「秣おふ」の巻、解説

元禄二年那須余瀬翠桃を尋て(曾良『俳諧書留』)

初表

 秣おふ人を枝折の夏野哉       芭蕉

   青き覆盆子をこぼす椎の葉    翠桃

 村雨に市のかりやを吹とりて     曽良

   町中を行川音の月        芭蕉

 箸鷹を手に居ながら夕涼       翠桃

   秋草ゑがく帷子はたそ      曾良

 

初裏

 ものいへば扇子に顔をかくされて   芭蕉

   寝みだす髪のつらき乗合     翅輪

 尋ルに火を焼付る家もなし      曾良

   盗人こはき廿六の里       翠桃

 松の根に笈をならべて年とらん    芭蕉

   雪かきわけて連歌始る      翠桃

 名所のおかしき小野の炭俵

   碪うたるゝ尼達の家       曾良

 あの月も恋ゆへにこそ悲しけれ    翠桃

   露とも消ぬ胸のいたきに     芭蕉

 錦繍に時めく花の憎かりし      曾良

   をのが羽に乗る蝶の小車     翠桃

 

 

二表

 日がささす子ども誘て春の庭     翅輪

   ころもを捨てかろき世の中    桃里

 酒呑ば谷の朽木も佛也        芭蕉

   狩人かへる岨の松明       曾良

 落武者の明日の道問草枕       翠桃

   森の透間に千木の片そぎ     翅輪

 日中の鐘つく比に成にけり      桃里

   一釜の茶もかすり終ぬ      曾良

 乞食ともしらで憂世の物語      翅輪

   洞の地蔵にこもる有明      翠桃

 蔦の葉は猿の泪や染つらん      芭蕉

   流人柴刈秋風の音        桃里

 

二裏

 今日も又朝日を拝む石の上      芭蕉

   米とぎ散す瀧の白浪       二寸

 籏の手の雲かと見えて翻り      曾良

   奥の風雅をものに書つく     翅輪

 珍らしき行脚を花に留置て      秋鴉

   弥生暮ける春の晦日       桃里

 

       参考;『「奥の細道歌仙」評釈』大林信爾編、1996、沖積社

          『校本芭蕉全集 第四巻』(小宮豐隆監修、宮本三郎校注、一九六四、角川書店)

初表

発句

 

 秣おふ人を枝折の夏野哉       芭蕉

 

 秣(まぐさ)は牧草のことで、「うま・くさ」が縮まったもであろう。芭蕉と曾良は黒羽に来るまでにも野飼いの馬を借りて、かさねという女の子とともに旅をしている。

 黒羽のあたりも馬や牛の放牧が盛んだったのだろう。余瀬の翠桃は黒羽藩家老の弟だから、翠桃自身が自ら秣を負うことがあったのかどうかはわからないが、広い放牧場を所領に持ち、それを管理していたのであろう。

 そういう意味では余瀬の翠桃は「秣おふ人」だった。

 この発句は、そんな「秣おふ人」に案内してもらって、雲岩寺、犬追物の跡、玉藻前の古墳、金丸八幡宮など黒羽の名所を見て回ったことに、労いをこめての挨拶になる。

 枝折は道が分かるように枝を折って置いて行く道しるべで、秣おふ人の枝折があればこそ、この夏野を楽しく見て回ることができました、というような意味になる。

 

季語は「夏野」で夏。「人」は人倫。

 

 

   秣おふ人を枝折の夏野哉

 青き覆盆子をこぼす椎の葉      翠桃

 (秣おふ人を枝折の夏野哉青き覆盆子をこぼす椎の葉)

 

 発句の「哉」は発句としての意味では夏野だろうか、そう夏野だったという治定の「や」だが、それを「夏野だろうか」という若干疑問、推量の意味を含んだ言い回しに取り成して、その推量の根拠が脇句に示される。

 秣負う人の案内で過ごす夏野だろうか、どうりで椎の葉からは青いイチゴがこぼれている、となる。

 椎の葉の上に集めた木苺の実が点々と道の上にこぼれ落ちていて、それが「枝折」となるというわけだ。

 「青き覆盆子」には、芭蕉さんをご案内するのは青いイチゴのような未熟者です、という謙虚な気持ちも込められている。

 「枝折」なんて、別に意図したわけではなく、たまたま私がまだ青い木苺をこぼして歩いているだけです、といったところか。

 

