「市中は」の巻、解説

元禄三年六月、凡兆宅

初表

 市中は物のにほひや夏の月     凡兆

   あつしあつしと門々の声    芭蕉

 二番草取りも果さず穂に出て    去来

   灰うちたたくうるめ一枚    凡兆

 此筋は銀も見しらず不自由さよ   芭蕉

   ただとひやうしに長き脇指   去来

 

初裏

 草村に蛙こはがる夕まぐれ     凡兆

   蕗の芽とりに行燈ゆりけす   芭蕉

 道心のおこりは花のつぼむ時    去来

   能登の七尾の冬は住うき    凡兆

 魚の骨しはぶる迄の老を見て    芭蕉

   待人入し小御門の鎰      去来

 立かかり屏風を倒す女子共     凡兆

   湯殿は竹の簀子侘しき     芭蕉

 茴香の実を吹落す夕嵐       去来

   僧ややさむく寺にかへるか   凡兆

 さる引の猿と世を経る秋の月    芭蕉

   年に一斗の地子はかる也    去来

 

 

二表

 五六本生木つけたる瀦       凡兆

   足袋ふみよごす黒ぼこの道   芭蕉

 追たてて早き御馬の刀持      去来

   でつちが荷ふ水こぼしたり   凡兆

 戸障子もむしろがこひの売屋敷   芭蕉

   てんじゃうまもりいつか色づく 去来

 こそこそと草鞋を作る月夜さし   凡兆

   蚤をふるひに起し初秋     芭蕉

 そのままにころび落たる升落    去来

   ゆがみて蓋のあはぬ半櫃    凡兆

 草庵に暫く居ては打やぶり     芭蕉

   いのち嬉しき撰集のさた    去来

 

二裏

 さまざまに品かはりたる恋をして  凡兆

   浮世の果は皆小町なり     芭蕉

 なに故ぞ粥すするにも涙ぐみ    去来

   御留主となれば広き板敷    凡兆

 手のひらに虱這はする花のかげ   芭蕉

   かすみうごかぬ昼のねむたさ  去来

 

     参考;『連歌俳諧集』日本古典文学全集32、1974、小学館

        『芭蕉連句古注集 猿蓑編』雲英末雄編、1987、汲古書院

初表

発句

 

 市中は物のにほひや夏の月     凡兆

 

 市中は街中ということで、興行の行われた凡兆の家は京都の街中にあった。

 発句は一般的にはその時呼ばれた一番重要なゲストが詠むのが普通で、会場を提供する亭主は脇を付けることが多いが、ここでは亭主が発句を詠んでいる。

 もちろんこれは単なる習慣であって、特に厳密に守られる必要はなかった。

 「もの」は当時とうじは物質の意味ではなく、より広い意味を持っていた。「もののけ」という言葉もあるように、「もの」は霊魂や幽霊や魑魅魍魎をも含めた概念で、近代的な死んだ物質を表すというよりは、むしろ生きた何かを表していた。

 ここでの「物のにほひ」は、特定の何かの匂いでなく、何となく得体の知れぬむんむんした匂いというような感じを表している。町中というのはいろいろな商売の人がいて、いろいろな職人がいて、牛や馬も行き交い、それらの匂いが合わさった渾沌とした匂いに満ちている。

 発句は、こんな得体の知れぬむんむんした匂いに満ちた所へわざわざ来ていただいて、という意味を込めたものと思われる。

 夏の月は夏の宵の、いわゆる夕涼みの涼しさを思わる。町中のむさくるしい所にわざわざ来てくれて俳諧興行を行えるということは、まるで夏の月のようですという思いも込められていたのではないかと思う。

 「市中は物のにほひに夏の月や」の「や」を倒置させた用法になる。

 『猿簔箋註』(風律著か、明和・安永頃成)には、

 

 「ものの匂皓暑の体。」

 

とある。

 『七部十寸鏡猿蓑解』(天堂一叟著、安政四年以前刊)には、

 

 「市中にあるものの匂ひは、当時の人ならば暑哉と置くべきを、清冷たる夏月を置たる句法感深し。暑哉は死句也。夏月は活句也、爰に死活の法尊ぶべし。此句極暑を神として夏月とせし余情限なし。」

 

とある。

 

季語は「夏の月」で夏、夜分、天象。「市中」は居所。

 

 

   市中は物のにほひや夏の月

 あつしあつしと門々の声      芭蕉

 (市中は物のにほひや夏の月あつしあつしと門々の声)

 

 芭蕉ばしょうの脇は形式ばった挨拶あいさつで返さず、「いやあ、それにしても暑い暑い」というような感じで、本音で返す。大事なお客様ではなく弟子が相手なら、こういう脇もある。

 家にいても暑いので、みんな外そとに涼んでいて、口々に「あついあつい」と言っている。こんなところで部屋にこもっての俳諧興行はたまらないなあと言いたげだ。

 『猿簔箋註』(風律著か、明和・安永頃成)には、

 

 「市中に門々、物ノ匂ヒニ暑の一字連綿也。」

 

とある。「市中」に「門々」「物のにほひ」に「あつし」と四手にしっかりと付いている。

 

季語は「あつし」で夏。「門々」は居所。

 

第三

 

   あつしあつしと門々の声

 二番草取りも果さず穂に出て    去来

 (二番草取りも果さず穂に出てあつしあつしと門々の声)

 

 田んぼの草取りは何度か行なわれ、それを一番草、二番草、三番草‥‥というふうに呼んでいた。二番草は普通土用の頃、今でいう七月頃に行なわれたが、その二番草の草取りも終らないうちに稲が穂を出すというのはかなり早い。ちょっと大げさかもしれないが、「そりゃあ暑いはずだ」と納得させるところで、心付けとなる。

 心付けは、心情でつけるというよりは「意味(こころ)」で付けるもので、むしろ「なるほど、道理だ」と思わせるようなつけ方だ。

 『猿簔箋註』(風律著か、明和・安永頃成)には、

 

 「時候ハヤク至ル年也。前句ノ咄などを直に句となせるさまもあり。」

 

とある。

 

季語は「二番草」で夏、植物、草類。

 

四句目

 

   二番草取りも果さず穂に出て

 灰うちたたくうるめ一枚      凡兆

 (二番草取りも果さず穂に出て灰うちたたくうるめ一枚)

 

 前句まえくを草取りがなかなか追いつかない忙しさとし、うるめ鰯の干物を一枚火であぶるだけのせわしい食事を取る、と付ける。

 前句まえくから「忙しさ」を匂いとして読み取り、それを「忙しい」とは言わずにあくまで忙しさを連想させるものによって匂わせる。これがいわゆる匂い付けだ。

 『七部集振々抄』(振々亭三鴼著、天明四年)には、

 

