「苅かぶや」の巻、解説

初表

   九月廿日あまり、翁に供せられて、浅草の末嵐竹亭

   を訪ひて、卒に十句を吟ず。興のたえん事をおしみ

   て、洛の旧友をもよほしそのあとをつぐ

 苅かぶや水田の上の秋の雲    洒堂

   暮かかる日に城かゆる雁   嵐竹

 衣うつ麓は馬の寒がりて     芭蕉

   糞草けぶる道の霧雨     北鯤

 古戦場月も静に澄わたり     嵐蘭

   しばし見送る我客の笠    洒堂

 

初裏

 さし汐の門の柱に打よせて    嵐竹

   窓を明れば壁に入虹     芭蕉

 巻藁に片休まするはづし弓    北鯤

   水仙得たる房州の伝手    嵐蘭

 餅つきの釜まはし出ス雪の上   昌房

   場にかさなる鰤の桶漬    正秀

 小作りな内儀かしこき初あらし  臥高

   鶏も鳴なと月待の恋     探志

 懐にこぼす泪のやや寒き     游刀

   とつて戴く三方の熨斗    野径

 花の陰射来す鏑防ぐらん     去来

   鎧にはねのあがる春雨    去来

 

二表

 暖に遊ぶ狐の耳かきて      野童

   池の小隅に芹の水音     野童

 焼付る蛤茶屋の朝の月      史邦

   風に実のいる賤が破れ戸   史邦

 老僧の帽子つれたる秋の昏    景桃

   太鼓聞こゆる源太夫の宮   景桃

 六月は綿の二葉に麦刈て     素牛

   たばこ飲子の北座淋しき   素牛

 操をりの腰にさげたる操の総   之道

   時雨に馬を下りる冬の日   之道

 枝作る松に階子をさしかけて   車庸

   二軒並で家のあたらし    車庸

 

二裏

 聞へよき加賀の蔵本ゆるさるる  探志

   女夫かたぶく木庵の禅    游刀

 鎌入れぬ山は公事なき花の春   正秀

   長芋の芽のもゆる赤土    臥高

 里裏のすずみ起せば去年の雪   野径

   かすむ夕部の鼠とる犬    昌房

 

      参考;『校本芭蕉全集 第五巻』(小宮豐隆監修、中村俊定注、一九六八、角川書店)

初表

発句

 

   九月廿日あまり、翁に供せられて、浅草の末嵐竹亭

   を訪ひて、卒に十句を吟ず。興のたえん事をおしみ

   て、洛の旧友をもよほしそのあとをつぐ

 苅かぶや水田の上の秋の雲    洒堂

 

 稲刈が終わり、刈り株だけが残った水田の上に秋の雲が浮かんでいる。

 秋の雲というと、「575筆まかせ」というサイトから拾うと、

 

 山々や一こぶしづつ秋の雲    涼菟

 

の句の場合はいわゆる羊雲のことと思われる。

 また、

 

 ねばりなき空にはしるや秋の雲  丈草

 

は巻雲のことと思われる。

 上層に生じる雲で、今の感覚でいう秋の雲と同じに見ていいのだろう。

 

季語は「秋の雲」で秋、聳物。

 

 

   苅かぶや水田の上の秋の雲

 暮かかる日に城かゆる雁     嵐竹

 (苅かぶや水田の上の秋の雲暮かかる日に城かゆる雁)

 

 城は『校本芭蕉全集 第五巻』の中村注に「代」のことで、「田地、雁がたむろしていた田の意」とある。日が暮れて田から田へと雁が場所を変えて行く。前句の水田を受けて、夕暮れの雁の姿を添える。

 

季語は「雁」で秋、鳥類。「暮かかる日」は天象。

 

第三

 

   暮かかる日に城かゆる雁

 衣うつ麓は馬の寒がりて     芭蕉

 (衣うつ麓は馬の寒がりて暮かかる日に城かゆる雁)

 

 「衣打つ」は、

 

 み吉野の山の秋風さ夜ふけて

     ふるさと寒く衣うつなり

              藤原雅経(新古今集)

 

の歌がよく知られている。

 この場合は夕暮れになるが、砧の音が聞こえ始める。麓という言葉で山があることを表し、山間の里で馬を引いていると、馬の方が寒がっている。

 

季語は「衣うつ」で秋。「麓」は山類。「馬」は獣類。

 

四句目

 

