鈴呂屋日乗2007

12月31日

 早いもので今年もこれで終わり。来年は何をしよう。Electric Toysはブレイクするかな?

 昨日はたまたま「小さな恋のメロディー」のDVDを見た。昔は子供たちが古い大人たちの価値観をぶち壊して新しい時代を作ってゆくような雰囲気があったのだろう。今は日本もヨーロッパも高齢化社会で、若者文化は深く地下に潜行して、オタク化している。いつになったら新しい時代は来るのだろうか。ツェッペリンが再結成しても、もうホテルの窓からテレビを落とすようなことはあるまい。

 ジョージ・ハリスンの「ディンドン」という歌は子供の頃よく聞いたが、わかりやすい英語だった。

 

 Ring out the old, ring in the new.

 Ring out the false, ring in the true.

 

除夜の鐘に代えて。

12月22日

 今日は駒沢ガソリンアレイにElectric Toysを見に行った。入り口には確かにアルフィーのサインがあった。

 クリスマス会ということで、メンバー全員赤いエレトイTシャツに(9/15の時はまだ一着しかなかった)サンタクロースの帽子をかぶって現れた。曲はまた新曲が増えていて、音もハードになっている。一年で完全に曲が入れ替わってしまった。ますます進化を続けるエレトイ。来年はどこへ行くのか。

 フライングダッチマンはちょっとイースタンユースを思わせるスリーピースだった。ボーカルがよく、歌詞がはっきり聞き取れる。

 最後の宇宙人。ごめんなさい、六つもバンドが出たということもあって、疲れてしまい、2曲聴いただけで出てきてしまった。なかなかいいキャラクターだったけど。

 ところで、打ち上げのターキー(誰かダチョウだと言っていたが)、本当に出たのかな。

12月15日

 今日は二度目の鳥獣人物戯画(一度目は11/26)。甲巻の再現案を考えてみた。

 

 水浴び(甲巻)-霞(甲巻)-賭弓(甲巻)-唐櫃と酒壺(甲巻)-遅刻するウサギ(甲巻)

 ここまでは甲巻の初めから順序通りで途切れがない。しかし、この後、松の木の描かれた地面の線が急に途切れ、紙の色も変わり、明らかに切り継いだ跡がある。ここに、住吉家模本第五巻や断簡の部分が入る。

 競馬(住吉家模本第五巻、増田家旧蔵断簡)-落馬(住吉家模本第五巻、高松家旧蔵断簡)-見物衆(MIHO MUSEUM断簡)-蹴鞠(住吉家模本第五巻)-船遊び(住吉家模本第五巻)

 ここで住吉写本第五巻は終わっている。そして、途中不明のまま、東京国立博物館の断簡へと飛ぶ。この祭礼行列の左端の点が甲巻の田楽と相撲との間の継ぎ目にある、大きな萩の木につながる。

 祭礼行列(東京国立博物館断簡)-右向きの見物衆と萩(甲巻)-相撲(甲巻)-双六(甲巻)

 ここで、甲巻は切り継いだ跡がある。ここに、長尾家模本の一部が入る。

 碁(長尾家模本)-首引き(長尾家模本)-高飛び(長尾家模本)-遊行僧(甲巻)-法会(甲巻)-お礼の品々(甲巻)

 ここで甲巻は終わっているが、このあと、甲巻の遅刻するウサギの後の猿の僧正に鹿が贈られる場面へと戻る。

 鹿を贈る(甲巻)-草履持ち(甲巻)-猿の狼藉(甲巻)-田楽(甲巻)

 そして、このあとは長尾家模本のとおり、見物衆がいて、蛇が出てきて終わる。

 見物衆(長尾家模本)-蛇(長尾家模本)

 

 これをまとめると、

 

水浴び(甲巻)-霞(甲巻)-賭弓(甲巻)-唐櫃と酒壺(甲巻)-遅刻するウサギ(甲巻)-競馬(住吉家模本第五巻、増田家旧蔵断簡)-落馬(住吉家模本第五巻、高松家旧蔵断簡)-見物衆(MIHO MUSEUM断簡)-蹴鞠(住吉家模本第五巻)-船遊び(住吉家模本第五巻)-祭礼行列(東京国立博物館断簡)-右向きの見物衆と萩(甲巻)-相撲(甲巻)-双六(甲巻)-碁(長尾家模本)-首引き(長尾家模本)-高飛び(長尾家模本)-遊行僧(甲巻)-法会(甲巻)-お礼の品々(甲巻)-鹿を贈る(甲巻)-草履持ち(甲巻)-猿の狼藉(甲巻)-田楽(甲巻)-見物衆(長尾家模本)-蛇(長尾家模本)

 

となる。

12月8日

 今日は鎌倉に紅葉を見に行った。英勝寺、海蔵寺、岩船地蔵堂を経て、鶴岡八幡宮の前を通り、荏柄天神、浄妙寺を経て、朝比奈切通しへと向かった。

 朝比奈切通しは春(3/10)にも一度来ていて、熊野神社の後ろのほうで自転車が通ってたのを見て、ここから十二所果樹園のほうへ降りれるのだろうと思って行ったら、細い獣道のような山道が延々と続き、結局金沢のほうへ降りてしまった。金沢は鎌倉の風景とは似ても似つかない、紛れもない横浜の風景で、ブックオフがあったりして、何か国境を越えたような気分だった。

 今回は同じ道を逆のほうに行ってみた。やはりどんどん道が狭く急になり、結局朝比奈切通し入り口の滝のところに戻った。

 朝比奈熊野神社は、横横道路の音さえなければ静かなのにと思った。公孫樹の葉がきれいだった。

 最後は長谷寺の紅葉のライトアップを見て帰った。途中江ノ電に乗っていたら雨が降り出した。関東で時雨とは珍しい。疲れていたので凛とした気分にはなれなかった。

12月1日

 なぜか横浜FCがアジアチャンピオンの浦和レッズに勝っている。しかも消化試合ではなく優勝のかかった試合で。最後を飾ったのはいいが、何でこの試合を今までできなかったのか。それはともかく、これで浦和レッズがトヨタカップで優勝したりしたら、横浜FCは世界一のクラブに勝ったことになるのだろうか。

11月26日

 昨日はサントリー美術館に鳥獣人物戯画を見に行った。四巻全部そろっているだけでなく、断簡や模本などもそろえられていた。

 ミッドタウンは連休だというのに、それほど人は多くなかった。おとといの新宿の人の多さとはずいぶん違う。物価が高いせいか。

11月24日

 昨日新宿に行ったとき、紀伊国屋で立ち読みした本に、マーティン・バナール「ブラック・アテナ」という本があった。さすがに衝動的に買える値段の本ではなかった。

 今日一般に知られている古代ギリシャのイメージというのが、西ヨーロッパの近代になって形成されたもので、古代ギリシャ文明の真の後継者が自分たちだということをアピールするためのものだったという論旨は、結構面白そうだった。確かに実際の古代ギリシャは、純粋にヨーロッパ的なものばかりではなく、エジプトやペルシャとの交易や侵略戦争などを通じて、様々に入り混じっていたことは考えるからだ。別にソクラテスやプラトンが実は黒人だったとかいうことではなく、古代ギリシャの哲学も、エジプトやメソポタミアの文明の遺産を引き継いでいることは、考えなくてはいけないことなのだろう。

 確かに、ソフィストたちが韻を踏んでディスりあっていたとすれば、妙にヒップホップだし、プラトンの描くソクラテスに意外に詭弁が多いということも、触れてはいけないことだったのかもしれない。近代の哲学や科学のイメージと異なり、実は本来の古代ギリシャの哲学は、論戦に勝つための機知に重点を置くものだったのかもしれない。つまり、今日一般に言われる以上にソフィスト的だったのかもしれない。

 ということは、うかつだった。日本だって、明治になってから、芭蕉の俳諧や万葉集が写生であり、西洋的な写実主義の精神を先取りしていたことを広く国民に宣伝してきた。それにあえて俺は戦いを挑んできたのだから、ギリシャ哲学の精神が西洋の近代文明に直結しているという考え方も疑うべきだった。

