一 十八日 卯尅、地震ス。辰ノ上尅、雨止。午ノ尅、高久角左衛門宿ヲ立。 暫有テ快晴ス。馬壱疋、松子村迄送ル。此間壱リ。松子ヨリ湯元へ三リ。未ノ下尅、湯元五左衛門方ヘ着。

 一 十九日 快晴 。予、鉢ニ出ル。朝飯後、図書家来角左衛門ヲ黒羽へ戻ス。午ノ上尅、湯泉ヘ参詣。神主越中出合、宝物ヲ拝。与一扇ノ的躬(射)残ノカブラ壱本・征矢十本・蟇目ノカブラ壱本・檜扇子壱本、金ノ絵也。正一位ノ宣旨・縁起等拝ム。夫ヨリ殺生石ヲ見ル。 宿五左衛門案内。以上湯数六ヶ所。上ハ出ル事不レ定、次ハ冷、ソノ次ハ温冷兼、御橋ノ下也。ソノ次ハ不レ出。ソノ次温湯アツシ。ソノ次、温也ノ由、所ノ云也。

 温泉大明神ノ相殿ニ八幡宮ヲ移シ奉テ、雨(両 )神一方ニ拝レセ玉フヲ、

    湯をむすぶ誓も同じ石清水   翁

  殺生石 

    石の香や夏草赤く露あつし

  正一位ノ神位被レ加ノ事、貞亨四年黒羽ノ館主信濃守増栄被二寄進一之由。祭礼九月二十九日。

                   (『曾良旅日記』より)

10月8日

 彼岸も過ぎてようやく涼しくなり、今日は久しぶりに「奥の細道」の続き。
 前回は一軒茶屋でダウンしたので、今日はそこから前回断念したJR黒田原駅までの道を歩くことにした。
 歩く距離が短いので新幹線は使わず、スーパーラビットで宇都宮まで行き、黒磯まで各駅で行き、そこからバスに乗って一軒茶屋まで行った。ほぼ十時ちょうどにスタート。
 天気は快晴で、長袖でちょうどいいくらい涼しい。
 まずは県道21号線を黒田原方向に下って行った。森の中の真直ぐな道の脇はじめじめしていてキノコがたくさん生えていた。
 やがて前にも行ったことのある那須ステンドグラス美術館の前に出た。竜騎士07さんの「うみねこの鳴く頃に」で九羽鳥庵のモデルになったところだ。門の前にはでっかいかぼちゃが置かれていて、建物の入口もすっかりハローウィンバージョンになっていた。


 高原の道をさらに降りて行くと、やがて池田という所に出る。その途中にモンゴリアビレッジ・テンゲルがあったが、なぜか入口に狛犬があった。
 このあたりの道は「曾良旅日記」には
 「ウルシ塚迄三 リ余。 半途ニ小や村有。ウルシ塚ヨリ芦野ヘ二リ余。湯本ヨリ総テ山道ニテ能不知シテ難通。」
とあるだけで、どの辺を通ったかよくわからない。とにかく山道で、街道のような所を歩いたわけではなく、知らなければ迷うような道だったから、今それがどの道かなんて特定は無理そうだ。池田が「小や村」ではないかと言われているが、それも本当かどうか。はっきりしているのは漆塚を通ったということくらいだ。
 芦野へはこのまま21号線を真直ぐ行ってもいけるが、これだと漆塚の北のはずれを通ることになる。漆塚の真ん中を通るなら、池田で右折してすぐ左折してりんどう湖のまえを通った方が近い。
 その池田からりんどう湖への分岐点には馬頭観音塔が十基ほど並んでいた。どれも明治大正のもので江戸時代にこの道があったことを証明するものではない。碑の上部には馬の顔が刻んである。


 この道もいかにも観光地の道で、こじゃれたレストランが並びテディーベアミュージアムがあった。猫ミュージアム・ニャンダーラの看板があったが、ちょっと離れた所に移転してた。
 りんどう湖はりんどう湖ファミリー牧場の中にあり、入場料を払わないとは入れない。その向かいになぜかお城が立ってた。店ではなく自宅なのか、私有地だから入るなって書いてあった。
 道端にはアザミや彼岸花が咲き、溜池やトウモロコシ畑もあった。このあたりからだと那須の山々がよく見える。山梨子の交差点の前に案内標識があり、芦野の里、遊行柳は左ヘ十六キロと書いてあった。そういうわけで、ここを左に曲がる。
 りんどうラインという名前だが、別にリンドウが咲いているわけではない。ひょっとして「林道」と掛けた駄洒落か。コスモスは咲いていた。東北自動車道を越え、睡蓮の咲く溜池の脇を過ぎると漆塚の集落も近い。