   衣うつ麓は馬の寒がりて

 糞草けぶる道の霧雨       北鯤

 (衣うつ麓は馬の寒がりて糞草けぶる道の霧雨)

 

 馬の通る麓ということで「道」を付ける。田舎なので糞と草を混ぜた肥料の匂いが漂い、霧雨が降る。

 

季語は「霧雨」で秋、降物。

 

五句目

 

   糞草けぶる道の霧雨

 古戦場月も静に澄わたり     嵐蘭

 (古戦場月も静に澄わたり糞草けぶる道の霧雨)

 

 古戦場も今はすっかり畑に姿を変え、霧雨が晴れれば月だけが昔と変わらない。

 

季語は「月」で秋、夜分、天象。

 

六句目

 

   古戦場月も静に澄わたり

 しばし見送る我客の笠      洒堂

 (古戦場月も静に澄わたりしばし見送る我客の笠)

 

 笠は旅人を思わせる。はるばる遠くから尋ねてきたともがいたのだろう。論語の「朋あり遠方より来る、また楽しからずや」の心だ。

 

無季。「我客」は人倫。

初裏

七句目

 

   しばし見送る我客の笠

 さし汐の門の柱に打よせて    嵐竹

 (さし汐の門の柱に打よせてしばし見送る我客の笠)

 

 「さし汐」はコトバンクの「精選版 日本国語大辞典「差潮」の解説」に、

 

 「〘名〙 (「さしじお」とも) さして来る潮。みち潮。あげ潮。

  ※俳諧・深川(1693)「しばし見送る我客の笠〈洒堂〉 さし汐の門の柱に打よせて〈嵐竹〉」

 

とある。

 港や運河沿いに立つ家で、客人の旅人は舟に乗って去って行く。

 

無季。「さし汐」は水辺。

 

八句目

 

   さし汐の門の柱に打よせて

 窓を明れば壁に入虹       芭蕉

 (さし汐の門の柱に打よせて窓を明れば壁に入虹)

 

 窓を開ければ向かいの壁に虹が映って見える。霧によるものか水しぶきによるものか。

 

無季。「窓」は居所。

 

九句目

 

   窓を明れば壁に入虹

 巻藁に肩休まするはづし弓    北鯤

 (巻藁に片休まするはづし弓窓を明れば壁に入虹)

 

 弓の練習をする方の矢場であろう。娯楽の矢場ではなくて。

 

無季。

 

十句目

 

   巻藁に片休まするはづし弓

 水仙得たる房州の伝手      嵐蘭

 (巻藁に片休まするはづし弓水仙得たる房州の伝手)

 

 鋸南町の元名水仙は安政の頃だというが、それ以前からも安房の方では水仙が栽培されていたのだろう。弓の寒稽古の合間に水仙に心を慰められる。

 江戸で巻かれたのはここまでになる。この先六句は膳所の連衆に引き継がれる。

 

季語は「水仙」で冬、植物、草類。

 

十一句目

 

   水仙得たる房州の伝手

 餅つきの釜まはし出ス雪の上   昌房

 (餅つきの釜まはし出ス雪の上水仙得たる房州の伝手)

 

 もち米を蒸すための釜であろう。大きな釜なので二人がかりで廻しながら、納戸から雪の積もった庭に引っ張り出す。庭には正月前の水仙が咲いている。

 

季語は「雪」で冬、降物。

 

十二句目

 

   餅つきの釜まはし出ス雪の上

 場にかさなる鰤の桶漬      正秀

 (餅つきの釜まはし出ス雪の上場にかさなる鰤の桶漬)

 

 場はこの場合は「には」と読む。

 「鰤の桶漬」はかぶら寿司だろうか。ウィキペディアに、

 

 「かぶら寿司(かぶらずし)は、かぶらに切り込みを入れてブリを挟んで発酵させたなれずし。石川県の加賀地方産のものが全国的に有名だが、富山県西部など、能登地方を除く旧・加賀藩の地域で広く作られる。」

 

とある。正月料理で冬に製造する。

 

季語は「鰤」で冬。

 

十三句目

 

   場にかさなる鰤の桶漬

 小作りな内儀かしこき初あらし  臥高

 (小作りな内儀かしこき初あらし場にかさなる鰤の桶漬)

 

