謝霊運詩集

 謝霊運しゃれいうん──当時の中国語の発音は、チャーリングォンに近かっただろう。霊運(リングォン)は霊魂(リングォン)と発音がよく似ている。まさに魂の詩人だ。
 謝霊運の名は日本ではほとんど知られていないし、おそらく初めて聞く人も多いだろう。謝霊運は後漢の滅亡後から隋の成立までの五胡十六国・南北朝時代を代表する詩人であり、『文選もんぜん』での謝霊運の扱いは陶淵明とうえんめいをも凌ぐものだった。謝霊運の詩は杜甫・李白にも大きな影響を与えたし、謝霊運の『登池上樓(池上樓ちじょうろうに登る)』の

   ディダンションチュンツァオ池塘春草ちとうしゅんそうを生ず)

の五文字は、今でも中国では日本で言えば芭蕉の古池の句のようによく知られている。朱熹しゅき(朱子学の祖)の「少年老い易く学成り難し」の詩の「未だ覚めぬ池塘春草の夢」というフレーズも、謝霊運のこの名句を踏まえてのものだ。

謝霊運の時代

 謝霊運は西暦385年に生まれ、433年に没した。
 謝霊運の時代は、西洋ではゲルマン民族大移動の時代で、395年にはローマ帝国が東西に分裂している。415年にはイベリア半島に西ゴート王国が作られ、時代はロマン(ローマ的なもの)からゴシック(ゴート的なもの)へと向かい、中世ヨーロッパの誕生へと向かう。中近東ではササン朝ペルシャの時代で、インドではチャンドラグプタ2世が376年に即位し、グプタ朝の最盛期を迎えていた。
 朝鮮半島では、356年に新羅シルラ奈勿王ネムルワンが即位して、国家の基礎を固め、百済ペクヂェもまた369年に馬韓マハンを征服し、391年には高句麗コグリョ広開土王クヮンゲトワンが即位し、いわゆる三韓の時代が始まる。日本にも、大和朝廷が成立し、中国の文献で言う倭の五王(讃、珍、済、興、武)の時代に入る。謝霊運の時代はその一番最初のさんの時代だった。讃については応神天皇、履中天皇、仁徳天皇とする三つの説がある。この頃の日本はしばしば新羅シルラ南部を脅かしていた。『日本書紀』に描かれた三韓征伐や任那の日本府はかなり誇張があるにしても、このあたりに倭人が住んでいたのは事実だろう。倭人といっても縄文時代からの日本列島の先住民族ではなく、漢の南下政策によってボートピープルとなった呉越の末裔が津島海峡両岸に漂着したと考えれば、それほど不思議はない。
 もっとも、かつてここに日本人がいたからといって、ここが日本固有の領土だと言うのは、あまりに短絡的な発想であり、それを言うなら、韓国は中国東北部の、かつての扶余ぷよ族の領土を固有の領土だと主張できるし、中国は楽浪郡のあったことを根拠に朝鮮半島を中国の領土だと主張することも出来る。さらにいえば、それだと北海道はアイヌの領土だし、モンゴルはジンギスカンの時代の最大領土をモンゴルだと主張できるし、アメリカ合衆国はインディアンに返還しなければならない。世界の諸民族は有史以前のみならず、歴史時代に入っても何度となく民族移動を繰り返し、ほとんどすべての民族は侵略者であると同時に亡命者でもある。固有の領土などという思想は意味がない。そんなものはこの地球上には存在しない。
 ゲルマン民族の大移動を引き起こしたフン族(ハンガリー人の祖先)は同じ時期中国に侵入して五胡十六国の時代を作った匈奴きょうど(フンヌ)と同系の民族と言われている。
 中国もまた、匈奴に押し出されるようにチベット系やトルコ系の民族に脅かされていた。謝霊運の謝家は書家の王羲之おうぎし等を輩出した王家と並ぶ東晋とうしんの二大貴族の家で、祖父の謝玄しゃげんは中国北部を一時統一したチベット系の前秦国の侵入を食い止め、東晋の危機を救った英雄だった。しかし、その東晋も内部の政権抗争から劉裕りゅうゆうの宋王朝へと変わり、謝霊運は宋の武帝(劉裕りゅうゆう)、少帝(義符)、文帝の三代に仕えることになる。
 この頃のゲルマン民族の大移動や中国への五胡の侵入は、地球規模での寒冷化に原因があるという。後漢中期の2世紀頃から寒冷化が始まり、6世紀頃まで寒冷期が続き、そのあと中世の大温暖期と呼ばれる時代が来る。地球規模での寒冷化は、中央アジアの乾燥化を引き起こし、砂漠が拡大する。そのため、遊牧民が移動を始め、それに押し出されるように周辺の民族も移動を余儀なくさせられる。中国の歴史はしばしばこうした地球規模での気候の変動に左右され、中世の大温暖期には隋・唐・宋の繁栄がもたらされるが、大温暖期の終りにはモンゴル人が南下してきて、やがて征服される。また、17世紀中頃のマウンダー極小期には、満州人が南下し、やはり征服されてしまう。そして、今は地球温暖化の波の中で、高度成長を遂げている。
 その意味では、謝霊運の頃の中国は冬の時代だった。天候不順で生産力が落ちる一方で、寒冷化は南極の氷の量が増えるために海水の水位の低下をもたらし、それまで入江だった所に広大な干潟が生じる。そこを干拓すれば生産力を回復し、国は繁栄を取り戻せるのではないか。それは、謝霊運を生涯突き動かしてプランだった。しかし、干潟は同時に漁場でもあり、当時はまだ自然保護という発想はなかったにせよ、漁場には利権の問題が絡み、最終的にはそれが謝霊運にとって命取りになった。
 後世の史書は敗者には厳しく、謝霊運に関してはくそみそに書かれているが、それをそのまま信用すべきではない。当時の状況で、干潟の干拓が是か非かということは簡単に今日の視点で判断できる問題でもなく、土地の生産力を向上させ、国を豊かにし、民を豊かにしたいという情熱は評価すべきだし、度重なる遊覧も単なる物見遊山ではなく、干拓事業と結びついた現地視察という目的があったことも考慮すべきだろう。

謝霊運と陶淵明

 「帰去来辞」や「桃花源記」で有名な陶淵明は365年の生まれ427年に没し、謝霊運より20も年が上だが、ほぼ同じ時代を生きたといっていいだろう。謝霊運が名門貴族の出だったのに対し、陶淵明の方は地方の小地主の家の出だった。405年、陶淵明は40にして彭沢ほうたく県の令(長官)となったが、80日後に辞任し、その後官には就かなかった。一説には劉裕りゅうゆうのクーデターへの抗議とも言われているが、定かではない。
 謝霊運は名門貴族の出として18から20歳のころに初出仕して、司馬徳文の行参軍になり、陶淵明が彭沢ほうたく県令になった405年の五月には撫軍将軍劉毅りゅうきの記室参軍となる。しかし、この劉毅とクーデターを起こした劉裕との間に確執があり、謝霊運は劉毅の死後に劉裕に仕えることになるが、劉毅に仕えていたということが後々まで響いてしまうことになる。
 謝霊運が出仕して間もない頃は謝霊運、陶淵明ともに役人だったわけだから、この時期に二人が顔を合わせた可能性がまったくないとはいえない。ただ、二人の身分はあまりに違いすぎるし、たとえ逢ったとしても、中年の陶淵明が地面にひれ伏しているところを、二十歳そこそこの高級官僚の謝霊運が表情も変えずに通り過ぎてゆくようなものだっただろう。ただ、この二人が逢わなかったことを証明するものも何もないため、ドラマを作るのであれば、ぜひ対面させたい。大河ドラマの『新選組!』の坂本竜馬と近藤勇のように、実は友人だったなんてのもいいかもしれない。少なくともどちらも当時から名を成し、新しい詩が出来れば、みんなが競って書き写すほどの人気だった。だから、お互いの噂くらいは聞いていただろう。
 陶淵明の詩が、時に甘く、ノスタルジックな田園での晴耕雨読の生活の賛美であるのに対し、謝霊運の詩は官僚としての生活の中でのきびしい現実に打ちひしがれ、悩む姿をさらけ出す。謝霊運はしばしば山水詩人という言われ方をするが、謝霊運の詩に登場する風光明媚な景色も、決してただの景色ではなく、自分の心にわだかまるドロドロとした感情をきびしい自然に向って吐き出しながら、やがて心の平静を得るというものだ。その意味では、かえって現代的かもしれない。

謝霊運の詩と解説

過始寧墅


 束髪懷耿介 逐物遂推遷
 違志似如昨 二紀及玆年
 緇磷謝清曠 疲薾慙貞堅
 拙疾相倚薄 還得静者便
 剖竹守滄海 枉帆過舊山
 山行窮登頓 水渉盡洄沿
 巌峭嶺稠疊 洲縈渚連綿
 白雲抱幽石 緑篠媚清漣
 葺宇臨迴江 築観基曾巓
 揮手告郷曲 三載期歸旋
 且爲樹枌檟 無令孤願言

   始寧しねいしょよぎ

 束髪そくはつより耿介こうかいいだけるも
 ものいてついうつ
 こころざしたがえるはさくごときにたるも
 二紀にきにして玆年ことしおよ
 緇磷しりん清曠せいこうしゃ
 疲薾ひでつして貞堅ていけん
 せつしつ相倚薄あいいはく
 かえって静者せいじゃ便べんたり
 たけきて滄海そうかいしゅたり
 げて舊山きゅうざんよぎ
 山行さんこうには登頓とうとんきわ
 水渉すいしょうには洄沿かいえんつく
 いわおけわしくてみね稠疊ちゅうじょう
 めぐりてしょ連綿れんめんたり
 白雲はくうん幽石ゆうせきいだ
 緑篠りょくじょう清漣せいれん
 いて迴江かいこうのぞ
 かんきずいて曾巓そうてんもとい
 ふるいて郷曲きょうきょく
 三載さんさいにして歸旋きせん
 ため枌檟ふんかえよ
 願言がんげんそむかしむるかれと


   始寧しねいの別邸を過ぎる
 十五で束髪した時は志を固く貫こうと思ったが、結局は世事を追いかけて志を変えてしまった。
 志を曲げて仕官したのは昨日のことのようで、干支が二回りしてこの歳になる。
 黒くなるまい薄くなるまいという決意の潔癖さも明晰さも失い、ぐったりと疲れては貞節の固い人には恥じ入るばかり。
 拙さと病が互いにもたれ合い、故郷に帰って静かに暮らす者となる機会を得た。
 竹符を割いて青海原の太守となり、帆を無理に曲げては故郷の山を過ぎる。
 山に行けばくまなく登りつくし、水を渡っては水路をあらかた廻る。
 切り立った崖はするどく尖って折り重なり、中洲は渦を巻いて延々と連なる。
 白い雲がかすかに見える岩を抱き込むようにたなびき、緑の篠竹は清らかな水面のさざ波にしなを作るかのようだ。
 円を描くような川べりに臨み大きな屋根を葺いては、重なる嶺の上を基礎として高殿を築く。
 手を緩やかに振っては故郷の人々に告げよう、三年の任期が終って帰ってくるのを待てと。
 それに私の棺桶のために楡とひさぎを植えてくれ、願言に背くことのないように。

