11月23日

 今日は東海道の続きでいよいよ箱根越え。
 この日のためにハイキング用の装備の整えた。もっとも本格的に山登りをするつもりはないので、とりあえずそんなに大げさでないローカットのトレイルウォーキングシューズと十八リットルの自転車用のザックを選んだ。安物のスニーカーと手提げ袋から較べると大きな進歩だ。


 朝六時に家を出て、八時過ぎには箱根湯本に着いた。快晴でそんなに寒くなく、今日もぽかぽかとした小春日和になりそうだ。
 まず、前回も行った宗祇法師終焉の地の近くにある熊野神社に旅の無事を祈願した。そこから旧街道に出る。前回通った温泉街の坂道だ。
 すぐに最初の石畳区間に出る。さすがに靴がいいせいか、足の負担は前回ほどではない。この前見た毛足の長い猫は、今日はいなかった。
 一時間ほどで前回の到達点、箱根大天狗神社の所まで来た。山の紅葉の美しさの前では、このきらびやかな大伽藍も形無しだ。
 箱根大天狗神社の鳥居の前の大きなカーブは「女転し坂(おんなころしざか)」というらしい。ここで落馬して死んだ女の人がいたらしい。だったら「女殺し」ではないかと思ったが、それじゃナンパの名所みたいだから、「転ばす」という字を当てて「ころし」と読ませた方がいいのか。
 その先にも大きなケバい稲荷神社がある。同系列の神社のようだ。左側のお狐さんは、なぜかトウモロコシを咥えている。「ここには何もない、行くが良い」とお狐さんが言ってるような気がしたので、とりあえずスルーする。
 やがて右に須雲川自然探勝歩道への分岐がある。一部旧街道と書いてあり、全部ではないようだ。
 ここの石畳の道はほとんどは近代に入ってから整備しなおしたものだが、ほんのわずかな区間、「江戸時代の石畳」という表示がある。違いは微妙だが、江戸時代の方が石が大きく不ぞろいで、近代のは同じような大きさの石でできているように思える。

 ふたたび車道に戻りしばらく行くと畑宿の集落に入る。ここに駒形神社がある。石段を登っていったところに社がある。狛犬は平成二年銘。

 畑宿は寄木細工の盛んなところで、寄木細工作りを体験できる工房がいくつかあり、畑宿寄木会館では、寄木細工の展示と販売が行なわれている。
 車道が大きくカーブをしている所を真直ぐ行くと両側に大きな畑宿の一里塚がある。復元されたものらしい。
 この石畳の道は箱根新道を跨ぐ所で橋にになっているのだが、橋の上に土を乗せ、石畳が敷いてある。


 その先は旧道の車道がいろは坂のように七曲りする場所で、石畳の道はここで途切れる。元はここを真直ぐ登っていたようで、かなりの急坂だったと思われる。
 上の方へ行くと石畳の道が復活し、橿の木坂という急坂になる。昔の人はこんな所を駕籠を担いで登ったと思うと雲助は凄い。「雲助」というと後に運転手に対する差別的な言葉として用いられるようになったが、本物の雲助はそれこそ超人的な体力があったとしか思えない。お猿の駕籠屋半端ねえ。

 一気に高い所まで来ると、視界が開けたところがあり小田原から大磯丘陵を経てその向こうの平塚まで、今まで歩いてきた所が見える。
 ふたたび車道に合流して少し行くと甘酒茶屋があって、人がたくさんいる。駐車場完備の休息所になっている。ここを過ぎたあたりでふくらはぎに違和感が‥‥。さっきの急坂がきいたようだ。茶屋で少し休んでいけばよかったか。

 小春日に汗をかきけり箱根越え

 とりあえずしばらく立ち止まっていると何とか回復した。ふたたび長い石畳の道に入る。やがて道は緩やかな下りに転じ、「箱根八里は馬でも越すが‥」の碑がある。この裏側から見ると箱根駒ケ岳のロープウェーの駅が見える。
 さらにいくとお玉観音堂の所で車道に出る。このあたりから芦ノ湖が見える。右側には赤い鳥居があるので行ってみると社はなく、木が御神体として祀ってあった。

 ここから先、権現坂の下りとなり、元箱根に出る。ケンペル・バーニーの碑のところで車道と合流


し、ここから杉並木になり、箱根神社の大きな一の鳥居のところに出る。十一時半だった。
 さて、ここから東海道を行くのなら当然左に曲がる所だが、せっかく来たのだからということで、箱根神社に参拝しておくことにした。
 元箱根のあたりは連休でこの天気とあって、結構人通りが多い。二の鳥居を過ぎ境内までは結構距離があった。

 いろいろ境内社が並んでいたが、どれも赤く塗られている。その中で、曽我神社に狛犬がいるのを見つけた。明治四十年明の狛犬は至る所セメントで補修されていていた。両方とも口が半開きで阿吽はないようだった。
 曽我神社は元々非業の死を遂げた曽我兄弟の霊を鎮めるためのものだったが、江戸時代になって仇討ちを果たした「孝」を讃える神社に変容したという。よくあることだ。靖国神社も基本的には戦没者の霊を鎮めるためのものだったが、それが戦犯を賛美するものに変質したのは、おそらく七十年代にA級戦犯が合祀されて以降のことだろう。まあ、それも一部の人たちが勝手にそう思っているだけだとは思うが。
 箱根神社の拝殿の前にも大きな狛犬があった。上野東照宮のものにもよく似た厳つい招魂社系で、籠(この)神社型とも呼ばれているようだ。体も台座も苔だらけで荒れ果てていて、銘も読めなかった。

 隣に九頭龍神社の拝殿があった。九頭龍神社というと「ささみさん@がんばらない」にもその名前の孤島の神社があったが、箱根神社と九頭龍神社は併記されていて、どうもただの境内社ではないようだ。九つの龍の口から水が出ているところは人だかりがしていた。この龍神水は平成二十二年から始まったものらしいが、パワースポットブームに乗っかって縁結びに効果があるとして有名になったために、新たに蛇口を九つに増やして行列ができないようにしたようだ。
 入口の方に戻ると駐車場のほうに狛犬がいるのを見つけた。祓戸神社と書いてあり、神輿庫になっていたが、その裏に本殿があり、その前に狛犬が一対いた。

 さて、神社を出たら十二時を過ぎていた。日は短いし急がなくては暗くなるとはいっても、昼食は食べたい。元箱根を出たら、多分食べる所はないだろう。
 道路を行くよりも湖の脇を歩いたほうが近道だとわかった。
 一の鳥居の所まで戻り、1号線を歩くと、それまで山の陰に隠れていた富士山が顔を出した。箱根神社の湖畔にある鳥居に富士山で、絵葉書みたいな景色になった。
 そういえば、今まで一度ちらっと山の影からはみ