 初嵐は秋の初めの強風で、台風によるものだろう。ワラサ、イナダなどのブリの幼魚はこの頃から獲れ始める。

 小柄な女将さんだから大きなブリを扱いかねて、ブリの小さいうちに漬け込んでおくということか。

 

季語は「初あらし」で秋。「内儀」は人倫。

 

十四句目

 

   小作りな内儀かしこき初あらし

 鶏も鳴なと月待の恋       探志

 (小作りな内儀かしこき初あらし鶏も鳴なと月待の恋)

 

 「鶏」はここでは単に「とり」と読む。

 月待の恋は、満月を過ぎて月の出の遅くなる頃に、月の出を待って訪ねてくる男を待つことで、あまり月の出るのが遅いと、鶏の方が先に鳴いてしまう。

 

季語は「月待」で秋、夜分、天象。恋。「鶏」は鳥類。

 

十五句目

 

   鶏も鳴なと月待の恋

 懐にこぼす泪のやや寒き     游刀

 (懐にこぼす泪のやや寒き鶏も鳴なと月待の恋)

 

 前句を既に鶏が鳴きだして、それに向かって「鳴くな」と咎める体とする。

 待てども来ぬ人に涙を流す。

 

季語は「やや寒き」で秋。恋。

 

十六句目

 

   懐にこぼす泪のやや寒き

 とつて戴く三方の熨斗      野径

 (懐にこぼす泪のやや寒きとつて戴く三方の熨斗)

 

 三方はウィキペディアに、

 

 「三方(さんぼう)とは、神道の神事において使われる、神饌を載せるための台である。古代には、高貴な人物に物を献上する際にも使用された。寺院でも同様のものが使われるが、この場合は三宝(仏・法・僧)にかけて三宝(さんぽう)と書かれることもある。」

 

とある。

 神事で賜ったのであろう。かたじけなさに涙こぼれて。

 花前だがここまでが膳所の連衆で、このあと京の連衆が引き継ぐ。

 

無季。神祇。

 

十七句目

 

   とつて戴く三方の熨斗

 花の陰射来す鏑防ぐらん     去来

 (花の陰射来す鏑防ぐらんとつて戴く三方の熨斗)

 

 鏑(かぶら)は鏑矢のことで、コトバンクの「日本大百科全書(ニッポニカ)「鏑矢」の解説」に、

 

 「矢の一種、篦(の)(矢幹)の先に球形状の木または鹿(しか)の角を中空とし、前方に数個の孔(あな)をうがった鏑というものをつけた矢。これが飛翔(ひしょう)すると孔に風を受け鋭い音響を発する。その形が蕪(かぶら)に似ていることから蕪矢とも、また音を発することから鳴鏑(なりかぶら)、鳴矢(なりや)、鳴鏑矢(なりかぶらや)、響矢(なりや)、嚆矢(こうし)とも書くことがある。その作り方は矢束を通常よりやや長めとし、筈(はず)は觘(ぬた)筈、矢羽は四立(四枚羽)、鏑の先に走り羽と直角になるように雁股(かりまた)を割根(わりね)にすげる。笠懸(かさがけ)や犬追物(いぬおうもの)には、鏃(やじり)をつけない鏑の一種である蟇目(ひきめ)(引目)を用いた。嚆矢が開戦の合図を意味したように鏑矢は古く北方アジア騎馬民族が信号用として使用していたらしい。日本でも古墳からの発掘品や正倉院宝物にこれが残されており、源平の合戦描写にもしばしば使用する場面が描かれている。[入江康平]」

 

とある。

 信号用の矢とぼやかしてはいるけど、ここは暗殺を狙った矢であろう。三方を掴んで咄嗟に防ぐ。あるいは、攻撃されたと思って防いだら信号用の鏑矢だったという落ちか。

 

季語は「花」で春、植物、木類。

 

十八句目

 

   花の陰射来す鏑防ぐらん

 鎧にはねのあがる春雨      去来

 (花の陰射来す鏑防ぐらん鎧にはねのあがる春雨)

 

 敵の矢の襲撃を受けて花の陰に隠れるが、折からの春雨に跳ね上がった泥水が鎧を汚す。

 

季語は「春雨」で春、降物。「鎧」は衣裳。

二表

十九句目

 

   鎧にはねのあがる春雨

 暖に遊ぶ狐の耳かきて      野童

 (暖に遊ぶ狐の耳かきて鎧にはねのあがる春雨)

 

