「時は秋」の巻、解説

貞享元年九月、露沾邸にて

初表

   旅泊に年を越てよしのの花にこころせん事を申す

 時は秋吉野をこめし旅のつと    露沾

   鳫をともねに雲風の月     芭蕉

 山陰に刈田の顔のにひぎあひて   沾蓬

   武者追つめし早川の水     其角

 くれかかる空ににつめたき横あられ 露荷

   をろさぬ窓に枝覗く松     沾荷

 

初裏

 傘の絵をかくかしらかたぶけて   芭蕉

   祭むかへし神山の氏      露沾

 暑キ日の汗をかなしむ猿の声    沾荷

   捨し尸のよみがへりたる    沾蓬

 行尽す五天むかしの法もなく    其角

   髪ある僧に鐘つかせ聞     露荷

 恋を断ッ鎌倉山の奥ふかし     露沾

   しぼるたもとを匂ふ風蘭    芭蕉

 月清く夕立洗ふみすの煤      沾蓬

   客をつかふて鯉てうじける   其角

 花咲て人々参草の庵        露荷

   額板ひろふ山吹の橋      沾荷

 

 

二表

 信濃路やたたらの峡の春さえて   露沾

   磬うつかたに鳥帰る道     沾徳

 楢の葉に我文集を書終り      芭蕉

   弟にゆるす妻のさがつき    露荷

 物かげは忍び安キに月晴て     沾荷

   琴を聞する夜のあさがほ    沾蓬

 馬を下リて野服をかいどる秋の露  露荷

   九輪指さす尾上はるけき    露沾

 風の音ならぶ蘇鉄のいかめしく   沾蓬

   大口着たる庭の雪掃      芭蕉

 うへもなく鳩の群立千木さびて   露沾

   独簾を編くらす妻       沾荷

 

二裏

 一軸の形見の連歌膝に置      露荷

   名を恥ぬべき越のたたかひ   露沾

 面かけて鏡にむかふ男つき     沾蓬

   みはしをのぼるから獅子の声  沾荷

 襁織ル花の錦のおさ打て      芭蕉

   柳の水のすみかへる春     執筆

 

       『校本芭蕉全集 第三巻』(小宮豐隆監修、一九六三、角川書店)

初表

発句

 

   旅泊に年を越てよしのの花にこころせん事を申す

 時は秋吉野をこめし旅のつと   露沾

 

 露沾についてはコトバンクの「世界大百科事典 第2版の解説」に、

 

 「江戸前~中期の俳人。姓は内藤,幼名は五郎四郎,名は義英,のち政栄。奥州磐城平7万石内藤義泰(俳号風虎)の次男で,下野守に任じられたが28歳で退身した。貞門時代,18歳で《桜川》に45句入集,のち蕉門に近づき,他の多くの俳人とも交わった。《笈(おい)の小文》に旅立つ芭蕉に,〈時は冬吉野をこめん旅のつと〉の句を送ったりした。著作に《倉の衆》《露沾公詠草》がある。〈むくつけき海鼠(なまこ)ぞ動く朝渚〉(《其帒》)。」

 

とある。

 磐城平藩三代藩主の内藤左京大夫義泰(風虎)の次男内藤政栄(露沾)は今回の『笈の小文』のスポンサーで、『笈の小文』本文ではこの発句が、

 

 時は冬よしのをこめん旅のつと

 

と改作され、

 

 「此の句は露沾(ろせん)公より下し給はらせ侍りけるを、はなむけの初(はじめ)として、旧友、親疎、門人等、あるは詩歌文章をもて訪(とぶら)ひ、或は草鞋の料を包みて志を見す。かの三月の糧(かて)を集るに力を入れず、紙布(かみこ)・綿小(わたこ)などいふもの、帽子(まうす)・したうづやうのもの、心々に送りつどひて、霜雪の寒苦をいとふに心なし。あるは小船をうかべ、別墅にまうけし草庵に酒肴携へ来りて、行衛(ゆくへ)を祝し、名残をおしみなどするこそ、故ある人の首途(かどで)するにも似たりと、いと物めかしく覚えられけれ。」

 

