「鶯に」の巻、解説

元禄七年二月二十三日(『となみ山』)

初表

 鶯に朝日さす也竹閣子       浪化

   礼者うすらぐ春の静さ    去来

 やぶ入のみやげ似合にこしらへて  去来

   又時の間にわるうなる空   浪化

 火燵切寒もちかしくれの月     浪化

   ひろい處を丸口にかる    去来

 

初裏

 旅人に銭をかはるる田舎道     去来

   かひこの臭き六月の末    浪化

 雫たる網を一ぱい引ちらし     浪化

   小屋敷並ぶ城の裏町     去来

 謂分のちょっちょっと起る衆道事  去来

   梅咲そめて立花はやらす   浪化

 年中を松の内より料理ぐひ     浪化

   いせの状日のいそがしき春  去来

 上紺の木綿合羽に傘さして     去来

   湯屋の手透は八つさがり也  浪化

 名月のもやう互にかくしあひ    浪化

   一阝でもなき梨子の切物   芭蕉

 

 

二表

 玉味噌の信濃にかかる秋の風    芭蕉

   不足な寺を無理に持する   去来

 右の手の振ひしだひに強ふなり   去来

   点かけてやる相役の文    浪化

 此宿をわめいて通る鮎の鮓     浪化

   青田うねりて夕立のかぜ   芭蕉

 平めなる石を敷たる行水場     芭蕉

   給仕をさせて馬夫が食喰   去来

 月くらき夜の塩梅を星で見る    去来

   聖霊棚はよほど窮屈     浪化

 しのぶ間を踊に出るとおもはせて  浪化

   来てうからかす去年の傍輩  去来

 

二裏

 参宮といへば盗もゆるしけり    浪化

   にっと朝日に迎ふよこ雲   芭蕉

 蒼みたる松より花の咲こぼれ    去来

   四五人とほる僧長閑なり   浪化

 薪過町の子供の稽古能       芭蕉

   いつつも春にしたきよの中  去来

      参考;『校本 芭蕉全集 第五巻』1988、富士見書房

初表

発句

 

 鶯に朝日さす也竹閣子  浪化

 

 この歌仙の成立には諸説あり、最初に浪化と去来で巻いた半歌仙(十八句)を、京都にやってきた芭蕉に見せ、歌仙(三十六句)として完成させたものといわれている。発句や脇の季節からすると、最初の半歌仙は一月の中頃に作られたのだろう。半歌仙にしては十七句しかなく、十八句目に芭蕉の句が入っているのは、おそらくは最初ここに別の挙句があって、歌仙にする際、この挙句を後に続けるための句に芭蕉が作り直すところからはじめたからではないかと思われる。

  歌仙の日付は『一葉集』には二月二十三日になっているが、芭蕉はこのときはまだ江戸にいる。五月十一日になって、芭蕉は西へと向う最後の旅に出て、去来の落柿舎を訪れるのは、その一ヶ月十日後の閏五月二十二日のこと。となると、これは五月二十三日の間違いか。発句はまだ正月気分の漂う鶯の目出度い句となっているから、二月二十三日は、最初の去来・浪化の両吟半歌仙が作られた日付にしては遅すぎる。浪化が発句を読んでいるところから、場所はおそらく去来の落柿舎だろう。ゲストが発句を詠み、ホストが脇を付けるのが普通だからだ。春を告げる鶯の目出度さに、朝日は初日の出の面影があり、竹格子は落柿舎の風流なたたずまいを表す。基本的には落柿舎での歳旦の発句といっていいだろう。

 浪化は最初貞門の大御所で古典研究者でもあった北村季吟の門人だったが、この頃去来と交流を持ち、入門したばかりだったと思われる。

 

「鶯」は春。鳥類。「朝日」は天象(中世連歌でいう「光物」に相当する)。「竹閣子」は居所。

 

    鶯に朝日さす也竹閣子

  礼者うすらぐ春の静(しづけ)さ  去来

 (鶯に朝日さす也竹閣子礼者うすらぐ春の静さ

 

 浪化の発句が歳旦の挨拶句なのに対し、去来はそれに、礼者(年始回りする人)もそろそろ少なくなってきて、静かになったと答える。このことから、浪化はやや遅ればせながら、この落柿舎に年始にやってきたのだろう。とはいえ、昔は一月の事を正月と呼び、三が日や松の内だけでなく、そのあと小正月も控えており、一月の一ヶ月間はまだ正月ムードだった。その上、交通機関が今のように発達していないから、年始回りも三が日だけではなかった。

