「うたてやな」の巻、解説

元禄三年二月十日

初表

   またきさらぎ十日をむかへて鉄卵をおもふ興行

 うたてやな桜を見れば咲にけり   鬼貫

   月のおぼろは物たらぬ色    才麿

 酒盛の跡も春なる夕にて      来山

   名に聞ふれし浦の網主     補天

 五月雨に預てとをるきみが駒    瓠界

   なを山ふかく訴状書かへ    西鶴

 世の噂いはぬ草木ぞ恥しき     万海

   親の住ゐにおなじ白雪     舟伴

 

初裏

 餅つきに呼ぶ者どもの極りて    才麿

   ぼとぼとと楮たたいて濁す水  補天

 ぼとぼとと楮たたいて濁す水    補天

   むなしくさげてかへるもんどり 来山

 我宿の菊は心の節句なる      西鶴

   こがるるかたに三ヶ月の端   瓠界

 虫はなせそれも泪の夜物ぞや    鬼貫

   とへどもこひをしらぬ木法師  万海

 鉈かりに行まい筈が近隣      来山

   火に焚て見よちりの世の花   才麿

 さびしきに喰てなぐさむ土筆    瓠界

   獺のまつりの魚を拾はん    補天

 儒といはれたる身のいそがしさ   万海

   常盤の松に養子たづぬる    西鶴

 

二表

 根なし草根の出来けるは豊にて   才麿

   いつも曇ぬ国ぞしりたき    鬼貫

 難儀なる風の千島に住馴て     西鶴

   我女房に逢もうるさや     来山

 鼠尾草は泪に似たる花の色     補天

   歌書まよふ秋の碓       瓠界

 捕れ来て田舎の月も白けれど    鬼貫

   朔日ながら膾せぬ家      万海

 黒餅をふたつならべて旗印     来山

   秣をいるる賤に名のらせ    才麿

 人々をよき酒ぶりにわらはして   瓠界

   金乞ウ夜半を春にいひ延    西鶴

 どれ見ても一かまへあるお公家たち 万海

   戸渡る海へ舎利をなげいれ   補天

 

二裏

 雨ねがふ竜の都の例にて      西鶴

   人は火をけし火をともしけり  鬼貫

 げぢげぢに妹がくろ髪からるるな  才麿

   こひともいはず死果しよし   来山

 盆池や面を見せぬ藻のうき葉    補天

   けふも出がけに揃ふ小比丘尼  瓠界

 物いはで気の毒の牛が角なるや   鬼貫

   築地くぐりし雪の足あと    万海

 おろかさは寒声つかふ身の独り   来山

   うらるる娘里の落月      西鶴

 憂中の名残に汲ん秋の汐      瓠界

   雁に鷗に浦づくしまふ     才麿

 ほとけとは花見る内が仏なり    万海

   二十日団子は丸き百日     補天

      参考;『元禄俳諧集 新日本古典文学大系71』(大内初夫、櫻井武次郎、雲英末雄校注、一九九四、岩波書店)

初表

発句

 

   またきさらぎ十日をむかへて鉄卵をおもふ興行

 うたてやな桜を見れば咲にけり  鬼貫

 

 鉄卵の死は前年(元禄二年)の十月十日で、月命日の興行。同族でもあり、伊丹流の時代からの俳諧仲間だった。

 嬉しいはずの桜の開花も、人によっては事情があってそれが悲しくも感じられる。それに共感するのも俳諧の風流だ。共感は人と人とをつなぐ。それは個と個をつなぐことだということも忘れてはならない。人間はみんな一人なんだ、それを理解するのも風流の基本だ。

 

 鴉啼いてわたしも一人      山頭火

 咳をしても一人         放哉

 

 これは近代の自由律俳句。

 

 芭蕉にも、

 

 月花のなくて酒飲むひとり哉   芭蕉

 

の句がある。

 上島鬼貫は伊丹の造り酒屋の三男だと言われているが、一方で藤原秀衡を先祖に持つ武士で、後に三池藩に仕官している。

 そうなると、姓は藤原で、苗字は上島ということになる。そのほかに油屋という屋号もある。本名は藤原宗邇(ふじわらのむねちか)。

 天和の頃は伊丹流長発句をはやらせた。上島青人(あおんど)、上島鉄卵はこの頃のメンバーで、一族と思われる。

 貞享三年の西吟撰『庵桜』には

 

 御忌の時留守せし下女や華盛   鉄卵

 祇園の桜妹背やむかし物がたり  同

 痩猫や木槿がもとの青蝘(とかき)同

 秋の暮十露盤の粒いざさせり   同

 

などの句がみられる。

 さて、この、

 

 うたてやな桜を見れば咲にけり   鬼貫

 

の句だが、この句を発句に鉄卵追善の五十韻が始まる。

 「うたてやな」は謡曲に用いられる言葉で、ぐぐると謡曲『隅田川』の一節が出てくる。そのほかに謡曲『敦盛』にも、

 

 ワキ:不思議やな鳬鐘を鳴らし法事をなして。まどろむ隙もなきところに。

    敦盛の来たり給うぞや。さては夢にてあるやらん

 シテ:何しに夢にてあるべきぞ。現の因果を晴らさんために。これまで現れ

    来たりたり

 ワキ:うたてやな一念弥陀仏即滅無量の。罪障を晴らさん称名の。法事を絶

    えせず弔う功力に。何の因果は荒磯海の

 

