「破風口に」の巻、解説

元禄五年夏、和漢俳諧両吟歌仙

初表

   納涼の折々いひ捨たる和漢

   月の前にしてみたしむ

 破風口に日影やよはる夕涼   芭蕉

   煮茶蠅避烟        素堂

 合歡醒馬上          素堂

   かさなる小田の水落す也  芭蕉

 月代見金気          素堂

   露繁添玉涎        素堂

 

初裏

 張旭が物書なぐる酔の中    芭蕉

   幢を左右にわくる村竹   芭蕉

 挈帚驅倫鼡          素堂

   ふるき都に残るお魂屋   芭蕉

 くろからぬ首かきたる柘の撥  芭蕉

   乳をのむ膝に何を夢見る  芭蕉

 舟鍧風早浦          素堂

   鐘絶日高川        素堂

 顔ばかり早苗の泥によごされず 芭蕉

   食はすすけぬ蚊遣火のかげ 芭蕉

 詫教三社本          素堂

   韻使五車塡        素堂

 

二表

 花月丈山閙          素堂

   篠を杖つく老の鶯     芭蕉

 剪銀鮎一寸          素堂

   箕面の滝や玉を簸らん   芭蕉

 朝日影頭の鉦をかがやかし   芭蕉

   風飱喉早乾        芭蕉

 よられつる黍の葉あつく秋立て 素堂

   うちは火とぼす庭の夕月  芭蕉

 霧籬顔孰與          素堂

   𩅧浦目潜焉        芭蕉

 ふとん着て其夜に似たる鳥の声 素堂

   わすれぬ旅の数珠と脇指  芭蕉

 

二裏

 山伏山平地          素堂

   門番門小天        素堂

 鶺鴒窺水鉢          芭蕉

   霜にくもりて明る雲やけ  素堂

 奥ふかき初瀬の舞台に花を見て 芭蕉

   臨谷伴蛙仙        素堂

          元禄 八月八日 終

初表

発句

 

   納涼の折々いひ捨たる和漢

   月の前にしてみたしむ

 破風口に日影やよはる夕涼    芭蕉

 

 「破風(はふ)」は、ウィキペディアには、

 

 「破風(はふ)は、東アジアに広く分布する屋根の妻側の造形のことである。切妻造や入母屋造の屋根の妻側には必然的にあり、妻壁や破風板(はふいた)など妻飾りを含む。」

 

とある。

 切り妻屋根は二方向に屋根の傾斜があり、横から見ると屋根のない三角形の壁のスペースができる。ここが破風になる。

 入母屋屋根の場合、この三角形のスペースの下に手前へ向けて屋根がある。大きなお寺や城などは、ここに様々な装飾が施されている。

 この他、唐破風は中央が丸くドーム状になり、両端がその反対の曲線を持つ切妻で、お寺や銭湯などによくある。駒形破風はラヴクラフトの小説に登場するが、昔の日本にはあまり見ない。

 「破風口(はふぐち)」というのは、多分入母屋破風の区切られた三角のスペースのことと思われる。昼間は太陽がほぼ真上に合って、屋根の陰がくっきりとつくが、夕暮れになると横から日が当たるために陰がなくなる。夕暮れの弱々しい日に照らされた破風口に、涼しさが感じられる。

 この句には露川編『流川集』に、

 

 唐破風の入日や薄き夕涼     芭蕉

 

の形もある。こちらの方が推敲し直した形か。

 破風口だと普通の民家からお寺や城まで幅広いが、唐破風だと大体お寺に限定される。それに「入日や薄き」と和らいだわかりやすい表現になっている。

 さて、この歌仙の一番の特徴は脇が七七ではなく五言の漢詩の詩句になっていることで、以降、芭蕉は普通の俳諧の体で詠み、素堂が五言の詩句を付けるという変則的な両吟となる。

 

季語は「夕涼」で夏。

 

 

   破風口に日影やよはる夕涼

 煮茶蠅避烟           素堂

 (破風口に日影やよはる夕涼 煮茶蠅避烟)

 

 書き下し文にすると「茶を煮れば蠅烟(けぶり)を避く」となる。これを、

 

   破風口に日影やよはる夕涼

 茶を煮れば蠅烟(けぶり)を避く 素堂

 

としてもいい。

 茶を煮るは抹茶ではなく、当時広まりつつあった煎茶の原型ともいえる唐茶のことであろう。隠元禅師の淹茶法がお寺を中心に広まったとすれば、破風口はやはりお寺の装飾の施された破風口で、唐破風としてもそれほど意味は変わらないことになる。

