「つくづくと」の巻、解説

貞享二年三月下旬、熱田にて

初表

 つくづくと榎の花の袖にちる    桐葉

   独り茶をつむ薮の一家     芭蕉

 日陰山雉子の雛をおはへ来て    叩端

   清水をすくふ馬柄杓に月    閑水

 面白き野辺に鮓売ル草の上     東藤

   宿のみやげに撫子を掘る    工山

 

初裏

 はな紙に都の連歌書つけて     芭蕉

   暮る大津に三井の鐘きく    叩端

 雪を侘ぶ漁の姥が袖を見よ     工山

   寐に行鴨の四五百の空     桐葉

 松風の饗に酒を飲つくし      閑水

   ほとけを刻む西谷の僧     東藤

 烏羽玉の髪切ル女夢に来て     叩端

   恋をみやぶる朝顔の月     芭蕉

 秋は猶唯味き物喰ひけり      桐葉

   白子の太夫わが霧の海     工山

 浪よする鯨の骨に花植て      東藤

   陰干す於期のかづら這ふ道   叩端

 

二表

 笠持て霞に立る痩男        芭蕉

   五重の塔のほとり夕暮     桂楫

 鶺鴒の尾を蜘の囲に懸られて    叩端

   風に身を置けふの討死     桐葉

 筆とりて朴の広葉を引撓め     叩端

   田舎祭リに物見そめたる    東藤

 うちかづく前だれの香をなつかしく 桂楫

   たはれて君と酒買にゆく    芭蕉

 銀の鉢に鮊およがせて       桐葉

   おほん帰京の時を占ふ     工山

 韃靼の東の寺の月凄く       東藤

   猿手の粟の何をまねくぞ    叩端

 

二裏

 蝉鳴てまだ渋柿の秋の空      芭蕉

   草屋幽に馬の尾の琴      工山

 哀なる乗物焼て帰る野に      東藤

   入日の跡の星二ッ三ッ     桐葉

 宮守が油さげつも花の奥      芭蕉

   つつじのふすま着たる西行   桂楫

 

       『校本芭蕉全集 第三巻』(小宮豐隆監修、一九六三、角川書店)

初表

発句

 

 つくづくと榎の花の袖にちる   桐葉

 

 「つくづくと」はweblio古語辞典の「学研全訳古語辞典」に、

 

 「①しみじみ(と)。しんみり(と)。▽思いにふけるさま。

  出典徒然草 七

  「つくづくと一年(ひととせ)を暮らすほどだにも、こよなうのどけしや」

  [訳] しみじみと一年を暮らすだけでも、この上なくゆったりとしている(ものである)よ。

  ②ぽつねん(と)。ぼんやり(と)。▽手持ちぶさたなさま。

  出典更級日記 大納言殿の姫君

  「姉なる人、つくづくと空をながめて」

  [訳] 姉である人は、ぽつねんと空をながめて。

  ③よくよく。じっくり。▽考えなどを集中させるようす。

  出典平家物語 六・小督

  「仲国(なかくに)、つくづくと案ずるに」

  [訳] 仲国は、よくよく考えてみると。」

 

とある。「尽く」からきた言葉だと思われる。精魂を尽くすと精魂の尽きるとの両面性を持った言葉で、精魂を尽くし、何事かを考え極めようとすると、精魂尽きたようにぼんやりとなる。

 榎の花は曲亭馬琴編の『増補 俳諧歳時記栞草』の項目にはなく、季語としては扱われたなかったと思われる。ここでは多分「花の散る」で春の季としたのではないかと思う。俳諧では秋に鳴く虫ではないのに「虫」だけで秋にしたりといった拡大解釈がしばしば行われる。式目をかいくぐる一種のマリーシアだったものだが、現代俳句でもしばしば行われている。

 榎の項のウィキペディアに、

 

