「さみだれを」の巻、解説

元禄二年五月二十九日・三十日、出羽大石田一榮宅興行

初表

 さみだれをあつめてすずしもがみ川 芭蕉

    岸にほたるを繋ぐ舟杭     一榮

 瓜ばたけいさよふ空に影まちて   曾良

    里をむかひに桑のほそみち   川水

 うしのこにこころなぐさむゆふまぐれ  一榮

    水雲重しふところの吟     芭蕉

 

初裏

 侘笠をまくらに立てやまおろし    川水

    松むすびをく國のさかひめ   曾良

 永樂の古き寺領を戴て       芭蕉

    夢とあはする大鷹の紙     一榮

 たきものの名を暁とかこちたる    曾良

    つま紅粉うつる双六の石    川水

 巻あぐる簾にちごのはひ入て     一榮

    煩ふひとに告るあきかぜ    芭蕉

 水替る井手の月こそ哀なれ     川水

    きぬたうちとてえらび出さる   曾良

 花の後花を織らする花筵      一榮

    ねはむいとなむ山かげの塔  川水

 

 

二表

 穢多村はうきよの外の春富て    芭蕉

    かたながりする甲斐の一乱  曾良

 葎垣人も通らぬ関所        川水

    もの書たびに削るまつかぜ   一榮

 星祭る髪はしらがのかかるまで   曾良

    集に遊女の名をとむる月   芭蕉

 鹿笛にもらふもおかし塗あしだ   一榮

    柴売に出て家路わするる   川水

 ねぶた咲木陰を昼のかげろひに  芭蕉

    たっだえならす千日のかね   曾良

 古里の友かと跡をふりかへし    川水

    ことば論する舟の乗合    一榮

 

二裏

 雪みぞれ師走の市の名残とて   曾良

    煤掃の日を草庵の客     芭蕉

 無人を古き懐帋にかぞへられ    一榮

    やもめがらすのまよふ入逢   川水

 平包あすもこゆべき峯の花     芭蕉

    山田の種をいはふむらさめ  曾良

     参考;『校本 芭蕉全集 第四巻』1988、富士見書房
        『「奥の細道歌仙」評釈』大林信爾編、1996、沖積社

初表

発句

さみだれをあつめてすずしもがみがは 芭蕉ばせを

 

 興行こうぎょうの行なわれた出羽国でわのくに大石田おおいしだ一榮いちえい(高野平右衛門)邸は、今の山形県大石田町の大石田駅の南、西部街道の最上川に架かる橋のたもと付近にあったらしい。
 『奥の細道』の旅の途中、旧暦5月27日に山寺立石寺りっしゃくじを見たあと、翌日馬で天童へ向かい、そのあと大石田の一榮いちえい邸へと向い、未の中刻(午後4時ごろ)に到着した。
 翌28日。発句ほっく、脇、第三だいさん、四句目まで終ったところで、黒滝山向川寺こうせんじを参拝し、未の刻(午後3時から5時)に帰ってきて興行を再開する。興行は夜になって一度中断し、翌日に再開され、辰の刻(午前7時から9時)に終った。天気は曇りがちで夜に雨が降った。
 発句ほっくは最上川の畔にある一榮邸での発句ほっくということで、眼前がんぜん五月雨さみだれで増水した最上川のきょうで、その景色けしきが涼しげだと賞賛して、興行こうぎょう挨拶あいさつとしたものであろう。
 後に、

 五月雨さみだれをあつめてはや最上川もがみがは      芭蕉ばしょう

と改作し、『奥の細道』の中の一句として有名になった。

 

 「五月雨さみだれ」はなつ降物ふりもの。「最上川もがみがわ」は名所。水辺すいへん

脇句

    さみだれをあつめてすずしもがみがは
 きしにほたるをつな舟杭ふなぐひ     一榮いちゑい

 (さみだれをあつめてすずしもがみがはきしにほたるをつな舟杭ふなぐひ

 

 句は「きしにほたるを」のあと「見に、螢舟(螢見物用の舟)を」が省略され、「つな舟杭ふなぐひ」とつながる。螢という虫そのものをつなぐのではないのは言うまでもない。
 芭蕉ばしょうの最上川の景色けしきを一望する一榮邸への賛に対し、いやいや螢舟ほたるぶねつなぐためのくいにすぎませんよ、と謙遜けんそんして答える。芭蕉ばしょうを螢に例え、その見物用の舟を用意しているだけです、という意味か。
 同じ『奥の細道』の須賀川での興行こうぎょうの脇でも、