季語は「覆盆子(いちご)」は夏。「椎」は植物、木類。

 

第三

 

   青き覆盆子をこぼす椎の葉

 村雨に市のかりやを吹とりて     曾良

 (村雨に市のかりやを吹とりて青き覆盆子をこぼす椎の葉)

 

 「吹きとりて」を風で吹き飛ばされたと文字通りに解釈する説もあるが、あまり風流とは言えない。村雨が降り出したので辻で開かれる仮設の市場も店じまいして、あたかも吹き飛ばされたかのように跡形もなくなった、と考えたほうが良いだろう。

 店をあわててたたんだ時に、椎の葉に盛っていた青いイチゴがこぼれて、人のいなくなった市場に点々と落ちている情景に転じる。

 

無季。「村雨」は降物。

 

四句目

 

   村雨に市のかりやを吹とりて

 町中を行川音の月          芭蕉

 (村雨に市のかりやを吹とりて町中を行川音の月)

 

 市場が村雨のために中止になり、急遽たたまれたあと、村雨は斑(むら)に降る雨というだけあってすぐに止み、月が出る頃にはひっそり静まった町に川音だけが聞こえる。

 村雨と月の取り合わせは、

 

 月をなほ待つらむものか村雨の

     晴れ行く雲のすゑの里人

               後鳥羽院宮内卿(新古今集)

 忘らるる身を知る袖の村雨に

     つれなく山の月は出でけり

               後鳥羽院(新古今集)

 霧はるる雲間に月は影見えて

     猶ふりすさぶ秋の村雨

               藤原為顕(玉葉集)

 

など、和歌にも多く見られる。それに「市」に「町中」と、四手にきっちりと付けている。

 

季語は「月」で秋、夜分、天象。「川音」は水辺。

 

五句目

 

   町中を行川音の月

 箸鷹を手に居ながら夕涼       翠桃

 (箸鷹を手に居ながら夕涼町中を行川音の月)

 

 「箸鷹」はハイタカのこと。「い」と「し」は交替することが多い。形容詞の語尾も古語では「し」だったものが、現代では「い」に変わっている。

 「川音」に「夕涼み」が付け合い。夕涼みの情景に「ハシタカ」を登場させることで、武将か何かの面影とし、打越の町人の風情を突き放している。

 ハイタカは小型の鷹で小鷹狩に用いるので秋の季語になる。小鷹狩はコトバンクの「精選版 日本国語大辞典「小鷹狩」の解説」に、

 

 「〘名〙 秋に行なう鷹狩り。小形の鷹を使って、主としてウズラ、ヒバリ、スズメなどの小鳥をとる狩り。初鳥狩(はつとがり)。こたか。⇔大鷹狩。《季・秋》

  ※源氏(1001‐14頃)手習「八月十余日のほどに、こたかかりのついでにおはしたり」

 

とある。

 「夕涼み」は夏の季語だが、実際は秋になっても残暑が厳しければ夕涼みをしたいものだ。昔は旧暦七月一日から秋だったから、今の新暦八月の夏休みは昔だったら秋といってよかった。

 

季語は「箸鷹」で秋、鳥類。

 

六句目

 

   箸鷹を手に居ながら夕涼

 秋草ゑがく帷子はたそ        曾良

 (箸鷹を手に居ながら夕涼秋草ゑがく帷子はたそ)

 

 帷子も一重の衣で本来は夏のもの。「夕涼み」には付き物。帷子の柄を「秋草」として、強引に秋にもって行く。

 ハシタカを手に乗せながら夕涼みして、秋の草をあしらった帷子を着こなす粋なお人はだーれ?といったところか。

 

季語は「秋草」で秋、植物、草類。「帷子」は衣裳。

初裏

七句目

 

   秋草ゑがく帷子はたそ

 ものいへば扇子に顔をかくされて   芭蕉

 (ものいへば扇子に顔をかくされて秋草ゑがく帷子はたそ)

 