 煙を蠅が避けるというところに、漢詩句とはいえ俳諧らしさがある。

 

季語は「蠅」で夏、虫類。「烟」は聳物。

 

第三

 

   煮茶蠅避烟

 合歡醒馬上           素堂

 (合歡醒馬上 煮茶蠅避烟)

 

 書き下し文にすれば、

 

   茶を煮れば蠅烟を避く

 合歡(がふくわん)馬上に醒む  素堂

 

となる。

 「合歡」はwebloi辞書の「三省堂 大辞林」には、

 

 ごうかん がふくわん 【合歓】( 名 ) スル

 ①喜びをともにすること。

 ②男女が共寝すること。

 ③「合歓木(ごうかんぼく)」の略。

 ねぶ 【〈合歓〉】

 ネムノキの別名。 「我妹子(わぎもこ)が形見の-は花のみに咲きてけだしく実にならじかも/万葉集 1463」

 

とある。

 漢詩句といっても俳諧なので、ねむの木を「眠る」に掛けて、馬上に居眠りして目覚める、合歓の花の下で、となる。茶の烟と馬上に醒るは、

 

 馬に寝て残夢月遠し茶のけぶり  芭蕉

 

の埋句。

 

 漢詩としても、

 

 煮茶蠅避烟

 合歡醒馬上

 

とするよりは、

 

 合歡醒馬上

 煮茶蠅避烟

 

の方が納まりがいいから、俳諧のルールに従って、第三だから上句を付けたと見ていいだろう。

 

季語は「合歡」で夏、植物(木類)。「馬」は獣類。

 

四句目

 

   合歡醒馬上

 かさなる小田の水落す也    芭蕉

 (合歡醒馬上 かさなる小田の水落す也)

 

 書き下し文だと、

 

   合歡馬上に醒む

 かさなる小田の水落す也    芭蕉

 

となる。

 山間に作られた小さな田んぼが重なり合う棚田の風景だろう。馬上の目覚めに長閑な田園風景を付けた、さっと流すような四句目だ。

 

無季。

 

五句目

 

   かさなる小田の水落す也

 月代見金気          素堂

 (月代見金気 かさなる小田の水落す也)

 

 書き下し文だと、

 

   かさなる小田の水落す也

 月代金気を見る        素堂

 

となる。五句目だから月の定座で月を出す。

 ただ、「月代」は普通は「さかやき」と読み、時代劇によく出てくる額を剃り上げた髪型をいう。中国に「月代」という熟語があるのかどうかは不明。

 そうなると、ここでは月を詠んだのではなく髪型を詠んだことになってしまうが、この場合は「つきしろ」のことで、「月代」とも「月白」とも書く。コトバンクの「精選版 日本国語大辞典の解説」に、

 

 「月が出ようとする時、東の空が白く明るく見えてくること。」

 

とある。芭蕉の元禄三年の句に、

 

 月しろや膝に手を置宵の宿   芭蕉

 

の句がある。

 金気は五行説の考え方で、「金生水」だから、月の金気は水を生じる。

 

季語は「月」で秋、夜分、天象。

 

六句目

 

   月代見金気

 露繁添玉涎          素堂

 (月代見金気 露繁添玉涎)

 

 書き下し文だと、

 

   月代金気を見る

 露繁玉涎を添ふ        素堂

 

となる。

 「露繁」も「露しげく」という日本語に漢字を当てた感じだ。

 「玉涎」はそのまま読むと玉のようなよだれで、露の形容としてはあまり綺麗ではない。「玉延」だと山芋のことになる。中国の百度百科に「玉延是山药的别名」とある。山芋に露がしげく降る、となる。

 日本語で「玉を延ぶ」とすると、コトバンクの「精選版 日本国語大辞典の解説」に、

 

 「玉を敷きつめたように美しいさまをいう。

  ※史料編纂所本人天眼目抄(1471‐73)二「うつくしくほそほそとひなひなと玉をのへたる如くなる、そこが分明なぞ」

 

とある。多分この意味で、「露しげく玉ののぶを添える」と言いたかったのだろう。

 なお、ここでは長句に短句を付ける場面なので、順番は入れ替わらない。

 二句目、三句目とあわせると、

 

 合歡醒馬上 煮茶蠅避烟

 月代見金気 露繁添玉涎

 

となり、烟と涎で韻を踏んでいる。

 

季語は「露」で秋、降物。

初裏

七句目

 

