「ためつけて」の巻、解説

貞享四年十一月二十八日、名古屋昌碧亭にて

初表

   同二十八日名古や昌碧会

 ためつけて雪見にまかる帋子哉   芭蕉

   ゐている土に拾はれぬ塵    昌碧

 松風に睡る日向のすくなくて    龜洞

   鶴白鳥の下りておもしろ    荷兮

 水浅く舟押ほどの秋の暮      野水

   もう山の端に月の一ひろ    聴雪

 

初裏

 きぬぎぬや烏帽子置床忘れけり   越人

   眉ほそむるも恥るうかれ女   舟水

 寄手にはいつともなげに哥よみて  執筆

   干飯の水のつめたきもなし   龜洞

 着て来たる布子苦に成昼の比    昌碧

   なみだうつりて能は覚へず   野水

 門跡の顔見る人はなかりけり    荷兮

   笈に雨もる峯の稲妻      芭蕉

 よいほどの寐たから後の碪きく   聴雪

   夜の明るやと膽つぶす月    越人

 うかうかと律儀に花のまたれつる  舟泉

   雉もしらで飼るうぐひす    龜洞

 

 

二表

 尼寺に春雨つづくしとしとと    昌碧

   釣瓶なければ水にとぎれて   聴雪

 夕顔の軒にとり付久しさよ     越人

   布杭二本夜は淋しき      荷兮

 隙くれし妹をあつかふ人も来ず   芭蕉

   食焼事を倦て泣けり      昌碧

 旅立の心はむさきものなれや    舟泉

   けふ髪剃に鴨川の水      野水

 蝉の声単の衣も身に付ず      龜洞

   細きかいなの枕いたげに    越人

 月しのぶ帋燭をけしてすべり入   荷兮

   もの着て君をおどす秋風    芭蕉

 

二裏

 此橋を好んでかへる霧の中     舟泉

   山引出して乗初る駒      聴雪

 しでかけて雁股つがふ弓ふとく   龜洞

   独ころびてより皆ころびけり  越人

 何かたも花に成たる花の陰     野水

   藪の中にも椿山吹       聴雪

 

       『校本芭蕉全集 第三巻』(小宮豐隆監修、一九六三、角川書店)

初表

発句

 

   同二十八日名古や昌碧会

 ためつけて雪見にまかる帋子哉   芭蕉

 

 「ためつける」はコトバンクの「精選版 日本国語大辞典の解説」に、

 

 「① 悪く曲がったりしわのよったりしている衣服を、きちんと正しくする。また、正しくよそおう。折目をただす。

  ※日葡辞書(1603‐04)「キルモノヲ tametçuqete(タメツケテ) キル」

  ※幸若・烏帽子折(室町末‐近世初)「ゑぼしため付てめされ」

  ② 方式どおりに正しくする。きっちりとする。

  ※浮世草子・風流曲三味線(1706)五「万死一生の場にて筆も振はず、斯様にためつけては書れさうなものでなし」

 

とある。

 芭蕉の時代は寒冷期で今よりはかなり寒かったと思われる。中京地区は琵琶湖の北に高い山がないのと関ヶ原の所から雪雲が入り込むので、雪は降りやすい。とはいえ、十一月二十日には鳴海自笑亭で、

 

 面白し雪にやならん冬の雨     芭蕉

 

の句を詠んでいるように、雨が降っていて、夜更け過ぎには雪に変わるだろうかという感じの句だ。

 そのあと二十四日には、

 

 磨ぎなほす鏡も清し雪の花     芭蕉

 

の句があるから、その後雪は降ったのだろう。

 「帋子(かみこ)」は風を通さないので防寒着にもなる。ただ湿気には弱そうなので、雪見に行くときは衣の下に来たのではないかと思う。

 昌碧の家に来るのにちゃんと衣の皺を伸ばし、きちんとした格好で来ました、というのだが、そのあと「雪見にまかる」とくると、「ただし雪を見にね」となり、整えたのは紙子でしたという落ちになる。活字で見ると分かりにくいが、これをゆっくりと吟じると、最後の「紙子」の所でみんな笑ったのではないかと思う。

 昌碧(しょうへき)は名古屋の人という以外によくわからない。『阿羅野』に多くの句が入集している。

 

季語は「雪見」で冬、降物。「帋子」は衣裳。

 

 

   ためつけて雪見にまかる帋子哉

 ゐている土に拾はれぬ塵      昌碧

 (ためつけて雪見にまかる帋子哉ゐている土に拾はれぬ塵)

 