というふうに用いられている。

 謡曲の言葉は全国共通の言葉なので、どの地方の人にもわかりやすいということで、談林俳諧から蕉風確立期にかけてしばしば用いられた。

 

 あら何ともなや昨日は過ぎて河豚汁 芭蕉(延宝五年)

 

の「あら何ともなや」は謡曲『船弁慶』、

 

 あな無残やな甲の下のきりぎりす  芭蕉(元禄二年)

 

の「あな無残やな」は謡曲『実盛』で用いられている。この句は後に『奥の細道』に載せる時には「あな」をカットして単に「無残やな」としている。

 「うたてやな」は悪い事態に対してあきらめのこもった文脈で主に用いられ、困ったもんだ、やなものだ、というような意味になる。

 鉄卵の月命日だというのに、よりによってこんな日に桜が開花して、どうしていいものやら、と悲しむに悲しめず喜ぶに喜べない状態を表して言っているといってよいだろう。

 

季語は「桜」で春。植物、木類。

 

 

   うたてやな桜を見れば咲にけり

 月のおぼろは物たらぬ色      才麿

 (うたてやな桜を見れば咲にけり月のおぼろは物たらぬ色)

 

 前句の心を受けて、せっかく桜に十日の朧月が出て、夜もやや明るく桜を照らし出し、風情もあるというのに、ここに鉄卵がいないことを思うと物足りない気持ちです、と和す。

 

季語は「月のおぼろ」で春、夜分、天象。

 

第三

 

   月のおぼろは物たらぬ色

 酒盛の跡も春なる夕にて      来山

 (酒盛の跡も春なる夕にて月のおぼろは物たらぬ色)

 

 ここで発句の鉄卵追悼の気持ちを断ち切り、何で月の朧が物足りないか、別の理由を考える。

 蘇軾の『春夜』に「春宵一刻直千金」とあるが、その日は早く仕事も終わり、早めの酒宴となってしまったのだろう。せっかくの春の宵なのに、みんなとっくに酔いつぶれて、そりゃ確かに物足りない。

 

季語は「春なる夕」で春。

 

四句目

 

   酒盛の跡も春なる夕にて

 名に聞ふれし浦の網主       補天

 (酒盛の跡も春なる夕にて名に聞ふれし浦の網主)

 

 「網主」はコトバンクの「ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典の解説」によれば、

 

 「網主はアミモトとも呼ばれ,漁労経営者で,網子はアンゴ,オゴとも呼ばれ,網主に労力を提供する労働者。網主と網子の関係はきわめて封建的,徒弟的で,網主が網子の生活全般を援助する代りに,漁獲はすべて網主のものになり,しかも世襲的に何代も続く場合がある。」

 

だという。たくさんの網子を主従関係で従えている偉い人のようだ。当然網主の名前は近隣にも鳴り響いていることだろう。大漁ともなれば昼からでも盛大に酒宴を催し、夕方には酒宴もお開きになる。

 補天は大阪の来山の門人で、賀子編の『蓮実』に、

 

 水仙やせまくて広き花に勢     補天

 

の句がある。

 

無季。「浦の網主」は水辺、人倫。

 

五句目

 

   名に聞ふれし浦の網主

 五月雨に預てとをるきみが駒    瓠界

 (五月雨に預てとをるきみが駒名に聞ふれし浦の網主)

 

 「五月雨にきみが駒を預けて通る」の倒置。誰に預けたかというと、それが前句の網主になる。「きみが駒」は単に主人の駒という程度の意味か。

 瓠界(こかい)も大阪の人で、宗因の門下。賀子編の『蓮実』に、

 

 芭蕉葉や誰ぞ手をひろげたるやうに 瓠界

 

の句がある。

 

季語は「五月雨」で夏、降物。「駒」は獣類。

 

六句目

 

   五月雨に預てとをるきみが駒

 なを山ふかく訴状書かへ      西鶴

 (五月雨に預てとをるきみが駒なを山ふかく訴状書かへ)

 

 前句の「五月雨にきみが駒を預けて通る」の倒置に、預ける理由として山深く道が悪いからだとする。ついでに主君から預った訴状も改竄?この山は迷宮入りか。

 「なを山ふかく」は『元禄俳諧集』新日本古典文学大系71の註によれば、

 

 しをりせでなほ山深くわけ入らん

     うきこと聞かぬ所ありやと

               西行法師(新古今集)

 

を證歌としている。

 古歌に典拠を取ながらも、「山ふかく」に二重の意味を持たせ「訴状書かへ」と意外な方向に展開するテクニックは、さすがあの有名な井原西鶴さんだけある。

 ネットで見ると井原西鶴は本名は平山藤五で大阪の豊かな町人の家に生まれるとある。となると井原は苗字ではない。平山氏というのは鎌倉武士平山季重を祖とする家が一応あるから、勝手に名乗ってたのでなければ立派な苗字と言えよう。

 

無季。「山」は山類。

 

七句目

 

   なを山ふかく訴状書かへ

 世の噂いはぬ草木ぞ恥しき    万海

 (世の噂いはぬ草木ぞ恥しきなを山ふかく訴状書かへ)

 

 文書の改竄はやはり恥ずべきことで、世間では散々なことを言われているが、そんな無責任な野次馬よりも物言わぬ草木に対して恥ずかしい。

 万海も大阪の人。宗因門の前川由平の門人。賀子編の『蓮実』には、西鶴、賀子、万海の三吟が収められている。

 発句も、

 