  礼者も少なくなったとはいえ、誰も来ないわけではない。去来からすれば、「今日はこうして浪化さんが尋ねてきてくれたし、二人だけのささやかな俳諧興行となって、たまにはこういう静かなのもいいものです。」というところで、浪化への挨拶にしている。

  なお、この巻には浪化・去来・酒堂(しゃどう)の三吟になっている異稿があり、ここでは日付の二月二十三日に合わせたか、

 

    鶯に朝日さす也竹閣子

  雛の道具を取出とりいだス春

 

の脇が付けられている。歳旦の発句にかなり無理のある脇を付けている。

 

「春」は春。「礼者」は人倫。

 

第三

   礼者うすらぐ春の静さ

 やぶ入のみやげ似合にこしらへて   去来

 (やぶ入のみやげ似合にこしらへて礼者うすらぐ春の静さ

 

 「薮入り」は丁稚奉公などの奉公人が、年に二回実家に帰ることを許された日で、一月と七月の十六日がその日となっている。この習慣は、現代では盆と正月の帰省の習慣に引き継がれている。明治に入り、旧暦で行事を行なうことが禁止されると、薮入りの習慣は廃れ、一月の帰省は新暦の正月に、七月の帰省はお盆に行うようになっていった。だが、旧暦と新暦で一ヶ月もずれるため、お盆に関しては七月のまだ梅雨も明けない時期を嫌い、本来の季節感をずらしたくないという理由で八月十五日に行なわれるようになった。これを旧盆と呼ぶ人もいるが、旧暦の使用は原則禁止であるため、旧暦の七月十五日をお盆とすることは出来ず、妥協策として新暦の八月十五日がお盆となったのである。

  薮入りは主に町に働きに出た人間が田舎に帰るため、都会の土産を持って帰省するのは、今の盆や正月と変わらない。見栄を張って高いものを持っていって、自分はこんなに都会では偉くなったんだぞという人もいるが、去来の句は、あくまで分相応(自分にお似合いの)土産を持ってゆく。土産の準備はちょうど年始回りの人も少なくなる頃だった。

 

「薮入り」は春か秋だが、ここでは春。

 

四句目

   やぶ入のみやげ似合にこしらへて

 又時の間にわるうなる空   浪化

 

 (やぶ入いりのみやげ似合にあひにこしらへて又時またときの間まにわるうなる空そら)

 

 「又時またときの間まに」は瞬く間にということ。せっかく薮入りで、土産までそろえたのに、あいにくの悪天候とは。打越の春の静けさに対して、趣向を変えようと悪天候にしたのか。しかし、天候の話題から離れられないところでは、がらっと雰囲気を変える句ではない。

 

無季。

 

五句目

   又時の間にわるうなる空

  火燵切寒(こたつきるさむさ)もちかしくれの月  浪化

 (火燵切寒もちかしくれの月又時の間にわるうなる空)

 

 「火燵切」というのは、掘りゴタツを作るために床を切ることで、夜の寒い季節となり、新たにコタツを作ると、夕暮の空に冬の月が出ていた。だが、瞬く間に雲行きが怪しくなってきた。一時雨来そうだ。前句の急に悪くなる天候を時雨のこととした付け。俳味は少ないが、こうした穏やかで情感のこもった心付けが浪化の持ち味か。

 

「火燵」は冬。この場合は掘り炬燵で、住居に固定されているから居所か。「寒さ」も冬。「月」は天象、夜分。発句の「朝日」から三句隔てている。

 

六句目

    火燵切寒もちかしくれの月

  ひろい處を丸口にかる   去来

 (火燵切寒もちかしくれの月ひろい處を丸口にかる

 

 「丸口」は丸ごとということ。「かる」は借りることで、広い家を丸ごと借りたためか、部屋が暖まらないので新しく火燵を作ることにした。こうした、情を突き放した付けが、蕉門の持ち味でもある。浪化の前句と好対照をなす。

 

無季。

初裏

七句目

   ひろい處を丸口にかる

 旅人に銭をかはるる田舎道    去来

 (旅人に銭をかはるる田舎道ひろい處を丸口にかる

 

 前句の「広いところ」を小判のこととし、「丸口」を丸い形に口の形(四角形)の穴の開いた銭のこととする。判じ物のような取り成しだ。つまり両替をしたわけで、ただの両替屋の場面では面白くないから、旅人から道端で両替を求められた場面とする。「かはるる」は「替はるる」ということ。浪化を相手に、これが蕉門の付けだ、というところか。

 

無季。「旅人」は羇旅。人倫。「ひろい處」も「田舎道」もうまく居所を遁れている。

 

八句目

   旅人に銭をかはるる田舎道

  かひこの臭き六月の末   浪化

 (旅人に銭をかはるる田舎道かひこの臭き六月の末)

