街道を行く

古代東海道 東へ2

二〇二二年五月八日

 土浦まで歩ききれず、途中でバスに乗ってしまったあと、あれからいろいろなことがあった。

 世界は大コロナ時代を迎え、それもようやく終りが見えた所で茶色い戦争が始まった。そうやって幾時代かありまして、今日はようやく古代東海道の旅の続き。阿見坂上からの出発になる。

 先ずは電車で荒川沖まで行く。内陸なのに沖というが、昔は霞ケ浦の沖の島だったのか。昔の荒川は今の元荒川で、行田から蓮田、越谷を経て江戸川(昔の太日川)の方へと流れていた。その東側は野田から布佐に至る下総の陸地があり、その向こうは広大な霞ケ浦と、そこに浮ぶ沖の島という認識だったのだろう。

 もっともこの荒川沖の地名は乙戸川の向こう側という意味だとも言われている。乙戸川は川下で小野川に合流し、その少し川下の稲敷の辺りが古代東海道の渡河点となっていた。

 乙戸川・小野川の西には谷田川、西谷田川があり、そのさらに西には小貝川や鬼怒川もある。この辺りの流れは一定せず、しばしば水害が起きていたので、古代東海道も竜ケ崎から一直線に土浦に向かうことができず、牛久や荒川沖を避ける迂回路を取ったのだろう。

 北関東からの急流が流れ込む場所を避けて、穏やかな霞ケ浦を渡る方を選んだのではなかったかと思う。

 さて、荒川沖駅を出て阿見住吉の立体交差から荒川沖阿見線という広い道路を通って阿見坂上へと向かう。八時半に駅を出ると天気も良い。歩道にはいろいろ花も咲いている。

 途中で左に自衛隊の駐屯地があり、右には自衛隊の航空学校がある。外から自衛隊の小さな社が見える。

 国道125号線阿見美浦バイパスを越えた向こうに中郷阿彌神社がある。狛犬は二対で拝殿前のは昭和十五年銘の江戸狛犬、もう一対の銘がよく読めなかったが、万延元年か。別にこの年に西洋からフットボールが入って来たとか、そういう事実はないらしい。「紀元2600年のプレイボール」なら知っているが。(紀元2600年は昭和十五年で、もう一対の狛犬の年代になる。)


 阿見坂上に到着したのは九時五十分で、前に来た時と同じで霞ケ浦が見える。ここから細い路地へと入って行く。少し先で右に曲がると谷へ降りて行く道になる。

 多分霞ケ浦高校のグランドある辺りが花室川の渡河点だろうと思う。そこへ向かって右へ曲がったり左へ曲がったりしながら、山に登る道に入ると、鹿島神社があった。

 鳥居の額の所には藁で作った一山と書かれた物が取り付けられている。狛犬は昭和六十年銘の岡崎型だが、耳がイカ耳になっていてやや前のめりになっている。

 神社からは筑波山が見えて、ここまでの道が筑波山に向かっているのが分かる。

 花室川に出ると、向こうに霞ケ浦高校のグランドがあり、川では釣りをしている人がいる。この辺りの田んぼは田植えが終わっていた。その向こうの高台へ向かう。田んぼ脇にはカキツバタが咲き、高台には桐の花が咲いている。

 ここから、これまでの直線ルートを維持しながら行くと、途中に旅立地蔵尊があり、ファミマがあったので飲み物を買う。

 千鳥ヶ池公園の先をまた山に登る道があり、その上には月読宮二十三夜尊があった。神社ではなく仏教式のお堂で、鈴ではなく鰐口を鳴らす。二十三夜は下弦の月で、この月を待ちながら夜通し起きているイベントだった。庚申待ちといい、昔の人は何かにつけて夜更かしを楽しんでいた。


 月読宮を降りると土浦の市街に出る。土浦竜ケ崎線の広い道に出ると、そのまま土浦駅の方へ向かう。桜川は大きな川で、そこを渡ると土浦駅の裏に出る。十一時二十分で阿見坂上から一時間半。前回はバスに乗って正解だった。歩いてたら真っ暗になっていた。

 土浦駅を過ぎると右に大きな野球場があり、その手前にはヨットハーバーがある。あたりの建物も湘南っぽい。

 新川を越えると常磐線が右に曲がって直進が困難になる。真鍋跨線橋を渡り、線路の反対側に行く。大きな車両基地がある。

 線路を渡ると、しばらく線路沿いを行く。所々小さな蓮根の田んぼ(蓮田)がある。土浦の名産品だ。今は収穫のあとでわずかに葉っぱがあるだけだが、夏には花が咲くんだろうな。

 線路脇から県道牛渡馬場山土浦線に出るまでの間は立派な瓦屋根の家が並んでいる。土浦市二中地区公民館があったが、土浦では中学の学区域で地区を分けているのだろうか。国道354号線を越えると山側に青麻神社があった。鳥居と拝殿の間に門があった。狛犬はなかった。