と記されている。『笈の小文』では旅立った後にこのことが紹介されるため、「秋」を「冬」にしたのだろう。

 「つと」はおそらく食品などを藁で包んだわらづとが元の意味なのだろう。それが転じて土産の意味になる。

 「旅のつとに吉野を籠めん」の倒置で、これから伊賀へ帰る帰郷の旅なので、江戸の土産として吉野への旅をプレゼントした、ということなのだろう。その内容が「草鞋の料を包みて志を見す。かの三月の糧(かて)を集るに力を入れず、紙布(かみこ)・綿小(わたこ)などいふもの、帽子(まうす)・したうづやうのもの、心々に送りつどひて、霜雪の寒苦をいとふに心なし。」だった。三月に吉野行まで含めての旅の準備だったということで、この時点で既に渡していたから「吉野をこめし」だったのだろう。『笈の小文』の句だと、この句を詠んでから旅の準備をしてくれたとなるが。

 

季語は「秋」で秋。「吉野」は名所。

 

 

   時は秋吉野をこめし旅のつと

 鳫をともねに雲風の月      芭蕉

 (時は秋吉野をこめし旅のつと鳫をともねに雲風の月)

 

 秋の旅なので「鳫(かり)」と仮寝をかけて「鳫をともね」と受けて、「風雲の月」を添える。雲も風も定めなきというところで、予定を明確に定めずにという意味も込められている。

 

季語は「鳫」で秋、鳥類。「月」も秋、夜分、天象。旅体。

 

第三

 

   鳫をともねに雲風の月

 山陰に刈田の顔のにぎあひて   沾蓬

 (山陰に刈田の顔のにぎあひて鳫をともねに雲風の月)

 

 風雲の旅の途中で通る農村風景とする。村人総出で稲刈りをやっていて賑やかななかを通り過ぎて行く。

 沾蓬はよくわからないが「沾」がつくから露沾の一族か家臣であろう。

 その他の連衆も露荷、沾荷、沾徳と露か沾のつく人が並び、露沾の関係者と思われる。そのせいか全体に其角色の強い難解な一巻になっている。

 

季語は「刈田」で秋。「山陰」は山類。

 

四句目

 

   山陰に刈田の顔のにぎあひて

 武者追つめし早川の水      其角

 (山陰に刈田の顔のにぎあひて武者追つめし早川の水)

 

 戦国時代は農民も武装していて武者を追い詰めることもあった。

 早川という川は箱根にあり、豊臣秀吉の軍が北条氏政・氏直親子の立て籠る小田原城を包囲した小田原合戦では早川一夜城が建てられた。

 

無季。「武者」は人倫。「早川」は水辺。

 

五句目

 

   武者追つめし早川の水

 くれかかる空ににつめたき横あられ 露荷

 (くれかかる空ににつめたき横あられ武者追つめし早川の水)

 

 川に追い詰められた武者に日は暮れようとして、横殴りの冷たい霰が打ち付ける。

 

季語は「あられ」で冬、降物。

 

六句目

 

   くれかかる空ににつめたき横あられ

 をろさぬ窓に枝覗く松      沾荷

 (くれかかる空ににつめたき横あられをろさぬ窓に枝覗く松)

 

 窓ガラスのなかった時代だから、窓を開けたままだと霰が吹き込んでくる。

 

無季。「松」は植物、木類。

初裏

七句目

 

   をろさぬ窓に枝覗く松

 傘の絵をかくかしらかたぶけて  芭蕉

 (傘の絵をかくかしらかたぶけてをろさぬ窓に枝覗く松)

 

 『校本芭蕉全集 第三巻』の注に「絵日傘に描く絵」とある。

 「洋がさタイムズ」というサイトによると、貞享の頃、江戸・京・大阪で絵日傘が流行したという。

 「日本傘略年表 - ミツカン水の文化センター」のページにもこの頃婦女子の間で絵日傘が流行したとある。

 唐傘に絵付けをしている職人は頭を傾けて、窓の外の松の枝を見る。松の枝を描いているのだろうか。

 

無季。

 

八句目

 

   傘の絵をかくかしらかたぶけて

 祭むかへし神山の氏       露沾

 (傘の絵をかくかしらかたぶけて祭むかへし神山の氏)

 

 神山(かみやま)は箱根にあるし、「こうやま」と読めば上賀茂神社の神の降臨した地でもある。ここでは特にどこのというのではなく、山の神をまつった神社の氏子たちの祭りであろう。傘の絵を祭りのためのものとする。