 漆塚南の信号に出る少し前を左に入ると、漆塚の集落が見える。その入口に公民館があり、その横に温泉神社があった。那須のいかつい狛犬の口は赤く、目も黒く塗られていた。昭和十二年の銘がある。境内には大黒様の像もあった。

 漆塚の信号で国道4号線を越え、あぜ道のような所を行くと、ふたたびりんどうラインに戻る。
 新幹線の線路をくぐると奇麗な花壇のある川上公民館の先に虚空蔵尊のお堂があった。ここを曲がると黒田原の駅に行く。余笹川を渡りガードをくぐると広い通りに出る。これが黒田原の町のメインストリートなのだろう。


 まだ二時二十分と時間は早いが、とりあえず黒田原神社にお参りして帰ることにした。 黒田原神社はファミマの裏にあり、二つの鳥居は震災で倒壊したのか、一の鳥居の所には注連縄が張ってあり、二の鳥居は柱だけが残っている。
 一の鳥居の先には尻を高く上げた一対の狛犬があり、右側は普通の位置だが左側はかなり高い位置にある。「逆狛犬」という立て札があり、「ご火神(火伏せ)のシンボル、高さは日本一=世界一」と書いてあった。
 参道は90度右に折れ、二の鳥居の先に大正三年銘の狛犬がある。右が吽形で玉取り、左が阿形で子取りになっている。やはり那須の首の太い厳ついタイプだ。吽形の方は「子授かり狛犬、毬の又玉を中指で三回転がします」、阿形の方は「安産狛犬、狛犬の子をやさしく撫でます」と祈願の仕方が書かれていた。

 拝殿の前には左右に蛙の像があるが、狛蛙か。右側は小さく左側は大きい。

 境内社には八雲神社と稲荷神社がある。
 黒田原駅前には黄金の那須駒の像があり、その横に「クロロとゆめな」というご当地のゆるキャラが紹介されていた。



11月25日

 今日は黒田原スタートで「奥の細道」の旅の続き。
 さすがに遠いので新幹線を使った。
 高架線から朝焼けのほの赤く染まった富士山や丹沢奥多摩の山々がくっきりと見えた。
 谷中、荒川、戸田の競艇場、大宮などあっという間に通り過ぎ、すぐに広い田んぼの広がる所に出た。
 小山では日光の山々も見え、奥の方は雪を抱く。
 今まで歩いてきた道があっという間にすっ飛ばされ、ドラクエのルーラの呪文もこんなかと思った。

 旅木枯し新幹線をルーラにて

 旅のお供は前回に続きkobo touchで、おととい本が届いて早速入力した上野白浜子の『猪苗代兼載伝』(二〇〇七、歴史春秋出版)を読みながら行った。本をばらさずに取り合えず読めればと急いで入力したのと、二段組の頁を四つに分けたため、一部文字が切れている所があった。
 兼載の年賦の集成は大変な作業で、近代の連歌冬の時代にあっては貴重なものではある。ただ、付け句は基本的にフィクションであるにもかかわらず、あたかも兼載自身の境遇であるかのように引用されるのは、やはり写生説に毒された近代俳人の悪弊か。
 そうこうしているうちに、那須塩原に着き、そこから黒磯へ行く電車に乗り換え、黒磯でまた乗り換えて、八時過ぎには黒田原をスタートした。

 快晴で、那須の山々の山頂の方は雪だった。
 黒田原から真直ぐ県道28号線で足のへ行っても良かったのだが、曾良の「旅日記」だと、
 「芦野町ハヅレ、木戸ノ外、茶ヤ松本市兵衛前ヨリ左ノ方ヘ切レ (十町程過テ左ノ方ニ鏡山有)、八幡ノ大門通リ之内、左ノ方ニ遊行柳有。」
とあり、奥州街道で芦野の宿の手前に出て、宿場町を通り過ぎてから左に曲がったようなので、線路沿いに前回来た道を戻り、ゆめプラザの方へ曲がり、りんどうラインに出て、豊岡から奥州街道に合流することにした
 今年一番の冷え込みという話だったが、霜柱が立ち、畑の野菜には霜が降りているものの、日は既に高く、小春日和だった。
 ゆめプラザの先に鬼子母尊堂があった。犬がやたらと吠えていて、ゆっくりお参りもできない。俺の体から犬嫌いの匂いが出ているのか、昔から犬には吼えられる方だ。