 「由来には諸説あり断定不可能だが、①信長、家康、秀忠、家光のうちの誰かが、(マツ以外の)「余の木(ヨノキ)」または「良い木(ヨイキ)」を一里塚に植えるよう命じ、これに応じる形で植えられたのがこの木であったため(ヨノキ)・(ヨイキ)が転じてエノキとなった。②縁起の良い木を意味する「嘉樹(ヨノキ)」が転じてエノキとなった。③秋にできる朱色の実は小鳥や森の生き物に人気が高く、「餌の木」からエノキとなった。などの説がある。」

 

とあり、一里塚に多く植えられていた。

 この発句も旅の途中である芭蕉がやがて帰って行ってしまうことを惜しみ、街道の一里塚の榎に思いを馳せていたのだろう。折から榎の小さな白い花が散っている。それがあったかも涙のようだ、というのがこの発句の意味だと思う。実際には四月上旬に芭蕉は熱田から鳴海の知足亭へ移り、四月十日に知足亭を発ち、甲斐を経由して江戸に戻る。

 

季語は「花の袖にちる」で春、植物、木類。

 

 

   つくづくと榎の花の袖にちる

 独り茶をつむ薮の一家      芭蕉

 (つくづくと榎の花の袖にちる独り茶をつむ薮の一家)

 

 榎の花は地味な花なので茶花に用いられることもあったのだろう。茶花はウィキペディアに、

 

 「茶花(ちゃばな) - 茶道で茶会の席に飾る花のこと。飾らない山野草の素朴な一輪挿しなどが多く、派手さを競う華道とは対照的である。この意味で使用される場合は、普通お茶花(おちゃばな)と称する。」

 

とある。

 前句の寓意を受けずに、榎と茶の縁で一人茶を摘む情景を付ける。

 

季語は「茶をつむ」で春、植物、木類。「一家」は居所。

 

第三

 

   独り茶をつむ薮の一家

 日影山雉子の雛をおはへ来て   叩端

 (日陰山雉子の雛をおはへ来て独り茶をつむ薮の一家)

 

 茶は日向の斜面に育つから、日陰山はその裏ということだろう。

 「おはへ」は「おふ」+「はふ」であろう。追いかけて慕うということで、主語は雄の雉子になる。

 日向では一人茶を摘む家があり、日影では雉の家族が仲睦まじく暮らす。相対付けになる。

 日影山は、

 

 日影山生ふる葵のうらわかみ

     いかなる神のしるしなるらむ

              源師頼(夫木抄)

 日影山さしもかけこしもろかづら

     落葉をだにもよそにきくかな

              後鳥羽院(後鳥羽院御集)

 

などの歌もあるので、歌枕があったのかもしれない。

 

季語は「雉」で春、鳥類。「日陰山」は山類。

 

四句目

 

   日影山雉子の雛をおはへ来て

 清水をすくふ馬柄杓に月     閑水

 (日影山雉子の雛をおはへ来て清水をすくふ馬柄杓に月)

 

 「馬柄杓」はそのまま馬に水を与えるための柄杓をいう。武家の乗馬に使う道具なので、漆塗りの立派なものもある。

 前句を雉の雛を狩りに来たとして、清水の所で馬に水を飲ませる武士とする。

 

季語は「清水」で夏。「月」は夜分、天象。

 

五句目

 

   清水をすくふ馬柄杓に月

 面白き野辺に鮓売ル草の上    東藤

 (面白き野辺に鮓売ル草の上清水をすくふ馬柄杓に月)

 

 前句の馬柄杓を武家の旅し、昼間の野辺で買ったなれ寿司を夜明けの月の下で食う。

 

季語は「鮓」で夏。

 

六句目

 

   面白き野辺に鮓売ル草の上

 宿のみやげに撫子を掘る     工山

 (宿のみやげに撫子を掘る面白き野辺に鮓売ル草の上)

 

 撫子の咲く野辺で鮓を売ったあと、土産にと撫子を掘って持ち帰る。撫子は種で増えるので真似しない方が良い。

 

季語は「撫子」で夏、植物、草類。

初裏

七句目

 

   宿のみやげに撫子を掘る

 はな紙に都の連歌書つけて    芭蕉

 (はな紙に都の連歌書つけて宿のみやげに撫子を掘る)