 

季語は「祭」で夏。神祇。

 

九句目

 

   祭むかへし神山の氏

 暑キ日の汗をかなしむ猿の声   沾荷

 (暑キ日の汗をかなしむ猿の声祭むかへし神山の氏)

 

 猿の声と言えば六朝時代の無名詩に、

 

 巴東山峡巫峡長  猿鳴三声涙沾裳

 巴東の山峡の巫峡は長く、

 猿のたびたび鳴く声に涙は裳裾を濡らす。

 

と歌われ、杜甫の「秋興其二」にも「聽猿實下三聲涙(猿を聽いて實に下す三聲の涙)」と詠まれている。かつては長江流域に広くテナガザルが生息し、そのロングコールが物悲しく聞こえ、辺境に赴任された役人や山に籠る隠士に泪させた。

 ニホンザルの声は全く違うものではあるが、漢籍の影響もあってか鴨長明の『方丈記』でも、「夜静かなれば、窓の月に故人を偲び、猿の声に袖をうるほす。」とある。

 ここでも山奥に住む隠遁者の設定だろう。村人たちは祭りで暑い中汗を流すが、それを悲しむかのように猿の声が聞こえてくる。

 

季語は「暑キ日」で夏。「猿」は獣類。

 

十句目

 

   暑キ日の汗をかなしむ猿の声

 捨し尸のよみがへりたる     沾蓬

 (暑キ日の汗をかなしむ猿の声捨し尸のよみがへりたる)

 

 『校本芭蕉全集 第三巻』の注に「熊野の本地」とある。「熊野の本地」はコトバンクの「日本大百科全書(ニッポニカ)の解説」に、

 

 「御伽草子(おとぎぞうし)の本地物の一つ。室町時代の古写本や絵巻などが数多くあり、15世紀には成立していた。熊野三所権現(さんしょごんげん)の神仏の由来物語で、同内容の物語が南北朝時代の『神道集』に載り、原型がうかがえる。 ‥‥略‥‥

 天竺(てんじく)の摩訶陀(まかだ)国の善財王には1000人の后(きさき)がいたが、そのうちの1人の五衰殿(ごすいでん)は王から寵愛(ちょうあい)されたため、他の后たちに妬(ねた)まれる。懐妊の身の五衰殿は山中に棄(す)てられ、そこで男児を産み、そのまま果てる。王子は動物たちに守られて生き延び、やがて、麓(ふもと)に住む聖人によって尋ね出され養育される。7歳のとき、聖人の計らいで大王に会い、それまでのできごとを打ち明ける。王子は父王の病悩を治し、秘法でよみがえった母后とともに飛車(ひしゃ)に乗って日本に渡った。安住の地を求めてさすらったのち、紀伊(き)の国の音無川(おとなしがわ)のあたりに定着し、熊野の神々となって顕(あらわ)れた、という物語。総じて女人救済の物語といえよう。[徳田和夫]」

 

とある。

 猿は日本では日枝神社の山王権現の使いでもある。

 

無季。

 

十一句目

 

   捨し尸のよみがへりたる

 行尽す五天むかしの法もなく   其角

 (行尽す五天むかしの法もなく捨し尸のよみがへりたる)

 

 『撰集抄』巻五第十五「西行於高野奥造人事」にある反魂の法だろう。其角は『猿蓑』の序文でも「人に成て侍れども、五の聲のわかれざるは、反魂の法のをろそかに侍にや。」とこの物語を引用している。

 この物語はというと、西行法師が人から聞いた「鬼が人の骨を集めて人を作ったことがある」という話を信じて、実際原っぱで人の骨を並べて骨格を復元し、それに亜ヒ酸を塗ってイチゴとハコベの葉を揉み合わせて、藤もしくは糸などでその骨格を吊るして水で何度も洗い、髪の毛の生える辺りにはサイカチの葉とムクゲの葉を灰にして付け、土の上に畳を敷いてその骨格を置き、空気に触れぬようにして二十七日間置いた後、沈水香木を薫いて、反魂(はんごん)の秘術を施したものの、出来た物は人の姿に似てはいるけど色も悪く心を持たず、声はあっても管弦の音のようで吹き損じた笛のようにしかならなかったというものだ。