 公孫樹散り犬吠え立てる鬼子母堂

 りんどうラインに合流する地点に毛足の長い白馬がいた。その先には青々とした草の生えている所があちこちにある。冬枯れの山にあってなかなか奇麗だ。牧草地なのだろうか。


 下川を過ぎ熊田坂温泉神社の方へ行く分岐点のすぐ手前にお稲荷さんがあった。この当たり人家も少なく、長閑な農村風景が広がる。なかなかのいい眺めだ。ついつい写真をたくさん撮ってしまうが、歳とって足が不自由になったら、この「奥の細道」の旅の写真のスライドショーをきっと何度も見るんだろうな。

 やがて旧奥州街道に出る。すぐに豊岡の集落がある。ここも長閑でいい所だ。


 黒川を渡ると、右側に鳥居が見える。夫婦石神社で、二つに割れた大きな石が祭られていた。末永い夫婦和合を祈りつつ先へ行くと夫婦石の一里塚があった。今ではひなびた田舎道だけど、かつてはやはりメインストリートだったのだろう。

 西坂を降りる旧道があり、芦野の里が見えた。途中草鞋を掛けた石祠があり、四方を注連縄で囲ってあった。大神の字は分かったが、上の字は分からなかった。
 下ると広々とした盆地で、ここが西行・芭蕉ゆかりの「遊行柳」のある芦野の里だ。
 田んぼの向こうに鳥居が見えたので行ってみた。途中、芦野氏居館跡があった。鳥居は健武山温泉神社の鳥居で、二の鳥居のあたりは紅葉が散って赤い絨毯になっていた。
 その向こうに狛犬があり、銘は読み取りにくいが嘉永四年か。
 拝殿前にも狛犬があるが、震災で崩れたのか、左側のは直置きされ、右側は転がってた。左側の台座には昭和九年の銘がある。ただ、転がっている方はよく見ると尻を持ち上げた獅子山型の狛犬だ。ネットで調べたら崩れる前の写真があり、そこには左側が普通の狛犬で右側が柱の上にその尻を持ち上げた狛犬が乗っていた。黒田原神社の「逆狛犬」の仲間か。



 境内の左側には巨大な杉の木があった。「天然記念物 杉」と書かれている。
 健武山温泉神社をあとにすると、そのまま294号線に出た。旧道は本当はこの一つ向こうにある。新道の脇には柳の木が植えられている。
 駐在所前の交差点を右に行くと旧道に出る。仲町通りと書いてあり一応商店街になっている。その先にはお寺があり、那須歴史探訪館がこっちにあるらしい。普段はこの手の博物館はスルーするのだが、黒田原駅前からずっとコンビニがなく、ここならトイレがあるのではと思って二百円払って入った。立派な建物で、トイレも奇麗だった。
 展示物の説明の中に、黒田原は明治二十年に鉄道ができるまでは原野だったことが書かれていた。なるほど、それなら曾良の「旅日記」に黒田原が出てこないはずだ。漆塚の集落があった以外は原野だったのだろう。
 この歴史探訪館には芦野の観光案内の地図やなんかが置いてあり、その中の一つ、「奥州街道・芦野宿 早わかりMAP」に「愛宕山と兼載」「愛宕山重修碑」が載っていたのは役に立った。
 旧道の所まで戻って遊行柳に向う。
 その途中に酒屋があった。お土産に純米吟醸池錦酒聖を買った。いろいろ勧められたが、大体は大田原か矢板の酒で、酒聖も太田原の酒だった。那須の伏流水が酒に向いているからだろう。その伏流水の源流に福島の放射性物質に汚染された廃棄物を埋めようなんて、国は何を考えているのやら。
 隣には石の博物館があり、その先道が右に曲がってすぐに左に曲がり、その先に行くと田んぼの中に大きな柳の木があり、その後には小高い山があり、岩が露出していた。あれが遊行柳と鏡山か。曾良の「旅日記」に、
 「芦野町ハヅレ、木戸ノ外、茶ヤ松本市兵衛前ヨリ左ノ方ヘ切レ (十町程過テ左ノ方ニ鏡山有)、八幡ノ大門通リ之内、左ノ方ニ遊行柳有。」
とあるのはこのあたりか。
 小さな川を渡り、新道を越えてゆくと、たしかに遊行柳と書かれていた。芭蕉の、「田一枚植えて立ち去る柳かな」の句碑はお約束といったところか。