    隠家かくれがやめにたたぬはなのきくり
 まれほたるのとまる露草つゆくさ        栗斎りつさい

という句があり、芭蕉ばしょうを螢に例えるという発想が似ている。

 

 「ほたる」はなつ。虫類。夜分。夜分が出たところで必然的に月呼び出しとなる。月は朝の月昼の月を別にすれば夜分になるため、次につきを出さないと夜分三句去りで6句目までつきを出せなくなる。「岸」「舟杭」は水辺。

第三

    きしにほたるをつな舟杭ふなぐひ
 うりばたけいさよふそらかげまちて   曾良そら

うりばたけいさよふそらかげまちてきしにほたるをつな舟杭ふなぐひ

 

 「うり」は今日では胡瓜きゅうり西瓜すいか以外はほとんど食卓に上ることもなくなったが、かつてはなつのお盆(旧盆)の頃のもっともポピュラーな食べ物で、お盆のお供え物にも瓜が用いられた。
 『奥の細道』の旅でも、金沢の一笑の初盆の句として、

   ある草庵さうあんにいざなはれて
 秋涼あきすず手毎てごとにむけや瓜茄子うりなすび       芭蕉ばせを

の句を詠んでいる。
 ただ、「うり」自体は季語きごではなく、「うりはな」がなつ季語きごとなっている。
 句としては「いさよふそら」と十六夜いざよいつきを詠んでいて、あきとしてもよさそうなものだが、「瓜畑」は瓜の花の咲くのを本意ほいとするということで、ここではなつの句となる。
 十六夜のつきは暗くなってから出てくる。瓜畑は真っ暗になり、十六夜いざよいつきの影を待つ間、岸には螢が飛び交い、螢舟の準備をしている。

 

 「瓜ばたけ」はなつ植物うえもの(草類)。「いさよふ」は天象。夜分。

四句目

    うりばたけいさよふそらかげまちて
 さとをむかひにくはのほそみち   川水せんすゐ

うりばたけいさよふそらかげまちてさとをむかひにくはのほそみち)

 

 「瓜ばたけ」に「桑のほそみち」と対句っぽく取り合わせる付け方を「向え付け」古くは「相対付け」と呼ばれた。
 4句目は軽く流すということで、近景の瓜畑に遠景の桑畑をあしらう。
 さて、ここまで終ったところで、この四人は向川寺こうせんじ参拝に出かけ、続きはその夜ということになる。

 

 無季。「里」は居所きょしょ。「桑」は植物うえもの(木類)。

五句目

    さとをむかひにくはのほそみち
 うしのこにこころなぐさむゆふまぐれ  一榮いちゑい

(うしのこにこころなぐさむゆふまぐれさとをむかひにくはのほそみち)

 

 さて、夜になり、俳諧はいかい興行こうぎょうのほうも再開。
 昔は桑の葉を家畜の飼料にしたという。少なくとも「桑」と「牛」の縁は他に見当たらない。
 牛というと、当時は牧童の牽く牛の絵が好んで描かれた。雪舟の『牧牛図』は有名だが、「牧牛図」「牧童図」は画題としては定番だった。禅では牧童は修行者に、牛は心に例えられ、あらぶる牛を手名づける牧童に克己の心を重ね合わせて鑑賞した。
 夕間暮れというのは寂しいもので、桑畑の細道は人影もない。小さな牛であっても一緒に歩いてゆけば、心も静まる。それは「騎牛帰家」(http://www5.ocn.ne.jp/~mazuchk/06kigyukika.htmを参照)の心か。
 しかし、牛は子牛で、桑の葉をむしゃむしゃと食べ、文字通り道草を食っていたか。ここに俳諧はいかいがある。

 

 無季。「牛の子」は獣類。

六句目

    うしのこにこころなぐさむゆふまぐれ
 水雲すゐうんおもしふところのぎん     芭蕉ばせを

 

(うしのこにこころなぐさむゆふまぐれ水雲すゐうんおもしふところのぎん

 

 水雲はこの場合「もずく」のことではない。「雲水」と同様、雲や水のように流れさすらう者のことを言う。「片雲へんうんかぜにさそはれて」旅立った芭蕉ばしょうもまた雲水僧うんすいそうといえよう。
 前句を修行僧の視点で見て、乞食僧になりはて、故郷なき放浪の旅の苦しさを、しばし牛の子を見ては、十牛図の頌を口ずさみ、自らの煩悩を静めるか。

 

