貞徳翁独吟百韻「哥いづれ」の巻

寛永の頃

初表

 (うた)いづれ小町(こまち)をどりや()()(をどり)    (てい)(とく)

   どこの盆にかをりやるつらゆき

 空にしられぬ雪ふるは月夜にて

   いつも寝ざまに出す米の(いひ)

 (なげ)はふる(すし)の腹もやあきぬらん

   (をけ)もちながらころぶあふのき

 すべるらし水汲(みずくみ)(みち)ののぼり道

   滝御らんじにいづる(ゐん)さま

 

初裏

 とりあへず天神(てんじん)殿(どの)手向(たむけ)して

   こころしづかに夢想(むさう)ひらかむ

 (ただ)たのめふさがりたりと目の薬

   しめぢがはらのたつは座頭(ざとう)

 くさびらを喰間(くふま)(つゑ)をたくられて

   枝なき(しひ)のなりのあはれさ

 しばらるる大内山(おほうちやま)の月のもと

   御室(おむろ)の僧や鹿(しし)ねらふらむ

 (つね)(まさ)は十六のころさかりにて

   うつぶるひ(ひく)琵琶(びわ)もなつかし

 急雨(むらさめ)にあふたやうなる袖の露

   ともに見もどすまきの下道(したみち)

 花かづら根もとをしつた人もなし

   (うれ)かしとぢた(かど)の藤なみ

 

二表

 かすんだる大豆(まめ)は馬より(たか)ばりて

   陣ひやうらうのきれはつる時

 城よりもあつかひかふはかれしらや

   黒の()かつと(かね)てさまうす

 (ぶん)(わう)の世や民にてもしらるらん

   しやれたるほねをとりかくしつつ

 あらをしや家に(つたふ)(まひ)あふぎ

   あるる(ねずみ)をにくむ(かう)わか

 浅間(あさま)しし朝倉(あさくら)殿(どの)の乱の前

   木のまるはぎにはく(ふぢ)(ばかま)

 秋山のしばにんにくの()(にほ)

   いろ(いろ)(どり)(しる)のすひくち

 下戸(げこ)上戸(じゃうご)日の(くれ)よりも月見して

   (うた)にはよらぬ人の貧福

 

二裏

 観音(くわんおん)(うら)当座(たうざ)の用ならん

   水坂(きよみづざか)(つじ)にまつ袖

 かつたゐにうはなり(うち)をあつらへて

   ぬれるうるしにまくる小鼓

 新敷(あたらしき)烏帽子(えぼし)をきねばかなはぬか

   童部(わらべ)()ばかり人ぞ(よび)ぬる

 死に(いる)(さだめ)ておとなことならん

   あたる(つぶて)のあいだてなさよ

 昼中(ひるなか)によその()()をかつ物か

   つなげる(さる)にしつけすさまじ

 月影に長き刀のしらはとり

   (よる)やいづなの(ほふ)のおこなひ

 からげたる燈心をときてともしけり

   くらきにいるる物の本蔵(ほんぐら)

 

三表

 奥どのを奥でものしりものにして

   よき酒にてや(ちご)をたらせる

 鬼なれどしたがへられて大江山(おほえやま)

   (をさま)りかへる御代(みよ)一条(いちでう)

 物(つけ)てならぬ座敷の(こと)(だたみ)

   まはり花をば小勢(こぜい)にてさせ

 人のせな(うづ)(かすめ)(なみ)(ふね)

   松浦(まつら)が事は長閑(のどけ)くもなし

 (いわし)とはいやしきかへ名のいかならむ

   節分(せちぶん)の夜にまゐる(みや)(かた)

 明年(みゃうねん)は神よまもらせおはしませ

   いつ住吉(すみよし)ぞ名月のかげ

 露ほどもあやかり(たき)定家(ていか)にて

   内親王(ないしんわう)とちぎるいく秋

 

三裏

 (まつ)て居るしるしの杉も長月や

   (をり)()せかし(この)(きく)のやど

 見るもただ大盃(おほさかづき)はくるしきに

   かつやうにせん弓の射こくら

 うしろよりまゐりて拝む堂の前

   (しゅう)に先だち腹やきるらむ

 鎌倉(かまくら)の海道遠きさめがゐに

   おとす尺八(しゃくはち)何としてまし

 礼をなす沙門(しゃもん)公家(くげ)も手すくみて

   仏名(ぶつみゃう)の夜ぞいかうあれける

 障碍(しゃうげ)をや師走(しはす)の月の天狗共(てんぐども)

   紅粉(べに)に木の葉の(ちり)てまじれる

 もやうよく(そめ)し小袖を龍田(たつた)(がは)

   りんきいはねど身をなげんとや

 

名残表

 (わが)よめが男の刀ひんぬいて

   祝言(しうげん)の夜ぞ(ゑひ)ぐるひする

 生魚(なまうを)夕食(ゆふしょく)(すぎ)精進(しゃうじ)あげ

   寺のかへさに(よぶ)やあみ(ひき)

 難波(なには)()のさきに亀井(かめゐ)の水をみて

   こと浦までも月の遊覧(いうらん)

 秋は(ただ)白き衣裳(いしゃう)(おもて)ぎに

   いそぐよめりときくや重陽(ちゃうやう)

 たのめたるたのもの(ころ)もつい(たっ)

   とらへがたしやかへるかりがね

 生姜手(しゃうがで)が三へぎと筆に(かすま)せて

   余寒(よかん)の時分(なつめ)もぞなき

 薄茶(うすちゃ)さへ小壺に(いれ)てすきぬらん

   こころざしせし日よりはらめる

 

名残裏

 (ふみ)(つく)(すすき)のやうになびききて

   鹿もおよばじ妻のかはゆき

 (やや)寒き(ころ)はとらする木綿(もめん)たび

   あかがりあればつかはれぞせぬ

 (いな)(くき)鷹場(たかば)にわるき花の春

   雪間(ゆきま)をしのぐ辺土(へんど)さぶらひ

 百姓(ひゃくしゃう)と富士ぜんぢやうに打交(うちまじり)

   をがまれたまふ弥陀(みだ)三尊(さんぞん)

 

      参考;『連歌俳諧集』(日本古典文学全集、金子金次郎、暉峻康隆、中村俊定注解、1974、小学館)

初表

発句

 

 (うた)いづれ小町(こまち)をどりや()()(をどり)    (てい)(とく)

 

 この巻の発句は松江重頼(まつえしげより)編の『犬子集(えのこしゅう)』(寛永十年(一六三三) 刊にも選ばれているので、それ以前のものと思われる。

 小町踊りはコトバンクの「日本大百科全書(ニッポニカ)の解説」に、

 

 「江戸時代の初・中期ごろ、京都で七夕(たなばた)の日に踊られた娘たちの風流踊(ふりゅうおどり)。七夕踊ともいった。娘たちの年齢は、年代によって一定していないが、78歳から1718歳までの間で、はでな扮装(ふんそう)で身を飾った。たとえば、美々しい中振袖(ちゅうふりそで)の着物を着、左肩に光綾綸子(こうりょうりんず)の幅広の襷(たすき)を掛け、造花を挿した髪頭に緞子(どんす)の鉢巻(はちまき)を巻き、手には締(しめ)太鼓を持ってたたきながら、「二条の馬場に 鶉(うずら)がふける なにとふけるぞ 立寄ってきけば 今年や御上洛(じょうらく) 上様繁昌(はんじょう) 花の都はなお繁昌」などと小歌を歌って、ときには輪になり、ときには行列をして踊り歩いた。

 のちには踊らずただ歌い歩くだけになったというが、掛踊(かけおどり)の性格が濃い。鉢巻に襷という道具だてに古来の巫女(みこ)の名残(なごり)がうかがえるが、多分に遊戯化していた。七夕は盆に接近しており、盆踊りの前哨(ぜんしょう)にもなったが、もとは娘たちの成女戒(せいじょかい)の物忌みの盆釜(ぼんがま)から発して芸能化したものといわれる。[西角井正大]」

 

とある。

 一方伊勢踊りの方はというと、これもコトバンクの「日本大百科全書(ニッポニカ)の解説」に、

 

 「伊勢参宮信仰に伴って近世初頭に流行した風流踊(ふりゅうおどり)。庶民の伊勢参宮流行の歴史は934年(承平4)の記録までさかのぼるが、1614年(慶長19)に大神宮が野上山に飛び移ったという流言がおこって、にわかに伊勢踊が諸国に流行した。この爆発的流行に翌年には禁令も出された。1635年(寛永12)に尾州徳川家から将軍家光の上覧に供した伊勢踊は、裏紅の小袖(こそで)に、金紗(きんしゃ)入りの緋縮緬(ひぢりめん)の縄帯(なわおび)、晒(さらし)の鉢巻姿の、日の丸を描いた銀地扇を持った集団舞踊で、「これはどこの踊 松坂越えて 伊勢踊」などの歌詞が歌われている。1650年(慶安3)にお陰参りが始まるまでが、伊勢の神を国々に宿次(しゅくつぎ)に送る神送りの踊りとしての伊勢踊の流行期であった。現在は伊豆諸島の新島(にいじま)や愛媛県八幡浜(やわたはま)市などに残存している。[西角井正大]」

 

とある。

 どちらも貞徳の時代に流行したもので、小町・伊勢という王朝時代の歌人の名前がついていることから、小野小町の歌と伊勢の歌が甲乙つけられないように、小町踊りも伊勢踊りも甲乙つけがたいとする。

 「哥いづれ(勝劣あるや)、小町をどりや、伊勢踊や」という意味。

 貞徳自注に

 

 「伊勢・小町、(うた)のよみ無勝劣上手なれば、今をどりの名によせ侍る。」

 

とある。

 

季語は「をどり」で秋。

 

 

   哥いづれ小町をどりや伊勢踊

 どこの盆にかをりやるつらゆき

 (哥いづれ小町をどりや伊勢踊どこの盆にかをりやるつらゆき)

 

 「をりやる」は「居り」に尊敬語の「やる」をつけたもので、「おりゃる」と発音したのであろう。「おじゃる」と同じ。「りゃ」と「じゃ」の交替はスペイン語を思わせる。

 旧暦七月になると小町や伊勢の踊りが現れるのだから、紀貫之(きのつらゆき)もどこかの盆に帰ってきているはずだ。

 貞徳自注に、

 

 「盆には(しし)たる人かえるといへば、いづくにか勝劣をとふべきものと也。」

 

とある。

 前句に優劣つけがたいとして小町と伊勢の歌合せに、紀貫之が判者としてこの世に戻ってきている、とする。

 

季語は「盆」で秋。

 

第三

 

   どこの盆にかをりやるつらゆき

 空にしられぬ雪ふるは月夜にて

 (空にしられぬ雪ふるは月夜にてどこの盆にかをりやるつらゆき)

 

 本歌は『連歌俳諧集』の注にある通り、

 

 さくら散る木の下風は寒からで

     空にしられぬ雪ぞふりける

              紀貫之(拾遺集)

 

になる。五七五に区切ると「空にしら」「れぬ雪ふるは」となってしまうが、俳諧ならこれも一興と許される。のちになるが、

 

 海暮れて鴨の声ほのかに白し    芭蕉

 

の句もある。

 発句・脇と秋の句だったので、ここで月を出すのは必然。散る桜を雪に喩えた元歌を少し変えて、まだ暑さの残る盆の月だけど、その白い光はあたかも雪のようだと、きっと貫之ならそう詠むだろうする。

 

 衣手はさむくもあらねど月影を

     たまらぬ秋の雪とこそ見れ

              紀貫之(後撰集)

 

の歌もある。

 貞徳自注に、

 

 「貫之のうたを以て月の雪にとりなす。一の句二の句の句切(くぎれ)にて俳諧(はいかい)になる也。」

 

とある。

 

季語は「月夜」で秋、夜分、天象。

 

四句目

 

   空にしられぬ雪ふるは月夜にて

 いつも寝ざまに出す米の(いひ)

 (空にしられぬ雪ふるは月夜にていつも寝ざまに出す米の飯)

 

 貞徳自注に、

 

 「山寺の(ちご)のねがひに月夜に米の飯といふ(ことわざ)なり。」

 

とある。

 山奥だと米もあまり取れず、麦や雑穀や野菜などを混ぜて炊くのが普通だったのだろう。せめて名月の夜くらいは米だけの飯を喰いたいと思うものの、いつも稚児の寝る時間になるのを待って、偉い坊さんだけが米の飯を喰っている。

 稚児は寺院で召し使われている元服した少年のことで、夜の相手をすることもある。

 

無季。「寝ざま」は夜分。「雪」はついては貞徳の『俳諧(はいかい)御傘(ごさん)』に、「夏・秋は雪のふらぬときなれば、月影の雪に似たるといふばかりにして、降物(ふりもの)にならずと云へり。」とある。

 

五句目

 

   いつも寝ざまに出す米の飯

 (なげ)はふる(すし)の腹もやあきぬらん

 (投はふる鮨の腹もやあきぬらんいつも寝ざまに出す米の飯)

 

 貞徳自注に、

 

 「(なげ)て横ざまになるをねざまといふなり。」

 

とある。

 コトバンクの「精選版 日本国語大辞典の解説」にも、

 

 「〘名〙 (「ねさま」とも)

 ① 寝ている時のようす。寝姿。ねぞう。

 ※宇治拾遺(1221頃)一〇「式部丞がねざまこそ心得ね、それおこせ」

 ② 寝る時。ねぎわ。

 ※どちりなきりしたん(一六〇〇年版)(1600)八「ねさまにもをこたらずそのぶんつとむるためには何事をすべきや」

 

とある。打越(うちこし)に付いたときには②の意味だったが、ここでは①の意味に取り成す。

 昔の鮨はなれ寿司で、塩漬けにした魚とご飯を交互に重ね乳酸発酵させる。

 このとき魚の腹を割いてそこにご飯をつめる製法もある。この場合だと、鮨を投げ出せば腹が開いて中のご飯が飛び出してしまう。

 「なれる」というのは輪郭がなくなる、境目がなくなることをいう言葉で、本来は魚の形がはっきりしなくなるまで何ヶ月も漬け込んで熟成させていた。

 

無季。

 

六句目

 

   投はふる鮨の腹もやあきぬらん

 (をけ)もちながらころぶあふのき

 (投はふる鮨の腹もやあきぬらん桶もちながらころぶあふのき)

 

 鮨を投げるのではなく、桶を運ぶ時に転んだのを見て、中に鮨が入ってたら腹が開いてるだろうなと、前句を推量とする。

 「あふのき」は仰向けのこと、あるいは上下が逆になること。「あふのきにころぶ」を俳諧では倒置して「ころぶあふのき」と体言止めにして字数を整える。瓜の皮でも踏んだのだろうか。

 貞徳自注には、

 

 「(なげ)ものを桶にとりなす也。すしはおけにてあひしらふなり。」

 