 前句の秋草帷子の風流人を女性と取り成す。いや、芭蕉の場合これはお小姓か。

 扇子は中世では魔除けの意味があり、人の視線を遮りたい時にも扇子で顔を隠し、一時的な覆面として用いたという。

 そこから、男の視線をさえぎるのにも女性は扇子を用いたのだろう。前句の「誰ぞ」は顔を隠したから「誰ぞ」という意味になる。

 

季語は「扇子」で夏。恋。

 

八句目

 

   ものいへば扇子に顔をかくされて

 寝みだす髪のつらき乗合       翅輪

 (ものいへば扇子に顔をかくされて寝みだす髪のつらき乗合)

 

 扇子に顔を隠す理由を拒絶ではなく、乱れ髪の姿を見られたくないとして展開する。乱れ髪はその前の行為を連想させるため、女性としては恥ずかしい。遊郭からの帰りか。遊郭は通常の町から切り離された川の向こうにでもあったのだろう。乗合船でそこから帰って行く。

 

無季。恋。

 

九句目

 

   寝みだす髪のつらき乗合

 尋ルに火を焼付る家もなし      曾良

 (尋ルに火を焼付る家もなし寝みだす髪のつらき乗合)

 

 ここでは乱れ髪もむさくるしい男のものとなる。早朝に田舎の辺鄙な土地で船を下ろされて、火で暖を取るような家もない。

 

無季。「家」は居所。

 

十句目

 

   尋ルに火を焼付る家もなし

 盗人こはき廿六の里         翠桃

 (尋ルに火を焼付る家もなし盗人こはき廿六の里)

 

 人気のないところは追いはぎが恐い。「廿六の里」は下野にあった「とどろくの里」であろう。芭蕉も日光から黒羽に向かう時、大渡で鬼怒川を渡り、その日は急な雨で玉入に泊まった。この日光大渡間は瀬尾、川室ルートを通ったため通らなかったが、これより南の今の国道461号線の方を通れば轟(とどろく)という所を通る。ここが廿六(とどろく)の里だった。ここには轟早進という足の速い義賊がいたという。

 

無季。「盗人」は人倫。「里」は居所。

 

十一句目

 

   盗人こはき廿六の里

 松の根に笈をならべて年とらん    芭蕉

 (松の根に笈をならべて年とらん盗人こはき廿六の里)

 

 「盗人」に「とらん」が付く。追いはぎのでる恐い里だが、笈を背負った修行僧に盗られるような金目のものはない。ただ年をとるだけ。

 笈は「老い」にも掛けていて芸が細かい。

 昔の数え年では正月になると一つ年を取るので「年とらん」は年の暮れで冬になる。松の木の根元で年を越そうという旅体になる。

 

季語は「年とらん」で冬。旅体。「松」は植物、木類。

 

十二句目

 

   松の根に笈をならべて年とらん

 雪かきわけて連歌始る        翠桃

 (松の根に笈をならべて年とらん雪かきわけて連歌始る)

 

 ここでまた翠桃の句となる。翠桃は江戸で嵐雪系の俳諧師に俳諧を学んだとも言われている。おそらく黒羽では一番の実力を持っていたのであろう。

 芭蕉の紀行文に『笈の小文』があるように、芭蕉の旅も笈を背負っての旅だったのだろう。その姿の連想からか、昔の連歌師も笈を背負いながら興行の席へと集る様子を想像したのであろう。

 

季語は「雪」で冬、降物。

 

十三句目

 

   雪かきわけて連歌始る

 名所のおかしき小野の炭俵

 (名所のおかしき小野の炭俵雪かきわけて連歌始る)

 

 この句は曾良の『俳諧書留』には作者の名前が記されていない。後に編纂された集には翅輪の句となっている。

 付け筋からすれば、「連歌」に連歌用語の「名所」が付く。この頃の「名所」はほぼ歌枕と同義と考えていい。

 「小野の篠原」であれば連歌っぽい趣向となるが、そこを「小野の炭俵」とすることで俳諧っぽく落としている。

 炭俵といえば、五年後の元禄7年に芭蕉の軽みの風を代表する撰集『炭俵』たある。その序文には、

 

