「野は雪に」の巻、解説

初表

 野は雪に鰒の非をしる若菜哉   凉葉

   まだうぐひすの啼きらぬこゑ 千川

 門番の寝顔に霞む月を見て    芭蕉

   今朝むきそむる前栽の柿   宗波

 秋風に筵をたるる裏座敷     此筋

   虫も雨夜は目覚めがちなる  濁子

 

初裏

 肌寒く痞のかたを下になし    千川

   手本に墨を付て悔けり    凉葉

 尼寺の老尼はひとり髪剃て    濁子

   奈良へむぐらの内にこそあれ 芭蕉

 掛渡す小袖の黴をもみ落し    此筋

   金の団扇を閨のなぐさみ   千川

 見るうちに源氏一部のしのばしく 凉葉

   捨て浮世のやすき僧正    宗波

 出来合も伊勢の料理は麁相にて  芭蕉

   裸足でありく内庭の砂    此筋

 朝月に花の乗物せつき立     千川

   日影のふぢの雫つめたき   凉葉

 

二表

 石畳む鳥井の奥の春霞      此筋

   地取の株に見ゆる名苗字   芭蕉

 爰まではとどかぬ鹿の音をしたひ 凉葉

   寺のひかへは四五反の秋   千川

 夕月に植木つり出す塀の破    左柳

   見よ水籠をかけられし軒   凉葉

 先はなは土俵靱の一縄手     芭蕉

   着て居るうちに帷子の干ル  此筋

 うつぶきて糸さす筬に暮かかり  千川

   あはれげもなき講の題目   左柳

 三条の橋から西は時雨けり    凉葉

   茶屋の二階は酒の楼閣    芭蕉

 

二裏

 うつくしき貌も丈より年ふけて  此筋

   恨の文をつくる琴の手    千川

 花さけば又来てのぼる塚の上   芭蕉

   馬荷にはさむ蓬たんぽぽ   凉葉

 諸雲雀夕日おしげに囀りて    左柳

   ただよきほどに春風ぞふく  主筆

       参考;『校本芭蕉全集』第五巻(小宮豊隆監修、中村俊定校注、1968、角川書店)

初表

発句

 

 野は雪に鰒の非をしる若菜哉     凉葉

 

 凉葉(りょうよう)は『校本芭蕉全集』第五巻(小宮豊隆監修、中村俊定校注)の注に「上田氏、名は儀太夫、大垣の人で、後に江戸へ出て深川に寓居があったという」とある。

 雪の鰒(ふぐ)というと、芭蕉の天和二年の、

 

 雪の河豚左勝水無月の鯉       芭蕉

 

の句がある。これは句合せの書き方で、

 

 雪の河豚

   左勝

 水無月の鯉

 

となり、縦書きだと左は水無月の鯉になる。

 芭蕉の江戸の二人の門人、嵐雪と杉風(鯉屋)を較べて杉風の勝とした句だ。

 延宝五年の、

 

 あら何ともなや昨日は過ぎて河豚汁

 

の句もあるように、若い頃は芭蕉も河豚を食っていたようだ。当時は河豚汁にすることが多かったのか、「雪の河豚」というのも、寒い季節に食べる河豚汁が旨かったからなのだろう。

 河豚は日本では有史以前から食べていたようで、河豚の毒のある部位を取り除く技術についてもある程度のレベルにはあったと思われる。ただ、今日に較べれば危険も多かった。そのせいで、武家では禁止する藩も多かったという。

 春になると雪の積もる野にも若菜が生えてきて、正月の七草粥になる。

 一方、河豚は春になり産卵期になると毒が強くなるから、経験的に春になると河豚を食べるのをやめていたのだろう。それが「河豚の非を知る」なのかもしれない。

 去年の冬には命知らずにも河豚汁を食ったりしたが、正月の若菜を見ると生きていてよかった、もう河豚はやめようと思う。そうは言ってもまた冬が来れば河豚が食いたくなるのだろうけど。