 正しいやり方がわからなかったため、蘇ったものの、不完全なものでしかなかった。

 五天は東西南北中の空。

 

無季。釈教。

 

十二句目

 

   行尽す五天むかしの法もなく

 髪ある僧に鐘つかせ聞      露荷

 (行尽す五天むかしの法もなく髪ある僧に鐘つかせ聞)

 

 「髪ある僧」は俗聖(ぞくひじり)とも言い、優婆塞(うばそく)や沙弥(しゃみ)が含まれる。また髪はあるが托鉢する虚無僧もいた。鐘を搗くこともあっただろう。

 

無季。釈教。「僧」は人倫。

 

十三句目

 

   髪ある僧に鐘つかせ聞

 恋を断ッ鎌倉山の奥ふかし    露沾

 (恋を断ッ鎌倉山の奥ふかし髪ある僧に鐘つかせ聞)

 

 縁切寺と呼ばれる東慶寺のことと思われるが、今日鎌倉山と呼ばれている地域は鎌倉大仏の西側で大分外れる。東慶寺は源氏山の北になる。昔はこの辺り全体を指して鎌倉山と言ってたのだろうか。

 

無季。恋。「鎌倉山」は名所、山類。

 

十四句目

 

   恋を断ッ鎌倉山の奥ふかし

 しぼるたもとを匂ふ風蘭     芭蕉

 (恋を断ッ鎌倉山の奥ふかししぼるたもとを匂ふ風蘭)

 

 風蘭(ふうらん)は富貴蘭ともいう。ウィキペディアには、

 

 「フウランは、日本特産のラン科植物で、樹木の上に生育する着生植物である。花が美しく、香りがよいことから、古くから栽培されたものと考えられる。その中から、姿形の変わったものや珍しいものを選び出し、特に珍重するようになったのも、江戸時代の中頃までさかのぼることができる。文化文政のころ、一つのブームがあったようで、徳川十一代将軍家斉も愛好し、諸大名も盛んに収集を行なっていたと言う。」

 

とある。芭蕉も先見の明があったものだ。悲しみに涙流した袖を絞ると、蘭の香がする。蘭といえば山中にひっそりと暮らす君子の心で、貞淑さを表す。『野ざらし紀行』の旅で、

 

 蘭の香やてふの翅にたき物す   芭蕉

 

の句を詠んでいる。

 

無季。恋。「風蘭」は植物、草類。

 

十五句目

 

   しぼるたもとを匂ふ風蘭

 月清く夕立洗ふみすの煤     沾蓬

 (月清く夕立洗ふみすの煤しぼるたもとを匂ふ風蘭)

 

 前句の「しぼるたもと」を夕立で濡れた袂とした。夕立の後は洗われたようにきれいに晴れて、御簾の煤を払ったみたいだ。

 

季語は「夕立」で夏、降物。「月」は夜分、天象。

 

十六句目

 

   月清く夕立洗ふみすの煤

 客をつかふて鯉てうじける    其角

 (月清く夕立洗ふみすの煤客をつかふて鯉てうじける)

 

 「てうじ」は「調じ」で調理することをいう。

 鯉と言えば鯉の洗いで前句の「洗ふ」の縁で鯉を登場させる。あとは「客をつかふて‥‥てうじ」で取り囃し、笑いに持ってゆく。

 

無季。「客」は人倫。

 

十七句目

 

   客をつかふて鯉てうじける

 花咲て人々参草の庵       露荷

 (花咲て人々参草の庵客をつかふて鯉てうじける)

 普段は静かな草庵だが、桜の季節になるとたくさん人がやってくる。

 

 花見にと群れつつ人の来るのみぞ

     あたら桜の咎にはありける

             西行法師

 

の歌もあるが、ここの庵主は来客大歓迎で客に鯉を調理させる。

 

季語は「花」で春、植物、木類。「人々」は人倫。「草の庵」は居所。

 

十八句目

 

   花咲て人々参草の庵

 額板ひろふ山吹の橋       沾荷

 (花咲て人々参草の庵額板ひろふ山吹の橋)

 

 額板はコトバンクの「精選版 日本国語大辞典の解説」に、

 

