「雁がねも」の巻、解説

貞享五年九月中旬、芭蕉庵にて

初表

   深川の夜

 雁がねもしづかに聞ばからびずや   越人

   酒しゐならふこの比の月     芭蕉

 藤ばかま誰窮屈にめでつらん     芭蕉

   理をはなれたる秋の夕暮     越人

 瓢箪の大きさ五石ばかり也      越人

   風にふかれて帰る市人      芭蕉

 

初裏

 なに事も長安は是名利の地      芭蕉

   医のおほきこそ目ぐるほしけれ  越人

 いそがしと師走の空に立出て     芭蕉

   ひとり世話やく寺の跡とり    越人

 此里に古き玄番の名をつたへ     芭蕉

   足駄はかせぬ雨のあけぼの    越人

 きぬぎぬやあまりかぼそくあてやかに 芭蕉

   かぜひきたまふ声のうつくし   越人

 手もつかず昼の御膳もすべりきぬ   芭蕉

   物いそくさき舟路なりけり    越人

 月と花比良の高ねを北にして     芭蕉

   雲雀さえづるころの肌ぬぎ    越人

 

 

二表

 破れ戸の釘うち付る春の末      越人

   みせはさびしき麦のひきはり   芭蕉

 家なくて服裟につつむ十寸鏡     越人

   ものおもひゐる神子のものいひ  芭蕉

 人去ていまだ御坐の匂ひける     越人

   初瀬に籠る堂の片隅       芭蕉

 ほととぎす鼠のあるる最中に     越人

   垣穂のささげ露はこぼれて    芭蕉

 あやにくに煩ふ妹が夕ながめ     越人

   あの雲はたがなみだつつむぞ   芭蕉

 行月のうはの空にて消さうに     越人

   砧も遠く鞍にいねぶり      芭蕉

 

二裏

 秋の田のからせぬ公事の長びきて   越人

   さいさいながら文字問にくる   芭蕉

 いかめしく瓦庇の木薬屋       越人

   馳走する子の痩てかひなき    芭蕉

 花の比談義参もうらやまし      越人

   田にしをくふて腥きくち     芭蕉

 

      参考;『校本芭蕉全集 第四巻』(小宮豐隆監修、宮本三郎校注、一九六四、角川書店)

初表

発句

 

   深川の夜

 雁がねもしづかに聞ばからびずや 越人

 

 貞享五年『更科紀行』の旅を経て越人を伴い江戸に戻った芭蕉は、九月十三日に、

 

 木曾の痩もまだなほらぬに後の月 芭蕉

 

の句を詠んで芭蕉庵で十三夜の月見の会を行う。

 ひと月前の仲秋の名月の時には芭蕉と越人は姨捨山にいて、

 

 俤や姨ひとりなく月の友     芭蕉

 いざよひもまださらしなの郡哉  同

 さらしなや三よさの月見雲もなし 越人

 

という句も詠んでいる。「三よさの月」とあるように、十五夜だけでなく十六夜(いざよい)、十七夜(立ち待ち月)も楽しんだ。

 そして越人とのこの両吟はその直後のことだったと思われる。

 芭蕉庵に越人が招かれた形になるので、発句は越人になる。

 この一巻は『連歌俳諧集』(日本古典文学全集32、一九七四、小学館)にも解説があり、『校本芭蕉全集 第四巻』(小宮豐隆監修、宮本三郎校注、一九六四、角川書店)の宮本注もある。

 深川芭蕉庵は小名木川が隅田川と合流する所にあり、夜ともなれば水鳥の声が結構うるさかったのかもしれない。雁はその名の通り「かり」と鳴くとも「がん」と鳴くとも言われている。犬のキャンと鳴く声にも似ている。

 「からぶ」はweblio辞書の「学研全訳古語辞典」に、

 

 「①乾く。ひからびる。

  ②(声が)かすれる。しわがれ声を出す。

  出典今昔物語集 二七・三四

  「林の中にからびたる声の」

  [訳] 林の中にかすれた声の。

  ③枯れて物さびる。枯淡の趣に見える。

  出典無名抄 会歌姿分事

  「秋・冬は細くからび」

  [訳] 秋・冬は細く枯淡の趣に見え。」

 