 

 去来の挑発には乗らず、浪化はあくまで自分のペースで付ける。前句をあくまで田舎の景色として、時候を付ける。ただ、「蚕の匂い」というところにやや俳味がある。

 

「六月」は夏。「かひこ」は虫類。

 

九句目

   かひこの臭き六月の末

  雫たる網を一ぱい引ちらし   浪化

 (雫たる網を一ぱい引ちらしかひこの臭き六月の末

 

 前句は単に時期を表すだけの句だから、六月にありそうなことであれば何でも付けられる。そして、漁村の話にして、女は蚕を飼い、男は漁に出るものとする。「雫たる」というところに、いかにも今海から引き上げたばかりの網という感じがし、こうした描写の巧みさは、ある意味では近代俳句に近いかもしれない。

 

無季。「雫」は水辺。

 

十句目

   雫たる網を一ぱい引ちらし

 小屋敷並ぶ城の裏町   去来

 (雫たる網を一ぱい引ちらし小屋敷並ぶ城の裏町

 

 「小屋敷」というのは、江戸では旗本、御家人クラスの屋敷のことだが、地方の城下町では下級武士の屋敷のこと。副業として漁網の修理などをやっていたようだ。

 

無季。「小屋敷」「裏町」は居所。

 

十一句目

   小屋敷並ぶ城の裏町

  謂分(いひぶん)のちょっちょっと起る衆道事  去来

 (謂分のちょっちょっと起る衆道事小屋敷並ぶ城の裏町)

 

 「衆道」というのはホモのことで、武士やお坊さんなど、女性との接触を制限されている階級の人の間では、半ば公認されていた。とはいえ、本当のホモセクシュアルな人が早々たくさんいるわけではなく、たいていは若い時の一時的な性欲の処理のため、女性の代用を求めているというところが多く、ある程度の年齢になれば卒業してゆくものだった。下級武士の住む町に衆道を持ち出し、恋に転じ、情のもつれで起るいさかいを「ちょちょっと」と軽い言葉で流すあたりは、いかにも型どおりの展開という感じがしなくもない。

  どうもこのあたり、去来らしさが出ていない。浪化が自分のペースで、当時の蕉門の流行とは違うが、地味ながら好句を連発しているのに対し、去来は何かこれが今流行の蕉門の付けだという気負いがあるのか、技巧だけが先走っている。衆道ネタは師である芭蕉の得意とするところだが、芭蕉の物真似で終ってしまっている。何か情が乗っていない。

 

無季。「衆道」は恋。

 

十二句目

   謂分のちょっちょっと起る衆道事

  梅咲そめて立花はやらす   浪化

 (謂分のちょっちょっと起る衆道事梅咲そめて立花はやらす

 

 去来が技に溺れて、一人相撲になっているのを見て取ったか、この句で浪化は一気に攻勢に出る。華道は本来は男のもので、中でも立花は木の枝と花と下の草を組み合わせることで、今で言えば自然の生態系を表現する高度なものだ。単に美しさを追求するのではなく、自然の仕組みにまで親しまねばならない、奥の深いもので、池坊家によって江戸時代初期に一つの頂点を作った。衆道でいさかいを起こす武家の若い男達もまた、こうした立花の流行の担い手だった。

  しかし、この句が勝負句なのはそれだけではない。「立花」は花そのものの本質にかかわるもので、桜ではなくても正花の資格を持っている。連歌では「似せ物の花」と呼ばれる、比喩としての花が一巻に一句、花の定座に用いることが許されていたが、江戸時代の俳諧では、花火、花婿なども正花として花の定座に用いられた。通常、花の定座は十七句目だが、これは規則ではなくあくまで習慣であり、とくに両吟などの場合はあまり会のしきたりに囚われず、柔軟に扱ってもよかった。まして、ここでは浪化は客人である。だから、十二句目というかなり早い時期に花を出しても、違反ではないし、マナー違反というわけでもない。ただ、挑戦的ではある。

 

「梅」は春。木類。

 

十三句目

   梅咲そめて立花はやらす

 年中を松の内より料理ぐひ   浪化

 (年中を松の内より料理ぐひ梅咲そめて立花はやらす

 

 立花の一年が梅に始まるように、食道楽にとっては、正月からご馳走初めで、それが一年中続いてゆく。

 

「松の内」は春。「松」の字はあるが、木そのものを表すのではないため、植物・木類ではない。

 

十四句目

   年中を松の内より料理ぐひ

 いせの状日(じゃうび)のいそがしき春  去来

 (年中を松の内より料理ぐひいせの状日のいそがしき春

 

 この年(元禄七年)の芭蕉の歳旦発句に、

 