   露繁添玉涎

 張旭が物書なぐる酔の中    芭蕉

 (張旭が物書なぐる酔の中 露繁添玉涎)

 

 張旭はウィキペディアには、

 

 「張旭(ちょうきょく、生没年不詳)は中国・唐代中期の書家。字は伯高。呉郡(現在の江蘇省蘇州市)出身。官は左率府(さそつふ、警備にあたる官庁)の長史(総務部長)になったことから張長史とも呼ばれた。

 草書を極めるとともに、従来規範とされて来た王羲之と王献之、いわゆる「二王」の書風に真正面から異を唱え、書道界に改革の旋風を巻き起こすきっかけとなった。

 詳しい経歴は不詳であるが、地元(現在の常熟市)で官位を得たあと長安に上京、官吏として勤めながら顔真卿・杜甫・賀知章らと交わり書家として活動していた。

 大酒豪として知られ、杜甫の詩「飲中八仙歌」の中でいわゆる「飲中八仙」の一人に挙げられているほどである。」

 

とある。その酔狂のエピソードも、ウィキペディアにある。

 

 「欧陽脩の『新唐書』の伝によると、「酒を嗜み、大酔する毎に、呼叫・狂走して、乃ち筆を下し、或いは頭を以て墨に濡らして書く。既に醒めて自ら視るに、以て神と為し、復た得る可らざるなりと。世 『張顛』と呼ぶ」と伝え、その書は「狂草」と呼ばれた。」

 

 頭に墨をつけて人間筆なんて、今でも結婚式の余興でやる人がいるようだが、最初にやった人は偉い。

 前句の「露繁(つゆけさ)玉涎を添ふ」を文字通りよだれのこととし、酔っ払って頭で書いた書ならさぞかしよだれでべとべとだろう、と付ける。

 

無季。

 

八句目

 

   張旭が物書なぐる酔の中

 幢(とばり)を左右にわくる村竹 芭蕉

 (張旭が物書なぐる酔の中幢を左右にわくる村竹)

 

 「幢(どう)」はコトバンクの「デジタル大辞泉の解説」に、

 

 「1 昔、儀式または軍隊の指揮などに用いた旗の一種。彩色した布で作り、竿の先につけたり、柱に懸けたりした。はたほこ。

 2 魔軍を制する仏・菩薩(ぼさつ)のしるし。また、仏堂の装飾とするたれぎぬ。」

 

とある。張旭が筆を揮う場所を竹林に囲まれたお堂としたか。

 

無季。「村竹」は植物(木でも草でもない)。

 

九句目

 

   幢を左右にわくる村竹

 挈帚驅倫鼡          素堂

 (挈帚驅倫鼡 幢を左右にわくる村竹)

 

 書き下し文にすると、

 

   幢を左右にわくる村竹

 帚(ほうき)を挈(ひっさげ)て倫鼡(ちうそ)を驅(か)る 素堂

 

になる。要するに箒で鼠を追い払うということ。寒山拾得の面影か。

 

無季。「倫鼡」は獣類。

 

十句目

 

   挈帚驅倫鼡

 ふるき都に残るお魂屋     芭蕉

 (挈帚驅倫鼡 ふるき都に残るお魂屋)

 

 「お魂屋(おたまや)」は古語辞典には「①埋葬の前にしばらく遺体を収めておく建物②霊魂をまつってある建物」とある。この場合は後者の方だろう。おそらく御霊信仰に関係したものであろう。御霊は道半ばにして死んだ旅人の霊としての道祖神にも通じるものがある。

 放棄で鼠を追い払う場面を、お寺から神社にした。

 

無季。

 

十一句目

 

   ふるき都に残るお魂屋

 くろからぬ首かきたる柘の撥  芭蕉

 (くろからぬ首かきたる柘の撥ふるき都に残るお魂屋)

 

 首は「かしら」と読む。柘(つげ)の撥(ばち)で首を掻いている人物は琵琶法師だろう。「くろからぬ」というのは旅芸人ではないということか。旧都のお魂屋を拠点としている琵琶法師だろうか。

 

無季。

 

十二句目

 

   くろからぬ首かきたる柘の撥

 乳をのむ膝に何を夢見る    芭蕉

 (くろからぬ首かきたる柘の撥乳をのむ膝に何を夢見る)

 

 前句の柘の撥の持ち主を琵琶法師ではなく、三味線を弾く遊女に取り成す。遊女の子供にどんな未来があるのかと思うと、なんとも物悲しい。

 

無季。

 

十三句目

 