とある。「あひしらふ」は「あへしらふ」「あしらふ」と同じで、取り合わせのことをいう。鮨と桶は付け合いといってもいい。

 

無季。

 

七句目

 

   桶もちながらころぶあふのき

 すべるらし水汲(みずくみ)(みち)ののぼり道

 (すべるらし水汲道ののぼり道桶もちながらころぶあふのき)

 

 鮨桶ではなく水汲みの桶とする。

 貞徳自注には、

 

 「あふのきにころぶとある故に上り坂ととりなすなり。」

 

とある。

 

無季。

 

八句目

 

   すべるらし水汲道ののぼり道

 滝御らんじにいづる(ゐん)さま

 (すべるらし水汲道ののぼり道滝御らんじにいづる院さま)

 

 「すべる」には退位するという意味もある。最後に「院様」ともってくることで、坂道ですべったのかと思いきや退位なされた院様のことだったか、と落ちになる。

 貞徳自注に、

 

 「すべるとあるを御位にとりなすなり。」

 

とある。

 今だったら、

 

   すべるらし水汲道ののぼり道

 山イベントに向う芸人

 

といったところか。

 

無季。「滝」は山類、水辺。貞徳の『俳諧御傘』に、「惣別瀧は山類也、水邊也。」とある。「院さま」は人倫。

初裏

九句目

 

   滝御らんじにいづる院さま

 とりあへず天神(てんじん)殿(どの)手向(たむけ)して

 (とりあへず天神殿は手向して滝御らんじにいづる院さま)

 

 天神様といえば菅原道真(すがわらのみちざね)公で、百人一首でも有名なあの、

 

 

   朱雀院の奈良におはしまし

   たりける時にたむけ山にて

   よみける

 このたびはぬさもとりあへず()向山(むけやま)

     紅葉のにしき神のまにまに

               菅家(古今集)

 

のパロディーであることは明白だ。

 前句の「院」を朱雀院のこととし、滝を見に行くのに菅原道真公が手向け(餞別)を「とりあへず」送ったとする。

 もちろん、元歌の意味は「幣も用意できず」という意味で、「暫定的に」の意味ではない。それに「天神殿」は大宰府で亡くなって、その後神(御霊)として祭られたときの呼び方で、生前のものではない。

 貞徳自注には、

 

 「亭子院(ていじゐん)大和龍門(りゅうもん)のたき御覧じに御幸(みゆき)の時、菅家(くわんけ)このたびはぬさもとりあへずの(そん)(えい)有。」

 

とある。

 

無季。

 

十句目

 

   とりあへず天神殿は手向して

 こころしづかに夢想(むさう)ひらかむ徳

 (とりあへず天神殿は手向してこころしづかに夢想ひらかむ)

 

 「夢想(むそう)(びらき)」はコトバンクの「精選版 日本国語大辞典の解説」に、l

 

 「① 神仏による夢のお告げを皆に披露すること。また、その催し。

 ※御伽草子・さよひめ(室町時代小説集所収)(室町末)「御むそうひらきを、せんやとて、さんかひのちんぶつ、こくどのくゎしを、ととのへ、七日七やの、さかもりなり」

 ② 連歌・俳諧で、夢の中で神仏の暗示を得てできた句を発句として、連歌・連句を行なうこと。

 ※梅津政景日記‐元和二年(1616)一二月一九日「須田八兵へ所にて夢想開有」

 

とある。「手向け」には、「神仏や死者の霊に物を供える」というもう一つの意味があるので、前句を天神様に手向けしてという意味に取り成し、夢想開で連歌会を始める、とする。

 なお、「太宰府市観光情報」のサイトには、黒田官兵衛のエピソードとして、

 

 「筑前国に入った官兵衛(如水)は、福岡城内の居館が完成するまでの間、閑雅な太宰府に移り、太宰府天満宮の境内に隠棲しました。

 如水が隠棲の地に太宰府を選んだ理由の一つに「連歌」がありました。一流の文化人でもあった彼は、和歌・連歌の神としても知られる天神様(菅原道真公)を崇敬し、社家らを招いて連歌会を開き、太宰府天満宮に連歌を奉納するなど、連歌興隆に力をいれました。

 また、如水の天神様への信仰は深く、長年の戦乱で荒廃した天満宮の境内を造営するなど、太宰府天満宮の復興に尽力します。

 生涯を戦乱に明け暮れた如水にとって、太宰府で過ごす晩年の日々は、憧れの道真公の傍らで心置きなく風雅に興ずることができた時間であったようです。」

 

とあり、さらに、

 

 「慶長7年(1602年)、官兵衛(如水)が太宰府天満宮に奉納した連歌。梅の花が描かれた壮麗な懐紙に、妻光(幸円)、息子長政をはじめ、家臣、天満宮の社人とともに詠み連ねている。

 如水が夢枕に天神様からいただいたといわれる「松梅や末永かれと緑立つ山より続く里はふく岡」を発句としており、この中で初めて「福岡」という地名が登場する。」

 

とある。正確にはこれは発句ではなく和歌の形になっていて、和歌を元に第三から付けていったのではないかと思われる。なお「松」「永」の文字があるのは偶然か。

 黒田官兵衛が出家して如水となったのは文禄元年(一五九ニ)で、大宰府隠棲は関が原合戦以降の晩年のこと。慶長九年(一六〇四)に世を去っている。

 これに対し、松永貞徳は元亀二年(一五七一)の生まれで豊臣秀吉に仕えていたから、ひょっとしたら面識があったかもしれない。

 いずれにせよ貞徳にも(じょう)()に連歌を学び細川幽(ほそかわゆう)(さい)に和歌を学び、木下長嘯子(ちょうしょうし)を友とした青春時代があったのだろう。

 なお、この句には貞徳の自注がない。途中伝わるうちに欠落したか、あるいは秀吉の家臣だったという前歴に気付かれたくなかったからかもしれない。

 

無季。

 

十一句目

 

   こころしづかに夢想ひらかむ

 (ただ)たのめふさがりたりと目の薬

 (唯たのめふさがりたりと目の薬こころしづかに夢想ひらかむ)

 

 先の「太宰府市観光情報」のサイトの如水の井戸の説明に、

 

 「 官兵衛(如水)が太宰府で過ごしていた際、茶の湯などに使っていたといわれる井戸。如水が過ごした平穏な日々が偲ばれる。

   太宰府天満宮の境内、宝物殿の傍に静かに佇んでおり、井戸の裏には黒田家隆盛の礎ともいえる『目薬の木』が植えられている。」

 

とある。黒田官兵衛の祖父の重隆が「(れい)(しゅ)(こう)」という目薬を売って財を築いたとの説もある。

 貞徳自注には、

 

 「夢想流(むさうりう)の目薬と云あり。ひらくを目にとりなす也。」

 

とある。この夢想流の目薬と黒田家の関係はよくわからない。

 前句を、夢想目薬によって開かむという意味に取り成し、塞がった目にただ目の薬をたのめ、と付ける。

 

無季。「誰」は人倫

 

十二句目

 

   唯たのめふさがりたりと目の薬

 しめぢがはらのたつは座頭(ざとう)

 (唯たのめふさがりたりと目の薬しめぢがはらのたつは座頭ぞ)

 

 貞徳自注に、

 

 「清水(きよみづ)観音(くわんおん)御詠(ぎょえい)にて(つく)るなり。」

 

とある。この御詠は『連歌俳諧集』の注によれば、

 

 なほ頼め(しめ)()が原のさせも草

     わが世の中にあらん限りは

        清水観音の御歌言い伝えている(新古今集)

 

の歌だという。

 標茅が原は栃木県の白地沼だという。させも草はヨモギのこと。清水観音が私がいる限り私を頼ってくれという歌だが、のちに頼りにならない約束の例えとして用いられるようになった。

 この句でも「なお頼め」というのを信じていたらついに座頭になってしまって腹の立つ、という句になっている。

 

無季。「座頭」は人倫。「しめぢがはら」は名所。

 

十三句目

 

   しめぢがはらのたつは座頭ぞ

 くさびらを喰間(くふま)(つゑ)をたくられて

 (くさびらを喰間に杖をたくられてしめぢがはらのたつは座頭ぞ)

 

 「くさびら」は茸のこと。前句の「しめぢ」を茸のシメジと掛けて、茸を食っている間に大事な杖をパクられて腹が立つ、と付ける。

 貞徳自注には、

 

 「(くさびら)にしめぢといふあり。」

 

とある。

 

季語は「くさびら」で秋、植物、草類。

 

十四句目

 

   くさびらを喰間に杖をたくられて

 枝なき(しひ)のなりのあはれさ

 (くさびらを喰間に杖をたくられて枝なき椎のなりのあはれさ)

 

 前句の「杖をたくられて」を杖にしようと折り取られての意味に取り成し、枝のなくなった椎の木はあわれだ、となる。「くさびら」もこの場合椎茸に取り成され、椎茸も食われた上につえにするために枝までパクられたとする。

 椎茸の原木栽培は近代になってからで、昔は自然に生えてくる椎茸を採集していた。

 貞徳自注には、

 

 「椎茸(しひたけ)にとりなすなり。椎の枝を杖にきられたる也。」

 

とある。

 

季語は「椎」で秋、植物、木類。

 

十五句目

 

   枝なき椎のなりのあはれさ

 しばらるる大内山(おほうちやま)の月のもと

 (しばらるる大内山の月のもと枝なき椎のなりのあはれさ)

 

 大内山はコトバンクの「デジタル大辞泉の解説」に、

 

 「①京都市仁和(にんな)寺の北にある山。宇多天皇の離宮が置かれた所。

  ②皇居のこと。」

 

とある。

 貞徳自注には、

 

 「しばられたる者(あし)なきやうなり。椎は頼政(よりまさ)がすがりて付る也。」

 

とある。頼政は、

 

   二条院の御時、年ごろ大内守ることを

   うけたまはりて御垣の内に侍りながら、

   昇殿を許されざりければ、行幸ありけ

   る夜、月のあかかりけるに、女房のも

   とに申し侍りけるに

 人知れぬ大内山の山守は

     木がくれてのみ月を見るかな

                源頼政(千載集)

 

の歌を詠むことで昇殿を許されたが、さらに三位の位を欲して、

 

 のぼるべきたよりなき身は木のもとに

     しゐをひろひて世をわたるかな

                源頼政

 

と詠んで昇進したという。

 「椎」と「大内山の月」の縁はこれで分かるが、別に頼政が大内山に縛られていたわけではない。あくまで比喩として、昇殿を許されないのを低い身分に縛り付けられていたという意味でしかない。それを椎の実を拾うのではなく、枝もない椎の木のような姿だとする。

 

季語は「月」で秋、夜分、天象。「大内山」は名所、山類。

 

十六句目

 

   しばらるる大内山の月のもと

 御室(おむろ)の僧や鹿(しし)ねらふらむ

 (しばらるる大内山の月のもと御室の僧や鹿ねらふらむ)

 

 ここでは大内山は「京都市仁和(にんな)寺の北にある山」の方の意味になる。大内山は御室(おむろ)山ともいい、御室の僧は仁和寺の僧をいう。

 貞徳自注には、

 

 「大内山仁和寺(にんなじ)にあり。乱行ゆゑしばらるる也。」

 

とある。鹿を弓矢で射止めようとしたのだろう。僧である以上、殺生(せっしょう)は慎まねばならない。

 

季語は「鹿」で秋、獣類。「僧」は人倫。

 

十七句目

 

   御室の僧や鹿ねらふらむ

 (つね)(まさ)は十六のころさかりにて

 (恒政は十六のころさかりにて御室の僧や鹿ねらふらむ)

 

 貞徳自注には、

 

 「但馬(たじまの)(かみ)御室そだち也。四々(しし)十六(じふろく)(いふ)こころ也。」

 

とある。

 恒政は平経正のことで、コトバンクの「ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典の解説」に、

 

 「[]?

  []寿永3=元暦1(1184).2.7. 摂津,一ノ谷

 平安時代末期の武将。但馬守正四位下。父は清盛の弟,参議経盛。弟には敦盛がいる。和歌,琵琶に秀でた。若年で仁和寺宮守覚法親王に師事し,親王の秘蔵の琵琶「青山」を賜わった。寿永2 (1183) 年平家一門の都落ちに際しては,名器「青山」が戦乱で喪失するのをおそれ,仁和寺宮を訪れて返却し,別れに数曲を弾いたところ,聞く者の涙を誘ったという。翌年一ノ谷の戦いに敗れ割腹した。」

 

とある。

 十七歳のときに宇佐八幡で青山を弾いた話があるところから、仁和寺で青山を賜ったのが十六くらいだったのだろう。

 和歌や琵琶の風流でも知られたが、数え十六といえばやんちゃ盛りの頃なので、鹿を射止めようとしたこともあっただろう。

 

無季。

 

十八句目

 

   恒政は十六のころさかりにて

 うつぶるひ(ひく)琵琶(びわ)もなつかし

 (恒政は十六のころさかりにてうつぶるひ引琵琶もなつかし)

 

 貞徳自注に、

 

 「十六島と書てうつぶるひとよむげに候。(つけ)にくき故。」

 

とある。

 十六島はウィキペディアに、

 

 「十六島(うっぷるい)は島根県出雲市の地名。旧平田市。十六島海苔(岩海苔の一種)で有名。出雲市十六町の海岸に突出した岬で、大岩石や奇岩が林立し、山陰でも屈指の海岸美を呈している。」

 

とある。

 (つね)(まさ)といえば琵琶青山だが、談林の頃の俳諧なら経正に琵琶という付け合いだけで十分だったのではないかと思う。貞徳の頃は、それでは十分付いてないということで、十六島(うつふるい)と「打ち振るい」を掛けて、より緊密に付ける必要があったのだろう。

 

無季。

 

十九句目

 

   うつぶるひ引琵琶もなつかし

 急雨(むらさめ)にあふたやうなる袖の露

 (急雨にあふたやうなる袖の露うつぶるひ引琵琶もなつかし)

 

 袖の露は涙の比喩で、打ち振るい弾く琵琶が悲しくて涙する。白楽天の『琵琶行』の本説であろう。ラストに、

 

 座中泣下誰最多 江州司馬青衫湿

(座中で最もたくさんの涙を滴らせたのは、江州の司馬であった白楽天自身で、その青衫(せいさん)を濡らした。)

 

とある。

 

 この句には貞徳自注がない。後の欠落だろうか。それとも『琵琶行』はあまりに有名で説明の必要もないということか。

 

無季。恋。「急雨」は降物。「袖の露」は貞徳の『俳諧御傘』に、「是も涙の事也。涙の字に二句去べし、恋也。ふり物に二句也、秋也。」とあるが、ここでは無季として扱われている。

 

二十句目

 

   急雨にあふたやうなる袖の露

 ともに見もどすまきの下道(したみち)

 (急雨にあふたやうなる袖の露ともに見もどすまきの下道)

 