 無季。「旅」。「水雲」が雲そのものを指すのでないなら聳物そびきものとは言い難い。

初裏

七句目

    水雲すゐうんおもしふところのぎん
 侘笠わびがさをまくらにたててやまおろし    川水せんすゐ

 

侘笠わびがさをまくらにたててやまおろし水雲すゐうんおもしふところのぎん

 

 「水雲僧」に「侘び笠」とお約束の付け合い。

 いざここにこよひはさ旅衣たびごろも
    やまおろしきてそではさゆとも
                            西園寺実氏さいおんじさねうじ(『玉葉集ぎょくようしゅう』)

の歌もあるが、笠を立てて山おろしをしのぐというところに俳諧はいかいがある。

 

 無季。「旅」。「笠」は衣装。「枕」は夜分。第三だいさんの「いさよふ」から三句隔てている。

八句目

    侘笠わびがさをまくらにたててやまおろし
 まつむすびをくくにのさかひめ   曾良そら

 

侘笠わびがさをまくらにたててやまおろしまつむすびをくくにのさかひめ)

 

 『万葉集まんようしゅう』に、

   有間皇子ありまのみこ、みづからいたみて
   まつむすうた二首にしゅ

 岩代いはしろはままつ枝引えひむす
    まさきくあらばまたかへ
 いへにあればいひ草枕くさまくら
    たびにしあればしひる                     

という歌がある。
 これは辞世であり、もう二度と帰ってこないとわかっていても、和歌わかではしばしばこのような表現をする。の原因を大っぴらに言えない場合、特に刑によるの場合にたびという表現をとる。「柿本人麻呂かきのもとのひとまろ石見国いはみのくによりつまわかれてのぼきたりしときうた」も、おそらくこうしたものであろう。人麻呂は石見国高角山で死んだとされている。それを「上京」であるかのように言うこともあった。
 曾良そらの句がこうした重みを踏まえているかどうかは定かではない。もし踏まえていたなら、これはたびの句ではなく、離別の句として扱われるべきであろう。たびだとすると三句続いてむづかしいところだ。
 神道家の岩波庄右衛門のことだから、そこまで考えていたかもしれない。

 

 無季。「離別」。

九句目

    まつむすびをくくにのさかひめ
 永樂えいらくふる寺領じりゃういただきて       芭蕉ばせを

 

永樂えいらくふる寺領じりゃういただきまつむすびをくくにのさかひめ)

 

 みん永楽帝えいらくてい在位ざいいは1402年から1424年。日本ではほぼ足利義持あしかがよしもちの時代。能では世阿弥ぜあみの活躍した時代で、宗祇そうぎが生れたのもこの時代。韓国では朝鮮ちょそんの時代で、1418年には世宗せじょんが即位し、最盛期を迎える。
 日韓の国交も回復され、中国とは勘合貿易かんごうぼうえきが盛んに行われ、東アジアに強力な経済文化圏が生じた時代でもあった。まさに東アジア共同体の時代だった。そのため、永楽帝の時代の貨幣「永楽銭えいらくせん」は日本でも大量に流通することになる。
 永楽帝の古い時代から受け継がれてきた寺領のことだから、何かその境界に松を結んだりしてもおかしくない。そういう空想による付けで、別に史実があるというわけではないから、本説ではない。

 

 無季。「寺領」は釈教。

十句目

    永樂えいらくふる寺領じりゃういただき
 ゆめとあはする大鷹おほたかかみ     一榮いちゑい

 

永樂えいらくふる寺領じりゃういただきゆめとあはする大鷹おほたかかみ

 

 「大鷹の紙」は本当は「大高の紙」なのだろう。こうぞですいた和紙でちりめん状の皺を持つものを「檀紙だんし」といい、紙の大きさと皺の大きさによって大高おおだか、中高、小高とあった(参考http://dictionary.goo.ne.jp/leaf/jn/1236860-0000/m0o/:)。このような紙は江戸時代には所領の支配を認める書類などに用いられた(参考:http://www.hakubutu.wakayama-c.ed.jp/buke/colum.htm)。その「大高おおだか」と初夢に見たお目出度い「鷹」とを掛けて、これが初夢に見た「鷹」の正体かと喜ぶ。
 前句まへくの情を素直に受けての展開は、情を絶つ蕉門しょうもんの風というよりは、あくまで談林だんりん的なものなのだろう。一榮は大淀三千風おおよどみちかぜ俳諧はいかいを学んだという。

 

 無季。「ゆめ」に「あふ」と来れば恋呼び出し。

十一句目

    ゆめとあはする大鷹おほたかかみ
 たきもののあかつきとかこちたる    曾良そら

 

