『蛙合』を読む


 

 言の葉の種をも春やまきもくの

     やまだの水に鳴くかはづかな

              正徹(永享九年正徹詠草)

 

 

 蛙は『古今集』仮名序に、

 

 「花になくうぐひす、水にすむかはづのこゑをきけば、いきとしいけるもの、いづれかうたをよまざりける。」

 

とあるように、和歌の起源と結びつけられて考えられてきた。鶯が鳴き、蛙が鳴くように、人間の大和歌もまた、人間の持つ自然の感情から溢れ出る、自然の声なんだというのが根底にある。

 今日の喜納昌吉の「花は花として笑いもできる/人は人として涙も流す/それが自然の唄なのさ」にまで受け継がれている歌の起源論だ。

 蛙の歌は、その意味では和歌やそこから派生した連歌や俳諧にとっても特別な意味を持つ。

 それが人間に喜怒哀楽から発せられる自然の歌というところに、俳諧もまたその基礎を持っている。その意味でも貞享三年春に刊行された『蛙合』は、蕉門の俳諧がこの自然の道にのっとったものであることを広くアピールするものでもあった。

 芭蕉の古池の句自体は天和の終わり頃にできていたというが、これを発表するのにいろいろな準備があり、『野ざらし紀行』の旅で、江戸だけでなく中京や上方の俳諧師たちとも交流を持ち、十分勢力を広げた上での、満を持しての興行だった。

 『蛙合』のテキストは『元禄俳諧集 新日本古典文学大系71』(大内初夫、櫻井武次郎、雲英末雄校注、一九九四、岩波書店)による。

 では、

 

 「一番

   左

 古池や蛙飛こむ水のおと      芭蕉

   右

 いたいけに蛙つくばふ浮葉哉    仙化

   此ふたかはづを何となく設たるに、四となり

   六と成て一巻にみちぬ。かみにたち下におく

   の品、をのをのあらそふ事なかるべし。」

 

 芭蕉の古池の句は支考の『葛の松原』によれば、おそらく天和二年の春、深川に隠棲してそれまでの桃青から芭蕉を名乗るようになった頃、「山吹や蛙飛こむ水の音」の形の句ができて、やがて上五を「古池や」として治定したという。

 山吹の蛙は古歌の趣向で、そこから思い浮かぶものは古歌の知識のなかの井出の玉川の蛙にすぎない。一部の歌枕を訪ね歩く数寄者以外は、どのような景色なのかはただ想像するしかない。

 これが「古池や」になると、誰もがそれぞれ記憶の中にある古池を思い浮かべることができる。田舎には農業用水を溜めておく池があり、また寛文・延宝の頃は新興商人が台頭し、その一方で没落する旧家も多かったし、武家でも廃藩・改易が続き、廃墟となった屋敷の古池もそれほど珍しいものではなかっただろう。

 こうした古池はどこか寂し気で、廃墟ともなればそれこそ幽霊が出そうな不気味な雰囲気もある。そんなところでじゃぼっという濁った水音がきこえて、一瞬ぎょっとすることもあっただろう。

 そういうわけで、古池の蛙の水音は当時の人にとって、幼少期の共通体験のような者を呼び起こす「あるある」だったのではなかったかとおもう。どこか懐かしく、どこか寂し気で、不気味な怖さも感じさせる、そんな原体験を呼び起こしたのではなかったかと思う。

 荒れ果てた古池はまた、古典の情にも通じている。それは『伊勢物語』第四段の、

 

 月やあらぬ春や昔の春ならぬ

     わが身ひとつはもとの身にして

               在原業平

 

の歌で、

 

 「またの年の睦月に梅の花ざかりに、去年を恋ひていきて、立ちて見、ゐて見、見れど去年に似るべくもあらず。うち泣てあばらなる板敷に、月のかたぶくまでふせりて、去年を思ひいでてよめる。

 

 月やあらぬ春や昔の春ならぬ

     わが身ひとつはもとの身にして

 

とよみて、夜のほのぼのと明くるに、泣く泣くかへりにけり。」

 

と続く。

 春なのに昔と変わった姿に、目出度いはずの梅も月も涙を催すものになる。

 あるいは杜甫の春望のように、「時を感じては花にも涙を濺ぎ、別れを恨んでは鳥にも心を驚かす」の心にも通じる。

 古池の句はこうした個人体験と古典の悲しい場面を繋ぐもので、それが多くの人の感動させ、当時の身分の低いものや子供に至るまで、誰しも知らない者のないような大ヒットとなった。

 この時はまだそれがいよいよ発表されるという段階だったが、事前にこの句を知らされた門人たちは感動に打ち震え、これをとにかくいかに効果的に世に伝えるかに腐心することとなったのだろう。それがこの『蛙合』だった。

 実際に来られる門人だけでも集まって、公開の興行として行われたかもしれない。立ち会えた人は少なくても、噂口コミは馬鹿にならない。こうしたこともプロモーションとしては重要だったのではないかと思う。

 さて、句合なら、この古池の句と並べる句はといったとき、いくつか候補に挙がりながらも定まったのが、この、

 

 いたいけに蛙つくばふ浮葉哉    仙化

 

の句だったのだろう。

 一見何でもないような句だが、「蛙つくば」という文字が隠されている。つまり連歌の準勅撰集『菟玖波集』『新撰菟玖波集』があり、その俳諧版として俳諧の祖と呼ばれる山崎宗鑑が編纂した『新撰犬筑波集』があったので、それに倣う形で、この『蛙合』を「蛙菟玖波集」としてアピールする意図が隠されていたのではないかと思う。

 この言葉遊びを別にしても、浮葉の上にいたいけに這いつくばう蛙の姿は可愛らしくも不安げで、そこにはあの蛙があたかも自分の姿であるような共感を誘う。こうした生命への共感と憐憫は、のちに「細み」と呼ばれるようになった。

 まあ、もっと大きく言うなら、人生というのはほんの小さな浮葉の上に漂うようなものだ、と言ってもいいかもしれない。死と無常の虚無の海に浮かぶほんのの小さな浮葉のような命。そう思えばこの句は十分古池の句と張り合える。

 この二句をつがわせた所で蛙合興行は始まる。この二句について勝ち負けの判定はない。

 

 「第二番

   左勝

 雨の蛙声高になるも哀也      素堂

   右

 泥亀と門をならぶる蛙哉      文鱗

   小田の蛙の夕ぐれの声とよみけるに、雨のか

   はづも声高也。右、淤泥の中に身をよごして、

   不才の才を楽しみ侍る亀の隣のかはづならん。

   門を並ぶると云たる、尤手ききのしはざな

   れども、左の蛙の声高に驚れ侍る。」

 

 雨の蛙というと、

 

 三稜草這う汀の真菰うちそよぎ

     蛙鳴くなり雨の暮方

               藤原定家(夫木抄)

 

の歌があり、室町時代の和歌になると、

 

 俄なる夏の雨風くもりきて

     木末の蛙こゑしきるなり

               正徹(草魂集)

 深小田に妻呼ぶ蛙雨降れば

     いとど惜しまぬ夕暮れの声

               肖柏(春夢草)

