「此梅に」の巻、解説

延宝四年春、奉納貳百韻うちの第一百韻

初表

 此梅に牛も初音と鳴つべし     桃青

   ましてや蛙人間の作      信章

 春雨のかるうしやれたる世中に   信章

   酢味噌まじりの野辺の下萌   桃青

 摺鉢を若紫のすりごろも      桃青

   むかし働のおとこありけり   信章

 皹のひらけそめたる空の月     信章

   つまだてて行あし引の山    桃青

 

初裏

 五寸程手の届かざる歌の道     信章

   ひとかいあまりすみよしの松  桃青

 淡路島仕形ばなしの余所にみて   信章

   とも呼鳥の笑ひごゑなる    桃青

 青鷺の又白さぎの権之丞      信章

   森の下風木の葉六ぱう     桃青

 真葛原ふまれてはふて逃にけり   信章

   むし鳴までにむごうなびかぬ  桃青

 恋の秋爰にたとへの有ぞとよ    信章

   吉祥天女もこれほどの月    桃青

 あつらへの瓔珞かかる山かづら   信章

   松のあらしの響く耳たぶ    桃青

 大黒の袋は花にほころびて     信章

   霞にもろき天竺のきぬ     桃青

 

二表

 今朝の雪貧女一文が糊をとく    桃青

   風進退を削る竹べら      信章

 臍の緒を吉原がよひきれはてて   桃青

   かみなりの太鼓うらめしの中  信章

 地にあらば石臼などとちかひてし  桃青

   末の松山茎漬の水       信章

 千賀の浦しほがま居て場の隅    桃青

   雪隠さびて見えわたるかな   信章

 たまさかにこととふ物はげたの音  桃青

   なを山ふかく入し水風呂    信章

 よしやよしこぬか袋の濁る世に   桃青

   千里をかける馬子はあれども  信章

 西の月見ぬ六道の札の辻      桃青

   ゑんまの町々引わたす霧    信章

 

二裏

 煩悩の本綱中づな末の露      桃青

   人足あれば山姥もあり     信章

 谷の戸をたたき起して触流し    桃青

   諸鳥の小頭うぐひすのこゑ   信章

 花をふんですずめは千の徒歩の衆  桃青

   上野下屋の竹のはるかぜ    信章

 鍔目貫朝の霜にくちはてて     桃青

   鎧は毛ぎれむしは音をいれ   信章

 ことあらばやせたれどあの花薄   桃青

   ももとせの餓鬼も人数の月   信章

 大無尽世尊を親に取たてて     桃青

   公儀の掟はのがれ給はず    信章

 土も木も三間ばりに野づら石    桃青

   此山一つ隠居料にと      桃青

 

三表

 富士の嶽いただく雪をそりこぼし  信章

   人穴ふかきはや桶の底     桃青

 蝙蝠やみ角の紙の散まよふ     信章

   山椒つぶや胡椒なるらん    桃青

 小枕やころころぶしは引たふしは  信章

   台所より下女のよびごゑ    桃青

 通路の二階はすこし遠けれど    信章

   かしこは揚屋高砂の松     桃青

 とりなりを長柄の橋もつくる也   信章

   能因法師若衆のとき      桃青

 照つけて色の黒さや侘つらん    信章

   わたもちのみいら眼前の月   桃青

 飢饉年よはりはてぬる秋の暮    信章

   多くは傷寒萩の上風      桃青

 

三裏

 一葉づつ柳の髪やはげぬらん    信章

   これも虚空にはいしげじげじ  桃青

 判官の身はうき雲のさだめなき   信章

   時雨ふり置むかし浄瑠璃    桃青

 おもくれたらうさいかたばち山端に 信章

   松ふく風や風呂屋ものなる   桃青

 君ここにもみの二布の下紅葉    信章

   契りし秋は産妻なりけり    桃青

 月すごく草履のはなを中絶て    信章

   河内の国へかよふ飛石     桃青

 四畳半くづやの里も浦ちかく    信章

   浪に芦垣つかまつつたり    桃青

 時は花入江の雁の中帰り      信章

   やはら一流松に藤まき     信章

 

名残表

 いでさらば魔法に春をとめて見よ  桃青

   七リンひびく入相のかね    信章

 薬鍋三井の古寺汲あげて      桃青

   落させられし宮のうち疵    信章

 階の九つ目より八目より      桃青

   湯立の釜に置合あり      信章

 既に神にじりあがらせ給ひけり   桃青

   白髭殿は御年よられて     信章

 つくづくと向にたてる鏡山     桃青

   わけ入部屋は小野の細みち   信章

 忍ぶ夜は狐のあなにまよふらん   桃青

   あぶらにあげしねづなきの声  信章

 唐人も夕の月にうかれ出て     桃青

   古文真宝気のつまる秋     信章

 

名残裏

 酒の露たはけ起て白雲飛ぶ     桃青

   天狗だふしや人のたふれや   信章

 ねのよはき杉の大木大問屋     桃青

   跡をひかへて糸荷より来る   信章

 秤にて日本の知恵やかけぬらん   桃青

   霰の玉をつらぬかれけり    信章

 花にわりご麓の里は十団子     桃青

   日坂こゆれば峰のさわらび   信章

      参考;『校本芭蕉全集 第三巻』(小宮豐隆監修、一九六三、角川書店)

初表

発句

 

 此梅に牛も初音と鳴つべし     桃青

 

 延宝三年の秋に江戸にやってきた宗因と一座したこの二人は、すっかり宗因流の談林俳諧に感化され、この百韻を巻くことに至った。そのときの空気を何とか読み取ってみたいと思う。

 信章はコトバンクの「世界大百科事典内の山口信章の言及」に、

 

 「江戸前期の俳人。姓は山口,名は信章。甲斐国北巨摩郡教来石字山口の郷士の家に生まれた。少年時代父に従って甲府に移り,さらに20歳のころ江戸に出て林家について漢学を修めた。その後しばらく京へも遊学したらしい。俳諧は季吟門と伝えたが,最初の入集は加友撰《伊勢踊》(1668)で,〈江戸山口氏信章〉として5句。1675年(延宝3)5月,江戸下向中の宗因を歓迎する俳席に桃青(芭蕉)とともに出座,以後,翌年には両人で《江戸両吟集》を発行するなど親交を深め,芭蕉らの新風を支持した。」

 

とある。

 「此梅に」の巻もこの『江戸両吟集』に収録され、この年の三月に刊行されている。

 信章は寛永十九(一六四二)年の生まれで、寛永二十一年生まれの芭蕉より歳が二つ上になる。

 コトバンクの「ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典の解説」には、「延宝7 (1679) 年 38歳で致仕,上野不忍池のほとりに隠棲」とある。芭蕉の深川隠棲の一年前のことだ。

 天和期には素堂の俳号を名乗り、元禄二年刊の『阿羅野』で、

 

 目には青葉山ほととぎす初鰹    素堂

 

の句を発表し、今日でも日本中誰もが知る句の作者となった。

 芭蕉と素堂との交流は終生続き、元禄五年の夏には俳諧と漢詩による両吟「破風口に」の巻を巻いているのは、以前にもこの鈴呂屋俳話で紹介した。

 この百韻には「奉納貳百韻」とあり、『江戸両吟集』に収録されているもう一つの、

 

 梅の風俳諧國にさかむなり     信章

 

を発句とする百韻とともに、梅に縁のある天神様に奉納したものとされている。

 天神様というと江戸の三大天神というのがある。湯島天満宮、亀戸天神社、谷保天満宮のことだが、どこに奉納されたのかはわからない。谷保は遠すぎるので、亀戸もやや遠いので、湯島天神ではないかと思われる。

 中世の連歌は寺社で興行されることが多かった。この時代の連歌は密室で行われるのではなく、寺社への奉納という形で公開で行われていたのだろう。そして出来上がった連歌はしばらく寺社に掲示されたりして、一般庶民の多くもその作品を鑑賞し、それが身分を越えた連歌の大流行を生み出し、庶民の識字率を高めるのにも貢献したと思われる。

 江戸時代初期の俳諧興行も、多分のその名残を留めていたと思われる。たとえば西鶴の矢数俳諧は、本当に即興で一日何千もの句を詠んだことを証明するには、衆人の見ることろで行われる必要があっただろう。

 宗因が江戸に来て、桃青・信章が参加した延宝三年の興行も本所の大徳院で行われている。

 それを考えると、この両吟もどちらかの天満宮で興行された可能性は大きい。当時の句のスピードを考えるなら、一日で百韻二巻も特別なものではなかっただろう。

 正月の梅の咲く季節に、この興行は桃青の発句でもって始まる。

 天満宮といえば梅は付き物だが、牛も神使とされている。ウィキペディアには、

 

 「菅原道真と牛との関係は深く「道真の出生年は丑年である」「大宰府への左遷時、牛が道真を泣いて見送った」「道真は牛に乗り大宰府へ下った」「道真には牛がよくなつき、道真もまた牛を愛育した」「牛が刺客から道真を守った」「道真の墓所(太宰府天満宮)の位置は牛が決めた」など牛にまつわる伝承や縁起が数多く存在する。これにより牛は天満宮において神使(祭神の使者)とされ臥牛の像が決まって置かれている。」

 

とある。ただ、撫で牛はこの時代にあったかどうか定かでない。

 宗因は梅翁とも呼ばれていて、去年江戸にやってきた梅翁に負けずに、自分たちもここで初音と洒落てみようか、という句だ。「牛」は神使でもあるが、鈍重なというイメージもあり、ここに「遅ればせながら」という意味を込めたと思われる。

 鶯の初音は、

 

   おほきさいの宮に宮内といふ人のわらはなりける時、

   たいこのみかとのおまへにさふらひけるほとに、

   おまへなる五葉にうくひすのなきけれは、

   正月はつねの日、つかうまつりける

 松のうへになく鴬のこゑをこそ

     はつねの日とはいふべかりけれ

               宮内(拾遺集)

 

を初めとする多くの歌に詠まれていて、この場合は初音と初子の日に掛けている。

 梅に鶯の初音はあまり例がないが、

 

 鶯の初音をきのふ聞きしかな

     山田の里の梅の立枝に

               能因法師(夫木抄)

 

の歌がある。

 

季語は「梅」で春、植物、木類。「牛」は獣類。

 

 

   此梅に牛も初音と鳴つべし

 ましてや蛙人間の作         信章

 (此梅に牛も初音と鳴つべしましてや蛙人間の作)

 

 『校本芭蕉全集 第三巻』(小宮豐隆監修、一九六三、角川書店)の補注に、謡曲『白楽天』の「されども歌を詠むことは人間のみに限るべからず。‥‥‥花に鳴く鶯水に住める蛙まで、唐土はしらず日本には歌よみ候ぞ」が引用されている。「花に鳴く鶯水に住める蛙」は古今集の仮名序による。

 蛙はそこから歌詠みの象徴でもあり、俳諧師もまたそれを引き継いでいる。

 牛も初音と鳴くのだから、まして俳諧師もここで句を詠まなくては無風流の極みだというところだ。

 「ましてや‥‥人間」は謡曲『采女』に、

 

 「ましてや人間に於いてをや。竜女が如くわれもはや、変成男子なり采女とな思ひ給ひそ。」(野上豊一郎. 解註謡曲全集 全六巻合冊(補訂版) (Kindle の位置No.22802-22806). Yamatouta e books. Kindle 版. )

 

とある。

 

季語は「蛙」で春。「人間」は人倫。

 

第三

 

   ましてや蛙人間の作

 春雨のかるうしやれたる世中に   信章

 (春雨のかるうしやれたる世中にましてや蛙人間の作)

 

 春雨は春の霧雨とも言われるようにザアザア降るのではなく軽く降る。

 人間の世界も軽い方が洒落ている。洒落者は軽薄に見られがちだが、物事に拘泥せずに、臨機応変に機転を利かせて生きることは決して悪いことではない。昔も今もファッションやトレンドは軽いのを良しとする。

 日本の場合、軽いものを良しとする価値観は、仏教によるものなのかもしれない。執着を捨てることを我々の文化は良しとする。過去もさらっと水に流すのが良い。

 春雨のように軽い洒落た世の中であれば、まして蛙(俳諧)はより軽く洒落ている。後の芭蕉の「軽み」を待つまでもなく、俳諧は本来軽いのを良しとする。

 春雨に蛙は、

 

 春雨に濡れつつをらむ蛙鳴く

     水の尾川の山吹の花

               後鳥羽院(夫木抄)

 

など、いくつか歌に詠まれている。「水の尾川」は京都市右京区嵯峨水尾にある川。

 

季語は「春雨」で春、降物。

 

四句目

 

   春雨のかるうしやれたる世中に

 酢味噌まじりの野辺の下萌     桃青

 (春雨のかるうしやれたる世中に酢味噌まじりの野辺の下萌)

 

 春の野辺の下萌といえば若菜。これを酢味噌で食べるのは洒落ている。さすが伊賀藤堂藩の元料理人だ。

 『校本芭蕉全集 第三巻』(小宮豐隆監修、一九六三、角川書店)の補注は、『夫木和歌抄』の、

 

 昔見し妹が垣根はあれにけり

     つばなまじりのすみれのみして

 