  蓬莢(ほうらい)に聞かばやいせの初だより   芭蕉

 

というのがある。それをそのまま使ったのだろう。「状日(じゃうび)」は飛脚便の着く日で、伊勢からの便りといえば、お伊勢参りを口実にまた旅が出来る。道祖神の招きに血は騒ぎ、松の内の料理食いも早々に旅支度。しかし、これも芭蕉の句であって去来の句ではない。

 

「春」は春。「伊勢」は名所、神祇。

 

十五句目

   いせの状日のいそがしき春

  上紺(じゃうこん)の木綿合羽に傘さして   去来

 (上紺の木綿合羽に傘さしていせの状日のいそがしき春)

 

 合羽はスペイン人やポルトガル人が着ていた外套を模したもので、最初は身分の高い人のものだったが、元禄時代になると、綿花が国内で生産されるようになったことで、高価だった木綿の合羽も次第に庶民の手の届くものになってきた。やがては紙に桐油を塗った合羽が普及し、大衆化した。紺の合羽は飛脚の着るもので、ここでは伊勢の便りを運んできた飛脚の姿を描写し、飛脚も大忙しとした。

 

無季。「合羽」「傘」は衣装。

 

十六句目

   上紺の木綿合羽に傘さして

 湯屋の手透(てすき)は八さがり也  浪化

 

 (上紺の木綿合羽に傘さして湯屋の手透は八さがり也

 

 庶民のものとなったとはいえ、まだ高級な木綿合羽。湯屋は湯屋株を持つ者だけの独占事業で、羽振りが良かったのだろう。ただ、遊びに行くにしても、朝夕は稼ぎ時で、「八やつさがり」、つまり午後二時も過ぎるとようやく暇になる。

 

無季。「湯屋」は居所。

 

十七句目

   湯屋の手透は八さがり也

  名月のもやう互(たがひ)にかくしあひ  浪化

 (名月のもやう互にかくしあひ湯屋の手透は八さがり也

 

 「もやう」は模様のことで、「模」というのは木で作った鋳型からきていて、「型」やそれに則ることを言う。模様というのは、その「さま」のことで、今日の模様の意味だけだなく、かつては「模範」だとか、予定している型、つまり計画の意味もあった。お風呂屋さんも今晩の名月の余興にと、何かたくらんでいるのだろう。二時ごろにこっそりとその用意をしている。前句の「八やつさがり(二時過ぎ)」から、強引に月の定座に持っていった。本来十七句目は花の定座だが、花が十二句目という早い位置に出たため、月の定座に振り変わることになった。

 

「名月」は秋。この場合は夜に出る月の意味で、別に午後二時に月が見えるというわけではないので、夜分となる。天象。

 

十八句目

   名月のもやう互にかくしあひ

 一阝(いちぶ)でもなき梨子(なし)の切物(きれもの) 芭蕉

 (名月のもやう互にかくしあひ一阝でもなき梨子の切物

 

 ここで急に芭蕉が登場する。おそらく、本来ここには去来の詠んだ挙句があって、半歌仙として完結していたのだろう。ただ、去来としては不本意な一巻だったに違いない。そこで、おそらくは閏五月二十三日、芭蕉が落柿舎にやってきた折、浪化を直接芭蕉に引き合わせ、本物の蕉風を直々に教えていただこうというところだったのだろう。

  芭蕉のこの句は、去来がしくじったリベンジの意味もあり、最初からいきなり鋭い取り成しを見せる。

  前句をまず「名月の模様」と「互にかくしあひ」を切り離し、名月で梨が売れることを見越した商人たちの策略(模様)で、梨を互いに隠しあって値段を釣り上げているとし、梨はどこへ行っても品切れ(切物きれもの)で、一分金(四分の一両)出しても買えない、と付けている。実際にこんな事件があったのかどうかは知らないが、値上がりが見込まれるときにわざと市場に商品を出さずに隠してしまい、値上がりを待ってから市場に流すというのは、いつの世でもどこの国でもありそうなこと。オイルショックのときのトイレットペーパー騒動や米が不作の時の米価の異常な高騰は、記憶に新しい。

  今日の相場用語で「模様眺め」という言葉があるのは、「模様」のこの古い用法の名残だろう。

  芭蕉のこのリアルな付けにくらべれば、去来の七句目の、

 

   ひろい處を丸口にかる

 旅人に銭をかはるる田舎道    去来

 

は単なる判じ物の遊びにすぎない。これで浪化に、役者の違いを見せ付けることが出来ただろう。

 

