街道を行く

東海道編②

2017年1月3日

 もうすっかり毎年一月三日恒例行事となってしまったが、今年も街道を行く東海道編の続きで静岡からスタート。 

 さすがに在来線で行くと三時間以上かかるので、新横浜から新幹線で行った。朝の新幹線はがらがらで富士山を見ながら八時五分に静岡に着いた。 

 まず前回の終点となった江川町の交差点へ行き、そこから江川町通りを行き呉服町で右に曲がる。呉服町通りは商店街で、真っ赤な鯛の描かれた行灯が並んでいる。 

 伊勢丹の手前を左に曲がり、七間町の交差点を越えて次を右に曲がり、教会の所を左に曲がる。ときわ通りを越えた先の広い通りに出るところで、右側に階段を上ってはいる神社がある。秋葉神社だ。一階はガレージになっているのか貸し店舗なのか、シャッターが閉まっている。 

 その先の団地の裏に駿河伏見稲荷がある。秋葉神社もそうだったが、狛犬もお狐さんもいない。 

 更に行くとまた広い通りがあり、その角に交番がある。交番の前に説明板が立っていて、「安倍川の川会所跡」と書いてある。その先は公園になっていて、大きな由井正雪墓址碑が立っている。 

 由井正雪は由比で買った地酒の名前にもなっていたが、由比の出身で父親は豊臣秀吉(とよとみのひでよし)や石田三成との縁があったらしい。慶安四年(一六五一)に当時の減封・改易によって生じた牢人たちを集めて江戸城を焼き討ちし、自らは京都で決起して天皇を担ぎ上げて政権を奪取する予定だったが、計画は事前に発覚し、正雪は駿府宿(静岡)で捕り方に囲まれ自決したという。 


 延宝六年(一六七八)の芭蕉と杉風との両吟ではこのことをネタにした杉風の句がある。 

 

   よしなき    千万 

 夢なれや    夢なれや  杉風 

 

 伏字で何のことかわからないが、本来は、 

 

   よしなき謀反笑止千万 

 夢なれや由比正雪夢なれや  杉風 

 

だったという。これに芭蕉は、 

 

   夢なれや由比正雪夢なれや 

 さてさて荒(あれ)し軒の宿札 芭蕉 

 

と付けている。駿府宿で果てたということは江戸庶民もみんな知っていたことだったのだろう。 

 この公園の先で県道と合流し、目の前に安倍川にかかる橋が見えてくる。橋の手前には安倍川餅を売る店が並んでいる。安倍川餅を知らない人はいないが、静岡の安倍川が由来だということはあまり知られてないのか、このあたりに人の気配もない。 

 安倍川橋は緑色のトラス橋で、眺めが良く、ここに来てようやく富士山が見える。ただ、トラスに重なって良く見えない。川には白鷺が佇む。今年は酉年で縁起がいい。 

 川を渡ると「千手の里、手越」の案内板がある。 

 千手というと千手観音のことかと思ったが、『平家物語』や謡曲『千手』に登場する千手の前のことらしい。「駿河国手越長者の娘」だというが、詳しくはウィキペディアで。

 街道を右に入ったところに少将井神社があった。建久四年(一一九三)の創建と言われている。巨大な楠木があり、左側に千手の前の像がある。 

 古代東海道もおそらくこの手越を通っていたのだろう。古代東海道は清見寺のあたりから今の新幹線に沿って、東静岡駅裏の前回行った曲金北遺跡の幅十二メートルの道路遺構を通って、静岡駅付近の葵区横田町のあたりにあったとされる国府と横田駅を通り、その延長で今の安倍川橋のあたりで安倍川を渡ったと思われる。ただ、近世東海道と違うのは、ここから南に方向を変えて日本坂峠を越え、焼津駅のあたりから南西へ行き、西に進路を変え、島田市南部、大井川の南側を通って小夜の中山へ向かったと思われる。


 ただ、一方で近世の東海道に近い宇津ノ谷(うつのや)を越えて岡部・藤枝に出る蔦の細道のルートも伝路として利用され、平安時代にはこちらの方が主流になっていたようだ。「細道」というのは駅路の太い道に対しての言葉だったか。ただ、何で日本坂ルートから蔦の細道ルートに変更されたのかはよくわかっていない。 

 手越しから先はいかにも旧街道らしい道で、一度手越原交差点で国道1号線に合流するが、佐渡(さわたり)の信号から左の旧道に入る。このあたりから丸子(まりこ)宿に入る。入ってすぐに佐渡の子授地蔵尊のお堂がある。そこから先しばらくは道も広く店も多く賑やかな道が続くが、長田西小の先で広い道は右に曲がって1号線につながり、直進すると旧街道らしい静かな道に戻る。 

 左上の山の上に鳥居が見える。さすがにあそこまで登るのはきついなとおもっていたら、街道沿いに水神社があった。あの鳥居はその奥の院か。ならここで参拝すればいいだろう。 

 水神社の前に丸子宿の説明板があった。その中に、「丸子という里、家五、六十軒、京鎌倉の旅宿なるべし」という連歌師宗長の言葉が記されている。宗長は静岡県島田市の鍛冶屋の家に生まれ、出家して僧となり、やがて宗祇法師にその才能を見出されて連歌師となった。丸子の泉谷に柴屋軒という草庵を結び、柴屋軒宗長と呼ばれるようになった。現在は吐月峰柴屋寺になっているという。先に知っていれば寄ってもよかったが、正直宗長法師のことはすっかり忘れていた。 

 水神社から少し行くと、丸子宿本陣跡があり、その先右側に丁子屋がある。丁子というのはクローブのことだ。慶長元年創業で元禄四年に芭蕉が、

 

   餞乙州東武行 

 梅若菜丸子の宿のとろろ汁   芭蕉 

 

と詠んだことでも知られている。ただ、この句は丸子宿で詠んだものではない。前書きにあるように、近江の国の大津で乙州(おとくに)が江戸に向かう際に餞(はなむけ)の句として詠んだものだ。これから東海道を登るなら、丸子の宿のとろろ汁がおすすめだよ、というような意味か。伊賀藤堂藩の料理人も勤めたグルメで知られる芭蕉のおすすめだから確かだろう。乙州は、 

 

   梅若菜丸子の宿のとろろ汁 

 笠新しき春の曙       乙州 

 

