「市中は」の巻

   元禄三年(一六九〇年)の六月の初め頃、芭蕉は膳所(ぜぜ)の幻住庵を出て京に上り、十八日まで(ぼん)(ちょう)宅に滞在しました。この興行はその頃行われたと思われます。

  芭蕉と、それに去来きょらいぼんちょうという京の門人とで作られた三吟歌仙(三人による三十六句からなる俳諧)で、芭蕉七部集の五番目の撰集になる去来、凡兆編の『さるみの』に収録されています。

  『猿蓑』は元禄二年冬、『奥の細道』の旅を終えた芭蕉が伊勢から故郷の伊賀に戻る途中、折からの時雨に、

 

 初しぐれ猿も小蓑をほしげなり   芭蕉

 

の句を得たことを記念して編纂された集でした。

  その全体の完成度の高さから、俳諧の古今集とも呼ばれています。

 

初表

 市中は物のにほひや夏の月     凡兆

   あつしあつしと門々の声    芭蕉

 二番草取りも果さず穂に出て    去来

   灰うちたたくうるめ一枚    凡兆

 此筋は銀も見しらず不自由さよ   芭蕉

   ただとひやうしに長き脇指   去来

 

初裏

 草村に蛙こはがる夕まぐれ     凡兆

   蕗の芽とりに行燈ゆりけす   芭蕉

 道心のおこりは花のつぼむ時    去来

   能登の七尾の冬は住うき    凡兆

 魚の骨しはぶる迄の老を見て    芭蕉

   待人入し小御門の鎰      去来

 立かかり屏風を倒す女子共     凡兆

   湯殿は竹の簀子侘しき     芭蕉

 茴香の実を吹落す夕嵐       去来

   僧ややさむく寺にかへるか   凡兆

 さる引の猿と世を経る秋の月    芭蕉

   年に一斗の地子はかる也    去来

 

 

二表

 五六本生木つけたる瀦       凡兆

   足袋ふみよごす黒ぼこの道   芭蕉

 追たてて早き御馬の刀持      去来

   でつちが荷ふ水こぼしたり   凡兆

 戸障子もむしろがこひの売屋敷   芭蕉

   てんじゃうまもりいつか色づく 去来

 こそこそと草鞋を作る月夜さし   凡兆

   蚤をふるひに起し初秋     芭蕉

 そのままにころび落たる升落    去来

   ゆがみて蓋のあはぬ半櫃    凡兆

 草庵に暫く居ては打やぶり     芭蕉

   いのち嬉しき撰集のさた    去来

 

二裏

 さまざまに品かはりたる恋をして  凡兆

   浮世の果は皆小町なり     芭蕉

 なに故ぞ粥すするにも涙ぐみ    去来

   御留主となれば広き板敷    凡兆

 手のひらに虱這はする花のかげ   芭蕉

   かすみうごかぬ昼のねむたさ  去来

 

参考

 『芭蕉七部集』中村俊定校注、一九六六、岩波文庫

 『連歌俳諧集』日本古典文学全集32、一九七四、小学館

 『芭蕉連句古注集 猿蓑編』雲英末雄編、一九八七、汲古書院

 『校本芭蕉全集 第四巻』(小宮豐隆監修、宮本三郎校注、一九六四、角川書店)

初表

発句

 

 市中(いちなか)は物のにほひや夏の月     凡兆

 

 市中(いちなか)町中(まちなか)ということで、興行(こうぎょう)の行われた(ぼん)(ちょう)の家は京都の町中にありました。

  発句は一般的にはその時呼ばれた一番重要なゲストが詠むのが普通で、会場を提供する亭主は脇を付けることが多いのですが、ここでは亭主が発句を詠みます。

  こういうのは単なる習慣であって、特に厳密に守られる必要はありませんでした。

  さて、芭蕉と去来を迎えての凡兆の挨拶で、俳諧興行が始まります。

  「物のにほひ」というのは、特定の何かの匂いでなく、何となく得体の知れぬむんむんした匂いというような感じを言います。町中というのはいろいろな商売の人がいて、いろいろな職人がいて、牛や馬も行き交い糞も落として行きます。それらの匂いが合わさった渾沌とした匂いに満ちています。

  発句は、こんな得体の知れぬむんむんした匂いに満ちた所へわざわざ来ていただいて、という意味を込めたものと思われます。

  夏の月は夏の宵の、いわゆる夕涼みの涼しさを思わせます。町中のむさくるしい所にわざわざ来ていただいて俳諧興行を行えるということは、まるで夏の月のようですという思いも込められていたのではないかと思います。

 

 季語は「夏の月」で夏になります。

 

 

 

   市中は物のにほひや夏の月

 あつしあつしと門々(かどかど)の声      芭蕉

 (市中は物のにほひや夏の月あつしあつしと門々の声)

 

 芭蕉の脇は形式ばった挨拶で返すのではなく、「いやあ、それにしても暑い暑い」というような感じで本音で返します。普通は「夏の月」に「涼しいですね」と返すものです。大事なお客様ではなく弟子が相手なら、こういう脇もありなんでしょう。