    
 劉裕りゅうゆうに仕えるようになった謝霊運は、劉毅りゅうきの死後七年目の419年には左衛率となる。翌420年に、劉裕は建康(今の南京)で即位し、国を宋とした。この頃はまだ順風満帆かに思えた。しかし、この頃から謝霊運は劉裕の次男、廬陵王義真ろりょうおうぎしんの側に着くようになった。義真は若くして文籍を好み、謝霊運とは心打ち解けあうものがあったようだ。
 永初三年(422年)三月に劉裕が病に倒れると、五月には死去した。それとともに劉裕の長男劉義符ぎふが即位して少帝となった。しかし、これがろくに政治をせずに実質的な権力は徐羡之じょいしのものとなり、これを謝霊運が非難したため、謝霊運は弟の義真を擁立して権力を握ろうとしているかのように勘ぐられることとなった。徐羡之に睨まれてしまった謝霊運は、その年の七月に永嘉郡の太守に左遷され、都を追われることとなった。永嘉郡は今の浙江省温州に当る。
 赴任の地に行く途中、謝霊運は故郷の始寧しねいに立ち寄った。『始寧しねいしょよぎる』はその時の作である。
 始寧しねいは今の浙江省紹興のあたりで、曹娥江そうがこう(銭塘江)はこのあたりだとほとんど海のようで、南には会稽山がある。7000年前の河姆渡遺跡が会稽山の麓にあり、かつては長江文明の栄えた地と思われるが、夏王朝の禹がここを支配してから、黄河文明の担い手である漢民族の支配するところとなったのだろう。春秋戦国時代には越の都で、それ以降も江南の文化の中心地で、王羲之おうぎしの蘭亭もここにあった。会稽山は茅山道教の中心地でもあるし、天台仏教発祥の地でもある天台山にも近い。『魏志倭人伝』には邪馬台国は「会稽東冶の東」とあり、会稽は松浦や坊津など日本へと渡る入り口でもあったのだろう。この詩が詠まれる一年前の永初二年(421年)には、倭の五王のうちの最初の王、讃が使いをよこして宋に朝貢し、邪馬台国以来途絶えていた日中外交が復活している。讃が誰かは定かでなく、応神天皇、履中天皇、仁徳天皇など諸説ある。1131年には紹興と名前を変え、近代では魯迅や周恩来の故郷としても知られている。あの紹興酒の産地でもある。

 束髪そくはつより耿介こうかいいだけるも
 ものいてついうつ


 束髪そくはつは日本でいう元服に当るもので、十五歳になって髪を結ぶことをいう。耿介こうかいの「耿」の字には光り輝くという意味と固く志を守るという両方の意味があり、「耿介」もまた、固く志を守ることと、徳が輝いて偉大なこととの両義を持つ。十五の束髪の時には固く志を貫こうと思っていた。しかし、実際は世事を追いかけて結局志を変えてしまった。

*「懷」は懐と同じで、涙を衣で隠すところからきている。そこから、心に大切に抱くという意味になり、懐かしい、ふところ、という意味にもなる。
*「逐」は猪を追い詰める所から来た字で、後を追いかける、一歩一歩追い込んでゆく、追求するという意味になる。
*「遷」は中身が他に移ること。


 こころざしたがえるはさくごときにたるも
 二紀にきにして玆年ことしおよ


 少年の頃の最初の志に反して、司馬徳文の行参軍になり、すぐに撫軍将軍劉毅りゅうきの記室参軍となったのは昨日のことのようだ。「二紀」というのは干支えとが二回りすることで、二十四年が経過すること。この詩が詠まれたのが永初三年(422年)で、その二十四年前は398年になる。謝霊運が生れたのは385年だから。数えで十四歳の時になる。束髪が十五歳だとすると、一年計算が合わないが、そこは大体という所だろう。「玆(シ)」は「此(シ)」「斯(シ)」と同じ。「玆年」は今年ということ。

 緇磷しりん清曠せいこうしゃ
 疲薾ひでつして貞堅ていけん


 緇磷しりんは、糸を黒く染めることで、黒ずむこと。僧衣を意味することもあるが、緇塵しじんは世俗の醜い事柄のこと。りんは石などを鱗のように薄くすることで、磨り減ること。雲母の意味もある。この場合は、『論語』陽貨篇の、「(子曰、不曰堅乎、磨而不磷、不曰白乎、涅而不淄。)子曰しいわく、堅しといはざらんや、れどもうすろがず。白しといはざらんや、くろくすれどもくろからず、と」から来ている。君子であれば貞節は固く身は潔白で、磨いても磨り減らないし、黒く染めようとも黒くならない。しかし、この私(謝)は最初のそんな決意の清さも明らかさも、失って(謝して)しまった。
 「でつ」は「でつ」と同じで、ぐったりと疲れること。役人生活にぐったりと疲れて、貞節の固い人間に申し訳なく思う。『荘子』に「薾然疲而不知歸。」とある。

*「慙」は心を斬られるような、やられてしまったという感覚をいう。恥ずかしさ、申し訳なさに、心が切り裂かれるような思い。「恥」は心が萎縮する、いじけるという意味での恥ずかしさを言う。

 せつしつ相倚薄あいいはく
 かえって静者せいじゃ便べんたり


 官僚暮らしの拙さと、疲労による病(疾)は、相互に関係しているもので、今この故郷の地に帰ってきて、静かに暮らすという機会を得た。「静」は『論語』雍也編に、「智者楽水、仁者楽山。智者動、仁者靜。(知者は水を楽しみ、仁者は山を楽しむ。知者は動き、仁者は静なり。」とある。「山水」という言葉はここから来ている。この「静者」が、このあと山水詩へと展開することの伏線となっている。

*「疾」は人をめがけて進む矢から来ていて、矢のように早く進行する病気をいう。「病」は、「丙」が股を開いた形で、体が硬直して動けなくなること。
*「倚」は人が何かに寄りかかって立つというところから来た字。「寄」は足が不自由で一方に傾くところから来ている。
*「薄」は苗代に苗が生えるところから来た字で、薄っすらと生えるところから薄いという意味と、びっしりと生えるところから肉薄するという意味がある。「薄」をススキという植物の意味とするのは、日本独自のもの。


 たけきて滄海そうかいしゅたり
 げて舊山きゅうざんよぎ


 「たけく」というのは、竹札を二つに裂いて、半分を朝廷が持ち、半分を太守が持つことで、太守の任命の印とすることを言う。永嘉郡は東シナ海に面した土地なので、滄海そうかいしゅとなる。
 永嘉へは船で海伝いに行くのだが、その途中、あえて無理を言って、曹娥江そうがこうを遡り、故郷の始寧しねい県の会稽に立ち寄ったのだろう。舊山きゅうざんは会稽山のこと。
 「過」という文字はタイトルにも用いられている。ここに『易経』の「小過しょうか」の意味を込めたと見ることもできるだろう。  「小過、亨。利貞。可小事、不可大事。飛高遺之音、不宜上、宜下。大吉。(小過しょうかは、とおる。ただしきにろし。小事には可なり、大事には可ならず。飛鳥これが音をのこす。上るによろしからず、下るに宜し。大いに吉なり。)」
 小過は上が震(雷)で下が艮(山)の卦で、雷山小過らいざんしょうかという。山の上に雲が立ち上るが、雨にまでは至らない状態で、六本の卦のうちの真ん中の二本の卦が陽で、上下に二本づつ陰の卦が並ぶ形は、鳥の羽を広げた形に見立てられ、高く飛べば雷雲の中で行き場を失い、舞い降りれば安らぎの地となる。人もまたそれと同じで、高い地位に上り詰めれば、激しい権力争いの中で孤立し、謙虚に低い身分に甘んじれば吉だという。永嘉の太守となった謝霊運も、その地位に満足し、無理に出世を求めなければ、吉というところだろう。それがこの詩のテーマともなっている。

*「枉」は道理を曲げる、無理を通すという意味の言葉で、「枉死」「枉道」「枉法」など、あまり良い意味ではない。ここでは本来寄らないはずの所に無理に予定を変更させて、立ち寄らせたというニュアンスがある。
*「過」はするするとさわりなく通り過ぎることで、さっと通り過ぎる、よぎることを言い、勢い余って度を越す、やり過ごす、滑ってやりそこなうことをも言う。それゆえ、あやまつことも過という字を当てる。


 山行さんこうには登頓とうとんきわ
 水渉すいしょうには洄沿かいえんつく


 山を行くとは言っても、本格的な登山ではない。会稽山は300メートル足らずの低い山で、古来名山とされているため、登山のための石段が整備され、謝霊運のような偉い役人は、駕籠にでも乗って登ったのだろう。登頓とうとんは登り降りすることで、近くの山系をくまなく遊覧して廻ったのだろう。謝家とはライバルではあるが王羲之の蘭亭もここにある。会稽は中国のベネチアと言われるくらい水の都で、至る所水路が張り巡らされていて、そこもくまなく廻って歩いたのだろう。
 ここでは山と水が対句として用いられていて、『論語』雍也編の、「智者楽水、仁者楽山。智者動、仁者靜。(知者は水を楽しみ、仁者は山を楽しむ。知者は動き、仁者は静なり。」を踏まえている。「静者」からの流れで山水につながる。

*「頓」はずしんと地に根を張ることで、腰を下ろす、腰を落ち着けて休む、と言う意味がある。急に落ちると言う意味では「頓挫」という言葉もある。
*「渉」は川を一足一足踏みしめて渡ること。


 いわおけわしくてみね稠疊ちゅうじょう
 めぐりてしょ連綿れんめんたり


 「稠疊ちゅうじょう」はびっしり重なり合うことで、切り立った崖は鋭く尖り、嶺々はびっしり重なり合っている。川の中洲は糸のように巻きつき、小島は長く連なってゆく。「渚」は元は川の中に石や砂が集まってできる中洲のことで、それが転じて、波打ち際の意味になった。

*「巌」は角の尖った崖の厳しい感じを表す。
*「峭」は細く削る、尖らせるというところから、けわしくするという意味。
*「嶺}は山の「領」(首、うなじ)に当る所。「峰」は△型に尖った山。
*「縈」は糸がぐるぐる巻きつくようにまとわりつくこと。