 「うるめ鰯の干物也。」

 

とある。

 『俳諧古集之弁』(遅日庵杜哉、寛政四年刊)には、

 

 「いそがし時のさま也。農家の趣を尽せり。」

 

とある。

 

無季。

 

五句目

 

   灰うちたたくうるめ一枚

 此筋は銀も見しらず不自由さよ   芭蕉

 (此筋は銀も見しらず不自由さよ灰うちたたくうるめ一枚)

 

 江戸時代の経済は近代国家のような統一された通貨によるものではなく、金、銀、銭、藩札などがそれぞれ相場を持つ変動相場制だった。

 銀は主に上方で使われたという。地方によっては銀がほとんど流通してない地方もあったのだろう。古来奥州筋のことではないかという説がある。だとすると、芭蕉自身の『奥の細道』の旅での経験か。

 前句の「うるめ一枚」を貧しい片田舎の匂いとしての付け。

 『猿簔箋註』(風律著か、明和・安永頃成)に、

 

 「旅人ノ飯料などを払ふさまと見えたり。此筋といへるにて銀不通の奥羽ノ果なる事をしるべし。」

 

とある。 

 『七部集振々抄』(振々亭三鴼著、天明四年)には、

 

 「前のうるめを喰ふを辺鄙と見て、旅人のさまを付たり。」

 

とある。

 

無季。

 

六句目

 

   此筋は銀も見しらず不自由さよ

 ただとひやうしに長き脇指     去来

 (此筋は銀も見しらず不自由さよただとひやうしに長き脇指)

 

 江戸時代の武士は大小の打刀うちがたなを腰に差していて、短い方のものを脇指わきざしという。

 長刀は武士にのみ許されていたが、脇指は許可があれば庶民でも持つことができた。

 武士のみ帯刀が許されたといっても、庶民が丸腰で歩いてたわけではない。井原西鶴の『好色一代女』に、

 

 「町人の末々まで、脇指わきざしといふ物差しけるによりて、言分・喧嘩もなくて治まりぬ。世に武士の外、刃物差す事ならずば、小兵なる者は大男の力の強さに、いつとても嬲られものになるべき。一腰恐ろしく、人に心を置くによりて、いかなる闇の夜も独りは通るぞとかし。」

 

と書かれているように、当時は今のような平和な時代ではなく、結構町では暴力がまかり通っていたことがわかる。

 そういう時代だから、特に任侠にんきょうの者などは実質的には長刀なのに長い脇差だと称して所持することもあったようだ。

 「とひやうしに」は突拍子もなくという意味で、突拍子もなく長い脇差というのは、やはりその筋の人の持つものだろう。

 長脇指は元は戦国時代に榛名山の中腹にあった箕輪城の武士達が使っていてそれが上州の博徒に広がったという。

 前句の「銀も見しらず」を金を持ってない奴等ばかりでという意味に取り成し、やくざのセリフとする。やくざと言わずに「長き脇差」で匂わすところが匂い付け。

 余談だが「突拍子に=突拍子もなく」の交替は「はしたに=はしたなし」と同じで、今日の「なにげに=なにげなく」も同じパターン。

 『猿蓑付合考』(柳津魚潜著、寛政五年一月以降成)には、

 

 「俳扁鵲に、旅人に脇ざしとは誰も付べき事なれども、それにては大付といふもの也。(古人の付よふ慥なるを心を付て見るべし。)銀見しらぬといふを取て、関東の風俗と付たりとあり。」

 

とある。

 『猿みのさかし』(樨柯坊空然著、文政十二年刊)にも、

 

 「此句意は前の句を上州野州などと見て、只武ばりて百姓も不格好の長脇指をさすといふ事にして、それを只とひやうしに長き脇指とは句作りたるなるべし。」

 

とある。

 

無季。 

初裏

七句目

 

    ただとひやうしに長き脇指

 草村に蛙こはがる夕まぐれ     凡兆

 (草村に蛙こはがる夕まぐれただとひやうしに長き脇指)

 

 幾多の修羅場をかいくぐってきた任侠というのは、常に用心に怠りない。背後で草がかさこそ動いただけでも、「何もの!」とばかりに刀を抜き放つ。それが蛙のせいだったりすると何とも間抜けだ。

 ゴルゴ13の「俺の後ろに立つな」というセリフはいろいろとパロディーにされているが、この任侠も蛙に向って「俺の後ろに立つな」と言ったのでは。

 まあ、これにはいろいろな解釈が可能だ。『猿簔箋註』(風律著か、明和・安永頃成)と 『猿蓑付合考』(柳津魚潜著、寛政五年一月以降成)は強い者にも意外な弱点があると読み、『俳諧鳶羽集』(幻窓湖中、文政九年稿)や『秘註俳諧七部集』(伝暁台註・政二補、天保十四年成立)や『俳諧炭俵集註解』(棚橋碌翁、明治三十年刊)は長脇差を差していても内心臆病という揶揄と取り、『猿みのさかし』(樨柯坊空然著、文政十二年刊)は急に飛び出てきたから驚いたとする。

 

季語は「蛙」で春。「草村」は植物、草類。

 

八句目

 

   草村に蛙こはがる夕まぐれ

 蕗の芽とりに行燈ゆりけす     芭蕉

 (草村に蛙こはがる夕まぐれ蕗の芽とりに行燈ゆりけす)

 

 前句の「蛙こわがる」を乙女の位に取り成す「位付づけ」。大の男が蛙を恐がればこっけいだが、かわいらしい女の子が蛙を見て「きゃっ!」と言うのは今も昔も定番か。

 蕗ふきの芽めは「ふきのとう」のことで、夕方のお使いか。持っていた行灯をゆり消してしまうと、あたりは真っ暗でもっと恐い。

 ところで、この句に対し、許六の『俳諧問答』にこういう指摘がある。

 

「一、猿ミの下巻俳諧ニ云く、

  草村に蛙こハがる夕まぐれ

  蕗の芽とりに行灯ゆりけす

 此句、ゆりの字、前にもたれてむづかし。「行灯さげ行ゆく」としたし。」(『俳諧問答』横澤三郎校註、1954、岩波文庫、p.133)

 

 「むづかし」は古語では「難しい」ではなく、「うっとうしい」「うざい」という意味。

 確かに、蛙を恐がって刀を抜く、蛙を恐がって行灯をゆり消す、趣向が似ていて輪廻ではないかと言われれば、そう言えなくもない。その重複をうざいと言われればそうなのかもしれない。

 おそらく、それは芭蕉も考えたことであろう。似たような場面がこれより前の『奥の細道』の旅の途中で巻かれた「馬かりて」の巻に見られる。この時の様子は北枝が『山中三吟評語』に記している。その中の六句目だ。