 糸あそぶころや女のまみおもし  万海

 川狩や色の白きは役者らし    同

 音ひくし魂祭る夜のまさなごと  同

 

などがある。

 

無季。「草木」は植物。

 

八句目

 

   世の噂いはぬ草木ぞ恥しき

 親の住ゐにおなじ白雪      舟伴

 (世の噂いはぬ草木ぞ恥しき親の住ゐにおなじ白雪)

 

 自分もこうして恥ずかしい思いをして、雪が降ったみたいに白髪になるが、きっと実家に住む親も同じ思いでいるのだろう。「白雪」を比喩にではなく本物の雪と取り成すことで、逃げ句になる。

 舟伴もデータベース/江戸時代俳人一覧によれば大阪の人。これで連衆は一巡して、あとは出勝ちになる。

 

季語は「白雪」で冬、降物。「親」は人倫。「住ゐ」は居所。

初裏

九句目

 

   親の住ゐにおなじ白雪

 餅つきに呼ぶ者どもの極りて   才麿

 (餅つきに呼ぶ者どもの極りて親の住ゐにおなじ白雪)

 

 親の餅搗きに呼ばれる人はいつも決まっている。いつも同じメンバーで同じ白雪の中、正月準備の餅搗きをする。

 

季語は「餅つき」で冬。

 

十句目

 

   餅つきに呼ぶ者どもの極りて

 常は橋なき野はづれの川     鬼貫

 (餅つきに呼ぶ者どもの極りて常は橋なき野はづれの川)

 

 「極まる」には困窮するという意味もある。野の外れにある普段は人の通らないところにある川は橋がないので、餅搗きに急に大勢人が集まってきても難儀する。

 

無季。「川」は水辺。

 

十一句目

 

   常は橋なき野はづれの川

 ぼとぼとと楮たたいて濁す水   補天

 (ぼとぼとと楮たたいて濁す水常は橋なき野はづれの川)

 

 楮(こうぞ)は和紙の原料で、和紙を作るにはいくつかの過程があり、ネットで調べれば詳しく載っている。刈り取った楮をまず蒸して、皮を剝ぐ。この剝いだ皮のほうを使う。皮を干し、再び煮てから水に晒して不純物を取り除く。こうして綺麗になった皮の黒い部分を取り除き、再び煮込んで水に晒し、さらに不純物を取り除く。それから叩いてほぐし、それに水とトロロアオイから作ったネリを加えて漉いて紙にする。

 「ぼとぼとと楮たたいて」というのはこの叩いてほぐす過程をいう。ただ、叩くだけでは水が濁らないので、その前の工程の水に晒して不純物を取り除く過程で水が濁っていたのだろう。

 橋のない野のはずれの川では、こういう作業が行われていることもあったのだろう。

 

無季。

 

十二句目

 

   ぼとぼとと楮たたいて濁す水

 むなしくさげてかへるもんどり  来山

 (ぼとぼとと楮たたいて濁す水むなしくさげてかへるもんどり)

 

 「もんどり」はここでは漁具のことで、網に漏斗状の入口があり、入ったら出られなくなる罠のことをいう。

 製紙作業で水が濁って魚が逃げてしまったのか、仕掛けたモンドリは空っぽで、むなしく下げて帰る。

 

無季。

 

十三句目

 

   むなしくさげてかへるもんどり

 我宿の菊は心の節句なる     西鶴

 (我宿の菊は心の節句なるむなしくさげてかへるもんどり)

 

 菊の節句だから、これは九月九日の重陽の句だろう。菊の酒を飲んだりする。酒を飲む以上、肴も必要で、それでもんどりを仕掛けて魚を取ろうとしたのだろう。

 「節(せち)」には今日でも正月料理を「御節(おせち)」というように、ご馳走の意味もある。我が宿では菊の酒さえあればご馳走は心の中だけで十分だ、とちょっと強がって言っているのだろう。

 

季語は「菊の節句」で秋。「我宿」は居所。

 

十四句目

 

   我宿の菊は心の節句なる

 こがるるかたに三ヶ月の端    瓠界

 (我宿の菊は心の節句なるこがるるかたに三ヶ月の端)

 

 菊はここでは娘の名前で「お菊さん」。「節句」も比喩で、心は節句のようにはしゃいでるという意味に取り成し、恋に転じる。

 「菊」は秋の季語なので、ここで秋の季語を入れなくてはならないから三日月を出す。前句の重陽を捨てているので九日の月でなくてもいい。愛しい人はあの三日月の方向、つまり西の方にいるのだろう。

 菊を娘の名に取り成すというと、『炭俵』の「むめがかに」の巻に、

 

   御頭へ菊もらはるるめいわくさ

 娘を堅う人にあはせぬ      芭蕉

 

の句があるが、これは元禄七年の春なので、この「うたてやな」の巻が元禄三年の春だから四年早い。こういう取り成しはよくあったのかもしれない。

 

季語は「三ヶ月」で秋、夜分、天象。恋。

 

十五句目

 

   こがるるかたに三ヶ月の端

 虫はなせそれも泪の夜物ぞや   鬼貫

 (虫はなせそれも泪の夜物ぞやこがるるかたに三ヶ月の端)

 

 前句を逢いたくても逢いにいけない箱入り娘の句にして、同じ籠に囚われている鈴虫か何かに同情して、放してやれと言う。虫も「泣く」ように私と同じ夜に鳴いている者だから。

 