 鳥居の向こうは散ったイチョウが絨毯のようになり、上の宮神社がある。明治二十九年銘の狛犬がある。


 遊行柳の所にはベンチもあり、ちょっと一休みする。立ち上がって歩き出そうとすると、何だか足がチクチクする。見るとズボンにびっしりとセンダングサの種が引っ付いている。そういえばあぜ道を歩いたりした。
 立ち止まって取っていると、どこからか「喜びの歌」のメロディーが流れてくる。正午を知らせる合図のようだ。

 立ち止まるわけは様々冬柳

 この後、兼載が晩年住んでいたという愛宕山を、さっきの案内図をもとに探しに行く。
 兼載は室町時代の連歌師で、宗祇と並ぶ中世連歌の大成者だ。

 花ぞ散るかからむとての色香かな   兼載
 夏の日に色こき山や雲の影      同
 月は名をわくるも一つ光かな      同
 一花を冬さく梅のさかりかな      同


といった発句がある。心敬の弟子で、宗砌・宗祇の流れとは違った、景物を並べ立てずに簡潔にその心を述べる風を受けついでいる。
 曾良の「旅日記」では、
 「其西ノ四五丁之内ニ愛岩(宕)有。其社ノ東ノ方、畑岸ニ玄仍ノ松トテ有。玄仍ノ庵跡ナルノ由。其辺ニ三ツ葉芦沼有。見渡ス内也。」
とあり、里村紹巴の息子の里村玄仍(げんじょう)と間違えている。こっちの方は安土桃山時代の連歌師だ。ただ、実際に芦野の愛宕山の麓に暮らし、松の名前にもなったのは兼載だ。
 黒田原の方へ行く県道28号線を越え、「芦野基幹集落センター」を探した。赤い屋根の二階建ての大きな建物で、隣に野球のグランドがあった。その裏手の小さな山がどうやら愛宕山のようだ。
 公園のようになっていて登る道があり、山頂には聖徳太子と書かれた大きな碑がひっくり返っていて、震災で倒れたのか。
 その東側の道路を隔てた向こうに石碑が立っていた。文字が漢文でびっしり刻まれていたがすっかり磨り減っている。これが愛宕山重修碑なのだろう。案内のパンフレットにも判読不能と書いてあるが、今の技術なら多分読み取る方法はあるのだろう。予算の問題か。

 ふたたび旧街道に戻り、白河方面に向って歩き始める。道を猫が歩いている。今日はよく猫を見る。芦野は猫密度の高い町のようだ。
 突然爆音が聞こえてきてくる。見ると新道の方を数台のバイクが駆け抜けて行く。去年も日光へ行く途中の杉並木でこんな光景を見たなと思う。昨今の若者の車離れ、バイク離れが囁かれる中で、こういうのもそのうち無形文化財になるのではないか。
 少し行くと旧道は新道に合流する。新町の地蔵尊がある。
 新道に出て少し行くと、今度は左側に旧道が分かれ、峯岸の集落に入る。
 左側に小さな鳥居があり、狭くて険しい石段がある。峯岸愛宕神社だ。社殿には合掌した仏像と馬に乗った神像が並んでいた。
 このあたりは駒形切妻屋根の建物をよく目にする。車が止まっていてガレージになってたりするところを見ると、もとは馬屋だったのか。別にこんな所にクトゥルーの邪神たちが来ていたわけではないようだ。
 峯岸を出ると、今度は右側に旧道があり、板屋、高瀬などの集落がある。板屋の集落を過ぎると板屋の一里塚がある。夫婦石の一里塚からちょうど一里ということか。その先に道が広くて真直ぐになるところがある。雰囲気的に会津西街道の大内宿に似ている。違うのは建物が新しいということだ。このあたりが昔の板谷宿だったのだろう。
 脇沢でふたたび新道に合流する。合流地点に脇沢の地蔵様がある。左側のお地蔵さんの顔がやけに現代的だ。後から作り直したのか。