 ところで、300に対して、あれはアメリカ対イランの戦いを象徴したプロパガンダ映画だという声もあるが、俺はむしろ、純血主義のヨーロッパサッカーが94年のワールドカップで相次いで予選落ちし、その後移民を代表選手に入れるようにした、そんなことを思い出した。スパルタは純血主義を貫いたために、結局兵隊の人員の確保が困難になり、最初から負ける運命にあった。アテナイの軍隊は異民族の奴隷を活用し、テルモピュレの戦いも結局は奴隷の漕ぐ三段艪船の勝利だった。クセノフォンら1万のギリシャ兵がキュロスに雇われてペルシャ王アルタクセルクセス二世と戦ったりしたことでも、意外にギリシャとペルシャとの間は隔絶されたものではなく、むしろボーダーレスだったのだろう。

 今のヨーロッパの好景気も、移民の上に成り立つという点ではアテナイの繁栄に似ている。アメリカの軍事力だって、大勢の黒人兵によって支えられている。アメリカはむしろアテナイに近く、決してスパルタではない。

11月23日

 新宿のNINE SPICESへ、花のようにを見に行った。世間は三連休(俺は明日は仕事)ということで、渋谷に着いたところから人がとにかく多かった。新宿も混んでいて、いつも仕事で行くところを今日は客として歩いた。花園神社はお酉様で的屋の屋台が並びここも身動きできないほどだった。

 NINE SPICESはその花園神社の近くにあり、結構新しそうな建物で、禁煙になっていた。花のようにはトップバッターで、最後だからオリジナルメンバーでやるとのことで、学、樵、天使の三人以外はいつもと違うメンバーだった。今日は鋸は弾かなかった。

 三番目に出た木箱がなかなか良かった。北海道から来たというだけあって、ステージを白く飾りつけ、白い制服のようなものを着ていた。打ち込みから轟音もある、今風のポストロックだった。

11月16日

 賞味期限を偽装して平然としている人の心理というのは、案外昔の貧しい時代に育った人で、「まだ食えるものを捨てたりしたらもったいない」というものだったりして。だから、本人は、あれは資源を有効利用しているんだくらいに考えて、何の罪の意識もないどころか、むしろいいことをしていると思っているのだろう。

 

 冷凍食品の解凍に雨水を使ってたという人もいたが、これとて、本人からすれば水を節約して何が悪いというところなのだろう。むしろこんないいことを何でみんなやらないのか、みんなバカじゃないのかとかいって自惚れていたのではなかったか。結構そういう人間て身近にもいる。

11月11日

 今日から「スターオーシャン3DC」を始めた。名作シリーズで安かった。

 オーディンとはちがい、昔ながらのRPGの王道を行くゲームで、早速なかなかイベントが始まらずに、最初のホテルの中を無駄にうろうろしてしまった。コーファーの遺跡では、右半分の行き方がわからぬままずいぶん時間を使ってしまった。どうやら後にならないと行けないらしい。

 家の中の宝箱を取るというのも、しばらく忘れていた。

11月8日

 今、『図説 古代ギリシアの戦い』(ヴィクター・デイヴィス・ハンセン、2003、東洋書林)を読んでいるが、この本もなかなか面白い。映画『300』を見た人には絶対にお勧めだ。

 古代ギリシャの重装歩兵は、単なる軍隊の形態ではなく、自由で平等な自作農集団が組織力で貴族的な騎兵や職人的な弓兵を圧倒したという点で、アテナイの民主制の元になっただけでなく、その後の西洋世界から今のアメリカ支配にまで至る一つのモデルを作ったという。

 これでいくと、日本は紛れもなく騎兵の文化だった。サムライというのは全身鎧を着て馬に乗っていたし、馬にかかる費用、鎧にかかる費用は通常の農民の手に負えるものではなく、必然的に一握りの階級の独占物にならざるを得なかった。そして、西洋とは逆に、江戸時代に至って徹底的な兵農分離が行われ、それが結果的に平和と遊びを愛する大衆文化を最大限にまで発達させ、その遺産は今日のオタク文化に受け継がれている。

 西洋の強さは、自由で平等な人間同士の自由な議論によって、コンセンサスを作り上げ、それを組織行動の原理としてゆくところにある。これに対し、日本人はいくら組織力を重視しようとしても、それはあくまで官僚的な上下関係に基づく絶対服従のシステムであるため、組織プレー=自己の抑制となる。旧日本軍でも、戦後の企業戦士でも、サッカーの日本代表でも、組織プレーをしようとすればするほど、自分自身にブレーキをかけてしまう。それが日本の弱点だ。そこが重装歩兵の文化とサムライの文化の違いなのだろう。

 映画『300』に出てきた、かなり漫画的に誇張されて描かれた、顔なしのようなペルシャの不死部隊は、誰かが戦死してもすぐに補充されるという、代わりがいくらでもいるという意味での不死部隊だったらしい。別にアンデッドみたいだからではないようだが、きっと西洋人から見ると、日本人もあんなふうに見えるのだろう。

11月6日

 民主党のことはもうどうでもいいけど、花のようにが活動休止というのが残念だ。もう一度くらい見にいけるかな。

11月5日

 なんか民主党もついにこれまでかなって感じになってきた。結局小沢も民主党に愛想つかしたのだろう。菅や鳩山では自ら墓穴掘ってばかりで、いつまでたっても万年野党から抜け切れなかったのを、やっと小沢体制でここまで持ち直したのに、一度の選挙の勝利で(これも小沢のおかげなのに)すっかりのぼせ上がって、すぐにでも政権を取れるようなムードになっちゃって、どうしようもないね。

 大連立は確かに一か八かの賭けではある。自民党に丸め込まれて、独自性を失うかもしれない。安易な妥協ではなく、一本筋を通して取引していかなくてはならないし、小沢ならそれができそうだというところはある。ただ、そのほかの民主党員は、相変わらず野党ボケで、何でも反対反対といっていれば国民に受けると思っている。こういう連中は、いざ権力を与えられると、節操もなく媚びたりするものだ。小沢の野心と他の民主党員の間にかなりの温度差があるのは事実だろう。

10月28日

 オーディンスフィアのストーリーアーカイブがすべて埋まり、最後の7つ目の☆が埋まった。63時間18分、レベルは34~43。hellモードはやる気なしということで、これでもう終わりだ。3ヶ月以上結構楽しめた。

10月22日

 ようやくオーディンスフィア一回目をクリアーした。グウェンドリンはレベル34、ナパームを使いまくって半分以上HPを減らしてから、フォゾンバーストの連発で、8割がた決着が付いた。

10月21日

 ついに横浜FCの二部降格も決まり、また来年やり直しということになった。

 オーディンスフィアのほうは、コルドロンになかなか勝てなくて、レベルため(このゲームの場合はひたすら食いまくる)からやり直しとなった。昨日ようやくベルベットがコルドロンを止めたが、最後の竜と戦うグウェンドリンがレベル22で、これはちょっと苦しい。またレベルためだ。

10月20日

 今日は生田緑地内バラ園に行った。5月20日に行ったときほどの華やかさはなかったが、それでも秋晴れの空の下で、たくさんの薔薇が咲いていた。

 木によっては赤い薔薇の実がなってた。薔薇の実というのは初めて見た。

10月14日

 映画「300(スリーハンドレッド)」のDVDを借りてきて見た。

 昨日読んでたイソクラテスの「民族祭典演説」には、300人ではなく、「一方のラケダイモン人は、陸軍に対して決戦を挑み、1000の精鋭とともに少数の同盟軍の援兵を仰いで、テルモピュライに向かい、峡谷で敵の進軍を阻まんとし」とあった。そして、

 「一方は潰滅し、魂において勝利し肉体は力尽きたのである。しかし彼らを敗者と呼ぶのは冒瀆の言である。実に彼らのうち一人として戦場を離れることをよしとするものはなかったのである。」

とその勇気を称えている。

 映画「300」のほうは、こういう歴史に題材を取ってはいるものの、なかなか漫画的にいろいろと誇張され、物語も単純で、何も悩まずに楽しめる娯楽映画だった。スパルタ軍のほうは一応陣形の説明とかもしていたが、ペルシャ軍のほうはハチャメチャで、クセルクセスも変だし、象はやたらデカいし、ほとんどゲームの敵キャラだった。何のかんの言って、ついつい最後まで夢中で見てしまった。