(たきもののあかつきとかこちたるゆめとあはする大鷹おほたかかみ

 

 前句まへくで「ゆめ」に「あふ」と来た以上、ここは期待を裏切らずにこいへと展開する。こういうふうに空気を読むのも連句では重要なこと。
 大鷹をあしらった懐紙に書かれた恋文は、「あかつき」という銘の薫物たきもので香りが付けてある。そのせいか、それにかこつけて、あかつきに見るゆめであの人に逢うことができたのだろう。

 

 無季。こい

十二句目

    たきもののあかつきとかこちたる
 つま紅粉べにうつる双六すごろくいし    川水せんすゐ

 

(たきもののあかつきとかこちたるつま紅粉べにうつる双六すごろくいし

 

 世が明けるまで「あかつき」という銘の薫物たきものをした女性と過ごしたというものの、夜通し双六すごろくをしていただけという落ち。遊郭の情景か賭場の女か。
 双六すごろくは今でいうバックギャモンのことで、このゲームは古代に世界的大流行し、日本でも平安時代には国民的なゲームとなり、賭け事にも多く用いられた。『鳥獣人物戯画』甲巻にもゲームボードを担いだ猿の姿が描かれている。

 

 無季。「つま紅粉べにうつる」はこい

十三句目

    つま紅粉べにうつる双六すごろくいし
 まきあぐるすだれにちごのはひいりて     一榮いちゑい

 

まきあぐるすだれにちごのはひいりてつま紅粉べにうつる双六すごろくいし

 

 稚児は少年の修行僧で、髪を生やし、女装する場合もあった。双六すごろくいしに残るマニキュアの主は、実は稚児だった。
 ここで、何だ男だったのか、という落ちになるのか、それとも稚児といえばそっちの趣味?

 

 無季。「簾」は居所。「稚児」は人倫。

十四句目

    まきあぐるすだれにちごのはひいり
 わづらふひとにつぐるあきかぜ    芭蕉ばせを

 

まきあぐるすだれにちごのはひいりわづらふひとにつぐるあきかぜ)

 

 稚児ネタは芭蕉ばしょうの得意とするところだが、ここでこいに逆戻りはできない。別の展開を考えなくてはならない。
 すだれの向こうに臥せっているのは、年取ったお坊さんか。稚児が看病しようと簾を巻き上げると、そこに秋風が吹いてくる。それがあたかも死期の近いのを告げているかのようだ。

 

 「あきかぜ」は秋。そして、定座じょうざの位置からすればこれがつき呼び出しになる。「ひと」は人倫。

十五句目

    わづらふひとにつぐるあきかぜ
 水替みづかは井手ゐでつきこそあはれなれ     川水せんすゐ

 

水替みづかは井手ゐでつきこそあはれなれわづらふひとにつぐるあきかぜ)

 

 今の京都府綴喜郡井手町を流れる玉川は、かつて「井手の玉水」と呼ばれ、山吹の名所だった。
 「水替る」というのは、水流が変わったということではなく、春夏秋と季節の変化とともに流れる水も冷たくなったという意味だろう。
 かつて山吹が咲き乱れ、蛙が鳴いていた温かな水も、今は秋となりつきを宿すのみ。時の流れを感じさせる。
 こうした時の流れの無常の中で、人も年老い、やがて病に臥せり、秋風を聞く。

 

 「つき」はあき。夜分。天象。「水替みづかは井手ゐで」は水辺。名所。

十六句目

    水替みづかは井手ゐでつきこそあはれなれ
 きぬたうちとてえらびいださる   曾良そら

 

水替みづかは井手ゐでつきこそあはれなれきぬたうちとてえらびいださる)

 

 さて、あきは三句続けなくてはならない。そのうえ、次ははな定座じょうざ。なかなか難しい位置ではある。
 きぬたはかつて麻などの硬くて粗い繊維でできた衣は、洗濯するたびに硬くなるため、それを柔らかくするために槌でトントンと叩く作業で、昔は庶民の女性の仕事とされていた。李白が『子夜呉歌』で、長安の夜に響き渡る出征兵士の帰りを待つ妻の悲痛な情を詠んだところから、砧もまた秋の夜の季語きごとなる。日本では、

 からごろもつこゑきけばつききよみ
    まだねぬひとそらにしるかな
                             紀貫之きのつらゆき
 み吉野よしのやま秋風あきかぜふけて
    古里寒ふるさとさむ衣打ころもうつなり                  藤原雅経ふじわらのまさつね