 

   青淵に獺の飛こむ水の音

 柴かりこかす峰のささ道      芭蕉

 

 打越は

 

 鞘ばしりしをやがてとめけり    北枝

 

で、曾良の前句は「鞘ばしりし」を刀を抜く動作としてとらえ、「くせもの!」とばかりに刀を抜き放ったものの、何だ川獺かという落ちにする。どこか凡兆の句くと発想が似ている。

 芭蕉はこの川獺の句に付けるとき、「柴かりたどる」「柴かりかよふ」とも案じたあと「柴かりこかす」にしたという。

 「柴かりこかす」だと、川獺の音おとにびっくりして芝を刈っている人がこける、という意味になり、同じくびっくりして刀を抜くという打越とかぶってしまう。

 許六の「蕗の芽とりに行灯さげ行」の改案は、「柴かりたどる」「柴かりかよふ」に似てないか。

 おそらく芭蕉も許六が考えるような案は考えていたと思う。やや輪廻気味という嫌いはあっても、あえて芭蕉は句そのものの面白さを選んだのではなかったか。

 『俳諧古集之弁』(遅日庵杜哉、寛政四年刊)には、

 

 「与奪にしてなを女に転じられけん。嬌態見つべし。」

 

とある。「与奪」は新たな意味を与えて、前句を奪うということで、換骨奪胎とか取り成しとかと同じようなことか。

 

季語は「蕗の芽」で春、植物、草類。

 

九句目

 

   蕗の芽とりに行燈ゆりけす

 道心のおこりは花のつぼむ時    去来

 (道心のおこりは花のつぼむ時蕗の芽とりに行燈ゆりけす)

 

 

 これは「苅萱道心」の本説による付けになる。

 中世の説教節『苅萱』は、とある筑前国の武将がある日和歌好きに桜の花が散ったのを見て、この世の無常を悟って出家するという話だった。そこから残された家族の苦悩なども描かれているあたり、当時の人にも身につまされるものがあったのではなかったかと思う。

 今日的に見るなら、発心というよりも、亭主が急に鬱になって引き籠ってしまったら妻子はどうすべきなのかという問題提起に近いのではないか。

 この句が『苅萱』の本説ということでしたら、前句は出家を思い立つちょうどその頃、娘は蕗の芽を取りに行って、ふと行燈の火が消えたということになる。良からぬ事の起きる前兆という演出にありそうなことだ。

 『猿談義』(戸田文鳴著、明和元年刊)には、

 

 「此前句の行灯ゆり消す。はかなき景色より実にも人間の生涯は、風前の灯と看破して今道心の景気付に侍る。」

 

とある。

 『猿みのさかし』(樨柯坊空然著、文政十二年刊)は、

 

 「その人を尼入道と見て、その道心のおこりは花のつぼむ頃よりなるべしと一作したる也。」

 

とつぼむ時を歳の頃と解釈している。

 

季語は「花」で春、植物、木類。釈教。

 

十句目

 

   道心のおこりは花のつぼむ時

 能登の七尾の冬は住うき      凡兆

 (道心のおこりは花のつぼむ時能登の七尾の冬は住うき)

 

 これは『撰集抄』の松嶋上人事の本説による付け。

 『撰集抄』巻三、第一によると、西行が能登へとやってきたとき、人里離れた荒磯の岩屋に四十歳くらいの僧が座していた。僧がいるほかは身の回りのものとかは何もなく、きくと月待嶋の聖と呼ばれていて、一月のうち十日は必ずここに来て住むが、その間は何も食わない、という。

 西行はさては見佛上人かと思い、自分の名を名乗ると「さる人ありと聞く」と、知っているようだった。それから西行は四日かけて松島へ行き二ヶ月余りそこで過ごしたという。すると、そのとき弓張りの十日、つまり月の始めの十日姿を消し(「かきけし失せ給ひ」)、能登の岩屋へ行っているのだと思ったという。

 西行が能登から松島まで四日で行ったというのもなかなか凄いが、果たして見佛上人けんぶつしょうにんはどうやって松島から能登まで移動していたのかは謎だ。

 この『撰集抄』の一節に、

 

 「十日のあひだすみわたりておはしけん心の中の貴さは、又ならぶる物やは侍る。せめて春夏のほどは、いかがせん。冬の空の、越路の雪の岩屋の住居おもひやられて、そぞろ涙のしどろなるに侍り。」(『撰集抄』西尾光一校註、一九七〇.岩波文庫p.85)

 

とある。

 凡兆の句くは発心を詠んだ前句に能登の七尾の冬を付けることで、前句を見佛上人の発心に取り成す。

 もちろん、本当に見佛上人が桜のつぼみの頃仏道に入ることを決意したのかどうかは知らない。そこはフィクションだ。本説は事実である必要もないし、出典の内容そのままではなく少し話を作り変えるのを良しとする。

 なお、本説と「おもかげ」との違いだが、本説は出典となる物語を知らなければ意味をなさないような付け方をいい、出典を知らなくてもわかるような何となくその物語を匂わせる程度のものを「おもかげ」という。

 この場合、桜のつぼみの頃の発心の句くに、唐突に能登の冬が登場するため、見佛上人の物語を知らないちょっと苦しい。それゆえ、おもかげではなく本説と言っていいだろう。

 古註では、『猿蓑付合考』(柳津魚潜著、寛政五年一月以降成)、『猿みのさかし』(樨柯坊空然著、文政十二年刊)、 『秘註俳諧七部集』(伝暁台註・政二補、天保十四年成立)、『俳諧七部通旨』(蓮池主人著、嘉永五年)、『標註七部集』(惺庵西馬述・潜窓幹雄編、元治元年)などが『撰集抄』を引いている。

 

季語は「冬」で冬。述懐。「能登の七尾」は名所。

 

十一句目

 

   能登の七尾の冬は住うき

 魚の骨しはぶる迄の老を見て    芭蕉

 (魚の骨しはぶる迄の老を見て能登の七尾の冬は住うき)

 

 刈萱道心、松島の上人と、出典にたよった重い付け合いが続いたのに対し、ここで芭蕉は「能登の七尾」からいかにもそこにいそうな老人を「位」で付ける。

 「しはぶる」は「しゃぶる」ということ。昔の人は顎が丈夫で、魚の骨などバリバリと噛み砕き、今のように魚の骨を丁寧に取って食べるようなことはしなかった。まして漁村ならなおさらであろう。魚の骨が噛めなくなるのは歯のない老人くらいで、「魚の骨をしゃぶる」というのは、すっかり歯の抜けてしまったよぼよぼの老人ということになる。

 『猿みのさかし』(樨柯坊空然著、文政十二年刊)には、

 