 実際、鰒で死んだ俳諧師の話を聞かない所を見ても、鰒はそれほど危険ではなく、むしろ正月に餅を詰まらせて死ぬ人のほうが多かったのではないか。年末に無事新年を迎えられるかどうかを占う、ちょっとした運試しだったのかもしれない。少なくともこうして笑いのネタに出来る程度には鰒は安全だったのだろう。

 

季語は「若菜」で春、植物(草類)。「雪」は降物。「鰒」はこの場合食品なので非水辺。

 

 

   野は雪に鰒の非をしる若菜哉

 まだうぐひすの啼きらぬこゑ     千川

 (野は雪に鰒の非をしる若菜哉まだうぐひすの啼きらぬこゑ)

 

 千川も大垣の人。雪の残る野にまだ啼ききらぬ鶯で応じる。特に付け合いはなく、初春の心で付ける。

 

季語は「うぐいす」で春、鳥類。

 

第三

 

   まだうぐひすの啼きらぬこゑ

 門番の寝顔に霞む月を見て      芭蕉

 (門番の寝顔に霞む月を見てまだうぐひすの啼きらぬこゑ)

 

 前句の鶯の啼ききらぬを早朝だからとし、まだ寝ている門番に春の朧月を添える。孟浩然『春暁』の、「春眠暁を覚えず、処々啼鳥を聞く」の心か。

 

季語は「霞」で春、聳物。「門番」は人倫。

 

四句目

 

   門番の寝顔に霞む月を見て

 今朝むきそむる前栽の柿       宗波

 (門番の寝顔に霞む月を見て今朝むきそむる前栽の柿)

 

 宗波は『鹿島詣』の旅に同行した「水雲の僧」。

 

 月さびし堂の軒端の雨しづく     宗波

 ぬぐはばや石のおましの苔の露    同

 夜田かりに我やとはれん里の月    同

 

の句がある。

 「前栽」はコトバンクの「デジタル大辞泉の解説」に、

 

 1 草木を植え込んだ庭。寝殿造りでは正殿の前庭。のちには、座敷の前庭。

 2 庭先に植えた草木。

 

とある。門番が居るのだから大きな屋敷かお寺だろう。庭の柿の実を剝いて、門番にそっと差し出したのだろう。

 「霞む月」を秋の薄月とする。

 

季語は「柿」で秋。

 

五句目

 

   今朝むきそむる前栽の柿

 秋風に筵をたるる裏座敷       此筋

 (秋風に筵をたるる裏座敷今朝むきそむる前栽の柿)

 

 此筋は『校本芭蕉全集』第五巻の注に「大垣藩士宮崎荊口の長男、千川の兄」とある。

 前栽に対して裏座敷を付ける向え付け。風が通らないように筵を垂れる。

 

季語は「秋風」で秋。「裏座敷」は居所。

 

六句目

 

   秋風に筵をたるる裏座敷

 虫も雨夜は目覚めがちなる      濁子

 (秋風に筵をたるる裏座敷虫も雨夜は目覚めがちなる)

 

 濁子はコトバンクの「デジタル版 日本人名大辞典+Plusの解説」に、

 

 「?-? 江戸時代前期-中期の武士,俳人。美濃(みの)(岐阜県)大垣藩士。江戸詰めのとき松尾芭蕉(ばしょう)にまなぶ。絵もよくし「野ざらし紀行絵巻」の絵をかく。杉山杉風(さんぷう),大石良雄らと親交をむすんだ。名は守雄。通称は甚五兵衛,甚五郎。別号に惟誰軒素水(いすいけん-そすい)。」

 

とある。「野ざらし紀行絵巻」は『甲子吟行画巻』ともいい、芭蕉の自画自筆の原稿をもとに濁子が清書した濁子本が存在する。

 この場合の虫は部屋の中にいる虫か。

 

季語は「虫」で秋、虫類。「雨夜」は夜分、降物。

初裏

七句目

 