 家にいても暑いので、みんな外で涼んでいて、口々に「あついあつい」と言っているところに、部屋にこもっての俳諧興行はたまらないなあと言いたげです。

 

季語は「あつし」は夏になります。

 

 第三

 

   あつしあつしと門々の声

 二番草取りも(はた)さず穂に出て    去来

 (二番草取りも果さず穂に出てあつしあつしと門々の声)

 

 田んぼの草取りは何度か行なわれ、それを一番草、二番草、三番草‥‥というふうに呼んでいました。

  二番草は普通土用の頃、今でいう七月頃に行なわれましたが、その二番草の草取りも終らないうちに稲が穂を出すというのはかなり早いことになります。

  ちょっと大げさかもしれないが、「そりゃあ暑いはずだ」と納得させるところで、心付けとなります。

  「こころ」というのは昔は「意味」という意味を持ってました。心付けは、心情でつけるというよりは意味で付けるもので、むしろ「なるほど、道理だ」と思わせるようなつけ方をいいます。

 

 季語は「二番草」は夏になります。

 

 四句目

 

   二番草取りも果さず穂に出て

 灰うちたたくうるめ一枚      凡兆

 (二番草取りも果さず穂に出て灰うちたたくうるめ一枚)

 

 前句を草取りがなかなか追いつかない忙しさとして、うるめ鰯の干物を一枚火であぶるだけのせわしい食事を取る、と付けます。

 

 無季。

 

 五句目

 

   灰うちたたくうるめ一枚

 此筋(このすぢ)(かね)も見しらず不自由さよ   芭蕉

 (此筋は銀も見みしらず不自由さよ灰うちたたくうるめ一枚)

 

 江戸時代の経済は近代国家のような統一された通貨によるものではなく、金、銀、銭、藩札などがそれぞれ相場を持つ変動相場制でした。

  銀は主に上方(かみがた)で使われたといいます。地方によっては銀がほとんど流通してない地方もあったといいます。特にこれは奥州筋(おうしゅうすじ)のことではないかと言われています。

  だとすると、芭蕉自身の『奥の細道』の旅での経験かもしれません。

  前句の「うるめ一枚」を貧しい片田舎と見ての付けになります。

 

 無季。

 

 六句目

 

   此筋は銀も見しらず不自由さよ

 ただとひやうしに長き脇指(わきざし)     去来

 (此筋は銀も見しらず不自由さよただとひやうしに長き脇指)

 

 江戸時代の武士は大小の(うち)(がたな)を腰に差していて、短い方のものを脇指(わきざし)といいます。

  長刀は武士にのみ許されていましたが、脇指は許可があれば庶民でも持つことができました。武士のみ帯刀が許されたといっても、庶民が丸腰で歩いてたわけではありません。井原西鶴の『好色一代女』に、

 

 「町人の末々まで、脇指(わきざし)|わきざしといふ物差しけるによりて、言分・喧嘩もなくて治まりぬ。世に武士の外、刃物差す事ならずば、小兵なる者は大男の力の強さに、いつとても嬲られものになるべき。一腰恐ろしく、人に心を置くによりて、いかなる闇の夜も独りは通るぞとかし。」

 

と書かれています。今ほどの平和な時代ではなく、結構町では暴力がまかり通っていたことがわかります。

  与力(よりき)同心(どうしん)・岡っ引きなどによる警察組織はありましたが、科学的な捜査があるわけでもなく、犯罪者の検挙率も低かったからなのでしょう。

  そういう時代ですから、特に任侠(にんきょう)の者などは実質的には長刀なのに長い脇差だと称して所持することもあったようです。

  「とひやうしに」は突拍子もなくという意味で、突拍子もなく長い脇差というのは、やはりその筋の人の持つものでしょう。

  長脇指は元は戦国時代に榛名山の中腹にあった箕輪城の武士達が使っていて、それが上州の博徒に広がったといいます。

  前句の「銀も見しらず」を金を持ってない奴等ばかりでという意味に取り成し、やくざのセリフとします。やくざと言わずに「長き脇差」で匂わすところが匂い付けになります。

 余談ですが「突拍子に=突拍子もなく」の交替(こうたい)は「はしたに=はしたなく」と同じで、今日の「なにげに=なにげなく」と同じパターンですね。

 

 無季。

初裏

七句目

 

    ただとひやうしに長き脇指

 草村くさむらかはづこはがる夕まぐれ     凡兆

 (草村に蛙こはがる夕まぐれただとひやうしに長き脇指)

 

 幾多いくた修羅場しゅらばをかいくぐってきた任侠にんきょうというのは、常に用心に怠りがありません。背後で草がかさこそ動いただけでも、「何もの!」とばかりに刀を抜き放ちます。それが蛙のせいだったりすると何とも間抜けですね。

  ゴルゴ13の「俺の後ろに立つな」というセリフはいろいろとパロディーにされてますし、「本当は臆病なんじゃないの?」なんて言われたりもしますが、この任侠も蛙に向って「俺の後ろに立つな」と言ったのでは。

 

 季語は「蛙」は春になります。

 

 八句目

 

   草村に蛙こはがる夕まぐれ

 ふきの芽とりに行燈あんどゆりけす     芭蕉

 (草村に蛙こはがる夕まぐれ蕗の芽とりに行燈ゆりけす)