「梨子」は秋。ここでは食物なので「植物」ではない。

二表

十九句目

   一阝でもなき梨子の切物

 玉味噌の信濃にかかる秋の風   芭蕉

 (玉味噌の信濃にかかる秋の風一阝でもなき梨子の切物)

 

 信州というと今はリンゴの産地だが、これは明治になってからのこと。信州では梨も栽培されているが、芭蕉の時代にまだあまり盛んでなかったのか。信州の山の中では品薄で、一分金でも買えない、と付く。それを「信濃の秋の風」と軽く気候の言葉に流し、その信濃に枕詞のように「玉味噌の信濃」と冠す。「かかる」が「味噌のかかる」と、「かくある秋の風」と掛詞になっているところも芸が細かい。こうした高度な技法の駆使による面白さが、実は蕉門俳諧の特徴でもあった。古典技法を否定し写生を説く近代俳人からすれば、蕉門連句を何が何でも無視したかった理由がわかる。むしろ、蕉門入門前の浪化の、

 

    かひこの臭き六月の末

 雫たる網を一ぱい引きちらし   浪化

 

のような句が蕉門らしい蕉門の句であって欲しかっただろう。

 なお、この「鶯に」の巻には浪化・去来・酒堂(しゃどう)の三吟の形を取る異稿があり、おそらく蕉門らしくない前半部分を酒堂の協力を得ながら作り直したものだろう。そこではこの句は、

 

    かひこの臭き六月の末

 つかみたる鮒と鯰をうちあけて   酒堂

 

となっている。これだと蚕の臭さに魚の臭さも加わり、文字通り「匂い」で付く。

 

「秋の風」は秋。「信濃」は名所。

 

二十句目

   玉味噌の信濃にかかる秋の風

 不足な寺を無理に持(もた)する   去来

 (玉味噌の信濃にかかる秋の風不足な寺を無理に持する

 

 信州といえば善光寺という名刹もあるが、当時としてはやはり山奥の辺鄙な地のイメージが強かったのだろう。高僧があえて最も期待している弟子に荒れ果てた山寺に住むことを勧める場面か。修行するにはそのような静かなところがいいし、村に本当の仏道を広めるという使命もある。小細工せずに、信州の秋に粗末な山寺をつける侘びた風情で、去来らしい心のある句となった。前半を見た芭蕉がすぐに去来の欠点を見抜き、何か諭したのか。

 

無季。「寺」は釈教。

 

二十一句目

   不足な寺を無理に持する

 右の手の振ひしだひに強ふなり   去来きょらい

 (右の手の振ひしだひに強ふなり不足な寺を無理に持する

 

 前句の不便な寺に住むお坊さんを、年取った爺さんの位(くらい)として付けた句。不足な寺は辺鄙な地だからではなく、こんな老人が住むには不便な、という意味になる。位付(くらいづ)けは後期蕉門の基本的な付け方の一つ。

 

無季。

 

二十二句目

   右の手の振ひしだひに強ふなり

 点かけてやる相役(あひやく)の文(ふみ)  浪化

 (右の手の振ひしだひに強ふなり点かけてやる相役の文

 

 「振(ふる)ひ」は手の振るえではなく、腕を振るうという意味にもなる。「点をかける」というのは、文章に点を打ったりして指導することで、役所で同僚の書いた文章を添削するというのは、当時だと漢文だろう。当時の公式文書は漢文で書かれるのが常だった。日本語と語順も違う中国の文章言葉を習得するのはなかなか大変だが、それが出来なくては一人前の役人とはいえない。指導するほうにもついつい力が入る。

 ここにも芭蕉の指導があったか、これまでの浪化の句とは違った蕉門らしい句である。

 

無季。「相役」は人倫。

 

二十三句目

   点かけてやる相役の文

 此宿(このしゅく)をわめいて通る鮎の鮓(すし)  浪化

 (此宿をわめいて通る鮎の鮓点かけてやる相役の文)

 

 鮎寿司売りが漢文を習ったり、和歌や俳諧の点を乞うだと意味が通じないので、問題は、この「点」をどう取るかだ。

 俳諧を読む際に大事なのは、前句が打越に付いた時と別の意味に取れないかどうかに絶えず気を配ることであり、これをしないで、前句が漢文を同僚が指導するという句だという元の意味にこだわって、これに宿場町で鮎寿司を売り歩く人とどう関係があるのかというふうに考えてゆくと、とんでもないこじ付け的な解釈になってしまう。漢文を教えていたら、外で鮎売りがやかましくて気が散るだとかいう解釈は、一見もっともらしそうだが俳諧の本質を突いてはいない。ましてや、添削してやって同僚にしっかりしろというそういう気持ちがこもっているから、そこに宿の外を一生懸命に売り歩く鮎売りの姿が付く、というような珍妙な説が出てきたりする。