季語は「虫」で秋、虫類。恋。「夜物」は夜分。

 

十六句目

 

   虫はなせそれも泪の夜物ぞや

 とへどもこひをしらぬ木法師   万海

 (虫はなせそれも泪の夜物ぞやとへどもこひをしらぬ木法師)

 

 前句の「虫はなせ」を「虫放せ」ではなく「虫は何故(なぜ)」に取り成して、虫は何で泣いているのかと法師に問いかける。虫も恋して、雄が雌を引き寄せるために鳴いているのだが、恋に疎い木石のような心の法師は答に窮する。

 

無季。恋。「木法師」は人倫。

 

十七句目

 

   とへどもこひをしらぬ木法師

 鉈かりに行まい筈が近隣     来山

 (鉈かりに行まい筈が近隣とへどもこひをしらぬ木法師)

 

 「木」に「鉈」の縁で付ける。鉈を借りに、普通なら行くはずのない近隣の家に行く。前句の「とへども」は「問えども」から「訪えども」に取り成され、木法師のもとを尋ねるのだが、恋を知らぬ木法師だったとなる。

 

無季。

 

十八句目

 

   鉈かりに行まい筈が近隣

 火に焚て見よちりの世の花    才麿

 (鉈かりに行まい筈が近隣火に焚て見よちりの世の花)

 

 これは「夜桜」のことか。鉈を借りに行く予定ではなかったが、薪を準備して夜に火を焚けば、闇の夜の花も見える。塵の世は闇ということで「塵の世の花」は「闇の花」ということか。

 ただ、江戸時代には一般的には火を焚いて夜桜を観賞する習慣はなかった。それだけに満開の桜と満月が重なる日は貴重だったが、滅多に花と月が揃うことはなかった。

 夜桜が本格的に広まったのは戦後の電気の普及のおかげといえよう。

 

季語は「花」で春、植物、木類。

 

十九句目

 

   火に焚て見よちりの世の花

 さびしきに喰てなぐさむ土筆   瓠界

 (さびしきに喰てなぐさむ土筆火に焚て見よちりの世の花)

 

 前句の「火に焚て」は夜桜ではなく火を焚いて暖を取りながらの食事の風景になる。「さびしき」は山奥での隠棲の寂しさで、最初は塵の世が嫌になって出家して山に籠るのだが、しばらく暮らすと憂き思い出がだんだん美化され、懐かしくなり、寂しくもなる。

 

 憂き我をさびしがらせよ閑古鳥  芭蕉

 

の句は、この一年後に芭蕉が詠む句だが、中世の『水無瀬三吟』には、

 

   山深き里や嵐におくるらん

 慣れぬ住ひぞ寂しさも憂き    宗祇

 

の句もある。もともと世間の憂鬱からのがれるための隠棲で、最初は憂きがまさり、段々寂しさに変わってゆく過程は不易と言ってもいいのだろう。

 土筆はここでは「つくづくし」と読んで五文字にする。元禄二年の『阿羅野』に、

 

 すごすごと親子摘けりつくづくし 舟泉

 すごすごと摘やつまずや土筆   其角

 すごすごと案山子のけけり土筆  蕉笠

 土橋やよこにはへたるつくづくし 塩車

 川舟や手をのべてつむ土筆    冬文

 つくづくし頭巾にたまるひとつより 青江

 

という一連の「つくづくし」の句がある。「すごすごと」は今でいうと「黙々と」という感じか。

 さて、瓠界の句の意味だが、隠棲の寂しさは土筆を食べると故郷で子供の頃摘んだ土筆のことを思い出して、慰められた気分になる。火を焚いて食事をしていると、桜がほのかに見えて浮世の桜を思い出す。というところか。

 

季語は「土筆」で春、植物、草類。

 

二十句目

 

   さびしきに喰てなぐさむ土筆

 獺のまつりの魚を拾はん     補天

 (さびしきに喰てなぐさむ土筆獺のまつりの魚を拾はん)

 

 困ったことに「獺祭」で検索すると日本酒の銘柄ばかりが出てきてしまう。「獺祭 出典」で検索するとコトバンクが出てくる。その「デジタル大辞泉の解説」には、

 

 「1 《「礼記」月令から》カワウソが自分のとった魚を並べること。人が物を供えて先祖を祭るのに似ているところからいう。獺祭魚。おそまつり。うそまつり。

  2 《晩唐の詩人李商隠が、文章を作るのに多数の書物を座の周囲に置いて参照し、自ら「獺祭魚」と号したところから》詩文を作るとき、多くの参考書を周囲に広げておくこと。

 

とある。正岡子規も獺祭書屋主人を名乗り、「獺祭書屋俳話」を書いた。

 前句の寂しさに土筆を食う人物を隠逸の文士と見て、獺祭のように本をたくさん広げていると付ける。蕉門の「位付け」に似ている。ただ、土筆は川原に多く見られるので、川獺と縁がある。

 

季語は「獺のまつり」で春、水辺。

 

二十一句目

 

   獺のまつりの魚を拾はん

 儒といはれたる身のいそがしさ  万海

 (儒といはれたる身のいそがしさ獺のまつりの魚を拾はん)

 

 「儒」は「ものしり」と読む。「ものしり」は今日のようないろいろなことを知っている人という意味もあるが、祈祷師や占い師を指して言うこともあった。「儒」も元の意味は雨乞いをする人だという。占い師として名が立つと次々に占って欲しいという人がやってきて大忙し。いろいろな占いの書物を広げては、この人にはこれを、あの人にはこれをと書物を見ながら占う。