 

といった歌も出て来る。雨の蛙の声高はこうした流れの延長線上にあるもので、判定の言葉にある「小田の蛙の夕ぐれの声」は、

 

 折にあへばこれもさすがに哀れなり

     小田の蛙の夕ぐれの声

               藤原忠良(新古今集)

 

の歌は雨ではないが「さすがに哀れなり」の情を受け継いでいる。

 古典の王朝時代から中世和歌への引き継がれていった風雅の心を、「声高」という俗語で表す所に手柄があったといえよう。

 泥亀は「不才の才を楽しみ侍る亀」で、これは『荘子』秋水編の、

 

 莊子持竿不顧、曰「吾聞楚有神龜、死已三千歲矣、王巾笥而藏之廟堂之上。此龜者、寧其死為留骨而貴乎。寧其生而曳尾於塗中乎。」

 二大夫曰「寧生而曳尾塗中。」

 莊子曰「往矣!吾將曳尾於塗中。」

 

であろう。

 楚の国に祀られている神亀は死して三千年廟堂に保管されているが、この亀は死んで甲羅を残すよりも、むしろ生きて泥の中で尾を曳いていたかったのではないか、という荘周の問いに、二人の大夫が尤もだと同意したので、なら吾も泥の中で尾を曳いていよう、と仕官の話を断る場面だ。

 「不才の才」は無用の用と同じ言い方で、才能のないがために政争に巻き込まれずに永らえるという、隠士の心をいう。

 蛙もまたこの隠士たる亀を隣として、悠々と生きている、という句だ。「手利き」の句ではあるが、理に走って余生に乏しいということで、声高の句の勝ちになる。

 

 「第三番

   左勝

 きろきろと我頬守る蛙哉      嵐蘭

   右

 人あしを聞しり顔の蛙哉      孤屋

   左、中の七文字の強きを以て、五文字置得て

   妙なり。かなと留りたる句々多き中にも、此

   句にかぎりて哉といはずして、いづれの文字

   をかおかん。誠にきびしく云下したる、鬼

   拉一体、これらの句にや侍らん。右、足

   音をとがめて、しばし鳴やみたる、面白く侍

   りけれ共、左の方勝れて聞侍り。」

 

 嵐蘭の句は「我頬(わがつら)守る」の中七文字が生命だという。「我面」と書いた方が分かりやすいが、「つら」には単に顔というだけの意味ではなく、「つらを汚す」というように、体面という意味もある。

 「頬(ほほ)」だとすると、芥川龍之介の『芭蕉雑記』の中に、

 

 「芭蕉は北枝との問答の中に、「我句を人に説くは我頬がまちを人に云がごとし」と作品の自釈を却けてゐる。」

 

とあるが、「頬がまち」という場合は外面ではなく、その隠された部分という意味がある。

 頬は顔の輪郭を構成する重要な部分で、「頬歪む」は事実をゆがめるという意味を持つ。

 ただ、この場合は頬の字は当てるが「ツラ」を守るなので、体面を保つとか、体裁を取り繕うだとかそういうニュアンスがあるように感じられる。きろきろと鳴きながら顎を膨らませている姿は、どこか威張っているような印象を与える。

 「きろきろ」は蛙の鳴き声と思われるが、コトバンクの「精選版 日本国語大辞典「きろきろ」の解説」に、

 

 「〘副〙 (多く「と」を伴って用いる) 目などの光るさま、また、落ち着きのない目つきを表わす語。

  ※狭衣物語(1069‐77頃か)三「おとどはよしな。嵯峨の院こそ、頭はきろきろと、恐ろしげなれ」

 

とある。この場合、発音は「ぎろぎろ」で、今でいう「じろじろ」ではないかと思う。

 ここでは単に蛙の鳴き声で、ケロケロ鳴きながら体面を保っている蛙ではないかと思う。

 哉は治定の哉で、単なるストレートな断定ではなく、「そうだろうか」と一度疑いならの「やはりそうだ」という主観的な断定になる。「我頬守る」は人間の側からの擬人化で、人間の側の感情の投影なので、単純な断定ではなく治定の「哉」がふさわしい。関西弁っぽく言えば「我が頬守ってんがな」だ。

 「鬼拉一体」は拉鬼体(らっきてい)で、コトバンクの「精選版 日本国語大辞典「拉鬼体」の解説」に、

 

 「〘名〙 藤原定家がたてた和歌の十体の一つ。強いしらべの歌。のち、能楽の風体にも用いられた語。拉鬼様。→十体(じってい)②(ハ)。

  ※毎月抄(1219)「かやうに申せばとて必ず拉鬼躰が歌のすぐれたる躰にてあるには候まじ」

 

とある。鬼を拉(ひさ)ぐ、つまり鬼を押しつぶすということで、力で圧倒するような体をいう。

 例として定家は十二首の歌を掲げているが、その冒頭の歌は、

 

 ながれ木とたつ白波とやく塩と

     いづれかからきわたつみのそこ

               菅原道真(新古今集)

 

で、掛詞や縁語などの小細工がなく「いづれかからき」に力が込められている。

 孤屋の句は人が近づいてくる足音を知っているかのように、人が来るとかたっと鳴き止むという句で、あるあるネタとしてはわかるが、「人あしを聞しり顔」はわりと普通の言い回しで、「我頬守る」ほどのインパクトはない。「我頬守る」の勝ちになる。

 

 「第四番

   左持

 木のもとの氈に敷るる蛙哉     翠紅

   右

 妻負て草にかくるる蛙哉      濁子

   飛かふ蛙、芝生の露を頼むだにはかなく、花

   みる人の心なきさま得てしれることにや。つ

   まおふかはづ草がくれして、いか成人にかさ

   がされつらんとおかし、持。」

 

 氈(せん)は毛織の敷物のことで、花見のなどの時に貧乏人は筵を敷いて金持ちは毛氈を敷く。

 そのため「氈に敷るる」は「花みる人の心なきさま」の連想にすぐに結びついた。毛氈を敷く時に慌てて逃げて行く小さな蛙の姿が浮かんでくる。どことなく、庶民を蹴散らして行くお偉いさんの風姿のようにも見える。

 「妻負(おう)て」の句もそうやって逃げて行く蛙の姿で、生物学的に言うなら、上にいる方が雄であろう。古語だと「妻」は夫婦両方の意味があるから、どっちでもいいことではあるが。

 まあ、交尾の最中に邪魔されてそのまま逃げてゆくわけだが、古典の風雅の情としては、『伊勢物語』第六段の鬼一口であろう。絵に描く時には在原業平が女をおんぶして逃げる場面が描かれている。

 「いか成人にか探されつらん」は、見つかったら鬼一口だぞ、という意味だろう、そういう想像が膨らむ所でも、この句も捨てがたく、持ち、つまり引き分けになる。

 