   虫も雨夜は目覚めがちなる

 肌寒く痞のかたを下になし      千川

肌寒く痞のかたを下になし虫も雨夜は目覚めがちなる)

 

 「痞(つかへ)」は漢字ベディアに「つかえ。腹のなかに塊のようなものがあって痛む病気。また、胸がふさがること。『痞結』」とある。漢方では脾胃の機能失調を言うようだ。腹部膨満感のことか。

 前句の「虫」を腹の虫とし、雨夜になると虫がうずくとする。

 

季語は「肌寒く」で秋。

 

八句目

 

   肌寒く痞のかたを下になし

 手本に墨を付て悔けり        凉葉

 (肌寒く痞のかたを下になし手本に墨を付て悔けり)

 

 姿勢が乱れると書も乱れる。思うように動かない体に、つい手本に墨を垂らして「ああ、しまった」というところか。

 

無季。

 

九句目

 

   手本に墨を付て悔けり

 尼寺の老尼はひとり髪剃て      濁子

 (尼寺の老尼はひとり髪剃て手本に墨を付て悔けり)

 

 手本に墨を付けたのを独り侘しく髪を剃る老尼とする。位付け。

 「尼寺の老尼」の重複を嫌い、「痩寺の老尼」と直したテキストもあるようだが、「ひとり髪剃」あたりで痩寺の風情なのでやはり重複感は免れない。

 「尼寺の老尼」だと大きな尼寺でも年寄りは何となく敬遠され、孤立している様とも取れる。その意味だったのかもしれない。

 若い尼さんがキャッキャ言いながら互いに髪を剃り合う脇で、ハブられた老尼は哀れだ。

 

無季。釈教。「老尼」は人倫。

 

十句目

 

   尼寺の老尼はひとり髪剃て

 奈良へむぐらの内にこそあれ     芭蕉

 (尼寺の老尼はひとり髪剃て奈良へむぐらの内にこそあれ)

 

 前句を「痩寺」の老尼とする。葎が茂るのは古典の趣向で、遣り句と言っていいだろう。

 

季語は「むぐら」で夏、植物(草類)。「奈良」は名所。

 

十一句目

 

   奈良へむぐらの内にこそあれ

 掛渡す小袖の黴をもみ落し      此筋

 (掛渡す小袖の黴をもみ落し奈良へむぐらの内にこそあれ)

 

 「掛渡す小袖」は『校本芭蕉全集』第五巻の注に「小袖に風を入れるためにずらりとかけひろげてあるさま」とある。

 葎に埋もれた奈良の旧家では着ることもない小袖に黴が生えてたりする。

 

季語は「黴」で夏。「小袖」は衣裳。

 

十二句目

 

   掛渡す小袖の黴をもみ落し

 金の団扇を閨のなぐさみ       千川

 (掛渡す小袖の黴をもみ落し金の団扇を閨のなぐさみ)

 

 金の団扇とは何とも豪華だが、一点豪華主義な感じもする。たくさんの小袖を干していながら黴させてしまうような人物ということで、位で付けている。

 

季語は「団扇」で夏。

 

十三句目

 

   金の団扇を閨のなぐさみ

 見るうちに源氏一部のしのばしく   凉葉

 (見るうちに源氏一部のしのばしく金の団扇を閨のなぐさみ)

 

 「一部」は一部分ではなく一揃いをいう。全巻セットのことか。あるいは絵巻物か、金団扇に描かれた源氏物語五十四帖のセットか。

 

無季。

 

十四句目

 

   見るうちに源氏一部のしのばしく

 捨て浮世のやすき僧正        宗波

 (見るうちに源氏一部のしのばしく捨て浮世のやすき僧正)

 

 源氏物語を仏教に結びつける考え方は昔からあった。源氏物語を読んで発心し僧となったということか。

 

無季。釈教。「僧正」は人倫。

 

十五句目

 