 

 前句の「蛙こわがる」を乙女の仕草に取り成します。

  このように前句からこういうキャラなのではないかと割り出して、こういうキャラならこういうことをするだろう、というふうに展開するのを、「くらい付け」といいます。

  大の男が蛙を恐がれば滑稽こっけいですが、かわいらしい女の子が蛙を見て「きゃっ!」と言うのは今も昔も定番なのでしょう。

  蕗の芽は「ふきのとう」のことで、夕方のお使いでしょうか。持っていた行灯あんどんをゆり消してしまうと、あたりは真っ暗でそれ以上に恐いですね。

 

 季語は「蕗の芽」は春になります。

 

 九句目

 

   蕗の芽とりに行燈ゆりけす

 道心どうしんのおこりは花のつぼむ時    去来

 (道心のおこりは花のつぼむ時蕗の芽とりに行燈ゆりけす)

 

 これは「がいかや道心どうしん」の本説による付けになります。

  中世の説教節に『かるかや』という物語があります。

  筑前国の松浦党の重氏という武将がある時豪華な花見の宴を催していると、折からの山おろしの風に、開いた花ではなくつぼんだままの花が一房散ってこの重氏の杯の中に落ち、これを見てこの世の無常を悟って出家するという話です。

  そんなことされたら妻や子は困ってしまいますね。どうなってしまうのか、そういう物語です。

  今日的に見るなら、発心というよりも、亭主が急に鬱になって引き籠ってしまったら妻子はどうすべきなのかという問題提起なのかもしれません。

  この句が『苅萱』の本説ということでしたら、前句は出家を思い立つちょうどその頃、娘は蕗の芽を取りに行って、ふと行燈の火が消えたということになります。良からぬ事の起きる前兆という感じがしますね。

 

 季語は「花」で春になります。

 ここで簡単に「定座じょうざ」ということを説明しておきます。連歌や俳諧について「月花の定座」ということがよく言われます。

 これを連歌俳諧に欠かせない重要な規則であるかのように言う人もいますが、実際はそうではありません。定座のことは連歌の公式ルールである『応安新式』や『応安新式追加』『新式今案』には書かれていません。それ以降にできた慣例にすぎません。

 中世の、連歌が大衆の間で盛んだった頃は、月や花や恋の句は誰しもが詠みたがるもので、みんな競って早い者勝ちで付けてました。そうなってくると、前句を無視して無理やり月や花や恋に結び付けて付ける傾向が出てきて、意味のない月花の句が増えてしまいます。

 そこから次第に月花に関しては、偉い連歌の宗匠だとか、賓客だとか、とにかく偉い人の為に取っておくべきだという空気が広まり、遠慮すべきものとされるようになっていきました。そうなると今度は逆に月花の句を誰も付けなくなってしまいます。

 連歌俳諧は百韻なら四枚の懐紙、五十韻や歌仙(三十六句)は二枚の懐紙に書き留めます。『応安新式』では花は一枚の懐紙に一句と定められています。月は八句隔てなくてはいけないだけで、特に懐紙による制限はありません。

 花は懐紙に一枚なので、みんなが遠慮していくと、一枚の懐紙の最後で花がないのは淋しいというので、懐紙の最後の長句(五七五)の句で花を出そうということになりました。そして、月もそれに準じて、一枚の懐紙の表裏があったので裏の最後の長句は花、表の最後の長句は月、ということにし、裏の懐紙の任意の場所にもう一句月を出して、百韻の場合は四花八月というように何となく習慣ができてしまいました。

 ひとたびこれが習慣となってしまうと、これをかたくなに守らせようとする人も出て来ます。ただ、あまり形式ばっても面白くないというところで、芭蕉もこうした習慣を尊重しつつも、ある程度は柔軟に対応していたようです。

 花の定座は十七句目ですが、ここでは九句目に出しています。これはルール違反ではありません。ただあまり遠慮ばかりしていて縮こまっていても、面白い句は出てこないということで、「苅萱発心の句、面白い」ということであえてここに花の句を持ってきたと考えていいと思います。

 

 十句目

 

   道心のおこりは花のつぼむ時

 能登のと七尾ななをの冬はすみうき      凡兆

 (道心のおこりは花のつぼむ時能登の七尾の冬は住うき)

 

 これは『撰集抄せんしゅうしょう』の松嶋上まつしまのしょう人事にんのこと本説ほんぜつによる付けになります。

 

 『撰集抄』巻三、第一によると、西行法師が能登へとやってきたとき、人里離れた荒磯の岩屋に四十歳くらいの僧が座していました。

  僧がいるだけで身の回りのものとかは何もなく、聞くと月待つきまつしまひじりと呼ばれていて、一月のうち十日は必ずここに来て住むが、その間は何も食わない、と言います。

  西行はさては松島の見佛けんぶつしょうにんかと思い、聞いてみると「さる人ありと聞く」と、見佛上人を知っているようでした。それから西行は四日かけて松島へ行き二ヶ月余りそこで過ごしたといいます。