 「第五番

   左

 蓑うりが去年より見たる蛙かな   李下

   右勝

 一畦はしばし鳴やむ蛙哉      去来

   左の句、去年より見たる水鶏かなと申さまほ

   し。早苗の比の雨をたのみて、蓑うりの風情

   猶たくみにや侍るべき。右、田畦をへだつる

   作意濃也。閣々蛙声などいふ句もたより

   あるにや。長是群蛙苦相混、有時也作

   不平鳴といふ句を得て以て力とし、勝。」

 

 蓑売はその言葉の意味は蓑を売り歩く人だが、どういう人たちだったのか、その実態はよくわからない。簑笠は田植の時の晴れ姿でもあるから、田植の前に売り歩くものなのだろう。

 簑笠が単なる雨具ではなく神具の意味があったとするなら、そういった関係者なのだろう。

 簑笠は田植だけでなく、竹植える日(旧暦五月十三日)の晴れ姿でもあった。

 

 降らずとも竹植うる日は蓑と笠   芭蕉

 

の句がある。

 その蓑笠売りが去年と同じように、売り歩く時に蛙を見るということで、別に同一個体という意味ではない。蛙の個体識別は無理だろうし。

 季節的には春の蛙だとやや早く、夏の水鶏(くいな)の方がふさわしかったのだろう。風情はあるが、そこが疵になる。

 「一畦は」の句も、蛙という題材ながら初夏の田植の頃を連想させるという意味で、「蓑売」の句と対になったのだろう。片方の田に人が入れば、その田だけ一枚、蛙の声が止む。

 「閣々蛙声」の句は『元禄俳諧集 新日本古典文学大系71』の注に、

 

 「円機活法二十四・蛙の箇所に「濮陽伝詩」として「閣閣の蛙声聞くべからず」をあげる」とある。

 その詩は蛙ではなく蜂の所に、

 

   濮陽傳詩

 過再花飛暮色殷 浮沉風遣月穿雲

 夜來魚卵乖春夢 閣閣蛙聲不可聞

 

とある。

 「長是群蛙苦相混、有時也作不平鳴」の句は蝶の所に、

 

 長是群蛙苦相混 乗時不羨雲溟樂 城邊鼾睡休驚醒

 有時也作不平鳴 口作儀同鼓吹聲 免使三軍動戦情

 

とある。

 蛙軍(かへるいくさ)は、

 

 歌軍文武二道の蛙かな       貞室

 

の句があり、歌を詠む蛙とともに俳諧のネタになっていた。

 蛙軍はコトバンクの「精選版 日本国語大辞典「蛙軍」の解説」に、

 

 「〘名〙 蛙が群集して、争って交尾すること。多くの蛙が戦っているさまに似ているところからいう。早春にアカガエル、ヒキガエルが行なう。がま合戦。蛙合戦。かわずいくさ。」

 

とある。

 去来の句もそのネタで、強いものが来ると軍は収まるが、その力の及ばない所で蜂起するという風刺を込めていたか。その寓意を取って勝ちとする。

 

 「第六番

   左持

 鈴たえてかはづに休む駅哉     友五

   右

 足ありと牛にふまれぬ蛙哉     琪樹

   春の夜のみじかき程、鈴のたへまの蛙、心に

   こりて物うきねざめならんと感太し。右、

   かたつぶり角ありとても身をなたのみそとよ

   めるを、やさしく云叶へられたり。野径のか

   はづ眼前也、可為持。」

 

 駅が「むまや」と読む。馬屋のことで宿場の伝馬のいる所であろう。コトバンクの「日本大百科全書(ニッポニカ)「伝馬」の解説」に、

 

 「徳川家康は1601年(慶長6)に公用の書札、荷物の逓送のため東海道各宿に伝馬制度を設定した。徳川家康は「伝馬之調」の印判、ついで駒牽(こまひき)朱印、1607年から「伝馬無相違(そういなく) 可出(いだすべき)者也」の9字を3行にして縦に二分した朱印を使用し、この御朱印のほかに御証文による場合もある。伝馬役には馬役と歩行(かち)役(人足役)とがあり、東海道およびその他の五街道にもおのおの規定ができた。

 

 伝馬は使用される際には無賃か、御定(おさだめ)賃銭のため、宿には代償として各種の保護が与えられたが、一部民間物資の輸送も営業として認めた。伝馬制度は前述のとおり公用のためのものであったから、一般物資の輸送は街道では後回しにされた。武士の場合でも幕臣が優先されている。民間の運送業者、たとえば中馬(ちゅうま)などが成立して伝馬以外の手段が私用にあたった。1872年(明治5)に各街道の伝馬所、助郷(すけごう)が廃止された。」

 

とある。伝馬ではあっても、一般の貨物の輸送も行い、忙しい時には駆り出されたようだが、ここでは伝馬の鈴も鳴らない夜の間は辺りでは蛙が鳴き、それを聞きながら馬がゆっくり休んでいる。

 なお、駅の鈴は、『和漢朗詠集』に、

 

 漁舟火影寒焼浪。駅路鈴声夜過山。

 秋夜宿臨江駅 杜荀鶴

 

とある。

 「足ありと」の句は、

 

 牛の子に踏まるな庭のかたつぶり

     角のあればとて身をば頼みそ

               寂蓮法師(夫木抄)

 

の歌を踏まえて、カタツムリと違って蛙にはぴょんと跳ねる立派な足があるから、牛に踏まれることもない、とする。

 馬の蛙の声を聞きながらの、仕事に追われることのない穏やかな朝のけだるい雰囲気もさることながら、蛙の牛に踏まれることを心配し、気遣う「細み」も捨てがたく、引き分けとする。

 

 「第七番

   左

 僧いづく入相のかはづ亦淋し    朱絃

   右勝

 ほそ道やいづれの草に入蛙     紅林

   雨の後の入相を聞て僧寺にかへるけしき、さ

   ながらに寂しく聞え侍れども、何れの草に入

   かはづ、と心とめたる玉鉾の右を以て、左の

   方には心よせがたし。」

 

 「雨の後の入相を聞て僧寺にかへるけしき」は、『和漢朗詠集』の、

 

 蒼茫霧雨之晴初。寒汀鷺立。重畳煙嵐之断処。晩寺僧帰。

 閑居賦 張読

 

を踏まえたもので、ここでは入相の鐘ではなく、雨上がりの蛙の鳴き声に僧が帰るとする。古典の情を受けついて、「入相の蛙」と卑俗に落とすパターンだ。ただ、これだとオリジナルの「閑居賦」の情を越えられない。」

 「ほそ道や」の句が何で僧の句と並べられたのかというと、おそらく『和漢朗詠集』つながりで、

 

 帰谿歌鴬更逗留於孤雲之路。辞林舞蝶還翩翻於一月之花。

 今年又有春序 源順

 

と対にしたのであろう。鶯の孤雲之路の逗留を元にしながらも、細道の蛙は逗留する草すらないという哀れさで、羇旅の哀愁もあっての勝ちとする。

 

 「第八番

   左

 夕影や筑ばに雲をよぶ蛙      芳重

   右勝

 曙の念仏はじむるかはづ哉     扇雪

   左、田ごとのかはづ、つくば山にかけて雨を

   乞ふ夕べ、句がら大きに気色さもあるべし。

   右、思ひたへたる暁を、せめて念仏はじむる

   草庵の中、尤殊勝にこそ。」

 

