枯葉集め

   ○西田哲学の終結
   ○ウィリアム・ジェイムズ『プラグマティズム』解説
   ○ルソーの『人間不平等起源論』解説
   ○マルチン・ハイデッガー『ロゴス』解説


西田哲学の終結

一つのイメージ

 黄昏の金沢の街にやってきた。

 明治の初期、かつての加賀百万石の城下町の繁栄は、少しも失なわれてはいなかった。大通りには、仕事を終えた人、仕事を終わらせようとしている人、夕飯んの買い物に行く人、これから夜の街にくり出す人、人力車、荷物を乗せた馬、いろいろな人が通りすぎる。

 そんな道の片隅に一人瞑想にふける僧侶がいた。

 「いろいろな人がいて、お互いぶつかり合い、罵しり合っていても、結局人はみな同じ道を通る。そして、全体としてみれば、街は平和で、変わらぬ日常生活が脈々と営まれている。

 混沌とした中に秩序があり、多様でありながら統一され、矛盾しているけど同一である。それが世界の真の姿だ。こうして、心を澄ませて、街の声を聞けば、すべてが渾然一体となって、朦朧として、一つの音になる。

 

 見渡せば柳桜をこきまぜて

    都ぞ春のにしきなりける

 

これは素性法師の歌うた。

 道の本当の姿というのは、そういうものだ。」

『善の研究』の序

 「この書は余が多年、金沢なる第四高等学校において教鞭を執っていた間に書いたのである。初はこの書の中、特に実在に関する部分を精細に論述して、すぐにも世に出そうという考であったが、病と種々の事情とに妨げられてその志を果すことができなかった。かくして数年を過している中に、いくらか自分の思想も変り来り、従って余が志す所の容易に完成し難きを感ずるようになり、この書はこの書として一先ず世に出して見たいという考になったのである。」(西田幾多郎『善の研究』)

 

 西田幾多郎が旧制第四高等学校で教鞭を執っていた期間は、明治二十九年(一八九六年)四月から明治三十年(一八九七年)までと、明治三十二(一八九九年)七月がつから明治四十二年(一九〇九年)までの間あいだだった。

 

 「この書は第二編第三編が先ず出来て、第一篇第四編という順序に後から附加したものである。第一篇は余の思想の根柢である純粋経験の性質を明にしたものであるが、初めて読む人はこれを略する方がよい。第二編は余の哲学的思想を述べたものでこの書の骨子というべきものである。第三編は前編の考を基礎として善を論じた積であるが、またこれを独立の倫理学と見ても差支ないと思う。第四編は余が、かねて哲学の終結と考えている宗教についての余の考えを述べたものである。この編は余が病中の作で不完全の処も多いが、とにかくこれにて余がいおうと思うていることの終まで達したのである。この書を特に「善の研究」と名づけた訳は、哲学的研究がその前半を占め居るにも拘らず、人生の問題が中心であり、終結であると考えた故である。」(西田幾多郎『善の研究』)

 

 『善の研究』はそれまでに西田が発表してきた四つの論文を集めて一冊の本にしたもので、初出は以下のとおりになる。

 

 *第二編「思惟」、第三編「意思」

  第四高等学校における講義録『西田氏実在論及倫理学』(明治三十九年)

 *最終章「知と愛」

  『精神界』「知と愛」(明治四十年八月)

 *第一篇「純粋経験」

  『哲学雜誌』「純粋経験と思惟、意志、及び知的直観」(明治四十一年八月)

 *第四編「知的直観」

  『丁酉倫理講演集』「宗教論に就て」(明治四十二年五・七月)

 

 ここで注意したいのは、西田が「哲学的研究がその前半を占め居るにも拘らず、人生の問題が中心であり、終結であると考えた故である。」という時のこの「拘らず」という接続詞だ。

 「人生の問題」は本来の哲学的研究から区別されている。そして、「終結」という言葉が「かねて哲学の終結と考えている宗教」というふうに用もちいられているように、「人生の問題」とは宗教の問題なのである。

 「この書を特に「善の研究」と名づけた訳は、哲学的研究がその前半を占め居るにも拘らず、人生の問題が中心であり、終結であると考えた故である。」と西田自身が言っているように、西田はこの頃「哲学的研究」と「人生の問題」を区別していた。

 哲学はあくまで認識論的な問題であり、第一篇の「純粋経験」と第二編の「思惟」がそれに当り、第三編の「意志」と第四編の「知的直観」が「人生の問題」として捉えられていた。この本の比重はむしろ後者の方にかかっていた。

 そのためにこの本のタイトルは『善の研究』であり、倫理学を宗教的な直観と結びつけることが問題であり、それを哲学と調和させることで前半部分が必要になった。

 終結という言葉は、英語のendやドイツ語のEndeの訳語で、終りとともに目的をも意味する。いわば、そこに到達することによって達成されるような目的を意味する。哲学は人生の問題や宗教に到達するためのものだという考えが最初に示されている。

 西洋の哲学はphilosophyという言葉が示すとおり、知ること(sophy)を愛すること(philo)であり、それは個人的な修行や鍛練によって体得するというより、議論をしながらみんなで答を探してゆくという方向に発達した。

 プラトンの著作に登場するソクラテスの対話はそれを最もよく象徴するもので、個人の利害や立場を越えて真実を見つけてゆく、その営みが本来の意味での「哲学」だった。ソクラテスが偉大なのは、何か重要な定理を発見したからでもなければ、何か世界を救うような行動をしたからでもない。議論をしたということが偉大だったのである。

 議論によって真実を見つけだす運動は、その後様々な議論の対象に応じて、政治学、倫理学、法律学、物理学、生物学、数学などの諸科学に分化してゆく。

 しかし、これらの学もソクラテス同様、立場に囚われない自由な議論によって真実をきわめてゆくという点では、すべて広義の「哲学」といってもいい。

 十八世紀くらいまでは哲学の専門家というのはきわめて少なく、デカルト、パスカル、ライプニッツなどは数学者でもあるし、カントは天文学者、ロックやホッブスは政治学者でもあった。

 みんなが自由に議論して真理を探究するためには、自ずと議論の仕方にルールが必要になる。そこに、議論すること自体についての議論が生じる。議論論、あるいは科学論とも言うべきか。

 これを西洋の文化ではmetaphisicsと呼ぶ。meta-は後から追いかけてという意味で、たとえば言語について語る言葉をメタ言語というように、phisics〔物理科学〕についての学がmetaphisicsなのである。

 これを日本では「形而上学」と訳すが、この名称は必ずしも適切ではない。「形而上」は形のあるなしを区別するための概念で、これだと形而上学は形のないもの、いわば「気」や「霊魂」の学になってしまう。

 西田が「哲学的研究がその前半を占め居るにも拘らず」と言うのは、西田の関心が、こうした西洋的な自由な「議論」の伝統とは別の所で、むしろ知識を個人が修行を通じて体得すべきものとする伝統のもとで書かれたことによる影響が大きい。

 つまり、「哲学」はここでは「悟り」を得るための手引きという性格をもっていたのである。

 これは今でも日本人の哲学に対する意識としてありがちなことだが、真実とは何かを、議論や批判を繰り返しながら合理的に探求するよりも、あくまでも個人的な信念を重視する。

 よく「日本人には哲学がない」と言われるが、「信念はあっても哲学はない」と言った方がいいだろう。それは、西洋の哲学が、古代アテネの広場でソクラテスを中心として自由に議論をする集団から始まったのに対し、東洋の哲学が、「諸子百家」といわれる一種の職人的な師弟関係の中で生れたことに起因する。師匠の作った理論に対し、弟子は批判ではなく服従が求められる。

 われわれは哲学というとすぐに「人生哲学」という言葉を思い浮かべる。しかし、この言葉は西洋の言語のなかには存在しない。おそらく、西田が哲学の目的を人生の問題に求めたことと、ドイツ語ごのLebensphilosophie(生の哲学)がごっちゃになって生じた言葉であろう。その意味では『善の研究』は「人生哲学」の誕生なのである。

 『善の研究』の序はさらにこう続く。

 

 「純粋経験を唯一の実在としてすべての説明して見たいというのは、余が大分前から有っていた考であった。初はマッハなどを読んで見たが、どうも満足はできなかった。そのうち、個人あって経験あるにあらず、経験あって個人あるのである。個人的区別より経験が根本的であるという考から独我論を脱することができ、また経験を能動的てきと考がうることに由ってフィヒテ以後の超越哲学とも調和し得るかのように考え、遂にこの書の第二編を書いたのであるが、その不完全なることはいうなでもない。」(西田幾多郎『善の研究』)

 

 「純粋経験を唯一の実在としてすべての説明して見たいというのは、余が大分前から有っていた考であった。」というのは、おそらくまだ、「純粋経験」という用語も思いつかなかった、旧制第四高校の学生だった頃にさかのぼれるだろう。

 西田の後の回想にこうある。

 

 「今で言いへば唯物論者とかマルキシストとか言はれるやうな男があった。その男はすべてを物質から説明しようとする。私はその男の言ふことにも一応の理由があることは認めるのであるが、どうも物質が究極くの実在とは思へない。嘘ではないが、何か抽象的、二次的のやうに思はれた。そのうち、金沢の街を歩いてゐて、夕日を浴びた街、行きかふ人々、暮れ方の物音に触れながら、それがそのまま実在なのだ。所謂物質とはかへってそれからの抽象に過ぎない。このやうな考が浮んできた。それが『善の研究』の萌芽だったのであらう。」(『西田幾多郎先生の生涯と思想』高坂正顯、一九四七、弘文堂書房p.53~54)

 

 そして、『鎌倉雑談』にも、

 

 「さまざまに摸索してやがて却って直接といふことに気づきそしてそこに落ち着いたものと見える。この直接といふ感じを持ったのは早くからで、その初は高等学校の生徒の頃、金沢に住んでゐた時、或る日町を歩いてゐて、ふとそんな気持になったといふ。晩年にもその時のあたりの様子なぞありありと記憶に残ってゐた。」(『西田幾多郎先生の生涯と思想』高坂正顯、一九四七、弘文堂書房p.54)

 

とあり、『善の研究』の昭和十一年の「版を新にするに当って」という序文にも、

 

 「私は何の影響によったかは知らないが、早くから実在は現実そのままのものでなければならない、いわゆる物質の世界という如きものはこれから考えられたものに過ぎないという考を有っていた。まだ高等学校の学生であった頃、金沢の街を歩きながら、夢みる如くかかる考に耽ったことが今も思い出される。その頃の考がこの書の基となったかと思う。」(西田幾多郎『善の研究』)

 

とある。

 おそらく、このとき西田には、神秘体験に近い状態が生じたのだろう。アンドリュー・ニューバーグ、ユージーン・ダギリ、ヴィンス・ローズ著の『脳はいかにして<神>を見るか』(二〇〇三、PHP研究所)によれば、瞑想によって深い宗教的境地に達した時、上頭頂葉後部の方向定位連合野の活動が低下し、前頭前野の注意連合野の活動は逆に増大するという。これによって、自己と外界との区別が曖昧になりながらも、強い集中力で外界に接している状態が生れる。これによって、自他不二の宇宙と一体化したような意識が生れるという。

 こうした状態は、瞑想によらなくても、偶然突発的に生じることがある。仏教では「頓悟」ともいうが、天啓に打たれたような状態といえよう。おそらくは、金沢の街の雑踏にぼんやりと見とれているうちに、その人々の姿や仕草など、次第にそれが何かという通常の思考判断が停止し、日常的な習慣や偏見に囚われない、そのままの事実のみを見るようになり、やがて、その外界の事実と自分との境界が消えていったのであろう。

 我々の日常は、様々な習慣や記憶に照らし合わせながら、まわりの出来事を解釈し、そこに様々な快不快の感情を感じたり、行動を促したりする。しかし、外界の景色がこうした思考から遮断されると、何ら解釈されていない裸のままも世界がそこに出現する。そこには、過去の様々な不快な感情の想起が生じないため、目に映るものすべてが新鮮で輝いて見える。サングラスを外して真夏の昼の光をもろに見た時のようなものである。

 西田哲学というと、禅の影響ということがしばしば指摘される。確かに、西田は、東京帝国大学を出て金沢で高校教師をしながら生活していた時代に、しばしば洗心庵の雪門禅師のもとで参禅していたのは有名な話だ。しかし、『善の研究』の最初の着想が高校時代にまで遡るとすれば、禅だけの影響とはいえない。むしろ、高校時代に突然西田に襲い掛かってきた神秘体験を再現するために、禅に傾倒していったと見た方がいいだろう。

 西田は哲学の終結を「宗教」だとしたが、この場合の宗教は必ずしも「禅」のことではないし、まして禅宗の特定の宗派のことでもなければ、仏教のことですらない。正確には、西田自身が体験した超越体験そのものといっていいだろう。

 マッハは、オーストリアの物理学者で、実証主義の哲学者でもあったエルンスト・マッハ(一八三八~一九一六)のこと。音速を表す単位のマッハもこのエルンスト・マッハの名にちなんだものだ。絶対空間を否定したことで、相対性理論の先駆けにもなった。実証科学を形而上学と区別し、理論は本来虚構であり論理的構築物にすぎず、事実があくまで先になければならないとした。

 科学理論がそのまま実在ではなく、あくまで経験が先にあって、理論は虚構にすぎないという点では、西田も多少惹かれるものはあったかもしれない。しかし、人間の意識もまた科学の対象とし、形而上学を排斥するマッハ哲学には、西田もついていけなかったのだろう。

 西田にとって、問題は金沢での経験のような、一種の超越体験の抱える矛盾だったと思われる。つまり、あれほどはっきりと自他不二、梵我一如の体験をしながらも、実際には決して他人のことが手に取るようにわかるわけでもなければ、世界が自分の思い通りになるわけでもない。

 経験がいくら完全な真理のように思えても、それはあくまで自分ひとりものにすぎない。そこから「独我論」の問題が起きてくる。個人がまずあって、それが世界を経験するとすれば、その経験は個人の経験を超えられない。経験がまず先にあって、そこから個人が生じるのでなければならない。それはマッハ的な、個人もまた経験科学の対象となるというような意味で、経験が先立つのではない。

 ここで、西田が思い描いたのは、個を超えた宇宙意識のようなものだったのだろう。しかし、これは哲学的には無理があった。そこに哲学と「人生の問題」との分離が生じ、前半は哲学的な問題でありながら、最終的には宗教に行き着くという構成を採らなければならなかったのではなかったか。

 この「個人あって経験あるにあらず、経験あって個人あるのである。個人的区別より経験が根本的であるという考から独我論を脱することができ」という言葉が与えた衝撃として、高坂正顯の『西田幾多郎先生の生涯と思想』(一九四七、弘文堂書房)は、倉田百三の文章を引用している。

 

 「私は実際苦悶した。私はどうして生きていいか解らなくなった。ただ腑の抜けた蛙のように茫然として生きるばかりだった。私の内部動乱は私を学校等へ行かせなかった。私はぼんやりしてはよく郊外へ出た。そして足にまかせてただ無闇に歩いては帰った。それが一番生きやすい方法であった。もとより勉強も何も出来なかった。ある日、私はあてなきさまよひの帰りを本屋に寄って、青黒い表紙の書物を一冊買ってきた。その著者の名は私には全くフレムドであったけれど、その著書の名は妙に私を惹き付ける力があった。それは「善の研究」であった。私は何心なくその序文を読みはじめた。しばらくして私の瞳は活字の上に釘付けにされた。-見よ!個人あって経験あるにあらず、経験あって個人あるのである。個人的区別よりも経験が根本であるといふ考から独我論を脱することが出来た!この数文字が私の網膜に焦げ付くほどに強く映った。私は心臓の鼓動が止まるかと思った。私は喜びでもない悲しみでもない一種の静的な緊張に一ぱいになって、それから先がどうしても読めなかった。私は書物を閉ぢて机の前に凝つと坐っていた。涙がひとりでに頬を伝わった。-私は本をふところに入れて寮を出た。珍しく風の落ちた静な晩方だった。私は何とも云へない一種の気持ちを守りながら、街から街を歩き廻った。その夜蝋燭を点して私はこの驚くべき書物を読んだ。電光のような早さで一度読んだ。何だか六ヶ敷しくてよく解らなかったけれど、その深味のある独創的な、直観的な思想に私は魅せられて了った。その認識論は私の思想を根底から覆えすにちがいない。そして私を新しい明るいフィールドに導くに相違ないと思った。この時私はもの静かな形而上学的空気につつまれ、柔らかき溶け行く私自信を感じだ。私は直ちに友に手紙を出した。私はまた哲学に帰った。私と君とは新しき友情の抱擁に土を噛んで号泣できるかも知れないと言ってやった。友は電報を打ってすぐ来いと云ってよこした。私は万事を放笛擲してO市の友に抱かれに行った。」p.50~52

 

 「独我論」とここでいうのは、単に自己以外は何も存在しない、世界はすべて自己の思い描く幻にすぎない、という一つの理論上の仮定をいうのではなく、むしろ近代化にともなって問題となっていた「エゴイズム」のことであろう。

 近代化は、それまでの東アジアを支えていた華夷秩序を崩壊させ、いわば、中国の聖人の理想を共通の基礎としていた国際関係が崩壊し、国際関係を弱肉強食の混沌としたものにしてしまった。

 そんななかで、人間としての理想よりも、まずは勝つための富国強兵が奨励され、こうした風潮は、人間個人にとっても弱肉強食の世界のなかで自分さえよければという風潮を生み出していた。それは、若くて正義感にあふれる学生たちにとっての最も大きな悩みだった。

 ここではフィヒテの名前も挙げられているが、フィヒテ(ヨハン・ゴットリープ・フィヒテ 、一七六二~一八一四)はカントの理性は経験を超えたものに適用される限り必ず矛盾に陥り、アンチノミーが生じるという思想に納得せず、自我の絶対的で超越的な自由を前提としながら、それは経験によって拘束され、「限定」されるというモデルを提起していた。

 この限定の二つの方向によって、一方では自己が、一方では経験的な世界が表象されるとした。

 西田も、『善の研究』以降、こうした「限定」の考え方を広く取り入れ、最終的に自己の個物的限定と世界の一般者的な限定との「絶対矛盾的自己同一」を定式化するに至った。この『善の研究』での「フィヒテ以後の超越哲学とも調和し得る」の一言は、それを予告するものでもあった。

 

 「思索などする奴は緑の野にあって枯草を食う動物の如しとメフィストに嘲らるるかも知らぬが、我は哲理を考えるように罰せられているといった哲学者(ヘーゲル)もあるように、一たび禁断の果を食った人間には、かかる苦悩のあるのも已むを得ぬことであろう。

    明治四十四年一月          京都にて

                        西田幾多郎」(西田幾多郎『善の研究』)

 

 西田哲学が苦悩であるのは、超越体験に魅せられ、自他不二、梵我一如のあまりに大きな理想を掲げてしまったため、それと現実との落差を埋められなくなったためのように思おもわれる。

 意思決定が引き起こす責任だとか、政治的選択の重さではなく、この人生の矛盾が西田自身を楽園から追放したのだろう。

 楽園追放といっても、楽園から締め出されたわけではない。楽園は禅や瞑想によって、手に入れることが出来る。しかし、だからこそ現実は枯れ草のようにそこにあり、なぜ枯れ草のようになってしまうのか、何で緑の野にならないのか、悩み続けなければならない。

 しかし、西田はそのことに、現実的な解決を見出すことはなかった。むしろ、「それが人生だ」というだけで終ってしまったように思える。

余談

 「私の生涯は極めて簡単なものであった。その前半は黒板を前にして坐した、その後半は黒板を後にして立った。黒板に向って一回転をなしたと云えば、それで私の伝記は尽きるのである。」

 

  この言葉は『或教授の退職の辞』のもので、退官の挨拶として、謙遜して述べたものだが、言い得て妙だ。

 たとえば、銀幕のスターであれば、前半はスクリーンを見て、後半はスクリーンに映る、テレビタレントであれば、前半はテレビを見、後半はテレビに映る。店員は、前半は店で物を買い、後半は店に立って売る側にまわり、製造業の人は、前半は作られたものを利用し、後半は作る側にまわる。人生というのは多かれ少なかれそういうものかもしれない。子供の頃は与えられる側だったが、ある時を境に与える側にまわる。それが大人になるということなのかもしれない。

 大正十二年(一九二三年)に詠んだ歌に、

 

 赤きもの赤しと云いはであげつらひ

     五十路あまりの年をへにけり

 

とあるが、これはあくまで謙遜であり、本心としては「赤しと云ひて」と言いたいところだろう。


ウィリアム・ジェイムズ『プラグマティズム』解説

一つのイメージ

 ドクター・ジェームズを訪ねてやってきたのは、とあるアメリカの名門ユニバーシティーのキャンパスだった。石造の建物がいくつも並び、庭には青い芝生、整然と刈り込まれた木、色とりどりの花が咲き乱れていた。

 そんなキャンパスの庭の片隅にドクター・ジェームズはいた。白衣を着たその初老の男は、イーゼルを立て、熱心に庭の景色を写生していた。その顔立は、どこか青白い青年の面影を残していた。

 「僕はね、実は若い頃、画家を目指してたんだ。医者になったのは家の事情だったんだ。

 それから僕は世界中のたくさんの文献を読み漁ってきたが、残念ながら、どれもみな断片的な知識ばかりで、とても人を救えるようなものではなかった。そう思うと、僕はいつも憂鬱なんだ。だから時々こうして気晴らしに、今でも絵を描いているのさ。

 このキャンパスもそうだが、人間の世界というのは海底に棲む魚のようなものさ。そこで砂に潜った貝や、岩陰に潜む小魚を探している。だが、上を見上てごらん。そこにはまばゆいばかりの光に満ちた水面がある。あの水面の向うには、きっと光に満ちた別の世界があるように思えるのさ。

 だから僕は、今は断片的な知識の寄せ集めしか持ってないけど、いつか必ずジグソーパズルのピースのようにつなぎあわされ、一枚の絵になると思ってるんだ。それを僕は、この世を作った神の設計図と呼んでるんだ。

 もちろん、そんなものが存在するなんて、証明はできないかもしれない。でも、それを探すことに意味はあると思うんだ。それに、そう思わないととてもやっていけないよ。

 

『プラグマティズム』ウィリアム・ジェイムズ("Pragmatism" William James, 1907)

この本は1906年11月、12月、ボストンのロウエル学会での講演の記録による。

第一講 哲学におけるこんにちのディレンマ

 ここでは独断論と経験論の二極化というカント以来のテーマが提示される。カントはこの問題を、理性が経験を超えたものにまで拡大されるや、不可避的に二律背反(アンチノミー)が生じるとし、認識論的には解決不能で、倫理(実践理性)の問題としたが、以後、それに飽き足らない哲学者達が、他の解決法を探し求めてきた。

 ジェイムズはここでは何と哲学者の気質の違いを持ち出し、それが二つの立場に分かれるという。つまり、

 

 軟らかい心の人         硬い心の人

 合理論的(「原理」に拠るもの) 経験論的(「事実」に拠るもの)

 主知主義的           感覚論的

 観念論的            唯物論的

 楽観論的            悲観論的

 宗教的             非宗教的

 自由意志論的          宿命論的

 一元論的            多元論的

 独断的             懐疑的

(『プラグマティズム』W・ジェイムズ、1957、岩波文庫、p.15)

 

 もっとも、実際に人間をこの二つにはっきりと分けられるわけではなく、中間的な人間もたくさんいるのは確かである。ジェームスも、

 

 「われわれ哲学者には、生粋無雑な足の弱いボストン人もいないし、また典型的なロッキー山地方の荒くれ男もいない。われわれの多くはどちらの側に属するものであれ良いものはいくらでも欲しいと思う。」(『プラグマティズム』W・ジェイムズ、1957、岩波文庫、p.16)

 

という。

 このあたりから、つまり我々はどちらも欲しいのだというところから、どちらにも偏らない、この両者を両立させる哲学として、プラグマティズム(実用主義)を提起してゆくことになる。

 この図の中に、ロマン/ゴシックというのを加えることが出来るかもしれない。

 

 「すなわち一方においては事実にたいする科学的忠実さと事実を進んで尊重しようとする熱意、簡単にいえば、適応と順応の精神であり、もう一つは、宗教的タイプであるとローマン的タイプであるとを問わず、人間的価値にたいする古来の信頼およびこの信頼から生ずる人間の自発性である。」(『プラグマティズム』W・ジェイムズ、1957、岩波文庫、p.21)

 「合理論者の空想が、単なる事実の提示する堪えがたいまでに混乱したゴシック的性格から逃れて慰安を求める避難所なのである。」(『プラグマティズム』W・ジェイムズ、1957、岩波文庫、p.22)

第二講 プラグマティズムの意味

 プラグマティズムの説明として、まず木の影に隠れるリスの比喩から始まる。

 木に一匹のリスがいる。そこに人が来る。リスは木の反対側に隠れる。「あれ、リスがいたな」と思い、人が位置を変え、覗こうとすると、リスも見つからないように木の反対側に回る。こうして、人はリスを見つけようとして、木の周りをぐるっと一回りする。それと同時に、リスもまた木を一回りする。さて問題!人はリスの周りを一回転したでしょうか?