 

と答える。 

 このおすすめのとろろ汁が丁子屋だったかどうかはわからないが、当時から創業していた店が今も残っているというのは凄いことだ。丁子屋のホームページによると、「明治・大正時代の宿場は、鉄道開通の影響で街道としての機能はほとんどなくしてしまったようです。丁子屋も当時は『きたない店で、とても東京の旦那方のお口に合いません』と記されたほどでした。」とある。おそらくその頃には他のとろろ汁の店は廃業してしまっていたのだろう。 


 昭和四十五年に安藤広重の浮世絵を再現すべく茅葺の古民家を移築して今の姿になり、いまや有名店となり大きな駐車場を完備している。残念ながら開店までまだ一時間もあるので、ここは素通りするしかない。

 柴屋軒のことを思い出してたならたら、そこへ行って戻ってくればちょうど良かったかもしれない。そういえば中野ブロードウェイに丸子のとろろ汁の店があったから、今度そこへ行こうかな。

 丁子屋を過ぎて丸子橋を渡ると丸子宿御高札場の高札が並んでいる。そこから少し行くとラブホが並んでいる。これが現代の宿場? 

 二軒屋の交差点で国道1号線に出るが、まだ渡らずに平行した道を行く。 

 しばらく行くと起樹天満宮がある。境内には紅茶発祥の地と書いた札があり紅茶の栽培を始めた多田元吉の碑がある。 

 この先でまた1号線に合流する。今度は歩道橋を渡って反対側へ行く。丸子川に沿った旧道に入る。旧道は一度また1号線に合流し、また右側へ旧道に入る。1号線に戻り、その先の歩道橋を渡ると道の駅宇津ノ谷に出る。

 宇津ノ谷は昔は宇津の山とも言われ、かつては伝路があり、山越えの細い道は『伊勢物語』にも描かれ、そこから「蔦の細道」と呼ばれるようになった。中世の蔦の細道はここから左の山道に入るが、今回は近世東海道がテーマなので蔦の細道はまたいつか来た時にでも通ってみたいものだ。

 『宗長日記』(島津忠夫校注、一九七五、岩波文庫)の大永四年(一五二六)の六月十六日のところに「府中、境(おり)ふし夕立して宇津の山に雨やどり。此茶屋むかしよりの名物十(とを)だんごといふ、一杓子に十づつ、かならずめらうなどにすくはせ興じて、夜に入て着府。」とある。蔦の細道の入口がここにあるので、宗長の時代ですら「むかし」からある茶屋というのはこの辺だったのだろうか。 

 十団子というと、芭蕉の弟子の許六の、 

 

 十団子も小粒になりぬ秋の風  許六 

 

の句がある。秋風の吹く頃になると収穫直前で米が不足し米価が上がる所から十団子も小粒になるという、東海道を何度も行き来した人にはわかるあるあるネタだったのだろう。十団子が地蔵信仰と結び付けられ、鬼退治の伝説を生んだのは、多分芭蕉よりも後の時代だろう。峠の地蔵堂は十八世紀半ばに建てられているし、岡部側にある坂下地蔵堂も元禄十三年(一七〇〇)に建てられたものだ。 

 ここで分岐する県道208号線に入り、立体交差する1号線を渡ると、やがて「ようこそ、宇津ノ谷へ」と書いた大きな看板があり、左へ分岐する道がある。綺麗な真新しい石畳で、最近になって観光整備されたのだろう。宿場町のように作られているが、家の木の外装が新しい。 

 この集落を抜けると、山道に入る。右左に曲がりながら登ってゆくと途中に雁山の墓というのがあった。山口素道の弟子の俳諧師だったようだが、事前にネットで調べたがほとんど何もわからなかった。静岡のローカルな俳諧師だったのだろう。この墓は本当に死んだのではなく音信普通になったので死んだと思われて作られたものらしい。その先の説明板によると、土砂崩れがあってこの辺の地形は江戸時代とかなり変わっていて、今の道は江戸時代の道ではないようだ。 

 右側に石垣が見える。その上に地蔵堂があったと言うが、先にも書いたように地蔵堂ができたのが十八世紀の中頃だから、芭蕉の時代にはなかったようだ。

 地蔵堂のすぐ先で道は下り坂になる。右側の木に「宇津ノ谷峠」という札が下がっている。峠道は案外短かった。箱根や足柄を越えてきたものとしては、えっもう終わりという感じだ。標高一七〇メートルだからこんなものか。日本坂峠が標高三〇二メートルだから、こっちの方が楽だということで主流になったのか。


 下ってゆくとすぐに舗装道路に出る。トンネル排気口の作業道路だという。この道を更に下ってゆく。少し行くとまた山道に入り、ここを下ると下に広場のようなものが見える。蔦の細道公園らしい。その先にお堂がある。元禄十三年に建てられた坂下地蔵堂だ。これも芭蕉の時代にはなかった。 

 1号線に合流し、岡部側の道の駅宇津ノ谷の先で歩道橋を渡り、右側の県道208号線に入る。旧街道とはいえ、1号線に近く交通の便が良いせいか、工場や倉庫の建物が多い。 

 岡部側を渡る直前で右側の狭い道に入る。これが旧道だ。突き当りを左に行くとすぐに小さな橋があり、ここで岡部川を渡る。そしてすぐにまた県道208号線に戻る。 

 左側に大旅籠柏屋と岡部宿本陣跡の新しそうな綺麗な建物が並ぶ。観光用に整備したのだろう。今日は正月休みでやってなかった。その先で新しい石畳の旧道に入る。小さな溝があり水が流れていて、小野小町姿見の橋という説明板がある。出典はよくわからない。伝説の類か。そういえば『超訳百人一首 うた恋い。』のアニメでは小野小町は在原業平と文屋康秀といっしょに旅をしてたな。 

 すぐそばに佐護神社(おしゃもっつぁん)という神社があった。石段を登ってゆくと正面の建物はシャッターを閉じた小屋で、途中の左側に拝殿があった。 

 再び街道に戻る。このあたりの軒にはサッカーボールの形をした色とりどりのくすだまのような鞠が下がっている。「サッカーロードおかべ、藤枝手まり工房」という札が下がっている建物があった。ここで作っているのだろうか。 