   捨て浮世のやすき僧正

 出来合も伊勢の料理は麁相にて    芭蕉

 (出来合も伊勢の料理は麁相にて捨て浮世のやすき僧正)

 

 これは西行の俤か。

 

 神風に心やすくぞまかせつる

     桜の宮の花のさかりを

              西行法師

 

の歌もある。

 伊勢というと伊勢海老に鮑にサザエにトコブシと海の幸は豊富だが、出家して殺生を嫌う身には食うものがない。

 「出来合」は既に用意してあるもの。

 

無季。「伊勢」は名所、水辺。

 

十六句目

 

   出来合も伊勢の料理は麁相にて

 裸足でありく内庭の砂        此筋

 (出来合も伊勢の料理は麁相にて裸足でありく内庭の砂)

 

 「内庭」は「坪庭」ともいう。コトバンクの「坪庭」の「日本大百科全書(ニッポニカ)の解説」にはこうある。

 

 「中庭のことで、今日では「坪庭」の字が多く用いられる。壺には宮中の通り路の意味があり、桐(きり)壺、萩(はぎ)壺、梅壺などのように、キリ、ハギ、ウメなどの植栽が主役になった、建物と建物のジョイント空間を意味した。平安時代からの御所の壺庭は約四、五百坪あって広い空間だが、後の「坪」または「局(つぼ)」は「搾(つぼ)かなる」の意味であり、くぎられた場所とか、周囲を仕切った所をさし、中世以降はごく狭い庭をさすようになった。この狭い限られた空間にも各種の意匠を施すようになり、茶庭と相互に影響しあって、近世以降は町家(まちや)の庭として独自の発展を遂げた。[重森完途]」

 

 この場合は町屋の通り庭のことか。料理も麁相なら庭も砂を敷いただけの麁相なもの。響き付けか。

 

無季。「内庭」は居所。

 

十七句目

 

   裸足でありく内庭の砂

 朝月に花の乗物せつき立       千川

 (朝月に花の乗物せつき立裸足でありく内庭の砂)

 

 「花の乗物」は花見車のことか。貞徳著の『俳諧御傘(はいかいごさん)』には、

 

 「花車 正花也、春也。花見車の事也。」

 

とある。

 その「花見車」はというと、時代は下るが江戸後期の曲亭馬琴編の『増補 俳諧歳時記栞草』に、

 

 「花見車は花ある処へ乗て行く車を云也。」

 

とある。王朝時代であれば牛車であろう。

 ところで、ここでは花車や花見車という言葉をあえて使わず「花の乗物」としているところから、江戸時代の一般的な乗物、つまり花見に行く時の駕籠のことではないかと思われる。花車に準じて駕籠も花の乗物とするところに新味があったと思われる。

 朝の月が出ている頃に出発するのだから、多少遠出するのだろう。駕籠を呼んで出発を急ぐあまりに、内庭の砂を裸足で歩くことになる。

 

季語は「花の乗物」で春。「朝月」は天象。

 

十八句目

 

   朝月に花の乗物せつき立

 日影のふぢの雫つめたき       凉葉

 (朝月に花の乗物せつき立日影のふぢの雫つめたき)

 

 桜の季節とはいえ朝はまだ寒さが残る。早朝ともなれば藤棚から滴り落ちてくる露の雫も冷たい。

 

季語は「ふぢ」で春、植物(木類)。

二表

十九句目

 

   日影のふぢの雫つめたき

 石畳む鳥井の奥の春霞        此筋

 (石畳む鳥井の奥の春霞日影のふぢの雫つめたき)

 

 「畳む」には積み重ねるという意味もあるから、ここは石を積んで作った鳥居という意味か。ネットで石鳥居を検索すると、楯岡の石鳥居や元木の石鳥居といった本当に石を積んだような古い鳥居の画像が出てくる。