 筑波の蛙というと蝦蟇の油の縁がある。ウィキペディアに、

 

 「ガマの油の由来は大坂の陣に徳川方として従軍した筑波山・中禅寺の住職であった光誉上人の陣中薬の効果が評判になったというものである。「ガマ」とはガマガエル(ニホンヒキガエル)のことである。主成分は不明であるが、「鏡の前におくとタラリタラリと油を流す」という「ガマの油売り」の口上の一節からみると、ガマガエルの耳後腺および皮膚腺から分泌される蟾酥(せんそ)ともみられる。蟾酥(せんそ)には強心作用、鎮痛作用、局所麻酔作用、止血作用があるものの、光誉上人の顔が蝦蟇(がま)に似ていたことに由来しその薬効成分は蝦蟇や蟾酥(せんそ)とは関係がないともいわれている。主成分については植物のガマの花粉「蒲黄(ほおう)」とする説やムカデを煮詰めた「蜈蚣(ごしょう)」、馬油とする説もある。」

 

とある。蝦蟇の油はこの頃からあったものの、あの有名な口上は、わりと最近の物とも言われている。江戸時代にあったかどうかはよくわからない。

 第一番の仙化の句の「蛙つくばふ」も、蛙と筑波の縁によるものと思われる。

 筑波山の雲は、

 

 君が代は白雲かかる筑波ねの

     峰の続きの海となるまて

               能因法師(詞花集)

 

の賀歌にも詠まれている。そのお目出度い筑波山の雲を、雨を欲しがる筑波山の蛙たちが呼んだものだとする。雨は農耕に欠かせぬもので、春の時期の雨は田植の水としても重要になる。

 蛙の声に筑波山の雨を呼び、豊年満作を願うスケールの大きさは認められる。

 これに対し暁の念仏は、

 

 ものをのみ思ひ寝覚め枕には

     涙かからぬ暁ぞなき

               源信明(新古今集)

 

の心か。この思いを断つために出家し、せめては草庵に念仏を唱える尼僧とする。

 神祇と釈教の対決ではあるが、ここでは本地たる釈教の勝利とする。

 

 「第九番

   左勝

 夕月夜畦に身を干す蛙哉      琴風

   右

 飛かはづ猫や追行小野の奥     水友

   身をほす蛙、夕月夜よく叶ひ侍り。右のかは

   づは、当時付句などに云ふれたるにや。小の

   のおく取合侍れど、是また求め過たる名所と

   や申さん。閑寥の地をさしていひ出すは、一

   句たよりなかるべきか。ただに江案の強弱を

   とらば、左かちぬべし。」

 

 田舎の蛙というテーマか。

 夕暮れで虫が獲れなくなると、蛙も畦に上がってじっとしていることもあるのだろう。それを亀の甲羅干しみたいに「身を干す」と言い表している。まだ日の光りの残る夕月夜の頃だから、その情景が見られる。

 真っ暗になると、今度は一斉に鳴きだす。その前の時間の感覚が良く表れている。

 猫が蛙を追いかけるというのはありそうなことだが、それだけだと発句の題材としては弱く、付け句の体になる。そこを「小野」という名所に詠む所で発句らしく仕上げようとしたが、閑寂な山科の小野にふさわしくないという所で、「夕月夜」の句の勝ちになる。

 どちらも蛙の長閑さがテーマになるというところでの組み合わせであろう。

 山科の小野は「石田(いはた)の小野」「小野の細道」などが歌枕になっていて、

 

 今はしも穂に出でぬらむ東路の

     石田の小野のしののをすすき

               藤原伊家(千載集)

 秋といへば石田の小野のははそ原

     時雨もまたず紅葉しにけり

               覚盛法師(千載集)

 眞柴刈る小野のほそみちあとたえて

     ふかくも雪のなりにける哉

               藤原為季(千載集)

 

などの歌に詠まれている。

 

 「第十番

   左

 あまだれの音も煩らふ蛙哉     徒南

   右勝

 哀にも蝌つたふ筧かな       枳風

   半檐疎雨作愁媒鳴蛙以与幽人語、な

   どとも聞得たらましかば、よき荷担なるべけ

   れども、一句ふところせばく、言葉かなはず

   思はれ侍り。かへる子五文字よりの云流し、

   慈鎮・西行の口質にならへるか。体かしこけ

   れば、右、為勝。」

 

 雨だれ、筧と居所の蛙の対決になる。

 「半檐疎雨作愁媒鳴蛙以与幽人語」は『元禄俳諧集 新日本古典文学大系71』の注に、

 

 「この詩句は増補国華集の「雨」の項に載る「●半檐の疎雨愁媒を作す[石門]●空階余滴有り、幽人と語るに似たり[坡]によるもので、前半は釈恵洪の石門文字禅の「和余慶長春十首」の一句、後半は蘇東坡の「秋懐二首」中の二句で、後半に「鳴蛙」の語を冠して七言詩の一句のごとくに仕立てたもの(石川八郎説)。」

 

とある。

 『増補国華集』は漢詩を作る人のためのネタ帳のようなもので、そこには、

 

 「●半檐の疎雨愁媒を作す[石門]●空階余滴有り、幽人と語るに似たり[坡]」

 

とのみある。この語句を用いて、判者の言葉として「鳴蛙以」を付け加えて、庇の雨だれにの愁いに帰ると語らうというふうに作っている。

 ただ、この情を引き出すには「あまだれの」の句は言葉足らずでわかりにくい。

 「あまだれの音に煩らふにも、蛙哉」であろう。「も」は強調の「も」(力も)で、雨だれの音にこそ煩わされるが、そこには友となる蛙がいる。

 それを倒置にして「も」を「煩らふ」の前に持ってきて「あまだれの音も煩う」としている。ただ、この句だと、蛙が雨だれに煩っているように聞こえてしまう。

 蝌は「かへるご」と読む。オタマジャクシのこと。「あはれにも」の上五から一気に読み下す作風は、

 

 あはれいかに草葉の露のこほるらむ

     秋風立ちぬ宮城野の原

               西行法師(新古今集)

 いつまでか涙くもらで月は見し

     秋待ちえても秋ぞ恋しき

               慈円(新古今集)

 

などにも通じるということか。

 小川から水を汲むための筧にオタマジャクシが流れて来るのを見て、「哀れにも」と強く感情をこめる、その句の姿が評価され、この句の勝ちになる。

 

 「第十一番

   左

 飛かはづ鷺をうらやむ心哉     全峰

   右勝

 藻がくれに浮世を覗く蛙哉     流水

   鷺来つて幽池にたてり。蛙問て曰、一足独挙、

   静にして寒葦に睡る。公、楽しい哉。鷺答へ

   て曰、予人に向つて潔白にほこる事を要せず。

   只魚をうらやむ心有、と。此争ひや、身閑に

   意くるしむ人を云か。藻がくれの蛙は志シ高

   遠にはせていはずこたへずといへども、見解

   おさおさまさり侍べし。」

 