 村雨に(まき)といえば、

 

 村雨の露もまたひぬ真木の葉に

     霧立ちのぼる秋の夕暮

             寂蓮法師(新古今集)

 

の歌が有名だ。

 村雨の露はここでは涙の比喩ではなく、実際の雨になる。「あふたやうなる」は「逢うたやうなる」に取り成される。

 雨のせいで互いの顔もよくわからないなか、山道ですれちがう二人は知ってる人に「逢ふたやう」に思ったのだろう。ともにどちらからともなく振り向く。離れ離れになっていた恋人の邂逅であろう。新海誠監督に描いて欲しいところだ。

 貞徳自注に、

 

 「もと(あひ)()るやうに覚ゆる人なれば見かへる也。」

 

とある。

 

無季。恋。

 

二十一句目

 

   ともに見もどすまきの下道

 花かづら根もとをしつた人もなし

 (花かづら根もとをしつた人もなしともに見もどすまきの下道)

 

 「花かづら」はコトバンクの「デジタル大辞泉の解説」の解説に、

 

 「1 時節の花を糸で連ねて作った挿頭(かざし)

 「漢人(からひと)も筏(いかだ)浮かべて遊ぶといふ今日そ我が背子せな」〈万・四一五三〉

  2 山上に咲きそろった花を1に見立てた語。

 「雲のゐる遠山姫の霞をかけて吹く嵐かな」〈夫木・四〉」

 

とある。正花としての「花かづら」はこの花で作った挿頭のことで、貞徳著の『俳諧御傘』に「花かづら 春也。植物也。正花也。」とある。

 『俳諧御傘』の「花籠」に、「正花也。」とあり、「それにも時々の草木の花をもいるる故に、籠の名なれ共春にも植物にも用る也。」とあるように、必ずしも桜を用いた挿頭でなくても、花籠同様に扱われていた。

 貞徳自注には、

 

 「槇を巻の字にとりなす。かづらの末より根を見もどす心なり。」

 

とある。

 花かづらは花と茎を切り取ったもので、根がどこにあったかを知る人はいない。ともに蔓の巻いてからまった道をふりかえる、となる。

 

季語は「花かづら」で春、植物、木類。「人」は人倫。

 

二十二句目

 

   花かづら根もとをしつた人もなし

 (うれ)かしとぢた(かど)の藤なみ

 (花かづら根もとをしつた人もなし売かしとぢた門の藤なみ)

 

 貞徳自注に、

 

 「根もとを()もとにとりなす也。此藤の花をうらばかはんと也。」

 

とある。

 前句の「花かづら」を藤のこととし、その元値を知る人はいない。売って欲しいと思うのだけど、門は閉ざされている。

 

季語は「藤なみ」で春、植物、木類。

二表

二十三句目

 

   売かしとぢた門の藤なみ

 かすんだる大豆(まめ)は馬より(たか)ばりて

 (かすんだる大豆は馬より高ばりて売かしとぢた門の藤なみ)

 

 「大豆」は「まめ」と読む。余談だが横浜市港北区に大豆戸(まめど)という地名がある。

 貞徳自注に、

 

 「とち大豆(まめ)と云ものあり。(さく)(もち)の名をふぢ花とも又馬とも云。」

 

とある。

 当時の人ならわかったのかもしれないが、さすがにこれは注釈なしでは何のことか分からなかった。蕉門でもこういう句はたくさんあるのだろう。

 注にある「索餅」はウィキペディアに、

 

 「索餅(さくべい)とは、唐代の中国から奈良時代に日本に伝わった唐菓子の1つで素麺の祖となったとも言われている食品のこと。縄状の形状より麦縄(むぎなわ)とも呼ぶ。江戸時代中期に姿を消したともいわれるが、現在でも奈良など各地で、しんこ菓子(しんこ、しんこ団子、しんこ餅)に姿を変えて存続している。」

 

とある。

 『連歌俳諧集』の注では『嬉遊(きゆう)笑覧(しょうらん)』巻十上の「藤の花」「しんこ馬」が引用されている。

 

 「白石が餲餬の形を云たる(前にみゆ)にささ餅の中にさる形なるがありといへり

 ささ餅とはしんこなるべし

 [料理物語]に見えたり染て色々に作れば定りたる形なきにや

 作りたる形に付きて白糸のあこやなど名付[続山井]餅雪を白糸となす柳かな(松尾宗房)

 白糸の餅に赤小豆を付らるを藤の花といふ(絵行器の処にいへり)

 藤の花また藤の実とも云にや

 寛文元年成安撰める[埋草]藤の実咲かば鞍おけしんこ馬と云発句あり

 又しんこ馬は[毛吹草]にしんこ馬も今やひくらんもち月夜など出たり

 馬形造りたる真粉なるべし

 

 又馬形ならねども後に白糸餅をやせうまと呼

 これは餅のうまき馬といひ細きもの故痩といひたるなり

 灯草をやせ馬と云と同じ

 又しんこの鳥は後にいへり」

 

とある。

 「餲餬(かつこ)」はコトバンクの「精選版 日本国語大辞典の解説」に、

 

 「〘名〙 昔、節会(せちえ)や大饗(だいきょう)の折に出した唐菓子の一種。饂飩粉(うどんこ)をこねて虫の蝎(かつ)の形に丸め、油で揚げたもの。〔十巻本和名抄(934頃)〕」

 

とある。

 うるち米を挽いた(しん)()をこねて作った糝粉細工というものがあって、笹の葉の形にしたのを笹餅という。糝粉は今日では「上新粉」と呼ばれている。

 かつては様々な糝粉細工があって、白糸の餅に赤小豆を付たものを「藤の花」と呼び、馬の形にしたものを「しんこ馬」と言っていた。

 

 餅雪を白糸となす柳かな      宗房

 藤の実咲かば鞍おけしんこ馬

 しんこ馬も今やひくらんもち月夜  弘永

 

などの発句もあった。

 貞徳の句のほうは、霞んだ(ほんの少しでも)豆を使ったものはしんこ馬より高いので、藤なみを売ってくれと思うのだけど門は閉ざされている、となる。

 とち大豆はよくわからないが、高価なものというと丹波大納言小豆か。

 

季語は「かすんだる」で春、聳物。「馬」は獣類。

 

二十四句目

 

   かすんだる大豆は馬より高ばりて

 陣ひやうらうのきれはつる時

 (かすんだる大豆は馬より高ばりて陣ひやうらうのきれはつる時)

 

 (いくさ)の時の兵糧が足りなくなると、商人たちは足元を見て米麦はもとより豆すらも値段を吊り上げて馬より高くなる。

 貞徳自注に、

 

 「五こく大切のこころなり。」

 

とある。兵糧の確保は早めに計画的にというところか。

 

無季。

 

二十五句目

 

   陣ひやうらうのきれはつる時

 城よりもあつかひかふはかれしらや

 (城よりもあつかひかふはかれしらや陣ひやうらうのきれはつる時)

 

 『連歌俳諧集』の注に「こふはうれししや」の間違いだとある。

 「あつかひ」はweblio古語辞典の「学研全訳古語辞典」に、

 

 「①(客の接待・育児・看病など)世話をすること。

  ②(訴訟・争い事などの)調停・仲裁。また仲裁人。

  ③示談。」

 

とある。

 城の方から調停の話が来るのはありがたい。ちょうど兵糧も尽きたところだ。

 本来は説明の必要もない句で、自注も不用だったのだろう。ただ、そのせいで途中で書き誤ってしまったか。

 

無季。

 

二十六句目

 

   城よりもあつかひかふはかれしらや

 黒の()かつと(かね)てさまうす

 (城よりもあつかひかふはかれしらや黒の碁かつと兼てさまうす)

 

 「さまうす」は「さ(そのように)申す」。

 貞徳自注に、

 

 「御勝に碁を立入(たちいれ)たり。城を白にとりなす也。」

 

とあるように、黒の碁が優勢なので白が投了する。

 

無季。

 

二十七句目

 

   黒の碁かつと兼てさまうす

 (ぶん)(わう)の世や民にてもしらるらん

 (文王の世や民にてもしらるらん黒の碁かつと兼てさまうす)

 

 貞徳自注には、

 

 「黒を田の(くろ)にとりなす也。文王(たみ)(くろ)をゆづると(いふ)事、いまだ国の世にならぬ先也。()(やう)(じん)にて(ちう)(かち)給ふ也。」

 

とある。「譲畔而(じょうはんじ)(こう)」の出典は『史記』周だという。

 碁を観戦している人が、黒が勝ったのを見て、やはり文王の「(くろ)」の方が勝つな、と薀蓄を垂れたのだろう。文王の故事は日本の庶民の間でも広く知られていた。

 

無季。「民」は人倫。

 

二十八句目

 

   文王の世や民にてもしらるらん

 しやれたるほねをとりかくしつつ

 (文王の世や民にてもしらるらんしやれたるほねをとりかくしつつ)

 

 「しゃれたるほね」はしゃれこうべのこと。

 『連歌俳諧集』の注に、「周の文王が霊台を治めて死人の骨を得、五太夫の礼をもって葬ったという故事。『淮南子(えなんじ)人間(じんかん)(くん)にある。」とある。

 「文王」の名が出てしまい、展開が重くなる所だが、文王の別の故事で切り抜ける。

 貞徳自注に、

 

 「曠野にある白骨を見たまふに、我国(わがくに)の民は我子(わがこ)と同じとてとりをさめ給ふ也。」

 

とある。

 

無季。

 

二十九句目

 

   しやれたるほねをとりかくしつつ

 あらをしや家に(つたふ)(まひ)あふぎ

 (あらをしや家に伝る舞あふぎしやれたるほねをとりかくしつつ)

 

 前句の「しゃれたるほね」をしゃれこうべではなく「洒落たる骨」とし、扇の骨とする。「とりかくしつつ」を盗って隠したとする。

 貞徳自注に、

 

 「とりかくすは人のぬすみたるなり。」

 

とある。

 

無季。

 

三十句目

 

   あらをしや家に伝る舞あふぎ

 あるる(ねずみ)をにくむ(かう)わか

 (あらをしや家に伝る舞あふぎあるる鼠をにくむ幸わか)

 

 「あるる」は「荒るる」で荒ぶるに同じ。「幸わか」は(こう)(わか)(まい)の役者のこと。ウィキペディアには、

 

 「幸若舞は、中世から近世にかけて、能と並んで武家達に愛好された芸能であり、武士の華やかにしてかつ哀しい物語を主題にしたものが多く、これが共鳴を得たことから隆盛を誇った。一ノ谷の戦いの平敦盛と熊谷直実に取材した『敦盛』は特に好まれた。」

 

とある。幸若舞にはいくつもの流派があり、それぞれ代々伝わる扇があったのだろう。それを鼠に食われてしまったのではしょうがない。

 貞徳自注に、

 

 「前句の舞、(あそび)(まひ)たるにより幸若同意ならず。」

 

とある。前句の扇は舞うときにひろげる普通の扇だが、幸若舞の扇は拍子を取るための張扇なので、前句と違えている。このあたりも輪廻を避けて、より大きな展開を図るための工夫が見られる。

 

無季。

 

三十一句目

 

   あるる鼠をにくむ幸わか

 浅間(あさま)しし朝倉(あさくら)殿(どの)の乱の前

 (浅間しし朝倉殿の乱の前あるる鼠をにくむ幸わか)

 

 ウィキペディアによれば、

 

 「幸若舞曲を創始したのは、源義家から10代後の桃井播磨守直常の孫(あるいはひ孫 )の桃井直詮で、幼名を幸若丸といったことから「幸若舞」の名が付いたとされる。」

 

だという。

 そしてさらに、

 

 「幸若丸は、やがて足利将軍義政の知遇を得、生国の越前国丹生郡に知行を賜って、生地である法泉寺村に住んでいた。

 こうして桃井幸若丸が、幸若という一座を開き、『幸若家』を起こしたものが、越前幸若流、あるいは幸若の正統などと呼ばれる。」

 

とある。

 そしてウィキペディアの「幸若遺跡庭園」の項によれば、

 

 「直詮の子孫は、越前国丹生郡西田中(現在の福井県丹生郡越前町西田中)に住み、越前国朝倉氏の庇護を受け、織田信長や豊臣秀吉からも知行を与えられ、江戸時代には徳川家の保護を受けていた。」

 

だという。

 ここに幸若舞と朝倉氏のつながりがある。

 「乱の前」というのは朝倉氏と浅井氏がともに織田信長に反旗を翻して戦った「姉川の戦い」などを指すものであろう。

 このときはまだ貞徳は生まれてなかったが、後に秀吉に仕えた時、朝倉義景の名はいろいろな形で聞かされたことだろう。

 幸若家のほうはその後も信長・秀吉・家康によって保護され幕末まで続いたという。幸若舞というと織田信長の『敦盛』は有名で、大河ドラマなどでも必ずこれを舞うシーンがあったりする。

 この句にも貞徳の自注はない。十句目と同様、貞徳が秀吉に仕えていた過去に関わる句だからだろうか。

 

無季。

 

三十二句目

 

   浅間しし朝倉殿の乱の前

 木のまるはぎにはく(ふぢ)(ばかま)

 (浅間しし朝倉殿の乱の前木のまるはぎにはく藤袴)

 

 これは新古今集の、

 

   題しらず

 朝倉や木の(まろ)殿(どの)に我がをれば

     名のりをしつつ行くは()が子ぞ

                 天智天皇

 

による付け。前句の「朝倉殿」を古代の筑前朝倉の木の丸殿に取り成す。

 斉明天皇の木の丸殿がその後どうなったのかはよくわからないが、荒れ果てる前は木の皮を丸剥ぎにした丸太で作られた簡素な殿舎に、藤袴が植えられていたことだろう、と付ける。

 藤袴は香料として用いられたので、高貴な女性の匂いでもある。

 貞徳自注には、

 

 「天智天皇の御製(ぎょせい)の詞をかるなり。」

 

とのみある。

 

季語は「藤袴」で秋、植物、草類。

 

三十三句目

 

   木のまるはぎにはく藤袴

 秋山のしばにんにくの()(にほ)

 (秋山のしばにんにくの実の匂い木のまるはぎにはく藤袴)

 

 前句の木を秋山の柴の草庵のこととし、丸剥ぎをにんにくの実のこととする。

 肉食をほとんどしない昔の日本人にとって、にんにくは食用というよりは薬用だった。旧暦六月頃が収穫期で、江戸後期の曲亭馬琴編の『増補 俳諧歳時記(しおり)(ぐさ)』では夏の季語になっているが、貞徳の『俳諧(はいかい)御傘(ごさん)』には見られないので、この時代は無季でいいのだろう。

 粗末な庵に丸剥ぎにしたにんにくの匂いもここでは藤袴だという、一種の貧乏自慢か。

 にんにくの匂いというと『源氏物語』帚木巻の藤式部の丞の話も思い浮かぶ。あれは紫式部自身の自虐ネタか。

 貞徳自注には、

 