 やがて今度は左ヘ旧道の分岐点が見えてくる。その手前の右側に狛犬が一対直置きされている。なかなか面白い顔の狛犬だ。石段を登って行くと小さな石祠があった。
 旧道へ入るとかつての寄居宿で、ここもさっきの板屋宿によく似ている。東北の宿場はこういう広い直線道路に形成されることが多かったのか。
 この寄居宿から東北本線の豊原駅へ行く道が分岐している。時間も三時。この季節は日の暮れるのが早い。今日の「奥の細道」の旅はここまでということで、豊原駅に向う。
 道を曲がった所に鳥居がある。社殿はなく、庚申塔が立っていた。
 しばらく人家の少ない静かな道が続く。途中、笹平湿地の看板があり、公園として整備されている。「昭和天皇御視察地」と書いてある。
 豊原の駅から電車に乗って黒磯に出て、駅の立ちそば屋でそばを食う。何しろ食堂もコンビニもずっとなかったので、かなり遅い昼食となった。
 帰りは在来線で、今回は初めてグリーン車に乗ってみた。グリーン券は駅のホームでPASMOで買える。これは快適だ。本を読みうとうとしているうちに、あたりは東京のビル街。さっきまで歩いていたのが夢だったのか、それとも今見ているのが「幻の巷」なのか。何かかなりのギャップを感じる。日本も広いものだ。
 さて、今年の「奥の細道」の旅はこれで終り。結局白河の関まではいけなかった。あとは来年の春になるか。


2013年4月28日

 さあ、ゴールデンウィークの始まりということで、今日こそ白河の関を越えようと、朝五時に家を出て、東京駅六時二十分発のやまびこ201号に乗った。
 天気は快晴だが、さすがにこの時期は山も霞み、富士山の白い姿もうっすらとしか見えない。
 『菅原道長の日常生活』(倉本一宏、二〇一三、講談社現代新書)を読みながら豊原へと向う。
 那須塩原に近づくと、那須連山が間近に見えてくる。ホームに降りると風はひんやりとしている。やはりセーターを着て来て良かった。
 黒磯からは二両編成の電車に乗る。車窓からは桜がまだ咲いているのが見える。
 豊原到着は予定通り八時八分。まずすべきことはトイレだ。前回も黒田原を出ると、コンビにもあらなくに、だった。

 歩き始めると、民家の庭にはチューリップ、シバザクラ、ムスカリ、菜の花、水仙などが一斉に咲き、八重桜はようやく咲き始め、一ヶ月くらい季節が戻った感じだ。風は結構強い。
 このあたりのタンポポはやっぱり大きい。田んぼに水が張られて、蛙の声がする。蛙はやはり稲作開始の合図で春の季語だったんだなと実感する。

 田に映る空に向って蛙鳴く

 八時五十二分、寄居宿到着。ここから奥の細道の旅の続きの始まりだ。
 国道294号線に出てすぐの所に、泉田の一里塚があった。こんもりとした円形の塚の周りは公園として整備されていた。
 その先、寄居大久保の集落の所でまた旧道に入る。途中、初花清水があった。水はパイプから流れ出ていた。ふたたび294号線に合流する所に瓢箪の形をした瓢石(ふくべいし)があった。本来の瓢石は石に瓢箪の形を彫ったもので現存せず、これは後から作られたもの。鈴がたくさんついている。


 山中の集落のところでまた旧道に入る。
 ふたたび294号線に戻った後、左側にアスファルトの旧道のような上り坂がある。これは今の立派な道ができる前の旧国道なのだろうと思うと行ってみたくなるが、やめておいたほうがいい。途中で道がなくなる。(と、通ってしまってから思う。アスファルトの道は復活したが、ロープが張られていて、入ってはいけない道だった。)
 そのすぐ先に小さな石の鳥居があった。道はあるのかないのかわからない状態で、行くのはやめた。近くに自販機があった。豊原を出てから最初の自販機で、お茶を買う。
 奥州街道の下野国と道奥国との境にある境の明神は、そこからすぐだった。
 「ようこそ福島県」の案内標識が見えてくると、その手前に鳥居と狛犬が見えた。これが境の明神の下野側の住吉明神だ。神社だけではなく大日如来像もあり、本地と垂迹がそろっている。狛犬は那須によくある厳つい狛犬ではなく江戸狛犬だ。