とある。

 隅田川がすぐ近くにあるから雁の声はかなりうるさくて、「枯れて物さびる。枯淡の趣に見える」には程遠い状態だったのではなかったかと思う。

 この場合は①②の意味で、いつもは雑音にしか聞こえないうるさい雁の声も、こうして二人で静かに耳を傾けてみると、しわがれた声ではなく、結構澄んだ良い声なんだなとあらためて認識する。そういう意味ではなかったかと思う。

 

季語は「雁がね」で秋、鳥類。

 

 

   雁がねもしづかに聞ばからびずや

 酒しゐならふこの比の月     芭蕉

 (雁がねもしづかに聞ばからびずや酒しゐならふこの比の月)

 

 「酒しゐ」は酒を強いること、無理に勧めることだが、十三夜から月見の宴が続くと、お客さんに酒を勧めて飲ませるのに慣れてしまった、とやや照れたように言う。

 普通の酒飲みなら酒しゐは普通のことで、「まあ飲めや、何俺の酒が飲めねえだと、べらんめえ」というところだが、「朝顔に我は飯食う男哉」の芭蕉さんのことだから、ようやく人に酒を勧められるようになった、ということろか。まあ、越人さんは大の酒好きだから、早く酒しゐしてくれと思ってたところだろう。

 

季語は「月」で秋、夜分、天象。

 

第三

 

   酒しゐならふこの比の月

 藤ばかま誰窮屈にめでつらん   芭蕉

 (藤ばかま誰窮屈にめでつらん酒しゐならふこの比の月)

 

 両吟の習いとして、第三は脇と同じ人が詠む。四句目、五句目は発句を読んだ人が詠む。

 藤袴は秋の七草の中では地味な方で、俳諧に詠まれることも少ないが、ここでは「袴」と掛けて正装=窮屈の連想で付ける。

 酒を強いることについて、袴を履いて集まるあらたまった月見の会でもないし、窮屈にする必要もないので、と言い訳の句に転じる。

 

季語は「藤ばかま」で秋、植物、草類。

 

四句目

 

   藤ばかま誰窮屈にめでつらん

 理をはなれたる秋の夕暮     越人

 (藤ばかま誰窮屈にめでつらん理をはなれたる秋の夕暮)

 

 秋の夕暮れは、

 

 心なき身にもあはれは知られけり

     鴫立つ沢の秋の夕暮れ

              西行法師(新古今集)

 

のように、別に古典の素養とか故事とか知らなくても誰でも言うに言われぬようなあわれな気分になる。「あわれ」は今の言葉だと「エモい」ということか。

 「理をはなれる」というと、

 

 おもしろや理窟はなしに花の雲  越人

 

という句も『阿羅野』に選ばれている。

 

季語は「秋の夕暮れ」で秋。

 

五句目

 

   理をはなれたる秋の夕暮

 瓢箪の大きさ五石ばかり也    越人

 (瓢箪の大きさ五石ばかり也理をはなれたる秋の夕暮)

 

 一石は十斗で約百八十リットル、ドラム缶が約二百リットルだから、五石はドラム缶五本分になる。

 五石の瓢箪は『荘子』「逍遥遊編」に登場するもので、恵子が魏の王から瓢箪の種をもらったが五石もの大きさになって、酒を入れても持ち運べない、柄杓にするにも大きすぎると言ったのに対し、荘子はならば船にでもしたらどうだと言う。まあドラム缶五個分だったら小舟にしかならないが。

 前句の秋の夕暮れのエモに老荘の無為自然の心を感じ、五石の瓢箪の登場となる。

 なおこの『荘子』「逍遥遊編」には「越人斷髮文身」の文字もあり、古代の越の国の人の風俗が倭人に似ていたことが記されている。その倭人の国が今では銭湯や温泉で分身お断りとはこれいかに。入れ墨は邪馬台国の頃から日本の文化だったはずなのに。

 秋は五句までなので、瓢箪を秋としても問題はない。ただ打越に藤袴があるので、瓢箪は器物、つまり植物を使った製品であれば非植物としなくてはならない。

 

無季。

 

六句目

 

   瓢箪の大きさ五石ばかり也

 風にふかれて帰る市人      芭蕉

 (瓢箪の大きさ五石ばかり也風にふかれて帰る市人)

 

 『連歌俳諧集』の暉峻・中村注は、『蒙求』の許由の故事とする。『徒然草』十八段にも引用されていて、

 