 このとき、ある者は回ったと言い、ある者は回っていないと言い、意見は真っ二つに分かれたとする。一体どっちが正しいのだろうか。

 答はどっちも正しい。なぜなら、両者の「一回転する」の意味が違うのだから。

 まず、木やその下にある地面などの固定したものを基準にするなら、明らかに人はリスのいる木の周りをぐるっと一回転したわけだから、木の上にいるリスの周りも当然一回りしたことになる。

 一方、リスの立場に立ってみるとどうだろうか。リスから見れば、人はいつも正面にいるわけで、決して後に回られ、背後を取られたりはしていない。木の周りは一回転したが、リスと人はずっと向かい合わせの状態にあり、決してリスの周りを回ってはいない。

 こうしたことは、形而上学の論争、たとえば世界は一なのか多なのか、宿命的なのか自由なのか、物質的か精神的かというような問題に関しても同じで、

 

 「プラグマティックな方法とは、このような場合に当って、各概念それぞれのもたらす実際的な効果を辿たどりつめてみることによって各概念を解釈しようと試みるものである。今もし一つの観念が他の観念よりも真であるとしたならば、実際上われわれにとってどれだけの違いが起きるであろうか?もしなんら実際上の違いが辿られえないとすれば、その時には二者どちらを採っても実際的には同一であることになって、すべての論争は徒労に終ることになる。そこでいやしくも論争が真剣なものである以上は、どちらか一方が正しいとする限り必ず生ずるに相違ないある実際的な差異をわれわれは当然示しうるのでなければならない。」(『プラグマティズム』W・ジェイムズ、1957、岩波文庫、p.38~39)

 

 つまり、実際問題としてどっちでもいいものであるなら、議論するだけ無駄だし、どっちでもよくないと言うなら、その実際的な差異を提示すべきである、というわけである。

 

 プラグマティズムという言葉はギリシャ語の「プラグマ」から来た言葉で、英語のpractise(実行する)やpractical(実際の)という言葉の語源でもあり、プラグマティズムという言葉は1878年にチャールズ・パースによって提起されたという。

 

 科学的な議論でも、「互変異性」をめぐってかつてあった議論で、オストヴァルトの言葉を引用する。

 

 「この物体の性質は、一個の不安定な水素原子が該物体の内部で振動すると考えても、またその物体が二個の物体の不安定な混合体であると考えても、ともに等しく矛盾なく成立するように思われた。論争は激烈を極めたが、ついにいずれとも決しなかった。オストヴァルトはいう、『もし論争者たちが、どちらか一方の見解が正しいとしてみて、それがために実験的事実の上にどういう特殊な違いが生ずるであろうかをまず自問してみてかかったならば、かかる論争は決して起らなかったに違いない。なぜならば、かく自問してみると、そこになんら事実の相違は生じえないように思われるからである。そこでのこの口論は、あたかも大昔、酵母によって生パンをふくらませることの理を論じて、一方の者はこの現象の真の原因は「妖精(ブラウニー)」だと唱え、他の者は「妖魔(エルフ)」であると言い張ったのと同じように、架空の論であったことになる。』」(『プラグマティズム』W・ジェイムズ、1957、岩波文庫、p.38~39)

 

 互変異性というのは単一の物質の構造状態が移り変わることによって平衡状態に達するとき、生じる異性体の関係を指す。(フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』より)

 

たとえば、

 

   H           H

   │           │

 R─C─C─R’ →  R─C=C─R’

   │ ∥   ←      │

   H О         ОH

  ケト形          エノール形

 

のように、「一個の不安定な水素原子が該物体の内部で振動する」と考えても「二個の物体の不安定な混合体」と考えることもできる。

 こうしたプラグマティックな立場というのは、ジェームズの時代よりやや遅れて生じた、光が波動か粒子かという問題にも有効に機能しているように思える。

 また、最初のリスの喩えは天動説か地動説かの議論にも言えるかもしれない。ガリレオの地動説が当時受け入れられなかった理由は、単に宗教的な偏見だけの問題ではなく、長い伝統を持つ天動説の緻密な計算に対し、ガリレオの地動説は論理としてもまだ未熟であり、単純な計算ミスも含めて、天動説ほどに天体の動きを正確に予見できなかったという問題もあった。

 今日の科学では、絶対空間というものが存在しない以上、物体の運動は相対的であり、観測点によって異なる。だから、天動説は決して間違った考え方ではない。ただ、惑星の動きを説明するのに、極めて煩雑なものになるため、便宜的に地動説を用いているにすぎない。実際には太陽も銀河系を中心として見ればやはり動いているし、宇宙全体が膨張している以上、銀河系もまた動いている。ただ、惑星の運動を説明するには太陽を中心に考えた方がわかりやすい。それはたとえば、人工衛星の軌道を説明するには、太陽を中心に考えるよりは地球を中心に考えた方がわかりやすいのと同じだ。

 対立する意見に対し、どちらが真理かを決するのが実際面における便宜性だとすると、真理というのは絶対的なものではなく、あくまで仮のものとみなさなければならない。

 

 「してみるともろもろの学説なるものは、そこにわれわれが安息することの出来る謎の解答なのではなくて、謎を解くための道具であるということになる。」(『プラグマティズム』W・ジェイムズ、1957、岩波文庫、p.45)

 

 それゆえ、プラグマティズムは功利主義utilitarianism(ベンサムなどの)や実証主義positivism(コントなどの)と一致する。これに対して、主知主義intellectualism(ドイツ観念論などの)には反するものになる。

 科学的な真理というのは、決して絶対的なものではなく、ただそのほうが現象をよりうまく説明できるという、方法として、道具として有用であるということに他ならない。

 それなら、神だとか自由だとかいう、信仰や観念の心理はどうかというと、ジェームズは全く同じだという。

 

 「今やシラーおよびデューイの両氏は、かかる科学的論理学の潮流の最前線に立ち現れて、いかなる場合でも真理は何を意味するかについて、プラグマティックな説明を与えている。いかなる場合でも、とこれらの教師たちはいう、われわれの観念や信仰における「真理」は、科学においていわれる真理と全く同一のものである。つまり真理とは、彼らによれば、観念(それ自身われわれの経験の部分に過ぎないものであるが)が真なるものとなるのは、この観念によってわれわれの経験の他の部分との満足な関係が保たれうるからであり、経験の他の諸部分を統括することができるし、また無限に相次いで生ずる特殊な現象を一々しらべなくとも概念的近路を通って経験部分の間を巧みに動きまわれるからである、というにほかならないのである。」(『プラグマティズム』W・ジェイムズ、1957、岩波文庫、p.48)

 

 こうした観念の場合、役に立つということは、実験で証明できるというよりも、善であるということにおいて真理となる。

 

 「もし神学上の諸観念が具体的生命にとって価値を有することが事実において明らかであるならば、それらの観念は、そのかぎりにおいて善である、そしてかかる意味で、プラグマティズムにとって真であるであろう。なぜなら、その観念がそれ以上にどれだけ真であるかということは、ひとしく承認されねばならない他のもろもろの真理との関係にもっぱら依存するからであろうから。」(『プラグマティズム』W・ジェイムズ、1957、岩波文庫、p.59)

 「真理は善の一種であって、ふつう考えられているように、善とはまったく別な範疇でもなければまた善と同位のものでもない」(『プラグマティズム』W・ジェイムズ、1957、岩波文庫、p.61)

 

 そして、神と自由の問題については、次の章で詳しく扱われることになる。

第三講 若干の形而上学的問題のプラグマティズム的考察

 まず、「実体」と「属性」についての議論から始まる。例として挙げるのは、まず白墨だ。これは哲学書など読むとよくあることなのだが、身近な日常的な卑近なものを例に挙げるというと、たいてい教育関係者にとって身近なものを例にとる。机であったり、鉛筆であったりする。サルトルの『実存主義はヒューマニズムである』という講演の記録を本にしたものでも、身近なものの例としてペーパーナイフを例に取っているが、日本の哲学科の教授も講義をするときに、「われわれにとって身近なもの、たとえばペーパーナイフ‥‥」なんて言ってたりする。少なくとも私が学生の頃、つまり八十年代の日本で、ペーパーナイフといえば小学校の時に木を削って作らされた程度で、ほとんど目にする事のないものだった。

 「白墨」は多分今でも学校でも使われているのだろう。ただ、その素材が白堊(はくあ)だというのは、この本を読んで初めて知った。白堊というのは、泥質の石灰岩のことだという。もっとも今のチョークは白堊ではなく、石膏で作られているらしい。

 話を本題に戻すが、我々にとって身近な(!?)チョークを例にとってみると、その白さ、脆もろさ、円柱形、水に溶けないというのがその属性であり、白堊(今のチョークは石膏)がその実体ということになる。同じように、机の実体は木材であり、上着(ジェームズがこの講演の時に着ていた)の実体は羊毛だということになる。そして、白堊、木材、羊毛はより本源的な実体、つまり「物資」の諸様相であり、物質は「二つのものが同時に同所を占めることができない」という属性を持っている。

 同じように、我々の感情や思考は「心」の属性であり、「心」は「霊」という本源的な実体の諸様相だというのが、当時の一般的な形而上学の議論だったようだ。

 これに対し、ジェームズは、実体というのは、属性によって初めてわかるようになるものだという。

 

 「もしかりに神が奇蹟によって諸属性を具えた実体を或る瞬間に消滅させながら、しかもわれわれには以前と変わらぬ風にその諸属性を示しつづけたとしても、われわれがその瞬間を見破るということは決してありえないであろう。なぜかというに、われわれの経験そのものには変りがないだろうからである。」(『プラグマティズム』W・ジェイムズ、1957、岩波文庫、p.68)

 

 この議論はどこかサルトルの「実存は本質に先立つ」という議論を思わせる。世界に背後はないというのはニーチェも言っていた。カントが「物自体」を決して認識できないものとして、その存在の有無も経験を超えているがゆえに必然的にアンチノミーに陥るとして以来、哲学は物自体ではなく、あくまで実際に経験のできる「現象」を対象としたものとなった以上、必然的な帰結だった。

 もちろん、プラグマティズムの場合、決して「属性は実体に先立つ」というような、転倒した形而上学の命題を提起するわけではない。そのような命題もまた実証不能であり、カント的なアンチノミーに陥ってしまうからだ。サルトルの「実存は本質に先立つ」の命題にしても、アリストテレスの「本質は実存に先立つ」の転倒というだけで、どちらが正しいかは証明できない。ただサルトルの得意な「二者択一」の問題になるだけなのである。

 ちなみに、ハイデッガーは決して「実存は本質に先立つ」とは言っていない。経験的な事物に関しては、その諸属性から実体が推測されるということが言えるのと同様な意味で、現存在分析に関してはその実存から本質が明らかになると言っているにすぎない。

 自然科学においては、あくまで物質の諸属性が明らかにされれば足りるもので、実体は問題にならない。白堊は、別に「白堊そのもの」というような実体があると考えなくても、その組成を化学式で表すことで、その様々な属性をうまく説明できればいいのである。

 むしろ実体が問題になるのは、宗教的儀式などのシンボリックな問題においてである。ここでジェームズはキリスト教の聖餐式を例として取り上げている。パンをもってキリストの肉と成し、ワインをもってキリストの血と成し、それを食することでキリストと同化する秘儀であるが、この場合、見た目にはパンやワインが変化するわけではない。にもかかわらず、その実体は単なる小麦を焼いたものや葡萄を発酵させたものから、キリストの肉と血へと実体が入れ替わることになる。実体が入れ替わっても、経験的には何も変わらない。これは、逆説的に「実体」が経験に影響を与えないことの証明となる。

 

 「これが私の知るかぎり実態観念の唯一のプラグマティックな適用であるが、このようなことを真剣に論ずるものは、自分たちだけの信仰上の理由から、「聖餐のパンと葡萄酒はキリストの血と肉である」ことを既に信じている人たちに限られていることはいうまでもない。」(『プラグマティズム』W・ジェイムズ、1957、岩波文庫、p.70)

 

 ここでジェームズは、バークリーに言及する。バークリーは対象は知覚によって生じるとして、対象の背後に物質という実体が存在することを否定した人だが、これは決してしばしば言われるような、極端な観念論ではない。むしろ、安易な「背後の実体」という考え方によって、知覚によって検証不能な、実在するかどうかもわからないものが物質にされてしまう危険があり、その意味ではむしろ科学的認識の対象を検証可能なものに限定したと考えた方がいいのかもしれない。

 

 「バークリーは、われわれの知る外界を否定するどころか、それを強化したのである。スコラ哲学では、物質的実体というものはわれわれの近づきえないもの、外界の背後にあって外界よりももっと深くかついっそう実在的なもので外界を支えるに必要なものと考えられたが、バークリーはこのような考えこそ外界を非実在に化してしまうすべての学説のなかでもっとも有力なものであると主張した。そこで彼はいった。そのような実体を捨て去り、諸君が理解しかつ近づくことのできる神が諸君に感覚的世界をじかに送ってくれたのだと信ずるがいい、そうすれば諸君は感覚的世界を確認できるし、またそれを神の権威をもって支えることになると。「物質」に関するバークリーの批評はしたがって全くプラグマティックなものであった。物質は色、形、硬さ等についてのわれわれの感覚として知られる。これらの感覚こそ物質という名辞の現金価値なのである。」(『プラグマティズム』W・ジェイムズ、1957、岩波文庫、p.70)

 

 ジェームズはさらに精神的実体の存在について、ロックの見解を参照する。つまり、とたえば昨日の自分と今日の自分が同じだという「人格的同一性」の意識の背後に、「魂」という自体を必要とするかどうかだ。

 

 「ところがロックは次のようにいうのである。もし神が意識を奪い去ったと仮定したら、それでもなお魂という原理をもちつづけたところでわれわれになんの益があろうか。」(『プラグマティズム』W・ジェイムズ、1957、岩波文庫、p.71)

 

 思うに、物質の背後に何かしら実体を仮定しようとする欲求というのは、この世界が謎に満ちているかぎり、わからないものをわからないままにしておくことが不安で、たとえ間違った理由であれ説明したいという欲求に根ざしているように思える。

 東アジアでは『易経』「繋辞上伝」に、

 「陰陽不測、之を神と謂う。」

とあり、神の概念を予測不能なところに求めている。したがって、予測不能なものを予測しようという欲求が働けば、いつの時代でもそこに神秘的な運命が仮定され、占いや超能力や心霊現象を人は信じようとする。残念ながら、今の科学をもってしても、恋の行方や自分の一生がどうなるかという問題は予測できない。それゆえに神や運命は存在するのである。

 カント哲学によって、世界に背後に何らかの実体を仮定する考え方が廃れ出したのは、当時の科学がそれだけ精密になったことで、やがてこの世のすべての現象は科学によって解明されうるという期待感が強まったためであろう。

 「実体」はその意味では、われわれの意識が単に外界から対象を受け取るだけの受動的なものではなく、むしろわれわれが自ら積極的に対象を解明しながら生きてゆこうとするかぎり、世界に対する解釈の過剰として生み出されてゆく。カントが「理性の運命」と呼んだ、そのものだ。そして、この欲求こそが、われわれの世界の背後に常に働く「実体」だと言ってもいいのだろう。そして、このことは、われわれが未知のものに臆することなく生きてゆく上で、明らかに役に立っているように思える。

 いわば、「実体」は生きるために不断に生み出される仮説であり、その中で経験的に繰り返し検証され、確実視されたものだけが、「現象」となるのではないか。

 

 こうして、世界の背後に「実体」を仮定しなくても、自己の背後に「実体」を仮定しなくても、少なくとも科学的な認識の上での不具合はない。そこから、ジェームズは「唯物論」と「唯心論」との対立を和解させようと試みる。つまり、世界の背後に「実体」を仮定する必要がない以上、その実体が物質的実体であるか、精神的物体(たとえば神)であるかも、どうでもいいこととなる。

 そして、第一講で述べたような、気質の問題に解消されゆく。確かに、世界の背後に厳密な物理法則を仮定するというのは、物事を現実的に一つ一つ着実に解決したいという思いの表われであり、世界の背後に神を仮定するのは、物事を常にはるかな理想の高みに向かって導いてゆきたいという思いの現われなのかもしれない。それゆえ、唯物論者から見れば唯心論者は現実を見ずに奇麗事ばかり並べ立てている「坊主臭い」ものに映り、唯心論者から見れば唯物論者は永遠のものへの情熱を欠いた粗野な「泥臭さ」が鼻につくということになる。

 この問題に対するジェームズの解答は、どこかカントを引きずっている。つまり、唯心論は道徳的に必要であり、唯物論は科学に必要である、と。ただ、ジェームズの場合、気質的な問題からか、やや唯物論者の物事を現実的に解決しようという情熱を軽視し、道徳心を欠いた粗雑さを強調する傾向に見える。もっとも、言葉とは裏腹に、実際はむしろその情熱の重みがわかっているからこそ、それが息苦しく思え、休暇を欲しがっていると言った方がいいのかもしれない。

 

 「私自身は、神の証しは第一義的な内的な人格的経験のうちにある、と信じている。」(『プラグマティズム』W・ジェイムズ、1957、岩波文庫、p.84)

 

 それは精神に「休暇」を与えることだともいう。つまり、世界の諸法則を持ち出されることによって、自分が拘束され、鞭打たれているのを感じる、それをしばし休ませてくれるのが神だという。そして、そこから、いかに物理化学が進歩したとしても、そこに神の場所を残すように主張する。それが、「自然界における設計の問題」である。

 確かに科学がいかに世界を詳細に明らかにしようと、それを作ったのは神だというところに唯心論的な信念は揺らぐことはない。たとえダーウィンの進化論が、様々な化石的証拠や、今日の遺伝学的証拠から実証されようとも、それを作ったのは神だといえるし、宇宙の始まりがビッグバンによるものだとしても、ビッグバンを引き起こしたのは神であり、その後の物理学の諸法則を設計したのも神だ、という主張は残る。つまり「設計」の存在を根拠として、神は存在すると考えられるのである。

 

 「神の存在は遠い昔から自然界の或る事実によって実証されるとみなされてきた。多くの事実はまるで明らかにお互いを考慮して設計されたかのような外観を呈している。例えば、啄木鳥の嘴、舌、足、尾などが樹木の世界で樹皮の下に隠れている幼虫を喰って生きるのに格好に出来ていることは驚くべきほどである。われわれの眼の諸部分にしても、光の法則に完全に適合していて、光線を網膜の上に導いてはっきりした映像を生ぜしめる。このように起源の異なる諸事物が相互によく適合していることは、設計を証していると考えられたのである。そしてこの設計者は常に人間を愛する神であると見なされた。」(『プラグマティズム』W・ジェイムズ、1957、岩波文庫、p.85)

 

 そして、ダーウィニズムの問題に対しては、

 

 「神学者たちはこの頃ではダーウィン説の事実を抱擁するだけの心の広さをもつに至ったが、それでもこれをなお神学的目的を示すものと解釈している。これは目的論対機械論の問題で、これかあれかの問題として常に議論されてきた。それはちょうど、『私の靴は私の足に合うように設計されているのは明らかだ、だからそれは機械で造られたとすることはできぬ』というに等しかった。どちらでもあることは明らかである。すなわち靴はそれ自身足に合うように設計されている機械によって造られるのである。神学はこれと同じような風に神の設計を拡張して見さえすればよいのである。」(『プラグマティズム』W・ジェイムズ、1957、岩波文庫、p.86)

 

 次にジェームズは、自由意志を問題にする。これもカントがアンチノミーとした問題だ。つまり、人間の行動や意志が、最終的に物理的に決定されているのか、それともそうした法則を超えて自由が存在するのかは、どちらも可能であり、どちらが正しいかは決定できない。

 このアンチノミーを、ジェームズは、責任の問題というふうに捉える。つまり、一方では人間の行動が物理的に決定するなら、責任を問えなくなるという意見があり、もう一方では人間が何からも決定されずに無から生み出すものには、責任が問えなくなるという意見もある。

 

 「もしわれわれの行為が予定されているとしたら、もしわれわれは単に全過去の圧力を伝えるだけのものであるとしたら、われわれが何かのために讃ほめられたり咎められたりすることがどうして可能なのか、と自由意志論者はいう。それではわれわれはただ「代理人」でしかなく、「本人」ではないことになる、そしたらわれわれの貴重な負うべき責めや責任はどこにあることになるのか。

 すると決定論者はいい返す。もしわれわれが自由意志をもっているなら、それはどこにあるのか。もし「自由な」行為が全く新規なもので、私つまり以前の私からではなく、無から出てきて、単に私に附け加わるだけのものであるとしたら、どうして私は、以前の私は、責任を負うことができるのか。」(『プラグマティズム』W・ジェイムズ、1957、岩波文庫、p.90~91)

 