  すると、そのとき弓張りの十日、つまり月の始めの十日、見佛上人が姿を消し、能登の岩屋へ行っているのだと気づきました。

  西行が能登から松島まで四日で行ったというのもなかなか凄いですが、果たして見佛上人はどうやって松島から能登まで移動していたのかは謎です。瞬間移動でしょうか。

  この『撰集抄』の一節に、

 

 「十日とをかのあひだすみわたりておはしけん心の中のたうとさは、又ならぶる物やははべる。せめて春夏のほどは、いかがせん。冬の空の、越路こしぢの雪の岩屋いはや住居すまゐおもひやられて、そぞろ涙のしどろなるにはべり。」(『撰集抄』西尾光一校註、一九七〇、岩波文庫p.85

 

とあります。

  凡兆の句は発心ほっしんを詠んだ前句に能登の七尾の冬を付けることで、前句を見佛上人の発心に取り成します。

  もちろん、本当に見佛上人が桜のつぼみの頃仏道に入ることを決意したのかどうかは、知らないわけで、そこはあくまでフィクションになります。

  本説は別に事実である必要はありませんし、むしろフィクションだとはっきりわかるように、出典の内容そのままではなく、少し話を作り変えるのを良しとしていました。

  なお、匂い付けの一種におもかげ付けというのがあります。

  本説は出典となる物語を知らなければ意味をなさないような付け方をいい、出典を知らなくてもわかるような何となくその物語を匂わせる程度のものをおもかげといいます。

  この場合、桜のつぼみの頃の発心の句に、唐突に能登の冬が登場するため、見佛上人の物語を知らないとちょっと分かりづらいですね。それゆえ、俤ではなく本説と言った方が良いと思います。もちろん厳密な区別があるわけではありません。

 

 季語は「冬」は冬になります。

 

 十一句目

 

   能登の七尾の冬は住うき

 うを|の骨しはぶるまでおいを見て    芭蕉

 (魚の骨しはぶる迄の老を見て能登の七尾の冬は住うき)

 

 刈萱かるかや道心どうしん松島まつしま上人しょうにんと、出典にたよった重い付け合いが続いたので、ここで芭蕉は「能登の七尾」からいかにもそこにいそうな老人を「位」で付けます。

  「しはぶる」は「しゃぶる」ということ。昔の人は顎が丈夫で、魚の骨などバリバリと噛み砕き、今のように魚の骨を丁寧に取って食べるようなことはしませんでした。まして漁村ならなおさらのことです。

  魚の骨が噛めなくなるのは歯のない老人くらいで、「魚の骨をしゃぶる」というのは、すっかり歯の抜けてしまったよぼよぼの老人ということになります。

 

 無季。

 

十二句目

 

   魚の骨しはぶる迄の老を見て

 待人入まちびといれ小御門こみかどかぎ        去来

 (魚の骨しはぶる迄の老を見て待人入し小御門の鎰)

 

 ここでまた本説付けになります。

  『源氏物語』末摘花の巻ですね。

  末摘花のいかにも時代の流れから取り残されたような家に源氏の君が忍んで行き、ついに末摘花の姿を目にすることになります。どんな姿かはネタバレになりますが、まあ、あまりに有名になりすぎてますね。

  まあ、その時の帰り際です。門が閉まってて、鍵を開けてもらわなければ牛車を外に出すことができません。そこにこういう場面があります。

 

 「御くるまいづべきかどは、まだあけざりければ、かぎのあづかりたづね出でたれば、おきなのいといみじきぞ出できたる。

 むすめにや、うまごにや、はしたなるおほきさの女の、きぬはゆきにあひてすすけまどひ、さむしとおもへる気色ふかうて、あやしき物に火をただほのかに入れて袖ぐくみにもたり。

 おきな、かどをえあけやらねば、よりてひきたすくる、いとかたくななり。

 御ともの人、よりてぞあけつる。

 

 ふりにけるかしらの雪をみる人も

     おとらずぬらすあさの袖かな」

 

 これではわかりにくいので現代語に訳しますね。

 

 「車を出そうにも門がまだ閉まっているので、鍵を預かっている人を探し出したところ、よぼよぼの爺さんが出てきました。

 その娘とも孫ともつかぬ年齢の女が付き添うのですが、衣は雪がくっついてそのため黒々と見え、いかにも寒そうにしながらよくわからない物に火を入れて、袖で包むようにして持ち歩いてました。

 老人の力では門を開けられないので、寄ってきて一緒に開けようとするのですが、どうも要領を得ません。

 源氏のお供の者も加わり開けました。

 

 老人の頭の雪は本人に

     劣らず見てる方も涙か」

 

 無季。

 

 十三句目

 

   待人入し小御門の鎰

 たち|かかり屏風をたふ女子共おなごども     凡兆

 (立かかり屏風を倒す女子共待人入し小御門の鎰)

 

 「小御門こみかど」から屋敷の情景ということでの展開になるます。

  待ち人を入れたら、それがどんな男かと女中たちが覗き見しようとして屏風が倒れるという、漫画のような展開です。

 

 無季。

 

 十四句目

 

   立かかり屏風を倒す女子共

 湯殿ゆどのは竹の簀子すのこわびしき       芭蕉

 (立かかり屏風を倒す女子共湯殿は竹の簀子侘しき)