 「唐土に許由といひける人は、さらに、身にしたがへる貯へもなくて、水をも手して捧げて飲みけるを見て、なりひさこといふ物を人の得させたりければ、ある時、木の枝に懸けたりけるが、風に吹かれて鳴りけるを、かしかましとて捨てつ。また、手に掬びてぞ水も飲みける。いかばかり、心のうち涼しかりけん。孫晨は、冬の月に衾なくて、藁一束ありけるを、夕べにはこれに臥し、朝には収めけり。」

 

とある。

 まあ、五石の瓢箪を見ても「ああでかい瓢箪があるな」くらいで終わって、わざわざ買おうとは思わない。どうやって持って帰るかも問題だし、船もわざわざ瓢箪で作らなくても普通に小舟はある。

 五石の瓢箪は結局売れず、出品した商人は空しく帰るのみ。

 

無季。「市人」は人倫。

初裏

七句目

 

   風にふかれて帰る市人

 なに事も長安は是名利の地    芭蕉

 (なに事も長安は是名利の地風にふかれて帰る市人)

 

 これは白楽天の『白氏文集』の「長安は古来名利の地、空手金無くんば行路難し」で、前句の風に吹かれて帰る市人を金がなくて何も買えなかったとする。

 ここからは上句芭蕉、下句越人になる。

 

無季。

 

八句目

 

   なに事も長安は是名利の地

 医のおほきこそ目ぐるほしけれ  越人

 (なに事も長安は是名利の地医のおほきこそ目ぐるほしけれ)

 

 今もそうだが医者というのは都市に集中するものだ。昔は資格もなく勝手に開業できたから藪医者も多く、いくら医者が沢山いても、まっとうな医者を探すのに苦労したのかもしれない。

 

無季。「医」は人倫。

 

九句目

 

   医のおほきこそ目ぐるほしけれ

 いそがしと師走の空に立出て   芭蕉

 (いそがしと師走の空に立出て医のおほきこそ目ぐるほしけれ)

 

 「立出て」というと、

 

 寂しさに宿を立ち出でて眺むれば

     いづこも同じ秋の夕暮れ

              良暹法師(後拾遺集)

 

の歌が思い浮かぶ。いずこも同じ藪医者ばかり。

 

季語は「師走」で冬。

 

十句目

 

   いそがしと師走の空に立出て

 ひとり世話やく寺の跡とり    越人

 (いそがしと師走の空に立出てひとり世話やく寺の跡とり)

 

 寺の跡を継いだ人が、まだ何か不慣れで頼りないのだろう。まったく世話が焼ける。

 

無季。

 

十一句目

 

   ひとり世話やく寺の跡とり

 此里に古き玄番の名をつたへ   芭蕉

 (此里に古き玄番の名をつたへひとり世話やく寺の跡とり)

 

 「玄番(げんば)」はコトバンクの「精選版 日本国語大辞典の解説」に、

 

 「① 玄蕃寮のこと。また、玄蕃寮に属する役人。げんばん。

  ※観智院本三宝絵(984)中「治部玄蕃雅楽司等を船にのりくはへて音楽を調てゆき向に」

  ※俳諧・曠野(1689)員外「此里に古き玄番の名をつたへ〈芭蕉〉 足駄はかせぬ雨のあけぼの〈越人〉」

 

とある。

 その「玄蕃寮」はコトバンクの「世界大百科事典 第2版の解説」に、

 

 「日本古代の令制官司。玄は僧,蕃は海外諸国の意で,《和名抄》は〈ほうしまらひと(法師客人)のつかさ〉と訓じている。治部省の管轄下にあって,京内の寺院・仏事,諸国の僧尼の掌握,外国使節の接待,鴻臚館(こうろかん)の管理などをつかさどった。中国では玄は道教を意味し,隋・唐では崇玄署という道士(道教を修めた人)を監督する役所が設けられたが,この役所は同時に僧尼に関することも担当した。玄蕃寮の〈玄〉はおそらくこの役所に由来するもので,日本には道士が存在しなかったので,玄で僧侶のみを指すことになったのであろう。」

 

とある。

 古代に玄番を務めた人の末裔が今も田舎の小さな里を領有しているのであろう。それが今でも寺の跡取りの世話をしているというのが笑える。

 

無季。「里」は居所。「玄番」は人倫。

 

十二句目

 