 猫はよく後ろ足で耳を掻いたりしているが、狐もするのだろうか。狐も春雨で泥をかぶり、毛づくろいしている。

 

季語は「暖」で春。「狐」は獣類。

 

二十句目

 

   暖に遊ぶ狐の耳かきて

 池の小隅に芹の水音       野童

 (暖に遊ぶ狐の耳かきて池の小隅に芹の水音)

 

 水音は狐が水を飲んでいるのか。芹の生える所なら水もきれいなのだろう。

 

季語は「芹」で春、植物、草類。「池」は水辺。

 

二十一句目

 

   池の小隅に芹の水音

 焼付る蛤茶屋の朝の月      史邦

 (焼付る蛤茶屋の朝の月池の小隅に芹の水音)

 

 蛤茶屋は難波住吉の蛤茶屋か。ネット上の「難波の風景」というpdfファイルの三月の所に、

 

 「長峡橋の西詰にある茶店では、蛤の吸い物を名物にしており、「蛤茶屋」と呼ばれました。」

 

とある。

 ただ、ここでは「焼付る」とあるから、桑名の焼き蛤の方か。

 ウィキペディアの「富田の焼き蛤」の項に、

 

 「その桑名宿と四日市宿の中間には立場や間の宿といわれる立場茶屋があった。立場とは、元々は駕籠を担ぐときの杖を立てた所という意味で、駕籠かきや人足(荷物を運ぶ人)の休憩所をいう。桑名宿と四日市宿の中間には小向立場⇒松寺立場⇒富田立場⇒羽津立場⇒三ツ谷立場の5つの立場があった。富田の焼き蛤が焼き蛤の中では一番有名で、富田の焼き蛤を桑名藩領であった事から富田ではなくて『桑名の焼き蛤』という。」

 

とある。伊勢参りの人で賑わった。

 いずれにせよ、朝の日が昇る頃には既に蛤を焼き始め、営業を開始している。

 

季語は「朝の月」で秋、天象。

 

二十二句目

 

   焼付る蛤茶屋の朝の月

 風に実のいる賤が破れ戸     史邦

 (焼付る蛤茶屋の朝の月風に実のいる賤が破れ戸)

 

 「実のいる」は「身のいる」であろう。蛤茶屋の栄えるあたりには被差別民の家もちらほら見える。

 

季語は「実のいる」で秋。「賤」は人倫。「破れ戸」は居所。

 

二十三句目

 

   風に実のいる賤が破れ戸

 老僧の帽子つれたる秋の昏    景桃

 (老僧の帽子つれたる秋の昏風に実のいる賤が破れ戸)

 

 帽子は「まうす」と読む。まうす(新仮名で「もうす」)と読む場合は禅宗の僧の被る頭巾をいう。前句の賤(しづ)は葬儀に関係した職業の人か。

 

季語は「秋の昏」で秋。釈教。「老僧」は人倫。「帽子」は衣裳。

 

二十四句目

 

   老僧の帽子つれたる秋の昏

 太鼓聞こゆる源太夫の宮     景桃

 (老僧の帽子つれたる秋の昏太鼓聞こゆる源太夫の宮)

 

 「源太夫の宮」は熱田神宮の摂社の上知我麻神社であろう。熱田区のホームページに、

 

 「尾張名所図会(おわりめいしょずえ)にも描かれている江戸時代の「上知我麻(かみちかま)神社」。熱田神宮の摂社で、江戸時代には「源太夫(げんだゆう)社」とも呼ばれ「智恵の文殊(もんじゅ)」様としても知られています。江戸時代の「源太夫社」前は、東海道と美濃路の分岐点ともなり、往来する多くの人々でにぎわっていました。

 ・北へ行くと「熱田神宮・名古屋城下」へ、

 ・南へ行くと「七里の渡し(桑名)」へ至ります。

 「源太夫社」は、戦後の復興事業のため、昭和24年に熱田神宮境内に遷座され、その後、現在の地には、別の地にあった「ほうろく地蔵」が祀られました。」

 

とある。謡曲『源太夫』の舞台にもなっていて、

 

 「アイ― 熱田の末社の神(狂言方)が登鬚の面をかけて、作物の太鼓台を持出し、三段の舞を舞う。」(野上豊一郎. 解註謡曲全集 全六巻合冊(補訂版) (Kindle の位置No.10229-10232). Yamatouta e books. Kindle 版. )

 