 自由意志論者の主張はわかりやすいが、後者の主張はややわかりにくい。今日ではこのアンチノミーはむしろ、「遺伝子決定論」と「環境決定論」との対立と見た方がいいかもしれない。つまり、人間の行動は生まれながらに備わった遺伝子によって決定されたものだという説と、人間の心は白紙であり、行動は社会環境によって学習されたものだという説とが、互いに両方とも犯罪者の弁護に利用されるのに似ている。「無から出てきて、単に私に附け加わる」というのは、その人の本性ではなく、あくまで環境によって付け加えられただけのものに、どうして責任が問えるのか、と考えれば、わかりやすくなる。つまり、人は自由だが、その選択肢が社会的に限られていたことが問題だという。

 自由意志論者からすれば、決定論者は凶悪な犯罪者を、それが生れもった天性のもので、どうにもならないものだとして弁護しようとしているふうに見える。これに対して、決定論者からすれば、自由意志論者は凶悪な犯罪者を、環境が悪い、社会が悪いと言って弁護しているように見える。

 スティーブン・ピンカーによれば、この説は両方とも「説明」と「免責」を混同しているからだという。行動が説明できるということと免責されるということは、まったく別の問題なのである。(『人間の本性を考える』スティーブン・ピンカー、2004、日本放送出版協会、第十章を参照。)

 ジェームズも既に、罪責の問題は、自由意志があるかないかの問題と切り離すべきことを主張している。

 

 「人間同士の間にはたらく本能と功利にゆだねておけば、社会における刑罰とか賞讃とかの仕事は安全に行なわれてゆくのである。善行をなす人があれば、われわれは彼を讃るであろうし、悪行をなす人があれば罰するであろう。─とにかく、行為は行為者のうちに前もってあったものから結果するとか、厳密な意味で新しいものであるとかいったような理論とは全くかかわりないのである。」(『プラグマティズム』W・ジェイムズ、1957、岩波文庫、p.91)

 

 自由意志は、プラグマティックな立場からすれば、現実に対する説明を何一つ変えるものではなく、むしろその価値は改善の可能性を示すところにあるという。それは、先の神の設計の問題と同様、未来への一つの約束を与えることになる。つまり、「神の設計」を信じることで、今の科学がこの世界の断片的な情報しか提供しなくても、やがてはたった一つの真理に至りつくことを確信させ、そのための努力を命じる。それと同じように、この世がすべて物理的に決定されたものではなく、自由だと信じることで、今のこの争いと不幸に満ち溢れた世界を少しでも良いものにできると確信させ、努力を命じる。そこに価値があると見る。そして、それが唯一の価値でもある。

 

 「かくして自由意志とは、救済の説として以外には何の意味も持ってはいない。」(『プラグマティズム』W・ジェイムズ、1957、岩波文庫、p.93)

 「このような実際的な意義をほかにしては、神、自由意志、設計などの言葉は何らの意義を持たない。」(『プラグマティズム』W・ジェイムズ、1957、岩波文庫、p.93)

第四講 一と多

 カントのアンチノミーによって、もはや経験の範囲を超えた形而上学の議論には、必ず矛盾が生じることが明らかになった以上、神の設計や自由意志の問題は、あくまでそれがわれわれに改善を促すというところに実際的(プラグマティック)な意味があるにすぎない。

 これをジェームズは、「全反射」と呼ばれる光学上の現象を比喩として説明する。

 

 「試みに水の入ったコップを心もち目より高めの位置に上げて、水を通して水面を見上げてみられるがよい。─あるいはもっと善い方法であるが、どこかの水族館のガラス張りの箱を通して同じように水面を見られるとよい。そしたら諸君は、その器の反対側に置かれてある、たとえば燭火その他の光体の像がまぶしいまでにそこに反射しているのを見られるであろう。このような場合、一つの光線だって水面を越え出るようなことはない。つまり一つ一つの光線がことごとく水底に反射し返されるのである。そこで今、この水が感覚的な事実の世界を表し、水面上にある空気は抽象的観念の世界をあらわしているものとしよう。このふたつの世界はもちろん現実的にあり相互に作用し合っている、しかし両者の相互作用はただ両者の境界線でおこなわれているに過ぎない。だから一切のものが生存しまたあらゆることがわれわれの身に起こるその場所は、経験の及ぶかぎりでは、この水にほかならない。われわれは感覚の海の中を泳いでいる魚みたいなもので、上のほうは空気に仕切られており、空気をそのまま呼吸することもできなければ、また空気のなかに入り込むこともできないのである。しかしわれわれが酸素をとるのは空気からである。だから絶えずあっちへ行ったりこっちへ来たりして空気に触れるのである。そして、空気に触れる度ごとに決心を新たにし、気力を新たにしてまた水のなかへ舞い戻るのである。この空気の構成要素である抽象的観念は、人生にとって欠くことのできないものであるが、しかしいわばそのままで呼吸するわけにはいかぬものであって、そのはたらきはただ行くべき方向をとり直させるということにある。」(『プラグマティズム』W・ジェイムズ、1957、岩波文庫、p.96 ~97)

 

 全反射というのは、光が屈折率の大きい方から小さい方へと進む時(たとえば水に中から空気中へ、あるいはガラスの中から空気中へと進む時、)入射角がある一定の角度(臨界角)以上の場合、すべて反射してしまう現象をいう。

 このため、水槽やプールなどに外から入ってきた光は、ふたたび外に出ることができず、水面で内側に反射してしまうために、水面が全体に光ってしまい、水の上の様子が見えなくなる。(魚のお腹がまぶしい銀色をしているのは、この水面に全反射する光の保護色になるためである。)

 神や自由意志などの、いわゆるカント的な「物自体」は、たとえ実在し、相互に作用し合っているとしても、それを見ることはできない。しかし、神や自由意志は経験はできないが、水のなかに入ってきた空気を鰓から取り込むように、それを呼吸することで、この世界をより良いものにしようと決意することになる。そのため、こうした概念は経験できなくても、実際に必要なものであり、プラグマティックな価値を持つ。

 ジェームズは、この章でさらに、この解決法を世界が一か多かという哲学上の問題に適応を試みる。もちろん、この問題は、

 

 「諸君のなかには、この問題のために眠られぬ夜な夜なを過したという人はごく小数しかおられぬことと思う」(『プラグマティズム』W・ジェイムズ、1957、岩波文庫、p.96 ~97)

 

と言うように、これを考えたらまた眠れなくなっちゃうという人は、そうはいないであろう。しかし、哲学的に含みの多い問題なので、あえて取り上げるという。この問題は、わが国では西田哲学の問題とも関連する部分でもある。

 哲学が世界の統一性を求めるものであることに異議を唱える人はほとんどいないであろう。ただ、事物の多様性を無視してもいいのかというと、そうでもない。「統一」はあくまで知性の要求の一つでしかない。

 

 「われわれの知性が真に目指すものは、多様性だけでもなければ統一性だけでもなく、全体性である。」(『プラグマティズム』W・ジェイムズ、1957、岩波文庫、p.98)

 

 世界が一か多かという場合、一であるということにはいくつか意味がある。

 

 1、論議の一つの主題となる。

 

 つまり、宇宙は多だという人同士でも、結局は同じ宇宙について議論をしている。「そうですか、あなたの宇宙はたくさんあるんですか。私の宇宙は一つしかないんですよ」ということにはならない。

 

 2、事物は連続的である。

 

 はるか彼方にあるアンドロメダ星雲にしても、われわれの住む世界と別の世界にあるのではない。ブラックホールの向こうに別の宇宙が、なんてSFネタもあるが、この場合でも何らかの行き来が可能な通路によってつながっている。また、いわゆる多元宇宙論というのも、少なくとも時間の分岐点まで遡れば連続していたことになる。いずれにせよ、座標がちがうだけで同一時空に存在していることには変わりない。

 

 3、事物をつなぎ合わせている誘導線をたどることができる。

 

 時空という抽象的な座標のみならず、宇宙は光や電磁波や様々な物理的な作用によってつなぎ合わされている。

 ここでジェームズは一つのたとえ話として、「ブラウンはジョーンズを知り、ジョーンズはロビンソンを知り、という風につながって行く。そこで諸君は、次々と仲介をしてくれる人々を正しく選びさえすれば、ジョーンズからはじめてシナの王妃へでも、アフリカのピグミー族の酋長へでも、そのほか人間の住んでいるところならどこの国へでも、ことづけを伝えることができるのである。」(『プラグマティズム』W・ジェイムズ、1957、岩波文庫、p.102)と言っている。(1957年の訳なので、「シナ」だとか「酋長」だとか、ちょっと不適切な表現が見られるが、これはジェームズの責任ではない。)このように友達の和をたどってゆけば、誰のところにもたどり着く。このたとえは、現代的にいうなら、すべての母子関係をたどってゆけば、三十万年前の一人の女性を介して、すべての人類は血縁であるという、ミトコンドリア・イブの説を引くべきだろう。

 

 4、誘導あるいは不誘導は因果的に統一されている。

 

 つまり、世界は何か原因があって結果が起るという関係で統一されているという。しかし、この第四のものは、それまでの三つと比べて一つの飛躍がある。というのも、原因・結果は誘導線とちがい、客観的な事物ではない。そのため、宇宙の第一原因があるかどうかという問題になると、経験的には実証不能であり、カント的なアンチノミーに陥る。そのため、ジェームズも慎重に、「起源の統一の問題には解決を与えずにおいた方がよかろうと思う。」(『プラグマティズム』W・ジェイムズ、1957、岩波文庫、p.105)と締めくくる。

 

 5、類的統一性。

 

 これはかなり哲学的な難しい概念だが、要するに、事物をいろいろと分類していった時に、人間は動物であり、動物は生物であり、生物は有機体であり、有機体は物質であり、物質は存在者であるというふうにたどっていった時に、一つの最高類にたどり着くかどうかという問題をいう。これはいわゆる「存在」をどのように了解するかというハイデッガー的な問題にも発展する。

 

 6、宇宙は唯一の目的を持つ。

 

 ここまで来ると、完全に宗教の問題になる。

 

 7、美的統一。

 

 これも一つの仮定で、宇宙はすべて一つの美しい物語である、と、ナチュラリストが好みそうなテーマだ。

 

 8、唯一の認識者。

 

 6の場合は、宇宙に唯一の目的があったにしても、それは人知を超えたものだということができた。しかし、この全知者という考え方は、もっとはるかに神秘主義的だ。いわば、宇宙のすべてを知る、宇宙と一体になる、ある種の境地が存在することを主張するものである。

 

 プラグマティズムの立場からすれば、

 

 「かくしてわれわれが世界を連結されるものとして経験するかぎりにおいて、まさしく「世界は一である、多くの結合がはっきり見られる限り一である。しかしそうすると、われわれが多くの不結合をはっきり見出すかぎり一でないことにもなる。」(『プラグマティズム』W・ジェイムズ、1957、岩波文庫、p.111~112)

 

となり、二番目の統一性までは疑いはないが、誘導線によって連結された時、そこに何か不結合を見出すかぎりでは一ではないことになる。

 今日の物理学もこの点に関して結論は出せていない。相対性理論と量子力学を統一する「統一理論」が未だに確立されてないからだ。それは発見されるかもしれないし、ひょっとしたらないのかもしれない。ただ、科学者は統一理論への要求をあきらめるべきではないということなら言える。

 

 「世界は純粋にして単純な一なる世界でもないし、また純粋にして単純なる多なる世界でもない。世界が一であるといわれるそのあり方はさまざまであって、それらのあり方が、正確に見届けられるならば、科学的研究にもそれだけの判然としたプログラムのあることを暗示している。」(『プラグマティズム』W・ジェイムズ、1957、岩波文庫、p.112)

 

 少なくとも誘導線によって連結された統一性までは、科学者は求めても良いし、求めるべきであろう。ただ、それを越えると、もはや科学の域を超えてしまうことになる。

 そして、そのあと、それ以上の統一の幻想について、ジェームズは気質の問題としながら、安らぎは感じるが、プラグマティックな立場からはどうでもいい問題となる。

 

 「かくしてわれわれは、事物が一部は結合され一部は分離されている常識の世界に踏みとどまらねばならない。」(『プラグマティズム』W・ジェイムズ、1957、岩波文庫、p.121)

 

 そして、次の章はその「常識」が問題となる。

第五講 プラグマティズムと常識

 絶対的な一というのが一つの仮説にすぎず、事実上我々の知っている世界が不完全であるというプラグマティズムの見解は、常識的な世界と一致する。

 

 「知識に関していえば、世界はまさしく変化し生長する。我々の知識が完成してゆく┬それが完成する以上┬仕方に関する或る一般的な考察は、本講の題目すなわち「常識」にきわめて都合よくわれわれを導いてくれる。」(『プラグマティズム』W・ジェイムズ、1957、岩波文庫、p.123)

 

 知識は世界の統一性としてではなく、むしろ断片的な事実の認識から始まる。それをジェームズは油の染みによってできた斑点にたとえる。

 

 「まず第一に、われわれの知識はぽつりぽつり斑点的に生長してゆく。この斑点は大きいこともあるし、小さいこともある、がしかし知識が全面的に生長することは決してない。」(『プラグマティズム』W・ジェイムズ、1957、岩波文庫、p.123)

 「われわれの心はこのように斑点をなして生長する、そしてその斑点は、油の斑点しみのように、拡がって行く。しかしわれわれはできるだけこれを拡げまいとする、つまりわれわれはわれわれの旧い知識、旧い偏見や信念をできるだけ変えないでおこうとする。われわれは新しいのととりかえるよりもむしろつぎはぎしたり、つくろったりするのである。」(『プラグマティズム』W・ジェイムズ、1957、岩波文庫、p.124)

 

 さらに注意して読まなくては読み落としそうだが、ジェームズはこれを遺伝子にもたとえている。つまり今日の「ミーム」の先駆けといってもいいかもしれない。(脳科学でいう本来の意味の「ミーム」で、今日のネット上で用いられている「ミーム」はそこから派生したものだ。)

 

 「われわれの五本の指、耳骨、尾骨の痕跡、その他の「痕跡的な」諸性質と同じように、古い考え方はわれわれ人類の歴史におけるもろもろも出来事の消しがたい形見としていつまでも残るかもしれない。われわれの祖先は或る瞬間に突然、自分が想像もしなかったような考え方をしはじめたことがあったかもしれない。しかし、彼らが一度それをした以上、その後はそれが遺伝となって続いてゆくのである。」(『プラグマティズム』W・ジェイムズ、1957、岩波文庫、p.125)

 

 魚類が地上に上った時、浮き袋が肺になったように、生物の進化は全く新しいものを設計しなおすのではなく、あくまで遺伝子配列の変異の蓄積によって、既にあるものの形をかえてゆくことで、新しい環境に適応してゆくことしかできない。常識もまた、たとえ時代が大きく変化しても、全く新しい思想に取って代わることはなく、たいてい過去の遺産をひもといて、使えそうなものを見つけてきては「復古」という形を取ることが多い。

 常識というのはだいたいは日常平均的に信じられている断片的な知識のことで、通用する範囲は様々である。グローバルスタンダードと言われるものから、ある国、ある民族、ある地域、ある種の業界、、ある種の結社や宗教団体のみで通用するものあり、さらには一つの会社だけでとか、家の中だけでしか通用しないような、きわめて狭い範囲の常識もある。

 内容も、生得的な普遍的のものから、科学的なもの、道徳的なもの、宗教的なもの、処世訓、生活習慣、教養、トリビア、ゴシップや迷信に至るものまで、様々なものが含まれている。

 常識というのは、シマウマの円陣にたとえることができるかもしれない。シマウマが見事な円陣を作るのに、指導者は要らない。ただ、群の外にはみ出していると、肉食獣の目に留まりやすく、襲われる率が高くなることを知っているだけでよい。襲われないようにするには、できる限り他の個体とくっついていた方がいい。全員がそう思うと、自ずと円陣になる。ちょうど宇宙の塵が引力でお互いを引き寄せ合っているうちに、球状の星が出来上がるようなものだ。

 常識もまたそういうもので、一人だけ違うことを言っていると仲間はずれになるから、他人の意見に自分も合わせようとする。誰もがそうすれば、自ずとみんな一様に同じことを言うようになる。

 そんな常識を最も特徴付けているのは、誰にでもわかりやすい単純さであり、単純であるがゆえに高度な緻密な体系を構成することができず、断片的な知識に留まる。そのため、常識は基本的に多元的であり、矛盾に満ちている。

 しかし、一方でジェームズは「常識」を通俗的な「世なれた」という意味と区別して、哲学的にはある種の思考の範疇(カテゴリー)を用いる人という意味で用いる。

 

 「実際上の用語で常識のある人といえば、判断が正しい人、異常なところのない人、アメリカ語で申せば、世なれた人のことである。哲学上では全く違った意味をもっていて、ある種の知的な思考の形式ないし範疇を用いる人のことである。もしわれわれが蟹か蜜蜂だったとしたら、われわれの身体組織は経験を理解する現在の様式とは全く異なった様式を用いることになっていたに違いない。」(『プラグマティズム』W・ジェイムズ、1957、岩波文庫、p.126)

 

 そして、その常識的なカテゴリーとして、以下のものを列挙する。

 

 事物

 同あるいは異

 種類

 精神

 物体

 一つの時間

 一つの空間

 主体および属性

 因果的影響

 想像的なもの

 実在的なもの

 

 まず、ジェームズは事物の永続性について、ボストンの天気の予想困難なことを例として取り上げ、本来混沌とした認識を、誰かがその永続性を発見し、文化として広まっていったかのように議論する。これは当時英米系の哲学で主流だった(今でも信奉者は多いが)白紙説(タブラ・ラサ説、ブランク・スレート説)によるもので、こうしたカテゴリーもカントのいうようなアプリオリ(先験的あるいは先天的)なものではなく、どこかの天才が発明したものだという立場を取る。

 事物の永続性について、ジェームズは赤ちゃんを例に取る。

 

 「赤ん坊はがらがら鳴る玩具おもちゃが手から落ちてもそれを探すことはしない。その玩具が赤ん坊から「消滅」したのは、燈火が消えるのと同じなのである。再びともすと燈火が帰ってくるのと同じに、再び握らせてやると、玩具は帰ってくるのである。その玩具が一つの「事物」であって、玩具が相継いで出現するその前後の間に恒常な玩具というものの存在そのものを挿入できるというような観念は、もちろん赤ん坊には起こったことがないのである。」(『プラグマティズム』W・ジェイムズ、1957、岩波文庫、p.129)

 

 これは当時は一般的な「常識」だったのかもしれない。赤ちゃんがいつ頃からものの恒常性を認識するようになるか、実験と観察によって科学の対象となるには、二十世紀後半の発達心理学者、ジャン・ピアジェの登場を待たなくてはならなかった。

 ジャン・ピアジェによれば、この能力の獲得には1年くらいかかるという。

 物が消えることに何の興味を示さないのは、生後1ヶ月くらいまでで、1~4ヶ月くらいだと、モノの消えた場所をじっと見つめるようになる。4~8ヶ月くらいの間は、ポケットから少しはみ出たおもちゃを引っ張り出したり、おもちゃを落とすと床を探したり、トンネルに入った汽車のおもちゃの出口を見つめるようになる。8~12ヶ月になると、ほぼ物の永続性を理解する。

 物の永続性の認識は、生後にこのように発達するということは、必ずしも「学習説」を証明するものではない。むしろ、世界中の赤ちゃんが、その所属する文化に関係なく、同様な時期に物の永続性を認識するとすれば、そこに遺伝的なプログラムが作用していると考えられる。

 フランチェスコ・ナタレらは、ニホンザルやゴリラの子供に同様の実験をしたところ、ニホンザルは物の永続性について理解がないが、ゴリラにはあるということがわかった。

 この実験は基本的には、見えない動きを予測する能力であり、見えないものが消滅したかどうかの実験ではない。ニホンザルも、餌を隠せば、その消えたあたりを一生懸命探す。つまり、消えたのではなく、まだどこかにあると推測している。ただ、それまでの物体の動きから、次の位置を推測しないというだけにすぎない。その意味では、ニホンザルにも、物の永続性の概念はあるのかもしれない。

 実際、野生での生活において、恐ろしい肉食獣や猛毒の蛇が、物陰に隠れたからといっていなくなったと判断していたのでは、生死に関わる。むしろ、規則的な動きをすることのないこれらの敵が、トンネルに入ったからといって常に反対側の出口から出てくると思い込むのは、かえって危険なことですらある。

 次にジェームズは、

 

 「今日でもなお科学と哲学とはわれわれの経験のうちに空想的なものと実在するものとを分離しようと努力しているが、原始時代にはこの点に関してごく幼稚な区別しか行わなかった。」(『プラグマティズム』W・ジェイムズ、1957、岩波文庫、p.130)

 

というが、これも当時は「常識」だったのだろう。今ではこれを「偏見」と呼ぶ。

 こうした当時支配的だった白紙説の常識は、時間・空間の認識にも及ぶ。

 

 「かの一つの時間は、われわれが皆それを信じかつあらゆる出来事がそこでそれぞれ一定の日附けを持つものであり、かの一つの空間は、あらゆる事物がそこでそれぞれの位置を占めるものであって、これらの抽象的な概念による世界の統一は他に比類を見ないほどのものである。しかし概念として完成されたこのような形の時間および空間というものは、自然人の漠然たる無秩序な時間経験および空間経験とどれほど違っていることであろう。われわれに起ることはすべてそれ自身の持続と延長をもっている、そして持続も延長もその限界線が「より以上の」持続と延長によって漠然ととり囲まれていて、これが次に起ってくるものの持続と延長の中へ流れ込むのである。しかし、われわれはすぐに自分の占めている一定の方位を見失ってしまう。子供たちが過去全体をこね混ぜてしまって昨日と一昨日との区別をつけかねるばかりでなく、われわれ大人でも、時間の経過が長い場合には同じような混乱に陥ってしまうのである。空間の場合も同じことである。地図の上ではロンドンやコンスタンティノーブルや北京と私が現にいる場所との関係をはっきり知ることができるが、実際には、地図が象徴している事実を感ずることが全くできない。」(『プラグマティズム』W・ジェイムズ、1957、岩波文庫、p.131)

 

 これは、人間が時間や空間に対して持っている基本的な認識能力と、それを記憶する能力とを混同している。

 われわれが直接部屋の中を見回してみて、そこの空間が急激に変化したりひずんだりしたり、ぐるぐる回って見えたりしないし、ピカソのキュービズムの絵のように物が見えたりはしない。空間認識はその点で、安定した生得的な能力なのである。これと地図を読んでロンドンやコンスタンティノーブル(現イスタンブール)の場所を知る能力とは明らかに別のものだし、見えもしないこういう異国の都市を直感的に認識するなんてことも不可能だ。

 時間に関しても、近い過去と遠い過去とを取り違えるのは、単なる記憶の問題にすぎない。もちろん、時間の長さの感覚は時計のそれとは異なり、楽しい時は早く過ぎ、苦しく退屈な時間はなかなか経過しないし、寝ている間の時間はあっという間に経過する。しかし、われわれが過去から未来へ至る非可逆的で直線的な時間を常に感じ取るのは確かだ。記憶が前後するように、現前の時間感覚が未来や過去にループすることはない。そして、これらは学習しなかったなら身につかないというようなものでもない。