 県道に合流する所に酒屋があった。おみやげに志太泉純米吟醸おりがらみ生酒と「にゃんかっぷ」というワンカップに対抗しているのか、猫の絵の描いてあるカップ酒があったので買った。

 岡部小の近くにある中華そば蔵岡部宿店で蔵麺を食べた。キムチが入っていた。 

 しばらくは県道の広い綺麗に整備された道を行く。右側には松並木が残されている。ただ、時間的に逆光で写真は振り返った景色ばかりになる。 

 国道1号線藤枝バイパスの立体交差をくぐると右側に旧道がある。朝比奈川を渡る橋は欄干がない。石造りのシンプルな橋だ。橋のたもとにはわらで作られた大きな松明のようなものがある。横内のあげんだいというらしい。 

 仮宿交差点の歩道橋を渡ると今度は左に旧道がある。道は葉梨川に沿って進む。途中で橋を渡り葉梨川が右側になる。 

 須賀神社にも大きな楠があった。根元がとにかく太い。樹齢およそ五百年だという。そういえば、今日はまだ狛犬を見ていない。 

 道はホームセンターの所で突き当たりになり、右に曲がる。右に街道の松の木の並んでいるところがあり、これから公園として整備するのだろうか。この辺のクランクからがかつての藤枝宿なのだろう。丸子や岡部のように街道の町としての整備はされていない。 


 しずてつストアの横を通ると県道208号線の続きに出る。この道は藤枝バイパスの立体の所から県道381号になっている。ここはかつての国道1号線だった所だ。 

 旧東海道はここを斜めに横切るはずだが、横断歩道がない。仕方なく次の信号で右に曲がり、旧道に行く。このあたりは旧東海道の道筋が途絶えている。 

 ここから先の旧東海道は道幅が広く、商店街になっている。とはいえまだ三日だから閉まっている店がほとんどだ。街灯はサッカーボールを象っていて、藤枝も「サッカーのまち藤枝」だ。 

 右側に神明神社があった。拝殿は賽銭箱があるだけで後ろに祭壇も壁もなく、裏にある本殿が見えるようになっている。 

 その後もシャッターの閉まった商店街が続く。岡部宿の所では南に向かって進んでいたが、道が少しづつにしよりにずれているので、いつまでたっても逆光だ。ひたすら冬の太陽に向かってゆく。 

 瀬戸川にかかる大きな橋を渡るともう藤枝駅も近い。青木の交差点からまた旧道に入る。時折街道の名残の松の木がある景色も、今日一日すっかり見慣れたものになっている。このあたりに来るとそろそろ脚の疲労もあって、坦々とした道が苦痛になってくる。

 左側には東海道線が見えてくる。小さな川の手前に八幡宮があったが、ここにも狛犬はなかった。上青島の一里塚は碑が立っているだけで、そういえば今日は一里塚らしい一里塚を見ていない。 

 やがて県道381号線に合流する。途中右側に旧道があるが、すぐにもとの道に合流する。既に日は西に傾いている。 途中、「二十一世紀の朝鮮通信使、日韓友情ウオーク」が通ったという記念のものが立っていた。


 大津谷川にかかる島田橋を渡ると、島田市の中心部になる。島田蓬莱座という芝居小屋のところで県道は右に行くが、ここを直進する。このあたりから島田宿になるのだろう。「ようこそ島田宿へ」という看板がある。 

 もう駅も近いところに塚本如舟邸跡という説明板があった。これは多分あれだ。元禄七年、芭蕉が最後の旅で大阪に向かう途中、川止めのため島田に滞在して、曾良と杉風にそれぞれ手紙を書いていて、曾良宛のほうは残っている。 

 杉風宛の方は幻の手紙で、「梅が香に」の歌仙の句、 

 

   はつ雁に乗懸下地敷て見る 

 露を相手に居合ひとぬき    芭蕉 

 

の古註のひとつ、『七部集振々抄』(振々亭三鴼著、天明四年五月序)に、 

 

 「此句此集出板の頃、翁旅立事序に見ゆ。其時島田の駅より杉風方への書簡に、予が居合い一抜の句、露を相手にと御直し可給候。くれぐれ野坡へ御伝頼入候とあり。」 

 

とあるが今となっては真偽の確かめようがない。 

 一応『芭蕉書簡集』(萩原恭男校注、一九七六、岩波文庫)には、「杉風宛(元禄七年閏五月二十一日─推定─付)の中に、「嶋田より一通、書状頼置候。相届候哉。」とあるから手紙は実在したと思われる。この手紙を書いたのがここ、塚本如舟邸だったのだろう。 

 すっかり日も暮れ、島田駅で今日の旅は終わる。 

 十六時五四分の電車に乗る予定だったが、なかなか時間になっても来ない。そのうち島田駅前のイルミネーションが点灯する。十七時に点灯することになっていたのだろう。これは思わぬサプライズだ、と思っているうちに電車が来た。 

 静岡からの新幹線は去年同様Uターンラッシュで満員。通路に立ったまま新横浜まで行った。

2018年1月3日

 今日は毎年恒例の東海道の旅。そして奥の細道の旅の日光以来の同行二人。 

 朝五時に家を出て新横浜へ行き、そこから新幹線で静岡へ向う。 

 三島を過ぎる頃ようやく空が少し明るくなり、かろうじて富士山の姿が見えたが、今年は雪が少なく黒々として見えた。西の空にはスーパームーンが輝いていた。 

 静岡から在来線に乗るとようやく夜が明けた。雲があって朝日はよくわからなかったが、東の海に赤い空を見て、反対側では月は西へ渡る。 

 去年の終着点の島田駅で折り、出発したのは七時二十分頃だった。 

 駅前には朝なので明かりは灯ってないが、去年のようなイルミネーションがあるようだ。駅前にはお茶の葉を持った栄西禅師の銅像が建っている。 

 本通り二丁目交差点から近世東海道の道に入る。朝の町は静かで晴れているが北風が強くて冷たい。 

 大村屋酒造を過ぎ、少し行くと大井神社の鳥居があった。境内は広く、朝早いにもかかわらず初詣の人がちらほらいた。帯祭りの像があり、参道には昭和十三年銘の狛犬がある。拝殿前にはブロンズの狛犬がある。撫で牛もあり、静霊神社という靖国神社のような戦没者を祭った神社もあった。不穏な時代なだけに、北朝鮮とアメリカとの戦争に巻き込まれないよう祈った。 