 「秋山柴にて木の字を付、丸はぎはにんにくの実の皮をとるゆゑなり。」

 

とある。

 

季語は「秋山」で秋、山類。

 

三十四句目

 

   秋山のしばにんにくの実の匂い

 いろ(いろ)(どり)(しる)のすひくち

 (秋山のしばにんにくの実の匂いいろ色鳥の汁のすひくち)

 

 「すひくち」は汁物にもちいる薬味のことで、コトバンクの「世界大百科事典内の吸(い)口の言及」には、

 

 「ショウガ,ワサビ,からし,サンショウ,コショウ,ユズ,ネギ,アサツキ,ミツバ,ミョウガ,タデ,シソ,セリ,ウド,ダイコンおろし,ノリ,七味唐辛子などが多用される。汁物に浮かせるユズなどはふつう吸口(すいくち)と呼ぶが,古くは〈こうとう(鴨頭,香頭)〉と呼ばれた。青柚(あおゆ)の皮が汁に浮いているさまが,水中の鴨(かも)の頭のように見えるためだと,《貞丈雑記》は記している。

 

とある。野鳥の汁などは臭みが強いためにんにくを用いることもあったのだろう。

 肉食だから草庵ではなく、武家の別邸だろうか。

 貞徳自注には、

 

 「いろとりは秋の季、すいひくちはにんにく。」

 

とある。『俳諧御傘』に「秋也。色々わたる小鳥をいふ」とある。

 

季語は「いろ鳥」で秋、鳥類

 

三十五句目

 

   いろ色鳥の汁のすひくち

 下戸(げこ)上戸(じゃうご)日の(くれ)よりも月見して

 (下戸上戸日の暮よりも月見していろ色鳥の汁のすひくち)

 

 秋が二句続いた所で月の定座(じょうざ)になる。鳥の汁が出たところでお月見の宴となる。

 貞徳自注に、

 

 「日のくれは(とり)(こく)也。」

 

とある。貞門ではこうした「いろいろ鳥の」と「酉の」を掛詞にするような緊密な付けが要求された。

 談林なら単なる付け合いで良しとし、蕉門では匂いだけで良しと疎句付けへと流れていった。ただその後は疎句付けが行き過ぎて、かえって句をわかりにくくし、付いているか付いていないかもはや素人にはわからぬ世界になり、連句の衰退に繋がっていった可能性もある。近代に至っては単なる連想ゲームになった。

 

季語は「月見」で秋、夜分、天象。

 

三十六句目

 

   下戸上戸日の暮よりも月見して

 (うた)にはよらぬ人の貧福

 (下戸上戸日の暮よりも月見して哥にはよらぬ人の貧福)

 

 花見なら寺社などの花の下に貴賎(きせん)群衆(くんじゅ)集まってというところだが、月見の宴は大体屋敷の中で行われるもので、金持ちには金持ちの集まりがあって貧乏人は貧乏人の集まりがあってではなかったかと思う。

 そのなかで一流の大名でも歌の下手なのもいれば、貞徳門に集まる京都の庶民の中にも歌に秀でた者もいる、それが「哥にはよらぬ人の貧福」で、(ちまた)の門人達に胸を張っていいんだぞ、というメッセージではなかったかと思う。

 貞徳自注に、

 

 「世の諺に、貧福下戸上戸といひつづくるなり。」

 

とある。「貧福下戸上戸」は慣用句だったようだ。

 

無季。「人」は人倫。

二裏

三十七句目

 

   哥にはよらぬ人の貧福

 観音(くわんおん)(うら)当座(たうざ)の用ならん

 (観音の占や当座の用ならん哥にはよらぬ人の貧福)

 

 観音(かんのん)(くじ)に関しては『連歌俳諧集』の注に、

 

 「古来最も広く行われているもので、第一より第百までの番号をつけた竹の札を、御籤箱から一つ抜き出し、観音堂内に掲げてある百首の和歌と対照して自分で判断し、あるいは寺僧に頼んで判断してもらう。鎌倉時代に中国より伝来。」

 

とある。

 今日のおみくじにも、大吉だとか凶だとか「待ち人来たる」とかだけではなく、和歌も書いてある。あまりちゃんと読む人はいないようだが、観音籤から今日に引き継がれているのだろう。一から百までの番号もおみくじに書いてある。場所によっては御神籤(おみくじ)箱から棒を一本引いて、そこに記された番号のおみくじを引き出しから出すところもある。

 歌は書いてあっても、占いは当たるも八卦当たらぬも八卦で、縁起の良い歌が出たからといって裕福になれるとは限らないし、不吉な歌だからといって貧しくなるわけでもない。おみくじはその場の気休めというか、昔の言葉なら「当座の用」というところだ。

 貞徳自注に、

 

 「くわんおんのうらとて、哥にてする也。」

 

とある。

 

無季。釈教。

 

三十八句目

 

   観音の占や当座の用ならん

 清水坂(きよみづざか)(つじ)にまつ袖

 (観音の占や当座の用ならん清水坂の辻にまつ袖)

 

 貞徳自注には、

 

 「辻占(つじうら)と付たり。」

 

とある。

 「辻占(つじうら)」の本来の意味は、ウィキペディアにあるように、

 

 「元々の辻占は、夕方に辻(交叉点)に立って、通りすがりの人々が話す言葉の内容を元に占うものであった。この辻占は万葉集などの古典にも登場する。」

 

というものだった。だた、同じくウィキペディアには、

 

 「江戸時代には、辻に子供が立って御籤(これも一種の占いである)を売るようになり、これも辻占と呼んだ。前述の辻占とは独立に発生したもので、直接の関係はない。さらに、辻占で売られるような御籤を煎餅に入れた辻占煎餅(フォーチュン・クッキーはここから派生したもの)が作られ、これのことも辻占と呼んだ。」

 

とある。これは多分もう少し後のことだろう。

 コトバンクの「精選版 日本国語大辞典の解説」には、

 

 「黄楊(つげ)の櫛を持って四辻に立ち、道祖神に祈って歌を三遍唱え、最初に通りかかった人の言葉によって吉凶を判断したこと。黄楊の小櫛。〔文明本節用集(室町中)〕

 ※浮世草子・好色一代男(1682)四「辺を見れば黄楊の水櫛落てげり。あぶら嗅きは女の手馴し念記ぞ、是にて、辻占(ツヂウラ)をきく事もがなと」

 

という西鶴の小説にも出てくるくらいだから、江戸前期ではこうした辻占が行われていたと思われる。

 辻占をすると言って櫛を持って出かけていったが、それはあくまでも口実で、実際には逢引をしてたというわけだ。

 

無季。恋。「清水坂」は名所。

 

三十九句目

 

   清水坂の辻にまつ袖

 かつたゐにうはなり(うち)をあつらへて

 (かつたゐにうはなり打をあつらへて清水坂の辻にまつ袖)

 

 「かつたゐ」は「かたゐ(乞食)」のこと。托鉢僧や祝言を述べて米や金銭を貰うものも、ここに含まれた。ここでいう「かつたゐ」もそういう職業的なものだったのかもしれない。

 「うはなり打(後妻打)」はコトバンクの「精選版 日本国語大辞典の解説」に、

 

 「室町時代から江戸期にかけての民間習俗。夫が後妻をめとったとき、離別された先妻がその親しい女たちをたのみ、使者をたてて予告し、後妻の家を襲い、家財などを打ちあらさせたこと。相当打ち。騒動打ち。」

 

とある。金払って職業的な乞食身分の者を雇うこともあったのだろう。

 なお、この句には自注がない。

 

無季。恋。「かつたゐ」は人倫。

 

四十句目

 

   かつたゐにうはなり打をあつらへて

 ぬれるうるしにまくる小鼓

 (かつたゐにうはなり打をあつらへてぬれるうるしにまくる小鼓)

 

 この句は倒置で「小鼓に塗れる漆にまくる(かぶれる)」という意味。

 貞徳自注には、

 

 「小つづみぬれば、うるしにまくるといふ句作なり。」

 

とある。

 後妻を貰ってうはなり打ちに逢うことを、自分で塗った漆に自分でかぶれた(自業自得)とする。

 

無季。

 

四十一句目

 

   ぬれるうるしにまくる小鼓

 新敷(あたらしき)烏帽子(えぼし)をきねばかなはぬか

 (新敷烏帽子をきねばかなはぬかぬれるうるしにまくる小鼓)

 

 『連歌俳諧集』の注には、

 

 「中世から近世初期にかけての武家の元服には、加冠の役(烏帽子親)と理髪の役があり、理髪の役が童子の髪の先を紙にくるんで切ると、烏帽子親が新調の烏帽子をかぶせ、それがおわると祝宴となり、一座の者が鼓拍子などで舞った。なお烏帽子は漆で塗り固める。」

 

とある。多分これでいいのだろう。

 新しい烏帽子を着ればこれにかなう物はない。漆を塗った烏帽子には小鼓も負ける。

 「新敷(あたらしき)」の(しき)は当て字なのだが、漢文でも日本では熟語のように用いたりする。

 この句にも自注はない。

 

無季。

 

四十二句目

 

   新敷烏帽子をきねばかなはぬか

 童部(わらべ)()ばかり人ぞ(よび)ぬる

 (新敷烏帽子をきねばかなはぬか童部名ばかり人ぞ呼ぬる)

 

 前句の「きぬ」の「ぬ」を完了ではなく否定の「ぬ」とする。烏帽子がなければ大人に見えず、みんなつい幼名でよんでしまう。

 この句にも自注はない。

 

無季。「人」は人倫。

 

四十三句目

 

   童部名ばかり人ぞ呼ぬる

 死に(いる)(さだめ)ておとなことならん

 (死に入や定ておとなことならん童部名ばかり人ぞ呼ぬる)

 

 死んだ時にはついつい呼びなれた幼名を連呼してしまうというのは、成人して名を変える習慣のあった時代のあるあるだったのだろうか。

 まあ、特に親にとっては大きくなってもやはり子供の頃のイメージが焼きついていて、ついつい子供の頃の呼び方をしてしまうのだろう。

 また、成人しても本名で呼ばれることは少なく、通称がいくつもあったのも確かだろう。

 芭蕉の親が生きていたなら、「金作!金作!」てなったのだろうか。

 貞徳自注には、

 

 「人の(しし)たるとき(よび)かへす事。」

 

とある。

 古代には「魂よばひ」という儀式があったが、この時代にあったかどうかはよくわからない。むしろ『楚辞(そじ)』の「招魂(しょうこん)」のような中国の習慣として認識されていたのではないかと思う。

 靖国神社の前身に当たる東京招魂社の「招魂」も、多分『楚辞』に因んだものだろう。

 

無季。哀傷。

 

四十四句目

 

   死に入や定ておとなことならん

 あたる(つぶて)のあいだてなさよ

 (死に入や定ておとなことならんあたる礫のあいだてなさよ)

 

 「印地(いんじ)打ち」は二手に分かれて(いし)(つぶて)を投げあう遊びで、死者も出る危険な遊びではあるが、かつては広く大人も子供も行っていた。端午の節句などに行われる。

 「あいだてない」はコトバンクの「大辞林 第三版の解説」に、

 

 「( [文] ク あいだてな・し

 〔「あいだちなし」の転か。近世語〕

 ①  思慮・分別を欠いている。抑制がない。

  ・しとも狂気とも笑はば笑へ/浄瑠璃・用明天皇」

 ②  物事の度が過ぎている。途方もない。

  「さてもさても、-・いことを書き入れて置かれたは/狂言記・荷文」

 

とある。

 印地打ちで大の大人が命を落とすなんて、何て分別のないことか、となる。

 貞徳自注には、

 

 「死に(いる)ほどなるつぶては、童部はうつまじきとしる心也。」

 

とある。打越(うちこし)童部(わらべ)から大人の印地打ちに転じる。

 

季語は「礫」で夏。

 

四十五句目

 

   あたる礫のあいだてなさよ

 昼中(ひるなか)によその()()をかつ物か

 (昼中によその木の実をかつ物かあたる礫のあいだてなさよ)

 

 「かつ」はweblio古語辞典の「学研全訳古語辞典」に、

 

 「①(勝負などに)勝つ。

 出典徒然草 一三〇

 「勝負を好む人は、かちて興あらんためなり」

 [] 勝負ごとを好む人は、勝っておもしろがろうというためである。

  ②相手よりすぐれている。

  ③(欲望などを)抑える。」

 

とある。『連歌俳諧集』の注には「獲得するの意」とあり、この方が確かに意味が通る。

 前句を石をぶつけて木の実を落とす何て無分別なとし、他所の家の木の実を勝手に取ってはいけないとする。

 この句には自注がない。

 

季語は「木の実」で秋。

 

四十六句目

 

   昼中によその木の実をかつ物か

 つなげる(さる)にしつけすさまじ

 (昼中によその木の実をかつ物かつなげる猿にしつけすさまじ)

 

 前句を猿への叱責の言葉とすると展開が薄くなる。ここはやはり猿に木の実を盗ってくるようにしつける悪いやつのこととし、前句の「かつ物か」をあきれてみている様とした方がいい。

 貞徳自注には、

 

 「手飼(てがひ)の猿が木の実をかちとる体也。」

 

とある。

 

季語は「すさまじ」で秋。「猿」は獣類。

 

四十七句目

 

   つなげる猿にしつけすさまじ

 月影に長き刀のしらはとり

 (月影に長き刀のしらはとりつなげる猿にしつけすさまじ)

 

 貞徳自注に、

 

 「さるつかひの長刀といふ事あり。」

 

とある。無用なものの例えとされていた。

 (さる)()きの持っている長刀は何の役に立つのだろうかといろいろ考えているうちに、あれを使って猿を脅して芸をさせているのではと思ったのだろう。それだけでは面白くないので、敵もさるものでその刀を白刃取りすれば面白いかなと、ややシュールなネタになっている。

 ()()は帯刀を許される場合もあったことから、猿曳きも例外的に長刀を持つことが許されていたのだろう。

 

季語は「月影」で秋、夜分、天象。

 

四十八句目

 

   月影に長き刀のしらはとり

 (よる)やいづなの(ほふ)のおこなひ

 (月影に長き刀のしらはとり夜やいづなの法のおこなひ)

 

 貞徳自注に、

 

 「井綱の法、兵者のおこなふよし。」

 

とある。

 「いづなの法」はコトバンクの「いづなつかい【飯綱使い】」の項の「世界大百科事典 第2版の解説」に、

 

 「飯縄使いとも書く。イヅナ(エヅナ)と呼ばれる霊的な小動物を駆使して託宣や占いなどさまざまな法術を行う東日本で活動した民間の宗教者。飯綱使いの法術を〈飯綱の法〉といい,近世では邪術の類とみなされていた。飯綱使いの多くは,修験系の男の宗教者であったが,いたこなどの巫女もこれを用いることがあったらしい。イヅナの語は明らかでないが,信州の飯縄()(いいづな)山はこれと関係があるのではないかと考えられている。」