10月11日

 昨日の夜中にようやくオーディンスフィアの五人の本編が終わった。あとは「終焉」へ。50時間近くかかってしまった。

10月9日

 昨日は三軒茶屋のHEAVEN'S DOORにsix o'minusを見に行った。出番は最初だった。この前(3/17)は気が付かなかったが、ベースはあれだけのフレーズをフレットレスで弾いていた。すぐに終わってしまった。もう少し聞きたかった。

 演奏が終わると、撤収される機材が客席を通るのが面白かった。これも小さなライブハウスならではだろう。テレビでSFのドラマをやっていた。演奏が始まるとライブ映像が映し出されるようになっていた。

 後に出たバンドもはずれはなかった。clean of coreはスリーピースのインストバンドで、変拍子を多用していた。circe(キルケ)もインストバンドでギター、ドラム、マリンバの編成が珍しい。真ん中に大きなスクリーンを置いて、裏からライブペイントをしていた。最後のhighered girlは女のドラムと男のギターボーカルであふりらんぽを思わせるような編成だった。栃木から出てきたと言っていたが、とにかくドラムがすごかった。

 楽しい一日だった。

10月4日

 図書館で借りてきた「イソクラテス弁論集」も、「ソフィストとは誰か?」と平行して読んでいる。イソクラテスの「ニコクレスに与う」を読んでいると、なんか孔子に近いなと感じる。ひょっとして西洋でプラトンではなくイソクラテスが勝利をおさめ、東洋で孔子や老子ではなく恵子が勝利をおさめていたなら、東西の文明は逆転していたかもしれない。こんなの何かSFネタにならないかな。

 ゴルギアスの「ヘレネ頌」は理路整然としすぎていて、これもまたソフィスト=詭弁、ソクラテス=理路整然という常識的なイメージと真逆の印象を受ける。実際プラトンの「プロタゴラス」でのソクラテスは詭弁ばかりなのだが、何で誰もそのことに突っ込まないのか不思議だ。

9月28日

 昨日ネットで買った納富信留の「ソフィストとは誰か?」という本が届いて、今日読み始めた。これまで古代ギリシャの哲学というと、プラトン、アリストテレスが中心で、ソクラテスといっても、結局はプラトンのフィルターを通したソクラテスにすぎなかった。しかし、古代ギリシャからその後の西洋の歴史、伝統、を考えてゆく上で、こうした主流の哲学からはずされたものを含めて、もう一度その根底が問われなければならない。

 廣川洋一の「イソクラテスの修辞学校」も、ちょうど読み終ったところで、この本も面白かった。東洋が文人だの文士だの「文」が立つことが知識人の条件だったのに対し、西洋では弁が立つことが求められてきた。それも、単に論理的に説明するだけでなく、ユーモアを交えたり、韻を踏んだり、人を惹きつける弁論が求められてきた。今日のラップも結局その文化伝統が根底にあるのではないか。古代ギリシャのソフィストたちが、議会や裁判の席でお互い韻を踏んで相手をディスり合ってたと思うと、結構楽しそうだ。

9月26日

 EMIミュージック・ジャパンのフリーペーパー「Great Hunting」にエレトイのTシャツのことが載っていた。ステージで着ていたかわいらしいピンク色のやつで、エレトイTシャツですって紹介したから、てっきり売り出すのかと思ったら、これ一枚しか作ってないとのこと。早く大きなところでコンサートができるようになって、Tシャツも販売してほしいな。

9月23日

 オーディンスフィアのほうはオズワルド編に入った。今日は休みなので一気に第5章まで進んだ。横浜FCは昨日も負け。やはり監督が変わってもだめか。

9月19日

 17日にパソコンを買いに行った。しかし、いきなりメールの設定でつまずいてしまい、やっとメールが使えるようになったときには夜になっていた。それから、今度はホームページの設定だが、これがいくらやってもうまくいかなかった。今ようやくつながり、ホームページも更新できるようになった。d=(=´∇`=)=b

9月16日

 今使ってるパソコンも、もうすぐ4年になる。この頃立ち上がるのも遅くなり、時々フリーズして青い画面が出る。かなりファイルやソフトを削ったのだが、相変わらずすぐに空き容量の不足のメッセージが出る。そろそろ買い替え時か。

9月15日

 仕事が終わってから、下北GARAGEにElectric Toysを見に行った。エレトイ企画だけあって、そのほかのバンドもはずれがなかった。

 最初に出たmoga flapperは60年代や70年代のポップのエッセンスの詰まったバンドで、思わずモンキーダンスをしたくなるようなダンスナンバーから、フォーク調ご当地ソング、本格的なブルースなどいろいろで、ボーカルもうまく、和田アキ子からザ・ピーナッツまでこなせる。

 babedgeも女スリーピースで、活動も不定期的なためか、一部では伝説化されているようだ。なんか珍しいものを見た気がした。

 TRAはかなり古手のオヤジファンクバンドで、パフォーマンスが面白い。特に顔芸が。

 相対性理論はとにかくバックの三人がめちゃくちゃうまかった。ボーカルはちょっと微妙。意図的にリズムに乗らずに、ウィスパリング・ボイスで不思議系を演出しようというのだろうけど、何をうたっているのかわからず、後でネットで試聴して、ああ、こういう歌だったのかとわかった。演奏終了後、客席からどよめきが起った。これは結構人気が出るかもしれない。

 エレトイは無事ダイエットに成功し、キュートなガールポップバンドに!?でも演奏はリズム隊がさらにパワーアップされた感じで、進化し続けていた。

9月9日

 すでにトウモロコシやヤシからエタノールを取り出して燃料にしようとする動きが世界で起きているが、日本でも米からエタノールを取り出す研究が行われているという。これまで日本はエネルギーを輸入に依存していたが、これなら国産のものが使える。日本の米は面積あたりの収穫効率がよく、減反政策の繰り返しで、遊んでいる田んぼがたくさんあるはずだから、それが甦るなら、地方の活性化にもつながる。

 いいことずくめのようだが、昔から一粒一粒に仏様が宿るという米を、燃料に使うなんてと思う人もいるかもしれない。だからこそ、エタノール一滴一滴に仏様が宿ると思って、アイドリングストップを心がけるべきだろう。

 何やら橋下弁護士がまたやらかしたようで、テレビで不用意に殺人犯の弁護団に懲戒処分請求をなんていったら、それに同調した人が4000人もいたという。いったいこの人は裁判が何なのかわかっているのだろうか。

 昔のローマのコロシアムでは、奴隷同士殺し合いをさせ、勝者を生かしておくかどうか、親指を上に向けるか下に向けるかでアゲサゲ投票を行い、殺したい時は下に向けてブーーというのが今日のサッカーなどでも行うブーイングの起源となっているという。裁判も何かそんなものと勘違いして、一斉に殺せコールを始めるのは何ともあさましい。国民が戦争に駆り立てられてゆく時も、きっとこんなふうにどこそこの国の人を殺せ殺せと一斉コールが巻き起こるのだろう。

9月8日

 ようやくメノン解説を書き上げた。オーディンスフィアのコルネリウス編が終った。

9月3日

 この前の奈良の妊婦さんのたらい回し事件を聞くと、またかという感じがしないでもないが、この頃はこの豊かな国で医者自体が不足しているという、何とも情けない事態になっているようだ。

 昔は医者というと金持ちでベンツに乗っているイメージだったが、いつしか3Kに転落し、今じゃ重労働で責任が重いわりには給料が安く、成り手がいないという。いつから医者は儲からない仕事になったのだろうか。

 もちろん医者に限ったことではない。輸出依存型経済から内需主導型経済への移行に失敗したこの国は、国際競争力を維持するために賃金を抑え、サービス残業は青天井となり、経済は成長しているといいながら、賃金は減っている。

 一生懸命働けば働くほど、仕事だけが増え、時間当たりの給料は実質的に減ってゆく。だから仕事を増やさないために、わざと効率を落とし、小さな仕事を時間かけてするようになる。こうして生産性はいつまでたっても上らない。生産性を上げる工夫をするよりは、労働時間を延ばした方が手っ取り早く生産量を増やすことができるとばかりに労働時間を延長するから、余計生産性が下がる悪循環に陥る。