 

無季。「身」は人倫。

 

二十二句目

 

   儒といはれたる身のいそがしさ

 常盤の松に養子たづぬる     西鶴

 (儒といはれたる身のいそがしさ常盤の松に養子たづぬる)

 

 古今集の、

 

 常磐なる松のみどりも春くれば

     今ひとしほの色まさりけり

               源宗于朝臣

 

の歌を踏まえ、常盤の松の「見取り(多くの中から選び取ること)」を養子探しとする。占い師も忙しくて養子を取って手伝わせたい所か。

 

無季。「松」は植物、木類。「養子」は人倫。

二表

二十三句目

 

   常盤の松に養子たづぬる

 根なし草根の出来けるは豊にて  才麿

 (根なし草根の出来けるは豊にて常盤の松に養子たづぬる)

 

 松に根なし草を付けるが、この「根なし草」は比喩で、今日でもよく用いられる言葉だ。要するに職業が定まらない状態を言う。職業が定まらないと、住所も定まらなくなることが多い。浮き草稼業というわけだ。

 その根なし草に根が出来るとなれば、それはようやく実を落ち着けられるような定職が見つかったということだろう。牢人だったら仕官が決まったということか。

 定職に着けば経済的にも安定し、女房も見つけ、次は跡取り息子が欲しくなる。まあ、常盤の松のような職場の長老に相談でもしてみようか、というところか。

 

無季。

 

二十四句目

 

   根なし草根の出来けるは豊にて

 いつも曇ぬ国ぞしりたき     鬼貫

 (根なし草根の出来けるは豊にていつも曇ぬ国ぞしりたき)

 

 伊丹から大阪に出てきた鬼貫さんは、ちょうど士官の口を探していたところで、だが中々現実は甘くなかったのだろう。そんな自分の境遇を茶化して、こんな句にしちゃうあたりはさすが洒落てる。自分が仕官できないのは、世の中が曇っているからとでも言いたげだ。

 とはいえ、句の表向きの意味は逆で、いつも晴れてたら旱魃になって草も木も枯れてしまうから雨は必要。根の出来るのは曇って雨が降るおかげ。曇るから豊かになれる。曇らぬ国なんてあるわけないし、あるなら知りたいものだ、という意味になる。

 

無季。「曇ぬ」は聳物。

 

二十五句目

 

   いつも曇ぬ国ぞしりたき

 難儀なる風の千島に住馴て   西鶴

 (難儀なる風の千島に住馴ていつも曇ぬ国ぞしりたき)

 

 『元禄俳諧集』新日本古典文学大系71の註は、

 

 胡沙吹かばくもりもぞするみちのくの

     えぞには見せじ秋の夜の月

               西行法師(夫木抄)

 

を引いているが、西鶴は談林の王道を守って律儀に證歌を引くので、おそらくこれで間違いないだろう。

 胡沙は今ではアイヌ語のホサ(息)ではないかと言われているが、この時代はおそらく字の通り「胡(西域の国)」の沙(砂)ではなかったかと思う。モンゴルの砂嵐で蝦夷の人は名月が見えないとは、当時の地理認識の混乱振りがわかる。

 千島については、

 

 あたらしや蝦夷が千嶋の春の花

     ながむる人もなくて散ちなむ

               滋円(拾玉集)

 

など、正確な位置はどうだか知らないが、都の人にもその存在は知られていた。

 胡沙の吹く千島に住み慣れれば、月が曇って見えないのが当たり前で、「いつも曇ぬ国ぞしりたき」と付く。

 

無季。「千島」は名所、水辺。

 

二十六句目

 

   難儀なる風の千島に住馴て

 我女房に逢もうるさや    来山

 (難儀なる風の千島に住馴て我女房に逢もうるさや)

 

 前句を比喩にして、千島のように難儀な風(習慣)のある家に住み慣れて、自分地の女房に逢うのも一々面倒だ、と付く。

 「うるさし」はかつては面倒だという意味で、今のうるさいは「かしまし」だった。古語辞典によると心(うら)狭(さ)しが語源だという。「あいつは俳諧にはうるさい」という場合は、薀蓄が止まらなくて五月蝿いのではなく、本来は俳諧という狭いところに心を入れ込んでいる、というような意味だったのだろう。

 

無季。恋。「我女房」は人倫。

 

二十七句目

 

   我女房に逢もうるさや

 鼠尾草は泪に似たる花の色  補天

 (鼠尾草は泪に似たる花の色我女房に逢もうるさや)

 

 「鼠尾草」は「みそはぎ」と読む。鼠尾草で検索すると中国語が出てくる。現代中国ではSalvia officinalis(Sage)とあるからセージのことを指す。百度百科には、Salvia japonica Thunbとある。これはアキノタムラソウを指す。これに対しミソハギはLythrum anceps。ただ見掛けは似ている。

 ミソハギは盆花とも言われていて、旧盆のころに咲く。そこから、前句の女房を死んだ女房とし、お盆に帰ってくるとはいっても逢うのは心苦しいという意味に取り成す。

 宗因独吟恋百韻「花で候」の巻の三十七句目にも、

 

   契り置しはけふの聖霊

 みそ萩と袖の露とはいづれいづれ 宗因

 

の句がある。

 

季語は「鼠尾草」で秋、植物、草類。恋。

 

二十八句目

 