 おそらく浪化が句を付けるとき、芭蕉はこういう指導をしたのだろう。「点は別に『点』のこととする必要はない。『てん』と読むものであれば何か別のもののことにしてもいい」と。つまり、この場合の「てん」は天秤棒と考えればいいのである。鮎寿司売りが何やら気に入らないことがあるのかわめき散らしている。仕事が気に入らないとごねているのか。そこで相役が「まあまあ」となだめながら、肩に天秤棒を担がせてやる。「相役の文(ふみ)」-そう、相役の名前はお文(ふみ)さん。女房か何かだろう。こう読んでこそ俳諧であり、上句と下句を通して読んだ時にしっかりと意味が通り、バッチリと付いた句になる。

 なお、鮎寿司はなれ寿司のことで、鮎とご飯を混ぜて乳酸発酵させたもの。夏の保存食で、旅などに持ち歩くにもいいから、宿場で売っている。

 

「鮎の鮓」は夏。寿司売りではなくあくまで寿司なので、人倫を遁れる。「宿」は居所。

 

二十四句目

    此宿をわめいて通る鮎の鮓

 青田うねりて夕立のかぜ   芭蕉

 (此宿をわめいて通る鮎の鮓青田うねりて夕立のかぜ

 

 鮎寿司売りがわめいていたのを、夕立が来そうなのを人に知らせて廻るためだとした。宿場町もちょっと外に出れば、田んぼが広がっていて、青田がうねっていても別におかしくはない。しかし、前句と切り離せば、宿場と関係なくどこにでもある田舎の景色になる。一面の田んぼが広がる平野としてもいいし、山村でも漁村でもいい。特に、両吟や三吟などで二句続けて詠む場合、一句目はこうして軽く景色を付けて遣り句して、二句目で展開を図るのが、常套手段ともいえよう。

 

「青田」「夕立」は夏。「夕立」は降物。

 

二十五句目

   青田うねりて夕立のかぜ

 平(ひら)めなる石を敷たる行水場   芭蕉

 (平めなる石を敷たる行水場青田うねりて夕立のかぜ

 

 行水というのは、本来「行(ぎょう)」のために水に入ることで、神仏のために体を清める儀式だった。とはいえ、夏の暑い盛りには、むしろ神仏にかこつけて冷たい水を浴び、涼を取りたいというのが本音だろう。『小倉百人一首』にも、

 

  風そよぐ楢の小川の夕暮れは

    みそぎぞ夏のしるしなりける

                  藤原家隆

 

の歌があるように、昔は川などでも盛んに禊が行なわれていたが、今日海やプールで水遊びするようなもので、庶民の楽しみの一つでもあった。『鳥獣人物戯画』にも、ウサギがダイビングする場面などが描かれている。

 

「行水場」は夏。神祇。水辺。打越の「鮎の鮓」は食物であって、川で泳ぐ鮎を詠んだものでないため、水辺とはならない。水辺だとしたら、式目に違反する。

 

二十六句目

   平めなる石を敷たる行水場

 給仕をさせて馬夫(まご)が食喰(めしくふ) 去来

 (平めなる石を敷たる行水場給仕をさせて馬夫が食喰

 

 行水場も、季節外れだと馬の水飲み場になっていたりする。馬に乗って旅などをしていると、途中で馬夫(まご)が昼飯の時間だなどと言って、こうして待たされることもあったのか。今でも発展途上国のバスでは、運転手が飯を食いに行ってバスが止まったりすることもあるという。

 

無季。「馬夫」は人倫。

 

二十七句目

 

   給仕をさせて馬夫が食喰

 月くらき夜の塩梅を星で見る   去来

 (月くらき夜の塩梅を星で見る給仕をさせて馬夫が食喰

 

 前句を馬の給仕ではなく、人に給仕をさせて、その飯を馬夫が食うとして付ける。なにぶん暗い夜なので、何を食わされているのかよくわからない。これは大丈夫か、なんか変なものとか腐ったものとか入っていないかと、いぶかしがりながら、匂いと味だけを頼りにおそるおそる食っている情景が浮かぶ。それを「塩梅を星で見る」と表現したところに去来の技がある。

 月の定座を二句繰り上げて、ここで月を出すあたり、初の懐紙で花を持っていかれた仕返しか。

 

「月」は秋。夜分、天象てんしょう。「星」も夜分、天象。

 

二十八句目

 

   月くらき夜の塩梅を星で見る

 聖霊棚(しゃうりゃうだな)はよほど窮屈  浪化

 (月くらき夜の塩梅を星で見る聖霊棚はよほど窮屈

 