の歌を引いている。

 「下萌」の用例は、

 

 春日野の下萌えわたる草の上に

     つれなく見ゆる春の淡雪

               源国信(新古今集)

 

などがある。

 

季語は「下萌」で春、植物、草類。発句の「梅」と二句去りで木類と草類を違えている。

 

五句目

 

   酢味噌まじりの野辺の下萌

 摺鉢を若紫のすりごろも      桃青

 (酢味噌まじりの野辺の下萌摺鉢を若紫のすりごろも)

 

 『校本芭蕉全集 第三巻』(小宮豐隆監修、一九六三、角川書店)の注は『伊勢物語』の、

 

 春日野の若紫の摺り衣

     しのぶの乱れかぎり知られず

               在原業平

 

の歌を引いている。

 若菜を酢味噌に混ぜて摺り鉢で摺り潰し、ペーストを作っているのだろうか。

 鉢を染める色が昔の原始的な摺り染めの衣のような荒っぽい模様を描いている。

 延宝八年の、

 

 柴の戸に茶を木の葉掻く嵐かな   桃青

 

の趣向にも通じるものがある。風で吹き集められた木の葉は抹茶を立てるときのようだ。

 

季語は「若菜」で春、植物(草類)。「すりごろも」は衣裳。

 

六句目

 

   摺鉢を若紫のすりごろも

 むかし働のおとこありけり     信章

 (摺鉢を若紫のすりごろもむかし働のおとこありけり)

 

 前句が『伊勢物語』の趣向だから、「むかしおとこありけり」を付ける。前句の意味にはそれほどこだわっていない。こういう付け方もたくさんの句を素早く詠むには必要なテクニックだ。

 ただし、「働(はたらき)」の男として換骨奪胎する。「働」は今で言う「下働き」のことか。

 

無季。「おとこ」は人倫。

 

七句目

 

   むかし働のおとこありけり

 皹のひらけそめたる空の月     信章

 (皹のひらけそめたる空の月むかし働のおとこありけり)

 

 原文は月偏に氐の字になっている。フォントが見つからないので「皹(あかがり)」とした。あかぎれのこと。

 働く男はあかぎれくらいできる。あかぎれが開いて痛いところだが、それを夜があいて白んでゆく空の月に掛けて、強引に月の定座にもって行く。

 

 池にすむおしあけがたの空の月

     袖の氷になくなくぞみる

               藤原家隆(新勅撰集)

 

の歌もあり、「おしあけがた」は「鴛・明方」と「押し開け」に掛けていて、それが「開け初めたる空の月」の典拠となる。「袖の氷」に皹(あかがり)の連想も働く。

 

季語は「皹(あかがり)」で冬。「月」はこの場合冬月で、夜分、天象。

 

八句目

 

   皹のひらけそめたる空の月

 つまだてて行あし引の山      芭蕉

 (皹のひらけそめたる空の月つまだてて行あし引の山)

 

 あかがり(あかぎれ)を足にできたあかがりとし、あかがりが痛くてつま先立ちで足を引き摺るようによろよろ歩く様とする。それを枕詞の「あしひき」に掛ける。

 

 しのぶれどこひしき時はあしひきの

     山より月のいでてこそくれ

               紀貫之(古今集)

 

の歌もある。

 

無季。「山」は山類。

初裏

九句目

 

   つまだてて行あし引の山

 五寸程手の届かざる歌の道     信章

 (五寸程手の届かざる歌の道つまだてて行あし引の山)

 

 「あし引き」と言えば枕詞で和歌の道。足を引きずっていれば思うように進めないから、歌の道にあと五寸届かない。

 

 道しらぬ物ならなくにあしひきの

     山ふみ迷ふ人もありけり

               大輔(後撰集)

 

の歌もある。

 

無季。

 

十句目

 

   五寸程手の届かざる歌の道

 ひとかいあまりすみよしの松    桃青

 (五寸程手の届かざる歌の道ひとかいあまりすみよしの松)

 

 五寸程手の届かないのを、松の大木を抱きかかえた時に手が届かないこととした。「かい」は「かかえ」のこと。

 これはまあ、歌の道がいかに遠いものであるかを松の大木に喩えたと見ても良いだろう。

 大阪の住吉大社は玉津島明神・柿本人麻呂とともに和歌三神と呼ばれている。住吉の相生の松は古今集の仮名序に、「高砂住の江の松もあひ生ひのやうにおぼえ」とある。

 「良し」は古代には「えし」といった。これにより「すみのえ」は後に「すみよし」に、「ひえ」は後に「ひよし」に変化した。

 

無季。「松」は植物、木類。「すみよし」は名所、神祇、水辺。

 

十一句目

 

   ひとかいあまりすみよしの松

 淡路島仕形ばなしの余所にみて   信章

 (淡路島仕形ばなしの余所にみてひとかいあまりすみよしの松)

 

 「仕形咄」はコトバンクの「精選版 日本国語大辞典の解説」に、

 

 ① 手ぶり、身ぶりして語る話。

 ※雲形本狂言・空腕(室町末‐近世初)「いかな仕方咄(シカタバナシ)なればとて、某(それがし)の首を討おとす真似をするといふ事が有物か」

 ② 江戸時代、身ぶりを豊富にとり入れた笑い話。また、所作入りの落語。

 ※雑俳・住吉おどり(1696)「手を出して・しかた咄をせぬあを屋」

 

とある。

 前句の「ひとかいあまり」を仕方話の所作として、すみよしの松はいいから、それより対岸の淡路島が気になる、とした。

 

 淡路島向かいの雲のむら時雨

     染めも及ばぬ住吉の松

               藤原定家(拾遺愚草)

 

の歌もある。

 

無季。「淡路島」は名所、水辺。

 

十二句目

 

   淡路島仕形ばなしの余所にみて

 とも呼鳥の笑ひごゑなる      桃青

 (淡路島仕形ばなしの余所にみてとも呼鳥の笑ひごゑなる)

 

 「とも呼鳥」は友千鳥のこと。「友千鳥」はコトバンクの「精選版 日本国語大辞典の解説」に、

 

 「群れ集まっている千鳥。むらちどり。むれちどり。

 源氏(1001‐14頃)須磨「ともちどりもろ声になくあか月はひとりねさめのとこもたのもし」

 

とある。

 仕形ばなしで一生懸命笑わせようとしても、人は余所目に見て通り過ぎて行くばかりで、笑うのは千鳥ばかりとはいかにも寒い。

 淡路島の千鳥といえば、百人一首でもお馴染みの、

 

 淡路島かよふ千鳥の鳴く声に

     幾夜寝覚めぬ須磨の関守

               源兼昌(金葉集)

 

の歌がある。

 淡路島に友千鳥の歌は、

 

 淡路島ゆきあふ瀬戸のしほさきに

     やすくもわたる友千鳥かな

               藤原為家(夫木抄)

 

がある。

 

無季。「鳥」は鳥類。

 

十三句目

 

   とも呼鳥の笑ひごゑなる

 青鷺の又白さぎの権之丞      信章

 (青鷺の又白さぎの権之丞とも呼鳥の笑ひごゑなる)

 

 『校本芭蕉全集 第三巻』(小宮豐隆監修、一九六三、角川書店)の補注に、「江戸時代の鷺流狂言師、鷺権之丞」とある。コトバンクの「世界大百科事典内の鷺権之丞の言及」には、

 

 「狂言の流派の一つ。江戸時代は観世座付で,幕府などに召し抱えられたが,明治時代に廃絶した。室町初期の路阿弥(ろあみ)を流祖とし,その芸系が兎太夫や日吉満五郎,その甥の宇治源右衛門らを経て,9世鷺三之丞まで伝えられてきたと伝承するが確かでなく,観世座付の狂言方として知られた者たちを家系に加えたにすぎないらしい。日吉満五郎は大蔵流・和泉流でも芸を伝授したとされており,両流と同じ芸系にあることになる。三之丞の甥鷺仁右衛門宗玄(にえもんそうげん)が1614年(慶長19)に徳川家康の命で観世座付となり,流儀として確立した。」

 

とある。その後も鷺権之丞の名は代々襲名されてゆくことになり、鷺権之丞は何人もいる。

 友千鳥を笑わせているのは鷺の権之丞にちがいないが、青鷺の権之丞なのか白鷺の権之丞なのかよくわからない。

 

無季。「鷺」は鳥類。

 

十四句目

 

   青鷺の又白さぎの権之丞

 森の下風木の葉六ぱう       桃青

 (青鷺の又白さぎの権之丞森の下風木の葉六ぱう)

 

 「六方」はコトバンクの「日本大百科全書(ニッポニカ)の解説」には、

 

 「歌舞伎(かぶき)演出用語。六法とも書く。手足と体を十分に振り、誇張的な動作で歩く演技。勇武と寛闊(かんかつ)な気分を表すもので、荒事(あらごと)演出では重要な技法の一つになっている。語源については諸説あるが、発生的には古来の芸能の歩く芸の伝統を引くもので、祭祀(さいし)に「六方の儀」と称する鎮(しず)めの儀式があったことから、両手を天地と東西南北(前後左右)の六方に動かすことの意にとるのが妥当のようだ。ほかに、江戸初期の侠客(きょうかく)グループ六方組から出たというのは俗説だが、当時の「かぶき者」たちが丹前風呂(たんぜんぶろ)へ通うときの動作を模したものは、丹前六方とよばれ、現在でも『鞘当(さやあて)』などにみられる。荒事系の技法では、手足の極端な動きによって強さを強調しながら花道を引っ込む「飛(とび)六方」が代表的なもので、『国性爺合戦(こくせんやかっせん)』の和藤内(わとうない)、『車引(くるまびき)』の梅王丸、『勧進(かんじん)帳』の弁慶などが有名。その変形として片手六方、狐(きつね)六方、泳ぎ六方などがある。人形浄瑠璃(じょうるり)や民俗芸能にも「六方」と称する足の動きの技法が伝えられている。」

 

とある。

 六方は狂言ではなく歌舞伎の所作だが、歌舞伎で演じられる芝居やその台本のことを「歌舞伎狂言」とも言ったから、混同されてたのかもしれない。

 「森の下風木の葉」は『校本芭蕉全集 第三巻』(小宮豐隆監修、一九六三、角川書店)の注に、謡曲・千手の「森の下風木の葉の露」によるとある。

 青鷺か白鷺の権之丞の芝居では風に舞う木の葉も六方を舞う。

 

季語は「木の葉」で冬。植物、木類。

 

十五句目

 

   森の下風木の葉六ぱう

 真葛原ふまれてはふて逃にけり   信章

 (真葛原ふまれてはふて逃にけり森の下風木の葉六ぱう)

 

 『校本芭蕉全集 第三巻』(小宮豐隆監修、一九六三、角川書店)の注に、「木葉武者などのごとく臆病な六方者(侠客)としてつけた」とある。

 「木葉武者」はコトバンクの「精選版 日本国語大辞典の解説」に、

 

 「〘名〙 取るに足りない武士。雑兵(ぞうひょう)。すぐに追い散らされてしまうような端武者(はむしゃ)。弱兵。こっぱむしゃ。

※俳諧・詞林金玉集(1679)一四「木葉武者の鎧とをしか霜の剣〈勝重〉」

 

とある。

 「六方者」もコトバンクの「日本大百科全書(ニッポニカ)の解説」に、

 

 「万治(まんじ)・寛文(かんぶん)年間(1658~73)を中心に江戸市中を横行した男伊達(だて)。六法者とも書く。大撫付髪(おおなでつけがみ)、惣髪(そうはつ)、茶筅髪(ちゃせんがみ)に、ビロード襟の着物などを着て、丈も膝(ひざ)のところぐらいまでにし、褄(つま)を跳ね返らせ、無反(むそり)の長刀を閂(かんぬき)に差し、大手を振って歩いた。このかっこうから六方者という名称がおこったといわれる。御法(ごほう)(五法)を破る無法者(六法者)の意味ともいう。また旗本奴の六法組の者とも、旗本奴の六団体の総称ともいうが、いずれも明確ではない。ことばもなまぬるいことを嫌って六方詞(ことば)という特殊語を使い、博奕(ばくち)、喧嘩(けんか)、辻斬(つじぎ)りなど傍若無人にふるまった。[稲垣史生]」

 

とある。歌舞伎の六方がここから来たというのは俗説だと、前に引用した「日本大百科全書(ニッポニカ)の解説」にはあった。

 まあ、いつの世にもこういうチンピラはいたのだろう。

 江戸も寛文年間にはこういう連中が闊歩していたが、延宝から元禄に掛けて世の中が安定してくるといつの間にいなくなっていったか。

 元禄五年の「洗足に」の巻の頃にはせいぜい単羽織を着て粋がってる連中がいて、

 

   今はやる単羽織を着つれ立チ

 奉行の鑓に誰もかくるる      芭蕉

 

というところだったか。

 逃げる六方を「木葉武者」だから「真葛原ふまれて」と古典の言葉を換骨奪胎して表現するのが延宝の談林調だ。「軽み」のストレートな表現に至るには十五年かかった。

 真葛原は葛の葉を裏返す秋風に縁があり、和歌では裏見と恨みを掛けて用いられる。

 

