「ひらひらと」の巻、解説

初表

   本間丹野が家の舞台にて

 ひらひらとあがる扇や雲のみね   芭蕉

   青葉ぼちつく夕立の朝     安世

 瀬を落す舟を名残に見送りて    支考

   はなれて家を造る原中     空芽

 月の前きぬたの拍子のつて来る   吐龍

   大かたむしの手をそろへ鳴   丹野

 

初裏

 傘をすぼめて戻る秋の道      空芽

   窓からよぼる人の言伝     芭蕉

 さつぱりと物を着替て連を待ツ   安世

   夜の明るやしらむ海際     支考

 いふ事にこころをつくるわかれして 丹野

   真向の風に顔をふかるる    空芽

 よう肥たむすこのすはる膝の上   芭蕉

   そろそろ江戸の草臥が来る   通

 手ひとつでびたひらなかの恩もきず 仝

   ちつとの事に枝節がつく(原本作者名欠、以下進之)

 月花を糺の宮にかしこまる

   ああらけうとや猫さかり行   丹野

 

 

二表

 石‐塔を見にとて今朝はとう出る  丹野

   勢丈のびたるせがれ気づかふ

 黒‐面な仲間がよつて不了簡

   豆ふみ出して高い駕籠借ル

 きぬ帯に銭をはさむで穴があく

   なじみの町のちかづきもへる

 名月の餅に当たる関東早稲     葉文

   ことしはいかう渡る安持鳥   仝

 萱葺にしつぽりとふる秋の雨

   いつ作つても詩は上手也

 女房に只わらわれぬ覚悟して

   尻かれ武士の二番ばへ共

 

二裏

 土手筋の紫竹は杖にきりたくり   丹野

   田のくさどきにはやる富士垢離

 蚊のゐずばあるものでない夏の月

   酒塩と名をつけてのまるる

 病ぬいて結句まめなる花盛

   どちらへむくも空はのんどり

 

      参考;『校本芭蕉全集 第五巻』(小宮豐隆監修、中村俊定注、一九六八、角川書店)

初表

発句

 

   本間丹野が家の舞台にて

 ひらひらとあがる扇や雲のみね  芭蕉

 

 能舞台という前書きがあるように、能の舞に欠かせない扇を高くかざすかのように、空には雲の峰がある。夏の季語である「雲の峰」は積乱雲のことで、入道雲とも言う。その積乱雲の上にできる「かなとこ雲」は扇のような形をしている。

 

季語は「雲のみね」で夏、聳物。

 

 

   ひらひらとあがる扇や雲のみね

 青葉ぼちつく夕立の朝      安世

 (ひらひらとあがる扇や雲のみね青葉ぼちつく夕立の朝)

 

 積乱雲が大きく発達すると雷雨になる。ただ、ここでは朝の雷だったのだろう。雷雨を夕立とはいうが朝だから朝立とはあまり言わない。全く言わないわけではないが、スラングで別の意味がある。

 

季語は「青葉」で夏、植物、木類。「夕立」は降物。

 

第三

 

   青葉ぼちつく夕立の朝

 瀬を落す舟を名残に見送りて   支考

 (瀬を落す舟を名残に見送りて青葉ぼちつく夕立の朝)

 

 今は使わないが、昔は朝早く旅立つことも「朝立」と言った。ここではその朝立ちの場面とする。

 

無季。旅体。「瀬」「舟」は水辺。

 

四句目

 

   瀬を落す舟を名残に見送りて

 はなれて家を造る原中      空芽

 (瀬を落す舟を名残に見送りてはなれて家を造る原中)

 

 隠棲を思い立ち、その予定地に船で連れてきてもらい、送ってきた人は帰って行く。村のはずれに建つ新しい家を見て、これから新しい生活が始まる。

 

無季。「家」は居所。

 

五句目

 

   はなれて家を造る原中

 月の前きぬたの拍子のつて来る  吐龍

 (月の前きぬたの拍子のつて来るはなれて家を造る原中)

 

