿を収穫せずに熟しきるまで放置されている辺りに、豊かさが感じ取れたのではないかと思う。現代では柿を食べる人も少なくなり、珍しいことではないが。

 之道の脇は発句をかなり立派な家と見て、門のところに畳が干してある情景を付けている。元禄の頃はまだ畳は贅沢だった。

 芭蕉の第三はそれを湯治場の情景に転じる。珍碩(後の洒堂)と之道は後に不仲になり、芭蕉が病を押して大阪まで来なくてはならない原因を作っている。その意味では因縁の取り合わせだ。

 之道が悪いのではなく、珍碩の方にいろいろ問題行動が多かったのだろう。許六も、

 

 「路通・洒堂ごときの者、一生の行跡嘸々乱随ならん。是少も予が障に成事ニ非ズ。

 此路通といふ者を見るに、俳諧も乱随也。一ツとしてとる所なし。

 しかれ共、先生ハ急度路通・洒堂のごときの者をにらミ、法を正敷し給ふ事、尤至極也。

 先生法をミだり給ふ時ハ、末々の門人猶ミだりに成て法を失ひ侍るべし。

 湖南の門人、洒堂を本のごとくに用ひ給ふ事、翁存命ニおいてハ、湖南の衆かくハちなみ給ふ事成まじ。」(『俳諧問答』横澤三郎校注、一九五四、岩波文庫p.101)

 

と言っている。一見博識のようだが底が浅く、はったりで生きているようなところがあって、多分周りの空気が読めなかったり、そういうところがあったのだろう。

 ここで芭蕉が「珍夕にとられ候。」というのも、芭蕉が雑談の中でつい喋ってしまった句をパクった可能性もある。

 

 木さはしやうづら鳴なる坪の内

 

 この「坪」はweblio古語辞典の「学研全訳古語辞典」に、

 

 「①中庭。建物や垣などに囲まれた、比較的狭い一区画の土地。

  出典枕草子 職の御曹司におはします頃、西の廂にて

  「御前(おまへ)のつぼにも作らせ給(たま)へり」

  [訳] 清涼殿の西の中庭にも(雪山を)作らせなさった。◇「壺」とも書く。

  ②宮中の部屋。つぼね。◇「壺」とも書く。」

 

とある。よく熟した柿の木があり、中庭で鶉が鳴いている、という豊かな町人の家のイメージで「木さはし」を用いる所は完全に被っている。ただ、「うづら鳴」という古典を離れない芭蕉の句に対し、洒堂は裕福な町人が貴族を真似て蹴鞠をやっているという当世の風俗を巧みに取り入れ、やられた、という感じだったのだろう。

 仕方なく芭蕉は、

 

 桐の木に鶉なくなる堀の内      芭蕉

 

と作り直す。「一さまある」というのは、 他と異なるおもむきがあるという意味であろう。

 桐の木で箪笥を作るようになったのは、江戸時代後期かららしい。この頃の桐の木は大きな落葉に風流を感じさせる木だったのではないかと思う。貞享三年正月の「日の春を」の巻の脇に、

 

   日の春をさすがに鶴の歩ミ哉

 砌に高き去年の桐の実        文鱗

 

とあり、芭蕉自身による『初懐紙評注』には、

 

 「貞徳老人の云。脇体四道ありと立られ侍れども、当時は古く成て、景気を言添たる宜とす。梧桐遠く立てしかもこがらしままにして、枯たる実の梢に残りたる気色、詞こまやかに桐の実といふは桐の木といはんも同じ事ながら、元朝に木末は冬めきて木枯の其ままなれども、ほのかに霞、朝日にほひ出て、うるはしく見え侍る体なるべし。但桐の実見付たる、新敷俳諧の本意かかる所に侍る。」

 

とある。熟柿よりも高貴なイメージがあったのではないかと思う。

38、旅に病で

 「旅に病で夢は枯野をかけ廻る

 此句、病中の吟にて、句の終り也。猶かけ廻る夢心、といふ句作有。いかに思ひ侍るやと人にもいひて、後、此句に定ると也。枯尾花に其角がかける、かれ野を廻る夢心、ともせばや、といへるとあり。笈日記に猶かけ廻る、とあり。」(『去来抄・三冊子・旅寝論』潁原退蔵校訂、一九三九、岩波文庫p.120)

 元禄八年刊支考編の『笈日記』に、

 

 八日

 之道すみよしの四所に詣して此度の延年

 をいのる所願の句ありしるさず。此夜深更

 におよびて介抱に侍りける呑舟をめされて

 硯の音のからからと聞えければいかなる消

 息にやとおもふに

    病中吟

  旅に病で夢は枯野をかけ廻る    翁

 その後支考をめして 〽なをかけ廻る夢

 心といふ句つくりあり。いづれをかと申されしに

 その五文字ハいかに承り候半と申ばいとむつか

 しき叓に侍らんと思ひて此句なにゝかおとり

 候半と荅へける也。いかなる不思議の五文字

 か侍らん今はほいなし。みづから申されける

 ははた生死の轉變を前にをきながら

 ほつ句すべきわざにもあらねどよのつね此道

 を心に籠て年もやゝ半百に過たればいね

 てハ朝雲暮烟の間をかけりさめては山水

 野鳥の聲におどろく。是を佛の妄執と

 いましめ給へるたゝちは今の身の上におほえ侍る

 也。此後はたゞ生前の俳諧をわすれむと

 のみおもふはとかへすがへすくやみ申されし

 也。さバかりの叟の辭世はなどなかり

 けると思ふ人も世にはあるべし。

 

とある。

 十月八日には之道とともに集まった門人たちが住吉四所神社に詣でて、祈願の句を奉納した。この時の句は其角の『芭蕉翁終焉記』に記されているが、そこにある支考の句が、

 

 起さるる声も嬉しき湯婆哉      支考

 

であり、祈願の句ではないところから、支考は介護要員で、他の門人たちとは同じには扱われてなかったと思われる。舎羅の発句もないところから、舎羅も介護のために残ったものと思われる。同じ介護要員の呑舟が、

 

 水仙や使につれて床離れ       呑舟

 

の句を詠んでいるところから、多分介護は三交代制でこの日の深夜の担当だったのだろう。木節の句がないのも医者だから残ったものと思われる。

 支考の扱いについては十月十一日の、

 

 うづくまるやくわんの下のさむさ哉  丈草

 

の句を詠んだ時に、支考のみが、

 

 しかられて次の間へ出る寒さ哉    支考

 

というややちがった句を詠んでいるのは、支考があくまで介護要員で、シフトに備えて寝てろと言われたと考えれば納得がいく。何かハブられた時の捨て台詞のような句だ。もちろん叱ったのは芭蕉ではあるまい。

 この日は呑舟が深夜のシフトに入っていて、たまたま硯の音で目覚めた支考が、

 

    病中吟

 旅に病で夢は枯野をかけ廻る     翁

 

の句を詠む現場を目撃したが、この時は多分寝てなければならない時間で、会話に加わったりはしなかったのだろう。

 そして支考のシフトになった時、芭蕉は「なをかけ廻る夢心」というもう一つの句を示して、どっちがいいか支考に尋ねた。他の門人がまだ寝ている早朝だったのではないかと思う。

 この句は其角の『芭蕉翁終焉記』には、「また枯野を廻るゆめ心ともせばやと申されしが」とあるが、其角はまだこの場に到着してなかったので、支考からのまた聞きと思われる。

 「その五文字ハいかに承り候半と申ばいとむつかしき叓に侍らんと思ひて」とあるのは、芭蕉がこの時上五を言わなくて「なをかけ廻る夢心」しか示さなかったからで、死の淵にある人を前にしてわざわざ聞くのもどうかと思って、「此句なにゝかおとり候半」と答えている。遠まわしな言い方がだ、とても選べません、ということだ。後から思うと上五を聞いておけばよかった、どんな不思議な五文字があったのか悔やまれる。

 この句を後の人は辞世の句と呼ぶが、この時代には辞世の歌はあっても、俳諧師が辞世の句を詠む習慣はなかったと思われる。支考が「はた生死の轉變を前にをきながらほつ句すべきわざにもあらねど」というのがこの頃の常識だったのではなかったかと思う。

 辞世の句の前例はないわけではない。俳諧の祖、荒木田守武は和歌と発句両方詠んでいる。

 

 越しかたもまた行末も神路山

     峯の松風峯の松風

                 荒木田守武

 朝顔に今日はみゆらんわが世かな   同

 

 同じく俳諧の祖と言われる宗鑑は和歌の形式ではあるが俗語を交えた俳諧歌になっている。

 

 宗鑑は何処へと人の問ふならば

     ちとようありてあの世へといへ

                   宗鑑

 

 貞門の祖、松永貞徳は辞世の歌を三首読み、その中の一つが『俳家奇人談』に記されている。

 

 明日はかくと昨日おもひし事も今日

     おそくは替る世のならひかな

                 松永貞徳

 

 野々口立圃は辞世の発句を詠んでいる。

 

 月花の三句目を今しる世かな     立圃

 

 他にも、

 

 夜の明けて花にひらくや浄土門    西武

 今までは生たは事を月夜かな     徳元

 

といった辞世の句もある。いずれも軽い挨拶のような句で、病床での悩ましい心境を込めることはなかった。 支考が「さバかりの叟の辭世はなどなかりけると思ふ人も世にはあるべし」と結んでいるように、確かに辭世としても尋常の句ではなかった。

39、無季の句と歌枕

 「朝よさを誰松しまの片心

 此句は季なし。師の詞にも名所のみ、雜の句にもありたし。季をとりあはせ哥枕を用る、十七字にはいさゝか心ざし述がたし、といへる事も侍る也。さの心にてこの句もありけるか。猶杖つき坂の句有。」(『去来抄・三冊子・旅寝論』潁原退蔵校訂、一九三九、岩波文庫p.120)

 

 この句は岩波文庫の『芭蕉俳句集』には貞享五年の所にある。元禄九年刊路通編の『桃舐集』に、

 

   名所雜

 あさよさを誰まつしまぞ片こゝろ   芭蕉

   翁、執心のあまり常に申されし、名所

   のみ雜の句有たき事也。十七字のうち

   に季を入、哥枕を用ていさゝか心ざし

   をのべがたしと、鼻紙のはしにかゝれ

   し句を、むなしくすてがたくこゝにと

   ゞむなるべし。

 

とある。

 元禄十一年刊風国編の『泊船集』には、

 

   雑句

 あさよさを誰まつしまぞかたこころ

   是ハ路通がもゝねぶりニ翁の

   句なりと書出しぬ

 

とある。

 名所の句は雑でもいいと芭蕉も言ったという。季と歌枕と両方取り合わすと、歌枕で詠みたいことがうまく言えなくなるということだ。

 雑で名所の句は、

 

