「牛流す」の巻、解説

元禄七、後五月下旬洛参会の時

初表

 牛流す村のさはぎや五月雨      諷竹

   あを葉ふき切栴檀の花      去来

 一枚の莚に昼ねをし合て       芭蕉

   つかもこじりもふるきわきざし   惟然

 月影に苞の海鼠の下る也       丈草

   堤おりては田の中のみち     支考

 

初裏

 家々はなよ竹はらの間にて      去来

   お齋は月に十五はいある     諷竹

 秋もやや今朝からさむき袷がけ    惟然

   厂より鴨のはやう来て居る    野明

 抱込で松山廣き有明に        支考

   あふ人ごとの魚くさきなり     芭蕉

 雨乞のしぶりながらに降出して    丈草

   紡苧をみだす櫛箱のふた     惟然

 極楽でよい居所をたのみやり     諷竹

   しはうきたなううき世経にけり   去来

 道もなき畠の岨の花ざかり      丈草

   半夏を雉子のむしる明ぼの    支考

 

 

二表

 川舩のにごりにくだすうす霞     野明

   塔にのぼりて消るしら雲     惟然

 売に出す竹の子掘ておしむらん    支考

   茶どきの雨のめいわくな隙    諷竹

 このごろの上下の衆のもどらるる   去来

   腰に杖さす宿の気ちがひ    芭蕉

 わらぶきにゆふごの形のおもたくて  惟然

   ちらちら鳥のわたり初けり    野明

 朝の月起々たばこ五六ぷく      諷竹

   分別なしに恋をしかかる     去来

 蓬生におもしろげつく伏見脇     芭蕉

   かげんをせせる浅づけの桶   惟然

 

二裏

 出来て来る青の下染気に入て     野明

   なにをけらけらわらふかみゆひ  諷竹

 吸物で座敷の客を立せたる      去来

   肥後の相場を又聞てこい     芭蕉

 幾口か花見の連にさそはれて     惟然

   日ぐせになりしはるのあめかぜ  野明

     参考;『校本 芭蕉全集 第五巻』1988、富士見書房

初表

発句

 

 牛流す村のさはぎや五月雨      諷竹

 

 ここでは諷竹とあるが、この頃はまだ之道(しどう)だった。なお、この少し前に素牛(そぎゅう)は惟然(いぜん)に号を変えている。鳳仭(ほうじん)もこのころ野明(やめい)と改めている。

 野明の場合は鳳仭の「仭」の字が「刃」を連想させて風雅ではないという理由からだったことが、『去来抄』に書かれている。それからすると之道は「士道」に通じるとか、素牛は角を突き合わせるとか理由があったのかもしれない。之道の場合は、近江から大阪にやってきて大阪蕉門を名乗り、洒堂(しゃどう)に改めた珍碩との対立から、「しゃどう」「しどう」の名前のかぶりを嫌ったのかもしれない。

 発句の意味は単純にその頃折からの五月雨の増水で、牛が流されるという事件があったのではないかといわれている。だが、案外この相次ぐ改名で素牛の名も流されて、落柿舎では大騒ぎという楽屋落ち的な洒落があったのかもしれない。

 

季語は「五月雨」で夏。降物。「牛」は獣類。

 

 

 

   牛流す村のさはぎや五月雨

 あを葉ふき切栴檀の花     去来

 (牛流す村のさはぎや五月雨あを葉ふき切栴檀の花)

 

 栴檀(せんだん)は五月の終わりごろから花をつけるから、旧暦の五月、五月雨の頃に花が咲く。しかし、そんな時期に牛を流すほどの嵐が来たのなら、栴檀の葉の吹き散ってしまう。それでも花芽は残って今こうして咲いている。

 なお、「栴檀は二葉より芳し」の栴檀は白檀(びゃくだん)という別の植物のことだと言われている。

 

季語は「栴檀」で夏。植物(うえもの)、木類。「あお葉」も夏。「あお葉」も「花」も植物(うえもの)。

 

 

第三

 

   あを葉ふき切栴檀の花

 一枚の莚に昼ねをし合て       芭蕉

 (一枚の莚に昼ねをし合てあを葉ふき切栴檀の花)

 

 「昼寝」は近代では夏の季語だが、当時は無季。近代に入ると時間内はきっちり働かされるようになり、なかなか昼寝するということもなくなったが、夏の暑い盛りには多少は許されていたか。それもエアコンなど空調が整うと、大体日本からは昼寝の習慣も消えていった。昭和初期には昼寝というと夏だったのかもしれないが、今は別に夏の季節感はない。江戸時代には逆の意味で昼寝は夏に限るものではなかった。

 芭蕉の句は、「あを葉ふき切きる」を青葉が十分に吹いてしまったという意味に取り成しての付けだろう。「昼寝」がその匂いの移りとなる。夏の日差しを避けて、鬱蒼と葉の茂る栴檀の木の下で莚むしろを敷いて昼寝をしようとしたのだろう。だが、寝相が悪く、狭い莚の上で押し合いになってしまった。

 

無季。

 

 

四句目

 