 

とある。

 飯綱使いといい白刃取りといい、想像上の妖術使いのバトルを思わせる。

 

無季。「夜」は夜分。

 

四十九句目

 

   夜やいづなの法のおこなひ

 からげたる燈心をときてともしけり

 (からげたる燈心をときてともしけり夜やいづなの法のおこなひ)

 

 貞徳自注に、

 

 「井をとうしんと引なす。からぐるにてつなはつくべし。」

 

とある。

 井綱を()(ぐさ)(つな)と引き成し、藺草の燈心をいくつも束ねて綱のようになってたものを解いて火を灯すとする。

 

無季。「ともし」は夜分。

 

五十句目

 

   からげたる燈心をときてともしけり

 くらきにいるる物の本蔵(ほんぐら)

 (からげたる燈心をときてともしけりくらきにいるる物の本蔵)

 

 貞徳自注に、

 

 「からげたるといふを書籍にとりなす。」

 

とある。「からげる」は紐で縛ることで、和綴じ本の紐で綴じることも「からげる」と言ったか。

 

無季。

三表

五十一句目

 

   くらきにいるる物の本蔵

 奥どのを奥でものしりものにして

 (奥どのを奥でものしりものにしてくらきにいるる物の本蔵)

 

 「奥どの」はコトバンクの「精選版 日本国語大辞典の解説」に、

 

 「① 奥のほうにある建物。また、特に酒屋の奥蔵をいう。よい酒が秘蔵されているところ。また、その酒。

 ※御伽草子・酒茶論(古典文庫所収)(室町末)「さすがをくどののふるさけのかたぞこひしき」

  ② 冷やかしの気持をこめて、奥さんの意にいう。

 ※火の柱(1904)〈木下尚江〉四「奥殿(オクドノ)の風雲転(うたた)急なる時」

 

 ②の意味は今日でも奥様、奥方などという言葉に残っているが、貞徳自注に、

 

 「奥といふは房坊の女のかくし名なり。」

 

とあり、元はお寺の奥の部屋で囲われている女のようだった。

 「ものしり」も今日でいう「物知り」の意味ではあるまい。本蔵で物知りになるということと掛けてはいるものの、別の意味もあったと思われる。

 「ものをして」も今日の「ものにする」に近い意味か。『連歌俳諧集』の注には、「房事を行ったの意」とある。

 まあ性交に関することは昔も今も様々な遠まわしな言い方があるが、これもその類か。

 前句の「物の本蔵」に「ものしりものをして」と「もの」が連続するが、同字同音は打越は嫌うが付け句では問題ない。特に上句下句通して調子のよいリズムを生み出すためなら、十分理由がある。和歌でも、

 

 よき人のよしとよく見てよしと言ひし

     吉野よく見よよき人よく見つ

              天武天皇 

 

の例がある。

 

無季。恋。

 

五十二句目

 

   奥どのを奥でものしりものにして

 よき酒にてや(ちご)をたらせる

 (奥どのを奥でものしりものにしてよき酒にてや児をたらせる)

 

 「奥どの」はコトバンクの「精選版 日本国語大辞典の解説」の①に、

 

 「奥のほうにある建物。また、特に酒屋の奥蔵をいう。よい酒が秘蔵されているところ。また、その酒。」

 

とあったように、良い酒が置いてある。これを使って稚児を「たらす」。weblio古語辞典の「学研全訳古語辞典」には、

 

 「まいことを言って人をあざむく。だます。」

 

とある。今日でも「女たらし」という言葉が残っている。

 貞徳自注に、

 

 「酒屋のおくどのとてよきさけあり。」

 

とある。

 

無季。恋。「児」は人倫。

 

五十三句目

 

   よき酒にてや児をたらせる

 鬼なれどしたがへられて大江山(おほえやま)

 (鬼なれどしたがへられて大江山よき酒にてや児をたらせる)

 

 前句の稚児を大江山の酒呑(しゅてん)童子(どうじ)とする。酒呑童子には茨木(いばらき)童子(どうじ)をはじめとして何人もの鬼の配下がいた。酒が好きなことで配下の鬼から酒呑童子と呼ばれていた。

 貞徳自注に、

 

 「(しゅ)(てん)童子(どうじ)と申古事(ふるごと)。」

 

とある。

 

無季。「大江山」は名所、山類。

 

五十四句目

 

   鬼なれどしたがへられて大江山

 (をさま)りかへる御代(みよ)一条(いちでう)

 (鬼なれどしたがへられて大江山治りかへる御代は一条)

 

 酒呑童子の物語は一条天皇の時代に設定されている。

 ウィキペディアに、

 

 「一条天皇の時代は道隆・道長兄弟のもとで藤原氏の権勢が最盛に達し、皇后定子に仕える清少納言、中宮彰子に仕える紫式部・和泉式部らによって平安女流文学が花開いた。」

 

とあるように、平和で文学の栄えた時代だった。

 貞徳自注に、

 

 「一条院の御宇(ぎょう)とかや。」

 

とある。

 前句に「鬼」「大江山」という単語があるが、鬼退治の趣向から離れなくてはならない苦しいところで、他の出典に遁れることもできない。そのため単に一条天皇の時代のことだったと軽く流す。

 

無季。

 

五十五句目

 

   治りかへる御代は一条

 物(つけ)てならぬ座敷の(こと)(だたみ)

 (物着てならぬ座敷の床畳治りかへる御代は一条)

 

 「物」は『連歌俳諧集』の注に「打物(刀・槍の類)の略。」とある。

 「床畳」はweblio辞書の「三省堂 大辞林 第三版」に、「床の間に敷く畳。また、ゆかに敷く畳。」とある。

 床の間はウィキペディアに、

 

 「元来、仏家より出たもので、押板と棚に仏像を置いていたと言われ、これが武家に伝わり仏画や仏具を置く床飾りが広まった。南北朝時代に付書院や違い棚とともに造られ始めた『押板(おしいた)』は、掛け軸をかける壁に置物や陶器などを展示する机を併合させたもので、その用途をそのままに、近世の茶室建築に造られた『上段』が床の間となった。床の間は近世初期の書院造、数寄屋風書院をもって完成とされる。」

 

とある。

 この巻が巻かれたのは桂離宮でいえばまだ古書院の時代だった。数奇屋は数寄の道の部屋で茶室が元になっている。茶室では打物は嫌われた。

 「物着てならぬ座敷」は茶室のことで、その床畳は穏やかに落ち着いたところで(治りかへる)、一畳(一条)というわけだが「御代」が解消されてない。まあ、それくらいはいいというところか。

 貞徳自注には、

 

 「(とこ)だたみは一帖(いちでふ)なるべし。」

 

とある。

 

無季。

 

五十六句目

 

   物着てならぬ座敷の床畳

 まはり花をば小勢(こぜい)にてさせ

 (物着てならぬ座敷の床畳まはり花をば小勢にてさせ)

 

 「まはり花(廻花)」はコトバンクの「精選版 日本国語大辞典の解説」に、

 

 「〘名〙 茶道の七事式の一つ。茶花の修練のために、主客ともに代わるがわる茶花を生ける式。

  ※虎明本狂言・真奪(室町末‐近世初)「此間は立花がはやって、各のまはり花をなさるるが」

 

とある。

 お茶室の床の間では花を生ける。狭い茶室なのでそんな大勢では行わない。

 この花は桜とは限らないが正花として扱われる。花の定座は式目にはないので、表の六句目で花を出してもかまわない。

 この句に貞徳自注はない。

 

季語は「まはり花」で春。

 

五十七句目

 

   まはり花をば小勢にてさせ

 人のせな(うづ)(かすめ)(なみ)(ふね)

 (人のせな渦の霞る浪の舟まはり花をば小勢にてさせ)

 

 前句の「まはり花」を回る浪の花として渦潮を付ける。

 渦潮(うずしお)を見に行く船はそんなに多くの人は乗せられないのか、「人乗せな」といっても乗るのは小勢。

 貞徳自注には、

 

 「人のせなと(いふ)(ことば)俳諧なり。まはるはうづなり。花は浪の花とつくる也。」

 

とある。

 

季語は「霞る」で春、聳物。「人」は人倫。「浪の舟」は水辺。

 

五十八句目

 

   人のせな渦の霞る浪の舟

 松浦(まつら)が事は長閑(のどけ)くもなし

 (人のせな渦の霞る浪の舟松浦が事は長閑くもなし)

 

 謡曲『松浦(まつら)佐用(さよ)(ひめ)』は大槻能楽堂のサイトの「あらすじ」のところに、

 

 「旅僧が松浦潟に着くと、海士乙女が現れて佐用姫と狭手彦との物語を詳しく語る。 海士乙女は僧から袈裟を授かった礼に、狭手彦形見の鏡を見せると約束して姿を消す。 夜もすがら僧の夢の中に佐用姫の霊が現れる。約束の鏡を拝した僧は、そこに狭手彦の姿を見る。 佐用姫の霊は恋慕の執心を嘆き、懺悔に昔の有様狭手彦との別れ、領巾を振って舟を見送った時のこと、形見の鏡を抱いて投身したことを見せる。」

 

とある。投身とは確かに長閑なことではない。

 貞徳自注に、

 

 「新曲の舞にかやうの言葉、心あるかとおぼゆ。」

 

とある。

 

季語は「長閑く」で春。「松浦」は名所、水辺。

 

五十九句目

 

   松浦が事は長閑くもなし

 (いわし)とはいやしきかへ名のいかならむ

 (鰯とはいやしきかへ名のいかならむ松浦が事は長閑くもなし)

 

 貞徳自注に、

 

 「松浦いわし。」

 

とある。松浦鰯はコトバンクの「精選版 日本国語大辞典の解説」に、

 

 「〘名〙 肥前国松浦地方でとれる鰯。塩漬として知られた。〔庭訓往来(13941428頃)〕」

 

とある。

 『連歌俳諧集』の注は『和漢三才図会』鰯の条の「肥前国ノ松浦、丹後ノ由良ノ産、頭略大ニシテ扁ク、亦名ヲ得。」を引用している。

 また、『連歌俳諧集』の注には「室町時代の宮中の女房詞に、鰯の替名を『むらさき』という。」とある。

 上品な名を言わずに「いわし」と呼ぶのはいかがなものか、松浦鰯は長閑ではない、と付く。

 

無季。

 

六十句目

 

   鰯とはいやしきかへ名のいかならむ

 節分(せちぶん)の夜にまゐる(みや)(かた)

 (鰯とはいやしきかへ名のいかならむ節分の夜にまゐる宮方)

 

 鰯といえば節分の夜に鰯の頭を柊の枝に刺して魔除けとする風習があった。

 

 日の光今朝は鰯のかしらより    蕪村

 

の句は、一夜明けて日が刺すので立春の句となる。

 節分の鰯に関しても、宮廷の人からすれば「鰯とはいやしきかへ名のいかならむ」ということになる。

 貞徳自注に、

 

 「鰯を(ひいらぎ)にさす夜なり。宮中(きゅうちゅう)(ことば)つかひ風流なるもの也。」

 

とある。

 

季語は「節分」で冬。「夜」は夜分。「宮方」は人倫。

 

六十一句目

 

   節分の夜にまゐる宮方

 明年(みゃうねん)は神よまもらせおはしませ

 (明年は神よまもらせおはしませ節分の夜にまゐる宮方)

 

 前句の宮方を「神社のほう」の意味にしたか。節分の夜に神社に行き、来年も守らせたまえと祈る。

 この句に貞徳自注はない。

 

無季。神祇。

 

六十二句目

 

   明年は神よまもらせおはしませ

 いつ住吉(すみよし)ぞ名月のかげ

 (明年は神よまもらせおはしませいつ住吉ぞ名月のかげ)

 

 住吉大社は和歌三神(住吉明神・玉津島明神・柿本人麻呂)が祭られていて、古来風流の道と縁が深い。今日では観月祭も行われている。

 『源氏物語』の明石巻では、雷が荒れ狂い高潮が押し寄せる中、住吉社の方角に向って祈ると、翌日には天気が治まる。

 明年は名月が見られなすようにと住吉の神に祈る。

 貞徳自注には、

 

 「八月十五夜くもりければ、住吉の神主とがあるよし侍る。」

 

とある。

 「良し」は記紀万葉の時代には「えし」と読んでいた。そこから吉野は「えしの」、日吉は「ひえ」、住吉は「すみのえ」だった。「えし」が「よし」に変化するようになって、「よしの」「ひよし」「すみよし」となった。

 

季語は「名月」で秋、夜分、天象。神祇。

 

六十三句目

 

   いつ住吉ぞ名月のかげ

 露ほどもあやかり(たき)定家(ていか)にて

 (露ほどもあやかり度は定家にていつ住吉ぞ名月のかげ)

 

 前句の「名月」を定家の『明月記』のこととする。

 貞徳自注には、

 

 「定家は住吉明神示現(じげん)ありて明月記(めいげつき)をしらせり。」

 

とある。

 これに関しては『連歌俳諧集』の注に、『毎月抄(まいげつしょう)』を次の文を引用している。

 

 「去元久比住吉参籠の時、汝月明らかなりと冥の霊夢を感じ侍りしによりて、家風に備へんために明月記を草しをきて侍事、身には過分のわざとぞ思給る。」

 

季語は「露」で秋、降物。

 

六十四句目

 

   露ほどもあやかり度は定家にて

 内親王(ないしんわう)とちぎるいく秋

 (露ほどもあやかり度は定家にて内親王とちぎるいく秋)

 

 定家と式子(しきし)内親王(ないしんのう)との関係は古来様々に推測され、謡曲『定家(ていか)』にもそのことが描かれている。コトバンクの「デジタル大辞泉の解説」には、

 

 「謡曲。三番目物。古くは『定家葛(ていかかずら)』とも。旅僧が京都千本付近のあずまやに雨宿りすると、式子(しきし)内親王の霊が現れ、生前契った定家の執心が葛(かずら)となって墓に絡んでいることを語るが、僧の回向によって成仏する。」

 

とある。

 貞徳自注に、

 

 「式子(しょくし)内親王なり。」

 

とある。式子内親王は「しょくしないしんのう」とも「しきしないしんのう」とも読む。式の字を「しょく」と読むのは漢音で、「しき」は呉音になる。ネットでも両方載っている。

 

 

 季語は「いく秋」で秋。恋。

三裏

六十五句目

 

   内親王とちぎるいく秋

 (まつ)て居るしるしの杉も長月や

 (待て居るしるしの杉も長月や内親王とちぎるいく秋)

 

 貞徳自注には、

 

 「斎宮(さいぐう)(さい)(わう)とも(いひ)て、いづれも女王也。是は六条の御息所(みやすどころ)の源氏とはうくて、御娘と親子のちぎりふかきと恨み給ふ心なり。」

 