 「ようこそ福島県」の案内標識の下をくぐると道は下り坂になる。午前十時、長かった栃木県の旅が終わり、ようやく東北に入る。芭蕉庵をスタートしたのが一昨年の六月十九日だから、一年十ヶ月以上かけてようやく東北地方にたどり着いたことになる。
 すぐにもう一つの境の明神、玉津島明神がある。
 ここの狛犬も江戸狛犬で住吉明神のものによく似ている。ネットによると安政三年のものだそうだ。

 よく東北へ行くことを「白河の関を越える」という言い回しをするが、実際の白河の関は平安末には既に機能を失って廃墟と化していたため、当然芭蕉の時代に白河の関はなかったし、既にそれがどこにあったかすらわからなくなっていた。
 芭蕉が『奥の細道』の冒頭で「春立る霞の空に白川の関こえんと、そゞろ神の物につきて心をくるはせ」と言っているのもあくまで慣用句であって、単に陸奥へ行くという程度の意味で用いていたのだろう。

 その意味では、奥州街道のこの境の明神を過ぎたところで、「白河の関を越えた」と言っても良かったのであろう。曾良の旅日記のよると、「関明神、関東ノ方ニ一社、奥州ノ方ニ一社、間廿間計有。両方ノ門前ニ茶や有。」という茶屋が二件あるだけの静かな峠だったようだ。


 これではやはり物足りなかったのだろう。特に曾良の学者ならではの探究心は、少なからず白河の関の本当の場所を突き止めたいという野心に燃えていたのかもしれない。「これヨリ白坂ヘ十町程有。古関を尋て白坂ノ町ノ入口ヨリ右ヘ切レテ旗宿ヘ行。」ということになる。
 境の明神を過ぎると、左側に小さな木の鳥居があった。額には「山の神」と書いてある。名もなき神様なのか。登って行くと小さな石祠があった。横には桜の木がある。

 みちのくは花を残して山の神

 やがて今日二箇所目の自販機があるところに出る。道がそこで分かれていて右側が「白河の関6.5km」となっている。曲がり角には「おくのほそ道」と書いた石の道標もある。観光用に建てたのだろう。
 正確なことはわからないが、芭蕉と曾良もこのあたりから右に曲がって旗宿へ向ったのだろう。坂道を登っていくと道がまた二手に分かれていて、右側の方にまた「おくのほそ道」の道標がある。こっちに曲がれということか。
 地図で見ると左へ行っても呼金神社の前を通り、旗宿の北側に出る。右側だと真直ぐ白河の関跡(芭蕉の時代よりも百年以上後に松平定信によって発見された)へと向う。後から思うと左の方が芭蕉の道だったかなと思うのだが、右側の道も静かで道端にシバザクラが植えられていて悪くはなかった。


 開けたところに出て関守橋を渡るとすぐに白河神社と史跡白河関跡の前に出る。今では公園として整備されている。駐車場もありそば屋がありトイレもある。北の方に山頂に建物のある山が見えて、これが結構目立つ。おそらくあれが関山だろう。

 白河神社の入口には昭和六年銘の頭でっかちの厳つい狛犬がある。鳥居をくぐり杉林の中を登って行くと右側に古関跡の碑があり、拝殿の入口の所には江戸始めのような古めかしい狛犬がある。日陰で写真がうまく取れない。