 今の日本に必要なのは、さっさと仕事を済まして、後は遊ぼうという発想だが、それを許さない貧乏性、妙な建前道徳、足の引っ張りあい、何か救いようはないのか。

 子どものためのハローワークとか言って、仕事の楽しさを教えるのはいいが、大人になってそれを一日12時間以上やらなくてはならないと知らされたときには、やはりニートを選びたくなるだろう。

9月2日

 横浜FCは昨日もまた負け。ジュリオ・レアル新監督は、ダイレクトプレーが多すぎることを指摘していた。

 確かに、日本人には昔からトップスピード信仰というのがある。背が低く体格で劣る日本人は、すばやさで勝負しなければならないという、身体的なコンプレックスによるものだろう。しかし、対ベトナム戦を見ればわかるように、日本人の体格は昔ほど小さくはない。それなのに未だに身長が160センチしかなかった頃の感覚で、ひたすらトップスピードで走り回らなければいけないと信じている。結局スピードに技術がついてゆかず、決定的なところでミスが出てしまう。それに、スタミナもついてゆかず、暑さですぐばてる。

 何でもトップスピードで走り回るだけが能ではない。落ち着いたプレーでミスを減らすことも大事だというコメントは、オシム監督も見習うべきだろう。

 とにかくまだ試合数はかなりある。全部勝つとまでは行かなくても、勝率5割のペースでも十分残留のチャンスはある。

9月1日

 なんか朝青龍の報道はちょっと異常ではないか。モンゴルに帰ってまで監視をつけろなんて、明らかに行きすぎだし、モンゴル人の日本人に対するイメージも悪くなる。

8月29日

 オーディンスフィアのグウェンドリン編が終った。11時間くらいか。コルネリウス編に入った。

8月18日

 久々にゲームの方もスタートということで、オーディンスフィアを始めた。昔はゲーム脳、今は脳トレ、とにかくアルファー波を出しまくろう。

 とはいえ、宝箱の開け方がわからず、オープニングを何度もやってしまった。

8月15日

 今日は敗戦の日ということで、あの敗戦が何だったのかということになるが、いろいろ日本の特殊性だとか国民性だとか言われるけど、結局貧しい国が自分たちの生活を犠牲にして軍隊だけを強くしようという発想では、どこの国であっても絶対に勝てないということだと思う。

 勝つにはどこの国よりも豊かな国を作ることだ。単に経済的にというだけでなく、他のどこの国よりも笑って楽しく生活できる国を作ることだ。他の国が、攻撃して滅ぼすよりもこの国から学ぼうと思うような国を作ること、それが唯一にして最大の国防だ。

8月12日

 岩波ホールへ『ヒロシマナガサキ』を見に行った。結構人も入っていて、補助席も使われていた。

 あふりらんぽは確かに出ていた。原爆投下の日を知らない人でもわかりやすいようにか、満州事変から原爆投下に至る歴史の流れも最初に解説していた。そして、被爆者の人が語り始めると、なぜか涙が出てくる。こんなことは『ダンシング・イン・ザ・ダーク』以来だ。特に悲しみをあおるような言葉があるわけでもないのに。くさい演出も妙なプロパガンダもないだけに、一つ一つの言葉が揺るぎない真実に響いてくる。

 終ってからもなかなか席を動けなかったし、しばらくボーっとしていた。

 今の平和が悪いなんてことは絶対に思わない。誰だって平和で、豊かで、楽しく生きて、楽しかったねと言って死んでいけるのが最高なはずだ。そして、そういう世の中を作ためにみんな一生懸命働き、生きているはずだ。それは日本人だってアメリカ人だって中国人だってイラク人だって同じだ。だからこそ、それができなかった人がいるのが悲しい。

 だから、われわれは何をすべきか。仇討か?反米闘争か?そうではない。われわれがすべきことは平和を作り続けることだ。人生は生存競争で、争いは避けられないのかもしれないが、まず身近なところから争いを回避し、平和を作り、平和な暮らしを守り続けることではないか。平和は与えられたのではない。平和にし続けなければ、いつでも人は戦争に誘惑される。

 北朝鮮が核を持ったからといって、安易に日本も核保有をなんていう人がいるが、それはバグダッドに原爆を落とせばいいというアメリカ兵と一緒で、核兵器が何なのかわかってない人の意見だ。

 まちがってはいけない。われわれは戦うために生れたのではない。平和で、楽しい人生を生きるために生れたのだ。被爆者の人たちがさまざまな苦労の中で、何度も死のうかと思いながらも、今まで生きてきたように、われわれも死を求めてはいけない。生き続けなくてはいけない。

8月11日

 横浜ダービーを見に行った。着いたのが試合開始間際で、すでに横浜FC側応援席は満員で、すり鉢の底を見下ろすようなところでの立ち見となった。まあ、ライブハウスで鍛えられているから、2時間くらいの立ち見は何でもない。しかし、選手が米粒のようで、背番号もよく見えない。緩衝地帯など作っていたが、平和な日本でそんなに必要なものなのだろうか。

 試合がまともだったのは最初の30分くらいで、最初の失点は菅野のハンブルからだったが、二点目以降は、どうすればこんなゴール正面でどフリーな選手ができるのかというくらい、ひどい内容だった。完全にディフェンスが崩壊して、ざるのように8失点。歴史的な大敗北となって終った。

 後半になって、少しは巻き返してくれるのかと、多少は期待していたが、何かもうシーズンが終ったような気分だ。早く監督を代えて、チームを立て直してほしい。

 まあ、来年がJ1だろうがJ2だろうが、カズがいようがいまいが、横浜FCを応援してゆくだろう。

 

 オー横浜オー横浜俺と行こうぜ

 オー横浜オー横浜果てしなき道

 オー横浜オー横浜友よ行こうぜ

 オー横浜オー横浜俺が死ぬまで

 

試合の最後の方の応援は、ずっとこの歌だった。

8月8日

 新聞に若者の右傾化云々の記事があった。「コードギアス」は読んでないが、FF12の設定は日本の敗戦、武装解除を思わせるもので、王家を復興させるという筋書きだった。

 俺は世代に関係なく、右翼というのは基本的に西洋崇拝者で、日本が西洋みたいでないのが気に食わなくて反抗している人たちで、本当に日本の伝統文化を愛している人はまずいないのではないかと思っている。

 アメリカ中心の世の中に逆らいたいのはわかるが、アメリカが世界を席巻したのは単なる軍事力だけの問題ではなく、ソクラテス的な快楽の計量術の勝利であり、アメリカ的なものがどこの国の人間にとっても最大の快楽をもたらすからにほかならない。

 だから、戦前の日本にしても、今の北朝鮮やキューバやイスラム原理主義の国にしても、反米を掲げては国民の快楽を犠牲にして、軍事力だけでアメリカと対抗しようというやり方は、絶対に成功することはない。

 アメリカに勝つにはアメリカ文明を上回る快楽を世界に提供することだ。漫画・アニメ・テレビゲームで、日本はその能力をもっている。そして、こうした大衆文化の背後に日本の長い文化伝統があることに気づくべきだろう。それを知ってこそ真の愛国者、真の右翼といえる。

8月1日

 ようやくクセノフォンの『アナバシス』を読み終えた。何のかんの言って、古代ギリシアというのは軍事国家で、いわば軍人達が奴隷をこき使って自由を謳歌した社会だったのだろう。案外ソクラテスはその闇に気づいていた数少ない人間だったのかもしれない。

 バビロンからギリシアに戻るときの、クセノフォンの指導力は確かにたいしたものだが、行軍は奇麗ごとではすまない。一万人近い軍隊が本国からの何の補給もなしに移動するには、村を襲い、放火し略奪を重ねるしかない。途中美少年を連れ去ったりもする。

 近代の戦争では、補給の重要さが認識され、略奪を犯罪とする観念も生じたが、旧日本軍は1937年に上海戦で勝利を収めた後、何の補給の考えもなく南京にまで兵を進めてしまった。結果があの事件となった。