などの歌がある。
 ところで、「きぬたうちとてえらびいださる」とはどういう意味だろうか。名月の宴の余興で、砧の音を聞こうとい趣向でもあったか。「水替る」をどこかから連れてこられて、水が変わったという意味に取り成したか。
 やや苦しい展開ではあるが、次がはな定座じょうざであることを考えると、砧打つ音ではなく、「きぬたうち」に選ばれるという間接的表現で何とか春の句と違和感なくつながるように工夫した、その機転は尊重されるべきであろう。

 

 「きぬた」はあき

十七句目

    きぬたうちとてえらびいださる
 はなのちはならする花筵はなむしろ      一榮いちゑい

 

はなのちはならする花筵はなむしろきぬたうちとてえらびいださる)

 

 きぬたからはなへの展開は、やはり難しい。とりあえず、砧から衣の縁で「布を織る」「花筵はなむしろ」という連想で解決しようとしたようだ。言葉の連想で付けるのは、物付けの基本で、談林だんりん流といえよう。
 「花筵はなむしろ」はここでは、花びらの一面に散ったさまをいうのではなく、「花茣蓙はなござ」のことであろう。イグサで簡単な模様(花模様というわけではない)を織り込んだ茣蓙ござをいう。
 「きぬたうち」とはいっても、そういう専門の職人がいるわけでもなく、普通の庶民の女だから、こうした人たちが副業で花茣蓙はなござを織っていてもおかしくない。
 花が散ってしまったあとでも花筵はなむしろを織る女たちは、砧打ちとしても選ばれている。苦しい展開だが、歌仙かせんの場合、初裏でつきはな定座じょうざが接近しがちであるため、こうして苦しい展開になることが多い。そこをどう乗り切るかも俳諧師はいかいしの腕ということになる。

 

 「はな」ははる植物うえもの

十八句目

    はなのちはならする花筵はなむしろ
 ねはむいとなむやまかげのたう  川水せんすゐ

 

はなのちはならする花筵はなむしろねはむいとなむやまかげのたう

 

 「涅槃」はニルヴァーナのことで、煩悩滅却した境地を言うのだが、実際にはお釈迦様の死を美化した言い方として用いられてきた。多くの弟子たちだけでなく森の動物までもが集ってきて、安らかに眠るお釈迦様の周りを取り囲む『釈迦涅槃図』は、数多く描かれている。
 ここで「ねはむいとなむ」というのは、釈迦入滅の日とされる旧暦2月15日に行なわれる法会ほうえ涅槃会ねはんえのことで、それゆえはる季題きだいとなる。
 涅槃会には人が集るから、お堂に花筵はなむしろを敷いて、参列者を迎えたと読むこともできるが、山奥の寺であれば、折から山桜も散ろうとしていて、境内は天然の花筵はなむしろだったと見てもいいだろう。

 

 「ねはん」ははる。釈教。「やまかげ」は山類。

名表

十九句目

    ねはむいとなむやまかげのたう
 穢多村ゑたむらはうきよのほか春富はるとみて    芭蕉ばせを

 

穢多村ゑたむらはうきよのほか春富はるとみてねはむいとなむやまかげのたう

 

 穢多えたというと、かつての貧農史観ひんのうしかん影響えいきょうのせいで、一般の農民も貧しかったのだから、その下の身分の人たちはもっと貧しかったに違いないという偏見の目でもって見られることが多かった。
 こうした観点からこの句を読むと、穢多えたが経済的に裕福なはずはない、これはあくまで精神的な豊かさを言っているのだろう、という解釈になる。これは偏見である。
 実際の穢多えたは農地を所有し、中には豊かな村もあった。
 江戸時代には一般の寺と区別して穢多寺(浄土真宗の寺が多いというが、必ずしも浄土真宗とは限らない)がこうした被差別民に押し付けられていった。裕福な穢多が立派な仏舎利の立つお寺で、涅槃会を営むこともあったのだろう。
 ただ、自らの差別の理由となっている宗教で、今度は穢多に生れないことを祈るというのは、何か変な感じがする。この種の問題はまだまだ多くの闇に包まれているのだろう。

 

 「はる」ははる。「穢多村ゑたむら」は居所。

二十句目

    穢多村ゑたむらはうきよのほか春富はるとみ
 かたながりする甲斐かひ一乱いちらん  曾良そら

 

穢多村ゑたむらはうきよのほか春富はるとみてかたながりする甲斐かひ一乱いちらん

 