   一枚の莚に昼ねをし合て

 つかもこじりもふるきわきざし 惟然

 (一枚の莚に昼ねをし合てつかもこじりもふるきわきざし)

 

 場所は限定されていない。貧乏長屋の片隅と見てもいいし、橋の下や川原などでホームレスをやっているのかもしれない。一枚の莚(むしろ)を取り合って昼寝する男はどうやら牢人だったか、脇差の柄(つか)も小尻もすっかり古びている。一枚の莚のイメージからの位付けの句といえよう。元禄期には大名のとりつぶしや改易(領地没収)が相次ぎ、二十万とも四十万ともいわれる浪人が街にあふれ、社会問題になっていた。

 

無季。

 

 

五句目

 

   つかもこじりもふるきわきざし

 月影に苞の海鼠の下る也       丈草

 (月影に苞の海鼠の下る也つかもこじりもふるきわきざし)

 

 「苞(つと)」というのは包んだものということで、土産などの意味もある。「下(さが)る」は「脇差に下る」と付く。月の夜に酒でも飲もうと浪士が海鼠(なまこ)の包みを下げて月の照らす道を行くのだろう。手に持つのではなく脇差に引っ掛けているあたりが横着な感じがする。

 これも古びた脇差を持つ者からの位付けで、みすぼらしい牢人ではなく、酔狂者に仕立てている。あえて秋の月ではなく冬の月にしたところは、「月並」を逃れる一つの工夫だろう。

 

季語は「海鼠」で冬。虫類。「月」は単独だと秋だが、元来月は一年中あるため、他の季節の季語と組み合わせるとその季節のものとなる。夜分、天象(中世連歌でいう「光物(ひかりもの)」に相当する)。

 延宝六年刊の立圃編『増補はなひ草』には、「月ニきさらぎ・やよひ・五月雨・師走 少も不嫌。」とある。発句の「五月雨」と三句去りだが問題はない。

 

 

六句目

 

   月影に苞の海鼠の下る也

 堤おりては田の中のみち    支考

 (月影に苞の海鼠の下る也堤堤おりては田の中のみち)

 

 これはちょっと変わったパターンの付けで、「苞(つと)」に「つつみ」、「さがる」に「おりて」と類似語で付いている。支考ならではの閃きか。苞を下げながら堤を下りればそこは田の中の道。大体川沿いには田んぼが広がっているもので、川の堤を下りれば、そこは田んぼの中の道だ。この句を聞いて芭蕉がどんな顔をしたか見ものだ。

 

無季。「堤」は水辺。

初裏

七句目

 

   堤おりては田の中のみち

 家々はなよ竹はらの間にて      去来

 (家々はなよ竹はらの間にて堤おりては田の中のみち)

 

 去来というくらいだから、やはり陶淵明のファンなのだろう。一面広がる田んぼの奥に集落があり、そこはしなやかに揺れる竹に覆われている。その中に陶淵明みたいな官を辞して晴耕雨読の生活を送る隠士もいるのだろう。これが柳だったらまさに五柳先生(陶淵明)で、それでは付きすぎになるから、ここではあくまで面影だけとする。

 ところで、ここで野明が句を詠んでいれば、この日の連衆が一通り揃う所なのだが、まだ駆け出しで遠慮したのか。同じ頃の「葉がくれを」の巻ではこの七人に浪化と野童を加えた九人の歌仙で一番最後の九番目に詠んでいる。

 

無季。「家々」は居所。「竹」は植物、木類。二句目の「栴檀」から四句隔てている。

 

 

八句目

 

   家々はなよ竹はらの間にて

 お齋は月に十五はいある    諷竹

 (家々はなよ竹はらの間にてお齋は月に十五はいある)

 

 竹原の間の家々をお寺とする。「齋(とき)」というのは本来仏教で正午より後に食べる正しい食事のことだったが、それが転じて、僧に施す食事、あるいは仏事・法事そのものをも表すようになった。ここの僧は月に十五杯の食事の施しを村人から得ているのだろう。単純に考えれば二日で一杯だからこれでは相当貧しい。ただ、これを仏事が月に十五回もあるとするなら、結構裕福な感じになる。前句の隠士の情を離れるなら、村人が皆信心深く、お寺も栄えていると読んだ方がいいかもしれない。

 ところで、五句目に月が出て、それから二句しか隔てずにここに日次の月が出ている。これは同字三句去りにしては早すぎる。ただ、貞門系の立圃編『増補はなひ草』(延宝六年刊)には「月ニ正月・月迫 二句嫌 月なみの月、三句嫌也」とあるから、おそらく当時の一般的なルールでは二句去りでよかったのだろう。

 しかし、十五という数字が何か意味ありげに十五夜の連想を誘ってないだろうか。

 これは「けふばかり」の巻で「宵闇」を出した後、月がないのが淋しいというので日次の月を出して形式的に月の定座を守ったのに何か似ているように思える。つまり、初の表の月の定座で冬の月を出したのは、月並になりがちな月の定座に変化を持たせる一つの試みではあったが、名月が出なかったので淋しいということで、ここに日次の月と十五という数字を出して、形だけ名月を出したのではなかったか。