   鼠尾草は泪に似たる花の色

 歌書まよふ秋の碓      瓠界

 (鼠尾草は泪に似たる花の色歌書まよふ秋の碓)

 

 「碓」は「からうす」と読む。「碓氷峠」の「うす」。

 『元禄俳諧集』新日本古典文学大系71の註には「『秋の暮』なら歌になるが『秋の碓』では歌になりにくい。どのように詠んだらよいか。」とある。ただ、「碓」と「暮」とでは違いすぎるので「雁」とした方が良いのではないか。草書だとかなり似ている。

 この場合は秋の雁と書こうとして「雁」と「碓」の違いがわからなくなった、という意味ではないかと思う。

 

 鳴き渡る雁の涙や落ちつらむ

      物思ふ宿の萩の上の露

            よみ人しらず(古今集)

 

が本歌か。

 

季語は「秋の碓」で秋。

 

二十九句目

 

   歌書まよふ秋の碓

 捕れ来て田舎の月も白けれど 鬼貫

 (捕れ来て田舎の月も白けれど歌書まよふ秋の碓)

 

 片田舎で囚われの身となって、月明かりで辞世の歌でも書こうとしたのか。ただ、何分田舎のことなので、書き付けようにも紙も筆もない。石臼に刻み付けようかどうかと迷う。

 「白」は「しるし」ではっきりと見えるけどという意味。

 

季語は「月」で秋、夜分、天象。

 

三十句目

 

   捕れ来て田舎の月も白けれど

 朔日ながら膾せぬ家     万海

 (捕れ来て田舎の月も白けれど朔日ながら膾せぬ家)

 

 「朔日(ついたち)」は新月の日で、一ヶ月の始まり。「おついたち」と言って商家ではお粥や膾で商売繁盛を祈願したという。

 前句の月に朔日を付けるのは違え付けで、満月と新月を対比させ、名月は見えても朔日の膾はないとする。逃げ句と見ていいだろう。

 

無季。「家」は居所。

 

三十一句目

 

   朔日ながら膾せぬ家

 黒餅をふたつならべて旗印  来山

 (黒餅をふたつならべて旗印朔日ながら膾せぬ家)

 

 「黒餅(こくもち)」は白字に黒い丸を描いた家紋で、「石(こく)持ち」に通じるというので好まれたという。黒田官兵衛が用いていたことでも知られている。黒餅を二つ重ねた紋は「重ね餅」という。

 前句の「膾せぬ家」を武家としたのだろう。

 

無季。

 

三十二句目

 

   黒餅をふたつならべて旗印

 秣をいるる賤に名のらせ   才麿

 (黒餅をふたつならべて旗印秣をいるる賤に名のらせ)

 

 秣というと、芭蕉の『奥の細道』の旅の途中、黒羽の桃翠宅での興行の発句、

 

 秣おふ人を枝折の夏野哉     芭蕉

 

の句も思い浮かぶ。田舎の方の名家なのだろう。

 

無季。「賤」は人倫。

 

三十三句目

 

   秣をいるる賤に名のらせ

 人々をよき酒ぶりにわらはして 瓠界

 (人々をよき酒ぶりにわらはして秣をいるる賤に名のらせ)

 

 酒を飲むなら明るく飲みたいものだ。上機嫌で冗談なんか飛ばして、たまたまやってきた秣を背負った客人とも、名前を聞き出してはすぐに兄弟のように仲良くなる。そんなふうに酒を飲みたいものだ。

 

無季。「人々」は人倫。

 

三十四句目

 

   人々をよき酒ぶりにわらはして

 金乞ウ夜半を春にいひ延    西鶴

 (人々をよき酒ぶりにわらはして金乞ウ夜半を春にいひ延)

 

 年の暮れだろうか、借金を取り立てに来た人に酒を振舞い、笑わせたりして、結局支払いは来年ということになる。西鶴得意の世間胸算用。

 

意味的に冬。「夜半」は夜分。

 

三十五句目

 

   金乞ウ夜半を春にいひ延

 どれ見ても一かまへあるお公家たち 万海

 (どれ見ても一かまへあるお公家たち金乞ウ夜半を春にいひ延)

 

 江戸時代のお公家さんは石高も低く抑えられていた。一説には公家の九割は三百石以下だったともいう。家の構えは立派だが借金が溜まっている家も結構あったのだろう。

 

無季。「お公家」は人倫。

 

三十六句目

 

   どれ見ても一かまへあるお公家たち

 戸渡る海へ舎利をなげいれ    補天

 (どれ見ても一かまへあるお公家たち戸渡る海へ舎利をなげいれ)

 

 これは難しい。

 『元禄俳諧集』新日本古典文学大系71の註には、「どなたを見ても一構えあるようなお公家たちが、瀬戸を渡る舟から海へ舎利を投げ入れている。」とあるが、実際そのような習慣があったのか、その辺の事情がわからない。

 淳和天皇は京都大原野西院に散骨されたというし、藤原行成が母と母方祖父の遺体を火葬して鴨川に散骨したという例はあるようだが、そんなたくさんのお公家さんたちが舎利を海に撒くことがあったのか、よくわからない。

 

無季。「海」は水辺。

二裏

三十七句目

 

   戸渡る海へ舎利をなげいれ

 雨ねがふ竜の都の例にて    西鶴

 (雨ねがふ竜の都の例にて戸渡る海へ舎利をなげいれ)

 