 『元禄俳諧集 新日本古典文学大系71』の注に、これも『増補国華集』の鷺の項の、「●静かにして寒葦に眠る雨颼颼」を引用して判の文章を作っている。

 『荘子』に見られるような問答の形で、寒葦の中に悠々と眠る鷺を見て、蛙がそれをうらやむが、鷺が言うには別に殊勝な心があってのことではなく、魚を獲るためだと答える。そうなると、蛙は何を羨んでいるのかよくわからない。

 鷺には鷺の生活があり、蛙には蛙の生活があり、生き物は皆それぞれで多様なのだから、誰しも我が道を行けばいい、余所を羨むな、というところか。

 なるがままに任せよという教えは『荘子』というよりは、『楚辞』の漁父問答に近いかもしれない。

 これに対し藻隠れの蛙は、市隠の生き方に通じる。俗の中にあって、俗に交わりつつ、孤高の心ざしを保つ。

 これは隠者の寓意としての蛙の対決で、迷いの「鷺を羨む蛙」に対し、悟った孤高の「藻がくれ」の蛙に軍配が上がる。

 

 「第十二番

   左持

 よしなしやさでの芥とゆく蛙    嵐雪

   右

 竹の奥蛙やしなふよしありや    破笠

   左右よしありや、よしなしや。」

 

 何だかやる気なさそうな判だ。

 「さで」は叉手のことで、コトバンクの「精選版 日本国語大辞典「叉手・小網」の解説」に、

 

 「〘名〙 掬網(すくいあみ)の一つ。交差させた竹や木に網を張ったもの。また、細い竹や木で輪を作り、平たく網を張って柄を付けたもの。さであみ。すくいあみ。

  ※万葉(8C後)九・一七一七「三川(みつかは)の淵瀬もおちず左提(サデ)さすに衣手濡れぬ干す児は無しに」

 

とある。

 叉手に掛かっても、外道としてそのまま放される。役に立たない故に自由でいられる『荘子』の「無用の用」の心といえよう。

 竹の奥は竹林の七賢だろうか。わざわざ蛙を飼うようなこともなかろう。蛙使いの蝦蟇仙人ならともかく。

 いずれにせよ蛙は無用の用で、「よしなし」の「よしあり」というところだろう。

 

 「第十三番

   左持

 ゆらゆらと蛙ゆらるる柳哉     北鯤

   右

 手をかけて柳にのぼる蛙哉     コ斎

   二タ木の柳なびきあひて、緑の色もわきがた

   きに、先一木の蛙は、花の枝末に手をかけて、

   とよめる歌のこと葉をわづかにとりて、遙な

   る木末にのぞみ、既のぼらんとしていまだの

   ぼらざるけしき、しほらしく哀なるに、左の

   蛙は樹上にのぼり得て、ゆらゆらと風にうご

   きて落ぬべきおもひ、玉篠の霰・萩のうへの

   露ともいはむ。左右しゐてわかたんには、数

   奇により好むに随ひて、けぢめあるまじきに

   もあらず侍れども、一巻のかざり、古今の姿、

   只そのままに筆をさしおきて、後みん人の心

   心にわかち侍れかし。」

 

 柳に蛙というと小野道風で、花札の絵柄にもなっているが、ウィキペディアには、

 

 「道風が、自分の才能を悩んで、書道をあきらめかけていた時のことである。ある雨の日のこと、道風が散歩に出かけると、柳に蛙が飛びつこうと、繰りかえし飛びはねている姿を見た。道風は「柳は離れたところにある。蛙は柳に飛びつけるわけがない」と思っていた。すると、たまたま吹いた風が柳をしならせ、蛙はうまく飛び移った。道風は「自分はこの蛙の努力をしていない」と目を覚まして、書道をやり直すきっかけを得たという。ただし、この逸話は史実かどうか不明で、広まったのは江戸時代中期の浄瑠璃『小野道風青柳硯』(おののとうふうあおやぎすずり : 宝暦4年〈1754年〉初演)からと見られる。その後、第二次世界大戦以前の日本の国定教科書にもこの逸話が載せられて多くの人に広まり、知名度は高かった(戦後の道徳の教科書にも採用されているものがある)。」

 

とある。

 この逸話が広まったのは『蛙合』から八十年も後のことで、蕉門の人たちの知る所ではなかったのだろう。むしろ、道風の逸話の起源がこの『蛙合』第十三番にあった可能性もある。

 「花の枝末に手をかけて、とよめる歌」は『元禄俳諧集 新日本古典文学大系71』の注にもあるとおり、

 

 山吹のしづえの花に手をかけて

     折りしり顔に鳴く蛙かな

               源仲正(夫木抄)

 

の歌のことと思われる。この「手をかけて」の五文字を取って、「柳にのぼる蛙」と展開する。

 この「手をかけて柳に登る」という言い回しは微妙で、時制の曖昧な日本語だと、現在とも現在進行形とも未来とも受け取れる。日本語では「為せば成る」のように、英語ならwillを使うような強い意志を持った未来には現在形を用いる。

 判詞にも「遙なる木末にのぞみ、既のぼらんとしていまだのぼらざるけしき」とあるように「登る」に意志未来、現在進行、まだ完了しないというニュアンスを読み取っている。

 つまりこの句は、蛙が柳の枝に飛びつこうとして、ようやく飛びついて、今まさにさらに上に向かうという一連の流れを表している。この蛙のけなげな姿が、後に小野道風に仮託された可能性が十分にある。

 左の句の方は既に枝に飛びついていて、柳の枝の途中で風にゆらゆら揺られて、落ちまいとしている描写になる。

 「玉篠の霰」は、

 

 もののふの矢並つくろふ籠手のうへに

     霰たばしる那須の篠原

               源実朝(金槐和歌集)

 

 「萩のうへの露」は、

 

 おきあかし見つつながむる萩の上の

     露ふきみだる秋の夜の風

               伊勢大輔(後拾遺集)

 

であろう。

 柳の枝に飛びついた蛙も、風にゆらゆら揺られながら、結局は散ってしまう。

 趣向としてはどちらもよく似ていて甲乙つけがたい。

 「一巻のかざり、古今の姿、只そのままに筆をさしおきて、後みん人の心々にわかち侍れかし。」とあるように、この二句は「一巻の飾り」でありどちらも捨てがたい好句だということで、後の人に判定を任せることになる。よって引き分け。

 その後の人は、結局ここから勝手に小野道風の柳の蛙の寓話を作ってしまい、このオリジナルの二句を忘れてしまったというわけか。

 

 「第十四番

   左持

 手をひろげ水に浮ねの蛙哉     ちり

   右

 露もなき昼の蓬に鳴かはづ     山店

   うき寐の蛙、流に枕して孫楚が弁のあやまり

   を正すか。よもぎがもとのかはづの心、句も

   又むねせばく侍り。左右ともに勝負ことはり

   がたし。」

 

 「孫楚が弁」は「石に漱ぎ流れに枕す」で、ウィキペディアには、

 