とある。

 斎宮はウィキペディアに、

 

 「斎宮(さいぐう/さいくう/いつきのみや/いわいのみや)は、古代から南北朝時代にかけて、伊勢神宮に奉仕した斎王の御所(現在の斎宮跡)であるが、平安時代以降は賀茂神社の斎王(斎院)と区別するため、斎王のことも指した。後者は伊勢斎王や伊勢斎宮とも称する。」

 

とある。本来斎宮は伊勢の斎王の御所のことだったが、斎王のことも斎宮と呼んだ。

 ウィキペディアの斎王の項に、

 

 「斎王(さいおう)または斎皇女(いつきのみこ)は、伊勢神宮または賀茂神社に巫女として奉仕した未婚の内親王(親王宣下を受けた天皇の皇女)または女王(親王宣下を受けていない天皇の皇女、あるいは親王の王女)。厳密には内親王の場合は「斎内親王」、女王の場合は「斎女王」といったが、両者を総称して「斎王」と呼んでいる。」

 

とあるように、前句の内親王を斎王のことと取り成すことが出来る。

 『源氏物語』では六条御息所の娘が内親王であり、斎宮(伊勢の斎王)となる。

 (さか)()巻で六条御息所が娘の斎宮に付き従って伊勢に下る前、斎宮が伊勢下向前の一年間を過ごす野宮(ののみや)に籠っている御息所をひそかに訪ねる時に、

 

 「月ごろのつもりを、つきづきしう聞え給はんも、まばゆきほどに成りにければ、さかきをいささかをりても給へりけるを、さし入れて、かはらぬ色をしるべにてこそ、いがきもこえ侍りにけれ。さも心うくときこえ給へば、

 

 神がきはしるしのすぎもなきものを

  いかにまがへてをれるさかきぞ

 

ときこえ給へば、

 

 をとめこがあたりとおもへばさか木葉の

  かをなつかしみとめてこそをれ

 

おほかたのけはひわづらはしけれど、みすばかりはひききて、なげしにおしかかりてゐ給へり。」

 

という歌のやり取りをする。現代語にすると、

 

 「日頃積もり積もった思いをそれっぽく伝えようにも、この神聖な場にそぐわない状態なので、榊の枝を少々折って携えていたの差し入れ、

 『変わらないという証拠があるからこそ、忌垣の内側にも入れるのですよ。

 それなのに、つれないですね。』

と言うと、

 

 『稲荷社のしるしの杉とまちがえて

     この野の宮の榊折るとは』

 

という歌を詠むのを聞こえたので、源氏の君も歌を返しました。

 

 『神聖な処女はここかと榊葉の

     香りを慕い折ったまでです』

 

 あたりの雰囲気にはそぐわないものの、御簾だけを隔てたまま、源氏の大将は簀子(すのこ)(ひさし)を隔てる長押(なげし)に寄りかかって座ってました。」

 

といったところか。

 「しるしの杉」はコトバンクの「デジタル大辞泉の解説」に、

 

 「伏見の稲荷神社にある神木の杉。参詣者がその枝を折って帰り、久しく枯れなければ願いが成就するとされた。」

 

とある。源氏の君が榊の枝を折って神聖な野宮に入ろうとするのを見て、ここは伏見稲荷ではありませんよとたしなめるわけだが、そこは御息所も心の中では源氏の君が来るのを待っていたのか、そのあと、

 

 おもほしのこすことなき御なからひに、きこえかはし給ふことども、まねびやらんかたなし。

 (いろいろなことがありすぎた二人の間にこのあと一体何があったのか、それはここで再現するわけにはいきません。)

 

という展開になる。昔はこういう遠回しな言い回しをした。

 その御息所の気持ちを源氏の君が「待て居るしるしの杉も長月や」と問いかける句にして、前句の「内親王とちぎる」に付ける。ただ正確には内親王の母とちぎる、だが。

 「居る」は「折る」、「長い」と「長月」が掛詞になる。手の込んだ付け方で、これぞ貞門の真髄ともいえよう。

 

季語は「長月」で秋。恋。「杉」は植物、木類。

 

六十六句目

 

   待て居るしるしの杉も長月や

 (をり)()せかし(この)(きく)のやど

 (待て居るしるしの杉も長月や折を出せかし此菊のやど)

 

 貞徳自注には、

 

 「杉折(すぎをり)(とり)なすなり。」

 

とある。「杉折」はコトバンクの「精選版 日本国語大辞典の解説」には、

 

 「〘名〙 杉材の薄い板(へぎ板)で作った四角の小箱。菓子、料理などを入れるのに用いた。折箱(おりばこ)

  ※俳諧・誹諧独吟集(1666)下「ひえ坂来るは京衆なるらし 提重(さげぢゅう)に峯の杉折持添て」

 

とある。

 「菊の宿」はコトバンクの「精選版 日本国語大辞典の解説」に、

 

 「菊の花の咲いている家。《季・秋》

  ※俳諧・崑山集(1651)一一「酒の朋遠方よりやきくの宿〈貞徳〉」

 

とある。

 長月九日は重陽(ちょうよう)で杉折の箱に入った料理を今か今かと待っている。

 

季語は「菊」で秋、植物、草類。

 

六十七句目

 

   折を出せかし此菊のやど

 見るもただ大盃(おほさかづき)はくるしきに

 (見るもただ大盃はくるしきに折を出せかし此菊のやど)

 

 貞徳自注には、

 

 「当世おりべ盃とてあり。一と略の(ことば)、これを近来の事ながら天下通用にしていふより取用(とりもち)ゆ。是俳諧の徳也。さりながらちかき事は大方せぬ事也。(よく)分別すべし。」

 

とある。

 「織部(おりべ)(さかずき)」はコトバンクの「大辞林 第三版の解説」に、

 

 「非常に浅くて開いた形の杯。古田織部の創製という織部焼の杯。おりべ。」

 

とある。

 重陽には菊花酒を飲む習慣があり、

 

   九月九日、乙州が一樽をたずさへ来たりけるに

 草の戸や日暮れてくれし菊の酒    芭蕉

 

という元禄四年の句もある。

 ただ大盃で出されると、大酒飲みには嬉しいが、酒に弱い人には苦しい。せめて織部盃にしてくれ、というわけだ。

 菊花酒はウィキペディアによれば、

 

 「江戸時代の『本朝食鑑』には二種類の製造法が紹介されている。

 一つ目は、菊の花びらを浸した水で仕込みをすると言うもので、有名な加賀の菊酒はこの製法で作る。

 二つ目は、「菊花を用いて、焼酎中に浸し、数日を経て煎沸し、甕中に収め貯え、氷糖を入れ数日にし成る。肥後侯之を四方に錢る 倶に謂ふ目を明にし頭病を癒し 風及婦人の血風を法ると」『本朝食鑑』とあり、現在梅酒などを造る時の要領で、氷砂糖と一緒に寝かせた菊の花びらを焼酎に漬け込むもの。眼病や婦人病に効果があると、江戸時代に広く薬酒として愛された。

 そのほか、原料となる米に菊の花の香りを移すものなど、諸説ある。」

 

とあり、どれが一番一般的だったかはよくわからないが、芭蕉が飲んだのは樽でいただいたものだから、菊の花びらを浸した水で仕込んだ方のものか。延宝の頃の句にも、

 

盃の下ゆく菊や朽木(くつき)(ぼん)     芭蕉

 

という、盃に入っている菊の花びらが朽木盆の菊の模様みたいだ、という句がある。朽木盆は近江国の朽木で作られる黒塗りに朱漆の漆の盆で、十六菊紋の模様の物が多かった。

 

無季。

 

六十八句目

 

   見るもただ大盃はくるしきに

 かつやうにせん弓の射こくら

 (見るもただ大盃はくるしきにかつやうにせん弓の射こくら)

 

 貞徳自注には、

 

 「是はから国に、弓にまけたるものには大さかづきにて酒のまする事あり。」

 

とある。

 『連歌俳諧集』の注はこれを投壺のこととしている。投壺はウィキペディアに、

 

 「投壺(とうこ)は、中国の宴会の余興用のゲームである。壺(通常は金属製)に向かって矢(実際には木の棒)を投げ入れるゲームで、原理的には輪投げやダーツに近い。

 非常に古い伝統のあるゲームであり、本来は負けた側が罰杯を飲まなければならないものであった。

 現在は主に大韓民国で行われている。」

 

とある。確かにネットで見たら韓国伝統玩具としてトゥホ(投壺)セットというのが売ってた。矢の先はゴムになっている。

 ただ、日本では古代にはあったけど廃れてしまった遊びなので、矢を投げるのではなく弓を使うと勘違いしていたのか、「弓の射こくら」になっている。あるいは、日本では弓を使う方に独自に発展してたのかもしれない。

 

無季。

 

六十九句目

 

   かつやうにせん弓の射こくら

 うしろよりまゐりて拝む堂の前

 (うしろよりまゐりて拝む堂の前かつやうにせん弓の射こくら)

 

 貞徳自注には、

 

 「三十三間の堂の体なり。ほとけへの祈念の体なり。」

 

とある。

 京都の蓮華(れんげ)王院(おういん)の三十三間堂は121メートルの長さで古くから通し矢が行われていた。

 ウィキペディアによれば、

 

 「保元の乱の頃(1156年頃)に熊野の蕪坂源太という者が三十三間堂の軒下を根矢(実戦用の矢)で射通したのに始まるともいわれるが、伝説の域を出ない。実際には天正年間頃から流行したとされ、それを裏付けるように文禄4年(1595年)には豊臣秀次が「山城三十三間堂に射術を試むるを禁ず」とする禁令を出している。なお秀次自身も弓術を好み、通し矢を試みたともいう。この頃はまだ射通した矢数を競ってはいなかったようである。

 通し矢の記録を記した『年代矢数帳』(慶安4年〈1651年〉序刊)に明確な記録が残るのは慶長11年(1606年)の朝岡平兵衛が最初である。平兵衛は清洲藩主松平忠吉の家臣で日置流竹林派の石堂竹林坊如成の弟子であり、この年の119日、京都三十三間堂で100本中51本を射通し天下一の名を博した。以後射通した矢数を競うようになり、新記録達成者は天下一を称した。多くの射手が記録に挑んだが、実施には多額の費用(千両という。)が掛かったため藩の援助が必須だった。

 寛永年間以降は尾張藩と紀州藩の一騎討ちの様相を呈し、次々に記録が更新された。寛文9年(1669年)52日には尾張藩士の星野茂則(勘左衛門)が総矢数10,542本中通し矢8,000本で天下一となった。貞享3年(1686年)427日には紀州藩の和佐範遠(大八郎)が総矢数13,053本中通し矢8,133本で天下一となった。これが現在までの最高記録である。その後大矢数に挑む者は徐々に減少し、18世紀中期以降はほとんど行われなくなった。ただし千射種目等は幕末まで行われている。」

 

 「保元の乱の頃」というのが伝説だというのは、当時の弓の性能では困難で、『奥の細道道祖神の旅』を書いた時に那須与一のことで調べた時には、この頃、それまでの梓や檀の木でできた弓(梓弓、真弓)竹で補強したあわせ弓が登場し、それまでの弓の射程が十五メートルくらいだったところを、那須与一は六十メートルの遠射を行ったという話だったが、三十三間堂はその倍もある。

 戦国末期には射程が更に伸び、それによって三十三間堂の射通しを試みる人が現れ、江戸時代初期には藩対抗の競技会の様相を呈するようになった。貞徳の時代はまさにその華やかなる時代だった。

 通し矢は三十三間堂の千体の千手観音の背中側、つまり西側で行われていた。(三十三間堂の千手観音は千一体で一体だけ反対側にある。)それを「うしろよりまゐりて」としたか。

 

無季。釈教。

 

七十句目

 

   うしろよりまゐりて拝む堂の前

 (しゅう)に先だち腹やきるらむ

 (うしろよりまゐりて拝む堂の前主に先だち腹やきるらむ)

 

 貞徳自注には、

 

 「主君のうしろより先いづるよしなり。」

 

とある。

 普通は主君が切腹すると臣下の者がその後を追うのではないかと思う。主君より先に切腹するというのはどういうことか。まあ、それが後ろから堂を拝むようなもの、ということか。

 

無季。「主」は人倫。

 

七十一句目

 

   主に先だち腹やきるらむ

 鎌倉(かまくら)の海道遠きさめがゐに

 (鎌倉の海道遠きさめがゐに主に先だち腹やきるらむ)

 

 貞徳自注には、

 

 「太平記にあり。北条(ほうでう)殿(どの)よりも六波(ろくは)()の没落は先なり。」

 

とある。

 (さめが)()は彦根と関が原の間にある中山道の宿場。

 北条殿はここでは北条(ほうじょう)(なか)(とき)のことで、ウィキペディアによれば、

 

 「元弘3/正慶2年(1333年)5月、後醍醐天皇の綸旨を受けて挙兵に応じた足利尊氏(高氏)や赤松則村らに六波羅を攻められて落とされると、57日に六波羅探題南方の北条時益とともに、光厳天皇・後伏見上皇・花園上皇を伴って東国へ落ち延びようとしたが、道中の近江国(滋賀県)で野伏に襲われて時益は討死し、仲時は同国番場峠(滋賀県米原市)で再び野伏に襲われ、さらには佐々木道誉の軍勢に行く手を阻まれ、やむなく番場の蓮華寺に至り天皇と上皇の玉輦を移した後に、本堂前で一族432人と共に自刃した。享年28。」

 

とある。

 

無季。「鎌倉」は名所。

 

七十二句目

 

   鎌倉の海道遠きさめがゐに

 おとす尺八(しゃくはち)何としてまし

 (鎌倉の海道遠きさめがゐにおとす尺八何としてまし)

 

 貞徳自注には、

 

 「尺八の手に海道下りと(いふ)事あり。又(さめが)()にて西行(さいぎゃう)おとしごと云事あり。」

 

とある。

 「旧街道ウォーキング 人力」のサイトによると、醒ヶ井宿には泡子塚というのがあり、

 

 「西行法師東遊でこの泉で休憩したところ、茶店の娘が西行に恋をし、西行の立った後に飲み残しの茶の泡を飲むと、不思議にも懐妊し、男子を出産した。その後関東からの帰途でまたこの茶店で休憩したとき、娘よりことの一部始終を聞いた法師は、

 

 水上は清き流れの醒井に

     浮世の垢をすすぎてやみん

 

と詠むと、児はたちまち消えて、もとの泡になったという伝説が残っている。」

 

という伝説があるという。これが「西行おとしご」であろう。

 ただここでは西行に隠し子があったとかそういう話にはせずに、「おとす」を「音す」に掛けて、「海道下り」を一節(ひとよ)(ぎり)尺八の曲に掛けている。

 一節(ひとよ)(ぎり)は尺八よりも古くからあり尺八の前身と言われている。「海道下り」は後に一節切唱歌になり、寛文四年(一六六四)の『糸竹(しちく)初心集(しょしんしゅう)』に収められている。