 『元禄俳諧集』新日本古典文学大系71の註には、『拾遺往生伝』上三十八に「伝教大師が渡唐の際に、持っていた舎利を海中に投じて竜王に与え、悪風を止めさせた」という話があるという。

 

無季。

 

三十八句目

 

   雨ねがふ竜の都の例にて

 人は火をけし火をともしけり  鬼貫

 (雨ねがふ竜の都の例にて人は火をけし火をともしけり)

 

 昔は山の上で盛大な焚き火を行い、竜神を怒らせて雨を降らせようという千把焚(せんばたき)がいたるところで行われていたという。この儀式がどれくらい昔まで遡れるのかはよくわからない。

 鉦や太鼓で大きな音を立てて雨乞いするというのが江戸時代には多かったようだが、火を使った雨乞いの儀式があったとしてもおかしくはない。

 

無季。「人」は人倫。

 

三十九句目

 

   人は火をけし火をともしけり

 げぢげぢに妹がくろ髪からるるな 才麿

 (げぢげぢに妹がくろ髪からるるな人は火をけし火をともしけり)

 

 漫画なんかでよく科学者が出てきて、ボンと試験管が爆発すると、髪の毛が‥‥なんて場面を思い浮かべてしまうが、火も使い方を誤ると髪を焦がす。

 『元禄俳諧集』新日本古典文学大系71の註には『和漢三才図会』の「按蚰蜒有毒如舐頭髮則毛脱昔以梶原景時比蚰蜒言動則入讒於耳爲害也」が引用されている。「按ずるに、蚰蜒毒有る如し、頭髮を舐(ね)ぶれば則毛脱る。」そのあとに「昔、梶原景時を以て蚰蜒に比す。言動則ち讒を耳に入れて害を為せば也。」と続く。梶原景時はウィキペディアによれば、「源義経と対立し頼朝に讒言して死に追いやった『大悪人』と古くから評せられている」とある。

 じっさいにゲジゲジの毒で禿げることはないが、禿げるとゲジゲジに舐められたんだろうと言われたりしたのだろう。実際は火のせいでも、会話では敢えてからかってそう言うのはよくあることだ。

 

無季。恋。「妹」は人倫。

 

四十句目

 

   げぢげぢに妹がくろ髪からるるな

 こひともいはず死果しよし   来山

 (げぢげぢに妹がくろ髪からるるなこひともいはず死果しよし)

 

 愛しい男は結局打ち明けることもなく、何もないまま死んでしまった。前句の「くろ髪からるるな」を、出家したりするなよ、という意味に取り成す。

 

無季。恋。

 

四十一句目

 

   こひともいはず死果しよし

 盆池や面を見せぬ藻のうき葉  補天

 (盆池や面を見せぬ藻のうき葉こひともいはず死果しよし)

 

 前句の「こひ」を「鯉」のことにする。「盆池」は「まるいけ」と読む。庭の小さな池のこと。廃墟となって荒れ果てた池には藻がびっしりと茂り、鯉も死んでしまったのだろう。蛙の飛び込む音が聞こえてきそうだ。

 「藻のうき葉」を「物憂きは」とすると、「恋ともいはず」になり、恋の句になる。

 

季語は「藻のうき葉」で夏。恋。「盆池」は水辺。

 

四十二句目

 

   盆池や面を見せぬ藻のうき葉

 けふも出がけに揃ふ小比丘尼  瓠界

 (盆池や面を見せぬ藻のうき葉けふも出がけに揃ふ小比丘尼)

 

 この小比丘尼は遊女か。当時、熊野比丘尼、浮世比丘尼と呼ばれる遊女がいた。「盆池」は「血盆池地獄」の連想が働き、地獄絵を解説する本来の熊野比丘尼と縁がある。

 

無季。恋。「小比丘尼」は人倫。

 

四十三句目

 

   けふも出がけに揃ふ小比丘尼

 物いはで気の毒の牛が角なるや 鬼貫

 (物いはで気の毒の牛が角なるやけふも出がけに揃ふ小比丘尼)

 

 「牛の角を蜂が刺す」という諺は何も感じないことの例え。春を売る小比丘尼たちの物一つ言わない姿は、きゃっきゃと騒ぐ普通の娘たちと違って気の毒で、辛いことが多すぎて感覚が麻痺してしまったのだろうかと心配する。このあたりが鬼貫の「誠」か。今の援交少女にも通じるものがある。

 

無季。

 

四十四句目

 

   物いはで気の毒の牛が角なるや

 築地くぐりし雪の足あと    万海

 (物いはで気の毒の牛が角なるや築地くぐりし雪の足あと)

 

 築地(ついじ)は屋敷の周囲にめぐらす屋根を瓦で葺いた土塀で、そこから転じて築地のある屋敷に住む公卿や堂上方をも意味する。

 築地をめぐらした公卿の屋敷の門をくぐる牛車の牛が、雪の降る中でも「もう」とも言わず黙々と歩いてゆくのを気の毒だとする。

 

季語は「雪」で冬、降物。

 

四十五句目

 

   築地くぐりし雪の足あと

 おろかさは寒声つかふ身の独り 来山

 (おろかさは寒声つかふ身の独り築地くぐりし雪の足あと)

 

 「寒声(かんごゑ)」はコトバンクの「デジタル大辞泉の解説」には、

 

 「僧や邦楽を学ぶ人が、寒中に声を出してのどを鍛えること。また、その声。」

 