 枯果てて言の葉もなき真葛原

     何をうらみの野辺の秋風

               西園寺公経(後撰集)

 

の歌もある。

 

季語は「真葛原」で秋、植物、草類。

 

十六句目

 

   真葛原ふまれてはふて逃にけり

 むし鳴までにむごうなびかぬ    桃青

 (真葛原ふまれてはふて逃にけりむし鳴までにむごうなびかぬ)

 

 「なびかぬ」で恋に転じる。踏まれて這って逃げたのは夜這いの男か。

 『校本芭蕉全集 第三巻』(小宮豐隆監修、一九六三、角川書店)の注に、「虫の音をあげる程まで、むごう踏まれても靡かぬの意」とある。これは弱音を吐くという意味の「音をあげる」に掛けて言っているのか。

 真葛原に鳴く虫は、

 

 置く露のあだの大野の真葛原

     うらみかほなる松虫の声

               後鳥羽院(後鳥羽院御集)

 

の歌もある。

 

季語は「むし鳴」で秋、虫類。恋。

 

十七句目

 

   むし鳴までにむごうなびかぬ

 恋の秋爰にたとへの有ぞとよ    信章

 (恋の秋爰にたとへの有ぞとよむし鳴までにむごうなびかぬ)

 

 今でも春に出会って夏に燃えて秋に別れて冬は独りぼっちとと、恋は四季に喩えられる。

 ただ、この時代にそういう慣用的な比喩があったかどうかはわからない。単に秋の恋は喩えて言えばつれない人に虫の音をあげるようなもの、ということか。

 

 ありあけのつれなく見えし浅茅生に

     おのれも名乗る松虫の声

               藤原家隆(壬二集)

 草の原秋は末葉にうら枯れて

     名のみつれなき松虫の声

               藤原為家(夫木抄)

 

などの歌もある。

 

季語は「秋」で秋。恋。

 

十八句目

 

   恋の秋爰にたとへの有ぞとよ

 吉祥天女もこれほどの月      桃青

 (恋の秋爰にたとへの有ぞとよ吉祥天女もこれほどの月)

 

 吉祥天女は昔はふくよかな姿で描かれていた。いわゆる平安美人だ。月に喩えればやはり満月か。

 吉祥天女というと『源氏物語』帚木巻の有名な「雨夜の品定め」の時の源氏の君の発言に、

 

 「このさまざまのよきかぎりをとりぐし、なんずべきくさはひまぜぬ人は、いづこにかはあらん。吉祥天女を思ひかけんとすれば、ほうげづき、くすしからんこそ、また、わびしかりぬべけれ」

 (そんないろいろな女のよいところだけを取り揃え、欠点を隠し持たない人間なんてどこにいると言うんだ。吉祥天女に惚れたって説法臭くて付いていけなくて、それもつまらないだろうな。)

 

とある。

 

季語は「月」で秋、夜分、天象。釈教。

 

十九句目

 

   吉祥天女もこれほどの月

 あつらへの瓔珞かかる山かづら   信章

 (あつらへの瓔珞かかる山かづら吉祥天女もこれほどの月)

 

 瓔珞(ようらく)はコトバンクの「ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典の解説」に、

 

 「サンスクリット語のムクターハーラ muktāhāraまたはケーユーラ keyūraの訳語。インドで身分の高い男女が珠玉や貴金属を編んで,首,胸,腕などにつけた装身具。仏教では寺院内外の飾りや仏像の首,胸,衣服の飾りに用いる。」

 

とある。

 「山かづら」はweblio辞書の「隠語大辞典」に、

 

 「暁方、山の端にかかる白雲をいふ。其角、明星や桜さだめぬ山かづら。」

 

とある。其角の句は山の端ににかかる白雲と桜の区別がつかないという古典的な花の雲の句だ。貞享五年の蕉風確立期の復古調の句。

 月を吉祥天女に喩えるなら、瓔珞は山の端の白雲というわけだ。

 

無季。「山かづら」は山類。釈教。

 

二十句目

 

   あつらへの瓔珞かかる山かづら

 松のあらしの響く耳たぶ      桃青

 (あつらへの瓔珞かかる山かづら松のあらしの響く耳たぶ)

 

 「山かづら」は山蔓という植物の意味もある。ヒカゲノカズラのことだという。シダ同様装飾に用いられる。古今集の「神遊びのうた」には、

 

 卷向の穴師の山の山人と

     人も見るがに山かづらせよ

               よみ人しらず(古今集)

 

の歌もある。

 瓔珞に喩えられても「山かづら」はゴージャスな煌びやかさには程遠い。神事の装飾であれば、松の嵐の蕭々とした悲しげな風が耳たぶを撫でる。瓔珞だけに耳たぶに。

 松に葛は、

 

 紅葉するかづらの中に住吉の

     松のみひとり緑なるかな

               津守国基(後拾遺集)

 松に這ふ正木のかづら散りにけり

     外山の秋は風すさぶらむ

               西行法師(新古今集)

 

など、歌に詠まれている。

 

無季。「松」は植物、木類。

 

二十一句目

 

   松のあらしの響く耳たぶ

 大黒の袋は花にほころびて     信章

 (大黒の袋は花にほころびて松のあらしの響く耳たぶ)

 

 大黒様の耳は言うまでもなく福耳。

 花がほころんだので大黒様の七宝の入った袋も開く。ありがたいことだ。前句の「松のあらし」の情を捨てて目出度く付けている。六句目同様、この頃はこういう詠み方で良かったのであろう。

 松の嵐に花は、桜ではないが、

 

 浪の音は松の嵐に聞こゆなり

     卯の花薫る玉川の里

               藤原家隆(夫木抄)

 

の歌がある。

 

季語は「花」で春、植物、木類。神祇。

 

二十二句目

 

   大黒の袋は花にほころびて

 霞にもろき天竺のきぬ       桃青

 (大黒の袋は花にほころびて霞にもろき天竺のきぬ)

 

 大黒天は本来ヒンドゥー教のシヴァ神だった。日本に来て大国主命と習合し、大分姿は変わってしまったが。

 前句の袋のほころびを文字通り布のほころびとし、インドの絹は霞に弱いとした。

 花に霞は、

 

 春霞たなひく山のさくら花

     うつろはむとや色かはりゆく

               よみ人しらず(古今集)

 

など、多くの歌に詠まれている。

 

季語は「霞」で春、聳物。

二表

二十三句目

 

   霞にもろき天竺のきぬ

 今朝の雪貧女一文が糊をとく    桃青

 (今朝の雪貧女一文が糊をとく霞にもろき天竺のきぬ)

 

 二の懐紙に入るところで、これまで信章が五七五の長句、桃青が七七の短句を詠んでいたのをここで入れ替える。

 糊は米を煮て溶いたもので、布に張りをもたせるのに用いる。安政三年(一八五六)の『諸国板行帖』に「糊一杯一文」とある(『江戸物価辞典』小野武雄著)。芭蕉の時代からそんなに変わってなかったのか。

 今朝の雪は貧しい女の解いた洗濯糊のようなもので、一時的に絹のような雪で地上を覆うが、春の霞の前には脆く消え去る。

 霞に雪は、

 

 霞たちこのめもはるの雪ふれば

     花なきさとも花ぞちりける

               紀貫之(古今集)

 

の歌がよく知られている。

 

季語は「雪」「とく」で春。「貧女」は人倫。

 

二十四句目

 

   今朝の雪貧女一文が糊をとく

 風進退を削る竹べら        信章

 (今朝の雪貧女一文が糊をとく風進退を削る竹べら)

 

 雪を舞い散らす風は糊を塗る時に使う竹べらのようだが、竹べらは糊に較べて高価なのか、貧女の進退(しんだい)を削る。「進退」はここでは「身代」のこと。

 今朝の雪に風は、

 

 我宿はけさ降る雪に埋もれて

     まつだに風のおとづれもせず

               西園寺実氏(続後撰集)

 

の歌がある。

 

無季。

 

二十五句目

 

   風進退を削る竹べら

 臍の緒を吉原がよひきれはてて   桃青

 (臍の緒を吉原がよひきれはてて風進退を削る竹べら)

 

 句は「吉原がよひに臍の緒をきれはてて」の倒置。「臍の緒」はこの場合比喩で金蔓のことだろうか。金蔓がなくては身代を削るしかない。

 穿った見方をするなら、親の金で遊んでたどら息子が、親がなくなりその遺産を食い潰すということか。

 

無季。恋。

 

二十六句目

 

   臍の緒を吉原がよひきれはてて

 かみなりの太鼓うらめしの中    信章

 (臍の緒を吉原がよひきれはててかみなりの太鼓うらめしの中)

 

 昔は雷様に臍を取られると言われ、雷が鳴ると手で臍を隠したものだ。

 吉原というと太鼓持ち(幇間)がいて、場を盛り上げてくれるのだが、それに乗せられてついついお金をつぎ込んでしまう。あの太鼓持ちが雷様のように臍の緒を切ってしまったことよ。

 

無季。恋。

 

二十七句目

 

   かみなりの太鼓うらめしの中

 地にあらば石臼などとちかひてし  桃青

 (地にあらば石臼などとちかひてしかみなりの太鼓うらめしの中)

 

 これは『校本芭蕉全集 第三巻』(小宮豐隆監修、一九六三、角川書店)の注に、白楽天の『長恨歌』の一節、

 

 在天願作比翼鳥 在地願為連理枝

 (天に在りては願はくば比翼の鳥と作り、地に在りては願はくば連理の枝と為らん)

 

を引いているように、この句のパロディーのようだ。

 

 在天願作雷太鼓 在地願為石碾臼

 

というところか。太鼓は雷様に寄り添い、碾き臼は上臼と下臼を重ねて摺り合わす。

 しかし、さすが芭蕉さん。どこからこういう発想が。

 

無季。恋。

 

二十八句目

 

   地にあらば石臼などとちかひてし  

 末の松山茎漬の水         信章

 (地にあらば石臼などとちかひてし末の松山茎漬の水)

 

 「茎漬」はコトバンクの「大辞林 第三版の解説」に、

 

 「ダイコンやカブなどを茎や葉といっしょに塩漬けにしたもの。くき。 [季] 冬。」

 

とある。これは和歌山の茎漬けで、三重の茎漬けはヤツガシラの茎を塩と赤紫蘇で漬ける。茎を塩漬けにして臼に入れて重石を乗せると、茎の水分が出てくる。

 これは、

 

 君をおきてあだし心をわがもたば

     末の松山波もこえなむ

               よみ人知らず(古今集)

 

で、あだし心がないから末の松山を波を越えることはありません、と誓う歌だを引いてきて、同じように茎漬けの水も臼から溢れません、とした。

 末の松山は宮城県多賀城市の小高い丘で、貞観地震の大津波も東日本大震災の大津波もここを越えることはなかった。

 

季語は「茎漬」で冬。「末の松山」は名所、山類。

 

二十九句目

 

   末の松山茎漬の水

 千賀の浦しほがま居て場の隅    桃青

 (千賀の浦しほがま居て場の隅末の松山茎漬の水)

 

 千賀の浦は現在の塩釜港だという。

 

 陸奥の千賀の塩釜近ながら

     遥けくのみも思ほゆるかな

               伊勢(古今和歌六帖)

 

の歌がある。ただ、ここでは塩釜は文字通り塩を入れた釜で、「場(には)」は『校本芭蕉全集 第三巻』(小宮豐隆監修、一九六三、角川書店)の注によれば、台所の土間のことだという。

 土間の上に釜を据えて塩を入れ茎漬けを作るという句に、「末の松山」「千賀の浦」がただ調子を整える言葉として付け加えられた感じになる。そこに特に意味はない。こういうのもこの頃の特有の付け方といっていいだろう。

 

無季。「千賀の浦」は名所、水辺。

 

三十句目

 

   千賀の浦しほがま居て場の隅

 雪隠さびて見えわたるかな     信章

 (千賀の浦しほがま居て場の隅雪隠さびて見えわたるかな)

 

 「雪隠(せっちん)」は最近あまり聞かなくなったがトイレのこと。前句の「場(には)」を外の庭として、そこに「うらさびた」トイレの建物がある。千賀の浦、塩釜だけにうらさびている。

 「うらさぶ」は「心荒ぶ」と書くが、昔から「浦」に掛けて用いられ、古今集にも、

 

 君まさで煙絶えにし塩竃の

     うらさびしくも見えわたるかな

               紀貫之(古今集)

 

の歌がある。この歌の換骨奪胎とも言える。

 

無季。

 

三十一句目

 

   雪隠さびて見えわたるかな

 たまさかにこととふ物はげたの音  桃青

 (たまさかにこととふ物はげたの音雪隠さびて見えわたるかな)

 

 「こととふ」は声をかけることをいう。たまに物音がするとといっても下駄の音だけだ。トイレに下駄は付き物。

 

無季。

 

三十二句目

 

   たまさかにこととふ物はげたの音

 なを山ふかく入し水風呂      信章

 (たまさかにこととふ物はげたの音なを山ふかく入し水風呂)

 

 当時の風呂はサウナが主流で、水風呂(水を沸かした風呂)は山奥の湯治場やお寺などにある。

 山に「こととふ」は、

 