 日が暮れて月が登ると、遠くから砧打つ音が聞こえてくる。

 今日でも音楽用語としてリズムにうまく気持ちを合わせることを「リズムに乗る」と言い、「乗り」が良いだとか悪いだとかいうが、この「乗り」という言葉は意外に古く、謡曲でも「平ノリ(ひらのり)」「中ノリ(ちゅうのり)」「大ノリ(おおのり)」などという言葉を用いる。ただ、謡曲の場合はむしろヒップホップなどの「フロウ」に近いかもしれない。

 

季語は「月」で秋、夜分、天象。「きぬた」も秋。

 

六句目

 

   月の前きぬたの拍子のつて来る

 大かたむしの手をそろへ鳴    丹野

 (月の前きぬたの拍子のつて来る大かたむしの手をそろへ鳴)

 

 謡曲の地謡の人たちは膝に手をそろえて謡うように、秋の夜を鳴く虫もおおかた手をそろえて鳴く。

 

季語は「むし」で秋、虫類。

初裏

七句目

 

   大かたむしの手をそろへ鳴

 傘をすぼめて戻る秋の道     空芽

 (傘をすぼめて戻る秋の道大かたむしの手をそろへ鳴)

 

 唐傘をすぼめるのは村雨の後であろう。道の脇では虫が鳴いている。

 

季語は「秋」で秋。

 

八句目

 

   傘をすぼめて戻る秋の道

 窓からよぼる人の言伝      芭蕉

 (傘をすぼめて戻る秋の道窓からよぼる人の言伝)

 

 「よぼる」は呼ぶことで、今でも方言で「よぼる」という地方もあるようだ。

 秋の道を行くと、窓から言伝を頼まれる。

 

無季。「窓」は居所。「人」は人倫。

 

九句目

 

   窓からよぼる人の言伝

 さつぱりと物を着替て連を待ツ  安世

 (さつぱりと物を着替て連を待ツ窓からよぼる人の言伝)

 

 出かけようときちんとした格好に着替えて、連れが来るのを外で待っていると、窓から言伝を頼まれる。

 

無季。

 

十句目

 

   さつぱりと物を着替て連を待ツ

 夜の明るやしらむ海際      支考

 (さつぱりと物を着替て連を待ツ夜の明るやしらむ海際)

 

 船でどこかへ行くのだろう。岸壁か砂浜かはわからないが、夜明けに連れを待つ。あるいは駆け落ちか。

 

無季。「夜」は夜分。「海際」は水辺。

 

十一句目

 

   夜の明るやしらむ海際

 いふ事にこころをつくるわかれして 丹野

 (いふ事にこころをつくるわかれして夜の明るやしらむ海際)

 

 心を偽り、嘘を言って家を出て、明け方に船を待つ。

 

無季。恋。

 

十二句目

 

   いふ事にこころをつくるわかれして

 真向の風に顔をふかるる     空芽

 (いふ事にこころをつくるわかれして真向の風に顔をふかるる)

 

 悲しい別れに涙すると、風が涙をぬぐう。

 

無季。

 

十三句目

 

   真向の風に顔をふかるる

 よう肥たむすこのすはる膝の上  芭蕉

 (よう肥たむすこのすはる膝の上真向の風に顔をふかるる)

 

 縁側で太った子供を膝に乗せて汗が出てきたか、風が汗をぬぐってゆく。

 

無季。「むすこ」は人倫。

 

十四句目

 

   よう肥たむすこのすはる膝の上

 そろそろ江戸の草臥が来る    通

 (よう肥たむすこのすはる膝の上そろそろ江戸の草臥が来る)

 

 作者の所に「通」とだけあるが路通か。

 江戸から帰省して久しぶりに息子を膝に乗せたのだろう。旅の疲れが出る頃だ。

 

無季。旅体。

 

十五句目

 

   そろそろ江戸の草臥が来る

 手ひとつでびたひらなかの恩もきず 仝

 (手ひとつでびたひらなかの恩もきずそろそろ江戸の草臥が来る)

 

 これも路通か。

 「びたひらなか」はコトバンクの「精選版 日本国語大辞典「鐚ひらなか」の解説」に、

 

 「〘名〙 (「ひらなか」は半銭の意) ごくわずかの金銭。鐚一文(びたいちもん)を強めていった語。

  ※俳諧・桃舐集(1696)「そろそろ江戸の草臥が来る〈路通〉 手ひとつでびたひらなかの恩もきず〈同〉」

 