   此里に古き玄番の名をつたへ

 足駄はかせぬ雨のあけぼの    越人

 (此里に古き玄番の名をつたへ足駄はかせぬ雨のあけぼの)

 

 足駄は高下駄のことで、主に僧侶が履く。雨で土がぬかった時に歩きやすい。

 玄番の末裔は今でも僧侶を大事にし、雨に朝に足駄を履かせて外出させたりはしない。

 

無季。「雨」は降物。

 

十三句目

 

   足駄はかせぬ雨のあけぼの

 きぬぎぬやあまりかぼそくあてやかに 芭蕉

 (きぬぎぬやあまりかぼそくあてやかに足駄はかせぬ雨のあけぼの)

 

 足駄を履いて去ってゆこうとする男も、女のあまりにか細く艶やかな姿にためらう。

 

無季。恋。

 

十四句目

 

   きぬぎぬやあまりかぼそくあてやかに

 かぜひきたまふ声のうつくし   越人

 (きぬぎぬやあまりかぼそくあてやかにかぜひきたまふ声のうつくし)

 

 「目病み女に風邪引き男」という諺があるが、どちらも色っぽく見えるということ。この諺がいつごろからなのかはわからないが、ひょっとしたら越人の句に起源があるのかもしれない。「蝉時雨」も越人から始まった可能性があり、新しい言葉を作る才能があったのかもしれない。

 目病み女というと、今でも眼帯フェチというのがあって、綾波レイの眼帯に萌える人たちがいるが。

 

無季。恋。

 

十五句目

 

   かぜひきたまふ声のうつくし

 手もつかず昼の御膳もすべりきぬ 芭蕉

 (手もつかず昼の御膳もすべりきぬかぜひきたまふ声のうつくし)

 

 「すべる」は古語では退出するの意味がある。風邪で食欲がないのは普通だが、前句の「うつくし」で高貴な人の御膳とするところに技がある。

 

無季。

 

十六句目

 

   手もつかず昼の御膳もすべりきぬ

 物いそくさき舟路なりけり    越人

 (手もつかず昼の御膳もすべりきぬ物いそくさき舟路なりけり)

 

 前句を船酔いとする。

 

無季。「船路」は水辺。

 

十七句目

 

   物いそくさき舟路なりけり

 月と花比良の高ねを北にして   芭蕉

 (月と花比良の高ねを北にして物いそくさき舟路なりけり)

 

 比良山は琵琶湖の西岸にある。それが北に見えるというのは堅田より南だろう。前句の「いそくさき(磯臭き)」を「急ぐ先」に取り成して、月見と花見に急ぐ旅人のこととする。

 琵琶湖を渡るには瀬田の唐橋を渡るか矢橋(やばせ)の渡しを船で渡るかになる。

 

 もののふの矢橋の船は速かれど

     急がば廻れ瀬田の長橋

              宗長法師

 

の歌がある。船は川止めが多くあてにならないというので宗長法師の歌になったが、江戸時代でもやはり急ぐ人は矢橋(やばせ)の渡しを選ぶ人が多かったのだろう。

 

季語は「花」で春、植物、木類。「月」は夜分、天象。「比良の高ね」は名所、山類。

 

十八句目

 

   月と花比良の高ねを北にして

 雲雀さえづるころの肌ぬぎ    越人

 (月と花比良の高ねを北にして雲雀さえづるころの肌ぬぎ)

 

 「肌脱ぎ」はコトバンクの「デジタル大辞泉の解説」に、

 

 「和服の袖(そで)から腕を抜いて上半身の肌をあらわにすること。また、その姿。「―になる」《季 夏》「這(は)ひよれる子に―の乳房あり/虚子」

 

とある。

 片方だけだと片肌脱ぎで肩脱ぎともいう。この場合は弓を射たりするときで、「片肌脱ぐ」は「加勢する」という意味になる。両方だともろ肌脱ぎで「全力を尽くす」という意味になる。

 この句の場合はそうした寓意ではなく、桜が咲いて雲雀が囀る頃には暖かくなり、働く人は肌脱ぎになるという、気候を添えて流した句と見るべきだろう。

 

季語は「雲雀」で春、鳥類。

二表

十九句目

 

   雲雀さえづるころの肌ぬぎ

 破れ戸の釘うち付る春の末    越人

 (破れ戸の釘うち付る春の末雲雀さえづるころの肌ぬぎ)

 