 大井神社をあとにして再び大井川の方へ向う。正面に茶という字の描かれた山が見える。町中を流れる細い水路がいくつもあり、島田は水の町だ。 

 左に大きな製紙工場があり、そこを左に入る道がある。ここが東海道の旧道になる。このあたりは観光的に整備されていて、昔の街道の雰囲気を味わえる。古民家を改造したイベントスペース川越し街道荷縄屋があり、関川庵の跡には八百屋お七の恋人吉三郎の墓があり、川合所があり、川越茶屋がある。 

 今は少し川上に大井川橋がある。そこを渡る。車道と歩道は別の橋になっている。ただ、とにかくこの橋は長い。長い上に冷たい北風がのべつ吹きつけてくる。橋を渡り終わった所に書いてあった。この橋は1026.4メートル。一キロ以上もあった。 

 反対側の土手を川下に少し行くと、川の向こうに富士山が見えてくる。やはり今年は雪が少ない。


 土手を左に下りると、東海道の旧道がある。なんとか大明神と書いたある赤い鳥居と小さな赤い祠があった。後で調べたら福寿稲荷大明神らしい。 

 しばらく行くと大井川鉄道の踏切があり、新金谷駅が見える。その先に大代川を渡る橋があり、さらに一級河川清水川を渡る橋がある。清水川はここで三つの川が合流する。橋のたもとに小さな祠がある。その先には小さな秋葉神社がある。 

 金谷宿の本陣跡があり、そこの木には電球が巻かれてイルミネーションがされているようで、横には白いスノーマンとトナカイの置物がある。 

 金谷駅の手前でガードをくぐり、線路の反対側へ行く。そこから上り坂になる。旧東海道石畳の矢印がある。広い道を越えてさらに登ると石畳茶屋があり、ここの駐車場からも富士山がよく見える。その先から石畳の道が始まる。 

 鶏頭塚の説明板があり、 

 

 曙も夕ぐれもなし鶏頭華    巴静 

 

の句が記されている。後で調べたが巴静は美濃出身で支考の弟子だという。このあたりに蕉風を広めた人のようだ。鶏頭は年がら年中赤いので曙も夕暮れもないということか。近くに三猿を刻んだ庚申塔がある。すべらず地蔵は六角のお堂の中に在りさらに堂を雨から守る屋根がある。受験生が祈願に来るようだ。 

 石畳の道を登り普通の道に出ると、右側に諏訪原城跡がある。


 広い道に出ると反対側に粟が岳の「茶」の字がみえるよと書いてある小さな看板があり、さっき島田市内で見えていて今も見えるあの山が粟が岳だとわかった。 

 ここから下り坂になる。周りは茶畑が広がる。やがて道は石畳になるが、ここの石畳は古く痛んでいて昔のままのようだ。菊川坂石畳というようだ。 

 道路を横切ると菊川の集落に入る。

 菊川(きくがわ)は菊川市ではなく島田市にある。小さな川が流れていて橋があるが、それが菊川で、多分この菊川の流域は広く菊川と呼ばれていたのだろう。菊川市は下流にある。 

 ここの菊川集落はかつての間(あい)の宿(しゅく)だった。静かな所だが、金谷御前崎連絡道路の建設が行われていて、このあたりの景観も大きく変わろうとしている。静かな里を見たいなら今のうちだ。 

 秋葉神社常夜灯は東海道を歩いていると至る所に見るが、ここの秋葉神社常夜灯は社の中に入っていて、金属製の唐草模様のランプシェードの中に電球が入っている。この辺りではこうした所には小さな鏡餅がお供えされている。 

 左側には菊川神社がある。昭和三十五年銘の狛犬があるほか、一瞬ミミズクかと思うような謎の石塔がある。大分雨で磨り減っているので形がよくわからないが、大きな二つの丸と、嘴のような形、それに丈夫の両脇が少し盛り上がって耳のようになっている。


 この神社のすぐ後ろでは例の金谷御前崎連絡道路の建設工事が行われている。完成すればこの神社はほぼ道路の下になる。 

 広い道路に出て横断歩道を渡ると石段になっていて、その先は石畳の上り坂になる。ここが小夜の中山の入口になる。小夜は今では「さよ」と読んでいるが、昔は「さや」と読んでいた。歴史的には「さやのなかやま」が正しい。

 石畳は昔の道の復元なのか、すぐに今の舗装道路に出る。そこからは急な登り坂になる。周りは茶畑が広がり、山の上の方まで茶畑になっている。途中に阿仏尼の歌碑がある。 

 

 雲のかかるさやの中山越えぬとは 

    都に告げよ有明の月 

               阿仏尼 

 

 その『十六夜日記』にはこうある。 

 

 「廿四日、ひるになりて、さやの中山こゆ。ことのままとかやいふ社のほど、紅葉いとさかりにおもしろし。山かげにてあらしもおよばぬなめり。深く入るままに、をちこちの峯つづき、こと山に似ず。心ぼそくあはれなり。ふもとの里に、菊川といふ所にとどまる。 

 

 こえくらすふもとの里のゆふやみに 

    まつかぜおくるさやの中山 

 

 あかつきおきて見れば、月もいでにけり。 

 

 雲かかるさやのなか山こえぬとは 

    みやこに告げよありあけの月 

 

 川音いとすごし。 


 

 渡らむとおもひやかけしあづま路に 

    ありとばかりはきく川の水」 

 

 「雲かかる」の歌は小夜の中山を越えて菊川に泊った時に詠んだようだ。前日越えたときは雲がかかっていたが翌朝には晴れて有明の月が出ていた。菊川は今は小さな川だが、かつてはもっと水量があっただろうか。「ことのままとかやいふ社」は日坂の事任八幡宮のことで、紅葉の季節だった。廿五日には宇津の山を越えて丸子を過ぎ、安部川の近くの手越しに泊っている。かなりハイペースだ。 

 小夜の中山には歌碑がたくさんある。次にあったのは衣笠内大臣藤原家良の、 

 

 旅ごろも夕霜さむきささの葉の 

    さやの中山あらし吹くなり 

              衣笠内大臣 

 