 芭蕉の時代でも、鳥居は石を組むのではなくまだ積んで作っていたのかもしれない。

 奥の春霞も、古い神社なのでまだ拝殿がなく、後ろの山そのものが御神体で、折から春の霞がたなびいているという意味だろう。何とも神々しい神祇の句に仕上がっている。

 藤から落ちる雫の冷たさも、清らかさを感じさせる。

 

季語は「春霞」で春、聳物。神祇。

 

二十句目

 

   石畳む鳥井の奥の春霞

 地取の株に見ゆる名苗字       芭蕉

 (石畳む鳥井の奥の春霞地取の株に見ゆる名苗字)

 

 前句の神々しさの後はバランスを取って卑俗に落とすのが正解。

 鳥居の奥が春霞なのはまだ拝殿が建ってないからなので、これから作ることとする。

 地取りはコトバンクの「デジタル大辞泉の解説」に、「家を建てるときなどに、地面の区画割りをすること。」とある。株はそのための杭のこと。

 そこに苗字が記されていれば、立派な武士の寄進によるものだとわかる。

 

無季。

 

二十一句目

 

   地取の株に見ゆる名苗字

 爰まではとどかぬ鹿の音をしたひ   凉葉

 (爰まではとどかぬ鹿の音をしたひ地取の株に見ゆる名苗字)

 

 立派な武家の人の新築物件は、居住する屋敷では聞けない鹿の音を聞くための別邸だとした。

 

季語は「鹿」で秋、獣類。

 

二十二句目

 

   爰まではとどかぬ鹿の音をしたひ

 寺のひかへは四五反の秋       千川

 (爰まではとどかぬ鹿の音をしたひ寺のひかへは四五反の秋)

 

 「一泊り」の巻の二十七句目に、

 

   薬手づから人にほどこす

 田を買ふて侘しうもなき桑門(よすてびと) 芭蕉

 

の句があったが、お寺はそれなりの寺領を持ち、経済的に自立していた。

 ここでは四五反だから普通の自作農の百姓と同じレベルで、それほど豊かではないが、まあまあ人並みの生活が出来るといったところか。

 鹿の音の風流も経済的基礎があってのこと。芭蕉血脈の句といえよう。

 

季語は「秋」で秋。釈教。

 

二十三句目

 

   寺のひかへは四五反の秋

 夕月に植木つり出す塀の破      左柳

 (夕月に植木つり出す塀の破寺のひかへは四五反の秋)

 

 左柳も大垣藩士。芭蕉が元禄二年の『奥の細道』の旅で大垣まで戻ってきた時に、芭蕉を出迎えた連衆の一人。この頃は千川の父の荊口が連衆に加わり、千川はまだ登場しない。僅か四年で世代交代している。

 此筋はこの時の「はやう咲(さけ)」の巻に、左柳、荊口とともに参加している。

 大垣の重鎮?として月の定座を任されたようだが、月を見るために植木を撤去するのだったら、ちょっとわざとらしい。

 

季語は「夕月」で秋、夜分、天象。

 

二十四句目

 

   夕月に植木つり出す塀の破

 見よ水籠をかけられし軒       凉葉

 (夕月に植木つり出す塀の破見よ水籠をかけられし軒)

 

 水籠はコトバンクの「精選版 日本国語大辞典の解説」に、

 

 「〘名〙 水のはいった瓶などを入れて軒などにつるしておくかご。〔多識編(1631)〕

  ※俳諧・富士石(1679)三「水籠(みづカゴ)や軒の下渋つるし柿〈調幸子〉」

 

とある。

 月を見るためにせっかく植木を撤去したのに、軒に水籠を掛けたから月が見えない。

 

無季。「軒」は居所。

 

二十五句目

 

   見よ水籠をかけられし軒

 先はなは土俵靱の一縄手       芭蕉

 (先はなは土俵靱の一縄手見よ水籠をかけられし軒)

 

 「土俵靱(どひょううつぼ)」はコトバンクの「デジタル大辞泉の解説」に、

 