 「ひと日芭蕉旅行の首途に、やつかれが手を携えて再会の期を契り、かつ此等の集の事に及て、かの冬籠の夜、きり火桶のもとにより、くぬぎ炭のふる哥をうちずしつるうつりに、炭だはらといへるは誹也けりと独ごちたるを、小子聞をりてよしとおもひうるとや、此しうをえらぶ媒と成にたり。」

 

とある。

 火鉢に炭をおこし、それを取り囲む、その質素さこそが俳諧の心だというわけだ。

 句意は、連歌が始まったのだけど二流の連衆の集まりで、名所の句が何か変なんだが、変ななりにおもしろい。それが「小野の炭俵」という言い回しだ、といったところだろう。私は、こんな発想をするのは芭蕉以外にいないと思う。

 想像するに、みんなが付けあぐねている時に、誰かが連歌だから名所を出したらどうか、たとえば小野だとか、と言った。そこで芭蕉がそれにインスパイアされてこの句を作ってしまったが、芭蕉自身も元は他人の案だったため自分の句とするのは気恥ずかしい。そこで芭蕉は最初に案を出した人にこの句を譲ろうとしたが、本人が辞退したために作者名のない句となったのではなかったか。

 なお、小野の篠原は、

 

 浅茅生の小野の篠原しのぶとも

     人知るらめやいふ人なしに

                よみ人しらず(古今集)

 

などの歌に詠まれている。

 

無季。「小野」は名所。

 

十四句目

 

   名所のおかしき小野の炭俵

 碪うたるる尼達の家         曾良

 (名所のおかしき小野の炭俵碪うたるる尼達の家)

 

 小野は比叡山山麓の歌枕で「小野」と「尼」は付け合い。小野の里の人たちは炭を焼いてそれを炭俵に詰め、里に棲む尼は砧を打つ。迎え付け(相対付け)になる。

 

季語は「碪」で秋。釈教。「家」は居所。

 

十五句目

 

   碪うたるゝ尼達の家

 あの月も恋ゆへにこそ悲しけれ    翠桃

 (あの月も恋ゆへにこそ悲しけれ碪うたるる尼達の家)

 

 碪に月と言えば、

 

   子夜呉歌       李白

 長安一片月 萬戸擣衣声

 秋風吹不尽 総是玉関情

 何日平胡虜 良人罷遠征

 

 長安のひとひらの月に、どこの家からも衣を打つ音。

 秋風は止むことなく、どれも西域の入口の玉門関の心。

 いつになったら胡人のやつらを平らげて、あの人が遠征から帰るのよ。

 

 尼にも誰かを待つ恋心があるのか、砧の音が悲しく響く。

 

季語は「月」で秋、夜分、天象。恋。

 

十六句目

 

   あの月も恋ゆへにこそ悲しけれ

 露とも消ね胸のいたきに       芭蕉

 (あの月も恋ゆへにこそ悲しけれ露とも消ね胸のいたきに)

 

 悲しくて苦しくて胸の鼓動が高まることを「胸の痛み」というのは、今日ではしばしば用いられる表現だが、和歌や連歌ではこういう言い方はしない。俳諧ならではの斬新な表現だったと思われる。

 「露とも消ね」は文法的にわかりにくい。「も」は特に已然形を取る係助詞ではない。考えられるのは、本来「露と消えねども」を倒置にして「露とども消えね」となり、「と」と「ど」の重複を嫌って省略された言い回しだ。これは「露こそ消えね」が「露と消えねばこそ」を倒置にした上で「ば」が欠落した形であるところから、ありそうな言い回しだ。

 

季語は「露」で秋、降物。恋。

 

十七句目

 

   露とも消ね胸のいたきに

 錦繍に時めく花の憎かりし      曾良

 (錦繍に時めく花の憎かりし露とも消ね胸のいたきに)

 

 「時めく」は本来時流に乗った、という意味で、今日の「今を時めく」の用法に残っている。

 錦の刺繍をほどこした立派な衣装を着た今を時めく花のような男が憎たらしい。まあ、こういう男は他の女の所にふらふらと行っちゃいそうだ。

 花はこの場合比喩(にせものの花)だが、初折の花の定座は植物の花にこだわらなくても良いことになっている。

 