 前句の月を旧暦七月のお盆の月とする。まだ十五日には早く、まだ月も暗いのだろう。お盆が来るのを待ちきれなくなった死者が、こっそりお供えの味見に来る。それを、聖霊棚がよほど窮屈と見えて、早々とこの世に戻ってきたのだろうと洒落てみる。

 

「聖霊棚」は秋。「盆」が釈教かどうかという議論はあったようだが、芭蕉は「それなら正月は神祇か」と言ったという。盆や正月などの民間行事は本来神祇でも釈教でもない。お寺が盂蘭盆会を催すにしても、本来の仏教に地獄の釜の蓋が開いて死者の霊が甦るなどという思想はない。

 

二十九句目

   聖霊棚はよほど窮屈

 しのぶ間を踊(をどり)に出るとおもはせて  浪化

 (しのぶ間を踊に出るとおもはせて聖霊棚はよほど窮屈)

 

 お盆といえば、盆踊り。中世の念仏踊りが元になっているという。それまでの「舞い」に比べると激しいリズムで激しく体を動かすもので、今でこそダサいと思うかもしれないが、昔は踊りというとこれしかないかのようにフィーバーした。当然そこではナンパする男もいれば、そのままお持ち帰りということもある。踊りに行ったふりをして、密かに聖霊棚の前で愛し合うこともあったのだろう。

 月を持っていかれた浪化は、本来の月の定座の位置で恋を出して対抗する。

 

「踊り」は秋。今では季節感はないが、かつて踊りと舞いは区別され、「踊り」というと盆踊りのことだった。「しのぶ」は恋。

 

三十句目

   しのぶ間を踊に出るとおもはせて

 来てうからかす去年(こぞ)の傍輩(はうばい) 去来

 (しのぶ間を踊に出るとおもはせて来てうからかす去年の傍輩

 

 去年一緒に働いていた仲間が、盆踊りに行ったと思わせて、こっそり職場を抜け出て、訪ねてきてくれた。「しのぶ」はここでは恋の意味ではなく、「お忍びで」ということ。さあ、今夜は飲み明かそう、というところか。前句の浪化の恋句を引き継がずに、文字通り、軽くあしらった。和気藹々たる座もいいが、こういうお互い対抗意識を持って応酬する場というのも、緊張感があってなかなか面白いものだ。

 

無季。「傍輩」は人倫。 

二裏

三十一句目

   来てうからかす去年の傍輩

 参宮といへば盗みもゆるしけり   浪化

 (参宮といへば盗みもゆるしけり来てうからかす去年の傍輩

 

 仕事を抜けて来た古い友人というのはありがたいが、これはちょっと困った友人の話に作り変える。去年江戸で一緒に働いていた同僚が、お伊勢参りの途中に尋ねてきたのはいいが、さんざん人の家に来て騒いでいった挙句、行ってしまうといろいろ物がなくなっている。手癖の悪い友人だが、まあ、お伊勢参りならし方がない。

 名残の懐紙の裏に入って、付け順も変わり、以後、去来・芭蕉・浪化の順番で一句ずつ付けてゆくことになる。

 

無季。「参宮」は神祇。 

 

三十二句目

   参宮といへば盗みもゆるしけり

 にっと朝日に迎ふよこ雲   芭蕉

 

 (参宮といへば盗みもゆるしけりにっと朝日に迎ふよこ雲

 これはいわゆる「花呼び出し」だ。次の人に花の句を詠んでもらいたいというときに、いかにも花の似合いそうな句を出す。「花を持たせる」という言葉もそこから来ている。ここで芭蕉は、あえて花の定座を二句繰り下げて、去来に花を持たせる。

 句のほうは伊勢参宮のあらたまった厳かな匂いで、「盗みもゆるす」に朝日に横雲の「にっと」微笑む姿が付く。前句に対し、伊勢の神々の微笑む姿を象徴的に付けた句で、いわゆる背景を付けた句ではない。だから、次の句に景色を付けても、景色の句が三句続くことはなく、花の美しい景色を存分に詠むことができる。果たして去来はそれに答えられるか。

 

無季。「朝日」は天象。

 

三十三句目

   にっと朝日に迎ふよこ雲

  蒼みたる松より花の咲こぼれ   去来

 (蒼みたる松より花の咲こぼれにっと朝日に迎ふよこ雲

 

 『去来抄』「先師評」によると、最初去来は、

 

   にっと朝日に迎ふよこ雲

 すっぺりと花見の客をしまいけり

 

と付けたという。ところがどうも芭蕉の顔色が険しいので、あわてて芭蕉に付け直していいか尋ね、

 