 白雲はくうん幽石ゆうせきいだ
 緑篠りょくじょう清漣せいれん


 白い雲が包み込むと、山は隠れ、奥深く見える。途切れ途切れに見えるかすかな岩を抱きかかえるように雲が巻きつく。緑の篠竹は清く澄んだ水面のさざ波に、あたかも女性がなまめかしい姿で誘惑するかのように、揺れ動いている。

*「幽」は細い糸を二つ並べた様で、山の中がほの暗くかすかなこと。幽玄という言葉があるが、「玄」も細いかすかな糸のことで、奥深い、深遠な様を表す。
*「漣」は小さな波が幾重にも連なること。
*「媚」は細やかな女性の仕草から来た言葉で、なまめかしい仕草で人の気を引く。


 いて迴江かいこうのぞ
 かんきずいて曾巓そうてんもとい


 宇宙というと今ではスペースという意味で、宇宙空間をイメージするかもしれない。だが、元はむしろ時空ともいうべきもので、「宇」は空間、「宙」は時間を意味していた。中国では古くは蓋天説というのがあり、天は大きな屋根のようだと考えられていた。「宇」という字は、その蓋天から来た言葉で、そこから大きな屋根で覆われた家をも意味するようになった。日本では「八紘一宇」という言葉もあるが、それも八つの方角すべて一つの屋根の下だという蓋天説の思想から来ている。
 その「宇」をくというのは、決して小屋だとか東屋のような小さなものではない。謝霊運のような政府の高官がたくさんの従者を従えて滞在するにふさわしい、堂々たる楼閣で、山水画にはよくそういう建物が描かれている。円を描くように廻る川べりに、それを見下ろすように立っているのだろう。
 「観」というのももとは見渡すという意味で、そこから山などに建てる展望台、楼観のことをも言う。これも山水画などによく描かれているので注意して見るといい。やはり、偉い人が遊覧するために建てる施設。「曾」は重なり合うという意味で、重なり合う山の頂上を土台とする。
 こうした、石段を敷設し、高殿を築くのは、決して単に趣味の物見遊山だけのためではない。高いところから荘園を俯瞰して、土地の利用状況を把握し、それを治水や新田開発に役立てるのも仕事のうちで、謝霊運が、会稽郡の干拓に熱心だったことは、むしろ歴史家の間でよく知られているようだ。干拓によって新しい農地を開拓し、生産力を高めることは、自らも潤うが、その土地の住民にも決して不利益なことではない。もっとも、このことが会稽の太守との確執を引き起こし、後に贅言により謝霊運が刑死する原因にもなったという。『世界歴史大系 中国史2─三国~唐─』(1996、山川出版社)にはこうある。
 「詩人謝霊運は開発熱心な地主でもあり、多数の配下を擁して山をけずり、湖をさらえるのに余念がなかった。あるとき、会稽郡の東の城郭付近にあった湖をもらいうけて干拓しようとし、その湖の水産物利用に障害が起るのを心配した会稽太守に拒否されて、別に始寧しねいの湖に対象を移し、これも反対された。この太守との確執が謝霊運刑死の遠因であるが、それはともかく、江南に多い沼沢の干拓法式の開発もひろくおこなわれていたことがわかる。」(P.126~127)
 開発か水産資源の保護かという問題は微妙ではあるが、ただ、謝霊運の山歩きが伊達ではなかったことがこれでわかる。険しい山に道路を通し、巨大建築物を建てることは、雇用も創出するし、土木技術の向上にもつながる。これだけでは、今日の箱物行政と変わらないように見えるが、決定的に違うのは、ただお金をばらまけばいいというのではなく、確固たる美意識をもって行われ、決して無秩序な開発ではなく、景観にも気を配っていたことだ。
 日本の公共事業について、いろいろ悪く言われているが、日本の場合は美意識が欠如していることが問題で、世界中の人が観光に来たがるような景観を作るために金をばらまくのであれば、それは新たな観光収入をも生み出すし、住人もそれを誇りとすることができる。会稽は今でも名だたる観光地である。

*「曾」はコンロの上に甑を載せ、その上に湯気の立つ様を表し、幾重にも層を為すという意味を持つ。経験が重なってというところから、「かつて」「すなわち」という意味にもなる。
*「巓」は天と同じで、頂上を示す。
*「基」は四角い土台のこと。


 ふるいて郷曲きょうきょく
 三載さんさいにして歸旋きせん


 「郷曲」の「曲」は隅という意味で、田舎の片隅という意味だが、故郷のことをもいう。
 手を緩やかに振って、この辺鄙な故郷の人たちに告ぐ。永嘉の太守の任期が三年なので、それが終ったら、ここに帰って来るのを待っていろと。
 「載」は「歳」と同じで、三載は三年ということ。「期」には待つという意味もある。

*「揮」は丸く円を描いて手を回すこと。「振」は直線的に往復して手を振ること。
*「旋」は旗がひらひらとはためくように歩き回るところから、ぐるぐるとめぐる、帰ってくるという意味になる。


 ため枌檟ふんかえよ
 願言がんげんそむかしむるかれと


 「枌」は楡の一種。「檟」はひさぎ。ノウゼンカズラ科の落葉高木。春秋左氏伝の成公四年に「初、季孫為己樹六檟於蒲圃東門之外。」、哀公十一年に「吾が墓に檟を植えよ、檟は材とすべし。(樹吾墓槚、槚可材也。)」とある。檟は棺桶の材料として植えよ、ということ。前の一節に続き、郷曲に告ぐ。私の棺桶のために楡とひさぎを植えよ、と。私の願う言葉に背くな、と命じて終る。

*「樹」木を手でもって立てること。そこから動詞で、立てる、植えるという意味がある。
*「孤」はもとは一人ぼっちの子供、みなし子のこと。動詞だと、そむく、裏切るという意味になる。 

七里瀬

 羇心積秋晨 晨積展遊眺
 孤客傷逝湍 徒旅苦奔峭
 石淺水潺湲 日落山照曜
 荒林紛沃若 哀禽相叫嘯
 遭物悼遷斥 存期得要妙
 旣秉上皇心 豈屑末代誚
 目覩嚴子瀬 想屬任公釣
 誰謂今古殊 異代可同調

   七里瀬しちりらい

 羇心秋晨きしんしゅうしんつも
 あしたつもりて遊眺ゆうちょう
 孤客逝湍こかくせいたんいた
 徒旅奔峭とりょほんしょうくるしむ
 石淺いしあさうして水潺湲みずせんかんたり
 日落ひおち山照曜やましょうよう
 荒林紛こうりんふんとして沃若よくじゃくたり
 哀禽相叫嘯あいきんあいきょうしょう
 ものいて遷斥せんせきいた
 そんして要妙ようみょう
 すで上皇じょうこうこころ
 豈末代あにまつだいそしりいさぎよしとせんや
 のあたり嚴子げんしらい
 おもい任公じんこうつりぞく
 だれ今古殊きんこことなりと
 異代いだい調しらべおなじうす


   七里瀬しちりらい
 羇旅きりょの心は秋の朝に積もり、積もり積もった朝に名所めぐりを繰り広げる。
 孤独なさまよい人はあっという間に流れ去る早瀬に心痛め、いたずらに歩き回る旅はほとばしるようにそそり立つ山に苦しむ。
 石は浅くて水ははらはらと流れ、日は落ちて山は照り輝く。
 荒れた林は点々として葉は若くみずみずしく、哀れな鳥は口を細め搾り出すように鳴き交わす。
 物との出会いに移ろいでは失われてゆくものを悼み、四時を知れば暗く奥深い道の真実を会得する。
 既に天命に従う上皇の心を手中にしたので、どうして末代までの誹りなどという些細なことに気にするだろうか。
 厳子陵げんしりょうが釣りをしたという瀬に目は釘付けになりながらも、任公じんこうが釣りをした古事が頭から離れない。
 誰が言ったんだ昔と今は違うと、時代は違ってもバランスを取る事の大事さは同じなはずだ。

    
 永初えいしょ三年七月に永嘉えいか郡の太守に左遷された謝霊運は、途中故郷の始寧しねい(今の紹興しょうこう)に立ち寄り、そこから、富春江ふしゅんこうをさかのぼり、七里瀬しちりらいに立ち寄る。七里瀬は巌子陵釣台げんしりょうちょうだいがあることでも知られている。厳子陵げんしりょうというのは後漢の賢人厳光げんこう(字子陵)のことで、桃源とともに学んだ仲であったが、ともに天下平定を成し遂げたとき、桃源を即位させ光武帝とし、自らは船に乗り島を離れ、釣りをして暮らしたという。水無瀬三吟みなせさんぎんに、このことを本説とした、

   心あるかぎりぞしるき世捨人
 をさまる浪に舟いづるみゆ  宗祇

              (「水無瀬三吟」六十句目)

の句がある。その厳子陵が釣りをしていたという伝説の地でもある。謝霊運の詩でも、そのことに触れている。

 羇心秋晨きしんしゅうしんつも
 あしたつもりて遊眺ゆうちょう


 羇は羇旅きりょの羇で、網や革紐でつながれるように余所の土地に引き止められることで、旅といっても何か分けありで、やむにやまれぬ事情で故郷を離れているという含みがある。左遷で赴任地に向かう途中では前途希望に満ちてというわけにはいかない。あきらめの気持ちが混じりながらも、せめては名所を見物しながら、憂さを晴らそうというような旅心で、秋の朝にどこか物悲しげに積もり積もってゆく。
 「積秋晨 晨積」と繰り返すことで強調しながら、積もり積もった旅心に遊覧の旅を繰り返す。

*「羇」は「寄」「倚」と同様、「寄る」という意味で、網と革紐でつながれたように、家を出て余所に寄るという意味。
*「晨」は日が震えながら昇るというところから、朝の意味。
*「眺」は左右水平に見渡すこと。「覧」は上から下を見下ろすこと。「遊眺」は「遊覧」に同じ。
*「展」は重石で平に延ばす所から来た言葉で、巻物を開くというイメージにもつながる。そこから、繰り広げるという意味になる。