 定座は本来式目にはなく、あくまで慣習に過ぎないため、別に月を出さなかったからとか、名月でないからということで違反になるということではない。

 

無季。「お齋(とき)」は釈教。

 

 

九句目

 

   お齋は月に十五はいある

 秋もやや今朝からさむき袷がけ    惟然

 (秋もやや今朝からさむき袷がけお齋は月に十五はいある)

 

 月に十五は別に十五夜のことではないのだが、十五夜の匂いはする。その匂いからだろう。季節を秋に転じる。内容的には何の変哲もないもので、秋で今朝は冷えるから一枚羽織ろう、というだけのもの。遣り句といえば遣り句だが、秋の句へと逃げることで、「月に十五」が引き立つ。

 

季語は「秋」で秋。「袷(あはせ)」は衣装。

 

 

十句目

 

   秋もやや今朝からさむき袷がけ

 厂より鴨のはやう来て居る   野明

 (秋もやや今朝からさむき袷がけ厂より鴨のはやう来て居る)

 

 「厂」は「雁(がん)」のこと。雁も鴨もともに渡り鳥だが、雁は九月にはもう第一陣が渡ってくるのに対し、鴨は通常十一月位に大挙して飛来する。そのため雁は秋の季語だが、鴨は冬の季語となる。異常に寒い年か何かで、秋だというのにあまりに寒いのであわてて袷(あはせ)がけを着たところ、雁が来る前に鴨が来ていたというのだろう。野明(やめい)はこれが一句目。

 

季語は「雁」で秋。「鴨」は冬だが、鴨の飛来が異常に早く秋にもう渡ってきたという意味なので、内容的には秋。ともに鳥類。

 

 

十一句目

 

    厂より鴨のはやう来て居る

 抱込で松山廣き有明に        支考

 (抱込で松山廣き有明に厂より鴨のはやう来て居る)

 

 「抱く」というと何のことかわかりにくいが、「いだく」と言えばわかりやすいか。雪をいだくと言えば、雪を積もらせることであり、「大志をいだく」とは大志を思い描くことをいう。抱く、抱き込むというイメージはそれを我が物にするという含みを持つもので、この場合は大きな松の山をあたかも自分のものであるかのように眺めるということだろう。折から夜も明け、月も白む頃、鴨の姿が見えたのだろう。「厂(がん)より鴨(かも)の」を時期の問題ではなく、時刻の問題として付けている。

 

季語は「有明」で秋。夜分、天象。「松山」は山類。月と月とは連歌の式目では七句去りだが、貞門系の立圃編『増補はなひ草』(延宝六年刊)では五句去りとなっていて、五句目の「月影に」の句からちょうど五句隔てている。同書では「月ニ正月・月迫 二句嫌 月なみの月、三句嫌也」とあり、日次の月とは二句去りで、前回同様問題にはなっていない。形の上での名月がここに出ているから、あえて有明にしたのだろう。

 

 

十二句目

 

   抱込で松山廣き有明に

 あふ人ごとの魚くさきなり   芭蕉

  (抱込で松山廣き有明にあふ人ごとの魚くさきなり)

 

 有明の松山を末の松山のような海辺の景色として、夜の漁から戻ってきた漁師を付けたのだろうか。今日も大漁だったのだろう。みんな魚くさい。「魚(

うを)くさきなり」と言うだけで、漁村の景色が浮かんでくるから面白い。

 土芳(どほう)の『三冊子(さんぞうし)』に、「前句の所に位(くらゐ)を見込み、さもあるべきと思ひなして人の体を付つけたる也。」の例として示され、「漁村あるべき地と見込み、その所をいはず、人の体に思ひなして付顕(つけあら)はす也。」とある。景色の句にいかにもそこにいそうな人を付けるのも、位付(くらいづけ)の一種だった。

 

 

無季。「人」は人倫。「魚くさい」は匂いだけなので魚類にはならない。

 

 

十三句目

 

   あふ人ごとの魚くさきなり

 雨乞のしぶりながらに降出して    丈草

 (雨乞のしぶりながらに降出してあふ人ごとの魚くさきなり)

 

 雨乞いの方法はいろいろあったようだが、一つには踊念仏や風流踊りなどの踊りによるもの。一つには「雨乞い小町」のような歌を捧げたりするもの。もう一つは雨を司るとされる竜神を怒らせるために、池に入ったり、池に物を投げ込んだりするタイプのもので、埼玉県鶴ヶ島の「脚折(すねおり)の雨乞い」は巨大な龍の張りぼてを池に運び込んで雨乞いするもので、かつての雨乞いの風習を今日に伝えている。この句の場合も、そうやって雨乞いのためにみんなで池に入ったりして、魚くさくなったのだろうか。その甲斐あって、わずかではあったが雨が降り出した。

 

季語は「雨乞い」で夏。雨乞いはかつては水無月の行事だった。「降出して」は雨が降出してという意味なので降物。

 

 

十四句目

 

   雨乞のしぶりながらに降出して

 紡苧をみだす櫛箱のふた    惟然

 (雨乞のしぶりながらに降出して紡苧をみだす櫛箱のふた)

 