 かちならバ杖つき坂を落馬かな    芭蕉

 

の句がある。『泊船集』でも「あさよさを」の句の隣に並べている。

40、門人の句

 「門人の句に、元日や家中の禮は星月夜、といふ有。たゞ、門松に星月夜と計する句也。味ふべしと也。」(『去来抄・三冊子・旅寝論』潁原退蔵校訂、一九三九、岩波文庫p.120)

 

 其角の句で「年立つや」の上五のものもあるようだ。

 元日は朔日だから月はないので、晴れていれば星月夜になる。貞享三年刊荷兮編の『春の日』には、

 

 星はらはらかすまぬ先の四方の色   呑霞

 

の句もある。

 当時は星月夜というと闇を詠むもので星の美しさを詠んだ句は珍しい。

 

 「同、松風に新酒を澄す山路哉、といふ句有。山路を夜寒にすべしといへり。その夜の道の戻りに、集などに若出す時は、はじめの山路しかるべしと也。」(『去来抄・三冊子・旅寝論』潁原退蔵校訂、一九三九、岩波文庫p.120)

 

 この句は元禄八年刊支考編の『笈日記』に、

 

 松風に新酒を澄す山路かな      支考

   此句は山路を夜寒にすべきよしにてその會

   みちて歸るとて集などに出すべくばもとの

   山路しかるべしといへり。いかなるさかひにか申されけむ。

 

とある。

 この句は元禄七年九月四日伊賀の猿雖亭での七吟五十韻興行の発句で、その時の発句は、

 

 松風に新酒をすます夜寒哉      支考

 

だった。興行の前に芭蕉にこの句を見せたところ「夜寒」にした方がいいと言われて、この形で興行を行ったが、帰り道で集に入れる場合は「山路」で言い、という話だった。

 この時の新酒は「あらばしり」と呼ばれるもので、「新酒をすます」というのは醪(もろみ)の入った袋を吊り下げて、搾り出す過程と思われる。こうして出来たあらしぼりは若干白濁しているが、どぶろくに較べれば雲泥の差の澄んだ酒になる。

 新酒を用意してくれた亭主猿雖への感謝という意味では、このような夜寒の季節に新酒はありがたいの方がふさわしかった。

 山路だと旅体になる。山路を行くうちに新酒も濾過され、宿に着く頃には美味しい新酒が飲めるという意味になる。おそらく猿雖亭に行くまでの道でできた句であろう。

 興行の際の立句と書物に乗せる際の発句との違いといえよう。

 

 「同、花鳥の雲に急ぐやいかのぼり、といふ句有。人のいへる。この句聞がたし。よく聞ゆる句になし侍れば句おかしからず、いかゞといへば、師の曰、いかのぼりの句にしてしかるべしと也。聞の事は何とやらおかしき所有を宜とす。此類の事はある事也。むかしの哥にも、小男鹿のいるのゝ薄初尾花いつしか君がたまくらにせん、と云もその類也。聞とげざれそもあはれなる哥也といひならはしたるとなり。」(『去来抄・三冊子・旅寝論』潁原退蔵校訂、一九三九、岩波文庫p.120~121)

 

 これは土芳の句。

 「花鳥」はコトバンクの「精選版 日本国語大辞典の解説」に、

 

 「① 花に宿る鳥。また、花と鳥。花や鳥。かちょう。《季・春》

  ※後撰(951‐953頃)夏・二一二「はな鳥の色をもねをもいたづらに物うかる身はすぐすのみなり〈藤原雅正〉」

 

とあるが、「花に宿る鳥」と「花と鳥」では随分の意味が違っていて、それだけでもどっちだろうかと悩ませてしまう。例文の藤原雅正の歌は「花の色」「鳥の音」で「花と鳥」の方であろう。

 土芳の句は、花は咲いて花の雲となり、鳥は雲に向かって高く飛び立つ。そのようにいかのぼり(凧)も空へ勢い良く舞い上がって行く、という句だと思われる。ただ、花の雲と鳥の雲とで雲の意味が違うため、何だろうと思ってしまう。

 この句は元禄八年刊浪化編の『有磯海』では、

 

 花鳥の空にいそぐやいかのぼり    土芳

 

と改作されている。これならすっきりだ。花は空に向かって散って行き、鳥も空へと飛び立っていく。そのようにいかのぼりも空へと上がって行く。

 「や」は疑いの「や」で「花鳥の空にいそぐ」を疑うので、こちらが比喩になるため、この句がいかのぼりの句なのは間違いない。

 和歌の方は、

 

 さ牡鹿の入野の薄初尾花

     いつしか妹が手枕にせむ

            柿本人麻呂(新古今集)

 

であろう。まあ、薄が手招きしているから、ささ牡鹿が野に入って行くように妹が家に行きたいな、ということか。上句を比喩として下句を言い起す、『詩経』の「桃之夭夭」のような作りになっている。

 

 「同、都にはふりふりすらん玉の春、といふ句有。これは玉の字分別あり。かくすも無念なるわざとて結句いひ顯したる句といへり。」(『去来抄・三冊子・旅寝論』潁原退蔵校訂、一九三九、岩波文庫p.121)

 

 「ふりふり」はコトバンクの「デジタル大辞泉の解説」に、

 

 「[副]舞い落ちるさま。

  「足を離れて網の上に踊りければ、―と落つる程に」〈今昔・二六・三〉」

 

とある。「はらはら」に近いようだ。

 「玉の春」は「新玉(あらたまの春」であろう。

 

 「同、ぬしやたれふたり時雨に笠さして、といふ句あり。是は初五理屈也。なしかゆべしと有。後、跡に月とはいかゞと云ば、宜と也。」(『去来抄・三冊子・旅寝論』潁原退蔵校訂、一九三九、岩波文庫p.121)

 

 この場合の笠は傘の方であろう。二人でひとつの傘に入っている度、傘の持ち主はどちらだろうか、という句だが、跡に月だと時雨の後の月という古典的なテーマになる。

 

 「同、時なる哉柊旅客は笠の端にさゝん、といふ句あり。初の詞過たり。柊を、と計すべしと也。」(『去来抄・三冊子・旅寝論』潁原退蔵校訂、一九三九、岩波文庫p.121)

 

 天和の破調の句か。五七五の定型に戻す。柊は立春の時に用いるから、「時なる哉」で春が来た喜びを表したのだろう。

 

 「同、鶯に橘見する羽ぶき哉、といふ句あり。下の五文字、師の手筋よく思ひ知りたるはと也。四ッ五器のそろはぬ花見心かな、と云も爰なるべしと也。」(『去来抄・三冊子・旅寝論』潁原退蔵校訂、一九三九、岩波文庫p.121)

 

 鶯に橘見する羽ぶき哉        土芳

 

は『続猿蓑』の歳旦のところに収録されている。鶯に橘の取り合わせに「羽ぶき」を取り囃しとする。

 「羽ぶき」は「羽振」でコトバンクの「精選版 日本国語大辞典の解説」に、

 

 「〘名〙 鳥や虫が羽を強く振ること。はばたき。はたたき。はぶり。

  ※曾丹集(11C初か)「おし鳥のはぶきやたゆきさゆる夜の池の汀に鳴く声のする」

 

とある。

 鶯と橘の取り合わせだけではただ景物を並べただけで情が生じない、鶯の羽ばたく様を加えることで、動きのある生き生きとした様が加わり、春の目出度さにふさわしいものとなる。

 

 四ッ五器のそろはぬ花見心かな    芭蕉

 

の句も花見に用いる食器の揃わないような、という比喩で浮かれた心を表す。これは『炭俵』の句。

 

 「同、春風や麦の中行水の音、といふ句あり。景氣の句なり。景色は大事の物也。連哥に、景曲といひ、いにしへの宗匠ふかくつゝしみ、一代一兩句に不過。初心まねよき故にいましめたり。俳には連哥ほどにはいまず。惣而景氣の句はふるびやすしとて、つよくいましめ有る也。此春風、景曲第一也とて、かげろふいさむ花の糸に、といふ脇して送られ侍ると也。歌に景曲は、見様躰に屬すと、定家卿もの給ふと也。寂蓮の急雨、定賴の網代木、之見様躰の哥とある俳書にあり。」(『去来抄・三冊子・旅寝論』潁原退蔵校訂、一九三九、岩波文庫p.121~122)

 

 春風や麦の中行水の音        木導

 

は元禄六年の句で、芭蕉が、

 

   春風や麦の中行水の音

 かげろふいさむ花の糸口       芭蕉

 

の脇を付けている。元禄八年刊支考編の『笈日記』にも付け合いとして収録されている。

 春風にそよぐ麦畑に水の流れる音が聞こえるという長閑な農村風景に、陽炎が奮い立ち、桜が咲くのももうすぐだと時候を添える。

 景気は景物ではない。二条良基の『連理秘抄』に、

 

 「さびしかりけり秋の夕ぐれ といふ句のあらんは、寄合も風情も豊かにて、雲霧草木に付ても付けよくこそあらむずれども、是を人々案じて仕たりと思とも、すべてこの句にかけ合ひたる秀逸は十句に一句も有がたし、その故は、ただ鹿をも啼せ、風をも吹せなどしたる計にては、美しく、秋の夕暮の寂しく、幽かなる景気もあるべからず、只形のごとく時節の景物を案じ得たる許にて、下手はよく付たりと思ふべし」(『連歌論集 上』伊地知鉄男編、一九五三、岩波文庫p.33)

 

とあるように、景物は「物」であって形を整えるだけで、景気は情を伴うものをいう。

 鹿や秋風には確かに情もあるが、長く言い古された景物は、初めてそれを見た時の感動とは程遠い、既に古典の知識の中での存在になっているからだ。

 

 山吹や蛙飛び込む水の音       芭蕉

 

の句の山吹は「景物」だが、

 

 古池や蛙飛び込む水の音       芭蕉

 

だと「景気」になる。

 それゆえ二条良基の『連理秘抄』でいう景気は、

 

 「景気 これは眺望などの面白き體を付くべし」(『連歌論集 上』伊地知鉄男編、一九五三、岩波文庫p.35)

 

ということになる。

 ただ、景気は個人的には良い眺望だと思っても、長年に渡ってコード化された景物とは異なり、その意味が伝わりにくい。そのため乱用することを戒めている。乱用すればどうなるかというと、それは近代俳句を見ればいい。

 景色はどれも綺麗なものだし、様々な景色を描くとどれも等価になり特別な意味を持たなくなる。

 どんな平凡な景色でも、自分が明日死ぬと思えば、一つ一つがすべて輝いて愛おしく思えるかもしれない。でもそうした句が大量に作られてしまうと、似たり寄ったりの景色の中に埋没してしまうことになる。