 一方で虐殺はなかったといいながら、一方で、戦時の略奪や虐殺は常だと主張する人がいるが、これは鍋の論理。

 従軍慰安婦も、結局一度モラルが崩壊した軍隊を立て直すのに、現地の女を強姦しないようにという苦肉の策で生じたもので、こうした発想は軍隊を管理する側からしか出るはずもない。安倍首相はアメリカの決議にどう答えるのだろうか。

7月30日

 アジアカップはイラクの優勝で終った。国の大変な事情を考えると、本当に良かった。これで国民が一つにまとまり、自爆テロなんてやめてくれるといいのだが。

 相手がサウジというのもよかった。湾岸戦争では敵国だが、もともと民族的には似たようなものだし、負けても後に尾を引くこともないだろう。

 これがもし相手が日本だったら、多分マスコミもドーハの悲劇の雪辱みたいな方で盛り上がって、ここまで感動的に盛り上がらなかったかもしれない。

 次はワールドカップで、日本とともにイラクも出場し、アメリカと対戦したりすると盛り上がるだろうな。

7月29日

 土用の丑の日には一日早いが、今日はウナギの白焼き丼を作ってみた。といっても簡単なもので、市販の白焼きをご飯の上に乗せ、だし汁、醤油、砂糖、みりんで作った汁をかけ、わさびを載せただけのもの。結構あっさりしててなかなかいける。ウナギも稚魚がワシントン条約で輸入できなくなれば、昔みたいに庶民には手の届かないものになりそうで、食べるのは今のうちか。

 選挙の方は、開票前から自民大敗といわれていて、あとは、それがどの程度かだが、安倍首相は何かイメージ戦略を根本的に間違っていたような感じだ。

 小泉のときには自民党が改革派で野党が保守派であるというイメージを作るのに成功したが、今回は安倍政権のどこが改革派なのかはっきりしないところで、自分のやることに反対する者にただ反改革、反成長の烙印を押すだけでは、昔の左翼が何でもかんでも意に沿わないものに「反動」の烙印を押したのと同じだ。

 それに何よりも、誰も成長を実感してないのに成長の持続をメインにしてしまったのが失敗だろう。

7月19日

 中国人も生活が豊かになり、食えればいいという時代が終って、食品の安全性に興味がでてきたのだろう。だいぶ、この手の報道が過熱して、食品の危険性をセンセーショナルにあおればあおるほど数字が取れるし、プロデューサーも出世するとなれば、やらせでも何でもという人も出てくる。また、そういう報道が自由になったというの原因の一つなのだろう。

 日本にも牛肉コロッケに豚のハツを混ぜてるところがあったし、サンゴ礁に名前を刻んだ新聞社もあったし、人間の考えることは一緒ってことか。

 ただ、中国というと、最近は何かと反中国感情を煽り立てたがっている人がいるから、こうした情報もずいぶんねじ曲げられて報道されたりする。

 どこかの週刊誌が、『南京』という映画が中国でもブタコケだったなんてことを書いているが、日本でも今、スティーブン・オカザキ監督の『ヒロシマナガサキ』という映画が公開されていて、あふりらんぽも参加しているらしいが、これが世間で特別話題になってないところを見ると、日本も中国のことは笑えない。結局中国人だって南京虐殺の映画よりは娯楽大作の方がいいのだろう。

7月6日

 昨日は仕事が終わってから下北へ行った。エレトイのライブがあったが、木曜日で忙しくて無理だろうと思っていたが、どういうわけか、この日に駐車料金の立替分が帰ってくるし、仕事の方も駐車場待ちなどの遅れがほとんどなく、いいリズムで進み、頭の中にも「たーいせつなことなんて、何もない」なんてフレーズが回ってくる。結局6時半に終わり、これはロックの神様の導きだろう。

 下北GARAGEに着くと、二番目のバンドが最後の二曲というところ。第17回北沢音楽祭ということもあって、この日出たバンドは選ばれているのだろう。それなりにうまいし、牛乳の一気飲みをやったりして、場の盛り上げ方も心得ているから、それなりに楽しい。ただ、曲や詞の凡庸さは隠せない。

 最後にエレトイが出てきた頃には、人もまばらで、なんかもったいない。「赤色アウトライン」から始まったが、その後はずっと新曲で、前に聞いた時から二ヶ月もたっていないのに、恐ろしいペースで曲を作っていたようだ。

 どれもギターやキーボードのフレーズはかっこいいし、ベースやドラムのリズムにも色々工夫がされていて、飽きさせず、最後は「コスモスベッド」で締めくくり、あっという間の30分だった。

7月1日

 今日は港北のIKEAに行った。朝10時の開店時刻の頃に着いた。駐車場はまだそんなに混んでなかった。

 とにかく広くて、一周するのにかなり時間がかかった。ショールームみたいな展示スペースが続き、どれが売り物でどれが見本か最初はわかりにくかった。途中、スウェーデン料理のカフェがあり、ミートボールや鮭のプディングを食べた。特に並んではいなかった。ニシンの酢漬けはしめ鯖のようで、イクラを小さくしたような赤い粒が添えてあって、味もイクラっぽかったが、赤キャビアというらしい。

 最後のレジのところは長い行列だった。帰る頃もまだ駐車場に余裕があった。

6月21日

 コムスンの問題でいろいろ議論はあるが、私が前から思っていたのは、高い理想を振り回すのはいいが、高い理想を実現するにはそれなりのコストがかかり、結局金持ちしか介護サービスを受けられなくなってしまう。貧乏人でも介護サービスを受けられるようにするには、どこか安かろう悪かろうのさービスで妥協しなくてはならない。この事件で介護サービス事業に対して規制強化の方向に向かえば、介護サービスはますます高価なものになり、金持ちだけの特権になる。

 偽装ミンチ事件は、普通の日本人にとってはたいした問題ではないかもしれないが、日本にもたくさんのムスリムがいるし、その人たちからすれば、ミミズの肉か人間の肉が混入していたのと同じくらいのインパクトはあるだろう。

6月16日

 仕事が終わってから、日産スタジアムへ横浜FC=ジュピロ磐田戦を見に行った。開始五分で平本にきれいなループシュートが決まって先制。その後も平本の惜しいヘッディングシュートもあって、これからなかなか期待できそう。

 そう思っているのも束の間、ジュピロのきびしいプレスにボールをキープできず、圧倒的にジュピロにボールを支配される状態になる。そうこうしているうち一点返され、その後もボールを支配され続ける。たまにボールを奪っても、サイドを使わず、真ん中に寄りすぎている感じがした。結局後半開始早々、追加点をゆるし、今日も負け。

 いつもなら、試合終了後の挨拶に来るとき、一応拍手をしてたものの、今日は大ブーイング、これも仕方ない。ロスタイムに入っても、応援の方はいつになく盛り上がっていたし、みんな最後まであきらめていなかった。それなのにボールを後ろに下げてばかりではいけない。

 それにしても、平本や滝沢のような四文字の名字の人にチャチャチャと拍手を入れるとき、なぜか7拍子という変拍子になる。結構プログレだったりして。難波と平本のツートップももう少し見たかった。

6月12日

 今は『ゴルギアス』を読んでいるが、この辺になると、随分ソクラテスが「いい人」になっちゃったなという感じがする。最初はあくの強かったキャラも、シリーズが会を重ねるごとに普通にいい人になるというのはよくあることで、結局ソクラテスは寅さんなのか。

6月10日

 最近なぜかソクラテスにはまっている。といっても、教科書や哲学の解説書に書かれているようなソクラテスではない、なんかまったく別のダークなソクラテス像が浮かんできて。クセノフォンの『ソクラテスの思い出』を読んでるときに浮かんできたのだが、プラトンの『プロタゴラス』を読んで確信した。クセノフォンのソクラテス、プラトンのソクラテス、アリストファネスのソクラテスはまぎれもなく同一人物だ。

6月3日

 昨日は月見ル君想フへ花のようにを見に行った。月見ル君想フはその名のとおり、ステージのバックに大きな丸があって、月に見立てられていた。そんなに大きなライブハウスではないが、二階席もあった。

 着くと、ステージの上に見覚えのあるオレンジのアンプがあり、あちこちにぬいぐるみが並べられているので、最初はmiauだとわかった。澄んだきれいな音で、盛り上がるところは大きな音で盛り上げる。インストだけどお面白いバンドだ。