 神社の右裏手にはお堀と土塁の跡がある。そのほかにも藤原家隆の従二位の杉という巨木があり、「幌掛の楓」「矢立の松」「旗立の桜」は現存しなくて立て札だけが立っている。ただ、白河の関の場所自体が長いことわからなかったのだから、本当に元からここにあったのかどうか‥‥。
 白河の関は奥州街道ではなく、東山道という奈良時代に作られた駅路の終点で、当初は蝦夷との国境を守る軍事施設でもあり、今で言う板門店のようなものだったのかもしれない。やがて蝦夷が北に後退し、陸奥国への出入り口となった。
 東山道はもとより当時の全国国府をネットするように張り巡らされた駅路は軍事施設としての役割を背負っていたのか、幅十二メートルで直線的に進む堂々としたものだった。今では古代のハイウェイとも古代のアウトバーンとも呼ばれている。
 おそらく古くは坂上田村麻呂もここを通っただろうし平安末から鎌倉初期の西行、義経、頼朝もここを通って旅をしたと思われる。
 そうなると遊行柳がなぜ東山道ではなく後の奥州街道の芦野にあるのかという謎が生じる。「しばしとてこそ立ち止まりけれ」という言葉には、あえて芦野の有力者に呼ばれて逗留したという意味が込められていたのかもしれない。中世に流布していた『西行物語』では、あの歌は宮廷での題詠ということになっている。
 曾良の「旅日記」にも謎は残る。芭蕉と曾良は旗宿に一泊して次の日に「町ヨリ西ノ方ニ住吉・玉 嶋ヲ一所ニ祝奉宮有。古ノ関ノ明神故ニ二所ノ関ノ名有ノ由、宿ノ主申ニ依テ参詣。」とある。ところがこの古関跡は旗宿の中心地の南側にある。
 二通り考えられる。一つは芭蕉が尋ねた古ノ関ノ明神「二所ノ関」はここではなく、西側の別の所にあり、今では失われている可能性。もう一つは昔の旗宿は今の伊王野白河線沿いにではなく、古関跡の東側の谷の方にあったという可能性だ。


 古代の東山道は宇都宮北東の4号線の直線区間から、さくら市と那須烏山市の境界の南西から北東に伸びる直線部分(今でも将軍道と呼ばれるその跡が残っている)を一直線に貫いていて、那珂川町小川で北に向きを変え、途中で伊王野の手前で北東に向きを変え白河関跡の南にある追分明神の方へ一直線に進んだと思われる。追分から北へ直線的に進んだとすると、今の白河関の森公園の前を通り古関跡の東側を通った可能性もある。
 芭蕉の泊まった宿が今の白河関跡の東側にあったのなら、そこにあった住吉・玉津島両明神はこの白河神社の前身に当たる神社で、正解だったということになる。

 白河神社と白河関跡をひと通りまわり、昨日コンビニで買っておいたパンを食べて昼食にして、関山に向った。前回食べる所がなくてひもじい思いをしたので用意してきたのだが、ここまで来る間にパンはかなり潰れていたが。
 関跡から北に行くとすぐに今の旗宿の中心に出る。そこから関山の方に向うとすぐに庄司戻しの桜がある。これも源平合戦にまつわる伝説の木だ。この木はもうすっかり花は散って、葉になっていた。芭蕉と曾良は最初に旗宿に到着した日にこの桜を見ているから、やはり呼金神社の方を通って、北の方から旗宿に入ったのだろう。

 その呼金神社の方へ行く道との分岐を右に行くとすぐに右側に鳥居が見える。行ってみると小さな木造の拝殿があった。神社の名前は読み取れない。「瀧」という寺が入ってるように思える。
 しばらく行き郵便局の手前を左に入り、柳橋を渡る。しばらく行くと左に石段があり鳥居が見える。村社稲荷神社と書いてある。
 石段の前を守っているのは狛犬ではなくお狐さんだった。右側には大正四年の銘があり左側には昭和二十二年の銘があるが、どう見ても一緒に作られたみたいだ。老獪そうに額に皺を寄せた表情で、尻尾には縦に切込みが入っている、那須湯元の温泉神社にあったような九尾の狐を表現したものだ。
 神社の先には八重桜が咲いていて、「せき山桜」という碑が立っている。


 裏手の道路に出て左に行くと、すぐ右側に「関山」書いた道しるべがある。ここから登っていくのだが‥‥。
 関山に登る道はガチに山道で、すぐ息切れがするし、こんな所でまた足がつったらと思うと、時々休んで呼吸を整えながら登っていかなくてはならない。道の脇に山吹が咲いているのが救いだ。

 関の山山吹にだけ励まされ

 登るにつれ視界が開け、旗宿の街が見下ろせるようになる。そしてやがて下馬碑のあるやや広い所に出る。車が止まっている。砂利道があって反対側から登れるようになっている。
 成就山満願寺はそこからさらに登った山頂にある。行基菩薩が開いたという古い寺で、芭蕉の頃はたくさんの建物の並ぶ大きな寺で、大勢人が住んでいたようだ。今は至って静かで、曾良が記したような山門もない。寛文四年の釣鐘だけがひっそりと残されている。きっと芭蕉の頃の方が道が立派だったのだろう。