 孤客逝湍こかくせいたんいた
 徒旅奔峭とりょほんしょうくるしむ


 「客」というのは余所から来た者、居候(食客)、見知らぬ人という意味もある。stranger(étranger)の意味に近い。「逝く」はふっつりと折れるように逝くことをいい、死去することをも言うが、「逝水せいすい」のように、行く川の流れが戻ることのないことを表すのにも用いる。「逝湍せいたん」も同じで、「湍」は早瀬のこと。湍は「端」「喘」と同様、短いに通じ、岩の間が細くなって、そこに短い距離ながら急に水が流れるところを指す。その流れの速さに、あっという間に過ぎ去る年月、短い命を思い、心を痛める。
 徒旅とりょは徒歩での旅。「徒」の字には虚しいとか、何も得ることなく(徒労など)という意味が含まれている。「奔」は勢いよく走るという意味で、奔走、奔馬など走る様や、奔流、奔湍など川の流れなどの激しい動きを表すことが多いが、「奔峭ほんしょう」のように、山を表すのに使うのは珍しい。ほとばしるようにそそり立つ山ということか。「奔」は落ちることで、落石に苦しむとする説もある。いずれにせよ、「道」は旅路のことでもあれば、人生の旅路、つまり天地の大道そのものでもあり、二重の意味を込めたものとして読んだ方がいいだろう。
 徒歩での登山に苦しむというと、謝霊運が足駄を工夫して、登る時には前歯を外し、降りるときには後歯を外せるようにしたというエピソードもある。かえって歩きにくそうで、珍道具の一種ではないかと思うが、こうした奇抜な発想をするのも謝霊運のキャラクターだったのだろう。

*「傷」は「当」と同系で、何かにぶち当たり傷つくことをいう。ここでは心を痛めること。
*「徒」は一歩一歩歩くこと。歩く、ともがら、いたずらになどという意味もある。
*「峭」は細く削る、尖らせるというところから、けわしくするという意味。


 石淺いしあさうして水潺湲みずせんかんたり
 日落ひおち山照曜やましょうよう


 「潺湲せんかん」はさらさらと流れるさまで、『楚辞』の「九歌・湘夫人」には「流水の潺湲せんかんたるを観る。(觀流水兮潺湲。)」とある。一方、『楚辞』の「九歌・湘君」には「横流するなみだ潺湲せんかんたり。(横流涕兮潺湲。)」とあり、涙がはらはらと流れる様をも表す。さらさらした水の流れにも、憂いを含んだニュアンスを感じ取るべきだろう。
 日は落ちて、麓は影になっても、山のてっぺんの方はまだ夕日が当り、赤々と輝いている。どこか、

 遠山に日のあたりたる枯野かな   虚子

の句を彷彿させる。遠山に日が当っていることでもって、麓が既に日が落ちていることを表す、マイナーイメージという手法は、子規や虚子の俳句で多用されたが、それを千年以上も前に先取りしていたかのようだ。『詩経』「国風・檜風」に「羔裘膏こうきゅうあぶらの如く、日出ひいでてやくたる有り。(羔裘如膏、日出有曜。)」とあり、ここでは朝日の輝きのことだが、それを物悲しい夕暮の残光の意味に転用している。

*「潺」は水の小さくて弱いという意味で、「潺々」というと、水がさらさらと流れたり、雨が降る様を表す。

 荒林紛こうりんふんとして沃若よくじゃくたり
 哀禽相叫嘯あいきんあいきょうしょう


 荒れた林は、点々とし、その葉はみずみずしく若い。「沃若よくじゃく」は『詩経』「衛風・ぼう」に、「桑の未だ落ちざる、其の葉沃若よくじゃくたり。(桑之未落、其葉沃若。)」から来ている。江南地方はいわゆる照葉樹林帯で、秋でも紅葉したり落葉したりしない。それがまた、まさに鬱々とした、荒れ果てた感じになる。
 あわれな鳥は互いに声を絞り口を細めて叫ぶ。

*「粉」は米を分けると書くように、砕いて粉々にする、散らばるということ。
*「沃」は水で潤してしなやかにすること。
*「禽」は網で押さえて逃げられないようにすることで、やがて網で捕らえるための動物のこととなり、狩猟の対象となる鳥のことになった。
*「叫」は縄で搾り出すように叫び声を上げること。「号」は太い声で呼ぶこと。
*「嘯」は口を細くして口笛を吹くこと。そこから「うそぶく」の意味になる。


 ものいて遷斥せんせきいた
 そんして要妙ようみょう


 「遷斥せんせき」という言葉には諸説あり、李善は時間が移り変わるとし、李周翰は貶出(流れ去る)とする。『廣雅』(魏の張揖の作った辞書)には、「斥、推也。」とある。「推遷」は移り変わること。物に遭っては移ろいで失われてゆくことを痛む。川は流れ去り、日暮れの山に当る残光に一日が終わり、林は荒れ放題に草木が繁り、鳥は互いに叫びあい、それがまた自分の人生の旅路であるかのように思える。「遷」の字は左遷にも通じる。
 しかし、こうして左遷され、荒涼とした山路をたどってはいても、春夏秋冬、季節はつつがなく廻り、人生に盛衰があるのも自然なものだという、道の奥深さを実感する。「要妙」は『老子』に出てくる言葉で、善行というのは跡を殘さず、形に囚われることがないため、どんな人でもどんな物でも必ず何か意味を見出し、救い出す。これを要妙という(「是謂要妙」)。道の奥深い様を表す言葉で、「窈眇ようみょう」と同じ。

*「遷」は中身が他に移ること。
*「斥」は斧で叩き割るところから、退ける、押し退ける、開く、あるいは「斥候」という時のように様子を伺うという意味もある。
*「期」は四角い箕を描いた字で、きちんとした四角形から、四季の規則正しい循環の意味になる。


 すで上皇じょうこうこころ
 豈末代あにまつだいそしりいさぎよしとせんや


 『荘子』天運編、第十四に「巫咸祒曰ふかんしょういわく、来たれ、、吾れなんじげん。天に六極五常あり。帝王、これにしたがわば則ち治まり、これに逆らわば則り凶なり。九洛の事、治成りて徳備わり、下土かど監臨かんりんして天下これをいただく、此れを上皇と謂うと。(巫咸祒曰、來、吾語女。天有六極五常。帝王順之則治、逆之則兇。九洛之事、治成德備、監臨下土、天下戴之、此謂上皇。)」
 上皇というのは天帝の意図を知り尽くした人間の皇帝のことで、天の摂理に則って政治を行う聖人君主のことをいう。左遷という憂き目に遭っても、天命に従い、逆らわずに生きる、そんな上皇のような心を手中に収めたなら、どうして末代までの誹りなどという些細なことにこだわるだろうか。

*「秉」は稲の穂の真ん中を手に持つ様で、手にしっかりと持つ、手中に収めるという意味。
*「誚」は言葉で相手を削るように誹ること。
*「屑」は細かいこと、そこから「くず」の意味にもなるし、「不屑(いさぎよしとせず)」というのは、細かいことを気にしないという意味になる。


 のあたり嚴子げんしらい
 おもい任公じんこうつりぞく


 目の当たりに、かつて厳子陵げんしりょうが釣りをしたという瀬に釘付けになりながら、さらにその昔、任公じんこうが釣りをしたことが頭から離れなくなる。  任公は『荘子』外物編によれば、巨大な釣り針に太いロープと牛四等を餌にして、大魚を釣り上げ、それを民に分配したとある。これはおそらく比喩で、野に下っても民間で事業を起こし、成功すれば、政治の助けを借りなくても人々を幸福にできるということだろう。やはり、謝霊運はだてに物見遊山をしてたわけではない。既に頭の中には会稽郡の大規模な干拓事業の計画があり、「すで上皇じょうこうこころる」という自負も、そこから来てたのではなかったか。  厳子陵は官を辞して釣り糸を垂れながら悠々自適の生活をしていたように見えるが、本当は任公のように、野に下って、民間の力で民のために尽していたのではないのか、というのが謝霊運の解釈なのだろう。そこが、陶淵明と違うところでもある。

*「覩」は「睹」の異字体。一点に視線を集めること。
*「屬」は「属」の旧字で、桑の葉にくっついて離れない虫から来た字。


 だれ今古殊きんこことなりと
 異代いだい調しらべおなじうす


 「今古殊きんこことなり」というのは、昔と今は違うという意味だけでなく、厳子陵げんしりょう任公じんこうとは違うという意味も込めているのだろうか。厳子陵は陶淵明のように、ただ、田舎に籠ってのんびりと暮らしていたのかもしれないが、謝霊運の解釈はそうではない。時代は違っていても、権力の座に着くだけが聖人君主の道ではなく、野にあっても民のためにできる限りのことを尽すのが本当の君主だ。「調しらべ」というのは、田に作物が満遍なく植えられているところから来た字で、そこからバランスを取ることをいう。官と民とのバランスが取れてこそ、天下はよく治まる。官民癒着の日本と違い、中国ではむしろ官と民とが互いに拮抗しながら国を作ってゆく伝統がある。それは現代中国にもよく当てはまる。

登池上樓

 潛虬媚幽姿 飛鴻響遠音
 薄霄愧雲浮 棲川怍淵沈
 進徳智所拙 退耕力不任
 徇祿反窮海 臥痾對空林
 衾枕昧節候 褰開暫窺臨
 傾耳聆波瀾 擧目眺嶇嶔
 初景革緒風 新陽改故陰
 池塘生春草 園柳變鳴禽
 祁祁傷豳歌 萋萋感楚吟
 索居易永久 離羣難處心
 持操豈獨古 無悶徴在今

   池上樓ちじょうろうのぼ

 潛虬せんきゅう幽姿ゆうし
 飛鴻ひこう遠音えんいんひびかす
 そらいたりてくもかべるを
 かわみてふちしずめるに
 とくすすむにはせつなるところにして
 退しりぞきてたがやすには力任ちからたえず
 祿ろくもとめて窮海きゅうかいかえ
 やまいして空林くうりんたい
 衾枕きんちんにあって節候せっこうくらかりしも
 褰開けんかいしてしばら窺臨きりん
 みみかたむけて波瀾はらん
 げて嶇嶔くきんなが
 初景しょけい緒風しょふうあらた
 新陽しんよう故陰こいんあらた
 池塘ちとうには春草しゅんそうしょう
 園柳えんりゅうには鳴禽めいきんへん
 祁祁ききたる豳歌ひんかいた
 萋萋せいせいたる楚吟そぎんかん
 索居さっきょして永久えいきゅうなりやす
 ぐんはなれてはこころがた
 そうするはひといにしえのみならんや
 もだえきはちょういま