 

 少し前の「何とはなしに」の巻の挙句でも「連歌師の松」という叩端の句があったが、この頃連歌が流行ってたのだろうか。蕉風確立期の古典復古で連歌を見直す空気もあったのだろう。荷兮のようにそのまま連歌師になった人もいる。

 中世の連歌は寺社で興行され、境内に張り出されたりしたのだろう。それを鼻紙にメモして撫子とともにお土産に持ち帰る。

 

無季。

 

八句目

 

   はな紙に都の連歌書つけて

 暮る大津に三井の鐘きく     叩端

 (はな紙に都の連歌書つけて暮る大津に三井の鐘きく)

 

 京都から大津までは二里半。都を結構遅い時間に出たようだ。

 謡曲『三井寺』の冒頭では前シテ(母)とアイ(門前の者)の清水寺で霊夢を見て旅立つ場面から始まり、三井寺の夕暮れに転じる。これを想起させようということか。

 

無季。「大津」は名所、水辺。

 

九句目

 

   暮る大津に三井の鐘きく

 雪を侘ぶ漁の姥が袖を見よ    工山

 (雪を侘ぶ漁の姥が袖を見よ暮る大津に三井の鐘きく)

 

 琵琶湖では冬にいさざや氷魚などの漁がおこなわれる。三井寺周辺の景を付ける。

 

季語は「ゆき」で冬、降物。「漁(いさり)」は水辺。「姥(うば)」は人倫。

 

十句目

 

   雪を侘ぶ漁の姥が袖を見よ

 寐に行鴨の四五百の空      桐葉

 (雪を侘ぶ漁の姥が袖を見よ寐に行鴨の四五百の空)

 

 鴨の四五百羽の飛び立つ雄大な景色になる。

 

季語は「鴨」で冬、鳥類。

 

十一句目

 

   寐に行鴨の四五百の空

 松風の饗に酒を飲つくし     閑水

 (松風の饗に酒を飲つくし寐に行鴨の四五百の空)

 

 松風は寂しいばかりではなく、笛や琴の宴の松風も和歌に詠まれてきた。

 

   後一条院御時、長和五年大嘗會主基方御屏風に、

   備中國長田山のふもとに琴彈き遊びしたる所をよめる

 千世とのみ同しことをぞしらぶなる

     長田の山の峰の松風

             善滋為政(千載集)

   上東門院入内の時、御屏風に、

   松あるいゑに笛吹き遊びしたる人ある所をよみ侍ける

 笛竹の夜ふかき聲ぞ聞ゆなる

     峰の松風吹きやそふらん

             藤原斉信(千載集)

 

などがある。

 

無季。

 

十二句目

 

   松風の饗に酒を飲つくし

 ほとけを刻む西谷の僧      東藤

 (松風の饗に酒を飲つくしほとけを刻む西谷の僧)

 

 比叡山西谷の僧は円珍であろう。三井寺の秘仏の黄不動はウィキペディアに、

 

 「円珍は、比叡山や渡唐上でこの黄不動に再三感得し、身の危険を救われたとされると種々の伝承に伝わるが、その根幹になったのは、円珍が没して11年後の延喜2年(902年)、文章博士・三善清行が撰述した『天台宗延暦寺座主円珍和尚伝』にある一文である。承和5年(838年)冬の昼、石龕で座禅をしていた円珍の目の前に忽然と金人が現れ、自分の姿を描いて懇ろに帰仰するよう勧めた(「帰依するならば汝を守護する」)。円珍が何者かと問うと、自分は金色不動明王で、和尚を愛するがゆえに常にその身を守っていると答えた。その姿は「魁偉奇妙、威光熾盛」で手に刀剣をとり、足は虚空を踏んでいた。円珍はこの体験が印象に残ったので、その姿を画工に銘じて写させたという。この伝承通り承和5年(838年)頃の制作と見られていたが、同じ図様は空海が請来した図像に既に見られ、細部は円珍請来本の中で初めて見られることから、円珍が帰朝した後描かれたとする説が有力である。」