 

 屏風で一見綺麗に飾られた宿屋の風呂場も、女中がそれを倒してしまうと、現われたのは竹のすのこを敷いただけで何ともわびしげな湯殿でした。

 

 無季。

 

 十五句目

 

   湯殿は竹の簀子侘しき

 うゐきゃうの実を吹落ふきおとゆふあらし       去来

 (茴香の実を吹落す夕嵐湯殿は竹の簀子侘しき)

 

 湯殿の風呂が沸く頃は夕暮れで、その日は夕嵐になります。

  うゐきゃうはフェンネルのことで、西洋では糸状の葉がサラダや魚料理に用いられ、茎はブーケガルニに、種(フェンネルシード)はハーブとして用いられますが、当時の日本では漢方薬くらいにしか用いられていませんでした。

  秋の夕嵐とはいっても萩やススキを散らすでもなく、まして紅葉もありません。藤原定家の歌ではないが「見渡せば花はなも紅葉もみぢもなかりけり」といったところでしょうか。

  前句まえくの「侘しき」を花はなも紅葉もみじもない情景として、「うゐきゃう」というマイナーな植物を言い出したのでしょう。今日なら、散ったフェンネルシードでそのままハーバルバスになりそうですが。

 

 季語は「うゐきゃうの実」で秋になります。

 

 十六句目

 

   茴香の実を吹落す夕嵐

 僧ややさむく寺にかへるか     凡兆

 (茴香の実を吹落す夕嵐僧さうややさむく寺てらにかへるか)

 

 「茴香の実」から僧を連想したのでしょう。お坊さんなら漢方薬のことにも詳しそうです。

  「かへるか」の「か」は「かな」と同じで、疑問とする必要はありません。

 

 季語は「ややさむく」は秋になります。

 

 十七句目

 

   僧ややさむく寺にかへるか

 さるひきの猿と世をる秋の月    芭蕉

 (さる引の猿と世を経る秋の月僧ややさむく寺にかへるか)

 

 「猿引き」は猿回しをする芸人のことで、長いこと被差別民の芸とされてきました。今日の周防猿まわしの会の創始者の村崎義正さんは、同時に部落解放運動の活動家でした。

  同和と仏教は相反する関係にあり、「僧」に「猿引き」を付けるのは、それゆえ「向え付け(相対付け)」になります。

  殺生を禁じる仏教の思想が、一方では動物にかかわる職業を卑賤視するもととなっていました。

  猿引きは猿とともに秋の月を見ながら暮らしを立て、僧もまた自分の居場所である寺に帰ってゆきます。

  人にはそれぞれ相応しい居場所があり、自分の居場所のために対立し、戦い、傷つき、秋の寒さのなかで同じように闇を照らす月を見る。

  それはいつの時代も変わらないことなのでしょう。

  なお、近代の、

 

 猿ひきを猿のなぶるや秋のくれ   子規

 

の句は芭蕉のこの句のオマージュではないかと思います。

 

 季語は「秋の月」は秋になります。

 

 十八句目

 

   さる引の猿と世を経る秋の月

 年に一斗いっと地子ぢしはかるなり      去来

 (さる引の猿と世を経る秋の月年に一斗の地子はかる也)

 

 地子ぢしは公的な年貢とは異なり、中世では広く荘園領主が徴収するもののうち、{国衙|こくが}に収める年貢とは別に取るものを地子ぢしと言ってました。(参考:フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』「地子」)

  「猿引き」も生活してゆくためには土地がいります。猿引きもまたその土地の借地料を一斗(約十八リットル)の米で支払ってたのでしょう。

 

 無季。

二表

十九句目

 

   年に一斗の地子はかる也

 五六本生木(なまき)つけたる(みづたまり)       凡兆

 (五六本生木つけたる瀦年に一斗の地子はかる也)

 

 (みづたまり)というのは雨が降った時にできる小さな水溜りのことではなく、ここでは溜め池のことになります。

  そこに五、六本の伐ったばかりの丸太が漬けてあったのでしょう。こうした材木は、川を使って出荷します。

  わずかな米の地子を払うのは百姓ではありません。かといって都市の大商人でもありません。何か零細な自営業者ということで、材木屋ということにしたのでしょう。

  材木屋といわずして、その景色だけを示すことで、次の句への転換が楽になります。これも「匂い付け」の効用といえましょう。

 

 無季。

 

 二十句目

 

   五六本生木つけたる瀦

 足袋(たび)ふみよごす(くろ)ぼこの道     芭蕉

 (五六本生木つけたる瀦足袋ふみよごす黒ぼこの道)

 

 ここで「(みづたまり)」は雨が降った時の水溜りに取り成されます。

  ここで言う「くろぼこ」は腐葉土などのいわゆる「黒土」ではなく、火山性の粘土質の黒土だと思います。かつては武蔵野がこういう土だったのでしょう。

  雨が降った後の悪路の様子になります。

  「黒ぼこの道」というと、何となく「たまぼこの道」のパロディっぽいですね。

 

 無季。

 

 二十一句目

 