 苧(を)というのはカラムシというイラクサ科の植物のことで、茎を蒸してはがして繊維を取る作業は、今でいう七月からお盆前までの、旧暦でいう水無月に行われる。麻とともに古来より利用されてきた。細く裂いたカラムシの繊維の先をさらに二つに裂き、そこにもう一本のカラムシの繊維と撚り合わせてつなげてゆき、長い一本の糸にする作業が「紡苧(うみを)」で、出来上がった糸は容器の中に貯めてゆき、後でそれを糸車で糸へと撚ってゆく。惟然の句はその途中のその元となる糸が櫛箱の蓋にたまってゆく様子を詠んだもので、「みだす」は糸がきちんと巻かれるわけではなく無造作に入れ物の中に溜まってゆく様子をいう。

 前句の雨乞いを池に飛び込むような儀式ではなく、お籠りの情景とし、雨乞いの甲斐あってしぶしぶながらも雨の降ってくるイメージと、櫛箱の中に少しずつ糸が溜まってゆくイメージとを重ね合わせて付けている。

 

季語は「紡苧(うみを)」で夏。

 

 

十五句目

 

   紡苧をみだす櫛箱のふた

 極楽でよい居所をたのみやり     諷竹

 (極楽でよい居所をたのみやり紡苧をみだす櫛箱のふた)

 

 糸というのは『蜘蛛の糸』のように極楽に通じているのだろうか。「廻る因果は糸車」なんて言葉もある。人は小さな善行を積み重ねながら、微かな細い糸を手繰り寄せるように仏縁につながり、罪から救済され、極楽往生を得ることが出来るのかもしれない。 一本一本丹念に糸を撚ってゆくなかに、そうした死後の極楽往生の願いが込められているのだろう。

 

無季。「極楽」は釈教。形だけでなく、意味的にも釈教の本意を満たしている。具体的に住居を指すのではないので、「居所(ゐどころ)」は居所(きょしょ)ではない。

 

 

十六句目

 

   極楽でよい居所をたのみやり

 しはうきたなううき世経にけり 去来

 (極楽でよい居所をたのみやりしはうきたなううき世経にけり)

 

 「しはう」は「吝う」という字を当て、「しぶる」「むさぼる」という意味になる。極楽でよい居所を願うことを、極楽へ行けるだけでも願ってもないことなのに、その上極楽の中でも良い所を願うという欲張りに取り成し、そういう人間なら現世でもけちで貪欲だろうと、位で付けている。ただ、上句下句あわせて読み下すと、欲深かった自分を年取って後悔しているような、述懐(しゅっかい)の句となる。地獄の沙汰も金次第という言葉があるが、大事なのはお金ではないと、年老いてから気付いたのだろう。

 

無季。「世経(よふ)る」は述懐。

 

 

十七句目

 

   しはうきたなううき世経にけり

 道もなき畠の岨の花ざかり      丈草

 (道もなき畠の岨の花ざかりしはうきたなううき世経にけり)

 

 「しはうきたなう」に「道もなき」が付く。「道もなき」は山深い畑で、道も岩がごつごつとしていたり、雑草に埋もれている様子だが、強欲な生き方の比喩でもある。悪いことして咲いた花は誰からも本当には愛されることなく、世を経てゆくわけだが、前句と切り離すと、単純な、むしろ山奥でひっそりと咲く桜の風雅な景色となり、次の句ではその方向に転じることが示唆されている。

 

季語は「花」で春。植物、木類。「岨(そば)」は山類。

 

 

十八句目

 

   道もなき畠の岨の花ざかり

 半夏を雉子のむしる明ぼの   支考

 (道もなき畠の岨の花ざかり半夏を雉子のむしる明ぼの)

 

 半夏(はんげ)というのはカラスビシャクのことで、マムシグサを小さくしたような毒草。蛇が鎌首を上げ、舌を出したような花をつける。雉子(きじ)は蛇を食うというから、うっかり蛇と間違えて半夏の花をついばんでしまったのだろう。

 

 蛇食ふと聞けばおそろし雉子の声   芭蕉

 

は元禄三年の句。

 カラスビシャクの球根が、食物の消化を助ける漢方薬として用いられ、それを半夏と呼ぶ。「夏」という文字が使われているが、特に季題にはなっていない。

 

季語は「雉子」で春。鳥類。「半夏」は植物、草類。

二表

十九句目

 

   半夏を雉子のむしる明ぼの

 川舩のにごりにくだすうす霞     野明

 (川舩のにごりにくだすうす霞半夏を雉子のむしる明ぼの)

 

 「舩」は船の俗字。「明ぼの」に「うす霞」が付き、前句全体を単なる曙の時候の言葉として、場面を山から川に転じる。昨日の雨で増水したか、あるいは雪解け水か、川の水は濁っていて、船頭は今しも船を川下に向かって出そうとしている、そんなうす霞の曙の頃、と付く。穏やかでこれといった俳味もなく、ただ初心者らしく基本通りに付けたというべきか。雅趣はあるので連歌のようでもある。ちょっと一休みという感じだ。

 

季語は「霞」で春。聳物(そびきもの)。「川船」は水辺。

 

 

二十句目

 