 山深み霞こめたる柴の庵に

     こととふものは谷の鶯

               西行法師(山家集)

 

の歌がある。

 

無季。「山」は山類。

 

三十三句目

 

   なを山ふかく入し水風呂

 よしやよしこぬか袋の濁る世に   桃青

 (よしやよしこぬか袋の濁る世になを山ふかく入し水風呂)

 

 「よしやよし」は「いいのだろうか、いいのだ」で、赤塚不二男の「これでいいのだ」にも近いかもしれない。『和泉式部日記』に、

 

 よしやよし今は恨みじ磯に出でて

     漕ぎはなれ行く海人の小舟を

 

の歌の用例がある。

 「ぬか袋」はウィキペディアに「顔や体の汚れを取り、肌を洗うための洗浄剤」とある。米ぬかを木綿の袋に詰めたもの。

 洗浄剤さえ濁るこの世の中を捨てて山奥の水風呂を求めるというと、何となく世捨て人の風情がある。人生の洗濯というところか。

 

無季。

 

三十四句目

 

   よしやよしこぬか袋の濁る世に

 千里をかける馬子はあれども    信章

 (よしやよしこぬか袋の濁る世に千里をかける馬子はあれども)

 

 「千里の馬は常にあれども伯楽は常にはあらず」(韓愈『雑説』)のもじりか。こんな濁りきった世だから街道に千里の馬を引く馬子はいても、千里の馬であることを見抜ける伯楽はいない。まあ、平和だといえば平和なので、それでいいではないか。

 今の泰平の世の中では軍で活躍するような千里の馬は必要ないし、本来なら名将になる素質のある者が市井に埋もれていてもそれも良しとしよう。

 なかなか面白い句だが、ただ、こぬか袋関係ない。これがこの頃の付け方だ。

 

無季。「馬子」は人倫。

 

三十五句目

 

   千里をかける馬子はあれども

 西の月見ぬ六道の札の辻      桃青

 (西の月見ぬ六道の札の辻千里をかける馬子はあれども)

 

 「六道」はコトバンクの「ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典の解説」に、

 

 「仏教用語。生存中の行為の善悪の結果として,衆生がおもむく6種類の世界の状態をいう。すなわち,地獄,餓鬼,畜生,阿修羅,人間,天をいう。 (→輪廻 , 六地蔵 )」

 

とある。

 西の月は西方浄土を表わし、解脱することなく輪廻を繰り返す六道の辻では西の月を見ることはない。

 「札の辻」は宿場の入口などにある高札場のある辻。東京の三田のあたりに札の辻の交差点があるが、かつてはここが東海道の江戸の入り口だったという。

 こういう辻には六道を表わす六地蔵が立っていることもあったか。その脇を千里を行くかのような馬子に引かれ、荷を背負った馬が通り過ぎて行く。

 

季語は「月」で秋、夜分、天象。釈教。

 

三十六句目

 

   西の月見ぬ六道の札の辻

 ゑんまの町々引わたす霧      信章

 (西の月見ぬ六道の札の辻ゑんまの町々引わたす霧)

 

 「閻魔の庁」だとコトバンクの「デジタル大辞泉の解説」にある通り、「閻魔王がいる庁舎」の意味になる。ここでは閻魔の町々で閻魔様の入る所も賑やかになったものだ。

 

季語は「霧」で秋、聳物。釈教。

二裏

三十七句目

 

   ゑんまの町々引わたす霧

 煩悩の本綱中づな末の露      桃青

 (煩悩の本綱中づな末の露ゑんまの町々引わたす霧)

 

 「本綱(もとづな)」は馬や荷車を引く時の綱の手元の部分。「中綱」とはあまり言わないがここは調子を合わせるための造語であろう。本綱、中綱と来て、下綱と来るように見せながら「末の露」と秋の季語を放り込む。

 末の露は、

 

 末の露もとの雫や世の中の

     後れ先立つためしなるらむ

               僧正遍照(新古今集)

 

など、哀傷歌に用いられ、「もとの雫」「末の露」と対にして用いられる。

 前句の「引きわたす」を市中引き回しのこととして、「末の露」は獄門曝し首を暗示させる。煩悩の果てはこうなるという戒めか。

 こういう調子のいい言葉の配列も、この頃の俳諧がゆっくりとしたテンポで吟じられたのではなく、いわゆる軽口で唄われたからではないかと思う。軽口だからこそ矢数俳諧も可能だった。

 

季語は「露」で秋、降物。釈教。

 

三十八句目

 

   煩悩の本綱中づな末の露

 人足あれば山姥もあり       信章

 (煩悩の本綱中づな末の露人足あれば山姥もあり)

 

 『校本芭蕉全集 第三巻』(小宮豐隆監修、一九六三、角川書店)の注に、謡曲『山姥』の一節が引用されている。

 

 「邪正一如と見る時は、色即是空そのままに、仏法あれば世法あり煩悩あれば菩提あり。仏あれば衆生あり・衆生あれば山姥もあり。」(野上豊一郎. 解註謡曲全集 全六巻合冊(補訂版) (Kindle の位置No.89905-89911). Yamatouta e books. Kindle 版.)

 

という地謡の一節だ。

 この「衆生」のところを「人足」に変えている。前句の三つの綱を煩悩の「三結」とする。

 三結はウィキペディアによれば、五下分結のうちの「有身見(うしんけん) - 我執、戒禁取見(かいごんじゅけん) - 誤った戒律・禁制への執着、疑(ぎ) - 疑い」をいう。この三結を絶てば人足も山姥も一体の、この世界のあるがままの柳は緑花は紅の世界になる。

 

無季。「人足」は人倫。

 

三十九句目

 

   人足あれば山姥もあり

 谷の戸をたたき起して触流し    桃青

 (谷の戸をたたき起して触流し人足あれば山姥もあり)

 

 山姥は閉ざされた山の中に住んでいるが、谷の入口に住む住民をたたき起こして人足を集めるように御触れを出す。一体何が起きたのかよくわからないが‥‥

 

無季。「谷の戸」は山類。

 

四十句目

 

   谷の戸をたたき起して触流し

 諸鳥の小頭うぐひすのこゑ     信章

 (谷の戸をたたき起して触流し諸鳥の小頭うぐひすのこゑ)

 

 たたき起こしたのは鶯だったという落ち。鶯は春告鳥ともいい、山に住む鳥たちに春を告げるためだった。

 谷の戸に鶯は、

 

 谷の戸をとぢやはてつる鴬の

     松に音せで春も過ぎぬる

               藤原道長(拾遺集)

 

など、歌に詠まれている。

 

季語は「うぐひす」で春、鳥類。

 

四十一句目

 

   諸鳥の小頭うぐひすのこゑ

 花をふんですずめは千の徒歩の衆  桃青

 (花をふんですずめは千の徒歩の衆諸鳥の小頭うぐひすのこゑ)

 

 鶯が出たところで花の定座を繰り上げる。

 鶯の小頭に雀を徒歩の衆とする。

 花に鶯の句は、

 

 春たては花とや見らむ白雪の

     かかれる枝にうくひすそなく

               素性法師(古今集)

 

他、多くの歌に詠まれている。

 

季語は「花」で春、植物(木類)。「すずめ」は鳥類。

 

四十二句目

 

   花をふんですずめは千の徒歩の衆

 上野下屋の竹のはるかぜ      信章

 (花をふんですずめは千の徒歩の衆上野下屋の竹のはるかぜ)

 

 「下屋」は「下谷」と同じ。上野山の下にある。上野寛永寺の門前だが下谷広小路はこの頃はまだなく、上野山の花を眺め竹に雀が囀る長閑な所だったのだろう。江戸後期には歓楽街になる。

 雀に竹は、

 

 雪埋む園の呉竹折れ伏して

     ねぐら求むるむら雀かな

               西行法師(山家集)

 

など、歌に詠まれている。

 

季語は「はるかぜ」で春。「竹」は植物で草でも木でもない。

 

四十三句目

 

   上野下屋の竹のはるかぜ

 鍔目貫朝の霜にくちはてて     桃青

 (鍔目貫朝の霜にくちはてて上野下屋の竹のはるかぜ)

 

 「鍔目貫」は「鍔」と「目貫」で、「鍔」は「刀剣の柄(つか)と刀身との境に挟んで、柄を握る手を防御するもの。」(コトバンク「デジタル大辞泉の解説」)、「目貫」は「目釘のこと。のち、柄(つか)の外にあらわれた目釘の鋲頭(びょうがしら)と座が装飾化されてその部分をさすようになり、さらに目釘と分離した飾り金物として柄の目立つ部分にすえられるようになった。」(コトバンク「デジタル大辞泉の解説」)。

 刀が朽ち果てて竹光になったということか。

 竹に霜は、

 

 なよ竹のよ長きうへに初霜の

     おきゐてものを思ふころかな

               藤原忠房(古今集)

 

など、歌に詠まれている。

 

季語は「霜」で冬、降物。

 

四十四句目

 

   鍔目貫朝の霜にくちはてて

 鎧は毛ぎれむしは音をいれ     信章

 (鍔目貫朝の霜にくちはてて鎧は毛ぎれむしは音をいれ)

 

 「毛切れ」はコトバンクの「デジタル大辞泉の解説」に、

 

 「鎧(よろい)の威(おどし)の糸がすり切れること。

 「―のしたる鎧(よろひ)着せ」〈幸若・屋島軍〉」

 

とある。

 「音(ね)を入れる」はコトバンクの「精選版 日本国語大辞典の解説」に、

 

 「鳥、特に鶯(うぐいす)が鳴くべき季節が終わって鳴かなくなる。鳴きやむ。〔俳諧・増山の井(1663)〕」

 

とある。

 刀も朽ちて鎧の糸が切れて、虫も鳴かなくなる。枯野に横たわる死んだ武者の姿か。

 芭蕉がのちに『奥の細道』の旅で詠む、

 

 むざんやな甲の下のきりぎりす   芭蕉

 

の句を髣髴させる。

 参考までに、キリギリスはコオロギ、コオロギはカマドウマ、カマドウマはコオロギ。

 虫の音に霜は、

 

 きりぎりす鳴くや霜夜のさむしろに

     衣かたしきひとりかも寝む

               藤原良経(新古今集)

 

の歌が百人一首でもよく知られている。

 

季語は「むし」で秋、虫類。

 

四十五句目

 

   鎧は毛ぎれむしは音をいれ

 ことあらばやせたれどあの花薄   桃青

 (ことあらばやせたれどあの花薄鎧は毛ぎれむしは音をいれ)

 

 『校本芭蕉全集 第三巻』(小宮豐隆監修、一九六三、角川書店)の注に、「源左衛門の痩馬を出すべきを花薄に転じた」とある。

 源左衛門は謡曲『鉢木』に登場する佐野の源左衛門で、

 

 シテ「運の尽きぬる所は、最明寺殿さへ修行に御出での上は候。かやうにおちぶれ ては候へども、御覧候へ、これにちぎれたる具足一領持ちて候。錆びたれど薙刀一え だ。痩せたれどもあれに馬を一匹繋いで持ち置きて候。これは唯今にても候へ、鎌倉 に御大事あらば、ちぎれたりともこの具足取つて投げかけ、錆びたりとも薙刀を持ち、痩せたりともあの馬に乗り、一番に馳せ参じ着到につき、さて合戦始まらば、」

 地「敵 大勢ありとても、敵大勢ありとても、一番に破つて入り、思ふ敵と寄りあひ、打ちあ ひて死なんこの身の、このままならば徒らに、飢に疲れて死なん命、なんぼう無念の事ざうぞ。」(野上豊一郎. 解註謡曲全集 全六巻合冊(補訂版) (Kindle の位置No.661036-61059). Yamatouta e books. Kindle 版. )

 

というように、いわゆる「いざ鎌倉」の元になった話だ。

 「ことあらばやせたれど」だけで源左衛門の痩せ馬を連想させ、虫の音の縁で花薄を出す。ススキも外来の牧草が入ってくる以前は馬の飼料として用いられていたようだ。

 薄に虫は、

 

 君が植ゑしひとむら薄虫の音の

     しげき野邊ともなりにけるかな

               御春有助(古今集)

 

の歌がある。

 

季語は「花薄」で秋、植物、草類。「竹」は草でも木でもないので二句去りでいい。

 

四十六句目

 

   ことあらばやせたれどあの花薄

 ももとせの餓鬼も人数の月     信章

 (ことあらばやせたれどあの花薄ももとせの餓鬼も人数の月)

 

 前句の「やせたれど」を餓鬼のこととした。「餓鬼」はコトバンクの「ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典の解説」に、

 

 「仏教で説く六道の一つの餓鬼道に住むもの。あるいは人間とともに住む餓鬼もいるといわれる。常に飢えと渇きに苦しみ悩まされ,餓鬼の腹は出て皮と筋と骨ばかりで,長い間食物について聞くことも見ることもなく,たとえ見たとしても食べることはできない。また食べようとして口のところにもってくると炎となってしまうこともあるといわれる。さらに子供の貶称に用いることもある。」

 

とある。子供の貶称というのは「悪ガキ」だとか「ガキ大将」「ガキの使い」だとか今でも用いられている。

 「餓鬼も人数(にんじゅ)」というのは、コトバンクの「デジタル大辞泉の解説」に、

 