 常識は決してわれわれの素朴な認識ではない。むしろ、それは社会的に形成された通念であり、原始的な社会であれ現代社会であれ、自分で直接見たものよりも世間で一般に言われている事の方を信じる傾向から来るといってもいい。

 これに対し、科学はその常識を疑い、実験を行い、自分の目で確かめようとするところから発展してきた。一方で、哲学はやはり常識を疑い、自分の内面を自分で観察し、合理的に体系づけることで何だかの真理を引き出そうとしてきた。しかし、これらの範疇は経験を超えて適用されれば、結局矛盾してしまうことになる。

 

 「科学と批判的哲学とは、このようにして常識の境域を爆破する。科学は素朴実在論にとどめをさす。つまり「第二」性質は非実在的なものになり、第一性質だけが残るのである。批判哲学は一切のものを爆破する。常識の範疇とは人間思想の崇高な手品、つまり手の施しようもない感覚の激流のまっただなかに立って途方に暮れているわれわれがそこから抜け出ようとする逃げ道でしかないことになる。」

 

 常識は一方ではミームのようなものであり、

 

 「天才たちが非凡な能力を働かせなかったならば、きっと永久に続いたに違いないと思われるほど日常の実際的目的の要求を満たしながら自然の表面と均衡を保つことのできたきわめて幸運な諸仮説(歴史的にいえば、少数の人によって発見ないし発明せられたものであるが、しかし徐々に伝達されて、万人に用いられるにいたった仮説)の集合でしかありえない、という疑いである。どうか、常識に関するこの疑いを心にとどめていただきたい。」(『プラグマティズム』W・ジェイムズ、1957、岩波文庫、p.142)

 

というようなものである。

 科学も哲学も、その断片的な知識は、確かに我々の常識の中に取り込まれている。しかし、知識の体系そのものは我々の常識からはこぼれ出てゆく。そのため、相対性理論の詳細が我々の「常識」になることはないだろうし、カントのカテゴリー表が常識となることもない。

 そして、科学と批判哲学はそれを乗り越えようとするものでありながらも、

 

 「いずれもある一定の目的に対しては申し分のないものであるにもかかわらず、なおお互いに相争い、いずれが絶対的な真実性を要求しうるともいえない。」(『プラグマティズム』W・ジェイムズ、1957、岩波文庫、p.142)

 

 そして、その解決策として、

 

 「そのような種々の思考タイプが存在しているということは、われわれの理論が、真意の設定にかかる世界の謎を解く啓示とか霊知的解答とかいうものではなくして、むしろすべてが道具であり実在に対する心の順応の様式であるとするプラグマティックな見解に有利な推定を呼び起こすことになりはしないであろうか。」(『プラグマティズム』W・ジェイムズ、1957、岩波文庫、p.142)

 

 ということになる。

第六講 プラグマティズムの真理観

 「クラーク・マックスウェルは、幼いころ、なんでも一々説明を聞かずにはすまぬ癖があって、ある事柄について曖昧な言葉だけの説明で打ち切られたりすると、もどかしげに「わかったよ、だけどホントノコトを話して欲しいんだよ」といって相手を遮ったと伝えられている。もし彼の質問が真理に関するものであったとしたら、それをホントに彼に話してやれたのはプラグマティスとだけであったであろう。この問題について唯一の筋道だった説明を与えてくれたのは、現代のプラグマティスと、とりわけシラー氏とデューイ氏とだけであると私は信じている。」(『プラグマティズム』W・ジェイムズ、1957、岩波文庫、p.144)

 

 子供というのは時に大人に向って鋭い質問を投げつけることがある。大人はというと、まず常識の範囲でそれに答えようとする。ただ、しつこく「なぜそうなの?」「どうしてなの?」と突っ込まれると、いわゆる常識というのはあくまで断片的なものにすぎず、「世間の人がみんなそう言っている」というのが最大の根拠だったりするから、「そういうものだ」とか「大人になればわかる」だとか適当にごまかす。

 こうしたごまかしは、大人が相手のときにもしばしば見られる。「その境地になればわかる」というのがそれだ。これなら、「おまえはわかるのかよ」と突っ込まれても、「おれは天才じゃないからわからないが、とにかく天才がそういうのだから、世の権威ある人たちがそれを認めているのだから、それを疑うべきではない」と逃げ切れる。常識というのは、「自分が言っているのではない」というのが最大の逃げ口上となる。

 だが、「大人になればわかる」というのは、ある意味では一つの真理で、たいていの子供は大人になる頃にはそんな疑問など忘れているもので、クラーク・マックスウェルはその心を大人になるまで持ち続けた奇特な人間の一人だったのだろう。

 それなら「ホントノコト」とは一体なんだろうか。ジェームズはプラグマティスとだけがそれに答えられると自負する。

 まず、一個の真理が世間に受け入れられるには、三つの段階があるのだとジェームズはいう。

 

 1、不合理だ。

 2、真理だが、わかりきった取るに足らない真理だ。

 3、重要な真理だが、それを発見したのは俺たちだ。

 

この三つの反応は、ジャック・デリダのいう「鍋の論理」を彷彿させる。

 ちなみに、「鍋の論理」とは貸した鍋に穴があいていたときに聞く言い訳で、

 

 1、第一俺は鍋なんて借りてない。

 2、借りた時にはすでに穴があいていた。

 3、返した時には穴なんてあいてなかった。

 

一つ一つの弁明は完璧であっても、相互にすべて矛盾しているが、我々はついつい日常的にこのような言い訳をしてしまうことが多い。そればかりでなく、哲学者の議論でも、自己の説を必死に弁護しようとするあまりに、しばしばこうした矛盾に陥ることがある。

 一九〇七年の時点では、プラグマティズムはまだ第一の段階だという。

 プラグマティストの言う真理の観念は、そんなに難しいものではない。それは、

 

 「一つの観念ないし信念が真であると認められると、その真であることからわれわれの現実生活においていかなる具体的な差異が生じてくるであろうか?その真理はいかに実現されるであろうか?信念が間違っている場合にえられる経験がどのような経験の異なりが出てくるのであろうか?つづめて言えば、経験界の通貨にしてその真理の現金価値はどれだけなのか?」(『プラグマティズム』W・ジェイムズ、1957、岩波文庫、p.146)

 

と自らに問い、それにこう答える。

 

 「真の観念とはわれわれが同化し、努力あらしめ、確認しそして検証することのできる観念である。偽なる観念とはそうではない観念である。これが真の観念をもつことからわれわれに生ずる実際的な差異である。したがってそれが真理の意味である。」(『プラグマティズム』W・ジェイムズ、1957、岩波文庫、p.147)

 

 真理が検証可能なものでなければならないというのは、今日ではほとんどの科学者が認めるところだろうし、そんなのは常識で、何を今さらというかもしれない。そして、それとは別の、検証不能な直観的真理の存在を主張する人たちは、かなり少数派になりつつある。その意味では、今ではプラグマティズムの真理観は第三の段階にあるといっていいだろう。

 

 「ひとつの観念の真理とはその観念に内属する動かぬ性質などではない。真理は観念に起ってくるのである。それは真となるのである。出来事によって真となされるのである。真理の真理性は、事実において、ひとつの出来事、一つの過程たるにある、すなわち、真理が自己みずからを真理となして行く過程、真理の真理化の過程たるにある。」(『プラグマティズム』W・ジェイムズ、1957、岩波文庫、p.147)

 

 真理が観念と事実との一致だという考え方は古くからあった。しかし、その場合、観念は事実と独立して、超越したものと考えられてきた。そして、その超越的な観念は、瞑想などの内省的な方法で得られるとされてきた。これに対し、プラグマティズムが画期的だったのは、真理は、事実と照らし合わせ、検証を繰り返し、鍛えられてゆくことで、より真理に近づくという考え方だった。真理は「ある」のではない。真理はより真理になろうとする過程に他ならない。

 このような発想は、二十世紀後半にカール・ポパーによって、単に検証に耐えるだけでは真理とは言えず、反証可能なものでなくてはならないとされるようになった。つまり、検証の繰り返しはそれだけで真理を保障するものではない。絶えず反対仮説が可能であり、検証を継続できるということが条件になる。真理は経験から帰納されたものではなく、検証の継続性にある。反証不能なものはドグマであり、真理とは言えない。


ルソーの『人間不平等起源論』解説

1、ルソーの自然人

 人間とは何かという問いに答える方法は、大体二つの打ちのどっちかだ。一つは内観法で、もう一つは人間と他の動物を比較する方法だ。人間と他の動物を比較する際、動物についての知識は観察によるしかないが、人間についての知識は内観法によることもできる。

 内観法による場合も多くの他者によって追認されれば、一種の哲学的実験として客観的な方法とみなすことができる。しかも、それを科学的な事実と組み合わせて用いることで、人間についてより制度の高い認識をもたらすことも可能だ。

 たとえば、二つのライトを点滅させる実験で、右のライトより左のライトの点滅を若干遅らすと、右のライトの光が左に移動したかのように見える。さらに、右のライトを緑、左のライトを赤にすると、二つのライトの中間地点で色が変ったかのように見える。

 しかし、こうした「見え方」についての報告はあくまで被験者の内観による報告であり、実際のライトの点滅の事実に反する。

 しかし、その認識のずれから、人間の知覚について一つの真理が得られる。それはさらに、大脳の活動を生理学的に調べることで補強することができる。これに対し、内観法だけを偏重し、色が途中で変ったということが唯一の事実であり、二つのライトが別々に点滅していたという客観的事実をはなから無視するようなやり方だと、誤りというよりもグロテスクとでもいうような帰結を生み出す。 人間とは何かという問題に内観法だけで答えようというのは無理な話であり、科学的事実というのも重視しなくてはならない。

 ルソーの『人間不平等起源論』もその意味で、当時としては最新の科学に基づくものだった。しかし、今日に科学からすれば決して批判に耐えうるものではない。

 しかし、ルソーの『社会契約論』で展開させる民主主義の理論は、この人間観をもとにしている。今日ではとうてい科学とはいえないような理論を根拠に作られた民主主義理論は、そういう意味で「空想的民主主義」とでも呼ぶしかない。

 ルソーに限らず、ロックやモンテスキューの民主主義理論も、18世紀の科学を前提としたもので、今日に通用するものではない。マルクスは空想的社会主義を脱却して、19世紀後半の最新の科学をもとに「科学的社会主義」を打ちたてようたしたが、それすら今日ではもはや科学とはいえない。

 科学が進歩すれば、人間に対する考え方も変る。その認識の進歩に応じて、政治理念も進歩しなくてはならない。その作業を怠るなら、せっかくの民主主義のシステムも老朽化し、疲弊し、やがて冷酷な独裁者の手に落ち、世界はふたたび破滅的な戦争への道を歩むであろう。

 しかし、今日の哲学者は古い哲学書の読解ばかりに終始し、科学に疎く、科学者は政治に疎かったりする。科学的な民主主義理論の創造は、哲学者、科学者両方にとって大きな課題である。

 ルソーの時代の科学というと、まず生物学において「進化論」が一般にまだ認められてなかった。ダーウィンの『種の起源』が刊行されたのは一八五九年のことで、ルソーの『人間不平等起源論』(一七五五年)より百四年もあとのことだった。ラマルクが最初に定向進化論を発表した『動物哲学』も一八〇九年のことで、ルソー(1712~1778)には知るよしもなかった。

 もっとも、進化論的な発想がそれ以前にまったくなかったわけではなかった。アリストテレスの哲学にも生物が一定の目的に向かって完成されてゆくという、一種の定向進化論の萌芽のようなものを含んでいた。しかし、その後のキリスト教の創造設が支配的になり、長いこと忘れ去られることとなった。

 ルソーと同時代になると、モーペルテュイ(1698~1759)が『人間および動物の起源』という本を書き、雌雄の粒子的要素の結合から新種が生じ、そのなかの適応したものが残ってゆくという説を立てている。これはダーウィン進化論の萌芽と見ることができるだろう。

 しかし、ルソーが最も影響を受けたのはパリの王立植物園長、当時の生物学会の支配的な地位にあったビュッフォン(1707~1788)だった。ビュッフォンの立場は、環境の変化によって生物が変化したり絶滅したりすることは認めるものの、最初の一対の個体が神によって創造されたことは自明のこととしていた。このことはルソーにも決定的な影響を与えていた。

 ルソーも人間の不平等の起源を考える時、最初は完全に自由で平等に造られた人間が、その後の環境の変化などによって次第に堕落し、不平等になり、今日に至っているという立場だった。

 ルソーにとって決して人間は四つ足で毛むくじゃらな動物から進化したのではない。そういう発想は当時でも萌芽的にはあったのだろう。ルソーはそうした発想ときっぱり決別し、人間が最初から神によって完全な形で創造されたことを疑うことはなかった。

 

 「人間の自然状態をよく判断するためには、人間をその起原から考察し、いわば種の最初の萌芽のなかに検討することがいかに重要であるとしても、私は人間の連続的な発展を通してその身体的構造をたどりはしないであろう。すなわち、人間がついに今のようなものになるには、最初にいったいどういうものであったかを動物の組織のなかに探求するために私は立ちどまりはしないだろう。アリストテレスが考えるように、人間の長く伸びた爪が、最初は動物のような鈎形に曲った爪でなかったかとか、人間が熊のように毛むくじゃらでなかったかとか、また、四つ足で歩いでいたので、視線が地面に向けられ、数歩先に局限されてその観念の特性と限界とを同時に示していなかったかというようなことを私は検討しないだろう。私はそういうことがらについては漠然としたほとんど想像上の臆測しかできないだろう。比較解剖学はまだほとんど進歩していないし、博物学者の観察はまだきわめて不確実なので、そのような土台の上に堅固な推理の基礎を打ち立てることはできない。そこで、私は、この点についてわれわれのもっている超自然的な知識には頼らないで、また、人間が次第にその四肢を新しい慣習にあてはめ、新しい食物をたべるようになるにつれて、人間の内面と外面との両方の構造のうちに突発したはずの諸変化は考慮に入れないで、人間はどの時代でも、今日私の目に映ずるのと同じ構造であっで、二本の足で歩き、われわれがやると同じようにその手を使い、自然全体にその視線を向け、広大な空の拡がりを眼で測っていたものと仮定しておこう。」(『人間不平等起源論』岩波文庫版P,41~42)

 

 当時はまだチンパンジーやゴリラについてもほとんど何も知られていなかったし、系統だてた民族学もなかった。また、古生物学についても当時まだネアンデルタール人すら知られていなかった(ゴリラの種としての認定は1846年、ネアンデルタール人の発見も19世紀中頃)。

 ルソーが自然状態の人間を考察する際に主に参考にしたのは西インド諸島に住むカライブ人や南アフリカのホッテントットについての探検家や博物学者の報告だった。フランシスコ・コレアル(1648~1708)の『西インド旅行記』、ラエ(1593~1649)の『新世界史または西インド諸島誌』、コルベン(1675~1726)の『喜望峰旅行記』『ホッテントット国旅行記』、それにアベ・プレヴォの監修した『旅行記総覧』(1748)あたりが情報源だったとされている。

 その『旅行記総覧』のなかにはローランドゴリラではないかと思われる記述があり、ルソーも原注の中で引用している。当時、この動物はまだ伝説の域を出ず、オランウータンと一緒にされていた。ルソーはひょっとして自然状態の人間ではないかと期待している。

 

 「旅行家たちによって獣と思われている、人間に似たさまざまな動物は、じつは本当の未開人なのではなかろうか。そしてむかし森の中に散らばったその人種は、彼らの潜在的な能力をどれひとつ発展させる機会がなく、どの程度の完成にも達しないで、いまなお自然の原始状態に止まっているのではなかろうか、という疑問を。私が何を考えているか、その一例をあげるとしよう。『旅行記』の翻訳者は言う。

 『コンゴ王国には、東印度でオラン・ウータンと名づけられて人類と狒とのいわば中間を占める、あの大きな動物がたくさん見出される。ロアンゴ王国のマヨムバの森には、二種類の怪物が見出され、その大きいほうはポンゴ、他はエンジョコと呼ぱれる、とバッテルは述べている。前者は人間とそっくり似たところがあるが、しかし彼らはずっとふとって、背が非常に高い。顔は人間だが、眼が非常にくぼんでいる。手や頬や耳には毛がなく、ただ眉毛だけは例外でたいへん長い。からだの他の部分には相当に毛が生えているが、その毛はたいして濃くなく、その色は褐色である。最後に彼らと人間とを区別する唯一の部分は脚であって、彼らの脚にはふくらはぎがない。彼らは手で頸を掴みながらまっすぐに立って歩く。彼らの隠れがは森のなかにある。彼らは樹の上に眠り、そこに雨をよける屋根のようなものを造っている。彼らの食べ物は野生の果物か胡桃である。けっして肉を食べない。黒人たちが森を通りすぎるときは、夜の間そこで火を焚くことを習慣とするが、彼らが、朝、出発しようとするときポンゴが火のまわりに場所をとって、火が消えるまで立ち去らないのに気づく。というのは、ポンゴたちは、非常に器用ではあるが、木をくべで火をもたせるだけの分別がないからである。

 彼らはときおり群をなして進み、森をすぎる黒人を殺す。自分の棲んでいる場所に草をたべにくる象にひょっこり出会うことさえある。すると、拳骨や棍棒でこっぴどく攻めたてて、象どもが悲鳴をあげて逃げださずにはいられないようにする。ポンゴが生け捕りにされることはけっしてない。彼らは非常に頑丈なので、彼らをとらえるためには十人でも足りないだろうから。しかし黒人はポンゴの母親を殺したのち、母親のからだにしっかりしがみついでいるポンゴの子供をたくさんつかまえる。これらの動物のなかに死ぬものがあれば、ほかの者たちはその死骸を枝や葉で蔽う。パーチャスはなおこれにつけ加えているが、彼がバッテルと交わした会話のなかで、バッテル自身から聞いたところによると、一匹のポンゴがバッテルのつれていた黒人の子供をさらって行き、その子供がこれらの動物の社会でまる一カ月をすごしたという。というのは、彼らは、この黒人の子供が観察したように、少くとも人間が彼らをじっと見つめなければ、人間を襲っでも少しも危害を加えないからである。バッテルはもう一つの種類の怪物〔エンジョコ〕のことは少しも書いていない。」(『人間不平等起源論』岩波文庫版P,160~162)

 

 ポンゴは火や棍棒の使用などだいぶ人間的に脚色されてはいるが、まちがいなくローランドゴリラだろう。樹上にねぐらを作ったり、肉を食べないという習性は、今日でも知られている。エンジェコはおそらくチンパンジーだろう。

 ルソーにおいて人間と他の動物の差異は「自由」と「改善能力」から規定される。つまり、動物は本能に従うが、人間は自由に判断でき行動を改善できる。

 

 「どんな動物も、感覚をもっているのだから、観念をもっている。動物はある程度までその観念を組み合せさえする。そして人間はこの点では禽獣と量の上で違いがあるにすぎない。若千の哲学者はある人間とある人間との違いのはうが、ある人間とある禽獣との違いよりも大きいとまで主張した。それゆえ、動物のあいだで特別に人間を区別するものは知性ではなくてむしろ彼の自由な能因という特質である。自然はすべての動物に命令し、禽獣は従う。人間も同じ印象を経験する。しかし彼は自分が承諾するも抵抗するも自由であることを認める。そしてとくにこの自由の意識において彼の魂の霊性が現れるのである。なぜなら自然学はある意味で感覚の構造と観念の形成を説明するけれども、意志する力、というより選択する力に、またこの力の自覚に見出されるものは、力学の法則によってはなにも説明されない純粋に霊的な行為にほかならないからだ。

 ところで、すべてこれらの問題を取り巻くさまざまな困難が、人間と動物とのこの差異についてなおいくらか論議の余地を残しているとしても、もう一つ、両者を区別して、なんらの異議もありえない、きわめで特殊な特質が存在する。それは自己を改善〔完成〕する能力である。すなわち、周囲の事情に助けられて、すべての他の能力をつぎつぎに発展させ、われわれのあいだでは種にもまた個体にも存在するあの能力である。これに対して、動物は数カ月の後には一生涯そのままであるようなものになり、またはその種は千年たっでもその千年の最初の年にそうであったままで変らない。」(『人間不平等起源論』岩波文庫版P,52~53)

 

 動物が観念を持ち、観念を組み合わせ思考をし、意識を持つという説は、今でもいろいろ議論のあるところであろう。今はこの問題に深入りしないでおこう。

 どっちにしてもこの時代にはまだ「遺伝的にプログラムされた行動」として本能が定義されていたわけではない。むしろ素朴な機械論的自然観に基づくものだった。

 

 「私はどんな動物のなかにも精巧な機械しか見ない」(『人間不平等起源論』岩波文庫版P,51)

 

 動物は生存繁殖するための機械であり、それに対し人間は神から霊性を授かった自由に創造する存在として捉えられている。

 したがって、自然状態の人間は決して本能の赴くままに行動していたのではない。むしろ白紙の状態で生まれ、他の動物を模倣することで食物を得、生殖を行っていたと考える。

 

 「人間は、それらの動物のあいだに分散して、彼らの生きる功智を観察し模倣し、かくして禽獣の本能の域にまでのぼる。」(『人間不平等起源論』岩波文庫版P,42)

 

 人間の持つ獣的な性質はすべて学習されたものだ、というわけだ。ルソーは人間が自由であることを示すために、動物が持っている本能的な行動を意図的に自然人から削除している。それは、後の人間欠陥生物説にも近い。というより、欠陥生物説のほうがルソーの自然状態の影響を受けているのだろう。

 自然人は動物のような本能を欠いた白紙の状態で生まれ、生きてゆくためには動物のまねをする。自然状態の人間はジョン・ロックが白紙(タブラ・ラサ)と呼んだものに近く、空っぽ(Free)だったというわけだ。

 ルソーのこうした「自然人」は完全に形而上学的独断によるものであり、キリスト教の霊肉二元論に基づくものといえよう。

 いわば、それは現実には決して存在したことのない純粋過去であり、いかなる地質学的年代を超越した無限大の過去に位置する(もっとも、当時の地質学的年代というのはノアの洪水の前か後かといった神話的なものだった)。

 そのため、「自然人」は動物と区別されるだけでなく、未開人とも区別される。未開人はかつて存在したはずの自然人の痕跡を留める。だからこそ自然人の性質を論じる際度々引用されるが、カライブ人やホッテントットが自然人そのものというわけではない。

 また、自然人のついては聖書にその根拠を求めることもできない。聖書によれば最初の人間は神から知恵と戒律を受けていたことになる。それならば、いわゆる未開人はなぜその神の決めた知恵と戒律を知らないのか、ということになる。「自然人」は聖書とも相容れない。自然人は一つの仮定であり、人間から文明をとったら何が残るかという引き算として考えたほうがいい。