 「魚の骨は前句の七尾のしをり也。老を見ては冬の住うきといふよりの響也。しはぶるとは、俗にしゃぶるつといへる事也と先輩いへり。只一句のうへに極老と見へる様に句作りたるにて、別に子細なし。」

 

とある。

 

無季。述懐。

 

十二句目

 

   魚の骨しはぶる迄の老を見て

 待人入し小御門の鎰        去来

 

(魚の骨しはぶる迄の老を見て待人入し小御門の鎰)

 

 せっかく芭蕉が軽く「位」でつけて流したのだが、ここで去来は『源氏物語』の本説で付ける。もっとも、芭蕉も『源氏物語』の句は嫌わなかった。

 『去来抄』に「浪化曰、今の俳諧に物語等を用ゆる事はいかが。去来曰、同じくば一巻に一二句あらまほし。猿みのの待人入し小御門の鎰も、門守の翁也。 」とある。

 物語は光源氏が末摘花すえつむはなの家を訪ねる場面で、人前に姿を表わさない末摘花の姫君に興味を持った光源氏は、ついに雪の日の明け方にその風貌を目にすることで納得し、門を出る。

 

 「御車出づべき門は、まだ開けざりければ、鍵の預かり尋ね出でたれば、翁のいといみじきぞ出で来たる。娘にや、孫にや、はしたなる大きさの女の、衣は雪にあひて煤けまどひ、寒しと思へるけしき、深うて、あやしきものに火をただほのかに入れて袖ぐくみに持たり。翁、門をえ開けやらねば、寄りてひき助くる、いとかたくななり。御供の人、寄りてぞ開けつる。

 (車を出そうにも門がまだ閉まっているので、鍵を預かっている人を探し出したところ、よぼよぼの爺さんが出てきました。

 その娘とも孫ともつかぬ年齢の女が付き添うのですが、衣は雪がくっついてそのため黒々と見え、いかにも寒そうにしながらよくわからない物に火を入れて、袖で包むようにして持ち歩いてました。

 老人の力では門を開けられないので、寄ってきて一緒に開けようとするのですが、どうも要領を得ません。

 源氏のお供の者も加わり開けました。)」

 

 物語の中ではほんのちょい役の老人で、わかる人にはわかるというマニアックな句だ。

 

無季。恋。「待人」は人倫。「小御門(こみかど)」は居所。

 

十三句目

 

   待人入し小御門の鎰

 立かかり屏風を倒す女子共     凡兆

 (立かかり屏風を倒す女子共待人入し小御門の鎰)

 

 「小御門(こみかど)」から屋敷の情景ということでの展開。

 待ち人を入れたら、それがどんな男かと女中たちが覗き見しようとして屏風が倒れるという、漫画のような展開だ。

 『猿蓑四歌仙解』(鈴木荊山著、文政五年序)に、

 

 「女ども手引して、約束の人ひそかに内へ入りたり。そりやこそと、わらひをしのび口に袖をあてて差のぞき、誤て屏風をうちたふしたる、目に見るがごとし。」

 

とある。

 

無季。「女子共(をなごども)」は人倫。

 

十四句目

 

   立かかり屏風を倒す女子共

 湯殿は竹の簀子侘しき       芭蕉

 (立かかり屏風を倒す女子共湯殿は竹の簀子侘しき)

 

 屏風で一見綺麗に飾られた宿屋の風呂場も、女中がそれを倒してしまうと、現われたのは竹のすのこを敷いただけで何ともわびしげな湯殿。

 『猿蓑付合考』(柳津魚潜著、寛政五年一月以降成)には、

 

 「前二句、やんごとなき方の忍び寄行と見るを、爰には旅の舎りなどの侘たるにて、女どもの湯殿の見へぬやうにとの心遣ひと見て、屏風を建る其用を付て平生のさまなるべし。」

 

とある。

 

無季。

 

十五句目

 

   湯殿は竹の簀子侘しき

 茴香の実を吹落す夕嵐       去来

 (茴香の実を吹落す夕嵐湯殿は竹の簀子侘しき)

 

 湯殿の風呂が沸く頃は夕暮れで、夕嵐が付く。

 茴香ういきょうはフェンネルのことで、西洋では糸状の葉はサラダに用いられ、茎はブーケガルニに、種(フェンネルシード)はハーブとして用いられるが、当時の日本では漢方薬くらいにしか用いられていない。

 秋の夕嵐とはいっても萩やススキを散らすでもなく、まして紅葉もない。藤原定家の歌ではないが「見渡せば花はなも紅葉もみぢもなかりけり」といったところか。

 前句まえくの「侘わびしき」を花はなも紅葉もみじもない情景として、「茴香ういきょう」というマイナーな植物を言い出したのであろう。今日なら、散ったフェンネルシードでそのままハーブバスになりそうだが。

 『猿簔箋註』(風律著か、明和・安永頃成)に、

 

 「湯殿にさしかかりたる木なるべし。わび・さびしさ言外にあり。」

 

とある。

 

季語は「茴香(ういきょう)の実」で秋、植物、草類。

 

十六句目

 

   茴香の実を吹落す夕嵐

 僧ややさむく寺にかへるか     凡兆

 (茴香の実を吹落す夕嵐僧さうややさむく寺てらにかへるか)

 

 「茴香の実」から僧を連想したのであろう。お坊さんなら漢方薬のことにも詳しそうだ。

 「かへるか」の「か」は「かな」と同じ。疑問とする必要はない。

 『猿蓑付合考』(柳津魚潜著、寛政五年一月以降成)には「草の実のこぼるるは、秋風寒き頃と見て夕とあるより、僧の通るは寺に帰るならんと見やりたるなるべし。」とある。

 

季語は「ややさむく」で秋。釈教。

 

十七句目

 

   僧ややさむく寺にかへるか

 さる引の猿と世を経る秋の月    芭蕉

 (さる引の猿と世を経る秋の月僧ややさむく寺にかへるか)

 

 「猿引き」は猿回しをする芸人のことだが、長いこと被差別民の芸とされてきた。今日の周防猿まわしの会の創始者村崎義正は、同時に部落解放運動の活動家だった。

 同和と仏教は相反する関係にあり、「僧」に「猿引き」を付けるのは、それゆえ「向え付け(相対付け)」になる。殺生を禁じる仏教の思想が、一方では動物にかかわる職業を卑賤視するもととなっていた。

 猿引きは猿とともに秋あきの月つきを見ながら暮らしを立て、僧もまた自分の居場所である寺に帰ってゆく。

 人にはそれぞれ相応しい居場所があり、自分の居場所のために対立し、戦い、傷つき、秋あきの寒さのなかで同じように闇を照らす月を見る。いつの時代も変わらないことだ。

 やり句が続いたあとでの、芭蕉の有心の一句といえよう。

 土芳の『三冊子』「あかさうし」には、「 この二句別に立たる格也。人の有様を一句として、世のありさまを付とす。」とある。

 『俳諧古集之弁』(遅日庵杜哉、寛政四年刊)には「異様のものをならべて情態相まじわらず。是を対付といふべし。詩文に対句あるがごとく、一巻のもやうならん。」とある。

 なお、近代の、

 