 花のようには二番目に出てきた。下北で見た時と若干ちがう衣装で、青山に来たということでリゾートがテーマのようだった。

 ここで帰ってもよかったが、せっかく来たのであとのバンドも見た。俺はこんなもんじゃないはサックスが入って、ちょっとフュージョンっぽいバンドだった。mooolsはスリーピースのシンプルなロックバンドだったが、とにかくボーカルのキャラが壊れていた。箱庭の室内楽はピアニカを持ったダンサー(?)のキャラがメインなのか、歌のほうはよくわからなかった。でも楽しい一日だった。

 今日はツタヤでイエスの棚にイェスーがあるのを発見。借りた。

5月27日

 昨日は横浜FCが大分トリニータに快勝し、カズダンスまで出たと言う。見に行けばよかった。

 中国の方ではデスノートが問題になっていると言う。まあ、中国人は体面を重んじるから、共産党の幹部達も自分の名前が密かにデスノートの書かれていると思うと、怒り心頭に発し、怒髪天を突くというところなのだろう。

 思えば、デスノートがあっても、せいぜい犯罪者を消すことしか思いつかない日本は、やはり平和なのだろう。もし北朝鮮にデスノートがあったなら、真っ先に書かれる人の名前はきまっている。

5月23日

「イキガミ」という漫画を、たまたま家にあったので読んだ。国繁だとかの設定は相当無理があるが、24時間後に死ぬと分った時の人間ドラマは心打つものがある。ただ、俺が24時間後に死ぬと分っても、いつも一緒にいる人を別にすれば、特に合いたい人も思い浮かばないし、HPを更新するにも、死ぬ前にこれだけは書き残したいということもないし、せいぜい、黄昏時の渋谷の街をもう一度見たいかなってくらいかな。最後はそのまま道端で死にたいな。

5月20日

 昨日は向ヶ丘遊園地の跡地に残された、「生田緑地内ばら苑」に行った。確かに圧巻だった。いろいろな色のいろいろな大きさのバラが咲き乱れ、大きなものは牡丹にも負けず、これならなぜ近代に入って牡丹が廃れていったのかわかったような気がした。バラも牡丹も人類が生んだ財産なので、大切に守っていってほしい。

 夜は下北沢Garageにエレトイ企画の「Electric Neverland」を見に行った。今日は最初から人がたくさんいた。四番目に出てきた花のようにはnaanやmiauにも通じるような音楽で、面白かった。もちろんエレトイも最高でいい一日だった。

 朝、新聞を見たら、横浜FCは大宮アルディージャとの直接対決に負け、ふたたびビリに転落。

5月13日

 今日は老猫会の関係で、大井町に「十猫十色 猫だらけ展」を見に行った。一昨年『第5回 ネコの肖像画館 原画展』をやった場所だった。十一人の作家の共同作品展で、moomamaさんの陶芸も出品されていて、久しぶりにmoomamaさんとお局様に会った。

 作品はどれもレベルが高く、ほとんどプロの有名作家との差はないのではないかと思った。

 昨日は久しぶりに横浜FCが勝った。カズのJリーグ最年長ゴールと難波のゴールで、2-0。今日は大宮が引き分けで、最下位脱出。

5月6日

 昨日の流れで、今日はスウェーデン料理のレシピをネットで調べて、ヤンソンさんの誘惑とミートボールを作ってみた。昨日ミートボールのさらに添えられていたジャムは、ついついクリスピーにつけるものだと思ってしまったが、ミートボールにつけて食べるのだとわかった。ミートボールは生地が柔らかすぎて、うまく丸くならなかった。

 スウェーデンもバイキング料理が盛んなようで、文化的にはノルウエーに近いのだろうか。ピッピのお父さんも、いかにも海賊の国らしいキャラだ。それに比べるとフィンランドは民族も言語も全く系統の違う民族で、音楽の方もデスメタの国。

5月5日

 六本木のスウェーデン大使館へ「スウェーデン児童文学フェア」を見に行った。「長靴下のピッピ」の映画が上映されていた。すずちゃんが赤ちゃんのようにピッピと鳴くところから、すずピッピにゃんと呼んでいた(ちなみにゆきちゃんはゆきワンにゃんだった)つながりなのだが、実のところ長靴下のピッピについては、船に乗って南の島に行った(学校の図書室で本のタイトルだけ見たことがあった)ということ以外は何も知らなかった。映画を見て、元気で力持ちのキャラはすずちゃんにぴったりだった。

 リラ・ダーラナのスウェーデン料理も食べることができた。ミートボールやスモークサーモンやニシンのマリネを食べた。クレヨンハウスの出店も出ていたが、なぜかムーミンの本も並んでいた。ムーミンはフィンランドだろうが!

 帰りに六本木ヒルズに寄った。テレ朝では時効警察のグッズが売っていた。

4月30日

 西新井大師に行った。牡丹はちょっとピークをすぎていたが、オオデマリがきれいに咲いていた。

 テキ屋もこっちの方とちがって下町らしく、佃煮や野菜や得体の知れない開運グッズやウサギや子猫も売っていた。

4月29日

 エレトイの公式サイトがリニューアルされていて、5月19日発売の新曲の試聴とライブ映像も見ることができた。楽しみだ。

 DМCの三巻も出てた。かつてジャンプが得意としていたトーナメントネタへ。しもネタといえばしもネタだし、音楽にもそんなに詳しくないんじゃないかというところがあるが、だからこそマニアックにならずにわかりやすい。自分のしたいことと世間の求めるものとのギャップがテーマという部分では、結構アーチスト受けしているところもあるのでは。中国語版も出るらしく、いまや世界のDМC。

 横浜FCは昨日エスパルスとやっとのことで引き分けたが、それでもビリはかわらない。せっかく三ッ沢の命名権を売って、スタジアムを改修しようというのに、二部落ちじゃ買い手もつかない。がんばれ!

4月23日

 昨日は渋谷へnaanを見に行った。その前に出てきたmiaouやeksperimentiojも結構面白かった。eksperimentiojはギターロックならぬエフェクターロックとでも呼ぶべきか。終止客席にケツを向けてエフェクターとモニタースピーカー相手に演奏するスタイルは、下北で見たsix o'minusにいた人を思い出した。こういう後ろ向きな人って最近結構多いのだろうか。心海は残念ながら病欠だった。

 ライブハウスが面白いのは、ライブハウスならではの音があるからだ。閉鎖された空間での音の洪水は、家でCDを聞いても再現できない。CDになったり、テレビやラジオや有線で流れる音楽は、たいていかなり音量も小さく、音質も落ちる状態で聞かれるし、さまざまな雑音の中で聞こえてくるから、音そのものよりも感動的な歌詞や覚えやすいメロディーにかっこいいリフなどないと印象に残らない。それに対し、ライブハウスは音そのものの世界になる。

 だから、逆にライブハウスでいい音を出しているバンドがメジャーになるわけでもない。11月23日に見たバンドでも、その場の雰囲気だと最初に出てきたエレトイは何となく後に出てきたバンドに食われてしまったみたいな感じになっていったが、あの中で一番メジャーに近いのはエレトイだと思った。ライブハウスにはライブハウスに適応し、特殊化してしまうバンドというのがいるものだ。

 というわけで、ライブハウスに行こう。

 そこには未来のスターがいるかもしれない。今は武道館でも即完売のバンドでも、最初はメンバーより少ない観客の前で演奏するところから始まった。ひょっとしたら、君もそんな最初の幸運な客になれるかもしれない。

 もちろん、そこにはライブハウスでしか聞けない音がある。メジャーにはならなくてもライブハウスで面白い音を出し続ける人たちがいる。

 あと、こういうたくさんのバンドがタイバンで出る時ならではの見ものは、次のバンドが出る前に手際良く機材を片付け、次のバンドのセッティングをするスタッフたちの動き、これはさながらF1のピットだ。