 一説には穢多えたは単に動物関係の職業に付くだけではなく、警察に近い役割を持っていたとも言う。
 戦国時代に穢多えたが栄えたのは、もちろん武具などに動物の皮などが多用されているせいもあるが、一般人と異なる立場にいる穢多えたの人たちが、一般人を監視する役割を担ったことも十分考えられる。
 反乱があれば、それを鎮圧するために刀狩が行なわれる。案外それを実際に行ったのは穢多村ゑたむらの人たちだったのかもしれない。

 

 無季。

二十一句目

    かたながりする甲斐かひ一乱いちらん
 葎垣むぐらがきひととほらぬ関所せきどころ        川水せんすゐ

 

葎垣むぐらがきひととほらぬ関所せきどころかたながりする甲斐かひ一乱いちらん

 

 「乱世」と「関」は付け合い。これは、

 ひとすまぬふはの関屋せきやのいたびさし
   あれにしあとはただあきかぜ
                   藤原良経ふじわらのよしつね

のイメージで、中世や近世の人にとっては保元ほうげんの乱以降が乱世と認識されていた。乱世は特に戦国時代を指すわけではない。
 前句まえく甲斐かひ一乱いちらんは別に特定の史実を指すわけではないだろう。ただ、「乱」という漠然としたイメージから、不破の関のような荒れ果てた関所という連想で、軽く流した句と見ていいのではないかと思う。
 「むぐら」はよもぎと同様、夏草の茂るにまかせる荒れ果てたイメージがある。

 

 「むぐら」はなつ。草類。「ひと」は人倫。

二十二句目

    葎垣むぐらがきひととほらぬ関所せきどころ
 ものかくたびにけづるまつかぜ   一榮いちゑい

 

葎垣むぐらがきひととほらぬ関所せきどころものかくたびにけづるまつかぜ)

 

 八重葎やえむぐらの茂る荒れた庵に隠棲している人であれば、ものを書くにも紙はなく、松の木を削ってそこに書き付けているという意味か。
 曾良そらの『俳諧はいかい書留かきとめ』には、最初「木」と書いたあと、「かぜ」に直してあって、原案が「削る松の木」だったことがわかっている。

 

 無季。「松風」は木類。

二十三句目

    ものかくたびにけづるまつかぜ
 星祭ほしまつかみはしらがのかかるまで   曾良そら

 

星祭ほしまつかみはしらがのかかるまでものかくたびにけづるまつかぜ)

 

 前句まえくの「削る」を髪を櫛でかすという意味の「けづる」に取り成す。
 この句は謡曲『関寺小町せきでらこまち』の本説ほんぜつによる付け。
 関寺せきでらのお坊さんが星祭ほしまつり(七夕祭たなばたまつり)を行なう際、山陰の庵に隠棲する歌道を極めた称する老女の話を聞こうと尋ねてゆく。そこで和歌の素晴らしさを説くのを聞くことになり、やがて、その老女が小野小町おののこまちだと知る。
 星祭をすれば、すっかり白髪になるまで歌を詠み、歌を書き記すたびに悲しげな松風が髪をかしてゆく。

 

 「星祭ほしまつる」はあき。夜分だから月呼び出しになる。

二十四句目

    星祭ほしまつかみはしらがのかかるまで
 しふ遊女いうぢょをとむるつき   芭蕉ばせを

 

星祭ほしまつかみはしらがのかかるまでしふ遊女いうぢょをとむるつき

 

 勅撰集に遊女の名を残すと言うと、西行と歌を交わした江口の君が有名だが、ここはそれではなく、『後撰集ごせんしゅう』に登場する檜垣ひがきおうなであろう。

 としふればわが黒髪くろかみ白川しらかは
    みづはくむまでいにけるかな
                檜垣ひがきおうな

星祭ほしまつり七夕たなばた)の夜は7日のつきふねのようにそらに浮かぶ。

 

 「つき」はあき。夜分。天象。「遊女」は人倫。

二十五句目

    しふ遊女いうぢょをとむるつき
 鹿笛しかぶえにもらふもおかしぬりあしだ   一榮いちゑい

 

鹿笛しかぶえにもらふもおかしぬりあしだしふ遊女いうぢょをとむるつき

 