出るように見えたのを除けば、ここまでちゃんとした富士山の姿を見ることはなかった。ずっと箱根山の陰に隠れていた。旧東海道の箱根越えの道で富士山が見えるスポットは意外に限られている。だから芭蕉さんも、霧がかかって富士山が見えなくても、そんなに気を留めなかったのかもしれない。富士山は箱根を越え

ればどこでも見るチャンスはあるし、だから、いつの間にか箱根を通り過ぎて、「そういえば富士山見てなくない?」って感じで、「霧時雨富士を見ぬ日ぞ面白き」と詠んだのかもしれない。でも、やはり富士山は見えたほうがいい。

 冬紅葉富士は素直に面白い

 やがて一里塚跡の碑がありここから杉並木の道が1号線と並行することになる。杉並木は日光に行った時、もう結構と思ったが、久しぶりに見るといいものだ。

 小春日の影を落とせよ杉並木

 ふたたび1号線に合流すると、すぐに箱根の関所へ行く道が右にある。ここで関所を通過しないと関所破りになる。
 入口の所に切符売り場があった。エーッ、お金取るの?と思ったが、中の展示を見なければいいだけで、通り過ぎるだけなら只だった。


 ふたたび1号線に戻ると海賊船を模した遊覧船の乗り場があり、その脇に飲食店が並んでいた。この辺で食べておかないとということで、レストラン・トラウトで海賊丼を食べた。ご飯の上に刻みキャベツが乗っていて、その上にレインボウ・トラウトとワカサギのフライが乗っていてソースがかけてあるというソースカツ丼のバリエーションみたいなもので、味噌汁、おしんこがついて千円だった。外人の一団もいたりして結構にぎわっていた。

 食べ終わると1号線をさらに行き、やがて右に旧道が分かれて静かな集落の中へと入って行った。左側に駒形神社があった。駒形神社はたくさんあるのだろう。入ってすぐ左に境内社の蓑笠明神社があった。旅人に関係あるのかと思ったがそうではなくて、ここの明神さんが毎月十三日に箱根権現にお参りに行く時に蓑笠を着ていくことからそう呼ばれたという。確か蓑笠はかつては晴れ着だったというのを網野教授の本で読んだことがある。芭蕉にも「降らずとも竹植る日は蓑と笠」の句がある。
 右側には犬塚明神の社がある。陶器製のイヌが幾つか並べてあって、お稲荷さんのイヌ版みたいだ。そのすぐ左にあるのは先代の狛犬さんだろうか。一つは何とか原形を保っていて、帽子をかぶり、赤い涎掛けをしている。もう一つはただの石にしか見えない。
 奥の拝殿の前にも小さな狛犬があった。かなり痛んでいる。嘉永元年の銘がある。

 途中で道路は右に折れ、正面に杉並木の道が現れる。やがて道は石畳になり杉並木は途切れ、登り坂になる。1号線をくぐるところは低いトンネルにな


っている。さらに上り続けて行くと、大きく蛇行してきた1号線に出る。
 地図を見るとここから左に行かなくてはいけないのだが、見ると自動車専用道路になっていて歩行者進入禁止になっている。どうなっているのかと思ったら、通れないのは手前の道だけで、向こう側にあるもう一つの道は一般道だとわかった。手前は箱根新道の入口だった。
 箱根新道の入口を渡り、1号線の旧道の方を行くと、箱根新道の出口との合流点に出る。この先で左に入る道があるはずだが、何だかゴルフ場の入口みたいになっている。
 とりあえずその広い舗装道路を上って行くと道が分かれていて、右側へ行くとふたたび1号線の方へ降りて行く。ここがかつての箱根峠だったのだろう。十三時三十七分。何とか暗くなるまでに三島にたどり着かなくてはと、巻きが入ってきた。

 一号線との合流点の交差点にも箱根峠と書いてあった。こっちが今の箱根峠か。
 右側に広い駐車場があり、その手前の所に箱根旧街道と書いたゲートがあった。下は今風のきれいに平に切りそろえられた石畳の道がある。その先にいくつもの新しい石碑が並んでいる。何か一言と名前が書いてあり、向井千秋、橋田須賀子、橋本聖子といった名前があった。二〇〇三年に作られた新箱根八里記念碑(峠の地蔵)というものだった。お地蔵さんにしては前衛的過ぎる。
 この先に芝生の道があって東屋があったりする。その先は両脇の笹がトンネルみたいになっていて、何かトトロに会いに行くみたいだ。道の脇に兜石跡の小さな石碑があった。
 一度1号線に合流し、ふたたび細い道に入ると、今度は本当の兜石があった。元はあの石碑のあった場所にあったのだが、国道1号線の拡張工事でここに移されたと書いてあった。ここからまたしばらく石畳の道が延々と続く。ただ、神奈川県側のような急な坂ではなく、なだらかな淡々とした坂道だ。
 やがて民家の前に出て、迂回路という矢印がある。それに従い左に曲がると国道1号線に出て、横


断歩道がある。「横断歩道をわたりましょう」「横断注意 左右確認」という看板がある。街道ウォーカーを子ども扱いしているな。
 しばらく1号線に並行した新しい道を行くと、やがて左にまた石畳の道が始まる。本来の道は、さっきの民家の前に出た地点とここを結んでいたのだろう。いつの間にか民家が建ち並んでしまったため、この迂回路になったようだ。
 しばらくすると石畳の道に並行して舗装道路が現れる。そうなると、足への負担の少ない舗装道路の方を歩きたくなる。右側に徳利の形を刻んだ石碑がある。解説には雲助徳利の墓とあり、松谷久四郎という剣豪が酒の上での事件で藩を追われ、ここで雲助の仲間になった、というようなことが書かれていた。

 ふたたび1号線に出て歩道橋を渡ると下にお堀の跡のような窪みが見える。ここが山中城跡だ。となりに鳥居があり、駒形諏訪神社と書いてある。駒形神社と諏訪神社が合併したのだろうか。八坂神社と書いてある社もあったがこれは境内社らしく、諏訪駒形八坂神社にはならなかったようだ。狛犬はなかった。
 この先に山中城跡の駐車場があり、その向こう側からふたたび石畳の道が現れる。また1号線に合流し、その先また石畳があるはずだったが、工事をやって通行止めになっていてガードマンが立っている。
 結局国道1号をしばらく歩き、富士見平ドライブインのところで合流してくる道があり、そこにおなじ通行止めの看板が立っている。このドライブインの脇に新しい大きな「霧時雨富士を見ぬ日ぞ‥」の句碑が立っている。富士見平というだけあって、ここから富士山が見える。