   池上樓ちじょうろうのぼ
 地に潜む龍の子はその奥ゆかしい姿が麗しく、空飛ぶ巨大な雁は遥か遠くからの声を響かす。
 なのに私は空に迫り雲に浮かぼうとしては心が萎縮し、かといって川に棲み淵の底に身を潜めるのは身も切られる思いだ。
 君子となって徳を世に広めるには智恵が足らず、引退して畑を耕して暮らすにはそれに耐える体力もない。
 役人の給料を求めては最果ての見知らぬ海辺に来て、厄介な病気を抱えてはひと気のない林を眺める。
 寝床にいたため季節がわからなくなっていたが、簾の裾を開けてはしばらく外を覗き見た。
 耳を傾けて大きな波の連なるのを聞き、目を挙げては険しくのしかかってくるかのような山を眺める。
 初春の景色は去年の秋冬の名残の風を革め、下から登ってきた陽気が去年の陰気に取って代わってゆく。
 池の土手は春の草を生じさせ、庭に鳴く鳥も変わった。
 ゆったりとした遅日に『詩経』の豳歌に心を痛め、さわさわとした草の茂りに『楚辞』の「招隠士」を感じる。
 一人引きこもれば永久にそのままになりそうで、群から離れたら心を落ち着けることは難しい。
 それでも操を守り続けるのは一人古人だけだろうか、易に言う「無悶」の徴は今ここにある。

      
 永初えいしょ三年(422年)七月に永嘉えいか郡の太守となった謝霊運は、翌景平けいへい元年(423年)の春、永嘉周辺を遊覧しながら、とある池のほとりの楼に立ち寄り、この謝霊運の代表作は生れる。
 永嘉というと、今の温州うんしゅうで、会稽(今の紹興)よりもさらに南にあり、東シナ海に面した温暖な土地だった。今日テーブルオレンジという名で、世界に知られる温州ミカン発祥の地でもある。江南地方はかつて茅山ぼうざん道教の盛んな地で、池上楼というのも、そうした道教の儀式のために作られた道観だったのだろう。
 謝霊運が赴任早々、この地を片っ端から遊覧して歩いたのは、もちろん単なる物見遊山ではなく、開発可能な土地を探していたのだろう。ただ、その土地の生産力を高めることは、そこに住む人にしてみれば、豊かになっていいかもしれないが、政情不安な南北朝の時代に一つの地域だけが生産力を高めることは、周辺の地域にとって大きな脅威になる。
 経済的繁栄がはそれ自体周辺国にとって脅威となるのは、昔も今も変わりない。アメリカが世界の嫌われ者になるのも、日本がアジアの嫌われ者になるのも、必ずしも過去の歴史だけの問題ではない。日本が本気で再軍備をすれば、すぐに韓国や中国の軍備を圧倒するだろうし、今の自衛隊ですら、アジア最強と言っていいかもしれない。まして、日本が本気で核開発をすれば、たとえ北朝鮮が本当に核を持っていたとしても、その何十倍も強力なものを作ってしまうだろうし、数倍も精度の高いミサイルを平壌ピョンヤンに向けて配備することもできるだろう。(精度の高いミサイルは宇宙開発事業団では無理だが、民間の力を借りれば十分可能だ。)しかも、それをやったからといって、国民が銀シャリや肉が食えなくなるということはない。豊かさというのは、それだけで周辺国にとっては潜在的な脅威となる。問題なのは、日本人の多くが未だに日本がアジアの片隅の小国だと思っていて、脅威を与えているという自覚がないことだ。
 謝霊運は、一族の支配する地域を豊かにすることに余念がなかったようだが、結局それが他の高級官僚たちに脅威を与え、国を乗っ取ろうとたくらんでいるのではないかと、絶えず勘ぐられることとなった。謝霊運の失敗は、むしろ外交上の失敗といっていいだろう。多分才能はあるが、それを隠そうとせず、むしろ積極的に論戦を挑んでゆくタイプだったのだろう。そうした自己アピールの強さとカリスマ性は詩人としては成功したが、敵も多く作った。

 潛虬せんきゅう幽姿ゆうし
 飛鴻ひこう遠音えんいんひびかす


 「虬」は「虯」の異字体で、虫に丩(ねじれる)と書くことで、竜の子で、体がねじれて角のある、想像上の動物を表す。『說文』に「虯:龍有角者。」とある。『易経』の冒頭の「乾為天」に、「潛龍せんりゅう、用いるなかれ。(潛龍。勿用。)」とある。そして孔子の文言伝には、その説明として、こうある。「龍徳ありて隠れたる者なり。世にえず、名を成さず、世をのがれてうれうることなく、とせられずしてうれうることなし。楽しめばこれを行ない、憂うればこれをる。確乎かっことしてそれ抜くべからざるは、潛龍せんりゅうなり。」とある。ここに「うれうることなく(无悶)という文字が二度ほど出てくるが、それはこの詩の最後の「もだえきはちょういまり」への伏線となっている。
 同じ『易経』の「乾為天」に、「飛龍天に在り。大人たいじんを見るにろし。(飛龍在天。利見大人。)」とある。龍が地に潜むのは徳のある者が名利を嫌い、世を遁れて悠々と過ごしているからであり、天高く飛ぶ龍は聖人であるからこそ、悠々と天に親しむことができることをいう。ここでは「龍」の字の重複を避けてか「飛鴻ひこう」と言うが、易の「乾為天」を踏まえたもので、潛虬せんきゅうはその姿を表さない奥ゆかしい姿が麗しく、空飛ぶ鴻(雁)は遥か彼方からの遠い声を響かす。
 龍は中国にも西洋にもある。おそらく中央アジアの砂漠地帯などで時折地表に姿を現す恐竜化石(竜骨といって漢方薬にもなる)を見て、昔の人なりにその姿の復元を試みたのだろう。

*「幽」は細い糸を二つ並べた様で、山の中がほの暗くかすかなこと。幽玄という言葉があるが、「玄」も細いかすかな糸のことで、奥深い、深遠な様を表す。
*「鴻」はがんの中でももっとも大きいヒシクイ、あるいはハクチョウのこと。


 そらいたりてくもかべるを
 かわみてふちしずめるに


 潜龍は名利を嫌って地の底に潜んでいて、飛龍は遥かな高みから真実の声を響かす。それなのにこの私は、と展開する。
 飛龍のように空に迫ろうとしては、雲に浮かぼうとすると心が萎縮してしまい、潜龍のように川に棲んでみても、静かに淵の奥深くに潜むことも身が切られるように恥ずかしくてできない。つまり、聖人君主にもなれなければ、隠士にもなれない。一時は政治の世界で出世しようと試みたが、少帝がろくに政治を行わないのをいいことに勝って放題に振舞う徐羡之じょいしに睨まれて、結局は左遷されてしまい、かといって政界を退き、陶淵明のように悠々自適の隠居生活というわけにもいかない。

*「霄」は雨の肖(細る、幽か)で、空っぽな晴れ渡った空というよりは、雨雲の向こうに隠れた遥かな空というニュアンスがある。
*「愧」は心が萎縮して丸く固まること。「塊」と同系。「恥」は心が柔らかくなること。「怍」は心がざくっと切られる様な感じ。
*「薄」は苗代に苗が生えるところから来た字で、薄っすらと生えるところから薄いという意味と、びっしりと生えるところから肉薄するという意味がある。「薄」をススキという植物の意味とするのは、日本独自のもの。


 とくすすむにはせつなるところにして
 退しりぞきてたがやすには力任ちからたえず


 「とくすすむ」という言葉も『易経』「乾為天」の文言伝に、「君子は徳に進み業を修む。忠信は徳に進む所以なり。(君子進德修業。忠信、所以進德也。)」とある。
 人徳でもって徐羡之じょいしの悪政を正すには、あまりに智恵が不足していたし、かといって陶淵明のように田舎にこもって畑を耕すには、そんな体力もない。冒頭に潛虬せんきゅうを出した時点で、謝霊運の頭の中には陶淵明の世間での名声のことがあったのだろう。ただ、謝霊運はあくまで世を捨てようという気はない。謝家の財力で干拓事業を起こし、国を豊かにし、民を救おうという志は捨てられない。「七里瀬しちりらい」で厳子陵げんしりょうが釣りをしたという瀬を見ながら、あえて任公じんこうが大魚を釣り、世を救ったことを思うように、力が足りないというよりは、明らかに考え方が違っていたのだろう。

*「任」の壬は腹のふくれた糸巻きや妊婦を示し、任は腹に重荷を抱え込むことを言う。そこから責任を負う、任務を任せられる、仕事を引き受け、その重みに耐える、という意味になる。

 祿ろくもとめて窮海きゅうかいかえ
 やまいして空林くうりんたい


 「ろくもとめて」というのは、結局出世もしなければ野に下ることもなく、永嘉郡の太守の地位に甘んじた自分の姿であり、永嘉は海辺にあった。窮海は窮は極まる、ぎりぎりのところまで行くところから最果てのことで、海は晦に通じ、よくわからない土地というニュアンスがある。
 そして、永嘉赴任から半年後の春、何の病気かは定かでないが、体調を崩し、赴任以来精力的に続けてきた付近の山野の調査も出来ず、止むを得ず池のほとりの楼で静養を余儀なくされたのだろう。ただもちろんここには、多少の文学的な誇張はあったかもしれない。「空林」は葉の落ちた林をいう場合もあるが、永嘉の地は照葉樹林帯なので、人の気配のない林という意味に取った方がよく、役所にいれば大勢の役人に囲まれ、山野を調査する時には大勢の従者を従えていたが、今はほとんど人のいないところで静かにすごしていることを述べている。

*「徇」は殉と同じで、主人の後に従うことをいう。「殉死」は「徇死」とも書く。
*「反」は布を手で押して反らせた姿を表し、反ったものがもとに戻るところから、帰るという意味になる。
*「痾」は狭いところに入り込んで治りにくい病気のこと。


 衾枕きんちんにあって節候せっこうくらかりしも
 褰開けんかいしてしばら窺臨きりん


 節候せっこうは季節・時候のことで、病気で長いこと寝床にいたために、季節の移り変わりもわからなかったが、ということ。これも若干の誇張はあるだろう。

*「衾」は寝る時にかぶる夜着。衾と枕とで寝床のこと。
*「褰」は本来袴のことだが、ここでは簾の裾のこと。
*「窺」は穴からのぞくこと。


 みみかたむけて波瀾はらん
 げて嶇嶔くきんなが


 『礼記』には、「傾耳而聽之」とある。嶇嶔は嶔嶇とも言う。険しくてのしかかってくるかのような山のことを言う。

*「瀾」は波頭の連なる様で、漣と同系の言葉だが、漣よりは大きな波を表す。
*「聆」は耳を澄まして聞くこと。


 初景しょけい緒風しょふうあらた
 新陽しんよう故陰こいんあらた


 ここからがいかにも謝霊運らしい、易や五行説に基づいた暗示に富んだ言い回しが続く。
 初景しょけいは初春の景色で、緒風しょふうは秋冬の風の名残をいう。『楚辞』「九章」の「渉江」に、「乗鄂渚而反顧兮、欵秋冬之緒風。(鄂渚がくしょに乗りて反顧はんこすれば、ああ、秋冬しゅうとう緒風しょふうなり。」とある。
 「革」は皮(皮革というように)をぴんと張るところから、たるんだものを直す、間違ったものを変革して正すことを言う。『易経』では上が沢(兌)で下が火(離)の卦で、火と水が相容れないように、上と下とが対立した状態を表し、それが、四季の移り変わりのように自然と直ってゆくことを言う。「革命」という言葉もここから来ている。また、「君子豹変す」ということばも、この『易経』の「革」を出典としている。
 年が改まり、去年の秋冬の風が初春の景色へと変わってゆくように、何かが新しく、正しく改革されてゆく。それは下から登ってきた陽気が去年の陰気に取って代わられてゆくからである。易では下の陽気が上昇し、陰気と入れ替わってゆくことで春が来る。初春は泰(上が坤で下が乾の卦)で表し、地面の上は去年から残る秋冬の風の陰気が残っているが、地面には既に陽気が登ってきて、春が来たのが感じられる。それを具体的に言うと、次の詩句となる。