   乳をのむ膝に何を夢見る

 舟鍧風早浦          素堂

 (舟鍧風早浦 乳をのむ膝に何を夢見る)

 

 書き下し文にすると、

 

   乳をのむ膝に何を夢見る

 舟は鍧(ゆる)ぐ風早(かざはや)の浦 素堂

 

となる。「鍧」はおそらく「訇」と同様で、ごうごうという激しい音を表す字であろう。

 「風早の浦」は安芸の国に実在する地名で、

 

 『万葉集』巻十に、

 

   風速(かざはや)の浦に舶泊(ふなどま)りの夜に作る歌二首

 沖つ風いたく吹きせば我妹子が嘆きの霧に飽かましものを

 我がゆゑに妹嘆くらし風早の浦の沖辺に霧たなびけり

 

の歌がある。

 ただし、ここでは「風早の浦」は風のごうごうと吹く浦という意味と掛けて用いられている。風が強い浦で波風の轟々と音を立てる中、舟は木の葉のように揺れ、そんな中で幼い乳飲み子は何の夢を見るのか。

 おそらく壇ノ浦に沈んだ幼い安徳天皇をイメージしたものであろう。

 

無季。「舟」は水辺。「風早浦」は名所、水辺。

 

十四句目

 

   舟鍧風早浦

 鐘絶日高川          素堂

 (舟鍧風早浦 鐘絶日高川)

 

 書き下し文だと、

 

   舟は鍧(ゆる)ぐ風早(かざはや)の浦

 鐘は絶ふ日高川        素堂

 

となる。

 日高川は和歌山県日高川町を流れる。能で有名な道成寺がある。鐘はその道成寺の鐘であろう。紀伊水道もまた波が荒く一般的な意味での風早の浦といえよう。

 「川」は「烟」「涎」の韻を引き継ぐ。

 

 合歡醒馬上 煮茶蠅避烟

 月代見金気 露繁添玉涎

 挈帚驅倫鼡

 舟鍧風早浦 鐘絶日高川

 

となる。

 

無季。「日高川」は名所、水辺。

 

十五句目

 

   鐘絶日高川

 顔ばかり早苗の泥によごされず 芭蕉

 (顔ばかり早苗の泥によごされず 鐘絶日高川)

 

 謡曲『道成寺』は安珍・清姫伝説を能にしたもので、僧の安珍は奥州白河の僧という設定になっている。

 多分そこで芭蕉は自らが白河で詠んだ、

 

 早苗にも我色黒き日数哉   芭蕉

 

の句を思い出したのだろう。

 はるばる白河から旅をしてきた安珍は真っ黒に日焼けしていそうだが、清姫が惚れるほどの美男だったから、きっと顔は日焼けもしてないし、早苗の泥にもまみれてないのだろう、というところか。

 それが仇となって、鐘の中で絶命することになった。

 

季語は「早苗」で夏。

 

十六句目

 

   顔ばかり早苗の泥によごされず

 食はすすけぬ蚊遣火のかげ  芭蕉

 (顔ばかり早苗の泥によごされず食はすすけぬ蚊遣火のかげ)

 

 前句を普通の農夫のこととし、一日泥にまみれて働いて、夏でも食欲旺盛で、まるで口だけは泥に汚れていないかのようだ。夏だから蚊遣火を焚くが、その煤にも食(めし)はすすけない。

 

季語は「蚊遣火」で夏。

 

十七句目

 

   食はすすけぬ蚊遣火のかげ

 詫教三社本         素堂

 (詫教三社本 食はすすけぬ蚊遣火のかげ)

 

 「詫」は「た」と読み、わびる(侘びる、詫びる)という意味だが、ここでは「たく」と読ませているから「託」のことであろう。

 書き下し文だと、

 

   食はすすけぬ蚊遣火のかげ

 詫(たく)は三社をして本とならしむ 素堂

 

となる。

 「三社の詫」は「三社託宣」と呼ばれるもので、コトバンクの「ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典の解説」に、

 

 「伊勢神宮のアマテラスオオミカミ,春日神社の春日大明神,石清水八幡宮の八幡大菩薩の託宣を一幅に書き記したもの。正直,清浄,慈悲が説かれている。神儒仏三教を融合するとともに,皇室,貴族,武士の信仰を1つにまとめている。室町時代末期から江戸時代まで広く庶民信仰の対象として普及した。吉田家の祖,卜部 (うらべ) 兼倶の偽作とされるが根拠はない。」

 

とある。

 その内容は、

 