 「① 掛け額の表面の板。

  ※俳諧・俳諧三部抄(1677)中「額板しろきあけかたの月 寄太鼓すいろのてんやうちぬらん〈正休〉」

  ② 鎧(よろい)の籠手(こて)の飾り板金。」

 

とある。庵の入口に掲げる庵の名前を書いた額の表板であろう。

 

 吉野川岸の山吹咲きにけり

     嶺の桜は散りはてぬらん

              藤原家隆(新古今集)

 

の歌を踏まえて、かつて多くの人が訪れた庵も今は朽ちて、額板が山吹の橋に流れ着いている、という意味か。

 

季語は「山吹」で春、植物、草類。「橋」は水辺。

二表

十九句目

 

   額板ひろふ山吹の橋

 信濃路やたたらの峡の春さえて  露沾

 (信濃路やたたらの峡の春さえて額板ひろふ山吹の橋)

 

 信州のどこということではないのだろう。山奥で製鉄業が営まれていそうな場所があれば、そこで山吹の咲いている橋もあっただろう。

 伊那谷に山吹というところがあり山吹陣屋があったが、たたらとは関係なさそうだ。

 

季語は「春」で春。「信濃路」は名所。「峡」は山類。

 

二十句目

 

   信濃路やたたらの峡の春さえて

 磬うつかたに鳥帰る道      沾徳

 (信濃路やたたらの峡の春さえて磬うつかたに鳥帰る道)

 

 「磬(けい)」は中国の楽器でへの字型の板をたたいて音を出すもので、大きさの違うものをたくさん並べて音階を出す。古くからある楽器で曽侯乙墓からも出土されている。

 日本ではウィキペディアによれば、

 

 「日本の仏教寺院では、法要の際の読経の合図に鳴らす仏具として「磬」が用いられる。古代中国の磬に似るが、材質は石でなく鋳銅製である。奈良時代から制作され、平安時代には密教で必須の仏具となり、その後他宗派でも用いるようになった。」

 

とある。日本では単体で単音で用いられる。

 山奥の谷のお寺の方へ夕暮れになると鳥が帰って行く。あえて鐘とはしなかった。

 沾徳はここにきて初登場になる。コトバンクの「日本大百科全書(ニッポニカ)の解説」に、

 

 「江戸中期の俳人。水間(みずま)氏。合歓堂(ごうかんどう)と号す。江戸で生まれ、同地に没。享年65歳。1678年(延宝6)18歳のおりの沾葉(せんよう)号での言水(ごんすい)編『江戸新道』入集が初見。内藤風虎(ふうこ)・露沾(ろせん)父子の寵愛(ちょうあい)を受けるが、1685年(貞享2)風虎没後、其角(きかく)に親炙(しんしゃ)し、洒落(しゃれ)風の俳諧(はいかい)を習得、享保(きょうほう)期(1716~36)江戸俳壇の中心的人物となる。沾徳が、芭蕉(ばしょう)から時鳥(ほととぎす)二句の評を請われ「物定(さだめ)のはかせ」となったエピソード(荊口宛(けいこうあて)芭蕉書簡)は有名である。1692年(元禄5)刊の『誹林一字幽蘭集(はいりんいちじゆうらんしゅう)』が処女撰集(せんしゅう)。ほかに『文蓬莱(ふみよもぎ)』『余花千句(よかせんく)』『橋南(はしみなみ)』『後余花千句(のちよかせんく)』などの編著がある。1718年(享保3)成立の『沾徳随筆』は、彼の俳諧観をうかがうのに欠かせない資料である。門人に沾洲(せんしゅう)がいる。

 うぐひすや朝日綱張(つなはる)壁の穴(橋南)

[復本一郎]」

 

とある。時鳥(ほととぎす)二句の評は許六の『俳諧問答』にもある。

 

無季。「鳥」は鳥類。

 

二十一句目

 

   磬うつかたに鳥帰る道

 楢の葉に我文集を書終り     芭蕉

 (楢の葉に我文集を書終り磬うつかたに鳥帰る道)

 

 『校本芭蕉全集 第三巻』の注に、

 

 「寒山が興に乗じて落葉に詩を録し、後人それによって寒山集を編んだという故事による。」

 

とある。この話は芥川龍之介の『芭蕉雑記』にも、

 