 ふたたび石畳の道に入ったところにトタンでできた社があり、馬頭観音塔と単体道祖神塔があった。
 なだらかな坂が続く。笹原の一里塚跡があり、またトタンで覆われた単体道祖神塔があった。
 この先で一号線と交差するが、ここから道は舗装道路になる。やがて急な坂道になり、やや広い舗装道路に合流する。途中、松雲寺に渡来系の狛犬があるのを見る。その先には視界が開け、富士山のよく見えるところがある。
 学校の横の狭い道へ入り、ふたたび広い道路に合流した所に山神社があった。狛犬はなく、入り口付近に単体道祖神塔があり、拝殿の脇には水神と書いた石祠があった。このあたりでもう四時になる。日は地平線に近づいている。
 公民館を過ぎたあたりで最後の石畳の道がある。ここを抜け、国道1号線との合流点に出る頃には、既に薄暗くなってきている。

 三島塚原インターの所から残照に微かに赤く染まった富士山が見えた。南の愛鷹山に雲がかかっているため、それにさえぎられてあまり赤くならないのだろう。
 1号線に入るとしばらく松並木の道になる。車道の上り線の両脇に松の木があり、その脇に新しい石畳の遊歩道が作ってある。残照の赤く照らす中を進む。
 やがて旧道の細い道が分岐し、愛宕坂を下る頃には既に日は沈んでいた。

 東海道線の踏切を渡ると市街に入る。あともう少しというところで、このあたりの道がやけに長く感じられる。
 ようやく三島大社の前に来た時にはすっかり暗くなっていた。それでも一応お参りをしていった。拝殿の中に犬型の狛犬の一対があった。
 後はただ駅に向う。だが、その前にお土産の酒を買わなければ。それに腹も減った。ところが、駅前は食堂や居酒屋などの飲食店以外の店はほとんどシャッターを閉ざしている。そう、神奈川県内を歩いてきた時は当たり前のように思っていた駅ビルや駅前の土産物屋などがここにはない。栃木県を歩いてきた時と一緒で、駅前はシャッターストリートで、どこか郊外に大型店の固まっているエリアがあるのだろう。
 結局開いている酒屋は見つけられなかった。よう


やくセブンイレブンで富士錦という富士宮の酒を見つけた。
 駅の近くに「ふじもり」というラーメン屋があった。そこで野菜大盛り無料なので頼んでみた。期待通りモヤシの富士山盛りが来た。面は平たい太麺でかなり腰がある。それに量が多い。ガッツリ麺ふじもりというだけのことはある。これでさらに無料の麺大盛りもあった。ニンニクとラー油を入れて食べたが、メニューにはさらに辛口の炎の赤富士というのもあった。
 とりあえず腹も膨れたところで、六時半。新幹線に乗って帰った。八時ちょい過ぎには帰ることができた。 

2014年1月3日

 今年の正月は休みが長いので、今日は旅初めで、東海道の続きをすることにした。

 朝5時過ぎに家を出て、三島へ向った。

 小田原駅には駅伝のグッズが売られていて、駅伝を見に行くと思われる人もちらほらいた。今日は復路だから元箱根へ今から見に行くのだろう。

 小田原を出ると相模湾の朝日が見えた。子供の頃日本で二番目に長いトンネルだった丹那トンネルを通っ

た。ちなみに一位は新幹線の通る新丹那トンネルで、その後清水トンネルに抜かれたと記憶している。トンネルを抜けると函南駅は山の中だった。♪オッパッ、函南スタ~イル。

 8時ごろ三島駅に到着。空は曇っていて富士山は見えなかった。

 前回は真っ暗だった三島大社に向った。これが今年の初詣だ。

 三島大社はすっかり初詣モードで、的屋の屋台が並び、おみくじ売り場も拡張されていたし、商売繁盛の熊手や福太郎餅も売っていた。賽銭箱も大きくしてあったが、時間が早いせいか、まだ人はそう多くなかった。参道をロープで囲っているため、境内社の方へは行かれないようになっていた。

 おみくじは吉だった。ちょっと微妙。小さなおかめのお守りが入っていた。

 境内には神馬舎があり馬の像があった。午年だけに縁起がいい。

 宝物館はまだ開いてなかったが、その前に明治44年の狛犬があった。参道の狛犬は昭和34年で戦後の標準型(岡崎型)だった。その後いやというほどこの岡崎型を見るとは、この時には思わなかった。

 三島大社の正面の鳥居を出たところから東海道の旅の始まりだ。

 伊豆箱根鉄道の三島広小路駅の手前に三石神社があった。狛犬はなく「時の鐘」という釣鐘があった。ここはいたって静かだった。

 向側の蓮馨寺にはなぜか芭蕉翁の墓があった。まあ、栃木に紫式部の墓があるくらいだから、ここに芭蕉の墓があってもおかしくないか。

 三島広小路駅から少し行くと秋葉神社・八坂神社があった。狛犬はなかった。

 さらに行くと一里塚があった。左に宝池寺一里塚、みぎに玉井寺一里塚、両方ともお寺の中にあるせいか、完全な形で残っている。

 八幡の信号で国道1号線を越える。でもどっかで見たような景色と思ったら、去年仕事でここを通ってタイヤがバーストした所だった。右側の陸橋の側道を行き、曲がった所でタイヤ交換をした。

 八幡だから八幡神社があるはずと思ったら、その先にあった。大きく対面石の看板があった。鳥居の貫の所に真直ぐ横に注連縄を張るのは、このあたりの神社の特徴のようだ。

 二の鳥居の前に単体道祖神塔があった。鳥居の裏には鶴岡八幡宮のような太鼓橋の小さなものがあった。堀や池はなく、参道の上にあった。

 境内には水仙の花が咲いていた。左手に狛犬が片方だけあった。昭和8年銘で、口の所が大きく欠けていた。吽形の方は土台だけだった。境内社の白旗社の狛犬だった。

 八幡神社の拝殿の前には平成2年銘の真新しい岡崎型の狛犬があった。胸のところに注連縄が巻いてあった。

 左側の入口には首のない御隋神があった。左側は首がないとわかるが、右側は原形をとどめていなかった。

 左の奥に看板にあった対面石があった。頼朝と義経がこの石に座って語り合ったとのことだった。

 東海道の戻り、さらに先に行くと智方神社があった。狛犬は紀元2600年(昭和15年)銘で、首に丸く注連縄がかけてあった。斑猫がいた。

 その先の新黄瀬川橋は工事中でその横に迂回路橋があった。

 三島と沼津の間は家が途切れることがなかったが、ここからが沼津になるようだ。

 賽銭用の小銭が切れたので、この橋を渡ったところのダイドー自販機で缶コーヒーを買った。「おおきに」という声の出る関西バージョンだった。いきなり当りが出た。一人で二本もと思いながらも、まあ今年は幸先が良いということにしておこう。