とある。声を一度潰して作り直すという作業なのだろう。邦楽では非整数倍発声、いわばノイズのある声が重視されたため、意図的に声を潰し非整数倍音が多く出る状態にしたところで、非整数倍音の量を調整する技術を学んだのではないかと思われる。邦楽だけでなく僧の声明の声もこのようにして作られる。

 メタル系のボーカルでもしばしばクリアボイスとデスボイスを使い分ける人がいる。非整数倍音は意図的に調整できる。

 裕福な生まれでありながら、あえて築地をくぐって雪の中に出てゆき、寒声の練習をするのは、芸事の道楽にのめりこんだからであろう。それを「おろか」と自嘲する。

 

季語は「寒声」で冬。「身」は人倫。

 

四十六句目

 

   おろかさは寒声つかふ身の独り

 うらるる娘里の落月      西鶴

 (おろかさは寒声つかふ身の独りうらるる娘里の落月)

 

 江戸時代の人身売買は基本的に禁止されていた。それでは遊郭に売られた遊女たちは何だったのかというと、その多くは債務奴隷、つまり借金返済のためのものだったと思われる。いわゆる奴隷制度の奴隷ではない。

 ウィキペディアによると、

 

 「奴隷制度終焉以後の人身売買は一般に、自ら了承して身売りしたり(借金の返済、親族に必要な金銭の用立てなど)、親が子に強要したり、親が子の替わりに契約を行ったり、また既にその状態の人を売買(転売)することもあるが、誘拐などの強制手段や甘言によって誘い出して移送することも多数あり、広義には当人に気づかせないグループ詐欺的な方法を含むことがあるなど、多様な実体・本質と分野を含む用語である。」

 

とある。

 この種の人身売買は近代に入っても戦後間もない頃までは合法的に行われていて、従軍慰安婦の多くもこうした債務奴隷だったと思われる。

 飢饉で荒れ果てた村から、朝もまだ薄暗い落月の頃、娘は売られてゆき、寒声つかふ芸能の世界に入ってゆくのだろう。「おろかさは」はそんな過酷な世界に対して発せられる。

 

季語は「落月」で秋、夜分、天象。「娘」は人倫。「里」は居所。

 

四十七句目

 

   うらるる娘里の落月

 憂中の名残に汲ん秋の汐    瓠界

 (憂中の名残に汲ん秋の汐うらるる娘里の落月)

 

 「憂中」は「うき仲」で恋に転じる。

 謡曲『松風』からの発想か。『松風』では須磨も汐汲む海女の姉妹を残して在原行平が去っていくわけだが、本説を取る時はそのまんまではなく少し変える。ここでは娘が売られてゆくことで別れとなる。

 

季語は「秋の汐」で秋、水辺。

 

四十八句目

 

   憂中の名残に汲ん秋の汐

 雁に鷗に浦づくしまふ     才麿

 (憂中の名残に汲ん秋の汐雁に鷗に浦づくしまふ)

 

 謡曲『融』の趣向で逃げるか。後半の舞が見所の能だが、それを「浦づくし」と言ったか。

 

季語は「雁」で秋、鳥類。「浦」は水辺。

 

四十九句目

 

   雁に鷗に浦づくしまふ

 ほとけとは花見る内が仏なり  万海

 (ほとけとは花見る内が仏なり雁に鷗に浦づくしまふ)

 

 これは難しい。何か禅問答みたいだ。

 なぜ目出度いはずの花見で仏が出てくるのかというと、多分この俳諧興行自体が鉄卵の月命日の供養を目的としたものだったからだろう。だから花の定座とはいえ無条件に目出度い花は詠めない。

 『元禄俳諧集』新日本古典文学大系71の註には、

 

 「花の盛りは七日間、初七日まで供養の舞から諺「花の盛りは七日」を連想し、「春霞立つを見捨てて行く雁は花なき里に住みやならへる(古今集・春上・伊勢)によって付けた。」

 

とある。

 初七日の供養の舞というのがよくわからないし、それが何で浦尽くしなのかもよくわからない。「花見る内」を七日として強引に初七日に結び付けた感じがする。

 ここはもう少し直感的に読んでもいいのではないかと思う。仏の心は花の心。花見る心が仏の心というわけで、花見を楽しみ雁に鷗に浦尽くしの舞を舞うのが何よりも供養の心になる、というのはどうだろうか。これなら花見の目出度さと供養の心とが両立する。

 

季語は「花見る」で春、植物、木類。釈教。

 

挙句

 

   ほとけとは花見る内が仏なり

 二十日団子は丸き百日     補天

 (ほとけとは花見る内が仏なり二十日団子は丸き百日)

 

 「二十日団子」は二十日正月に食べる小豆団子。十月十日に亡くなった鉄卵の百日目(三ヶ月と十日)の百か日法要がこの二十日正月の頃になる。kasikoの葬制の基礎知識によれば、

 

 「四十九日法要後、故人の命日から(命日も含めて)100日目に執り行う法要を百か日法要という。

 百か日法要は卒哭忌(そっこくき)とも呼ばれ、この百か日法要をもって、残された遺族は「哭(な)くことから卒(しゅっ)する(=終わる)」、つまり、悲しみに泣きくれることをやめる日であることも意味する。」

 

とあり、この法要を過ぎたのだから、もう泣くのはやめて花見を楽しもう。それが仏の心の通じる、と締めくくる。

 「花」に「団子」は付き物。

 

季語は「二十日団子」で春。