 「つまらない者でも、いれば、多少の効果があることのたとえ。また、取るに足りない者も多く集まれば、あなどりがたいことのたとえ。」

 

とある。「人数」はここでは字数の関係か「にんじゅう」とよむ。

 まあ、枯れ木も山の賑わいというところか。花薄のようにひょろひょろと痩せた百歳の餓鬼も名月の賑わいか。

 月に薄は、

 

 山遠き末野の原の篠薄

     穂にいでやらぬいざよひの月

               藤原知家(洞院摂政家百首)

 秋風の末ふきなびくすすき野の

     ほむけにのこる月の影かな

               九条行家(宝治百首)

 

などの歌がある。

              

季語は「月」で秋、夜分、天象。釈教。

 

四十七句目

 

   ももとせの餓鬼も人数の月

 大無尽世尊を親に取たてて     桃青

 (大無尽世尊を親に取たててももとせの餓鬼も人数の月)

 

 「無尽」はコトバンクの「デジタル大辞泉の解説」に、

 

 「口数を定めて加入者を集め、定期に一定額の掛け金を掛けさせ、一口ごとに抽籤または入札によって金品を給付するもの。→頼母子講(たのもしこう)」

 

とあり、「頼母子講」は同じくコトバンクの「デジタル大辞泉の解説」に、

 

 「金銭の融通を目的とする民間互助組織。一定の期日に構成員が掛け金を出し、くじや入札で決めた当選者に一定の金額を給付し、全構成員に行き渡ったとき解散する。鎌倉時代に始まり、江戸時代に流行。頼母子。無尽講。」

 

とある。

 ここではお釈迦様(世尊)が大勢の餓鬼から金を集めて頼母子講をやっていると、芭蕉お得意のシュールな空想で展開する。

 

無季。釈教。

 

四十八句目

 

   大無尽世尊を親に取たてて

 公儀の掟はのがれ給はず      信章

 (大無尽世尊を親に取たてて公儀の掟はのがれ給はず)

 

 無尽の変形で「取退無尽」という博打まがいのものがあり、しばしば禁制が出されたというが、だいたいは江戸中期以降のことで延宝の時代にそういう禁制があったかどうかはよくわからない。

 この場合はお釈迦様が集金に来るのだから、払わずにごまかして当選金だけ貰おうなんてことはできないと見ておいた方がいいか。

 

無季。

 

四十九句目

 

   公儀の掟はのがれ給はず

 土も木も三間ばりに野づら石    桃青

 (土も木も三間ばりに野づら石公儀の掟はのがれ給はず)

 

 「三間ばり」は三間梁規制といって、寺田建築事務所のホームページによると、

 

 「江戸時代には「三間梁規制」といって上屋の梁間は三間(約19.5尺)に制限されていた。寛永20年(1643年)「武家住宅法令」が定められ、明暦3年(1657年)に大名屋敷だけでなく町民屋敷へと規制は拡大されている。」

 

だという。

 「野づら石」は自然石のことで、三間梁の掟は人間の家屋だけでなく、土や木や石にも適用される‥‥なんてことは実際にはないけど。

 

無季。「木」は植物、木類。

 

五十句目

 

   土も木も三間ばりに野づら石

 此山一つ隠居料にと        桃青

 (土も木も三間ばりに野づら石此山一つ隠居料にと)

 

 さて、三の懐紙に入る前ニまた順序を入れ替えるため、桃青が二句続けて詠む。

 三間梁を隠居用の屋敷とし、山の土や木や野面石をすべて売り払った。

 

無季。「山」は山類。

三表

五十一句目

 

   此山一つ隠居料にと

 富士の嶽いただく雪をそりこぼし  信章

 (富士の嶽いただく雪をそりこぼし此山一つ隠居料にと)

 

 「そりこぼす」はコトバンクの「デジタル大辞泉の解説」に「髪の毛をそり落とす」とあり、「大辞林 第三版の解説」には「『そりこぼつ』に同じ。」とある。富士山も隠居するので隠居料として白髪のような雪をそり落す。

 富士山の擬人化だが、この趣向は、後の『奥の細道』の、

 

 剃捨て黒髪山に衣更        曾良

 

に通じるものがある。

 

季語は「雪」で冬、降物。「富士の嶽」は名所、山類。

 

五十二句目

 

   富士の嶽いただく雪をそりこぼし

 人穴ふかきはや桶の底       桃青

 (富士の嶽いただく雪をそりこぼし人穴ふかきはや桶の底)

 

 「人穴」はウィキペディアに、

 

 「人穴(ひとあな)は静岡県富士宮市にある富士山の噴火でできた溶岩洞穴である。」

 

とある。

 「はや桶」はコトバンクの「デジタル大辞泉の解説」に、

 

 「粗末な棺桶。死者のあったとき、間に合わせに作るところからいう。」

 

とある。

 昔の葬式では、死者は仏道に入るものとして髪を剃って納棺した。富士山も雪を剃りこぼして、富士宮の人穴を棺桶とする。

 

無季。

 

五十三句目

 

   人穴ふかきはや桶の底

 蝙蝠やみ角の紙の散まよふ     信章

 (蝙蝠やみ角の紙の散まよふ人穴ふかきはや桶の底)

 

 「蝙蝠のみ角の紙の散まよふや」の倒置。コウモリの飛ぶ姿が三角形に見えるのを、死者の額の三角形の天冠に見立て、たくさん飛び交うコウモリの姿に、天冠が散り乱れているようだとする。

 

季語は「蝙蝠」で夏、獣類。

 

五十四句目

 

   蝙蝠やみ角の紙の散まよふ

 山椒つぶや胡椒なるらん      桃青

 (蝙蝠やみ角の紙の散まよふ山椒つぶや胡椒なるらん)

 

 コトバンクの「世界大百科事典内のサンショウ(山椒)の言及」に、

 

 「江戸時代にはコウモリがサンショウや酢を好むものとされた。《本朝食鑑》《和漢三才図会》などもサンショウを好むといっており,江戸の子どもたちは夏の夕方,〈こうもりこうもり山椒くりょ,柳の下で酢をのましょ〉と歌ってコウモリを呼んだ。」

 

とある。

 『校本芭蕉全集 第三巻』(小宮豐隆監修、一九六三、角川書店)の注には、「胡椒は三角形の小さな紙袋に入れる」とある。江戸前期にはうどんにかけて食べたという。江戸後期には今のように唐辛子をかけるようになった。

 コウモリは散り乱れる袋を見て、山椒なのかとおもったら胡椒だった。

 

無季。

 

五十五句目

 

   山椒つぶや胡椒なるらん

 小枕やころころぶしは引たふしは  信章

 (小枕やころころぶしは引たふしは山椒つぶや胡椒なるらん)

 

 「小枕」はコトバンクの「精選版 日本国語大辞典「小枕」の解説」に、

 

 「① 木枕の上にのせ、頭を受けるための、そばがら、籾(もみ)などを入れた細長い円筒形の袋。

  ※咄本・八行整版本昨日は今日の物語(1624‐34頃)「尻にこまくらをさせて、したたかにくわせた」

  ② 婦人の結髪用具。かもじの根につけて自髪と結合する道具。

  ※咄本・私可多咄(1671)五「こまくらとは女のかみに用るうつはものならずや」

  ③ 和船の帆装具の一種。桐の木で作った大きな数珠形のもの。これを帆柱の先端から船首へ張った筈緒(括り)に数珠のように多数を通し、帆と筈緒のすれ合いによる傷みを防ぐ。帆摺管(ほすりくだ)。〔船皆具之名并遣方(17C末)〕

  ④ 「こまくらもち(小枕餠)」の略。

  ※雑俳・柳多留‐八一(1824)「小まくらを櫛がたに切る十四日」」

 

とある。この場合は①か。

 「ころころぶしは引たふしは」は謎めいた言葉だが、「転ぶしは、引きたふしは」で、転んだり引き倒したり、という意味で、それに「ころころ」というオノマトペがくっついた造語であろう。

 小枕に転んで倒れ、小枕の中身がぶちまけられてころころ転がり、これは山椒の粒か胡椒の粒か、となる。

 

無季。

 

五十六句目

 

   小枕やころころぶしは引たふしは

 台所より下女のよびごゑ      桃青

 (小枕やころころぶしは引たふしは台所より下女のよびごゑ)

 

 小枕を②の意味にして、小枕を転がして髪を結っていると、台所から下女の呼び声がする。これが恋呼び出しになる。

 

無季。恋。「下女」は人倫。「台所」は居所。

 

五十七句目

 

   台所より下女のよびごゑ

 通路の二階はすこし遠けれど    信章

 (通路の二階はすこし遠けれど台所より下女のよびごゑ)

 

 「通路」は「かよひぢ」で「つうろ」ではない。台所の下女が二階にいる男を呼ぶ。まあ、たいした通い路ではないが、面倒といえば面倒だ。

 下男・下女はコトバンクの「日本大百科全書(ニッポニカ)の解説」に、

 

 「江戸時代、一定の年限を決めて主家に住み込み奉公する者のこと。この時代の奉公形式ではもっとも一般的であり、当初この奉公人を下人(げにん)とよんだが、江戸時代後期になると、この呼び名は廃れ、下男・下女とよばれた。徳川幕府は、人身の永代売買は禁止したが、年季を限定しての人身売買形式は問題としなかった。奉公先に対しては保証人をたてて、年決め契約で雇われるのが普通である。男は薪(まき)割り、走り使いなどの雑用に従事し、女は飯炊き、水仕事などの下働きをした。」

 

とある。中世の下人とは違う。下人はコトバンクの「ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典の解説」に、

 

 「平安時代中期から明治頃まで用いられた隷属民の呼び名。平安,鎌倉時代は荘園の武士や名主 (みょうしゅ) に属して家事,耕作,軍事に使役され,相続,売買の対象とされた。室町時代から次第に一戸を構え,自立的経営を行い,隷属から脱却するものも現れてきた。江戸時代は譜代の奉公人のみならず年季奉公人のことをも下人と呼んだが,やがて下男,下女の名称がこれに代るようになった。」

 

とある。

 中世の下人であれ江戸時代の下男・下女であれ、主人はその恋愛に関心はなく、ある意味でほったらかしだった。子供が出来れば、それはその家の財産になるというだけのことだった。かえって武家の若い男女より自由だったかもしれない。

 

無季。恋。「通路の二階」は居所。

 

五十八句目

 

   通路の二階はすこし遠けれど

 かしこは揚屋高砂の松       桃青

 (通路の二階はすこし遠けれどかしこは揚屋高砂の松)

 

 「揚屋」はコトバンクの「ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典の解説」には、

 

 「遊郭で太夫など比較的上級の遊女を置屋 (遊女をかかえ,養っている家) から招いて遊興させる店のこと。置屋と揚屋が区別されるようになったのは江戸時代初頭。江戸では宝暦年間 (18世紀なかば) にすたれた。」

 

とある。

 高級な遊女ともなると会えるようになるまでのハードルも高い。二階に上がらせてもらえる日は少しどころか果てしなく遠かったりする。ただ、上がることができれば高砂の松も待っているかも。

 高砂の松は普通は夫婦和合の象徴だが、遊郭なら夫婦ではないが和合はある。絵を描く時には二本の松は男女の絡みをイメージして描くものとされている。

 

無季。恋。「松」は植物、木類。

 

五十九句目

 

   かしこは揚屋高砂の松

 とりなりを長柄の橋もつくる也   信章

 (とりなりを長柄の橋もつくる也かしこは揚屋高砂の松)

 

 「長柄の橋もつくる」は古今集の、

 

  難波なる長柄の橋もつくるなり

     今はわが身を何にたとへむ

               伊勢

 

から来ている。難波の長柄の橋も永らえるように作るというが、今の自分に永らえるような喩えは何もない。

 「とりなり」は動作態度のことだがルックスの意味もある。美女は長柄の橋も作り、揚屋は目出度く末永く高砂の松になる。

 

無季。恋。「長柄の橋」は名所、水辺。

 

六十句目

 

   とりなりを長柄の橋もつくる也

 能因法師若衆のとき        桃青

 (とりなりを長柄の橋もつくる也能因法師若衆のとき)

 

 これは衆道ネタ。

 藤原清輔の『袋草紙』に、能因法師のエピソードとして、 藤原節信(ふじわらのときのぶ)に能因が長柄の橋を作ったときに出た鉋屑を見せるとたいそう喜ばれ、能因に井手の蛙の干物を見せてくれたという。

 能因がこの鉋屑を手に入れたのはまだ元服前で若衆だった頃ではなかったかと空想を廻らし、あたかも能因法師に衆道時代があったかのように言う。まあ、俳諧は上手に嘘をつくことだと言うが。

 実際の能因法師は橘永愷(たちばなのながやす)で、ウィキペディアによれば「初め文章生に補されて肥後進士と号したが、長和2年(1013年)、出家した。」とある。二十五歳にしてようやく出家したので若衆の時代はなかった。

 

無季。恋。「若衆」は人倫。

 

六十一句目

 

   能因法師若衆のとき

 照つけて色の黒さや侘つらん    信章

 (照つけて色の黒さや侘つらん能因法師若衆のとき)