 

 「もし人類が自分だけですておかれたとしたら、彼らはどうなっていたろうかということについて、人間とそれをとりまく存在との自然[本性]だけをもとにして推測を立てることは、宗教もこれを禁じてはいない。これこそ私が求められていることであり、私がこの論文で検討しようとしていることである。」(『人間不平等起源論』岩波文庫版P,38~39)

 

 同様に、自然人は「野性児」からも区別される。森に棲む野性児の伝説はヨーロッパからインドにかけて幅広く分布し、しばしば妖精と混同されてきた。

 こうした野性児は、今の科学からすれば、親の手にあまり遺棄された自閉症児と考えるのが最も妥当だろう。こうした子供の重度なものは幼児退行によって四つ足で歩くこともあり、言語だけでなくコミュニケーション全体に障害が生じている。

 (自閉症というと、他人との接触を避けて自分の殻の中に閉じ籠っている人というイメージがあるが、これは実は正しくない。正常な人間が「自閉的」になる場合は、確かに人間不信になり、自分が何を言ってもどうせ人は理解してくれないだろうと思ってふさぎがちになる。しかし、自閉症児には「どうせ理解してはくれない」という感覚そのものが存在しない。むしろ逆に、自分の思っていることは当然他人もそのように思っているという無条件な確信があるため、わざわざ自分を表現するようなことをしない、と言った方がいい。自閉症児は他者が自分と違う意識や考えを持っているということを理解できない。)

 近代に入ると野性児について「妖精」という見方は退けられ、むしろ本来白紙である人間の理性がオオカミの行動を学習したもの、と解釈され、こうした見方は今日でもなお根強い。ルソーもまさにその立場から、野性児はオオカミの行動を学習したため特殊な行動をとるようになった例であって、自然人が四側歩行していた証拠にはならないことを強調する。

 

 「まだ、歩けないうちに森のなかに捨てられ、何かけだものに養われた子供は、その乳母の手本にならって、彼女のように歩く練習をしたことだろう。習慣は、彼が自然からもらわなかった便宜を彼に与え、不具者が練習の結果われわれの手ですることをすべて足でやれるようになるのと同じように、彼もついにはその手を足と同じように使えるようになったことだろう。」(『人間不平等起源論』岩波文庫版P,138)

 

 しかし、果たしてオオカミが人間の赤ん坊を育てることができるのか、生物学者の見解はおおむね否定的である。野性児はまちがいなく人間によって育てられ、途中から育て切れなくなって遺棄されたものであろう。そして、彼らが四側歩行をするのは幼児退行によるものと考えたほうがいいであろう。

 ルソーにとって、自然人は現実に存在しているわけでなく、一つの仮定から生み出されている。そして、この仮定こそが、「自然法」の根拠となる。いわば、今日我々が知っている自由や民主主義や基本的人権の根拠となっている。

 ルソーにとって自然法とは自然人が受け入れた法であり、自然法則ではない。人間がかつて自然法則によって機械的に動く動物にすぎなかっただとか、動物の状態からどのようにして人間へと進化したか、ということはまったく問題になる余地はない。それが今日の人類学との大きな隔たりといえよう。

 今日の科学は生命がいかに生命のない原子や分子から生まれ、遺伝子によって行動が決定されていた段階からいかにして意識が発生したかを問題にする。その果てに、人間がいかにサルと決別して人間になったかが問題になる。こうした問題意識はダーウィン以降のものである。

 しかも、こうした新しい科学知識に基づいて自然法が規定されなおされたかというとそういうわけでもない。自然法は相変わらず自明のことであるかのように扱われる。それは先験的・超越論的真理といったほうがいいかもしれない。

 つまり、ルソーの自然人の仮定は、それを語るルソー自身の自由に基づいている。いわば自然人とは自由に基づいてその自由そのものを語る、自由という概念の自己規定に他ならない。

 自由とは空っぽだということである。英語のfreeもフランス語のlibreも自由と空っぽの両方の意味を持つ。自由とは邪魔なものがないこと、障害物がないことである。

 日本語の「自由」は「自由狼藉」だとか「自由奔放」とかいうように勝手気ままという意味があり、必ずしもfreeやlibreの正確な翻訳ではない。勝手気ままという意味での「自由」は英語だとむしろlicenseというべきだろう。license(ライセンス)というと、日本では免許のことだが、英語では放蕩という意味がある。何をやっても許されているような状態がlicenseなのだろう。日本人にとってフリーの本当の意味はなかなか掴みにくい。

 フリーというのはサッカーでは敵のプレッシャーを受けないことをいう。相手の選手がぴったりとくっついていて思うようにボールを蹴れない状態に対し、誰からも邪魔されずに好きなところにボールを蹴れる状態をフリーという。

 しかし、だからといってわざと自分のゴールに蹴りこんだり敵にパスしたりするのは決してフリーとはいわない。そういうイメージで考えればいいだろう。

 恐い主人の命令で行動が制約されているときはフリーではない。サッカー選手が敵のマークを振り切るように、支配者の手を逃れて自分の思うように行動できたとき、それがフリーだ。それゆえ自由は闘って勝ち取られるものというイメージが強く、決して他人から与えられるものではない。

 フリーとはまさに体を縛る鎖を断ち切る、といたっもので、各自が自力で手に入れるものだ。アメリカで銃規制がうまくいかないのも、自由は銃をもって闘って手に入れるもの、という感覚が根強いからだ。まさに自由とは銃だ。

 自由とは拘束を受けない状態を表わすもので、実際人が生きてゆくためには食べたり寝たり必要不可欠な行動をとらなければならない。また、みんなが平和に争いごとなしに生きてゆくには、それなりの自制もしなくてはならない。それを自分で選ぶのが自由である。

 ルソーの自然人は支配したりされたりするものがないだけでなく、人間関係そのものが存在しない孤立した自由人として認識されている。

 

 「結論を述べよう、─森の中をさまよい、器用さもなく、言語もなく、住居もなく、戦争も同盟もなく、少しも同胞を必要ともしないばかりでなく彼らを害しようとも少しも望まず、おそらくは彼らのだれをも個人的に見覚えることさえけっしてなく、未開人はごくわずかな情念にしか支配されず、自分ひとりで用がたせたので、この状態に固有の感情と知識しかもっていなかった。彼は自分の真の欲望だけを感じ、見て利益があると思うものしか跳めなかった。そして彼の知性はその虚栄心と同じように進歩しなかった。偶然なにかの発見をしたとしても、彼は自分の子供さえ覚えていなかったぐらいだから、その発見をひとに伝えることは、なおさらできなかった。技術は発明者とともに滅びるのがつねであった。教育も進歩もなかった。世代はいたずらに重なっていった。そして各々の世代は常に同じ点から出発するので、幾世紀もが初期のまったく粗野な状態のうちに経過した。種はすでに老いているのに、人間はいつまでも子供のままであった。」(『人間不平等起源論』岩波文庫版P,80)

 

 しかし、ルソーの自然人は一見牧歌的なように見えて、実は恐ろしく過酷な状況を想定している。つまりそれは自由でなければ生きられない、という状況だ。自然人は屈強な肉体を持ち、素手で野獣と渡り合い、病気も老化も知らない、というのは何を意味するのか。それは、少しでも体力が衰えたものは速やかに跡形もなく消え去る、ということだ。多分にハイエナに骨までしゃぶられて。

 

 「自然は彼らに対して、まさにスパルタの法律が市民の子供たちに対してしたとちょうど同じようにふるまう。すなわち、自然は立派な体格の人達を強くたくましいものにし、そうでない人をすべて滅ぼしてしまうのだ。」(『人間不平等起源論』岩波文庫版P,43)

 

 そして彼らが他人との交渉をほとんど持たなくてもすんでいるのは、人口が希薄で増えることがないからだ。

 

 「私がこのような原始状態の仮定についてこれほど長々と述べてきたのは、古い誤謬と根ぶかい偏見とを打ちこわさなければならず、それには根元まで掘り下げて、不平等なるものがたとえ自然的なものであっても、わが著作家たちの主張するような現実性と影響力とをこの状態のなかでもつにはいかにほど遠いかということを、真の自然状態の画面のなかで示さなければならないと考えたからである。」(『人間不平等起源論』岩波文庫版P,80)

 

 こうした自然人像を思い描く意図は本人の語るとおり明白だ。自然人がいかなる不平等も争いもない理想的な状態でなければならないからだ。

 持ち物があれば、その持ち物の多い少ないで不平等が生じる。知性が進歩すれば、知識の多い少ないで不平等が生じる。情念がないから恋人を取り合うことも嫉妬することもない。逆にいえば、これらのものが不平等の起源となるということだ。

 自然状態には不平等がないという前提があり、それに基づいて不平等がない状態はどういう状態かをたぐい稀な想像力で描き出す。そして、その想像の正しさを未開人についての報告によって補強してゆく。それがこの当時精一杯のやり方だった。

 しかし、いつまでもそこにとどまるわけにはいかないだろう。我々はルソーの時代よりははるかに人類の歴史をよく知っている。自然人の仮定が生物学と相容れない最も大きな原因は、人間から本能を削除したことだろう。人間もまた他の動物と同様に進化の産物であるなら、人間と他の動物はもっと連続したものと考えるべきであろう。

2、不平等の原因

 ルソーの描き出した自然状態の人間は、今日でいえば決して過去に実在したであろう未開人や原始人、ホモ・エレクトス、ホモ・ハビリス、アウストラロピテクス・アファレンシスなどとは似ても似つかないに違いない。それは今日の人類の不自由と不平等の原因となるものを取り去った一つの仮定にすぎない。

 ルソーはこうした人間を仮定することで、逆にそれに不自由と不平等の原因となるものを付け加えてゆき、今日の人類の悲惨な状態を描き出そうとする。その付け加えてゆく順序というのも進化論とは何の関係もない。ルソー自身が不平等の原因として推察したものを付け加えてゆくだけである。

 不平等の原因はまず第一に持っている財産の量が違うということだ。金持ちと貧乏人は何が違うかといえば、持っている物の多い少ないの違いに決まっている。金持ちはお金をたくさん持っている。でかいプールつきの家や別荘や自家用飛行機を持っていたりする。それに対し貧乏人はお金をほんの少ししか持っていない。雨露をしのぐビニールシートの家とポケットのわずかな小銭が全財産だったりする。そこからこう結論できる。それは物を所有するという習慣があるからだ。

 野性の動物たちを見れば裸の体のほかは何も持っていない。何も持っていないなら貧富の差が生じるはずがない。私有財産の存在が貧富の差を作り出した。だから、ルソーの『人間不平等起源論』の本当のテーマは私有財産の起源とでもいうべきものだ。

 

 「ある土地に囲いをして『これはおれのものだ』と宜言することを思いつき、それをそのまま信ずるほどおめでたい人々を見つけた最初の者が、攻治社会(国家)の真の創立者であった。杭を引き抜きあるいは溝を埋めながら、『こんないかさま師の言うことなんか聞かないように気をつけろ。果実は万人のものであり、土地はだれのものでもないことを忘れるなら、それこそ君たちの身の破滅だぞ!』とその同胞たちにむかっで叫んだ者がかりにあったとしたら、その人は、いかに多くの犯罪と戦争と殺人とを、またいかに多くの悲惨と恐怖とを人類に免れさせてやれたことであろう?しかしまたその頃はすでに事態がもはや以前のような状態をつづけられない点にまで達していたことも明らかなようである。というのは、この私有の観念は、順次的にしか発生できなかった多くの先行観念に依存するもので、人間精神のなかに突如として形作られたのではないからである。すなわち、自然状態のこの最後の終局点に到達するまでには、多くの進歩をとげ、多くの才覚と知識とを獲得し、それを時代から時代へと伝達し増加させなければならなかった。そこで物事をもっと遡って考え直し、そのもっとも自然的な順序において、そのようにゆるやかに継起する出来事と知識を、ただひとつの見地から集中するようにつとめてみよう。」(『人間不平等起源論』岩波文庫版P,85)

 

 しかし、果たして何も所有しないということが本当に不平等がないということなのだろうか。

 オットセイのごく一部のオスは何百頭というメスと交尾するが、ほとんどのオスは交尾の機会のないまま死んでゆく。通常の動物の世界でも、生存競争がある以上、天寿を全うするものもいれば、群れを追われ、自分の縄張りを持てないままのたれ死にするものもいる。

 自然状態の人間になぜそれがなかったのか。なかったはずはない。自然は弱いものを容赦なく消し去っていたはずだ。

 一つ一つの木の実をめぐって「これは俺のものだ」といって争うことはなかったのだろうか。その回答は、おそらく人口が希薄だったということに尽きるだろう。豊穰な自然の恵みに対し、分散して生活するほんのわずかしかいない人類、それが争いの生じない唯一の理由だ。

 また、二人の男が一人の女をめぐって争わなかったという点に関しては、男も女も相手を選ぶといったことがなかったということで説明している。

 

 「男性と女性とは出会いがしらに機会のあり次第、欲望のおもむくままに、偶然に結合した」(『人間不平等起源論』岩波文庫版P,60)

 「恋愛でさえも、他のすべての情念と同じように、恋愛をあれほどしばしば人間にとって災い多いものにするあのはげしい熱狂を社会のなかではじめて獲得したものだということは動かしがたい事実である。」(『人間不平等起源論』岩波文庫版P,78)

 「欲望が満たされれば、両性はもはやたがいに相手を見覚えることもなかった。」『人間不平等起源論』岩波文庫版P,86)

 

 この仮設はマルクス=エンゲルスの「原始乱婚制仮設」に姿を変え、つい最近まで共産主義者の間で信じられていた。

 そう考えると、ホッブスの考えた「万人の万人に対する闘争状態」の自然人とルソーの自然人との差というのは、単に自然人の人口をどの程度に見積もるかの差ではなかったのか。

 自然の恵みに対して人口が極度に少なく維持されていたと考えるか、常に飽和状態まで増え続けたか、それが人間の性が善か悪かという古典的な問題の本質ではなかったか。

 自然の恵みを食い尽くすくらい人口が多くなれば、どんなやさしく哀れみ深い自然人も食うために争わざるを得なくなる。

 ルソーは人間の性が善から悪に転じる契機としてのこうした人口問題について、まったく気付いてないわけではなかった。

 

 「人類が拡大してゆくに連れて、人間とともに苦痛が増加していった。」(『人間不平等起源論』岩波文庫版P,87)

 

 しかし、こうしたマルサス的発想はこれ以上発展しなかった。ルソーの思索はあくまで「改善する能力」とそれがもたらす「所有」の拡大に集中していた。人口の増加は人類の様々な地方への拡大をもたらし、それが異なる文化を生み、差異を生み出してゆく、そのことにしか興味がなかった。

 しかし、ここでルソーが生存競争という単純で生死に関わる深刻な問題を回避し、不平等をあくまでも知性の問題として捉えていることには十分注意をはらうべきだろう。あたかも自然状態においてルソーは生存競争が存在しないかのように、存在したとしても無視できる程度のものとして扱っている。

 つまり平和と平等は最初から保証されたもので、不平等は単に人より多くのものを所有したいという純粋に精神的な衝動から生まれたかのように考える。

 

 「いろいろな観念や感情がつぎつぎに起り、精神と心情とが訓練されるにつれて、人類は次第に柔順になってゆき、結合は広がり、きずなは緊密になる。人々は小屋の前や大木のまわりに集会することに慣れた。恋愛と余暇の真の子供である歌謡と舞踊が、暇になってむれ集まった男女の楽しみ、というよりむしろ仕事となった。客人は他人に注目し、自分も注目されたいと思いはじめ、こうして公けの尊敬を受けることが、一つの価値をもつようになった。もっとも上手に歌い、または踊る者、もっとも美しい者、もっとも強い者、もっとも巧みな者、あるいはもっとも雄弁な者が、もっとも重んじられる者となった。そしてこれが不平等への、また同時に悪徳への第一歩であった。この最初の選り好みから一方では虚栄と軽蔑とが、他方では恥辱と羨望とが生れた。そしてこうした新しい酵母によってひき起された醗酵が、ついには幸福と無垢とにとって忌まわしい合成物を生みだしたのである。」(『人間不平等起源論』岩波文庫版P,93~94)

 

 こうした認識の甘さは民主主義の根本概念を大きく歪ませることになりはしないだろうか。

 たとえばルソーが『社会契約論』の中で「一般意志」に全幅の信頼を寄せている点だ。「一般意志は、つねに正しく、つねに公の利益を目ざす」(『社会契約論』岩波文庫版P,46)一般意志は全体意志と区別され、すべてのものに一般的に行使される約束ごとを意味する。

 たとえば、ある宗教団体が過去に大量殺人事件を犯したという理由で、住民の総意でその団体員の排除や追放を決定したとしても、それは一般意志とはいえない。特定の人だけを対象にしたものは「一般」とはいえない。それは全体意志だ。

 一般意志というのは、たとえば「過去に大量殺人を犯した宗教団体はすべて排除すべきである」といった無差別的に網をかぶせるような決定をいう。特定の人を対象にした決定は、自分には返ってこない。だから無責任なこともいえる。しかし、一般的な決定は、常に自分に跳ね返ってくる。

 

 「一般意志は、何らかの個人的な特定の対象に向かうときには、その本来の正しさを失ってしまう。なぜなら、そうした場合には我々は自分には関係のないものについて判断するので、我々を導く公平についての真の原理を何らもって否いないのだから」(『社会契約論』岩波文庫版P,50)

 

 金持ちに重税をかける法律は、貧乏人としてはうれしいが、自分の才能と不断の努力がついに認められ巨万の富を手にしたときは、自分もその決定に従わねばならない。それが社会のルールだ。自分に跳ね返ってこない、つまりレスポンスのない決定は、責任(レスポンシビリティー)を欠いている。

 一般意志によって定められるのが法律だ。法律はある特定の人だけに適応するということができない。ある宗教団体がけしからんと言って、その団体だけを罰する法律は作れない。宗教団体を規制する法律は、良い宗教団体にも悪い宗教団体にも一律に適応される。それが一般意志の持つ性格だ。

 サルトルが、個人の行動の選択が万人を拘束(アンガジェ)するというのも、それが一般意志である限り言えることだ。人を殺すことは殺人一般を肯定することにつながるから、それは必ず自分にも跳ね返ってくる。

 しかし、自分が哲学者になるということは、決して万人に哲学の教授になれということではない。そんなことをしたら誰が米を作るのだということになるが、これはあくまで自分個人の選択であって一般意志には当たらない。

 大事なのは、それが一般化されたとき自分に跳ね返ってくるということを考慮しろということだ。レスポンシビリティーという言葉は「責任」と訳されているが、この言葉は正確な翻訳ではない。責任だと責めを任じる、責めを受けるという意味に解されやすい。そうではなく、むしろ因果応報という意味での「応報」と考えたほうがいいのではないか。自由には応報が伴う。(今風に言うと「ブーメラン」か。)

 自由意志によって意志決定を行う際は、常にそれが自分に跳ね返ってくることを考慮しなくてはならない。それゆえ、ルソーは意志決定がどのように跳ね返ってくるかを正確にみんなが認識しているなら、決して自分の首を絞めるようなことはしないため、一般意志は常に公の利益を目指すと考える。この一般意志の行使は「主権」と呼ばれ、国家の基礎となる。

 しかし、実際今日の現実を見ると、こうした主権国家という考え方が、終わることのない民族紛争の泥沼を生み出している。主権の基礎となる一般意志は民族の違いを問わず一般的に決定される。

 だから、理想をいえば世界中の人がすべての国家、民族に適用できるような一般意志を持てばいいのかもしれない。

 ただ、今日でもそのような同意を確認することは困難を究める。せいぜい国際条約に加盟した国だけで意志確認できる程度である。

 それでも、ワシントン条約や核拡散防止条約、ジュネーブ条約、子供の権利についての条約など、今日様々な条約が各国に守るべきものとして課せられていることは評価すべきだろう。しかし、一方で各国家が独自に主権を持ち、一般意志を持っているのも事実だ。

 こうした一般意志は、自国民の利益にのみ基づき、必ずしも周辺国家や国内の少数民族に配慮されたものではない。たとえば言語の問題にしても、「国内では日本語で教育を行う」と一般意志決定をした場合、この法律は国内に日本語を母国語としない人がいた場合、大きなハンディになる。

 かって日本が韓国を併合していたときには、たしかに韓国人はそれで多大な不利益を被ったし、もし将来北方領土が返還されることがあっても、ロシア語を国語として認めないなら必ずロシア系住民との軋轢を起すであろう。

 また、日本が一般意志に基づいて原発建設を推進するにせよ、事故が起きた際のリスクは決して日本人だけの問題ではない。それについて、周辺国の人々は何もいえないのである。

 果たしてそれでも一般意志は誤ることはないのだろうか。しかも、この意志から生み出される主権によって、死刑はもとより戦争による殺戮や兵士の自己犠牲までルソーが肯定する根拠は一体何なのだろうか。こうした思想は結局ホッブスのいうような国家と国家の間のリヴァイアサンとベヒーモスの闘いを生み出しているのではないか。

 

 「どうして個々人が、なんら自分自身の生命を勝手に処分する椎利をもたないのに、この自分たちがもってもいない推利を主権者に移転しうるのか、ときく人がある。この問題は解きがたく思われるが、それは問題のたて方が悪いからにすざない。何びとも自分の生命を守るためになら、生命の危険をおかす権利をもっている。火事から逃れようと、窓から飛び出した人は自殺の罪に当る、とかつていった人があろうが?また、乗船するさい危険を承知していたからとて、嵐の中で死んだ人にこの自殺の罪を帰した人がかつてあったろうか?