 「ゐている」は「凍て入る」で凍り付くということ。

 せっかくびしっと紙子を着ていらしてくれたのですけど、辺りは凍り付いていて掃除もできません、とまあ、「汚いところですが」という寓意を持たせて応じている。

 

季語は「ゐている土」で冬。

 

第三

 

   ゐている土に拾はれぬ塵

 松風に睡る日向のすくなくて    龜洞

 (松風に睡る日向のすくなくてゐている土に拾はれぬ塵)

 

 松風が吹いていて日差しの穏やかに眠るような日向は少なくて、土は凍ってしまい塵を拾うこともできない、となる。

 

無季。

 

四句目

 

   松風に睡る日向のすくなくて

 鶴白鳥の下りておもしろ      荷兮

 (松風に睡る日向のすくなくて鶴白鳥の下りておもしろ)

 

 鶴や白鳥が降りてきて面白いけど、日向は少なくて、となる。

 

無季。「鶴白鳥」は鳥類。

 

五句目

 

   鶴白鳥の下りておもしろ

 水浅く舟押ほどの秋の暮      野水

 (水浅く舟押ほどの秋の暮鶴白鳥の下りておもしろ)

 

 水が浅くて船の底がついてしまい、押していかなくてはならないようなところだが、鶴や白鳥が面白い。それに「秋の暮」を放り込む。

 

季語は「秋の暮」で秋。「舟」は水辺。

 

六句目

 

   水浅く舟押ほどの秋の暮

 もう山の端に月の一ひろ      聴雪

 (水浅く舟押ほどの秋の暮もう山の端に月の一ひろ)

 

 前句の「秋の暮」を秋の夕暮れとして山の端に月が出る。

 

季語は「月」で秋、夜分、天象。「山の端」は山類。

初裏

七句目

 

   もう山の端に月の一ひろ

 きぬぎぬや烏帽子置床忘れけり   越人

 (きぬぎぬや烏帽子置床忘れけりもう山の端に月の一ひろ)

 

 通ってきた男の帰って行く朝、烏帽子をどこに置いたか思い出せない。(散々探したあげく、何だ被ってんじゃん、という落ちになりそうだが)

 前句を山の端に沈む月とする。

 

無季。恋。「烏帽子」は衣裳。

 

八句目

 

   きぬぎぬや烏帽子置床忘れけり

 眉ほそむるも恥るうかれ女     舟泉

 (きぬぎぬや烏帽子置床忘れけり眉ほそむるも恥るうかれ女)

 

 「うかれ女」はweblioの「学研全訳古語辞典」に、

 

 「歌舞で人を楽しませたり、売春をしたりする女。遊女。遊(あそ)び女(め)。」

 

とある。

 一夜過ごした後、さっさと帰ってくれればいいのに、烏帽子がないなんて言い出して、しょうもないやら、それに部屋の中をあちこち見られて恥ずかしいやら。

 

無季。恋。「うかれ女」は人倫。

 

九句目

 

   眉ほそむるも恥るうかれ女

 寄手にはいつともなげに哥よみて  執筆

 (寄手にはいつともなげに哥よみて眉ほそむるも恥るうかれ女)

 

 「寄手(よせて)」はコトバンクの「デジタル大辞泉の解説」に、

 

 「攻め寄せる側の軍勢。」

 

とある。この場合は軍というよりは手入れに来た岡っ引きではないか。平静を装う。

 連衆八人一巡したところで執筆が一句詠む。

 

無季。「寄手」は人倫。

 

十句目

 

   寄手にはいつともなげに哥よみて

 干飯の水のつめたきもなし     龜洞

 (寄手にはいつともなげに哥よみて干飯の水のつめたきもなし)

 

 「干飯(ほしい)」は炊いた米を干したもので、夏などの食欲のないときに水でもどして食う。その干飯が冷たくないというのは、要するに「ぬるい」ということ。敵の軍勢が押し寄せてきたけど「ぬるいな」と言って歌を詠む。

 曲亭馬琴編の『増補 俳諧歳時記栞草』では夏の季語になっている。

 

季語は「干飯」で夏。

 

十一句目

 

   干飯の水のつめたきもなし

 着て来たる布子苦に成昼の比    昌碧

 (着て来たる布子苦に成昼の比干飯の水のつめたきもなし)

 

 「布子(ぬのこ)」はコトバンクの「百科事典マイペディアの解説」に、

 

 「綿入れのこと。庶民が胴着にして着用した粗末な防寒衣。江戸時代には多く木綿を用い,これに厚く綿を入れて,上から綿が動かぬように刺してとじつけたものもあった。」

 