季語は「花」で春、植物、木類。恋。

 

十八句目

 

   錦繍に時めく花の憎かりし

 をのが羽に乗る蝶の小車       翠桃

 (錦繍に時めく花の憎かりしをのが羽に乗る蝶の小車)

 

 これは前句の比喩の花を、逆に錦繍のように時めく本物の花へと転じたものか。蝶は自分の羽で飛ばなくてはならない。別に立派な車に乗せてもらえるわけでないので、じっとしているだけでいい花が憎たらしい。

 

季語は「蝶」で春、虫類。

名表

十九句目

 

   をのが羽に乗る蝶の小車

 日がささす子ども誘て春の庭     翅輪

 (日がささす子ども誘て春の庭をのが羽に乗る蝶の小車)

 

 芭蕉の時代には大人用の絵日傘とともに小児日傘が流行したという。いずれも紙製だった。文政期に成立した加藤史尾庵の『我衣』には「小児日傘も天和頃より下る。地(江戸)にても作る。五色の彩色したるもの也。青紙のあつらへ也。藍紙にて一色に染たるも有り。近来、大人もさす。僧医者の類ひ、上方にては前々より有由」という。

 後に、日傘は贅沢としてしばしば禁制が出されたが、子供用の日傘は対象外だったようだった。また、祭りの時には鈴や袋などの飾りが付いた柄の長く高く差し上げる日傘が用いられた。

 前句を単に蝶の舞う光景として、今時の風俗でもあった日傘を指す子供を付けたのであろう。

 絵日傘の方は貞享元年の秋、『野ざらし紀行』の餞別興行ともいえる「時は秋」の巻七句目に、

 

   をろさぬ窓に枝覗く松

 傘の絵をかくかしらかたぶけて    芭蕉

 

の句がある。

 

季語は「春」で春。「日がさ」は衣裳。「子ども」は人倫。「庭」は居所。

 

ニ十句目

 

   日がささす子ども誘て春の庭

 ころもを捨てかろき世の中      桃里

 (日がささす子ども誘て春の庭ころもを捨てかろき世の中)

 

 子供はおしゃまに日傘を指していたかと思えば、急に服を脱いで遊び出したりもする。このように物事に執着しない軽い世の中でありたいものなのだが、大人はそうもいかない。

 

無季。「ころも」は衣裳。

 

二十一句目

 

   ころもを捨てかろき世の中

 酒呑ば谷の朽木も佛也        芭蕉

 (酒呑ば谷の朽木も佛也ころもを捨てかろき世の中)

 

 「ころもを捨て」から伊勢の五十鈴川で禊した時に服を乞食にくれてやり、裸で戻ったという増賀上人を連想したのか。ただ、増賀上人が酒飲みだったという記述は説話には見られない。ただ、奇行の多かった増賀上人のことだから、本当は酒飲みだったというのもありそうなことで、本説を取る場合はオリジナルと少し変えるのが普通だ。

 増賀上人であれば、酒を飲んでも飲まなくても谷の朽木を見てもそこに仏の姿を見出したであろう。

 

無季。釈教。「谷」は山類。

 

二十二句目

 

   酒呑ば谷の朽木も佛也

 狩人かへる岨の松明         曾良

 (酒呑ば谷の朽木も佛也狩人かへる岨の松明)

 

 釣りで一匹も釣れずに帰ることを今でも「坊主」という。その心は‥‥殺生をしません。

 獲物もなく、ただ酒飲んで帰る谷の朽木のような狩人もまた、仏と言ってもいいのだろう。

 

無季。「狩人」は人倫。「岨」は山類。「松明」は夜分。

 

二十三句目

 

   狩人かへる岨の松明

 落武者の明日の道問草枕       翠桃

 (落武者の明日の道問草枕狩人かへる岨の松明)

 

 落ち延びた武将が山道で狩人に道を尋ねる。道という言葉には単に道路や街道のことではなく、生きる道、人生を尋ねるという隠喩も含まれる。特に「明日の道」といった場合はそうだ。