 猿ひきを猿のなぶるや秋のくれ  子規

 

の句は芭蕉のこの句のオマージュか。

 

季語は「秋の月」で秋、夜分、天象。「さる引」は人倫。「猿」は獣類。

 

十八句目

 

   さる引の猿と世を経る秋の月

 年に一斗の地子はかる也      去来

 (さる引の猿と世を経る秋の月年に一斗の地子はかる也) 

 

 地子は公的な年貢とは異なり、古代にあっては公田以外に貸し付けられた田んぼへの賃租をいい、中世では広く荘園領主が徴収するもののうち、国衙こくがに収める年貢とは別に領主の収入となるものを地子と言った。(参考:フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』「地子」)

 「猿引き」も生活してゆくためには土地がいる。中世の猿引きは古風にも土地の借地料を米で一斗(約十八リットル)支払っていたのだろう。

 一般に都市で生活する農地を持たない人たちは、江戸時代には税金がなかった。ただ、国から何か補助が出るわけではないため、自分たちで自警団を組織したり火消しを組織したりして、そちらの方にお金を払っていたから、それが税金と言えば税金だった。 また、都市の様々な土木事業に町人は賦役を求められた。もっとも芭蕉のように、人足を雇ってそれを代行する商売を思いつく者もあった。

 『猿蓑付合考』(柳津魚潜著、寛政五年一月以降成)には、

 

 「地子とは年貢にてはなし、地を借て住る者其代に地主へ出すを地子料といふ。されば猿曳などにあるべきあはれなる住居見へたり。」

 

とある。

 これに対し、『猿簔箋註』(風律著か、明和・安永頃成)は「地子は年貢也。」とし、『秘註俳諧七部集』(伝暁台註・政二補、天保十四年成立)も「地子ハ年貢ノ事ナリ。」と年貢と地子を混同している。『七部集振々抄』(振々亭三鴼著、天明四年)は「地代なり。」と書いている。いずれにせよ江戸時代の人にはあまり馴染みのない言葉だったのだろう。

 

無季。 

二表

十九句目

 

   年に一斗の地子はかる也

 五六本生木つけたる瀦       凡兆

 (五六本生木つけたる瀦年に一斗の地子はかる也)

 

 瀦(みづたまり)というのは雨が降った時にできる小さな水溜りのことではなく、ここでは溜め池のこと。そこに五、六本の伐ったばかりの丸太が漬けてあったのだろう。こうした材木は、川を使って出荷する。

 わずかな米の地子を払うのは百姓ではない。かといって都市の大商人でもない。何か零細な自営業者ということで、材木屋を付けたか。

 材木屋といわずして、その景色だけを示すことで、次の句への転換が楽になる。これも「匂い付け」の効用といえよう。

 『猿蓑付合考』(柳津魚潜著、寛政五年一月以降成)には、

 

 「山城洛外に地子といふ多くあり。他には多く良財を伐出し侍るに、是は地子小家の傍に池ともつかぬ何か堀たる跡の水溜に、杉など浸し置たる風姿なるべし。」

 

とある。

 

無季。「瀦(みづたまり)」は水辺。

 

二十句目

 

   五六本生木つけたる瀦

 足袋ふみよごす黒ぼこの道     芭蕉

 (五六本生木つけたる瀦足袋ふみよごす黒ぼこの道)

 

 ここで「瀦(みづたまり)」は雨が降った時の水溜りに取り成される。

 ここで言う「黒ぼこ」は腐葉土などのいわゆる「黒土」ではなく、火山性の粘土質の黒土であろう。かつては武蔵野がこういう土だったか。

 「黒ぼこの道みち」というと、何となく「玉鉾の道」のパロディっぽい。

 『猿蓑付合考』(柳津魚潜著、寛政五年一月以降成)には、

 

 「土の名に赤土・真土・黒ぼこなどいへるありて、黒ぼこはしめりたる時は墨の如くなる土也。東武目黒辺是なり。水溜りとあるより足袋のよごるるを付たる。生木漬置其あたり廻る姿見へたり。」

 

とある。

 

無季。「足袋」は衣装。

 

二十一句目

 

   足袋ふみよごす黒ぼこの道

 追たてて早き御馬の刀持      去来

 (追たてて早き御馬の刀持足袋ふみよごす黒ぼこの道)

 

 刀持ちは大名行列などのときに刀を持つ人のことで、大名行列ではなくても、主人が馬で外出する際にも付き従ったりしたのだろう。いわゆる武士ではなく武家の奉公人で、槍持ちなどと同様どうよう、髭を生やした「奴っこさん」のイメージがあったようだ。

 勇ましいようでいてどこか哀愁のあるこのキャラは、

 

 鑓持の猶振ふりたつるしぐれ哉   正秀

 

のように、勇んで槍を振りたてる姿としとしと降る時雨とのミスマッチとして描かれるのが俳諧流といえよう。ここでも、足袋を汚しながら、馬についてゆこうとして走っている。

 『類船集』には「足袋」と「近従」とが付け合いとされている。その意味では、この句は「物付け」であって「匂い付け」ではない。

 『秘註俳諧七部集』(伝暁台註・政二補、天保十四年成立)には「踏ヨゴスニ急グ体有トシテ、刀持ノ足袋トナシタリ。」とある。

 

無季。「御馬」は獣類。「刀持(かたなもち)」は人倫。

 

二十二句目

 

   追たてて早き御馬の刀持

 でつちが荷ふ水こぼしたり     凡兆

 (追たてて早き御馬の刀持でつちが荷ふ水こぼしたり)

 

 これも「刀持ち」に「でっち」と、武家の奉公人に商家の奉公人を付けた「物付け」の句。こういう対になるような物を付けることを「向え付け」とも「相対付け」ともいう。連歌れんがの時代からある古い付け筋だ。芭蕉ばしょうの十七句目の、

 

   僧ややさむく寺にかへるか

 さる引の猿と世を経る秋の月    芭蕉

 

もこの付け方だ。

 対になるものを選び出し、単なる対句とする場合もあるが、そこに意味の通るように必然性をもたせる場合はむしろ「違え付け」と言った方が良い。

 この場合は馬が走って来るのを見てあわててよけようとして丁稚が水をこぼす、いかにもありそうなさまを描き出す。

 この巻の草稿に

 

 わっぱがこゑを打うちこぼしけり

 