 肌脱いで何をするかと思ったら、破れた戸を釘で打ち付ける。ようやく雪の溶けた雪国の景で、雪の重みで壊れた戸を直しているのかもしれない。

 二の懐紙に入る所で越人が二句続けて、ここから上句が越人、下句が芭蕉になる。

 

季語は「春の末」で春。

 

二十句目

 

   破れ戸の釘うち付る春の末

 みせはさびしき麦のひきはり   芭蕉

 (破れ戸の釘うち付る春の末みせはさびしき麦のひきはり)

 

 麦の碾割(ひきわり)は石臼で荒く砕いただけの麦のこと。米と混ぜて炊く。

 ウィキペディアには、

 

 「麦を精白したものを精麦という。麦粒は米に比べて煮えにくいので、先に丸麦を煮ておき、水分を捨てて粘り気を取り、米と混ぜて一緒に炊いた。これを「えまし麦」といい、湯取り法の一種である。また麦をあらかじめ煮る手間を省くため、唐臼や石臼で挽き割って粒を小さくした麦は、米と混ぜて炊くことができた。これを挽割麦という。これは主に農家の自家消費用であったが、明治十年頃からは一般にも販売されるようになった。

 現在多く流通しているのはいわゆる「押し麦」であるが、これは麦を砕く代わりにローラーで平たく押しつぶし、煮えやすくしたものである。明治35年に押し麦が発明されたが、当初は麦を石臼にかけ、手押しのローラーで押して天日で干す手作業で製造していた。大正二年、発明家の鈴木忠治郎が麦の精殻・圧延機を開発し、精麦過程が機械化された。更に鈴木は精麦機械の改良に取り組み、この「鈴木式」精麦機を備えた工場が各地に設立されて、精麦の大量生産体制が整った。」

 

とある。今の麦飯は押し麦を用いるが、その前は碾割を用いていた。

 昔は粟や稗や黍などの雑穀を盛んに食べていたが、春も末となるとそれらは品薄になり代わりに穫れ初めの麦が並ぶようになる。

 

無季。

 

二十一句目

 

   みせはさびしき麦のひきはり

 家なくて服裟につつむ十寸鏡   越人

 (家なくて服裟につつむ十寸鏡みせはさびしき麦のひきはり)

 

 服裟(ふくさ)は袱紗(ふくさ)でウィキペディアには「贈り物の金品などを包んだり、覆うのに使用する方形の布である」とある。

 十寸鏡(ますかがみ、まそかがみ)は真澄鏡とも書き、立派な鏡、澄んだ鏡という意味で、特に十寸という寸法には意味がないようだ。

 「家なくて」は「女三界に家なし」と言われてたように、幼くは親に従い、嫁しては夫に従い、老いては子に従うとされてきた。俳諧でも田氏捨女を別にすれば女性は苗字や姓で呼ばれることはなかった。夫婦同姓でも夫婦別性でもなく、女性は基本的に姓を持たなかったと言った方がいいのかもしれない。(田氏捨女は田氏の家に生まれ田氏に嫁ぎ、生涯田氏だったため例外的にそう呼ばれている。)

 ひきわり麦を売る粗末な家に嫁いできたのだろう。鏡は大事に袱紗で包んで肌身離さず持ち歩いていたか。

 

無季。恋。

 

二十二句目

 

   家なくて服裟につつむ十寸鏡

 ものおもひゐる神子のものいひ  芭蕉

 (家なくて服裟につつむ十寸鏡ものおもひゐる神子のものいひ)

 

 前句の十寸鏡を神社の御神体としたか。霊が憑りついて死者の言葉を伝えるイタコのような巫女が、神具として鏡を持ち歩き、死者の未練を伝えるのだろう。

 

無季。恋。

 

二十三句目

 

   ものおもひゐる神子のものいひ

 人去ていまだ御坐の匂ひける   越人

 (人去ていまだ御坐の匂ひけるものおもひゐる神子のものいひ)

 

 これは『源氏物語』葵巻の物の怪憑依の場面か。

 「御坐(おまし)」は貴人の居所で、そこで焚いていた護摩の芥子の香が人のいなくなった後でも匂い続けているのだが、同じ香が別の場所にいる別の人にもというところは省かれている。

 葵の上を神子に変えるのは本説付けの常で、そのまんまではなく少し変えることになっている。

 

無季。恋。「人」は人倫。

 