   川舩のにごりにくだすうす霞

 塔にのぼりて消るしら雲    惟然

 (川舩のにごりにくだすうす霞塔にのぼりて消るしら雲)

 

 山水画の趣向だろうか。山水画にはよく高士が景色を眺めるための高殿が描かれる。中国の昔の君子は、山登りを一つの儀式とし、そのために高殿を作り、駕籠を登らせるために石段を作り、従者たちが寝泊りする建物なども整備した。そうした建物を描くことが、その山が名山たる証しでもある。濁流に乗って下ってきた高士たちが高殿に到着する頃には、雲もすっかり晴れ渡っている。

 

無季。「雲」は聳物。聳物が二句続く。

 

 

二十一句目

 

   塔にのぼりて消るしら雲

 売に出す竹の子掘ておしむらん    支考

 (売に出す竹の子掘ておしむらん塔にのぼりて消るしら雲)

 

 穏やかな展開が続いた後、そろそろここらで仕掛けたいところである。前句を雲が塔の上の方へと上っていって消えてゆくと取り成し、そのイメージに「惜しむ」が付く。売りに出すための竹の子を掘ってみたところ、あまりに見事で美味しそうなので、この場で新鮮なうちに食べてしまいたいという衝動に駆られる。売ろうか食おうか迷っているうちに、雲は空へと消えてゆく。

 

季語は「竹の子」で夏。植物、木類。半夏の句から二句しか去っていないが、草類と木類で、異植物になる。異植物は貞門の野々口立圃(ののぐちりゅうほ)の『はなひ草』では二句去りとされている。

 

 

二十二句目

 

   売に出す竹の子掘ておしむらん

 茶どきの雨のめいわくな隙   諷竹

 (売に出す竹の子掘ておしむらん茶どきの雨のめいわくな隙)

 

 茶どきというのは製茶が行われる季節で、夏の季題となる。 

 『日本茶の歴史』(橋本素子、二〇一六、淡交社)によると、お茶には二つの流れがあって、唐風喫茶文化(煎茶法)が先に入ってきて、次に宋風喫茶文化(点茶法)が入ってきたようだ。この煎茶法の茶は点茶が入ってきても廃れることなく、かといって貧しい庶民のお茶だったわけでもなかった。

 唐風の煎茶法はいわゆる今日の煎茶ではないが、『日本後紀』に「大僧都永忠手づから茶を煎じ奉御す」とあるように、煮出して飲むお茶だった。

 一六六一年に隠元が煎茶の喫茶法を広めだしたとはいえ、一般にはあくまで抹茶が主流で、碾茶(てんちゃ)を買ってきては、そのつど茶臼で挽いて飲んでいた。「けふばかり」の巻に、

 

   宗長のうき寸白(すんばく)も筆の跡

 茶磨(ちゃうす)たしなむ百姓の家    許六

 

とあるように、百姓の間にまで抹茶が広まっていったのが芭蕉の時代だった。 ただ、隠元の煎茶も「唐茶」と呼ばれじわじわと広まってもいた。

 碾茶の時代は茶摘の時期が近づくと、よしずやむしろで木を覆い、日光を遮り、覆下園とした。これを蒸してそのまま屋内で乾燥させると碾茶になる。今日では二番茶、三番茶を取るため、茶の収穫は八月頃まで行われるが、当時の碾茶は初夏の新芽のみで、茶どきというのは、今日の五月頃になる。

 まだ梅雨前とはいえ、この頃に雨が降るのはそう珍しいことではない。この頃は竹の子の季節でもあり、この句は竹の子を掘って売りに行こうにも、雨で足止めされてしまい、惜しいことだ、茶時の雨は迷惑、と付く。

 

季語は「茶どき」で夏。「茶どき」は製茶をする頃という時候を示す言葉で、茶の木そのものを示すのではないから木類(植物)にはならない。「雨」は降物。

 

 

二十三句目

 

   茶どきの雨のめいわくな隙

 このごろの上下の衆のもどらるる   去来

 (このごろの上下の衆のもどらるる茶どきの雨のめいわくな隙)

 

 当時の旅で何が迷惑かというと、参勤交代の大名行列とかち合ってしまうことだ。宿を我がもの顔で独占し、若い衆は刀をちらつかせ、他の藩の行列に出会ったりすると、今日の修学旅行の悪ガキと一緒で、ねめつけ(ガンを飛ばし)たり、ちょっかい出したりして喧嘩になったりする。雨ともなると、江戸に下る者も京に上る者も一斉に戻ってくるから、そりゃもう大変。

 

無季。「上下の衆の戻る」で旅体。「衆」は人倫。

 

 

二十四句目

 

   このごろの上下の衆のもどらるる

 腰に杖さす宿の気ちがひ    芭蕉

 (このごろの上下の衆のもどらるる腰に杖さす宿の気ちがひ)

 

 「気ちがい」と「気のやまい」は江戸時代になってから盛んに用いられるようになった言葉で、「気」という朱子学の概念に基づく言葉だ。

 気というと今日では気孔術か何かの何か超自然的なパワーを表すが、それは清の時代になってからのことで、朱子学では「理(性)」に対して物理的な現象界一般を表す。「もの狂い」が魂の問題で、いわば、その人の生まれもった性向によって、何かに取り付かれたように一つの物事に固執するような、いわば性格異常に近いのに対し、「気」は形而下の、今でいう器質性のものを表す。