 それに、ライブハウスでしか買えないレアなCDもある。これもひょっとしたら将来プレミアものになるかも。

4月14日

 日産スタジアムへ横浜FC=鹿島アントラーズ戦を見に行った。今日はカズが先発出場で、J1通産300試合出場を果たした。

 試合は前半の中ごろ、柳沢のゴールで失点すると、そのまま惜しいシュートはあったが、終止押されぎみで、そのまま0-1で負けた。今期まだ勝利のなかったアントラーズに負けるところなど、まだまだ力不足か。せっかく1万9千人も入ったのに、チームは最下位転落。後半へ向けて成長してくれればいいが。

 カズがディフェンスで活躍しているようでは困るし、後半途中で出てきた難波の動きはやはり良かったので、今ひとつぱっとしない久保に代えて最初から使っても良かったのでは。

 それにしても、去年の8月以来、勝利に見放されている。

4月8日

 今日はゆきちゃんの生誕22周年の日。フライドチキンとスモークサーモンとアスパラガスとホワイトソースのパスタで乾杯した。ゆきちゃんよ永遠に。

4月1日

 三ッ沢へ横浜FC=名古屋グランパス戦を見に行った。暖かくて、三ッ沢も桜が満開で、散り始めていた。

 試合は前半しっかり守りきったが、後半開始直後からグランパスの猛攻に押し込められる形になった。それでも何とか守り抜いて後半20分ぐらいに難波のゴールで一点先制した。しかし、そのあと「ラララララ難波(ラ・バンバのメロディーで)」を歌い終わるか終わらぬかのうちに、サイドから崩されて同点に追いつかれ、その直後にもまたサイドからやられた。

 その後、惜しいシュートもあったが、そのまま1-2で負け。まあ、優勝候補の一角で3連勝中だったグランパスに善戦したというところか。FWの難波のDFの和田の活躍も光り、それが次につながってくれればいい。

 カズが出場すれば通産300試合出場で、記念のポストカードをくれるという話だったが、結局カズは出なかった。元フリューゲルスの楢崎は試合開始すぐにけがで引っ込んだ。

 今朝の新聞に載っていた句を思い出した。

 

 吹かれ来て汚されまいぞちる桜   乙彦

 

桜は散ってもきれいなように、どんな逆境にも負けず、最後まで頑張りぬく姿もまた美しい。

3月30日

 なにやら教科書から沖縄戦の集団自決で、日本軍から強要されての記述が消えるらしい。まあ、嘘や隠し事が増えれば増えるほど、教科書も学校教育そのものも権威を失うわけだから、文部科学省は次の世代の学力低下を望んでいるのだろう。

 それはともかくとしても、集団自決という発想自体が売国的な国賊行為だということに、何で気づかないのだろうか。本当に国土を守ろうと思うなら、どんなに這いつくばってでもその土地にしがみついて生き残り、ここが日本の領土だという既成事実を守らなくてはならないはずで、逃げたり自決したりしたら、ここにはもう日本人はいませんから、どうぞ好きなように使ってくださいと言っているようなものだ。

 エルサレムではイスラエル人もパレスチナ人もいつ相手の軍隊がやってきて戦争になるかわからないし、ひとたび戦争になったらどんな虐殺が行われるかわからないような状況で、どちらも一歩も動かずに住み続けている。逃げたら最後、二度とその領土は帰ってこないとわかっているからだ。日本が本当に本土決戦を行い、一億総自決をやっていたら、今頃日本という国はなかった。

 多くの人を生かすために、少数の人間が命を投げ出すなら、崇高な行為かもしれない。しかし、日本人が誰もいなくなったら日本という国もないわけで、日本が侵略を受けたなら、どんな手段を使ってでもまずは生き延びることを考えなくてはならない。生き延びてさえいれば、いつかはふたたび独立を勝ち取る日も来る。生き延びようという意志がないなら、日本は北朝鮮にだって勝てない。

 そういうわけで、集団自決を讃美するようなやからは国賊・売国奴・非国民であり、今すぐ集団自決すべし。

3月29日

 和辻哲郎の『倫理学』がいつの間にか文庫本になっていたので、久しぶりに読み返し始めた。若い頃は普通に全体という考え方に反発して、個人のほうが重要なのではないかと思っていたが、今読むと和辻の弱点はむしろ人の間の存在(人間存在、人-間-存在)という考え方を徹底できなかったところにあったのではなかったか。

 人間存在(人-間-存在)を狭く解釈しすぎてしまったために、「個人」をそれと対立したものとして描かざるをえなくなり、結局は個人と全体の止揚もない弁証法に陥ってしまっただけで、人間存在をもう少し広く捉えれば、個人は人間存在の中に取り込むことができたはずだった。

 和辻哲郎は坊ちゃん育ちでエリートだから、日常的・平均的とはいっても、現実のきれいな世界しか知らないから、世の中の闇の部分のことは何も知らないし、興味もなかったのだろう。ただ、その闇の部分をも含めた倫理学を作れたなら、人間存在と個人との否定の弁証法は必要なくなる。

3月27日

 報国寺で見た花の名前がわかった。紙の原料になるミツマタの園芸品種、アカバナミツマタだった。別に俺は「遥か」はやっていないが、みつまたにはるかな縁を報国寺。

3月17日

 下北へふたたびElectric Toysを見に行った。最初に出てきた six o'minus は結構面白かった。最初のバンドがいいと得した気分になる。

 エレトイは以前のネクタイ姿ではなく、曲も新曲中心だった。なかなか複雑なリズムで新しいものに挑戦していた。残念なのは最後に出るゆるいカントリー風のバンドを聞きに来た人たちには、ちょっと理解を超えたものだったか。もっと盛り上がっても良かった。対バンがあるときにはブッキングに運不運がある。

 女のバンドというと、ギャルバンなんて言葉でくくられたりして、色物あつかいされがちだが、あふりらんぽといい、シェリーズといい、エレトイといい、音楽性の高いおもしろいバンドがいくつも出てきている。男とか女とかぬきにして楽しんでほしい。

3月11日

 昨日のマリノス戦の早川のゴール。まさか早川があんなループシュートをする選手だったとは思わなかった。前節のレッズ戦での久保のロングシュートといい、こういうスーパーゴールが次々と出てくるのはやはりカズ効果か。

 こうなると、引退後のカズを、あのえこひいきがひどく退屈なサッカーしかしないオシムに代えて、日本代表監督にしてもいいのではないか。野球では監督兼選手というのもありだが、選手では無理としても、監督としてカズをワールドカップに出場させてほしい。

3月10日

 今日は二度目の鎌倉ツアー。本覚寺前の谷口屋でおにぎりを食べたあと、鶴岡八幡宮、大蔵幕府跡、頼朝の墓、報国寺、梶山景時邸跡(すぐそばに酔鯨館という鯨のオブジェを置いた建物があった)、朝比奈切通、朝比奈熊野神社へ行った。その後、十二所果樹園を経由して戻るつもりが、道を間違えて反対側の朝比奈小の方に下りてしまった。写真は報国寺に咲いていた花。名前はわからない。

3月3日

 今日は鎌倉へ行った。腰越の満福寺、鎌倉高校前駅、極楽寺、極楽寺坂切通、虚空蔵堂、星月の井、御霊神社、と回って鎌倉駅に出、小町通のキャラウェイのカレーを食べた。午後は仮粧坂から源氏山公園、銭洗い弁天、佐助稲荷、鎌倉中央図書館を見た。佐助稲荷にはリスがたくさんいた。写真は虚空蔵堂。

2月28日

 まあ、日本は戦後ずーっとアメリカ合衆国日本州なんて言われてたから、これが中華人民共和国日本省になったとしても、そんなに変わんないんじゃない?今は反発している政治家も、本当に中国がアメリカを越えたら、結局みんな長いものには巻かれろとばかりに、中国に尻尾振ってついてくことになるにきまっている。在日中国軍に思いやり予算を組んだり、チベットに自衛隊を派遣したりして‥‥

 日本の弱点は、結局個人の能力は世界一と言っていいのに、組織となるとみんなそれを抑え、ひたすら我慢することしかアタマになくなってしまうところだ。サッカーもそうで、監督が組織プレーを強調すればするほど、選手は萎縮して動かなくなる。それこそ、「シュートチャンスにパスを出す」になってしまう。