*「緒」は糸巻きに巻いた糸の最後に残った端っこのこと。そこから、名残という意味と糸口という意味になる。

 池塘ちとうには春草しゅんそうしょう
 園柳えんりゅうには鳴禽めいきんへん


 池の堤に春の草が生じるというのは、五行説の五行相生の循環の一つ、水生木を暗示させる。五行相生とは、水生木、木生火、火生土、土生金、金生水の循環のことで、水によって草木が生じ、木が燃えることによって火が生じ、火によってその灰が土となり、土の中では金属類が生じ、金属によって冷やされ、結露して水が生じるという、五つのエレメントの循環をいう。これに対し五行相剋というのもある。木剋土、土剋水、水剋火、火剋金、金剋木、つまり、草木によって土の養分が吸い取られて、土の堤防で水がせき止められ、水が火を消し、火が金属を溶かし、金属の刃が木を切り倒すという循環となる。これは今日の風水でも受け継がれていて、例えば、黄色いものが金運をもたらすのは、黄色が土の色であり、土生金だからである。逆に赤いものは火を象徴するため、火剋金で金運を損なう。
 「池塘ちとうには春草しゅんそうしょうじ」という言い回しも、文法的には池塘が主語となり、そのまま読めば池塘が春草を生み出す、という意味になる。これは水生木という言い回しそのままである。五行はそれぞれ季節にも対応していて、春は木、夏は火、秋は金、冬は水、そしてそれぞれの季節の変わり目に土用がある。土用のうなぎというのは、夏から秋への変わり目の土用の丑の日に食べるうなぎのことだ。これでゆくと、冬から春への季節の移り変わりはは、水から土用を経て木への転換であり、まさに池(水)の塘(土)が春草(木)を生じさせることになる。
 春の陽気が上昇したことで、地面に青々とした草が生えてきて、柳も新芽を吹けば、そこに春を告げる鳥の声もする。柳は風に逆らわずなびき、そのため風に折れることがないところから、事態に柔軟に対応し、名にこだわらず実を取る、君子の徳を象徴する。日本で柳に風というと、軟弱で芯のない、何か悪い意味に用いられるが、中国では意地を張り通したりするのは小人しょうにんのすることで、大人たいじんはそのような物にこだわらない広い心を持つことを善しとする。小泉首相が日中関係の実利や国益を無視してまで、靖国神社の参拝の問題で国家や故人の名誉にこだわり、意地を張り通す姿は、そういう中国人からするとどうしても小人に見えてしまうのだろう。反日デモのプラカードに「小犬」と書かれていたが、現代北京語では小犬と小泉は音が一緒で、シャオチュアンと発音する。日本でもかつては、

 むっとしてもどれば庭に柳かな   蓼太りょうた

の句もあり、「柳に風」は決して悪い意味ではなかった。
 謝霊運がここで柳を持ち出すのも、そうした寓意を思い起こさせる意図があったのだろう。柳の風になびく姿を見て、今まで自分は何を意地張ってきたのだろうか、もっと悠然と構えていた方がよかったのではないか、そんな反省の念に駆られる。そこには、官を退き、畑を耕して生活している五柳先生(陶淵明)への憧れがあったのかもしれない。
 水生木、陽気の上昇、春の訪れ、柳に象徴される君子の徳、これらを兼ね備えた「池塘生春草、園柳變鳴禽」の詩句は、その後長いこと中国人の心として愛唱されることとなった。それは日本で芭蕉の、

 古池や蛙飛び込む水の音   芭蕉

の句が愛唱されてきたのと、どこか通じるものがあるように思える。

*「塘」は水をせき止めるための土手のこと。
*「園」は垣根によって囲まれた畑や庭のこと。
*「禽」は網や罠などで捕らえるための鳥、つまり野鳥のことで、鶏や家鴨のような飼われた鳥ではない。日本で春を告げるというとウグイスだが、江南地方にはウグイスは生息しない。カワセミやセキレイのことか。


 祁祁ききたる豳歌ひんかいた
 萋萋せいせいたる楚吟そぎんかん


 祁祁ききというのはゆったりとした感じで、『詩経』「豳風」の「七月」という詩に、

 春日遅遅 采蘩祁祁
 春日は遅遅たり、よもぎること祁祁たり。

とある。ひんというのは、今の陝西せんせい省西北部の岐山のあたりで、周公のたんが周の先祖がここで農事を行なったことを偲んで作ったとされている。内容も農事の手順を列挙して、何月には何をしろというもので、この句は九月に家族のためにきものを作るには、春の倉庚そうこう(鶯のこと)のなく頃、女は桑の葉を摘み、春の遅日に蓬を摘んで、早く嫁に行けるように物思う頃だという文脈であらわれる。そんな太古のノスタルジックな農村の幻想に、一方では官を辞して田舎で一人畑を耕して暮らしたらどうかという思いが頭をもたげては、心が痛んだのだろう。
 萋萋せいせいは草木の茂るさまで、『楚辞』「招隠士」に、

 王孫遊兮不帰 春草生兮萋萋
 王孫遊んで帰らず、春草生じて萋萋たり。

とある。「招隠士」は漢の淮南わいなん王(『淮南子えなんじ』を編纂したことでも知られている)の門下生のプロジェクト、淮南小山の作とされている。内容は深い山の中、いかにも仙人の好みそうなところで、屈原の魂に向かって帰って来いと呼びかけるものだ。ここでは逆に、自分に屈原の魂を重ね合わせ、真の君子として政界に戻ってきて、頂点に立ちたいという思いが頭をもたげてくる。
 池の土手に春の草が生え、庭の柳に春の訪れを告げる鳥が鳴く中、豳風に晴耕雨読の生活を夢見、「招隠士」にかつての君子の志を思い起こす。そして、その悩みが、目出度いはずの春を憂鬱にする。

*「傷」は「当」と同系で、何かにぶち当たり傷つくことをいう。ここでは心を痛めること。

 索居さっきょして永久えいきゅうなりやす
 ぐんはなれてはこころがた


 「索居さっきょ」の索は麻の茎の繊維を剥ぐところから来た文字で、離れる、孤立する、という意味がある。索居は一人孤独に離れて住むことをいう。

*「永」は川の支流の枝分かれするさまを描いた文字で、細く曲がりくねったり、枝分かれしながら、延々と続いてゆくもので、時の長さを表す。
*「處」は「処」と同じで、「虍」は後から音符として添えられたもの。「処」は台に向って足を止め腰を落ち着けること。そこから落ち着くべき所をも意味する。ちなみに処女というのは家の中に落ち着いている女で、まだ嫁に行っていないという意味。
*「羣」は「群」の異字体。羊の群が丸くまとまっていること。


 そうするはひといにしえのみならんや
 もだえきはちょういま


 『楚辞』の「漁父」の問答に、屈原が

 聖人不凝滞於物
 而能與世推移
 世人皆濁
 何不淈其泥
 而揚其波

 聖人というのは物事にこだわらずに
 世の推移に従うものだ
 世間の人が皆濁っていれば
 何でその泥を掻き混ぜて
 波しぶきを上げようとしないのか

と漁師に諭される場面がある。しかし、屈原はあくまでもそれは出来ないと操を守り、最後は入水自殺の道を歩んだ。信念を貫き通すべきか、それとも現実と妥協すべきか。それは永遠のテーマかもしれない。
 謝霊運は、ここでは現実に妥協してきた自分を振り返り、ここは困難なことではあるが、屈原のように操を守り、一人隠棲する道を選ぶべきなのか、迷う。
 「無悶」とは、『易経』の「乾」の文言に、潜龍とは隠者であり、「不易乎世、不成乎名、遯世无悶、不見是而无悶、楽則行之、憂則違之。(世に易えず、名を成さず、世をのがれてうれうることなく、是とせられずして悶うることなし、楽しめばこれを行い、憂うればこれをる。)」から来ている。无と無は同じと考えていい。
 冒頭には、自分は潛虬せんきゅうになれず、隠棲して畑を耕すことも出来ない、と言いながらも、病気に一人池のほとりの別邸で春を迎えると、何かが変わる気配に、このまま一人になるのは難しいが、こうやって一人隠棲し、潜龍となるのが吉と出ていると締めくくる。それは、できそうにないとわかっていることでもあった。このあたりが謝霊運的なところでもある。陶淵明はある種の理想の行き方を体現した人で、淵明ファンはそのライフスタイルに憧れ、そうなりたいと願う。これに対し、謝霊運は常に悩める青年のように、そうなりたくても慣れないで葛藤する自分をさらけ出す。だいたい人は、陶淵明に憧れても、自分がそのようになれるわけではないことも知っている。だから、自分自身の悩みや迷いを投影できるのは、むしろ謝霊運の方なのである。
 謝霊運は永遠の青春のように悩み続ける。『遊南亭(南亭に遊ぶ)』という詩では、

 未厭青春好 已覩朱明移
 未だ青春のきにかざるに、已に朱明の移るのをる。

と言う。アメリカ人にとって、ジェームス・ディーンやチャーリー・ブラウンがヒーローであるように、謝霊運もかつての悩める中国人のヒーローだったのか。

*「操」は手先で手繰り寄せること。そこから操作するという意味になり、一方では心の中にしっかり留めておくという意味で「みさお」のことになる。 

廬陵王墓下作

 暁月發雲陽 落日次朱方
 含悽泛廣川 灑涙眺連岡
 眷言懷君子 沈痛切中腸
 道消結慣懣 運開申悲涼
 神期恆若在 徳音初不忘
 徂謝易永久 松柏森已行
 延州協心許 楚老惜蘭芳
 解劒竟何及 撫墳徒自傷
 平生疑若人 通蔽互相妨
 理感深情慟 定非識所將
 脆促良可哀 夭枉特兼常
 一随往化滅 安用空名揚
 擧聲泣已灑 長歎不成章