 

とある。

 

無季。釈教。「西谷」は山類。「僧」は人倫。

 

十三句目

 

   ほとけを刻む西谷の僧

 烏羽玉の髪切ル女夢に来て    叩端

 (烏羽玉の髪切ル女夢に来てほとけを刻む西谷の僧)

 

 『校本芭蕉全集 第三巻』に、「自分の跡を追って髪を切った女を夢に見た。」とある。報われることのない恋。

 

無季。恋。「女」は人倫。

 

十四句目

 

   烏羽玉の髪切ル女夢に来て

 恋をみやぶる朝顔の月      芭蕉

 (烏羽玉の髪切ル女夢に来て恋をみやぶる朝顔の月)

 

 世を捨てたと思ってみても、あの女が髪を切る夢を見る。ふと見ると明け方の月に照らされる朝顔が見える。その朝顔が「あんた、あの娘に惚れてるね」と言っているかのようだ。

 『源氏物語』の朝顔の出家をほのめかしているのかもしれない。

 

季語は「月」で秋、夜分、天象。「朝顔」も秋、植物、草類。恋。

 

十五句目

 

   恋をみやぶる朝顔の月

 秋は猶唯味き物喰ひけり     桐葉

 (秋は猶唯味き物喰ひけり恋をみやぶる朝顔の月)

 

 本当は恋で食欲が落ちているのをごまかすために旨いものだけ選んで食っている。朝顔の目はごまかせない。

 

 あさかほを何はかなしと思ひけん

     人をも花はさこそ見るらめ

              藤原道信(拾遺集)

 

の歌もあるように、人が朝顔を見ているように、朝顔もまた人を見ている。

 

季語は「秋」で秋。

 

十六句目

 

   秋は猶唯味き物喰ひけり

 白子の太夫わが霧の海      工山

 (秋は猶唯味き物喰ひけり白子の太夫わが霧の海)

 

 「白子」は『校本芭蕉全集 第三巻』に「伊勢白子」とある。三重県鈴鹿市の海岸で港があって物流の拠点になっていた。着物の染色に用いられる伊勢形紙も生産されていた。

 百年後の天明の頃に大黒屋光太夫という回船の船頭がいて、アリューシャン列島に漂着して井上靖の『おろしや国酔夢譚』に描かれた。

 また、東洋文庫に『川渡甚太夫一代記 : 北前船頭の幕末自叙伝』という本もあるように、太夫は船頭の名前に用いられていたのだろう。

 ここでいいう太夫も回船の船頭ではないかと思う。旨いもの食っては霧の海を我が物顔に越えて行く。

 

季語は「霧」で秋、聳物。「白子」は名所、水辺。「太夫」は人倫。「海」は水辺。

 

十七句目

 

   白子の太夫わが霧の海

 浪よする鯨の骨に花植て     東藤

 (浪よする鯨の骨に花植て白子の太夫わが霧の海)

 

 かつて伊勢湾は鯨の産地だったのだろう。貞享元年十二月十九日熱田での興行の「海くれて」の巻の脇に、

 

   海くれて鴨の声ほのかに白し

 串に鯨をあぶる盃        桐葉

 

がある。

 捕獲したクジラの骨が砂浜に取り残されていて、白子の船頭がそこに桜の木を植える。

 

季語は「花」で春、植物、木類。「浪」は水辺。

 

十八句目

 

   浪よする鯨の骨に花植て

 陰干す於期のかづら這ふ道    叩端

 (浪よする鯨の骨に花植て陰干す於期のかづら這ふ道)

 

 「於期(おご)」はオゴノリのこと。コトバンクの「百科事典マイペディアの解説」に、

 

 「紅藻類オゴノリ科の海藻。日本各地沿岸の潮間帯に生育し,特に内湾や河口付近の砂泥地に大きい群落をつくる。体はひも状で長さ20〜30cm,ときに1m以上となる。枝は体の片側から出ることが多い。刺身のつまとされるが,最近寒天原料として注目を浴びている。」

 

とある。「日本大百科全書(ニッポニカ)の解説」には、

 