 

   海道くだり

 おもおしいいろの、かいどくたりやああ、なにとかたあるとつうきいせじ、かもがあはあしらかは、ううちわあたり、いい、おもふひとにはあああはたぐちとよをを、しのみやあがはあらやあ、じうぜえんじせきやあまあさんりを、ううちすうぎてええ、ひとまづうもををとにい、つうくうとの

 これより末、尺八吹きやう同前なり

 

無季。

 

七十三句目

 

   おとす尺八何としてまし

 礼をなす沙門(しゃもん)公家(くげ)も手すくみて

 (礼をなす沙門も公家も手すくみておとす尺八何としてまし)

 

 貞徳自注に、

 

 「尺八を公家の(しゃく)と沙門の躰にとりなすなり。」

 

とある。

 躰(体)は鉢の間違いだろう。

 前句を「おとす笏・鉢」として、手がすくんで公家は笏、沙門は鉢を落とすとする。

 

無季。「沙門」「公家」は人倫。

 

七十四句目

 

   礼をなす沙門も公家も手すくみて

 仏名(ぶつみゃう)の夜ぞいかうあれける

 (礼をなす沙門も公家も手すくみて仏名の夜ぞいかうあれける)

 

 貞徳自注に、

 

 「師走(しはす)内裏(だいり)にて仏名をよませらるる事あり。」

 

とある。

 仏名の夜は仏名会(ぶつみょうえ)のこと。コトバンクの「ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典の解説」に、

 

 「『仏名経』 (12) を読誦する法会。陰暦 12 19日から3日間,清涼殿や諸国の寺院で行われた。56世紀の中国で種々の仏名経典が翻訳,編集されたが,菩提流支の訳した『仏名経』には1 1093の仏陀,菩薩の名前が列挙されている。」

 

とある。

 沙門も公家も手がすくむのは、寒さのせいだった。ただでさえ寒い師走の夜に吹雪いたりしたら、手がかじかんで動かなくなるのも仕方ない。

 

季語は「仏名」で冬。釈教。「夜」は夜分。

 

七十五句目

 

   仏名の夜ぞいかうあれける

 障碍(しゃうげ)をや師走(しはす)の月の天狗共(てんぐども)

 (障碍をや師走の月の天狗共仏名の夜ぞいかうあれける)

 

 「障碍(しゃうげ)」はウィキペディアに、

 

 「仏教用語で、障碍とは、煩悩障と所知障の2つであり、心を覆い隠し悟りを妨げている2つの要素を意味する。」

 

とある。

 仏名会の夜に荒れ狂うのは月に浮かれた天狗だった。これも障碍だろうか。

 貞徳自注に、

 

 「(かん)のあるるを天狗にとりなす也。」

 

とある。

 日本では障害者の「害」がいけないというので、「障碍者」と表記しろという声があるが、「障碍」も邪魔になる、妨げになるという意味なので、たいして変わらないように思える。以前冗談で、いっそのこと「勝凱者」とでもすればかっこいいのではないかと書いたことがあったが。

 英語のhandicapped personでも、帽子を手に持って物乞いをする人が語源なので使うなだとか、a disabled personも無能という意味なので駄目だとか、いろいろあるらしい。

 

季語は「師走の月」で冬、夜分、天象。釈教。

 

七十六句目

 

   障碍をや師走の月の天狗共

 紅粉(べに)に木の葉の(ちり)てまじれる

 (紅粉に木の葉の散てまじれる障碍をや師走の月の天狗共)

 

 貞徳自注に、

 

 「師走紅粉に木の葉天狗といふより(あひ)也。」

 

とある。

 「師走(しわす)(べに)」はジャパンナレッジの「日本国語大辞典」に、

 

 「〔名〕陰暦一二月の寒中に精製した紅。寒紅。*俳諧・崑山集〔1651〕一二冬「冬山に残る紅葉や師走紅粉〈玄?〉」

 

とある。

 「木の葉天狗」はコトバンクの「デジタル大辞泉の解説」に、

 

 「1 威力のない小さい天狗。こっぱてんぐ。

 「いかにたち、疾()う疾う出でられ候へ」〈謡・鞍馬天狗〉

  2 風に舞い散る木の葉を、空を自在に飛び回る天狗にたとえた語。

 「時雨にも化くるはかな」〈鷹筑波・四〉」

 

 江戸中期になると鳥の姿をした独自の妖怪として確立されてゆく。

 ここでは「より合」とあるように、師走に紅粉、天狗に木の葉が付け合いで、言葉の縁で登場させているにすぎない。

 前句の天狗共を天狗風(つむじ風)のことと取り成し、紅葉に普通の木の葉が混ざって吹き上げられている、となる。

 

季語は「木の葉」で冬、植物、木類。

 

七十七句目

 

   紅粉に木の葉の散てまじれる

 もやうよく(そめ)し小袖を龍田(たつた)(がは)

 (もやうよく染し小袖を龍田川紅粉に木の葉の散てまじれる)

 

 前句を小袖の模様とする。「龍田川」はここでは流水に紅葉の葉を散らした模様をいう。

 貞徳自注はない。説明の必要もないというところか。

 

無季。「小袖」は衣裳。「龍田川」は名所、水辺。

 

七十八句目

 

   もやうよく染し小袖を龍田川

 りんきいはねど身をなげんとや

 (もやうよく染し小袖を龍田川りんきいはねど身をなげんとや)

 

 「りんき(悋気)」はやきもちのこと。

 貞徳自注に、

 

 「是は業平(なりひら)(かは)内通(ちがよ)ひの(ころ)(あり)(つね)の娘の身をもなげ用意するかと云様成(いふやうなる)(おもひ)やり也。」

 

とある。

 業平の河内通いは『伊勢物語』二十三段の「(つつ)(いづつ)」でも有名な話で、この筒井筒の女が(きの)(あり)(つね)の娘とされている。

 業平が河内の女のところに通っているのを、有常の娘は嫉妬もせずに、

 

 風吹けば沖つ白波たつた山

     夜半にや君がひとり越ゆらむ

 

きちんと化粧して、けな気にも業平のことを信じて心配している。

 句の方では嫉妬はしないが身投げはすると展開する。本説もそのまんまでなく、少し変えるというのは分かるが、どこから「身投げ」が出てきたのか。

 おそらく、

 

 ちはやぶる神代もきかず竜田川

     からくれなゐに水くくるとは

               在原業平

 

の歌の最後の「水くくるとは」を水でくくり染めにするという元の意味を、水に潜るとした洒落からきたのだと思う。

 この洒落は後に古典落語の「千早振る」にも受け継がれている。

 

無季。恋。「身」は人倫。

名残表

七十九句目

 

   りんきいはねど身をなげんとや

 (わが)よめが男の刀ひんぬいて

 (我よめが男の刀ひんぬいてりんきいはねど身をなげんとや)

 

 前句の「身をなげんとや」を刀の身を投げるとした。昔の女はこえー。

 貞徳自注に、

 

 「身を刀の身になして、男になげつけるとする也。」

 

とある。

 

無季。恋。「我よめ」は人倫。

 

八十句目

 

   我よめが男の刀ひんぬいて

 祝言(しうげん)の夜ぞ(ゑひ)ぐるひする

 (我よめが男の刀ひんぬいて祝言の夜ぞ酔ぐるひする)

 

 結婚式の夜の酒宴での出来事だろう。酔っ払った嫁が刀をひんぬいて、まあ剣の舞くらいだったら笑える。酔狂(よひぐるひ)、読み方を変えれば酔狂(すいきょう)になる。

 この句に貞徳の自注はない。

 

無季。恋。「夜」は夜分。

 

八十一句目

 

   祝言の夜ぞ酔ぐるひする

 生魚(なまうを)夕食(ゆふしょく)(すぎ)精進(しゃうじ)あげ

 (生魚を夕食過て精進あげ祝言の夜ぞ酔ぐるひする)

 

 「精進あげ」はウィキペディアの「精進落とし」のところに、

 

 「精進落とし(しょうじんおとし)とは、寺社巡礼・祭礼・神事など、精進潔斎が必要な行事が終わった後に、肉・酒の摂取や異性との交わりを再開したり、親類に不幸があって通常の食事を断って精進料理を摂っていた人が、四十九日の忌明けに精進料理から通常の食事に戻すことなどを言う。お斎(おとき、おとぎ)、精進明け、精進上げ、精進落ちとも言う。」

 

とある。

 「祝言(しゅうげん)」は結婚式の意味で使われることが多いが、単に祝いの言葉という意味もある。

 何かお目出度いことがあっても精進の必要な期間には避けて、精進あげを待ってからする場合もあったのだろう。

 貞徳自注に、

 

 「生魚にて(ゑひ)ととりなす也。精進あげにて祝言は付べし。」

 

とある。

 前句の「酔ぐるひする」はここでは酒の酔いではなく生魚の酔いに取り成される。

 生魚の酔いは、おそらく寄生虫による中毒のことであろう。サバ、アジ、サンマ、カツオ、イワシ、サケ、イカなどはアニサキス幼虫による中毒がよく知られているが、川魚にも寄生虫は多い。今日ではきちんと衛生管理されたものが流通しているが、昔は刺身で当たることも多かったのではないかと思う。軽い症状で済めば「酔い」ということで済まされたのではないかと思う。

 まあ、精進あげとはいえ、いきなり生魚ではばちも当たるというところか。

 

無季。

 

八十二句目

 

   生魚を夕食過て精進あげ

 寺のかへさに(よぶ)やあみ(ひき)

 (生魚を夕食過て精進あげ寺のかへさに呼やあみ引)

 

 貞徳自注に、

 

 「難波寺なり。万葉(まんえふ)に大宮の内まできこゆと(いふ)歌もあれば、海士(あま)のよび声に(なる)べし。」

 

とある。

 『連歌俳諧集』の注は、

 

 大宮の内まで聞こゆ網引(あびき)すと

     網子(あこ)ととのふる海人(あま)の呼び声

              長忌(ながのいみ)(きの)()()麻呂(まろ)

 

の歌を引用している。

 

無季。

 

八十三句目

 

   寺のかへさに呼やあみ引

 難波(なには)()のさきに亀井(かめゐ)の水をみて

 (難波江のさきに亀井の水をみて寺のかへさに呼やあみ引)

 

 前句の寺を四天王寺として、四天王寺の亀井堂を見てから難波江に行くとする。亀井堂は四天王寺のホームページに、

 

 「亀井堂の霊水は金堂の地下より、湧きいずる白石玉出の水であり、 回向(供養)を済ませた経木を流せば極楽往生が叶うといわれています。

 東西桁行は四間あり、西側を亀井の間と読んでいます。東側は影向の間と呼ばれ、左右に馬頭観音と地蔵菩薩があります。中央には、その昔聖徳太子が井戸にお姿を映され、楊枝で自画像を描かれたという楊枝の御影が安置されています。」

 

とある。

 なお、この句には貞徳の自注はない。

 

無季。「難波江」は名所、水辺。

 

八十四句目

 

   難波江のさきに亀井の水をみて

 こと浦までも月の遊覧(いうらん)

 (難波江のさきに亀井の水をみてこと浦までも月の遊覧)

 

 貞徳自注に、

 

 「こと浦も名所なり。」

 

とある。

 こと浦は琴浦とも異浦とも書く。尼崎の(よも)(がわ)の河口付近の浜で、近くに琴浦神社がある。

 

 忘しな難波の秋の夜はの空

     こと浦にすむ月はみるとも

             ()秋門院(しゅうもんいんの)丹後(たんご)(新古今集)

 

の歌がある。

 

季語は「月」で秋、夜分、天象。「こと浦」は名所、水辺。

 

八十五句目

 

   こと浦までも月の遊覧

 秋は(ただ)白き衣裳(いしゃう)(おもて)ぎに

 (秋は唯白き衣裳を表ぎにこと浦までも月の遊覧)

 

 貞徳自注には、

 

 「月見のしやうぞくをうら(おもて)白くしたる也。」

 

とある。

 月見のときに実際何か決まった服装があったのかどうかはよくわからない。白装束というと、神仏に仕えたり、花嫁衣裳だったり、死んだ人の着るものだったり、いずれにせよ日常とは違う何か意味合いがあったのだろう。

 加えて、五行説では秋は白になる。青春・朱夏・白秋・玄冬、そして各々の季節の土用が黄色になる。

 

季語は「秋」で秋。「衣裳」は衣裳。

 

八十六句目

 

   秋は唯白き衣裳を表ぎに

 いそぐよめりときくや重陽(ちゃうやう)

 (秋は唯白き衣裳を表ぎにいそぐよめりときくや重陽)

 

 前句の白装束を花嫁の衣裳とする。「よめり」は「よめいり」の縮まったもの。

 「きくや」は「聞くや」と「菊や」に掛けている。菊から菊の節句の重陽につながる。

 貞徳自注には、

 

 「よめいりには白きしやうぞくさだまり也。」

 

とある。

 

季語は「重陽」で秋。恋。

 

八十七句目

 

   いそぐよめりときくや重陽

 たのめたるたのもの(ころ)もつい(たっ)

 (たのめたるたのもの比もつい立ていそぐよめりときくや重陽)

 

 貞徳自注に、

 

 「たのむの(つい)(たち)(ころ)とやくそくしたるよめいりも、延引(えんいん)してとのけたり。」

 

とある。

 「たのむ」は田実(たのむ)の祝いのことで、コトバンクの「精選版 日本国語大辞典の解説」に、

 

 「① 陰暦八月一日に、新穀の初穂を田の神に供える穂掛けの儀式。また新穀や品物を互いに贈答する行事。たのみの祝い。たのもの寿(ことぶき)。たのみ。〔俳諧・毛吹草(1638)〕

  ② (「たのむ(田実)」が「たのむ(頼)」(主として頼みにする意)と同音であるところから) 武家の年中行事の一つ。陰暦八月一日に、家臣から主君に太刀・馬・唐物などを贈り、主君からも答礼に物を賜わること。鎌倉中期以後にみられ、室町時代には、朝廷にも及んで幕府より太刀目録を献じ、公家・武家が将軍家に礼物を献進した。江戸時代には、徳川家康が江戸入城を八朔の吉日に選んだことから、元日に次ぐ重要な式日とし、諸大名は登城して太刀を献上し、賀詞を述べ、また、幕府から朝廷に馬を献上し、当日天皇がこれを御覧になった。町家では、赤飯をたき、裃(かみしも)または羽織姿で平素恩顧を受けている人に挨拶まわりをし、その時に葉生薑(はしょうが)を持参するのが例となっていた。」

 

とある。八朔(はっさく)ともいう。

 句の意味は頼んでいた田実の比もつい経って、急ぐ嫁入りも重陽となってしまった、とまる。一ヶ月以上も遅れたことになる。

 

季語は「たのも」で秋。

 

八十八句目

 