   廬陵王墓下ろりょうおうぼかさく

 暁月ぎょうげつ雲陽うんよう
 落日らくじつ朱方しゅほうやど
 いたみふくんで廣川こうせんうか
 なみだそそぎて連岡れんこう
 かえりみてここ君子くんしおも
 沈痛ちんつう中腸ちゅうちょう
 道消みちきえて慣懣ふんまんむす
 運開うんひらいて悲涼ひりょう
 神期しんきつねるがごと
 徳音とくいんはじめよりわすれられず
 徂謝そしゃして永久えいきゅうなりやす
 松柏しょうはくしんとしてもっつらなる
 延州えんしゅう心許しんきょかな
 楚老そろう蘭芳らんぽうしむ
 けんくもついなんおよばん
 つかしていたずらにみずかいた
 平生疑へいせいうたがかくのごときひと
 通蔽互つうへいたがい相妨あいさまたぐるを
 理感りかんじてふかじょういた
 さだめてしきひきいるところあら
 脆促ぜいそくまことかなしむ
 夭枉ようおうことつね
 ひとたび往化おうかしたがってほろ
 いずくんぞもちいん空名くうめいあがるを
 こえげて泣已なみだすでそそ
 長歎ちょうたんしてしょうさず


   廬陵王ろりょうおうの墓の下で作る
 有明に雲陽うんようを立って、日の落ちる頃に朱方しゅほうに宿る。
 身を切られる思いに大河に浮かび、涙を流して連なる岡を見渡す。
 ふり返って今君子のことを心に抱き、深い痛みに腸の中が切られる。
 道は消えうせて憤懣のやり場もなく、廻り来るものに道は開かれても悲しみは続く。
 鬼神となっても魂は変わらないし、王の御言葉はもとより忘れはせぬ。
 この世を去ればあっという間に時は永久のものとなり、墓地の松柏は森となってすでに連なる。
 延州の季札きさつ徐君じょくんの心を察し、楚の老人は龔勝きょうしょうの蘭の香りを惜しむ。
 宝剣を墓前に捧げても何もならず、墳墓を撫でてもただ自分の心を傷つける。
 平生はこうした人たちの振舞いを疑っていた、理に通じたものがなぜ理を覆う。
 理を感じるからこそ深く情を痛め、それは知識に支配されたものではない。
 肉体の脆さは本当に悲しいもので、若くして無実のうちに死ぬとなればなおさら倍となる。
 ひとたび転生の法則に従って滅べば、ただ空しく名前だけを残してもしょうがない。
 声を上げて涙は既に流れ去り、長くため息をつくばかりでこの詩は完成しない。

      
 劉裕に仕えるようになった謝霊運はおそらく有能であるがゆえに、利用できるうちは重く扱われたのだろう。劉毅の死後七年目の419年には左衛率となる。翌420年に、劉裕は建康(今の南京)で即位し、国を宋とした。この頃はまだ順風満帆かに思えた。しかし、この頃から謝霊運は劉裕の次男、廬陵王義真の側に着くようになった。やがて、422年に劉裕が死ぬと、長男の義符が継いで少帝となったが、これがろくに政治をせずに大臣達が好き勝手に権力をほしいままにし、これを謝霊運が非難したため、司徒の徐羡之じょいしの怒りを買い、結局、廬陵王義真は424年に徐羡之のグループによって殺されることとなる。この『廬陵王墓下ろりょうおうぼかさく』は、そのときの作だ。

 暁月ぎょうげつ雲陽うんよう
 落日らくじつ朱方しゅほうやど


 雲陽・朱方はともに江蘇省の地名で、雲陽というと重慶市の雲陽が『三国志』で有名だが、あまりにも遠すぎて、ここでいう雲陽とは関係ない。ここで言う雲陽は曲阿のことで、江蘇省丹陽市(鎮江市のすぐ南)だという。朱方も今の江蘇省鎮江市の丹徒だとされている。『三国志』では、呉の孫桓がこの丹徒の森で暗殺された。そのまま単純に読めば、廬陵王の墓参りのために、明け方に雲陽を発ち、夕方に朱方に着いたという意味になる。
 謝霊運の詩の難しさは、漢の時代に確立された易や陰陽五行の世界観が反映されていて、これが今日の我々にダイレクトに伝わらないため、暗号の謎解きめいたものになってしまう。たとえば朱方しゅほうという地名だが、これも朱は朱雀の方角、つまり南を意味し、日本の飛鳥京でもそうだが、この方向には菖蒲池古墳、天武・持統天皇陵、中尾山古墳、高松塚古墳、文武天皇陵などが並ぶ。南は「朱宮」と呼ばれ、死者が復活する力を得るための仮の安置所とする方角だった。こうしたものはある時期まで、古代人の生活に密着したもので、日常の様々な習慣もそれに基づいていた。それは今日の我々が風水ブームで風水を気にするのとは違う。それが当時の先端の学問だったのであり、我々が占いを信じる以上の信頼性を持っていた。そのため、詩の中にもこうした要素は取り入れられている。
 朝夕を対句とする表現は、古くは屈原『楚辞』の「離騒」にも見られる。

 あしたにはおかの木蘭をり、
 ゆうべには洲の宿莽しゅくぼうる。

 あしたじん倉梧そうごに発し、
 ゆうべ余県圃よけんぽに至る。

 あしたじんを天津に発し、
 ゆうべに余西極に至る。

漢代の繆襲びゅうしゅうの「挽歌ばんか」にも、

 あしたに高堂の上を発し、
 ゆうべに黄泉の下に宿す。

とあり、確立された用法だった。日本でも後に柿本人麻呂かきのもとのひとまろの「輕皇子安騎あきの野に宿りませる時、柿本朝臣人麿かきのもとのあそんひとまろがよめる歌」に、

 坂鳥の 朝越えまして
 玉蜻たまかぎる 夕さり来れば

のフレーズに取り入れられているし、「明日香皇女の城上きのへの殯宮の時、柿本朝臣人麿がよめる歌一首、また短歌」にも、

 朝鳥の 通はす君が 夏草の 思ひ萎え
 夕星ゆふづつの か行きかく行き

のフレーズがある。

*「次」は欠(あくび)に音符の「二」(ジ)がついたもので、次は休むという意味だった。軍隊などの宿営を表すこともある。日本でも「東海道五十三次」というように、「次」を宿の意味で用いる。「次」は「二」に通じるため、「つぎ」という意味になる。二番目の男の子を「二郎」とも「次郎」とも名付けるのと同じだ。

 いたみふくんで廣川こうせんうか
 なみだそそぎて連岡れんこう


 ここはそれほど問題はない。身を切るような心の痛みを感じながら、広い川に船に乗って浮かび、涙をその川に流しては連なる岡を眺める。朱方(丹徒)は長江の畔にある。『楚辞』に「還顧高丘泣如灑」とある 。

*「悽」は「凄」と同様、「切」に通じる言葉で、身を切られるような悲しい思いを意味する。
*「泛」は水面を覆うように浮くというニュアンスがある。
*「灑」は本来、水を流して洗い流すことだが、涙をはらはら流す際にも用いる。
*「眺」は左右を広く見渡すこと。


 かえりみてここ君子くんしおも
 沈痛ちんつう中腸ちゅうちょう


 「君子」はもちろん廬陵王ろりょうおうで、王のことを思い出しては悲しくなり、「沈痛」は今でも「沈痛な面持ち」というふうに使うが、心の底に沈殿してゆくような深い痛みをいう。中腸を切るは今でも「断腸の思い」という。

*「眷」は「巻(まく)」+「目」で、目をぐるっと回す所から来た言葉で、振り返る、世話をする、目をかけることをいう。眷属というのは、世話をしている配下の者のこと。「巻(まく)」+「手」だと、「拳(こぶし)」になる。
*「言」は普通はものを言うことだが、『詩経』などでは、「我ここに」という意味で用いられることがある。小雅の「大東」という詩に「睠言顧之 潸焉出涕(かえりみて我ここにこれかえりみ、潸焉さんえんとしてなみだを出す。)」とあるが、「睠」と「眷」は同じ。


 道消みちきえて慣懣ふんまんむす
 運開うんひらいて悲涼ひりょう


 「道消て」は『易経』の天地否てんちひに「小人道長、君子道消(小人は道長じ、君子は道しょうするなり)」とあり、君子の道が消えることをいう。天地否というのは、天(けん)が上に来て、地(こん)が下に来るで、天は上昇し、地は下に沈むから、天と地が相引き裂かれてゆく凶相である。これと逆に地が上に来て天が下に来ると、たいという天と地が和合する吉相となる。天(けん)は男で、地(こん)は女だから、天地否は男女が引き裂かれる相でもあり、季節でいえば七月がそれに当る。七夕はそうした天地否の物語でもある。謝霊運の「折揚柳行」という楽符にも、

 否桑未易繋 泰茅難重抜
 (否桑ひそういまだ繋ぎ易く、泰茅たいぼう重ねて抜き難し)

という詩句がある。「桑」も「茅」も、ともに『易経』に出てくるメタファーである。
 「否」は君子の意図と臣下の意図がばらばらで、君子が孤立し、臣下は勝手放題をする様子を表し、それゆえに道は衰え、廃れる。廬陵王ろりょうおうこそが真の君子としてふさわしいのに、孤立し、殺されてしまった。その憤懣はやるかたがない。
 「開運」は今では幸運が開かれることをいうが、ここでいう開運は廻りくる運命が開けたという意味か。少帝の後文帝が即位したことを、新しい王を立てる形でこう言う。この詩は謝霊運が廬陵王を帝位に就けようと図ったという疑いを晴らすべく、文帝に申し立てるという意味もあったので、文帝を「開運」と持ち上げているのだろう。文帝が即位したので、ここでこうやって廬陵王の死を悼み、その悲しみを述べる。

*「憤懣」の「憤」は噴出すもので、「懣」はいっぱいになることをいう。「結」は糸で口を縛り付けることをいい、「慣懣ふんまんむすぶ」とは噴出してくる憤りが溜まりに溜まって、その出口もなくわだかまっていることをいう。
*「運」は道の上を廻るものをいう。
*「悲」は心が裂けること。
*「涼」は高い所にある水のような凍てつく冷たさをいう。
*「申」は手を前に伸ばすこと。「のべる」と「のばす」は日本語でも韻が通う。