 これも何か出典があるのだろうか。かつては名のある武将が、山に住む仙人のような狩人に人生を諭されるという話は、いかにもありそうだ。『楚辞』の漁夫問答を彷彿させる。

 これも面影付けのようだが、「狩人」に「落武者」を付けているが、対句的に対比するのではなく、意味の上で繋がっているので「違え付け」になる。

 

無季。旅体。「落武者」は人倫。

 

二十四句目

 

   落武者の明日の道問草枕

 森の透間に千木の片そぎ       翅輪

 (落武者の明日の道問草枕森の透間に千木の片そぎ)

 

 「千木の片そぎ」は神社の屋根によくある上に突き出した柱で、その先を斜めに切ることを片そぎという。

 

 やわらぐる光や空に満ちぬらん

     雲に分け入る千木の片そぎ

                寂蓮法師(夫木抄)

 

の歌は出雲大社を詠んだもの。「やわらぐる光」は「和光同塵」のこと。仏の光を和らげて塵に交わる神道の出雲大社は、千木の先が鋭く斜めに切ってあって、雲に突き刺さるようだ、という歌だ。

 旅の落ち武者が道を問えば、神道がその答となる。

 津久江翅輪は芭蕉を金丸八幡神社に案内している。

 

無季。神祇。

 

二十五句目

 

   森の透間に千木の片そぎ

 日中の鐘つく比に成にけり      桃里

 (日中の鐘つく比に成にけり森の透間に千木の片そぎ)

 

 「日中」は仏教で一日を六つに分ける「六時」の一つ。六時は晨朝・日中・日没(にちもつ)・初夜・中夜・後夜をいい、日中は正午のこと。

 明治の神仏分離前には、本地垂迹で神社とお寺は二つで組になっていることが多く、鐘の鳴る寺の隣にはたいてい神社が併設されている。

 森の隙間に神社が見えると正午の鐘が鳴る。

 

無季。釈教。

 

二十六句目

 

   日中の鐘つく比に成にけり

 一釜の茶もかすり終ぬ        曾良

 (日中の鐘つく比に成にけり一釜の茶もかすり終ぬ)

 

 元禄の頃は隠元和尚の持ち込んだ唐茶という煎茶の前身にあたるようなものが急速に広まった。一釜で煮るのが特徴。それが正午にはなくなるのだから、お寺にそれだけ多くの人が来たのだろう。

 

無季。

 

二十七句目

 

   一釜の茶もかすり終ぬ

 乞食ともしらで憂世の物語      翅輪

 (乞食ともしらで憂世の物語一釜の茶もかすり終ぬ)

 

 相手が乞食とも知らずに長々と世間話をしていると、いつの間にお茶がなくなっていた。

 

無季。「乞食」は人倫。

 

二十八句目

 

   乞食ともしらで憂世の物語

 洞の地蔵にこもる有明        翠桃

 (乞食ともしらで憂世の物語洞の地蔵にこもる有明)

 

 地蔵を祭った洞穴のようなところに籠っている人がいたので、厳しい修行に耐えている高僧だと思って、夜を徹して悩み事などを聞いてもらい、いつの間に夜も更けて有明の月となる。

 朝になってよく見ると、どうもただの乞食坊主だったようだ。

 

季語は「有明」で秋、夜分、天象。釈教。

 

二十九句目

 

   洞の地蔵にこもる有明

 蔦の葉は猿の泪や染つらん      芭蕉

 (蔦の葉は猿の泪や染つらん洞の地蔵にこもる有明)

 

 月に猿は付き物。水に写る月を取ろうとする猿は、伝統絵画の画題としても定番で、分不相応の高望みをするという意味。出世だったり、恋であったり、かなわぬ夢を追っては満たされない心を、昔の人は戯画化してそう描いた。

 とはいえ、猿の声は中国の古典では、その悲痛な叫び声が涙を誘うものだった。これは昔は中国南部にもテナガザルが生息していて、物悲しいロングコールを実際に聞くことが多かったからだ。

 『野ざらし紀行』の旅で芭蕉は富士川で、捨子の今にも消えそうな命の声に猿の声をかさね合わせている。

 ここではあえて「猿の声」ではなく、「猿の泪」と言い、猿の声を言外に隠す。そして、和歌では蔦や楓の葉を染めるのは時雨だから、「猿の泪」が染めるののだろうかとすることによって、時雨が猿の泪と重なる。