二十四句目

 

   人去ていまだ御坐の匂ひける

 初瀬に籠る堂の片隅       芭蕉

 (人去ていまだ御坐の匂ひける初瀬に籠る堂の片隅)

 

 同じ『源氏物語』の玉鬘巻の初瀬詣での場面とも取れるが、王朝時代に初瀬詣でをする貴人の多かったので、特に誰のことでもないということで展開をしやすくしている。

 本説付けの後の逃げ句としては模範とも言えよう。

 

無季。釈教。

 

二十五句目

 

   初瀬に籠る堂の片隅

 ほととぎす鼠のあるる最中に   越人

 (ほととぎす鼠のあるる最中に初瀬に籠る堂の片隅)

 

 初瀬のホトトギスというと、

 

 郭公ききにとてしもこもらねど

     初瀬の山はたよりありけり

              西行法師(山家集)

 

の歌もあるが、鼠の走り回る中で聞くというところに俳諧がある。

 

季語は「ほととぎす」で夏、鳥類。「鼠」は獣類。

 

二十六句目

 

   ほととぎす鼠のあるる最中に

 垣穂のささげ露はこぼれて    芭蕉

 (ほととぎす鼠のあるる最中に垣穂のささげ露はこぼれて)

 

 ささげは大角豆という字を当てることも多い。かつては赤飯に用いられていたが、今は小豆が使わることが多い。初夏に種を蒔き、夏の終わりには収穫できる。初秋で露の降りる頃にはホトトギスも鳴き止む。

 

季語は「ささげ」で夏。「露」は降物。

 

二十七句目

 

   垣穂のささげ露はこぼれて

 あやにくに煩ふ妹が夕ながめ   越人

 (あやにくに煩ふ妹が夕ながめ垣穂のささげ露はこぼれて)

 

 垣穂の向こうには恋に悩む少女がいる。垣間見たいものだ。「煩ふ」に「露」と重なる。

 

無季。恋。「妹」は人倫。

 

二十八句目

 

   あやにくに煩ふ妹が夕ながめ

 あの雲はたがなみだつつむぞ   芭蕉

 (あやにくに煩ふ妹が夕ながめあの雲はたがなみだつつむぞ)

 

 雲をいとしい人に見立てるのだが、他にも泣かせている人がいそうだ。

 

無季。恋。「雲」は聳物。

 

二十九句目

 

   あの雲はたがなみだつつむぞ

 行月のうはの空にて消さうに   越人

 (行月のうはの空にて消さうにあの雲はたがなみだつつむぞ)

 

 『連歌俳諧集』の暉峻・中村注は、『源氏物語』夕顔巻の、

 

 山の端の心もしらでゆく月は

     うはのそらにて影や絶えなむ

 

の歌を引用している。『校本芭蕉全集 第四巻』の宮本注も同じ。

 夕顔の歌は源氏の君に怪しげな空き家に連れてこられて不安な気持ちを西へ行く月に喩えて、このまま消えてしまうような気がしますというもので、その後の展開を暗示させるものだった。

 ただ、この句では山の端へ消える(西、つまり浄土へ渡る)というのではなく、雲に隠れるだけだ。その雲は誰の涙が包むのかと、自分の悲しみではなく一般的な恋の悲しみに作り直している。

 俳言もなく、連歌のような付け句といっていいだろう。

 

季語は「行月」で秋、夜分、天象。恋。

 

三十句目

 

   行月のうはの空にて消さうに

 砧も遠く鞍にいねぶり      芭蕉

 (行月のうはの空にて消さうに砧も遠く鞍にいねぶり)

 

 月の消えるのを明け方のこととする。さっきまで夜中の砧の音を聞いていたのに、うとうとしている間に夜が明けてしまったか、月は西の空に沈もうとしている。

 戦場へ向かう兵士だろうか。長安の砧の音を思い起こし、それを夢に見たのかもしれない。

 

   子夜呉歌     李白

 長安一片月 萬戸擣衣声

 秋風吹不尽 総是玉関情

 何日平胡虜 良人罷遠征

 

の夫の側からの句であろう。

 馬上での居眠りに月といえば、『野ざらし紀行』の、

 

 馬に寝て残夢月遠し茶のけぶり  芭蕉

 

の句も思い浮かぶ。

 

季語は「砧」で秋。旅体。

二裏

三十一句目

 