 「寒山は木の葉に詩を題した。が、その木の葉を集めることには余り熱心でもなかったやうである。芭蕉もやはり木の葉のやうに、一千余句の俳詣は流転に任せたのではなかったであらうか?少くとも芭蕉の心の奥にはいつもさう云ふ心もちの潜んでゐたのではなかったではないか?」

 

とある。なお『寒山子詩集』の序には「唯於竹木石壁書詩」とあるが「葉」とは書いていない。竹や木や石や壁に書いたものは普通に後に残せるが、葉だと押し葉標本のように乾燥させる必要がある。

 

無季。「我」は人倫。

 

二十二句目

 

   楢の葉に我文集を書終り

 弟にゆるす妻のさがつき     露荷

 (楢の葉に我文集を書終り弟にゆるす妻のさがつき)

 

 『校本芭蕉全集 第三巻』の注に「さがつき」は「さかづき」の誤りとある。杯は婚姻の三々九度の杯であろう。文集を編纂するときには弟に手伝わせて、終わったからいいよということか。

 なお、芭蕉の死の少し前の元禄七年六月二日寿貞尼が芭蕉庵で亡くなったのを京都落柿舎で聞いてひどく悲しんだことが知られているが、この寿貞と芭蕉との関係ははっきりとはしていない。一説に甥の桃印の妻だともいう。

 この露荷の句の弟を甥に変えると、何となく桃印と寿貞をネタにした楽屋落ちにも思えてくる。

 

無季。恋。「弟」「妻」は人倫。

 

二十三句目

 

   弟にゆるす妻のさがつき

 物かげは忍び安キに月晴て    沾荷

 (物かげは忍び安キに月晴て弟にゆるす妻のさがつき)

 

 これは兄弟での寝取られだろうか。月夜にこっそり通ってきて弟に寝取られてしまい、結局結婚を許す。

 

季語は「月」で秋、夜分、天象。

 

二十四句目

 

   物かげは忍び安キに月晴て

 琴を聞する夜のあさがほ     沾蓬

 (物かげは忍び安キに月晴て琴を聞する夜のあさがほ)

 

 これは『源氏物語』末摘花の七弦琴を聞きに行く場面か。

 

季語は「あさがほ」で秋、植物、草類。「夜」は夜分。

 

二十五句目

 

   琴を聞する夜のあさがほ

 馬を下リて野服をかいどる秋の露 露荷

 (馬を下リて野服をかいどる秋の露琴を聞する夜のあさがほ)

 

 「野服(のふく)」はコトバンクの「精選版 日本国語大辞典の解説」に、

 

 「〘名〙 遠出・旅行などの時に用いた衣服。野袴(のばかま)・打裂(ぶっさき)羽織など。やふく。

  ※俳諧・句餞別(1744)「琴を聞する夜のあさがほ〈沾蓬〉 馬を下りて野服をかいとる秋の露〈露荷〉」

  〘名〙 野人の着る服。野に出る時に着る衣服。野良着(のらぎ)。粗末な服。のふく。

  ※本朝麗藻(1010か)下・除名之後初復三品〈藤原有国〉「忽抛二野服一染二愁涙一、更着二朝衣一賁二老身一」 〔礼記‐郊特牲〕」

 

とある。「かいどる(搔い取る)」はweblio古語辞典の「学研全訳古語辞典」に、

 

 「着物の裾(すそ)などを手でつまんで持ち上げる。手でからげる。

  出典太平記 二一

  「小袖(こそで)の、しほしほとあるをかいどって」

  [訳] 小袖の、しっとりとぬれている裾を手でつまんで持ち上げて。◇「かいどっ」は促音便。◆「かきとる」のイ音便。「かい」は接頭語。」

 

とある。

 

 これは下ネタか。まあ、この頃「あさがお」という便器があったかどうかは知らないが。

 「枇杷五吟」の二十四句目にも、

 

   月の前痛む腹をば押さすり

 扨々野辺の露のいろいろ     魚素

 

の句がある。

 

季語は「秋の露」で秋、降物。「馬」は獣類。「野服」は衣裳。

 

二十六句目

 

   馬を下リて野服をかいどる秋の露

 九輪指さす尾上はるけき     露沾

 (馬を下リて野服をかいどる秋の露九輪指さす尾上はるけき)