 その先にも八幡神社があった。昭和47年銘の岡崎型だった。

 東下石田で広い道に出る。県道380号線で旧国道1号線になる。

 ここをしばらく行くと広い道は右に曲がり、直進する路が昔の東海道になる。事前にネットの地図で調べた所メガネのパリーミキが目印だったがつぶれていた。ただ、パリーミキの特徴のある建物は健在だったのでわかった。

 分岐点のところには小さな社があるが、その前がゴミの集積所になっていて、カラスよけの籠が置いてあった。家の前がゴミ捨て場になった神様の心境はいかなるものだろうか。

 ここから先川沿いを行くことになるが、高い堤防のため川は見えない。


 「日本三大仇討ちの一つ平作地蔵尊」というのがあった。日本三大仇討ちとは曽我兄弟の仇討ち、赤穂浪士の討ち入り、鍵屋の辻の決闘だが、平作はその鍵屋の辻の登場人物らしい。荒木又右衛門36人斬りの舞台となった鍵屋の辻は伊賀上野にあって、高校生の頃行ったことがある。その頃はまだ芭蕉には興味がなかった。

 その先に一里塚があった。玉砥石というのが一緒の所にあった。よくわからない。

 左側に旧東海道川廓(かわぐるわ)通りとあり、旧東海道はここから左に曲がる。石畳の路できれいに整備されている。ここを抜けると沼津の市街地の広い通りに出る。

 通横町を右に曲がり、次の信号を左に行って静銀の角を右にいくのだが、まちがえて二つ目の信号まで行ってしまった。これだと沼津浅間神社・丸子神社の脇に出る。コースアウトだ。とりあえず浅間神社の角を左に曲がって、静銀の角を左に曲がって一つ目の信号の所に戻った。途中セブンイレブンがあったので、切れかけていたデジカメ用の電池を買った。そこから浅間神社に向った。

 三島大社以外の神社はいたって静かだったが、ここは結構賑やかだった。狛犬は平成7年銘。彩色はなく真っ白できれいだ。入口脇に解体された鳥居がおいてあった。後で調べた所、一の鳥居が老朽化して危険な状態にあったため、平成7年に立て直したとのことだった。

 浅間神社・丸子神社を出たのが11時、ここまで結構かかった。ここからあとはしばらく一本道だ。

 西高入口交差点のところに山神社があった。小さな神社だが、拝殿前と境内社の賽の神の前にそれぞれ狛犬があった。拝殿前は昭和30年銘、賽の神前は平成22年銘。どちらも岡崎型だった。

 西間門の交差点で県道380号線(旧国道1号線)と交差する。地酒白隠正宗の看板がある。どこ


かで買えるといいが、今まででも開いている酒屋はなかった。

 この先にも八幡神社があった。狛犬は平成5年銘の岡崎型。首に注連縄を巻いていた。拝殿と本殿の間に薄茶色の狛犬がもう一対あった。これは顔の平らなタイプの違うものだった。年代は不明。

 この先に諏訪神社があった。昭和18年銘だが形は岡崎型に近い。銘と狛犬とが合っていないのか。

 静岡は狛犬貧困地区だと言われていたが、確かに狛犬はたくさんあるけど、どれも新しい。ここから先もたくさん狛犬を見るが、おそらく30年前に旅をしていたら、ほとんど狛犬を見かけなかったのではないかと思う。箱根を越えるまでは当たり前のように幕末の狛犬を目にしていたのと随分と様相が違う。北関東でも古い江戸狛犬はたくさんあった。

 東海道で江戸と直結してたにもかかわらず、静岡では狛犬はあまり作られなかったのだろう。理由はよくわからない。立派なお寺が多いところから、仏教の力が強かったせいなのか。鳥居の前に単体道祖神塔が多いのもその原因なのか。ここではある意味で今が狛犬建立ブームなのかもしれない。


 このあたりの道は延々と真直ぐで変化に乏しい。この直進性の強さはおそらく古代道路をそのまま引き継いだためであろう。木下良の『事典 日本古代の道と駅』によれば、古代東海道は近世東海道よりもかなり北側を通っていたようだが、古代の伝馬の道が後世の街道に踏襲されることになったとしている。

 左に西友があったので、地酒があるかどうかいってみた。前に見た富士錦はあった。近くに片浜駅があるので、もしいいのが見つからなかったらここに戻ってくればいいやと思い、街道に戻った。

 ところで子供の頃覚えた東海道線の駅名は「三島・沼津・原・東田子の浦・吉原」で片浜という駅はなかった。最近できたのだろうか。

 東海道線の踏切を渡ると、そろそろ昔の原宿なのだろう。神社の密度は高いが、狛犬は少なく、あっても新しい。すっかり正月モードで拝殿で爺さん達が飲み会をやってたり、入口の単体道祖神塔のところに鏡餅が具えてあったりして、それはそれで面白い。

 12時半でそろそろ腹が減ってきたので、ミニストップでおにぎりを買った。キティーちゃんのストラップが着いてきた。

 さっき看板で見た白隠正宗の高嶋酒造の店が開いていたので、そこで白隠正宗誉富士特別純米をゲット。これで今日はお土産を探してうろうろしなくてすむ。

 道は相変わらず一直線で淡々としている。ただ、この頃から雲が少なくなってきて、富士山の姿がチラッと見えるようになった。歩いてゆくうちにだんだんとその姿を現してくる。

 富士山も見えてしまうと、ああ、こんなもんか、という感じで、それを思うと、いつ見えるかとわくわくしている時の方がやはり面白いのかもしれない。芭蕉自身が『甲子吟行画巻』で描いた富士山も雲の切れ間に現れた富士山で、「富士を見ぬ日ぞおもしろき」はそういう意味だったのか。

 俺の唯一の著書『野ざらし紀行─異界への旅』では、陶淵明の絃のない琴を例にして、見えないことによって無限の可能性がそこに生じるという『荘子』の思想に結び付けて解釈したが、やはりそれは観念的過ぎたようだ。

 雲で見えないときには結構実際より大きな富士山の姿を想像してしまい、余計な期待をしてしまうものだ。だから、見えたとき、えてして当てはずれなような気分になる。それを「富士を見ぬ日ぞおもしろき」と表現したのが本来の意味だったのではないか。

 ふたたび踏切を越え、東柏原で380号線に合流する。柏原は旧東海道の間宿だが、木下良の『事典 日本古代の道と駅』によると、『三代実録』の貞観6年12月10日の条に柏原という駅があった