とある。

 手ぶらでやってきて、びた一文の恩も返してくれない。江戸の人間はドライだということか。

 

無季。

 

十六句目

 

   手ひとつでびたひらなかの恩もきず

 ちつとの事に枝節がつく(原本作者名欠、以下進之)

 (手ひとつでびたひらなかの恩もきずちつとの事に枝節がつく)

 

 元禄九年刊路通編の『桃舐集』には(原本作者名欠、以下進之)とある。『校本芭蕉全集 第五巻』の中村注には『袖草紙』『一葉集』に(龍)とあり、吐龍となっている。

 これは噂話にありがちな「話に尾鰭がつく」という意味で、実際江戸っ子はそんなことはない、というのを言いたいのだと思う。路通がわざわざ意図的に「作者名欠」としたとしたら、これは路通自身の前句への後フォローではないかと思う。

 

無季。

 

十七句目

 

   ちつとの事に枝節がつく

 月花を糺の宮にかしこまる

 (月花を糺の宮にかしこまるちつとの事に枝節がつく)

 

 この句も『桃舐集』には作者名がない。『袖草紙』『一葉集』は(考)とあり、支考ということになっている。

 糺の宮は糺の森とも言われ、ウィキペディアに、

 

 「糺の森(ただすのもり、糺ノ森とも表記)は、京都市左京区の賀茂御祖神社(下鴨神社)の境内にある社叢林である。」

 

とある。

 

 君をいのる心の色を人問はば

     糺の宮の朱の玉垣

              前大僧正慈圓(新古今集)

 いつはりをただすの森の木綿だすき

     かけつつ誓へわれを思はば

              平定文(新古今集)

 

のように、和歌では「正す」に掛けて用いられる。

 ここでも前句の小さなことでも枝節がついて大ごとになる、という内容を受けて、月花の風雅の道はそれを正さねばならない、とする。

 

季語は「花」で春、植物、木類。神祇。「月」は夜分、天象。

 

十八句目

 

   月花を糺の宮にかしこまる

 ああらけうとや猫さかり行    丹野

 (月花を糺の宮にかしこまるああらけうとや猫さかり行)

 

 「けうと」はコトバンクの「精選版 日本国語大辞典「気疎」の解説」に、

 

 「〘形口〙 けうと・し 〘形ク〙 (古く「けうとし」と発音された語の近世初期以降変化した形。→けうとい)

  ① 人気(ひとけ)がなくてさびしい。気味が悪い。恐ろしい。

  ※浮世草子・宗祇諸国物語(1685)四「なれぬほどは鹿狼(しかおほかみ)の声もけうとく」

  ※読本・雨月物語(1776)吉備津の釜「あな哀れ、わかき御許のかく気疎(ケウト)きあら野にさまよひ給ふよ」

  ② 興ざめである。いやである。

  ※浮世草子・男色大鑑(1687)二「角落して、きゃうとき鹿の通ひ路」

  ③ 驚いている様子である。あきれている。

  ※日葡辞書(1603‐04)「Qiôtoi(キョウトイ) ウマ〈訳〉驚きやすい馬。Qiôtoi(キョウトイ) ヒト〈訳〉不意の出来事に驚き走り回る人」

  ④ 不思議である。変だ。腑(ふ)に落ちない。

  ※浄瑠璃・葵上(1681‐90頃か)三「こはけうとき御有さま何とうきよを見かぎりて」

  ⑤ (顔つきが)当惑している様子である。

  ※浄瑠璃・大原御幸(1681‐84頃)二「弁慶けうときかほつきにて」

  ⑥ (多く連用形を用い、下の形容詞または形容動詞につづく) 程度が普通以上である。はなはだしい。

  ※浮世草子・好色産毛(1695頃)一「気疎(ケウト)く見事なる品もおほかりける」

  ⑦ 結構である。すばらしい。立派だ。

  ※浄瑠璃・伽羅先代萩(1785)六「是は又けふとい事じゃは。そふお行儀な所を見ては」

 

とある。

 糺の宮の厳粛な雰囲気に猫のさかりは似合わない。

 恋猫は大きな声を上げるが、これはメスを誘うのではなくオス同士がかち合って喧嘩をしている時の声で、オワー、ウウウウウーと威嚇し合いながら、やがてグルルル、ウォルルルル、と喧嘩になる。