 

 九輪は塔の上にある九つの輪っか。宝輪とも相輪ともいう。

 尾根の上の道を行くと視界が開け、お寺の塔の先が見える。

 

無季。「尾上」は山類。

 

二十七句目

 

   九輪指さす尾上はるけき

 風の音ならぶ蘇鉄のいかめしく  沾蓬

 (風の音ならぶ蘇鉄のいかめしく九輪指さす尾上はるけき)

 

 蘇鉄はお寺に植えられることが多い。何でも大阪の妙国寺の蘇鉄、静岡の能満寺の蘇鉄、同じく静岡の龍華寺の蘇鉄が蘇鉄の三名木だという。

 

無季。「蘇鉄」は植物、木類。

 

二十八句目

 

   風の音ならぶ蘇鉄のいかめしく

 大口着たる庭の雪掃       芭蕉

 (風の音ならぶ蘇鉄のいかめしく大口着たる庭の雪掃)

 

 「大口」は『校本芭蕉全集 第三巻』の注に「大口袴、寺侍などが穿く」とある。コトバンクの「デジタル大辞泉の解説」には、

 

 「裾の口が大きい下袴。平安時代以降、公家が束帯のとき、表袴(うえのはかま)の下に用いた。紅または白の生絹(すずし)・平絹(ひらぎぬ)・張り帛などで仕立ててある。鎌倉時代以後は、武士が直垂(ひたたれ)・狩衣(かりぎぬ)などの下に用いた。」

 

とある。束帯姿というと神社の神職の可能性もある。打越に九輪があるから神社に転じたのではないかと思う。

 

季語は「雪掃」で冬、降物。「大口」は衣裳。

 

二十九句目

 

   大口着たる庭の雪掃

 うへもなく鳩の群立千木さびて  露沾

 (うへもなく鳩の群立千木さびて大口着たる庭の雪掃)

 

 「大口」を神職の人としてそのまま神祇に展開する。鳩の沢山いる神社は屋根に糞がたまりそうだ。

 

無季。神祇。「鳩」は鳥類。

 

三十句目

 

   うへもなく鳩の群立千木さびて

 独簾を編くらす妻        沾荷

 (うへもなく鳩の群立千木さびて独簾を編くらす妻)

 

 仏者ではないから妻帯していてもおかしくない。神社で用いる御簾を妻が編んでいる。

 

無季。「妻」は人倫。

二裏

三十一句目

 

   独簾を編くらす妻

 一軸の形見の連歌膝に置     露荷

 (一軸の形見の連歌膝に置独簾を編くらす妻)

 

 一軸は巻子本(かんすぼん)の数え方で、いわゆる巻物。

 夫が残した形見の連歌の巻物一軸を大事にしながら簾(すだれ)を編んで暮らす。

 なお、中世には御簾師、近世には御簾編と呼ばれる専門の職人もいた。

 

無季。

 

三十二句目

 

   一軸の形見の連歌膝に置

 名を恥ぬべき越のたたかひ    露沾

 (一軸の形見の連歌膝に置名を恥ぬべき越のたたかひ)

 

 越後の国は『新撰菟玖波集』に玄澄法師の名で六句入集したという上杉房実(ふさざね)をはじめとして連歌の盛んな土地だった。

 

無季。

 

三十三句目

 

   名を恥ぬべき越のたたかひ

 面かけて鏡にむかふ男つき    沾蓬

 (面かけて鏡にむかふ男つき名を恥ぬべき越のたたかひ)

 

 『校本芭蕉全集 第三巻』の注は謡曲『実盛』とする。

 斉藤別当実盛はウィキペディアに、

 

 「保元の乱、平治の乱においては上洛し、義朝の忠実な部将として奮戦する。義朝が滅亡した後は、関東に無事に落ち延び、その後平氏に仕え、東国における歴戦の有力武将として重用される。そのため、治承4年(1180年)に義朝の子・源頼朝が挙兵しても平氏方にとどまり、平維盛の後見役として頼朝追討に出陣する。平氏軍は富士川の戦いにおいて頼朝に大敗を喫するが、これは実盛が東国武士の勇猛さを説いたところ維盛以下味方の武将が過剰な恐怖心を抱いてしまい、その結果水鳥の羽音を夜襲と勘違いしてしまったことによるという。