の歌碑だ。鎌倉時代の人で、「笹の葉さらさら」の縁から小夜の中山を導き出し、旅人に吹きつける嵐としている。 

 坂道を登ってゆくと富士山が見えてくる。多分この辺が富士山の見納めだろう。逆に東海道を下ってきた人は小夜の中山を越えた所で富士山を目にすることになる。 

 右には久延寺があり、左には中山区公会堂の「命なりけり学舎」がある。道は平坦になり、頂上が近い。右側に扇屋という茶店があって旅人にお茶を出してくれる。昔ながらの俤を持つ茶店の建物で、名物の子育て飴という水飴を食べた。 

 店の向かい側には一瞬公衆便所かと思ったが、円筒形の大きな西行法師の歌碑だった。

 

 年たけてまた越ゆべしとおもひきや 

    命なりけりさやの中山 

              西行法師 

 

 年取ってまた越えることになるとはな、生きてたんだな小夜の中山。 

 若い頃出家して鈴鹿の山に浮世を降り捨てて東国に下った西行が、年老いてからまた東国に下ることになった時、そのときのことを思い出したのだろう。それにしてもどうしてこんなデザインになったのか。この裏に小夜の中山公園があり、そこが小夜の中山の山頂になっている。 

 小夜の中山は峠道ではなく、直線的な稜線の上に作られた道で、そこを行く道も今は緩やかにカーブしているが古代は直線的に作られていたのだろう。 

 古代東海道は静岡を出て安倍川を渡ると、手越から南へ向かい日本坂を越え、焼津を南西に向かい、大井川を今の新幹線の鉄橋のやや川下のあたりで渡り、島田市阪本の色尾道から金谷の諏訪原のほうに一直線に進んだと思われる。 

 ここから先小夜の中山は尾根道なので眺めがいい。右後ろには南アルプスの白い山が見える。このあたりに佐夜鹿一里塚がある。

  その先に蓮生法師の歌碑がある。 

 

 甲斐が嶺ははや雪しろし神無月 

    しぐれてこゆる小夜の中山 

              蓮生法師 

 

 蓮生法師もあの白い南アルプスの山々(甲斐が嶺)を見たのだろう。小夜の中山はそんなに高い山ではないが、北側を大井川渓谷が南北に長く通っているため、その合い間から聖岳のあたりの山塊が見えているようだ。 

 神明神社や鎧塚があるあたりから、やがて正面に掛川方面のパノラマが広がる。遠く浜松から豊橋の方まで見える。 

 次に、 

 

 東路のさやの中山なかなかに 

    なにしか人を思ひそめけむ 

 

              紀友則 

 

の歌碑がある。更に降りてゆくと、また、 

 

 ふるさとに聞きしあらしの声もにず 

    忘れぬ人をさやの中山 

 

              藤原家隆 


 

の歌碑があり、その先右側には白山神社があり、次に、 

 

 東路のさやの中山さやかにも 

    見えぬ雲井に世をや尽くさん 

              壬生忠岑 

 

の歌碑がある。 

 右側を見ると鉄塔がたくさんあって高圧線が集まって散る所がある。変電所があるようだ。 

 その先には馬頭観音塔があり、右側には妊婦の墓がある。夜泣き石に関係しているようだ。 

 その先には涼み松というのがあった。元の松はもうないのか小さな松の木が植えられている。説明板によると芭蕉がここの松の木の下で涼んで「命なりわづかな笠の下涼み」と詠んだというし、横にはその、 

 

 命なりわづかな笠の下涼み   芭蕉 

 

の句碑がある。 

 この句は夏の炎天下の道で笠の下だけがわずかに涼しいという意味の句だと思っていたが、後の人が勝手に名所を作ってしまったのだろう。 

 さて、小夜の中山というと夜泣き石が有名だが、肝心の石はなく夜泣石跡という新しそうな石碑が立っている。説明板によれば、夜泣石は広重の絵に描かれたように江戸後期には道の真ん中にあったが、明治天皇がここを通るというのでどかされたという。別に天皇が望んだからではなく、役人が忖度してどかしてしまったのだろう。今では国道一号線の小夜の中山トンネルの手前の道路脇にあるという。 

 ただ、芭蕉は夜泣き石のことを何も語ってないし、夜泣き石伝説が安永二年(一七七三年)刊行の随筆「煙霞綺談」や曲亭馬琴の文化二年(一八〇五年)刊行の「石言遺響」に登場していることから江戸中期以降のもので、石もその頃何らかの理由で街道上に出現したと思われる。その広重の絵の石碑もあった。 

 芭蕉で小夜の中山というともう一句、『野ざらし紀行』の、

 

 馬に寝て残夢月遠し茶のけぶり  芭蕉

 

の句があり、涼み松の先に碑があった。朝まだ薄暗いうちに宿を出て小夜の中山を越えたようで、だとすると間宿の菊川に泊ったことになる。となると、その日程が気になる。

 旧街道ウォーキング「人力」というサイトに載っている各宿場間の距離を参考に、大体一日四十キロ前後進む(歩いたにしても馬に乗ったとしてもスピードは変わらないものとして)なら日本橋から大井川の手前の島田までは六日間。菊川から四日市までは五日間、四日市から伊勢までは二日と思われる。これで十三日。それに大井川で足止めされた日数が加わる。

 『野ざらし紀行』には、

 

 「大井川越る日は終日雨降ければ、

 秋の日の雨江戸に指おらん大井川  ちり」

 

とある。そして小夜の中山の所には「廿日余の月かすかに見えて」とある。

 「終日雨降ければ」が大井川を渡る予定の日に一日雨が降り、やむなく島田に一泊し、翌日の日も傾く頃にようやく川を渡って菊川に着いたとなれば、無駄にしたのは一日ということになる。つまり江戸を発って八日目に小夜の中山を越えたことになる。もっとも

 伊勢の三十日から逆算するなら、二十九日に四日市を出て翌日伊勢に着いてその夜真っ直ぐに参宮したとするなら、菊川を出たのは二十四日ということになる。それだと江戸を出たのは十七日となる。

 十七日に旅立って戸塚に泊り、十八日に小田原泊、十九日に沼津泊、二十日に興津泊、二十一日に藤枝泊、翌二十二日に大井川を渡る予定が島田一泊になり、翌二十三日の夕方にようやく川止めが解除され菊川泊。これで計算が合う。