 そのため古来和歌も連歌も心を詠むことを第一にしてきた。心を詠むという基本ができた上で景気を詠むと、自ずと景気に心が乗っかるが、そこまでの力量のない者が安易に景気を詠むことを戒めてきた。古池の句は芭蕉だから詠めたというのはその意味で正しい。確かにただの景色で終わってないからだ。「月やあらぬ」や「時に感じて花にも涙を濺ぎ」の古典の情に通じている。情があってそれに新しい「景気」を与えるというのは、実のところそう簡単ではないからだ。

 

   春風や麦の中行水の音

 かげろふいさむ花の糸口       芭蕉

 

この脇は「いさむ」という取り囃しが大事で、平凡な景色の描写に留まる発句に命を与えているといっていい。

41、只俤

 「師の曰、俳諧之連哥といふは、よく付といふ字意也。心敬僧都の私語にも、前句に心のかよはざるは、たゞむなしき人の、いつくしくさうはきてならびゐたるなるべしと、ある俳書ニ有。又、付の事は、千變万化すといへども、せんずる所只俤と思ひなし、景氣此三に究り侍るよし、師のいへるとも有。又、ある時師の詞に、躰はさまざま有といへども、世上二三躰には見へ侍る也。物にも書留んや。此後こゝに究め侍るやうに人こゝに留らんか。しかれば書留るにもいたらずとて、事やみ侍る也。」(『去来抄・三冊子・旅寝論』潁原退蔵校訂、一九三九、岩波文庫p.122)

 

 この「ある俳書」は許六の『宇陀法師』だと『去来抄・三冊子・旅寝論』の注にある。

 『去来抄』にも、

 「支考曰、附句は附るもの也。今の俳諧不付句多し。先師曰、句に一句も附ざるはなし。

去来曰、附句は附ざれば附句に非ず。」(『去来抄・三冊子・旅寝論』潁原退蔵校訂、一九三九、岩波文庫p.74)

 

とある。

 この「付く」が何を意味するかについては、本来は上句と下句を合わせて一首の歌に仕上げることを言ったのだが、時代が下るにつれてないがしろになっていった。だからある者は「付いている」と言うが、ある者は「付いてない」というような状態になっている。

 また、「付かず離れず」は俳諧から出た言葉なのかどうかは疑わしい。「挙句の果て」が本来の連歌から離れて、俗語として独自の意味を持っているように、元の意味と離れて使われている言葉も多い。連歌も俳諧も基本的には「付く」ものであり「付かず離れず」は間違い。

 特に近代では正岡子規以降技術を軽視する傾向が強く、付け筋などというものも無視され、廃れてしまったから、現代連句はただの連想ゲームで、それを正当化するためのあらゆる理論が立てられている。

 「付の事は、千變万化すといへども、せんずる所只俤と思ひなし」というのは、上句下句を合わせて一つの意味なり姿なりが生じる事が基本で、狭義の俤付けではない。

 たとえば、

 

   抱込で松山廣き有明に

 あふ人ごとの魚くさきなり      芭蕉

 

の句であれば、前句の海辺の夜明け前の風景にたくさんの魚臭い人がいるというところで、活気あふれる漁港の姿が浮かんでくる。しかも、それを魚臭きと感じる所に、旅人の見た漁港だという所までわかる。これは広義の意味で漁村を旅する人の俤(たとえば在原行平のような)と言っていいのではないかと思う。

 歌というのは必ず誰かが詠むものなのだから、歌として成立するということは、それを詠む人というのが必ず面影として浮かんでくる。

 

   杖一本を道の腋ざし

 野がらすのそれにも袖のぬらされて  芭蕉

 

の句であれば、杖だけで寸鉄を帯びずに旅する人は旅の僧で、それが烏が群れ飛ぶさまに死期の近いのを感じ涙ぐむとなれば、この歌の主は老いた旅僧(たとえば晩年の西行法師のような)ということになる。

 前句と付け句合わせて、最終的にはそれを詠む人物が思い浮かぶ。「せんずる所只俤」というのはそういうことだと思う。

 狭義の俤付けは、誰なのか特定できる付け方で、

 

   草庵に暫く居ては打やぶり

 いのち嬉き撰集のさた        去来

 

のような「いのち」に「いのちなりけり」の歌、「撰集」で勅撰集の歌人というヒントのあるような付け方をいう。

 「只俤と思ひなし、景氣此三に究り侍る」というのは、俤に加えて、景と気が大事ということで、「此三」とあるから、「景気」で一つではない。景は物、気は心。景色が相通うというのは、必ずしも一枚の絵にするということではない。前句を過去として現在の景色を付けたり、前句を現在として未来の景色を付けたり、違えて付けたり、あるいは対句のように二つの景を並べる付け方もある。

 

   くろみて高き樫木の森

 咲花に小き門を出つ入つ       芭蕉

 

の句は樫木の森に隠棲する隠者が桜の花が咲いたといっては門を出入りするということで、樫の木の森と桜の花は一つの絵に収まるわけではない。

 

   ぽんとぬけたる池の蓮の実

 咲花にかき出す橡のかたぶきて    芭蕉

 

の句は過去に花見のために設けた縁台も今は傾いて、今は池の蓮の実がポンと抜けるという、やはり蓮池の辺で暮らす僧の俤であろう。一つの絵としては成立しない。

 ただ、同じ人物の見た景であり、同じ人物の心が想像できるので、一つの俤になる。

 ちなみにこれらの句を和歌の形に改めるなら、

 

 抱込で松山廣き有明にあふ人ごとの魚くさきなり

 野がらすのそれにも袖のぬらされて杖一本を道の腋ざし

 草庵に暫く居ては打やぶりいのち嬉き撰集のさた

 咲花に小き門を出つ入つくろみて高き樫木の森

 咲花にかき出す橡のかたぶきてぽんとぬけたる池の蓮の実

 

ときちんと付いているのがわかる。

 こういうことを言うと一生懸命付いてない句を探し出して、これが証拠だと言うような御仁がいそうだが、多分取成しか本説の句だと思う。

 「ある時師の詞に、躰はさまざま有といへども、世上二三躰には見へ侍る也。物にも書留んや。」というのは、付け筋はその場その場で無数にあるもので、それを世間は大雑把に二三の体にまとめているだけだということ。付け筋を極めようと思えばこんな大雑把な分類のこだわってはいけないので、芭蕉はあえてそれを土芳に書き残すようなことはしなかった。

 芭蕉の場合、相手に合わせて教え方を変えるので、これはあくまで土芳に対してはということだろう。

 支考の場合は天才的に次々と自分で新しい付け筋を発見する能力があるから、そういう人には、自分の過去に見つけた付け筋を教えても大丈夫だと思ったのかもしれない。土芳の場合は下手に教えるとそればっかり馬鹿の一つ覚えになりそうなので教えなかったか。

 基本的には上句下句を合わせて歌を完成させたときに、一人の人物の俤が浮かぶように詠めというのが、土芳への教え方だったのだろう。

42、芭蕉の脇

 「師の曰く、付といふ筋は、匂、響、俤、移り、推量などゝ形なきより起る所也。こゝろ通ぜざれば及がたき所なり。師の句を以て其筋のあらましをいはゞ、

   あれあれて末は海行野分かな

  鶴のかしらをあぐる粟の穂

   鳶の羽もかいつくろハぬ初しぐれ

  一吹風の木の葉しづまる

 此脇二つは、前後付一体の句也。鶴の句は、野分冷じくあれ、漸おさまりて後をいふ句なり。静なる體を脇とす。木のはの句は、ほ句の前をいふ句也。脇に一あらし落葉を亂し、納りて後の鳶のけしきと見込て、發句の前の事をいふ也。ともにけしき句也。」(『去来抄・三冊子・旅寝論』潁原退蔵校訂、一九三九、岩波文庫p.122~123)

 

 鶴の句は元禄七年七月二十八日の伊賀雖亭での興行で、発句は猿雖による。土芳自身も同座している。

 この後の芭蕉の八月九日付去来宛書簡に「爰元度々会御座候へ共、いまだかるみに移り兼、しぶしぶの俳諧、散々の句のみ出候而致迷惑候。」とぼやいてるほど、芳しくない興行だったようだ。

 発句はちょうど台風の季節で、嵐のさなかで危ぶまれていたこの興行もようやく無事に開催できましたということで、荒れに荒れた野分もそのうち海へ抜けることでしょう、と挨拶する。芭蕉はそれに対し、隠れていた鶴も頭を上げ、粟の穂の上に顔を出してます、と付ける。

 先の去来宛書簡には、「鶴は常体之気しきに落可」とある。

 この場合の鶴は季節から言ってコウノトリのことであろう。特に鶴にお目出度いという寓意はない。粟は穂を垂れ、それと対称的に鶴は頭を上げるという、土芳の言う通り嵐の去った後の景色でさらっと流している。

 木の葉の句は『猿蓑』にも収録されている元禄三年十一月、京都での芭蕉、去来、凡兆、史邦による四吟歌仙興行の脇だ。

 発句の方は特に鳶の姿を見たということではなく、「いやあ、時雨も止みましたな、それでは俳諧をはじめましょう」という程度の挨拶に、今頃鳶も羽を掻い繕っていることでしょう、と景色を与えた句だったと思う。

 芭蕉はそれに、風が一吹きした後木の葉も静かになる景を付ける。特に寓意は感じられない。発句の鳶の羽の掻い繕いの原因として時を戻して「一吹風の」とし、今は「木の葉しづまる」とする。時雨の後の羽繕いに風の後の静まる木の葉と景で付けている。

 

  「寒菊の隣もありやいけ大根

  冬さし籠る北窓の煤

 此脇、同じ家の事を直に付たる也。内と外の様子也。煤の字有て句とす。」(『去来抄・三冊子・旅寝論』潁原退蔵校訂、一九三九、岩波文庫p.123)

 

 元禄五年の十月頃で許六、芭蕉、嵐蘭が一句づつ詠み、第三で終っている。「深川の草庵をとぶらひて」という前書きがついている。

 この句は許六の「寒菊の」の句は『俳諧問答』にも登場し、

 

 「翁の論じて云ク、世間俳諧するもの、此場所ニ到て案ずるものなしと称し給ふ。」

 

とある。

 いけ大根は土に埋めて保存する大根で、寒菊の隣には大根も埋まっている。冬の花の孤独に咲く姿は寓意もあり、春を待つ冬大根もその寓意に寄り添う。

 これに対しての芭蕉の脇は、寒菊といけ大根の外の景色に対し、さし籠る部屋の北窓には火を焚いた煤がこびりついてゆく、と受ける。「さし籠る」は「鎖し籠る」で引き籠るに同じ。

 「煤の字有て句とす」というのは、ここに春までの時間の経過が感じられ、いけ大根の春を待つ情に応じているからだろう。

 寓意を弱くして、発句の情を受けながらも、前と後、内と外と景を違えて付けている。

 