 「孫子荊(孫楚)がまだ仕官する前、王武子(王済)に対して隠遁したいと思い「石を枕にして、川の流れで(口を)漱ぎたい(枕石漱流、そのような自然の中での暮らしの意味)」と言おうとしたところ、うっかり「石で漱ぎ、流れを枕にしたい(漱石枕流)」と言い間違えてしまった。すかさず王武子に「流れを枕にできるか、石で口を漱げるか」と突っ込まれると、孫子荊は「枕を流れにしたいというのは、汚れた俗事から耳を洗いたいからで、石で漱ぐというのは、汚れた歯を磨こうと思ったからだよ」と言い訳し、王武子はこの切り返しを見事と思った。感心する意味で「流石」と呼ぶのは、この故事が元という説があるという。」

 

とある。

 蛙なら「流れに枕す」は別に耳を洗うなんて言わなくても、普通に流れの上にいる。「石に漱ぐ」ことはなさそうだが。

 流れに逆らわずに生きるというのは、『楚辞』の漁父問答を思わせる。

 「蓬に鳴かはづ」は「蓬生」という言葉を連想させ、訪ねてく人もなく、草の生い茂った里の侘び暮らしを連想させるが、それ以上にイメージが膨らまない。

 ちりの句は「手をひろげ」の描写が、山店の句は「露もなき昼の」の描写が、今一つ取り囃しとして生きてないような気がする。

 

 「第十五番

   左

 蓑捨し雫にやどる蛙哉       橘襄

   右勝

 若芦にかはづ折ふす流哉      蕉雫

   左、事可然体にきこゆ。雫ほすみのに宿か

   ると侍らば、ゆゆしき姿なるべきにや。捨る

   といふ字心弱く侍らん。右、流れに添てす

   だく蛙、言葉たをやか也。可為勝か。」

 

 捨てられた蓑の雨の雫に濡れる中に蛙がいるというのは、いかにもありそうだ。ただ何で蓑が捨てられたのか、ちょっと気になる。

 「雫干す蓑に宿かる蛙哉」なら、蓑を捨てるという不自然さがなく、雨の中旅する中に、いつの間にか美濃の中に蛙が紛れ込んで、お前もともに旅をして、ここに宿るかという細みの句となる。

 「心弱く」の「心」はこの場合心情のことではなく「意味」という意味で、要するに「蓑捨し」が意味不明ということ。

 若芦の句は、流れのあるところでは、流れにくい若い元気な芦の葉を宿とするという句で、蛙の宿対決になる。特に難がないので「若芦」の句の勝ちになる。

 

 「第十六番

   左

 這出て草に背をする蛙哉      挙白

   右勝

 萍に我子とあそぶ蛙哉       かしく

   草に背をする蛙、そのけしきなきにはあらざ

   れども、我子とあそぶ父母のかはづ、魚にあ

   らずして其楽をしるか。雛鳧は母にそふて

   睡り、乳燕哺烏その楽しみをみる所なり。風

   流の外に見る処実あり、尤勝たるべし。」

 

 蛙が草の中から這い出てきて、その草を背にして座っているという情景は、たしかに「あるある」ではあるが、それのどこが面白いのかよくわからない。

 我が子と遊ぶ蛙は蝌(かえるご)、つまりオタマジャクシと遊んでるということか。浮草の上に座って水面を見つめている蛙は、我が子の遊ぶのを見守っているかのように見える。

 「魚にあらずして」というのは、『元禄俳諧集 新日本古典文学大系71』の注にもあるが、『荘子』秋水編の「知魚楽」で、

 

 莊子與惠子遊於濠梁之上。

 莊子曰「鯈魚出遊從容是魚樂也」

 惠子曰「子非魚安知魚之樂」

 莊子曰「子非我安知我不知魚之樂」

 惠子曰「我非子固不知子矣子固非魚也子之不知魚之樂全矣

 莊子曰「請循其本子曰女安知魚樂云者既已知吾知之而問我我知之濠上也」

 (これは荘子と恵子が濠水の橋に遊びに行った時の話。

 「ハヤが遊んでて楽しそうだな。」

 「そなたは魚ではないのだから、魚が楽しいかどうかなんてわかるはずもない。」

 「なら、おめー、俺じゃないのに、何で俺が魚が楽しいかどうかわからないってのがわかるんかい?」

 「そなたのことは承知しない。ただそなたは魚ではない故、魚が楽しいかどうかわかるはずもないと言っておるのだ。」

 「ちょっ待てよ。『魚が楽しいかどうかなんてわかるはずもない』ってのは、俺がそれをわかっていると知っているからそう言ったんだろっ。俺にはわかるんだよ。この濠水の水辺でね。」)

 

という問答のことであろう。

 この会話がかみ合わないのは、双方の「わかる」の意味が違うからで、共感というのは直感的にはわかるが、正確にわかるわけではないという、それだけのことではある。

 直感は投網のようなもので、投げかけたからと言って、それで魚が取れるかどうかはわからない。だから人は涙話に騙されたりする。直感でこの人は困っているんだと判断しても、実はそれは演技で金をせびろうというだけのものだった、というのはよくある。

 ただ、騙すというのは「わかる」というのが前提になっている。他人の気持ちが最初からわからないなら、苦しそうにうずくまって倒れていても無視して通り過ぎるだけだ。なまじっかわかるばかりに、そこで騙し騙されの駆け引きになるというだけのことだ。

 魚が楽しそうだと思うのは、魚にも感情があるという推量で、誰しもこの推量の能力を持っているという前提で、我々の日常の会話は成り立っている。荘子はそれを言っているだけで、恵子はそれが厳密な認識ではないことを指摘しているだけだ。

 浮草の蛙が我が子であるオタマジャクシを見守りながら一緒に遊んでいるように見える、というのは、この共感能力が生み出す気遣いであり、それを蕉門では「細み」と呼ぶものだが、実際これなしでは我々は他者との関係を築くことができない。

 相手の気持ちが正確に認識できるわけではないが、実際にはこのあやふやな能力なしに社会生活というのは成り立たない。その意味ではこの能力は社会の基礎であり、儒教で言う「仁」の端緒になる。それを表現する所に、「風流の外に見る処実あり」ということになる。

 それは後の言葉で言えば「風雅の誠」ということになる。

 人間ばかりでなく、様々な生き物にこの共感能力をあまねく投げかける所に、この句は単に蛙の草の前に立つという表面的な描写以上の価値がある。それゆえ「萍」の句の勝ちとなる。

 この対決は風流の根幹にかかわるが故に「尤勝たるべし」となる。

 人の心がわかったようでわからないように、魚の心がわかるというのも正解だが、わからないというのも正解になる。わかるというのも大事だが、わからないということを知るのも大事だ。元禄四年の師走に芭蕉はこう詠む。

 

 魚鳥の心は知らず年忘れ      芭蕉

 

 この歳になっても未だ魚鳥の心が本当にわかったわけではない、という自戒であろう。

 

 「第十七番

   左勝

 ちる花をかつぎ上たる蛙哉     宗派

   右

 朝草や馬につけたる蛙哉      嵐竹

   飛花を追ふ池上のかはづ、閑人の見るに叶へ

   るもの歟。朝草に刈こめられて行衛しられぬ

   蛙、幾行の鳴をかよすらん、又捨がたし。」

 