 社会契約は、契約当事者の保存を自的とする。目的を欲するものはまた手段をも欲する。そしでこれらの手段はいくらかの危険、さらには若千の損害と切りはなしえない。他人の犠牲において自分の生命を保存しようとする人は、必要な場合には、また他人のためにその生命を投げ出さねばならない。さて、市民は、法によって危険に身をさらすことを求められたとき、その危険についてもはや云々することはできない。そして統治者が市民に向って『お前の死ぬことが国家に役立つのだ』というとき、市民は死なねばならぬ。なぜなら、この条件によってのみ彼は今日まで安全に生きて来たのであり、また彼の生命はたんに自然の恵みだけではもはやなく、国家からの条件つきの贈物なのだから。」(『社会契約論』岩波文庫版P,54)

 

 確かに火事の際に我が身を顧みずに窓から飛び出そうとするのはわかる。しかし、国家の場合は国家の中の特定の人に犠牲を強いることになる。

 戦争になっても、契約者全員が闘うのではない。闘うのは兵士であり、前線に立つ若者と後方にいる偉い指揮官とではリスクは異なる。

 しかも、作戦上必ず捨てごまにされる部隊が出てくるだろうし、危機に対する犠牲は決して平等ではない。しかも、このような悲惨な戦争が起る原因は、両国の一般意志と一般意志の闘いである。一般意志の名のもとに双方が大量殺人を繰り返すのである。

 もちろん、ルソーの時代はむしろ小さな都市国家のようなものを想定して、残虐な暴君の手から自由を守るために市民が一致団結して闘うような場面を想定したのだろう。

 武器もせいぜい鉄砲と機動力を欠いた手押し式の大砲くらいで、まだ機関銃もないから兵隊は横に隊列を組んで行進し、誰が撃たれるかは運次第といった時代だ。

 臆病者が隊列を乱して逃げ出すと、総崩れになったりする。今の戦争のように都市に住む非戦闘員に無差別な空爆をしたりはしないし、機関銃や火炎放射機で一網打尽に殺しまくるわけでもないし、もちろん核兵器も化学兵器もない。今から見ればのどかともいえる戦争は、火事での類焼を防ぐため、町の住人が総出で火を消すような作業の延長で考えられていたのだろう。

 機関銃、地雷、手榴弾、戦車、潜水艦、航空機、ミサイルなど、次から次へと大量殺戮兵器が発明されたことで、戦争に対する考え方は今日急速に変りつつある。

 なかでも、戦争そのものが犯罪であるという考え方は、第二次世界大戦の悲惨な結末の中で生まれたものだった。それ以前は、国家が戦争で人を殺すことも権利の一つと考えられていた。

 ルソーの『社会契約論』でも侵略戦争がそれ自体悪だとは言っていない。むしろ国家が常に拡大に向かう「遠心力」をもっていることを認め、ただ、国家の適切な大きさは単に力の均衡によって決まる。

 

 「なぜなら、すべての人民は、デカルトの渦動のように、一種の遠心力をもち、それによってお互いにぶつかりあい、隣の人民を犠牲にして大きくなろうとする傾向があるからだ。」(『社会契約論』岩波文庫版P,72)

 

 ただ、大きくなりすぎると統治が困難になり、かえって弱体化するという自然のバランスだけがその歯止めになると考えていた。

 国際法においても侵略行為そのものが悪と定められたのはそんなに古いことではない。日韓併合も今日としてはあってはならぬことだったが、当時は合法だった。当時は戦争による征服行為そのものが合法だった。侵略戦争が悪とみなされない以上、犯罪者を死刑にすることが当然のことと考えられるのも無理はない。犯罪は社会への挑戦であり、戦線布告を意味するからだ。

 

 「犯罪人に課せられる死刑もほとんど同じ観点の下に考察されうる。刺客の犠牲にならないためにこそ、われわれは刺客になった場合には死刑になることを承諾しているのだ。この契約にさいして、われわれは自分自身の生命が左右されると考えるどころか、生命を保障することをのみ考える。そのとき、契約当事者のうちに、自分が首をくくられると予想するものが一人でもあろうとは考えられない。さらに、社会的権利を侵害する悪人は、すべて、その犯罪のゆえに、祖国への反逆者、裏切者となるのだ。彼は、法を犯すことによって、祖国の一員であることをやめ、さらに祖国にたいして戦争をすることにさえなる。だから、国家の保存と彼の保存とは、両立し得ないものとなる。二つのうちの一つが、ほろびなければならない。そして、罪人を殺すのは、市民としてよりも、むしろ敵としてだ。彼を裁判すること、および判決をくだすことは、彼が社会契約を破ったということ、従って、彼がもはや国家の一員ではないことの証明および宣告なのだ。ところが、彼は、少なくともそこに住んでいるということによって、自分をその国家の一員と認めていたのだから、彼は、契約を破った者として、追放によって切りはなされるか、あるいは公衆の敵として、死によって切りはなされるか、されなければならない。なぜなら、そういう敵は、道徳的人格ではなく、〔たんなる〕人間なのであって、そういう場合には、戦争の権利は、負けた者を殺すこととなるからだ。

 しかし、犯罪者の処刑は、個別的な行為だといわれるかもしれない。いかにも。だから、この処刑は、決して主権者に属するのでなく、主権者が〔他人に〕さずけることはできるが、彼みずからは行使しえないところの椎利である。わたしの考えはすべて一貫しているのだが、いちどきに全部は説明できない。(『社会契約論』岩波文庫版P,54~55)

 

 しかし、ここでもルソーは何で人民が「遠心力」を持っていて、侵略戦争を引き起こそうとするのか、それ以上に突っ込んだ議論を避けている。

 つまり、有限な大地の恵みに対し無限に増え続けようとする人口から来る矛盾、生存競争、この問題を避けて通って、不平等を単なる人より多くのものを所有したいという精神的欲求にあると考えていたからだ。そして、この理論では国家と国家、民族と民族のリヴァイアサンとベヒーモスの闘いを解決できない。

 人間は本来他の動物と同様、本能のままにテリトリー(縄張り)やレンジ(行動域)を持ち、その中で生活する個体数を自ら調節していたのではなかったのか。つまり、何らかの形での排除を行っていたのではなかったのか。

 もちろん、ホッブスのいうような「万人の万人に対する闘争状態」は簡単な方法で回避できる。

 少なくともそれが集団レベルではなく個体レベルの争いであれば、単に相手が強くて勝てないと見た場合逃げればいい。一個の木の実はよほど飢えてない限り血みどろになって争うだけの価値はない。闘って体力を消耗したり、命を落としたりするよりは、他の木の実を探すほうがよい。

 こうして、欲望の衝突が生じた際に強いものが優先権を持つことで、単純な「順位制社会」が成立する。

 この社会では弱者は常に食物を譲ってばかりいる状態になるから、栄養不良でますます弱くなり、やがて肉食獣か病原菌の餌食になり、消滅する。闘争はあくまでどちらが強いかを確認するだけの行為にとどまり、後は弱いものが自然に排除される。

 人道的ではないが、たいへんよくできた個体数調整システムなので、おそらく一億年以上にわたって動物はこのようなやり方で平和を維持してきたのであろう。

 十八世紀の人が自然を平和で調和のとれたものと考えたのは、外見上確かに闘争が稀だからだ。捕食の残酷さに目を止めることはあっても、生物がなぜ同種同士で激しい戦闘を繰り返すことがないのか、長いこと謎だった。

 それこそ「神の秩序」であり、人間だけが自然の秩序に背いた欠陥生物に見えるのも無理はなかった。順位制社会の構造が明るみに出たのは二十世紀も後半になってからの、本当に最近の事だ。

 しかし、民主主義の思想はルソーの『人間不平等起源論』にも見られるように、人間と他の動物をはっきりと区別するところから来ている。

 動物は本能に従って行動するが、人間には本能がなく、そこに自由があると考える。そこから自然法は自然法則ではなく、人間だけが自然から学ぶことによって作り出せるものと考える。

 それゆえ、自然法によって保証される権利は人間に限定される。まさに「人権」だ。

 人間と他の動物を連続したものと考えるやり方は、日本人としては古来よりなじみが深い。しかし、西洋では、このことは民主主義の根幹をゆるがす大問題になりかねない。

 人間と他の動物に連続性があるなら、動物にも権利を与えなくてはならない。実際、一部のラディカルなエコロジストは「アニマルライツ(動物権)」ということを提唱している。

 そして、今日人間以外の動物に意識があるかないか、言語は可能かどうかという問題は、常に動物の権利の問題とリンクしている。

 この点、日本の生物学者はほとんど注意をはらっていないように思える。これは結局、まだ日本人の大半にとって民主主義や人権思想が外来思想の域を出ず、本当の意味で土着のものになっていないということなのだろう。

 それは悪い面もあれば好都合な面もある。もし人間と他の動物とが連続した存在であるなら、自然法や自然権の根拠を別の所に求めなくてはならないだろう。民主主義を空想的な観念論の段階から真に科学的なものにするには、まずそこから始めなくてはならない。

 たとえば、生存権は自然状態においてはすべての生物に原始的に存在しなくてはならない。そして、地球上に生命の無限の繁栄がなく、生存競争が避けられない以上、原始的生存権は矛盾するものとなる。そのため、自然界では「強いものの権利」が存在する。

 ただし、これはルソーのいう「最も強いものの権利」(『社会契約論』岩波文庫版P,19~20参照)とは若干異なる。というのは、動物にあるのは基本的に生存の優先権であって、命令=服従の関係は存在しない。優位にある個体はいるが、ひところ言われたような「リーダー」や「ボス」の存在は今日では否定されている。

 この権利は人間だけが剥奪されねばならない。問題はこの剥奪がいかにして可能かである。

3、実際の未開人

 ルソーのいう自然状態の人間はあくまで形而上学的仮定であって、実際の未開人ではなかった。それならルソーは実際の未開人はどんな状態にあると考えていたのだろうか。

 彼らは本能も何もない白紙の状態から、動物の行動を学びつつ、生活を改良しながら、いくつかの後天的な社会的な能力を獲得したと考える。

 その原因は個体数の増加であり、それに伴う生息域の拡大だった。最初の人類がどこにいたかは知らないが、おそらく熱帯の草原と疎開林との混じりあう場所だったのだろう。というのも、彼らは、

 

 「不毛の年月や長く厳しい冬や燃えるような夏が、彼らに新たな工面工夫を要求した」(『人間不平等起源論』岩波文庫版P,87)のだから、最初に人類がいたところには砂漠や四季の変化があるところではなかった。一年中気候の温暖な熱帯のサヴァンナだったのだろう。さらに、「海や川の沿岸では、彼らは糸と針を発明し、漁夫となり魚食民族となった。森のなかでは彼らは弓と矢とをつくり、狩人となり、戦士となった。」(『人間不平等起源論』岩波文庫版P,87)

 

とあるところから、最初の人類の生息地は森林でもなければ大河の流域でもなかったのだろう。

 最初の人間は果実食だったから、完全な草原ではない。草原と森林との境界線に生じる疎開林、それが人類の故郷ということになろう。奇妙なことに、これは今日の人類アフリカ起源説と一致する。

 人類は個体数の増加によりサバンナの外にまで広がり、異なる環境に適応するために道具の使用を開始した。これによって「大小、強弱、遅速、臆病、大胆」(『人間不平等起源論』岩波文庫版P,87)などの感性的知覚が発達した。

 そして、この知識によって、人間は他の動物よりも優れているという「自尊心」を持つようになった。ここから、人間同士の優劣の感情が発達した。

 

 「まだ、ほとんど序列の見分けもつかず、[人類という]種の点では自分を[動物のなかで]第一位にあると考えていた人間は、早くから個人としても第一位を要求する心構えでいた。」(『人間不平等起源論』岩波文庫版P,88)

 

 当時は動物の順位制のことも知られていなかったから、こうした感情が順位制社会に関係する(順位制社会の名残)なんてことは思いもよらぬことだったのだろう。ただ、知識を持ったために他のものよりも知識を多く持つということで、始めて優劣の感情が生じたと考える。

 ルソーによれば、すべての人間同士の関係は、この「知識」から生まれたことになる。人間関係はともに知識を持つものとして始まる。知識を持つということで他者との同一性を自覚する。言語は、こうした知識を持つもの同士の最初の約束ごととして誕生する。しかし、この時ルソーは生存競争についてまったく意識しないわけではなかった。

 

 「安楽を好む心が人間の行為の唯一の動力であることを経験から学んだ人間は、共通の利害関係から同胞の援助に頼らなければならない稀な場合と、競争のために彼らを警戒しなければならない、一層稀な場合という二つの場合を区別できるようになった。」(『人間不平等起源論』岩波文庫版P,88~89)

 

 ルソーが何で競争を「一層稀な場合」と考えたか。もちろん、ここにはホッブスの「万人の万人に対する闘争状態」が絶対王政を正当化する根拠となっているから、という単純な理由が考えられるかもしれない。

 しかし、決定的な差は、ルソーが本質的に自然人を極度に排他的で孤立した存在と考えていたことだ。

 彼らは人口が飽和状態になり隣人と闘争を始める前に、むしろ闘争を避けるために生息域を拡大させてしまったのだ。だから、人類が世界中ありとあらゆる地域に広がり、もはや生息域の拡大が望めない状態になるまで、深刻な生存競争にさらされることはなかったと考える。

 それゆえ、まず協力が必要な場合に最初の「社会契約」が誕生し、警戒の必要な場合というのは人類が地球を埋め尽くした後の問題として先送りされることとなる。

 ルソーはここで言語を、人間の理性に基づく任意の約束ごとと考えている。それまで自然のうちに持っていた鳴き声や叫び声に加えて、

 

 「どの地方でも、すでに述べたように、それがどうして設定されたかを説明するのは、なまやさしいことではないが、いくつかの慣例的な音節のある音声が加わって、ここに特殊なしかし粗野で不完全な、大体今日なおさまざまな未開民族が持っているのとほぼ同じような言語を人々は持つようになった。」(『人間不平等起源論』岩波文庫版P,89~90)

 

 言語が単なる理性の発明で、何ら生得的な根拠を持っていないのであれば、文明の度合によって言語が単純であったり複雑であったりするのは当然だろう。未開人の言語と今日の先進諸国の言語との差は、単純な藁葺きの小屋と鉄筋コンクリートのビルのような差になるはずだ。

 しかし、今日の言語学によって未開人の言語について詳しく調査がなされると、こうした想像はくつがえされた。未開人の言語も先進諸国の言語も、その文法的複雑さや語彙の豊富さにおいて、決して遜色のないものであることが今でははっきりしている。そうなると、言語は単なる発明ではなく、何らかの遺伝的根拠を持ったものだということが想定できる。

 もちろん、日本に生まれた子供が日本語を喋り、アメリカの子供は英語を喋るように、何語を覚えるかが後天的なのは間違いない。しかし、何らかの言語を学習するプログラムは先天的に備わっているといえよう。それは単に鸚鵡返しのようなものではなく、むしろ自ら表現を工夫し、新たな言葉を作り出してゆく才能だ。

 ルソーの自然人は、例えて言えばアメリカのフロンティア時代のカウボーイのようなものだ。

 人口が増え、周りとの軋轢が大きくなり、農地も牧草地も金も不足してくれば更に西へ行く。西にはまだ見ぬ広大な荒野が広がっている。

 実際のカウボーイはインディアンを追い出したり、仲間内でも撃ち合いをやっては保安官が現われたりするが、ルソーのこの開拓者はさしたる争いもないまま、おそらく何千年何万年という時間をかけて、ゆっくりと地球を覆うようになっていったのだろう。

 アメリカ大陸のインディアンが一万一千年前にベーリング海峡を渡り、またたく間に南アメリカまで到達したことを考えるなら、これ自体かなり途方もない空想だろう。

 一体ルソーが自然人の文明発達速度をどれくらいに見積もっていたのか、それは定かではない。少なくとも、人類が世界を覆い尽くすのは、ルソーの見積もりでは農耕が始まり、鉄が発明され、土地が私有化され、貨幣が誕生した後のようだ。これらの起源を、他のものと同様、純粋な「改善能力」によるものとした。

 しかし、奇妙なことに、今日地球上の人類があまねく広がっているにもかかわらず、ルソーは未開人をまだ飽和状態にまで至っていない、純粋に「改善能力」に基づいて残忍で血を流すことを好むようになったと考えている。

 その理由を、まず住居を発明し、それが夫婦親子の相互の愛着を生みだし、男女の永続的関係が恋愛と嫉妬をうみだす。恋愛が様々な感情を生みだし、その中で芸術が起り、そこで人はより美しく、より強く、より巧みなものを尊敬し、その反動として侮蔑の感情を生み出す。

 

 「人々がお互いに評価しあうことをはじめ、尊散という観念が彼らの精神のなかに形成されるやいなや、だれもが尊敬をうける権利を主張した。そして、もはやだれにとっても、それを欠いては不都合が起らずにはすまなくなった。そこから、礼儀作法の最初の義務が、未開人の間においてすら生れた。そしでまた、故意の不正はすべで侮辱となった。というのは、侮辱された者は、その不正から生じた損害とともに、時として、その損害そのものよりも堪えがたい、自分自身に対する軽蔑を見てとったからである。こういうふうに、各人は自分に示された軽蔑を、自分自身を重んずる程度に応じて罰したから、復讐は猛烈になり、人々は血を流すことを好むようになり、残酷になった。これがまさにわれわれに知られている大部分の未開民族が到達していた段階なのである。そして、若干の人々が、人間は本来残忍であって、それを和らげるためには取締りを必要とすると性急に結論したのは、さまざまな観念を十分に区別することをせず、またこれらの民族がすでに最初の自然状態からいかに遠く離れているかに注意することを怠ったためである。」(『人間不平等起源論』岩波文庫版P,94)

 

 ルソーが女性を「本来服従すべき性」(『人間不平等起源論』岩波文庫版P,77)と考え、女性の解放にまったく興味がなかったのは、その当時の一般的な通念としてはやむを得なかったのかもしれない。

 そのため、最初から自然人の自由平等の観念から除外されていたようだ。そればかりか、自然人から動物的な本能の影響を極力排除する観点から、男女の結びつき(性交)が本能によるものでも恋愛感情によるものでもなく、偶然の結合という曖昧な表現で言い表わされていた。

 人間は動物ではない以上、本能による結合はない。だからといって、恋愛は文明の産物だから、これもない。そういう奇妙な空っぽの状態を想定していた。つまり永遠に無意味で空しい結合。

 

 「未開人はもっぱら自然から享けた気質の言うことだけに耳を傾けで、自分の獲得できなかった趣味には耳を傾けない。そこで彼にとっては女性であればだれでもよいのである。」(『人間不平等起源論』岩波文庫版P,77)

 

 愛もなければ快楽もない。一体ルソーはこの着想をどこから得たのだろうか。

 しかも、女性は本能でもなく文明の影響でもなくして、「気質の衝動」というきわめて曖昧な性質のものだけで子育てをしたのだろう。

 ルソーの空想によれば、性交もまさに偶発的なもので、稀な出来事にすぎず、子供は子育ての必要がないくらい早く成長したのだという。

 

 「夫と妻が連続的にいっしょに住むことは、新たな妊娠のおそれのある機会に非常になりやすいので、純枠な自然状態において、偶然の出会いまたは単なる気質の衝動か、夫婦的結合関係の〔婚姻的な社会〕状態におけるほどに頻繁な結果を生じたとは到底信じ難い。そう頻繋でないことが、恐らく子供たちをいっそう丈夫にすることに役立つだろうし、またそのうえに若い頃に妊娠能力をあまり濫用しなかった女性たちの場合、その能力がより高い年齢にまで延長されることによって、償われうるであろう。子供たちについては、彼らの力と器官とは、われわれの間では、私のいう原始状態におけるよりもよりおくれて発達すると信ずべき理由がたくさんある。彼らが両親の体質からつたえる先天的な虚弱さ、彼らの手足をすべて包みこんで、その運動を邪魔するような世話焼き、彼らを育てる態度の甘さ、それにおそらく自分の母の乳とは別の乳の使用、そうしたことすべてが、彼らにおける自然の最初の進歩を妨げ、おくらせている。また、たえず無数の事物に彼らの注意を固定させて、これに熱意をもつように強制する一方、彼らの体力にはなんらの訓練をも施さないということも、やはそり彼らの成長を著しく外らせることになるかも知れない。だから、まず第一に彼らの精神にさまざまに負担をかけすぎ、疲らせるかわりに、もしも自然が彼らに要求すると思われるたえまのない運動に彼らの身体を訓練させておくなら、おそらく彼らははるかに早くから歩いたり、行動したり、自分に必要なものを自給したりできるようになるだろうと考えられる。」(『人間不平等起源論』岩波文庫版P,175~176)

 

 自然人の人口の少なさはこうしたことに支えられていたのだろう。しかし、それにしても女性が「本来服従すべき性」とされる根拠は一体何だったのだろうか。

 本能によるのでもなく、文化によるのでもないとすれば、それも「気質」のせいにするほかあるまい。そうなると、人類は自然状態の頃から、人と人が出会うことも稀であるにもかかわらず、男と女が稀に偶発的に出会った時には気質の違いからそこに服従関係が常に生じていた、ということになる。

 出会った瞬間に男は性交を命じ、女はすぐに従順に尻を差し出したのだろうか。こうした奇妙な空想は、結局極端な白紙説のばからしさを証明することになろう。

 ルソーの自然人の理想郷では人口問題はなく、世界は無限の広がりをもっていたのだから、男尊女卑がなかったのかというと、そうでもなかった。

 むしろ女性が服従の性として自ら性欲を持たず、性に関して無関心であることによって自然状態の少ない人口密度が維持されていたというべきであろう。

 これに対し、女性があるとき「改善能力」に基づいて恋を発明して性の相手を選ぶことで男性に対して同等か優位に立とうとしたりするようになり、それが人々に嫉妬の感情をおこさせ、人間同士の争いが絶えなくなり、殺戮に快楽を見い出すまでになったと言うのだ。

 

 「この恋愛における精神的なものは社会の慣用から生れる人工的な感情であって、この感情を、婦人たちが、自分の支配力をうち立て、本来服従すべき性を優勢にするために、非常に巧妙にまた入念に賞めたたえるのは、容易にわかることである。」(『人間不平等起源論』岩波文庫版P,77)

 「恋愛とともに嫉妬が目ざめるのだ。不和が勝利を占めると。情熱のなかでもっとも甘美なものが人間の血の犠牲を受ける。」(『人間不平等起源論』岩波文庫版P,93)

 

 しかし、言うまでもなく、それ以前の段階というのは現実には存在しない。現実の未開人は本来の未開人ではないからだ。現存する未開人はルソーによれば、すでに最初の自然状態とは遠く離れていて、そこには恋愛も嫉妬もすでに存在する。

 ルソーは、現存する未開人の社会についても人口問題を回避し続け、問題をあくまで文明の発達の問題に帰属させようとしてきた。

 しかし、ルソーは人口問題をまったく意識してなかったということではない。それは、人間が定住し、私有財産を持ち、不平等社会が成立したさい、突如として提起される。それも、本文ではなく原注の中に。

 

 「あるいは私にこう反対する人があるかもしれない。すなわち、このような無秩序な状態においでは、人々は、たがいにかたくなに殺しあうかわりに、もし分散することになんらの限界もなかったならば、ちりぢりに分散してしまっただろう、と。しかし、最初は、この限界というのは、少くともこの世界の限界であったはずだ。そして、もし自然状態の結果として生れる過度の人口のことを考えるならば、地球は、この状態においては、このようにして集合せざるをえなくなった人間たちによってまもなく一杯になったはずだと、人々は判断するだろう。その上に、もしも不幸がすみやかだったり、それがたちまちに起った変化だったりすれば、彼らは分散したことだろう。しかし、実際には、彼らは初めからそのくびきをつけて生れたのであった。彼らはその重みを感じたときには、そのくびきを負う習慣を身につけていた。そしてそれをふるい落す機会を待つことに甘んじたのである。最後に、彼らは、自分たちに集合することをよぎなくさせた無数の便宣にすでに慣れてしまったので、分散はもはや初期におけるほどに容易ではなかった。初期においては、だれも自分自身をだけしか必要としなかったので、各人は他人の同意を待たないで自分の意志を決めていたからである。」(『人間不平等起源論』岩波文庫版P,186)

 