 「《形が土俵に似ているところから》空穂の一種。竹または葛藤(つづらふじ)で編み大形に作ったもので、多くの矢が入る。」

 

とある。「大辞林 第三版の解説」には「腰につけず、人に持たせる。」とある。

 靱(うつぼ)は矢を持ち歩くための容器だが、その大型の物を言うようだ。相撲の土俵ではなく俵に似ている。

 「縄手」はコトバンクの「デジタル大辞泉の解説」に、

 

 「1 田の間の道。あぜ道。なわて道。

  2 まっすぐな長い道。

  3 縄の筋。なわ。

「いかりおろす舟の―は細くとも命の限り絶えじとぞ思ふ」〈続後拾遺・恋三〉」

 

とある。ここでは3の意味か。

 水籠に見えたのは土俵靱に縄をつけたものだった。

 

無季。

 

二十六句目

 

   先はなは土俵靱の一縄手

 着て居るうちに帷子の干ル      此筋

 (先はなは土俵靱の一縄手着て居るうちに帷子の干ル)

 

 前句を土俵靱を運ぶ武士の畦道を行く姿としたか。

 夏の日を遮るもののない畦道は暑くて汗をかくが、日の光ですぐにそれ乾く。

 

季語は「帷子」で夏、衣裳。

 

二十七句目

 

   着て居るうちに帷子の干ル

 うつぶきて糸さす筬に暮かかり    千川

 (うつぶきて糸さす筬に暮かかり着て居るうちに帷子の干ル)

 

 「筬(をさ)」はコトバンクの「ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典の解説」に、

 

 「織機の部品の一つ。経 (たて) 糸の位置を整え,打込んだ緯 (よこ) 糸を押して,さらに密に定位置に打働きをするもの。竹片または鋼片を平行に並べ枠にセットしたもので,普通,竹片を用いた竹筬は手織機用,鋼片を用いた金筬は手織機,力織機の双方に使用する。」

 

とある。

 許六の『俳諧問答』の例句に「火鉢の焼火(をさ)に並ぶ壺煎」とあったときにも調べたが、長い梯子状のもの。機織の筬はここに糸を通す。

 筬に糸を通す作業をしているといつの間にか日も暮れて、昼間の汗も乾いている。

 

無季。

 

二十八句目

 

   うつぶきて糸さす筬に暮かかり

 あはれげもなき講の題目       左柳

 (うつぶきて糸さす筬に暮かかりあはれげもなき講の題目)

 

 「題目講」はコトバンクの「世界大百科事典 第2版の解説」に、

 

 「日蓮系の法華仏教信奉者が営む講。〈南無妙法蓮華経〉と法華経の題目を唱えることを営為の中心とするので題目講とよばれる。その多くは日蓮(1282年10月13日没)の忌日である13日やその逮夜に当たる12日に営まれ,13日講ともいった。早くは鎌倉時代末期にみられ,日蓮鑽仰とともに一家一族連帯の促進を目的として,血縁関係が講構成員の紐帯であった。しかし中世においても,しだいに同一地域居住という地縁を紐帯とする講が営まれるようになった。」

 

とある。

 夕方になると日蓮宗の題目講の「南無妙法蓮華経」のお題目を唱える声が聞こえてくる。それは賑やかなもので哀れな感じはしない。

 

無季。釈教。

 

二十九句目

 

   あはれげもなき講の題目

 三条の橋から西は時雨けり      凉葉

 (三条の橋から西は時雨けりあはれげもなき講の題目)

 

 東海道の終点でもある京都三条大橋の東には、日蓮宗京都八本山の一つの妙傳寺がある。東海道を旅する人にはお馴染みだったのかもしれない。

 西は時雨で哀れだが、東はどんつくどんつく賑やかだ。

 

季語は「時雨」で冬、降物。「三条の橋」は名所、水辺。

 

三十句目

 

   三条の橋から西は時雨けり

 茶屋の二階は酒の楼閣        芭蕉

 (三条の橋から西は時雨けり茶屋の二階は酒の楼閣)