とある。

 

 「昔もうちたる太鼓の御役、今も妙なる秘曲を添へて、撥も数ある楽拍子、今うち寄るも波の調べ 面白やなありがたや。」(野上豊一郎. 解註謡曲全集 全六巻合冊(補訂版) (Kindle の位置No.10455-10459). Yamatouta e books. Kindle 版. )

 

という太鼓の場面が売りになっている。

 前句を能舞台を見る老僧とする。

 

無季。神祇。

 

二十五句目

 

   太鼓聞こゆる源太夫の宮

 六月は綿の二葉に麦刈て     素牛

 (六月は綿の二葉に麦刈て太鼓聞こゆる源太夫の宮)

 

 素牛は後の惟然。美濃の人だが京に来ていたか。

 綿や麦の栽培は源太夫社のあたりの景色か。

 

季語は「六月」で夏。「綿の二葉」は植物、草類。

 

二十六句目

 

   六月は綿の二葉に麦刈て

 たばこ飲子の北座淋しき     素牛

 (六月は綿の二葉に麦刈てたばこ飲子の北座淋しき)

 

 北座はコトバンクの「精選版 日本国語大辞典「北座」の解説」に、

 

 「…最盛期は元禄(1688‐1704)ごろで,四条通りに面して南側に3軒,北側に2軒が向かいあい,大和大路上ル常盤町の2軒とあわせて7軒の劇場がそろい,近隣の祇園,宮川町,先斗町の遊里とともに賑わった。その後興亡をくりかえしたが,幕末には南北2軒だけとなり,1893年四条通りの拡張工事によって北側芝居(北劇場,北座)は廃止され,南側に残った1軒が現在の南座である。江戸時代を通じて名代,座本は一定しなかったが,おもに都万太夫(みやこまんだゆう)と布袋屋(ほていや)梅之丞であった。…」

 

とある。芝居小屋のことであろう。「京都通百科事典」というサイトには、「四条河原町あたりに幕府により許可された七つの歌舞伎芝居小屋の一つ」とある。

 芝居小屋の裏でタバコを吸っている子供は元は綿や麦を育てていた農家の子だったのだろう。

 このあと一巻は大阪へ移る。

 

無季。「子」は人倫。

 

二十七句目

 

   たばこ飲子の北座淋しき

 操をりの腰にさげたる操の総   之道

 (操をりの腰にさげたる操の総たばこ飲子の北座淋しき)

 

 「操をり」はコトバンクの「精選版 日本国語大辞典「綾織」の解説」に、

 

 「④ 放下師(ほうかし)などのする曲芸の一種。数本の竹を手玉に取ったり三味線に拍子を打ち合わせたりする技。また、それに用いる竹。あやおりだけ。〔人倫訓蒙図彙(1690)〕

  ※俳諧・皮籠摺(1699)坤「生壁のにほひに朝日さし入て〈空牙〉 あや織やうに木の小割する〈乙由〉」

 

とある。

 前句の子どもを、芝居小屋で操をりを手伝う芸人見習いとする。

 

無季。

 

二十八句目

 

   操をりの腰にさげたる操の総

 時雨に馬を下りる冬の日     之道

 (操をりの腰にさげたる操の総時雨に馬を下りる冬の日)

 

 前句を旅芸人とし、時雨の降る中を移動する。

 

季語は「冬の日」で冬。旅体。「時雨」も冬で降物、「馬」は獣類。

 

二十九句目

 

   時雨に馬を下りる冬の日

 枝作る松に階子をさしかけて   車庸

 (枝作る松に階子をさしかけて時雨に馬を下りる冬の日)

 

 階子は「はしご」。

 松を育てる人は冬に古い葉を落とす「もみあげ」や透かし剪定などを行う。前句を植木屋とする。

 

無季。「松」は植物、木類。

 

三十句目

 

   枝作る松に階子をさしかけて

 二軒並で家のあたらし      車庸

 (枝作る松に階子をさしかけて二軒並で家のあたらし)

 

 前句の松の手入れを新築の家とする。

 一巻はこの後再び膳所に戻る。

 

無季。「家」は居所。

二裏

三十一句目

 

   二軒並で家のあたらし

 聞へよき加賀の蔵本ゆるさるる  探志

 (聞へよき加賀の蔵本ゆるさるる二軒並で家のあたらし)

 