という初案が記されているという。これは『去来抄』の「初は糞(こえ)なり」とあるのと一致する。

 『去来抄』には、

 

 「でつちが荷なふ水こぼしけり   凡兆

  初は糞(こえ)なり。凡兆曰、尿糞(ねうふん)の事申すべきか。先師曰、嫌ふべからず。されど百韻といふとも二句に過ぐべからず。一句なくてもよからん、凡兆水に改あらたム。」

 

とある。

 『猿みのさかし』(樨柯坊空然著、文政十二年刊)には、

 

 「此付を迎付といふ也。前の人に出迎て人を付る付方をいふ也。二句は言外に、其御馬をよけんとて、調市(でっち)が荷ひたる水をこぼしたるさま見ゆる也。此句はじめは糞(こへ)こぼしけりといふ句也しを、糞の事も申べきやと翁にたづねけるに、好事にはあらざれ共、すまじき事にもあらずといはれけるによりて、水にかへたりと、去来抄に見えたり。按るに、これは唯ひと筋の教にして、此句は糞といはんより水の方勝る也。炭俵の翁の付句に、東風々に糞のいきれを吹まはし、又深川集に、糞草煙るなど見へたり。」

 

とある。

 「炭俵の翁の付句」というのは、「むめがかに」の巻、十九句目の、

 

   門で押るる壬生の念仏

 東風々に糞のいきれを吹まはし   芭蕉

 

を指す。

 「深川集に」というのは、酒堂撰の『俳諧深川』の、「苅かぶや」の巻の四句目の、

 

   衣うつ麓は馬の寒がりて

 糞草けぶる道の霧雨        北鯤

 

の句をいう。

 その他にも『炭俵』の「ゑびす講」の巻の十九句目に、

 

   砂に暖のうつる青草

 新畠の糞もおちつく雪の上     孤屋

 

の句がある。これらはみな畑の肥料を季節感を交えて捉えたもので、笑いを取るための糞ではない。

 

無季。「でつち」は人倫。

 

二十三句目

 

   でつちが荷ふ水こぼしたり

 戸障子もむしろがこひの売屋敷   芭蕉

 (戸障子もむしろがこひの売屋敷でつちが荷になふ水みづこぼしたり)

 

 売り屋敷は商品であって廃墟ではない。だから、ここは戸も障子もなくなって筵だけが風に吹かれているような情景ではなく、戸や障子を風雨から守るために筵で包んであると見た方がいいだろう。

 だから、屋敷の中へは入れない。庭にある井戸水だけをちょいと近所の商家の丁稚が拝借する、そういうことではないかと思う。

 こういう古屋敷には良い井戸が付き物で、というあたりを言外に込めたところは「匂い」になる。

 『猿蓑付合考』(柳津魚潜著、寛政五年一月以降成)には、

 

 「調市(でっち)が水はいづ方にて汲たるぞと、目をふさぎ心の眼をもて見る時は井あり。其井は只町屋の前と付んか。付たらんには何の感る所も侍らず。水よき井戸は富る者の心を用ひたるか。ものかはり星うつつて売やしきとあれ果たるに、古き井のみ昔にかはらで有けるを、此れあたり皆是を汲侍るを、只売屋敷 と斗にては其風姿のあらはならざれば、筵囲イと姿をのべたるにて、其昔塗障子まいら戸なりけるも斯は荒てと栄枯の観も出くるなり。」

 

とある。

 随分長いが、丁稚の水から、それをどこで汲んだかを思い起こし、ただ町の井戸で汲んだんでは面白くないから、どこか旧家の荒れ果てた家に旧家にふさわしい良い井戸がそのまま残されていて、その井戸を直接詠むのではなくあくまで「戸障子の筵囲い」という描写から匂わせたものだと言っている。

 これを『猿蓑付合考』は『山家集』の、

 

 すむ人の心くまるるいずみかな

     昔をいかに思ひいづらむ

               西行法師

 

の俤とし、

 

 城跡や古井の清水まづ訪はん    芭蕉

 

の句があることも指摘している。

 

無季。「戸障子」「売屋敷」は居所。

 

二十四句目

 

   戸障子もむしろがこひの売屋敷

 てんじゃうまもりいつか色づく   去来

 (戸障子もむしろがこひの売屋敷てんじゃうまもりいつか色いろづく)

 

 売りに出された屋敷を守っているのは「天井守り」。「戸障子」「むしろがこひ」の縁で「天井」を導き出す一種の物付けと見ていい。

 天井守りは唐辛子の一種で、ヤツフサと呼ばれる、赤く尖った実が上を向いて房状になる、辛味の少ない種類だという。

 落ちぶれ果てて空き家になったお屋敷の庭では、誰かが唐辛子の種をこぼしていったのか、唐辛子が秋になり赤く色づいている。(唐辛子は一年草で、昔のが残っているということではなさそうだ。)

 曲亭馬琴編の『増補 俳諧歳時記栞草』には、

 

 「番椒(たうがらし):天井守[和漢三才図会]番は南蛮の義なり。俗に云、南蛮胡椒、今唐辛子。‥略‥○天井守、番椒の一種。ことごとく上をむく故に名(なづ)くとぞ。[猿蓑]附句 てんじゃうまもりいつか色づく」

 

とある。

 唐辛子は新大陸の原産で、コロンブスの御一行がヨーロッパに持ち帰ると瞬く間に世界に広がった。インドのカレー、タイのトムヤンクン、韓国のキムチなど、唐辛子なしでは考えられないが、逆に言えばコロンブス以前には存在しなかったということになる。カレーは唐辛子だけでなく新大陸原産のトマトも使うから、それ以前のインド料理はおそらく唐辛子抜きのサブジのようなものだったのだろう。キムチもムルキムチが元になっていたと思われる。

 ただ、江戸時代の日本では薬味の一つとして扱われただけで、本格的な唐辛子料理は定着しなかった。戦後の日本のカレーライスも総じて甘く、60年代くらいには新宿中村屋のカレーの辛さが本場の辛さだと思われていたことを考えると、日本人が辛い料理を好むようになったのはかなり最近のことだろう。ボルツの二十倍増しカレーの頃からではないか。

 『猿蓑四歌仙解』(鈴木荊山著、文政五年序)に、

 

 「又あばら家に天井まもりといふ言語続おもしろかるべし。」

 

とある。ただ、この本は「天井守」を渋柿のことだとしている。

 

季語は「てんじょうまもり」で秋、植物、草類。

 

二十五句目

 

   てんじゃうまもりいつか色づく

 こそこそと草鞋を作る月夜さし   凡兆

 (こそこそと草鞋を作る月夜さしてんじゃうまもりいつか色いろづく)

 