 「気ちがい」は今でいう精神病に相当し、「気のやまい」は神経症に相当する。

 明治に入ると、日本でも十八世紀の終わりにフランスで起きたような狂人の隔離が始まり、やがて夢野久作が『ドグラマグラ』に描くような、狂人の悲惨な状況が生じるようになる。それとともに、「気ちがい」は医学用語からも削除され、あくまで通俗的な言葉として、世間から排除されるべきおかしな奴を一律に表す差別用語となっていった。

 ここで芭蕉が言う「気ちがい」は、多分自分がいっぱしの武将であるかのような誇大妄想を持った男だろう。腰に刀の代わりの杖を差して、江戸や上方に行っていた衆が戻られたと、主人に報告する。土芳の『三冊子』にも、「前句を気違ひ狂ひなす詞と取とりなして付つけたる也なり。衆の字ぬからず聞きこゆ。」とある。

 「このごろの上下の衆のもどらるる」(かく云ふ)腰に杖さす宿の気ちがひ

という風につながる。「衆」の一字がよく生かされている。

 

無季。「宿」は旅体。「気ちがい」は人倫。人倫が二句続く。

 

 

二十五句目

 

   腰に杖さす宿の気ちがひ

 わらぶきにゆふごの形のおもたくて  惟然

 (わらぶきにゆふごの形のおもたくて腰に杖さす宿の気ちがひ)

 

 「ゆふご」は「夕顔」のことで、au,aoの音はしばしばオーという音になまる。道(中国語でdao)が「どう」になったり、「見まがう」を「見まごー」と発音するような音韻変化は、様々な言語に見られる。フランス語でもauというスペルはオーと発音する。

 夕顔はウリ科の植物で、夕方に大きな花をつけることから、そう呼ばれている。「ヨルガオ」とは別物。夕顔はまた、大きな実をつけ、干瓢かんぴょうの原料にもなる。瓢箪も夕顔の変種で、干瓢の実も、瓢箪の実もともに「ふくべ」と呼ばれていた。

 

 夕顔や秋はいろいろの瓢(ふくべ)かな   芭蕉

 

の句もある。

 東海道の水口(みなぐち)の宿(しゅく)が干瓢の名産地であったことから、宿に「ゆふご」を付けたのだろう。水口の宿ではわらぶき屋根の家に夕顔の実がたわわに実り、その重たそうな下に腰に杖を差した、妄想性の男がいる、と付く。

 

「ゆふご」は夕顔の花ではなく干瓢の実なので、秋。草類。「竹の子」からは三句隔たる。

 

 

二十六句目

 

   わらぶきにゆふごの形のおもたくて

 ちらちら鳥のわたり初けり   野明

 (わらぶきにゆふごの形のおもたくてちらちら鳥のわたり初けり)

 

 干瓢のなる季節だから、そろそろ渡り鳥も渡り始める。野明は十句目でも雁(がん)や鴨の渡りを詠んでいて、ネタが被っている。支考・惟然などに押されてか、どうもこの巻では本来の調子が出ていない。

 

 

季語は「鳥のわたり」で秋。「鳥のわたり」は、普通は冬鳥のことを詠み、来る鳥は秋、帰る鳥は春になる。この場合は来る鳥なので秋。鳥類。

 

 

二十七句目

 

   ちらちら鳥のわたり初けり

 朝の月起々たばこ五六ぷく      諷竹

 (朝の月起々たばこ五六ぷくちらちら鳥のわたり初けり)

 

 渡ってきたのは雁かりだろうか。雁には月が付く。有明よりはもう少し夜が明けて、明るくなってからうっすら白く見える朝の月を見ながら、寝付かれず、何度も目が覚めてしまったのだろうか。そのつどタバコをふかしている。当時のタバコだから、キセルだろう。

 

季語は「月」で秋。天象。朝の月なので夜分にはならない。一般的に月の定座は二十九句目だが、せっかく前に秋の句が出ているので、二句繰り下げてここで出すのは間違いではない。

 

 

二十八句目

 

   朝の月起々たばこ五六ぷく

 分別なしに恋をしかかる   去来

 (朝の月起々たばこ五六ぷく分別なしに恋をしかかる)

 

 朝に月を見ながら眠れずに煙草を吸う、そんな男の位で付けたのだろう。恋の切ない情はよく表れている。ただ、「分別なしに」が何となく説教くさい。『去来抄』に、

 

  「分別なしに恋をしかかる   去来

 浅茅生におもしろけつく伏見わき   先師

 

 先師都より野坡(やば)がかたへの文(ふみ)に、此句(このく)をかき出し、此辺の作者いまだ是の甘味をはなれず。そこもとずいぶん軽みをとり失ふべからずと也。」

 

とあり、野坡に京都の作者(去来)の甘さを指摘し、軽みの心を忘れないように説いている。

 芭蕉は元禄六年の『閉関の説』でも、

 