  「しるべして見せばやみのゝ田植うた

  笠あらためん不破の五月雨

 此脇、名所を以て付たる句也。心は不破を越る風流を句としたる也。」(『去来抄・三冊子・旅寝論』潁原退蔵校訂、一九三九、岩波文庫p.123~124)

 

 芭蕉が貞享五年、『笈の小文』の旅を終え、京に行った時の句。己百は岐阜の妙照寺の住職。

 

   ところどころ見めぐりて、洛に

   暫く旅ねせしほど、みのの国より

   たびたび消息有て、桑門己百のぬ

   しみちしるべせむとて、とぶらひ

   来侍りて、

 しるべして見せばやみのの田植歌   己百

   笠あらためむ不破のさみだれ   芭蕉

 

という前書きがついている。

 「美濃の田植歌へとご案内しましょうか」という発句に対し、「それじゃあ不破の関の五月雨に備えて笠を新しくしましょう」と答える。関を越える時には衣装を正すという発想は、元禄二年『奥の細道』の、

 

 卯の花をかざしに関の晴着かな    曾良

 

の句に先行している。

 実際に芭蕉はこのあと岐阜へ行き「十八楼ノ記」を書き記している。

 

  「秋の暮行先々の苫屋かな

  荻にねようか萩に寐ようか

 此脇、發句の心の末を直に付たる句なり。」(『去来抄・三冊子・旅寝論』潁原退蔵校訂、一九三九、岩波文庫p.124)

 

 これは元禄二年の『奥の細道』の旅で、八月二十一日、芭蕉は途中で迎えにきた路通とともに大垣に着き、九月四日には病気で先に帰った曾良とも合流することになる。

 そして九月六日には伊勢へと向う船に乗る。これはその時の船の中での吟になる。これにも前書きがある。

 

   ばせを、いせの国におもむけるを

   舟にて送り、長嶋といふ江によせ

   て立わかれし時、荻ふして見送り

   遠き別哉 木因。同時船中の興に

 秋の暮行さきざきの苫屋哉      木因

   萩に寝ようか荻にねようか    芭蕉

 

 「行く先々」に「萩」や「荻」が付き、「苫屋」に「寝る」が付く。萩と荻は字が似ていて面白いし、苫屋に泊るというところには謡曲『松風』の在原行平の俤も感じられる。

 「發句の心の末」というのは、餞別吟なので旅に出た先のことを付けるという意味だろう。

 

  「菜種干ス筵の端や夕凉み

  螢迯行あぢさいのはな

 此脇、發句の位を見しめて事もなく付る句也。同前栽其あたり似合敷物を寄。」(『去来抄・三冊子・旅寝論』潁原退蔵校訂、一九三九、岩波文庫p.124)

 

 これは元禄七年六月十五日に落柿舎から膳所の義仲寺無名庵に移り、そのころの吟と思われる。発句は曲翠で膳所藩士。

 菜種は菜の花が咲いたあと二ヶ月から三ヶ月で種になり収穫し、乾燥させる。その頃には暑くなり、菜種を乾燥させている筵の隅っこに座って夕涼みすることはよくあったのだろう。

 「菜種干す筵」の百姓の位でというところだが、蛍や紫陽花は身分の高い者も観賞するもので、やや位を引き上げているように思える。それは発句の主を卑しめないためだと思う。

 発句の寓意を受けずにさらっと流すのは、芭蕉の晩年に時折見られる脇の付け方だったようだ。蕉風確立期なら「蛍の止まる」とでもしそうだ。意図的にその古いパターンをはずした風にも見える。

 

  「霜寒き旅寐に蚊屋を着せ申

  古人かやうの夜の木がらし

 此脇、凩のさびしき夜、古へかやうの夜あるべしといふ句也。付心はその旅寐心高く見て、心を以て付たる句也。」(『去来抄・三冊子・旅寝論』潁原退蔵校訂、一九三九、岩波文庫p.124)

 

 これは貞享元年の『野ざらし紀行』の旅での大垣滞在中の句。

 元禄八年刊支考編の『笈日記』には「貞享元年の冬如行が舊苐に旅寐せし時」と前書きがある。『稿本野晒紀行』には

 

 霜の宿の旅寝に蚊帳をきせ申     如行

   古人かやうの夜のこがらし    芭蕉

 

の形になっている。

 蚊帳は夏の蚊を防ぐだけでなく、細かい網目は風を通さないから防寒具としても役に立つ。こうした生活の知恵に、古人もこうして夜を暖かく過ごしたのだろうかと感慨を述べる。

 

  「おくそこもなくて冬木の梢哉

  小春に首の動くみのむし

 この脇、あたゝかなる日のみの虫なり。あるじの貌に客悦のいろを見せたるはたらきを付たる句也。」(『去来抄・三冊子・旅寝論』潁原退蔵校訂、一九三九、岩波文庫p.124~125)

 

 元禄四年十月に芭蕉は名古屋の露川と対面し、露川は入門する。その時の句で、元禄八年刊支考編の『笈日記』には「おなじ冬の行脚なるべし。はじめて此叟に逢へるとて」と前書きがある。

 『校本芭蕉全集 第四巻』(小宮豐隆監修、宮本三郎校注、一九六四、角川書店)の注に、

 

 「『三冊子』(石馬本)には「おく庭」とし、「庭」に「底か」と傍書する」

 

として、「奥庭」としている。その方が意味が通る。

 葉が落ちた木の向こうには透けて見える結構な庭があるわけでもない、と小さな庭を謙遜して詠んだ発句に対し、小春の暖かな日差しに蓑虫も思わず首を出して、冬木の景色を見回しているよ、と応じる。

 

  「市中は物の匂ひや夏の月

  あつしあつしと門々の聲

 此脇、匂ひや夏の月、と有を見込て、極暑を顯して見込の心を照す。」(『去来抄・三冊子・旅寝論』潁原退蔵校訂、一九三九、岩波文庫p.125)

 

 元禄三年六月、京都の凡兆宅での去来を加えた三吟歌仙興行の脇。元禄四年刊の『猿蓑』に収録されることになる。

 市中の物の匂いも暑さもあまり有難いものではない。市場の匂いにも夏の月があればと見込む発句に対し、芭蕉も極暑のなかで夏の月があればと見込む、とする。

 芭蕉はこの頃から脇を形式ばった挨拶にする事に疑問を感じていたのだろう。それは後の「蛍迯行」と同じで、それまでの脇句の常識だと、夏の月が出たのだから、それに対し「涼しい」と付けて主人を持ち上げるものだったところを、あえて「いやー、それにしても暑い」と本音で返す所に新味があったのではないかと思う。

 

  「いろいろの名もまぎらはし春の草

  うたれて蝶の目をさましぬる

 此脇は、まぎらはしといふ心の匂に、しきりに蝶のちり亂るゝ様思ひ入て、けしきを付たる句也。」(『去来抄・三冊子・旅寝論』潁原退蔵校訂、一九三九、岩波文庫p.125)

 

 元禄三年刊珍碩編の『ひさご』の所収の歌仙の発句で、芭蕉は脇のみの参加になっている。ただし、元禄版の『ひさご』では、

 

 いろいろの名もむつかしや春の草   珍碩

   うたれて蝶の夢はさめぬる    芭蕉

 

になっていて、享保版の『ひさご』は『三冊子』の形になっている。

 発句の名前のよくわからない春の草(今なら名もなき雑草というところだろう)に対し、まず「うたれて」と来るわけだが、これは「畑打つ」のことだろうか。

 「うたれて蝶の目をさましぬる」だと、雑草が掘り起こされて、そこに止まって休んでいた蝶は夢から醒めて飛び立つわけで、土芳が言うように「しきりに蝶のちり乱るる様思ひ入て、けしきを付たる句」になる。

 ただ、蝶の目を覚ますという所に『荘子』の胡蝶の夢の連想が働くと、これは蝶が飛び立つと同時に、自分自身もはっと打たれたように夢から醒めて元の自分に戻ることになる。「うたれて蝶の夢はさめぬる」の形だと、よりその寓意がはっきりする。

 寓意を表に出すのか裏に隠すのか、これは『去来抄』の「大切の柳」にも通じることなのかもしれない。裏に隠すのが正解なら、元禄版の『ひさご』の方が初案で、享保版『ひさご』や『三冊子』の方が改案だったのかもしれない。

 

  「折々や雨戸にさはる萩の聲

  はなす所におらぬ松むし

 この脇、發句の位を思ひしめて、匂よろしく事もなく付たる句也。」(『去来抄・三冊子・旅寝論』潁原退蔵校訂、一九三九、岩波文庫p.125)

 

 発句は雪芝で元禄十一年刊沾圃編の『続猿蓑』に収録されている。

 芭蕉の元禄七年八月九日付向井去来宛書簡にもある句で、「あれあれて」の句と同じ頃の伊賀での句と思われる。

 発句の雨戸に萩の枝が触れるような田舎の小さな家から、そこに住む人の位で付けたということか。松虫を捕まえたものの、可哀相になって放してあげる、そういう心やさしい住人ということなのだろう。

 これも位で付ける時の心得で、古来賞翫されている「松虫」を付けることで若干位を引き上げて付けている。

43、芭蕉の付け句

  「緣の草履の打しめる春

  石ふしにおそきを小鮎より分て

 此句、氣色を付とす。一句床夏の巻の俤也。うちしめるといふに寄る。」(『去来抄・三冊子・旅寝論』潁原退蔵校訂、一九三九、岩波文庫p.125)

 

 この句は『校本芭蕉全集 第五巻』(小宮豐隆監修、中村俊定注、一九六八、角川書店)の年代未詳之部に、

 古寺や花より明るきじの聲

   緣のざうりのしめる春雨

 石ぶしに細き小鮎をよりわけて   (芭蕉)

 

の形で掲載されている。

 気色は景色に対して意味で付けることで、前に「只俤と思ひなし、景氣此三に究り侍る」とあったように、俤・景色・気色を三つの付け方とする。

 「一句床夏の巻の俤也」というのは『源氏物語』常夏巻の冒頭の、

 

 「いと暑き日、東の釣殿に出でたまひて涼みたまふ。 中将の君もさぶらひたまふ。親しき殿上人あまたさぶらひて、 西川よりたてまつれる鮎、 近き川のいしぶしやうのもの、御前にて調じて参らす。 」

 

の場面を踏まえているが、季節を春にしていて宮中とも程遠く、本説というほどの親密さはない。

 「石ぶし」は小石の多い水底のことで、そこで網で獲った魚の中から小鮎をより分けている。草履の濡れた原因を春雨ではなく、河原でそういう作業をしたからだとする。

 