 天照皇太神宮:計謀雖為眼前利潤必当神明罰

        正直雖非一旦依怙終蒙日月憐

 八幡大菩薩 :雖食鉄丸不受心穢人物

        雖生銅焔不到心穢人処

 春日大明神 :雖曳千日注連不到邪見家

        雖為重服深厚可赴慈悲室

 

 天照皇太神宮:目先の利益ではかりごとをすれば必ず神罰を受ける

        正直は一時しのぎではなく必ず日月の憐れみを蒙る

 八幡大菩薩 :たとえ鉄の塊を食わされても心穢れた人から物をもらってはいけない

        たとえ燃え盛る銅の椅子に座ろうとも心穢れた人の所に行ってはいけない

 春日大明神 :たとえ千日の注連縄が引いてあっても、邪な考えの人の所に行ってはいけない

        たとえ多くの不幸が重なり喪に服していても、慈悲ある人はやってきてくれる

 

 前句の「食はすすけぬ蚊遣火のかげ」を、心清ければ蚊遣火の煙に食が煤けることはない」としたか。

 「三社の詫」は『奥の細道』の旅の途中、須賀川での「かくれ家や」の興行の二十五句目に、

 

   朴をかたる市の酒酔

 行僧に三社の詫を戴きて      曾良

 

の句がある。

 

無季。神祇。

 

十八句目

 

   詫教三社本

 韻使五車塡        素堂

 (詫教三社本 韻使五車塡)

 

 書き下し文だと、

 

   詫(たく)は三社をして本とならしむ

 韻は五車をして塡(いしずえ)とす 素堂

 

となる。

 「五車」はコトバンクの「デジタル大辞泉の解説」に、

 

 「《「荘子」天下から》5台の車に満ちるほどの多くの書。蔵書の多いこと。五車の書。」

 

とある。

 この二句は対句となる。連歌で言えば相対付けになる。

 託は三社の本となり、詩は五車の書物が基礎となる。意味はそんなに関連してなくても対句だからこれでいい。

 五車というと蕪村七部集の一つに維駒編の『五車反古』というのがある。

 これは維駒の父である召波の、

 

 冬ごもり五車の反古のあるじ哉  召波

 

から取ったものだ。

 五台の車にも満ちるほどの反古というと、どんなけ書いては捨てを繰り返したのか。紙の値段の安くなった江戸時代ならではだろう。

 「塡」は「烟」「涎」「川」の韻を引き継ぐ。

 

無季。

二表

十九句目

 

   韻使五車塡

 花月丈山閙        素堂

 (花月丈山閙 韻使五車塡)

 

 書き下し文だと、

 

   韻は五車をして塡(いしずえ)とす

 花月丈山閙(さはが)し

 

となる。

 そういえば初裏で月も花も出てなかった。本当は十七句目あたりにあればいいこの句が十九句目に出ている。変則的な歌仙だけに、忘れてたのか。

 丈山はウィキペディアには、

 

 「石川 丈山(いしかわ じょうざん、天正11年(1583年) - 寛文12年5月23日(1672年6月18日))は、安土桃山時代から江戸時代初期にかけての武将、文人。もとは武士で大坂の陣後、牢人。一時、浅野家に仕官するが致仕して京都郊外に隠棲して丈山と号した。

 江戸初期における漢詩の代表的人物で、儒学・書道・茶道・庭園設計にも精通していた。幕末の『煎茶綺言』には、「煎茶家系譜」の初代に丈山の名が記載されており、煎茶の祖ともいわれる。」

 

とある。気になるのは「煎茶の祖」と言われていることだが、隠元禅師の来日が一六五四年で、寛文元年(一六六一)宇治に黄檗山万福寺を開いたから、その頃に交流があったのかもしれない。

 丈山の代表作というと「富士山」のようで花月の詩はよくわからない。ただ没後も詩仙堂は有名だったのか、花の頃や月の頃は人が集まって騒がしかったのかもしれない。それもこれも五車の書物を学んだことが礎となっている。

 富士山の詩は以下のとおり。

 

   富士山   石川丈山

 仙客来遊雲外巓 神龍棲老洞中渕

 雪如紈素煙如柄 白扇倒懸東海天

 仙界から来た客が雲の上の峰で遊び、

 神龍は火口の中の淵に棲む。

 雪は白絹のようで煙は柄のように、

 白い扇が東海の空に逆さに懸けられている。

 

季語は「花」で春、植物(木類)。「月」は夜分、天象。

 

二十句目

 