が廃止するという記述があり、かつて古代東海道がここを通っていたこともあったようだ。

 380号線沿いにも神社がいくつかあった。六王子神社、米之宮神社・淡島神社、愛鷹神社、なかなか面白い狛犬には出会えない。

 やがて380号線は右に曲がり東海道線を越えて行く。その手前の所に左に矢印のある「旧東海道順路、見よう歩こう富士市の東海道」の標識があった。

 ここをいったん左に行き、すぐに右に曲がると昔の東海道の道になる。

 途中小さな山の上に社が見えたので、行ってみるとお稲荷さんだった。顔の長いお狐さんがいた。ここからだと富士山がよく見える。一休みした。

 ふたたび街道に戻り少し行くと、左に石段があって毘沙門天と大きく書いてあった。境内には的屋の露店も並び、結構人も多い。入口の鳥居は白木作りだった。

 途中にもうひとつ石段がありその脇に丸っこい犬の形をした狛犬があった。大正13年の銘で、このあたりでは古いほうだ。

 拝殿の前には中国式の線香を焚く所があり、真新しい渡来系の狛犬があった。日本と中国とインドが混じったような無国籍な世界だった。

 やがて道は吉原駅に行くのだが、旧街道は線路の向こう側へ行くため、一つ手前の角を右に曲がって踏み切りを越え、線路の反対側に出る。

 吉原駅北口の交差点に着いたのがちょうど午後の三時半。ここを左に行けば吉原駅に行けるが、この先道が右に大きくカーブして富士山を左側に見る「左富士」のポイントがあるというので、せっかく今日は富士山がきれいに見えているから行ってみたくなった。次に来る時に富士が見えるかどうかわからない。

 河合橋を渡り、左ヘ行き新幹線の下をくぐる所で右の細い方の道に入る。やがて道は右にカーブする。ここが左富士かと思っても、木と建物にさえぎられて富士山が見えない。遮っていた木は左富士神社のものだった。通りの反対側に渡り、少し行くと富士山の姿が左に見えた。

 一応戻って左富士神社を参拝した。獅子山のような溶岩でできた台座に新しい狛犬が普通に座っていた。顔は岡崎型だが、尻尾がやや体のほうに流れている。右側には典型的な岡崎型の狛犬の阿形だけがあった。

 この先の交差点が、一番左富士のよく見えるポイントだろう。そこを渡ったところに左富士の碑と説明の看板があり、小さな公園として整備されていた。ただ、やはり日清紡の工場が邪魔だ。

 この先で道は左に大きくカーブして左富士は終る。

 旧東海道は吉原で北に大きく迂回しているが、昔は田子の浦港の北側まで入江だったか、干潟だったかしたのだろう。このあたりは島や新田のつく地名があるから、江戸後期には田んぼになって、広重の絵のようになったいたのだろう。

 歩道を塞いでいる小さな社がある。馬頭観音の社のようで、撤去できなかったのだろう。車道にまで若干はみ出している上、車道の方を向いているため、お参りするには車道に飛び出さなくてはならない。

 だいぶ吉原駅から遠くなったが、大丈夫ちゃんと下調べしてある。この先に岳南鉄道の吉原本町駅がある。今日はここまで。次は吉原本町駅スタートになる。

 岳南鉄道で吉原駅に出て、そこから熱海行きの電車に乗ったのが4時20分。結構混んでいて座れなかった。窓からは夕映えの富士山が見える。今まで歩いてきた道筋を巻き戻して、あっという間に三島


を過ぎた。

 熱海から東京行きの電車に乗り換えると、車内は西武やルミネの広告で一気に東京モードとなった。来る時に見た海は既に真っ暗だった。

 小田原から小田急に乗り換え帰った。家に帰ってから有楽町の火事で新幹線が大変なことになっていたのを知った。幸い、行きも帰りも何の影響もなかった。

2015年1月3日

 今年の旅初めは、とりあえず東海道の続きということで、去年からちょうど一年、岳南鉄道の吉原本町駅をスタートすることにした。

 朝5時半に家を出て、着いたのが8時37分、3時間も電車に揺られたので、昨日ダウンロードしたばかりのデービッド・アトキンソンの『イギリス人アナリスト日本の国宝を守る─雇用400万人、GDP8パーセント成長への提言』(2014、講談社+α新書)が73パーセントまで読めた。

 空は雲一つない快晴で、もちろん富士山もくっきり見えた。去年は、次に来るときにまた晴れるかどうかわからないからと左富士のところを急いだが、あの時は春か夏にもう一度来るつもりだったからで、1年先になるとは思ってなかった。

 正月の吉原の町は当然ながら閑散としていた。

 富士山側に天神社があった。入ってすぐのところに撫で牛があったのでお約束で頭を撫でた。手水場のところにもう同じ牛があった。牛の前には水がお供えされていたが凍ってた。

 狛犬は年代がわからなかったが昭和のものだろう。単体道祖神塔もあり、菅原道真像もあり、そんな広くはない境内だが、なかなか盛りだくさんだ。

 街道に戻り、少し行くと吉原中央駅というのがあった。駅というってもバスの発着する駅だ。ここを左に曲がり、次の信号を右に曲がる。錦町北の交差点で国道139号に出るが、本来道はここを突っ切って、次の錦町交差点を少し右に行ったところで左斜めに入る道に続いていたのだろう。この道沿いにも小さな八幡宮があり、道の脇に文字型道祖神塔があった。

 高島の交差点を右前に行くと潤井川橋がある。この手前で右に入り富安橋を通る方が旧東海道だ。

 路上でカラスが何かをつついていた。よく見るとそれはパックに入った鏡餅で、嘴で穴を開けていた。道の脇には単体道祖神塔があり、そこのお供えだったのだろう。正月はゴミの収集がないため、からすには厳しい季節。

 ところで、さっきから富士山の写真を撮ろうとするのだが、富安橋では病院の建物が邪魔していたし、広い交差点に出ても道路標識が邪魔したりして、なかなかいいポイントがない。狭い路地の縦横に張り巡らされた電線も何とかならないものか。

 しばらく右左に緩やかなカーブの続く、いかにも旧道らしい道が続く。途中左側にこの辺ではあまり見ない双体道祖神塔があった。その道が今の県道に合流すると、目の前にJRのガードが見えてくる。その手前に鳥居があり、天白神社がある。この神社の脇にも双体道祖神塔があった。

 JRのガードのすぐ横は身延線柚木駅になっていた。この少し先で、また右側に入る旧道がある。秋葉山と書いた常夜灯がある。この手の常夜灯はこの先何度も見ることになる。

 旧道はすぐにもとの道に合流し、先のほうに大きなトラス橋が見えてくる。富士川はすぐ先だ。

 橋の手前に水神社がある。入り口付近には富士川渡船場跡の碑があり、短い石段の向こうに昭和61年銘の岡崎型狛犬がある。拝殿前にも昭和34年銘の角ばった顔の狛犬があった。