  「夕貌おもく貧居ひしける

  桃の木にせみ啼比は外に寐ん

 一句、付ともに古代にして、其匂ひ萬葉などの俤なり。」(『去来抄・三冊子・旅寝論』潁原退蔵校訂、一九三九、岩波文庫p.125~126)

 

 これは延宝九年刊桃青編の『俳諧次韻』の「春澄にとへ」の巻七十一句目。

 

   夕顔重く貧居ひしげる

 桃の木に蝉鳴比は外に寝ミ     桃青

 

 「寝ミ」は「やすみ」と読む。

 万葉の時代は大陸の影響が強く、桃や梅などが好まれた。

 

 春の苑紅にほふ桃の花

     下照る道に出で立つ少女

              大伴家持(万葉集)

 

のような歌は『詩経』の「桃之夭夭 灼灼其華」のイメージで、中国の田舎の娘を俤にしている。

 桃青の句の「桃の木」はむしろ桃花源のような神仙郷のイメージに近く、家は粗末でも暑ければ外で寝ればいいという、物事に頓着しない世俗を超越したイメージが感じられる。

 

  「笹の葉に徑埋て面白き

  頭うつなと門の書付

 これ一句隱者の俤也。前句のけしきに其所を寄せ、句意新みあり。」(『去来抄・三冊子・旅寝論』潁原退蔵校訂、一九三九、岩波文庫p.126)

 

 これは元禄七年「八九間」の巻十四句目の

 

   笹の葉に小路埋ておもしろき

 あたまうつなと門の書つき     芭蕉

 

の句で、元禄十一年刊沾圃編の『続猿蓑』に収録されている。

 前句の笹に埋もれた道を草庵の入口とした。

 「あたまうつな」は、つまり今でいう「頭上注意」、小さな門だと必ず書いてありそうだ。

 

  「龜山やあらしの山やこの山や

  馬上に醉てかゝえられツゝ

 前句のやの字響き、ともに醉てそゞろなる躰を付顯す。一句風狂人の俤也。」(『去来抄・三冊子・旅寝論』潁原退蔵校訂、一九三九、岩波文庫p.126)

 

 この句は享保八年刊朱拙・有隣編の『ばせをだらひ』の「芭蕉先生前句附」の所に付け合いとして、

 

   龜山やあらしの山や此山や

 馬上に醉てかゝえられつゝ     翁

 

の形で掲載されている。

 前句の「や」の連続を、酔っ払って呂律が回らずに叫んでいる状態と見ての付けで、馬上に酔って人に抱えられている姿を付ける。

 亀山は嵐山渡月橋のやや川上にある。

 

  「野松に蟬の啼立る聲

  歩行荷物手ふりの人と噺して

 前句のなき立る聲といひはなしたるひゞきに、勢ひを思ひ入てうち急ぐ道行人のふり、事なく付たる匂ひ宜し。」(『去来抄・三冊子・旅寝論』潁原退蔵校訂、一九三九、岩波文庫p.126)

 

 これは元禄七年閏五月下旬満尾の歌仙、「葉がくれを」の巻の第三で、元禄八年刊浪化編の『となみ山』に収録されている。第三まで引用する。

 

    蕉翁の落柿舎に偶居

    し給ひけころたづねま

    いりて主客三句の情をむ

    すび立かへりぬるをその

    後人々まいりける序終

    に一巻にみち侍るとて

    去來がもとより送られける

 葉がくれをこけ出て瓜の暑さ哉   去來

   野松に蟬のなき立る聲     浪化

 歩荷物手振の人と噺しして     芭蕉

 

 前句の「なき立る聲」に急き立てているような響きで、荷物を持って歩いてきた人に手を振って早く来いと急き立てる様とする。

 

  「青天に有明月の朝ぼらけ

  湖水の秋の比良のはつ霜

 前句の初五の響に心を起し、湖水の秋、比良の初霜と、清く冷じく大成る風景を寄。」(『去来抄・三冊子・旅寝論』潁原退蔵校訂、一九三九、岩波文庫p.126~127)

 

 これは『猿蓑』にも収録されている元禄三年十一月、京都での芭蕉、去来、凡兆、史邦による四吟歌仙興行の三十句目だ。

 比良は琵琶湖西岸の山地で、比叡山より北になる。

 月に湖水、朝ぼらけに初霜と四つ手に付けて、雄大な景にしている。

 

  「僧やゝ寒く寺に歸るか

  猿引の猿と世を經る秋の月

 この二句別に立たる格也。人の有樣を一句として、世のありさまを付とす。」(『去来抄・三冊子・旅寝論』潁原退蔵校訂、一九三九、岩波文庫p.127)

 

 元禄三年六月、京都の凡兆宅での去来を加えた三吟歌仙「市中は」の巻の十七句目。元禄四年刊の『猿蓑』に収録されることになる。

 「猿引き」は猿回しをする芸人のことだが、長いこと被差別民の芸とされてきた。

 殺生を禁じる仏教の思想が、一方では動物にかかわる職業を卑賤視するもととなっていた。

 それゆえ被差別民と仏教は相反する関係にあり、「僧」に「猿引き」を付けるのは、相対付け(向え付け)になる。

 猿引きは猿とともに秋の月を見ながら暮らしを立て、僧もまた自分の居場所である寺に帰ってゆく。人にはそれぞれ相応しい居場所がある。いつの時代も変わらないことだ。

 

  「こそこそと草鞋を作る月夜ざし

  蚤をふるひに起るはつ秋

 こそこそといふ詞に、夜の更て淋しき樣を見込、人一寐迄夜なべするものと思ひ取て、妹など寐覚して起たるさま、別人を立て見込心を、二句の間に顯す也。」(『去来抄・三冊子・旅寝論』潁原退蔵校訂、一九三九、岩波文庫p.127)

 

 これも同じく元禄三年六月、京都の凡兆宅での三吟歌仙「市中は」の巻の二十六句目。

 相対付け(向え付け)は対立する二つのものを並べて対句を作る付け方で、物付けに含まれる。だが、対立する二つのものをどちらも直接示さずに、それを匂わせるだけにすると、匂い付けの向え付けも可能になる。

 一人ひとりはひそかに草鞋を作ってお金を作り、もう一人は蚤に食われて痒くて目を覚ます。そこでまあ、ばれてしまったかということになり、何か家族の会話があるのか。土芳は兄妹の話にしている。

 

  「夜着たゞみをく長持のうへ

  灯の影珍しき甲待て

 前句の置の字の氣味に、せばき寐所、漸一間の住居、もの取片付て掃清めたる所と見込、わびしき甲待の躰を付たる也。珍の字ひかりあり。」(『去来抄・三冊子・旅寝論』潁原退蔵校訂、一九三九、岩波文庫p.127)

 

 これは元禄五年十月三日、江戸の許六亭での興行「けふばかり」の巻の二十三句目で、『韻塞』には下五「申待(きのえま)チ」とある。

 長持の上に夜着をたたむところに家の狭さときちんと片付づいた部屋の匂いがあり、そこからいわゆる「清貧」の人物を思い描き、その位で付けている。

 「甲待ち」は十干十二支の最初の甲子(きのえね)の日を、灯を灯し、夜中まで待まつ風習で、六十日ごとに訪れる大晦日のようなものといえるかもしれない。

 「珍し」は今いまの珍しいの意味ではなく、「愛づらし」、つまり、「愛でたくなる」という意味。「目出度い」に通じる。

 

  「酒にはげたる頭なるらん

  双六の目を覗までくれかゝり

 氣味の句也。終日双六に長ずる情以て、酒にはげぬべき人の氣味を付たる也。」(『去来抄・三冊子・旅寝論』潁原退蔵校訂、一九三九、岩波文庫p.128)

 

 元禄三年刊珍碩編の『ひさご』に収録された「木のもとに」の巻の二十五句目になる。「酒に」ではなく「酒で」とある。

 「気味」は昔の日本語によくあるbとmとの交替から「きみ」とも「きび」とも読む。意味はコトバンクの「精選版 日本国語大辞典の解説」に、

 

 「き‐び【気味】

  〘名〙 (「きみ(気味)」の漢音よみとも、「きみ(気味)」の変化した語ともいう)

  ① 物のにおいと味。きみ。

  ※色葉字類抄(1177‐81)「気味 飲食部 キビ」

  ② おもむき。また、様子。きみ。〔日葡辞書(1603‐04)〕

  ※俳諧・毛吹草(1638)六「よききびにかひしうつらの高音哉〈肥前衆〉」

  ③ 心持。気持。気分。きみ。

  ※虎明本狂言・萩大名(室町末‐近世初)「一口くふてみたひきびか有よ」

  ④ いくらかその傾向にあること。また、その傾向。きみ。

  き‐み【気味】

  〘名〙

  ① 物のにおいと味。多く食べる物について用いられる。きび。

  ※海道記(1223頃)橋本より池田「水上の景色は彼も此も同けれども潮海の淡鹹は気味是異なり」

  ※源平盛衰記(14C前)一一「喉乾き口損じて、気味(キミ)も皆忘れにけり」 〔杜甫‐謝厳中丞送乳酒詩〕

  ② おもむき。けはい。風味。また、特に、深くてよい趣や味わい。きび。

  ※方丈記(1212)「閑居の気味もまた同じ」

  ※徒然草(1331頃)一七四「人事おほかる中に、道をたのしぶより気味ふかきはなし。これ実の大事なり」

  ※俳諧・三冊子(1702)赤双紙「酒にはげたる頭成らん 双六の目を覗出る日ぐれ方 気味(キミ)の句也。終日、双六に長ずる情以て、酒にはげぬべき人の気味を付たる也」 〔白居易‐寒食江畔詩〕

  ③ 心身に感じること。また、その感じた心持。気持。きび。多く、「良い」「悪い」を伴って用いられる。

  ※歌舞伎・傾城壬生大念仏(1702)上「小判一万両、おお、よいきみよいきみ」

  ※二人女房(1891‐92)〈尾崎紅葉〉上「何か可厭(いや)な事のあるのを裹(つつ)むのではあるまいかと気味(キミ)を悪がって」

  ④ いくらかその傾向にあること。また、その傾向。かたむき。きび。

  ※志都の岩屋講本(1811)上「薬の病にきく処は呪禁(まじなひ)の気味が有る故」

  ぎ‐み【気味】

  〘接尾〙 名詞や、動詞の連用形に付いて名詞、形容動詞をつくり、そのような様子、傾向にあることを表わす。…の様子。「かぜ気味」

  ※家(1910‐11)〈島崎藤村〉下「前方へ曲(こご)み気味に、叔父をよく見ようとするやうな眼付をした」」

 

とある。

 この場合は味わいでは意味が通らない。④の「傾向にあること」が一番しっくりくる。「酒ばかり飲んでる禿げたおっさんは、博奕にも熱中する、という「あるある」と見た方がいい。