 大井川の一日の遅れを取り戻すべく菊川を暗いうちに出て、小夜の中山は馬上で居眠りしている間に通り過ぎたようだ。

 小夜の中山は単に東西の境界というだけでなく、おそらく道幅の広い古代道路が作られた時から稜線上の障害物がなくなり、眺望の良かったところから有名になり、歌にも詠まれるようになったのではなかったかと思う。京都側には太平洋から浜松豊橋の大パノラマが広がり、東国側には南アルプスや富士山が見える。それを見て、旅人ははるばる来たなあという感慨に浸ったのだろう。 

 夜泣き石を過ぎると小夜の中山も最後の急な下り坂になる。そこに、 

 

 甲斐が嶺をさやにも見しがけけれなく 

    横ほり臥せるさやの中山 

              詠み人知らず 

 

の歌碑がある。「けけれ」は「心(こころ)」の東国訛りだという。甲斐が嶺をはっきり見たいものだけど、前の山に遮られてチラッとしか見えない小夜の中山ということか。 

 道は大きくカーブして日坂の方に下りてゆくが、その曲がり目の辺りに日乃坂神社がある。これも小さな社だ。 

 すぐに目の前に日坂バイパスが見えてきて小夜の中山は終わる。入り口は金谷御前崎連絡道路、出口は日坂バイパス。

 広い通りを渡ると日坂宿に入る。ここは家の前に屋号を書いた大きな板の表札があり、昔ここに何があったかを表している。ここの酒屋が開いてたのでお土産の開運特別純米酒を買った。 

 高札場の先の川を渡りしばらく街道の俤を残す集落を行くと、やがて広い通りに出る。ここに事任本宮という額の鳥居がある。本宮はここからかなり遠くにあるようだ。 

 この交差点の歩道橋の辺りには人がたくさんいる。渡ると事任八幡宮の前に出る。ここは向こう側から人がぞろぞろやってくるし、駐車場街の車が路上に行列を作って渋滞している。拝殿の前も行列が出来ている。阿仏尼の『十六夜日記』にも「ことのままとかやいふ社」とある「ことのまま八幡宮」だ。 

 ここを出て広い道を行くと、右側に道の駅掛川がある。ここの時之栖手作り工房のパンを買って昼食にした。 

 ここから先は平坦な道になる。バイパスの下をくぐるとすぐに左側に旧道がある。すぐに塩井神社の鳥居がある。神社は川の向こうで渡した板の上を歩いてゆく。 


 その先に嵐牛俳諧資料館というのがあった。初めて聞いた名前だが幕末から明治にかけて活躍した俳諧師らしい。この時代の俳諧は残念ながら研究がほとんどされてない。岡崎の卓池(たくち)の弟子らしい。と言ってもこの卓池も初めて聞く。調べてみたら暁台に学んだという。暁台ならわかる。蕪村とも親しかった人だ。この時代の俳諧の研究がもう少し進むと良いが、子規以降の近代俳句の俳句史観からの脱却はなかなか難しい。頑張らなくては。 

 この先に伊達方一里塚がある。左夜鹿一里塚から一里。 

 一度広い道に戻る。さっきのバイパスをくぐったところからこの道は国道一号線になる。このあと再び旧道に入る所に諏訪神社がある。貞観十六年(八七四年)からあるというが、今は無人で寂びれている。ここの旧道は短く、またすぐに戻る。そしてしばらくは国道一号線の単調な道が続く。 

 本村橋の交差点から左の旧道に入る。このあたりはもう家が途切れず、掛川の市街地に入る。 

 逆川を渡ると道が広くなる。ここに葛川一里塚がある。左夜鹿一里塚から二里。しばらく行くと道が二股に分かれるが、どちらにも行かずに左に直角に曲がる。ここに掛川七曲りという矢印がある。実際ここは凸という寺をひっくり返したような形に曲がっている。矢印は最初の二つの曲がり角にしかなかった。あとは地図を見ながら進む。 

 六回曲がったところに「七曲り」の説明板がある。「太陽にほえろ」とは何の関係もないようだ。あれは新宿の七曲坂に由来しているという説がある。このあたりはもう線路に近く、新幹線の音が聞こえてくる。 

 広い道に出て左に行くと(これで曲がるのは八回目になる)、あとは商店街の道になる。なぜかお城のような屋根と白い壁の建物が多い。病院も学習塾もお城の形をしている。右側に本陣通りという狭い横丁がある。夜は賑わうのだろう。

 掛川駅と掛川城を結ぶ大通りと交差する連雀西交差点で、今日の東海道の旅は終了とする。まだ二時だが袋井まで行くと二時間以上はかかりそうなので、無理しないことにした。そのあと掛川城に見に行った。掛川城の天守閣は一九九四年に復元されたもので、まだ新しいのか壁の白さが冬空に映えている。中には入らなかった。この辺りから眺めると、Pという字が書かれたお城のような駐車場が見える。 

 お城のような建物が多いのは掛川市の推進している「城下町風まちづくり地区計画」によるもののようだ。ただ、城下町というと武家屋敷や町人屋敷のイメージがあるが、お城をたくさん並べているのは妙な感じもする。まあ、これはこれでこの街の個性というか、地方文化の多様性の一つとして理解すればいいのだろう。 

 城から駅の方に歩き、途中のBeer Lovers Diner Bucketでビールを飲み、掛川駅から新幹線に乗って帰った。掛川駅からだと自由席でもかろうじて座れた。


2019年1月3日

 二〇一九年一月三日、すっかり毎年恒例になった東海道の旅。今年も行きます。

 二〇一六年の薩埵峠、二〇一七年の宇津の山、二〇一八年の佐夜の中山と山越えが続いたが、ここから先は平野の旅で、やや盛りあがりに欠けるかもしれない。

 八時九分に掛川駅に着き、まずは連雀西の交差点に向かう。

 なにやらカラーコーンを重ねたような不思議な物体があったが、掛川ひかりのオブジェ展の作品だった。他にもいろいろなオブジェがあった。夜になると光るのだろう。去年行ったBeer Lovers Diner Bucketも当然開店前。

 連雀西の交差点に着くと、東海道の旅の続き。西に向う。

 清水銀行掛川支店は建物を城下町に合わせたのか、和風になっている。壁に山内一豊とその妻千代のレリーフがある。山内一豊は「やまうちかずとよ」が正しいらしい。

 その少し先には掛川城蕗の門がある。

 商店街は終り、道は半分住宅地のような所に入る。キネマ食堂という昭和な感じの店の反対側に右側に入る道があり、こっちが旧東海道になる。この街道ではお馴染みの秋葉山常夜灯がある。