 句の意味は『徒然草つれづれぐさ』第九段の、色欲を戒めるというつまらない話の中に出てくる「されば、女の髪すぢをよれる綱には、大象もよく繋がれ、女のはける足駄にて作れる笛には、秋の鹿必ず寄るとぞ言ひ伝へ侍る。」による。
 「塗り足駄」というのは、女性用の漆塗りの黒い下駄のことで、これで鹿笛(鹿狩り用の、雌の発情の声を真似て牡鹿を呼び寄せるための笛)を作るというのは、考えようによっては結構シュールだ。多分下駄をプレゼントされた時に、これで笛を作ると男が寄ってくるよ、なんて言われたのだろう。
 前句まえくで遊女とあるから、遊女が誰かから下駄をプレゼントされたのだろうけど、それと「集」とのかんけいはよくわからないし、何か、前句まえくとのかかわりが薄く、これだけで独立したネタになっている。

 

 「鹿笛」はあきこい。「ぬりあしだ」は衣装。

二十六句目

    鹿笛しかぶえにもらふもおかしぬりあしだ
 柴売しばうり家路いへぢわするる   川水せんすゐ

 

鹿笛しかぶえにもらふもおかしぬりあしだ柴売しばうり家路いへぢわするる)

 

 「鹿笛」=猟師、その副業の柴売りという連想だろう。柴を売って鹿笛を買うはずだったのが、町でしこたま酒を飲んですっかり酔っぱらってしまい、なぜか手には女物の塗り下駄が。

 

 無季。

二十七句目

    柴売しばうり家路いへぢわするる
 ねぶたさく木陰こかげひるのかげろひに  芭蕉ばしょう

 

(ねぶたさく木陰こかげひるのかげろひに柴売しばうり家路いへぢわするる)

 

 「ねぶた」は合歓ねむはなこと。「かげろひ」は影が動くということだが「かげ」に光と影という相反する意味がある。ここでは影が動くという意味。
 合歓の木の木陰で休んでいると、そのはなの影がゆらゆらとして、まるで催眠術のように眠りに誘われていったのだろう。すっかり家に帰るのを忘れてしまったという前句まえくがここで生きてくる。
 「ねぶた=ねむた」のような「B」と「M」の交替は多くの例がある。「けむる=けぶる」「とむらう=とぶらう」「すさみ=すさび」など。

 

 「ねぶた咲く」はなつ。木類。

二十八句目

    ねぶたさく木陰こかげひるのかげろひに
 たえだえならす千日せんにちのかね   曾良そら

 

(ねぶたさく木陰こかげひるのかげろひにたえだえならす千日せんにちのかね)

 

 「千日のかね」は千日講の鐘のことか。千日講は千日の間法華経を読む法会で、本当に千日やるのかどうかはよくわからないが、普通の人なら半日でも眠くなりそうだ。

 

 無季。「千日のかね」は釈教。

二十九句目

    たえだえならす千日せんにちのかね
 古里ふるさとともかとあとをふりかへし    川水せんすゐ

 

古里ふるさとともかとあとをふりかへしたえだえならす千日せんにちのかね)

 

 前句まえくの千日を、神社の千日参りとして、その雑踏の中に昔の友の姿を見つけたというふうに展開する。
 千日参りは一回で神社に千日お参りしたのと同じ功徳があるという大変お得なお参りで、多くの参拝者を集めた。
 「ふりかえし」は「ふりかえり」のこと。「り」と「し」の交替は現代の口語でもしばしば見られる。「やっぱり=やっぱし」「ばっちり=ばっちし」など。

 

 無季。「友」は人倫。

三十句目

    古里ふるさとともかとあとをふりかへし
 ことばろんするふね乗合のりあひ    一榮いちゑい

 

古里ふるさとともかとあとをふりかへしことばろんするふね乗合のりあひ

 

 渡し舟や乗合船は乗せることのできる総重量が限られていて、人やら荷物やら馬やらが一緒くたに乗ると、どれを優先的に運ぶか口論になったりする。『西行物語』の、西行法師が天竜川の渡し舟に乗ろうとしたとき、武士の一団が乗り込んできて船の喫水がかなり深くなったため、あの法師おりよおりよ、と武士たちが騒ぎ出し、よくあることだと思ってしかとしてたら、いきなり鞭で叩かれて血だらけになって船を下りたというエピソード(本当かどうかは知らない)もある。
 声を荒げてまくし立てている声を聞いていると、どこかで聞いたような声、何だ○○ではないか。ひさしぶりだなあ、というところか。

 

 無季。「舟」は水辺。 

名裏

三十一句目

    ことばろんするふね乗合のりあひ
 ゆきみぞれ師走しはすいち名残なごりとて   曾良そら

 

ゆきみぞれ師走しはすいち名残なごりとてことばろんするふね乗合のりあひ

 