   砧も遠く鞍にいねぶり

 秋の田のからせぬ公事の長びきて 越人

 (秋の田のからせぬ公事の長びきて砧も遠く鞍にいねぶり)

 

 「秋の田の」と来れば、

 

 秋の田のかりほの庵の苫をあらみ

     わが衣手は露に濡れつつ

              天智天皇(後撰集)

 

であろう。「かりほ」と来るところを「からせぬ」と展開し、訴訟が長引いたからだとする。所領の境界争いなどで稲刈りに待ったがかかったのだろう。前句を裁判のために忙しくあちこち駆け回る人の姿とする。

 

季語は「秋の田」で秋。

 

三十二句目

 

   秋の田のからせぬ公事の長びきて

 さいさいながら文字問にくる   芭蕉

 (秋の田のからせぬ公事の長びきてさいさいながら文字問にくる)

 

 訴訟は文書主義で行われるため、そのつど漢文で文章を書かなくてはならない。お坊さんかお医者さんのところに文字を尋ねに何度も何度もやってくる。

 

無季。

 

三十三句目

 

   さいさいながら文字問にくる

 いかめしく瓦庇の木薬屋     越人

 (いかめしく瓦庇の木薬屋さいさいながら文字問にくる)

 

 木薬(きぐすり)は生薬(きぐすり)のこと。鬱金だとか地黄だとか決明子だとか漢方薬の原料はあまりなじみのない漢語が使われている。買いに行こうにも名前は聞いたが字がわからなかったりする。

 

無季。

 

三十四句目

 

   いかめしく瓦庇の木薬屋

 馳走する子の痩てかひなき    芭蕉

 (いかめしく瓦庇の木薬屋馳走する子の痩てかひなき)

 

 「馳走」はコトバンクの「精選版 日本国語大辞典の解説」に、

 

 「① かけ走ること。走りまわること。馬を駆って走らせること。奔走。

  ※中右記‐永長元年(1096)八月六日「一寝之間車馬馳走道路」 〔史記‐項羽紀〕

  ② (世話するためにかけまわる意から) 世話をすること。面倒をみること。

  ※中右記‐永久二年(1114)二月三日「神宮之辺寄レ宿有レ恐、又無二先例一、只留二小屋一可レ待二天明一也、次畳三枚馬草菓子等少々所馳送也」

  ※俳諧・曠野(1689)員外「いかめしく瓦庇の木薬屋〈越人〉 馳走する子の痩てかひなき〈芭蕉〉」

  ③ (用意のためにかけまわる意から) 心をこめたもてなし。特に、食事のもてなしをすること。饗応すること。あるじもうけ。また、そのためのおいしい食物。ごちそう。

  ※ロドリゲス日本大文典(1604‐08)「ナニトガナ chisô(チソウ)イタサウト ゾンゼラル〔物語〕」

  ※記念碑(1955)〈堀田善衛〉「柚子風呂の馳走にあずかった」

 

とある。この場合は②の意味。

 店構えは立派な生薬屋だが、その子供はやせ細っている。まあ、漢方でも直せない病気はある。親としては八方手を尽くしているのだろうけど、そこは運命か。

 

無季。「子」は人倫。

 

三十五句目

 

   馳走する子の痩てかひなき

 花の比談義参もうらやまし    越人

 (花の比談義参もうらやまし馳走する子の痩てかひなき)

 

 「談義参(だんぎまいり)」はコトバンクの「精選版 日本国語大辞典の解説」に、

 

 「〘名〙 寺院に参詣して、法話を聴聞すること。

  ※俳諧・類船集(1676)盈「談儀参も遅参の人は縁にゐて聴聞するそ佗しき」

 

とある。

 寺院には桜の花も咲いているから、花見がてらの談義参りもいいものだ。ただ、子供がやせて病弱だとそれも果たせず、ただただうらやましい。

 

季語は「花」で春、植物、木類。釈教。

 

挙句

 

   花の比談義参もうらやまし

 田にしをくふて腥きくち     芭蕉

 (花の比談義参もうらやまし田にしをくふて腥きくち)

 

 仏法を聞いて殺生を戒めるように言われても、栄養の不足しがちな貧しい百姓さんにとってタニシは貴重なたんぱく源だ。まあ、そこは大目に見てほしいものだ。腥きは「なまぐさき」と読む。

 

季語は「田にし」で春、水辺。