 川を渡るときに掛川城が見える。島田の辺りからどこからでもよく見える茶という字を書いた粟ヶ岳も見えたが、ここからだと横からになるので茶の字は見えない。

 その先の二瀬川の交差点を左に曲がる。このあたりも旧道らしい町並みが続く。少し行くと右側が別の川の土手になっている。この川を渡り、大池橋の交差点をまた左へ行く。このあたりは眺めが良い。

 少し行くと左側に生垣に挟まれた狭い道があり、この先に小さな芭蕉天満宮がある。

 芭蕉という名がついてはいるものの、あの俳聖とは無関係のようだ。芭蕉は元々「馬上」だったようで、元々富士宮市内房字大晦日という新東名の新清水インターに近い山の中にある芭蕉天満宮を勧請したもので、ここで客死した久我長通を祀ったものだという。馬の上で死んだという意味で「馬上」だったようだ。


 この掛川の芭蕉天満宮の説明書きにも、御際神菅原道真公、久我道真公とあり、

 

 「大池村下耕地内の富士講の方々が、富士浅間大社に詣での帰路、駿河国内芳村(現在の芝川町)大晦日部落の芭蕉天満宮より勧請され、当地に祀る。」

 

とある。嘉永四年(一八五一)創建だから、芭蕉さんは知るよしもない。(なお、芝川町は平成の大合併により富士宮市に編入された。)

 芭蕉天満宮より戻り、元の道を行くと、天竜浜名湖線の西掛川駅があり、その先に行くと白山神社があった。昭和六十三年銘の岡崎型の狛犬があった。その少し先の蓮祐寺の前に大池一里塚跡がある。

 その先には松の木が数本見え、街道の名残を留めている。

 さらに行くと道は一号線バイパスの沢田インターのあたりに突き当たる。ここの角地に小さな神社があったが立ち入り禁止のようだった。

 バイパスをくぐり東名高速をくぐると、また松の木があった。川を渡ると松並木の道になり、ここはかなり長い区間昔の松並木が再現されている。

 思うに、江戸時代が終っても戦後のモータリゼーションの起こるまでは、人の行き来はもっぱら古い街道に頼っていて、そんなに大きく景色が変わることもなかったのだろう。松並木はそのころは代を変えながらかなり残っていたのかもしれない。

 モータリゼーションが起こると、道が拡張されたり、別の所に新道が作られたりして、街道の風景は急速に失われていったのだと思う。

 ふたたび一号線バイパスに突き当たる。地下道をくぐり反対側へ行き、バイパスの脇を歩いて橋を渡ると、ここで掛川市は終り袋井市に入る。右側に名栗花茣蓙公園という小さな公園が見える。ここにはトイレもある。

 再びまとまった松並木の道が始まる。小屋のような大きなゴミ置き場には浮世絵風の街道の絵が描かれている。駕籠の形をしたものもある。

 右側に大きな赤い両部鳥居がある。冨士浅間宮の鳥居だが、その浅間宮は大分離れたところにあるのか、ここからは見えない。地図で見ると東名高速の向こう側にある。

 松並木が途切れた先に久津部一里塚跡がある。小さな塚が作ってあり、碑が立っていた。その隣には「東海道五十三次どまん中東小学校」と書かれた門がある。凄い名前の学校だなと思ったが、正確には袋井市立袋井東小学校のようだ。

 袋井は江戸から京までの東海道の中間点らしい。つまり東海道の半分を歩いたわけだ。

 そこからしばらく淡々とした道が続く。途中秋葉山の常夜灯や小さな道標がある。小さな道標には「法多山道標」という札が立っている。法多山尊永寺への分岐点という所か。他の小さな道標も「油山寺道」の札が立ってたり、それぞれ違う場所へ行く道標のらしい。

 



 右側に七ツ森神社がありスダジイの巨木があった。

 

 その先で国道一号線に出る。ただ、一号線を少し歩いた後すぐ信号を左に曲がり、曲がってするの所を右に入る。ここには「旧東海道」の矢印のある看板がある。少し行くと右側に立派な社に入った秋葉山常夜灯がある。

 やがて旧道は途切れて右へ曲がり、現代の区画整理された道になる。左に曲がり袋井市役所南の交差点を右に曲がると「ふくろいの宿」という幟の立つ小さな公園があり、東海道どまん中茶屋がある。なんでも「日本一小さな歩く道の駅」だそうだ。

 左に入ると旧道に戻る。ここからが袋井宿なのだろう。

 右側に白髭神社の銅の鳥居が見える。神社は別の通りを一つ隔てた向こうにあり、平成二十三年銘の新しい狛犬があった。岡崎型ではなく阿形は宝珠、吽形は角を生やした江戸狛犬だった。

 街道に戻るとすぐに本陣跡の門のオブジェがあった。

 雛人形を飾っている所があり、「まちじゅうひなまつりプロジェクト」と書いてあった。どまんなか丸凧ギャラリーというのもあった。

 橋を渡ると袋井宿も終りになる。


 左側に十二所神社がある。昭和六年銘の狛犬がある。街道に戻って少し行くと、左側に澤野医院記念館という洋館がある。その先川井の交差点で大きな道に合流する。

 しばらく広い道を行くと小さな橋があり、その先に右側へ行く旧道がある。木原一里塚は左側だけ残っている。その先には許禰(きね)神社がある。池があり境内社の厳島神社がある。狛犬は平成二年銘で岡崎型がベースになっているようだが、目が優しく穏やかな顔をしている。平成五十年を六蛙える(むかえる)という駄洒落の六匹の蛙の像がある。

 再び広い道に戻り、少し行くと磐田市に入る。十二時五分前。思ったより時間がかかった。最近あまり歩いてなかったせいか、足にやや痛みがある。


 太田川を渡ると、土手から下に降り松の木のある狭い道に入る。これが旧道になる。

 やがて左側に鎌倉時代の古道の矢印が見える。今歩いてるのは江戸の道だから真っ直ぐ行く。すぐに舗装道路は二つに分かれ、右が大正の道、左が明治の道になっている。明治の道を行く。その先にすぐ江戸の古道の矢印がある。ここから山に登る道になる。