 

季語は「猫さかり」で春、獣類。

二表

十九句目

 

   ああらけうとや猫さかり行

 石‐塔を見にとて今朝はとう出る 丹野

 (石‐塔を見にとて今朝はとう出るああらけうとや猫さかり行)

 

 「とう」は「疾(と)く」のウ音便化か。

 石塔会(しゃくたふゑ)はコトバンクの精選版 日本国語大辞典「積塔会・石塔会」の解説に、

 

 「〘名〙 陰暦二月一六日、京都高倉仏光寺の清聚庵に検校、勾当、座頭などが集まり、盲人の守り神である雨夜尊(あまよのみこと)をまつり、平曲を語りあった法会。雨夜尊の薨去後、諸国の盲人が御所跡に集まり石を積んで弔った遺風として、勾当三人が四条河原に出て、石を積んで塔を造ったのでこのように称せられる。積塔。《季・春》 〔日次紀事(1685)二月一六日〕」

 

とある。

 朝早く起きて石塔会に行こうとすると、猫が大声で騒いでいる。

 

季語は「石塔会」で春。釈教。

 

二十句目

 

   石‐塔を見にとて今朝はとう出る

 勢丈のびたるせがれ気づかふ

 (石‐塔を見にとて今朝はとう出る勢丈のびたるせがれ気づかふ)

 

 この句も『桃舐集』には作者名がない。『袖草紙』『一葉集』は(世)とあり、安世の句ということになっている。

 

 石塔会にいっしょに行く息子も背丈が伸びて、親としてもあまり子ども扱いも出来なくなる。

 

無季。「せがれ」は人倫。

 

二十一句目

 

   勢丈のびたるせがれ気づかふ

 黒‐面な仲間がよつて不了簡

 (黒‐面な仲間がよつて不了簡勢丈のびたるせがれ気づかふ)

 

 この句も『桃舐集』には作者名がない。『袖草紙』『一葉集』は(考)とあり、支考の句ということになっている。

 「不了簡(ふれうけん)」はコトバンクの「精選版 日本国語大辞典「不料簡」の解説」に、

 

 「〘名〙 (形動) 考え方や心構えがよくないこと。心得違いをすること。また、そのさま。

  ※浮世草子・けいせい伝受紙子(1710)二「それは女郎の本〆(もとじめ)をして世をわたらるる親方のふ了簡(リャウケン)なり」

 

とある。黒面は真面目ということ。周りがみんな真面目だと、そんな間違ったことをしてなくても不良扱いされてしまう。

 

無季。「黒‐面な仲間」は人倫。

 

二十二句目

 

   黒‐面な仲間がよつて不了簡

 豆ふみ出して高い駕籠借ル

 (黒‐面な仲間がよつて不了簡豆ふみ出して高い駕籠借ル)

 

 この句も『桃舐集』には作者名がない。『袖草紙』『一葉集』は(野)とあり、丹野の句ということになっている。

 真面目にいつも外で働いていて日焼けした連中に混ざってい歩いていると、日頃歩いてない人はすぐに豆が潰れて高い駕籠に乗ることになる。

 

無季。旅体。

 

二十三句目

 

   豆ふみ出して高い駕籠借ル

 きぬ帯に銭をはさむで穴があく

 (きぬ帯に銭をはさむで穴があく豆ふみ出して高い駕籠借ル)

 

 この句も『桃舐集』には作者名がない。『袖草紙』『一葉集』は(龍)とあり、吐龍の句ということになっている。

 銭は巾着に入れて持ち歩くこともあったが、「早道」という帯に挟むタイプの小銭入れもあった。

 高い絹の帯でこれを用いると帯に穴が開くこともあったのか。

 

無季。「きぬ帯」は衣裳。

 

二十四句目

 

   きぬ帯に銭をはさむで穴があく

 なじみの町のちかづきもへる

 (きぬ帯に銭をはさむで穴があくなじみの町のちかづきもへる)

 

 この句も『桃舐集』には作者名がない。『袖草紙』『一葉集』は(翁)とあり、芭蕉の句ということになっている。

 「ちかづき」はコトバンクの「精選版 日本国語大辞典「近付」の解説」に、

 