とある。冬でも昼は高温になることもあり、布子を着てると暑くなる。干飯を戻す水もぬるくなる。

 

季語は「布子」で冬、衣裳。

 

十二句目

 

   着て来たる布子苦に成昼の比

 なみだうつりて能は覚へず     野水

 (着て来たる布子苦に成昼の比なみだうつりて能は覚へず)

 

 昼になって朝の後朝を思い出す。喧嘩をしたか突然の別れを切り出されたか、とにかく何が起こったのか未だに理解できない。

 

無季。恋。

 

十三句目

 

   なみだうつりて能は覚へず

 門跡の顔見る人はなかりけり    荷兮

 (門跡の顔見る人はなかりけりなみだうつりて能は覚へず)

 

 「門跡(もんぜき)」はコトバンクの「精選版 日本国語大辞典の解説」に、

 

 「[1] 仏語。

  ① 祖師から継承する法流。また、法流を継ぐ門徒、さらにその門徒が住持する寺家・院家のこと。

  ※観智院本三宝絵(984)下「世世の賢臣おほくこの門跡をつげり」

  ② 皇族・貴族の子弟が出家して、入室している特定の寺格の寺家・院家。また、その寺家・院家の住職。南北朝時代には、寺院の格式を表わす語となり、江戸幕府は、宮門跡・摂家門跡・清華門跡・准門跡などに区分して制度化した。門主。

  ※太平記(14C後)一「梨本の門跡に御入室有て、承鎮親王の御門弟と成せ給ひて」

  [2] (本願寺は准門跡であるところからいう) 本願寺の称。また、その管長の称。御門跡。

  ※咄本・昨日は今日の物語(1614‐24頃)下「六条のもんぜきに能の有時」

 

とある。いずれも格式の高い立派な寺院で、門跡が人前に姿を現すこともないのだろう。ただただありがたくて涙がこぼれる。

 

無季。釈教。「門跡」「人」は人倫。

 

十四句目

 

   門跡の顔見る人はなかりけり

 笈に雨もる峯の稲妻        芭蕉

 (門跡の顔見る人はなかりけり笈に雨もる峯の稲妻)

 

 前句の門跡を廃寺になった門の跡と取り成したか。誰もいない廃寺に笈を背負った巡礼の旅人がしばし雨宿りする。笈の上に雨漏りの水が落ち、峯には稲妻が光る。

 

季語は「稲妻」で秋。旅体。「雨」は降物。「峯」は山類。

 

十五句目

 

   笈に雨もる峯の稲妻

 よいほどの寐たから後の碪きく   聴雪

 (よいほどの寐たから後の碪きく笈に雨もる峯の稲妻)

 

 雨漏りのする宿坊だろうか。宵の内に寝ると夜中に砧の音で目覚める。

 

季語は「碪」で秋。「寐たから」は夜分。

 

十六句目

 

   よいほどの寐たから後の碪きく

 夜の明るやと膽つぶす月      越人

 (よいほどの寐たから後の碪きく夜の明るやと膽つぶす月)

 

 夜中に目覚めたのを月が出て夜明けかと思ったからだとする。「膽」は「きも」。

 

季語は「月」で秋、夜分、天象。

 

十七句目

 

   夜の明るやと膽つぶす月

 うかうかと律儀に花のまたれつる  舟泉

 (うかうかと律儀に花のまたれつる夜の明るやと膽つぶす月)

 

 「うかうか」はコトバンクの「デジタル大辞泉の解説」に、

 

 「[副](スル)

  1 気がゆるんで注意が行き届かないさま。うっかり。「うかうかと口車に乗せられる」

  2 しっかりした心構えや目的を持たず、ぼんやり時を過ごすさま。「同業者も増えたのでうかうかしていられない」

  3 気分が浮き立つさま。心が落ち着かないさま。

  「ああ有り難き太夫さまの黄金の肌(はだへ)と、―さすって居る内に」〈浮・一代男・七〉」

 

とある。今はほとんど1の意味だが、ここでは3の意味であろう。

 夜が明ければ花が見えると浮かれた気分で律儀に夜明けを待っていたら、月が出たのを夜明けと間違えてしまった。

 「夜桜」は電気の普及した近代のことで、昔の夜は真っ暗で桜は見えない。

 

季語は「花」で春、植物、木類。

 

十八句目

 

   うかうかと律儀に花のまたれつる

 雉もしらで飼るうぐひす      龜洞

 (うかうかと律儀に花のまたれつる雉もしらで飼るうぐひす)