 登ったところの左側に大日堂があり、トイレがある。ベンチもあって太田川の方の平野が眺められる。ここが今回唯一の短い山越えの道だ。

 大日堂と反対側に行くと下り坂になり町に戻る。

 ふたたび緩い上り坂になる。行人坂というらしい。これを登ると広い道に戻る。

 すぐにまた右側に旧道が分かれ、しばらくそこを行く。下り坂の下に再び広い道が見えるところに愛宕神社がある。愛宕神社には下りきった合流点から戻るように石段を登る。ここから見付宿が一望できる。

 小さな拝殿の裏側に阿多古山一里塚が見えた。工事中で近くには行けなかった。このあたりも整備するのだろう。


 愛宕神社の石段を降りると、ここから先は広く綺麗に整えられ、ジュピロ磐田の旗のはためく宿場の道となる。かつての見付宿だ。

 今之浦川を渡り、少し行くと本陣跡があり、その先の交差点の向こうに旧見付学校と淡海国玉神社の鳥居が見える。旧見付学校は残念ながら修復中で、一部足場に覆われているが、全体の姿は見ることができる。

 淡海国玉神社には御際神の大国主命の縁で、珍しい兎の狛犬(狛兎)が置かれている。平成十八年銘の新しいものだ。右は玉取り左は子取りで、それぞれの首と子兎の首に紅白の注連縄が巻かれている。

 その先には脇本陣の門が残されている。門松が立っていた。


 道はやがて緩やかに左に曲がり突き当たる。左に曲がると小さな川を渡り、加茂川の交差点に出る。ここのラーメン太郎で昼食にした。とんこつラーメンは黄色い博多風のとんこつだった。麺は中太の縮れ麺。大きなチャーシューが二枚乗っていた。

 加茂川交差点は歩道橋で渡る。一度左側の旧道に入り、すぐに戻る。その先の右側は国分寺跡、左側は府八幡宮と、古代の国府が近いのを思わせる。

 国分寺のある所には八幡神社もある。海老名の相模国国分寺のときは見落としたが、南側に八幡宮跡がある。武蔵国のときも西側に国分寺八幡神社があった。下総国のときは国府跡のところに下総総社(六所神社)跡があった。

 国府と国分寺は下総のようにくっついている場合と相模・武蔵のように離れている場合がある。国府は途中で移転することが多いからかもしれない。

 遠江国の国分寺も広い芝生の広場になっていて、他の国分寺と同じような雰囲気がある。これでサッカーボールを蹴っている子供がいればかなりデジャブ感がでるのだが、ここにはいなかった。

 説明書きによると、国分尼寺跡もこの北側にあるという。

 そうなると気になるのが遠江国の国府の位置だが、これには諸説あるようだ。

 『更級日記』には、国府と思われる記述はない。病気で外を見る余裕がなかったのか、佐夜の中山をいつの間にか越えてて、気付いたら天竜川だったようだ。

 

 


 「天ちうといふ河のつらに、仮屋つくり設けたりければ、そこにて日ごろすぐるほどにぞ、やうやうおこたる。」

 

とある。ここで「おこたる」、つまり病気が治ったようだ。

 『東關紀行』には、

 

 「此の河のはやき流れも世の中の人の心のたぐひとは見ず遠江の國府(こふ)今の浦に著きぬ。

 此處に宿かりて、一日二日止りたる程、海人の小舟に棹さしつゝ、浦のありさま見めぐれば、潮海(しほうみ)湖の間に洲崎遠く隔たりて、南には極浦(きょくほ)の波袖を濕(うるほ)し、北には長松の嵐心を傷ましむ。

 名殘多かりし橋本の宿にぞ相似たる。昨日の目移りなからずば、是も心とまらずしもあらざらましなどは覺えて、 浪のおとも松の嵐も今の浦にきのふの里の名殘をぞ聞くことのまゝと聞ゆる社おはします。」

 

とある。「此の河」は天竜川で、国府は今之浦にあったようだ。今之浦は国分寺跡、府八幡宮の東側、今之浦川のあるあたりの地名だ。かつてこの近くまで入江か干潟があったのだろう。あるいは太田川下流域が広く沼になっていたのかもしれない。

 古代東海道はこの浦の北側を通り、ほぼ一直線に掛川に通じていたのだろう。掛川の「ことのまゝと聞ゆる社」は前回通った。

 想像するに、掛川・袋井間は今の東海道線にほとんど沿っていて、東海道線は袋井を出ると南へ少し折れるが、それを真っ直ぐに伸ばせば、ほぼ国分寺と国分尼寺の間に出る。

 『源平盛衰記』には、

 

「夫男、勢は雲霞の如く上り侍、先陣は菊河、後陣は橋本の宿、見付(みつけ)国府に著、程近き高志二村は、軍兵野にも山にも、隙あり共不(レ)見と云て過にけり。」

 

とある。見付だと江戸時代の見付があるように今之浦の北側になる。やや

 

北側にルートが変更され、中世の道になったのか。それとも、今之浦のあたりも見付と呼んでいたのか。

 『十六夜日記』には、

 

 「こよひはとをつあふみ見つけのさとゝいふ所にとゝまる。

 里あれて物おそろしかたはらに水の井あり

  

 たれかきてみつけの里ときくからに

      いとゝ旅ねそそらおそろしき」

 

とある。この時代にはすかり荒れ果てていたようだ。

 考古学的には磐田駅の南の御殿・二之宮遺跡(御殿遺跡公園)も有力な説になっている。これだと、国分寺の辺りから古代東海道のルートが南に曲がっていたことになる。古くはこのあたりにあり、後に移転したのかもしれない。

 国分寺跡を出ると、道路の反対側に渡り府八幡宮に行く。立派な楼門がある。狛犬は昭和五年銘で初期の岡崎型か。

  府八幡宮を出て磐田駅の方に行くと、ジュピロ磐田のマスコットのジュビロくんとジュビィちゃんの像が道の両側にある。江戸時代の東海道はこの先の交差点を右に曲がり、天竜川に向うことになるが、今日はもう時間も二時半を過ぎていて、時間的にも体力的にも浜松までの十何キロも歩くのは無理。そのまま磐田駅まで行き、掛川から新幹線に乗って帰った。