 桜が散って水面に落ちると、最近よく用いられる「花筏」の状態になる。そこを泳ぐ蛙は、頭に桜の花びらを乗っけたりする。見たわけではなくても、いかにもありそうだ。

 桜の花の散る池をのんびり眺めてられるのは、やはり閑人であろう。本当に頭に花びらを乗せた蛙が現れたら、さぞかし感動することであろう。

 朝草の句は、朝刈り取られた草にくっついた蛙は、馬に乗せられ、いずこともなく旅に出る。人生もまた行衛の知れぬ旅と思えば、これもまた感じ入るものもあって捨て難い。

 これは花実の対決であろう。散る花の「花」、行方知れぬ旅の「実」。ここでは花の勝ちとする。

 

 「第十八番

   左持

 山井や墨のたもとに汲蛙      杉風

   右

 尾は落てまだ鳴あへぬ蛙哉     蚊足

   山の井の蛙、墨のたもとにくまれたる心こと

   ば、幽玄にして哀ふかし。水汲僧のすがた、

   山井のありさま、岩などのたたずまひも冷じ

   からず。花もなき藤のちいさきが、松にかか

   りて清水のうへにさしおほひたらんなどと、

   さながら見る心地せらるるぞ、詞の外に心あ

   ふれたる所ならん。右、日影あたたかに、小

   田の水ぬるく、芹・なづなやうの草も立のび

   て、蝶なんど飛かふあたり、かへる子のやや

   大きになりたるけしき、時に叶ひたらん風俗

   を以、為持。」

 

 「墨のたもと」はコトバンクの「精選版 日本国語大辞典「墨の袂」の解説」に、

 

 「墨染めのころも。また、そのたもと。

  ※浄瑠璃・蝉丸(1693頃)五「かさ一本におきふすも身の程かくす我庵と、すみのたもとにすみづきん、経論少々懐中し」

 

とある。

 山に隠棲する僧は、自ら水を汲みに行く。その時に懐に蛙が飛び込んでくる、という情景を思い浮かべればいいか。

 山の井はコトバンクの「精選版 日本国語大辞典「山井」の解説」に、

 

 「〘名〙 山中にある井。山野に自然に水のわき出ている所。山の井。

  ※宇津保(970‐999頃)楼上下「楼の南なる山井のしりひきたるに、浜床(はまゆか)水の上に立てて」

 

とあるように、井戸として掘って造られたものではなく、湧き水などの天然の井戸をいう。

 西行の「とくとくの泉」は芭蕉も『野ざらし紀行』の旅で訪れている。そういった西行の俤もあって「幽玄にして哀ふかし」というところなのだろう。

 思いがけない蛙に春を感じ、岩などもあり見た目に冷え寂びた山居にも、思わず顔をほころばす。

 辺りの自生する松の木に藤の花が咲き、その下を清水が流れる。そんな情景も浮かんでくる。

 一方、尾は落ての句は、オタマジャクシにやがて手足が生え、尻尾が落ちて小さな蛙の姿に変わるその瞬間をとらえたもので、蛙の姿にはなったけど、まだ鳴くことはできない。

 人間であれば元服であろう。子供の成長する姿というのは見ていて微笑ましいものだ。

 この二句は微笑ましい句の対決であろう。一つは隠者の聖なる微笑み、一つは俗なる子孫繁栄の微笑み。俳諧は俗を以て聖を表すもので、どちらの要素も欠くことはできない。故に引き分け。

 

 「第十九番

   左勝

 堀を出て人待くらす蛙哉      卜宅

   右

 釣得てもおもしろからぬ蛙哉    峡水

   此番は判者・執筆ともに遅日を倦で、我を忘

   るるにひとし。仍而以判詞不審。左かち

   ぬべし。」

 

 おそらくこの興行は、最初の芭蕉の「古池」の句があり、それに対を成す仙化の句ができ、もう一対この後に出て来る第二十番が先に作られたのであろう。

 その後、門人たちの持ち寄った句を大まかなテーマを決めて二句づつ番わせて行ったとき、この二句は最後に余ってしまったのではないかと思う。

 適当な判詞を付けるより、春の遅日を理由にして、洒落で終わらせようという意図であろう。

 「堀を出て」の句は江戸の小名木川のような運河の蛙で、時折通る舟に驚いて水から上がり、そのまま別の舟が来るのを待っているかのように土手に座っている蛙であろう。

 一方、「釣得て」の句は残念ながら「さでの芥」の句と被ってしまった。一方は叉手の外道で、一方は釣りの外道。役に立たないが故に放されるわけだが、釣りの句は人間の側からの面白くないで、蛙の側の共感が欠けている。そのため、「さでの芥」の句にも負けていた。ここでも右負けとなる。

 実際本当に蛙が釣れたら笑っちゃうと思うが。

 

 「第二十番

   左

 うき時は蟇の遠音も雨夜哉     そら

   右

 ここかしこ蛙鳴ク江の星の数    キ角

   うき時はと云出して、蟾の遠ねをわづらふ草

   の庵の夜の雨に、涙を添て哀ふかし。わづか

   の文字をつんでかぎりなき情を尽す、此道の

   妙也。右は、まだきさらぎの廿日余リ、月な

   き江の辺リ風いまだ寒く、星の影ひかひかと

   して、声々に蛙の鳴出たる、艶なるやうにて

   物すごし。青草池塘処々蛙、約あつてきた

   らず、半夜を過と云ける夜の気色も其儘にて、

   看ル所おもふ所、九重の塔の上に亦一双加へ

   たるならんかし。」

 

 「うき時」の句は草庵で暮らす隠遁者の風情で、隠遁者にとっての「憂き」とは、隠遁の原因になったような、まだ世俗にいた頃受けた様々な苦痛を思い出す状態で、これが次第に癒されてくると、「寂しさ」へと変わって行く。

 ヒキガエルは声が低く、雨の中でも遠くからの声が聞こえてくる。梅雨の鬱陶しい雨の夜に、低く絶え間なく聞こえてくるヒキガエルの声、それがかつて受けた世俗の罵詈雑言のトラウマを掘り起こす。思わず叫びたくなるような状況だろう。

 まさに「わづかの文字をつんでかぎりなき情を尽す、此道の妙」だ。

 「ここかしこ」の句はいつもながら其角らしい難解さを含んだ句だ。

 「星の数」は今日のような満天の星空の美しさのイメージではない。当時は満天の星空は当たり前すぎてそれを美しいとは思わなかったし、むしろ月のない夜は恐ろしい闇の世界だった。

 その闇の中、そこかしこから響いてくる蛙の声、所も風を遮るもののない大河のほとりで、春とはいえ夜風は寒い。それは果てしない虚無と渾沌の呼び声だ。蛙の声に春の艶なるものは含まれていても、あくまで荒涼とした「物凄き」世界だ。