 この山がかつての関所跡だという説もあるが、それはないだろう。ただ、この山から旗宿も白河市内も一望にできるので、軍事的な意味があった可能性はある。
 かくして関山の頂に立ったのが午後2時。これからさっき見た砂利道を通って反対側に降りる。
 曾良の「旅日記」には「本堂参詣ノ比、少雨降ル。暫時止。」とある。山道で雨となると、道の状態はあまりよくなかったに違いない。芭蕉さんもすっかり曾良の学問的好奇心に振り回された感じで、機嫌が悪かったのではないか。『奥の細道』に二所ノ関の神社のことも関山のことも書いてないのは、多分そのせいだろう。
 「ったく素直に奥州街道を行けばいいものを、ちょっと寄り道といって全然ちょっとじゃないじゃん」
とかぼやく声が聞こえてきそうだ。
 ふもとの人家のあるところに出ると、左側に狛犬だけが見える。地図を見ると稲荷神社と書いてあるが、神社はなくなっちゃったのだろうか。
 国道289号線に出ると、下界に下りてきたという感じがする。それとともに、何か今日の旅はもう終っちゃったような気分にもなる。国道と並行して、おそらくこの国道の旧道と思われる道を行く。セブンイレブンが見えてくる。前回の黒田原でファミマを見て以来のコンビニだ。


 八龍神橋を渡ると、左側に旧道がある。ここを行くとかつての宿場の町並みになる。  御斎所街道が合流する所に宗祇戻しの碑があった。連歌興行にきた宗祇が、この白河の地でそこにいた女性の機知に驚き、帰ってしまったというエピソードなのだが。

 ただ、曾良が「旅日記」に記しているのは宗祇もどし橋で、宗祇が帰ったきっかけとなったのは、

     月日の下に独りこそすめ
   かきおくる文のをくには名をとめて

という付け句だったが、ここでは「阿武隈のの川瀬にすめる鮎にこそうるかといへるわたわありけれ」という和歌になっている。それに曾良は「四十計ノ女」と書いているが、碑文には「少女」とある。この「宗祇戻しの碑」と曾良の記した「宗祇戻し橋」は別物か。
 曾良の「旅日記」では、宗祇戻し橋は旗宿の南の追分の明神のことや忘ず山や二方の山、うたたねの森など、芭蕉・曾良の通り道でなかったところと併記されている。つまり、これは相楽乍憚から聞いた話を列挙しただけだと思われる。
 せっかく白河に来たのだから、やはり白河ラーメンははずせない。桜町の御旅所という鳥居のある神社のような所の隣の秀佳亭というラーメン屋が目に入ったので、そこで食べた。醤油味だけど濃いめの味で細めの幅広縮れ麺で、チャーシュー、鳴門、メンマ、ほうれん草の乗っかっている。チャーシューの縁がやや赤く、中華街のチャーシューを思わせる。
 白川駅の近くが中町になる。曾良は中町で左五左衛門を尋ねている。どういう人なのかはよくわからない。日光には仏五左衛門がいたし、那須湯元にも五左衛門がいたが、全員同一人物ってことはいくらなんでもないよな。
 白川駅に着いた。ここで今日はセーブ。次回はここから矢吹、須賀川を目指すことになる。

 とりあえず、お土産に酒でも買っていこうと思うのだが、白河の旧市街は例によってシャッターストリートでラーメン屋以外に開いてる店は少ない。酒屋を探してかなり歩いた。ようやく千駒特別純米が買えた。
 かなり駅から離れてしまったので、ここまで来ると新幹線の止まる新白河まで歩いてもそう変わりないかと思って、新白河を目指した。
 国道289号線に出ると見慣れた看板が並ぶ。中央資本の郊外型店舗の並ぶ、これもいろいろな街でおなじみの光景だ。
 新白河の駅前は何軒かビジネスホテルがあるが、昔の新横浜みたいにがらんとしている。新幹線は一時間間隔で時間が余ったが、駅前には何もない。
 まあ、そういうわけで、結局六時二十二分の新幹線に乗って、家に着いたのは九時ごろだった。