 前句まえくの船を渡し舟ではなく廻船かいせんとして、口論する声を市場の喧騒とした。
 市場が一番忙しくなる、師走も暮れの押し迫った頃、この頃には雪やみぞれが降ったりもする。ただ、積もっても人の往来が激しく、すぐに消えてゆく。まさに、

 下京しもぎゃうゆきつむうえのよるのあめ    凡兆ぼんてう

だ。聞こえてくる口論の声も街に活気のある印。

 

 「師走」は冬。「ゆき」「みぞれ」も冬。降物ふりもの

三十二句目

    ゆきみぞれ師走しはすいち名残なごりとて
 煤掃すすはき草庵さうあんきゃく     芭蕉ばせを

 

ゆきみぞれ師走しはすいち名残なごりとて煤掃すすはき草庵さうあんきゃく

 

 昔は家の中の物も少なく、大掃除といってもはたき掛けが主だった。そんなに重労働でもなく、むしろ一年の打ち上げのお祭りのようなものと言った方がいいのかもしれない。それも人がたくさんいる商家などの話。
 草庵の一人暮らしの者にとって、煤払いも一人淋しく行なわなくてはならない。そんなときにお客さんが来てくれれば、それはそれは嬉しいもの。どうせ小さな草庵のこと、掃除はあっという間に終って、あとは酒でも、ということになりそうだ。

 

 「煤掃すすはき」は冬。「草庵そうあん」は居所。「きゃく」は人倫。

三十三句目

    煤掃すすはき草庵さうあんきゃく
 無人なきひとふる懐帋くゎいしにかぞへられ    一榮いちゑい

 

無人なきひとふる懐帋くゎいしにかぞへられ煤掃すすはき草庵さうあんきゃく

 

 煤払いの時に古いメモ紙(懐紙)を整理していると、そこに死んだ人の名前を見つけ、ついつい懐かしく、その人のことを思い出す。それを「客」とした。
 「懐紙」は連句を記す紙のこともいうので、それは俳諧はいかいの友だったのかもしれない。

 大掃除をしていると昔懐かしいものが出てきて、ついつい手を止めてしまうのはよくあること。

 

 無季。

三十四句目

    無人なきひとふる懐帋くゎいしにかぞへられ
 やもめがらすのまよふ入逢いりあひ   川水せんすゐ

 

無人なきひとふる懐帋くゎいしにかぞへられやもめがらすのまよふ入逢いりあひ

 

 「やもめがらす」は「病眼鴉」と書く。「寡婦鴉」ではない。眼を病み、昼夜の区別が付かずに夜中に鳴くカラスをいう。
 ただ、この句の場合、曾良そらの『俳諧はいかい書留かきとめ』に「やまめがらす」とあり、「やまめ(寡婦)」のことと思われる。あるいは両者に混同があったか。
 故人をメモ書きに数えられて、そこから夫を失った寡婦を連想し、夜鳴くやもめ烏のように悲しげに泣きながら途方に暮れる姿を、夕暮れの入相いりあいの鐘に鳴く鴉に重ね合わせたのであろう。
 帰るねぐらのないカラスということなのだろうか。

 

 無季。「からす」は鳥類。

三十五句目

    やもめがらすのまよふ入逢いりあひ
 平包ひらづつみあすもこゆべきみねはな     芭蕉ばせを

 

平包ひらづつみあすもこゆべきみねはなやもめがらすのまよふ入逢いりあひ

 

 「やもめがらす」を男やもめの方として、妻を失い出家した旅の僧侶としたか。僧は黒づくめなので「からす」に例えられる。
 簡単な風呂敷包み一つで、山桜の咲く峯を越えてゆく。行き先は吉野か高野山か。

 

 「はな」ははる植物うえもの。「みね」は山類。

挙句

    平包ひらづつみあすもこゆべきみねはな
 山田やまだたねをいはふむらさめ  曾良そら

 

平包ひらづつみあすもこゆべきみねはな山田やまだたねをいはふむらさめ)

 

 山桜の咲く頃、峯を越す道であればそこには山田があり、苗代には種蒔きも行なわれている。
 しかし、これは単なる景色けしきの句ではない。平包ひらづつみを持って峯を越えてゆく旅人たびびと芭蕉ばしょうのことであり、大石田という田んぼに俳諧はいかいの種は蒔かれて、それを祝福するかのようにあめが降る。この興行が終る頃、折から雨が降り出したのだろうか。曾良そらの『旅日記』には「夜ニ入小雨ス」とある。

 

 「山田の種」は「種蒔き」のことではる。「山田」は山類。「むらさめ」は降物ふりもの。