 蔵本(くらもと)はコトバンクの「ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典「蔵元」の解説」に、

 

 「江戸時代,大坂などにおかれた諸藩の蔵屋敷で蔵物の出納売却などを管理した人。当初は藩派遣の蔵役人がこれにあたったが,寛文年間 (1661~73) 頃から商人があたるようになった。これら町人蔵元は普通,藩から扶持米 (→扶持 ) を給され武士に準じる扱いを受け,蔵物の売却にあたって口銭を得,また売却に関連して莫大な投機的利潤をあげた。蔵元には掛屋 (かけや) を兼ねる者が多く,大名をしのぐほどの経済的実力をもつ者もあった。岡山藩,広島藩,福岡藩などの蔵元をつとめた鴻池家,同じく松江,高松,久留米諸藩の天王寺屋,姫路,松山,熊本諸藩の平野屋は有名である。」

 

とある。この場合も町人蔵元であろう。二軒の立派な家が建つ。

 

無季。

 

三十二句目

 

   聞へよき加賀の蔵本ゆるさるる

 女夫かたぶく木庵の禅      游刀

 (聞へよき加賀の蔵本ゆるさるる女夫かたぶく木庵の禅)

 

 「女夫」は「めおと」。木庵はウィキペディアに、

 

 「木庵性瑫(もくあん しょうとう、万暦39年2月3日(1611年3月16日)- 貞享元年1月20日(1684年3月6日))は、江戸時代前期に明国から渡来した臨済宗黄檗派(黄檗宗)の僧。俗姓は呉氏。勅諡号は慧明国師。福建省泉州府晋江県の出身。」

 

とある。

 裕福な家も宗教に傾倒すれば家が傾く。

 

無季。釈教。「女夫」は人倫。

 

三十三句目

 

   女夫かたぶく木庵の禅

 鎌入れぬ山は公事なき花の春   正秀

 (鎌入れぬ山は公事なき花の春女夫かたぶく木庵の禅)

 

 禅に傾倒して働かなくなれば、山は荒れ放題になるが、荒れた山は誰も欲しがらないので権利を廻って訴訟沙汰になることもない。塞翁が馬というところか。

 

季語は「花の春」で春、植物、木類。「山」は山類。

 

三十四句目

 

   鎌入れぬ山は公事なき花の春

 長芋の芽のもゆる赤土      臥高

 (鎌入れぬ山は公事なき花の春長芋の芽のもゆる赤土)

 

 荒れた山でも自然薯の芽は生えてくる。

 

季語は「長芋の芽」で春、植物、草類。

 

三十五句目

 

   長芋の芽のもゆる赤土

 里裏のすずみ起せば去年の雪   野径

 (里裏のすずみ起せば去年の雪長芋の芽のもゆる赤土)

 

 「すずみ」はコトバンクの「世界大百科事典内のスズミの言及」に、

 

 「稲積の名称や形状は,各地で少しずつ異なっており,ニオのほかニゴ,ミゴ,ニュウ,ニョー,ツブラ,グロ,スズミ,ススキ,ホヅミ,イナムラ,イナコヅミなどと呼ばれ」

 

とあり、稲積のこと。「精選版 日本国語大辞典「稲積」の解説」に、

 

 「いね‐つみ【稲積】

  〘名〙

  ① 刈り取った稲を重ねて置くこと。《季・秋》

  ※俳諧・丈草発句集(1774)秋「稲積に出るあるじや秋の雨」

  ② 寝ること、特に病気をわずらうことをいう正月の忌み詞。

  ※随筆・一話一言(1779‐1820頃)二六「八丈島方言〈略〉正月祝ことば〈略〉イネツミ 煩ふ事」

  いな‐づみ【稲積】

  〘名〙 刈り取った稲を積み重ねたもの。稲塚。稲むら。

  ※播磨風土記(715頃)揖保「山の形も亦稲積(いなづみ)に似たり」

 

とある。

 稲積をひっくり返せば去年の雪がまだ残っている。

 

季語は「去年の雪」で春、降物。

 

挙句

 

   里裏のすずみ起せば去年の雪

 かすむ夕部の鼠とる犬      昌房

 (里裏のすずみ起せば去年の雪かすむ夕部の鼠とる犬)

 

 稲を食う鼠も犬が退治してくれて、目出度く春の遅日も暮れて行く。

 

季語は「かすむ」で春、聳物。「鼠」「犬」は獣類。