   足袋ふみよごす黒ぼこの道

 (おひ)たてて(はや)御馬(おうま)刀持(かたなもち)      去来

 (追たてて早き御馬の刀持足袋ふみよごす黒ぼこの道)

 

 刀持ちは大名行列などのときに刀を持つ人のことで、大名行列ではなくても、主人が馬で外出する際にも付き従ったりします。いわゆる武士ではなく武家の奉公人で、槍持ちなどと同様、髭を生やした「(やっこ)さん」のイメージがあったようです。

  勇ましいようでいてどこか哀愁のあるこのキャラは、

 

 鑓持(やりもち)猶振(なほふり)たつるしぐれ(かな)    正秀(まさひで)

 

のように、勇んで槍を振りたてる姿としとしと降る時雨(しぐれ)とのミスマッチとして描かれるのが俳諧流といえましょう。

  ここの刀持かたなもちも、足袋を汚しながら、馬についてゆこうとして走っています。

 

 無季。

 

 二十二句目

 

   追たてて早き御馬の刀持

 でつちが(にな)ふ水こぼしたり     凡兆

 (追たてて早き御馬の刀持でつちが荷ふ水こぼしたり)

 

 これも「刀持ち」に「でっち」と、武家の奉公人に商家の奉公人を付けた「向え付け(相対付け)」に似ていますね。

   ですが、この場合は馬が走って来るのを見てあわててよけようとして丁稚が水をこぼす、という場面で、ただ並べるだけでなく、意味的に関連がある場合は「(たが)え付け」と言います。

 

 無季。

 

 二十三句目

 

   でつちが荷ふ水こぼしたり

 ()障子(しゃうじ)もむしろがこひの(うり)屋敷(やしき)   芭蕉

 (戸障子もむしろがこひの売屋敷でつちが荷になふ水みづこぼしたり)

 

 売り屋敷は商品であって廃墟ではありません。ですから、ここは戸も障子もなくなって筵だけが風に吹かれているような情景ではなく、戸や障子を風雨から守るために筵で包んであると見た方がいいと思います。

  ですから、屋敷の中へは入れません。庭にある井戸水だけをちょいと近所の商家の丁稚が拝借する、そういうことではないかと思います。

  こういう古屋敷には良い井戸が付き物で、というあたりを言外に込めたところは「匂い」になります。

 

 無季。

 

 二十四句目

 

   戸障子もむしろがこひの売屋敷

 てんじゃうまもりいつか色づく   去来

 (戸障子もむしろがこひの売屋敷てんじゃうまもりいつか色いろづく)

 

 売りに出された屋敷を守っているのは「(てん)井守(じょうまも)り」です。

  天井守りは唐辛子の一種で、ヤツフサと呼ばれる赤く尖った実が上を向いて房状になる、辛味の少ない種類だといいます。

  落ちぶれ果てて空き家になったお屋敷の庭では、誰かが唐辛子の種をこぼしていったのか、唐辛子が秋になり赤く色づいています。

  唐辛子は新大陸の原産で、コロンブスの御一行がヨーロッパに持ち帰ると瞬く間に世界に広がりました。インドのカレー、タイのトムヤンクン、韓国のキムチなど、唐辛子なしでは考えられませんが、逆に言えばコロンブス以前には存在しなかったということになります。

  カレーは唐辛子だけでなく新大陸原産のトマトも使うから、それ以前のインド料理はおそらく唐辛子抜きのサブジのようなものだったのでしょう。キムチもムルキムチ(水キムチ)が元になっていたと言われています。

  ただ、江戸時代の日本では薬味の一つとして扱われただけで、本格的な唐辛子料理は定着しませんでした。戦後の日本のカレーライスも総じて甘く、六十年代くらいには新宿中村屋のカレーの辛さが本場の辛さだと思われていたことを考えると、日本人が辛い料理を好むようになったのはかなり最近のことでした。ボルツの二十倍増しカレーの頃からではないでしょうか。

  話が逸れましたが。

 

 季語は「てんじょうまもり」で秋になります。

 

 二十五句目

 

   てんじゃうまもりいつか色づく

 こそこそと草鞋(わらぢ)を作る月夜(つきよ)さし   凡兆

 (こそこそと草鞋を作る月夜さしてんじゃうまもりいつか色いろづく)

 

 月の灯りで草鞋(わらぢ)を作って、ささやかながら現金収入にしようというのは、なかなか勤勉で良いことのように思いますが、「こそこそと」というのは武士など身分の高い人の内職でしょうか。(かさ)(はり)牢人(ろうにん)というのはよく聞きますが。

  行燈あんどんを灯しても暗い室内では、外の月明りは有り難いものです。外の天井てんじょうまもりはその月の方を指差しているようです。

  和歌の形にした時は「作る」で一度切って、万葉集のような二句四句切れで「こそこそと草鞋を作る、月夜さしてんじゃうまもり、いつか色いろづく」と読んだ方が良いでしょう。

 

 季語は「月夜」で秋になります。

 

 二十六句目

 

   こそこそと草鞋を作る月夜さし

 (のみ)をふるひに(おき)初秋(はつあき)       芭蕉

 (こそこそと草鞋を作る月夜さし蚤をふるひに起し初秋)

 