 叶わぬ夢に猿も涙するかのように蔦の葉が赤く染まって行くと、そこに雨上がりの明け方の空に有明の月が現れる。

 猿と時雨、このモチーフは『奥の細道』の旅を終えた後、故郷の伊賀へ戻る道すがら、あの

 

 初しぐれ猿も小蓑をほしげなり    芭蕉

 

の句に結実されることになる。

 

季語は「蔦の葉」の「染」で秋、植物、草類。「猿」は獣類。

 

三十句目

 

   蔦の葉は猿の泪や染つらん

 流人柴刈秋風の音          桃里

 (蔦の葉は猿の泪や染つらん流人柴刈秋風の音)

 

 前句の猿の悲しげな声を流人の心情として、秋風の音を添える。

 しみじみとするような前句の情をうまく転換できていない。

 後の「軽み」の頃なら思い切り卑俗に落としてシリアス破壊する所だろう。

 

季語は「秋風」で秋。「流人」は人倫。

名裏

三十一句目

 

   流人柴刈秋風の音

 今日も又朝日を拝む石の上      芭蕉

 (今日も又朝日を拝む石の上流人柴刈秋風の音)

 

 展開の苦しい場面で、流人が故郷を思って、毎日石の上で朝日を拝むとする。磯の岩であろう。

 

無季。「朝日」は天象。

 

三十二句目

 

   今日も又朝日を拝む石の上

 米とぎ散す瀧の白浪         二寸

 (今日も又朝日を拝む石の上米とぎ散す瀧の白浪)

 

 森田二寸についての詳しいことはわかっていない。ただ、少なくともここでは重苦しい座を見事に救った救世主だ。

 「朝日を拝む」を単に早起きする程度の意味に取り成して、「米とぎ」という日常的な行為へと展開する。そうなると、「石の上」をどうにかしなければならないが、それを米を研ぐ場所が滝つぼだったと、見事な展開である。芭蕉も一本取られたか。

 あるいはこういう所から後の「軽み」のヒントを得ていたのかもしれない。

 

無季。「瀧」は山類。「白浪」は水辺。

 

三十三句目

 

   米とぎ散す瀧の白浪

 籏の手の雲かと見えて翻り      曾良

 (籏の手の雲かと見えて翻り米とぎ散す瀧の白浪)

 

 二寸の句の良い所は、滝で米を研ぐという実景にも、米の研ぎ汁の白く濁ったのが滝の白波のようだという比喩にも取れるということだ。

 曾良の句は、ほぼお約束どおり、「滝の白波」を米の研ぎ汁の比喩に取り成し、竹竿の先にくくりつけられた旗がひらひらしているのを雲に例えている。いわゆる迎え付けで、研ぎ汁の浪に旗の雲といったところか。

 

無季。「雲」は聳物。

 

三十四句目

 

   籏の手の雲かと見えて翻り

 奥の風雅をものに書つく       翅輪

 (籏の手の雲かと見えて翻り奥の風雅をものに書つく)

 

 雲のような旗を源氏の白旗と取り成したか。那須与一は黒羽ゆかりの英雄であり、那須与一の属した義経の軍が壇ノ浦までの勝利の栄光の後、一転して頼朝の怒りをかい、翻されてしまったのを惜しみ、その物語を陸奥の風雅に書き残したと付く。

 

無季。

 

三十五句目

 

   奥の風雅をものに書つく

 珍らしき行脚を花に留置て      秋鴉

 (珍らしき行脚を花に留置て奥の風雅をものに書つく)

 

 ここで黒羽藩城代家老浄法寺図書高勝がようやく登場する。

 本来なら弟の翠桃と並ぶくらいの句があってもよさそうなのだが、この最後の花の句だけというのは寂しい。秋鴉はこの俳諧興行<の執筆を務めていたのではなかったか。

 執筆は普通、挙句の一句だけを詠むか、連衆の最初の一順の後というのが多いが、これも慣習であって、必ずしもそうしなくてはならないというものではない。だから、最後の花の句だけを執筆が詠むということがあっても不思議ではない。