 月の灯りで草鞋(わらぢ)を作って、ささやかながら現金収入にしようというのは、なかなか勤勉で良いことのように思うが、「こそこそと」というのは、「こそこそと」というのは武士など身分の高い人の内職だろうか。傘張牢人みたいな。

 行燈を灯しても暗い室内では、外の月明りは有り難いもの。外の天井守りはその月の方を指差しているようにみえる。

 『猿簔箋註』(風律著か、明和・安永頃成)は「家守の老いぼれたるさま。」と言い、空き家の管理人としているが、これだと打越との離れが不十分ではないかと思う。

 『秘註俳諧七部集』(伝暁台註・政二補、天保十四年成立)には「ココニ其地守ノ親父ノホマチ仕事ヲ付タリ。」とある。「ほまち(外持ち)」は奉公人のひそかに蓄えた財産のことをいい、転じてへそくりや臨時収入のことをもいう。

 

「月夜」は秋、夜分、天象。「草鞋」は衣装。

 

二十六句目

 

   こそこそと草鞋を作る月夜さし

 蚤をふるひに起し初秋       芭蕉

 (こそこそと草鞋を作る月夜さし蚤をふるひに起し初秋)

 

 一人ひとりはひそかに草鞋を作ってお金を作り、もう一人は蚤に食われて痒くて目を覚ます。そこでまあ、ばれてしまったかということになり、何か家族の会話があるのか。

 土芳の『三冊子』には、

 

 「こそこそといふ詞に、夜の更て淋しき様を見込み、人一寐迄夜なべするものと思ひ取とりて、妹など寐覚めして起たるさま、別人を立て見込む心を、二句の間に顕す也。」

 

とあり、兄妹の話にしている。

 

季語は「初秋」は秋。「蚤」は、虫類。

 

二十七句目

 

   蚤をふるひに起し初秋

 そのままにころび落たる升落    去来

 (そのままにころび落たる升落蚤をふるひに起し初秋)

 

 「升落(ますおとし)」は大きな升を一方をつっかえ棒して斜めに伏せ、その下に餌を置いておいて、鼠が棒に触れたら升がかぶさってきてつかまるという簡単な罠。鼠が棒に触れなければ、そのまま食い逃げされてしまうし、鼠の体が外に出た状態で後ろ足か尻尾が触れば、升が倒れていても鼠は逃げ去る。

 「そのままに」というから、升は倒れていたが、鼠は掛かっていず、しかも餌もそのままということだろう。この場合、鼠以外の原因で升が倒れたことが考えられる。蚤に刺されたのが痒くて寝返りを打った拍子にぶつかったか、振動で倒れてしまったのだろう。ありそうなことだ。

 『猿蓑四歌仙解』(鈴木荊山著、文政五年序)には、

 

 「蚤をふるひにおきけるが、いつも鼠の騒ぐあたりに仕掛け置きたる升おとしのころび落たる、無念無想の境なり。」

 

とある。

 

無季。

 

二十八句目

 

   そのままにころび落たる升落

 ゆがみて蓋のあはぬ半櫃      凡兆

 (そのままにころび落たる升落ゆがみて蓋のあはぬ半櫃)

 

 半櫃(はんびつ)は長櫃(ながびつ)の半分の大きさの箱で、江戸時代前期にはまだ箪笥が普及していず、庶民の衣類などの持ち物は長短の櫃に入れて保存された。物の少ない時代には、それで十分だった。また、櫃は竿で担げるようにもなっていて、持ち運びにも便利だった。

 句は、前句の「ころび落ちたる」が升落としと半櫃の両方に掛かる。そのままに、升落としも転げ落ちていれば、半櫃の蓋も転げ落ちている。役に立たないものつながりで並置されている。響き付けになる。

 『俳諧七部集打聴』(岡本保孝、慶応元年~三年成立)には、

 

 「ふたのあはぬ故に鼠の入むをおそれ、升おとししたるが仕損じたれば、くやしくおもふさま也。」

 

とある。

 

無季。

 

二十九句目

 

   ゆがみて蓋のあはぬ半櫃

 草庵に暫く居ては打やぶり     芭蕉

 (草庵に暫く居ては打やぶりゆがみて蓋のあはぬ半櫃)

 

 昔の引越しは、櫃に入れた持ち物を竿で下げて運んでゆくだけだった。別に風狂者だからこれしか物を持ってないということではなく、元禄の頃の庶民は、そんなに物を持っているわけではなかった。

 前句の蓋の合わなくなった半櫃に「落ち着かない」という裏の意味を読み取っての展開。草庵に暫く住んでいたがゆがんた半櫃の蓋のようにどうにもこうにも落ち着かなくて、結局は打ち捨てて行ってしまった。

 前句を比喩と取り成すというのは、連歌の頃からよくある付け筋だった。

 句の意味も、実景か比喩かという二者択一で考えるのではなく、打ち捨てられた草庵に蓋の閉まらない半櫃があるのをみて、それがここの住人のどうにも上手く落ち着けなかったことを象徴しているようで面白い、くらいに考えるのがいいだろう。

 『芭蕉翁付合集評註』(佐野石兮著、文化十二年)には、

 

 「内の道具の或はゆがみ、或は蓋のあはぬ貧しさのやうす、いかにも隠逸の人と見て、草庵にも住つかず、ここのいほかしこの庵もしばしづつぬけ出る、まことの風狂なるべし。此句も翁の名だかき付合なり。」

 

とある。

 

無季。「草庵」は居所。

 

三十句目

 

   草庵に暫く居ては打やぶり

 いのち嬉しき撰集のさた      去来

 (草庵に暫く居ては打やぶりいのち嬉しき撰集のさた)

 

 「いのち嬉しき」はここまで命があって嬉しい、ここまで生きてきてよかった、という意味。この言葉ことばは、

 

 年たけてまたこゆべしと思ひきや

     命なりけり小夜の中山

               西行法師(新古今集)

 

の歌を連想させる。

 前句の草庵を打ち破った人物を西行法師と見ての、俤付け。

 西行の晩年、藤原俊成による『千載集』の撰があり、十八首入集した。

 これが本説ではなく俤なのは、千載集の入集をめぐって、こうしたエピソードが伝わっているわけではなく、多分西行なら嬉しくて「いのち嬉しき」と言ったのではないかという想像によるものだからだ。

 実際には、『後拾遺集』に、

 

   高野山に侍りける頃、皇太后宮大夫俊成千載集

   えらび侍るよし聞きて、歌をおくり侍るとて、かきそへ

   侍りける

 花ならぬ言の葉なれどおのづから

     色もやあると君拾はなむ

               西行法師(後拾遺集)

 