 

 能因法師といえば、十三世紀に成立した『古今著聞集』に、

 

 「能因法師は、いたれるすきものにてありければ、 『都をば霞とともに立ちしかど秋風ぞ吹く白河の関』とよめるを、都にありながらこの歌をいださむことを念なしと思ひて、人にも知られず久しく籠もり居て、色をくろく日にあたりなして後、『みちのくにのかたへ修行のついでによみたり』とぞ披露し侍りける。」(引用はウィキペディアから)

 

とある。

 貞門の頃の本説付けはほとんどそのまんまだったが、談林の時代になって少し変えるようになった。ただ、この句はほとんどまんまと言っていい。

 

無季。

 

六十二句目

 

   照つけて色の黒さや侘つらん

 わたもちのみいら眼前の月     桃青

 (照つけて色の黒さや侘つらんわたもちのみいら眼前の月)

 

 「わた」は腸(はらわた)のこと。干からびきっていない臓器の健在なミイラは見た目はゾンビに近いかもしれない。

 ただ、日本の物の怪や妖怪は心を持っているもので、月を見ては我が身の色の黒さに悩む。

 

季語は「月」で秋、夜分、天象。

 

六十三句目

 

   わたもちのみいら眼前の月

 飢饉年よはりはてぬる秋の暮    信章

 (飢饉年よはりはてぬる秋の暮わたもちのみいら眼前の月)

 

 「わたもちのみいら」はここでは比喩で、飢饉でやせ細った人のことに転じる。

 秋の暮の月は、

 

   俳諧歌

   九月十三夜によめる

 くれの秋ことにさやけき月かげは

    とよにあまりてみよとなりけり

               賀茂政平(千載集)

 

の歌がある。

 

季語は「秋の暮」で秋。

 

六十四句目

 

   飢饉年よはりはてぬる秋の暮

 多くは傷寒萩の上風        桃青

 (飢饉年よはりはてぬる秋の暮多くは傷寒萩の上風)

 

 「傷寒」はコトバンクの「デジタル大辞泉の解説」に、

 

 「漢方で、体外の環境変化により経絡がおかされた状態。腸チフスの類をさす。」

 

とある。同じく「世界大百科事典内の傷寒の言及」には、

 

 「中国の医書に,〈傷寒(しようかん)〉または〈温疫(うんえき)〉と総称される急性の熱性伝染病には腸チフスも含まれていたと思われ,また日本で飢饉のときに必ず流行する疫癘(えきれい)とか時疫(じえき)と呼ばれた流行病には腸チフスがあったと思われる。江戸時代には飢饉のたびに大量の死者を算したが,餓死と疫死と分けて記録されることが多く,ときには疫死者のほうが上回ることがあった。」

 

とある。飢饉で死ぬ人の「多くは傷寒」で、餓死する人よりも多かったりした。

 「萩の上風」は普通は「荻の上風」で、

 

 秋はなほ夕まぐれこそただならね

     荻の上風萩の下露

               藤原義孝(和漢朗詠集)

 

というように「萩の下露」と対比される。書き間違いか。

 

季語は「萩」で秋、植物、草類。

三裏

六十五句目

 

   多くは傷寒萩の上風

 一葉づつ柳の髪やはげぬらん    信章

 (一葉づつ柳の髪やはげぬらん多くは傷寒萩の上風)

 

 コトバンクの「脱毛症」のところの「日本大百科全書(ニッポニカ)の解説」には、症候性脱毛症として、

 

 「腸チフスや肺炎などの熱性伝染病、結核、らい、梅毒などの慢性感染症、エリテマトーデス、皮膚筋炎、強皮症、糖尿病、内分泌疾患などの全身病、放射線照射、局所の外傷、熱傷、真菌や細菌感染症、腫瘍(しゅよう)などのほか、抗腫瘍薬などの薬物による脱毛も含まれる。」

 

とある。「傷寒」で禿げることもある。

 風に散る柳は、

 

 村雨の雲ふきすさぶ夕風に

     ひと葉づつ散る玉のを柳

               順徳院(夫木抄)

 

の歌がある。

 

季語は「柳 はげぬ」で秋、植物、木類。

 

六十六句目

 

   一葉づつ柳の髪やはげぬらん

 これも虚空にはいしげじげじ    桃青

 (一葉づつ柳の髪やはげぬらんこれも虚空にはいしげじげじ)

 

 前句を脱毛の比喩ではなく柳の散る情景として、きっと空にゲジゲジがいるのだろうと展開する。昔は「ゲジゲジに舐められると禿げる」という俗説があった。

 

無季。「げじげじ」は虫類。

 

六十七句目

 

   これも虚空にはいしげじげじ

 判官の身はうき雲のさだめなき   信章

 (判官の身はうき雲のさだめなきこれも虚空にはいしげじげじ)

 

 昔はゲジゲジのことを「梶原」と言ったという。

 コトバンクの「精選版 日本国語大辞典の解説」に、

 

 ① 梶原景時の故事から、意地悪な人、いやみな人をいう。

 ※雑俳・柳多留‐二(1767)「梶原と火鉢の灰へ書て見せ」

 ② 「げじ(蚰蜒)」の異名。

 ※俳諧・大坂独吟集(1675)下「長崎よりものぼるまたう人 耳のあか取梶はらではやるらし〈重安〉」

 ※雑俳・削かけ(1713)「そりゃそりゃそりゃ・びしゃもんさまかかぢはらか」

 [補注](二)①は梶原景時が義経を讒言した故事によるが、(二)②には諸説があり、①と同様の理由とも、梶原氏の矢筈紋の見立によるともいう。また、「和漢三才図会‐五四」によれば梶原景時が、讒言を将軍の耳に入れ害をなしたため、人々がゲジゲジにたとえてきらったのでこう呼ぶようになったともいい、「譬喩尽‐二」の「梶原を蚰(げじげじ)といふことは名乗なり景時々々(ゲジゲジ)」などからともいわれる。

 

とある。「下知下知」から来たという説もある。

 判官(源義経)の身が定めなきというのは、「梶原景時の讒言」によるもので、ウィキペディアには、

 

 「『吾妻鏡』にある合戦の報告で景時は「判官殿(義経)は功に誇って傲慢であり、武士たちは薄氷を踏む思いであります。そば近く仕える私が判官殿をお諌めしても怒りを受けるばかりで、刑罰を受けかねません。合戦が終わった今はただ関東へ帰りたいと願います」(大意)と述べており、義経と景時に対立があったことは確かである。

 この報告がいわゆる「梶原景時の讒言」と呼ばれるが、『吾妻鏡』は「義経の独断とわがまま勝手に恨みに思っていたのは景時だけではない」とこれに付記している。」

 

とある。

 「身はうき雲のさだめなき」は

 

 さだめなき身はうき雲によそへつつ

    はてはそれにぞなりはてぬべき

               藤原公任(千載集)

 

の歌がある。

 

無季。「身」は人倫。「うき雲」は聳物。

 

六十八句目

 

   判官の身はうき雲のさだめなき

 時雨ふり置むかし浄瑠璃      桃青

 (判官の身はうき雲のさだめなき時雨ふり置むかし浄瑠璃)

 

 浄瑠璃は「浄瑠璃姫十二段草紙」などを語る琵琶法師に端を発し、みちのくの奥浄瑠璃は芭蕉も『奥の細道』の旅の途中に耳にしている。

 貞享のころから竹本義太夫と近松門左衛門が手を組んで大きく発展させた。

 この両吟百韻の頃にはまだ竹本義太夫や近松門左衛門は台頭してきていない。ただ、浄瑠璃会に新風を望む機運はあっただろう。

 それに対して昔の浄瑠璃といえば「浄瑠璃姫十二段草紙」で、これは浄瑠璃御前(浄瑠璃姫)と牛若丸(義経)の物語だった。

 「さだめなき」に時雨は、

 

 神な月ふりみふらすみ定なき

     時雨ぞ冬の始なりける

               よみ人しらず(後撰集)

 

の歌がある。

 

季語は「時雨」で冬、降物。

 

六十九句目

 

   時雨ふり置むかし浄瑠璃

 おもくれたらうさいかたばち山端に 信章

 (おもくれたらうさいかたばち山端に時雨ふり置むかし浄瑠璃)

 

 「らうさいかたばち」は弄斎節と片撥。

 「弄斎節」はコトバンクの「ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典の解説」に、

 

 「日本の近世歌謡の一種。「癆さい」「朗細」「籠斎」などとも記す。その成立には諸説あるが,籠斎という浮かれ坊主が隆達小歌 (りゅうたつこうた) を修得してそれを模して作った流行小歌から始るという説が有力である。元和~寛永年間 (1615~44) 頃に発生し,寛文年間 (61~73) 頃まで流行したものと思われる。目の不自由な音楽家の芸術歌曲にも取入れられ,三味線組歌に柳川検校作曲の『弄斎』,箏組歌付物に八橋検校作曲の『雲井弄斎』および倉橋検校作曲の『新雲井弄斎』,三味線長歌に佐山検校作曲の『雲井弄斎』 (「歌弄斎」ともいう) などがあるが,いずれも弄斎節の小歌をいくつか組合せたものとなっている。流行小歌としての弄斎節は,いわゆる近世小歌調の音数律形式による小編歌謡で,三味線を伴奏とし,初め京都で流行,のちに江戸にも及んで江戸弄斎と称し,それから投節 (なげぶし) が出たともされる。」

 

とある。

 「片撥」もコトバンクの「ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典の解説」に、

 

 「江戸時代初期の流行歌。寛永 (1624~44) 頃から遊郭で歌われだした。七七七七の詩型のものをいう。」

 

とある。

 浄瑠璃というと浄瑠璃姫で、琵琶法師が語って歩いたが、この頃はやや時代遅れになり、それに代わって浄瑠璃本が多数出版されるようになった。

 またこの頃から人形芝居も盛んで、やがて文楽の人形浄瑠璃が元禄の世に花開くことになった。

 山の端の時雨は、

 

 そよやまた山の端ごとに時雨して

     よもの梢は色かはるなり

               藤原定家(拾遺愚草)

 

などの歌に詠まれている。

 

無季。「山端」は山類。

 

七十句目

 

   おもくれたらうさいかたばち山端に

 松ふく風や風呂屋ものなる     桃青

 (おもくれたらうさいかたばち山端に松ふく風や風呂屋ものなる)

 

 江戸の湯屋とちがい、上方の風呂屋では湯女という垢かき女がいて、売春も行われていたという。この「風呂屋もの(風呂屋者)」は湯女の別名だった。江戸にも多少はいたのか、それとも上方から伝え聞いたものか定かでない。

 古びた弄斎・片撥などの小唄に遊女ではなく湯女を出すのが今風か。

 山の端の松は、

 

 山の端を出でても松の木の間より

     心づくしの有明の月

               藤原業清(新古今集)

 

の歌がある。

 このあたりの展開の仕方は、秋の暮れ→荻の上風→一葉→虚空→浮雲→時雨→山端→松ふく風といった古典のわりとありきたりな連想で句を繋いで、そこに飢饉→傷寒→はげ→ゲジゲジ→判官→浄瑠璃→弄斎・片撥→湯女と当世流行のネタを展開している。

 単純な展開の仕方なので、短時間にたくさんの句を詠むには適したやり方だったのだろう。

 この方法で今風の連句を作るなら、こんな感じか。

 

 内戦に瓦礫ばかりの秋の暮れ

   飢餓の子供に萩の上風

 一葉づつ柳の舟の海を越え

   虚空たなびくリベラルの旗

 あの国はブレクジットの浮雲に

   時雨てゆくはエレキの調べ

 泥臭い演歌シャンソン山の端に

   松吹く風はキャバクラ嬢か

 

無季。「松」は植物(木類)。

 

七十一句目

 

   松ふく風や風呂屋ものなる

 君ここにもみの二布の下紅葉    信章

 (君ここにもみの二布の下紅葉松ふく風や風呂屋ものなる)

 

 「二布(ふたの)」はコトバンクの「世界大百科事典内の二布の言及」に、

 

 「江戸時代の女性が混浴時に用いた膝上の長さの木綿製の湯巻は,横布二幅使いのため二布(ふたの)とも呼ばれ,女房言葉で湯文字(ゆもじ)ともいった。庶民の間では肌着と湯巻の厳密な区別はなかったと考えられる。」

 

とある。特に若い女性は赤い二布を身につけていた。

 『校本芭蕉全集 第三巻』(小宮豐隆監修、一九六三、角川書店)の注には、「風にちらつくもみの二布を下紅葉といった。」とある。後の、

 

 時雨るるや紅粉の小袖を吹かへし  去来

 

の句を思わせる。

 松と下紅葉の付け合いは、

 

 下紅葉するをば知らで松の木の

     上の緑を頼みけるかな

               よみ人しらず(拾遺集)

 

の歌によるものか。

 

季語は「下紅葉」で秋、植物、木類。恋。「二布」は衣裳。

 

七十二句目

 

   君ここにもみの二布の下紅葉

 契りし秋は産妻なりけり      桃青

 (君ここにもみの二布の下紅葉契りし秋は産妻なりけり)

 