   にっと朝日に迎ふよこ雲

  陰高(かげたか)き松より花の咲こぼれ

 

 と直し、最終的に「蒼みたる」の句になったという。

  「にっと」という擬音に「すっぺりと」と擬音で付けるのだが、これは単なる言葉の連想で、匂いということではない。「すっぺりと」というのは「すっかり」という意味で、きれいさっぱりというときには「すっぺらぽん」なんて言葉もあった。昼間は大勢の人がドンチャン騒ぎをしてにぎわっていた桜の名所も夕暮れには帰り、明け方ともなれば人っ子一人いず、完全に花見の客を仕舞ってしまったかのように、朝日の前にたなびく横雲が笑っているようで、そこに有名な藤原定家の、

 

 春の夜の夢の浮橋とだえして

    峰にわかるるよこぐものそら

 

の句を思い起こさせる。その意味では古歌を用いた本歌付けの句とも言える。連歌の時代からある「心付け」の一種だ。ただ、いろいろこねくり回した割には、情が伝わってこない。前句が「盗みを許す」に「にっと」が付いているだけで、景色に景色が付いているわけでないから、ここは当然花の美しい景色を存分に詠んでいい場面だ。

 おそらく芭蕉は前半の懐紙を見て、去来の弱点に気付いていたのだろう。浪化が素直に景色の美しさを詠んでいるのに対し、去来は技に溺れて無理にこねくり回した句を付けていたため、浪化に蕉門俳諧の本当の面白さを教えることが出来なかった。それは、去来が句の「匂い」ということを忘れていたためでもあった。

 ただ、改作しても、去来の付け方は観念的だ。薄暗い中に朝日が「にっと」急に射してくるそのコントラストから、松の影の黒々とした中に花の姿が現れる景色としたのだが、「陰高き」の上五では、その意図が露骨に表れてしまう。「蒼みたる」と言い換えて、その作為を隠したところでこの付け句は完成する。「にっと」に「すっぺりと」の言葉の連想によるものでもなく、定家の歌を思い起こした心付けでもない、あくまでも暗い中に光が射してくるイメージの一致によって付ける。これが蕉門の「匂い付け」と言ってもいい。そしてその付け筋が際立たないように句の裏に隠すことで、一つの完成の域に達する。

 長く続いた浪化と去来の対決も、これで決着が付いたといっていいだろう。芭蕉は最初からそれを狙って、花呼び出しをしたに違いない。浪化には真似の出来ない蕉門の最高の技術を見せつけてこそ、この勝負に決着を付けることが出来る。それを芭蕉がやるのではなく、去来にやらせることが問題だった。

 

「花」は春。植物。「松」は木類。

 

三十四句目

   蒼みたる松より花の咲こぼれ

 四五人とほる僧長閑(のどか)なり   浪化

 (蒼みたる松より花の咲こぼれ四五人とほる僧長閑なり

 

 さて、浪化もこれが蕉門の実力だということに納得したことだろう。朝日の厳かな景色を長閑な昼の景色に違えて、そこに四五人通る僧の姿を付けて、軽く流す。

 

「長閑のどか」は春。「僧」は人倫、釈教。

 

三十五句目

   四五人とほる僧長閑なり

 薪過(たきぎす)ぎ町の子供の稽古能(けいこのう) 芭蕉

 (薪過ぎ町の子供の稽古能四五人とほる僧長閑なり)

 

 僧が出たところで、芭蕉はこれを奈良の景色に転じる。これも「僧」に対して「奈良」と言葉を出してしまえば単なる物付けだが、あくまでもそれを表に出さず、匂いだけで付けるところに芭蕉の技術がある。

 「薪能(たきぎのう)」は今では屋外での公演を一般的に指すが、本来は二月初旬に奈良興福寺南大門で行なわれる能のことだった。それゆえ春の季語になる。ただ、芭蕉の句はこの薪能そのものを詠むのではなく、薪能を見て刺激されたのか、奈良の子供たちが能楽師に憧れて能の稽古に励んでいる様を付ける。

 

「薪過ぎ」は薪能のことで、春。「町」は居所。「子供」は人倫。

 

挙句

   薪過ぎ町の子供の稽古能

 いつつも春にしたきよの中   去来

 (薪過ぎ町の子供の稽古能いつつも春にしたきよの中

 

 さて、春の景色が続いたところで、ここでまた景色というのも芸がない。三句春の句が続いたことを受けて、挙句も春の句とし、これで終るのももったいない、もう一句、五句目の春の句が欲しいところだと洒落てみて一巻の締めくくりとする。この一巻が去来の蒔いた種だけに、去来のウイットで締めくくるが、これも芭蕉の計算か。

 

「春」は春。