 ここに来て初めて、人類は争いを回避できるだけの大地の広さを失った、ということを認める。つまり人口問題が争いを生み出すことをルソーは知っていたわけだ。

 しかし、何でこの時なのだろうか。

 土地の私有化が不平等の起源であることを主張するために、あえて人類の人口が飽和状態に達する時期をこの時期にもってきた、と考える以外に理由があるのだろうか。

 もし、大地が無限であったなら、誰がどれだけ多くの土地を私有化しようが、他のものには何の関係もない。大地が有限だからこそ、土地を奪われるものが生じる。

 そうなると、不平等の真の原因は大地の有限性とそれを上回る人口の増加の圧力によるものではなかったか。そして、このような不平等の種はもっと古くから存在しえたのではなかったか。それこそ生命が誕生したときから。

 人間と動物が神によって別々なものとして創造されたのではなく、人間が動物から進化したことを認めるなら、人間も最初は不平等だったのではなかったか。そして、人類は進化の末に平等社会を獲得したのではなかったのか。

4、自然人と社会契約

 ルソーは自然状態の人間をあれこれ空想し、不平等の起源を探し求めて来たが、結局そこにあったのは人口の密集による生存競争の開始ではなかったか。

 もっとも、当時はまだ生存競争という言葉はなかったのだろう。むしろ当時としてはホッブスの「万人の万人に対する闘争状態」という言葉の方がわかりやすかっただろう。その開始時期においては今日から見れば問題があるものの、結局いつでも人間についてまわるのは、食わがために争わなくてはならないということだ。

 

 「人間は自由なものとして生まれた、しかもいたるところで鎖につながれている。自分が他人の主人であると思っているようなものも、実はその人々以上に奴隷なのだ。どうしてこの変化が生じたのか?わたしは知らない。何がそれを正当なものとしうるのか?わたしはこの問題は解きうると信じる。」(『社会契約論』岩波文庫版P,15)

 

 イリング・フェッチャーはこの『社会契約論』の冒頭の一節がしばしば政治的スローガンと誤解されているが、支配されるものだけではなく支配者も鎖につながれてい、隷属状態がすべての人の運命である以上、革命によって解消されるようなものではない、と述べている。

 スイスの歴史家、ヴォルフガング・フォン・ヴァルトブルクもまた「ルソーの理論は矛盾に満ちている」ことを確認している。(『ルソー』、G・ホルムステン、1985、理想社、P138参照)しかし、この矛盾に対する答を、ルソーはおぼろげながら気付いていたに違いない。だからこそ自信をもって「解きうると信じる」と宣言したのだろう。

 この点については、むしろ『言語起源論』の方がはっきりしている。そこでは最初の自然人の人口の希薄さがはっきりと生存競争によるものであることを示している。

 

 「初めの頃、地表に散在していた人間たちには、家族のほかに社会はなく、自然のほかに法はなく、身ぶりと若干の未分化な音のほかに、言語はなかった。彼らは、共有されたいかなる友愛観念によっても結ばれていず、また力のほかにどんな調停者もいなかったので、たがいに相手を敵だと思っていた。そんなふうに思いこんでしまったのは、彼らの弱さと無知のせいであった。何も知らなかったので、彼らはすべてを恐れ、自分を守るために攻撃した。人類の運命のままに地上に独りほうりだされていた人間は、狂暴な動物であらざるをえなかったのだ。自分がやられることを恐れて、そんな危害のすべてを自分のほうから他人に加えようと身がまえていた。悪れと弱さは、残忍さの源である。」(『言語起源論』1986、白水社、P,163)

 

 分散の原因が排他性とテリトリーの防衛によるものだとすれば、今日の生物学でも納得のいく説明になる。大地は決して無限の実りを与えてくれるわけではない。それを食い尽くすことなく安定した生活を営むには、生き物は排他的であらねばならなかったのである。

 

 「この野蛮な時代は、黄金の世紀であった。人々が結び合わされていたからではなく、分離されていたからである。みんながそれぞれ、自分をすべてのものの主人だと思っていたと言われるかもしれない。それもそうだ。けれどもだれもが自分のそばにあるものしか知らなかったし、また望みもしなかったので、人々の欲求は自分を同胞に近づけるどころか、逆に遠ざけていた。人間たちは、出会えばたがいに攻撃しあったといってもよいが、出会うということがめったになかった。いたるところに戦争状態があったが、地上はどこも平和であった。」(『言語起源論』1986、白水社、P,165~166)

 

 自然人の平和は排他性と厳しい縄張り防衛の結果であり、それは人間以外の多くの野性動物の平和と一緒である。普通の動物はそこで生態系に拘束され、一定の生息域を越えて増えてゆくことができない。しかし、人間の知能は生態系の限界を突破した。人類はまたたく間に世界中に広まってしまった。そして、人間はこれ以上広がれなくなってしまったとき、都市国家を作り密集して生活する手段を発明した。

 『言語起源論』はルソーの死後に出版されたもので、ルソー自身の序文の下書きによるとこの『言語起源論』は『人間不平等起源論』を書く中で長くなりすぎて削除された断片だという。このため、この『言語起源論』がいつごろ書かれたのかは謎とされている。

 『人間不平等起源論』の草稿段階ですでに完成されていたものなのか、それとも後に大幅に書き足されたものなのか。

 スタロバンスキーはこの『人間不平等起源論』を、まだホッブズの影響を抜け切れない頃の初期の作品と考える。これとは逆に『人間不平等起源論』ではまだおぼろげだった不平等の本当の原因を、『言語起源論』になって掴み取った、と解釈することもできる。

 私としてはそうであって欲しい気もするが、現実は逆だろう。

 ルソーが歳とともに不平等起源の核心からそれて自然人を次第に美化してゆき、ノスタルジーに陥ってしまったというのが真相だろう。

 『言語起源論』では、自然状態の人間は家族を持ち、生殖の本能を持ち、テリトリーを守るために闘うという、いわゆる動物的な存在として捉えられていたが、『人間不平等起源論』ではそれらは否定され、自然人はこのような動物的な性質すら欠いたものとみなされている。

 前者よりは後者のほうが一般には思いつきにくい考え方で、『言語起源論』の発想のほうが古いものと思われる。

 大地はこんなに広いのに人は生きるためにほんの小さな片隅を守って相争っている。しかし、それは自然なのか。ならば解決の道はないのか。

 しかし、ルソーは結局この問題をいつも巧妙にすり替えている。それは結局すべて文明のせいだというのだ。「万物の創造者の手をはなれる時、すべては善である。人間の手ですべては悪くなる」(『エミール』の冒頭)そうではなく、生命は過剰になるや否や悪くなる、というべきではなかったか。

 とはいえ、だからといってルソーは文明を否定するところにユートピアを描くわけでもなかった。結局、「万人の万人に対する闘争状態」は現実として認めるしかない。そこから出発して結局は理性の力で社会契約に基づく民主国家を作るという所に落ち着く。

 つまり民主主義の根底というのは結構単純なもので、ただ現実の苦難を解決するには、結局我々がみんなで知恵を絞って、社会のルールを決め、それを守っていかなくてはならないということではなかったのか。

 ただ、現実の悲惨を自然のせいだとすると、自然の摂理だから仕方がない、というあきらめにつながりやすい。だからそれを人間の原罪として捉えることで、その罪の購いとして民主主義国家の建設を人間の責務として捉えようとしたのではなかったのではないのか。

 おそらくルソーの限界はここだろう。ルソーにとって不平等の起源は神話の域を出ることがなかった。しかし、ルソーもある真理の一端には気付いていた。

マルチン・ハイデッガー『ロゴス』解説

 この論文は、ヘラクレイトスの断片50と呼ばれるものについての解釈である。
 その断片50とは以下のものをいう。

 oὐκ ἐμοῦ ἀλλὰ τοῦ Λόγου ὰκούσαντας
 όμολογεῖν σοφόν ἐστιν Ἓν Πάντα.

 ハイデッガーが一般的なドイツ語訳として引用しているスネル訳の、宇都宮芳明訳の日本語では、

 

 おまえたちが、私にではなく、理義ジン〔ロゴス〕に聞いて、
 同じ理義〔ロゴス〕で、〈全ては一である〉と言うのが賢いことだ。
  (『ロゴス・モイラ・アレーテイア』マルティン・ハイデッガー、宇都宮芳明訳、1983、理想社p.6)

 

となる。
 ちなみに、訳編山本光雄の『初期ギリシア哲学者断片集』では、

 「私にではなくて、ロゴスに聞いて、万物が一つであるということを認めるのが、智というものだ。」(『初期ギリシア哲学者断片集』訳編山本光雄、1958、岩波書店、p.32)

となっている。出典はヒッポリュトス(169頃~235)の『全異教徒駁論』。

 たったこれだけの断片から、ギリシャ語の語源にまでさかのぼって、明示されていない細かいニュアンスまでも再現しようというのが、ハイデッガーのこの論文での試みだ。

1,ロゴス(λόγος)

 ハイデッガーはこう言う。

 

 「λόγοςがなんであるかを、われわれは、λέγεινから推測する。λέγεινとはなにか。言葉に通じている人はだれでも、λέγεινが言ったり述べたりすることを意味し、またλόγοςが言い表すこととしてのλέγεινと、言い表されたものとしてのλεγόμενονとを意味する、ということを知っている。
 ギリシャ語で古くからλέγεινが、述べる、言う、物語る、を意味していることを、だれが否定しようとするであろうか。」(『ロゴス・モイラ・アレーテイア』マルティン・ハイデッガー、宇都宮芳明訳、1983、理想社p.7~8)

 

 しかし、ハイデッガーはロゴスの動詞形のレゲイン(λέγειν)を、ドイツ語のlegen、つまり〈下に=そして前におくこと:nieder und vorlegen〉に結び付けて考える。ギリシャ語とドイツ語とでは系統がちがうのだが、この二つの語は単なる偶然の音の一致ではなく、ラテン語のレゲレ(legere)を経由して、結びついているものだという。
 ラテン語のレゲレ(legere)は、取りまとめる、取り集めるという意味で、そこからギリシャ語のレゲイン(λέγειν)も、本来は、自他を集約しながら下に、そして前におくことを意味すると、ハイデッガーは推測する。
 そして、その根拠として、レゲスタイλέγεσθαιが「安らぎのうちへと自分を下に置く(横になる)ことを意味し、それがλεχος(寝台)にも通じるとする。ハイデッガーによれば、レクソス(寝台)は隠れ場所であり、そこにあるものが取って置かれたり、そこから何かが狙われたりするという意味だという。
 そこから、レゲイン(λέγειν)の本来の意味として明らかにされるのは、まずそれは「置くこと」であり、現前するものを集積し、保存し、管理する、支配するということとなり、それが言葉で言い表すことの本当の意義だというのである。

 

 「λέγεινは置くことである。置くこととは、一緒に現前するものを自らのうちに収集して前に横たわらせることである。」(『ロゴス・モイラ・アレーテイア』マルティン・ハイデッガー、宇都宮芳明訳、1983、理想社p.12~13)

 

 これは存在論的には現前するものが現前することそのものであり、存在するものが存在するそのものだということになる。

 しかし、ここに一つの飛躍がないだろうか?つまり、現前するものが単に現前するのではなく、そこに、人が各自それを「集積し、保存し、管理する、支配する」という属性を付け加えていないだろうか。
 つまり、ハイデッガーの存在理解は、存在そのものを単にあるがままにというのではなく、それを各自集積し、保存し、管理し、支配しようとする、いわば欲望の下に存在していることになりはしないか。
 確かに、生物学的に、なぜ我々が存在を感じるように進化したか、存在の生き生きとしたクオリアは何のために知覚されるようになったのかを考えるとき、それが利己的な遺伝子の存続、つまり生存したり子孫を残したりするのに有用な情報を、集積し、保存し、管理し、支配するためには、その財産目録を目の前に一同の下に表示できる方が有利になる。
 つまり、我々が今見ている目の前に有るものは全て、生存し、子孫を残すことに有利になるような情報の一覧であり、そうでないものは表示されていない。たとえば赤外線や紫外線は、長いこと生存に無関係だったので、目には映らないし、超音波も聞こえなければ、地電流を感じることもない。
 しかし、一体どうすれば、入力された様々な情報を「同時的なもの」として、一つの「空間」として一覧表示することが可能なのであろうか。それがまさになぜ人が世界を意識できるのかという難問中の難問なのである。
 しかし一方で、こうした存在の取り置きが純粋な理性によるものでなく、あくまで肉体的な欲望に応じて進化してきたものだとしたら、そして、それを哲学の名において特権化するなら、いわば様々な建前やきれいごとの下に覆われてしまうなら‥‥。
 まさにそれが、(ハイデッガー自身も加担した)20世紀に起きた最大の悲劇ではなかったか。

2,聞く

 言うということが、存在するものを取り置くことであるなら、聞くということは必然的にそれを受け取り、共有することを言う。それは各自がそれぞれ自分用の存在者を取り置きするのではなく、他人の取り置き分を受入れる、つまり他人の取り置きを押し付けられそれを受入れ、服従することを言う。日本語でも「言うことを聞く」というのは服従するという意味だ。
 そのため、聞くというのは耳の快さとは無関係で、むしろ耳に痛いものとなる。

 

 「われわれが聴き知っているのは、語りかけられたものにわれわれが聴従するときである。語りかけられたものの語ることはλέγεινであり、一緒に前に横たわらせることである。」(『ロゴス・モイラ・アレーテイア』マルティン・ハイデッガー、宇都宮芳明訳、1983、理想社p.19)

 

 そこで、ヘラクレイトス断片50のόμολογεῖν(同じ理義で)につながる。

 

 「本来の聴くことは、όμολογεῖνとしてのλέγεινのうちで現成する。」(『ロゴス・モイラ・アレーテイア』マルティン・ハイデッガー、宇都宮芳明訳、1983、理想社p.19)

 

 たとえば、コイサン人(ブッシュマン)の社会では、しばしば複数の人間の同時発話が起こるという。人が何かを喋っているときに、同時にそれにかぶせて別の話題を喋っていても、特に誰もとがめることはないし、それで普通にスムーズに会話が進行するという。
 我々の社会でも、教壇の上で誰かが講義をしている前で、それぞれおしゃべりに興じるという状態があるが、それは一般的には失礼なこととされている。それはその場所で当然語るべき人というのがいて、それに対し、不特定多数の喋るべきではない人々と区別されているからである。つまり、そこに明らかに服従すべき人というのが存在するわけである。
 服従が義務でないなら、人は誰が喋っていようと自分も喋る権利があると思う。たとえば、街頭で一国の首相が演説していたとしても、動員された支持者でないなら拝聴する義務はない。お喋りしながら通りすぎても誰もとがめることはない。同じように、テレビやラジオが流れていて、そこで誰かが喋っていても、ほとんどの人は気にかけずにおしゃべりを続ける。
 つまり、同時発話は、聞く義務がなく、つまり話すものと聞くものとの間に服従関係が存在しない場合には、いつでも発生する可能性がある。コイサン人のような完全平等社会では、誰も他人の発話に関して黙って聞く義務というのは存在せず、自然に同時発話になる。
 そして、同時通訳を見ればわかるように、人間は聞きながら同時にしゃべるということもできる。だから、同時に喋っているからといって、必ずしも相手の話を聞いてないわけではない。我々がお喋りに興じながらも、テレビの音が耳に入っていることを考えれば、それほど不思議なことではない。

3,私にではなく

 しかし、ヘラクレイトスは、決して私の言うことを聴けとは言っていない。
 最初にはっきりとoὐκ ἐμοῦ(私にではなく)と断っている。
 真に聴くということは、われわれの目の前にある我々が共有する「取り置かれたもの」、つまりロゴス(λόγος)に聴くことであり、特定の個人の言うことを聴くことではない。
 これをハイデッガーは、人の耳に心地よい「決まり文句(ledensalt)」つまりことわざや格言の類ではなく、という点を強調する。
 確かにドイツ人は掟という言葉に弱く、決まりだからといわれると快く服従する国民性なのかもしれない。日本人にとってはむしろ、世間ではだとか、みんなそう言っているということに従いたがる、その種の心地よさをいうのだろう。
 しかし、ヘラクレイトスがoὐκ ἐμοῦ(私にではなく)と言うときは、そういう意味ではなく、凡そ人間の言うことは完全ではないから、という意味ではないのか。
 人のいうことを聴くのは、必ずしも心地よいことではない。掟でも世間の常識でも、それが自分のしようとしていることを拘束するなら、やはり不愉快だろう。

 

 「oὐκ ἐμοῦ ἀλλὰ‥‥おまえたちは、私に聞きつづける(見つづけるように)べきではない、そうではなくて‥‥死すべきものの聴くことは他のものに向かわなければならない。どこへであろうか。ἀλλὰ τοῦ Λόγου〔ロゴスへ〕。本来の聴くことのあり方は、λόγοςからして規定される。」(『ロゴス・モイラ・アレーテイア』マルティン・ハイデッガー、宇都宮芳明訳、1983、理想社p.21)

 

 本来的に聴くということは、誰かの言うことを聞くというのではない。本来的に聴くというのは、誰にとっても共通して目の前に置かれている同じ理義(όμολογεῖν)に聴き従う、という意味になる。

4,賢さ、あるいは知

 「では、本来の聴くことがόμολογεῖνとして生じると、なにが生じるのであろうか。ヘラクレイトスは言う、σοφόν ἐστινと。όμολογεῖνが生じると、そこで生起し、存在するのが、σοφόνである。」(『ロゴス・モイラ・アレーテイア』マルティン・ハイデッガー、宇都宮芳明訳、1983、理想社p.22)

 

 σοφόν(ソフォン)はソフィア(知)に通じる言葉で、σοφόν ἐστινというときは「賢い」という意味になる。
 ハイデッガーの解釈だと、このσοφόν(ソフォン)は単に、かつて誰かが言った知識を保持するということではなく、むしろ一つの振る舞いを意味するという。つまり、目の前に取り置かれたものに対し自らを適合させること、つまり職人芸のような熟達することを言う。『荘子』の包丁解牛のようなものを想像した方がいいのかもしれない。
 そして、その知の内容というのがἛν Πάντα(一即全)ということになる。
 ここでハイデッガーは引用している文章が、一般的にはἓν πάντα εἶναιで、それを独断で変更したことに触れる。

 

 「今日流布しているテキストでは、ἓν πάντα εἶναιとなっている。εἶναιは、ただ一つの伝承された読み方であるἓν πάντα εἰδέναιの修正であって、ひとはこれ〔修正以前の原文〕を〈全てが一であるのを知るのは賢い〉という意味で理解する。εἶναιとする校訂は、より適切ではある。だがわれわれは、この動詞を無視しよう。いかなる権利をもってであろうか。Ἓν Πάνταで十分だからである。たんに十分であるだけではない。それだけの方がここで思索された事柄に、したがってヘラクレイトス風の言い方に、はるかに即している。Ἓν Πάντα 一すなわち全、全すなわち一。」(『ロゴス・モイラ・アレーテイア』マルティン・ハイデッガー、宇都宮芳明訳、1983、理想社p.24)

 

 εἶναιは英語でいうbe動詞で、これを補うことで、一(へン)は全(パンタ)である、という文章になる。ハイデッガーは意図的にこの「である」を無視して、一は全と読ませようとする。これは三浦梅園の一即一一や西田幾多郎の一即多のようなニュアンスに近くなる。
 これは、デカルトの「我思う故に我あり(cogito ergo sum)」の言葉を、カントがergoは不要として「我思う我あり(cogito sum)としたのに似ている。
 こうした修正が権利を持つのは、基本的には「同じ体験」を持つという確信以外にない。たとえば誰かが「縞模様の馬」を見たといった場合に、それを「シマウマ」だと確信もって言い換えるとすれば、それは、「縞模様の馬」を見たときの状況やら何やらを考え合わせて、我々が知っているシマウマと同一のものだと確信できるからだ。少なくとも、誰かがいたずらで縞模様を書き込んだような馬ではないということが確信できる程度に。
 ここでハイデッガーが、ἓν πάντα εἶναι(すべては一である)という言葉を、Ἓν Πάντα(一即全)と言った方がよりヘラクレイトス的だと確信するのは、ハイデッガー自身がヘラクレイトスが見たものと同じものを見ていると確信しているからだ。
 つまり、言葉は微妙に違ってはいても、指し示されている内容は「同じ」なのである。おそらくヘラクレイトスとハイデッガーが見たものは、三浦梅園が「一即一一」と呼び、西田幾多郎が「一即多」と呼んだものとも「同じ」ある種の体験を指しているのであろう。そして、このことを確信もって言える私自身をも含めて。
 個人的に強度の差はあるとしても(もっとも比較のしようがないが)、ある種の境地というのは存在する。
 アンドリュー・ニューバーグ、ユージーン・ダギリ、ヴィンス・ローズ著の『脳はいかにして<神>を見るか』(2003、PHP研究所)によれば、瞑想によって深い宗教的境地に達した時、上頭頂葉後部の方向定位連合野の活動が低下し、前頭前野の注意連合野の活動は逆に増大するという。これによって、自己と外界との区別が曖昧になりながらも、強い集中力で外界に接している状態が生れる。これによって、自他不二の宇宙と一体化したような意識が生れるという。
 こうした状態は、瞑想によらなくても、偶然突発的に生じることがある。仏教では「頓悟」ともいうが、天啓に打たれたような状態といえよう。西田幾多郎の場合は、学生時代に金沢の街の雑踏にぼんやりと見とれているうちに、その人々の姿や仕草など、次第にそれが何かという通常の思考判断が停止し、日常的な習慣や偏見に囚われない、そのままの事実のみを見るようになり、やがて、その外界の事実と自分との境界が消えていったのであろう。
 我々の日常は、様々な習慣や記憶に照らし合わせながら、まわりの出来事を解釈し、そこに様々な快不快の感情を感じたり、行動を促したりする。しかし、外界の景色がこうした思考から遮断されると、何ら解釈されていない裸のままも世界がそこに出現する。そこには、過去の様々な不快な感情の想起が生じないため、目に映るものすべてが新鮮で輝いて見える。サングラスを外して真夏の昼の光をもろに見た時のようなものである。
 一度でもこうした体験を持つものなら、哲学者の文章を読んでいてそれらしい記述があれば、大体あの体験のことだというのがすぐに理解できる。
 ヘラクレイトスはもとより、ハイデッガーの森の明るみ(Lichtng)の比喩、西田の金沢の体験、三浦梅園の「天地に条理あり」の直観、パルメニデス、ソクラテス、プラトンもおそらくこうした体験をしていると思われる。
 こうした体験をしたとき、多くの人はそれを「神秘体験」だと錯覚する。そして、自分が神のような知を得たと信じ込み、ある者は大宗教家や大哲学者になり、ある者はいんちき宗教の教祖様となって刑罰を受け、ある者は誰からも相手にされないまま不遇な人生を送る。
 間違ってはいけない。これは脳の一つの状態にすぎない。しかし、いかに多くの人がこの体験から、物理的に証明できる知識より高次な知識があると確信し、それを自分自身の内省的な直観で得ることができると信じ、それによって世界を支配できるという妄想に取り憑かれてきたことか。
 ハイデッガーがナチス党入党のあとに行った、フライブルグ大学での学長就任演説のなかで、「ロゴスへの服従」を説いている。このロゴスが、この論文で言うような、一即全の体験を目の前に取り集め横たわらせることに他ならないなら、ハイデッガーも自らのこの「知」によって世界を支配できるという妄想に取り付かれた一人だったのだろう。ヒトラーすらも言いくるめることができると思うほどに。
 実は、こうした体験をしたにしても、ヘラクレイトスは違っていた。ヘラクレイトスはこの世界が基本的に争いだと考え、その勝利のむなしさを知っていたから、決して権力争いにかかわろうとはせず、子供相手にゲームをして生涯をすごした。
 このヘラクレイトスの達観を学ぼうとしなかったソクラテスは、結局死刑になった。