 「産妻(うぶめ)」は「産女」とも書く。ウィキペディアには、

 

 「産女、姑獲鳥(うぶめ)は日本の妊婦の妖怪である。憂婦女鳥とも表記する。

 死んだ妊婦をそのまま埋葬すると、「産女」になるという概念は古くから存在し、多くの地方で子供が産まれないまま妊婦が産褥で死亡した際は、腹を裂いて胎児を取り出し、母親に抱かせたり負わせたりして葬るべきと伝えられている。胎児を取り出せない場合には、人形を添えて棺に入れる地方もある。」

 

とある。「もみの二布」はこの場合は血染めの腰巻か。

 延宝三年五月に宗因と桃青(芭蕉)が同座した時の八十五句目に、

 

   雨にも風にもかよはふよなふ

 夢うつつ女姿のちみどろに    幽山

 

の句があったが、これも姑獲鳥の句だった。

 紅葉に契りは、

 

 いかにして血潮の色を契りけむ

     夕日むかふる峰のもみぢ葉

               藤原家隆(壬二集)

 

の歌がある。

 

季語は「秋」で秋。恋。

 

七十三句目

 

   契りし秋は産妻なりけり

 月すごく草履のはなを中絶て    信章

 (月すごく草履のはなを中絶て契りし秋は産妻なりけり)

 

 「すごし」は冷ややかな、恐ろしげなという意味。本来はネガティブな言葉だが、それを逆に良い意味に転換する例は、古代の「いみじ」、現代の「やばい」などしばしばある。

 「月の神秘 暦の秘密」というサイトに、

 

 「昔、亡くなった人を埋葬する時、墓地の土を踏んだ草履には死霊がつくと考えられ、その場で草履を脱ぎ捨てる習慣がありました。その時、死霊が草履を履いて追ってくるのを恐れ、履けないように鼻緒を切って捨てたのです。」

 

とあり、他のブログでも似たような話があったので、昔からそういう習慣があったのかもしれない。

 本来なら目出度いはずの名月も、母子共に亡くなり、それを埋葬した後の月であれば寒々として恐ろしげだ。今にも土の中から産女が出てきて追いかけてきそうだ。

 

季語は「月」で秋、夜分、天象。

 

七十四句目

 

   月すごく草履のはなを中絶て

 河内の国へかよふ飛石       桃青

 (月すごく草履のはなを中絶て河内の国へかよふ飛石)

 

 「河内の国へかよふ」は『伊勢物語』第二十三段の「河内の国、高安の郡に、いきかよふ所出できにけり」を連想させる。

 「筒井つの」の歌で誓った幼馴染の相手がいるのに、あえて河内の国まで通う男は、ドラクエ5的にはビアンカからフローラに乗り換えようかという所か。

 この句は一見そんな物語とあまり関係なさそうに、飛び石を飛んだ拍子に鼻緒が切れたとする。鼻緒が切れるのが縁起悪いのは、先に述べた墓地から帰るときに鼻緒を切るのと関係があるのだろう。

 鼻緒が切れて、結局河内の国の女はあきらめるという所で、「中絶て」が「仲絶て」と二重の意味になる。

 

無季。恋。

 

七十五句目

 

   河内の国へかよふ飛石

 四畳半くづやの里も浦ちかく    信章

 (四畳半くづやの里も浦ちかく河内の国へかよふ飛石)

 

 「葛屋(くずや)」はコトバンクの「精選版 日本国語大辞典の解説」に、

 

 「〘名〙 茅葺や藁葺の屋根。草葺の屋根。また、その家。茅屋や藁屋。くずやぶき。

 ※為尹千首(1415)春「絶てすむ心よいかにかやが軒かかる葛屋のよはの春さめ」

 

とある。

 「飛石」は茶室の入口にも用いられる。「四畳半くづや」は藁葺き屋根の質素な茶室を思わせる。「浦ちかく」というのは堺のことか。千利休の茶室を思わせる。

 

無季。「里」は居所。「浦」は水辺。

 

七十六句目

 

   四畳半くづやの里も浦ちかく

 浪に芦垣つかまつつたり      桃青

 (四畳半くづやの里も浦ちかく浪に芦垣つかまつつたり)

 

 海辺の四畳半茅葺屋根の粗末な家に住む隠遁者を哀れんでか、波除に芦の垣根をしてあげた。

 芦垣は和歌に多く詠まれていて、本来は特に海辺ということでもなく、「隔てぬ」「ま近き」ということを導き出すために用いられることが多かった。

 

 蘆垣のほかとはみれど藤の花

     にほひは我をへだてざりけり

               内大臣家越後(金葉集)

 

などの歌がある。

 

 芦垣そなたのさとの八重霞

     まだふき晴れず難波浦風

               飛鳥井雅縁(為尹千首)

 

のような歌はだいぶ時代が下る。

 

無季。「浪」は水辺。「芦垣」は居所。

 

七十七句目

 

   浪に芦垣つかまつつたり

 時は花入江の雁の中帰り      信章

 (時は花入江の雁の中帰り浪に芦垣つかまつつたり)

 

 花の定座なのでまず「時は花」とし、「浪に芦垣」なので「入江」を付けるが、これは打越に「浦」があるため水辺の体・用・体になり輪廻になる。そこに景物として雁を登場させるが、単に「帰る雁」ではベタなので「帰る」に掛けて「宙返り」とする。

 実際に雁が宙返りをするのかどうかはよくわからない。

 

 みなと風夕しほはやき松影の

     入り江の浪に落つる雁金

               飛鳥井雅有(新続古今集)

 

の歌がある。

 

季語は「花」で春、植物(木類)。「雁の帰り」も春、鳥類。「入江」は水辺。

 

七十八句目

 

   時は花入江の雁の中帰り

 やはら一流松に藤まき        信章

 (時は花入江の雁の中帰りやはら一流松に藤まき)

 

 雁が宙返りしたかと思ったら、宙返りしていたのは自分だった。

 「やはら」といえば柔らの道だが、今の柔道は明治の頃に嘉納治五郎によって確立されたもので、それ以前は「やわら」と呼ばれることが多かったようだ。

 ウィキペディアの「柔術」のところには、

 

 「戦国時代が終わってこれらの技術が発展し、禅の思想や中国の思想や医学などの影響も受け、江戸時代以降に自らの技術は単なる力業ではないという意味などを込めて、柔術、柔道、和、やわらと称する流派が現れ始める(関口新心流、楊心流、起倒流(良移心当流)など)。中国文化の影響を受け拳法、白打、手搏などと称する流派も現れた。ただしこれらの流派でも読みはやわらであることも多い。また、この時期に伝承に、柳生新陰流の影響を受けて小栗流や良移心當流等のいくつかの流派が創出されている。」

 

とある。

 『校本芭蕉全集 第三巻』(小宮豐隆監修、一九六三、角川書店)の注には、「当時流行の居合抜柔術の名人藤巻嘉信をふまえる。」とある。ネットで藤巻嘉信を調べると居合抜きの大道芸人だったようだ。藤巻嘉真という別の大道芸人もいたようだから、「藤巻」を名乗る大道芸人は当時たくさんいたのか。そうなると、この場合の柔術も武道としての柔術というよりは大道芸だったのかもしれない。派手な宙返りをする柔術の芸もあったのだろう。

 和歌では藤は松に絡むものとされている。

 

 夏にこそ咲きかかりけれ藤の花

     松にとのみも思ひけるかな

               源重之(拾遺和歌集)

 

季語は「藤」で春、植物、草類。「松」も植物、木類。

名残表

七十九句目

 

   やはら一流松に藤まき

 いでさらば魔法に春をとめて見よ  桃青

 (いでさらば魔法に春をとめて見よやはら一流松に藤まき)

 

 「魔」は「魔羅」、サンスクリット語のMāraから来たという。

 コトバンクの「精選版 日本国語大辞典の解説」には、「 江戸時代、多く、天狗をさしていう。」とあるから、前句の柔らの達人を天狗としたか。

 藤は春の終わりから初夏にかけての花で、天狗に本当に魔法が使えるなら春を止めて見よとする。

 

季語は「春」で春。

 

八十句目

 

   いでさらば魔法に春をとめて見よ

 七リンひびく入相のかね      信章

 (いでさらば魔法に春をとめて見よ七リンひびく入相のかね)

 

 「七リン」は珪藻土のコンロの七輪のこととされてきたようだが、それだと何で「ひびく」なのか引っかかる。

 この場合「鈴(りん)」の方ではないかと思う。それだと響くというのが普通に理解できる。

 コトバンクの「精選版 日本国語大辞典「鈴」の解説」に、

 

 「〘名〙 (りんは鈴(レイ)の中国近代音)

  ① 振って鳴らすすず。れい。

  ※源平盛衰記(14C前)一九「弟子銅(あかがね)の鈴(リン)を以て入定の前にて二つ是を鳴す」

  ② 大坂の花街で、時を知らせるために鳴らすすず。

  (イ) 毎刻、半を知らせるもの。

  ※洒落本・短華蘂葉(1786)「はんじのりんふりや、どふするへ」

  (ロ) 南地で、夜中の一二時を知らせるもの。

  ※咄本・諺臍の宿替(19C中)九「今夜九ツ(リン)過たら中筋へいてまって居ておくれヤ」

  ③ 仏具の一つ。真鍮(しんちゅう)または唐金(からかね)で作り、読経のときたたいて鳴らす小鉢形のもの。

  ※名語記(1275)三「うちならしのかねをりむとなづく、如何」

  ④ ベル。電鈴。〔物理学術語和英仏独対訳字書(1888)〕」

 

とある。④は近代の物なので当てはまらない。

 入相の鐘は六つだから、それをもう一つ鳴らして七つにすると、時間が二時間戻ることになる。ここは③の意味で、お寺で夕暮れに六つの鐘が鳴ったが、たまたま読経が行われていて、タイミングよく七つ目の鈴(りん)が鳴ったということだとすると、春も終わったと思ったが、まだ二時間余分にある、これは魔法だ、ということになる。

 

無季。釈教。

 

八十一句目

 

   七リンひびく入相のかね

 薬鍋三井の古寺汲あげて      桃青

 (薬鍋三井の古寺汲あげて七リンひびく入相のかね)

 

 滋賀の三井寺の鐘には、田原藤太秀郷が三上山のムカデ退治のお礼に 琵琶湖の龍神より頂いた鐘を三井寺に寄進したという伝説がある。(三井寺のホームページより)

 ここでは三井の古寺が琵琶湖から鐘を引き上げたが、その鐘を「七輪」に載せて鍋として用い、薬食いをした、と展開する。

 

無季。釈教。「三井の古寺」は名所。

 

八十二句目

 

   薬鍋三井の古寺汲あげて

 落させられし宮のうち疵      信章

 (薬鍋三井の古寺汲あげて落させられし宮のうち疵)

 

 三井寺のホームページによれば、

 

 「その後、山門との争いで弁慶が奪って比叡山へ引き摺り上げて撞いてみると ”イノー・イノー”(関西弁で帰りたい)と響いたので、 弁慶は「そんなに三井寺に帰りたいのか!」と怒って鐘を谷底へ投げ捨ててしまったといいます。 鐘にはその時のものと思われる傷痕や破目などが残っています。」

 

とある。

 ここでは谷に投げ込まれたのは釣鐘ではなく、お寺そのものを放り投げたとシュールに展開する。宮にはその時の傷が残っている。

 

無季。

 

八十三句目

 

   落させられし宮のうち疵

 階の九つ目より八目より      桃青

 (階の九つ目より八目より落させられし宮のうち疵)

 

 前句を宮様として、御所の階段の九段目か八段目辺りから御落されになって打ち疵を負う。何か出典があるのか。

 

無季。

 

八十四句目

 

   階の九つ目より八目より

 湯立の釜に置合あり        信章

 (階の九つ目より八目より湯立の釜に置合あり)

 

 「湯立(ゆだて)」はコトバンクの「百科事典マイペディアの解説」に、

 

 「熱湯によって神意を占ったり,清めをしたりする神事。〈ゆたち〉とも。神社などの庭で大釜に湯をわかし,巫女(みこ)や禰宜(ねぎ)がササの葉で湯をまきちらし,自身や参詣者の頭上にふりかける。この場合,巫女や禰宜が神がかりになり,託宣をすることもある。湯立神事に伴う神楽(かぐら)を湯立神楽という。」

 

とある。

 「置合(おきあはせ)」はコトバンクの「精選版 日本国語大辞典の解説」に、

 

 「① 適当にとりあわせること。また、その対象。配合。とりあわせ。

※仮名草子・東海道名所記(1659‐61頃)六「置物には業平のかかれし御成敗式目、中将姫の庭訓往来など也。置合せには、馬の角、牛の玉、いし亀の毛にて結(ゆひ)たる筆」

 ② 客などと同席して相手をしたり食事を相伴したりすること。〔日葡辞書(1603‐04)〕」

 

とある。

 湯立の釜の神事で招待された客が、階段の八段目と九段目の所に座っているということか。

 

無季。神祇。

 

八十五句目

 

   湯立の釜に置合あり

 既に神にじりあがらせ給ひけり   桃青

 (既に神にじりあがらせ給ひけり湯立の釜に置合あり)

 