   たのめたるたのもの比もつい立て

 とらへがたしやかへるかりがね

 (たのめたるたのもの比もつい立てとらへがたしやかへるかりがね)

 

 前句の「たのも」を田面(たのも)とし、田んぼに雁が舞い降りた頃もとっくに過去のものとなり、今は春も終わりで雁も帰ってゆく。

 「とらへがたし」は別に獲って食おうということではなく、月日の経つ早さの比喩のように思える。

 貞徳自注に、

 

 「田面(たのも)のかりと付る也。とらへんたのめたるはつい(たつ)てさる也。」

 

とある。

 

季語は「かへるかりがね」で春。鳥類。

 

八十九句目

 

   とらへがたしやかへるかりがね

 生姜手(しゃうがで)()へぎと筆に(かすま)せて

 (生姜手が三へぎと筆に霞せてとらへがたしやかへるかりがね)

 

 貞徳自注には、

 

 「手がはじかみならば、生姜みへぎかへるかりがねと(いふ)俗語、寄合用(よりあいもちふる)なり。」

 

とある。

 前句を取り立てることの難しい借金とし、「生姜三へぎかへるかりがね」というかつてあった諺で付ける。この諺やよくわからないが借金が返ってくるまじないか。「三へぎ」と書けば借金が返ってきたのだろうか。

 「生姜手」はコトバンクの「精選版 日本国語大辞典の解説」に、

 

 「① 指がなくて、生薑のような形をした手。生薑。

 ※俳諧・毛吹草(1638)一「支体の難 寒帰る比やしゃうか手初蕨(はつわらび)

  ② 思うようにものの書けないこと。字がへたなこと。生薑。

 ※俳諧・貞徳俳諧記(1663)上「生姜手が三へぎと筆に霞せて 手がはじかみならば生姜みへぎかへる」

 

とある。

 『連歌俳諧集』の注には、「癩病(らいびょう)で指の崩れた手。」とある。昭和四十九年の本なので「癩病」とあるが、今のハンセン病。この場合関係あるかどうかはよくわからない。

 

季語は「霞せて」で春。

 

九十句目

 

   生姜手が三へぎと筆に霞せて

 余寒(よかん)の時分(なつめ)もぞなき

 (生姜手が三へぎと筆に霞せて余寒の時分棗もぞなき)

 

 貞徳自注に、

 

 「棗しやうが寄合なり。寒気にてかがまる物也。」

 

とある。

 前句の「生姜手」を寒さで手がかじかんだ状態とする。

 棗と生姜が寄合なのは、ウィキペディアのこれが理由か。

 

 「ナツメまたはその近縁植物の実を乾燥したものは大棗(たいそう)、種子は酸棗仁(さんそうにん)と称する生薬である(日本薬局方においては大棗がナツメの実とされ、酸棗仁がサネブトナツメの種子とされている。)。

 大棗には強壮作用・鎮静作用が有るとされる。甘味があり、補性作用・降性作用がある。葛根湯、甘麦大棗湯などの漢方薬に配合されている。生姜(しょうきょう)との組み合わせで、副作用の緩和などを目的に多数の漢方方剤に配合されている。」

 

季語は「余寒」で春。

 

九十一句目

 

   余寒の時分棗もぞなき

 薄茶(うすちゃ)さへ小壺に(いれ)てすきぬらん

 (薄茶さへ小壺に入てすきぬらん余寒の時分棗もぞなき)

 

 貞徳自注に、

 

 「数寄者(すきしゃ)(てん)(かん)を好て茶会(ちゃくわい)をする也。」

 

とある。

 前句の「(なつめ)」を茶器の棗とする。ウィキペディアに、

 

 「棗(なつめ)は、茶器の一種で、抹茶を入れるのに用いる木製漆塗りの蓋物容器である。植物のナツメの実に形が似ていることから、その名が付いたとされる。

 現在では濃茶を入れる陶器製の茶入(濃茶器)に対して、薄茶を入れる塗物の器を薄茶器(薄器)と呼ぶが、棗がこの薄茶器の総称として用いられる場合も多い(その歴史に関しては薄茶器の項目を参照)。」

 

とある。

 濃茶(こいちゃ)はコトバンクの「デジタル大辞泉の解説」によれば、

 

 「直射日光が当たらないようにした古木の若芽から作ったもの。」

 

で、薄茶(うすちゃ)は、

 

 「製法は濃い茶と変わらないが、古木でないチャの葉から製するもの。また、それでたてた茶。濃い茶より抹茶の量を少なくする。」

 

とある。「百科事典マイペディアの解説」には、

 

 「茶道においては薄茶点前(てまえ)をさす。これは一人に一碗ずつ薄めにあわ立ててたてるもので,飲みまわすことなく,茶道具も濃茶に対して手軽なものが用いられる。」

 

とある。

 数寄者は寒い時期に好んでお茶会をするが、本来は木製の棗に入れる薄茶を、濃茶のように陶器製の壺に入れて、本当は茶道を知らないのに通ぶっていると笑う。

 

無季。

 

九十二句目

 

   薄茶さへ小壺に入てすきぬらん

 こころざしせし日よりはらめる

 (薄茶さへ小壺に入てすきぬらんこころざしせし日よりはらめる)

 

 貞徳自注に、

 

 「世俗に仏事をなすは茶を(たつ)る、又こころざしをすると云也。小つぼを産門(さんもん)にとりなす也。」

 

とある。

 「小壺に入れてすきぬ」は要するに下ネタか。結果として(はら)むことになる。

 

無季。恋。

名残裏

九十三句目

 

   こころざしせし日よりはらめる

 (ふみ)(つく)(すすき)のやうになびききて

 (文を付る薄のやうになびききてこころざしせし日よりはらめる)

 

 貞徳自注に、

 

 「すすきは(はらむ)也。艶書(えんしょ)(をぎ)すすきに(つく)るなり。志はこひにこころざす也。」

 

とある。

 薄が孕むというのは『連歌俳諧集』の注に、

 

 「薄の穂をはらんで、まだ表にのび出ないものを、はらみ薄という。」

 

とある。

 

 あひはらみくるしからぬや(をぎ)(すすき)   貞徳

 

の発句もある。

 「艶書」は恋文のことで、平安時代には香を焚き込んだ文を花の枝に刺して渡した。季節の物を用いるので秋には(すすき)が用いられることもあった。

 薄は風に靡くことから、上句は薄に恋文を刺して渡したら、薄のようになびいてきた、となる。下句の「こころざしせし日」は恋に落ちた日だと思うが、最後の「はらめる」はそのまんまの意味(その日のうちにやっちゃったということ)なのか、比喩なのか。

 

季語は「薄」で秋、植物、草類。恋。

 

九十四句目

 

   文を付る薄のやうになびききて

 鹿もおよばじ妻のかはゆき

 (文を付る薄のやうになびききて鹿もおよばじ妻のかはゆき)

 

 貞徳自注に、

 

 「しかは妻を思ふ物也。我はそれよりなびききたるつまかはゆきと也。」

 

とある。

 「妻恋う鹿」はweblio辞書の「季語・季題辞典」に、

 

 「交尾期に牝鹿を呼ぶためにピーッと高く長く強い声で鳴く牡鹿」

 

とある。男が女を恋う。

 

 さを鹿やいかがいひけむ秋萩の

     にほふ時しも妻をこふらむ

               紀貫之(きのつらゆき)(古今和歌六帖)

 

ほか多くの和歌に詠まれている。

 その妻恋う鹿も及ばないほど、文を付る薄のやうになびいてきた妻が「かはゆき」となる。

 「かはゆし」はweblio古語辞典の「学研全訳古語辞典」に、

 

 「①恥ずかしい。気まり悪い。

 出典右京大夫集 

 「いたく思ふままのことかはゆくおぼえて」

 [] あまりに自分の思っているままのことでは恥ずかしく思われて。

  ②見るにしのびない。かわいそうで見ていられない。

 出典徒然草 一七五

 「年老い袈裟(けさ)掛けたる法師の、よろめきたる、いとかはゆし」

 [] 年をとり、袈裟を掛けた法師が、よろめいているのは、たいそう見るにしのびない。

  ③かわいらしい。愛らしい。いとしい。

 「かほ(顔)は(映)ゆし」の変化した語。

 語の歴史:室町時代から③の意味でも用いられるようになり、形は「かはいい」に変わり、現代語「かわいい」につながる。」

 

とある。

 今や世界の言葉となった「かわいい」は、顔が真っ赤になる「(かほ)()ゆ」が語源だと言われている。そこから①はそのまま恥ずかしいという意味で、②は「かたはらいたし」と同様に傍で見ていて恥ずかしくなるというところから「見るにしのびない。かわいそうで見ていられない。」になる。

 それが③の意味になるにはやや飛躍があるが、恋するときにはやはり顔が赤くなるし、その赤らんだ顔に惹かれる、というのが室町時代から生じた意味で、それが後に拡大されて、自分を求めているものを守ってあげたいというところから、子供や小動物にも拡大され、保護欲求を掻き立てるものに使うようになっていったのではないかと思う。

 貞徳のこの句ではまだそこまで拡大されず、薄のようになびく妻が「かはゆき」としている。

 

季語は「鹿」で秋、獣類。恋。

 

九十五句目

 

   鹿もおよばじ妻のかはゆき

 (やや)寒き(ころ)はとらする木綿(もめん)たび

 (漸寒き比はとらする木綿たび鹿もおよばじ妻のかはゆき)

 

 前句の「かはゆき」を可哀相という古い意味に取り成して、寒い頃は木綿の足袋(たび)をとらせてやる。裸足では辛いだろう。

 この句には自注はない。

 

季語は「漸寒(ややさむ)き」で秋。「木綿たび」は衣裳。

 

九十六句目

 

   漸寒き比はとらする木綿たび

 あかがりあればつかはれぞせぬ

 (漸寒き比はとらする木綿たびあかがりあればつかはれぞせぬ)

 

 「あかがり(皹・皸)」はあかぎれのこと。

 貞徳自注に、

 

 「あかがりは足にきるる物なれば、たびをとらするなり。」

 

とある。

 コトバンクの「精選版 日本国語大辞典の解説」に、

 

 「[1] 〘名〙 あかぎれ。《季・冬》

 ※神楽歌(9C後)早歌「〈本〉安加加利(アカカリ)踏むな後(しり)なる子」

 ※平家(13C前)八「夏も冬も手足におほきなるあかがりひまなくわれければ」

  [2] 狂言。各流。主が、太郎冠者に自分を背負って川を渡るように命じるが、冠者はあかぎれを理由に断わるので、主は、逆に冠者を背負って渡り、川の中で振り落とす。

 [語誌]アカガリのアは足で、カカリは動詞「カカル」の連用形名詞。「カカル」は、ひびがきれる意の上代語。

 

とあるように、本来は足にできるものだった。手のあかぎれは別の呼び方ががったか。

 「つかはれぞせぬ」は今日でいう「つかえねー」ということか。みんなあかぎれでは仕事にならないから、足袋を支給する。

 

季語は「あかがり」で冬。

 

九十七句目

 

   あかがりあればつかはれぞせぬ

 (いな)(くき)鷹場(たかば)にわるき花の春

 (あかがりあればつかはれぞせぬ稲茎は鷹場にわるき花の春)

 

 貞徳自注に、

 

 「いなくきは赤きもの也。あかがりを(かり)てに(とり)なす也。鷹をつかふといへば也。」

 

とある。

 「稲茎」は稲株と同じ。コトバンクの「デジタル大辞泉の解説」に、

 

 「稲を刈ったあとに残る切り株。稲茎。いねかぶ。」

 

とある。この稲株が赤いので、これを赤刈りと呼んだか。

 「花の春」は正月のことで正花だが非植物。田んぼには去年の稲株が残ってたりする。鷹狩りは田んぼで行うことも多かったようで、田んぼに来る鳥を狙うのだが、稲株があると邪魔になるのだろう。

 

季語は「花の春」で春。

 

九十八句目

 

   稲茎は鷹場にわるき花の春

 雪間(ゆきま)をしのぐ辺土(へんど)さぶらひ

 (稲茎は鷹場にわるき花の春雪間をしのぐ辺土さぶらひ)

 

 花の春といってもここは雪国でまだ雪が残る。辺土というのは陸奥か北陸か。ここでも鷹狩りが行われている。

 この句に自注はない。

 

季語は「雪間」で春。

 

九十九句目

 

   雪間をしのぐ辺土さぶらひ

 百姓(ひゃくしゃう)と富士ぜんぢやうに打交(うちまじり)

 (百姓と富士ぜんぢやうに打交雪間をしのぐ辺土さぶらひ)

 

 貞徳自注に、

 

 「ふじの雪にとりなすなり。」

 

とある。

 「富士禅定」はコトバンクの「精選版 日本国語大辞典の解説」に、

 

 「① 富士山・白山・立山などの高山に登って修行し、所願成就を祈ること。《季・夏》 〔経覚私要鈔‐康正三年(1457)七月二三日〕

  ② 富士山頂の浅間神社に登山参詣の行者と称して物ごいをする乞食(こじき)

 ※浄瑠璃・凱陣八島(1685頃)一「するが二郎はふじぜんぢゃう、ひたちばうはこもぞう」

 

とある。

 ただ、「花の春」「雪間」と来てもう一句春の句にならなくてはならないのに、「富士禅定」だと夏になってしまう。もっとも、『応安新式』には「春秋恋(已上五句)」とあるだけだから、式目上は違反しない。

 

無季。「百姓」は人倫。「富士」は名所、山類。

 

挙句

 

   百姓と富士ぜんぢやうに打交

 をがまれたまふ弥陀(みだ)三尊(さんぞん)

 (百姓と富士ぜんぢやうに打交をがまれたまふ弥陀の三尊)

 

 貞徳自注に、

 

 「彼山(かのやま)にて三尊を(うつつ)にをがむといひならはせり。仏の人間にまじはり給ふと云心也。」

 

とある。

 「富士吉田観光ガイド」というサイトの西念寺のところに、

 

 「西念寺は、養老3(719)、行基が富士山で修行したおりに山頂に阿弥陀三尊が来迎したことから、この地にお堂を作り阿弥陀三尊を安置したのが草創という。その後、永仁6(1298)、一遍の弟子時宗の他阿真教(たあんしんきょう)上人が、時宗道場を開基したという。富士道場とも称している。本堂と大門との間には清光院・観音院があり、本堂裏には大塔中と呼ばれる塔頭(たっちゅう)があった。開創の由来からも見られるように、西念寺と富士山信仰との関係は深く、江戸時代、富士講の人達は西念寺が定めた「西念寺精進場」で身を清めた後、富士に登拝したといわれています」

 

とある。富士禅定は山頂に登って阿弥陀三尊の来迎を拝むためのものだった。

 挙句(あげく)が釈教になるのはそう珍しくもない。とにかくお目出度く終わる。

 

無季。釈教。