 富士川に出ると、左に駿河湾、右に富士山が見えてくる。橋を渡るにつれ、富士山は全貌を現し、愛鷹山に至る雄大な眺めが展開される。

 富士川というと、芭蕉の『野ざらし紀行』では富士川の捨て子と呼ばれる場面がある。富士川のほとりで捨て子が泣いていて、芭蕉がどうすることもできずにとりあえず食い物を投げて通り、


 猿を聞く人捨子に秋の風いかに   芭蕉


の句を詠む場面だ。今ならすぐ警察を呼ぶところだが、当時はまだ捨て子を収容するような公的施設がなかったため、その悲しさを句にして多くの人に訴え、問題提起するしかなかった。

 橋を渡り終えると、県道を渡ってすぐの小さな道を右に行き、坂道を登ってゆくと岩淵という間宿(あいのしゅく)に出る。振り返ると正面に富士山が見える。

 右側に八坂神社の鳥居があり、参道は東名高速の下をくぐり、その先の石段の上に八坂神社の拝殿がある。拝殿前には紀元2600年銘の狛犬がある。渋めの赤と黄に目のところは白を使い綺麗に彩色されている。

 再び街道に戻り少し行くと、道が大きく右に曲がるところに一里塚がある。岩淵一里塚だ。

 もう少し行くと、右に分岐する道がある。ここを曲がり東名高速をくぐったところですぐ左に行く。途中に鏡餅を備えた秋葉山の常夜灯があった。

 やがて右側に宇多利神社と書いた石塔が立っていて、山の斜面に小さな神社がある。鳥居には電線が巻きつけられ、外灯の蛍光灯がついている。拝殿にも笠を付けた裸電球があり、エレクトリゼーションされている。手前の建物には春埜堂と書いてある。後で調べたら、ここは春埜堂で、宇多利神社はもっと奥にあったようだ。神社の名前が何で「宇多利」なのかちょっと気になる。ウタリというとアイヌ語で同胞の意味だが、何か関係があるのだろうか。それで行くと富士はフチ(母)の山?



 新幹線のガードをくぐると道は上り坂になる。坂を登ると富士山がまたくっきりと姿を現す。そして、東名高速を見下ろすところに来る。ちょうど名古屋方面から来ると、この峠を越えたところで目の前に富士山が見えてきて、おおっとなる所だ。そしてすぐに富士川サービスエリアがあり、その先の下り坂は東名高速随一の絶景といってもいい。

 東海道も今は東名高速を作る際に削られてしまったが、この上を通り、やはり峠越えの道だったのだろう。今は橋を渡り向こう側に渡る。ちょうど渡り終えた頃、「遠き島より~」のメロディーが流れてくる。正午だ。

 ここを越えると目の前に海が見え、下り坂になる。ここを降りると蒲原宿だ。

 県道と並行して走る旧道に出るとすぐのところに小さな社があり、一里塚と書いてある。蒲原一里塚跡で、塚は残っていない。

 少し先に行くと、道がわずかにクランク上のカーブを描く場所がある。その手前に鳥居があり、諏訪神社がある。昭和12年銘の狛犬がある。

 道がクランク状になっているのは、かつてここに東木戸があって宿場に入る場所で、外的が侵入しにくいように宿場の入り口を枡形にしたと言われている。

 水路式の水力発電所があるのか、山から下りてくる太いパイプの上の橋を渡る。ここを過ぎると周りの建物も宿場町らしくなってくる。

 山側に八幡神社があり、石段を登ってゆくと眺めがいい。ここにも狛犬がある。銘はないが昭和のものだろう。そろそろ昼飯にしたいのでどこか食べるところはないかと探すと、イオンタウンが見えた。

 イオンタウンは新蒲原駅の向こう側にあり、バーミヤンがあった。丸大飯店というのがあったが並んでたので、結局どこにでもあるマックに入った。マックは確かこの東海道の旅で茅ヶ崎のマックに入ったとき以来かもしれない。マックだけでなくモスも売り上げが減っているというから、世間全体でハンバーガー離れが進んでいるのだろう。そのせいか、狭い店内だけどすいてた。ラーメン屋に客を取られちゃったんだろうな。

 街道に戻る。八坂神社は境内に桜の木が多く、「サクラの木をおらないで!!」書いた札が下がっていた。平成20年銘の新しい狛犬は尾が台座の方に下がって台座と一体化している珍しいタイプで、脱岡崎型への新機軸が伺われる。

 さらにすぐ先に若宮神社がある。ここの狛犬は紡錘形の大きな尻尾に特徴があり、首もひょろっと長く、かなり珍しい。大正2年のものらしい。こういった面白い狛犬がいくつも見られるとなると、狛犬貧困県の汚名は返上しなくてはならない。静岡にも結構面白い狛犬がたくさんある。

 街道に戻るとすぐに旧五十嵐歯科医院という洋館がある。

 やがて街道は大きくクランクして、今の県道に出る。その突き当りに位置するのが和歌宮神社だ。さっきのは若宮、今度のは和歌宮、紛らわしい。お堀があり、入り口には昭和2年銘の岡崎型としては初期の狛犬がいる。御神体がコノハナサクヤヒメと山部赤人になっている。ここの説明板によると、蒲原宿吹き上げ浜で富士山を見て、


 田子の浦ゆ打ち出でてみれば真白にぞ

     富士の高嶺に雪は降りける

                 山部赤人


の歌を詠んだとしている。

 元のテキストは、「田兒之浦従打出而見者真白衣不盡能高嶺尓雪波零家留」で、この田兒之浦が今の田子の浦ではなく、『続日本記(しょくにほんぎ)』の廬原(いおはら)郡多胡浦で、これを庵原郡蒲原町(今は平成の大合併で静岡市清水区蒲原になっている)に比定して、蒲原あたりの浜辺で詠んだものとされている。

 貞観6年(864年)より前の古代東海道は、富士川の西側の廬原郡に蒲原駅があり、そこから近世東海道の間宿だった柏原のあたりと思われる柏原駅へと海沿いのルートを通っていた。おそらくこのあたり一体が多胡浦だったのだろう。田兒之浦従の「従」という字は「後ろに付いて行く」という意味で、助字としては「~から、~より」という意味で用いられる。この歌も「田子の浦から海に打ち出でてみれば」という意味で、富士川の河口域から今の田子の浦港のあたりまでの低湿地を避けて船で渡ったのだろう。