 「双六」は今で言うバックギャモンの遠い親戚のようなもので、昔は主に賭け事に用いられた。鳥獣人物戯画でも双六盤を担ぐ猿の姿が描かれている。

 前句の酒ばかり飲んでる禿げ爺さんを博徒と見ての付け。

 似たような句に天和二年刊千春編の『武蔵曲』に収録されている「錦どる」の巻五句目の、

 

   雨双六に雷を忘るる

 宵うつり盞の陣を退リける     其角

 

の句がある。

 宵も暮れ酔いも回るが、ここで眠ってはいけない。盃の陣を突破したなら、敵は双六にあり。いざ進め、という句で、双六に雷が鳴っているのも忘れる。

 

  「そつと覗けば酒の最中

  寐所にたれも寐て居ぬ宵の月

 前句のそつとゝといふ所に見込て、宵からねる躰してのしのび酒、覗出したる上戸のおかしき情を付たる句也。」(『去来抄・三冊子・旅寝論』潁原退蔵校訂、一九三九、岩波文庫p.128)

 

 これは元禄七年初夏、深川芭蕉庵で興行された「空豆の」の巻の五句目で、『炭俵』に収録されている。

 「宵の月」というのは、まだ日も暮れてないうちから見える月のことで名月のことではない。旅の疲れで寝床で休んでいたが、いつの間にか誰もいなくなっている。隣を覗けば、「何だ、みんな酒を飲んでいたか」となる。

 『俳諧古集之弁』(遅日庵杜哉、寛政四年刊)には「打よりて遊びうかれてあるくなど、七夕頃の夜ルの賑ひとも広く見なして趣向し給ひけん。」とある。七夕の頃の宴の句と見ていい。

 

  「煤掃の道具大かた取出し

  むかひの人と中直りけり

 推量の句也。事せはしき中に取まぜて、かやうの事もある事也とすいりやうして、中直りけり、とありさまを付たる也。」(『去来抄・三冊子・旅寝論』潁原退蔵校訂、一九三九、岩波文庫p.128)

 

 制作年次、場所等不明。『校本芭蕉全集 第五巻』(小宮豐隆監修、中村俊定注、一九六八、角川書店)の注に「『三冊子』『幽蘭』『一葉』『袖珍』等に収める」とある。

 年末の煤払いは一家総出でご近所も含めて一斉に行われる。狭い家では掃除道具や家具を外に出して並べたりして、そんな中で日頃仲の悪いお隣さんとも顔合わせ、仲直りということもある。

 土芳が「推量」と言ってるのは面白い。実際そんなうまくいくことなく、あったらいいなという理想なのだろう。

 

  「冬空のあれに成たる北颪

  旅の馳走に有明し置

 馳走の字さび有。あれに成たると、心のしほりに旅亭のさびを付て寄る也。」(『去来抄・三冊子・旅寝論』潁原退蔵校訂、一九三九、岩波文庫p.128~129)

 

 元禄三年秋膳所の義仲寺境内の無名庵での興行と思われる「灰汁桶の」の巻の二十二句目。『猿蓑』に収録されている。

 「有明(ありあか)し」は有明行灯のこととも、それよりやや大型のものとも言う。有明行灯は枕元を照らすための小型の行灯で、寝ぼけてひっくり返さないように箱型をしている。

 冬の木枯し吹きすさぶ宿では、旅人も寒くて心細かろうと、宿の主人の気遣いで有明行灯を枕元に置おいておいてくれたのだろう。

 前句の心細さに有明行灯が最大限の馳走であるというところにさびがある。「さび」というのはいわば「死」のイメージを隠し味にすることで、「しほり」はその情を喚起するものをいい、それが共感にまで結びつけば「ほそみ」になる。

 春の暖かい風にご馳走を並べるのは、それだけでは「さび」にも「しほり」にもならない。ただ、暖かい風に花が散り、ご馳走も別れの宴なら「さび」「しほり」が具わる。

 冬空の荒れに身を切るような北颪はいかにも寒々として死を暗示させる情を喚起し、旅の馳走にわずかな有明行燈の光があたかも人の命など風前の灯火のような弱々しさを感じさせ、「さび」となる。

 

  「のり出て朧に餘るはるの駒

  摩耶が高根に雲のかゝれる

 まへ句の春駒といさみかけたる心の餘、まやがみねと移りて雲のかゝれるとすゝみかけて、前句にいひかけて付たる句也。」(『去来抄・三冊子・旅寝論』潁原退蔵校訂、一九三九、岩波文庫p.129)

 

 これも同じく『猿蓑』の「灰汁桶の」の巻の八句目。「のり出て」は「乗出して」、「朧」は「肱(かひな)」とある。

 麻耶山は神戸市東北部にある山で、前句を馬に乗り慣れぬ平家武者と取り成し、『平家物語』の俤で「麻耶山」を付ける。「雲のかかれる」には風雲急が感じ取れる。

 

  「敵よせ來る村松の聲

  有明のなし打烏帽子着たりけり

 前句の事をうけて、其句の勢ひに移りて付たる句也。」(『去来抄・三冊子・旅寝論』潁原退蔵校訂、一九三九、岩波文庫p.129)

 

 これは貞享三年正月、江戸で興行された蕉門、其角門などの十八人の連衆による百韻、「日の春を」の巻の十三句目。この巻には芭蕉自身による注釈、「初懐紙評注」があり、それには、

 

 「付様別条なし。前句軍の噂にして、又一句さらに云立たり。軍に梨子打ゑぼしとあしらいたる付やう軽くてよし。一句の姿、道具、眼を付て見るべし。」

 

とある。

 付け方としては特に変わったものではない。前句が軍(いくさ)だから、梨子打ゑぼしを登場させたという。

 梨打烏帽子は薄布でできた柔らかい烏帽子で、烏帽子の硬質の華美なものになる前の最も古い形だという。源平合戦の頃のイメージで、元禄五年の「けふばかり」の巻十一句目に、

 

   輾磑をのぼるならの入口

 半分は鎧(よろは)ぬ人もうち交り 嵐蘭

 

のような古い時代の軍の俤と言えよう。

 

  「月見よと引起されて恥しき

  髪あふがする羅の露

 前句の樣躰の移りを以て付たる也。句は宮女の躰になしたる也。」(『去来抄・三冊子・旅寝論』潁原退蔵校訂、一九三九、岩波文庫p.129)

 

 元禄二年六月、『奥の細道』の旅の途中、羽黒山で興行された「有難や」の巻の十六句目になる。

 前句の「恥しき」を寝起きの顔を見られて恥ずかしいとして、寝乱れた髪に濡れた薄衣を付ける。

 

  「牡丹おりおり涙こぼるゝ

  耳うとく妹に告たる郭公

 心を以て付たる句也。」(『去来抄・三冊子・旅寝論』潁原退蔵校訂、一九三九、岩波文庫p.129)

 

 貞享三年三月二十日、尾花沢の清風を迎えての歌仙興行の二十三句目で、

 

   涙おりおり牡丹ちりつつ

 耳うとく妹が告たる時鳥      芭蕉

 

とある。

 耳が遠くて妻にホトトギスの声がしたのを教えてもらう。今更ながらに年老いてしまったことを嘆く。

 前句の「涙」を老いの悲しみと見ての展開になる。

 

  「あき風の舟をこはがる浪の音

  雁行方や白子若松

 前句の心の餘りを取て、氣色に顯し付たる也。」(『去来抄・三冊子・旅寝論』潁原退蔵校訂、一九三九、岩波文庫p.129~130)

 

 珍碩編『ひさご』所収の「木のもとに」の巻十六句目。

 白子若松は東海道四日市宿から鈴鹿の方へ行かずに南へ行ったところにある伊勢若松とその先の白子のこと。昔は伊勢街道が通っていた。今は近鉄名古屋線が通っている。

 「前句の舟をこはがる」はここでは東海道七里の渡しのこととする

 。帰る雁は北へ行くが、秋の雁は南へ向かう。ちょうどその方向に伊勢若松や白子がある。芭蕉も何度となく通っている道だった。

 船を恐がる人を旅慣れてないお伊勢参りの人と見て、その不安を直接述べずに、雁行く遥か彼方の伊勢街道に具現化したといっていいだろう。

 

  「鼬の聲の棚もとの先

  箒木はまかぬに生て茂るなり

 前句に言外に侘たる匂ほのかに聞及て、まかぬに茂る箒木と、あれたる宿を付顯す也。」(『去来抄・三冊子・旅寝論』潁原退蔵校訂、一九三九、岩波文庫p.130)

 

 前にも登場したが元禄七年七月二十八日夜猿雖亭での土芳も同座した興行、「あれあれて」の巻二十七句目。

  箒木(ほうきぎ)はこの場合伝説のははきぎのことではなく、箒の材料となる草のこと。コトバンクの「大辞林 第三版の解説」には、

 

 「アカザ科の一年草。高さ約1メートル。多数枝分かれし、狭披針形の葉を密に互生。夏、葉腋に淡緑色の小花を穂状につける。果実は小球形で、「とんぶり」と呼ばれ食用。茎は干して庭箒を作る。箒草。ハハキギ。」

 

とある。最近ではコキアといって、紅葉を観賞する。

 外来の植物だが零れ種から自生することもある。

 鼬(イタチ)の毛皮は高級品で、特にイタチの仲間であるテン(セーブル)は珍重された。『源氏物語』では末摘花がふるき(黒貂、ロシアンセーブル)の毛皮を着ていた。

 うらぶれた皮革業者の台所の向こうでその高級毛皮の元が鳴いていて、外には箒木が自生している。「言外に侘たる」というのはその職種が被差別民のものであるからであろう。

44、人の躰(広義の俤付)

  「能登の七尾の冬は住うき

  魚の骨しはぶる迄の老を見て

 前句の所に位を見込、さもあるべきと思ひなして人の躰を付たる也。」(『去来抄・三冊子・旅寝論』潁原退蔵校訂、一九三九、岩波文庫p.130)

 

 『猿蓑』所収、元禄三年六月の凡兆宅での芭蕉・去来・凡兆による三吟歌仙興行、「市中は」の巻十一句目。

 「しはぶる」は「しゃぶる」ということ。昔の人は顎が丈夫で、魚の骨などバリバリと噛み砕き、今のように魚の骨を丁寧に取って食べるようなことはしなかった。まして漁村ならなおさらであろう。魚の骨が噛めなくなるのは歯のない老人くらいで、「魚の骨をしゃぶる」というのは、すっかり歯の抜けてしまったよぼよぼの老人ということになる。

 『猿みのさかし』(樨柯坊空然著、文政十二年刊)には「魚の骨は前句の七尾のしをり也。老を見ては冬の住うきといふよりの響也。しはぶるとは、俗にしゃぶるつといへる事也と先輩いへり。只一句のうへに極老と見へる様に句作りたるにて、別に子細なし。」とある。