 「10世紀の書である『延喜式(えんぎしき)』にも於期菜(おごのり)の名が出ており、食品としての歴史は古い。刺身のつまによく出る鮮青色のこりこりとした海藻がオゴノリで、採取後に木灰や生石灰にまぶして保蔵し、使用前に熱湯に漬けて戻したものである。このとき鮮青色に変色する。採取後の取扱いが不適当だと、よい色が出ない。」

 

とある。句の方もその採取後の処理の段階で砂浜に広げられている状態が「かづら這ふ道」のように見える、ということ。

 

季語は「於期」で春、水辺。

二表

十九句目

 

   陰干す於期のかづら這ふ道

 笠持て霞に立る痩男       芭蕉

 (笠持て霞に立る痩男陰干す於期のかづら這ふ道)

 

 海辺を行く旅人、痩せているのは古代の流刑人をイメージしてのものか。

 

季語は「霞」で春、聳物。旅体。「痩男」は人倫。

 

二十句目

 

   笠持て霞に立る痩男

 五重の塔のほとり夕暮      桂楫

 (笠持て霞に立る痩男五重の塔のほとり夕暮)

 

 痩男を巡礼者とする。肉や魚を食わないので痩せている。

 

無季。釈教。

 

二十一句目

 

   五重の塔のほとり夕暮

 鶺鴒の尾を蜘の囲に懸られて   叩端

 (鶺鴒の尾を蜘の囲に懸られて五重の塔のほとり夕暮)

 

 セキレイは長い尾を上下に振る習性があり、「にわなふり」の別名がある。その尾が罠にかかってしまった。

 謡曲『大会(だいえ)』の法成寺で、御遊覧のために鳶になった太郎坊が榎で蜘蛛の囲にかかって捕らえられた場面を踏まえたものか。

 

無季。「鶺鴒」は鳥類。

 

二十二句目

 

   鶺鴒の尾を蜘の囲に懸られて

 風に身を置けふの討死      桐葉

 (鶺鴒の尾を蜘の囲に懸られて風に身を置けふの討死)

 

 謡曲『土蜘蛛』では僧に化けた土蜘蛛が糸を放って頼光に襲い掛かるが、膝丸という刀で返り討ちに会う。

 「風に身を置(おく)」というのは糸を使って空を飛ぶ蜘蛛のことであろう。

 

無季。

 

二十三句目

 

   風に身を置けふの討死

 筆とりて朴の広葉を引撓め    叩端

 (筆とりて朴の広葉を引撓め風に身を置けふの討死)

 

 戦場で紙がなく、朴の葉に辞世の歌を書き付ける。

 

無季。「朴」は植物、木類。

 

二十四句目

 

   筆とりて朴の広葉を引撓め

 田舎祭リに物見そめたる     東藤

 (筆とりて朴の広葉を引撓め田舎祭リに物見そめたる)

 

 田舎だから朴木の葉に恋文を書く。

 

無季。恋。

 

二十五句目

 

   田舎祭リに物見そめたる

 うちかづく前だれの香をなつかしく 桂楫

 (うちかづく前だれの香をなつかしく田舎祭リに物見そめたる)

 

 『源氏物語』の花散里巻に、

 

 たち花の香をなつかしみほととぎす

     はなちる里をたづねてぞとふ

 

の歌がある。本歌は言わずと知れた、

 

 五月待つ花橘の香をかげば

     昔の人の袖の香ぞする

            よみ人しらず(古今集)

 

になる。

 江戸時代には仕事着としての前垂れが普及した。前垂れにその仕事場の匂いが染みついていたのだろう。祭りの時に肩に羽織っている前垂れの香りに、それと同じ匂いがした。

 

無季。恋。「前だれ」は衣裳。

 

二十六句目

 

   うちかづく前だれの香をなつかしく

 たはれて君と酒買にゆく     芭蕉

 (うちかづく前だれの香をなつかしくたはれて君と酒買にゆく)

 

 「たはる」はweblio古語辞典の「学研全訳古語辞典」に、

 