 秋鴉が主筆だったとすると、この句も納得がいく。「珍らしき行脚」はもちろん芭蕉と曾良の来訪のことで、「留置て」はこの私がホストとして黒羽の地で客人をもてなしたことを言い、そして下句の「奥の風雅をものに書つく」と、自ら執筆を勤め、今回の俳諧風雅を書き付けた、と結ぶ。

 

季語は「花」で春、植物、木類。旅体。

 

挙句

 

   珍らしき行脚を花に留置て

 弥生暮ける春の晦日         桃里

 (珍らしき行脚を花に留置て弥生暮ける春の晦日)

 

 さて、挙句は特に意匠を凝らさずに、さらっと流して終る。

 本当は四月の始めのことだったのだが、前句が「春」なので、ここも春で終らせなくてはいけない。そこでちょっと妥協して弥生の晦日とした。

 

 さあ、俳諧は終った。あとは浄法寺図書高勝(秋鴉)の持参した重箱のご馳走をみんなで食おうというところだろう。

 芭蕉は元伊賀藤堂藩の料理人。料理にはうるさい。曾良も、象潟で「料理何くふ」と詠んでいるくらいだから、グルメと見た。もちろん浄法寺図書が黒羽藩の威信を賭けて用意した料理だ。まずいはずがない。

 こうして俳諧は終り、あとは酒宴が繰り広げられたのであろう。これがいわゆる「挙句の果て」。

 

季語は「弥生」「春」で春。

 

翠桃:鹿子畑豊明 二十八歳 父は鹿子畑高明で母は城代家老の浄法寺高政の妹。

秋鴉:浄法寺図書高勝(鹿子畑高勝) 二十九歳 浄法寺高政は城代家老五百石で、鹿子畑高勝はその養子となり、城代家老となる。

翅輪:津久江翅輪

蓮見桃里(桃里は余瀬の本陣問屋蓮実伝之丞政長)

森田二寸

 

 「奥の細道」を読んで、芭蕉が世話になったという黒羽藩の家老浄法寺桃雪、鹿子畑翠桃の兄弟を調べていき、諸資料をつないでみると次のようになった。

 

 矢矧の方の姪が懐妊後、親戚に下げわたすというのが事実(可能性は非常に高い。おおくの史書がそう説明する。)とすると、二人の兄弟には、徳川家康の血が流れていることがわかった。藩主大関家は、家康の娘をもらったことになる。(大雄寺にシャン姫(しゃむ姫)愛用の茶碗が展示されている。)その娘は浄法寺家に嫁入りして、浄法寺高政と娘を生み、月桂院とよばれた。高政に継子無く、娘が鹿子畑家に嫁に行って生んだ兄を浄法寺家の跡取りとして迎えたのが高勝であり、次男が鹿子畑家を継いだ豊明である。両家は石高五百石の家老職と遜色のない四四八石の家であった。

 

 浄法寺、鹿子畑家は、一万八千石の大名大関家にとっては、藩主の娘が嫁に行った家老とそれに継ぐ家であり、二十九才の若造は当時の働き盛り、藩主大関増栄が逝去するとき、子ども増成はすでに無く、わずか二才の増恒に跡を継がせるという非常事態になっており、浄法寺高勝への負担は相当のものがあったと考えられる。その意味では、若いながらも藩の中心人物として、幼少の藩主を立てながらも、芭蕉・曾良の旅人二人くらいの面倒は何ともなかったのであろう。惜しむらくは、藩主があまりにも若い四才では、芭蕉の偉大さを認識できなかったことであろうか。

 

 これよりさき、高勝・豊明の二人を伴って、一時、父親の鹿子畑高明が、黒羽を引き払い江戸の親類宅に住んだ折に芭蕉と知り合ったというが、その引き払いは、浄法寺高政との遠慮や対立、江戸屋敷の藩主大関増栄への接近、一転しての浄法寺家跡継ぎという解決を結果として残したのではないかと考えている。南千住浅草に近い「大関家江戸屋敷」の付近「大関横丁」に住んでいたとすると、芭蕉の住む深川へも通いやすい状況があったと考えられる。子ども二人に「桃」の号字を与える芭蕉庵桃青は、よほど彼らの才能も見抜き惚れ込んでいたに違いない。