 今日の水野の強靭なキープ力と不屈の粘りから生れた貴重な2点目のゴールを「持ちすぎ」なんて言うようなやつは、日本サッカー界から永久追放すべきだ。

 サッカーに限らず、今の日本に必要なのは、一人一人の個人技を最大限に生かすように、組織を再編することだ。そうしないと、香港にだって勝てないし、本当に中華人民共和国日本省になっちゃうよ。

2月25日

 ゆきちゃんが去ってからもう一年以上になり、すずちゃんはすっかり家族の一員となっている。ちょうど子育ても終わり、以前のように必死に働く必要もなくなってきたのか、何となく人生の目標を見失ったみたいで、ある意味では第二の青春が始まったのかもしれない。我が家は長いゆきちゃんの治世が終わり、すずちゃんの代に入ったのだろう。

 今日、俳諧集の『鷺の足』の巻をアップする時に、名前をゆきゆき亭こやんから鈴呂屋こやんに変えてみた。

2月22日

 今日は猫の日。とはいっても、すずちゃんは毎日が猫の日で、あばれまわっている。

 タミフル(リン酸オセルタミビル)の異常行動死が問題になっている。実際には異常行動だけでなく、睡眠時突然死なども起きていて(幼児だけでなく39歳の人も亡くなっているから他人事ではない)、脳のさまざまな機能に障害を与えることがあるようだ。

 今のところその因果関係がはっきりしていないから、注意書きをつけた状態で使用されているようだが、こういう疑わしい薬は使わないにこしたことはない。基本的には、風邪を引いたらゆっくり寝て治せるような社会を作るというのが、一番の特効薬だろう。

 タミフルは、インフルエンザのウイルスが細胞に付着し、増殖したあと、それが細胞から離れる際に作られるノイラミニダーゼと逆の形をしたたんぱく質で、これによって増殖したウイルスが拡散しないようにするらしい。

 しかし、この薬が血液に乗って脳に入った場合、何か別の作用を引き起こすのだろうか。ひょっとして何か未知の脳内物質に似ていて、脳の活動を阻害したりするのだろうか。もしそうだとすれば、脳科学の画期的な発見につながる可能性もあるのかもしれない。

 通常の幻覚剤と異なり、異常行動を起こしている際に意識がなく、記憶もないとなると、意識がなぜ生じるかという問題にも関係しているのかもしれない。

2月12日

 今日のことではなく昨日のことだが、梅が丘の羽根木公園に梅を見に行った。少し肌寒いもののいい天気で、梅も五分咲きくらいになっていた。梅祭りも行われていて人も多かった。

 天満宮から贈られた赤白一対の飛び梅もあった。ゆめゆめも心わするな花の梅。

 そのあと下北沢に行った。こういう賑やかで活気のあるところに来ると、日本もまだ捨てたもんじゃないというような、救われた気分になる。少子高齢化で国全体がジジ臭くなってきてはいるが、未来への活力を感じさせる町は今でも残っている。

 もみじ亭でお好み焼きを食べ、アンゼリカのカレーパンを買って帰った。

2月3日

 今日は節分なので豆まきをし、恵方巻を食べた。恵方巻というのは、ここ二、三年でまたたく間に定着した。どういうキャンペーンをやったのか。地上の星がいたのだろう。

 いじめというのはたいてい被害者と加害者が紙一重で、いじめに加わらなけりゃいじめられるというところでやっている人も多い。前にも言ったように、いじめを厳罰化すればするほど、本来いじめの被害者である人間が加害者に仕立てられ、責任を擦り付けられたりするものだ。

 それにいじめをした生徒の出席停止なんていうのは、いじめは学校の外でやれといっているようなもので、学校関係者の責任放棄にすぎない。いじめの厳罰化と体罰の復活には断固反対しよう。

1月13日

 今日のことではなく、10日のことだが、下北沢へエレクトリックトイズを見に行った。去年の11月23日に見て以来、ちょっと気になっていたバンドだった。

 中に入ると2人しかいない。最初のバンド(アメリカツアー)が演奏を始めた時には、ようやく9人になった。こういう小さなライブハウスの普段の日というのは、多分こういうものなのだろう。そして、今はアリーナツアーをやるようなバンドも最初はみんなこういう所から始めたのだろう。

 この歳までライブハウスらしいライブハウスはほとんど行ったことがなかったから、なんか勝手がよくわからず、戸惑うことも多い。大きなコンサートだと、出演者のいるところと客席とははっきり区別されているが、小さなライブハウスだと、出演者も演奏をしていない時には客席に普通にいるし、アンケート用紙を持って話しかけてきたりする。同世代でバンドをやってたりすると、ここで友達になったりもするのだろう。

 エレトイの演奏は2ヶ月前より上手くなっていた。きっとそのうちはるか遠くのステージでしか見ることができなくなり、チケットも取れなくなるのかもしれない。すでにRADがそうなってしまったように。

1月4日

 図書館で何となく目の止まった本だが、なにやら分厚い本で、妹尾河童の『少年H』について書かれた本だが、内容は、この自伝的小説を当時の史料と照らし合わせてその間違いを指摘するというものだった。実際人間の記憶というのは当てにならないものだし、書く方もいちいちすべて史料に照らすなんてこともしないだろうから、突っ込みどころを探せばいくらでも出てくるものだ。

 いくらなんでも、こうした小説を全部事実だと信じる人はいないだろうし、この小説を史料として扱う歴史家もいないだろうから、そんな害があるものとは思えないが、記憶を過信してはならないという警告ぐらいにはなるだろう。

 戦争の記憶を風化させるなという人がいるが、時がたって風化しない記憶なんてない。風化するという前提で、その時代に書かれた確実な資料をきちんと保存するということが一番大事なことで、年寄りをつかまえていろいろ回想させても、かえって不確かな情報を撒き散らすだけになるものだ。

 芭蕉の『奥の細道』も曾良の日記が発見されてから、食い違いが何箇所もあることが何度となく指摘されてきた。中には、それを根拠に『奥の細道』偽作説なんてのもあったが、さすがに自筆本が発見されてからは、それもないだろう。どこまでが文飾による確信犯なのか、どこまでが単なる記憶違いなのか、判別は難しいから、俺は別にそのことで芭蕉を糾弾するつもりはない。

 今の歴史小説なんてものは、多分その時代の人が読んだらびっくりするものばかりだろう。小説はそれでいいのではないか。果たして小説に真実を求めている人なんてどれくらいいるのか。みんな嘘でも面白ければいいと思って読んでいるのではないか。大体面白い話というのはどこか作りがあるものだ。ただその日あったことだけを書いた退屈な日記の方が、実は後になって本当に貴重な史料になったりする。つまらないブログほど、保存しておけば後になって価値が出るのかもしれない。

1月1日

 去年の暮に、HPが更新できなくなったときには、もうこのサイトもやめようかと思ったこともあったが、とりあえず続けることだけでも何か価値があるかなと思い、続けることにし、「挨拶」のページも若干加筆してみた。

 「生存競争だから勝たねば」という論理に支配された独裁的な組織によって引き裂かれた日本人の心を、いつか取り戻せる日が来ることを、もう少し夢見てもいいじゃないか。まだ敗北宣言には早すぎると思った。

 新聞の一面を見ると、日本の経済の「秘められた力は世界一」だという。しかし、バブル崩壊前から盛んに言われてきた「輸出主導型経済から内需主導型経済への転換」がことごとく失敗に終わったのも事実だろう。バブル崩壊後には、結局リストラの恐怖をちらつかせることで、賃金カットと長時間労働化が推し進められ、内需を犠牲にしてでも輸出競争力を回復することで、失われた十年を乗り切ろうとしてきた。この体質が変わらない限り、「秘められた力」は永久に秘められたままだろう。

 連句の問題についても、すっかり興味を失いかけていたが、続けることだけでも何か意味があるのではないか。連句の研究は文学のことだけ知っていればいいというものではなく、広く雑学を必要とする上、世俗の人情にも通じてなければいけないし、「お笑い」のセンスも要求される。こんなことを生真面目で頭の固い学者に任せていいのだろうか。M1グランプリのチュートリアルの漫才で笑えないような人に、連句を論じてほしくない。

 今日はいつものように琴平神社へ初詣に行ってきた。何を祈っていいのかわからないような状態だが、とにかくいつかすべてがうまくいきますように。