 「ちか‐づき【近付】

  〘名〙 (距離的に近くなるところから) 知りあうこと。親しくなること。また、その人。しりあい。知人。また、「おちかづきのしるしに」「おちかづきのために」などの形で、今後親しくおねがいしますという意の挨拶(あいさつ)としても用いる。〔文明本節用集(室町中)〕

  ※咄本・鹿の巻筆(1686)三「まへかたよりちかづきか」

  ※西洋道中膝栗毛(1870‐76)〈仮名垣魯文〉初「お知己(チカヅキ)のウしるしに一献さし上てへげにござる」

 

とある。前句の「穴があく」を人がいなくなるの意味に取り成す。

 

無季。

 

二十五句目

 

   なじみの町のちかづきもへる

 名月の餅に当たる関東早稲    葉文

 (名月の餅に当たる関東早稲なじみの町のちかづきもへる)

 

 早稲田大学のあるあたりもかつては早稲田村と呼ばれてたくらいだから、関東でも早稲の産地というのはあったのだろう。早稲田と名月の餅に間に合う。

 前句を町外れの早稲田の広がる地帯としたか。

 

季語は「名月」で秋、夜分、天象。

 

二十六句目

 

   名月の餅に当たる関東早稲

 ことしはいかう渡る安持鳥    仝

 (名月の餅に当たる関東早稲ことしはいかう渡る安持鳥)

 

 安持鳥(あぢどり)はアジガモでトモエガモの異名。ウィキペディアに、

 

 「シベリア東部で繁殖し、冬季になると中華人民共和国東部、日本、朝鮮半島、台湾へ南下し越冬する。」

 

とある。

 「いかう」はコトバンクの「デジタル大辞泉「厳う」の解説」に、

 

 「[副]《形容詞「いか(厳)し」の連用形「いかく」のウ音便から》はなはだしく。ひどく。非常に。

  「ああ、―酒臭い」〈浄・冥途の飛脚〉」

 

とある。

 早稲を作って早く稲刈りが終わると、そのあとにトモエガモがたくさん飛来する。

 

季語は「安持鳥」で秋、鳥類。

 

二十七句目

 

   ことしはいかう渡る安持鳥

 萱葺にしつぽりとふる秋の雨

 (萱葺にしつぽりとふる秋の雨ことしはいかう渡る安持鳥)

 

 この句も『桃舐集』には作者名がない。『袖草紙』『一葉集』は(世)とあり、安世の句ということになっている。

 茅葺屋根のならぶ農村に秋の雨が降り、トモエガモがたくさん飛来する。

 

季語は「秋の雨」で秋、降物。「萱葺」は居所。

 

二十八句目

 

   萱葺にしつぽりとふる秋の雨

 いつ作つても詩は上手也

 (萱葺にしつぽりとふる秋の雨いつ作つても詩は上手也)

 

 この句も『桃舐集』には作者名がない。『袖草紙』『一葉集』は(考)とあり、支考の句ということになっている。

 陶淵明などの中国の隠士とする。

 

無季。

 

二十九句目

 

   いつ作つても詩は上手也

 女房に只わらわれぬ覚悟して

 (女房に只わらわれぬ覚悟していつ作つても詩は上手也)

 

 この句も『桃舐集』には作者名がない。『袖草紙』『一葉集』は(野)とあり、丹野の句ということになっている。

 詩を作っては女房に笑われてばかりで、女房に笑われないような詩をつくろうと努力したら詩の名人になっていた。

 文学というのは内輪でしかわからないようなものでは駄目で、身近な女房も面白いと思うような作品を作れれば一流になれる。

 

無季。「女房」は人倫。

 

三十句目

 

   女房に只わらわれぬ覚悟して

 尻かれ武士の二番ばへ共

 (女房に只わらわれぬ覚悟して尻かれ武士の二番ばへ共)

 

 この句も『桃舐集』には作者名がない。『袖草紙』『一葉集』は(龍)とあり、吐龍の句ということになっている。

 「二番ばへ」は二番生えで次男のこと。「尻かれ武士」はよくわからないが、女房の尻に敷かれている武士のことか。

 