 これには「響き」とあるが、匂い付けを明確に分類することはできないので、能登の漁師の老人の位で付けたと言っても間違いではない。

 

  「中々に土間にすはれバ蚤もなし

  わが名は里のなぶり物也

 同じ付樣也。」(『去来抄・三冊子・旅寝論』潁原退蔵校訂、一九三九、岩波文庫p.130)

 

 珍碩編『ひさご』所収の「木のもとに」の巻二十八句目。

 前句の「蚤もなし」は本人の言葉で「蚤すら寄ってこない」という村八分になった男の位と見て、「わが名は里のなぶり物也」と開き直る。嫌われ者でも一本筋の通った人物だろう。なかなか力強い一句だ。

 

  「抱込て松山廣き有明に

  あふ人毎に魚くさきなり

 同じ付也。漁村あるべき地と見込、その所をいはず、人の躰に思ひなして顯す也。」(『去来抄・三冊子・旅寝論』潁原退蔵校訂、一九三九、岩波文庫p.130~131)

 

 元禄七年閏五月下旬、芭蕉の京都滞在中、落柿舎に大阪の之道を迎えての七吟歌仙興行、「牛ながす」の巻の十二句目。

 「抱込て」は入り江で、松山がある広いひらけた土地といえば賑やかな漁港が想像できる。その所の景を付けるのではなく、そこにやってきた旅人の位で、その漁村の感想を付ける。

 

  「四五人通る僧長閑也

  薪過町の子共の稽古能

 前句の外通る躰以て付る也。前句の位思ひなして、奈良の事にはつけなし侍る也。」(『去来抄・三冊子・旅寝論』潁原退蔵校訂、一九三九、岩波文庫p.131)

 

 元禄七年の「鶯に」の巻の三十五句目。二月に去来と浪化で十七句目まで巻いたものに、夏に芭蕉が京に上ってきた時に続きを巻いたものと思われる。

 僧が出たところで、芭蕉はこれを奈良の景色に転じる。これも「僧」に対して「奈良」と言葉を出してしまえば単なる物付けだが、あくまでもそれを表に出さず、匂いだけで付けるところに芭蕉の技術がある。

 「薪能(たきぎのう)」は今では屋外での公演を一般的に指すが、本来は二月初旬に奈良興福寺南大門で行なわれる能のことだった。それゆえ春の季語になる。ただ、芭蕉の句はこの薪能そのものを詠むのではなく、薪能を見て刺激されたのか、奈良の子供たちが能楽師に憧れて能の稽古に励んでいる様を付ける。

 

  「頃日の上下の衆の戻らるゝ

  腰に杖さす宿の氣違ひ

 前句を氣違ひ狂ひなす詞と取なして付たる也。衆の字ぬからず聞ゆ。」(『去来抄・三冊子・旅寝論』潁原退蔵校訂、一九三九、岩波文庫p.131)

 

 元禄七年閏五月下旬、「牛ながす」の巻の二十三句目。

  ここで芭蕉が言う「気ちがい」は、多分自分がいっぱしの武将であるかのような誇大妄想を持った男だろう。多分この宿場町やその周辺の人ならだれもが知る有名人で、「ああ、またやっている」という反応なのだろう。

 腰に刀の代わりの杖を差して、江戸や上方に行っていた衆が戻られたと、主人に報告する。

 「このごろの上下の衆のもどらるる」(かく云ふ)腰に杖さす宿の気ちがひという風につながる。「衆」の一字がよく生かされている。これも一種の位付けになる。

 「気ちがい」と「気のやまい」は江戸時代になってから盛んに用いられるようになった言葉で、「気」という朱子学の概念に基づく言葉だ。

 気というと今日では気孔術か何かの何か超自然的なパワーを表すが、それは清の時代になってからのことで、朱子学では「理(性)」に対して物理的な現象界一般を表す。「もの狂い」が魂の問題で、いわば、その人の生まれもった性向によって、何かに取り付かれたように一つの物事に固執するような、いわば性格異常に近いのに対し、「気」は形而下の、今でいう器質性のものを表す。

 「気ちがい」は今でいう精神病に相当し、「気のやまい」は神経症に相当する。ただし、俳諧では必ずしも厳密に区別されているわけではなく、近代でも「釣りキチ」のように用いられていたように、風狂を「気違い」と呼ぶことも十分考えられる。

 延宝七年秋の「須磨ぞ秋」の巻七十五句目の、

 

   秋風起て出るより棒

 気違を月のさそへば忽に      桃青

 

の気違いは今でいう精神病者ではなく、謡曲『三井寺』に出てくるような「物狂ひ」であろう。ただ、現実に勝手に鐘をつこうとしたら、棒で取り押さえられる。

 

  「御局の里下りしては涙ぐみ

  ぬつた筥より物の出し入

 さもありつべき事を、直に事もなく付たる句なり。思ひ亂るゝに其わざ、さもあるべきことをいへり。」(『去来抄・三冊子・旅寝論』潁原退蔵校訂、一九三九、岩波文庫p.131)

 

 これは元禄七年閏五月下旬の「葉がくれを」の巻の三十四句目。

 御局は宮中の局(つぼね)を与えられるほどの身分の高い女官で、それが里に帰されたとあると、都での華やかの日々を思い出し、宮中にいた頃から使っている漆塗りの箱のものを何度も取り出しては涙する。御局の気持ちになっての付けという意味で、これも広義の俤付けに含まれる。

 

  「隣へもしらさず嫁をつれて來て

  屏風の陰に見ゆる菓子盆

 同じ付也。盆の目に立、味ふ事もなくして付たる句也。心の付なし新みあり。」(『去来抄・三冊子・旅寝論』潁原退蔵校訂、一九三九、岩波文庫p.131~132)

 

 元禄七年春の「むめがかに」の巻の挙句で、『炭俵』所収。

 「屏風」があるということで、前句を貧しい家ではなく、裕福な家に取り成す。挙句(あげく)ということで、どういう事情でとか重い話題は避け、ただ、菓子盆が隠して置いてあるのを見て嫁が来たのが知れるというだけの句で、あくまで軽く流しているが、花嫁に菓子盆とあくまで目出度く終わる。

 

  「入込に諏訪の桶湯の夕まぐれ

  中にもせいの高い山伏

 前句にはまりて付たる句也。其中の事を目に立ていひたる句なり。」(『去来抄・三冊子・旅寝論』潁原退蔵校訂、一九三九、岩波文庫p.132)

 

 『ひさご』所収の「木のもとに」の巻十句目。

 これは芭蕉の得意とするあるあるネタで、こういう山の中の温泉にいくと必ずいそうな人をすかさず出してくる。

45、付け句の改作

  「人聲の沖には何を呼やらん

  鼠は舟をきしるあかつき

 この句、はじめは、須磨の鼠の舟きしるをと、といひ出られ侍るに、前句の聲といふ字差合て付かへられし句也。暁の字骨折あり。人のいはく、須磨の鼠新きものに侍れども、舟きしるをとゝいひては、下の七大におくれたるか、といへり、師聞て、宜といへり。」(『去来抄・三冊子・旅寝論』潁原退蔵校訂、一九三九、岩波文庫p.132)

 

 「人のいはく」は許六のこと。許六の『俳諧問答』に、

 

 「一、一とせ江戸にて、何某が歳旦開とて、翁をまねきたる事あり。

 予が宅ニ四五日逗留の後にて侍る。其日雪ふりて、暮方参られたり。其俳諧に、

 人声の沖には何を呼やらん     桃隣

 鼠は舟をきしる暁         翁

 予其後芭蕉庵へ参とぶらひける時、此句かたり出給へり。

 予が云、扨々此暁の字、ありがたき一字なるべし。あだにきかんハ無念の次第也。動かざる事大山のごとしといへば、師起あがりて云、此暁の一字聞屆侍りて、愚老がまんぞくかぎりなし。此句初ハ、

 須磨の鼠の舟きしる音

と案じける時、前句ニ声の字有て、音の字ならず、つくりかへたり。すまの鼠とまでハ気を廻らし侍れ共、一句連続せざるといへり。

 予が云、これ須磨の鼠より遙に勝れり。勿論須磨の鼠も新敷おぼえ侍れ共、『舟きしる音』といふ下の七字おくれたり。上の七字に首尾調はず。暁の一字のつよき事、たとへ侍るものなしといへば、師もうれしがりて、これ程にききてくれる人なし。只予が口よりいひ出せば、肝をつぶしたる顔のミにて、善悪の差別もなく、鮒の泥に酔たるがごとし。

 其夜此句したる時、一座の者共ニ、遅参の罪ありといへ共、此句にて腹をゐせよと、自慢せしとのたまひ侍る。」(『俳諧問答』横澤三郎校注、一九五四、岩波文庫p.174~176)

 

とある。

 この歳旦開の俳諧は今のところまだ発見されてないようだ。許六の記したこの二句だけが分かっている。おそらく元禄六年の春、許六が参加して満尾出来なかった巻があったのだろう。『俳諧問答』に、

 

 「予、俳諧、師とする事、全篇慥ニ成就する巻二哥仙、半分ニミてざる巻二ツ、以上四巻也。」(『俳諧問答』横澤三郎校注、一九五四、岩波文庫p.94)

 

とある。

 

   人声の沖には何を呼やらん

 鼠は舟をきしる暁

 

 『源氏物語』須磨巻で源氏の君が七弦琴を弾いて歌う場面で、「おきより舟どものうたひののしりてこぎ行くなどもきこゆ(沖の方からは何艘もの船が大声で歌をわめき散らしながら通り過ぎて行く音が聞こえてきます)」、という下りがある。

 芭蕉はこの場面を思いついて、最初は、

 

   人声の沖には何を呼やらん

 須磨の鼠の舟きしる音

 

としたのだろう。源氏須磨巻を俤としつつも、人声を船に鼠が出たせいだとする。

 このとき「音」と前句の「声」と被っているのに気付き、須磨を出すのをやめて「鼠は舟をきしる暁」とする。源氏物語は消えて、船に鼠が出て騒ぐ様子に暁の景を添える句になる。

 芭蕉さんも苦肉の策で出した「暁」を褒められて、満更でもなかっただろう。

 

  「榎の木からしの豆からを吹

  寒き爐に住持はひとり柿むきて

 此句、はじめは、住持さびしく、となして後、淋の字除かれし也。」(『去来抄・三冊子・旅寝論』潁原退蔵校訂、一九三九、岩波文庫p.132)

 

 この句は『校本芭蕉全集 第三巻』(小宮豐隆監修、一九六三、角川書店)に『稿本野晒紀行』の句として、

 

   榎木の風の豆がらをふく

 寒き炉に住持は独柿むきて     芭蕉

 