 一人ひとりはひそかに草鞋を作ってお金を作り、もう一人は蚤に食われて痒くて目を覚まします。そこでまあ、ばれてしまったかということになり、何か家族の会話があるのでしょう。

  芭蕉の故郷伊賀の門人の{土芳|どほう}は『さん冊子ぞうし』という本に、

 

 「こそこそといふ(ことば)に、(よる)(ふけ)(さび)しき(さま)見込(みこ)み、人一寐迄(ねるまで)夜なべするものと(おも)(とり)て、(いもうと)など()(ざめ)して(おき)たるさま、別人(べつじん)(たて)見込(みこ)む心を、二句(にく)の間に(あらは)(なり)

 

とあり、兄妹の話にしています。まあ、あくまで想像ですが。

 

 季語は「初秋」は秋になります。「のみ」は夏の季語ですが、この時代は特に季重なりを嫌きらうことはありませんでした。異なる季節の季語がある場合は、内容で判断します。

 

 冬牡丹千鳥よ雪のほととぎす    芭蕉

 

の句は季語が四つありますが、内容的に冬の句なのは明らかです。

 

 二十七句目

 

   蚤をふるひに起し初秋

 そのままにころび(おち)たる升落(ますおとし)    去来

 (そのままにころび落たる升落蚤をふるひに起し初秋)

 

 「升落(ますおとし)」は大きな升の一方をつっかえ棒して斜めに伏せ、その下に餌を置いておいて、鼠が棒に触れたら升がかぶさってきて閉じ込められるという簡単な罠です。

  鼠が棒に触れなければ、そのまま食い逃げされてしまうし、鼠の体が外に出た状態で後ろ足か尻尾が触れば、升が倒れていても鼠は逃げ去ってしまいます。

  「そのままに」というから、升は倒れていたけど、鼠は掛かってなくて、しかも餌もそのままということなのでしょう。

  この場合、鼠以外の原因で升が倒れたことが考えられます。

  蚤に刺されたのが痒くて寝返りを打った拍子にぶつかったか、振動で倒れてしまったのでしょう。

 

 無季。

 

 二十八句目

 

   そのままにころび落たる升落

 ゆがみて(ふた)のあはぬ半櫃(はんびつ)      凡兆

 (そのままにころび落たる升落ゆがみて蓋のあはぬ半櫃)

 

 半櫃(はんびつ)長櫃(ながびつ)の半分の大きさの箱で、江戸時代前期にはまだ箪笥(たんす)が普及してなくて、庶民の衣類などの持ち物は長短の(ひつ)に入れて保存されました。物の少ない時代には、それで十分だったのです。

  また、ひつは竿で担げるようにもなっていて、持ち運びにも便利でした。

  句は、前句の「ころび落ちたる」が升落としと半櫃の両方に掛かります。

  升落としも転げ落ちていれば、半櫃の蓋も転げ落ちています。役に立たないものつながりで並置されてまして、こういうのを「響き付け」といいます。

 

 無季。

 

 二十九句目

 

   ゆがみて蓋のあはぬ半櫃

 草庵(さうあん)(しばら)く居ては(うち)やぶり     芭蕉

 (草庵に暫く居ては打やぶりゆがみて蓋のあはぬ半櫃)

 

 昔の引越しは、(ひつ)に入れた持ち物を竿で下げて運んでゆくだけでした。別に風狂者だからこれしか物を持ってないということではなく、元禄の頃の庶民は一般に、そんなに物を持っているわけではなかったのです。

  前句の蓋の合わなくなった半櫃に「落ち着かない」という裏の意味を読み取っての展開になります。

  草庵に暫く住んでいたがゆがんた半櫃の蓋のようにどうにもこうにも落ち着かなくて、結局は打ち捨てて行ってしまったと、そうなります。

  前句を比喩と取り成すというのは、連歌の頃からよくある付け筋でした。

 

 無季。

 

 三十句目

 

   草庵に暫く居ては打やぶり

 いのち(うれ)しき撰集(せんじふ)のさた      去来

 (草庵に暫く居ては打やぶりいのち嬉しき撰集のさた)

 

 「いのち嬉しき」はここまで命があって嬉しい、ここまで生きてて良かった、という意味になるます。この言葉は、

 

 (とし)たけてまたこゆべしと(おも)ひきや

     (いのち)なりけり小夜(さや)中山(なかやま)

              西行法師(新古今集)

 

の歌を連想させます。

  これは前句の草庵を打ち破った人物を西行法師と見ての、おもかげ付けになります。

  西行の晩年、藤原ふじわらのしゅんぜいによる『千載集せんざいしゅう』の撰があり、十八首入集しました。

  これが本説ほんぜつではなくおもかげなのは、千載集の入集をめぐって、特にこうしたエピソードが伝わっているわけではなく、多分西行なら嬉しくて「いのち嬉しき」と言ったのではないかという想像によるものだからです。本説となるような物語が、存在してないのです。

  実際には、『拾遺集しゅういしゅう』に、

 

   高野山に侍りける頃、皇太后宮大夫俊成千載集

   えらび侍るよし聞きて、歌をおくり侍るとて、かきそへ

   侍りける

 花ならぬ(こと)の葉なれどおのづから

     色もやあると君拾(きみひろ)はなむ

              西行法師

 