5,ふたたびロゴスについて

 ヘラクレイトスの断片50は、通常の解釈では、ロゴス(言葉)に尋ね、そのロゴスの意味を知り、「全てが一である」と思うのが賢いことだ、ということになる。
 これに対し、ハイデッガーはむしろ一即全(Ἓν Πάντα)という仕方で、ロゴスが現れるのだという。

 

 「ヘラクレイトスの言のうちで名ざされたἛν Πάνταは、Λόγοςがなんであるかに単純な眼くばせを与える。」(『ロゴス・モイラ・アレーテイア』マルティン・ハイデッガー、宇都宮芳明訳、1983、理想社p.27)

 

 つまり、ロゴスが、現前するものを集積し、保存し、管理する、支配するというレゲイン(λέγειν)から来たというのであれば、それは現前する全てのものを一つにすることそのものである、というのである。そうやって一所に集められたものがロゴスであり、それに聴き従うなら、全ては一つであり、一つは全てである、一即全、全即一ということになる。

 

 「λόγοςは、現前するものを現前することのうちへと出し置きフォルレーゲン、そのうちへと納め置くニーダーレーゲン、すなわち貯え置くツリュックレーゲン現=前アン・ヴェーゼンするとは、だが、隠れなきもののうちに出来して存続することを意味する。」(『ロゴス・モイラ・アレーテイア』マルティン・ハイデッガー、宇都宮芳明訳、1983、理想社p.27~28)

 

 ハイデッガーはあくまで存在を、自分の外にある存在そのものではなく、それを自分の目の前に取り集める我々の(つまり現存在の)行為のうちで解釈する。
 それ(現存在)をいわゆる生物学的な存在としての「人間」と区別することで、その「取り集める」という行為を、人間の遺伝的で身体的な性質と切り離し、何らかの超越的なものとして解釈する。
 これによって、ロゴスは、人間の生存と子孫繁栄の欲求によって行われていることを押し隠したまま、何か崇高な行為として特権化される。
 そして、このようなロゴスはアレーテイア(真理)と同一視される。

 

 「Ἀληθείηとλόγοςは、同じものである。」(『ロゴス・モイラ・アレーテイア』マルティン・ハイデッガー、宇都宮芳明訳、1983、理想社p.28)

 

 ある種の特殊な精神状態によって、自己が世界と一体化するのを感じ、全てが一になるのを感じたとしても、一体どうしてそれが真理そのものだといえるだろうか。
 言えるのは、それがその人にとっては絶対的な真理だというだけではないか。この宇宙が存在し、それを感じることができる、まぎれもなく自分はその中にあり、それを意識し、生きている。俺はここにいる。それは確かにその人にとっては絶対だ。
 しかし、それがどうして、他人を服従させるようなロゴスになりうるのだろうか。取り集め、保管し、管理し、支配しようとする欲求は、ここでこうして生きている一人の自分のものであるなら、そして、他の人も同じようにしていると確信できるなら、そこに生じるのは世界の奪い合いに他ならないのではないか。
 真理(アレーテイア)がもたらすのは、むしろ我々がそれぞれ皆平等だということであり、誰かの知が世界を支配することではない。それは争いしか生まない。
 それは決してヘラクレイトスの意図するところではなかったはずだ。
 ハイデッガーはここでアレーテイア(Ἀληθείη)をἈ-Λήθειη(隠れ=なさ)と解釈する。Λήθη(レーテー)は隠すことをいい、それに否定の接頭語をつけたのがἈληθείη(アレーテイア)だというのである。この解釈に特に問題はないだろう。しかし、それがなぜ取り寄せることに結びつくのだろうか。
 Ἀληθείη(アレーテイア)は文字通り、目の前にあるものが何ら覆われてない、そのままの状態にあることであり、恣意的に取り置かれたり保管されたりしない状態を表すのではなかったのか。
 ヘラクレイトスの断片2には、

 「それゆえ共通なものに従わなければならない。しかるにこのロゴスが共通なものとしてあるのだけれども、多くの人間どもはめいめい、あたかも自分に特別な見識があるかのように、生きている。」(『初期ギリシア哲学者断片集』訳編山本光雄、1958、岩波書店、p.32)

とある。なかなか耳の痛い言葉ではないか。ここでいうロゴスは、自らの現前に存在するものを取り置くことをいうのではなく、むしろ今日的な意味での「自然の法則」と解釈した方がわかりやすい。
 ロゴスは通常の意味では言葉のことをいい、多くの人は自分の体験だけでそれが真実だと決め付ける。そのため、言葉に言い表された、他人と共有できる、共通の知識に従おうとしない、と考えるのが自然なように思える。
 そして、アレーテイアは各自の取り置きではなく、対話や議論を通じて修正された共通の取り置きでなければならない。それは多くの人によって議論され、繰り返し検証された真理でなければならないのである。こうして維持されている法則こそが「ロゴス」と呼ばれるべきであり、それは今日の実証科学の精神にも合致する。
 ハイデッガーがロゴス=アレーテイアの根拠として引用している、断片112の「ἀληθείη λέγειν(アレーテイア・レゲイン)」は、むしろ目の前の何ら覆いなき世界の法則を明らかにしてという意味に取った方がよく、ハイデッガーのようにロゴス=アレーテイアに解釈すると、この言葉はトートロジーになってしまう。

6,雷光の閃き

 ひとたび、ハイデッガーがロゴス=アレーテイアを確定させると、次の帰結としてさらに、「ロゴス=一即全」を導き出す。

 

 「Ἓν Πάνταは、Λόγοςがなんであるかを言う。Λόγοςは、Ἓν Πάνταがいかに現成するかを言う。両者は、同じものである。」(『ロゴス・モイラ・アレーテイア』マルティン・ハイデッガー、宇都宮芳明訳、1983、理想社p.29)

 

 さっきは「Ἓν Πάνταは、Λόγοςがなんであるかに単純な眼くばせを与える」と言ったが、この単純さとは結局、Ἓν Πάντα=Λόγοςであるという意味での単純さだった。
 つまり、アレーテイア、ロゴス、一即全は全て同じなのである。同じ一つの体験を語るものであり、それはハイデッガー自身の体験であるとともに、何らかの形でヘラクレイトスも体験したものでなければならない。
 それをハイデッガーはヘラクレイトスの断片64に見出す。それは、「万物の舵を繰るは雷電。」(『初期ギリシア哲学者断片集』訳編山本光雄、1958、岩波書店、p.33)という一節だ。
 これをハイデッガーはこう解釈する。

 

 「ヘラクレイトスは言う(断片六四)、Τά δέ Πάντα οἰακίζει Κεραυνός.≪ところで、(現前するものの)全てを(現前することへと)舵を取るのは、雷光である。≫(『ロゴス・モイラ・アレーテイア』マルティン・ハイデッガー、宇都宮芳明訳、1983、理想社p.30)

 

 ギリシャ神話では雷光はゼウスの仕業であり、この断片は単純に読めば、「万物を導いているのはゼウス様だ」という意味になる。
 しかし、この万物が文字通りの森羅万象のことではなく、先にハイデッガーが言ったアレーテイア=ロゴス=一即全のことを指すのであれば、意味合いはずいぶんと変わってくる。
 つまり、ある種の忘我の体験は神の導きであり、さらには神とはその体験そのものだというふうに、「アレーテイア=ロゴス=一即全」にさらに「=神」と付け加えることになる。
 現前するもの全てを、現前することへと舵を取るのは、ゼウスの雷光である──これは、ハイデッガーが森の比喩として述べるところのLichtung(森の間伐地、明るみ)を、ヘラクレイトスも体験していたとする根拠となる。
 『存在と時間』第一部第一篇第五章第28節には、こうある。

 Die ontish bildlich Rede vom lumen naturale im Menschen meint nichts anderes als die existenzial-ontologishe Struktur dieses Seienden, daß es ist in der Weise, sein Da zu sein. Es ist »erleuchtet«, besagt: an ihm selbst als In-der-Weltsein gelichtet, nicht durch ein anderes Seiendes, sondern so, daß es selbst die Lichtung ist. ("Sein und Zeit"p.133)

 「人間の内なる自然の光という存在的で比喩的な言葉は、この存在者がそのありうべき現という仕方で存在しているという実存論的かつ存在論的構造のことにほかならない。それが「明るく」されているということは、この存在者自身が「この世にいる(世界内存在)」という形で木が伐りはらわれ、光が射し込んでいるということをいうのであり、それも他の存在者によってそうなっているのではなく、この存在者自身が森の空き地なのである、ということをいうのである。」

 一般的にはgelichtetは「明るくされ」と訳され、その次のLichtungは「明るみ」と訳されている。しかし、ドイツ語の辞書を引いてみればわかるとおり、lichtenは森の余分な木を間引くこと、間伐することを言い、Lichtungは間伐によってできた空き地のことをいう。
 それをハイデッガーは自然の光(lumen naturale)によって明るくされている(erleuchtet)というのがどういうことかを説明する文脈にこのlichten、Lichtungという単語を持ってくることで、森の木が伐り払われて光が射し込み、明るくなるという両方の意味をもたせているのである。つまりこれはこういうイメージだ。

 村はずれのなだらかな岡をゆくと、やがてそのむこうに森が見えてきた。背の高い針葉樹のそびえ立つ森で、下草はそれほど茂らず、歩くのに困難はない。
 やがて森の奥で、カーン、カーンという、かわいたかん高い音が聞こえてきた。音のするほうに行くと、そこにいたのは一人の老いた木こりだった。老人は斧を振り上げ、木を切り始めている。やがて、メリメリメリと音をたてて木が倒れると、そこから一条の太陽の光りが射し込んでくる。一本、また一本と木が切り倒されると、そのたびに光の条は太く確かなものとなり、やがて森の一角にぽっかりと光のあふれる場所ができる。
 やがて、この老人はこう語った。
 「どうだ、すばらしいだろう。光というのは。
 君たちは『ある』というのがどういうことかわかっているか?この世界のありとあらゆるものがこうしてあるのは、『ある』ということを受け入れる場所があるからだ。『ある』というのは真っ暗な虚無の世界の中にさし込む光のようなものだ。この光があって、世界中ありとあらゆるものがそこに現れる。ただ、注意しなくてはならない。この光がさし込んで来るには、光がさし込んでくる場所が開かれてなければならない。森の木を切り払えば、そこに光がさすように、我々人間というのは、そうした光のさし込んでくる、開かれた場所)なのだ。」

 ハイデッガーはヘラクレイトスがただ単に「雷光」と言った言葉を、即座にこの森に射し込む「光」のことだと判断したのだろう。
 なるほど、雷もまた、天から鋭い光が射し込み、あたりを照らし出す。黒い雲が低く垂れ込め、大地が闇につつまれる中で、光によって世界の姿が目の前に映し出される。それは木が切り倒されて光が射し込むイメージに似てなくはない。
 しかし、ヘラクレイトスの雷光は、神によるものであることがほのめかされている。そして、ハイデッガーが一番重視するところだが、光のまばゆさだけに眼を奪われ、光の射し込んでくる場所が開かれてなくては、光もないということを忘れがちだということだ。
 たとえば、プラトンの「洞窟の比喩」にしても、洞窟の外のイデアの光にばかり気をとられて、やはりその光が可能な場所の存在を忘れていると指摘している。

 

 「いまやわれわれは、ΛόγοςとἛν ΠάνταとΖεῦςとを一緒にし、しかもヘラクレイトスは汎神論を教えると主張してもよいであろうか。ヘラクレイトスは、汎神論を教えはしないし、そもそも教説なるものを教えはしない。思索する者として、彼はただ思索することだけを与えるのである。」(『ロゴス・モイラ・アレーテイア』マルティン・ハイデッガー、宇都宮芳明訳、1983、理想社p.31)

 

 ここで気をつけなくてはいけないのは、ハイデッガーが「汎神論を教えはしない」と言うのは、決して唯物論を教えているという意味ではないことだ。
 ハイデッガー自身はカトリックであり、もちろんギリシャの神々を信仰する立場にはないし、その教説を広める立場にはない。それだけなのである。
 だから、ロゴス=アレーテイア=一即全=神という考え方そのものを否定しているわけではない。むしろ、ロゴス=アレーテイア=一即全のうちに神の神たる本質、神性があると考えた上で、それを「神」という一介の存在者に貶めることこそが、存在忘却と呼ばれるものなのである。
 しかし、このことは基本的に現存在の開示性のうちに、すでに神性があるということであり、神は自分の外にある存在者ではなく、自分自身の内にあることを言っているにほかならない。
 神は人の心の中にあるという説自体は、それほど害のある説ではない。少なくとも自分だけの中にと言わないかぎりは。問題はロゴスである。
 キリスト教の聖書では、確かに「言葉は神なりき」というが、我々がそれぞれ目の前にある集められ取り置かれたこの世界を言葉に言い表すにしても、そこには決して絶対的な言葉はない。
 同様に、科学の法則もまた絶えざる検証によって維持されている仮説の体系であり、絶対ではない。哲学の命題にしても、必ずそれと矛盾する命題が可能であり、カントのアンチノミーを引き合いに出すまでもなく、すでにパルメニデスやゼノンの時代にこのことは知られていた。そして、それが弁論術と弁証法の起源となった。
 そうなると、絶対的な言葉とは、音声や文字によって存在するものではなく、あくまで存在の「声なき声」でなければならない。『存在と時間』では「良心の声」と呼ばれたこの「存在の声なき声」こそが、ハイデッガー哲学のもっとも重要でありながら、かつ、わかりにくいものといえよう。
 そのとらえどころのなさが、いつでも安易なナショナリズムのスローガンに入れ替わってしまう危険があった。「ロゴスへの服従」─それはあのフライブルク大学の学長就任演説『ドイツ 大学の自己主張』で「国家への服従」と結び付けられていた。
 存在の声が、実際は「人間」の声であり、目の前に存在者を取り置き保管し、財産目録を作るための遺伝子の声だとしたら、それが結局は生存と種保存の欲求に基づく肉体の声に解消され、その絶対性は否定される。
 そのため、ハイデッガーは、この声を特定の存在者に解消する全ての試みを退け、存在者と存在そのものとの根源的差異の下にその純粋性を保たなくてはならなかった。そのため、この声は「人間」という存在者の身体から来るものではなかったし、今の時代に生きていたなら当然「遺伝子の声」という描象も退けたであろう。
 それと同様、ハイデッガーはもう一方で、この声を「神」という存在者に結びつけることも退けなくてはならなかった。存在はゼウスの稲妻の一撃ではなく、あくまでその一撃を迎える真っ暗な、それでいてかすかに明るい空間の中にあるからだ。

7,存在忘却

 ヘラクレイトスがΛόγος(ロゴス)とἛν Πάντα(ヘン・パンタ=一即全)とΖεῦς(ゼウス)を一緒にしたかどうかについて、ハイデッガーはヘラクレイトス断片32の微妙な言い回しを参照する。

 

 Ἓν τὸ Σοφὸν μοῦνον λέγεσθαι οὐκ ἐθέλει
 καὶ ἐθέλει Ζηνὸς ὄνομα.
 ≪一なるもの、ひとり知あるものは、欲しないし、
 それでも欲する、ゼウスの名で名づけられることを。≫(『ロゴス・モイラ・アレーテイア』マルティン・ハイデッガー、宇都宮芳明訳、1983、理想社p.31)

 

 ちなみに、この断片32は、訳編山本光雄の『初期ギリシア哲学者断片集』では、

 「一つのもの、ひとりそれのみが智であるもの、それはゼウスの名を以て呼ばれることを望みもしないし、望みもする」(『初期ギリシア哲学者断片集』訳編山本光雄、1958、岩波書店、p.34)

となっている。出典はクレメンス(150頃~211)の『雑録』。
 ハイデッガーはまず、ἐθέλειを通常の訳の「欲する」ではなく、自分から‥‥の準備を整えている、自分自身に何かを許し認める、という意味に読み替えることを主張する。
 そこから、まず最初の「欲しない」は、一なるものとして現前するもの、アレーテイア、ロゴスをゼウスという一現前者(存在者)として自ら現前することを許しているわけではない、と読む。
 そして、次のκαὶ ἐθέλει(それでも欲する)は、それがロゴスとして、一つの存在者の名指しとしてではなく、あくまで一なるものが全てであるという仕方で自らを現すことを許すと解釈する。
 ゼウスは、一即全の、この目の前に取り寄せられた世界の「開示性」であり、それは暗闇を照らす一瞬の閃光によって導かれ、明らかにされるという意味で、ゼウスの名で呼ばれうる。
 さて、最初にロゴスを単なる言う(λέγειν)ではなく、むしろドイツ語のlegen(下に=そして前におくこと:nieder und vorlegen)として区別したように、ここで死すべきもの(現存在)の言語活動はロゴスそのものとは区別される。人間の言語活動は、ただロゴスを語るのに向いている、適しているにすぎず、ロゴスそのものではない。
 向いている、適している、性に合う、つまりドイツ語のeignenをハイデッガーは独自の仕方で、eigen(自分自身の、特有の)と結び付けて用いる。つまり、eigentlich(本来的)というときには、自分自身が本来所有している、得意とするものという意味を持つ。
 ロゴスは自分自身が所有している適性によって向かうところの、一つの事件(ereignis)であり、すでに語られた科学や形而上学の命題のことではない。ロゴスは語られたものではなく、語ろうとするものだといった方がいいのだろう。
 存在の意味が『存在と時間』のなかでerfragtes(問い求められているもの)だったように、ロゴスは言う(λέγειν)ことによって求められるer-eignis(適合が求められる=事件)なのである。
 ここでいうアレーテイアやロゴスやヘン・パンタ(一即全)が、いかなる存在者としても語りえぬものであるなら、神としてでも人間としてでも語りえないものであるなら、それは何なのか。それは「ある」という一番最初の感覚に他ならない。
 それが、「現存在」というハイデッガーが生み出した特異な存在者からも語りえないのであれば、『存在と時間』の放棄は必然的なものだった。存在を、どのような意味であれ存在者の一つとして議論することは、「存在忘却」として完全に放棄されたのである。

8,存在の小径

 「ある」という感覚を、我々は保持することはできる。しかし、それはいかなる存在者としても名指すことはできない。我々は「何がある」だとか「いかにある」だとかいうことは言える。それが「事物としてある」だとか「道具としてある」だとか「人間としてある」ということも言うことができる。しかし、それは「ある」をいろいろと恣意的に分類して見せただけで、そもそも「ある」とは何なのかという問いに答えているわけではない。
 ハイデッガーは言う。

 

 「いずれにせよ、小径は、ほかならぬギリシャ初期の思索が後に来るものたちのために拓いたもろもろの途によって、差し当たっては見失われ、謎めかされたままになっている。」(『ロゴス・モイラ・アレーテイア』マルティン・ハイデッガー、宇都宮芳明訳、1983、理想社p.36)

 

 そして、最終的にヘラクレイトスの断片50を、こう翻訳する。

 

 「私に、死すべき語り手に、聞きつづけてはならない。だがおまえたちは、集め置きには傾聴的であれ。おまえたちがはじめて集め置きに聴従するとき、おまえたちはそれでもって本来的に聴くのである。こうした聴くことが存在するのは、一緒に前に横たわらせることが生じる限りにおいてであり、このことには総括が、すなわち集中しつつ横たわらせることが、集め置きが、先行している。前に横たわらせることの、横たわらせることが生じるとき、適合的なことが生起する。なぜなら、本来的に適合的なものが、送り定めのみが、存在するからである。唯一で一なるものは、一にしつつ全である。」(『ロゴス・モイラ・アレーテイア』マルティン・ハイデッガー、宇都宮芳明訳、1983、理想社p.36~37)

 

 果たしてこれがヘラクレイトスの言わんとすることだったのかどうかは、何ともいえない。これは解釈の一つの可能性であり、もっと平たく言えば単なる「深読み」なのかもしれない。
 「ある」とは何なのか、なぜ我々は今「ある」と感じているのだろうか、そもそもこの「ある」と感じていることに何の意味があるのだろうか。
 古来人類はこの問いに、様々な仮説を提起してきた。神を持ち出すものもいれば、人間とは何かを問うものもいた。これをクオリアの問題として、脳科学のなかで問い続けることも可能だろうし、さらにはそれを人間の脳がいかに進化したかや、脳内でどんな物理現象が生じているのか、問うこともできる。
 存在を「存在者」の側から問うというのは、仮説を立てることに他ならない。だから、答は絶対ではない。
 ハイデッガーは哲学者にふさわしく、全ての仮説を退けて、直接「絶対」を問おうとした。そこから、存在を存在者の側から問う試みを、自らの現存在分析の試みをも含めて、すべてを「存在忘却」の名のもとにことごとく退けていったときに、一体何が残ったのだろうか。
 存在はある。しかし、存在者として語ることはできない。その先に何があるのだろうか。
 強いて言えば、われわれはまだ存在そのものを知ってはいない、謙虚になれ、という一つの戒めだろうか。
 ハイデッガーは最後に、ヘラクレイトスの断片43を引用する。

 

 Ὕβριν χρὴ σβεννύναι μᾶλλον ἢ πυρκαϊήν.
 ≪思いあがり〔量りそこない〕は、火事よりも先に消す必要がある。≫  (『ロゴス・モイラ・アレーテイア』マルティン・ハイデッガー、宇都宮芳明訳、1983、理想社p.37)

 

 この言葉は、いかに定説になっているようなものでも、それは仮説にすぎず、存在そのものの真理を言い表すものではないということを自覚し、既存の説に拘束されず、自由な発想で未来を切り開けという、そういう意味に解しておくのがいいだろう。
 ハイデッガーの言葉だと、こうなる。

 

 「この謎は昔から≪存在≫という語でわれわれにささやきかけている。それゆえ、≪存在≫は、ただ先触れの語にとどまっている。われわれは、我々の思索がこの語にただ盲目的に追従することのないように用心しよう。われわれは、≪存在≫が、始源的には≪現前≫を意味し、≪現前≫とは隠れなさのうちへと現われ出て存続することを意味するということを、まずもって熟考しよう。(『ロゴス・モイラ・アレーテイア』マルティン・ハイデッガー、宇都宮芳明訳、1983、理想社p.43)