 

 鶯は古代から鶯合というウグイスの鳴き声を競わす遊びがあり、そのための鶯を調達するのに「鶯飼」という物売りがいた。

 ずっと屋内で飼われた鶯は律儀に花を待っているが、雉(きぎす)なんて知らないのだろうな、となる。

 

季語は「雉」「うぐひす」で春、鳥類。

二表

十九句目

 

   雉もしらで飼るうぐひす

 尼寺に春雨つづくしとしとと    昌碧

 (尼寺に春雨つづくしとしとと雉もしらで飼るうぐひす)

 

 鶯を飼う尼さんだが、春雨の続く中で寺に籠る尼さんもまた籠の鳥か。

 

季語は「春雨」で春、降物。釈教。

 

二十句目

 

   尼寺に春雨つづくしとしとと

 釣瓶なければ水にとぎれて     聴雪

 (尼寺に春雨つづくしとしとと釣瓶なければ水にとぎれて)

 

 釣瓶まければって釣瓶をどうしちゃったのだろうか。古い寺なので壊れたままになっているのか。当時の尼さんはかなり劣悪な環境で暮らしてたんだろうか。

 

無季

 

二十一句目

 

   釣瓶なければ水にとぎれて

 夕顔の軒にとり付久しさよ     越人

 (夕顔の軒にとり付久しさよ釣瓶なければ水にとぎれて)

 

 夕顔が軒にとりつくようになって久しくなる。これが井戸の軒にとりついて、釣瓶が使えなくなるということなら、

 

 朝顔につるべとられてもらひ水   千代女

 

に先行する句となる。千代女は元禄十六年の生まれでまだ生まれていない。

 

季語は「夕顔」で夏、植物、草類。

 

二十二句目

 

   夕顔の軒にとり付久しさよ

 布杭二本夜は淋しき        荷兮

 (夕顔の軒にとり付久しさよ布杭二本夜は淋しき)

 

 「布杭(ぬのぐひ)」はよくわからない。『校本芭蕉全集 第三巻』の注には「物干杭か。」とある。

 江戸時代の絵を見ると物干し棹はたいてい高い柱にかけられている。当時の着物の丈を考えると人の背丈くらいの高さは必要だった。これのことだとしても、「夜は淋しき」がよくわからない。夜だから屋内という感じもする。衣桁の柱のことか。

 

無季。「夜」は夜分。

 

二十三句目

 

   布杭二本夜は淋しき

 隙くれし妹をあつかふ人も来ず   芭蕉

 (隙くれし妹をあつかふ人も来ず布杭二本夜は淋しき)

 

 夫に暇を出された妻を預かっているが、誰も迎えに来ない。布杭二本の夜は寂しい。

 

無季。恋。「妹」「人」は人倫。

 

二十四句目

 

   隙くれし妹をあつかふ人も来ず

 食焼事を倦て泣けり        昌碧

 (隙くれし妹をあつかふ人も来ず食焼事を倦て泣けり)

 

 見捨てられて飯を炊くこともせずに泣いている。

 

無季。恋。

 

二十五句目

 

   食焼事を倦て泣けり

 旅立の心はむさきものなれや    舟泉

 (旅立の心はむさきものなれや食焼事を倦て泣けり)

 

 「むさし」はweblio古語辞典の「学研全訳古語辞典」に、

 

 「むさくるしい。不潔である。心ぎたない。卑しい。

  出典西鶴織留 浮世・西鶴

  「塩籠(しほかご)にむさき事どもして」

  [訳] (油虫どもが)塩籠に不潔なことごとをして。」

 

とある。「むさ苦しい」という言葉で今日にも残っている。

 飯を炊くのも面倒くさがるのだから、掃除も洗濯も面倒くさがる汚らしい人なのだろう。そのうち世間のことも面倒くさくなって旅に出る。

 芭蕉の肖像を見ても無精髭が描かれていたりするから、案外むさかったか。

 

無季。旅体。

 

二十六句目

 

   旅立の心はむさきものなれや

 けふ髪剃に鴨川の水        野水

 (旅立の心はむさきものなれやけふ髪剃に鴨川の水)

 

 旅人は多少の汚いのを気にしないから、川の水で髭や髪を剃ってたりする。

 

無季。「鴨川」は名所、水辺。

 

二十七句目

 

   けふ髪剃に鴨川の水

 蝉の声単の衣も身に付ず      龜洞

 (蝉の声単の衣も身に付ずけふ髪剃に鴨川の水)

 

 乞食僧だろう。

 