   花月丈山閙

 篠を杖つく老の鶯     芭蕉

 (花月丈山閙 篠を杖つく老の鶯)

 

 老の鶯というと、『炭俵』に、

 

 鶯や竹の子藪に老いを鳴く 芭蕉

 

の句がある。

 各務支考の『十論為弁抄』(享保十年刊)にこうある。

 

 「ある時、故翁の物がたりに、此ほど白氏文集を見て、老鶯といひ、病蠶といへる此詞のおもしろければ、

 鶯や竹の子藪に老を啼

 さみだれや蠶わづらふ桑の畑

かく此二句をつくり侍しが、鶯は筍藪といひて、老若の余情をいみじく籠り侍らん。蠶は熟語をしらぬ人は、心のはこびをえこそ聞まじけれ、是は筵の一字を入て家に飼たるさまあらんと、其句のままに申捨らしが、例の泊船集に入たるよし。」(『芭蕉俳諧論集』小宮豊隆、横沢三郎編、1939、岩波文庫、P.139)

 

 ただ、ここでは「竹の子」という夏の季語が入ってるので、この時はまだ「老鶯」を夏の季語として提起したわけではなかったのだろう。

 句は老いた丈山の姿を思い浮かべ、老鶯に喩えたものか。「老鶯」は「老翁」に通じる。季節は春として扱われている。

 

季語は「鶯」で春、鳥類。「篠」は植物(草類)。

 

二十一句目

 

   篠を杖つく老の鶯

 剪銀鮎一寸       素堂

 (剪銀鮎一寸 篠を杖つく老の鶯)

 

 書き下し文だと、

 

   篠を杖つく老の鶯

 銀(しろかね)を剪(き)つて鮎一寸 素堂

 

となる。

 「鮎一寸」は鮎の子で春の季語になる。

 これは対句的な展開で、相対付けといえよう。老鶯に若鮎が対句になる。「剪銀」は比喩で、銀を細く切ったような、という意味。

 

季語は「鮎一寸」で春、水辺。

 

二十二句

 

   剪銀鮎一寸

 箕面の滝や玉を簸(ひる)らん 芭蕉

 (剪銀鮎一寸 箕面の滝や玉を簸らん)

 

 「簸る」はコトバンクの「デジタル大辞泉」によれば、

 

 「[動ハ上一]箕(み)で穀物をあおって、くずを除き去る。

「糠(ぬか)のみ多く候へば、それをひさせんとて」〈著聞集・一六〉」

 

だという。箕面の地名に掛けて、「簸る」とする。

 箕面の滝は箕面大瀧とも呼ばれている。役行者も修行したといわれている。箕面瀧安寺は修験の寺だが、その一方で富籤でも有名だった。ただし、箕面の場合は金銭ではなく牛王宝印の護符だった。

 芭蕉も貞享五年の『笈の小文』の旅を終えて明石から戻る途中に立ち寄っている。

 箕面の滝や玉を簸るというのは、滝の水によって玉が選り分けられるように白銀のような鮎の子がきらきら光るというもの。「簸る」という言葉に富籤をほのめかしたのではないかと思われる。

 

無季。「箕面の滝」は名所。

 

二十三句目

 

   箕面の滝や玉を簸らん

 朝日影頭の鉦をかがやかし  芭蕉

 (朝日影頭の鉦をかがやかし箕面の滝や玉を簸らん)

 

 「鉦(かね)」は金属の皿の形をした打楽器。真鍮製の黄金に輝くものもあり、芭蕉は朝日に喩えている。

 滝の玉に朝日のような鉦はともに丸く輝くもので、響き付けになる。

 

無季。「朝日影」は天象。

 

二十四句目

 

   朝日影頭の鉦をかがやかし

 風飱喉早乾        芭蕉

 (朝日影頭の鉦をかがやかし 風飱喉早乾)

 

 「風飱(ふうさん)喉早乾(のどはやかはく)」と読む。検索すると中国のサイトに「露宿風飱」だとか「風飱水宿」とかいう言葉が見られる。

 露に宿し、風を餐とするというのは飲まず食わずの野宿のことと思われる。

 朝日が鉦のように輝く中、野宿しても風しか食うものがなく、早くも喉が乾く。

 

無季。

 

二十五句目

 

     風飱喉早乾

 よられつる黍の葉あつく秋立て 素堂

 (よられつる黍の葉あつく秋立て 風飱喉早乾)

 

 黍の葉も秋立つ頃は暑さで萎れてよれたようになる。前句の風飱喉早乾を黍のこととした。

 