の歌がある。この歌の一節でも引用していれば本説付けということになるだろう。

 『去来抄』によると、初案は「和歌の奥儀を知ず候」だったという。

 これだと『吾妻鏡』の西行が鎌倉に来たとき源頼朝に和歌の奥義を問われて、「全く奥旨を知らず」と答えたというの古事に基づく本説付けとなる。

 

無季。 

二裏

三十一句目

 

   いのち嬉しき撰集のさた

 さまざまに品かはりたる恋をして  凡兆

 (さまざまに品かはりたる恋をしていのち嬉しき撰集のさた)

 

 西行法師も恋の歌はたくさん詠んでいるし、「品かはりたる恋」をした人間を、たとえば在原業平あたりの俤とするのでは展開に乏しい。これはむしろ撰者の立場に立った句として読んだ方がいいのではないか。

 つまり、集められた様々な恋の歌を楽しみながら、自分もまた恋をしたような気分になり、こんな楽しい編纂作業ができるなんて生きていてよかった、というふうに取ってはどうだろうか。

 これだと、『秘註俳諧七部集』(伝暁台註・政二補、天保十四年成立)の、

 

 「歌集ニハ恋之部ニ、逢ヒテ別ルル恋、不逢別恋、経年恋、待恋、後朝ナドサマザマアレバ、其そのヒビキヲ付つケタリ」

 

が生きるのではないかと思う。

 

無季。恋。

 

三十二句目

 

   さまざまに品かはりたる恋をして

 浮世の果は皆小町なり       芭蕉

 (さまざまに品かはりたる恋をして浮世の果は皆小町なり)

 

 ここで言う小町は小野小町の若い頃の美貌ではなく、百歳のお婆さんとなった落ちぶれた乞食姿の小町を言う。謡曲『卒塔婆小町』『関寺小町』などに、こうした姿が描かれている。「浮世の果」という言葉は、「関寺小町」の

 

 「百年の姥と聞えしは小町が果の名なりけり小町が果の名なりけり。」

 

から来ていて、付け方としては俤ではなく本説となる。

 若い時は華々しく恋をしても、結局人間はみんな年を取ってしまうのだという、達観とでも言うのか、ネガティブな恋の表現をしばしば芭蕉はしている。『奥の細道』の末の松山でも、

 

 「末の松山は寺を造りて末松山といふ。松のあひあひ皆墓はらにて、はねをかはし枝をつらぬる契の末も、終にはかくのごときと悲しさも増りて、塩がまの浦に入相のかねを聞く。

 

と語る。

 私は個人的には、様々な恋をして浮世の道を究めればどんな女でも小野小町のような美人に見えてくる、という俗解の方が好きだが。

 

無季。恋。

 

三十三句目

 

   浮世の果は皆小町なり

 なに故ぞ粥すするにも涙ぐみ    去来

 (なに故ぞ粥すするにも涙ぐみ浮世の果は皆小町なり)

 

 小町に対してそれに粥を振舞う人をつけた「向い付け」という説もあるが、それでは謡曲の趣向を三句に渡って引きずることになる。私はむしろ中世連歌でいう「咎めてには」ではないかと思う。

 つまり乞食に落ちた老人に向って粥を施しながら、お粥くらいで泣くんではない、誰だれだって皆みな最後は小野小町のように年を取ってゆくのだからと諭す。そういう意味であろう。

 『猿蓑付合考』(柳津魚潜著、寛政五年一月以降成)には、

 

 「浮世の果は皆小町が如くぞや。何故にさはなげくぞ、あきらめ給へとかや。粥すするは侘しきさまなるべし。」

とある。

 

 『猿みのさかし』(樨柯坊空然著、文政十二年刊)にも、

 

 「前の人のうち歎くさまを付て、側の人よりいさめるさまに句作りたる也。浮世の果は小町なるものをと思ひ取て、其外さまざまのうきをする人もあれば、歎しは詮なき事也といさめるさまにして、粥といふ字にすげなく哀を含める句作り也としるべし。」

 

とある。

 

無季。

 

三十四句目

 

   なに故ぞ粥すするにも涙ぐみ

 御留主となれば広き板敷      凡兆

 (なに故ぞ粥すするにも涙ぐみ御留主となれば広き板敷)

 

 基本的には前句の涙ながらにお粥をすする人に、留守で誰かが居なくなった喪失の悲しみをつけたもの。どういう事情なのかは、各自想像することになる。

 『七部十寸鏡猿蓑解』(天堂一叟著、安政四年以前刊)の「かゆすする場の付也。」とあるのに尽きる。

 『俳諧古集之弁』(遅日庵杜哉、寛政四年刊)には「左遷の跡などみゆ。」とあり、『秘註俳諧七部集』(伝暁台註・政二補、天保十四年成立)にも「左遷ノ跡ノ趣ヲ付テ、其残リヰる人ノ涙グミタルニシタリ。」とある。

 『俳諧七部集打聴』(岡本保孝、慶応元年~三年成立)には「病にわづらひて御供にゆかず残り居て、御留守なれば広き板じき抔へ出て居大家のさま也。」とある。

 『猿蓑四歌仙解』(鈴木荊山著、文政五年序)は「是は寵をうけ、かくまはるる女のひとり言と聞ゆ。」とある。

 もっと想像を膨らますなら、これは表向き「御留守」としているが本当は亡くなっていて、それを隠さなくてはならない事情がある、というのはどうだろうか。

 

無季。「板敷」は居所。

 

三十五句目

 

   御留主となれば広き板敷

 手のひらに虱這はする花のかげ   芭蕉

 (手のひらに虱這はする花のかげ御留主となれば広き板敷) 

 

 この場合の「御留守」は空き家のことであろう。何もない板敷きの間は広く感じられる。そこに勝手に上がりこんだ虱を手のひらに這わす男。それは乞食かもしれないし、乞食のふりをした仙人なのかもしれない。仙人だとすれば、この一巻を締めくくるのに相応しい花を添えることになる。

 

 『猿みのさかし』(樨柯坊空然著、文政十二年刊)に、

 

 「空山に虱をひねるなどの意思ふべし。爰は空屋なるべし。手のひらに這せると作りし所は、例の俳腸にして手づまの妙手といふべし。ひねるにては凡卑にして、這せるといふに姿も洒落も長閑なるも見らるる也。此句は這する字に魂の出来たる也。」

 

とある。

 

季語は「虱這はする花」で春、虫類、植物、木類。

 

挙句

 

   手のひらに虱這はする花のかげ

 かすみうごかぬ昼のねむたさ  去来

 (手のひらに虱這はする花のかげかすみうごかぬ昼のねむたさ)

 

 前句が仙人の匂いであれば、「かすみ」への移りは必然。

 静かに眠りに落ちるように永遠の神仙郷へと誘われてゆくかのようだ。

 

季語は「かすみ」は春、聳物。