 芭蕉の古池の句はまだ、世俗では春が来ているのに、この古池は取り残されたように荒涼としているという世界だったが、其角の句はその閑寂をはるかに越えている。

 「青草池塘処々蛙」は芭蕉の古池の句を指して言っているのだろう。この言葉は謝霊運の『登池上樓(池上樓ちじょうろうに登る)』の「池塘生春草(池塘春草を生ず)」から来ている。

 

   登池上樓   謝霊運

 潛虬媚幽姿 飛鴻響遠音

 薄霄愧雲浮 棲川怍淵沈

 進徳智所拙 退耕力不任

 徇祿反窮海 臥痾對空林

 衾枕昧節候 褰開暫窺臨

 傾耳聆波瀾 擧目眺嶇嶔

 初景革緒風 新陽改故陰

 池塘生春草 園柳變鳴禽

 祁祁傷豳歌 萋萋感楚吟

 索居易永久 離羣難處心

 持操豈獨古 無悶徴在今

 

 (地に潜む龍の子はその奥ゆかしい姿が麗しく、空飛ぶ巨大な雁は遥か遠くからの声を響かす。

 なのに私は空に迫り雲に浮かぼうとしては心が萎縮し、かといって川に棲み淵の底に身を潜めるのは身も切られる思いだ。

 君子となって徳を世に広めるには智恵が足らず、引退して畑を耕して暮らすにはそれに耐える体力もない。

 役人の給料を求めては最果ての見知らぬ海辺に来て、厄介な病気を抱えてはひと気のない林を眺める。

 寝床にいたため季節がわからなくなっていたが、簾の裾を開けてはしばらく外を覗き見た。

 耳を傾けて大きな波の連なるのを聞き、目を挙げては険しくのしかかってくるかのような山を眺める。

 初春の景色は去年の秋冬の名残の風を革め、下から登ってきた陽気が去年の陰気に取って代わってゆく。

 池の土手は春の草を生じさせ、庭に鳴く鳥も変わった。

 ゆったりとした遅日に『詩経』の豳歌に心を痛め、さわさわとした草の茂りに『楚辞』の「招隠士」を感じる。

 一人引きこもれば永久にそのままになりそうで、群から離れたら心を落ち着けることは難しい。

 それでも操を守り続けるのは一人古人だけだろうか、易に言う「無悶」の徴は今ここにある。)

 

という詩で、『文選』に収録されている。

 其角の句も世間では春が来ているというのに、わが心は未だ闇の中にいるという意図で詠んだのであろう。この荒涼たる心は見てとれるが、芭蕉の古池の句のような青草池塘のわずかな心の救いすらもない。

 この二句のテーマは「闇の蛙」と言って良いだろう。。判はないが、第一番が言わずとも芭蕉の勝ちであるように、この第二十番も其角の勝ちということを暗に仄めかしているのではないかと思う。

 其角も遊郭に通い、享楽的な生き方に身を置いていたが、それだけに人間の心の闇を嫌というほど見てきた人だったのだろう。それだけに俳諧の風流に救いを求めた一人だった。

 天和の頃には、芭蕉の「蛙飛び込む水の音」の下七五に「山吹や」の五文字を冠した其角だったが、芭蕉の「古池や」の五文字に触発され、それをさらに一歩推し進めた、より荒涼とした虚無と渾沌の世界に踏み込んでいった。それが「九重の塔の上に亦一双加へたるならんかし」だったのだろう。

 「屋上屋を重ねる」というもので、ちょっと極端にやりすぎたかな、という評価だった。

 

  「追加

    鹿島に詣侍る比真間の継はしニて

 継橋の案内顔也飛蛙        不卜」

 

 まあ、最後に「物すごい」句が来てしまったので、ほんの少しここでシリアス破壊しておく必要もあったのだろう。落ちを付けるというか。

 真間の継橋は下総国府の南側にあった橋で、ウィキペディアには、

 

 「真間の継橋とは下総の国府があった国府台へ向かうための橋で、砂洲を中継地点として複数の板橋を架け渡してあったことから「継橋」という名を得たとされる。この橋は真間の象徴として『万葉集』にも詠まれており、歌枕として知られた存在であった。」

 

とある。

 古代東海道は鐘ヶ淵の辺りで隅田川を渡り、今で言えば京成立石、京成小岩の辺りを結び、下総国府のあった今の千葉商科大の辺りへ一直線に通じ、そこから北へ常陸国へ向けて折れ曲がっていた。南側の真間の継橋のあった道はおそらく上総、安房へ向かう道だったのだろう。

 今は小さな橋になっているが、かつては大日川(今の江戸川)下流域の砂州を繋ぐ複数の橋だったようだ。

 芭蕉が鹿島詣での旅で通った道筋は小名木川を舟で言って行徳から木下街道に向かっているから、この辺りは通ってないと思う。歌枕ということで、わざわざ立ち寄ったのであろう。

 この継橋はとっくの昔になっくなっていて、その正確な場所すらさだかでなく、江戸時代にはあたりはすっかり田んぼになっていたのだろう。

 細い畦道のような所を歩いて真間の継橋の跡を訪ねてゆくと、進むごとにじゃぼじゃぼ飛び込む蛙が、真間の継橋はこっちだよと案内しているかのようだ。あちこちに飛んでいくから、どこが本当なのかわからない。

 まあ、こういう他愛のない笑いで、『蛙合』興行の落ちを付けるとしましょうということで、執筆が挙句を付けて一巻を終わらせるような感覚で載せたのではないかと思う。実際の興行が行われてたとすれば、不卜が執筆を務めて、これらの句と判詞を書き留めていたのであろう。

 真間の継橋は、和歌では『千載集』に雑体歌が収録されている。

 

   下総の守にまかれりけるを、

   任果てて上りたりけるころ、

   源俊頼朝臣もとにつかはしける

 東路の八重の霞を分けきても

     君にあはねば猶隔てたる心地こそすれ

               源仲正

   返し

 かきたえし眞間の継橋ふみみれば

    隔てたる霞も晴れて向へるがごと

               源俊頼

 

 源仲正の歌の方は五七五七七七の仏足石歌の体だが、源俊頼の歌は五七五五七七で仏足石歌と旋頭歌の中間のような体だ。

 「かきたえし」とあるから、この時代でも既に真間の継橋はなくなっていて、伝説の橋になっていたのだろう。

 

 夢にだに通ひし中もたえはてぬ

     見しやその夜のままの継橋

               西園寺実氏(続後撰集)

 夢ならでまたや通はむ白露の

     おきわかれにしままの継橋

               土御門院(続後撰集)

 

などのように、「かきたえしまま」「夜のまま」「わかれにしまま」の「まま」と掛けて用いられる。

 『蛙合』の興行はこうして、古代の絶えてしまった継橋を思い起こし、蛙が道案内となって古くからの歌の原点に我々を引き戻して行くのを暗示させながら、春の遅日の暮とともに終了してゆく。

 古代から脈々と続く人間の自然の声の営み。それが大和歌であり連歌であり、今それを受け継いだのが俳諧であると、ここに芭蕉の古池の句とともに世俗に知らしめる。

 

 花に住むものとやいはん山吹の

     かげゆく水にかはづ鳴なり

              二条良基(後普光園院殿御百首)