 

 三条大橋の南東には祇園があり、茶屋が立ち並ぶ歓楽街だった。二階で飲食する。京都らしく華やかで、二階でもそこはあたかも楼閣。

 

無季。

二裏

三十一句目

 

   茶屋の二階は酒の楼閣

 うつくしき貌も丈より年ふけて    此筋

 (うつくしき貌も丈より年ふけて茶屋の二階は酒の楼閣)

 

 遊女はいろいろ苦労が絶えないのか、まだ若いのに老けた貌をしている。

 

無季。

 

三十二句目

 

   うつくしき貌も丈より年ふけて

 恨の文をつくる琴の手        千川

 (うつくしき貌も丈より年ふけて恨の文をつくる琴の手)

 

 一巻に恋がないのも何なので、遅ればせながらここで恋に転じる。

 琴を出すことで遊女から王朝風の物語に転じる。特に出典のなさそうなところが「軽み」だ。

 

無季。恋。

 

三十三句目

 

   恨の文をつくる琴の手

 花さけば又来てのぼる塚の上     芭蕉

 (花さけば又来てのぼる塚の上恨の文をつくる琴の手)

 

 前句の「恨み」を死別の恨みとした。

 

季語は「花」で春、植物(木類)。哀傷。

 

三十四句目

 

   花さけば又来てのぼる塚の上

 馬荷にはさむ蓬たんぽぽ       凉葉

 (花さけば又来てのぼる塚の上馬荷にはさむ蓬たんぽぽ)

 

 前句の花をタンポポの花とした。塚もここでは一里塚か。

 荷物を載せた馬を引く人が、ふとそこに蓬とタンポポをみつけ、少し摘んでゆく。蓬もタンポポも食用になる。自分の家に持ち帰る分であろう。

 

季語は「蓬たんぽぽ」で春、植物(草類)。

 

三十五句目

 

   馬荷にはさむ蓬たんぽぽ

 諸雲雀夕日おしげに囀りて      左柳

 (諸雲雀夕日おしげに囀りて馬荷にはさむ蓬たんぽぽ)

 

 蓬やタンポポを摘んで帰る馬曳きに、春の長い日も暮れようとしている。雲雀が名残惜しそうに囀っている。

 

季語は「雲雀」で春、鳥類。「夕日」は天象。

 

挙句

 

   諸雲雀夕日おしげに囀りて

 ただよきほどに春風ぞふく      主筆

 (諸雲雀夕日おしげに囀りてただよきほどに春風ぞふく)

 

 春の夕暮れの景色に春風を添えて主筆が締めくくる。さあみんな、風を感じることが出来たかな。

 

季語は「春風」で春。

 

 生きてゆくことは決して楽なことではない。

 ただ人間の生存競争は孤独ではない。一対一の腕力の戦いではなく、あくまで多数派工作の戦いだからだ。

 多数派の側について安泰な人生を送るには、それなりに妥協したり折れたりしなくてはならないことも多い。だけどそんな子供頃思い描いた理想とは程遠いふがいない自分に、心の中を吹きぬけてゆく風の音を感じる。

 それはハイデッガーなら「良心の声」とでも言う、自己(現存在)の全体性への回帰を求める声だ。そのかすかな声なき声に耳を傾けるなら、今の世の中をもっとより良いものにしてゆくこともできるだろう。

 心の中の風の音を聞き、風の声は言葉になり句となる。そしてその声を共有できる集まりがある。それが俳諧だ。

 風はその時々で変風変雅あるものの、その元は一つ、風雅の誠あるのみ。

 それが師の血脈でもある。ただ、その相続は古典に感動し、それを今の言葉で作ろうとするなら、誰の中にも同じ血が流れている。

 芭蕉の血脈も、芭蕉の句に感動し、芭蕉のようになろうとするなら、そこに自ずとあらわあれる。それでいいのではないかと思う。無用な派閥争いをすべきではない。