 神期しんきつねるがごと
 徳音とくいんはじめよりわすれられず


 「神期しんき」は鬼神の意志で、ここでは廬陵王の御霊みたまの意志をいう。「恆」は『易経』の「雷風恆」にあるように、天地自然は変転を繰り返しながらも、その本は変わらない。「不易流行」という言葉もここから来ている。廬陵王は運命に翻弄されてしまったが、王の価値は不易であり、その徳のある人の言葉(徳音)はもとより忘れられない。

 徂謝そしゃして永久えいきゅうなりやす
 松柏しょうはくしんとしてもっつらなる


 「徂謝そしゃ」という言葉は、「徂」にも「謝」にも去ってゆく、逝くという意味がある。世を去ってしまえば、あっという間に永遠の時が流れ去ってしまい、墓に植えた松や柏は森となって連なる。

*「徂」は歩みを重ねてゆくことで、あの世へ行くことや、世代を重ねてゆくことをいう。
*「謝」は弓の弦を緩めることで、緊張を解くところから「あやまる」「ことわる」「礼を言う」という意味にもなる一方、生命がなくなるという意味で死ぬ、萎むという意味をも持つ。
*「柏」は日本のかしわではない。ヒノキ、コノテガシワ、かやなどの常緑樹をいう。韓国では墳墓には木が生えないようにしてきたが、中国では木を植える習慣があり、天子は松、諸侯は柏、大夫はおおち、庶人は楊柳を植えたという。
 漢の仲長統の『昌言』には、「古之葬者、松柏梧桐以識墳也(いにしえの葬は、松柏梧桐しょうはくごどうを以て墳を識るなり。)」」とある。『文選』の古詩の「去るものは日々に疎く」の詩にある「松柏催為薪(松柏しょうはくくだかれてたきぎと為る)」のフレーズも、一般には、長寿で貞節を象徴する常緑の松柏も、伐って薪にされている、と解釈されているが、詩の内容からしても、死者がいかに早く忘れ去られてゆくかを詠んだもので、墓所に植えられた松柏も伐られて薪になると読んだ方がいい。


 延州えんしゅう心許しんきょかな
 楚老そろう蘭芳らんぽうしむ


 延州えんしゅうは春秋戦国時代の呉の王、寿夢じゅむの末子、季札きさつのことで、延陵えんりょう季子きしと呼ばれている。有徳賢明と評判で、寿夢は季札に王位を継がせようとするのだが、季札はこれを頑なに固辞し、長男の諸樊しょはんが王位を継ぎ、次男、三男と順番に王位につけ、最後に季札に回そうとした。やがて、諸樊は楚の平王に敗れ、戦死すると、弟余祭よさいが王位を継いだ。季札は使者となって諸国を廻り、魯で周の音楽を聞き、斉で晏嬰あんえいに会い、領邑と政権を国君に返上するよう助言した。鄭で子産に会い、将来子産しさんが政権を掌握することを予言し、衛では、衛には君子が多いので禍乱はないと評し、晋では、晋の国政が韓・魏・趙の三家に帰すると予言した。余祭が没し、やがて寿夢の三子・余昧よまいが没しても、季札はまたしても即位を拒んだ。この時、延陵に封じられ、延陵の季子と呼ばれるようになった。結局は余昧の子の僚が王位を継いだが、諸樊の子の光が僚を殺して、呉王(闔閭こうりょ)となった時、帰国して僚の死を嘆いたという。王ともなると、いろいろ汚れる役回りも引き受けなくてはならないので、それを拒んで一家臣に留まるというのも、確かに賢明といえば賢明だろう。ただ、責任を回避しているという側面がないわけでもない。
 その季札きさつの『史記』に載っているエピソードに、李札他国へ使いに行く途中、徐君じょくん(徐の王)に逢い、徐君が李札の持っていた宝剣を、口にはしないが、欲しがっている様子だった。李札は、そのまま他国へ行ったが、そのことが気になって(心に之を許せり)帰りにふたたびき徐君のもとを訪た。しかし、徐君は既に死去していた。李札は徐君の墓をお参りし、剣を墳墓に植えられている木に挿して帰ったという。「延州えんしゅう心許しんきょに」というのは、このような季札の徐君の気持ちを察する心であり、謝霊運の廬陵王に対する気持ちもそれと同じだという。
 楚老は、『漢書』に記されている、龔勝きょうしょうという前漢末の忠臣の死を嘆いた老人のこと。龔勝は、前漢から政権を剥奪して新という国を建てた王莽おうもうに仕えることを拒んで、餓死したと言われている。龔勝も楚の人で、この老人も楚の人だったのだろう。龔勝の死を嘆き、「嗟乎!薰以香自燒、膏以明自銷、龔先生竟夭天年、非吾徒也。(ああ薫は香あるを以て自ら焼かれ、膏は明あるを以て自らしょうさる。龔先生はついに天に夭せり、わが徒に非ざるなり。)」と言ったという。廬陵王も蘭のような君子の香りを持っていたがために焼かれてしまったのは惜しいことだ。

*「協」は多くのものが一つに合わさる所から、一致する、かなうという意味になる。「叶」も同じで、十人の口(意見)があることをいう。

 けんくもついなんおよばん
 つかしていたずらにみずかいた


 しかし季札きさつのように剣を解いて捧げたからといってどうなるわけでもなく、楚老のようにただいたずらに墳墓を撫でても自分の心を痛めるのみ。
 潘安仁の『虞茂春誄』に、

 姨撫墳兮告辭 皆莫能兮仰視

 顧愷之の『拜宣武墓詩』に、

 遠念羨昔存 撫墳哀今亡

という詩句もある。

*「傷」は「当」と同系で、何かにぶち当たり傷つくことをいう。ここでは心を痛めること。

 平生疑へいせいうたがかくのごときひと
 通蔽互つうへいたがい相妨あいさまたぐるを


 「平生」は日頃だとか、あの頃はという意味で、かつては季札や楚老の剣を捧げたり墓を撫でたりするような行いを信じ難かった。
 「通」は理に通じているということで、「蔽」は理が通じていないこと。「相妨ぐる」とは理性と感情が互いに反することで、何で賢い人がこんなに感情に突き動かされるのかがわからなかった、という意味。

*「若」は前の文を受けて。「かくの如き」という意味で用いられる。

 理感りかんじてふかじょういた
 さだめてしきひきいるところあら


 理に通じているからこそ、理を感じ、理不尽なことに情は深く痛む。それは知識の支配するところのものではない。

*「慟」は痛と同じで、心を上下に突き抜けるほど激しく動かされること。

 脆促ぜいそくまことかなしむ
 夭枉ようおうことつね


 『荘子』に「其生也柔脆、其死也枯槁。(その生けるときは柔脆じゅうぜいなり、その死するや枯槁ここうす。)」とある。「脆」は肉の切れやすいところから来た言葉で、「促」は足を縮めることから、短くする、せかす、うながすとなる。「脆促ぜいそく」は生きる肉体の脆さをさらに促すこと。
 「夭」は夭折という言葉もあるように、若くして死ぬこと。「おう」は曲がるという所から、道理をゆがめた、罪を押し付けられた無実の死を表す。「兼常」とは二倍ということ。
 生きる肉体の脆さは本当に悲しく、まして無実の罪で若くして死ぬのは尋常の二倍の悲しみとなる。

*「兼」は一本の手で二本の禾を持った姿を表し、兼ねる、合せるという意味になる。

 ひとたび往化おうかしたがってほろ
 いずくんぞもちいん空名くうめいあがるを


 「往」もまた、行く、逝くという意味で、死を表す。仏教では、「往生」という言葉もある。「化」は『荘子』に「已化而生、又化而死。(すでに化して生まれ、また化して死す。)」とあるように、死んで転生することをいう。荘周が夢に胡蝶になる話は、「胡蝶の夢」として有名だが、夢に胡蝶となり、醒めればまたもとの荘周になるように、人間の生死というのは絶えず転生を繰り返し別のものになってゆくという世界観だ。仏教では転生は輪廻と言って悪いこととされ、輪廻を絶って解脱することを目標とする。儒教は「未だ生を知らず、いずくんぞ死を知る。」という『論語』の言葉にあるように、死や鬼神(死後の魂)については語らないが、祖先を祭る以上は、何らかの形で死者の魂は存在すると考えていたのだろう。後に朱子学が起ると、人の魂は死ぬと散逸するという唯物論的な立場を取り、仏教に対抗したが、そうなると今度は祖先の祭りをどう説明するのかが問題になる。
 謝霊運は廬山ろざん慧遠えおんと出会い、浄土教に傾倒したものの、育った環境はあくまで茅山道教ぼうざんどうきょうの盛んな土地だったため、死生観はその両方を合せたようなものだったのだろう。
 ともあれ、ひとたび死んで、この世を去ってしまえば、何に生まれ変わろうともう戻ってこないことには変わりない。名前だけが残っても帰ってくるわけではない。『孝経』には「身を立て、道を行い名を後世に掲げ(揚名於後世)、以て父母を顕すは、孝の終りなり。」とあるが、それも本当に評価されるのではなく、単に慰め程度の「空名」であれば、それも空しいものだ。

*「往」は大きく広がるように歩いてゆくこと。(「行」はまっすぐに進む。「逝」は折れるようにふっつり行ってしまうこと。「徂」は歩みを重ねてゆくこと。)
*「化」は倒れた人と座った人からなる字で、座ってた人が倒れたり、倒れた人が座ったりという変化を表す。そこから転生して違うものになることや、化けることをも意味する。


 こえげて泣已なみだすでそそ
 長歎ちょうたんしてしょうさず


 声を上げて、涙は既にとめどなく流れ落ち、あとは長くため息をつくばかりで、この詩も一章として完結することはない。「灑」という字は既に「なみだそそぎて連岡れんこうる」の句に用いられており、川から墳墓を見て涙を流し続けている情景へと戻る。そして、この悲しみが終わらないように、この詩もここで形の上で終わるが、決して終わることはない、という言葉で締めくくる。
 『孟子』に、「君子之志於道也、不成章不達。(君子の道に志すや、章を成さざれば達せず。)」とあり、中井履軒なかいりけんは、「章を成す」とは「一段の完成である」という。「しょうさず」というのは、決して完成することがない、ということか。あえて、未完だとすることによって、本当はもっと言いたいのだが声にならない、これでもまだ言い足りないんだ、と余韻を残すことになる。

*「泣」は水の粒。日本では「泣く」という動詞にこの文字を当てるが、漢文ではしばしば名詞として「涙」の意味で用いられる。「涕」は上から下へと落ちる水のこと。「涙」は水のはらはらと散ること。
*「歎」は渇くことから来た言葉で、喉が渇き、溜息を外に出すこと。「嘆」は口が熱くなって渇き、舌打ちして息を漏らすこと。