 寿永2年(1183年)、再び維盛らと木曾義仲追討のため北陸に出陣するが、加賀国の篠原の戦いで敗北。味方が総崩れとなる中、覚悟を決めた実盛は老齢の身を押して一歩も引かず奮戦し、ついに義仲の部将・手塚光盛によって討ち取られた。」

 

とある。この最後の姿は謡曲『実盛』にも描かれ、「唯一目見て、涙をはらはらと流いて、あなむざんやな、斎藤別当にて候ひけるぞや」というセリフは後に芭蕉が『奥の細道』の旅で、

 

 あなむざんやな甲の下のきりぎりす 芭蕉

 

の句に用いている。

 沾蓬の句では実盛を演じる役者の面を被る姿としている。

 

無季。

 

三十四句目

 

   面かけて鏡にむかふ男つき

 みはしをのぼるから獅子の声   沾荷

 (面かけて鏡にむかふ男つきみはしをのぼるから獅子の声)

 

 獅子舞神事であろう。獅子の面を被って舞いながら社殿の御階(みはし)を登り御神体の鏡に向かう。

 

無季。神祇。

 

三十五句目

 

   みはしをのぼるから獅子の声

 襁織ル花の錦のおさ打て     芭蕉

 (襁織ル花の錦のおさ打てみはしをのぼるから獅子の声)

 

 「襁(むつき)」はコトバンクの「精選版 日本国語大辞典の解説」に、

 

 「① 生まれたばかりの子どもに着せる衣。うぶぎ。〔十巻本和名抄(934頃)〕

  ※大慈恩寺三蔵法師伝承徳三年点(1099)九「覆護の重きこと、褓(ムツキ)に在りて先きとする所なり」

  ② 幼児の、大小便を取るために、腰から下に当てるもの。おむつ。おしめ。しめし。〔文明本節用集(室町中)〕

  ③ ふんどし。とうさぎ。

  ※源平盛衰記(14C前)一〇「木の皮をはねかづらとして額に巻き、赤裸にてむつきをかき」

 

とある。

 「襁褓(おしめ)」の「日本大百科全書(ニッポニカ)の解説」には、

 

 「おしめ、おむつともいう。襁はおびひもで、幅八寸(約24センチメートル)、長さ二尺(約60センチメートル)の絹織物でつくり、小児を背に約(やく)して負うもの、褓は小児の被衣のことで、転じて、幼少のときという意味もある。『和名抄(わみょうしょう)』(931~938ころ)、『紫式部日記』(1008~10)にすでにこの呼び名がみえる。『和漢三才図会』(1712)には「児の腰尻に当て、不浄の物を受ける小巾をさす」とあり、このころには、小児出生のとき、外祖母が襁褓を12枚贈る風習があったという。有職(ゆうそく)故実書の『貞丈雑記』(1763~84)には小児の衾(ふすま)(寝るとき、上にかぶせるもの)のことを称したとある。[岡野和子]」

 

とある。この句の場合も「花の錦」とあるから、絹織物の帯紐のことであろう。

 「おさ打(筬打:おさうち)」はコトバンクの「精選版 日本国語大辞典の解説」に、

 

 「〘名〙 織物を織るとき、杼(ひ)に通した緯(よこいと)をすでに織ってある経(たていと)に密着させるために、筬を打ちつける操作。」

 

とある。

 多分のこの筬打のカタカタいう音が獅子舞の歯をかみ合わせる音のようでお目出度く、花の錦が織り上がるたびに、あたかも獅子が出産を祝福しているようだ、という意味だろう。

 

季語は「花」で春、植物、木類。「襁」は衣裳。

 

挙句

 

   襁織ル花の錦のおさ打て

 柳の水のすみかへる春      執筆

 (襁織ル花の錦のおさ打て柳の水のすみかへる春)

 

 花の錦を織る機織りのむこうでは柳が芽吹き川の水は澄み切っている。

 前句の「花の錦」と柳は、

 

 見渡せば柳桜をこきまぜて

     都ぞ春の錦なりける

            素性法師(古今集)

 

の歌の縁による。

 

季語は「春」で春。「柳」も春で植物、木類。