の歌があります。この歌の一節でも引用していれば本説付けということにもなりましょう。

 

 無季。

二裏

三十一句目

 

   いのち嬉しき撰集のさた

 さまざまに(しな)かはりたる恋をして  凡兆

 (さまざまに品かはりたる恋をしていのち嬉しき撰集のさた)

 

 西行法師も恋の歌はたくさん詠んでいるし、「品かはりたる恋」をした人間を、たとえば在原業平(ありわらのなりひら)あたりの俤とするのでは展開に乏しいので、これはむしろ撰者の立場に立った句として読んだ方が良いと思います。

  つまり、集められた様々な恋の歌を楽しみながら、自分もまた恋をしたような気分になり、こんな楽しい編纂作業ができるなんて生きていてよかった、という句だと思います。

  「しな」と言いますと、『源氏物語』に「雨夜の品定め」というのがあります。これは今日でいう意味での「品定め」ではなく、人間を身分で上品じょうぼん中品ちゅうぼん下品げぼんに分けて、それぞれの女性について談義する場面で、その意味では「品かはりたる恋」はいろいろな身分の人と恋をしてという意味になります。

 

 無季で恋の句になります。

 

 三十二句目

 

   さまざまに品かはりたる恋をして

 浮世の(はて)(みな)小町なり       芭蕉

 (さまざまに品かはりたる恋をして浮世の果は皆小町なり)

 

 ここで言う小町は小野小町(おののこまち)の若い頃の美貌ではなく、百歳のお婆さんとなって落ちぶれた乞食姿の小町のことです。

  謡曲『卒塔婆そとば小町こまち』『関寺せきでら小町こまち』などに、こうした姿が描かれています。「浮世の果」という言葉は、『関寺小町』の

 

 「百年の姥と聞こえしは小町が果の名なりけり小町が果の名なりけり。」(野上豊一郎. 解註謡曲全集 全六巻合冊(補訂版) (Kindle の位置No.28268-28270). Yamatouta e books. Kindle .

 

から来ていて、付け方としては俤ではなく本説付けになります。

  若い時は華々しく恋をしても、結局人間はみんな年を取ってしまうのだという、達観とでも言うのか、ネガティブな恋の表現をしばしば芭蕉はしています。『奥の細道』の末の松山でも、

 

 「末の松山は寺を(つくり)末松山(まつしょうざん)といふ。松のあひあひ皆墓はらにて、はねをかはし枝をつらぬる(ちぎり)の末も、(つひ)にはかくのごときと悲しさも(まさり)て、塩がまの浦に入相(いりあひ)のかねを(きく)。」

 

と書いてます。

  私は個人的には、様々な恋をして浮世の道を究めれば、どんな女でも小野小町のような美人に見えてくる、という俗解の方が好きですが。

 

 無季で恋の句になります。

 

 三十三句目

 

   浮世の果は皆小町なり

 なに(ゆゑ)(かゆ)すするにも涙ぐみ    去来

 (なに故ぞ粥すするにも涙ぐみ浮世の果は皆小町なり)

 

 乞食に落ちた老人に向って粥を施すと、涙ながらにそれを掻き込みます。

  前句はそういう老人への一言になります。

  お粥くらいで泣くんではない、誰だれだって皆みな最後は小野小町のように年を取ってゆくのだからと諭す、そういう意味になります。

  こういう前句の内容を咎めるような付け方を、中世の連歌では「とがてには」と言います。

 

 無季。

 

 三十四句目

 

   なに故ぞ粥すするにも涙ぐみ

 御留(おる)()となれば広き板敷(いたじき)      凡兆

 (なに故ぞ粥すするにも涙ぐみ御留主となれば広き板敷)

 

 前句の涙ながらにお粥をすする情景を、主人が急にいなくなり、留守となった板敷の喪失の悲しみとします。

  急にいなくなってしまったから「なに故ぞ」となります。

 

 無季。

 

 三十五句目

 

   御留主となれば広き板敷

 手のひらに虱這(しらみは)はする花のかげ   芭蕉

 (手のひらに虱這はする花のかげ御留主となれば広き板敷)

 

 この場合の「御留守」は空き家のことでしょう。何もない板敷きの間は広く感じられます。

  そこに勝手に上がりこんだ虱を手のひらに這わす男。それは乞食かもしれないし、乞食のふりをした仙人なのかもしれません。

  仙人だとすれば、この一巻を締めくくるのに相応しい花を添えることになる。

 

 季語は「虱這しらみははする花」で花見虱で春になります。桜の花の咲くころになると、どこからともなくシラミが湧いてくるので、そういう言葉があります。

 

 挙句

 

   手のひらに虱這はする花のかげ

 かすみうごかぬ昼のねむたさ  去来

 (手のひらに虱這はする花のかげかすみうごかぬ昼のねむたさ)

 

  前句が仙人(せんにん)の匂いであれば、「かすみ」への移りは必然です。

  静かに眠りに落ちるように、永遠の神仙郷へと誘われてゆくかのように、一巻は目出度く終わります。

 

 季語は「かすみ」で春になります。