無季。「武士」は人倫。

二裏

三十一句目

 

   尻かれ武士の二番ばへ共

 土手筋の紫竹は杖にきりたくり  丹野

 (土手筋の紫竹は杖にきりたくり尻かれ武士の二番ばへ共)

 

 「紫竹(しちく)」はコトバンクの「精選版 日本国語大辞典「紫竹」の解説」に、

 

 「〘名〙 ハチクの栽培品種クロチクの色素がやや薄いもの。紫竹竹。

  ※壒嚢鈔(1445‐46)一「昔無き人を恋ふ涙に染りし故に此竹を忌也。今紫竹斑竹と二に云共、同類なるべし」

  ※仮名草子・竹斎(1621‐23)上「御墓の竹に取付き給ひて、紅の御涙を零し給へば、その涙竹に灑きて染まりける。その時よりも此竹を紫竹と申始まりける」

 

とある。

 土手に植えた竹は水害対策のもので勝手に切ってはいけない。

 竹が根が張るとそこの地盤が強くなり、地震や水害に強くなるだけでなく、風除けにもなる。

 

無季。「紫竹」は植物で木類でも草類でもない。

 

三十二句目

 

   土手筋の紫竹は杖にきりたくり

 田のくさどきにはやる富士垢離

 (土手筋の紫竹は杖にきりたくり田のくさどきにはやる富士垢離)

 

 この句も『桃舐集』には作者名がない。『袖草紙』『一葉集』は(文)とあり、葉文の句ということになっている。

 「富士垢離(ふじごり)」は旧暦六月一日の山開きに富士山に入るために身を清めることで、ウィキペディアの「村山修験」のところに、

 

 「村山修験は対外的には富士垢離という信仰形態を確立させている。『諸国図絵年中行事大成』によると、富士行者が水辺にて水垢離を行うことにより、富士参詣と同様の意味を持つ行であるという。この富士垢離を取り仕切る集団に「富士垢離行家」というものがあり、大鏡坊が聖護院に取り付け、村山修験先導の下で行われていた。」

 

とある。

 田の草取りに人が必要な時に富士垢離が重なり、みんな富士山に行ってしまう。

 

季語は「田のくさどき」で夏。釈教。

 

三十三句目

 

   田のくさどきにはやる富士垢離

 蚊のゐずばあるものでない夏の月

 (蚊のゐずばあるものでない夏の月田のくさどきにはやる富士垢離)

 

 この句も『桃舐集』には作者名がない。『袖草紙』『一葉集』は(翁)とあり、芭蕉の句ということになっている。

 蚊がいるから夏の月なんだ、ということ。其角に「春宵一刻値千金」をもじった、

 

 夏の月蚊を疵にして五百両    其角

 

の句がある。

 

季語は「夏の月」で夏、夜分、天象。「蚊」は虫類。

 

三十四句目

 

   蚊のゐずばあるものでない夏の月

 酒塩と名をつけてのまるる

 (蚊のゐずばあるものでない夏の月酒塩と名をつけてのまるる)

 

 この句も『桃舐集』には作者名がない。『袖草紙』『一葉集』は(世)とあり、安世の句ということになっている。

 塩だけを肴に酒を飲むということか。テキーラにそういう飲み方があったような。

 

無季。

 

三十五句目

 

   酒塩と名をつけてのまるる

 病ぬいて結句まめなる花盛

 (病ぬいて結句まめなる花盛酒塩と名をつけてのまるる)

 

 この句も『桃舐集』には作者名がない。『袖草紙』『一葉集』は(通)とあり、路通の句ということになっている。

 「結句」は漢詩の結びの句だが、「結局」という意味でも用いられる。

 病気で今年はのんびりとした花盛りを迎えられると思ったら、思いのほか早く治ってしまい、結局いつも通りに忙しい。

 

季語は「花盛」で春、植物、木類。

 

挙句

 

   病ぬいて結句まめなる花盛

 どちらへむくも空はのんどり

 (病ぬいて結句まめなる花盛どちらへむくも空はのんどり)

 

 「のんどり」はのんびりということ。空はのんどりしているのに、どうしてこんなに忙しいのか。

 

季語は「のんどり」で春。