 「①みだらな行為をする。色恋におぼれる。

  出典徒然草 三

  「さりとて、ひたすらたはれたる方(かた)にはあらで」

  [訳] そうはいっても、すっかり色恋におぼれているというのではなくて。

  ②ふざける。たわむれる。

  出典万葉集 一七三八

  「容(かほ)よきによりてそ妹(いも)はたはれてありける」

  [訳] 自分が美貌であるからと恋人はふざけているのだよ。

  ③くだけた態度をとる。

  出典源氏物語 藤裏葉

  「公(おほやけ)ざまは、たはれてあざれたる方(かた)なりし」

  [訳] 表向きには、くだけた態度をとって、儀式ばらない人であった。」

 

とある。

 人目を忍んで前垂れを頭にかぶり、酒を買いに行く。

 

無季。恋。「君」は人倫。

 

二十七句目

 

   たはれて君と酒買にゆく

 銀の鉢に鮊およがせて      桐葉

 (銀の鉢に鮊およがせてたはれて君と酒買にゆく)

 

 鮊は白魚(しらうお)。生きたまま鉢に入れて踊り食いにする。

 シラウオというと桑名での句に、

 

 あけぼのやしら魚しろきこと一寸 芭蕉

 

の句があり、この地方ではシラウオは冬の魚になっている。

 

季語は「鮊」で冬。

 

二十八句目

 

   銀の鉢に鮊およがせて

 おほん帰京の時を占ふ      工山

 (銀の鉢に鮊およがせておほん帰京の時を占ふ)

 

 シラウオは体が透き通っていて、その脳の形が徳川家の葵の紋に見えるということで、徳川家康が吉兆として献上させたという。

 シラウオはとりあえず吉。

 

無季。

 

二十九句目

 

   おほん帰京の時を占ふ

 韃靼の東の寺の月凄く      東藤

 (韃靼の東の寺の月凄くおほん帰京の時を占ふ)

 

 韃靼はコトバンクの「精選版 日本国語大辞典の解説」に、

 

 「〘名〙 蒙古系部族の一つ。八世紀に東蒙古にあらわれ、モンゴル帝国に併合された。宋では蒙古を黒韃靼、オングートを白韃靼と称し、明では元滅亡後北にのがれた蒙古民族を、韃靼と呼ぶ。タタール。

  ※百丈清規抄(1462)一「元朝は韃靼から出て天下を伐て取たほどに、中国の語とは別なぞ」

 

とある。

 多分当時の一般の人の間では正確な位置感覚はなく、とにかくもろこしよりももっと遠いところ、ぐらいの認識ではなかったかと思う。『韃靼人狩猟図屛風』などに描かれた集団で虎を狩る馬に乗った狩人がいるとか、そういうイメージだったのではないか。

 そんなはるか異国の地で月を見ながら故郷を思うのは、

 

 天の原ふりさけ見れば春日なる

     三笠の山に出でし月かも

            安倍仲麿(古今集)

 

の心であろう。

 

季語は「月」で秋、夜分、天象。

 

三十句目

 

   韃靼の東の寺の月凄く

 猿手の粟の何をまねくぞ     叩端

 (韃靼の東の寺の月凄く猿手の粟の何をまねくぞ)

 

 中世から江戸前期の絵画に描かれる猿は中国絵画を写し取ったテナガザルの絵で、猿手はそのテナガザルのような、長い指のまっすぐ伸びずに曲がったままで、拇指対向のない手をそう呼んでいたのではないかと思う。粟の垂れ下がった穂が猿の手のようで、招いているように見える。

 正中神経麻痺の指も猿手と呼ばれるのはそういうことだと思う。

 

季語は「粟」で秋、植物、草類。

二裏

三十一句目

 

   猿手の粟の何をまねくぞ

 蝉鳴てまだ渋柿の秋の空     芭蕉

 (蝉鳴てまだ渋柿の秋の空猿手の粟の何をまねく)

 