季語は「秋立て」で秋。「黍」は植物(草類)。

 

二十六句目

 

   よられつる黍の葉あつく秋立て

 うちは火とぼす庭の夕月    芭蕉

 (よられつる黍の葉あつく秋立てうちは火とぼす庭の夕月)

 

 立秋は八月八日前後で、広島原爆忌と長崎原爆忌の間に来る。そのため近代俳句では同じ原爆忌でも広島の場合は夏で長崎の方は秋になる。

 旧暦の場合は年内立春があるように、水無月の上半期立秋もあるが、一般的には文月の初め頃になる。

 夕月はまだ七夕になる前の細い月であろう。夜は暗いので家の中では火を灯す。

 

季語は「夕月」で秋、夜分、天象。

 

二十七句目

 

   うちは火とぼす庭の夕月

 霧籬顔孰與         素堂

 (霧籬顔孰與 うちは火とぼす庭の夕月)

 

 「霧のまがき、かんばせいずれ」と読む。通ってくる男は霧の向こうで、一体誰なの、と恋の句となる。

 

季語は「霧」で秋、聳物。恋。

 

二十八句目

 

   霧籬顔孰與

 𩅧浦目潜焉         芭蕉

 (霧籬顔孰與 𩅧浦目潜焉)

 

 「時雨の浦、目はなみだぐむ」と読む。

 潜を涙ぐむと読むのも本来の読み方ではない。水に潜るというところから、目が水に潜る=涙ぐむとしたか。漢詩というよりも当て字といった方がいい。洒落で作った偽漢文と見た方がいいのだろう。

 前句の「與」を反語に取り成し、霧のまがきの向こうの顔は誰?誰もいやしないとして、船で海を渡っていった人のことを思い、涙ぐむ人とする。

 

季語は「𩅧(しぐれ)」で冬、降物。

 

二十九句目

 

   𩅧浦目潜焉

 ふとん着て其夜に似たる鳥の声  素堂

 (ふとん着て其夜に似たる鳥の声 𩅧浦目潜焉)

 

 其の夜がどういう夜なのかはわからないが、悲しい夜だったのだろう。その夜と同じ鳥の声がする。夜だから梟か何かだろうか。時雨の浦に目は水に潜る。

 

季語は「ふとん」で冬、夜分。「鳥」は鳥類。

 

三十句目

 

   ふとん着て其夜に似たる鳥の声

 わすれぬ旅の数珠と脇指     芭蕉

 (ふとん着て其夜に似たる鳥の声わすれぬ旅の数珠と脇指)

 

 前句の鳥の声を旅の思い出とする。

 『野ざらし紀行』の伊勢のところに「腰間に寸鐵をおびず。襟に一嚢をかけて、手に十八の珠を携ふ」とあるが、ここでは脇差を持って旅したことになる。旅をするときに一時的に僧形になるのはよくある事だった。

 

無季。旅体。

二裏

三十一句目

 

   わすれぬ旅の数珠と脇指

 山伏山平地           素堂

 (山伏山平地 わすれぬ旅の数珠と脇指)

 

 前句の「数珠と脇指」から贋山伏と見たか。山伏なのに平地に居るというのは、丘サーファーのようなものか。

 

無季。「山伏」は人倫。「山」は山類。

 

三十二句目

 

   山伏山平地

 門番門小天           素堂

 (山伏山平地 門番門小天)

 

 これは対句になっている。「山伏は山を平地とし、門番は門を小天とす」となると、何か有難いことを言っているように聞こえる。

 山伏から見れば山は普通の人の平地のようなもので、門番は門が世界の全てだということか。

 

無季。「門番」は人倫。

 

三十三句目

 

   門番門小天

 鶺鴒窺水鉢           芭蕉

 (鶺鴒窺水鉢 門番門小天)

 

 門番にとって門が世界であるように、水に棲む鶺鴒も籠の中では小さな水鉢が世界になる、ということか。

 

季語は「鶺鴒」で冬、鳥類。

 

三十四句目

 

   鶺鴒窺水鉢

 霜にくもりて明る雲やけ     素堂

 (鶺鴒窺水鉢 霜にくもりて明る雲やけ)

 

 「霜曇り」はコトバンクの「大辞林 第三版の解説」に、

 

 「霜が降りるような寒い夜、空が曇ること。 「 -すとにかあるらむひさかたの夜渡る月の見えなく思へば/万葉集 1083」 〔昔、霜が雪や雨などと同じに空から降るものと考えられていたところからの語〕」

 