 乞食かな天地を着たる夏衣     其角

 

の句もある。

 

季語は「蝉」で夏、虫類。「単(ひとえ)」は衣裳。

 

二十八句目

 

   蝉の声単の衣も身に付ず

 細きかいなの枕いたげに      越人

 (蝉の声単の衣も身に付ず細きかいなの枕いたげに)

 

 『源氏物語』の空蝉であろう。源氏の君に迫られ衣を残して逃げて行く。

 

無季。恋。

 

二十九句目

 

   細きかいなの枕いたげに

 月しのぶ帋燭をけしてすべり入   荷兮

 (月しのぶ帋燭をけしてすべり入細きかいなの枕いたげに)

 

 これは普通に夜這いのようだが。

 

季語は「月」で秋、夜分、天象。恋。「帋燭」も夜分。

 

三十句目

 

   月しのぶ帋燭をけしてすべり入

 もの着て君をおどす秋風      芭蕉

 (月しのぶ帋燭をけしてすべり入もの着て君をおどす秋風)

 

 帋燭が消えたかと思ったら、急に何かが部屋に入ってきた。お化けかと思ってびっくりしたが、よく見ると秋風に吹き飛ばされた衣だった。

 

季語は「秋風」で秋。「君」は人倫。

二裏

三十一句目

 

   もの着て君をおどす秋風

 此橋を好んでかへる霧の中     舟泉

 (此橋を好んでかへる霧の中もの着て君をおどす秋風)

 

 江戸時代は大きな川にはわざと橋を作らせなかった。橋のある所は橋を渡るのが普通だろう。橋か渡し船かを選べるところというと琵琶湖の矢橋(やばせ)の渡しと瀬田の唐橋であろう。

 

 もののふの矢橋の船は速かれど

     急がば廻れ瀬田の長橋

              宗長法師

 

の歌があるように、船は天候に左右されるので瀬田の唐橋を渡った方が確実という意味だ。

 となると「此橋を好んで」は急がば回れと慎重に瀬田の唐橋を選ぶ旅人であろう。特に霧の日は橋を選んで正解だ。

 前句と合わせると、この慎重な旅人は琵琶湖の向こう側の恋人の所に通う男だろう。秋風の音に不安になってないか心配で、霧の中、橋を渡る。

 

季語は「きり」で秋、聳物。「橋」は水辺。

 

三十二句目

 

   此橋を好んでかへる霧の中

 山引出して乗初る駒        聴雪

 (此橋を好んでかへる霧の中山引出して乗初る駒)

 

 山に放牧されていた馬を引出して初乗りする。馬だから船に乗せずに橋を渡る。

 

無季。「山」は山類。「駒」は獣類。

 

三十三句目

 

   山引出して乗初る駒

 しでかけて雁股つがふ弓ふとく   龜洞

 (しでかけて雁股つがふ弓ふとく山引出して乗初る駒)

 

 「雁股」はコトバンクの「デジタル大辞泉の解説」に、

 

 「鏃(やじり)の一。先が二またに分かれ、内側に刃をつけたもの。飛ぶ鳥や走っている獣の足を射切るのに用いる。また、それをつけた矢。」

 

とある。

 「しでかけて」は紙垂(しで)を挟んだ破魔矢のような矢で、流鏑馬のような神事と思われる。

 

無季。

 

三十四句目

 

   しでかけて雁股つがふ弓ふとく

 独ころびてより皆ころびけり    越人

 (しでかけて雁股つがふ弓ふとく独ころびてより皆ころびけり)

 

 鬼やらい神事だろうか。本当に射るわけではなくあくまで演技なので、一人の鬼が転んだのを合図にみんな一斉にコケるというのはありそうだが。

 

無季。

 

三十五句目

 

   独ころびてより皆ころびけり

 何かたも花に成たる花の陰     野水

 (何かたも花に成たる花の陰独ころびてより皆ころびけり)

 

 花見に訪れる群衆の将棋倒しであろう。転んでケガしても花見の花。火事と喧嘩のようなものか。

 

季語は「花」で春、植物、木類。

 

挙句

 

   何かたも花に成たる花の陰

 藪の中にも椿山吹         聴雪

 (何かたも花に成たる花の陰藪の中にも椿山吹)

 

 どこもかしこも花が咲いているというので、桜だけでなく、桜の影でも藪の中に椿や山吹が咲いている。貴賤群衆も花なれば、薮のなかも至る所花と目出度く一巻を締めくくる。

 

季語は「椿、山吹」で春、植物、木類、草類。