の形で収録されている。貞享二年の『野ざらし紀行』の旅の途中の句と思われる。『芭蕉紀行文集 付嵯峨日記』(中村俊定校注、一九七一、岩波文庫)の天理本『野ざらし紀行』にも見られる。

 エノキはウィキペディアに、

 

 「葉と同時期(4月頃)に、葉の根元に小さな花を咲かせる。秋には花の後ろに、直径5-6mmの球形の果実をつける。熟すと橙褐色になり、食べられる。味は甘い。」

 

とある。こうした木の実は菓子として食べられていたのだろう。木枯しの季節になると榎の実の季節も終わり、鳥の食べた豆柄を木枯らしが吹き飛ばして行く頃に、住持(住職に同じ)が独淋しく囲炉裏端で柿を剥いている。

 これは次の句の展開を考えて、あまり句の情を限定しない方がいいという判断なのだろう。「独」でも「独淋しく」を十分連想できる。

 

  「桐の木高く月さゆる也

  門しめてだまつて寐たる面白さ

 この事、先師のいはく、すみ俵は門しめての一句に腹をすへたり。試に方々門人にとへば皆、泣事のひそかに出來しあさ茅生といふ句によれり、老師の思ふ所に非ずと也。」(『去来抄・三冊子・旅寝論』潁原退蔵校訂、一九三九、岩波文庫p.132~133)

 

 これは『炭俵』の「むめがかに」の巻二十五句目。

 冬の寒い季節の月だから酒宴を開くわけでもないし、管弦のあそびに興じるわけでもない。門を閉めてただ一人黙って寝るのもまた一興かと床につくものの、それでも眠れず夜中になってしまう。「高く」は桐の木だけでなく「月」にも掛かるとすれば、天心にある月は真夜中の月だ。本当に寝てしまったんなら月を見ることもない。

 前句の「高く」「さゆる」の詞から、高い志を持ちながらも世に受け入れられず、冷えさびた心を持つ隠士の匂いを読み取り、その隠士の位で、「門をしめて黙って寝る」と付く。

 門を閉めて、一人涙する隠士に、冬枯れの桐の木も高ければ、月はそれよりはるかに高く、冷え冷えとしている。高き理想を持ちながら、決してそれを手にすることの出来なかった我が身に涙するのだろう。

 前句の語句をそのものの景色の意味にではなく、それに実景でもありながら同時に比喩でもあるようなニュアンスを読み取り、そこから浮かび上がる人物の位で、そうした人物のいかにもありそうなことを付ける。匂い付けの一つの高度な形であり、匂い付けの手法の一つの完成であり、到達点といってもいいかもしれない。

 「泣事のひそかに出來しあさ茅生といふ句」は同じ『炭俵』の「空豆の花」の二十一句目で、

 

   はっち坊主を上へあがらす

 泣事のひそかに出来し浅ぢふに   芭蕉

 

の句をいう。

 前句の「はっち坊主」は鉢坊主のことで、托鉢に来た乞食坊主のこと。

 田舎の荒れ果てた家に隠棲している身で、誰か亡くなったのであろう。おおっぴらに葬儀も出来ず、たまたまやってきた托鉢僧にお経を上げてもらう。

 托鉢僧をわざわざ家に上がらせるというところから密葬として、それをそれと言わずに匂わせる手法は、確かに匂い付けの完成された姿ではある。

 おそらく芭蕉が土芳に言いたかったのは、高士の「俤」で付けるということだったのだと思う。

 

  「もらぬほどけふは時雨よ草のやね

   火をうつ音に冬のうぐひす

  一年の仕事は爰におさまりて

 此第三は、みのにての句也。十餘句計吟じかへてのち、是に決せられしと也。」(『去来抄・三冊子・旅寝論』潁原退蔵校訂、一九三九、岩波文庫p.133)

 

 『校本芭蕉全集 第四巻』(小宮豐隆監修、宮本三郎校注、一九六四、角川書店)は元禄八年刊如行編の『後の旅』の形で収録していて、そこには、

 

   元禄四年の初冬、茅屋に芭蕉翁をまねきて

 もらぬほどけふは時雨よ草の屋   斜嶺

   火をうつ聲にふゆのうぐひす  如行

 一年の仕事は麦におさまりて    芭蕉

 

の形になっている。

 十句以上もああでもないこうでもないとやるのは珍しいことだったので門人の記憶に残ったのだろう。

 理由はよくわからない。

 発句は亭主の挨拶で、こんな粗末なところですから時雨が漏らないといいですね、という謙遜した句で、実際にはそれなりの家だったのだろう。

 脇は、時雨の中、寒いので火を起こしましょう、そうすると冬の鶯の声も聞こえてきますと。これは寓意で、俳諧興行を始めれば芭蕉さんの鶯の一声が聞けますよ、といったところか。何か芭蕉さんにプレッシャーをかけているようにも聞こえる。

 付け筋はいくつか考えられる。まずは冬の鶯に火を打つから山奥の景で付ける、あるいは山奥の隠士の情で付ける、しかしこの展開では発句の「草の屋」から離れられない。

 いっそのこと違えて付けるか、前句を何か別の意味に取り成せないか、そんなことも考えたかもしれない。とりあえず「草の屋」から離れるというところから、普通の農家の生活を思い浮かべ、農夫の俤で農夫の立場だったらどうかと考えた時、稲刈りは終わり麦を蒔き、これで一年の仕事は終り、という所に至ったのではないかと思う。

 

  「市人にいで是うらん雪の笠

   酒の戸たゝく鞭のかれ梅

  朝がほに先だつ母衣を引づりて

 此第三は門人杜國が句也。此第三せんと人々さまざまいひ出侍るに、師のいはく、此第三の附かたあまたあるべからず。鞭にて酒屋をたゝくといふものは、風狂の詩人ならずばさもあるまじ。枯梅の風流に思ひ入ては、武者の外に此第三あるべからずと也。」(『去来抄・三冊子・旅寝論』潁原退蔵校訂、一九三九、岩波文庫p.133)

 

 これは元禄八年刊支考編の『笈日記』に、

 

   抱月亭

 市人にいで是うらん雪の笠     翁

   酒の戸たゝく鞭のかれ梅    抱月

  是は貞享のむかし抱月亭の雪見なり

  おのおの此第三すべきよしにて幾たびも吟じ

  あげたるに阿叟も轉吟して此第三の附方

  あまたあるべからずと申されしに杜國もそこに

  ありて下官もさる事におもひ侍るとて、

 朝かほに先だつ母衣を引づりて   杜國

  と申侍しとや。されば鞭にて酒屋をたゝく

  といへるものは風狂の詩人ならばさも有べし

  枯梅の風流に思ひ入らバ武者の外に此第三

  有べからず。しからば此一座の一興はなつかし

  き㕝かなと今さらにおもはるゝ也

 

とある。「下官」は「やつがれ」と読む。一人称。アニメの「文豪ストレイドッグス」の芥川龍之介がこの一人称を用いているので知っている人も多いと思う。

 「母衣」は「ほろ」でウィキペディアに、

 

 「母衣(ほろ)は、日本の武士の道具の1つ。矢や石などから防御するための甲冑の補助武具で、兜や鎧の背に巾広の絹布をつけて風で膨らませるもので、後には旗指物の一種ともなった。ホロは「幌」「保侶(保呂)」「母蘆」「袰」とも書く。」

 

とある。NHK大河ドラマ『真田丸』で真田信繁が秀吉に仕えているときに、大きな黄色い母衣を背負っていたのは見た人もいると思う。

 「㕝」は「こと」と読む。事の異字体。

 「此第三の附かたあまたあるべからず」は「他にあるべからず」の意味。

 問題なのは脇の「鞭のかれ梅」で、枯梅を鞭にして酒屋の戸を叩くというのは、発句に付けば雪の笠を売っている怪しげな風狂の徒だが、第三はその趣向を離れなくてはならな。そこでみんな考え込んでしまったのだろう。

 他に誰が枯梅の鞭で酒屋の戸を叩いたりするだろうか、というところだ、芭蕉は答えが出たのだろう。「此第三の附方あまたあるべからず」、つまり答えは一つしかないと確信した。

 答えは一つという所で杜国の迷いが解けたのだろう。この第三を言い出す。

 

   酒の戸たゝく鞭のかれ梅

 朝かほに先だつ母衣を引づりて   杜國

 

 母衣(ほろ)を背負っているという所で武者になる。武者で馬に乗っていれば鞭も持っている。ここで前句を「鞭のかれ梅」を枯梅の枝の鞭ではなく、枯梅に惹かれて酒の戸を鞭で叩くと取り成す。「枯梅の風流に思ひ入らバ」というのはそういう意味だ。

 いち早くこの答えを導いた芭蕉も凄いが、それにすぐに答えた杜国もなかなかのものだった。

 

 「徒歩ならバ杖つき坂を落馬哉

   角のとがらぬ牛もあるもの

 此句は門人土芳が句也。先師此句を風與仕たり。季なし。皆脇して見るべしとあり。おのおのさまざまつけて見侍れども、こゝろにのらずしてふと此句を見せ侍れば、よろしとてその儘取て付られ侍る。師の心味ふべし。」(『去来抄・三冊子・旅寝論』潁原退蔵校訂、一九三九、岩波文庫p.134)

 

 このことも元禄八年刊支考編の『笈日記』に、

 

  そのゝちいがの人々に此句の脇して

  見るべきよし申されしを

 角のとがらぬ牛もあるもの     土芳

 

とある。芭蕉の『笈の小文』には、

 

 「『桑名よりくはで来ぬれば』と云ふ日永(なが)の里より、馬かりて杖つき坂上るほど、荷鞍(にぐら)うちかへりて馬より落ちぬ。

 

 歩行(かち)ならば杖つき坂を落馬哉」

 

とある。

 「桑名よりくはで来ぬれば」というのは『古今夷曲集』にある伝西行の歌で、

 

 桑名よりくはで来ぬればほし川の

    朝けは過て日ながにぞ思ふ

 

のことだ。「杖つき坂」は四日市宿を出て、次の石薬師宿へ行く途中、内部川を越えた向こう側の上り坂で、鈴鹿越えの道へと向かう。伊賀へ行く場合は途中の関宿から分れて加太の方へと向かう。

 芭蕉の発句が、杖つき坂なんだから馬に乗らずに地道に杖を突いて登ればよかった、という後悔とともに、急がば回れ的な教訓を含む句なので、脇もそれに応じなくてはならない。

 土芳の句は「牛だってみんながみんな角突き合わせているのではない、素直さが大切だ」というもので、教訓に教訓で返す。これが正解だったのだろう。

 土芳が最後のこの自分の句を持ってきたのは、別に師に褒められた自慢がしたいのではなく、俳諧の事でいろいろ議論をするのがいいが、角突き合わさずに仲良く議論しよう、という所で締めにしたかったのではないかと思う。