 その先の大きな信号を曲がり、台地の方へ上って行く。かすみがうら市市川から新治を突っ切るほぼ直線の道があるので、その延長線上に近い道ということで、次の信号を右に曲がる。

 住宅地の中を通り、そのあと境川を渡る辺りは家が途切れて蓮田があった。川はどこにあるのかよくわからなかった。

 その先にはIJTTの大きな工場があり、反対側には配水場があった。辺りは工場地帯になっているようだ。


 やがて道が突き当たるので、右に少し行って左に曲がる。この辺りは住宅地になる。

 再び突き当たるので、左へ行くとミニストップがあって、右側に広い道がある。この辺りは大型の商業施設が並ぶ。

 途中から道が細くなり小さな菜園なども見えてくる。新治の直線道に出る手前の所のラーメン屋たか野で昼食にする。担々麺を久しぶりに食べた。

 この後の道は若干右左に緩やかに曲がってはいるもののほぼ直線で、坦々とした道が続く。次第に住宅がなくなり、栗林が多くなる。栗の花は咲いてなかった。手前の山に隠れながらも、時折筑波山も見える。左側に鳥居が三つばかり並んでるところもあった。

 

 新治筑波を過ぎて幾夜か寝つる

 

は日本武尊が甲州酒折で詠んだ片歌で、これに火ともしの翁が、

 

 かがなべて夜には九夜日には十日を

 

と付けたのが連歌の始まりとされ、連歌の道が菟玖波の道と呼ばれるようになったという。この新治は筑西の方の新治だという。ただ、この辺りも新治なので、何か縁を感じる。

 道が下りになり、天の川を渡る。鴨がいた。周りは田んぼが広がっていて水面が波立っていた。

 それを過ぎると胎安(たやす)神社の看板がある。大きな木の鳥居があり、左へ少し入って行った所にひっそりとその神社はあった。拝殿の前には青麻神社のように門がある。この辺りにはこういう造りが多いのか。随身はなくて、幣があるだけだった。狛犬は平成二十九年銘の真新しい岡崎型で、これといった特徴はない。

 胎安神社を過ぎると右側に子安神社があったが、疲れてたのでここは飛ばした。多分本地垂迹で胎安神社の本地の東野寺があったのが、廃仏毀釈でこっちも神社になってしまったのだろう。どちらも安産の神様で完全に被っている。

 その先道は下り、向こうに石岡の街が見えてくる。古代だったら国分寺の七重の塔が見えて感動する場面だったか。

 国道六号線に出ると恋瀬橋ロードパークがあり、そこに旧恋瀬橋があった。親柱と欄干の一部をここに移して保存したという。ロードパークにはトイレがあるから、トラックドライバーにも有難いし、街道ウォークにも有難い。


 恋瀬川は大きな川で向こうに筑波山が見える。筑波山を水源とする河なので、

 

 筑波嶺の峰より落つるみなの川

     恋ぞつもりて淵となりぬる

              陽成院 (後撰集)

 

の男女(みなの)川との共通点もある。男女川が小さな川で、すぐに桜川に合流するのに対し、恋瀬川はかなり長い。

 恋瀬川もまた、

 

 恋瀬川つれなき仲に行く水は

     としもせかれぬ涙なりけり

              藤原家隆(夫木抄)

 恋瀬川浮き名を流すみなかみは

     袖にたまらぬ涙なりけり

              大江政国女(続後拾遺集)

 水の上の泡と消えなば恋瀬川

     流れてものは思はざらまし

              式乾門院御匣(新拾遺集)

 

などの歌に詠まれている。

 恋瀬川を渡ると、道は二つに分かれて石岡の市街地に入って行く。常陸国府跡は常陸国総社宮の裏にあるので、今の道とは別にこちらの方へ行く直線路があったのかもしれない。ここに直線路があったとすると、その延長線上に国分尼寺跡のある若松通りに繋がることになる。ただ、それだと国分寺跡の位置がそこから外れることになる。

 今回は国府公園の方から回った。常陸国総社宮には随身門があり、ちゃんと随身があった。この様式が胎安神社や青麻神社にも踏襲され、この辺りの神社の様式になっているのか。狛犬は大正八年銘の江戸狛犬だった。日本武尊の腰掛石があって、手塚治虫さんの「火と鳥」とコラボしていた。

 常陸国府の跡の碑はその裏側の小学校にあった。ここの国府はそのまま館になり城になって後々用いられていたようだ。駿河国府が駿府城になったようなものか。

 国分寺や国分尼寺の跡も言って見たいが、足の疲労の方もあり、取り合えず常陸国の国府に辿り着くことができたということで締めくくりにしよう思い、この後石岡駅に向かった。駅に着いたのは四時半過ぎだった。