 時代は下るが、11世紀の『更級日記』にも、「たごの浦は浪たかくて舟にてこぎめぐる」とある。

 山部赤人の時代はまだ人口が希薄で、街道がいくら幅12メートルあったといっても、左右の眺めは森林に遮られ、海に出たとき初めて富士山がその全貌を現して「おおっ」となったのだろう。

 和歌宮神社の境内には金刀比羅神社があり、水色の鳥居が珍しい。

 県道に出ると、しばらく坦々とした道が続く。時折微妙に曲がっているものの直線的な道で、原のあたりの道に雰囲気が似ている。おそらくこのあたりも古代東海道を踏襲した道だったのだろう。


 途中にあった酒屋で、お土産用に正雪という由井の地酒を買う。

 東名高速をくぐると道が二股に分かれ、左の方が旧道になる。この分岐点付近に正八幡宮がある。狛犬はなかった。

 旧道をしばらく行くと、道が小さくクランクする枡形があり、ここから由井宿になる。その少し手前に小さな社と由井一里塚の跡の説明板がある。

 由井宿本陣の跡には立派な記念館が建ち、櫓が再現されている。

 橋を渡ると桜海老を売る店が並び、いかにも観光地らしくなっている。

 右側に豊積(とよつみ)神社があった。坂上田村麿も立ち寄ったという古い神社で、境内には太鼓の像があろ「井」の字の形をした井戸があった。狛犬は昭和3年の招魂社系で、正月の注連縄を首に巻いていた。

 JR油井駅ももうすぐというところに天神社があった。地図には北野社となっている。北野天神だ。細い道を行き、国道1号線を越えて石段を登っると眺めがいい。山の間に富士の白い山頂部分だけが顔を出している。狛犬は大正10年銘の小ぶりなものがあった。

 JRの線路脇に出ると、由比駅はもうすぐそこだ。もうすぐ3時。ここから薩埵峠を越えて興津まで行くと、早くても2時間、この時期なら真っ暗になっているだろう。富士の綺麗に見える日に薩埵峠を越えたい気もするけど、今日はここまで。また電車で3時間乗って帰った。


2016年1月3日

 別に毎年恒例というわけではないけど、3年連続で3日に東海道の旅の続きをすることとなった。今日は由比スタート。

 朝5時に家を出て、由比到着が8時6分。さすがに遠くなった。

 天気は良く、暖かい。富士山は雪が少なく、黒っぽく見える。

 去年見た桜海老のゲートを背にして歩道橋を渡り、薩埵峠へ続く旧道に出る。街道の風情を残した静かな道だ。

 少し行くと右側の坂道の向こうに宗像神社の鳥居と大きな幟が見える。坂道の右側にはプールがある。岡崎型のやや古めの狛犬がある。首には注連縄が巻かれている。銘は読みにくいが昭和3年だろうか。隣になぜか相撲の軍配をかたどったものが立っていて、台座には相撲場跡と書いてある。かつては境内に土俵があったのだろう。

 またしばらく街道の面影を残す路地が続く。家が少し途切れた後、再び家が並びだしたあたりの右側にまた鳥居がある。幟には八阪神社と書いてある。「八坂」ではない。ここにも岡崎型の狛犬がある。さっき見た宗像神社の狛犬と兄弟なのか。台座の銘の文字も同じで読みにくいが、これも昭和3年か。石段は急で下る時はかなり恐い。

 この先には山が迫った所があり、その中腹に神社の屋根が見える。これはいつも仕事で清水や静岡に向かう時に目にしてた見覚えのあるもので、ここまで来たかという感じだ。鞍佐里神社という幟が立っている。登ってゆくと、確かに大きくはないが立派な拝殿だ。左側に更に登ってゆく道があり、そこには石祠が並んでた。狛犬はここも岡崎型で銘はわからなかった。三兄弟なのか。



 ふたたび街道に戻って少し行くと、右側に細い急な登り坂が見えてきた。これより薩埵峠の道に入る。ここに倉沢の一里塚の碑があったらしいが見落とした。後でグーグルストリートビューで見たら、ちょうど道を曲がる時に建物の影になって見えなかったようだ。

 ここからしばらく車がやっと通れるくらいのアスファルトの登り坂が続く。時折視界が開けふりむくと富士山と駿河湾が見える。下には東海道線と国道1号線と東名高速が並行して走っている。東名高速には小さなサービスエリアがあり、その先で1号線の上を交差し、トンネルに入る。このあたりから蜜柑の木が多くなる。蜜柑を収穫するためのモノレールのトロッコがあったりする。

 やがて道路の右側に膨らんだ所に最初の薩埵峠の碑がある。最初のと言うのは、この先もいくつか薩埵峠の碑があるからだ。どこが本当の薩埵峠かというと、多分このあたりが全部薩埵峠なのだろう。道が大きくカーブし、駐車場とトイレのあるところに出る。ここにも薩埵峠の碑がある。蜜柑が一袋100円で売ってたので、お土産に買ってゆくが、こうした無人販売の蜜柑はこの先至る所で見ることになる。

 この先は未舗装の道になる。咲いている梅の木があり、道の両脇には水仙の花が咲いている。去年一昨年と水仙がもう咲いているという所で写真に撮ったりしたが、今年は暖かくて家の周りでも咲いているから珍しくはない。

 しばらく景色の良い所が続いた後、道は急に切り通しの下り坂になり、そこをぬけると広い道路に出、あっという間の下界だ。

 このあたりで旧東海道は大きく内陸を迂回する道筋になっている。田子の浦のようなかつて入り江があったのかと思ったら、ここでは山を回避しての迂回路だった。その山にも神社があった。白髭神社で昭和12年銘の狛犬がある。これともう一つ、手水場の前に仲良く正面を向いた狛犬がある。

 白髭神社の手前を右に曲がりしばらく広い道を行った後、左に入る道がある。ここを降りてゆくといかにも旧街道らしい路地に出る。それもそう長くはなく、普通の道路に出て海の方へ向かう。

 やがて前に東海道線のガードが見えてくる。その手前に川越遺跡と書いた説明書きがある。興津川には橋はなく、連台や肩車で渡ったようだ。今は橋があるので、東海道線のガードをくぐり、そこを渡る。

 橋に出ると見覚えのある駿河健康ランドの建物が見える。これも一号線で東海道を下る時におなじみのランドマークで、これが見えると清水はすぐだ。

 橋を渡ってすぐ右側の狭い道を行くと、その向こうに東海道の旧道がある。県営団地があり、その先でバイパスでない方の一号線に合流する。

 ここから先はしばらく一号線を行くことになる。

 右側にまた宗像神社がある。ここにも昭和8年銘の古い岡崎型狛犬がある。

 その先には、身延道の分岐点の石塔がある。このあたりからが昔の興津宿で、興津宿公園がある。清見寺があり、このあたりに古代の清見が関があったとされている。この西側に古代の息津(おきつ)駅があったという。