 「色は君子のにくむところにして、仏も五戒の初めに置(おき)けりといへども、さすがに捨てがたき情のあやにくに、あはれなるかたがたも多かるべし。人知れぬくらぶ山の梅の下臥(したふし)に、思ひのほかのにほひにしみて、忍ぶの岡の人目の関も守る人なくては、いかなるあやまちをかしいでむ。」

 

と、恋の思いの断ちがたさを説き、理解を示している。

 説教調は世俗での受けはいいが、風雅というのは本来そうした建前の世界ではなく、人間の真情に理解を示すことである。

 

無季。「恋」は恋。

 

 

二十九句目

 

   分別なしに恋をしかかる

 蓬生におもしろげつく伏見脇     芭蕉

 (蓬生におもしろげつく伏見脇分別なしに恋をしかかる)

 

 蓬生というのは『源氏物語』「蓬生」の末摘花(すえつむはな)の住居のことで、

 

 「かかるままに、浅茅(あさじ)は庭の面(おもて)も見えず、しげき蓬(よもぎ)は軒を争ひて生ひのぼる。葎(むぐら)は西東の御門を閉ぢこめたるぞ頼もしけれど、崩れがちなるめぐりの垣を馬、牛などの踏みならしたる道にて、春夏になれば、放ち飼ふ総角(あげまき)の心さへぞ、めざましき。

 八月、野分(のわき)荒かりし年、廊どもも倒れ伏し、下の屋どもの、はかなき板葺なりしなどは、骨のみわづかに残りて、立ちとまる下衆だになし。煙絶えて、あはれにいみじきこと多かり」

 

という状態だった。須磨に隠棲していた光源氏が罪を許され京に戻ってきて久々に末摘花の所を訪れると、さっそく分別のない恋になるのは言うまでもない。

 芭蕉の句はこの『源氏物語』の面影で付けたもので、舞台は京都伏見の近辺になっている。都の巽たつみ(南西)で、かつては「鹿ぞすむ」と喜撰法師にも歌われた隠棲の地だった。豊臣秀吉が桃山城を立てて一度は栄えたが、その後荒れ果てていた。井原西鶴の『日本永代蔵』巻三「世は抜取り観音の眼まなこ」に、当時の伏見の様子が描かれている。

 

 「その時の繁盛に変り、屋形の跡は芋畠(いもばたけ)となり、見るに寂しき桃林に、花咲く春は人も住むかと思はれける。常は昼も蝙蝠(かうふり)飛んで、螢(ほたる)も出づべき風情(ふぜい)なり。京街道は昔残りて、見世(みせ)の付きたる家もあり。片脇は崩れ次第に、人倫絶えて、一町に三所(みところ)ばかり、かすかなる朝夕の煙、蚊屋なしの夏の夜、蒲団(ふとん)持たずの冬を漸(やうやう)に送りぬ。」

 

 酒の町として甦るのはもう少し後の事。芭蕉は貞享二年に『野ざらし紀行』の旅の途中にここに住む任口上人を尋ね、

 

 我がきぬにふしみの桃の雫せよ   芭蕉

 

と詠んでいる。「桃山」というだけに桃の産地だったのだろう。

 伏見脇の蓬の生い茂る荒れ果てた中に、面白いところを見つけ、分別なしに恋をした、と付く。去来の「分別なしに」の句を非難めいたものではなく、『源氏物語』の風流に取り成して付け返している。これが芭蕉のいう軽みだ。

 

季語は「蓬生」で夏。植物、草類。「ゆうご」からは三句隔たる。『源氏物語』の面影で恋にもなる。「伏見」は名所。

 

 

三十句目

 

   蓬生におもしろげつく伏見脇

 かげんをせせる浅づけの桶   惟然

 (蓬生におもしろげつく伏見脇かげんをせせる浅づけの桶)

 

 面白いことを見つけたという「おもしろげつく」を漬物の加減を知ったという意味に取り成す。「せせる」というのは欠点を鋭く指摘するという意味。今日でも「せせら笑う」という言葉に名残を留めている。蚤や蚊が刺すときにも「蚤蚊のみかにせゝられて眠らず。」(『奥の細道』飯塚)というふうに用いる。伏見に住んでいたら、すっかり漬物にうるさくなったのだろう。

 

季語は「浅づけ」で夏。冬のように野菜を保存する目的ではないので、浅く漬ける。

二裏

三十一句目

 

    かげんをせせる浅づけの桶

 出来て来る青の下染気に入て     野明

 (出来て来る青の下染気に入てかげんをせせる浅づけの桶)

 

 藍染はそんなに何度も重ね染めをする必要はなく比較的簡単に出来るもので、今日でもあちこちに体験教室がある。染料は繰り返し何回も使い、そこにはちょうど糠床のように手入れが必要で、それがうまくいかないと、濃すぎたり薄すぎたりする。ちょうど良い色に染まると気分がいいのか、隣の人の染まり加減の薄すぎるのを見て、いささか得意になったりもするのだろう。「浅づけの桶」を漬物ではなく染物の桶に取り成した句。野明もようやく調子が出てきたか。

 