 湯立ての釜を茶道の茶の湯を沸かす釜として、神様をにじり口から中に招き入れた。

 

無季。神祇。

 

八十六句目

 

   既に神にじりあがらせ給ひけり

 白髭殿は御年よられて       信章

 (既に神にじりあがらせ給ひけり白髭殿は御年よられて)

 

 「白髭殿」は白髭神社の際神、比良神(白鬚明神)か。名前からして白髭の老人を思わせる。白髭神社は後に猿田彦命を際神とするようになり、今日に至っている。

 謡曲『白髭』には、

 

 「浄瑠璃世界の主薬師、忽然と出で給ひて、善きかなや、釈尊この地に仏法を弘め 給はん事よ・われ人寿、二万歳の初めより、この所の主たれど、老翁未だわれを知ら ず。何ぞこの山を、惜しみ申すべきはや開闢し給へ。われもこの山の王となつて、共に後五百歳の、仏法を護るべしと、堅く誓約し給ひて、二仏東西に去り給ふ。その時 の翁も今の白鬚の神とかや。」(野上豊一郎. 解註謡曲全集 全六巻合冊(補訂版) (Kindle の位置No.9264-9278). Yamatouta e books. Kindle 版. )

 

とあり、二万五百歳を越える老人ということになっている。

 

無季。神祇。

 

八十七句目

 

   白髭殿は御年よられて

 つくづくと向にたてる鏡山     桃青

 (つくづくと向にたてる鏡山白髭殿は御年よられて)

 

 白髭神社は琵琶湖西岸の近江高島にある。鏡山はそこから琵琶湖を隔てた南側の近江八幡の方にある。

 

 鏡山いざ立ちよりて見てゆかむ

     年へぬる身はおいやしぬると

               よみ人しらず

   この歌は、ある人のいはく、大友黒主がなり(古今集)

 

の歌があり、それを踏まえて、老いた白髭明神も鏡山を見ているとする。

 

無季。「鏡山」は名所、山類。

 

八十八句目

 

   つくづくと向にたてる鏡山

 わけ入部屋は小野の細みち     信章

 (つくづくと向にたてる鏡山わけ入部屋は小野の細みち)

 

 『校本芭蕉全集 第三巻』(小宮豐隆監修、一九六三、角川書店)の補注に、中世の御伽草子『小町草子』の一節、

 

 「折ふし小野の細道かき分て草のとぼそをうちならし、いにしへの小野小町はこれにわたらせ給ふかと」

 

を引用している。

 小野の細道は歌枕で、

 

 眞柴刈る小野のほそみちあとたえて

     ふかくも雪のなりにける哉

               藤原為季(千載集)

 

の歌がある。京都山科の小野郷の細道であろう。

 前句の鏡山を女の部屋に置かれた鏡として、そこに分け入ることは難しく、さながら小野小町ゆかりの小野の細道のようだ、ということになる。

 

無季。恋。「部屋」は居所。「小野」は名所。

 

八十九句目

 

   わけ入部屋は小野の細みち

 忍ぶ夜は狐のあなにまよふらん   桃青

 (忍ぶ夜は狐のあなにまよふらんわけ入部屋は小野の細みち)

 

 美女に誘われて部屋に行ったらいつの間にか眠ってしまい、気付いたら野原の真ん中の細道に横たわっていた。よくある話だ。

 

無季。恋。「夜」は夜分。「狐」は獣類。

 

九十句目

 

   忍ぶ夜は狐のあなにまよふらん

 あぶらにあげしねづなきの声    信章

 (忍ぶ夜は狐のあなにまよふらんあぶらにあげしねづなきの声)

 

 「鼠鳴き(ねずなき)」はweblio古語辞典の「学研全訳古語辞典」に、

 

 「ねずみの鳴き声をまねて口を鳴らすこと。人を呼んだり子供をあやしたり、遊女が客を呼び入れたりするときにする。「ねずみなき」とも。」

 

とある。

 遊女でなく狐だったとなれば、鼠鳴きの声も油で揚げてあったか。

 

無季。恋。「ねづ」は比喩なので非獣類。

 

九十一句目

 

   あぶらにあげしねづなきの声

 唐人も夕の月にうかれ出て     桃青

 (唐人も夕の月にうかれ出てあぶらにあげしねづなきの声)

 

 「唐人」は中国人だけでなく外国人一般をさす言葉として用いられ、西洋人も含まれていた。

 油で揚げた「てんぷら」は江戸時代に急速に普及していったが、西洋(南蛮)が起源ということも意識されていた。

 「唐人」なら月見でてんぷらを食うかもしれない、というあくまで空想と思われる。

 

季語は「月」で秋、夜分、天象。「唐人」は人倫。

 

九十二句目

 

   唐人も夕の月にうかれ出て

 古文真宝気のつまる秋       信章

 (唐人も夕の月にうかれ出て古文真宝気のつまる秋)

 

 『古文真宝』はウィキペディアに「漢代から宋代までの古詩や文辞を収めた書物。宋末か元初の時期に成立したとされる。」とある。

 

 同じくウィキペディアによれば、

 

 「日本には室町時代のはじめごろに伝来した。五山文学で著名な学僧たちの間に広まり、木版で刊行された(五山版)。

 江戸時代には数多くの刊本が出されて広く読まれ、注釈書も多く著された。井原西鶴や松尾芭蕉も『古文真宝』に言及しており、簡便な教養書として広く読まれていたことが窺える。」

 

とある。ただ、芭蕉がどこで『古文真宝』に言及していたか思いだせるものがなく、勉強不足で申し訳ない。

 ここでの唐人は中国人で、月見の座に中国の人がいて難しい漢詩を持ち出されても、日本の一般庶民としては気が詰まる。

 さて、「此梅に」の巻もそろそろ終わりで名残の裏に入る。

 

季語は「秋」で秋。

名残裏

九十三句目

 

   古文真宝気のつまる秋

 酒の露たはけ起て白雲飛ぶ     桃青

 (酒の露たはけ起て白雲飛ぶ古文真宝気のつまる秋)

 

 「秋風起兮白雲飛」は漢の武帝の「秋風辞」。これをパロディにして、酒に酔ってバカやって気の詰まる秋の白雲も吹っ飛んだとする。

 参考までに、

 

   秋風辭  漢武帝

 秋風起兮白雲飛

 草木黄落兮雁南歸

 蘭有秀兮菊有芳

 懷佳人兮不能忘

 泛樓船兮濟汾河

 橫中流兮揚素波

 簫鼓鳴兮發棹歌

 歡樂極兮哀情多

 少壯幾時兮奈老何

 

季語は「露」で秋、降物。「白雲」は聳物。

 

九十四句目

 

   酒の露たはけ起て白雲飛ぶ

 天狗だふしや人のたふれや     信章

 (酒の露たはけ起て白雲飛ぶ天狗だふしや人のたふれや)

 

 「天狗倒し」はコトバンクの「デジタル大辞泉の解説」に、

 

 「深山で、突然すさまじい原因不明の大音響が起こり、行ってみるとなんの形跡もないこと。また、原因不明で、突然すさまじい音がして倒れそうもない大きな建物が倒壊すること。」

 

とある。

 天狗の魔法だろうか。いや、実は酔っ払いが暴れただけだった。

 

無季。「人」は人倫。

 

九十五句目

 

   天狗だふしや人のたふれや

 ねのよはき杉の大木大問屋     桃青

 (ねのよはき杉の大木大問屋天狗だふしや人のたふれや)

 

 天狗倒しのように倒れたのは大問屋だった。巨大な杉の大木も根が弱ければ倒れるように、大問屋も借金経営で自転車操業を繰り返してたのか。

 芭蕉はシュールネタも好きだがこういう経済ネタもこの頃から好きだったようだ。経済ネタは晩年の軽みの風にも受け継がれている。

 

無季。「杉」は植物、木類。

 

九十六句目

 

   ねのよはき杉の大木大問屋

 跡をひかへて糸荷より来る     信章

 (ねのよはき杉の大木大問屋跡をひかへて糸荷より来る)

 

 ここでは大問屋はまだ倒産してなく、次々と糸荷廻船で輸入の生糸が運ばれてくる。

 「糸荷廻船」はコトバンクの「世界大百科事典 第2版の解説」に、

 

 「近世,大坂または堺の船で,外国から長崎に輸入された糸荷(生糸)などを上方に運ぶことを幕府から許された特権的な船。」

 

とある。

 

無季。

 

九十七句目

 

   跡をひかへて糸荷より来る

 秤にて日本の知恵やかけぬらん   桃青

 (秤にて日本の知恵やかけぬらん跡をひかへて糸荷より来る)

 

 「日本の知恵で秤にてかけぬらん」の倒置。「秤にかける」は損と徳とを天秤にかけるいう意味がある。次々に輸入生糸が入ってくるのは、それが儲かるからだ。

 『校本芭蕉全集 第三巻』(小宮豐隆監修、一九六三、角川書店)の注に、「日本の知恵をはかれとの宣旨」という謡曲『白楽天』の一節を引用している。冒頭の、

 

 「さてもこれより東に当つて国あり。名を日本と名づく。急ぎかの土に渡り、日本 の智慧を測れとの宣旨に任せ、唯今海路に赴き候。」(野上豊一郎. 解註謡曲全集 全六巻合冊(補訂版) (Kindle の位置No.12720-12727). Yamatouta e books. Kindle 版. )

 

の部分になる。

 延宝の頃はまだ都市での共通語が十分確立されてなかったのか、雅語ではない言葉を使用する時には謡曲の言葉を引いてくることが多い。

 

無季。

 

九十八句目

 

   秤にて日本の知恵やかけぬらん

 霰の玉をつらぬかれけり      信章

 (秤にて日本の知恵やかけぬらん霰の玉をつらぬかれけり)

 

 『校本芭蕉全集 第三巻』(小宮豐隆監修、一九六三、角川書店)の注に、「蟻通明神の故事による。」とある。

 コトバンクの「精選版 日本国語大辞典の解説」に、

 

 「大阪府泉佐野市長滝にある神社。旧郷社。正称は蟻通神社。祭神は大名持命(おおなもちのみこと)。唐の国から日本人の才を試そうと、幾重にも曲がった玉に緒を通すようにとの難題が出された時、老人の指図に従い、蟻に糸を結びつけて通し、解決した。以後、それまであった棄老(きろう)の習慣をやめ、この老人を神としてまつったと「枕草子」にある。」

 

とある。

 『校本芭蕉全集 第三巻』(小宮豐隆監修、一九六三、角川書店)の注に、「『霰の玉』に算盤をふまえる」とあるように、ここでは七曲の玉ではなく、算盤で日本人の知恵を測る。

 

 こきちらす霰の玉の小笹原

     貫きとめがたくなほ乱れつつ

               二条為遠(延文百首)

 

の歌もある。霰の玉は普通は貫き留めることはできない。

           

季語は「霰」で冬、降物。

 

九十九句目

 

   霰の玉をつらぬかれけり

 花にわりご麓の里は十団子     桃青

 (花にわりご麓の里は十団子霰の玉をつらぬかれけり)

 

 「わりご」は「破子」と書く。コトバンクの「百科事典マイペディアの解説」に、

 

 「破籠とも書く。食物を入れて携行する容器。ヒノキの白木の薄板を折り,円形,四角,扇形などにつくり,中に仕切をつけ蓋をする。平安時代におもに公家の携行食器として始まったが,次第に一般的になり,曲物(まげもの)による〈わっぱ〉や〈めんぱ〉などの弁当箱に発展した。」

 

とある。

 「花より団子」というくらいで、花見に弁当は付き物。

 「麓の里」は東海道の丸子宿から宇津の谷に入るところの集落で、「十団子(とおだご)」は中世から売られていた名物の団子。ウィキペディアには「江戸時代の紀行文や川柳からは、小さな団子を糸で貫き数珠球のようにしたものと知れる。」とある。

 

 十団子も小粒になりぬ秋の風    許六

 

の句は、これよりかなり後の元禄五年になる。

 

季語は「花」で春、植物、木類。「麓」は山類。「里」は居所。

 

挙句

 

   花にわりご麓の里は十団子

 日坂こゆれば峰のさわらび     信章

 (花にわりご麓の里は十団子日坂こゆれば峰のさわらび)

 

 日坂宿は東海道を下るときは小夜の中山の出口になる。十団子で有名な宇津の谷から岡部、藤枝、島田を経て、大井川を渡り、金谷、菊川ときて小夜の中山になる。

 「さわらび」といえば、

 

 いはそそぐ垂水のうえのさわらびの

     萌え出づる春になりにけるかな

               志貴皇子(新古今集)

 

の歌がある。

 ただ、ここでは日坂宿の名物の蕨餅のことか。

 ウィキペディアの「わらびもち」の所には、

 

 「東海道の日坂宿(現在の静岡県掛川市日坂)の名物としても知られており、谷宗牧の東国紀行(天文13-14年、1544年-1545年)には、「年たけて又くふへしと思ひきや蕨もちゐも命成けり」と、かつて食べたことのあるわらび餅を年をとってから再度食べたことについての歌が詠まれている。」

 

とある。

 

季語は「さわらび」で春、植物、草類。「日坂」は名所。「峰」は山類。