 古代東海道はJR東静岡駅の駅前を開発する際に発見された曲金北遺跡で、幅9メートルの道路遺構が新幹線の線路と平行に走っているのが発見され、丸子宿入口あたりからこの清見寺のあたりまで一直線の道が存在したことが想定されている。ただ問題は薩埵峠のあたりをどう越えたかだ。いまの薩埵峠の道は近世のもので、それ以前は波の打ち寄せる海岸を通る難所だったと言われている。あるいは海に出て船で越えたのかもしれない。今でも東海道線と国道一号線は海岸に張り付くように走っているが、それも1854年の安政東海地震の時に隆起した結果だと言う。

 この先には高山樗牛假寓之處の碑がある。名前は聞いたことがあるが何した人だっけ。以前家で生まれたぶち猫に樗尾(ちょび)という名をつけたことはあるが。

 一号線静清バイパスをくぐり橋を渡り東海道線の線路を越えると延命地蔵堂がある。その先には東光寺がある。古代道路のあるところに東光寺ありか。すぐ後ろを新幹線が通っているから、古代東海道もこのあたりを通っていたのだろう。

 しばらく行くと開いている酒屋があった。お土産に臥龍梅の純米吟醸生貯原酒を買った。

 袖師には小さな馬頭観音の社があった。そういえば今日は道祖神を見ていない。こちらのほうだと文化圏が違うのか。どうやら道祖神塔があるから狛犬が浸透しなかったというわけではないようだ。神社の前に単体道祖神塔がなくても、やはり狛犬はなかった。

 

 そういえばこの前久しぶりに駒込富士神社に行った時、前には気がつかなかったのだが、石段の右側に単体道祖神塔があった。

 辻町の交差点には何があったのか知らないが消防車が止まっていた。ここが一号線と旧東海道の分岐点になる。ここには細井の松原の跡と無縁さんの碑がある。

 


 やがて住所が江尻東になる。昔の江尻宿も近い。左側に神社があるので行ってみる。伝馬町荒神社という説明板が立っているので、昔は伝馬町だったのか。紀元2600年銘の狛犬と鳥居がある。ここで正午を告げる音楽を聴く。

 神社を出ると、国道の方にラーメン屋が見えた。ちょうどいい。みなと屋麺神という店で、しお助という塩ラーメンを食べた。透き通ったスープは上品な味でなかなか貴重だ。

 旧街道に戻り、郵便局の先を右に曲がる。ここが江尻宿の中心だったようだ。正月で開いている店も少なく静かだ。くじらのオブジェがある。

 突き当たりに魚町稲荷神社があった。境内でまず目に付くのがサッカーボールのモニュメントで、日本少年サッカー発祥の碑と書いてある。さすがサッカーの本場だ。神社の横が公園になっていて、子供がサッカーをしている。お狐さんもなかなか味のあるもので、尻尾が垂れて台座に掛かっている。

 神社を出るとすぐに稚児橋、河童の飾りがついている。

 江尻宿を出るとしばらく清水市街地の中を行く。踏切を越えると上原堤という池があり、その向こうにイオンがある。このあたりで建物の切れ間から富士山が見えた。仕事で清水や静岡に行った時にはあまり富士山を見たという記憶がないが、富士山が見えないのは建物が多いからで、昔はどこからでも見えていたのだろう。池の所で道がカーブし、その先では背中に富士山を見ながら歩くことになる。

 やがて県道の広い通りに出る。このあたりから住所は草薙になり、草薙一里塚の碑がある。その先には大きな鳥居があり草薙神社とあったが、神社は見えない。ここから1キロくらいあるようなので行くのはやめた。

 草薙駅前の交差点を左に曲がり、一本裏の道に入る。こっちが旧道らしい。

 東名高速をくぐるとしずてつストアがあり、ここで静岡の酒、純米しぼりたて喜平を買った。

 草薙球場のところで突き当たり、ここを右、県道を越えてすぐに左に入る。道はJRの線路に沿って曲がってゆくが、そこに旧東海道記念碑がある。ここで旧東海道が線路に遮られててしまったことの記念碑のようだ。

 ここから線路を渡るには、一番近いのが地下道だが、これが車がすれ違えないくらい狭い上に歩道がない。車が終始クラクションを鳴らしながら通ってゆく。

 地下道を抜けて少し行くと右に斜めに入る道があり、これがさっきの道に続く旧東海道だ。この道もすぐに国道1号線に遮られる。長沼の交差点の所で右斜めに入る旧道へと続く。

 このあたりで寄り道して東静岡駅に向かう。曲金北遺跡のあったところを見に行くためだ。

 東静岡駅は新しい駅で広々としている。駅前には新しい立派なビルが建っている。

 線路の向こう側に出ると、着物着た人がたくさんいた。静岡県コンベンションアーツセンターで成人式をやってるようだ。この建物の横の線路側の歩道が曲金北遺跡で幅9メートルの道路遺構が発見された場所のようで、説明板があった。

 東海道の旧道に戻るとしばらく静鉄の線路沿いを行く。踏み切りの向こうに大きな神社がある。護国神社で、初詣の人でにぎわっていた。

 国道1号線に戻ると、ここからも富士山が見える。線路をくぐってすぐ右へ行く。このあたりの旧道は線路と国道1号線に至る所で分断されていてわかりにくい。地図が手放せない。また線路と国道を越えると伝馬町通りの商店街になる。ここに恵比寿さんを祭った西宮神社がある。この先は静岡市の中心部で人通りも多くなかなかにぎやかだ。

 江川町の交差点で今日の東海道の旅を終える。これまでは寂れている町をたくさん通ってきたが、ここはにぎやかで都会を感じさせる。日は傾いて薄暗くなり明かりがともると、横浜駅周辺を歩いているような気分になる。

 さて、最後の寄り道で、めざすはアオイブリューイング。開いているかどうかわからなかったが一応行ってみることにした。

 江川町を駅と反対側に、静岡浅間神社の方に向かった。駿府城のお堀と石垣の横を通り、中町から浅間神社の参道の商店街になる。ここも結構にぎやかだ。行列のできているどら焼き屋がある。

 幸いアオイブリューイングのビアガレージは営業していて、コの字型のカウンター席にすぐに座れた。サブテルIPA改とほんのりお茶エールを飲んだ。はるばる由比から30キロの道のりを歩いてきたのだから、これくらいのご褒美はあって良いだろう。

 このあと浅間神社を参拝した。ここも初詣の人でにぎわっていた。