無季。

 

 

三十二句目

 

   出来て来る青の下染気に入て

 なにをけらけらわらふかみゆひ 諷竹

 (出来て来る青の下染気に入てなにをけらけらわらふかみゆひ)

 

 芭蕉の活躍した延宝から元禄の頃は、ちょうど島田髷(まげ)が一般の女性の間に普及して来る時代で、それとともに、髷を結う専門の職業も登場する。当時としては新味のある題材だ。男性もこの頃からあの時代劇でおなじみの月代(さかやき)を剃り上げるスタイルが広まり、いわば男女とも江戸時代らしい風俗が固まる。

 髪を結い上げるには結構時間がかかり、その間いろいろ雑談したりし、髪結いのおばさんがやたら愛想良くて、何がそんなにおかしいのかというくらいけらけら笑う光景も、いかにもありがちなものだったのだろう。青の下染めが何か気に入ったのだろうが、そんなにけらけら笑うほどのものでもないのに、と思いながらも、一緒になって笑ってしまいそうだ。

 

無季。「かみゆい」は人倫。

 

 

三十三句目

 

    なにをけらけらわらふかみゆひ

 吸物で座敷の客を立せたる      去来

 (吸物で座敷の客を立せたるなにをけらけらわらふかみゆひ)

 

 洋食だと、スープはオードブルの次の早い時期に出てくるが、和食だと最後の方に出てくる。吸物が出てくると、そろそろお開きも近いということで、急ぎの客だと、吸物が出てくるのを目安に席を立ったりしたのだろう。ということは、嫌な客を早く帰したいときには、吸物を早めに出したりもしたのだろうか。髪結いはお座敷にいてもおかしくないから、「髪結い」に「座敷」が匂いの移りになる。

 

無季。「客」は人倫。人倫が二句続く。

 

 

三十四句目

 

    吸物で座敷の客を立せたる

 肥後の相場を又聞てこい    芭蕉

 (吸物で座敷の客を立せたる肥後の相場を又聞てこい)

 

 米どころというと、今は新潟だったり宮城や秋田だったり、結構北のほうが有名だが、江戸時代前期ではまだ耐寒性のある品種が少なく、これらの地域は雑穀中心だった。米相場を左右するのは温暖な地方で大きな平野のある所。もちろん最大の米どころは濃尾平野だろうが、肥後熊本も重要な産地の一つだ。 江戸時代の米相場は完全に市場の自由にゆだねられていて、農家も商人も米価の変動によるリスクを避けるために、先物取引を発達させていた。それでも秋口の収穫前には米価が高騰したのか、

 

 十団子(とうだご)も小粒になりぬ秋の風   許六

 

の句のように、街道の名物の十団子も小さくなったりしたようだ。『炭俵(すみだわら)』の「梅が香に」の巻にも、

 

   家普請を春のてすきにとり付て

 上のたよりにあがる米の値ね   芭蕉

 

の句もあるように、大阪での米相場の高騰を見越して、米問屋が家を改築したりという句もあった。

 大阪の大きな米問屋ともなると、米相場の動向に常にアンテナを張り巡らし、ぴりぴりしていたのだろう。座敷で宴会などやっている隙もない。早々に切り上げて、すぐに使者を熊本へ走らせ、熊本の作付け状況を調べに行かせたりする。立たせた客を忙しい米問屋の使い走りと見た、位付けの句。今でいえば世界を駆け回る商社員のようなものだろう。

 

無季。「肥後」だけでは名所とはいえない。

 

 

三十五句目

 

   肥後の相場を又聞てこい

 幾口か花見の連にさそはれて     惟然

 (幾口か花見の連にさそはれて肥後の相場を又聞てこい)

 

 さて、芭蕉の前句は特に花呼び出しにはなっていない。あわただしく人を立たせる座敷にすかさず米問屋の忙しさというリアルな話題で盛り上げたという感じだが、これをどう花に持ってゆくか、ということになる。こういうときは、多少付きが悪くても仕方ない。

 「幾口(いくくち)」というのは加入するときの「何口」とかいうように、商人がよく使う相場の用語で、「相場」と「幾口」は匂いでつながる。花見に行ったら、そこに誰かが連れてきていた商人がいて、急に米の商談になったのだろう。米の先物取引に何口か入らないかと誘われ、それで肥後の相場を聞いて来い、と何とか付く。

 

季語は「花見」で春。植物、木類。「連(つれ)」は人倫で、同じ人倫の「客」が打越にあるが、展開の難しい場面なので、この際はやむをえないだろう。

 

 

挙句

 

   幾口か花見の連にさそはれてて

 日ぐせになりしはるのあめかぜ 野明

 (幾口か花見の連にさそはれて日ぐせになりしはるのあめかぜ)

 

 「幾口」はここでは相場用語とする必要はなく、単に「何人かの」という意味でいい。連れ立って花見に行けば、連日良いお日和(ひより)で、春の天気まで日和癖(ひよりぐせ)がついてしまった、と目出度く締めて、この歌仙も終わり。

 

季語は「春」で春。雨は降物だが、ここでは天気という意味で「雨風」というだけなので、降物とはいえない。