とある。

 「雲やけ」は雲が赤く焼けるように見えることで、夕焼けと朝焼けがあるが、この場合は朝焼け。気流が乱れて天気が悪くなる予兆でもある。

 『末木和歌抄』に、

 

 さらぬだに霜がれはつる草の葉を

     まづ打ち払ふ庭叩きかな

              藤原定家

 

の歌があるらしく、この「庭叩き」が鶺鴒のことだというので、鶺鴒に霜は付け合いということなのだろう。

 

季語は「霜」で冬、降物。「雲」は聳物。

 

三十五句目

 

   霜にくもりて明る雲やけ

 奥ふかき初瀬の舞台に花を見て 芭蕉

 (奥ふかき初瀬の舞台に花を見て霜にくもりて明る雲やけ)

 

 花の定座ということで霜から強引に花に持ってゆかなくてはならないが、初瀬の山桜を霜に喩えることで解決している。

 長谷寺の本堂はウィキペディアに「本尊を安置する正堂(しょうどう)、相の間、礼堂(らいどう)から成る巨大な建築で、前面は京都の清水寺本堂と同じく懸造(かけづくり、舞台造とも)になっている。」とあり、清水の舞台同様、初瀬の舞台と呼ばれている。

 

季語は「花」で春、植物(木類)。「初瀬」は名所。

 

挙句

 

   奥ふかき初瀬の舞台に花を見て

 臨谷伴蛙仙          素堂

 (奥ふかき初瀬の舞台に花を見て 臨谷伴蛙仙)

 

 書き下し文だと、

 

   奥ふかき初瀬の舞台に花を見て

 谷を臨て蛙仙(あせん)を伴う 素堂

 

となる。

 「蛙仙」は蝦蟇仙人のことだという。ウィキペディアには、

 

 「左慈に仙術を教わった三国時代の呉の葛玄(中国語版)、もしくは呂洞賓に仙術を教わった五代十国時代後梁の劉海蟾をモデルにしているとされる。特に後者は日本でも画題として有名であり、顔輝『蝦蟇鉄拐図』の影響で李鉄拐(鉄拐仙人)と対の形で描かれる事が多い。しかし、両者を一緒に描く典拠は明らかでなく、李鉄拐は八仙に選ばれているが、蝦蟇仙人は八仙に選ばれておらず、中国ではマイナーな仙人である。一方、日本において蝦蟇仙人は仙人の中でも特に人気があり、絵画、装飾品、歌舞伎・浄瑠璃など様々な形で多くの人々に描かれている。」

 

とある。

 初瀬の山の中なら蝦蟇仙人がいてもよさそうだということか。

 おそらく韻を踏むということで発想が限定された結果であろう。漢詩の部分は、

 

 合歡醒馬上 煮茶蠅避烟

 月代見金気 露繁添玉涎

 挈帚驅倫鼡

 舟鍧風早浦 鐘絶日高川

 詫教三社本 韻使五車塡

 花月丈山閙

 剪銀鮎一寸 風飱喉早乾

 霧籬顔孰與 𩅧浦目潜焉

 山伏山平地 門番門小天

 鶺鴒窺水鉢 臨谷伴蛙仙

 

のように、下句は韻を踏んでいる。

 

季語は「蛙」で春、水辺。「谷」は山類。

 

 このあと最後に「元禄 八月八日 終」とある。かなり時間かけて作られていることがわかるが、多分練りに練っての時間ではなく、いまひとつ盛り上がりにかいたために、一気呵成にとはいかず、時々思い出しながら続きを作っていったのだろう。

 素堂は芭蕉の江戸に来たころからの門人で、元禄二年に出版された『阿羅野』に収められた、

 

 目には青葉山ほととぎす初かつを 素堂

 

の句は、今日でもよく知られている。

 その素堂も芭蕉の軽みの風にはついてゆけず、そんな中で試みられたこの和漢俳諧は、芭蕉を自分の得意な分野に誘う意味があったのかもしれない。

 和漢俳諧はその後越人も試みているが、結局定着はしなかった。日本では和語による俳諧が発達しすぎたせいか、漢詩で俳諧をやる文化はほとんど発達しなかった。韓国では十九世紀に金笠(キムサッカ)が登場するが、それも孤高の存在で伝統にはならなかった。

 漢詩は結局母国語ではないということで、大衆的の広がりは生み出しにくかったし、漢詩をたしなむ階層は世俗と一線を画そうとする傾向があって、大衆化できないという部分もあったのだろう。今の現代文学(西洋的文学)も同じだが。