 猿と柿は付け合いになるが、この頃今のような形の『猿蟹合戦』の物語があったかはわからない。

 粟は実って猿の手が仲間の猿を呼んでいるようにも見えるが、まだ秋も浅く蝉も鳴いていて柿も熟していない。

 

季語は「秋の空」で秋。「蝉」は虫類。

 

三十二句目

 

   蝉鳴てまだ渋柿の秋の空

 草屋幽に馬の尾の琴       工山

 (蝉鳴てまだ渋柿の秋の空草屋幽に馬の尾の琴)

 

 「馬の尾の琴」は二胡であろう。馬の尾で作った弓で弾くこの楽器は古くは胡琴と呼ばれていた。やはり隠元和尚と一緒に来た人たちが唐茶とともに広めたんではないかと思う。

 

無季。「草屋」は居所。

 

三十三句目

 

   草屋幽に馬の尾の琴

 哀なる乗物焼て帰る野に     東藤

 (哀なる乗物焼て帰る野に草屋幽に馬の尾の琴)

 

 江戸時代には今のような独立した火葬場はなく、お寺の墓所の一角で火葬にしたという。そこまで棺を運ばなくてはならないから、そこまでは駕籠か大八車か何らかの乗物があったのだろう。

 帰り道ではお寺のどこからか胡琴の物悲しい音が聞こえてくる。

 

無季。哀傷。

 

三十四句目

 

   哀なる乗物焼て帰る野に

 入日の跡の星二ッ三ッ      桐葉

 (哀なる乗物焼て帰る野に入日の跡の星二ッ三ッ)

 

 星を詠んだ句は珍しい。今で言えば二番星三番星というところだろう。特に死んで星になるという観念はなかっただろう。

 

無季。「星」は夜分、天象。

 

三十五句目

 

   入日の跡の星二ッ三ッ

 宮守が油さげつも花の奥     芭蕉

 (宮守が油さげつも花の奥入日の跡の星二ッ三ッ)

 

 「宮守(みやもり)」はコトバンクの「精選版 日本国語大辞典の解説」に、

 

 「〘名〙 宮の番をすること。神社の番をすること。また、その人。神社の番人。神官。〔延喜式(927)〕

  ※謡曲・蟻通(1430頃)「神は宜禰が慣らはしとこそ申すに、宮守りひとりもなきことよ」

 

とある。神主とは限らない。

 花の奥にある社の灯篭に火を灯すために油を下げて行く。

 謡曲『蟻通』には、

 

 「社頭を見れば燈火もなく、すずしめの声も聞こえず。神は宜禰がならはしとこそ申すに、宮守一人もなき事よ。よしよし御燈は暗くとも、和光の影はよも曇ら じ。あら無沙汰の宮守どもや。」(野上豊一郎. 解註謡曲全集 全六巻合冊(補訂版) (Kindle の位置No.47728-47735). Yamatouta e books. Kindle 版. )

 

とあり、御燈を灯すのが宮守の仕事だった。

 

季語は「花」で春、植物、木類。神祇。

 

挙句

 

   宮守が油さげつも花の奥

 つつじのふすま着たる西行    桂楫

 (宮守が油さげつも花の奥つつじのふすま着たる西行)

 

 『校本芭蕉全集 第三巻』は、

 

 木のもとに旅寝をすれば吉野山

     花の衾を着する春風

             西行法師(山家集)

 

の歌を引いている。

 衾(ふすま)はコトバンクの「ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典の解説」に、

 

 「被とも書く。寝具の一種。現在の掛けぶとんのようなもので,平安時代から宮中で用いられた。長さ約8尺 (約 240cm) の四角形で,袖も縁もないが,首のほうに紅の練り糸を太くひねって2筋並べ3針さして目印とした。一般にも紙衾などが用いられたが,東北地方には,袖や襟のついた着物の形をした夜衾がある。」

 

とある。花の下に眠ると散った桜が部屋に入ってきて衾の上に乗り、花の衾みたいになる。

 ここではそれを「つつじのふすま」に変えるが、ツツジは散っても風に舞わないので桜のようにはいかない。

 

季語は「つつじ」で春、植物、木類。